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〈江戸時代(10)〉

1764(宝暦14、明和01・06/02)【後桜町】 甲申(きのえさる)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》大岡美濃守(06/12死去・大音寺内影照院に埋葬)、石谷備後守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←10/24)(10/25→)フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ

  01/09夜8時頃、寄合町の遊女屋筑後屋へ恵美酒町の善五郎が来て2階へ上がり遊女里見を呼び入れる
     01/10朝08時頃、下女タツがうめき声を聞きつけ部屋に入ると善五郎と里見が血に染まり倒れている
     家内の人に知らせ大騒ぎに。筑後屋は町乙名芦刈善太夫へ届け、町乙名から奉行所へ報告
     町役人が現場へ到着。里見は死んでいたが善五郎は息があり医師草野文仙を呼んで診察
     草野は人参湯などを服用させるが午前10時頃死去
     草野は検使役山本段次兵衛へ口上書を書いて報告。奉行所からは3人の役人が出張
     筑後屋猪太郎、下女タツ、禿(かむろ)トメ、遊女梅ケ枝、小萩、大野と向こう3軒両隣の者まで訊問、口書きを提出
     善五郎と里見の死体、善五郎の脇差1腰、は寄合町乙名、芦刈善太夫と同町組頭、山口政平次が預かり預かり証文を書く
     里見は島原領日見村の者で旅人掛町年寄、高島四郎兵衛へ届け出
     01/11奉行所に乙名芦刈善太夫と組頭4名が出頭
     2名の死体は西坂の刑場へ取捨て
     01/12死体取捨届が乙名から奉行所へ提出
  02/中国より「古今図書集成」(1万巻)舶来、長崎奉行は幕府に納める
  03/28未三番船の漕者、林岩弟が帰帆
     寄合町門屋抱えの遊女沢山は別離の悲しみにたえ切れず唐人屋敷の林岩弟の部屋で縊死心中
     役人は同情し西坂の刑場に取捨てとなった沢山の遺体を内々で親元に引き渡す
  03/幕府が長崎貿易の輸出不振でいりこ、干しあわびなど俵物の生産を奨励する
  07/町年寄後藤惣左衛門を町年寄上席会所調役に任じ、高70俵を給し、一生のあいだ帯刀を許す
  09/03唐人屋敷門前で広東人参450斤を焼き捨てる
     ひそかに密輸入されていたものを没収して焼却処分にする
     1781(天明01)輸入禁止の広東人参を没収、ふたたび焼き捨てる
  09/聖堂書記役の田辺茂啓が想を練ること30年、「長崎実録大成」16冊を完成。奉行所へ納める
     奉行石谷備後守は「長崎志」正編と名づけ、諸役所に備えつけさせ、書記役に書き継ぐことを命じる
     1767(明和04)新資料によりさらに稿本に手を加え本文12巻、年表4巻、計16巻にまとめる
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、平戸町、
     八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  異国船入港を知らせる斧山(烽火山)の番所が一時的に閉鎖
     1808(文化05)10/斧山の番所が再開
     1815(文化12)10/斧山の勤番が廃止
  商額の減額により甲比丹の江戸参府を隔年にする
     1790(寛政02)09/商額減額のため甲比丹(出島商館長ロムベルフ)に対し江戸参府を5年【4年?】ごとにする
     幕府献上品、諸役贈与品、奉行その他への八朔銀を半分に減らす
  第11回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(日編に嚴)、総人数477。使命は徳川家治の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1811(文化08)第12回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は金履喬、総人数328。使命は徳川家斉の将軍職就任祝い
  五島の福江・有川・宇久で疱瘡が流行
  闘鶏を禁止する。近年、闘鶏に賭けて家をつぶす者がでたため
  唐船14隻、蘭船2隻が入港

1765(明和02)【後桜町】 乙酉(きのととり)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》新見加賀守(正栄・前小普請奉行・01/26発令・08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ(←11/07)(11/08→)ヤン・クランス

  01/04対馬より朝鮮漂着の薩摩人21人を護送
  01/24夜、西浜町より出火
  01/28大村より神浦破船の唐人52人を送還
  08/豊後町と桜町の間の制札場(高札場)が八百屋町に移る。出来鍛冶屋町と豊後町の町火消しの火災の際の詰めは従前と同じ
  10/10夜、興福寺山上廬庵より出火。焼失
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  10/官衙所属の町火消しに飛水筒8個を配布
     火災の際、火元詰所8組に飛水筒1挺あて支給
  従来から唐人屋敷にあった漢文の制札は八百屋町の制札と重複することから取り除かれる
  豊前米、石見米が長崎に迴漕されることになり格納するため新地に米蔵をおく
     総坪数372坪、土蔵3軒
  吉雄耕牛が甲比丹とともに江戸参府、平賀源内に蘭学を指導する
     1790(寛政02)阿蘭陀通詞目付に昇進
  幕府が堕胎、間引きを禁じる
  馬込郷船蔵の構内の岸を穿ち港外木鉢郷と稲佐鯨洞(現旭町)の煙硝蔵が移される
  唐船12隻、蘭船1隻が入港

1766(明和03)【後桜町】 丙戌(ひのえいぬ))

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》石谷備後守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←10/31)(11/01→)ヘルマン・クリスティアン・カステンス

  02/13亥刻、酒屋町より出火
  02/27夜、四つ時に西古川町の林田あい・林田まさ宅の風呂場の火元不始末により出火。明和の大火
     のち大風で風向きが変わり本古川町、東古川町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、
     今石灰町、新石灰町、油屋町、榎津町、万屋町、東浜町の11か町が全焼。家(かまど)数1928
     西古川町、西浜町、銀屋町、磨屋町の4か町が半焼。家(かまど)数603の内377と銅座跡75が焼ける
     別に取崩6、半取崩21。15町、2794戸を焼失する大火災に
     翌朝辰の刻(朝8時頃)鎮火
     罹災者には米、銭を与え仮屋33棟を造って収容。市内の富豪も米は銭を寄付
     家持1人銭1貫文、家族1人米5升、かまど主1人米5升、半取崩かまど主2升5合、家族1人1升5合を与える
     富者の寄付(括弧内は奉行所の褒賞)
     村山治兵衛は米300俵(麻上下1具)、青木左馬は苫1200枚と筵600枚(前同断)、
     飛鳥八右衛門ら14人は銀26貫目を借家居住災民231戸に各110匁施与(寄付者14人に各麻上下1具)、
     川副大恩は銀52貫200目を無利息で貸与(衣服)、上田嘉右衛門は銀63貫目を低利で貸付(衣服)
     類焼の地役人にも貸与が許可
     消防尽力者は表彰を受け、町乙名は各麻上下1具、消火夫には各銭200文が与えられる
      西古川町・林田あい押込30日
      西古川町・林田まさ
     出火の折り、隣家の者がその場に駆けつけ消火もせず、駆けつけても消火に尽くさず
      西古川町・安留勘兵衛、西古川町・小柳久平次、西古川町・大薗長右衛門、榎津町・櫛屋市太郎、榎津町・利三次
     出火を発見し消防のため水をかけるが未熟なため大火に
      西古川町・清助叱、西古川町・金次郎
  02/27明和の市中大火で崇福寺の三門が類焼する
     1814(文化11)上梁の門が再建される
  03/01港外木鉢浦に石銭番所を置き出入船から帆別銭(一種の通行税)を徴収する
     港内は川上から流出した土砂で川口や沿岸の水面が遠浅となり船舶の航行、停泊に不便を来たす
     そこで長崎港浚渫費用にあてるため番所を建てて出入船から1石につき3銭、小船は帆毎1段につき15銭を徴収
     03/13長崎港内の浚渫工事がはじまる。さらった土砂は淵村海辺の埋め立てに使用
     1791(寛政03)02/13成績が上がらず廃止となる
     1715(正徳05)の正徳新令で長崎貿易が縮小。以来、石銭御番所もその効果が薄れたため
  03/14総町の願い出により時を報せる今籠町の報時所(鐘撞所)を豊後町の高札場跡地に移転
     昼夜12時に報時を行なう
     のち俗称鐘の辻と呼ばれるようになる
     1774(安永03)鐘が破損し改鋳する
  04/立山の元井上筑後守屋敷を払い下げる。松浦肥前守が銀13貫目で落札
  05/07夜、八つ半に大黒町の林良迪宅で焚火の不始末により出火
     西中町に延焼し肥後屋敷門長屋その他33戸を焼失
     上田嘉左衛門が銭25貫文を大黒町の災民に寄付
     罹災者町人1人銭1貫文、借家居住人米1斗、家族1人米5升、その他を与える
      大黒町・林良迪押込30日
     以下5人は火事を発見したにもかかわらず消火を怠る
      大黒町・竹内政兵衛、大黒町・竹内弥兵衛、大黒町・西原きん、大黒町・宮崎弥蔵、大黒町・田中時之助ともに叱
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、
     東上町、下筑後町、西中町、東中町、豊後町、外浦町、島原町、本下町
     火事にあった油屋町、今石灰町、今籠町、今鍛冶屋町の踊町を免じる
     新興善町、今下町、西築町、東上町を繰り上げ。3年間で踊町を調整
  12/塵芥捨場を開設する
     長崎村の内十善寺郷字辻、小島郷僧都、伊良林郷笠頭、伊良林郷字茶屋上、岩原郷臼嶽の郷地の5か所に置く
  高野平郷の宝樹山現応寺が大火により焼失
     1773(安永02)市中の町々、人々の寄付により再建
  萩藩が薬園を設置
  唐人屋敷内と来舶唐館で使用できる銀札(銀券・長崎唐館役所札)が廃止となる
     1795(寛政07)唐館銀札(銀券・長崎唐館役所札)が復活する
  古町の禅宗曹洞派の天長山太平寺の跡地に普化宗松寿軒が建つ
  有馬村の願心寺住職が島原一揆で犠牲となり散乱した骨を敵味方なく拾い集めて供養。骨かみ地蔵を建てる
  出島オランダ商館長にヘルマン・クリスチャン・カステンスが赴任。出島に日時計を設置
  唐船12隻、蘭船2隻が入港

1766(明和03)頃

  天草で長崎奉公の出稼ぎ男女が、絹類の着物をきて村方に立ち戻る風習があり。島原藩では取締りを警告

1767(明和04)【後桜町】 丁亥(ひのとい)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》新見加賀守(08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヘルマン・クリスティアン・カステンス(←10/20)(←10/21)ヤン・クランス

  04/07夜、島原町より出火。大村町に延焼、高島四郎兵衛屋敷ほか21かまどが焼失
  05/長崎奉行の命により町名の本「ほん」をすべて「もと」と公称するようになる
     改めるよう指導するもなかなか励行されず
  06/西築町の制札を西濱町の大橋脇に移す
  07/08唐船が呂宋漂着の邦人18人を送還
     07/167人を送ってくる
  08/幕府による尊王論者弾圧事件で山県大弐(43)を死罪に、藤井右門(48)を磔刑となる「明和事件」
     甲斐国出身の山県大弐は江戸で兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹
     一方、1758(宝暦08)の宝暦事件に連座した藤井右門は江戸にでて大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説く
     幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて山県大弐と藤井右を逮捕
     さらに宝暦事件により重追放の竹内式部にも累を及ぼし八丈島への遠島と処す
     また小幡藩主の織田家(織田信長の三男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封、信長の子孫としての国主格の待遇が廃される
  「長崎くんち」(4)[1766(明和03)の火事調整]…丸山町、寄合町、東築町、桜町、
     小川町、内中町、西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、南馬町、大黒町、中紺屋町
  福田十郎右衛門が鋳銭掛となる
     1768(明和05)町年寄世襲になる
  稲佐鯨洞の煙硝蔵跡に鋳銭所・稲佐銭座ができる
     鋳造された銅銭の表に「寛永通宝」、裏にマス型の上に「長」の字が刻まれた
     1773(安永02)までの7年間に23万1千貫が造られる
  「長崎実録大成」がさらなる新資料により手が加わり本文12巻、年表4巻、計16巻にまとまる
     「長崎実録大成」は聖堂書記役の田辺茂啓が1764(宝暦14・明和01)に完成させる
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1767(明和04)頃

  出島に玉突き台(ビリヤード)がオランダから伝来

1768(明和05)【後桜町】 戊子(つちのえね)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》石谷備後守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス

  01/14幕府が島原侯預かりの肥前彼杵郡と高来郡のうち7か村を長崎代官に附属させる
     7か村は彼杵郡のうち野母村と高濱村、高来郡のうち川原村、樺島村、茂木村、日見村、古賀村
  01/30聖堂書記役の田辺茂啓(81)が没する
  02/02夜、南馬町より出火。出来大工町、大井手町、今博多町に延焼。町使、散使長屋その他339戸と青光寺を焼失
     罹災者に箇所持1戸銭1貫文、借家居住米1斗、家族1人米5升を与える
     村山和由、安川吉左衛門、上田嘉左衛門らが300貫文をだし罹災貧民245人に施す
  08/08キャプテン・クック率いるエンデバー号がイングランドのプリマスを出航
     マデリア諸島を経て、アフリカ西岸に沿って進み、大西洋を横断して南アメリカに向かう
     11/03リオデジャネイロに到着。ホーン岬をまわり南太平洋に入る
     1769(明和06)04/13タヒチに到着。金星の日面通過観測のために3か月停泊する
     表向きの指令は終了。さらにエンデバー号は南半球を航行する秘密任務に従事する
     のちエンデバー号はタヒチからニュージーランドへ
     10/06ニュージーランドに到着。6か月かけて海岸線の測量を行なう。終えて西に航行
     1770(明和07)04/19オーストラリア大陸を発見
     04/29大きな浅い入り江に入り、砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊
     一行はオーストラリア大陸によヨーロッパ人最初の上陸を行なう
     のち4か月にわたりオーストラリア沿岸を測量
     06/10夜11時前エンデバー号は、グレートバリアリーフ内の珊瑚礁に衝突
     のち船の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、ヨーク岬半島の北端を通過
     バタヴィアからケープタウンを巡る
     1771(明和08)07/11帰還【06/12?】
  08/寺院地域の境界を正し墓地の区域を定めさせる
  11/22辰中刻、唐人屋敷より出火。2棟、観音堂の籠所1棟、獄屋を焼失
     【唐人居宅5軒、観音堂、獄屋が焼失】   12/03夜、油屋町より出火
  12/08長崎村高野平郷より出火
  「長崎くんち」(5)[1766(明和03)の火事調整]…油屋町、今石灰町、今籠町、
     今鍛冶屋町、新石灰町、東浜町、東古川町、本古川町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  中島真兵衛が御薬園掛兼任、薬種目利頭取となる
  平賀源内が田沼意次の知遇を得て2度目の長崎遊学
     大通詞吉雄幸左衛門(耕牛)宅に泊まり、指導により「トドネウス草木誌」の翻訳に従事
     通詞・西善三郎から壊れたエレキテル(摩擦起電器)を入手
     1770(明和07)江戸へ戻る。外国人から購入した「雲中飛行船」の図を田沼主殿頭に贈る
     のち長崎で入手した起電機をヒントにエレキテルやコンパスを発明
  福田十郎右衛門が町年寄世襲になる
  唐船から寺社への寄進物品は長崎会所にいったん受け入れ、その代金を寺社に交付することに改める
  大村町に竜脳座を新設する
     竜脳は樟脳に似た爽快な芳香を放ち、香料の調合原料や薫香、売薬、口腔剤、墨などの付香、防虫剤などに多量用いられる
     1782(天明02)廃止となる
  蘭船がペルシア産雄馬を舶載
     1769(明和06)前年に引き続き蘭船がペルシア産雄馬を舶載
     1770(明和07)前年、前々年に引き続き蘭船がペルシア産雄馬を舶載
  唐船9隻、蘭船1隻が入港

1769(明和06)【後桜町】 己丑(つちのとうし)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》新見加賀守(08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←11/08)(11/09→)オルフェルト・エリアス

  01/02暁、出来大工町より出火
  03/21西古川町の宇平次ら6人が香焼島で行なわれた恒例の弘法大師法要からの帰途、酒に酔った挙句、黒人と喧嘩
     20日戸締めの刑に処せられる
     押し込め(門を閉じておくだけ)、戸締め(門が釘付け)の刑罰は謹慎をして自宅に閉じこもり外出を禁じられる
  04/13キャプテン・クック率いるエンデバー号がタヒチに到着
     金星の日面通過観測のために3か月停泊する
     表向きの指令は終了。さらにエンデバー号は南半球を航行する秘密任務に従事する
     のちエンデバー号はタヒチからニュージーランドへ
     10/06ニュージーランドに到着。6か月かけて海岸線の測量を行なう。終えて西に航行
     1770(明和07)04/19オーストラリア大陸を発見
  12/21大坂回船の長寿丸が長崎御用銅100斤入りの箱300を積み込み港外の福田浦に入津する
     夜半の突風で神の島の浅瀬に乗り上げ浸水、積み荷が流される
     積み荷は大切な御用銅であり、盗難防止のため地上にはくまなく見張りを立てる
     役所の手で沈み銅の引き揚げが行なわれるが、60箱分が不足
     船頭の利右衛門が急度(きっと)叱り、水主4人が叱りの処分をうける
     叱りの刑罰はもっとも軽いもの、少し厳しい叱り方が急度叱り
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  前年に引き続き蘭船がペルシア産雄馬を舶載
     1770(明和07)前年、前々年に引き続き蘭船がペルシア産雄馬を舶載
  スコットランドのエディンバラでブリタニカ百科事典100分冊を週刊で発行
     のちイギリスの教養を要求するブルジョワジーに受け入れられ成功
     1771(明和08)完成後、3巻にまとめて初版を出版
     大項目主義をとり一流学者の44論文と単行本からの抜粋で構成される
  出来大工町の丈平の妻萩が孝行貞節により銀5枚を賞賜される
  林唯助、林忠次右衛門、安川吉左衛門、村山次郎左衛門、村山次兵衛の5人が私費で日見峠の道路を修理する
  江波市左衛門が私費で茂木の道路を修理する
  フランス東インド会社が財政的な困難のため解散。設立は1664(寛文04)
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1770(明和07)【後桃園】 庚寅(かのえとら)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》石谷備後守(06/17長崎奉行兼任を解く)、
      夏目和泉守(信政・前普請奉行・06/17発令・08/着)、新見加賀守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》オルフェルト・エリアス(←11/16)(11/17→)ダニエル・アルメノールト

  01/久松土岐太郎忠真が町年寄末席となる      1787(天明07)一代町年寄となる      のち長男の忠倫も町年寄末席から一代町年寄となる      のち2男の忠豊から世襲町年寄となる   04/19キャプテン・クック率いるエンデバー号がオーストラリア大陸を発見
     04/29大きな浅い入り江に入り、砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊
     一行はオーストラリア大陸によヨーロッパ人最初の上陸を行なう
     のち4か月にわたりオーストラリア沿岸を測量
     06/10夜11時前エンデバー号は、グレートバリアリーフ内の珊瑚礁に衝突
     のち船の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、ヨーク岬半島の北端を通過
     バタヴィアからケープタウンを巡る
     1771(明和08)07/11帰還【06/12?】
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
     出来鍛冶屋町の傘鉾がつくられる【1780(安永09)?】
  平賀源内が2度目の長崎遊学から江戸へ戻る。外国人から購入した「雲中飛行船」の図を田沼主殿頭に贈る
     のち長崎で入手した起電機をヒントにエレキテルやコンパスを発明
  前年、前々年に引き続き蘭船がペルシア産雄馬を舶載
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1770(明和07)頃

  中津藩医の前野良沢が長崎に来遊。吉雄耕牛から蘭学を学ぶ

1771(明和08)【後桃園】 辛卯(かのとう)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》新見加賀守(09/着)、夏目和泉守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←11/09)(11/10→)アレント・ウイルレム・フェイト

  03/04杉田玄白、前野良沢らが千住の小塚原で行なわれた死刑囚の腑分けを見学
     玄白と良沢の2人はオランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」をそれぞれ所持
     実際の解剖と見比べて「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚嘆
     玄白はこれを翻訳しようと良沢に提案。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同する
     03/05中川淳庵も加えて前野良沢邸に集まり、翻訳を開始する
     1774(安永03)08/前野良沢・杉田玄白・中川順庵・桂川甫周らが「解体新書」を刊行
     人体解剖学を初めて日本に紹介
  06/蘭船が筑前人1人を送ってくる
     この筑前人は仲間19人と1764(明和01)10月に津軽を出帆
     塩屋崎で風波にあいカラカアン島に漂着。生存者はみな奴隷として売られる
     筑前人1人は6年を経て蘭人の世話によりジャカルタへ行き、蘭総督の世話をうける
     のち蘭総督へ米50俵、甲比丹に30俵、船長に20俵を贈る
  07/11探検を終えたキャプテン・クック率いるエンデバー号がイングランドに帰還【06/12?】
     出航は1768(明和05) 08/08
  07/16薩摩侯島津栄翁が江戸より帰城の途次、従者1千余人とともに来崎
     08/09長崎をあとに海路帰府へ
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、平戸町、
     八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町(相撲踊)、西浜町、銀屋町、諏訪町
     島津重豪が長崎見学「くんちの薩摩踊を見られないのが心残り」
  長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)の石門が建立
  ブリタニカ百科事典100分冊が完成。3巻にまとめて初版を出版
     大項目主義をとり一流学者の44論文と単行本からの抜粋で構成される
  酒屋町の可登儀兵衛ら3人が抜け荷の広東人参が焼却されるとのうわさを耳にする
     払い下げの願い書を奉行に提出して急度叱りの処分をうける
  蘭通詞の本木栄之進が「阿蘭陀本草」を著す
  市中明細帳を改製する。長崎の家数1万0143、人口2万9897
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1772(明和09、安永01・11/16)【後桃園】 壬辰(みずのえたつ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》夏目和泉守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/03)(11/04→)ダニエル・アルメノールト

  04/01《02/29》午後1時頃、江戸目黒の大円寺から出火。明和の大火(目黒行人坂大火)が発生
     炎は南西からの風にあおられ麻布、京橋、日本橋へ。江戸城下の武家屋敷から神田、千住方面へ燃え広がる
     のち一旦は小塚原付近で鎮火
     02/29午後6時頃、本郷から再出火。駒込、根岸を焼く
     02/30昼頃、鎮火
     03/01午前10時頃、馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅
     類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数える
     山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災する
     死者は1万5千人、行方不明者は4千人を超える。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼
     放火犯は坊主の武州熊谷無宿の真秀
     04/頃火付盗賊改長官である長谷川宣雄の配下により捕縛される
     06/22市中引き回しの上、小塚原で火刑に処される
  07/02夜半より翌朝まで大風雨。唐船5隻が破損したほか、家や船に被害が多くでる
  07/02東渕山雲龍寺の紫藤が大風により折れる。寺も衰微
     東渕山雲竜寺は桜馬場町観音堂から蛍茶屋方面一帯の山岡氏の荘に建つ。初夏に咲く紫藤が有名
     1868(明治01)廃寺となる
  08/12夜、大雨洪水で橋梁の破損が多くでる
     濱町〜築町に架かる平橋の通称大橋…流出
     のち相継ぎ木橋が再架、修繕される
     1868(慶応04)08/01鉄橋に架け替え。鐵(くろがね)橋
  09/22酉刻、船津町より出火。小家6軒を延焼
  12/28唐通事で画家の熊代繍江(80)が没する
     沈南蘋が来朝の際に入門。ときに19歳、南蘋画風の名手に
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
     桶屋町の傘鉾垂れ・十二支刺繍が作られる
  唐船主魏之●(えん・王へんに炎)の曾孫で明楽の名手の魏君山(鉅鹿民部)が唐通事の家督を継がず上京。明楽の師範に
     酒井雅楽頭の扶持を受け河原御殿泉水で船楽を奏する
  唐船が「天学発函」を輸入する
     この本はキリスト教関係の図書であるとして、関係箇所を墨で塗りつぶし、輸入を許可せず
  網場の茂八がかたった米を丸山町遊女屋の春蔵に預け、その代金で遊興する。茂八は百敲の上、追っ払いの刑に処せられる
     敲は裸にしてむしろの上に腹ばいにさせ、手足を押さえつけて打ち役が箒尻でたたく体刑
     罪の軽重により五十敲(軽敲)と百敲(重敲)がある
     払いは罪の軽重により門前払い、居町払い、長崎払い、長崎市中郷中払いと範囲が広がる
  長崎総町80か町、人口2万9574人
     江戸町…414、出島町…052、外浦町…176、島原町…141、大村町…179、平戸町……170、本博多町……233、堀町……133、
     新町……144、本興善町169、後興善町219、新興善町253、豊後町…234、樺島町……361、金屋町………232、今町……408、
     本五島町383、浦五島町240、船津町…312、恵美須町613、大黒町…559、西中町……544、西上町………365、下筑後町258、
     桜町……237、内中町…238、小川町…286、東中町…422、東上町…431、上筑後町…273、八百屋町……276、勝山町…414、
     炉粕町…381、北馬町…312、南馬町…258、新大工町705、伊勢町…375、出来大工町478、大井手町……350、今博多町351、
     古町……338、桶屋町…481、八幡町…601、本紙屋町416、麹屋町…549、今紺屋町…417、中紺屋町……250、引地町…209、
     本大工町600、今魚町…521、酒屋町…331、袋町……323、本紺屋町175、今下町……180、本下町………400、材木町…300、
     西築町…331、東築町…329、新橋町…293、諏訪町…361、磨屋町…314、銀屋町……553、西古川町……370、東古川町307、
     本古川町407、榎津町…502、万屋町…666、西浜町…523、東浜町…563、今鍛冶屋町338、出来鍛冶屋町309、今籠町…339、
     今石灰町312、新石灰町316、油屋町…608、本石灰町715、丸山町…517、寄合町……838、船大工町……658、本籠町…435
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1773(安永02)【後桃園】 癸巳(みずのとみ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》夏目和泉守(06/12死去・本蓮寺に埋葬)、桑原能登守(盛員・前目付・07/18発令・08/着)、新見加賀守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←11/22)(11/23→)アレント・ウイルレム・フェイト

  07/14蘭大通詞の今村英生(55)が没する。今村は新井白石を助けシドチの尋問に功する
  09/18夜、浦上山里村中野郷より出火
  12/11夜、豊後町の堺屋新十郎宅の下女が小用のため明りを灯し、途中火の先が落下し出火。新町に延焼し数10戸が焼失
      豊後町・堺屋新十郎宅下女押込
     罹災者に米銭を給与
     以下2人は出火の折り片づけ手伝いをした際、預かった道具を売払って銭にかえる
      東古川町・武兵次入牢
      東古川町・源太郎手鎖町預
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  高野平郷の宝樹山現応寺が市中の町々、人々の寄付により再建
     1819(文政02)一の鳥居が風頭石で建立
  蘭通詞の吉雄耕牛が甲比丹とともに江戸参府をする。前野良沢、杉田玄白らを指導する
  岩屋山神通寺に「密蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     のち寺運衰微。寺観の壮大を誇った女人禁制の一大霊場も廃滅
     1868(明治01)岩屋神社に
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1774(安永03)【後桃園】 甲午(きのえうま)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》新見加賀守(09/発・11/26作事奉行転出)、桑原能登守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/10)(11/11→)ダニエル・アルメノールト

  02/唐船が舟山列島漂着の薩摩家臣17人を送還
  08/前野良沢・杉田玄白・中川順庵・桂川甫周らが「解体新書」を刊行
     人体解剖学を初めて日本に紹介
  09/18夜明、浦上山里村中野郷より出火
  12/20明楽の名手●(金偏に巨)鹿民部(47)が没する
     民部は●(金偏に巨)鹿家の祖、九官魏之●(王偏に炎)の曽孫
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  唐通詞の志筑忠雄(中野柳圃)が官命により「天地二球用法」4巻を翻訳する
  豊後町(高札場跡地)の報時所(鐘撞所)の鐘が破損し改鋳する
     1903(明治36)10/05長崎市が長崎測候所に委託し午砲を発射することに
     時撞と時旗での知らでは、市内の戸数2万戸、人口15万人すべてに行き届かないため
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1775(安永04)【後桃園】 乙未(きのとひつじ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》柘植長門守(正寔・前佐渡奉行・06/08発令・09/着)、桑原能登守(10/発・11/17作事奉行転出)、
      久世丹後守(広民・前浦賀奉行・12/03発令)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←10/28→)アレント・ウイルレム・フェイト

  03/03夜明、酒屋町とよ宅より手燭の火先が落ち出火。風が強く消防困難で大火に。51戸が焼失
     酒屋町の魏九官の居宅が類焼。家も庭園もすべてが唐風で、焼けるときに木材の異香が空高く薫じて遠い町々にまで及ぶ
      酒屋町・とよ押込10日
     銀屋町の嘉三郎は駆けつけ世話をし風呂敷を預かり質入れしたことが発覚入牢
     罹災者に米銭を給与
  03/09森崎社の神事能復活。1707(宝永04)の廃止以来68年ぶり
  04/イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領13植民地との間でアメリカ独立戦争が起きる
     革命派は13植民地政府の全てを掌握。政治と立法を主に担当する第2次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させる
     戦争の全期間を通して、イギリス海軍の優越性によりアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領
     陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものに
     1776(安永05)07/04アメリカ独立宣言を発し正式にアメリカ合衆国という国家の形をとる
     イギリス(グレートブリテン王国)により統治されていた13の植民地が独立
     大陸会議で採択される。正式にアメリカ合衆国がつくられる
     1778(安永07)02/06フランスがアメリカ側について参戦
     のちスペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もアメリカ側に
     1781(天明01)09/05フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利
     アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘が終了
     1783(天明03)09/03パリ講和条約調印しアメリカ独立戦争終結。イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認
  08/14《07/19》スウエーデン人カール・ペーテル・ツユンベリーがオランダ商館医として来日
     【07/15?】
     蘭通詞たちに医学・薬学・植物学等を教える。出島3学者の1人
     東インド会社の外科医の資格で出島オランダ商館医として2年間滞在
     09/約1年間にわたって気温の観測を1日4回行なう
     閏12/18長崎郊外で植物を採集することが許される
     1776(安永05)01/07甲比丹フェイトに随行し江戸参府に出発
     04/27《03/10》江戸参府に随行し、江戸に到着
     宿舎の長崎屋では日本の医師や天文方などに大いに影響を与える
     植物に関する標本や知識と引き換えに西洋科学、医学や博物学の知識を与える
     天文方佐々木文次郎、澁川図書、幕医岡田養仙、栗崎道巴(のち道有)、天野良順、久志本常周らの訪問をうける
     幕府医官桂川甫周、小浜藩医中川淳庵は連日のように訪ね、物理学、経済学、植物学、内科、外科学等を熱心に学ぶ
     桂川甫周、中川順庵、吉雄耕牛らに医学上の指導
     「解体新書」訳出の桂川、中川を特に愛弟子と認め、メスや外科用具を譲り臨床外科教育を教授
     05/15帰崎
     同年長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本を採取
     10/23わずか1年の滞在ののち長崎を出帆帰国
     日本滞在中、日本植物の研究を行ったほか、日本の政治・経済・学芸に関心をもつ
     のちスウェーデンに帰国後、師リンネの後のウプサラ大学植物学教授を経てこの大学の学長となる
     1784(天明04)日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
     1791(寛政03)帰国後の著書「旅行記」の第3巻で江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない
  ツンベルグの「日本紀行」(1775〜1776)に野菜が記載される
     長崎市郊外で栽培された黄色ニンジン(Daucus Carotta)
     洋種として赤カブ
     長崎市内で各種ネギ(Allium fistuosum.Cepa)
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  カステラ本家・福砂屋が6代目市良次の頃、引地町から市中の発展と共に船大工町に移転
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1776(安永05)【後桃園】 丙申(ひのえさる)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》久世丹後守(08/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/22)(11/23→)ヘンドリック・ホッドフリート・デュルコープ

  01/07出島オランダ商館医のカール・ペター・ツユンベリーが甲比丹フェイトに随行し江戸参府に出発
     04/27《03/10》江戸参府に随行し、江戸に到着
     宿舎の長崎屋では日本の医師や天文方などに大いに影響を与える
     植物に関する標本や知識と引き換えに西洋科学、医学や博物学の知識を与える
     天文方佐々木文次郎、澁川図書、幕医岡田養仙、栗崎道巴(のち道有)、天野良順、久志本常周らの訪問をうける
     幕府医官桂川甫周、小浜藩医中川淳庵は連日のように訪ね、物理学、経済学、植物学、内科、外科学等を熱心に学ぶ
     桂川甫周、中川順庵、吉雄耕牛らに医学上の指導
     「解体新書」訳出の桂川、中川を特に愛弟子と認め、メスや外科用具を譲り臨床外科教育を教授
     05/15帰崎
     同年長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本を採取
     10/23わずか1年の滞在ののち長崎を出帆帰国
     日本滞在中、日本植物の研究を行ったほか、日本の政治・経済・学芸に関心をもつ
     のちスウェーデンに帰国後、師リンネの後のウプサラ大学植物学教授を経てこの大学の学長となる
     1784(天明04)日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
  04/01諏方社が将軍家治の日光社参に際し、社頭で武運長久祈願を行なう
     04/22まで
  07/04アメリカが独立宣言を発し正式にアメリカ合衆国という国家の形をとる
     イギリス(グレートブリテン王国)により統治されていた13の植民地が独立
     大陸会議で採択される。正式にアメリカ合衆国がつくられる
     1778(安永07)02/06フランスがアメリカ側について独立戦争に参戦
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  広川某の「長崎見聞見録」に玉人参と洋角人参の図示が載る
  本石灰町の孝子瀬右衛門に銀5枚を賞賜
  愛宕山祭礼のとき、市中から米ひきをした際、萬屋町の旅館呼子屋に滞在の鯨組主人の中原甚六が鯨引きを勧める
     萬屋町の諏訪神社大祭「おくんち」の奉納踊りとして採用
     1778(安永07)くんち奉納踊りに、初めて鯨引き(俗に鯨の潮吹き)がでる
  佐嘉の蔵屋敷を拡張する
     1804(文化01)09/上五島町の佐嘉藩屋敷の改築がなる。手狭で藩主が滞留のとき差支えるために改築
     佐嘉藩は長崎警備の任にあたる必要上、五島町に屋敷を設け常に家臣を駐在させる
     藩主も年ごとの長崎を例としたが、急変があるときは屋敷が屯所となる
     1866(慶応02)07/諸藩屋敷は大黒町の佐嘉屋敷を除いて全廃に
  唐船が唐国漂流の奥州人13人を送還
  福江に麻疹が流行する
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1776(安永05)頃

  矢上地方で人参(西洋人参)の栽培が始まる

1777(安永06)【後桃園】 丁酉(ひのととり)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》柘植長門守(08/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヘンドリック・ホッドフリート・デュルコープ(←11/11)(11/12→)アレント・ウイルレム・フェイト

  04/01酒屋町より出火
  04/24夜、長崎村伊良林郷の平右衛門借家きん宅より出火。26戸を焼失
      伊良林郷・きん村預、差免のち八幡町・倅勘六押込
     長崎村伊良林郷の平右衛門借家多三太が出火の折り、きんらと火元を論争し消火に精を出さず
  06/28浦上山里村里郷より出火。14戸焼失
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  天草高濱村の庄屋上田伝五右衛門が奉行柘植長門守より外国輸出陶器の製造方を命じられる
     1778(安永07)出島に出張所を設け外国輸出向けの陶器を販売する
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1778(安永07)【後桃園】 戊戌(つちのえいぬ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト

  02/06アメリカ独立戦争でフランスがアメリカ側について参戦
     のちスペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もアメリカ側に
     1781(天明01)09/05フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利
     アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘が終了
  03/07ジェームズ・クックが3回目の太平洋航海でハワイ島を発見
     ハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となる
     クックはハワイ諸島を「サンドウィッチ諸島」と命名する
     カウアイ島に上陸。時の海軍大臣で探検航海の重要な擁護者のサンドウィッチ伯の名前から
  06/ロシア船がエゾ地にきて通商を求める
  07/27出島商館長として赴任するはずのデュールコープがオランダ船フィス・テスピック号の船上で急病のため死亡
     【ケンドリック・ガッドフリード・ダークープ(42)のこと?】
     08/09密封保存された遺体が長崎に到着【08/15?】
     悟真寺での葬儀は様々な模様の旗が風に翻る中、葬儀は盛大に執り行なわれオランダ人の同胞は喪服で正装して参列
     遺体はオランダ人墓地28番に埋葬
     埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱える
     新カピタンへんでれき・でゆるこうふの名で風説書が幕府に提出される
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     万屋町の「鯨引き(鯨潮吹き)」がはじめて奉納される
  蘭船が日本に初めて火喰鳥(駝鳥)を運んでくる【1789(天明09・寛政01)07/?】
  天草高濱村の庄屋上田伝五右衛門が出島に出張所を設け外国輸出向けの陶器を販売する
     上田伝五右衛門は前年に奉行柘植長門守より外国輸出陶器の製造方を命じられる
  蘭船がペルシア産の雄馬2頭を輸入する。数年間にわたり良馬を持ち渡り銅5万斤を賞賜
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1779(安永08)【光格】 己亥(つちのとい)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》柘植長門守(09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/28)(11/29→)イサーク・ティチング

  08/イサーク・ティチングが商館長として来朝する
     ティチングは薩摩の太守島津重豪や福知山藩主の朽木昌綱などと親交があり、特に重豪のため欧州の造船航海知識を大いに啓発
     日本でブームを迎えていた欧州に浮世絵を紹介し、後年、印象派の画家たちに大きな影響を与える
     1822(文政05)ティチングの死後に出版された著書「日本図説」で諏訪祭礼を伝える
  11/08《10/01》桜島で大噴火(安永大噴火)が起きる
     朝、井戸水が沸き立ち海面が変色するなどの異変が観察。正午頃、南岳山頂付近で白煙が目撃される
     昼過ぎ、桜島南部から大噴火がはじまる。直後、桜島北東部からも噴火がはじまる
     夕方、南側火口付近から火砕流が流れくだる
     夕方から翌朝、大量の軽石や火山灰を噴出、江戸や長崎でも降灰する
     11/09《10/02》北岳の北東部山腹と南岳の南側山腹から溶岩の流出がはじまる
     11/10《10/03》溶岩が海岸に達する(安永溶岩)
     1780(安永09)08/06《07/06》桜島北東海上で海底噴火が発生
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  平戸藩9代藩主清(静山)のとき藩校「維新館」が設けられる
  薩摩藩が薬園を設置
  遠見番の孫之進が六平次、五郎作らと共謀し自宅の床下から唐人屋敷へ地下道を掘り唐人と密商をする
     孫之進は引き回しの上、獄門。六平次、五郎作は壱岐へ流罪となる
     【元遠見番の福井孫平次をさらし首、唐稽古通事の三浦友次を斬り、
     同犯2人を壱岐に流す。同犯の唐通事潁川八十郎ら数人は逃亡する?】
  長崎の家数1万2096(家持1953・借家1万0143)、人口3万0006(男1万4638・女1万5368)
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1780(安永09)【光格】 庚子(かのえね)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》イサーク・ティチング(←11/05)(11/06→)アレント・ウイルレム・フェイト

  05/さらに寺院の境界を正し、みだりに墓地をつくることを禁止する
  08/06《07/06》桜島北東海上で海底噴火が発生
     1779(安永08)から続く桜島で大噴火(安永大噴火)
     1781(安永10)04/11《03/18》昨年とほぼ同じ場所で海底噴火、津波が発生し被害が報告される
     一連の海底火山活動により桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成。安永諸島と名づけられる
     一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方粁、軽石が約0.4立方粁に
     薩摩藩の報告によると死者153人、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上となる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  11/唐船が漂流の越後人12人を送還
  冬地球規模で小氷期に見舞われる
     ニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテンアイランドへ歩いて渡ることが可能に
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1781(安永10、天明01・04/02)【光格】 辛丑(かのとうし)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》柘植長門守(09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興(10/23死去)、高木作右衛門忠任(12/任)
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/23)(11/24→)イサーク・ティチング

  01/25米方、社寺方の管理を町年寄から長崎代官の所属に移す
  02/農作物を荒らすため郷地での凧揚げを禁じる
  03/13イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルが太陽系の惑星・天王星を発見する
     天王星は、太陽系の太陽から7番目の惑星で太陽系の惑星のなかで3番目に大きい
  04/11《03/18》昨年とほぼ同じ桜島北東海上で海底噴火、津波が発生し被害が報告される
     1779(安永08)から続く桜島で大噴火(安永大噴火)
     一連の海底火山活動により桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成。安永諸島と名づけられる
     一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方粁、軽石が約0.4立方粁に
     薩摩藩の報告によると死者153人、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上となる
  06/唐船が漂着。薪水米を給し帰国させる
  09/05アメリカ独立戦争でフランス海軍がチェサピーク湾の海戦にて勝利
     アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘が終了
     1783(天明03)09/03パリ講和条約調印しアメリカ独立戦争終結。イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  唐船主周壬録は寄合町引田屋の遊女えにしを病気のため全快まで唐館に滞在させたいと願い出
     町年寄高島四郎兵衛から唐館番人へ許可が通達
  輸入禁止の広東人参を没収、1764(明和01)9月に続いて、ふたたび焼き捨てる
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1782(天明02)【光格】 壬寅(みずのえとら)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》イサーク・ティチング

  01/25夜、袋町の河内屋喜平次宅より出火。15戸を焼失
  02/芝居および浄瑠璃夜会の興行を年6回に制限する
  03/西古川町の袋町橋たもとに「町内安全鎮護」の石柱と地蔵(地蔵菩薩半跏像)が地元住民から寄進
     のち地蔵の効力により西古川町界隈に大火が起きなくなる
     のち紺屋町町民より「香炉」の寄進を受ける
     1926(大正15)西古川町町民より「りん」の寄進を受ける
     1950(昭和25)本下町町民より「幔幕」の寄進を受ける
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で中島川に架かる石橋群が流失
     地蔵他を西古川町町内で仮安置する
     2006(平成18)07/中島川左岸の護岸工事が完成。袋橋たもとに新しく祠を建て「町内安全鎮護」の石碑とともに安置
  04/職工の賃銭を定める
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  米価が高騰し盗賊や放火が多くなる
     蘭船が入港せず米価が高いため12/に下付する予定の「かまど銀」半額を11月に支給
     地役人が巡羅して盗賊や放火を取り締まる
  オランダカピタンのイザアク・チチングが寄合町筑後屋の太夫格遊女浮音を出島に呼び入れる
     太夫の出島入りは初めて
  大村町の竜脳座が廃止となる
     竜脳は樟脳に似た爽快な芳香を放ち、香料の調合原料や薫香、売薬、口腔剤、墨などの付香、防虫剤などに多量用いられる
  甲比丹のイサーク・ティチングが寄合町筑後屋の太夫格遊女浮音を出島に呼び入れる
     太夫の出島入りは初めて。元来、太夫格の遊女は日本人のみを相手とし唐紅毛人に呼び入れられることはなかった
  茂木村の非人乙八は幼少から百姓のせがれと偽り長崎市中に野菜の行商をし追放となる
  唐船13隻、蘭船0隻が入港

1783(天明03)【光格】 癸卯(みずのとう)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》柘植長門守(03/20作事奉行転出)、
      土屋駿河守(守直・前大坂町奉行・04/19発令・09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》イサーク・ティチング(←10/26)(10/27→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  01/仙台藩の医師工藤平助(50)が「赤蝦夷(露人)風説考」を田沼意次に献上
     対露貿易と蝦夷地開発を提案する
     1785(天明05)林子平が「三国通覧図説」を発表する。三国とは朝鮮、琉球、蝦夷地のこと
     日本との里程を示し、国防的観点からそれら四地域の地理や風俗について解説
     蝦夷地を本土並に開発することでロシアの侵略政策に対抗し得ると主張する
     のち年内、田沼意次は工藤平助・林子平の提案を受け、対露貿易の拠点である蝦夷の開発計画を立案
     1786(天明06)最上徳内(33)を択捉(エトロフ)、得撫(ウルップ)に派遣
  02/米価騰貴、米1升銭120文に
     奉行は窮民に米を与える−方、近国諸侯に手配し米を回送させる。1升銭80文に下がる
  02/大坂で米価騰貴、米買い占めのため打ち壊しがおきる
  04/13《03/12》岩木山が噴火し新火口を形成。周囲に火山灰を降らせ天明の大飢饉の一因に
  04/諫早家第8代領主の茂図が郷校「好古館」を創設
  06/24フランスの化学者ラヴォアジェが高温の鉄パイプに水蒸気を通すと燃える気体が発生することを発見
     水が水素と酸素の化合物であることを発見する
  06/28夕、茂木村本郷より出火。63戸を焼失。罹災者に会所銀より1戸につき銀15匁を貸与する
  08/03《07/06》浅間山が大噴火。08/05までの3日間で大災害を引き起こす
     北西方向に溶岩流(鬼押出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生
     のち約3か月続いた活動で山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発と噴火の震動に耐えきれず崩壊
     大規模な土石なだれとなり北側へ高速で押し寄せる。高速化した巨大な流れは山麓の大地をえぐり流下
     天然にできたダムは決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込む
     嬬恋村鎌原と長野原の一部を壊滅。吾妻川に流れ込み川をせき止める
     吾妻川から本流の利根川へ入りこむと被害は前橋あたりまで及ぶことに
     さらに利根川の支流、江戸川まで泥流が流入する。多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられる
     被災した死者は約1500人。天明の大飢饉の一因に
  08/農村では百姓一揆、都市では打ち壊しが起こる
  09/03パリ講和条約調印しアメリカ独立戦争終結。イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認
  09/19パリのベルサイユ宮殿前広場で、国王ルイ16世の見守る中、気球が2.4粁、8分間の飛行にも成功
     バスケットには羊、アヒル、雄鶏それぞれ1匹ずつが乗る
     実験をしたモンゴルフィエ兄弟にはルイ16世から勲章を与えられる
  09/奉行久世丹後守が江戸に戻るとき町民は馬場郷まで見送る
     なかには日見・矢上まで見送って恩を感謝する者もあり、また諏方社に額を奉納して奉行の武運長久を祈る
  09/大槻玄沢が「蘭学階梯」をつくる
  11/幕府が百姓一揆取締令をだす
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  米価がますます騰貴して米1升120文に
     長崎奉行久世丹後守が近国の諸侯に米を依頼し船で輸送。1升80文に下がる
     貧民1戸につき米1斗を渡す
  古川古松軒の「西遊雑記」より
     「…出島の出入口の石橋には何時も紅毛人や黒人が出て来て、日本人を見ては蛮語で戯れるが、
     長崎の町人は聞きなれている故か大体理解し、紅毛人や黒人も日本語を6、7割は理解する…」
  五島の岐宿に疱瘡が流行する
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1784(天明04)【光格】 甲辰(きのえたつ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》久世丹後守(03/12勘定奉行転出)、戸田出雲守(氏武(氏孟)・前佐渡奉行・03/12発令・07/着)、
      土屋駿河守(05/18死去・春徳寺に埋葬)、土屋伊豫守(正延・前京都町奉行・07/26発令)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  02/23福岡の志賀島の畑から金印が発掘される
     掘りだしたのは秀治と喜平という2人の小作人
     この印鑑は1辺2.3糎の四角形で重さ108.7瓦の純金製
     印面には「国委漢王奴」の5文字が彫られ、通常「漢の委(わ)の奴(な)の国の王」と読まれる
  03/向井去来の句碑、芒塚が日見峠道に建てられる
     玉淵の発起と崎陽蕉門末流某などの協力で頭部に狛犬を彫った唐印型の句碑と_州文慧の撰文と銘を刻んだ石柱が建つ
     1856(安政03)修復される
     1926(大正15)10/俳人の田士英らが主宰する「あざみ会」が金300円を投じて碑文の基礎にコンクリートを施すなど補修
     のち国道改修のため当初の建立位置が変わる
     1986(昭和61)12/上屋が建つ
  07/24巳刻(午前10時頃)、唐人屋敷内の大工小屋より出火。唐人屋敷がほとんど全焼
     東風が強く関帝堂を除き観音堂、土神祠、その外諸部屋を焼き、二の門まで焼失
     在留唐人892名は唐4か寺に分散収容して唐館内に仮屋を建てる
     のち再建。長屋は12楝(3間×9間の2階建、延べ床面積648坪)と4分の1に縮小
     のち仮設住宅完成後、戻る
     08/01前夜からの大風で仮設住宅がみな倒壊
     1859(安政06)開国後は廃屋化
     土神堂が焼失
       のち唐三ケ寺(興福寺・崇福寺・福済寺)の●●により復旧、数度改修
       1950(昭和25)09/13老朽化のため石殿のみを残し解体
     観音堂がで焼失
       1787(天明07)再建
     天后堂は焼け残る
       1790(寛政02)重修
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  スウエーデンに帰国したカール・ペーテル・ツユンベリーが日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
     1791(寛政03)帰国後の著書「旅行記」の第3巻で江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない…
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1785(天明05)【光格】 乙巳(きのとみ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》土屋伊豫守(07/12死去・長崎に着任せず)、戸田出雲守(10/04死去・大音寺に埋葬)、
      松浦和泉守(信●(木編に呈)・前小普請奉行・07/24発令・10/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/21)(11/22→)J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  03/出島行きの遊女、禿(かむろ)は、入るときも出るときも江戸町の仲宿に立ち寄り人別改めを受ける
     丸山町、寄合町から毎日組頭1人、日行使1人が仲宿につめる
     組頭は毎日出島へ出張し遊女、禿の出入を見守り、乙名、組頭は遊女、禿の名前証文張に押印して出島大門蕃書に提出
  03/長崎会所に調役を置き、町年寄の久松善兵衛忠祇、薬師寺藤左衛門種栄を任命。一生のあいだ帯刀を許す
     1858(安政05)頭役と改称する
  03/唐大通事の林梅卿が町年寄末席並びに長崎会所改役に任ぜられ、10人扶持受用銀25貫目を給される
     外国銀の輸入にあたり功績があったため
  07/普請役の山本亦助らが九州筋浦回りとして来崎
     09/16帰府
  09/07朝から大降雨のため奉行所の指図で「長崎くんち」が夜4つ頃に渡御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  12/16《11/15》大槻玄沢が蘭学修業のため来崎。蘭館医ツュンベリーの愛弟子で通詞の吉雄耕牛に師事する
     オランダ通詞本木良永の家に寄宿しオランダ語を学ぶ
     江戸蘭学勃興期に長崎の蘭学は、その指導的立場に
     1786(天明06)長崎から郷里の仙台に帰り藩医となる
     のち江戸京橋に私塾芝蘭堂を開き蘭学教育にあたる
  長崎奉行、戸田出雲守は唐船主から遊女への贈砂糖を1千斤に限定し、猥りに多く与えることを禁じる
  卯11番船主、程赤城氏は遊女夕梅へ、辰8番船蒋嵩三氏は萩の戸へそれぞれ白砂糖2千斤を贈りたいと奉行所へ願い出
     例外として特別に許可が布告
     蒋嵩三氏は萩の戸へ手紙を認め書き送る
     「長崎会所から白砂糖の代金を受取ったらよくよく倹約して行く末の暮らし方を計りなさい。
     無駄遣いしたり、うっかり他人の口車に乗らぬ様に、切に祈っています」
     06/萩の戸は代銀4貫836匁8分8厘を受取る
  林子平が「三国通覧図説」を発表する。三国とは朝鮮、琉球、蝦夷地のこと
     日本との里程を示し、国防的観点からそれら四地域の地理や風俗について解説
     蝦夷地を本土並に開発することでロシアの侵略政策に対抗し得ると主張する
     のち年内、田沼意次は工藤平助と林子平の提案を受け、対露貿易の拠点である蝦夷の開発計画を立案
     工藤平助は1783(天明03)に「赤蝦夷(露人)風説考」献上し対露貿易と蝦夷地開発を提案する
     1786(天明06)最上徳内(33)を択捉(エトロフ)、得撫(ウルップ)に派遣
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1786(天明06)【光格】 丙午(ひのえうま)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)(→09/08)
  《奉行》水野若狭守(忠通・前西丸目付・02/20発令・09/着)、松浦和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール(←11/20)(11/21→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  01/正午ごろ、皆既日食がおきる
  02/06未刻、唐人屋敷より出火。小部屋1軒が焼失
  02/唐紅毛人から遊女への貰砂糖代金を長崎会所で渡す際は組頭が立ち会うこと
     唐人は遊女、遣手、遊女屋へ砂糖を贈る
      貰砂糖代金渡しは組頭、日行使が遊女、遣手、遊女屋など貰主を同伴して長崎会所へ出頭
     紅毛人は遊女、小使に砂糖を贈る
      貰砂糖代金を受け取る際は遊女、遊女小使だけを同伴して長崎会所へ出頭
  03/08長崎奉行松浦和泉守が町年寄久松士岐太郎へ指示
     丸山、寄合町の乙名、組頭、日行使へ通達
     1)奉行所、或いは岩原目付屋敷の家臣が遊女屋、揚屋へ来ても之を断り片時も留置かぬこと
     2)諸国蔵屋敷の者などと偽り遊女屋、揚屋も知り乍ら知らない振りをして遊興させることは絶対にならない
     如何に断っても承知しない時は、早速役所へ申し出ること
     他国の者と偽り遊女屋、揚屋でも気付かずに遊女を差し出すのも落ち度であり罰せられる
  田沼意次が最上徳内(33)を択捉(エトロフ)、得撫(ウルップ)に派遣
  06/薩摩より漂着唐人31人を護送する
  夏田上菊舎尼が34才のとき、傘狂の高弟百茶坊に誘われて、別府、博多とまわる
     佐賀で百茶坊と別れて、ひとり長崎にきて多くの同志たちと交わり沢山の作品を残す
      田上菊舎尼は本名田上道、長府藩士の長女として長門国豊浦郡田耕村に生まれ、16歳で結婚
      24才で夫に死別、復籍して長府町に住む父、御側医の由水と暮らす
      29才のとき出家(浄土真宗)し、郷里を後にそれからの一生を俳行脚に生きる
      九州遍路4回を含む全国行脚の旅は6、7千里以上に及び、それは74歳で亡くなるまで、ほとんど休むことなく続く
      茶、琴、句、歌、詩、書画に秀で、京都にあっては雲上人と交遊し、天下の文化人を知己に持つ
     1796(寛政08)春田上菊舎尼が44才のとき再来崎
     唐通事平野善次右衛門に就いて華音(中国語会話)を学び、漢詩の実作を始める
     在崎の中国人と漢詩の応酬をして、才能と度胸の持主であることを示す
  07/06夜、長崎村伊良林郷より出火
  07/唐船主王履階が多年唐銀輸入欠額のないことを賞して20年間褒美売りの証文を与える
  07/関東、陸奥で未曾有の大水害。江戸では被害大、諸国は大凶作に
  08/14夜、長崎村桜馬場郷より出火
  09/下10代将軍家治が死去
     諏方社は10月初旬までの17日間、大門と中門を閉じ神楽神供を中止して弔意を表わす
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  蘭学修業のため来崎し吉雄耕牛に師事していた大槻玄沢が長崎から郷里の仙台に帰り藩医となる
     蘭通詞本木良永の家に寄宿しオランダ語を学ぶ
     のち江戸京橋に私塾芝蘭堂を開き蘭学教育にあたる
  本籠町の大串五郎平が遠見番原才右衛門の建議により三国丸を建造
     外形は日本船。船底は唐船造りで、帆はオランダ式にする。よって三国丸
     長さ15間、幅4間、容積1500石。北国の俵物を輸送する
     1788(天明08)秋/羽州赤石湾で難破
  唐人屋敷の外囲いを拡める
  久留米藩が薬園を設置
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1787(天明07)【光格】 丁未(ひのとひつじ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)(04/15→)
  《奉行》松浦和泉守(03/12大目付転出)、末吉摂津守(利隆・前目付・03/12発令・09/着)、水野若狭守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/30)(12/01→)J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  01/25夜、恵美須町の忠右衛門宅の手燭の火先が落散し出火
     大黒町、西中町に延焼し島原、平戸屋敷その他118戸が焼失
      恵美須町・忠右衛門押込10日
  02/奉行所が各町に火事場道具の竜吐水、手桶、水龍、鳶口、大鋸、竹梯子、大団扇、火の子消しを備えさせる
     1812(文化09)11/18奉行所が各町に消防器具を規定する
     竜吐水1、水龍7、手桶5、鳶口7、大鋸1、火叩き(火の子消し)5、3間竹梯子1、大団扇3を備えさせる
     ほかに消防器めいめい存じ寄りで製造すること
     1822(文政05)同様の達しがだされる
  03/長崎奉行、水野若狭守が風俗戒飾令を公布
     長崎は繁華な、また豊かな町であり幕府からしばしば贅沢を戒める訓令がでる
     1)衣服は町年寄であっても絹、紬、羽二重に限ること
     紗綾、縮緬以上の物、呂、紗、茶苧、羅紗、羅背板、へるへとわん等の毛物類は着用禁止
     地下役人は右に準じ絹、紬に限ること
     2)筆者、小役人は木綿に限ること。勿論、越後縮み等も着用禁止
     それ以下の役人は襟、袖口等も絹、紬の類いを禁止する
     女の衣類も右に準じ華美になってはいけない。長崎の風俗は分に過ぎて華美であるから堅く戒めること
  05/28夜、町民多数が集合し米屋に押しかけ14軒を打ちこわす
     春以来、米価や物価が高騰し米1升124文から138文、麦70文に達し諸物価も準じることに
     奉行所が首謀者52人を逮捕投獄【53人?】
     米屋14軒…本五島町・北島伝九郎、本五島町・肥前屋久次郎、浦五島町・米屋作次郎、恵美須町・谷山忠蔵
     東築町・米屋源右衛門、東築町・長門屋平助、東築町・両国屋藤助、麹屋町・伊藤甚右衛門、西浜町・紅粉屋佐兵衛
     西浜町・木綿屋庄右衛門、西浜町・浜崎浅右衛門、今鍛冶屋町・米屋弥太郎、豊後町・松本甚平次
     秋/物価が若干下がる
  05/天明の大飢饉の影響で江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こる
     のち全国各地へ打ちこわしが広がる
  08/大坂の米価が下落したため秋になって長崎でも物価が下がり貧民に米を配給、銀を貸与
     奉行所は1戸につき銀10匁を貸与。市中賤者・極貧者に男1人に米3升、女・15才以下の男に米2升を与える
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  久松土岐太郎忠真が一代町年寄となる
     のち長男の忠倫も町年寄末席から一代町年寄となる
     のち2男の忠豊から世襲町年寄となる
  奉行所が出火の際の火消役付と場所詰を制定する
     1812(文化09)11/18奉行所が出火の際の火消役付と場所詰を制定する令が徹底せず町火消担当区域を定める
     一、奉行出馬の節、
       火事場へ召連れた炉粕町、内中町、麹屋町、八百屋町、東中町の5か町の町火消を手附出役が掌握指揮する
     一、豊後町は制札場詰、新橋町は御米方掛り詰、両町の町火消も手附出役に付き添う、風筋によって両所に分けて出動する
     一、立山役所の後を警備することになっていた中紺屋町、東上町の町火消は奉行出馬の際これを引率して消防命令を与える
     奉行遠山左衛門尉は年番町年寄・福田六左衛門、月番町年寄・高木清十郎立ち会いのもと「出火一件御書附」を定める
      出火場所の風上2町、風脇2町の町火消(各町30人あて)は出火場所に乙名の指揮で集結
      屋根に上がった2町の者は2人ともども屋根剥取りその他の消火につとめ、他の2箇所は水利の確保、送水、注水を担当
     他に武具蔵、長崎会所などの官公諸施設の受持ち町や薬師寺久左衛門以下9人の町年寄付属各3か町など細かに定める
     のち町相互の対抗意識から火消人足間に喧嘩口論が起こることに
  唐人屋敷内の焼失した観音堂が再建
     1917(大正06)華僑によって改築
     のち数度改修
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1788(天明08)【光格】 戊申(つちのえさる)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》水野若狭守(09/着)、末吉摂津守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  03/07《01/30》京都で史上最大規模の火災が発生。天明の大火。団栗焼け、申年の大火、京都大火、都焼けとも
     御所、二条城、京都所司代などの要所を軒並み焼失し、京都市街の8割以上が灰燼に帰す
     被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものに
     京都市中1967町のうち焼失した町は1424、焼失家屋は3万6797、焼失世帯6万5340、焼失寺院201、焼失神社37
     死者150。死者は公式記録の値引きが疑われ実際の死者は1800とも
  04/21夜、茂木村本郷より出火
  09/23渡御。「長崎くんち」が長崎奉行、喪中引き篭りのため日程変更09/25還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  諏訪神社の奉納踊り衣服は木綿着用の布達
  10/10司馬江漢が時津を経て長崎へ
     オランダ通詞などと交流し、江戸会所の商人に化けて出島に入り蘭館内外を写生
     司馬江漢…文明批判をも行なった江戸系洋風画の創始者
       1783(天明03)には蘭学を平賀源内や前野良沢らに学び、我が国最初の銅版画を作成
       写実的な油絵を描き桃山時代以降、中絶していた洋風画を再興
     11/14時津経由で長崎を発つ
     のち35日間の長崎滞在で見聞したことを「江漢西遊日記」」に記す
  秋/本籠町の大串五郎平が遠見番原才右衛門の建議により建造した三国丸が羽州赤石湾で難破
     外形は日本船。船底は唐船造りで、帆はオランダ式にする。日本、唐、蘭の合体で三国丸
     長さ15間、幅4間、容積1500石。北国の俵物を輸送する
  11/奉行水野若狭守が聖堂の月次講釈と唐通事唐韻勤学会を再興する
     1716(享保01)に創設されるが、一時、中絶していた
     大小通事を指導者として稽古通事に唐語の学習試験を行なう。詩作も試みる
     のちふたたび、一時、中絶する
     1839(天保10)三度び再興する
  12/08幕府が長崎奉行に抜け荷の取締りを命じる
  長崎の家数1万2272、人口3万2364
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1789(天明09、寛政01・01/25)【光格】 己酉(つちのととり)

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