●●●●「長崎年表」は編集著作権で保護されます
●●●● (c) 2003-2013 makuramoto all right reserved.


鎌倉以前 室  町 安土桃山
(1)
安土桃山
(2)
江戸(1) 江戸(2) 江戸(3) 江戸(4) 江戸(5)
江戸(6) 江戸(7) 江戸(8) 江戸(9) 江戸(10) 江戸(11) 江戸(12) 江戸(13) 江戸(14)
江戸(15) 江戸(16) 江戸(17) 江戸(18) 明治(1) 明治(2) 明治(3) 明治(4) 明治(5)
明治(6) 明治(7) 明治(8) 明治(9) 明治(10) 大正(1) 大正(2) 大正(3) 昭和(1)
昭和(2) 昭和(3) 昭和(4) 昭和(5) 昭和(6) ・昭和(7) 昭和(8) 昭和(9) 昭和(10)
昭和(11) 昭和(12) 昭和(13) 昭和(14) 昭和(15) 昭和(16) 昭和(17) 昭和(18) 昭和(19)
・昭和(20) 昭和(21) 昭和(22) 平成(1) 平成(2) 平成(3) 平成(4) 平成(5) (表 紙)

 前のページへ


〈江戸時代(11)〉

1789(天明09、寛政01・01/25)【光格】 己酉(つちのととり)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》末吉摂津守(06/12新番頭転出)、永井筑前守(直廉・前目付・06/12発令・09/着)、水野若狭守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール(←08/01→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  02/04アメリカで最初の大統領選挙が行なわれる
     選挙人を選ぶ方法の決定は各州に任され、13州のうち10州だけが選挙人団の投票を行なう
     10州のうち5州だけが大統領選出のための一般投票を行なう
     選挙人投票で100%の票を得る
     04/30ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に就任
     ニューヨークのフェデラル・ホールでアメリカ合衆国憲法に基づく大統領の就任宣誓式が行なわれる
  02/05夜、日見村より出火
  03/03暁、古賀村より出火
  03/18暁、茂木村より出火。27戸が焼失
  06/老中松平越中守より長崎奉行所に令書
     唐蘭輸入品は薬物、食品、砂糖を主とし、次は書籍(小説、咄本を除く)、端物、綿繍奢侈品は好ましくない。鳥獣は無用
  07/14フランス王国、パリ市の民衆がバスティーユ牢獄を襲撃
     襲撃を契機にフランス全土に騒乱が発生し第三身分による国民議会(憲法制定国民議会)が発足
     革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊。フランス革命がはじまる
     1794(寛政06)07/27フランス革命時、山岳派独裁に対する反対派がテルミドールのクーデターを起こす
     ロベスピエールとその一派(サン=ジュスト、クートン、ル・バなど)が失脚、処刑または自殺する
     この事件をもってフランス革命が終焉。事実的には市民革命の終わり
     1799(寛政11)11/09ブリュメールの軍事クーデターによりナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒す
     ナポレオンが執政政府を樹立し独裁権を掌握。自ら第一執政となる。フランス革命はここに終わる
     実際の革命は1794年のテルミドールのクーデターによって終わり、惰性で続いていたブルジョワ革命がナポレオンにより終わる
  07/25厳原藩で国益増進策として皮革の国内生産を計り穢多を導入
  07/蘭船が火喰鳥(駝鳥)を輸入する【1778(安永07)】
     1790(寛政02)駝鳥という触れ込みで大坂道頓堀で見世物興行される
  09/唐船が帰帆の際に日本版「求言録」を輸入する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  諏方神事の奉納踊り用衣服は−切木綿ものを着用するよう布達
  11/04本石灰町の孝女青木マサに銀3枚を賞与
  12/幕府が長崎奉行に重ねて密貿易の厳禁を命じる
     10両以上の密商、再犯は死罪、その他、従来の刑を1、2等重くする
  12/萬屋町の貞女マツに銀2枚が賞与される
  桶屋町の光永寺が火災にあい焼失。再建される
     1808(文化01)山門が桶屋町筋から東向きの位置に移される。向陽山と号する
  松翁軒5代要次郎が砂糖漬を改良。ざぼん漬の製法を習得して売出す
     のち6代幸次郎が寒菊を製作
     1861(文久01)7代熊吉が飾菓子の名手としてその名が知られる
  蘭通詞の翻訳に誤りがあったとして関係の通詞目付、大小通詞を投獄および免職に
     のちみな、復職させる
  五島西島(若松町)に疱瘡が流行する
  長崎の家数1万2203(家持1934・借家9530)、人口3万1893(男1万5502・女1万6391)
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1790(寛政02)【光格】 庚戌(かのえいぬ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》水野若狭守(09/着)、永井筑前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/13→)ペトルス・テオドルス・シャッセ

  01/08ジョージ・ワシントン米大統領が初の一般教書演説を行なう
     一般教書演説は米国大統領がアメリカ合衆国議会両院の議員を対象に行なう演説
     国の現状についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するもの
  03/28奉行水野若狭守が勘定奉行核に昇進
     11/18蘭大通事の吉雄耕牛、楢林重兵衛が30日間の戸締めを命じられる
     12/04小通詞の西吉兵衛とともに入牢
     10日出牢のうえ町預けとなる
     輸出樟脳と輸入銀貨の件について不都合な措置したかどによる
     1791(寛政03)03/103人ともに免職。5年間の蟄居を申し渡される
  05/幕府が聖堂において朱子学のほか異学を講究することを禁じる
  05/幕府が長崎の町民に諭告を発する
     長崎地方の繁盛は外国貿易を独占していることにより、もたらされたもの
     近年にみられる諸地方鉱山の銅生産が低下すれば外国貿易を続けることはできなくなる
     土地の者は生計をたてていこことが不可能になる
     市民は各の分を守り産業に努め奢侈を去り勉励の人となり決して違法の人となるな
  07/22浦上でキリシタン19人が密訴により捕らえられ入牢、のち放免。「浦上一番崩れ
  08/02勘定組頭の松山総右衛門と支配勘定格の平田恵十郎がくる。5か年間、岩原屋敷に在留する
     1795(寛政07)5か年の在留が解かれる
  09/04夜、浦上山里村里郷より出火
  09/幕府への長崎会所上納斤1万5千両の他当分免じる
  09/町年寄と宿老の参府を隔年に改める。また江戸諸役人への贈品の額を減らし5分の3に
  09/商額減額のため甲比丹(出島商館長ロムベルフ)に対し江戸参府を5年【4年?】ごとにする
     幕府献上品、諸役贈与品、奉行その他への八朔銀を半分に減らす
     1794(寛政06)03/幕府側の都合で延期していた甲比丹の参府が再開
  09/オランダ貿易の規模を縮小。オランダ船を2艘から1艘にし支払い銅を100万斤から60万斤に減じる
     幕府献上品と諸役贈答品、奉行その他への八朔銀を減じる
  09/遊女和哥鶴が丸山の遊女屋引田屋の庭園の後方にある稲荷祠に石の鳥居を寄進
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  市民に対し倹約令が出される
     専ら産業に意を用い着るものなど贅沢をしない
     冠婚葬祭の簡素化、諸道具に銀を用いることを禁止、過分の新築、高利の貸付の禁止など
  備籾の制が創立
     1812(文化09)備籾の制が中止に
  天后堂が重修
     1906(明治39)全国の華僑の寄附により再建
  諏方社能舞台板障が白坂なため松桧の彩画を描く
  幕府が長崎町民に対し諭告を発する。冠婚葬祭の簡素化、過分の新築、高利貸付を禁じる
  高谷永左衛門が穴弘法奥之院霊泉寺を創建
  前年に蘭船が輸入した火食鳥を駝鳥という触れ込みで大坂道頓堀で見世物興行される
  松平定信が江戸、京都、駿府、長崎の官薬園に命じる
     従来分配を禁止していた漢種、蛮産の諸薬種苗を民間の希望者に頒布させる
  岸八兵衛の直訴事件がおこる
     俵物請方の1人、岸八兵衛が長崎会所の処置を不当として老中松平越中守に途上直訴
     長崎奉行に訴えよとして却下される
     改めて勘定奉行の久世丹後守(元長崎奉行)に訴えるがこれも却下
     再度、松平越中守に訴え、久世丹後守が添書を与えて長崎奉行に出願。受け入れられる
     1793(寛政05)握りつぶされず解決する
  幕府が朱子学を勧め異学を禁ず。寛政異学の禁
  阿蘭陀通詞目付けとなる吉雄耕牛が吉雄流外科の一派を起こす
  雲仙の古湯、寺の馬場に熊蔵が6室を以て旅籠万屋をはじめる
     1915(大正04)5代目勝秋が雲仙で最初の内湯を開始
     それまで雲仙の旅館には内湯の設備がなく湯元経営の共同浴場(延暦湯)に依存
     内湯は共同浴場からの「湯くみ男」による
     1919(大正08)公園事務所の許可を得て八幡地獄の温泉を引き温泉旅館をスタート
  高島作兵衛永喜が町年寄見習いとなる
     1791(寛政03)一代町年寄となる
     1808(文化05)07/01世襲町年寄となる
  志筑忠雄が「万国管●(門かまえに規)」1巻を著す
  長崎奉行所の門前に訴状箱があるにもかかわらず、往来切手も願わず江戸に行き直訴する者が横行
     1797(寛政09)06/往来切手も願わず江戸に行き直訴する者はふらちであると再度、訴状箱の趣旨の達しをだす
  唐船9隻、蘭船1隻が入港

1791(寛政03)【光格】 辛亥(かのとい)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》永井筑前守(09/着)、水野若狭守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ペトルス・テオドルス・シャッセ

  02/02大川(中島川)筋の今魚町より下流をさらえる
     川筋は人口増にともない土砂堆積がおこり、この頃からしばしば下流をさらう
     08/18浚渫がおわる
  03/10出島で誤訳が発覚
     通詞目付吉雄幸作が大通詞楢林重兵衛、小通詞西吉兵衛ととも放役(免職)、5年間の蟄居(謹慎)を命じられる
     幕府は主要輸出品の銅の減少を理由に寛政半減商売を打ち出す…
     のちオランダ船入港2隻を1隻に、銀の取引量1250貫目を700貫目に
     さらに銅の取引量90万斤を60万斤にとほぼ半減の方針を下す
       吉雄らは故意にその半減の趣旨を正確にオランダ商館に伝えていなかった…というもの
     他にも大通詞2人、小通詞2人、小通詞並1人も連座し50日の押込に処せられる
     阿蘭陀通詞幹部のほとんどを巻き込んだ大事件に発展
  03/10蘭大通事の吉雄耕牛、楢林重兵衛と小通詞の西吉兵衛が免職。5年間の蟄居を申し渡される
     輸出樟脳と輸入銀貨の件について不都合な措置したかどによる
     のちロシア使節の渡来やエゾ地侵攻がありイギリス船も日本近海に出没して通詞の大量養成が必要となる
     1797(寛政09)09/233人は許され蛮学指南所に蘭書和解掛を兼ねて教授に任じられる
     若い通詞の養成にあたる
  04/長崎奉行、水野若狭守訓令
     1)丸山町、寄合町の芸子等の衣類、櫛、簪等が甚だ華美で不埒である
     申し渡したことを守らなければ直ちに召捕吟味の上咎めを申付ける
     2)地下の者も心得違いをして華美であるから、この様な者も召捕吟味するから専ら質素にする様心掛けねばならない
     ほかに水野若狭守は両奉行の買入れる唐・蘭品のうちの差金で毎年籾米を買入れるよう定める
     江戸の許可を得て永久制に
  04/林子平が「海国兵談」を刊行
     1792(寛政04)05/幕府が絶版にする。林子平には蟄居を命じる
  07/02諏方神事に歌舞伎に類する舞踊を禁止し、踊り町に対する貸与銀を減らす
     神事町ごとに銀2貫500目の貸与を改め1貫500目とし丸山・寄合両町に支給する4貰目を改め1町2貫500目とする
  07/諏方社大宮司青木永勇が許しを得て別宅の小島八軒屋に薬園を設ける
     長崎代官所より薬種14種をもらって移植。のち栽培不慣れなどのため失敗
  09/26長崎村馬場郷に砲術稽古場を設ける
     武具蔵預、唐見番、唐人番、船番、町司、散使に小銃、弾薬を支給して訓練
     のち地役人一般も習練に加える
  09/異国船渡来の際の処置を指令する
  10/08島原一帯が毎日3〜4回の地震に見舞われる
     11/10頃眉山の土石が崩れ落ちるほど揺れる
     1792(寛政04)年が変わりさらに噴火活動は活発になる
  11/1180才以上の高齢者161人に対し、各銀1枚を支給する
  11/15百姓の久右衛門(片淵郷)、善右衛門(小島郷)に対し孝子として各銀3枚を賞賜
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  西築町に籾米貯蔵用の土蔵45坪(148平方米)を建てる
     飢饉の年には迴米も不十分となり町民は飢えに苦しむことを想定し籾米を買入れ貯蔵するため
     1年毎に新・古米を繰り替え飢饉に備える準備をする
     1800(寛政12)10/西築町の籾蔵を新地に移す
  諸山出銅の不足につき唐船定数13艘を10艘とする
  商額銀を2740貫目にする
  御目附井上圖書が長崎会所の監察を主目的とし寛政の布令の実施状況の把握のため長崎に下向
  町年寄見習いの高島作兵衛永喜が一代町年寄となる
     1808(文化05)07/01世襲町年寄となる
  木鉢浦の石銭御番所が廃止となる
     1715(正徳05)の正徳新令で長崎貿易が縮小。以来、石銭御番所もその効果が薄れたため
  唐船の入港を10隻に制限
  正覚寺の僧観海が正覚寺境内に深廣寺を創建
        1897(明治30)頃片淵の現在地に移転
  スウエーデンに帰国したカール・ペーテル・ツユンベリーが著書「旅行記」の第3巻を発表
     江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない…
  唐船10隻、蘭船0隻が入港

1792(寛政04)【光格】 壬子(みずのえね)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》水野若狭守(02/25閉門・06/06赦免・07/01先手鉄砲頭転出)、永井筑前守(閏02/06死去・晧台寺に埋葬)
      平賀式部少輔(貞愛・前目付・03/01発令・06/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ペトルス・テオドルス・シャッセ(←11/13→)ヘイスベルト・ヘンメイ

  01/18年が変わりさらに噴火活動は活発になる雲仙普賢祠付近で大噴火がおこる
     02/09穴迫谷から溶岩が噴出し東方に流れ出る
     直接人里に被害を及ぼすほどではなく、流れ出る溶岩の珍しさに人びとが押しかけ、
     ふもとには茶屋ができ、なかには酒宴まで催すありさま
     03/01午後4時頃から大地震により眉山が崩れる
     道には幅1尺あるいは3尺の亀裂が生じ、 家屋は倒壊、家人縁者の消息を探し民衆は右往左往。街中は修羅場に
     03/中地震が収まり避難先から自家へ戻りはじめる
     04/01午後7時頃、大音響とともに2回の大地震に見舞われ、眉山の半分が頂上からふもとまで裂け前海へ崩れる
     眉山の高さが500尺ほど低くなり、崩れた山肌から水が溢れ、海からは津波が押し寄せ、島原市街地は壊滅状態に
     崩れた土石は安徳村北名、 島原村今村名を埋め丘陵をつくり、島原藩は土石により砂漠と化す
     地獄跡火口から噴火、のち北東部から新焼溶岩が噴出し、溶岩流の長さは2粁に
     雲仙岳の北斜面に4粁に及ぶ溶岩が流出。奇岩、巨岩が転石した溶岩流の末端部が焼山となる
     眉山は七面山と天狗山の山峰に分かれ、現在も崩れ山として10万瓲の土砂が崩落する
     3億立方米を超える土砂が人家や田畑を埋め尽くし有明海へ向かって崩れ落ちる
     市中の善法寺前から江東寺付近までの間に地割れが生じ水が吹きだす。長さ10町、幅3〜4町ほどの湖が出現。白土湖
     島原前海に浮かぶ小島59島が、砂質の島は崩壊して暗礁となり31島に減少
     7〜8回発生した津波は島原半島、天草、肥後の沿岸で1万4524人の溺死者がでる。家屋倒壊は1万2千戸に
     結果、島原での死者9535人、傷者707人、斃死牛馬496、 家屋の流失倒壊3347戸を数える
     残りの5千人の死者は肥後の玉名、飽田、宇土と天草方面の住人で「島原大変肥後迷惑」と膾炙される。
     日本最大の噴火災害に。もっとも高い津波は肥後西部で発生した「高波7丈余(21米)」と記される
  02/09夜、浦上山里村中野郷より出火
  閏02/06奉行永井筑前守が没し皓台寺に葬られる
     永井筑前守は善政を行ない市民は父母のごとく慕う
     病にかかると諸社寺に全快を祈願、在留唐人たちも諏方社に全快を祈る
  03/01この日から地震、海水の干満が続発、大波戸で潮の引くこと1町余に及ぶ
  03/11夜、本籠町の太郎次大徳寺茶屋より出火。類焼はなし
      本籠町・太郎次
  03/23暁、豊後町の後藤久右衛門宅脇小屋より出火。類焼はなし
      豊後町・後藤久右衛門
  04/25ギロチンがフランスで正式に処刑道具として認められる
     ルイ16世の提案で刃の角度が斜めに、刃につく重りにより素早く切り落とすことができる
     従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされる
  05/19昼から大雨。夜に入って彦山は泥水をふき洪水となる
     井手が決潰、水車や田畑が流出し各所の石垣練塀が崩落、流失家屋17戸
  05/前年に刊行された「海国兵談」を幕府が絶版にする。林子平には蟄居を命じる
  06/03暁、本興善町より出火
  06/引田屋の遊女廿巻、早瀬の2名が引田屋庭園の稲荷祠に石灯籠1対を寄進
  09/09渡御。「長崎くんち」が将軍家治の7回忌祥月で奉行謹慎中のため日程変更09/13還御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  09/17老中松平越中守定信の建議により江戸小日向の山屋敷が廃止される
     山屋敷の蔵の中にあるキリシタンからの没収品は神田見付内の多門櫓(たもんやぐら)に移される。俗に不浄倉とも呼ばれる
  09/21夜、浦上山里村中野郷より出火
  09/引田屋の遊女和歌鶴、木々野の2人が引田屋庭園の稲荷祠に石灯籠1対を寄進
  10/熊野正紹が「長崎港草」(全15巻)を著す
  11/05市中の80歳以上の者に対する公役を一生のあいだ免除する
  12/28孝行忠節の男女29人へ銀2〜3枚を賞賜
  市中の米穀が欠乏。13人に米穀を購入させ肥後、豊後、石見、天草からの上納米2万5500石を本港に迴漕
     うち2千石は切米や扶持米とし、4400石は欠乏や米価騰貴の際に備える
     1万9千石は長崎会所で購入、地役人の給与や臨時の準備米にする
     13人…河内屋九郎右衛門、安川吉左衛門、飛鳥八右衛門、岡村屋惣兵衛、森安茂四郎、矢島要左衛門、
     道幸三次郎、矢島弥左衛門、河内屋勘右衛門、廣島屋儀十郎、林猪三太、松屋太兵衛、河内屋仁右衛門
  カピタンのゲイスベルト・ヘンミイが寄合町油屋の遊女、花の井、京屋の遊女、常葉を出島に呼び入れる
     琴、胡弓、三味線、太鼓、笛など日本の音曲を好んで召使の黒人リューベン・バンシャル・オーノスに演奏を習わせる
  広東人参の売買に際し賄賂が行なわれる
    1793(寛政05)03/商人上田嘉右衛門は家財没収のうえ居町払いの処分をうける
     その他商人数人も罪を得、吏員100人余が100日の謹慎、手鎖、追放などの刑をうける
  萬屋町の筒見弥三太が組頭の入れ札に際して禁を犯す。町民に入れ札を頼んでまわり、居町払いの処分をうける
     長崎の各町にはそれぞれに乙名がいて町政を支配し組頭がそれを助ける
     乙名は世襲で奉行に任命され組頭は町民のなかから入れ札により選ばれる
     入れ札は町民各自の意思によりすべきもの。決して町民に入れ札を頼んでまわらないよう、かねてから厳しいお触れがでていた
  大波戸の砲丸を公式計測する
     石火矢の弾丸が鋳造されたのは1638(寛永15)正月、鍛冶屋町の鋳物師金屋助右衛門国久による
     周り5尺8寸(1.758米)、重さ924斤5合(554.7瓩)。町年寄高島作兵衛や町乙名が立ち合い公式計測
     1986(昭和61)03/大波戸の鉄砲ン玉」が公式計量される
     直径56糎(周囲1.758米)、重量560瓩。鉄分63.96%、炭素2.94%、硫黄0.35%、その他不純物で中空となる
  唐船10隻、蘭船1隻が入港

1793(寛政05)【光格】 癸丑(みずのとうし)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》高尾伊賀守(信福・前日光奉行・02/24発令・09/着)、平賀式部少輔(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  03/前年、広東人参の売買に際し賄賂が行なわれる。商人上田嘉右衛門は家財没収のうえ居町払いの処分をうける
     その他商人数人も罪を得、吏員100人余が100日の謹慎、手鎖、追放などの刑をうける
  03/幕府が沿海諸藩に海防を命じる
  06/07奉行平賀式部が長崎村小嶽で砲術演習を検分する
     08/11関係者に銀1枚あるいは金200匹を賞与
     銀1枚は金1両の約3分の2強、金200匹は金1両の約2分の1に相当
  06/08暁、諏訪町より出火
  06/目付の石川忠房らがロシア使節ラクスマンと会い漂民の護送を感謝。長崎入港の信牌を与える
  08/10フランスのパリに国立博物館のルーブル美術館が「諸芸術の中央美術館」として正式に開館
     開館当時の所蔵は2500点
  08/町人の飛鳥八右衛門、森安茂四郎をもって米買入為替方とする
  09/09渡御。「長崎くんち」の日程を変更09/11還御
     (2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  09/09諏方祭礼日を改める【数字を全角にする】
     従来7日・9日・11日に行われていたが7日は将軍の忌日にあたり許しを得て9日・11日・13日に変更
     長崎くんちの日取りは、幕末まで続く
     1868(慶応04)04/25明治維新とともに再び7日と9日に変更
     1875(明治08)諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更される
  09/26夜、頂守岳大神宮殿より出火し焼失
  09/引田屋の遊女、千とせ、花扇、鵲の3人が稲荷社の坂の下手に石の鳥居を寄進
  09/幕府が奉行手付(附)出役を置く
     1820(文政03)09/廃し奉行家人をもって事務を処理させる
  11/02夜、長崎村十善寺郷より出火
  12/21正午、材木町より出火
  12/浦賀奉行所ができる
     1819(文政02)01/奉行を増し2人とする
  徳川家斉が出島オランダ商館にドンケルスクロク[泳気鐘(潜水器・ケーソン)]を注文
     オランダは自国で造れずイギリスに注文
     1834(天保05)長崎に到着するが日の目を見ないまま出島の倉庫に眠り続ける
     鋳鉄製で重さ4.5瓲、中に2人位腰掛けられ、台船につり下げられて使う
     上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガラス製円窓から採光
     ダイバーは膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様子を調査
     1857(安政04)飽の浦熔鉄所建設が始まり裸島まで埋立てる。工場敷地の周囲を巡らす石垣の基礎工事に使用
     熔鉄所建設の総指揮をとるオランダ海軍技術士官ハルデス中佐が自らケーソンに入る
  島原藩に藩校の「稽古館」が設立する
  岸八兵衛の直訴事件が握りつぶされず解決する
     1790(寛政02)俵物請方の1人、岸八兵衛が長崎会所の処置を不当として老中松平越中守に途上直訴
     長崎奉行に訴えよとして却下され、改めて勘定奉行の久世丹後守(元長崎奉行)に訴えるがこれも却下
     再度、松平越中守に訴え、久世丹後守が添書を与えて長崎奉行に出願。受け入れられた
  初代森竜吉が諫早で森長おこしを創業
     のち4代目が森長四郎を名のり、5代目がこれを襲名。森長おこしの商標がここにはじまる
  福江領内に疱瘡が流行する
  宇田川玄髄がオランダ人ゴルテルの内科書を仮名まじりで訳し「内科撰要」(初編3巻3冊)を刊行
     1810(文化07)全6編18巻が完成
  唐船12隻(内番外船2)、蘭船1隻が入港

1794(寛政06)【光格】 甲寅(きのえとら)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》平賀式部少輔(09/着)、高尾伊賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  03/幕府側の都合で延期していた甲比丹の参府が再開
     1810(文化07)江戸参府は従前の長崎の正月出発から02/20前後の出発に変更する
  04/10夜、浦上山里村中野郷より出火
  06/新井白石(君美)著の「西洋紀聞」を新井成美から幕府に献ずる
  07/17蘭大通詞で長崎天文学の代表的人物、本木良永(60)が没する
     通称栄之進、諱は良永、蘭皐と号す。大光寺に埋葬
  07/23諏方社が奉行高尾伊賀守の命により07/24まで雨乞の祈願を行なう
  07/27フランス革命時、山岳派独裁に対する反対派がテルミドールのクーデターを起こす
     ロベスピエールとその一派(サン=ジュスト、クートン、ル・バなど)が失脚、処刑または自殺する
     この事件をもってフランス革命が終焉。事実的には市民革命の終わり
     1799(寛政11)11/09ブリュメールの軍事クーデターによりナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒す
     ナポレオンが執政政府を樹立し独裁権を掌握。自ら第一執政となる。フランス革命はここに終わる
     実際の革命は1794年のテルミドールのクーデターによって終わり、惰性で続いていたブルジョワ革命がナポレオンにより終わる
  08/15産業に従事して勉励であった町民男女27人へ金200匹あるいは銀1枚を賞として与える
  09/13諏方社が神事能開催に際し老中松平和泉守の訃報に接し09/15に延期
  10/03浦上山里村本原郷より出火
  閏11/03夜、長崎村小島郷の芝居小屋より出火し焼失
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  唐船が日本版「七経孟子考文補遺」を輸出する
  阿蘭陀大通詞の本木良永(通称栄之進)が「阿蘭陀地球図説」「平天儀用法」「天地二球用法」など各種の天文学の訳述
     コペルニクス地動説を日本に初めて紹介
  蘭通詞の志筑忠雄が辞職して蘭学の研究に専念する
  唐船10隻、蘭船1隻が入港

1793〜1795(寛政05〜07)

  唐船、オランダ船が入港した場合の牛皮の扱いについての記述
     「長崎会所五冊物、唐船拾艘阿蘭陀船壱艘元代出銀仕拂明細書付」に記載
      元代百弐拾貫目程
       御用物元代商売内にて引分け候分、積み渡し荷物の内、牛皮持ち渡しこれ有
       り候えば、持ち渡し高の十分の一は、元代にて穢多どもに徐候定に付
      元代拾八匁程
       右元代は、出銀相掛り申さず候、尤も右は年々持ち渡し高相定申さず候に付、
         平均の積もり、小以百弐拾貫拾八匁程
       但、この高は出銀相掛り申し分けず。

1795(寛政07)【光格】 乙卯(きのとう)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》高尾伊賀守(02/05普請奉行転出)、中川飛騨守(忠英・前目付・02/05発令・09/着)平賀式部少輔(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  07/195月以降の断続した長雨と18・19日の豪雨で彦山、烽火山などから泥水噴出した未曾有の大水害
     床上4〜5尺まで増水。「寛政大水害」。死者5人(男3、女2)満潮時でなく昼間のため少人数
     家屋の流失166、全壊39、半壊194(各かまど数)。流家は町人16人、借家161かまど。浸水は町人147人、借家1300かまど
     木戸の流失16か所、破損14か所。番所・木戸番所の流失8、全壊1、破損17
     土蔵1、川辺小屋8が流失。石垣は大川筋長725間半、武具庫石垣長13間崩れ。破船1、流失船
     大水害の原因のひとつには眼鏡橋(酒屋町橋)が堅固だったため、付近の被害が著しく大きくなった
     多数の橋が崩落、破損
     石橋崩落8(大井手町・今博多町・古町・桶屋町・本大工町・今魚町・本紺屋町・材木町)、
     石橋破損7(阿弥陀・ト意・中紺屋町・酒屋町・袋町・万屋町・油屋町)、板橋流失8(大橋・長久橋など)、土橋流失2
      阿弥陀橋……………………多いに破損
      大井手橋……………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      編笠橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      一覧橋………………………1801(享和01)09/22再架
      東新橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      魚市橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      袋(町)橋…………………破損のち再架
      本古川町(本紺屋町)橋…1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      すすき原橋、古町橋………破損
      榎津橋………………………1796(寛政08)05/26大洪水で崩流
      萬屋町橋……………………少し損じるが往来の妨げはなし1796(寛政08)05/26〜06/06橋が崩落
      玉帯橋………………………若干の破損ですむ1895(明治28)改修
     のち罹災町民には分に応じ1人前銀10匁、5匁、銭300文、200文、また1かまど当たり銀6匁4分、3匁2分などを施与する
     諸役人に対しては別に拝借銀、つまり貸付を行なう
     町人の石崎太兵衛ら9人は米202俵をだして被災窮民に寄付する
     町人の河内屋勘右衛門ら3人は自費で仮橋を11か所に架ける
     仮橋を架けた3人に対し、奉行所はその善行を賞し一生のあいだ五節句拝礼が許される
  09/11渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/13還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  09/23正午、茂木村本郷より出火。245戸が焼失
  1766(明和03)に廃止となった唐人屋敷内と来舶唐館で使用できる唐館銀札(銀券、長崎唐館役所札)が再び発行となる
  11/唐人の遊女揚代が銀札使用となる
  12/唐船が漂着の仙台人9人を送還する
  諏方社本殿に霊元天皇の宸翰(しんかん)を掲げる(神の一字)
     1693(元禄06)に青木永弘に下賜されたものを青木永勇が勅許を得て額仕立てにして奉掲
  ナポレオンがヨーロッパを席捲。オランダがフランスの支配下に入る
     以降、1817(文化14)までバタビアから長崎に派遣されるオランダ船がなくなる
     長崎滞在中のオランダ人たちの生活は難渋を極める
  大水害のあと、倉田水道や井戸水の汚染がひどくなる
     奉行所は大窪川から臨時の水道をひき給水。完成するまでは水害のない地域の井戸水を人夫に汲ませて配給する
     明治維新以後水樋係が廃止される
  勘定組頭の松山総右衛門と支配勘定格の平田恵十郎の5か年の長崎在留が解かれる
  長崎の東1里、屏風木場の樫山で山崩れ。民家3戸のうち2戸が埋没して大人21人、小児2人が圧死
  唐船10隻、蘭船1隻が入港

1796(寛政08)【光格】 丙辰(ひのえたつ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》平賀式部少輔(09/着)、中川飛騨守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  02/蘭唐小通詞以下の語学力を試験する。以後、毎年2月、6月、10月の3回実施する
  02/唐人の遊女揚代が銀札及び正銭併用となる
  春田上菊舎尼が44才のとき再来崎。1786(天明06)以来
     唐通事平野善次右衛門に就いて華音(中国語会話)を学び、漢詩の実作を始める
     在崎の中国人と漢詩の応酬をして、才能と度胸の持主であることを示す
     田上菊舎尼の来崎は1786(天明06)の夏に次いで2度目
  04/14夜、長崎村小島郷より出火
  05/14イギリスの医学者エドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンを開発
     使用人ジェームズ・フィップスの子である8歳の少年に牛痘を接種する
     少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり深刻な症状はなく
     のち6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種するが天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功する
  05/26今鍛冶屋町乙名の金子徳次右衛門と古町乙名の掘郁右衛門が神器掛乙名に任命
     三座神輿と各種の神器を修理させる
     神器掛乙名は諏方社吟味役と称し奉行の命により総町乙名の中から選任兼務されていた
     安永、天明年間の頃は中絶。このときこれを再興し2人を選ぶ
     相談相手として総町乙名頭取から諏方社取締掛り乙名を任命する
  05/26〜06/065月初旬からの断続的な長雨と26日夜と6月6日の大雨で再び大水害「寛政第2次大水害
     26日は夜10時からで水死者(男)1人
     居宅は流失29かまど、破損304かまど。石垣崩283.5間。築地塀崩35.5間
     橋は前年の洪水で大半が流失し、あとの仮木橋など多数の橋が崩落、破損
     石橋流失4、破損2。板橋流失11、破損4。仮橋流失10、破損3
      大井手橋……………………1804(文化01)09/25公費で再架
      編笠橋………………………1802(享和02)08/08再架
      古町橋………………………1803(享和03)08/09公費で長崎奉行所が架設
      すすき原橋…………………1804(文化01)07/26再架
      東新橋………………………1800(寛政12)09/06銀12貫目の公費負担で石橋を完成
      魚市橋………………………1800(寛政12)11/18石橋が完成
      本古川町(本紺屋町)橋…1803(享和03)07/24銀12貫目の公費で再架
      萬屋町橋……………………1801(享和01)08/28銀12貫目の公費で石橋再架
      榎津橋………………………1799(寛政11)11/15銀12貫目の公費で石橋再架
     救援金は7歳以上1人前銭300文、また今回は家持と借家の区別をやめ1軒につき銀6匁を均等支給する
     去年の水害で破損の石橋7か所は04/28〜09/09で修復完了
     今回の水害で流失した橋は13か所に仮橋をかけ09/24にすべて完成
  05/両奉行が神輿と神器修理基金として各銀3貫目を寄付する
  07/西山町(1丁目)の狭田にある良泉の桜水が飲料として適しており井戸を改修
     土管を通し玉園山をまわり立山奉行所に水を引く。立山屋敷専用の水樋を布設する。狭田水樋
     一般の使用を禁止し井戸の所有者には年間銀700目を水料として支給する
  08/濱町に大橋が起工
     1797(寛政09)04/23完成
  08/イギリス人のブロードンが海図制作のため絵鞆(室蘭)に来航
     のち明年にかけて日本沿岸を測量する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  東古川町47.4坪と今鍛冶屋町が埋立てられる
  蘭人が諏方社へ砂糖1俵(254斤入り)を寄付する
     のち慣例となる
  浦上村の綿打ち職人の賃銭値上げを認める
     職人らは賃銭の値上げを要求して休む
     奉行所は綿の値上げはしないことなどを条件に綿1丸につき100文の賃銀値上げを認める
  たたき役の清右衛門、平蔵、茂三次が吟味される
     囚人を容赦なく扱い、その数にしても強弱にしても囚人の頼みにより叩き方をかえた覚えはない
     申し開きをするが聞き入れられず30日の手鎖処分に
     吟味処罰のたたき処分のたたき役は皮屋町部落の勤め
  幕府が南海群島の巡視を命じる
  唐船5隻、蘭船0隻が入港

1797(寛政09)【光格】 丁巳(ひのとみ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》中川飛騨守(02/12勘定奉行転出)、松平石見守(貴強・前大坂町奉行・03/14発令・09/着)
      平賀式部少輔(09/発・11/22普請奉行転出)、
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  03/23在留唐人が諏方社へ参拝する
     1798(寛政10)04/29ふたたび在留唐人が諏方社へ参拝する
  禄高わずか1万2千石の五島藩藩主の開拓移住の申込みにより、外海から108人が五島福江島の六方に上陸
     各地に移り住み荒地を開拓
     五島藩は捕鯨の他、産業はなく荒地の開墾に目を向け、労働力の供給源を大村藩に求める
     大村藩はキリシタンの禁制が厳しく信仰を密かに伝えていた外海地方の農民は人口の増加と信仰保持の苦難に悩む
     外海の人は土地を求め大小の島々へ散らばる。住む場所は生活条件の悪い山間僻地のやせ地だが、生活ははるかによい
     信仰に安住できる喜び。隠れキリシタンの帳方(惣頭)、水方(司祭代理)などの組織ができ信仰を継承
     のちぞくぞくと移り住み、その数は3千人に及ぶ
  05/町年寄、久松善兵衛が丸山町乙名、芦刈茂次之助へ問い合わせ
     「地下役人が身分を隠して娘を遊女奉公にだした場合、内々は知っていても奉公させるのか」
     答「身分が分かっていたら断然拒絶して決して抱えない。しかし分からない場合は抱えることがあるかも知れない」
  06/06高木作右衛門の申し出により、瀬崎米蔵預かりに取り締まりのための帯刀が許される
  06/23町年寄の薬師寺藤左衛門種栄を諸組砲術師範役にする
  06/29「長崎港草」の著者で長崎史に通じた熊野正紹(62)が没する
  06/1790(寛政02)以来、長崎奉行所の門前に訴状箱があるのに、往来切手も願わず江戸に行き直訴する者が横行
     そのような者はふらちであると再度、訴状箱の趣旨の達しをだす
  閏07/11出来大工町の大川筋、青光寺下(桃渓橋下)の井手から長久橋までをさらえる
  閏07/幕府が外国船漂着の処置を諸大名に指令する
  09/23蘭大通事の吉雄耕牛、楢林重兵衛と小通詞の西吉兵衛は許され蛮学指南所に蘭書和解掛を兼ねて教授に任じられる
     3人は輸出樟脳と輸入銀貨の件について不都合な措置したかどで免職。5年間の蟄居を申し渡されるが許される
     シア使節の渡来やエゾ地侵攻がありイギリス船も日本近海に出没して通詞の大量養成が必要となる
     若い通詞の養成にあたる
     1800(寛政12)08/16蘭通詞で蘭医の吉雄耕牛(77)が没する
     医学では吉雄流といわれるオランダ外科の一派を形成。全国の長崎留学生はほとんど門をたたき数は600余人に
  10/22フランスの元軍人のアンドレ・ジャック・ガルネランがパリのモンソー公園でパラシュートの実験を行なう
     300米【900米?】まで上昇した熱気球から、直径7米の布製の大きな傘のようなものを着け飛び降り無事に降下
  11/01長崎代官支配の彼杵郡と高来郡7か村の庄屋に苗字を許す
     彼杵郡の野母村、高濱村。高来郡の川原村、樺島村、茂木村、日見村、古賀村
  11/ロシア人がエトロフ島に上陸する
  12/05古賀村より出火。元島原領の杉谷文助が出火の折り衣類9品を盗み売払う入牢
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  丸山遊女のもらい品目にチョクラートの記述
  大村領農民108人を五島に移し田地に開墾をさせる
     天主教徒の発展の第1歩を印する
  百姓や町人は苗字を名乗ってはならない。屋号を名乗ることに。丸山町、寄合町の遊女屋も箇所持ちでも屋号を用いること
     それまで借家住まいや他国からの転入者も箇所持ちになれば苗字を名乗るしきたり
  ツケナに属する長崎ハクサイ(唐人菜)が「唐菜」で長崎聞見録に記述
  世界最古の遊技折り紙の本「秘傳千羽鶴折形」が京都の吉野屋為八によって初版が発行される
     連鶴49種を集めた書で、作者は伊勢国桑名の長円寺11世住職・義道一円
     編著者は「東海道名所図会」などで知られる秋里籬島(あきさとりとう)
     絵師は竹原春泉斎。木版一色刷りで、文庫本とほぼ同サイズの和綴じ本
  長崎の井出要右衛門がはじめて太宰府天満宮にコーヒーと砂糖を奉納する
  唐船10隻、蘭船1隻が入港

1798(寛政10)【光格】 戊午(つちのえうま)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》朝比奈河内守(昌始・前佐渡奉行・05/16発令・09/着)、松平石見守(10/発・12/03勘定奉行兼任)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ(←07/08→)レオポルド・ウイルレム・ラス

  01/28夜、長崎村高野平郷より出火
  03/06午前1時頃、オランダ屋敷の縫物師紅毛人の部屋から出火
     北東風にあおられ西側を焼き尽くし、甲比丹住家1棟以下、役員詰所2棟、蘭人住家10棟、土蔵3棟などを焼失
     03/07午前10時頃に鎮火
     火元の紅毛人の部屋にいた寄合町、京屋の遊女三河は逃げ場を失い、2階から表通りへ飛び下り負傷
     遊女、三河の召使、禿(かむろ・遊女に仕える10才前後の少女)ます(14)が行方不明に
     救助の船が八方から集まり水門では波止場役が通船、鯨船、番船、唐船の杉板まで集める
     堺回船中からは伝馬船を差出し都合270艘ほども集まり、町々の火消しは真先に駆け付ける
     長崎奉行松平石見守は役人を引き連れ現場にいき肥前、肥後、筑前、筑後、薩摩、大村の長崎蔵屋敷聞役も出馬
     沖の番所からは黒田美作が飛船で100人余りと鉄砲20挺を持参、深掘氏も飛船で鉄砲を持参
     紅毛人16人は西役所に避難。夜、焼け残った建物に戻る
     禿ますは焼死体で発見。抱主の京屋茂八は検使、滝沢氏の許可を得て引き取り親元へ渡し香華料として銭25貫文を与える
     商館長ヘイスベルト・ヘンミーは江戸参府で不在のため火事処理の事務は留守役の商館員補ポシェットが行なう
     04/16オランダ側の速やかな建物再建の願いがかない出島町人に銀を貸与して再建に着手
     蘭人は一時、西役所に避難
     03/07新橋町の善七が焼跡にて銀地がねを拾い隠し持つ
     町内の宇兵衛と銀屋町の広八をたより89匁9分を銭17貫340文にて売払い1貫文は広八に。宇兵衛は売払いの世話をする
      新橋町・善七03/03入牢05/04市中郷中払
      新橋町・宇兵衛03/03入牢
      銀屋町・広八03/03町預
     1808(文化05)02/27カピタン部屋再建工事に着手
     1809(文化06)01/10カピタン部屋と附属家屋が完成
     1809(文化06)01/13オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが落成披露パーティを開く
     阿蘭陀通詞や長崎奉行の役人など多数を招く
  03/24対馬藩が穢多に帰郷を申しつける
  03/幕府がエゾ地巡見のため目付を派遣する
     12/幕府がエゾ地取締御用掛を置く
  04/23濱町に長さ14間、幅3間、無柱の大橋が完成。起工は前年8月
  04/29去年に引き続き在留唐人が諏方社へ参拝する
  06/08出島商館長のヘイスベルト・ヘンミーが江戸参府の帰り東海道の遠州掛川宿で急死【04/24?】
     翌日掛川の浄土宗天然寺に葬られる【天竜寺?】
     乱脈な経理や密貿易の発覚を恐れての服毒自殺とオランダ人は噂。急な死は謎に包まれたが、直接の死因は胃病
  06/10夜、高浜村より出火
  06/23夕方、寄合町の役場に皓泰寺の僧、祖能から届出
     境内の耕雲庵で無宿の僧と寄合町筑後屋の遊女花園が相対死(心中)を遂げているとのこと
     町役人が皓泰寺と相談の上、市中取締乙名金子徳右衛門へ知らせ内証にして欲しいと頼むが、金子は目安方に伺う
     月役の野口善作が奉行所へいくと届出をだすようにとのこと
     調べてみると…
     06/23午後4時頃、丸山の揚屋、釜屋はる方から寄合町の遊女屋、筑後屋平右衛門へ遊女花園を呼びにくる
     遣手つねが花園を連れて釜屋へいくと、見知った出家がおり挨拶をして帰る
     06/23暁方、釜屋から2人の姿が見えぬと筑後屋へ知らせが入り驚いて方々を探す。暮頃、相対死の知らせが入る
     皓泰寺の耕雲庵の脇手の小屋で2名が脇差、小柄の小刀で喉を突いて死亡していた
     06/24奉行所から検使がきて現場検証をする
     筑後屋平右衛門、遣手つね、耕雲庵主、東岫、下人清蔵、丸山町釜屋はる等を訊問し口書を差出させる
     僧は長崎生まれで随苗といい、皓泰寺では迷惑であるので無宿の僧と申し立て奉行所もそのままにしていた
     随苗の死体を引き取りたいと申し出たが却下される
     06/24夜、男女の死体、脇差、遊女の衣類、簪等が牢屋敷の牢守へ引き渡される
     筑後屋では麹屋町に住む花園の母親へ香典として銭10貫文を贈る
  06/本居宣長が35年の歳月を費やし「古事記伝」を完成させる
  06/志筑忠雄が「暦象新書」(上篇)を刊行
     「暦象新書」はニュートンの門弟ジョン・ケイルの天文書の蘭訳本について記述
     単なる翻訳ではなく志筑の天文学的知識の高さを示すもの
     1800(寛政12)10/中篇を刊行
     1802(享和02)10/下篇を刊行し完成する
  09/25奉行松平石見守が天草の牛深湊に赴く
     異国船漂着取り締まりのための見張番所を設置することになり、その下検分
     10/03帰着
  10/17暴風のため高鉾唐人ケ瀬で帰帆のオランダ船が座礁、船体が破損する
     10/18朝、引き船で木鉢浦まで行くが、輸出銅と樟脳を多量に積んでおり沈没
     オランダ船は雇船アメリカ船のエライザ号
     のち海辺に仮屋を建て蘭人を収容し少しずつ銅を引き揚げる
     のち沈船の浮揚を試みようと出願する者があるが、みな失敗
     1799(寛永11)01/周防国の村井喜右衛門が引き揚げに成功
     05/25船体を修復の上、いったんは出港するが、再度乗り戻して修理をする
     09/20出帆する
  西丸小姓の遠山金四郎景晋が書院番頭の松平忠明に随い蝦夷へ渡る
     遠山金四郎景晋は江戸の幕臣、遠山金四郎景元の父
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  近藤守重がエトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる
  唐船9隻、蘭船1隻が入港

1799(寛政11)【光格】 己未(つちのとひつじ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》松平石見守(09/着・11/25死去・晧台寺に埋葬)、朝比奈河内守(09/発)、
      肥田豊後守(頼常・前勘定吟味役・12/24発令)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》レオポルド・ウイルレム・ラス

  01/前年10月に暴風のため高鉾唐人ケ瀬で座礁、沈没したオランダ船を周防国の村井喜右衛門が引き揚げる
     オランダ船は雇船アメリカ船のエライザ号
     05/25船体を修復の上、いったんは出港するが、再度乗り戻して修理をする
     09/20出帆する
  01/幕府が松前藩のうち東エゾ地を直轄領とする
  04/27天草郡牛深に天草御番所(遠見番所、見張番所)が開設
     野母番所よりも早く異国船を発見することが目的
     任務はまた異国船の漂着、抜荷の情報の収集、煎海鼠・干鮑など輸出用俵物の出荷督促
     1868(明治01)04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  07/15エジプトの港湾都市ロゼッタでロゼッタ・ストーンが発見される
     ナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征の際、フランス軍のピエール=フランソワ・ブシャール大尉による
     縦114.4糎、横72.3糎、厚さ27.9糎、重量760瓩。暗色の花崗閃緑岩からでき、文字が刻まれる
     エジプト語とギリシャ語(コイネー)の2種類の言語で書かれており、3種類の文字で記される
     エジプト語のヒエログリフ(神聖文字)と、モティク(民衆文字)、古代ギリシャ文字
     1822(文政05)09/17フランスの学者 ジャン・フランソワ・シャンポリオンが解読
     刻まれたエジプト語のヒエログリフ(神聖文字)、デモティク(民衆文字)、古代ギリシア語の3種類の文字がヒント
     碑文の内容は紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を3種類の文字で書き写したもの
     ヘレニズム期のエジプト・プトレマイオス王朝のプトレマイオス5世エピファネス施政下にて
  07/18ヘンドリック・ドゥーフがオランダ蘭商館書記として来日
     甲比丹ヘンミー急死のあとで館務紊乱をきわめ、ドゥーフはなすことを知らず
     秋/逼迫していた商館の財政を立て直すために、バタビアへ帰国。総督に報告する
     1800(寛政12)07/16新甲比丹のワルデナールとともに長崎に再来する
     ドゥーフは甲比丹を助けて熱心に整理にあたる
     1801(享和01)06/荷倉役に昇進する
     1803(享和03)05/ドゥーフが出島商館長に就任
     1808(文化05)08/のフェートン号事件、1813(文化10)06/の出島占領計画を粘り強い交渉により危機を脱する
     オランダがナポレオン支配下に苦しんだ時代、オランダ商館が守られ、オランダ政府はもとより江戸幕府も賞賛
     1817(文化14)11/上ヘンドリック・ドゥーフがブロムホフの妻子らとともに日本を去る
     幕府は在留18年の功労に際し銀50枚を贈る
  08/17昼、長崎村西山郷より出火。26戸が焼失
     元大村領長与村の無宿要助は出火の折り味噌1樽を盗み、新大工町の伊兵太方へ持ち運び売払いを相談
      要助08/21入牢09/0450敲、市中郷中払
      新大工町・伊兵太押込10日
  08/18朝、長崎村西山郷より出火。焼失3戸。諏方社桟敷用道具庫が焼失
  08/西山郷や伊良林郷の近郊での火災のときは町年寄が町火消しを率いて詰めることに
     徳川歴代の霊廟や礼拝堂がある西山郷の安禅寺や伊良林郷の大音寺を防衛するため
  10/幕府が南部藩、津軽藩に各500人をださせ函館の守備を命じる
     1804(文化01)08/エゾ地の警衛を命じる
  11/09ブリュメールの軍事クーデターによりナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒す
     ナポレオンが執政政府を樹立し独裁権を掌握。自ら第一執政となる。フランス革命はここに終わる
     実際の革命は1794年のテルミドールのクーデターによって終わり、惰性で続いていたブルジョワ革命がナポレオンにより終わる
     1804(文化01)12/02ナポレオンがパリのノートル=ダム大聖堂で戴冠式を行ないフランス人民の皇帝に就く
     英雄が独裁的統治者となる出来事は多方面にさまざまな衝撃を与える
  11/15銀12貫目の公費で榎津町と材木町に架かる榎津橋が石橋で再架される
     1901(明治34)06/石橋を鉄製のフラットトラス構造に改め賑橋に改名
     材木町(木)と榎津町(木)が合う。「二木合う」橋=賑橋
     橋長9間半(17.1米)、幅3間3合(5.94米)
  12/19暁、小川町のはる宅裏小屋より出火。類焼はなし
      小川町・はる
  12/24夜、炉粕町の武八宅裏湯殿より出火。類焼はなし
      炉粕町・武八
  12/31オランダ東インド会社が解散
     1795(寛政07)にフランス革命軍によりオランダ本国を占領された混乱のなかでのこと
     海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収される
     設立は1602(慶長07)
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     船津町の川船が奉納される
  諏訪神社の「くんち」に樺島町が初めて「コッコデショ(堺壇尻)」を奉納
     長崎貿易品のうち上方に運ばれる品々は糸荷廻船によって運送。糸荷船を仕出すのは堺船が特に多数
     往時、樺島町には堺船頭連・水夫の定宿があり、樺島町に「コッコデショ」を伝える
  唐船が薩摩灘で風にあい荷物が水浸しに。番外船として貿易する
  「清俗紀聞」(全6冊、13巻)が刊行される
     「崎陽在任中、政務のひまに配下の近藤守重と林貞裕に命じて清国の商人に清国の俗習を質問させ、
     これをことごとく筆記させ、図を画かせたのが本書である。起稿のころ、自分は病にかかり、
     病が快方に向かったころには、任期もあとわずか、脱稿をせぬまま江戸に持ち帰った……」
     元長崎奉行の中川忠英はあとがきに記す。さし絵を描いたのは石崎融思ら3人
  高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を開く
  唐船5隻(内番外船2)、蘭船1隻が入港

1800(寛政12)【光格】 庚申(かのえさる)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》松山惣右衛門(01/28発令・長崎奉行事務摂理・09/05帰府・1815(文化12)伊豫守直義として長崎奉行に)、
      朝比奈河内守(01/28新番頭転出)、肥田豊後守(09/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》レオポルド・ウイルレム・ラス(←07/17)(07/16→)ウイルレム・ワルデナール

  04/09諏方社が奉行の要請により04/11まで市中安全の祈祷を行なう
  05/05ペーロン競漕にて本五島町人と深堀人のあいだで争いがおき死傷者がでる
     ペーロン競漕は町内や部落対抗で行なわれ喧嘩が絶えず
     奉行では毎年のように禁止のお触れをだすが、2、3年もすると再びペーロンを催す
     本五島町の責任者の宇兵衛と代五郎は市中郷中払い
     深堀船に飛び込んで乱闘のきっかけとなる本五島町の松次郎は遠島
     他の雇われ者は居町払い、居村払い、30日手鎖、敲の処分を受ける
     深堀船の55人は喧嘩を受けた身で被害者をだしただけ。全員、急度叱り処分ですむ
     1801(享和01)04/24ペーロン禁止令がでる
  05/1隻の外国船「エンペラー・オブ・ジャパン」がオランダの旗を掲げ貿易を試みようと入港
     船長のアメリカ人スチュワートは1昨年、オランダ東インド政庁に雇われ出島に来航した船の船長で行方不明だった
     積んできた品は没収、商館長が脇荷(個人貿易)として売却。船長のスチュワートは取り調べのためバタビアへ
  06/11《閏04/19》伊能忠敬(56)が第1次測量を開始。奥州街道と蝦夷地東南岸へ
     江戸〜宇都宮〜福島〜仙台〜盛岡〜青森〜三厩〜吉岡〜松前〜函館〜室蘭〜苫小牧〜襟裳岬〜釧路〜別海を往復
     12/07《10/21》江戸に戻る
     出張日数180日。隊員5人。測量距離3224粁。旅行距離(測量隊)3224粁、(伊能)3224粁
     1801(享和01)05/14《04/02》57才で第2次測量を開始。箱根、伊豆へ
     江戸湾〜三浦半島1周〜湘南海岸〜小田原〜熱海〜伊豆半島東岸〜下田〜伊豆半島西岸〜沼津〜東海道〜江戸
     07/16《06/06》江戸に戻る
     出張日数64日。隊員5人。測量距離572粁。旅行距離(測量隊)572粁、(伊能)572粁
     1801(享和01)07/29《06/19》57才で第2次測量を開始。本州東海岸へ
     江戸湾〜房総半島1周〜鹿島灘〜磐城〜松島〜三陸沿岸〜下北半島1周〜野辺地〜青森〜三厩〜奥州路を再測量
     1802-01/10《享和01-12/07》江戸に戻る
     出張日数166日。隊員5人。測量距離2550粁。旅行距離(測量隊)2550粁、(伊能)2379粁
     1802(享和02)07/10《06/11》58才で第3次測量を開始。出羽、越後へ
     江戸〜奥州路〜白河〜会津若松〜山形〜新庄〜久保田(秋田)〜能代〜弘前〜青森〜津軽半島1周〜日本海沿岸
     〜能代〜男鹿半島1周〜酒田〜新潟〜柏崎〜今津(直江津)〜高田〜善光寺〜上田〜追分〜軽井沢〜熊谷〜江戸
     11/18《10/23》江戸に戻る
     出張日数132日。隊員6人。測量距離1701粁。旅行距離(測量隊)1701粁、(伊能)1701粁
     1803(享和03)04/16《02/25》59才で第4次測量を開始。尾張、越前以東へ
     江戸〜東海道〜沼津〜駿河湾〜三保松原〜御前崎〜遠州灘〜渥美半島〜知多半島〜熱田〜名古屋城下〜大垣
     〜関が原〜木之本〜敦賀〜北陸沿岸〜能登半島今浜(別動〜東西沿岸)〜内浦(合流)〜高岡〜富山〜糸魚川
     〜尼瀬(出雲崎)〜小木(佐渡)〜寺泊〜長岡〜六日町〜三国峠〜高崎〜熊谷〜浦和〜江戸
     11/20《10/07》江戸に戻る
     出張日数219日。隊員7人。測量距離2176粁。旅行距離(測量隊)2176粁、(伊能)1752粁
     1805(文化02)03/25《02/25》61才で第5次測量を開始。畿内、中国へ
     江戸〜東海道〜浜名湖周辺〜桑名〜伊勢〜鳥羽〜紀伊半島1周〜大坂〜京都〜琵琶湖1周〜宇治〜尼崎
     〜山陽道〜岡山〜瀬戸内海沿岸〜周辺諸島〜赤間関〜萩〜浜田〜宍道湖〜松江〜隠岐〜美保関〜鳥取
     〜丹後半島〜若狭湾〜琵琶湖〜大津〜東海道〜江戸
     1806(文化03)12/24《11/15》江戸に戻る
     出張日数640日。隊員19人。測量距離5383粁。旅行距離(測量隊)6992粁、(伊能)5385粁
     1808(文化05)02/21《01/25》64才で第6次測量を開始。四国、大和路へ
     江戸〜東海道〜浜松〜気賀街道(姫街道)〜名古屋〜京都〜大坂〜舞子浜〜淡路島〜福良〜鳴門〜阿波〜室戸
     〜高知(別動〜四国縦断路土佐と伊予の国境笹ケ峰まで)〜下田〜宿毛〜宇和島〜八幡浜〜佐多岬〜松山
     〜伊予北岸〜周辺諸島〜今治〜川之江(別動〜四国縦断路)〜丸亀〜塩飽諸島〜小豆島〜淡路島〜大坂〜法隆寺
     〜大和郡山〜奈良〜大和路〜桜井〜伊賀上野〜伊勢〜東海道〜江戸
     1809(文化06)03/03《01/18》江戸に戻る
     出張日数377日。隊員15人。測量距離粁3442。旅行距離(測量隊)4568粁、(伊能)4457粁
     1809(文化06)10/06《08/27》65才で第7次測量を開始。九州東南と往還路
     江戸王子〜岩槻〜熊谷〜中山道〜近江〜御代参街道〜土山〜京都〜西宮〜山陽道〜赤間関〜小倉〜中津〜杵築
     〜鳩浦(津久見)〜日向〜延岡〜飫肥(日南)(別動〜都城)〜日南海岸〜都井岬〜内之浦〜大隅半島横断
     〜鹿屋〜半島西岸を南下〜佐多岬〜内之浦〜大隅半島横断〜鹿児島〜桜島〜山川〜枕崎〜串木野〜甑島
     〜串木野(別動〜鹿児島〜肥薩街道〜肥後)〜天草諸島〜肥後海岸〜肥薩街道〜肥筑街道〜大分〜山口〜浜田
     〜三次〜甲州街道〜身延山〜甲府〜江戸新宿
     1811(文化08)06/28《05/09》江戸に戻る
     出張日数631日。隊員17人。測量距離粁7005。旅行距離(測量隊)7409粁、(伊能)6256粁
     1812-01/09《文化08-11/25》67才で第8次測量を開始。九州残部と往還路
     江戸〜藤沢〜大山街道〜御殿場〜富士山麓〜東海道〜山陽道〜小倉〜北九州内陸部を南下〜大口(別動〜串木野)
     〜屋久島〜種子島〜鹿児島〜九州内陸部を縦断横断〜小倉〜博多〜唐津〜伊万里〜佐賀〜久留米〜有明海〜鹿島
     〜諫早〜島原半島1周〜大村(別動〜東岸・西岸)〜佐世保〜平戸〜平戸島〜松浦〜
      1813(文化10)04/13《03/13》15日かけて壱岐を測量
      のち56日かけて対馬を測量
      06/21《05/23》五島の宇久島へ上陸。忠敬は南側を、副隊長の坂部貞兵衛は北側を測量し南下
      08/10《07/15》途中、副隊長の坂部貞兵衛が福江町で病死。宗念寺に葬られる
      五島の測量は08/25《07/30》までの70日間
      のち西彼杵半島の西側を測量
      09/13《08/19》長崎へ到着。長崎町の止宿は炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)
      09/14《08/20》長崎半島を1周
     〜小倉〜赤間関〜広島〜松江〜米子〜鳥取〜津山〜岡山〜西脇〜福知山〜宮津〜京都〜津〜大垣〜岐阜〜下呂
     〜高山〜古川〜野麦峠〜木曽谷〜薮原〜松本〜善光寺〜飯山〜須坂〜松代〜追分〜富岡〜大宮〜川越〜板橋
     1814(文化11)07/09《05/03》江戸に戻る
     出張日数914日。隊員18人。測量距離1万1530粁。旅行距離(測量隊)1万3083粁、(伊能)9378粁
     1815(文化12)06/04《04/27》第9次測量を開始。高齢の伊能は参加せず。伊豆七島
     江戸〜東海道〜三島〜下田街道〜下田〜三宅島〜八丈島〜三浦半島三崎〜三宅島〜御蔵島〜神津島
     〜新島〜利島〜新島〜伊豆半島須崎〜大島〜下田〜伊豆半島東岸〜熱海〜富士裾野〜箱根周辺
     〜平塚〜厚木〜八王子〜熊谷〜浦和〜江戸
     1816(文化13)05/08《04/12》江戸に戻る
     1816(文化13)03/01《02/03》〜03/17《02/19》第10次測量を開始。江戸府内第1次測量。17日間
     主要街道の始発点に接続する道路。街道の始発点相互間を接続させる
     たとえば東海道高輪の大木戸より日本橋まで、甲州街道四谷の大木戸より日本橋までなど
     1816(文化13)08/30《08/08》〜12/11《10/23》第10次測量を開始。江戸府内第2次測量。74日間
     測量場所など具体的な記録はない
     【第1次測量からのこの項のみ、以降の記述はそれぞれ単独】
  07/16前年に一度、帰国したヘンドリック・ドゥーフが新甲比丹のワルデナールとともに長崎に再来する
     ドゥーフは甲比丹を助けて熱心に整理にあたる
     1801(享和01)06/荷倉役に昇進する
  08/16蘭通詞で蘭医の吉雄耕牛(77)が没する
     医学では吉雄流といわれるオランダ外科の一派を形成。全国の長崎留学生はほとんど門をたたき数は600余人に
  08/26夜、長崎村片淵郷より出火
  09/06新橋町〜本大工町の石橋東新橋を銀12貫目の公費負担で完成
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  09/08昼、浦上山里村稲佐郷より出火
  09/諏方社、奉行肥田豊後守の寄付銀3貫目をもって総門前の長坂両側の練塀を石垣に改める
  09/京都人笹尾七郎兵衛が諏方社御神事図と大薩摩風流鯨などの踊り図を京都で出版
     のち長崎絵の出版物が次第に盛んになる
  09/遊女木々枝、姫菊、唐琴の3名が引田屋の庭園の稲荷祠に太鼓を寄進
  10/長崎奉行肥田豊後守が市内生活困窮者の老人や廃疾病者300余人に各銀20目から30目を与える
  10/西築町の籾蔵を新地に移す
  10/志筑忠雄が「暦象新書」(中篇)を刊行
     「暦象新書」はニュートンの門弟ジョン・ケイルの天文書の蘭訳本について記述
     単なる翻訳ではなく志筑の天文学的知識の高さを示すもの。上篇は1798(寛政10)6月に刊行
     1802(享和02)10/下篇を刊行し完成する
  11/18今魚町〜諏方町の魚市橋が石橋で完成
     1810(文化07)03/06崩流
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  本五島町舟と深堀舟のペーロンが競漕しての喧嘩により死傷者を出す
     1801(寛政13、享和01)禁止令が出される
  わが国整骨科の開祖、本下町で整骨業を営んだ吉原元棟(年齢不詳)が没する
  甲比丹ワルデナールが初めて番紅花(サフラン)を米船の雇い船マサチュセッツ号で持ち渡る
  唐船9隻、蘭船1隻が入港

寛政年間(1789〜1801)

  古賀村の人が花樹苗木を接ぎ木して長崎に持ち運び売る
  中国から唐人(カラヒト・別名髭鶏)と呼ばれる鶏が輸入
  上五島野崎島の野首に大村から2家族が移住
     禁教令廃止後木造の教会を建てる
     1908(明治41)野首地区で18戸の信徒が結束し本格的な煉瓦造り平屋(140平方米)の野首教会が完成
     鉄川与助による初めての煉瓦造りで鐘塔は持たない。正面前面を玄関とする
     正面柱頭の頂部などには城壁の物見櫓のような装飾物、正面両脇の頂部には百合の紋章に似た装飾物を持つ
     1971(昭和46)野首地区の住人が全員移住し野崎島が無人島に
     のち野首教会が荒廃する。小値賀町が廃校を利用して研修施設をつくり教会を整備
  上五島中道島の江袋地区に彼杵半島の神ノ浦から夫婦が移住
  福岡藩が薬園を設置

1801(寛政13、享和01・02/05)【光格】 辛酉(かのととり)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》成瀬因幡守(正定・前大坂町奉行・04/03発令・09/着)、肥田豊後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール

  春/熱病が流行し施薬医に治療させる。診療を受けた者は1678人にのぼる
     治療費は銀11貫300目余で、半額は奉行の肥田豊後守が負担する
  04/22奉行肥田豊後守が疫病流行で沈滞した空気を一掃するために、諏方社流鏑馬場で流鏑馬奉納を催す
     この日飛び入りの者も多く在館唐人まで見物し大にぎわい。疫病は次第に衰える
  04/24ペーロン禁止令がでる
     前年の5月にペーロン競漕にて本五島町人と深堀人のあいだで争いがおき死傷者がでたため
     ペーロン競漕は町内や部落対抗で行なわれ喧嘩が絶えず
     奉行では毎年のように禁止のお触れをだすが、2、3年もすると再びペーロンを催す
  05/14《04/02》伊能忠敬が57才で第2次測量を開始。箱根、伊豆へ
     江戸湾〜三浦半島1周〜湘南海岸〜小田原〜熱海〜伊豆半島東岸〜下田〜伊豆半島西岸〜沼津〜東海道〜江戸
     07/16《06/06》江戸に戻る
     出張日数64日。隊員5人。測量距離572粁。旅行距離(測量隊)572粁、(伊能)572粁
  06/ヘンドリック・ドゥーフが出島商館の荷倉役に昇進する
     1803(享和03)05/ドゥーフが出島商館長に就任
     1808(文化05)08/のフェートン号事件、1813(文化10)06/の出島占領計画を粘り強い交渉により危機を脱する
     オランダがナポレオン支配下に苦しんだ時代、オランダ商館が守られ、オランダ政府はもとより江戸幕府も賞賛
  06/富山元十郎らがウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
  07/29《06/19》伊能忠敬が57才で第2次測量を開始。本州東海岸へ
     江戸湾〜房総半島1周〜鹿島灘〜磐城〜松島〜三陸沿岸〜下北半島1周〜野辺地〜青森〜三厩〜奥州路を再測量
     1802-01/10《享和01-12/07》江戸に戻る
     出張日数166日。隊員5人。測量距離2550粁。旅行距離(測量隊)2550粁、(伊能)2379粁
  08/28萬屋町(旧本鍛冶屋町)〜築町の石橋萬屋町橋が銀12貫目の公費で石橋再架
     1915(大正04)橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替えられる
  08/オランダ通詞の志筑忠雄が「ケンペル日本見聞記(日本史)」の付録第6章を抄訳
     「鎖国論」と題する。幕府の外国政策を初めて「鎖国」と訳す。「鎖国」は志筑の造語
  09/22桶屋町〜本紙屋町の石橋一覧橋が代銀12貫目の公費で再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
     1915(大正04)コンクリート橋に架け替え
  秋五島黒瀬浦に異国船が漂着、長崎港に送られる
     乗組員のうち女は4人。あんぼん女1人、ちもうる女3人で出島へ上陸
     1802(享和02)紅毛船マチルダ・マリア号で帰帆
     中国人は戌8番船、9番船に便乗して帰帆
     船長、船員はジャカルタで取調べられ殺人犯であることが判明、マカオに送られる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  凶作に備えて凶慌準備の法を設ける
  石見からの上納米は遠距離で運賃その他がかさみ肥前松浦郡と肥後国日田・玖珠の両郡から入れることに
     4千石のうち肥前松浦郡から1500石、肥後国日田・玖珠の両郡から2500石
     うち400石が一般に売出される
  安問船が五島に漂着。五島藩により長崎まで曳航される
     生存者9人、なかに1人のアンボン女性(21歳)と3人のチモール女性(9〜12歳)が含まれる
     鎖国時代の異国の女性の渡来は珍しくアンボン女性の肖像が画家の石崎融思により描かれる
     彼らは出島蘭館と唐人屋敷に収容される
     1802(享和02)〜1803(享和03)送還される
  朝鮮でキリスト教の大追害がおこる
  唐船19隻(内番外船4)、蘭船1隻が入港

1802(享和02)【光格】 壬戌(みずのえいぬ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》肥田豊後守(09/着)、成瀬因幡守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール

  02/幕府が蝦夷奉行を置く
     05/箱館奉行と改める
     1807(文化04)10/幕府が箱館奉行を廃し松前奉行を置く
  07/08昼、長崎村小島郷より出火
  07/10《06/11》伊能忠敬が58才で第3次測量を開始。出羽、越後へ
     江戸〜奥州路〜白河〜会津若松〜山形〜新庄〜久保田(秋田)〜能代〜弘前〜青森〜津軽半島1周〜日本海沿岸
     〜能代〜男鹿半島1周〜酒田〜新潟〜柏崎〜今津(直江津)〜高田〜善光寺〜上田〜追分〜軽井沢〜熊谷〜江戸
     11/18《10/23》江戸に戻る
     出張日数132日。隊員6人。測量距離1701粁。旅行距離(測量隊)1701粁、(伊能)1701粁
  07/19大坂町人の間五郎右衛門らが幕命により小瀬戸遠見番所などを測量するために来崎
     09/08長崎をあとに帰府へ
  08/08今博多町〜本紙屋町の編笠橋を公費で長崎奉行所が再架
     1810(文化07)03/06大水で欄干が破損
  09/11渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/13還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  09/町年寄に帯刀を許す
  10/十返舎一九が「東海道中膝栗毛」の初版を刊行
  10/志筑忠雄が「暦象新書」(下篇)を刊行し完成する
     「暦象新書」はニュートンの門弟ジョン・ケイルの天文書の蘭訳本について記述
     単なる翻訳ではなく志筑の天文学的知識の高さを示すもの
     上篇は1798(寛政10)6月に、中篇は1800(寛政12)10月に刊行
  孝子義僕ら12人に銀1枚〜2枚を賞与する
  雷電為右衛門一行が大相撲の興行
  唐船11隻、蘭船2隻が入港

1803(享和03)【光格】 癸亥(みずのとい)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》成瀬因幡守(09/着)、肥田豊後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール(←11/14→)ヘンドリック・ドゥーフ

  02/29砲術家の坂本天山(59)が没する。墓所は晧台寺後山
     萩野流砲術を修め、砲身が前後左右に動く周発大砲を発明。萩野新流を創始
  04/16《02/25》伊能忠敬が59才で第4次測量を開始。尾張、越前以東へ
     江戸〜東海道〜沼津〜駿河湾〜三保松原〜御前崎〜遠州灘〜渥美半島〜知多半島〜熱田〜名古屋城下〜大垣
     〜関が原〜木之本〜敦賀〜北陸沿岸〜能登半島今浜(別動〜東西沿岸)〜内浦(合流)〜高岡〜富山〜糸魚川
     〜尼瀬(出雲崎)〜小木(佐渡)〜寺泊〜長岡〜六日町〜三国峠〜高崎〜熊谷〜浦和〜江戸
     11/20《10/07》江戸に戻る
     出張日数219日。隊員7人。測量距離2176粁。旅行距離(測量隊)2176粁、(伊能)1752粁
  04/長崎奉行所訓令
     大阪からの女芸者が多く遊女屋の営業に支障をきたし
     到着届は丸山遊女屋で引請保証をしなければ引き出すことはできないとする
     年間に幇間とあわせ30人くらいが滞在
  05/ヘンドリック・ドゥーフが出島商館長に就任する
     1808(文化05)08/のフェートン号事件、1813(文化10)06/の出島占領計画を粘り強い交渉により危機を脱する
     オランダがナポレオン支配下に苦しんだ時代、オランダ商館が守られ、オランダ政府はもとより江戸幕府も賞賛
     1817(文化14)11/上ヘンドリック・ドゥーフがブロムホフの妻子らとともに日本を去る
     幕府は在留18年の功労に際し銀50枚を贈る
  07/08アメリカ船が「長崎丸」の船名板をつけ長崎に来航、通商を求めるが、幕府は拒絶し退去させる
     大村藩156人が警戒にあたる
  07/24石橋の本古川町(本紺屋町)橋が銀12貫目の公費で再架
     1912(明治45)02/03鉄筋コンクリート橋に改築、常盤橋に改名
     石造り半円橋の古川橋が交通上不便のため本紺屋町、本古川町、西古川町の3町民が工費1556円を市に寄付
  08/09古町〜本紙屋町に石橋の古町橋を公費で長崎奉行所が架設【09/20?】
     1982(昭和57)07/大水害で流失ののち再架
  12/唐医の胡兆新が来朝。毎月2日と7日に聖福寺、崇福寺で病人を治療する
     1805(文化02)帰国する
     1822(文政05)再渡来する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  唐船10隻(内番外船2)、蘭船1隻が入港

1802(享和02)〜1803(享和03)

  五島に漂着し長崎に曳航された安問船の生存者9人が送還される
     なかに1人のアンボン女性(21歳)と3人のチモール女性(9〜12歳)が含まれる
     鎖国時代の異国の女性の渡来は珍しくアンボン女性の肖像が画家の石崎融思により描かれる

1804(享和04、文化01・02/11)【光格】 甲子(きのえね)

 次のページへ


鎌倉以前 室  町 安土桃山
(1)
安土桃山
(2)
江戸(1) 江戸(2) 江戸(3) 江戸(4) 江戸(5)
江戸(6) 江戸(7) 江戸(8) 江戸(9) 江戸(10) 江戸(11) 江戸(12) 江戸(13) 江戸(14)
江戸(15) 江戸(16) 江戸(17) 江戸(18) 明治(1) 明治(2) 明治(3) 明治(4) 明治(5)
明治(6) 明治(7) 明治(8) 明治(9) 明治(10) 大正(1) 大正(2) 大正(3) 昭和(1)
昭和(2) 昭和(3) 昭和(4) 昭和(5) 昭和(6) ・昭和(7) 昭和(8) 昭和(9) 昭和(10)
昭和(11) 昭和(12) 昭和(13) 昭和(14) 昭和(15) 昭和(16) 昭和(17) 昭和(18) 昭和(19)
・昭和(20) 昭和(21) 昭和(22) 平成(1) 平成(2) 平成(3) 平成(4) 平成(5) (表 紙)

「長崎年表」は編集著作権で保護されます
(c) 2003-2013 makuramoto all right reserved.