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〈江戸時代(15)〉

1844(天保15、弘化01・12/02)【仁孝】 甲辰(きのえたつ)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》伊沢美作守(在勤・12/19小姓組番頭格発令)
  《代官》高木作右衛門忠篤
  《商館長》ピーテル・アルベルト・ビク

  01/天草郡各村に暴動がおこる。長崎奉行所、代官見習の高木健三郎忠顕に与力、同心を付けて派遣する
  02/重ねてハタあげを禁止する
  03/フランス船が琉球にきて通商を求める
  06/29夜、稲佐岳の稲佐社より出火し焼失
  07/02オランダ国王ウイルヘルム2世の国書を携えた使節コープスが軍艦パレンバン号で来航
     奉行の伊沢美作守は筑前、佐嘉、平戸、唐津、大村の各藩士が兵士を率いて来崎
     総勢4300人が港内外の警備についたのを見届ける
     07/07はじめて入港を許す
     08/21奉行伊沢美作守が立山役所で使節コープスと会見。オランダ国王の国書を受け取る
     08/22国書は封をしたまま江戸へ送る
     オランダ国王は日本が阿片戦争の二の舞をしないよう開国を勧める
     10/10使節と甲比丹を立山役所に呼び幕府の書簡を与え、国書の勧告については検討した上で返書することを伝える
     10/12使節を立山役所に呼び幕府より使節への贈り物を与え出帆を命じる
     10/18蘭国軍艦パレンバンが出港する
     1845(弘化02)01/幕府が蘭艦来航の際、交渉にあたった奉行以下地役人に時服、金銀を与える
     甲比丹にも賞として銀30枚、ヘトル官(副商館長)へ銀10枚を与える
  08/12蘭大通詞でドーフ・ハルマ辞書編纂主任の中山武徳(60)が没する。墓所は大音寺後山
  09/10夜、炉粕町のオランダ通詞附筆者友之助下女は手燭の蝋燭を倒し出火。屋根裏2尺4方が燃え抜く
      炉粕町・そめ、友之助
  11/初めて経書の弁書を聖堂で試みる
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  一口香総本家榎純正堂の前身、雑貨商「榎屋」が茂木に創業
     1949(昭和24)浜町電車通りに支店を出す
     1957(昭和32)本店を浜町商店街内に移転
  西ドイツのクリストファ・ベレンスマイヤー神父により聖フランシスコ病院修道会が設立
  島原藩4代藩主忠誠のとき藩医の市川泰朴が城内の「済衆館」で屍体の解剖を行なう
     シーボルト門人の賀来佐一郎と協同
  シーボルトが帰国するときに500種800株の植物を積み込む
     うち、ヨーロッパに移植が成功したもので生き残っていたのは204品種
     シーボルトが帰国したときに導入した植物500種800株のうちはそのうちの129種
     シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、
     サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど
  箱館、クナシリなど12か所に守備兵を置き砲台を築く
  唐船7隻、蘭船1隻が入港

1845(弘化02)【仁孝】 乙巳(きのとみ)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》伊沢美作守(12/03西丸留守居転出)、井戸対馬守(覚弘・前在勤目付・12/03発令)
  《代官》高木作右衛門忠篤
  《商館長》ピーテル・アルベルト・ビク(←10/31)(11/01→)ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/15寄合町の肥前屋、遊女花の井が唐船総代、林友春との間にくまを生む
     花の井の弟永次郎はくまを貰い養子に
     09/林友春が死去
     1846(弘化03)くまが死去
  01/幕府が前年の蘭艦来航の際、交渉にあたった奉行以下地役人に時服、金銀を与える
     甲比丹にも賞として銀30枚、ヘトル官(副商館長)へ銀10枚を与える
  01/浦賀に新砲台が築造される
  01/幕府が漂流民浦賀護送のアメリカ船に鎖国の国法を告げ薪水を与え帰らせる
  02/03昼、岩原郷より出火
  02/07朝、酒屋町の喜平方同居藤兵衛は炬燵に火を入れ衣類を掛け置いたところ朝方に出火
  02/市郷の80歳以上の者203人に各銀1枚を与える
  春/唐船が「毛詩補伝」「唐詩正箋註」を輸出する
  04/《03/》大村純顕の招きで漢詩人・儒学者の広瀬淡窓が再訪。純顕に6つの改めるべき弊風を説く
     一、諸大名群臣の行儀が尊大 二、行列を誇張し過ぎる 三、秘密主義は不可
     四、門地の高下重視では才能生きず 五、前例重視で進歩なし 六、文盲不学
     05/11《04/06》長崎に再遊。門下生で与力の吉沢雄之進むの部下として、念願の蘭館に入館
     椅子に座り、カピタンから酒、菓子でもてなされる
     唐館では関帝廟などを見てまわり茶菓でもてなされる
     のち日田へ戻るとき大村純顕から金千疋と鯨肉1かご、扶持金10両2分が届けられる
  05/イギリス船が琉球に来航。貿易を強要する
  06/03大風で長崎村、山里村、淵村の3か村の家屋倒壊356戸、水死4人、破船55隻。銭389貫200文を施す
  07/04英国測量船が伊王島沖に来航。測量許可と薪水を求める。薪水を与えて出港を命じる
     07/08出帆する
  07/08暁、長崎村本河内郷より出火
  08/13甲比丹を召し幕府より蘭国王への書及び青貝細工などの贈品を贈与する。鎖国の法を理由に開国は拒絶
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  12/蘭人の外出を厳しく取り締まる
     蘭人は月に5〜6回は病気保養と称して市街を遊歩することを許されていた
     近年は度を越えることがあったことによる
  オランダ船により日本に初めてパイナップルの種苗がもたらされる
  茂木村の三浦シラがビワの枝を隣家の籠作り職人で甥の山口権之助におくる。受け接ぎ木し第2代をつくる
     のち権之助は三浦万次郎、三浦八十八らに接木の方法を教える
     明治維新前後三浦八十八が接ぎ木をしたビワが初めて長崎に出荷される
  異国船の来航が相次ぎ五島列島で緊張が高まる
     郷士や農民に鎌や熊手を用意させ大浜で農兵隊の訓練が行なわれる
  福江で初めて種痘実施される
  イギリス船が琉球に来て通商を求める
  長崎の家数1万2028、人口2万9962(男1万4534・女1万5428)
  唐船5隻、蘭船1隻が入港

1846(弘化03)【孝明】 丙午(ひのえうま)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》平賀信濃守(勝足・前目付・閏05/06発令・09/着)、井戸対馬守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠篤(08/23罷免)、高木健三郎忠顕(09/10任)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/13昼、長崎村本河内郷より出火
  01/25島原にて穢多の踏絵は踏板が別にもうけられ、一村に集めて踏絵をさせる
  02/25夕、日見村網場名より出火。120戸が焼失
  02/28絵師の石崎融思(79)が没する
     ガラス絵、花鳥、人物絵、詩文に妙技をみせる
  04/唐人が遊女へ氷砂糖、竜眼肉を贈るのを禁じる
  04/久離義絶の弊を改めさせる
     地役人が他人を養子として家を相続させ養父は養子と義絶して他家を相続、または分家し営業をなすものが多くなる
     実は養子は名のみでその役を売買する
  閏05/米東印度艦隊司令官ビッドルが浦賀にきて通商を求めるが、幕府は拒絶する
  06/06仏軍艦3隻が港外の高鉾島沖に停泊。薪水と漂流民の救護を求める
     船団は仏インドシナ艦隊で前年、伊豆に漂着した者が過酷の取り扱いを受けたことを陳情
     肥前、筑前、大村の各藩から出兵し海陸を警備するが奉行所は求めに応じ必需品を与える
      応接は仏語が通じないため甲比丹をわずらわし仏語を蘭語に訳させ、
      あるいは仏軍艦乗り組みの唐人が漢文に訳すなどして日本語に訳す
      二重の手間を要し、蘭語だけでなく仏語、英語などの通詞の必要性が痛感
     06/09出港
  06/21蘭船が入港。幕府注文の武器、軍艦模型を持参する
  07/25幕府が高島秋帆以下、関係ある会所目付、吟味役、唐通事7人を処分
     長崎奉行戸川播磨守、伊沢美作守も御役御免、差し控えを申し渡される
     秋帆は謀反とはおよそ縁の遠い身分の違う代官の娘を息子(浅五郎)にしたなどの軽罪
     重追放の刑を受け安中藩に預けの身となる
     【軽罪で中追放の刑となり武州岡部侯の預かりに】
     1853(嘉永06)08/06幕府が高島秋帆(56)の禁固を解く。国防に知識のある人材を必要として
     捕えられて足かけ12年。まる10年10か月から開放される
  08/23代官の高木作右衛門忠篤を罷免する。高島秋帆の長男浅五郎に娘を嫁がせたことによる
     09/10忠篤の長男高木健三郎忠顕が代官に就任する
  08/英艦が那覇に来航。琉球国王に面会を求める
  08/朝廷が幕府に海防を厳重にすることを令する
  09/23《08/03》フランスのヨハン・ガレが海王星を発見
     ユルバン・ルヴェリエが算出した予想軌道を受けて
     海王星は太陽系の太陽方から8番目の惑星。太陽系惑星では最も太陽から遠い位置を公転する惑星
     ○イギリスでジョン・クーチ・アダムズが予想軌道を算出し、ジェームズ・チャリスに報告する
     チャリスは気の進まないまま、1846年7月から探索をはじめ、アダムズの予測位置付近の星の位置の記録をはじめる
     ガレの海王星発見ののち実はその1か月前にチャリスは2度海王星を観測するが
     新惑星であることを見落としていたことがあきらかに
     アダムズとルヴェリエは第1発見者の件で揉めるが、アダムズはルヴェリエに発見者の座を譲る
     のち2人とも発見者の扱いとなる
  09/長崎奉行が再び2人制となる。9月在勤交代
     1863(文久03)08/08開国・鎖国の論が国内に沸騰し人心動揺、長崎は土地柄からして殊に激しくなる
     幕府は奉行2人の上に、大村丹波守純熈を長崎総奉行として置く
     奉行は長崎市街の取り締まりにあたり、外国船の入港の警備を厳重にして長崎の総兵力を指揮する
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     カピタン、デルプラットより江戸町の阿蘭陀兵隊用具一式が寄贈される
  10/09くんち奉納踊りに初めて「江戸町の兵隊さん(オランダ軍楽隊)」が登場、異彩を放つ
     使用した衣裳その他一式(ミリタリー衣装一式)は蘭人デルプラットが注文を受けてオランダから持ちきたもの
     江戸町ではこの年から7年ごとに維新直前までこの衣裳を使って4回ほど出演
  10/幕府が所司代を通じて外国船来航の状況を朝廷に伝える
  11/幕府が奉行の役料を初在勤6千両、在勤以後4500両に改める
  12/12夕、浦上山里村稲佐郷より出火
  12/25朝、大徳寺境内より出火
  端唄「春雨」が長崎で誕生。詩は肥前小城藩の柴田花守、節付けは丸山遊女おかつ
     柴田花守は長崎港警備の佐嘉藩要員の1人として来崎。丸山に遊び詩をつくる
     のち長崎にきて中島広足に国学を学び鉄翁や逸雲に南画を習う
  島原藩が薬園を設置
  楢林宗建が豊後町に私塾の大成館を開く
  甲比丹が風説書の提出を年2回に増やすことを奉行に申し出る。奉行平賀信濃守は断る
     先例をみだりに破るべきでないというのが理由
  唐船4隻、蘭船1隻が入港

1847(弘化04)【孝明】 丁未(ひのとひつじ)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》井戸対馬守(09/着)、平賀信濃守(10/発)
  《代官》高木健三郎忠顕
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  03/蘭船輸入の大砲2門を浦賀におくる
  06/「諏訪社神事舞踊等諸事質素を主とすべき」との達しがでる
  09/12暁、長崎村夫婦川郷より出火
  09/町年寄見習の高島浅五郎が父秋帆の罪により罷免される。扶助として5人扶持を支給
     10/父を糾問中、留置の八朔銀40貫800目を下付
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  10/地役人の退職者で50年以上の退職者には生涯助成銀を支給することに
  12/重ねてなまこ、あわびの生と乾かしたものを食べることを禁じる
     1865(慶応01)08/長崎会所の俵物専売制を廃止。外国人に直接いりこ、乾あわび、ふかのひれの販売を許可する
  島原にて農村に対する耕作地の実態把握や寸志銀制度などが強化
     疲弊困窮していた下層農民がおこした多比良一揆、有家で小作人がおこした暴動に続いて、千々石で小作人の暴動がおきる
     のち藩が備蓄米を放出など対策を講じる
     村方でも救助策が考えられ多比良では庄屋村里・地主万屋・籾屋・鍵屋ら7人が各自1町歩ずつの田を提供
     永世田が作られ貧農救済にあてられる
  疱瘡が流行する
  磯野信春が「弘化版長崎土産」を刊行する
  宇田川ヨウ庵が「舎密開宗」を編刊。未完に終わる
  唐船9隻、蘭船1隻が入港

天保〜弘化年間(1830〜1848)

  長崎の唐通事の家に女中奉公に来ていた茂木村北浦名字木場の三浦シオが南中国より舶載の唐びわを知る
     食べたビワの種を持ち帰り茂木村北浦名字木場の兄喜平次の畑にまく。初代茂木ビワ
     1845(弘化02)隣家の籠作り職人山口権之助がビワの枝をもらい受け接ぎ木し第2代をつくる
     のち権之助は三浦万次郎、三浦八十八らに接木の方法を教える
     明治維新前後三浦八十八が接ぎ木をしたビワが初めて長崎に出荷される

1848(弘化05、嘉永01・02/28)【孝明】 戊申(つちのえさる)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》平賀信濃守(05/26西丸留守居転出)、
      稲葉出羽守(正申・前目付・05/26発令・09/着・09/28死去・大音寺に埋葬)、
      大屋遠江守(明啓・前小普請奉行・11/01発令)、井戸対馬守(在勤)
  《代官》高木健三郎忠顕(08/21死去)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/24カリフォルニアの製材所で働くジェームズ・マーシャルが金を発見する
     のち一獲千金を夢みる男たちが殺到、ゴールドラッシュになる
     その後1年カリフォルニアの人口が10万人を超える
     1850(嘉永03)09/09連邦議会で公式に州に昇格。合衆国31番目の1州となる
  01/唐船主、顧士英の帰国後、唐館に呼入れていた寄合町の筑後屋、遊女高根が男児を出産
     のち再渡来した顧士英が実子であると認め寄合町乙名見習の芦刈三代太郎が出産届を奉行所に提出
     顧士英は高根に銀1貫目を養育料として与え、外にも贈り物をする
  05/米捕鯨船が西エゾに漂着
  06/20夜、長崎村小島郷より出火
  06/ドイツのストラルズンド生まれのオランダ軍医オットー・モーニッケが出島蘭館医として来日
     日本に初めて聴診器をもたらす。また牛痘液を持ってきたが失敗
     モニーケは医学の他に気象学を教え、出島に気象観測所を設ける
     鍋島藩の医師、楢林宗建がモーニッケに進言、次年は牛痘痂(かさぶた)を取り寄せることに
     1849(嘉永02)06/蘭船が前年注文の苗痂(牛痘痂)を大切に積んで入港
     宗建は自分の三男と2人の幼児を実験台として出島に送り、モーニッケは幼児たちの両腕に新しい痘痂を接種し大成功
     以後これを種として次々と種痘が行われた
     1849(嘉永02)07/24楢林宋建と相談し江戸町の阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所がおかれる
     モーニッケが吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導。接種に成功
     1849(嘉永02)12/27までにモーニッケが種痘した者は381人に
  08/エゾに漂着した米捕鯨船乗組員15人を長崎に護送する。うち2人は死亡
  秋北海道沖で捕鯨船を降りた米国人ラナルド・マグドナルドがボートで利尻島に上陸。密入国者として捕まり長崎送りに
     西山の諏訪神社近くの崇福寺の末庵大悲院に幽閉される
     マクドナルドは幽閉期間中に牢の格子を通して青年通詞14人に英語を教えるよう命じられる
     英語を学んだ14人…本木昌左衛門、西与一郎、植村作七郎、森山栄之助、西慶太郎、中山兵馬、
      名村常之助、小川慶十郎、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、茂鷹之助、塩谷種三郎、堀達之助
     それまで外国語は和蘭語のみだった日本人が直接アメリカ人教師から初めて生きた英語を学ぶ
     授業では生徒が英単語を発音し、マクドナルドが正しい発音かどうかをうなずいたり、首を振ったりして伝えた
     1849(嘉永02)03/25アメリカ軍艦プレブル号が長崎に抑留中の捕鯨船乗組員13人とともに引き取られる
     マクドナルドは「Soinara」(さよなら)という言葉を残して日本を去る
     04/05出帆。「アメリカ語心得の通詞」として森山栄之助が対応する
     のち弟子のひとり森山栄之助はペリー来航時の通訳を務める
     1894(明治27)マクドナルドが亡くなるとき「ソイナラ・マイ・ディア・ソイナラ」と別れの言葉を口にする
  10/24暁、西浜町より出火
  12/23暁、長崎村伊良林郷より出火
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     万屋町の魚尽し刺繍作られる。次代、二十八匹、縫い師・熊吉
  市川泰朴、賀来佐一郎は島原で初めて種痘を実施
  楢林宗建が佐賀藩内で種痘を実施
  西洋植字印刷機一式および鉛活字を輸入。蘭通詞の本木昌造ら4人が蘭書の復刻を試みる
  御用商人上野俊之丞がフランスのダゲールが発明した銀板写真機ダゲレオタイプ(銀板写真法)をオランダ船で輸入
     のちカメラが薩摩藩の手に渡る
     1857(安政04)09/17薩摩藩藩主島津斉彬自らを藩士に写させる
     日本人が日本人を撮って成功した唯一の銀板写真
  軽追放処分を受けた龍蔵【竜造?】がふたたび長崎に戻る
     露呈して獄につながれる
     皮屋町穢多乙名の龍蔵は1804(文化01)遊女吉川を身請け妻としたとして入牢追放
     2か月後獄中にて病死
  唐船4隻、蘭船1隻が入港

1849(嘉永02)【孝明】 己酉(つちのととり)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》大屋遠江守(03/着)、井戸対馬守(04/発・08/04江戸町奉行転出)、
      内藤安房守(忠明・前禁裏付・09/24発令)
  《代官》高木作右衛門忠知(10/任)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  02/町年寄の薬師寺久左衛門、役所付の横山喜平太が20トイムモルチール砲を鋳造する
  03/25アメリカ軍艦プレブル号が長崎に抑留中の漂流米人ラナルド・マグドナルドと捕鯨船乗組員13人を受け取る
     マクドナルドは「Soinara」(さよなら)という言葉を残して日本を去る
     04/05出帆。「アメリカ語心得の通詞」として森山栄之助が対応する
     のち弟子のひとり森山栄之助はペリー来航時の通訳を務める
     1894(明治27)マクドナルドが亡くなるとき「ソイナラ・マイ・ディア・ソイナラ」と別れの言葉を口にする
  03/出来鍛冶屋町の竹内億助が私財を投じて日見街道に石畳を敷く
  04/1828(文政11)の大風で倒壊した崇福寺の三門が再建される。龍宮造楼門
     発願主は唐通事の游竜彦十郎、鄭幹輔、棟梁大串五郎平
  閏04/英軍艦マリナー号が相模松輪崎沖に来航。江戸湾を測量し下田に入港する
     江川太郎左衛門が退去を要求する
  05/幕府が三奉行以下海防掛、長崎・浦賀両奉行に対し異国船打払令の復活の可否を諮問する
  06/19朝、唐人屋敷より出火
  06/再種痘のためモニーケが頼んだ注文の苗痂(牛痘痂)を蘭船が大切に積んで入港
     江戸町の阿蘭陀通詞会所にて蘭館医モーニケがバタビアから取り寄せた牛痘苗で種痘を行なう
     わが国で牛痘苗での種痘が成功する
     モーニケは楢林宗建と協議し小児に接種することを決める
     のちモーニケが江戸町の阿蘭陀通詞会所で種痘を始める。吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授
     〜12/27モーニケが種痘した者は391人にのぼる
  07/幕府が五島藩に「城を築き海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を与える
     五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就
     1849(嘉永02)08/着工
     幕府は経費2万両のうち、1万両を貸し付け、早急に完成するよう指示
     1863(文久03)約15年の歳月を費やし、石田陣屋の跡に石田城(福江城)が完成
     城郭は、東西160間(約291米)、周囲740間(約1346米)
     野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、異国警備という使命を持った海城
     完成後、40歳以下の領民に禁酒令を出すなど藩の財政建て直しに懸命となる
     1872(明治05)石田城は新政府に収納。城と備えつけの武器、馬具一切が売り払われる
     石田城の生命はわずか10年足らずと短く、時代の変遷にふりまわされた
     石田城は江戸時代を通じて築城を許された例外であり、わが国最後の築城となる
  08/旅芸子の長崎滞在が100日から50日限りに改められる
  08/楢林宗建が佐嘉藩内で種痘を実施する
  09/10《07/24》江戸町阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所がおかれ、モニーケが吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導
     蘭医楢林宗建は自分の三男と2人の幼児を実験台として送る
     モニーケは幼児たちの両腕に新しい牛痘痂を接種し大成功
     以後これを種として次々と種痘が行われる
     12/27までにモニーケが種痘した者は391人
  09/22暁、磨屋町より出火
  09/唐船主その他から遊女への贈品の額を決める
     船主・財副(筆記勘定役)は各銀1貫目、按針役・総代・揖役は各600目、水夫は100目、1船概計19貫目余とする
     反物は長崎会所に納めて代銀をもって給与
  10/02暁、油屋町より出火
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
     榎津町の川船がはじまる
  10/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が任命される
     1868(慶応04)02/長崎府取締役に
  11/英船が那覇に来航して貿易を要求する。中山府が拒絶する
  米が高値となる。1石銀120〜160目。1升銭80〜107文
  式見村で初めて種痘を実施。代は1軒につき米8勺あて、村中で米1表2斗7升9合を牛痘方に納めた
  唐船6隻、蘭船1隻が入港

1850(嘉永03)【孝明】 庚戌(かのえいぬ)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》大屋遠江守(05/21死去・本蓮寺に埋葬)、
      一色丹後守(直休・前普請奉行・07/08発令・11/29勘定奉行転出・長崎在勤せず)
      牧志摩守(義制・前小普請奉行・11/29発令)、内藤安房守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン(←10/31)(11/01→)フレデリック・コルネリス・ローゼ

  03/甲比丹レフィスゾーンが江戸参府。甲比丹最後の江戸参府となる。合計166回を数える
  04/島原にて旅人が町方で三味線の張替えの商売をする
     これは穢多の職業に差し障るのでやめるよう達示
  06/蘭船が入港。風説書でアメリカが日本と貿易を開く意思があることを告げる
  07/11大風。家屋全壊27戸、半壊48戸、破損589戸、破船11隻、負傷者1人
  08/寄合町の引田屋、遊女雅妻が唐船主、沈晋伯の子を妊娠
     のち沈晋伯が帰帆ののち出産。まもなく死去
  09/09カリフォルニアが連邦議会で公式に州に昇格。合衆国31番目の1州となる
  09/16奉行の内藤安房守が甲比丹を奉行所に招く。頻繁に来航する外国船の処分に関する幕令を伝達
     特に日本沿岸の測量を許さないことを伝える
  09/21幕府が長崎奉行に命じ、輸入洋書を検査し許可なくして訳書の売買を禁止する
     特に蘭医学のうち内科系統のものを禁じ医書の刊行を監視する
  09/唐蘭通詞に諸国の語学を学ばせる
     町年寄の福田猶之進、高島作兵衛が言語和解取締掛を命ぜられる
     満州語は唐通事に、ロシア語、英語は蘭通詞に学ばせる。文化年中と同様
     同月大通詞の西吉兵衛、小通詞の森山栄之助、唐方立合大通事の平野繁太郎、小通事の鄭幹輔、潁川藤三郎が世話役に
     在留の甲比丹、蘭人のなかに英語を心得ている者があれば通詞と相談するよう甲比丹に申し渡す
  09/唐人が遊女の揚代を払わない場合、唐人が遊女を呼入れたいときに少しでも払ったら入館させてよいと達し
  10/11《09/06》長州藩士の吉田松陰(21)が長崎へ来遊。高島浅五郎を訪ねる
     10/16《09/11》平戸へ向かう
     平戸滞在は10/19《09/14》〜12/09《11/06》の51日間。平戸の学舎葉山佐内に学ぶ
     12/11《11/08》平戸からの帰り長崎に来遊
     1851(嘉永04)01/02《嘉永03・12/01》出発して茂木から天草の富岡に渡る
     1853(嘉永06)10/27ふたたび来崎。濱町に泊まる
     来泊中の露艦に乗り、密出国するのが目的、果たせず
     11/01長崎を出発し熊本へ向かう
  10/旅芸子たちが丸山町、寄合町、総代へ長崎滞在を100日に戻して欲しいと嘆願
     乙名の奥印を受け書類を旅人方役場へだし許可される
  10/幕府が蘭書を訳そうとする者は、まず書目をもって出願の上許可を得るようにする
  11/朝廷が外海防禦の勅諭を幕府に下す
  12/「唐人の揚代が滞ったまま出帆し大損で借金が増えてしまう」と
     寄合町の遊女屋、門屋富三郎など9人が官銀拝借願書を年番所へ差出す
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  遊女屋では唐館、蘭館へ出入りする遊女には正月の踏絵の後、掟をよく申し諭し遊女、禿、遣手に誓詞血判をさせる
  薬種目利野田青葭が「拾品考」を刊行する。長崎に輸入された海外の植物10種を図にして解説
  長崎の木下逸雲が種痘巧者として天草に迎えられ、数千人に種痘を施こす
  唐船6隻、蘭船1隻が入港

1851(嘉永04)【孝明】 辛亥(かのとい)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》牧志摩守(09/着)、内藤安房守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》フレデリック・コルネリス・ローゼ

  01/米船漂流者の土佐中浜の万次郎らを琉球に送る。薩摩侯はこれを長崎に送る
  02/幕命により異国剣付銃50挺を浦賀に贈る
  05/24夜、浦上山里村本原郷より出火
  05/29天草で一揆がおこる。盗賊取締のため島原から穢多が出役する
  05/銅座〜船大工町に架かる土橋の銅座橋が石橋に架け替える。費用銀16貫500目余
     1894(明治27)一部補修
  06/寄合町の筑後屋、遊女深山がフレデレキ・コルネリウス・ロ−セとの間に女児ひろを生む
     今町のときを雇入れ、筑後屋の遊女の籍に入れ乳母遊女として出島に入れる
     のちひろ(4)は驚風症で死去
  08/上蘭船ヨアン号入港。船長のコーニングが森山栄之助ら通詞2人に英語を教える
  08/16暁、延命寺より出火。1寺焼失
  08/17御用時計師で科学者として知られる上野俊之丞(61)が没する
  08/1854(安政01)にかけてエゲレス語辞書和解7部を脱稿。ホルトロップ著の英語事典を翻訳したもの
     編集に携わったのは10人
     西吉兵衛、森山栄之助、楢林栄七郎、名村五八郎、中山兵馬、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、西吉十郎、川原又兵衛、品川藤十郎
     辞書の体裁は語林大成と同じく横文字の側に片仮名で発音を記したもの
  09/18ヘンリー・ジャーヴィス・レイモンドとジョージ・ジョーンズが「ニューヨーク・タイムズ」を創刊
     ニューヨーク市で発行していたニューヨーク・トリビューン紙に対して高級新聞というスタイルをとる
  11/18暁、新大工町より出火
  暮/本木昌造が長年の苦心の末、種字から鉛の字母を作り、鉛と錫とアンチモンの合金で丈夫な活字を作り
     流し込みの鋳型を作り、一通り出来上がる
     1869(明治02)06/本木昌造が唐通事会所跡に長崎製鉄所付属の長崎活版伝習所を設立
     唐通事会所跡は興善町の(旧新興善小学校)の地
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が日本活字を創製。新町に新町活版所を開き活字鋳造と印刷事業を始める
     日本の民間印刷所の始まり
     1870(明治03)大阪に大阪活版所を開設
     1873(明治06)東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  C・T・Van Assendeift de coningh の「日本滞在記」には紅毛船ヨアン号船長の遊女に関する記事
     1)外国人女性の渡来が厳禁されており出島の紅毛人は遊女とともに愉快に生活している
     2)遊女は日本語、オランダ語、マレー語の3か国語の混合の言葉で紅毛人と会話している
     3)出島の遊女の部屋は秩序正しく綺麗である
     4)紅毛人は家事を遊女に任せているが、解雇権を持っており遊女は遠慮がちである
     5)遊女は毎日、出島の本門前の江戸町の仲宿にいって出代わりの点検を受ける
     6)遊女は仲宿で家族と逢い、家族は相手の紅毛人へ水引をかけた菓子箱等を贈る
     7)これらの遊女たちはヨーロッパの大都会で見受けられるような淪落した淫乱な女だとは思われていない
     貧しい親が娘を養えないときは6才から8才で茶屋へ連れていく
     そこでは都びた日本風の教育と躾を受け、小間使いとして年長の遊女に従う
     14才になると遊女になり25才になると自由に身となって良い結婚をして立派な母となる
  ●●町に高橋呉服店が創業
  唐船5隻、蘭船1隻が入港

1852(嘉永05)【孝明】 壬子(みずのえね)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)
  《奉行》内藤安房守(05/15西丸留守居転出)、大澤豊後守(秉哲・前目付・05/15発令・09/着)、牧志摩守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》フレデリック・コルネリス・ローゼ(←10/31)(11/02→)ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/05暁、南馬町より出火
  01/29朝、浦上山里村中野郷より出火
  02/02ロンドンのフリーストリートに世界初の男性用公衆トイレができる
     王立芸術協会が設置し運営にあたる有料トイレ。ウエイティングルームと呼ばれる
     用を足すだけで2ペンス、手を洗い服にブラシをかけると2〜3ペンス
  02/18朝、長崎村小島郷より出火
  02/28夜、長崎村本河内郷より出火
  02/徳川慶篤が「大日本史紀伝」を朝廷、幕府に献上する
  03/俵物の買い上げ価格を増す。いりこは6割以下、ほしあわびは8割以下を増す
  03/小島郷のセキが長寿のため米10俵を与えられる
  04/20暁、本石灰町八五郎宅の灰を入れる樽小屋の残り火より出火。長崎村小島郷に延焼し611戸が焼失
     米銭を施与
      本石灰町・八五郎押込20日
  05/幕府が武州大森海岸に大砲演習場を設け、旗本や諸藩士にその使用を許す
  06/05最後の商館長となるドンケル・クルチウスが着任
  06/ロシア軍艦が下田に来航し漂流民を置いて去る
  08/17甲比丹クルチウスが幕府に蘭領印度総督の書簡を渡す。明年『アメリカ使節が来航して開国を要求す』ことを予告する
     書簡は鎖国の危機が迫ることを説き、米使節来朝以前に日本とオランダ2国間に通商条約を結び、相互委員を任命することを求める
     さらにクルチウスは長崎奉行からの要求で条約草案を提出し、そのなかで長崎の開港、治外法権の設定などを述べる
     しかし幕府はこれをもって参考資料としてみなすことにし、あえて蘭商館長の「どん慾」と断じてなんの手段も講じず
  08/西丸再建費として長崎会所銀をもって金10万両を献上する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  10/06蘭医で佐賀藩医の楢林宗建(51)が没する。墓所は聖徳寺
     1801(寛政13・享和01)長崎に生まれ佐賀藩医となり、シーボルトに師事し蘭医術、物理学、化学に精通し詩文にも長じる
  10/28暁、長崎村伊良林郷より出火
  10/清国貿易だけを頼みにせず他に産業を立てることを考えるよう市民に諭告する
  浦上淵村の鵬ケ崎焼が廃窯
  五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりん)が蔓延[〜1853(嘉永06)]
  銅座〜本石灰町に武谷勘右衛門・同仁兵衛が架けた土橋の浜崎橋を、石橋に架け替える
     1885(明治18)再度木橋になる
     1912(大正01)02/12鉄桁橋に改められる
     1950(昭和25)頃上流下流暗渠となり高欄を取除き下流は銅座市場となる
  唐船7隻、蘭船1隻が入港

1853(嘉永06)【孝明】 癸丑(みずのとうし)

  《将軍》[第12代]徳川家慶(徳川宗家)(→06/22)、[第13代]徳川家定(徳川宗家)(11/23→)
  《奉行》牧志摩守(04/28西丸留守居転出)、水野筑後守(忠徳・前浦賀奉行・04/28発令・08/着)、大澤豊後守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/長崎の家数1万0831(家持2156・借家8437)、人口2万7343(男1万3113・女1万4230)
     【かまど数1万0832?】
  06/03アメリカ合衆国東インド艦隊司令官マッシュ・ペリー提督が4隻の軍艦を率いて相模国浦賀沖に現われる
     東インド艦隊が遣日国使として米国大統領フィルモアの親書を幕府応接掛の戸田氏栄に手交し開国をせまる
     06/06幕府が久里浜で米大統領フィルモアの国書を受領【06/09?】
     1854(嘉永07)03/03再来日して「日米和親条約」を締結。結果、伊豆国下田湊が即刻開港される
     06/09幕府が久里浜で米大統領フィルモアの国書を受領
     06/12ペリーは国書の回答を明年に延期することを認め琉球へ去る
  08/22《07/18》ロシア使節海軍中将極東艦隊司令長官ワシリエビッチ・プチャーチンが長崎に来航
     軍艦4隻を率い開国をせまる
     旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊。うち1隻は日本最初の蒸汽船の来航。火船と称する
     長崎入港はアメリカにより通商の利の独り占めを恐れての遣使
     奉行所では一方では食糧を供するとともに幕府の指示を求める
     来航の目的はロシア皇帝の千島、樺太の測量と通商を求めた国書を手渡すなど露日修好条約をもたらす
     原案はシーボルトによって書かれる
     艦隊停泊中は筑前、佐嘉、平戸、島原、唐津、大村の諸藩の兵1万7226人、船734隻が長崎を警備
     09/21《08/19》奉行の大沢豊後守が西役所で使節と合う。プチャーチンからの国書を受け取り、すぐ幕府へ送られる
     10/18《09/16》奉行所よりロシア艦へ将軍家慶の死を伝え、国書の回答が遅れることを告げる
     10/20《09/18》ロシア使節は書面をもって弔詞を述べる
     11/08《10/08》幕府派遣のロシア使節応接掛の人選が難航
     勘定奉行兼海防掛の川路聖謨と大目付格兼応接掛の筒井正憲らに決定。上使として長崎に下向
     11/23《10/23》通商が拒否されロシア艦隊は上海へ出帆
     プチャーチンは回答を待つうちヨーロッパの風雲急(クリミア戦争)との報に、にわかに帰国することに。再渡を約して出港する
     1854・01/03《12/05》プチャーチンがロシア艦隊4隻を率いて2度目の来崎。通商条約、国境問題の交渉を求める
     01/06《12/08》勘定奉行の川路左衛門尉が露使応接掛として江戸より来崎
     01/07《12/09》大目付格西丸留主居の筒井肥前守、儒者の古賀謹一郎が露使応接掛として江戸より来崎
     01/08《12/10》目付の荒尾土佐守が露使応接掛として江戸より来崎
     01/12《12/14》江戸より来崎の幕府要人が奉行大沢豊後守、水野筑後守とともに西役所で露使節と会見
     ロシア側はプチャーチン、使節付副官兼蘭語通訳官の海軍少佐ポシェット、
     旗艦パルラダ号艦長の海軍大佐ウニコフスキー、秘書官ゴンチャロフの4人
     筒井、川路は「殊更に高き高麗べりの二畳台」に座り高さを合わせ、大通詞の西吉平衛と森山栄之助が同席
     三汁七菜と酒の昼食ののち正式な挨拶が交わされる
     1854(嘉永07)1月7日まで6回にわたり国境、通商問題などの交渉が行なわれる
     のちパルライダ号上の最終会談で日本が他国と通商条約を結んだ際、ロシアも同一条件を与える旨が保証
     01/15《12/17》プチャーチンが旗艦パルライダ号に筒井、川路、古賀ら日本人使節団を招き、船内を見学させる
     士官室のテーブル上に敷かれた円周軌道を走る蒸気機関車の模型を川路聖謨や森山栄之助らが日本で初めて見る
     01/16《12/18》幕府要人が西役所で露使節と会見し国書に対する回答書を交付。使節らに幕府からの贈り物を贈呈
     01/18《12/20》西役所で国境、通商問題について協議を開始する。以後、しばしば会談
     01/20《12/22》露使節が国王の献上品を西役所に持参。筒井ら受け取る
     02/05《嘉永07・01/08》ロシア艦隊が長崎を出港。樺太国境と和親通商交渉、妥協せず
     1854(嘉永07)04/20《03/23》プチャーチンがロシア艦隊3隻を率いて3度目の来崎
     1854(嘉永07)04/26《03/29》クリミア戦争勃発で上海まで後退するが、執拗に長崎、樺太、函館に来航
     1857(安政04)09/21《08/04》露使節プチャーチンが来航
     09/25《08/08》退去
     10/11《08/24》再来
     10/24《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、箱館で通商許可
     10/27《09/10》プチャーチンが退去
  08/06幕府が高島秋帆(56)の禁固を解く。国防に知識のある人材を必要として
     捕えられて足かけ12年。まる10年10か月から開放される
     のち秋帆(56)、お香(50・妻)、浅五郎(33・息子)、太郎(11・孫)の4人で江戸に住むようになる
     秋帆は海防掛御用取扱いとして江川太郎左衛門の下につき品川台場の建設に従事
     10/一身の危険をかえりみず上書「嘉永上書」を書き上げる
     「嘉永上書」交易通商を行ない、それにより利を得て国防を充実させることなどを詳しく述べたもの
     1866(慶応02)01/14秋帆が長崎江戸講武所砲術師範役の現職のまま69歳で病死
     墓所は江戸本郷大円寺と長崎晧台寺後山(歯髪のみ埋葬)にある
  10/27吉田松陰がふたたび来崎。濱町に泊まる
     来泊中の露艦に乗り、密出国するのが目的、果たせず
     11/01長崎を出発し熊本へ向かう
  11/01渡御。「長崎くんち」が将軍家慶の逝去と露使節プチャーチンとの交渉のため日程変更11/05還御
     【12/01、03、05?】
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  11/01一般に西洋砲術を学ぶべきことを諭告
  油屋町の大浦お慶が出島蘭人テキストルと相談、嬉野茶の標本を米、英、アラビアに送る
  吉田松陰が雲仙小地獄に入る
  布津町の公道に飯野橋が架かる
     公道に架けられた橋としては島原半島で最古
  この年から日本の開国通商を求め外国艦船の来航が多くなる
  唐船0隻、蘭船1隻が入港

1852〜1853(寛永05〜06)

  五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりん)蔓延

1853(嘉永06)以降

  高島秋帆一家が江戸に移る。雷が丘(現東小島町)の高島宅には門人の中島名左衛門が住む
     1863(文久03)以降中島名左衛門が下関で没し料亭「咲草屋」となる

嘉永年間(1848〜1854)

  外海から潜伏キリシタンが大山地区に移る

1854(嘉永07、安政01・11/27)【孝明】 甲寅(きのえとら)

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