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平成(5)
(表 紙)
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〈昭和時代(1)〉
▼
昭和時代初期
★
壱岐でニンニクの栽培面積が15haに
★
大村市黒丸町の種苗店が竹松地区でニンジン(丸山五寸)を栽培
▼
1926(大正15、昭和01・12/25)
【昭和】
丙寅(ひのえとら)
《総理大臣》
[第24代]加藤高明(→01/28)
[加藤高明内閣]加藤高明の死去により内務大臣若槻禮次郎が臨時兼任(01/28→01/30)
[第25代]若槻禮次郎(01/30→)
《知事》
[第23代(官選)]富永鴻
《市長》
[第9代]錦織幹(→11/10)
01/06
★
谷崎潤一郎
が家族を伴って長崎へ。4、5日逗留。大浦ジャパンホテルに宿泊する
→
01/08
☆
永見徳太郎に会い、広東犬を見て欲しくなる
→
01/13
☆
谷崎潤一郎1人で、午後1時長崎出帆の日本郵船「長崎丸」に乗船。上海へ向かう
01/22
★
長崎商業会議所が第1回商工業実務員学力検定試験を行なう(〜01/24)
正規の商業教育を受けることができない商工従業員に対する
甲種商業学校卒業程度の学力を標準として学力の検定試験を行ない、資格を与えるもの
試験委員は長崎高等商業学校の教授陣を委嘱
(1)法制経済(2)商事要項(3)商業地理(4)商業算術(5)簿記(6)英語(7)作文
各科目について試験を行ない、全科目合格者に学力検定証書を、科目合格者には学科合格証書を授与する制度
03/10
★
東洋汽船の桑港航路が日本郵船に移譲。天洋丸、春洋丸も移籍
→
1933(昭和08)06/06
☆
天洋丸が東洋商事に売却。神奈川鶴見に曳航
→
1933(昭和08)12/24
☆
天洋丸が浅野造船所で解体
→
1936(昭和11)10/01
☆
春洋丸が解体のため東京の甘粕産業に売却
→
1938(昭和13)02/18
☆
春洋丸が大阪で解体
03/
★
第2回水道拡張工事が行なわれ小ケ倉水源地が難工事の末に完成
完成までの間、水不足が続き錦織幹市長は再三にわたり市民より非難を受ける
総工費は503万8296円
03/
★
長崎〜台湾間の航路が開設される
03/
★
畑下(西彼杵半島北部地区)の田崎重郎を中心とした民営同業者航路の第2天興丸が遭難
死者18人、船長・辻脇甚太郎
→
1928(昭和03)
☆
西海町営船として瀬川村一円の組織となる
04/01
★
北松浦郡笛吹村、前方村、柳村が合併し小値賀村となる
→
1929(昭和04)04/01
☆
北松浦郡今福村に町制が敷かれ今福町となる
04/03
★
全長642米、高さ5.8米、幅員7.4米で日本最大規模のトンネル
日見国道隧道
完成。日本最長の歩行トンネル
技官は本田県千代と田原秀雄、経費47万円
→
2001(平成13)
☆
坑口のデザインが大正期の様式を色濃く残す日見トンネルが国の有形文化財に登録される
05/14
★
南山手に県下初の民間精神病院・杠葉(ゆずりは)病院が開院
05/27
★
長崎仏教婦人会の招きで京都西本願寺仏教婦人連合会本部長で歌人の九條武子が来崎
今町の山内家に宿泊、同町の慶華開館、銅座町の淳心園で講演
小ケ倉村極楽寺、長崎市大光寺にも足を運ぶ
05/
★
佐世保駅裏一帯が指定港湾となり念願の商港となる
07/01
★
南高来郡古部村と伊福村が合併し大正村となる
→
1927(昭和02)01/01
☆
南高来郡東有家村に町制が敷かれ有家町となる
07/02
★
口之津鉄道
により堂崎〜南有馬(現原城)が延伸開業し、島原湊〜南有馬(現原城)で営業運転を開始
→
1928(昭和03)03/01
☆
南有馬〜加津佐が延伸開業。島原湊〜加津佐で営業運転を開始
口之津鉄道の島原湊〜加津佐間36.2粁が全通する
07/14
★
雲仙ホテルが開業
→
1942(昭和17)11/20
☆
休業となり海軍病院となる
07/26
★
浦上川をまたぐ梁瀬町〜旭町の
稲佐橋
がボウストリングトラス鉄橋に架け替え
橋長23間4尺(42.6米)、幅員車道4間(7.2米)、歩道1間(1.8米)
→
1963(昭和38)
☆
コンクリート橋に架け替えられる
08/06
★
大震災の義援金を基金に発足した財団法人同潤会が鉄筋コンクリートの集合住宅を建設
耐震耐火で構造は近代的な和洋折衷
本所区向島中之郷町に138戸の中之郷アパートメント
中之郷アパートの設計は東大建築学科の内田祥三研究室で行なわれる
08/06
★
アメリカのガートルード・エダールが女性初のドーバー海峡横断遠泳に成功
ドーバー海峡はイギリス〜フランス間にある海峡。34粁(22マイル)
時間は14時間31分【14時間39分】
→
1982(昭和57)07/31
☆
早稲田大学3年の大貫映子が、ドーバー海峡横断泳に成功(日本人初の公認記録)
9時間32分で遠泳横断
前年に2回挑戦するも残念ながら泳ぎつかず、3回目にして達成
08/
★
豊予要塞司令部・壱岐要塞司令部が設置
08/
★
東京で同潤会最初の鉄筋コンクリート造アパート中之郷が竣工
09/26
★
桜町の「浸礼教会長崎講義所」が長崎市勝山町4番地に新会堂を献堂して移転
「浸礼教会長崎講義所」を「長崎バプテスト教会」と改める
→
1945(昭和20)08/09
☆
会堂が原爆被災の影響もあり破損がひどく、雨漏りや危険を伴う状況に
09/27
★
後藤新平
が再来崎
後藤新平は満鉄初代総裁、逓相兼鉄道院総裁、東京市長、帝都復興院総裁などを歴任
政治倫理化を目的にした講演行脚で、駅ホームには知事、市長、商議会頭、少年団幹部ら多数が出迎え
中島会館で少年団に関する講演を行ない、精洋亭での官民合同大歓迎会に出席
普選問題、長崎県の漁況、県民への警告を語る
09/28
★
鉄道車両にはじめて自動ドアが装備される。桜木町〜上野間の省線電車
それまでは車掌が1枚1枚ドアを閉める。駅での停車時間の短縮と指や荷物を挟んでしまう事故防止のため
自動ドアは停止時間の短縮になるが、残念ながら「指はさみ事故」は減らず
10/
★
「長崎くんち」(5)…寄合町(本踊)、桜町(本踊)、小川町(本踊)、
内中町(獅子踊)、西上町(川船)、八百屋町(曳段尻)、勝山町(大薩摩)、
恵美須町(恵美須船)、紺屋町(川船)、炉粕町(本踊)、伊勢町(本踊)、台場町(薩摩棒踊)
10/
★
日見峠道に建つ向井去来の句碑、芒塚が補修される
俳人の田士英らが主宰する「あざみ会」が金300円を投じて碑文の基礎にコンクリートを施すなど
→
のち
☆
国道改修のため当初の建立位置が変わる
→
1986(昭和61)12/
☆
上屋が建つ
11/
★
日本軍福岡歩兵第24連隊で差別事件が起こる
→
のち
☆
差別を糾弾する闘争を弾圧するために軍隊・警察が水平社による福岡連隊爆破事件を捏造
→
のち
☆
指導者を逮捕
→
1927(昭和02)01/31
☆
松本治一郎以下11人が起訴される
爆発物取締罰則違反及銃砲火薬取締施行規則違反
→
1927(昭和02)06/06
☆
午前10時福岡地方裁判所が判決をくだす
被告全員が即日控訴をする
→
1927(昭和02)12/14
☆
長崎控訴院で福岡連隊差別事件の第1回公判が開かれる
→
1928(昭和03)04/18
☆
第4回公判で有罪判決が下る
第1審で有罪となったのは12人、内1人は刑に服す
控訴した11人の内1人は分離裁判となり松本治一郎ら10人が判決を受ける
12/25
★
昭和に改元
★
興福寺内の長崎商業女学校が長崎女子商業学校と改称
→
1936(昭和11)
☆
新町に移転
★
飽の浦教会内に保育園親愛園が開設。長崎教区にある保育所としては最古
→
1959(昭和34)
☆
戦時中の被弾や老朽化により新聖堂が落成
★
大浦天主堂横の南山手町1番Bの羅典神学校兼宿舎が浦上神学校に移り、司祭館や集会所として使用
羅典神学校兼宿舎は木骨レンガ造り3階建、一部地階、切妻造、桟瓦葺。設計・監督はド・ロ神父
→
1972(昭和47)05/15
☆
国の重要文化財に指定される
★
神浦・大野地区の大野教会に佐賀県馬渡島からブルトン神父が赴任。祭壇部の先に司祭部屋を増築
ド・ロ神父は玄武岩を用い赤土を水に溶かした濁液で石灰と土を捏ね合わせ固めて壁を作ることを考案
40〜50糎の厚い壁を作る。ド・ロ様壁(温石)と呼ばれる
★
茂木鉄道株式会社による淵頭から北浦を通り長崎へ通じる鉄道の開通計画が挫折
★
新地湊公園近くに酒販売の「松(木偏に沿の旁部分)永平酒店」が創業
★
久布白落美、林歌子、伊東秀吉らの婦人矯風会と廊清会が合同した廃娼連盟が活躍。長崎県他が廃娼に踏み切る
★
島原港湾の大手入海に旅館有明館が創業
→
1932(昭和07)
☆
村中茂夫が経営に加わる
→
1948(昭和23)
☆
島原市の推薦を受け村中茂夫は
南風楼
の経営を引き継ぐことに
→
1952(昭和27)
☆
塚島宇平治が譲り受ける
→
1965(昭和40)06/
☆
観光客の増加にともない増築
→
1969(昭和44)03/
☆
秩父が浦の高台に鉄筋6階建、収容力300人を越える島原グランドホテルが落成オープン
★
長崎駅前のカフェー鶴精軒の横で果物店の坂井商店が開業
→
1953(昭和28)
☆
駅前の別の場所に移り果物店から土産品店に転業
観光ブームの到来で経営が順調に伸びる
★
島原、霊南橋際の料亭伊万里家が霊南町に移り料亭待月と改称
屋号の由来は座敷から見る海の月の出が美しいため。ふぐ料理、鯛茶漬、茶碗蒸しを名物として評判に
→
1952(昭和27)
☆
割烹旅館に転業
→
1966(昭和41)
☆
新築する
★
農事試験場で赤カブの系統選抜がされる
★
袋町橋たもとの地蔵(地蔵菩薩半跏像)に西古川町町民より「りん」の寄進を受ける
→
1950(昭和25)
☆
本下町町民より「幔幕」の寄進を受ける
★
本博多町の
坂本屋
が金屋町に新築移転。旅館は創業者の野口某の妹坂本さだが引き継いで経営
坂本さだは1920(大正09)福岡県宇美町生まれ
先祖は黒田藩52万石の家老、粕屋郡宇美の城主。その末久野直隆の二女に生まれる
学生時代は水泳で福岡県のレコードを持つ。また長崎の女性で初めて車の免許を取得
県立香椎高女を卒業し専攻科をでて20才で長崎に嫁ぐ
★
世知原町に奥の口橋が架かる
→
のち
☆
水害により壁石の半分が流されるが、高い強度を誇るアーチ部分は造られたときの姿を残す
★
丸山町の「引田屋」が廃業。料亭となり経営者も替わる。「花月」の名称と引田屋の庭園・家屋は継承
→
1938(昭和13)頃
☆
「
花月
」が株式会社となり本田寅之助が支配人として経営
★
明治製菓がミルクチョコレートを発売
★
1926年度の伝染病、腸チフス134人、(死亡123)、赤痢415人(死亡98)、天然痘93人(死亡14)、猖紅熱153人(死亡33)
▼
1927(昭和02)
【昭和】
丁卯(ひのとう)
《総理大臣》
[第25代]若槻禮次郎(→04/20)、[第26代]田中義一(04/20→)
《知事》
[第23代(官選)]富永鴻(→03/22)、[第24代(官選)]長谷川久一(03/22→05/17)
《市長》
[第10代]富永鴻(03/23→)
01/01
★
南高来郡東有家村に町制が敷かれ有家町となる
→
1927(昭和02)04/01
☆
南高来郡西有家村に町制が敷かれ西有家町となる
01/08
★
北高来郡田結村の腸チフス患者が40人突破
01/21
★
諫早町で一家4人、腸チフスに罹かる
01/31
★
福岡連隊差別事件で松本治一郎以下11人が起訴される
爆発物取締罰則違反及銃砲火薬取締施行規則違反
→
06/06
☆
午前10時福岡地方裁判所が判決をくだす
被告全員が即日控訴をする
→
1927(昭和02)12/14
☆
長崎控訴院で福岡連隊差別事件の第1回公判が開かれる
02/11
★
鎮西汽船が大波止〜古河町、古河町〜立神航路を開設
→
1930(昭和05)08/
☆
利権と設備の一切を長崎電鉄が5万円で買収
02/
★
本石灰町の洋菓子・コーヒー店
梅月堂
が柳通りに進出
03/01
★
田結村の避病舎で火事
03/10
★
斜面工事、トンネルなど難工事の末、
小濱地方鉄道
肥前小浜〜富津〜木津〜上千々石〜千々石の8粁が開通
開業時車両数は蒸気機関車2両、客車3両、貨車3両
→
1927(昭和02)06/06
☆
温泉軽便鉄道の車輌が乗り入れ。諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転を開始
03/15
★
磨屋尋常小学校
に鉄筋コンクリート3階建校舎が改築竣工
→
1941(昭和16)04/01
☆
磨屋国民学校と改称
03/16
★
(01/〜)佐世保市の疫痢患者が14人に
03/30
★
佐世保市営バスが設立される
03/
★
長崎市本石灰町の梅月堂が浜町に移転し「梅月堂本店」として開業
→
1958(昭和33)01/
☆
個人経営より法人組織に変更。資本金100万円で、有限会社梅月堂を設立
03/
★
仁田小学校が創立25周年の式典を挙行。校歌を制定
→
1943(昭和18)04/
☆
上大浦小学校廃止により児童約300人を収容。同時に高等科の児童を大浦国民学校に収容
03/
★
金融恐慌が起こる
→
のち
☆
不況はますます深刻となり全国に蔓延する。長崎市の経済界も活気を失い沈滞、社会不安の気配が強まる
03/
★
東山町の北大浦尋常小学校に校舎コンクリート3階建て竣工
→
1946(昭和21)04/
☆
長崎市立北大浦小学校と校名変更
04/01
★
東彼杵郡広田村が早岐町に編入される
東彼杵郡佐世村と日宇村が佐世保市に編入される
→
1934(昭和09)11/03
☆
東彼杵郡川棚村に町制が敷かれ川棚町となる
東彼杵郡上波佐見村に町制が敷かれ上波佐見町となる
04/01
★
南高来郡西有家村に町制が敷かれ西有家町となる
→
1928(昭和03)01/01
☆
南高来郡加津佐村に町制が敷かれ加津佐町となる
04/23
★
長崎入港の「上海丸」に天然痘患者、女神に収容
05/01
★
八千代町のガスタンク広場で長崎初のメーデーが行なわれる
組合同盟九州連合大会と日労党長崎支部が主催。約80人が集まるが、デモ行進は参加者が少なく中止
05/03
★
ベートーヴェンの交響曲第9番をプロ・オーケストラ新交響楽団(NHK交響楽団)が日本初演
05/14
★
佐世保市の天然痘が初発以来5人
05/19
★
南高来郡神代村で赤痢が発生
05/21
★
リンドバーグがスピリットオブセントルイス号でニューヨークからパリまで
大西洋単独無着陸飛行
に成功
スピリットオブセントルイス号は単葉単発単座のプロペラ機(ライアンNYP)
05/20
☆
午前5時52分(出発時の現地時刻)ニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立つ
05/21
☆
午後22時21分(到着時の現地時刻)パリのル・ブルジェ空港に着陸
到着地のル・ブルジェ空港や空港周辺に詰めかけた人は延べ75万人とも100万人とも
飛行距離は5810粁、飛行時間は33時間29分30秒
リンドバーグはオルティーグ賞とその賞金2万5千ドル、さらに世界的な名声を得る
オルティーグ賞はニューヨーク〜パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられる
05/25
★
佐世保市で赤痢が3人発生
06/01
★
株式会社十八銀行が(株)長崎銀行を買収する
→
1929(昭和04)
☆
(株)有家銀行を買収する
06/01
★
佐世保市に天然痘
06/06
★
島原鉄道が温泉軽便鉄道、小濱地方鉄道に乗り入れ。諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転を開始
→
1932(昭和07)
☆
直通運転を休止
06/11
★
長崎・立神小女教員、腸チフス発症
06/
★
本下町の松田玩具店が長崎警察署跡地に移転。長崎初の均一店として10銭均一の店を開く
07/03
★
長崎市の天然痘患者10人
07/07
★
長崎高商の生徒全員に種痘
07/10
★
岩波書店が岩波文庫を創刊。23冊
「おらが春・我春集」一茶/荻原井泉水校訂、「病●(状の旁が犬でなく木)六尺」正岡子規、
「仰臥漫録」正岡子規、「こゝろ」夏目漱石、「五重塔」幸田露伴、「北村透谷集」島崎藤村編、
「号外他六篇」国木田独歩、「にごりえ・たけくらべ」樋口一葉、「藤村詩抄」島崎藤村自選、
「幸福者」武者小路実篤、「出家とその弟子」倉田百三、「賢者ナータン」レッシング/大庭米治郎訳、
「戦争と平和第一巻」トルストイ/米川正夫訳、「闇の力」トルストイ/米川正夫訳、
「生ける屍」トルストイ/米川正夫訳、「伯父ワーニャ」チェーホフ/米川正夫訳、
「桜の園」チェーホフ/米川正夫訳、「父」ストリントベルク/小宮豊隆訳、
「令嬢ユリェ」ストリントベルク/茅野肅々訳、「認識の対象」リッケルト/山内得立訳、
「プラトン ソクラテスの弁明・クリトン」久保勉・阿部次郎訳、
「科学の価値」ボアンカレ/田辺元訳、「実践理性批判」イマヌエル・カント/波多野精一、宮本和吉
07/23
★
伝染病の死亡者激増、1週間に59人
07/23
★
市内稲佐町に天然痘3人、北松佐々炭鉱に赤痢続発
07/24
★
未明、雨の降りしきるなか、
芥川龍之介
が田端の自室で致死量の睡眠薬を飲んで自殺
07/31
★
西彼杵郡西浦上村に天然痘
08/09
★
長崎市内の天然痘患者30人に
08/
★
県下の疫痢59人、うち死亡45人、腸チフス71人、うち死亡7人、天然痘5人(死亡2人)
08/
★
カステラの
文明堂
が馬町本店を今町に移転、新装開店
→
1928(昭和03)09/
☆
大波止店を新築、木造3階建にし料理屋金鍋すき焼店を併設
09/01
★
長崎刑務所片淵支所が浦上(現平和公園)に移転。浦上支所と改称。跡地は民間に払い下げ
09/21
★
銀座の三越呉服店で日本初のファッションショーが開かれる
モデルは初代水谷八重子、東日出子、小林延子など女優が花柄の着物を身にまとう
着物に描かれた花柄は一般から募集した図案をもとに作られたもの
09/03
★
(〜09/05)長崎市稲佐方面に疫痢と赤痢
10/
★
「長崎くんち」(6)…丸山町(本踊)、本大工町(川船)、今博多町(本踊)、
本紺屋町(本踊)、今魚町(川船)、本籠町(蛇踊)、材木町(本踊)、
古町(本踊)、上筑後町(本踊)、江戸町(兵式調練)、本興善町(本踊)
11/
★
1922(大正11)11/に着手した
長崎港湾第3期改良工事
が完成。出島沿岸の護岸築造が目的
11/
★
矢の平町を流れる矢の平川に鉄筋コンクリート造の矢の平橋が架かる
橋長4.6米、橋幅5.0米、車道4.4米
12/14
★
長崎控訴院で福岡連隊差別事件の第1回公判が開かれる
→
1928(昭和03)04/18
☆
第4回公判で有罪判決が下る
第1審で有罪となったのは12人、内1人は刑に服す
控訴した11人の内1人は分離裁判となり松本治一郎ら10人が判決を受ける
12/16
★
飽の浦方面の腸チフス41人、うち死亡3人
12/18
★
長崎市立伝染病院満床、児童46人、家族19人、計65人が腸チフス(12/01〜18)
12/23
★
飽の浦小学校の腸チフス患者60人
12/30
★
東京地下鉄道が浅草駅と上野駅の区間に地下鉄道を開通。距離2.2粁
改札所には回転式入口が設けられ、10銭硬貨を入れるとドアが回転して1人だけが通れるように
初日の乗客は10万人にものぼり、上野から広小路にかけて行列をつくるほど
★
新地町に中国料理館「會楽園」がオープン
★
大浦日之出町に錦織寺が創建
★
新地町に中華料理店「
會楽園
」が創業
★
1926(大正15)台湾から帰って玉江町の小林屋旅館で働いていた小淵菊馬が独立
銅座町で菊馬旅館をはじめる
→
のち
☆
一年も欠かさず衛生優秀店の表彰を受け、交旅連の新聞には三級旅館で優秀表彰は菊馬旅館のみと書かれる
★
(株)諫早商人銀行が(株)諫早貯蓄銀行を合併する
(株)諫早商業銀行と改名
→
1929(昭和04)03/
☆
(株)喜真銀行とともに(株)諫早銀行に合併される
★
藤井商店の初代・国蔵が30才のとき麹屋町でからすみの製造をはじめる
藤井国蔵は1898(明治31)熊本県日奈久生まれ。16才のときから長崎の竹下からすみで修業
からすみの製造に一生をかけ自分のぼら網をもち鮮魚から精製までの自家製品に力を入れる
戦前は満州、上海、香港などの方面の市場を開拓し業界の発展に尽くす
→
のち
☆
築町に移転
→
のち
☆
東小島に移転
★
福江島から南西約80粁に位置する男女群島の女島にある女島灯台が初点灯
東シナ海を長崎方面へ航行する船にとって重要な目印となる
有人で管理、運用される
→
1945(昭和20)
☆
進駐軍に爆破される
→
1948(昭和23)
☆
復旧
→
2006(平成18)11/12
☆
女島灯台(
日本最後の有人灯台
)が海上保安庁による自動化整備が完了。新システムが稼働する
約80年間、東シナ海の船の安全を見守ってきた灯台は、年度内に滞在勤務職員の残務を終え、完全に無人化
海上保安庁交通部が進めてきた全国の灯台3337基の自動化がすべて完了。灯台守が灯台から姿を消すことに
これまでは長崎海保航行援助センター五島地区事務所から原則4人の職員が、ほぼ半月交代で住み込み勤務
自動化によりディーゼル発電機から太陽光発電装置に移行。発電装置や光を放つ灯器などの点検は3か月に一度、職員が赴く
約47粁先まで届いていた灯器の光は、約38粁先までに短縮
第七管区海上保安本部交通部は「航路上、船舶は灯台からそれほど離れた海域を通っていないため支障はない」とする
→
2006(平成18)12/05
☆
滞在職員4人が残務を終え、瀬渡し船で島を離れ福江島に帰港、無人灯台となる
★
喜々津〜浦上の長崎新線が建設予定線に指定される
会議所はその早期着工を訴えるが、着工の目途はまったく立たず
→
戦後まで
☆
放置された状態で推移
★
島原の渥美元が薪炭商から料亭経営に転向。高島町にて料亭あつみを始める
島鉄の創立者植木元太郎の「芸者さんたちのために一肌脱いでくださらんか」という言葉に触発
芸者は借金が増え、いくら稼いでも追いつけない状況
→
1953(昭和28)
☆
旅館に転業
広い庭園の池には平たい大きな金洗石がある。島原藩主松平が休息所とした景萃園にあった石
石は植木元太郎が自邸の庭石にする考えで馬2頭に引かせて運ぶが、あまりにも大きく自宅まで運べず渥美が譲り受ける
★
雲仙岳が「日本新八景」山岳部門で第1位になる。外人客2万人をこえる
★
蒋介石が雲仙にくる
★
九州汽船が経営に行き詰まり、原萬一郎が引き受け
九州商船
と称号を変え再発足
九州汽船は1911(明治44)02/27に深川〜肥後の五島航路と西彼杵〜天草沿岸の三山汽船が合併
★
東京麹町山下町の華族会館の建物(
鹿鳴館
)が徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売却される
→
1940(昭和15)
☆
取り壊される
★
中村屋で中華まんの販売が開始される。天下一品「支那饅頭」という名称で売られ、肉入りが1個6銭、餡入りが4銭
▼
1927(昭和02)頃
★
広島県御調郡向島の日本開閉器工場がファスナーの製造を開始
【日本開閉機会社、日本開閉器商会とも】
分派会社の「チャック・ファスナー」社が、巾着をもじった「チャック印」という商標で販売する
▼
1928(昭和03)
【昭和】
戊辰(つちのえたつ)
《総理大臣》
[第26代]田中義一
《知事》
[第25代(官選)]佐上信一(→05/25)、[第26代(官選)]伊東喜八郎(05/25→)
《市長》
[第10代]富永鴻
01/01
★
長崎商業会議所を長崎商工会議所と改称
01/01
★
南高来郡加津佐村に町制が敷かれ加津佐町となる
→
1928(昭和03)04/01
☆
南高来郡口之津村に町制が敷かれ口之津町となる
02/14
★
北松浦郡小値賀校に流感
02/20
★
第16回衆議院議員総選挙が行なわれる
1925(大正15)に公布された普通選挙法に基づく最初の総選挙で別名「第1回普通選挙」
02/21
★
西彼杵郡矢上村に腸チフス患者続出
02/
★
長崎市内の伝染病、赤痢2・疫痢2・腸チフス33・パラチフス1・ジフテリア5・猖紅熱2、計46人
03/01
★
口之津鉄道
により南有馬〜加津佐が延伸開業。島原湊〜加津佐で営業運転を開始
口之津鉄道の島原湊〜加津佐間36.2粁が全通する
→
1943(昭和18)07/01
☆
戦時統制により島原鉄道が口之津鉄道を吸収合併(諫早〜加津佐間78.5粁となる)
同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
03/02
★
長崎市伊良林方面に腸チフス続発
03/07
★
腸チフスが大村町東浦に発生
03/11
★
腸チフスが北高来郡小野村に発生
03/13
★
県下の流感患者6000余人に
03/15
★
治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行なわれる
02/に実施された第1回普通選挙で社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた政府による
共産党指導下の労働農民党ら3団体を結社禁止とした社会主義者、共産主義者への弾圧事件
共産党員全国的大検挙で1586人逮捕、488人を起訴
→
年末まで
☆
検挙3400人、起訴530人
→
のち
☆
日本共産党は未検挙の党員が党再建を目指し、国外に党員を派遣。国内では早速活動を再開
→
1929(昭和04)03/28
☆
日本共産党組織部員が検挙。党員は党員名簿を所持
→
04/16
☆
共産党員の全国的な検挙が行なわれる
→
年末まで
☆
4942人が治安維持法で検挙、起訴340人
03/24
★
上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で高島屋呉服店が日本初のマネキンを登場させる
本物の女性に和服を着せてソファにすわらせたもの
→
のち
☆
マネキンガールは販売員とファッションモデルをかねた花形職業に
03/
★
この月の長崎市内伝染病患者50人
04/01
★
南高来郡口之津村に町制が敷かれ口之津町となる
→
1928(昭和03)11/01
☆
南高来郡千々石村に町制が敷かれ千々石町となる
04/11
★
日華連絡船「長崎丸」の晩餐献立メニュー
オードブル各種
澄スープ、伊勢海老冷製/焼ヒレ牛肉佛蘭西風、冷アスパラガス、印度式カレーライス/
英吉利産焼ハム、七面鳥蒸焼果実ソウス、蕪菁馬鈴薯、サラダ/
プデング、アイスクリーム、御飾菓子/セボリー、乾果類、チーズ各種、珈琲/林檎、葡萄/
(冷肉)牛肉蒸焼、燻牛舌
04/18
★
長崎控訴院で行なわれた福岡連隊差別事件の第4回公判で有罪判決が下る
第1審で有罪となったのは12人、内1人は刑に服す
控訴した11人の内1人は分離裁判となり松本治一郎ら10人が判決を受ける
04/18
★
福岡連隊差別事件判決批判演説会が●●●●で開催される
長崎水平社創立の賛否を問う動議がだされる
05/01
★
長崎県第2回メーデーが開かれる
浦上水平社が結成を待たずに参加
組合同盟九州連合会主催メーデーには約300人が参加
初めて出島から諏訪公園までデモ行進が行なわれる。昨年は参加者が少なく中止となる
一方、長崎労働組合は“げき”を飛ばし、夜は祝賀会を開く
05/01
★
腸チフスが長崎市飽の浦町に発生
05/03
★
腸チフスが東彼杵郡早岐町に発生
05/05
★
早岐の腸チフス患者12人に
05/20
★
長崎市竹の久保で一家3人赤痢
05/22
★
大村連隊に腸チフス発生
05/24
★
長崎入港中の海軍水兵が赤痢に
05/30
★
腸チフスが北高来郡小野村に発生
05/31
★
腸チフスが長崎市出雲町に発生
05/
★
長崎消防団が従来の手引ガソリンポンプ車に加えて自動車ガソリンポンプ(消防自動車)を1台購入
05/
★
榎津町と材木町に架かる鉄製のフラットトラス構造の
賑橋
が鉄筋コンクリート造りに架け替え拡幅
06/01
★
西彼杵郡瀬戸村に町制が敷かれ瀬戸町となる
→
1931(昭和06)10/01
☆
西彼杵郡崎戸村に町制が敷かれ崎戸町となる
06/09
★
腸チフスが再び北高来郡小野村に3人発生
06/10
★
腸チフスが早岐町に16人発生
06/11
★
天然痘、佐世保市に発生(06/16にも)
→
のち
☆
その後も外に疑似患者続出
06/17
★
諫早町に腸チフス、大村女子職業学校寄宿舎に赤痢が発生
06/19
★
佐世保市の種痘人員3万3000人
06/21
★
名取洋之助と母ふく子を乗せたにエンプレス・オブ・ルシア号が長崎に寄港
名取洋之助は慶應義塾普通部を5年で卒業したばかり。母とともにドイツへ向かう途中
06/23
★
佐世保市に天然痘が発生
06/25
★
長崎市に豪雨、死傷者14人(〜06/28)
06/06
★
長崎県水平社
が66人で結成。浦上町の青年会館を会場にして設立
松本治一郎委員長以下本部員の応援を得る
「特高月報」には長崎県水平社の中心人物として梅本末松、中尾重太郎、藤川弥市、礒本信雄の名があがる
「特高月報」は内務省警保局保安課発行
07/05
★
長崎市岩瀬道町に赤痢、稲佐町に腸チフス、西彼小榊村小瀬戸にも発生
07/10
★
長崎市飽の浦町に腸チフスが発生
07/12
★
長崎市内に疫痢が続発
07/13
★
南高来郡大正村まで赤痢、平戸高女・腸チフス流行につき休校
→
07/15
☆
平戸猶興館中学も休校
07/20
★
長崎入港船に腸チフス患者発生
07/21
★
県下の高齢者100歳以上5人
07/25
★
北松浦郡山口村に天然痘が発生
08/02
★
フランス東洋艦隊旗艦「ジュール・ミセーレ号」が長崎に入港
→
08/19
☆
同号の軍楽隊27人が諏訪公園丸馬場の音楽堂で聴衆約1万4500余人を前に演奏会を開催
08/02
★
北高来郡小長井村に腸チフスが発生
08/08
★
西大村で一家5人が赤痢に
08/25
★
大村連隊内でも赤痢が発生
08/
★
この月の長崎市内伝染病、赤痢12、疫痢32、腸チフス43、パラチフス1、
ジフテリア5、猖紅熱2、流行性脳脊髄膜炎2、計97人、うち死亡19人
08/
★
西海町にて七ツ釜鍾乳洞が発見される
08/
★
村木汽船部が伊万里〜大島航路を開始
08/
★
長崎商業会議所を
長崎商工会議所
に改組
→
1933(昭和08)02/
☆
第8代会頭に脇山啓次郎が就任
★
西海町営船として瀬川村一円の組織となる
○瀬川丸(21.13瓲、8節、55人乗)就航。運賃各部落より片道20銭、往復25銭
川内新波止、八幡神社下、高地、畑下、小郡、銭亀、横瀬東、横瀬西 佐世保間を往復就航
○横瀬丸(約15瓲、6節、20人乗)横瀬、佐世保を就航、昼航路を開航
船主、船長は横瀬西の太田勘助
○水の浦丸(10瓲)貨客船として臨時に佐世保、早岐、水浦就航
○勢幸丸(18瓲、10節、65人乗)畑下、早岐を就航
○川内丸(10瓲)主に牛積船、臨時に早岐、佐世保、瀬川村を運航。船主は福田武人
○緑丸(13瓲)弁天丸(18.86瓲)佐世保〜下岳、水浦北泊に寄港
○龍の浦丸 船主、船長 中浦 岸浦宗太氏(約20瓲、瀬戸、鳥崎、中浦、佐世保)
→
1944(昭和19)03/20
☆
大瀬戸町三年ケ浦沖で沈没、約200人死亡
○面高丸(約20瓲)木原久太郎、大久保源一郎氏経営。太田和、黒口、大久保、面高
○鹿島丸(25瓲、60馬力、78人乗)面高丸航路引き次ぎ
○むつ丸 九州商船(株) 佐世保、面高、大島、松島、瀬戸、池島、神浦、長崎
→
1941(昭和16)
☆
面高曲の鼻沖で沈没2人死亡
○第3大生丸(約50瓲)第5大生丸(約50瓲)九州商船(株)佐世保、面高・黒口〜長崎
○長浜丸(約50瓲)沢山商事株式会社 佐世保、畑下、杉崎、大村
→
1939(昭和14)11/01
☆
民間所有船4隻を買収(2万5千円)4船にて1日5往復就航
畑丸、大八丸、瀬川丸、横瀬丸
→
1940(昭和15)09/07
☆
横瀬丸が貨物船となる
→
1941(昭和16)09/01
☆
燃料不足により大八丸1隻にて運航
→
1941(昭和16)
☆
面高曲の鼻沖で沈没2人死亡
→
1942(昭和17)09/14
☆
横瀬丸がで3600円売却される
→
1943(昭和18)04/01
☆
瀬川丸(1日1航海)就航。大八丸、畑丸は海軍施設部傭船契約に
→
1944(昭和19)03/20
☆
大瀬戸町三年ケ浦沖で沈没、約200人死亡
→
1945(昭和20)10/01
☆
大八丸(1日1航海)が横瀬を基地とし就航
→
1950(昭和25)02/01
☆
瀬川丸、大八丸の2船で月40回の運航に
→
1950(昭和25)04/
☆
西岡商会の勢幸丸が寄船〜横瀬西〜横瀬東〜佐世保航路に就航
→
1950(昭和25)11/01
☆
沢山商事が大村〜佐世保航路権を10万円で買収。畑下、杉崎寄港
→
1951(昭和26)12/03
☆
第3瀬川丸を467万3千円で建造
→
1952(昭和27)05/19
☆
第2瀬川丸(大八丸)を7万円で売却
→
1952(昭和27)11/18
☆
第5瀬川丸を407万4千円で建造
→
1953(昭和28)04/30
☆
西田商会が第5勢幸丸と同航路権を140万円で買収
→
1953(昭和28)05/01
☆
第3、第5瀬川丸にて毎日4往復就航。第5勢幸丸は予備船に
→
1954(昭和29)04/01
☆
3隻で毎日5往復
→
1965(昭和40)06/04
☆
弁天丸を月3万円で借用運航
→
1966(昭和41)07/01
☆
羽衣丸(76瓲、180人)を400万円で購入
→
1970(昭和45)04/08
☆
せがわ丸を3192万円で建造。第5瀬川丸を30万円で売却
→
1971(昭和46)03/08
☆
羽衣丸を売却(246+13万円)
→
1972(昭和47)03/31
☆
瀬川汽船(株)へ3240万円で譲渡
せがわ丸(鋼船126.82瓲、300人乗)、第8瀬川丸(木船49.6瓲、130人乗)の航路権
→
1972(昭和47)04/01
☆
瀬川汽船(株)として継続。営業運航を開始
09/
★
初めてスズラン灯が設けられる
→
1942(昭和17)
☆
金属回収命令により供出
→
1949(昭和24)05/24
☆
復活
09/
★
カステラの
文明堂
が大波止店を新築、木造3階建にし料理屋金鍋すき焼店を併設
→
1933(昭和08)12/
☆
東京・新宿に支店を開設
→
のち
☆
「カステラ一番、電話は二番」のキャッチフレーズで電話帳広告他、本格的な宣伝を開始
10/02
★
当時の長崎紡績株式会社の労働状況として…
工員は宿泊女子工員1400余人、通勤女子工員735人、男子工員445人、計2686人
女子工員の労働時間は甲番(朝6時から夕6時)と乙番(夕6時から朝6時)の12時間制で機械は休みなしの労働
昼組(甲番)、夜組(乙番)に分かれ1週連続で働き、2週目の日曜日に初めて仕事明けから夜8時の門限まで休日
女子工員の初任給は日給50銭、食費15銭を差し引かれる
女子工員の大半は県下の農漁村の出身が多く、郡部では五島、北松浦、西彼杵が多く、県外では佐賀県の者が多い
食事は唐米(南京米)9分に内地米1分の主食に週1度、副食にカレー汁程度、朝はスリ大根、煮干し、メノハのみそ汁
食事時間は12時から30分のみ
寮には各楝に女性2人(寮長、寮長助手)の舎監を設け、裁縫、花、読み書きを教え、精神訓話をし教養と監視を兼ねる
女子工員の楽しみは年1回、工場内の広場で催される「盆踊り」で「紡績の盆踊り」といわれ有名
他に運動会と男子相撲があり、相撲は女子工員に人気
労働のつらさが元で郷愁が加わり逃亡者がでる
逃亡者は外出時に外出着のまま寮には戻らず、気づかれないために荷物もそのまま
逃亡を防ぐために必ず利用すると思われる駅や大波止の船着場に監視人が見張る
会社は逃亡防止に社内教育に気を配り、社内報で「まじめな女子工員、優秀な女子工員、孝行な女子工員」をほめる
親に送金する金額まで掲載し生産の向上にかりたてる
年間功労賞として2年、4年、6年、8年満期の者に金一封と反物が一反、紅白の餅が支給
期の途中でやめる者には、なにも支給されず
こうした状況の中…
10/02
★
長崎紡績株式会社が突然、一方的に賃金改定を発表
出来高制変更のため事実上2割の賃下げ、満期年効率も半減になるもの
発表を契機に不満が一挙に爆発し労働争議が起こる
→
10/03
☆
午前0時過ぎ、深夜業で働く女子工員の食事が終わると寄宿舎で眠る女子工員に呼びかけ工場の外へ
400余人の女子工員が会社の裏門から樺島町の藤田ビル内の組合同盟九州連合会の2階に立てこもる
早朝、会社幹部が町の顔役の親分衆を連れ説得、女子工員だけは帰すことに
8時頃、女子工員を10数台のトラックに乗せてひきあげ、男子工員100余人だけが残る
9時、男子工員3人が17か条に及ぶ嘆願書をもって会社を訪問、支配人に面会を求めるが応じず
夜、男子工員約50人が参加し、藤田ビルの本部への立てこもりが56人に
「長崎新聞」3日付夕刊は「賃金の改正発表から五百の男女工が騒ぐ」と第2面右肩トップ記事で4段抜き報道
→
10/04
☆
朝、争議団本部で嘆願書を基礎に要求書を作成、代表者が再び支配人に面会を求めるが応じず
内容証明郵便で送付。また内容を声明書として市内に散布、市民に悲惨な実情を訴える
会社は要求書を開封しないまま返送
争議の首謀者とみられる22人を解雇処分に、他100人に対し9日までに職場復帰しない場合は解雇すると警告
本部では解雇通知を受け付けず、解雇通告書を一括して会社に返送
→
10/09
☆
おくんちの還幸の日、女子工員たちは外出が許される
数100人の女子工員が籠町の大徳寺境内に集まい、揃って争議団本部に入る
本部裏門につくと会社の監視隊は女子工員を奪い取ろうと争奪戦が始まるが、警官の制止でおさまる
会社との対立はますます激化。連日交代で団員10数人が会社の門前で労働歌を合唱、威嚇運動が続く
→
10/11
☆
11時20分頃、門衛との口論から殴り合いとなり団員6人が警察に検束
→
のち
☆
連合会幹部の今村等が東京から戻る
11/10に控える昭和天皇即位の「御大典」を前に争議を解決しようと争議団本部で挨拶、また県の特高課長に会う
紡績の重役で商工会議所の会頭、政友会長崎支部長の山田鷹治が仲に入り交渉の糸口をつくことに
山田、今村、会社側、争議団側が、いろいろな組み合わせで話し合いがもたれる
頑固な会社側は暫時軟化し、争議団側もギリギリまで妥協
→
10/18
☆
昼過ぎ、最終調停案が提示、双方が了承し正式に解決
この長崎紡績争議は全国紡績争議の発端となる
のち1930(昭和05)04/
☆
鐘ケ淵紡績、05/
☆
岸和田紡績堺工場、
06/
☆
富士紡績川崎工場、東洋紡績四貫島工場、東京モスリン亀戸、吾嬬、金町、沼津各工場など、
いずれも賃金切り下げ、強制帰休、解雇反対の争議へと続く
10/07
★
渡御。「長崎くんち」
→
10/09
☆
還御
(7)…寄合町(本踊)、浦五島町(本踊)、引地町(本踊)、本石灰町(本踊)、桶屋町(本踊)、
大井手町(本踊)、船大工町(川船)、袋町(本踊)、酒屋町(本踊)、出来大工町(本踊)
10/23
★
陪審制による初の裁判が大分地方裁判所で行なわれる
藤岡亀次(33)に対する殺人未遂被告事件12人の陪審員が裁く側に
検事が殺人未遂として告訴。殺人未遂の罪に問われた被告に対し、陪審員は殺意はなかったと判断する
判決は懲役6か月。裁判官は陪審員の意見に従い、殺意はなかったとして傷害罪の判決
10/30
★
三菱長崎造船所にて日本郵船向け豪華貨客船「
浅間丸
」が竣工
1万6947総瓲、1万6千馬力、20.713節
世界屈指の優秀船としてサンフランシスコ線に就航、世界最高水準の船で「大平洋の女王」と称される
→
1944(昭和19)11/01
☆
南支那海のバシー海峡にて雷撃により沈没
11/01
★
南高来郡千々石村に町制が敷かれ千々石町となる
→
1932(昭和07)01/01
☆
南高来郡南有馬村に町制が敷かれ南有馬町となる
11/21
★
長崎市竹の久保町の腸チフス患者は14人
11/23
★
西彼杵郡長与村の天然痘患者が死亡
11/25
★
南高来郡口之津町と北松浦郡江迎村に赤痢患者が発生
12/08
★
東浜町の喜楽座にて午後7時より藤田組事件差別撤廃演説会が開かれる。1500人が参加
福岡県水平社から井元鱗之、花山清、西田ハル、田中松月らの応援がある
藤川利雄による開会の辞に次いで
「見よ!此の差別の嵐」井元鱗之
「あゝ残虐一千年」花山清
「人間権奪還の為め」西田ハル
「水平運動の意義」田中松月
「人類の黎明に笑うもの」松本治一郎
夫々の演題下に熱弁を揮って、聴衆に多大の感動を与え、盛会裡に11時頃閉会
12/19
★
佐世保市に天然痘患者発生
★
柳通りに昭和タクシーが創業
★
稲佐お栄が経営していた
茂木ホテル
を砂田三次郎が借用し
茂木ビーチホテル
と改称して経営
→
1954(昭和29)
☆
増築
★
梅香崎埋立地の煉瓦造2階建の長崎税関が出島岸壁に移り鉄筋コンクリート2階建として完成
時勢に順応して港湾機能を充分に発揮するため
→
1943(昭和18)11/01
☆
第二次世界大戦により 税関事務を海運局に統合
長崎税関は門司海運局長崎支局に併合
★
松田源五郎、香坂留彦が発足した長崎製氷会社が大日本製氷会社と合併
★
f山腹に散逸していた高嶋神社の鳥居を青年団が御大礼記念事業として復元
★
ニッポノホンから凸助の歌による「ぶらぶら節(17633)」が発売される
「ぶらぶら節」は長崎民謡の代表曲。丸山遊廓を中心に江戸時代初期から歌われたお座敷歌
豊年唄からはやり唄となった「やだちゅう節」が基
凸助(花柳寿太満)は町検の名妓
片面は同じ凸助による「長崎港節」
→
1931(昭和06)
☆
ビクターから愛八の歌による「ぶらぶら節(51665)」が再発
★
ニッポノホンから一二の歌による「長崎甚句(17584)」が発売される
明治年間、長崎で流行する。囃子言葉の「イヨ」から「イヨ節」とも呼ばれる
長崎町検の一二が凸助の三味線で初めてレコード化
片面は同じ凸助による「長崎ノンノコ節」
★
大浦東山町に大正寺が創建
★
1906(明治39)加津佐生まれの松竹イキヲが●●で松竹旅館を創業
第8代長崎商工会議所会頭の脇山啓次郎の●●●町の住居あとを譲り受け改装して旅館に
修学旅行の草分け旅館として戦前から全国の中学校や京都女子高校、東京双葉女子学院などのひいきを受け親しまれる
★
雲仙岳が史蹟名勝天然記念物法により名勝地に指定される
★
橘中佐の英霊を永遠に祀ろうと橘神社創建の活動が始まるも実働にいたらず
→
1935(昭和10)
☆
本格的な創建に向けた活動が始まる
▼
1929(昭和04)
【昭和】
己巳(つちのとみ)
《総理大臣》
[第26代]田中義一(→07/02)、[第27代]濱口雄幸(07/02→)
《知事》
[第26代(官選)]伊東喜八郎
《市長》
[第10代]富永鴻
01/05
★
佐世保市に天然痘
01/13
★
長崎掖済会病院に入院中の患者が腸チフスを発症
01/19
★
長崎市新地町に天然痘が発生。01/27にも
01/
★
この月の長崎市の伝染病、腸チフス39人、パラチフス2人、ジフテリア10人、天然痘3人、猖紅熱4人
02/02
★
長崎市竹の久保の伝染病院入院中の天然痘患者が死亡
02/09
★
長崎市丸尾町に腸チフスが発生
02/
★
この月の長崎市の伝染病、腸チフス34人、疫痢1人、パラチフス1人、ジフテリア8人、天然痘1人、猖紅熱8人
03/28
★
日本共産党組織部員が検挙。党員は党員名簿を所持
→
04/16
☆
共産党員の全国的な検挙が行なわれる
→
年末まで
☆
4942人が治安維持法で検挙、起訴340人
03/
★
(株)諫早銀行が(株)諫早商業銀行と(株)喜真銀行を合併する
→
1942(昭和17)
☆
株式会社十八銀行に買収される
04/01
★
北松浦郡今福村に町制が敷かれ今福町となる
→
1930(昭和05)04/03
☆
北松浦郡山口村に町制が敷かれ相浦町となる
04/24
★
五島地方の小学校が流感で次々と休校
04/30
★
経費難により東京での正午の空砲報時「ドン」が終了となる
→
05/01
☆
市内各地に設置したサイレン(号笛所)による報時に切り替える
→
のち
☆
サイレンは、のちの空襲警報などの告知にも使用される
→
1938(昭和13)09/
☆
サイレン(号笛所)による報時が廃止となる
05/22
★
長崎女子師範寄宿舎に腸チフスが発生
05/
★
この月の長崎市の伝染病患者113人(赤痢11・腸チフス78・パラチフス2・ジフテリア10・猖紅熱11)
05/
★
東京の楓川にかかる
国産第1号の鉄橋
、弾正橋が江東区の富岡八幡宮の東隣に移設され人道橋となる
橋長15.2米、橋幅3.0米のウィップル形トラス鉄橋
05/
★
岩波書店から文庫「
お菊さん
」が発行。野上豊一訳
06/
★
べっ甲原料の輸入、垣立商店(カメヤべっ甲店)が大阪支店を設ける
朝鮮・満州・北支中支・香港方面に販路を伸ばす
→
戦後
☆
垣立商店の名称を垣立工芸品に変える
06/
★
この月の長崎市の伝染病患者腸チフスが70人
06/
★
雲仙の別所に冷水プールができる
→
1955(昭和30)
☆
雲仙別所の水泳プールが廃止
06/
★
徳富蘇峯が雲仙にくる
07/16
★
長崎市の中国人少女が天然痘、女神検疫所に収容される
07/19
★
北高来郡湯江村に腸チフス患者2人
07/25
★
佐世保市で疫痢が猖獗
07/30
★
長崎市稲佐で流行性脳脊髄膜炎、島原町では赤痢猖獗
07/
★
夜間の浜町本通りが車馬の交通を禁止
→
09/まで
08/01
★
南高来郡西有家町で腸チフス、佐世保市の赤痢患者38人
08/03
★
長崎市と佐世保市で疫痢続発(〜08/04)
08/17
★
東彼杵村に赤痢と腸チフスが発生
08/19
★
飛行船のツェッペリン伯爵号(全長235米)が北半球周遊の途中、日本の茨城県阿見町の霞ケ浦航空隊に寄港
上野から土浦への臨時列車が運行されるなど東京からも見物客が押し寄せる
観衆は30万人に及び「君はツェッペリンを見たか!」という新聞の見出しが流行語になる
08/21
★
長崎市の疫痢患者2人死亡
08/
★
この月の長崎市内伝染病、疫痢31・腸チフス27・赤痢9・パラチフス3・猖紅熱2・流行性脳脊髄膜炎1
08/
★
F・リンガーが買収した2頁の日刊英字新聞「ナガサキ・プレス」が廃刊
【1928(昭和03)?】
08/
★
雲仙宮崎旅館が創業
09/03
★
長崎港外神の島に腸チフス
09/
★
この月の長崎市内伝染病、赤痢16・疫痢25・腸チフス56・パラチフス6・ジフテリア11・猖紅熱6
09/
★
宮日振興会・諏訪の市協会が創立
長崎商工会議所は1927(昭和02)の金融恐慌からの景気挽回策について論議を重ねる
そのなかで「長崎くんちを内外に宣伝して来遊客の誘致を図ったらどうか」との意見が会議所あげて賛同
振興会の事業は長崎くんちの案内宣伝文の作成、奉納踊観覧施設の設置、立看板の作製など
内地はもとより海外に向け観客の誘致に努める
→
1937(昭和12)
☆
日支事変勃発まで毎年、継続的に実施
→
のち
☆
戦局の進展に伴い祭自体が質素に
→
1944(昭和19)
☆
長崎くんち奉納踊りが中止されるに至り、振興会そのものも自然消滅
→
1949(昭和24)
☆
宮日振興会に代わる長崎おくんち振興会を結成、「くんち」の円滑な運営と振興にあたる
→
のち
☆
時勢の推移に合わせて数次の改組を行ない、長崎伝統芸能振興会に至る
10/13
★
北高来郡戸石村に腸チフス
10/24
★
ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、経済後退が起きる
→
のち
☆
1929年10月24日(木)は「暗黒の木曜日」といわれるようになる
10/
★
島原方面で流感患者が発生
10/
★
この月の長崎市内伝染病、赤痢24・疫痢13・腸チフス55・パラチフス3・ジフテリア14
10/
★
「長崎くんち」(1)…丸山町(本踊)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、
樺島町(太鼓山)、平戸町(剣詩劇)、八幡町(剣舞)、麹屋町(本踊)、
万屋町(鯨潮吹き)、西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
10/
★
諏訪神社大祭を広く内外に紹介宣伝し、長崎への来遊客を誘致することを目的に長崎宮日振興会が設立
11/19
★
北松浦郡小値賀村に疑似赤痢患者が発生
11/
★
創設以来、長崎県庁水産課内に置いていた長崎県水産会の事務所を尾上町の水産物卸売市場内に移転
人心の一新と業務の円滑化をはかる
11/頃
★
数え年21才の太宰治が街の娘と郊外の原っぱでカルモチン心中を図るが未遂に終わる
→
12/10
☆
深夜、多量のカルモチンを下宿で嚥下して昏睡状態におちいる
→
1930(昭和05)11/28
☆
夜半、数え年22才のとき、鎌倉腰越町の小動崎の海岸で通称田辺あつみとともにカルモチンを嚥下
田辺あつみは銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給で戸籍名田部シメ子19才
小動崎の海岸は一説に東側突端の畳岩の上
→
11/29
☆
午前8時頃、出港しようとした漁夫の1人に苦悶中を発見される。女性はすでに絶命
→
1935(昭和10)03/17
☆
夜、数え年27才のとき、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で縊死を図る。紐が切れ未遂に終わる
→
1937(昭和12)03/20前後
☆
数え年29才のとき、妻初代と水上村谷川温泉に行く
→
03/21
☆
谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが未遂に終わる
→
1948(昭和23)06/19
☆
朝6時50分頃、東京・三鷹の玉川上水に入水した太宰治と山崎富栄の情死体が発見される
太宰治は数え年40才、山崎富栄は30才
12/05
★
島原鉄道バス(株)が開業
12/10
★
深夜、太宰治が多量のカルモチンを下宿で嚥下して昏睡状態におちいる
→
1930(昭和05)11/28
☆
夜半、数え年22才のとき、鎌倉腰越町の小動崎の海岸で通称田辺あつみとともにカルモチンを嚥下
田辺あつみは銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給で戸籍名田部シメ子19才
小動崎の海岸は一説に東側突端の畳岩の上
→
11/29
☆
午前8時頃、出港しようとした漁夫の1人に苦悶中を発見される。女性はすでに絶命
12/20
★
北高来郡田結村に腸チフス患者が発生
12/
★
村木汽船部が
野母商船株式会社
と改組(資本金10万円)
★
引田屋(花月)
が貸座敷業をやめ料理屋となる
★
古町の弘道館が日本基督教会聖ケ丘伝導教会になる
→
1941(昭和16)
☆
日本キリスト教団長崎古町教会と改称
★
玉帯川の左岸、思案橋のたもと近く、本石灰町に思案橋薬局が創業
★
大ウナギ
が椎の木川に出現
★
飽の浦に昭徳寺が創建
★
竹の久保の消毒所が廃止
→
1931(昭和06)
☆
復活
★
市営交通船の元船町〜旭町航路が大波止〜旭町航路になる
★
「長崎盲唖学校」が県に移管され「長崎県立盲学校」となる
→
1934(昭和09)
☆
上野町(のち橋口町)に最新の設備を有する鉄筋コンクリート造3階建ての新校舎が完成
桜馬場町から移転
★
株式会社十八銀行が(株)有家銀行を買収する
→
1942(昭和17)
☆
(株)諫早銀行を買収する
★
瓜生タツが雷が丘(現東小島町)の旧料亭「宝亭」(高島秋帆旧宅)から今籠町崇福寺門前に「辰巳」を新築移転
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により高島秋帆旧宅等建物が損傷
★
垣立商店の垣立寅蔵が長崎べっ甲商工組合の初代組合長となる
★
実兄豊田浄次が経営する新湯ホテルでマネージャーをする弟の宮崎亀千代が独立。宮崎旅館を創業
亀千代は1889(明治22)豊田無着の二男に生まれる。無着は西有家龍泉寺第17代住職
→
1952(昭和27)
☆
別館を落成。県下屈指の旅館として、ゆるがぬ地歩を築く
★
雲仙新湯の富貴屋旅館が雲仙古湯に移り純日本旅館富貴屋を経営
→
1960(昭和35)
☆
1億円余りをかけて鉄筋3階建、内部和風のデラックス旅館を建設
戦後の観光客の増加により雲仙は発展の一途。旅館やホテルが増築ムードの中、いち早く近代施設に
工事は工期が遅れ資金償還の問題で苦しむことに
★
西有家の須川共同墓地で半円柱(蒲鉾型)蓋石型の美しい墓碑が発見される
「FIRISACYEMO.DIOG.XONE□□GOX.IRAI.1610IVG.16.QEICHO15」
半円の面にポルトガル式綴りと省略法を用いた日本最古といわれるローマ字の金石文が彫られている
1610(慶長15)に死亡したキリシタンのもの?
★
県下の腸チフス患者総数570人、うち死亡116人
★
県下中小学校生徒児童の伝染病患者1865人、うち半数が流感(03/〜12/)
▼
1930(昭和05)
【昭和】
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