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〈昭和時代(9)〉

1948(昭和23)【昭和】 戊子(つちのえね)

  《総理大臣》[第46代]片山哲(→03/10)、[第47代]芦田均(03/10→10/15)
        [第48代]第2次吉田茂内閣(10/15→)
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
  《市長》[第17代]大橋博

  01/09運休中の南側の西浜町電停から思案橋までの電車軌道上に、一夜にしてヤミ市場が出現
     ヤミ市は背中あわせ2階建ボックス式の露店が230軒など約400戸が出現、長崎最大の闇市となる
     ここは戦時中の建物疎開で幅45米道路と化した空地
     市が27米道路に縮小し歩道に露店を並べる計画を知ったヤミ商人たちが先を争い一夜にして占領
     米や麦、外国製たばこなど、どんな物でも手にはいる
     1951(昭和26)10/春雨通り露店の移転先として思案橋以南の銅座川暗渠工事が完成
     2階建木造モルタル塗マーケット街ができる。工費500万円、54世帯収容
     1953(昭和28)03/長崎電鉄が西濱町〜思案橋を工費1200万円で着工
     1953(昭和28)07/01長崎電鉄の西濱町〜思案橋が開通。戦前の路線が全て復旧
  02/12新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
     1961(昭和36)12/07長崎県医師会の事務所が長崎市榎津55番地の市医師会館から袋町の元町村会館跡へ独立移転
  02/15長崎市鳴滝町のシーボルト宅跡、史跡地として保存することに決定
     シーボルトの孫楠本チエの陳情により農地としての強制買い上げは中止に
     1961(昭和36)10/16シーボルト宅跡保存会が発足。会長は北村精一長大学長・副会長は田川務長崎市長
     シーボルト宅跡の整備と胸像の復元に乗りだす
  02/16佐世保船舶工業株式会社がヤミ物資の不正流失の隠退蔵として摘発される
     佐世保船舶工業株式会社は旧佐世保海軍工廠の民需転換工場で現SSK
     旧日本海軍佐世保鎮守府の軍需物資の隠退蔵事件(佐鎮事件)は最大規模の摘発事件として関心を集める
     大阪、長崎、島原、大村、東彼、南高など550か所が捜索
     12/24130人余が起訴される大事件に
  02/16森伊土建が三光商事へ商号を変更。主に食用添加物を販売する
     1950(昭和25)06/07「(株)中山洋行」へ商号を変更
  03/01長崎市に発疹チフス流行、患者14人
  03/07消防組織法の施行により消防が警察から分離。自治体消防に改められる
     市消防本部を桜町36番地に、市消防署と消防訓練所を本興善町9番地に設置
  03/31東立神町226-1他に立神公園(1199平方米)が開設
  03/館内に公設市場を開設
  03/原爆で崩壊した浦上川の竹の久保町〜岩川町に架かる竹岩橋が原形に復旧
     1959(昭和34)全面的に架け替えられる。長さ46米、幅員8.6米
  03/永井隆博士のために浦上の隣人たちが2畳一間の家を贈る
     この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「帳方屋敷」跡
     家を建てた人の心を忘れず、自分もこの愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」に
     生涯を閉じるまで、書斎兼病室として2人の子供とともに住む
  04/01岩川町に市営浴場が開設
     1954(昭和29)10/閉鎖
  04/07世界保健機関憲章に基づいて国際連合の専門機関のひとつ世界保健機構(WHO)が設立
     WHOはWorld Health Organizationの略
     目的は世界の全ての人々の健康の保護、増進のため国際保健活動を計画、実施、調整すること
  04/28警視庁が永井荷風の「四畳半襖の下張」(非売品)の出版社社長を猥褻容疑で逮捕
     1972(昭和47)06/「面白半分」7月号に「四畳半襖の下張」の特集で本文掲載。発禁に
     株式会社面白半分社長の佐藤嘉尚、編集長の野坂昭如は有罪判決となる
  04/長崎県立長崎中学校が県立長崎高等学校と改称
      旧長崎県中学校は1884(明治17)04/01創立
    下西山町の県立長崎高等女学校が県立長崎女子高等学校と改称
      県立長崎高等女学校は1902(明治35)05/01創立
    県立瓊浦中学校が県立瓊浦高等学校と改称
      県立瓊浦中学校は1922(大正11)04/創立
    長崎市立女学校が市立女子高等学校と改称
      長崎市立女学校は1922(大正11)04/創立
     1948(昭和23)11/01県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校、市立女子高等学校が統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  04/旧城山国民学校が城山小学校として復興
     1980(昭和55)原爆校舎の階段塔屋部分は教室として使われる
     新校舎建設の際、一部が遺構として残される
  04/長崎市立商業学校が学制改革により長崎市立長崎商業高等学校となる
     1970(昭和45)04/男子生徒の長髪が全面許可される
     経済の高度成長期が爛熟期に入り全国的にも高校生の長髪が一般化している中での解禁
  04/合資会社「田中長一商店」が長崎地区を始め、東京、福岡に営業拠点開設
     東京出張所は日本橋の三井村のそば(現・千疋屋)に構える
     のち東京出張所では特約店の看板がなかなかもらえず、卸業としての営業ができなかったためガラスの工事部門に進出
     1950(昭和25)12/本社を長崎から東京に移す
  05/01九州海運局内の不法入国監視部が海上保安庁の発足と同時に長崎海上保安部と改称
     新地町の3階建洋館に庁旗を掲げる
     1962(昭和37)02/庁舎を松ケ枝町の長崎合同庁舎3階に移転
  05/01横浜国際劇場開館1周年記念の特別興行で小唄勝太郎の前座に美空ひばり(12)が出演
     笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌い、同劇場支配人福島博(のちの通人)に認められる
     のち終戦直後のすさんだ世相のなかで娯楽に飢えていた庶民から圧倒的な人気を得る
  05/11長崎県交通局が長崎県公共事業部と改称
     1950(昭和25)02/20長崎市大黒町に長崎県営バスの本部庁舎が落成
  05/海上保安庁が発足
     海軍が建てた佐世保、針尾の鉄塔が第7管区・佐世保海上保安部の管轄に
     海難通信等の海上保安業務に供される
     1997(平成09)新送信所局舎、新鉄塔など代替施設が整備され役目を終える
  05/「長崎県立盲学校」の長与村の仮校舎が手狭になり大村市に移転し再び盲聾学校併設となる
     1949(昭和24)08/原爆で損壊した旧浦上校舎跡に寄宿舎並びに外来治療室が完成
     聾学校と再び分離、仮校舎で授業再開
  05/前年の児童福祉法を受けて妊産婦手帳が改善される。「母子手帳」として様式が定められる
     従来の妊産婦手帳が出産までの記録であったのを小児まで拡大。全24ページに綴られることに
     子どもの健康チエックや予防接種の記録が付け加えられ、名前通り母と子のためのものに
     のち効果のひとつに入院(施設内)分娩の普及。1950(昭和25)の施設内分娩は4.5%に過ぎず
     1966(昭和41)05/12前年の母子健康法成立をうけ母子手帳が改善。「母子健康手帳」に
     「妊婦は自ら進んで母子保健に関する知識の習得ならびに母性及び乳幼児の健康の保持増進につとめる」
     従来の消極的な姿勢から妊娠、出産、育児を自主的なものに変換しようという風潮に従ったもの
     のち医学的に細かい記載が多くされるような形になる
     のち妊婦(母親)の自主的な記録欄が増え、母と子の健康記録としての性格が強化される
  06/19朝6時50分頃、東京・三鷹の玉川上水に入水した数え年40才の太宰治と30才の山崎富栄の情死体が発見される
  06/21長崎港が長崎市から長崎県に移管
  06/30長崎魚市組合が解散。新たに長崎魚市場内に長崎魚市株式会社(資本金1千万円)が設立
  06/漁港施設の整備拡充として尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造に着工
     農林省の補助を受けた長崎県が工事主管者に
     中ノ島突堤は長さ200米、巾100米、水深マイナス3米岸壁300米、水深マイナス5米岸壁200米
     トロール船ほか漁船、運搬船は全て係船が可能。突堤の両側と先端部に魚舎、中央部に道路、鉄道引込線を配置
     1951(昭和26)11/工事中の突堤東側約100米が突如崩壊する事故が発生。当初の完成より若干遅延に
     1956(昭和31)03/2万平方米を埋立て長さ200米、幅100米の中ノ島突堤がようやく完成
     中ノ島魚市場もほぼ完成し年間25万瓲の水揚可能な市場施設となる
     総工費9億円、うち国庫補助2億円、残りは県・市が折半
  06/株式会社ロッテが誕生、チューインガムの製造販売を開始
  06/大洋漁業株式会社長崎支社が戸町冷凍工場を竣工
     1956(昭和31)08/漁港冷凍工場を竣工
  06/キングから小畑実の歌による「長崎のザボン売り(C341)」が発売される
     作詞は石本美由起、作曲は江口夜詩
     歌謡界の大御所的作詞家・石本美由起のデビュー・ヒット作
  06/県議会に戦争で中止していた西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の架橋調査費を上程、承認を受ける
     のち設計は九大の三瀬幸三郎博士に
     つり橋型の構想から上路式アーチ型橋梁の有利性が浮上し、途中で設計を変更
     1950(昭和25)11/23架橋建設は建設省の直営事業とされ、起工式が挙行
     占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
  07/13優生保護法が施行される
     不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定め、母性の生命健康を保護することを目的とする法律
  07/20長崎県営バスがトレーラーバスにより長崎〜矢上間を運行
  07/長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「原爆障害調査委員会(長崎ABCC)」が設立
     厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
     1949(昭和24)11/長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
     予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
  09/10〜11長崎県北で豪雨
     死者行方不明108人、負傷者17人、家屋全半壊99戸、家屋流出64戸、家屋浸水5973戸
  09/23上野動物園に全線35米、客車3両18人乗りの「おサル電車」設置される
     運転手はカニクイザルの「チイちゃん」
     バッテリー駆動でおサルが運転する形式。1周5円【3円?】
     1974(昭和49)06/30午後3時半から「おサル電車」のお別れ式が開かれる
     ファン4千人が集まり3匹のおサルにねぎらいのバナナがプレゼント
     運転手のメリー、ナナ(ともにブタオザル)、マリ(アカゲザル)の メス3匹
     新幹線を模した車両が用意され、これまで運転する側のおサルが乗客となる場面も
     最後の列車は50人を乗せて2周する
     動物の愛護及び管理に関する法律が制定、「おサル電車は、多大な負担をかける」という判断から廃止を決定
  09/東大生の山崎晃嗣が友人の三木仙也(日医大生)とともに貸金業「光クラブ」を設立
     社長は山崎、専務は三木、常務は東大生、監査は中大生
     周囲の目を引く画期的な広告を打ち、多額の資金調達に成功。集めた資金を商店、企業などに高利で貸し付ける
     学生、それも東大生が中心となって経営を行っているということが業界で注目される
     1949(昭和24)01/銀座に進出。資本金600万円、株主400人、社員30人を擁する会社にまで発展する
     07/04山崎が物価統制令違反で逮捕(のちに不起訴)
     同時に出資者の信用を失い業績が急激に悪化
     のち名称のみ変更してさらに資金を集めようと図るが成功せず
     11/24深夜、山崎が本社の一室で青酸カリをあおり遺書を残して服毒自殺
     約3千万円の債務を履行できなくなったため
  10/01今魚町の長崎県中央保健所が長崎市に移管され、長崎市保健所として発足
     1949(昭和24)10/01中央保健所の新庁舎が酒屋町に完成し、今魚町から移転する
  10/01西彼杵郡高島村に町制が敷かれ高島町となる
     1949(昭和24)04/01西彼杵郡黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (6)…寄合町(本踊)、本籠町(蛇踊)、今魚町(傘鉾のみ)、今博多町(本踊)、西浜町(蛇船はやし)、
     銅座(本踊)、鍛冶屋町(木槌みこし)、本大工町(川船はやし)、上筑後町(獅子踊)、東浜町(本踊・段尻)
     長崎くんちと市役所主催の市民祭が併催
     市民祭のため御旅所の仮宮が浜屋の裏に
     知事公舎前の特設踊り場では長崎軍政府デルノア司令官夫妻、その他米軍関係者が招待され観覧
     10/08ミス長崎が選出。初代ミス長崎には勧業銀行長崎市店勤務の田部静子(24)が選ばれる
  10/16三重苦の聖女ヘレン・ケラーが戦後の混乱期のまっただ中、日本最後の訪問地として再び来崎
     10/18永井隆博士の如己堂を訪れ見舞う
  10/長崎県交通局が従業員組合を結成
     1953(昭和28)04/04長崎県交通部労働組合が結成
  10/01高島小学校が町制施行により高島町立高島小学校と名称が変更になる
     1962(昭和37)最高児童在籍数約2900人を記録
  10/01高島中学校が町制施行により高島町立高島中学校と名称が変更になる
     1964(昭和39)最高在籍生徒数約1700名を記録
  11/01県立瓊浦高等学校、県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校が統廃合
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校が開校
     1950(昭和25)08/竹の久保町の新築校舎に移転完了
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校が開校
     1949(昭和24)03/31市立女子高等学校の定時制課程が県立長崎東高等学校の定時制課程(夜間)となる
     1976(昭和51)09/01全日制課程が立山町556番地(現立山5丁目)の新校舎で始業
     定時制課程は旧西山校舎を引き続き使用
     1977(昭和52)03/31定時制課程の募集を停止
     2004(平成16)04/08県立長崎東中学校が開校し、併設型中高一貫教育校としてスタート
  11/08日本海員掖済援護会名古屋病院が診療を開始。30床
  11/12極東軍事裁判にてA級戦犯への判決、刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了。東京裁判が閉廷となる
     極東国際軍事裁判所、A級戦犯25名に有罪判決。うち東条英機ら7被告に絞首刑判決
     12/23午前0時1分7人よりの絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行。35分に終了する
     巣鴨拘置所で7被告に絞首刑執行
      板垣征四郎(軍人)中国侵略・米国に対する平和の罪
      木村兵太郎(軍人)英国に対する戦争開始の罪
      土肥原賢二(軍人)中国侵略の罪
      東條英機(軍人)ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪
      武藤章(軍人)一部捕虜虐待の罪
      松井石根(軍人)捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)
      広田弘毅(文民)近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作。唯一の文人
  11/20小倉競輪場で第1回の競輪競走が開催される。単勝式と複勝式の2種類の馬券が発売
  11/26世界初の現実的なインスタント写真カメラポラロイドモデル95がアメリカのポラロイド社から発売
     発明者エドウィン・ハーバード・ランドにちなみランドカメラとして知られる
     特許を受けた化学プロセスを使用し、モデル95は1分未満でネガからポジプリントを作りだす
     ランドカメラは比較的高価なものの人気を博す
  11/日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
     日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
     12/01長崎市立市民病院として開設(内科、外科及び耳鼻咽喉科の3科。病床数96床)
     1957(昭和32)07/01総合病院の承認を受ける
  11/長崎商工会議所が初の長崎県珠算競技大会を開催
    商業従業者、商業学校生徒の珠算能力の進歩向上に資するため、長崎市立商業学校、長崎女子商業学校と共催で開く
  12/01上県郡豊崎村に町制が敷かれ豊崎町となる
     1955(昭和30)01/01上県郡豊崎町と琴村が合併し上対馬町となる
  12/水の浦に公設市場を開設
  12/永井隆博士が浦上を「花咲く丘」にしようと桜の苗木1千本を贈る
     贈り先は浦上天主堂、山里小学校、城山小学校をはじめ民家など
  12/県庁から大波止の途中にあった醤油会社の建物の跡地に村上明が旅館秀明館を創業
     1960(昭和35)筑後町の駅前高台に新築移転
     戦後の混乱から安定するにつれ急増する車の騒音を気にしての決断
     また外人客を受け入れる旅館が少なく、打開策として閑静眺望の地を選んでの移転
     外人客を受け入れる旅館としては常に先駆的な役割を果たす
     会議室、大広間、スカイグリル、特産品売場、駐車場などを完備し、結婚式場を備える
     村上明は西彼杵郡亀岳の生まれ。肥前彼杵に名を成した村上氏の末となる
  12/GHQが経済安定9原則を発表
  12/日本海員掖済会長崎病院が年末無料診療を開始
     1949(昭和24)04/病棟を増築して病床が21床となる
  西浜町の叺(かます)横丁角に公衆浴場・浜の湯が開業
  県立瓊浦中学校跡地に県立長崎西高等学校が開校
  海星学園が学制改革により新制の中学校、高等学校に
  前年の純心中学校に続いて純心女子高等学校が開校
     1950(昭和25)純心女子短期大学が開校
  大正時代半ばに建てられた馬町の洋館風建物が事業家から市に寄贈。炉粕町から移転し市立博物館がとして利用
     1955(昭和30)市立博物館移転後、市長公舎となる
     1988(昭和63)市長公舎が玉園町に移転
  市営交通船の園丸が九州商船のチャーターとして博多〜雁の巣航路に就航
  長崎商工会議所の商工相談所が中小企業相談所と改称して再発足
     1960(昭和35)国の小規模企業施策の強化とあいまって小規模企業階層の指導に重点をおくことに
     専任の経営指導員を配置するなど相談所の機構と機能は大幅に拡充
  長崎バス(株)がいすゞのディーゼル車を導入。またトヨタや三菱ふそうのガソリン車を購入
  イワシ缶詰25万函の注文が入り製造各社で割当生産が行なわれる
     長崎合同缶詰…10万函、日本食品工業…5万函、佐世保合同缶詰…5万函、深堀食品工業…5万函
  麹屋町の長崎逓信講習所が閉所
     長崎逓信講習所は逓信省が電報通信事業に従事する技術者を養成するために開所
  高島のグラバー洋式邸宅が老朽のため取り壊し
  口之津町の古野電気商会が世界で始めて音響測探機を改良した魚群探知器の販売を開始
     1955(昭和30)古野電気株式会社が設立。(株)古野電気工業所の事業一切を継承
  鮮魚商から身を起こした中村吉衛がかまぼこの製造に移り「中村蒲鉾店(マル中蒲鉾)」を興す
     中村吉衛は1896(明治29)鹿児島生まれ
     のち研究に苦労し包装蒲鉾の製造に成功
  山崎パンが操業
  歌「長崎のザボン売り」の大ヒットで長崎駅にザボン売りが登場
     カステラなどとならぶ長崎土産の代表となる
  電話番号簿が復活する
     1949(昭和24)戦争中、中止されていた電話番号簿への広告掲載が復活
  長崎県立口加高等女学校が長崎県立口加高等学校に改称
     2008(平成20)02/29家政科の閉科にともない式典が催される
     式典には在校生、OB・OG、地元住民ら約750人が出席。最後の家政科生27人は長着とはかま姿で入場
     式典後、手芸を象徴する針山をイメージした記念碑を除幕。針に見立てた支柱は最初の被服科に在席した68人にちなんで68本
     創立は1902(明治35)の私立口之津女子手芸高校
  福江島から南西約80粁に位置する男女群島の女島にある女島灯台が復旧
     2006(平成18)11/12女島灯台(日本最後の有人灯台)が海上保安庁による自動化整備が完了。新システムが稼働する
     約80年間、東シナ海の船の安全を見守ってきた灯台は、年度内に滞在勤務職員の残務を終え、完全に無人化
     海上保安庁交通部が進めてきた全国の灯台3337基の自動化がすべて完了。灯台守が灯台から姿を消すことに
     これまでは長崎海保航行援助センター五島地区事務所から原則4人の職員が、ほぼ半月交代で住み込み勤務
     自動化によりディーゼル発電機から太陽光発電装置に移行。発電装置や光を放つ灯器などの点検は3か月に一度、職員が赴く
     約47粁先まで届いていた灯器の光は、約38粁先までに短縮
     第七管区海上保安本部交通部は「航路上、船舶は灯台からそれほど離れた海域を通っていないため支障はない」とする
  初代船津竜次が万才町に船津蒲鉾店を創業
     土産品としての包装蒲鉾に力を入れる
  島原市の推薦を受け村中茂夫は、旅館有明館の経営から南風楼の経営を引き継ぐことに
     旅館南風楼は島原市の払い下げを受けていた
     1952(昭和27)有明館を塚島宇平治が譲り受ける
  この年、長崎市の赤痢発生状況24(死亡1)

1949(昭和24)【昭和】 己丑(つちのとうし)

  《総理大臣》[第48代]第2次吉田茂内閣(→02/16)、[第49代]第3次吉田茂内閣(02/16→)
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
  《市長》[第17代]大橋博

  01/01北松浦郡調川村に町制が敷かれ調川町となる
     08/01北松浦郡平村に町制が敷かれ平町となる
  01/26早朝。法隆寺金堂より出火
     火元は電気座布団で壁画模写中の失火とする説が有力
     これにより模写中の国宝の金堂壁画12面が焼失する
     情報が交錯し新聞号外での第1報で「法隆寺全焼」と伝えられるなど、日本中が混乱する
  01/「光クラブ」が銀座に進出。資本金600万円、株主400人、社員30人を擁する会社にまで発展する
     「光クラブ」は前年の9月、東大生の山崎晃嗣と友人の三木仙也(日医大生)らが設立した貸金業
     07/04山崎が物価統制令違反で逮捕(のちに不起訴)
     同時に出資者の信用を失い業績が急激に悪化
     のち名称のみ変更してさらに資金を集めようと図るが成功せず
     11/24深夜、山崎が本社の一室で青酸カリをあおり遺書を残して服毒自殺
     約3千万円の債務を履行できなくなったため
  03/01日本銀行長崎事務所が支店に昇格し日本銀行長崎支店となる。炉粕町の長崎市商品陳列所跡に開店
     1978(昭和53)12/14旧店舗が老朽化したため新店舗が完成
  03/05野母商船が長崎〜高島〜端島〜野母の航路を就航
  03/06前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
     03/08戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
     足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
     手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
     1956(昭和31)11/18唐八景から八郎岳へ向かう山中のお万茶屋付近の山林の中で、白骨死体で発見
  03/093代目の長崎駅舎、通称・「三角屋根」(高さ約15米)が完成
     教会風の駅舎と十字架をかたどったステンドグラス
     異国情緒を漂わせ、長崎の玄関口のシンボルとして、市民や観光客に親しまれる
     1999(平成11)03/04再開発にともなう新駅ビルの建設により解体撤去工事に着手
     約10日で、その雄姿がなくなる
     『三角屋根』ができて、ちょうど50年後のこと
  03/31中町2-100他に中町公園(5074平方米)が、魚の町4-100に公会堂前公園(3578平方米)が
     築町6-100他に中島川公園(4352平方米)が開設
  03/31大井手町38他に大井手公園(1447平方米)が開設
     1968(昭和43)09/28大井手公園が宮の下公園と改称
  03/31市立女子高等学校の定時制課程が長崎県立長崎東高等学校の定時制課程(夜間)となる
     1976(昭和51)09/01全日制課程が立山町556番地(現立山5丁目)の新校舎で始業
     定時制課程は旧西山校舎を引き続き使用
  03/ごみ収集の作業能率を上げるため、大八車に代わり貨物自動車の使用を開始
  03/浦上刑務所仮庁舎の庁舎1楝、房舎1楝、付属建物が竣工
     1949(昭和24)04/諫早から被告人を移し開庁
  03/八千代町1丁目と寿町3丁目の丁字川に架かる寿橋が架け替わる
  03/東京で開かれた「長崎の鐘の会」にてサトウハチローのあいさつと歌手池真理子の朗読で発表
     のち古関裕而の曲がつき、藤山一郎が風邪のため40度近い高熱をおして吹き込む
     06/コロムビアから藤山一郎の歌による「長崎の鐘(A575)」が発売される
     作詞はサトウハチロー、作曲は古関裕而
     永井隆が被爆体験をまとめたベストセラー「長崎の鐘」をもとに作られる
     片面は池真理子の歌による「いとし吾が子」。作詞はサトウハチロー、作曲は古関裕而
     1985(昭和60)藤山一郎が来崎。本島市長から感謝状と記念品の「長崎の鐘」が贈られる
  04/01西彼杵郡黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
     1950(昭和25)05/01西彼杵郡福田村の一部が長崎市に編入される
  04/浦上刑務所仮庁舎に諫早から被告人を移し開庁
     のち長崎刑務所長崎拘置所と改称
  04/市の肝いりで「長崎原爆資料保存委員会」が設置。本格的に原爆資料の収集、保存に乗り出す
     1949(昭和24)05/平和公園爆心地付近に六角形の原爆資料館が開設
     1955(昭和30)02/11国際文化会館の竣工に伴い原爆資料が移される
  04/日本海員掖済会長崎病院が病棟を増築して病床が21床となる
     1954(昭和29)04/04床増床して25床になる
  04/1ドル360円の単一為替レートが実施
  05/04GHQの指導により道路交通取締法で「車の通行は左、人の通行は右」と規定
  05/06ドイツが分裂し米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立
     10/07ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。ドイツ国家と民族は東西に分断される
     1961(昭和36)08/130時、東ドイツは東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖
     有刺鉄線による最初の「壁」の建設が開始される
     08/15石造りの壁の建設が開始される
     のち壁は数度にわたり作り替えられ1975(昭和50)に完成。高さ4米、総延長は155粁
     1989(平成01)ソビエト連邦のペレストロイカに端を発し東ドイツの民主化運動(東欧革命)が拡大
     11/09ベルリンの壁が崩壊
     11/10未明、興奮した東西両ベルリン市民によって壁が破壊される
     1990(平成02)10/03東ドイツが自壊
     東ドイツ地域の諸州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入される形で再統一が達成される
  05/19長崎県営バスが雲仙観光にオープンカーを配置
  05/24九州巡幸の天皇陛下が長崎県入り。北松、佐世保を経て雲仙に2泊
     05/27雲仙から長崎市内へ。魚市、西坂公園、長崎医大、三菱造船所、三菱精機製作所を視察
     長崎医大附属医院内科病棟屋上で大橋博長崎市長の原爆被害及び復興状況の説明を受ける
     浦上三菱球場での奉迎場に臨席。集まった数万人の市民は、天皇の「です・ます」の肉声を初めて耳にする
     三菱造船所の占勝閣に宿泊
     05/28長崎駅から宮廷列車で帰京
  05/25島原鉄道の諫早〜島原に戦後私鉄初のお召列車運転
  05/29聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭。市中はザビエル祭一色に
     ローマ法王特使ギルロイ枢機卿、スペイン・インドなど8か国から70余人の国際巡礼団が来訪
     聖地保存会とイエズス会により、西坂の殉教地に記念碑を立てる計画が高まる
     1962(昭和37)二十六聖人列聖100周年祭にあたり、記念碑と資料館が建つ
     二十六聖人記念碑は横17米、高さ5.58米の花崗岩の台座に等身大の二十六聖人のブロンズ像がはめ込まれる
     制作は彫刻家の舟越保武
     1962(昭和37)キリスト教の歴史を紹介する日本二十六聖人記念館が建つ。設計は建築家の今井兼次
     1962(昭和37)聖フィリッポ西坂教会が建つ。設計は建築家の今井兼次
  05/29聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭で各国巡礼団の歓迎行事として「阿蘭陀満歳」が再演。好評を博す
  05/31国立学校設置法の公布により新制長崎大学を設置
     従前からあった長崎師範学校、青年師範学校の他
     長崎経済専門学校[長崎高等商業学校(第3高商)]が経済学部、長崎医科大学が医学部、師範学校が学芸学部
     青年師範学校内の水産科が水産学部、医科大学附属薬学専門部が薬学部の5学部をもって開校
     1949(昭和24)08/大村一般教養部と長崎一般教養部が設置
     1950(昭和25)05/01統合され長崎大学大村分校に
     のち転々とする。大村分校大村教室下久原の元師範校舎大村分校長崎校舎
     1954(昭和29)長崎市大橋町に移転し長崎大学長崎分校と改称
     1964(昭和39)04/長崎大学教養部となる
     経済学部
     初代学部長に伊藤勇太郎教授が就任
     1951(昭和26)03/02長崎経済専門学校の最後の卒業式が行なわれる
     学芸学部
     大村市乾馬場で発足。小学校、中学校、幼稚園を附設
     1951(昭和26)03/31師範学校最後の卒業式が行なわれ、師範学校が廃止
     1952(昭和27)06/長崎市大橋町200番地への移転を開始1953(昭和28)03/31移転完了
     附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
     1954(昭和29)04/01附属小学校と附属幼稚園が長崎市大橋町200番地に移転
     1966(昭和41)04/01学芸学部を教育学部に、学芸専攻科を教育専攻科に改称
     水産学部
     水産学部は、その1学部として、漁業学科・水産製造学科・水産増殖学科の3学科で発足
     1949(昭和24)07/大村市の長崎青年師範学校で長崎大学水産学部の事務を開始
     1950(昭和25)05/大村市から佐世保市崎辺に移転
     1961(昭和36)08/佐世保市崎辺から長崎市文教地区に移転
     長崎大学新設学部
     1966(昭和41)04/01国立学校設置法の一部を改正する法律(昭和40年法律第15号)により長崎大学工学部が設置
     機械工学科、電気工学科(入学定員各40人)が新設
     1979(昭和54)10/長崎大学に歯学部が設置される
     1997(平成09)10/長崎大学で国立大学最初の文理融合学部として環境科学部が発足
  05/柳通りの通称を観光通りと改める
     1967(昭和42)06/16岡政前〜勧銀長崎支店270米の片屋根の観光通り商店街アーケードが完成
     総工費約5500万円
     1982(昭和57)10/01浜市観光通りが従来の片屋根式から全覆い開閉式のアーケードが完成
     全長280米、幅10米、高10.5米、総工費約5億3千万円
  05/商工省が廃止となり通商産業省が設置される
  05/平和公園爆心地付近に六角形の原爆資料館が開設
     1955(昭和30)02/11国際文化会館の竣工に伴い原爆資料が移される
  06/01長崎測候所」が廃止される
     業務は1947(昭和22)04/30、南山手に創立された「長崎海洋気象台」が受け継ぎ統合
  06/01公共企業体・日本国有鉄道(初代総裁:下山定則)発足(3公社のうち、1987(昭和62)04/01)
  06/01公共企業体・日本専売公社(初代総裁:秋山孝之輔)発足(3公社のうち、1985(昭和60)04/01)
  06/01高島に長崎県立長崎西高等学校高島分校が設置される
     1960(昭和35)04/01長崎県立高島高等学校に定時制普通科が開校
     1962(昭和37)04/01長崎県立高島高等学校に全日制普通科が設置される
     1989(平成01)03/31長崎県立高島高等学校が閉校となる
  06/03測量法が公布される
     測量に関する基本的な法律。国や地方公共団体等が行なう測量が、正確さを確保し重複をなくす等の目的のため
  06/14独自の「映画倫理規定」を定め、業界の自主的運営による映画倫理規定管理委員会が発足
     戦前の国家による検閲が再び行なわれないように、日本映画連合会がGHQ指導のもとにされる
     審査は脚本、完成映画、タイトル、予告編、ポスターやスチール写真などに対する審査
     国家・社会、法律、宗教、教育、風俗、性、残酷・醜汚の観点から行なわれ、審査にパスした作品に公開を許可
  06/21長崎県立口加高等学校の小浜分校(定時制)が第1回入学式を小浜中学校内仮校舎にて挙行
     1958(昭和33)08/26小浜中学校内仮校舎から新校舎(北野)へ移転
     1960(昭和35)04/01長崎県立小浜高等学校に校名を変更。定時制独立校として発足
     1962(昭和37)04/01全日制課程となる(普通科2学級、商業科1学級)
  06/長崎市中央消防署に救急車が配置
     1963(昭和38)救急業務が消防の管轄任務となる
  06/長崎県営バスの諫早営業所が諫早駅前に落成
     1952(昭和27)諫早駅前の長崎県営バス諫早営業所が焼失
  06/キングから小畑実の歌による「長崎のザボン売り(C341)」が発売される
     作詞は石本美由起、作曲は江口夜詩
     歌謡界の大御所的作詞家・石本美由起のデビュー・ヒット作
  07/01市立勝山中学校が市立長崎中学校と改称。本大工町に新校舎が完成
     1970(昭和45)09/01本大工町から移転した市立長崎中学校の新校舎が立山の長崎公園内市民運動場に完成
  07/05朝、午前8時20分頃、国鉄の初代総裁下山定則が大田区上池台の自宅を公用車ででる。
     出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。三越に到着したものの開店前
     東京駅前に戻り千代田銀行に立ち寄り、複雑なルートをたどって三越へ
     午前9時37分頃、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げる
     急ぎ足で三越に入りそのまま消息をたつ
     下山は1949(昭和24)06/01に発足した日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかり
     のち登庁しない下山に国鉄庁内は大騒ぎとなり警察へ連絡。失踪事件として捜査が開始される
     07/06午前0時30分過ぎ、国鉄常磐線・北千住駅〜綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見される
     のち事件発生直後からマスコミでは自殺説や他殺説が入り乱れる
     のち警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切る
     下山事件。同時期に起きた三鷹事件、松川事件とならぶ国鉄3大ミステリー事件のひとつ
  07/15サマータイム時間の午後9時23分、国鉄三鷹車庫から7両編成の無人電車が暴走する
     三鷹駅の下り1番線に進入し、時速60キロ程のスピードで車止めに激突。そのまま車止めを突き破って脱線転覆する
     脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6人が電車の下敷となり即死。負傷者20人がでる大惨事に
     三鷹事件。同時期に起きた下山事件、松川事件とならぶ国鉄3大ミステリー事件のひとつ
  07/20NHKラジオ第2がスタート。地域番組を1日に2時間放送
  07/イワシの缶詰販売が自由販売となる
  07/大村市の長崎青年師範学校水産科で長崎大学水産学部の事務を開始
     1950(昭和25)05/大村市から佐世保市崎辺に移転
  08/01戦後初めて濱町、浦上駅前、水ノ浦に公衆電話ボックスが復活
  08/01南高来郡愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
     1954(昭和29)04/01南高来郡山田村と守山村が合併し吾妻村となる
  08/01北松浦郡平村に町制が敷かれ平町となる
     1950(昭和25)05/03北松浦郡小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
  08/01長崎市内に公衆電話ボックスが復活。浜町、山の口、浦上駅前、水の浦
     1953(昭和28)06/簡易委託公衆電話が黒から赤電話となる
  08/09平和公園で祈念式典が挙行。大橋博長崎市長が初めて平和宣言を行なう
  08/09長崎国際文化都市建設法が公布
  08/16日本大学の古橋広之進がロサンゼルスで行なわれた全米選手権に招待されて参加し世界新記録を樹立
     400米自由形4分33秒3、800米自由形9分33秒5、1500米自由形18分19秒0
     アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれる
     遠征はサンフランシスコ講和条約締結前。米ドルがなく日本水連幹部や在米日系人からの寄付で実現する
     渡航前にはGHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受ける
     戦後まもなくの大会で大会前は米国民にジャップと呼ばれることも。大会後は一躍ヒーローに
  08/17夏の第31回全国高校野球選手権大会で、小倉北高等学校(福岡)が準々決勝で倉敷工業高等学校(岡山)に敗れる
     小倉北の投手・福島一雄が甲子園の土を拾って地元に持ち帰える
  08/17サマータイム時間の午前3時9分頃、福島県信夫郡松川町を走行中の青森発上野行き上り列車が突如脱線
     蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人が死亡
     現場は東北本線松川駅〜金谷川駅間のカーブ入り口地点
     のち転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認される
     さらにレールを枕木に固定する犬釘も多数抜かれ、長さ25米のレール自体がほとんど真直ぐなまま13米移動
     松川事件。同時期に起きた下山事件、三島事件とならぶ国鉄3大ミステリー事件のひとつ
  08/原爆で損壊した「長崎県立盲学校」旧浦上校舎跡に寄宿舎並びに外来治療室が完成
     聾学校と再び分離、仮校舎で授業再開
     1950(昭和25)05/木造2階建て復旧校舎の落成祝賀会開催。永井隆博士が祝いの色紙を送る
  08/長崎県営バスが小浜商船(株)所有の“竹島丸”と網場〜小浜〜京泊航路を買収
     1950(昭和25)01/04網場〜小浜〜京泊間に竹島丸の運航を開始
     1951(昭和26)01/01竹島丸運航休止
     1952(昭和27)10/25網場〜小浜〜京泊定期航路廃止
  08/自主制作の歌「平和は長崎から」が作られる
     被爆者の一人でもある市議会事務局長の木野普見雄が歌人に島内八郎に詩を依頼、自ら曲をつける
     原爆殉難者の霊を慰め平和への信念を表わす歌曲を作り市民の平和意識を高めるため
     08/09平和公園での祈念式典にて浦上天主堂聖歌隊により歌が発表される
  08/新設された長崎大学に大村一般教養部と長崎一般教養部が設置
     1950(昭和25)05/01統合され長崎大学大村分校に
  09/15長崎県営バスが観光バスにラジオ設置(島原営業所)
  10/01長崎市中央保健所の新庁舎が酒屋町に完成し、今魚町から移転する
  10/01中国共産党によって中華人民共和国の成立が宣言される
  10/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (7)…丸山町(本踊・段尻)、五島町(唐人船)、本石灰町(本踊・樽神輿)、桶屋町(本踊)、
     大井手町(獅子踊)、船大工町(川船)、出来大工町(本踊)、[特別参加]本籠町(蛇踊)
     庭見せ、諏訪踊馬場桟敷が復活。御旅所が外浦町長崎地裁前に変更
     お下りのあと北高来郡田結村の浮立と西彼杵郡大草村の浮立が披露される
  10/15出島岸壁の長崎港駅から、さらに大浦川まで692米の臨港線延長敷設工事が完成
     長崎港駅で開通式を挙行
     1982(昭和57)11/14連絡船の復活を期待し駅名は残っていたが廃止
     貨物列車が魚類運搬などのために、ときたま臨港線を走る程度
  10/聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
     聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
     診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
     1963(昭和38)聖フランシスコ結核療養所が聖フランシスコ病院に改名
  10/東北海運局内に宮城利府掖済会病院塩釜診療所として発足
     1953(昭和28)10/診療所を発展的に解消。塩釜掖済会病院を開設。30床
  11/011945(昭和20)に閉鎖した旭町の公益質屋が第1市営公益質屋として復活、営業開始
     1965(昭和40)04/01廃止
  11/01長崎大学の開学式が片渕町の経済学部講堂で挙行
  11/02浦上駒場町の総合運動場建設予定地内に長崎市営競輪場が完成。総工費1300万円
     原爆後の膨大な都市復旧建設費の調達に悩み、戦災都市小倉市の例に倣い資金調達のための競輪事業
     11/05第1回市営競輪開催
     1966(昭和41)12/13諸般の事情からレースが休止に
  11/03「あの子らの碑」が山里小学校の校庭に建てられ除幕式が挙行
     原爆体験記「原子雲の下に生きて」が永井隆の援助で出版。その印税で建立
     自主制作による歌「あの子」が作られ碑の除幕式で発表される
     愛児を亡くした親たちの悲しみを板描いた永井隆の詩に、木野普見雄が童心豊かなメロディーをつける
  11/04新聞「夕刊長崎タイムス」が創刊
     1951(昭和26)05/12「夕刊長崎タイムス」が廃刊
  11/05長崎少年鑑別所が諫早市から長崎市橋口町に移転
  11/05長崎市営競輪場で第1回市営競輪が開催
     1966(昭和41)12/13諸般の事情からレースが休止に
  11/原爆障害調査委員会(長崎ABCC)」が長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
     予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
     1975(昭和50)04/01「ABCC(原爆傷害調査委員会)」が再編成のため閉所
     新たに「放射線影響研究所(RERF・放影研)」として日米両国が財団法人となり運営経費を分担する形に変更し再発足
     日米共同による調査研究を続行する必要性があると考えられ両国政府が共同で管理運営する公益法人とし発足
     日本国民法に基づき、日本の外務省および厚生省が所管。運営管理は日米の理事で構成される理事会が行なう
     調査研究活動は両国の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て進められる
     経費は日米両国政府が分担し、資金は日本は厚生労働省を通じて、米国はエネルギー省を通じて交付
     変更後の長崎研究所では被爆者の健康診断、調査、研究を行なう
     研究所には臨床研究、疫学、放射線生物の3部門がおかれる
     放射線生物部は放射線が発がん遺伝子や免疫機能に及ぼす影響などについての基礎的研究を行なう
  11/湯川秀樹が中間子理論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績を挙げノーベル賞を受賞
     湯川秀樹は理論物理学者でノーベル賞受賞は日本人として初めて
     ニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えることに
     【10/?】
  12/01お年玉付き年賀郵便はがきが初めて発売される
     賞品は特賞がミシン、1等が純毛洋服地、2等が学童用グローブ、3等が学童用コーモリ傘……
  12/03永井隆博士に長崎市名誉市民の称号が贈られる
  12/17ロンドンの帽子屋ボーラーがトーマス・コークのために山高帽をつくる
     馬上で狩猟をするとき低木枝から頭部を保護するため
     のちたくさんの愛用者が増える
     【1850?】
  12/27楢林宗建種痘実施百周年記念講演会を長崎市榎津町の市医師会館3階講堂で開催
     郷土史家古賀十二郎が「楢林宗建の牛痘接法に就いて」講演
     続いて長崎大学医学部細菌学教授青木義勇が「種痘の変遷とこれを巡る人工免疫の進歩」を講演
  12/29長崎県営バスが長崎市内線の運行を開始(料金5円均一)
  12/浜屋百貨店地階に長崎初の地下劇場・浜屋地下映画劇場が開館
     柱があり、見づらい席があった
     1952(昭和27)閉館
  一口香総本家榎純正堂が浜町電車通りに支店を出す
     1957(昭和32)本店が浜町商店街内に移転
  長崎市大浦の小さな食堂「京華」が長崎市新地町に移転
     木造2階建一部3階で屋号を「中華料理京華園」に改名
     営業内容はレストラン・出前及び宴会
     1960(昭和35)鉄筋コンクリート4階建に増築
  ザビエル渡来400年、天皇巡幸の記念事業としてスズラン灯が1942(昭和17)以来の復活
     浜町(35基)、観光通り(35基)、かじや町(43基)、銅座町(21基)、中通り(3基)等
  家野郷の一部の町名が昭和町となる
  水産庁が南氷洋鯨肉の缶詰製造を提唱。大洋漁業(株)と日本水産(株)で20万ケースの鯨大和煮がはじめて製造
  神の島ドンク岩にマリア像が建立
  宮日振興会に代わる長崎おくんち振興会を結成、「くんち」の円滑な運営と振興にあたる
     のち時勢の推移に合わせて数次の改組を行ない、長崎伝統芸能振興会に至る
  佐世保市先岡町の小田寅雄が約2aでレタスを試作。営利的洋裁栽培の始まり
  戦争中、中止されていた電話番号簿への広告掲載が復活
  長崎市の教宗寺の住職が「マーシャル」を導入、栽培が拡大し矢上いちごに
     1950(昭和25)長崎市で本格的ないちご栽培を開始
  市営交通船の第5つる丸が川南造船所で建造
  株式会社藤岡石油店を設立
  上五島中道島の鯛ノ浦教会聖堂に煉瓦造りの鐘塔が増築
     旧浦上天主堂の被爆煉瓦が使われる
     1979(昭和54)新聖堂が造られる
     潮風のため建物の破損が著しく不漁続きの不況の最中ながら信徒たちは巨額を拠出
     旧聖堂は図書館などのほか信仰教育の「けいこ場」として残される
  ツシマヤマネコが非狩猟鳥獣に指定され狩猟が禁止となる
     1971(昭和46)国の天然記念物に指定される
  西道仙の孫西仁寿が大学病院下で医院を開業
     戦後引揚者の多かった浦上地区で診察料を払えない人をも良く往診
  松尾正が西浜町で丸二タクシーとして再開
     社長の松尾は信義を重んじ公私の区別を明らかにして、常に弱いものの味方になって業界をリード
     松尾は26才のとき、1935(昭和10)に台場町にて雲仙タクシーをはじめる
  雲仙の旅館松本屋が合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする
     1968(昭和43)拡張に踏み切り、雲仙ニューグランドホテルをオープン
  サトウハチロー作詞、古関裕司作曲、藤山一郎の歌で「長崎の鐘」が発表
     永井隆のベストセラー「長崎の鐘」に取材した歌謡曲
     のち大ヒットし舞台劇や映画となる
  この年、長崎市の赤痢発生状況25(死亡2)

1949(昭和24)頃

  鈴木信太郎が「阿蘭陀満歳」を二科会に出品。評判を得て全国に知られるようになる
     鈴木信太郎はザビエル渡来400年祭で再演した「阿蘭陀満歳」をスケッチ

1950(昭和25)【昭和】 庚寅(かのえとら)

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