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〈明治時代(2)〉

1870(明治03)【明治】 庚午(かのえうま)

  《知事》[第2代(官選)]野村盛秀(→12/19)、[第3代(官選)]井田譲(12/19→)

  01/01新政府は名古屋以西の諸藩に浦上キリシタン総配流を断行
     禁教令が残る明治時代、最後の「浦上四番崩れ」の旅が始まる
     1868(慶応04)07/11《05/21》の中心人物114人に続く旅
     浦上に突然に残された戸主700人に、明朝6ツ時までに立山役所に集まれと出頭命令がでる
     突然のことに、5日に改めて欲しいと信者が申し出、役所もそれを許可
       長崎にいる各国領事をはじめ、長崎に来ていたイギリス公使パークスたちが県知事にかけあい、やめさせようと懇願
       知事はつっぱねる
     01/05朝、長崎守備の振遠隊兵士が浦上に出張して、男子たる戸主700人を立山役所に集まる
     大雪の中、終日役所の庭に立たせた末の夕方、大波止に集まっていた12隻の汽船に乗せる
     01/06先に流された114人の家族を召喚し、夕方、汽船に乗せる
     また700人の残りの家族に対しても検挙が始まり、男も女も、老人も子供も、みな勇んで家を出る
     汽船で…和船で…大波止から…時津から…船で22か所に流される
     浦上地区の村人のほとんどに当たる3414人【3494人?、3384人?、3394人?】が名古屋以西の21藩に流配される
     ひとつの村の村人総流罪に処するというのは、いまだかつて日本の歴史でもない
      萩231人、津和野125人、福山70人、鹿児島375人、広島177人、松江86人、鳥取161人、岡山117人、
      姫路48人、松山86人、高松51人、高知116人、徳島111人、和歌山281人、郡山86人、大和古市22人、
      伊賀上野58人、伊勢二本木75人、名古屋375人、大聖寺44人、金沢526人、富山42人
     各地に流された浦上のキリシタンたちは激しい迫害の中、耐え忍ぶことに
     1870(明治03)01/08《1869(明治02)12/07》この日までに2810人が西国22藩に預けられる
     1872(明治05)拷問が厳しく改宗した人たちが、早めに浦上村に帰される
     のちキリシタンの禁制が人道問題として外国公使団の抗議を受け明治政府の内政外交上の大問題に
     外国公使団が『信仰は国法を超えた人権であって、それを弾圧するのは人道に背く』と抗議
     対し日本政府の主張は
     『キリシタンは国禁の宗教であるから、信徒は犯法の徒。その処罰は内政問題であって外国の干渉は受けない』と
     のちアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーなどの各国政府が
     アメリカにいる岩倉具視全権大使に「キリシタン追害は人道問題だから中止すべき」と勧告
     のち岩倉具視全権大使が明治政府に電報でキリシタン禁制の中止を申し入れ
     日本政府はキリシタン禁制の停止を外交上の立場からも考慮せざるを得なくなる
     外交上の立場…諸外国の圧力と条約改正の防げになることからキリシタン禁制の高札が撤去されることに
      【詳しくは1871(明治04)12/23《11/12》の岩倉使節団の項に】
     1873(明治06)02/24岩倉大使の要請により太政官布告第68号をもって、明治政府は曖昧な文書によりキリシタン禁制の高札を撤去
     03/14太政官達をもって「長崎県下異宗徒帰籍【長崎県下異宗徒帰籍?】」が命令
     1614(慶長19)にはじまるキリシタン禁制が262年ぶりに効力を失う
     日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられる
     259年ぶりにキリスト教徒への弾圧が終わり「浦上四番崩れ」の旅から戻る
     浦上に帰ったのは約半数の1930人のみ。660人【613人?】が帰らぬまま死亡
     残酷な拷問の中で、1011人が転ぶ。流されていた3394人のうち1900人が浦上に帰る
     【3404人が流されるが、その中660人が旅先で死去、176が出生】
     【諸外国の圧力により全員が赦免され1938人が帰村。旅先で土着した人たちも】
     04/0718県に流刑されていた浦上キリシタンのうち和歌山県の53人が帰村
     08/07最後の放免者が帰村
     664人が殉教し、殉教の旅より戻った者は1883人
     耐えきれず棄教した1022人は帰郷後、ほとんど元の信仰に戻る
  01/15ポルトガル人のF・ブラガが英字週刊新聞「ナガサキ・エキスプレス」を創刊
     1873(明治06)2月号で社主がシーサットン・A・ノルマンに変わる
     「ライジングサン・アンド・エキスプレス」と改題
     1878(明治11)01/05「キューシュータイム」と改題
     1897(明治30)09/01956号で廃刊
     1897(明治30)09/06F・リンガーが松が枝町で買収
     「ナガサキ・プレス」と改め2頁の日刊紙に。経営陣には倉場富三郎も
     1929(昭和04)08/廃刊
     【1928(昭和03)?】
  01/24オランダ人商人ヤナス・ラインフートが長崎在住中53才で死去
     悟真寺オランダ人墓地に埋葬された最後の人物。墓地は34番
     芸者八ツ橋によって墓碑が建立される
     悟真寺のオランダ人墓地の埋葬者数(41)
     オランダ(18)、ロシア(4)、イギリス(3)、インド(1)、不明(15)
     悟真寺の稲佐国際墓地の埋葬者数(31)
     アメリカ(12)、イギリス(9)、フランス(2)、ポルトガル(2)、ドイツ(1)、中国(1)、不明(4)
  01/ロス商会が大浦16番館にバンク・エクスチェーンジ・ホテルを開業
     大浦居留地に開設された外人向け初めてのホテルで撞球場や理容サルーン、ボーリング場なども付設
  02/12大浦バンド(海岸通り)にコマーシャル・ホテルが開業
  02/27《01/27》明治政府が太政官布告第57号。商船規則に基づき国旗のデザインや規格を示す
     「御国旗」として規定され、日本船の目印として採用される
  02/シーボルトの娘・楠本イネが東京で産科医を開業、わが国における最初の産婦人科医となる
     1873(明治06)シーボルトの娘・楠本イネ、宮内庁御用掛を拝命、宮中の産事をつかさどる
  02/本木昌造が長崎製鉄所の頭取の職を辞す
  03/本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞し新町に新町活版所を創設
     私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も
     日本最初の民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め近代日本の印刷技術発展の基礎がつくられる
     1870(明治03)新町活版所にて日本活字号数制を確立
     和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案した号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本
     ガンブルはスモールパイカ(11point)を5号活字とするが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあてる
  03/上五島中道島の鯛之浦で惨殺事件が起きる
     新刀の試し斬りのため突然押し入った4人の有川の郷士により胎児を含めた2家族6人のキリシタンが惨殺される
  04/04大坂居留地川口に建つ大坂天主堂が献堂式を挙げる 
  04/22《03/22》和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らが人力車業を開業
    東京府に人力車の製造と営業の許可を得る。拠点は日本橋
  05/2118時頃、対岸の天草から口之津港に、仏軍艦「デュプレクス号」が沿岸測量の途中、入港
     仏軍艦「デュプレクス号」は四国艦隊下関砲撃事件や堺事件に関係
     「測量の帰途、悪天候と夜間になったため寄港。明朝長崎に帰帆」との書状が届く
       欧米の軍艦は軍事上の目的から日本沿岸を測量。通商条約を無視し、事実上自由に行なう
       仏領事から「島原海岸測量」の許可を求められた県知事は「承難し」と断るが、「島原藩庁の御処置で」と対応を丸投げ
       05/16島原藩庁は「上陸は禁止だが、聞き入れられなかったら仕方がない」として口之津村などに事務方の役人を派遣
     05/22午前、乗員や通訳計5人が上陸を求める
     島原藩庁の役人、中根揆一らは政府の許可が必要と説明
     「お断り申し上げる」とする艦長あての書面を渡すと、午後、混乱もなく出港
  05/市中の演劇場を八幡町と諏訪神社付近の2か所に制限。他の町での開場を禁じる
  06/13港外の伊王島灯台完成、仮点灯開始
     お雇い外国人の英国人R・H・ブラントン技師の設計、施工による日本初の鉄造六角形の第一等不動灯
     【一説に06/16】
     1871(明治04)07/31我が国初の鉄造り六角形灯台が本点灯
  06/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
     1869(明治02)02/に東京で市中の風俗矯正の目的で男女混浴が禁止されるが、効果があらわれず
     1872(明治05)03/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
  08/25日本政府がデンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社の要求を受け入れる
     「長崎〜ウラジオ間および長崎〜上海間に海底線を敷設して、長崎に陸揚げさせる
     長崎〜横浜間に、九州、四国の南端を経由する海底線を敷設させる」
     外務卿沢宣嘉らは国内通信まで外国資本に握られかねないと条件をつける
     「ただし長崎〜横浜間は日本政府の電信線(陸線)が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
     10/デンマークの軍艦キヨルト号が長崎に入港
     大北電信会社のシュエンシン総代をはじめ技師たちが乗船
     大北電信会社は、前年にロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得
     1871(明治04)04/14大北電信会社長崎支局を下り松にあるベルビューホテルの一室に開設
  08/長崎伝信局が開設。長崎〜横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手
     伝信局はのちの電信局
     電信線のない当時、電報は早飛脚で長崎〜横浜を7〜9日間を要した
     1871(明治04)07/29長崎伝信局が長崎〜東京(1368粁)に電信線架設
     沿道各県に4粁あたり70本の電信柱の設置を割りあてる
     1873(明治06)02/17長崎〜東京の架設電信回線が完成
     あわせて九州初の長崎電信局が開設
  09/07「長崎くんち」が雨天のため夜8時頃に渡御
     樺島町の太鼓山の衣装が錨の模様になる
  グラバーが日本の政情不安定で武器弾薬の需要を見込み大量買付け
  09/16英本国政府がグラバー商会に対し破産を宣告
     予想外の早期安定で売却できず、負債数10万弗となる。日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことに
     1871(明治04)08/グラバー商会廃社。倒産後も三菱の顧問に納まり高給を得る。新事務所は神戸に
  09/19平民苗字許可令が布告。一般の「平民」も苗字を持つことが認められる
     国民(平民)は政府を信用せず、付けることで余計課税されるのではないかと警戒
     あえて苗字を名乗ろうとはせず
     1875(明治08)02/13太政官布告、平民苗字必称義務令が布告される
     国民はみな公的に苗字を持つことが義務づけられる
  10/17諏訪神社が官命で氏子名簿を作成。長崎県への提出を義務づける
     住民全てが諏訪神社の氏子となり、氏子には氏子証札を授与
     子供が誕生すれば7日以内に参宮して名簿登録を願い出る規則に
     長崎78町、戸数7749、人口2万8589、長崎村13郷、戸数7243、人口3万2268
     戸籍法実施前の方便とはいえ、公簿への記載からも信徒は排除される
  10/フルベッキが大学南校の教頭となる
  11/07横浜に次いで長崎にも梅毒病院を設立しようと英国海軍付内科医のジョージ・B・ニュートンが来崎
     早速、大徳寺跡に県立黴毒病院を新設
     日本政府の協力を得て認可を受けた全娼婦を対象に性病の検診を試みる
     しかし政府からの検診通達に娼婦たちの猛烈な反対抗議が起こる
     政府は妥協案をだした結果、ほとんどの娼婦が検診に応じる
     ニュートンは娼婦の検診状況を見届けたのち、横浜に戻る
     のち長崎の病院は当初、順調な経営が予想されたが、資金不足のため閉鎖
     1871(明治04)06/ニュートンは病院を再開させるため再来崎
     しかし長崎での病院建設は多くの難問に遭遇。いわれなき中傷誹謗をあびる
     1871(明治04)07/10朝方、大浦7番地の「オクシデンタル・ホテル」に滞在中、突然、尿毒症に
     1871(明治04)07/11《05/24》朝方、41才で死去
     遺体は大浦国際墓地の正面入口付近の一面63番に埋葬
  12/08トーマス・ブレイク・グラバーの第2子が長崎で誕生、富三郎と名づけられる
     母親は本妻ツル・グラバーでなく加賀マキ。母親の元で育てられる
     6、7才のときグラバー家に引き取られる
     のち加伯利(かぶり)英和学校(鎮西学院)から東京の学習院へ進学
     1890(明治23)ペンシルヴェニア大学の自然科学部に入学。生物学を学ぶ
     1894(明治27)外国系商社ホーム・リンガー商会に入社
     1899(明治32)06/横浜の英国人ジェームズ・ウォルターと日本人中野エイの娘中野ワカが結婚
     1907(明治40)長崎汽船漁業の専務取締役に就任
     1912(明治45)画家を雇い魚の写生を始める
     はじめ美校出身の小田紫星1人だったが萩原魚仙、女流の長谷川雪香、歌人の中村三郎が加わる
     1918(大正07)魚類図譜のほとんどが完成
     558種の魚を写生した700枚の図譜と貝類と鯨の図譜の計823枚からなる
     1943(昭和18)05/04妻ワカが69才で死去
     遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
     1945(昭和20)08/26富三郎が自殺
     遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
  12/12ウイリスが鹿児島に医学校開設。第1期生には高木兼寛、実吉安純ら
  長崎製鉄所が諏訪神社に青銅の神馬を奉納
     1944(昭和19)05/長崎県金属類決戦回収工作隊に回収される
     1985(昭和60)10/01新しい青銅の神馬が奉納される
     北村西望が前年に制作した第16回日展出品作品で、天皇在位60年を奉祝して復元
  知事が代わり、諏訪神事の改革、華美禁止がおおまかに昔の姿を取りもどす
  大浦バンドと浪平を結ぶ木橋の下り松(松ケ枝)橋が架設。居留地内遊歩場と前面整備が完成
  フランス領事館が普仏戦争にて一時閉館
     1900(明治33)再開
  唐人屋敷が火災でほとんどが焼失
     のち市民に分譲
  本木昌造が新町活版所にて日本活字号数制を確立
     和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案した号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本
     ガンブルはスモールパイカ(11point)を5号活字とするが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあてる
     1870(明治03)新町活版所にて明朝活字の鋳造にも成功
     約半年ほどガンフルの指導を受け、電胎法による母型を作って和文活字の鋳造技術を獲得
     1870(明治03)大阪に大阪活版所を開設
     1871(明治04)12/12横浜に移り1枚摺りの日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊【12/08?】
     神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して活字と印刷機とを取り寄せる
     昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員陽其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構える
  浪の平の埋立地に遊廓ができる
     1891(明治24)11/遊廓が出雲町の新指定地に移転
  ロシアマタロス休息所が破損のため新築と遊女屋鑑札下付を和三郎、甚八、伊三郎3人が願い出る
     1)遊女は丸山町、寄合町の遊女屋の籍に入れて手数料とし、1日1人につき金1朱宛遊女屋に納めること
     2)必ずロシアドクトルの検梅を受けること
     3)揚代は金2歩、その内遊女には700文を渡す
     4)賄方は引請主3人が引き受る
     こうして悟真寺裏手の同寺所有地を借受け新築の許可を得る
  雷が丘(現東小島町)の高島秋帆旧宅で松尾浅吉が料亭「宝亭」を開く
     のち料亭「宝亭」が数度にわたり改築
     1916(大正05)料亭「宝亭」が廃業
  浦上四番崩れに伊王島の大明寺信徒12人が岡山、和歌山などに流刑
  平戸新田藩が廃藩し平戸藩に編入
  島原の内海、湊新地の入口に石橋の新地橋が架かる
  アメリカ将校7人が通訳とコックボーイを連れて雲仙の湯本旅館(現湯元ホテル)に逗留
  「文英堂」が芝日陰町から京橋区尾張町(銀座付近)に移り、屋号を「木村屋」と改称
     1874(明治07)銀座4丁目に店舗完成
     創業者の木村安兵衛が酒種あんぱんを考案、発売を開始

1868(明治01)〜1870(明治03)

  グラバー住宅すぐ下の坂道長30米、幅1.2米がアスファルト道路に
     歴青材が高島炭坑産のコールタールの場合、グラバーが南山手に住み、炭坑を経営していた時期
     【1863(文久03)?】
      グラバー邸の建築と並行して散歩道として造らる
      路面は玉砂利を5糎くらい敷きならし、その上に3〜4層(1層は約7粍)に分け表面上は川砂を用いて施工
      石炭から発生するコールタールを用いて造られる

1871(明治04)【明治】 辛未(かのとひつじ)

  《知事》[第3代(官選)]井田譲(→01/07)、[第4代(官選)]宮川房之(01/07→)

  02/01大浦バンド7番館にオクシデンタル・ホテルが開業
  02/明治政府は新貨の鋳造にのりだす
     05/新貨条例を公布し金貨を本位貨幣、銀貨を補助貨幣とする新貨制度を実施
     これまでの両にかわって円が通貨となり円、銭、厘の十進一位の単位が決定
  03/19「斃牛馬持主勝手処理令」が太政官布告としてだされる
     草場(一定に区切られた範囲の縄張り)内で死牛馬を無償で引き取ること…
     相撲・芝居などの興行の際、入場料の1割を徴収することのできる櫓銭徴収権…
     寺社祭礼での出店からの何某かの金品を徴収することのできる芝銭徴収権…など
     被差別部落の人々の特権がなくなる
     08/28「賤民制廃止令(解放令)」が太政官布告としてだされる
     穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事
     10/「解放令」がほぼ全国に伝わる
     被差別部落の人々は大きな喜びでこれを迎える
  04/04戸籍法を定める
     1872(明治05)02/01施行
  04/04斃牛馬の処理について、これまで穢多に渡していたが今後は持ち主の勝手とする触れがでる
     長崎、厳原、福江で同様の触れが見られる
  04/14デンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社が長崎支局を下り松にあるベルビューホテルの一室に開設
     大北電信は、1869(明治02)11/にロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得
     05/29海底ケーブル線を港外の小ケ倉千本海岸に陸揚げ
     08/04《06/18》長崎〜上海(909.5粁)の海底電信線敷設工事が完成
     ベルビューホテルの一室に設けた大北電信長崎支局にて日本初の国際電信業務を開始
     08/12《06/26》民部省が長崎〜上海の通信を開始
     10/05長崎〜ウラジオ間の海底電信線敷設工事が完成
     11/21長崎〜ウラジオストックの通信を開始
  05/27《04/09》官営長崎製鉄所が長崎造船所と改称
     1872(明治05)長崎製作所と改称
  05/86名の市郷芸子が鑑札を受け、その中82名が市中に居住する町芸子
  06/英国海軍付内科医のジョージ・B・ニュートンは資金不足のため閉鎖となった県立黴毒病院を再開させるため再来崎
     しかし長崎での病院建設は多くの難問に遭遇。いわれなき中傷誹謗をあびる
     07/10朝方、大浦7番地の「オクシデンタル・ホテル」に滞在中、突然、尿毒症に
     07/11《05/24》朝方、41才で死去
     遺体は大浦国際墓地の正面入口付近の一面63番に埋葬
  06/熊本藩士遠山一也が英商オールトへ熊本産の煙草15万斤を売込む取引をまとめる
     手附金3千両を受取る保証人に茶貿易商大浦慶の名を借りる
     大浦慶にとって英商オールトは 茶貿易の恩人、やむなく約定書に保証人として連判
     のち遠山は約束の期限を過ぎてもオールト商会へ1斤の煙草も送らず
     オールト商会は遠山へ約束の履行を再三求めたが遠山は誠意を見せず
     1872(明治05)オールト商会は遠山一也、大浦慶等に手附金6千両の返還を求める訴を起こす
     判決は、遠山一也を懲役10年、大浦慶等関係者に多額の賠償責任を負わせる
     大浦慶は嘆願書を出した結果、違約金3千両は免除
     他の関係者が弁済できなかった残額1250両は家、屋敷を担保にして、月々62両2分づつ弁済
     大浦慶は心労のあまり病臥、大浦家は急速に没落
     【一説には遠山一也が大浦慶を欺くため、数々の手段を講じたとも】
  07/14廃藩置県の詔書がでる
     廃藩置県案は西郷隆盛、大久保利通・木戸孝允ら薩長の要人間で密かに練られ、
     三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得る
     この日、新政府は在京の知藩事を皇居にあつめて廃藩置県を命じる
     藩は府県となり、知藩事は免職され、中央政府から府知事・県令が派遣された
     旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き中央集権をはかる。そのまま県に置き換えたため細かく分かれ全国で3府302県に
     飛地も多く地域としてのまとまりも弱い
     11/14統合されて3府72県に
     厳原藩(対馬藩)が厳原県となる
     1871(明治04)09/04佐賀県(旧佐賀藩)が伊万里県と改称し厳原県を統合する
     大村藩が大村県に、島原藩が島原県に、平戸藩(含・壱岐)が平戸県になる
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により大村県、島原県、平戸県が福江県とともに長崎県に合併
     福江藩(五島藩)と富江領が福江県となる
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により福江県が大村県、島原県、平戸県とともに長崎県に合併
     長崎県はそのまま。深堀領、諫早領、神代領もそのまま
  07/14島原の旧城下町が廃藩置県によって島原村、島原町、島原湊となる
     1924(大正13)島原村、島原町、島原湊が合併し島原町となる
     1940(昭和15)長崎県下で3番目に市政を施行し島原市が誕生
     1955(昭和30)島原市が三会村を合併
  07/31港外の伊王島灯台が本点灯
     お雇い外国人の英国人R・H・ブラントン技師の設計、施工による日本初の鉄造六角形の第一等不動灯
     1945(昭和20)08/09原爆の爆風で鉄板の結合部が緩み老朽化
  07/食肉が広まり、販売権をめぐって商人南屋喜重に屠牛場免札が許される
  07/文部省が設置され江藤新平が初代文部卿になり学制の改革が急速に行なわれる
  08/28【08/29】《10/12》「賤称廃止令」がだされる
     「穢多・非人などの称、廃され候条、自今身分・職業とも、平民同様たるべきこと」
  08/屠牛場の開設が鑑札制となる
  08/グラバー商会廃社。グラバーは倒産後も三菱の顧問に納まり高給を得る。新事務所は神戸に
     1885(明治18)「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(キリン麦酒株式会社)が横浜に設立され奔走
  09/04佐賀県(旧佐賀藩)が伊万里県と改称し厳原県を統合する【09/03】
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により厳原県を含む伊万里県が佐賀、唐津、鹿島、小城、蓮池各県を合併
  09/23《08/09》明治政府は太政官布告を以て「散髪脱刀令」を布告
     太政官第399号「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」
  10/22《09/09》正午、宮城内旧江戸城本丸の庭園にて近衛師団の砲兵が空砲による最初の報時を行なう
     江戸時代の時の鐘に代わるもの。号砲、午砲。その発射音の「ドン」が俗称となる
     全国の陸軍師団司令部所在地に於いても各師団砲兵にて的確に実施
     師団所在地の都市を中心に「ドン」という言葉が普及
     1923(大正12)09/01関東大震災のときも、掛員の将校と下士官は責務を正確に履行
     地震発生2分後のこと
     1929(昭和04)04/30経費難により東京での正午の空砲報時「ドン」が終了となる
     05/01市内各地に設置したサイレン(号笛所)による報時に切り替える
     のちサイレンは、のちの空襲警報などの告知にも使用される
     1938(昭和13)09/サイレン(号笛所)による報時が廃止となる
     のちサイレン空襲警報などの告知にも使用される
  11/12岩倉具視をはじめ明治政府の中心人物たちで構成された外交使節団がアメリカに向かう
     1858年(安政05)の通商条約が日本にとって不平等条約であり、その改正交渉のため
     のち浦上四番崩れ事件が原因のひとつになって、条約改正交渉はことごとく失敗
     国民の信仰や良心の尊厳を無視して迫害する国を、近代国家として認めることはできないと
     アメリカを後にヨーロッパに渡った使節団は、イギリスやベルギー、至る所で信仰弾圧の停止を勧告
  11/14長崎県病院を文部省管轄とし、長崎医学校と改称
     1872(明治05)08/18第六大学区医学校と改称
  11/14第1次府県統合が実施される。全国で、それまでの3府302県が3府72県に統合される
     大村県、島原県、平戸県、福江県、長崎県が合併し長崎県に
     厳原県を含む伊万里県がが佐賀、唐津、鹿島、小城、蓮池各県とともに合併し伊万里県となる
     1872(明治05)05/29伊万里県が佐賀県と改称
     旧佐賀藩の飛地、深堀領、諫早領、神代領が伊万里県に合併
     1872(明治05)01/深堀領、諫早領、神代領が長崎県に編入
     長崎県の旧天草県(富岡県)が分離、熊本県、人吉県とともに合併し八代県となる
  11/21デンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社が長崎〜ウラジオストックの通信を開始
     1940(昭和15)06/01逓信省が大北電信会社長崎支局の通信運用権を接収
     「わが領土内に外国の通信租界を置いておくことは防諜上からもまずい」
     支局舎に長崎電信局第2通信課を新設し運用、従来の通信課は第1通信課となる
     デンマークの大北電信会社は1871(明治04)以来、長崎に海底電信線を陸揚げし外国通信を運用
     日本としては通信上、数々の支障があり開設後数度の条約改訂が行なわれ、最後の改訂された条約期限が1940(昭和15)末
     大北電信会社は長崎における営業権を日本政府に無償返還
  11/30宮古島から首里へ年貢を輸送した宮古島船が帰途中、台風の暴風で難破
     漂流し琉球の役人と船頭69人のうち3人が溺死
     のち台湾南部に漂着。66人が台湾先住民の牡丹社に救助を求めるが逆に集落に拉致される
     12/17船の乗組員66人は集落から逃走。先住民は逃げた琉球人を敵とみなし、次々に殺害54名は馘首
     12人の生存者は漢人の移民により救助され台湾府の保護により福建省福州経由で宮古島へ送還
     1872(明治05)05/日本国明治政府が一連の事件を知る
     1872(明治05)09/樺山資紀や鹿児島県参事の大山綱良ら薩摩閥から台湾への軍艦派遣が建言される
     琉球を自国の領土とみなす立場から清国に対して事件の責任を問う
     1974(明治07)04/19征伐出兵の準備に入るが、英・米の駐日公使が出兵反対の意向を示す
     政府は一旦は派兵の延期を決定
     1974(明治07)04/22征伐本部として蕃地事務局が西浜町の薩摩藩邸跡に設けられる
     長崎はその兵站基地となる
     参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命。全権が与えられる
     1974(明治07)05/04大久保利通、大隈重信、西郷従道が長崎で会見。西郷の強硬意見を入れ征伐実施を決定
     1974(明治07)05/17西郷従道は兵3千を率いて長崎を出発
     明治政府が台湾への軍事出兵「征台の役」を断行(〜06/【〜07/】)
     のち台湾南部に上陸。原住民と小競り合いを行なう
     1974(明治07)05/22西郷の命令を受けて台湾原住民に対する本格的な制圧を開始
     1974(明治07)06/03事件発生地域を制圧して現地の占領を続ける
     風土病に悩まされ戦死者12人に対して病死者561人に及ぶ
     のちイギリス公使ウェードの斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉
     結果、清国政府は日本の行動を認めさせるとともに遭難漁民への見舞金など50万両(テール)を支払うことに
     引き換えとして征討軍の撤兵が行なわれる
  11/蘭人ゲールツ、小島郷稲荷山に気象観測所を設け、気象観測を始める
     1878(明治11)07/01国費にて「内務省地理局長崎測候所」が設置
     場所は長崎県肥前国西彼杵郡下長崎村十善寺郷中ノ平361番地(海抜67.6米【海抜56.7米?】)に
     我が国初の地方測候所として誕生
     電信回線が開通している兵庫、仙台、新潟、青森にもそれぞれ設置
     気象観測は毎日3回行なわれ、内務省地理局測量課へ電信で報告
  12/12本木昌造が横浜に移り1枚摺りの日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊【12/08?】
     神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して活字と印刷機とを取り寄せる
     昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員陽其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構える
     1873(明治06)東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  12/17《11/6》伊万里県管下の高島、蔭の尾島、伊王島、神の島、大山、出津、黒崎の村々のキリシタン67人が捕縛
     12/19投獄
     12/長崎発行の外字新聞に、伊万里キリシタン事件をとりあげる論説が載る。問題が拡大する発端に
     1872(明治05)01/31《1871(明治04)12/22》伊万里県は全員不改心のまま釈放
     もっともらしい理由「教論の実効相顕候に付き」をつける
     事件は一応落着。1871(明治04)12/23《11/12》に横浜を出帆した全権大使らはまだ知らず大いに心配
     事件をきっかけに浦上キリシタン流罪に対する欧米の世論は一段と硬化。キリシタンの釈放が要請される
  12/別日付長崎発行の外字新聞に、伊万里キリシタン事件をとりあげる論説が載る
     「先年の捕り方のように、キリシタン信徒が捕縛され文明国の人々は同情と悲嘆を禁じえない」
     1872(明治05)01/13イギリス公使アダムスは副島外務卿を訪ねて真相を質する
     外務省でも事情を知らず「委細の事は分らず候」と返答
     01/19外務省は太政官正院に資料の提出を求める
     02/09ロンドン・エンド・チャイナ・テレグラフ紙にイギリス公使パークスの意見が掲載
     02/12同上紙に「キリシタン迫害によって日本の名誉は失墜した」と強調
     のち長崎の外字新聞に載ったのち、横浜、上海、欧米などの新聞でも次々に報道される
     のち長崎駐在英国領事マルクス・フロウルスが事件を問題視。長崎県に申し入れを行ない、イギリス公使に報告
  12/23《11/12》岩倉具視を全権大使とする使節団がアメリカからヨーロッパ各国へ向け横浜を出帆
     安政条約の改訂期を翌年07/01にひかえ、不平等条約改正の交渉を打診するため
     右大臣岩倉具視を正使に、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使に48人の全権団
     上田てい子ら5人の女子留学生が同伴
     1872(明治05)02/04《1871(明治04)12/26》全権団はアメリカのソルトレータ市に到着
     タウンゼント・ホテルに投宿し、ニューヨークの新聞を見て、はじめて伊万里事件を知る
     1872(明治05)02/22ワシントンに向かう途中の列車の中でアメリカ公使デ・ロングから注意を喚起
     同日付で三条太政大臣に送った手紙「この節柄の儀、この一事は、実に残念の事に御座候」と
     山口副使も副島外務卿に手紙を送り「僕等命を奉じて条約改正の箇条中にも最も苦心する事件に候処、
     前載の如き事件差起り候ては各国の嫌疑も有之…深く案じ痛み罷り在候」と
     事件は外交上の重大問題化
     03/03《01/25)》アメリカ大統領グラントの全権団接見。日本のキリシタン禁制を解く必要を勧告
     「そもそも、わが国の人民に富強と幸福とをもたらしたゆえんは、外国と交際し…、
     出版の自由を奪わず、人の信仰良心を束縛せず、宗教に寛容を与えることは、
     わが国民のみでなく、この国に住む外国人にも一切の制限を設けなかったからである」と
     03/16全権団と国務卿フイシュとの会談で大統領と同様のことを述べる
     全権団と国務卿の両者の意見はますます対立
     両者の主張
      全権団…あくまで宗教問題を和親通商と切り離し、国内問題として処置する
      国務卿らの見解…信教自由の尊重を根本原則として考え、信教自由を認めず、弾圧を加えることは、
      近代文明国家の非道な行為であって、対等の条約を結ぶべき近代国家とは認めない。
     日本側の思想は、250年の歴史につちかわれた頑強さをもつ
      「キリシタンは国禁の宗教であり信徒は『犯法』の徒、当然重刑に処せらるべき者」
     05/01《03/24》一時帰国した伊藤博文、大久保利通の両副使は全権委任状の請求のため入京
     太政官代において速やかに取り除くよう建言
     条約中に高札撤廃の規定することの必要を日本側も認めることに
     05/02太政官正院に登庁して委任状を請求すると同時に、4か条の改正条約要旨を提出した。そのなかの1条件
       1,日本の法律中に、外教の明禁なしと雖も、尚高札に其の禁令を掲示するを以て、
         外人は一概に自由信仰を妨ぐるの野蛮国と見做し、対等の権を許すことを甘んぜず。故に此の高札の禁令を除くこと
     条約改正のための談判開始後、全権団の最初の改正要旨に早くもキリシタン禁制高札の撤去が要求
     翌年、岩倉大使の要請によって実現
     06/23この日から3日間かかって全権団は「大日本・合衆国、新定条約並附録草案」を作り上げる
     これは日本側の最終案であったが、その第10条に見える条文
     「両国の人民は互の地方に於て、其の信教に付き最も十分なる安全を占むべし。
     且つ其の国の法律古例を当然に尊敬する以上は、其の宗旨信仰の事故か、
     或は自宅又はそのために設ける他の場所に於て相当なる礼拝を行うの事故を以て、之を煩わし、之を妨ぐる事なかるべし。」
     08/17《07/14》全権団はロンドンに到着。再びキリシタン弾庄政策が指摘
     11/27英外相グランウイルと会見
       外相「キリスト教迫害中の日本とは条約改正談判を中止せよという国民の建言もあるが、
       日本が信教の自由を認めることによって、対日感情も好転するであろう」
       岩倉大使は「日本のキリシタン禁制も近くゆるむであろう」と答える
     欧米いたるところで宗教弾圧の非を指摘され、全権団の見解にも変化が起こる
     日本政府はキリシタン禁制の停止を外交上の立場からも考慮せざるを得なくなる
     外交上の立場から諸外国の圧力と条約改正の防げになる
     1873年(明治06)01/02伊藤博文はパリから大隈参議、副島外務卿に手紙を送る
     [明治05.12/03は太陽暦の明治06.01/01となる]
       「各国政府の意向は西教を忌みにくむという、東洋旧来の風習を懸念する心が脱け切らない。
       法律の寛厳を論ずるより、旧習に固着し政治を偏頗の処置になることを恐れている。
       現今、学者の議論は、宗教の害を論ずる者も数多くあるが、一般人心はそうではない。
       …宗教のことは、ただ黙許して法律上で区別しないのを根本としたがよい。
       …現に高札等の耶蘇の禁令はよく熟知するところであり我が国で宗教は黙許であるなどと西洋人に言えない。
       …また事実に基き理屈を推して考えると、国家が禁令を掲示し行なわれなければ国威は立たない。
       また、誠心赤子を安んずるという訓えにも恥ずべき…」という実際的な意見を述べ
       「宗教の禁は、我が国民を圧制するだけで、外国人の我が禁令を犯しても、これを防ぐことはできない。
       阿片禁止令のごとく、自国民と外国人とを問わず犯す者は、どちらも処罰できなければ禁令とはいいがたい」として、
       禁教のままでの治外法権を撤廃は、かえって国威を傷つける。開国と信教の自由とは、相ともなうべき理を説く
     伊藤博文の意見は信教の自由の本質的理解より、政治の実際、損益の上に立った考慮としても欧米巡遊の効果となる
     01/24仏外相レミユサとの会談でも問題化
     02/13ベルギー蔵相モローとの対談でも問題化
       ベルギーではプラッセル市民が、大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫ぶ
       フランスでは東洋学者レオン・パジエスが報告書「日本におけるキリシタン迫害と日本の遣欧大使」を仏国議会に提出
       デーパッセン・ド・リシュモン伯が、日本キリシタンの釈放について議会で演説
     宗教弾圧は各国で問題に。それほど日本のキリシタン弾圧は欧米に悪名高いという状況
     09/13岩倉具視を全権大使とする使節団が全12か国をまわり帰国。横浜に帰港
     日本→亜米利加→英吉利→仏蘭西→白耳義→阿蘭陀→独逸→露西亜
     →丁抹→瑞典→独逸→伊太利→墺太利→瑞西→仏蘭西→日本
  12/長崎県病院医学校が文部省の所管となり、長崎県病院・長崎医学校と改称
     1874(明治07)11/長崎医学校は廃止。長崎県病院は蕃地事務局(兵員)病院と改称
  「長崎くんち」で本籠町が11年ぶりに蛇踊を再興?
  越前福井生まれの吉田健康が長崎医学所小助教に任ぜられ長崎病院付に
     1875(明治08)長崎病院長に
     1876(明治09)長崎医学校が設立し校長を兼任
     1877(明治10)西南の役に際し軍医として軍団病院付となる
  アントン・ヨハネス・ゲールツが小島郷稲荷岳中腹に長崎測候所(気象観測所)を開設
     気象観測を始める。正午には赤い旗を竿頭にあげる
  長与専斎が文部省に転勤となる
     転勤後岩倉具視らの欧米使節団の一行に加わりる
     1873(明治06)アメリカを経てヨーロパを周り帰国
  沖ノ島の馬込の信者により木造瓦葺きの椎山小聖堂が建てられる
  本木昌造が発行した新聞「崎陽雑報」が13号で廃刊
  初代菊池喜三郎が田主丸から長崎へ。●●●町で貿易を営む
     のち2代菊池儀平、3代菊池政次郎と続く
     第2次世界大戦中貿易が停まり家業を廃止
     1952(昭和27)初代が建てた家が原爆の被害をまぬがれ改築し旅館業をはじめる
     屋号は母の名菊池春代から旅館菊春に
  日本で本格的にタマネギ種子が輸入
     1884〜1885(明治17〜18)頃大阪で栽培が成功

1871(明治04)頃

  梅ケ崎4番地の独商アーレン商会内にドイツ領事館を設置
     1900(明治33)01/大浦11番地に移転、イタリア代理領事を兼ねる
     1914(大正03)国交断絶により閉館

1872(明治05)【明治】 壬申(みずのえさる)

  《知事》[第4代(官選)]宮川房之

  01/02《明治04・11/22》東浜町326番地に永見松田商社が開業。資本金5万円
     為替、貸金を業務とし西日本の近代的金融機関の先駆となる
     1872(明治05)11/09資本金を8万円に増資、合資組織の立誠会社となる
     社長は松田勝五郎
     1874(明治07)09/15株式組織の立誠会社に改組
     のち松田の「会社を解散して国立銀行に切り替えよう」という提案に永見伝三郎が同意
     松田勝五郎、源五郎、永見伝三郎、得十郎、寛三の両家5人を発起人として国立銀行設立を政府に請願
     1877(明治10)06/中立誠会社が提出していた国立銀行の設置申請に対し大蔵卿大隈重信名で許可の公文が届く
     「願イノオモムキ、聞キ届ケ候条、株主募集ノ上、創立証書、銀行定款差シ出スベキコト、
     タダシ名号ノ儀ハ、第十八国立銀行ト相トナウベキコト」
     1877(明治10)12/20立誠会社が発展的に解散
     東濱町326番地に全国で18番目の国立銀行として第十八国立銀行が発展開業
     頭取・永見伝三郎、支配人・松田源五郎。資本金16万円
  01/14《明治04・12/05》本大工町の民家を借り受け仮役所として郵便業務を開始
     のち本博多町に郵便役所が開設
     1875(明治08)01/01本博多町の郵便役所が梅ケ崎町7番地に移転。長崎郵便局と改称
     居留地の外人にとっては便利になったが、本博多町一帯の住民には不自由を来すようになる
     のち本博多町の郵便役所の建物を利用し長崎本博多郵便取扱所が設置
     のち本博多町の郵便役所が駅逓寮から長崎県へ移管
     のち本博多町の郵便役所が再び長崎県から駅逓寮へ移管
     のち長崎本博多郵便局となる
     1963(昭和38)岩川町(現川口町)に移転、長崎北郵便局と改称
  01/《明治04・12/》長崎〜東京で郵便業務が開始される
     190時間の長崎〜東京を95時間にすることが、ひとつの目標
  01/戸籍法に基づき長崎総町を17区に分割、各区に町年寄1人を置いて戸長を兼任
  01/伊万里県に編入されている旧佐賀藩の飛地、深堀領、諫早領、神代領が長崎県に編入
  02/22兵制の確立により「振遠隊」が解散し「邏卒制度」を新設
  03/08《01/29》明治政府が人口調査を行ない、総人口3311万0796人と判明
  03/29《02/21》東京で最初の日刊紙「東京日日新聞」が東京浅草の日報社から創刊
     創立は戯作者山々亭有人の名をもつ条野伝平、貸本屋辻伝右衛門方の番頭西田伝助、浮世絵師歌川芳幾こと落合幾次郎の3人
     1874(明治07)社長に旧幕臣の福地源一郎(桜痴)を招く
     1876(明治09)02/20「大阪日報」が創刊される
     1888(明治21)11/20「大阪毎日新聞」と改題
     1911(明治44)「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が合併。全国紙として第一歩を踏み出す
     1943(昭和18)01/01東西で異なっていた「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の題号を「毎日新聞」に統一
  03/橋本雄造が長崎市江戸町に金物商として中津屋橋本商店を創業
     洋鉄・洋釘・船具及び機械類の輸入、古鉄類の売買、船舶の解体等を行なう
     1885(明治18)平戸港外で沈没したオランダ船をグラバーの指導のもとに、引揚げに成功
     日本に於ける沈没船引揚げ第1号
  03/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
     のち全国各地で何回となく男女混浴禁止令がだされるが帯刀、丁髷の禁止と比べると成果なし
     1900(明治33)05/2412歳以上の男女の混浴を禁止する布達がだされる
  04/02文部省博物局が東京・湯島の旧昌平坂学問所大成殿に「書籍館(しょじゃくかん)」を開館する
     すべての人々が利用でき、あらゆる分野の蔵書をもつ近代的図書館のはじまりとなる
  05/29伊万里県が佐賀県と改称
     1872(明治05)08/17旧厳原県が佐賀県から分離し長崎県に統合される【08/12】
  05/日本国明治政府が台湾での一連の事件を知る
       1871(明治04)11/30宮古島から首里へ年貢を輸送した宮古島船が帰途中、台風の暴風で難破
       漂流し琉球の役人と船頭69人のうち3人が溺死
       のち台湾南部に漂着。66人が台湾先住民の牡丹社に救助を求めるが逆に集落に拉致される
       12/17船の乗組員66人は集落から逃走。先住民は逃げた琉球人を敵とみなし、次々に殺害54名は馘首
       12人の生存者は漢人の移民により救助され台湾府の保護により福建省福州経由で宮古島へ送還
     09/樺山資紀や鹿児島県参事の大山綱良ら薩摩閥から台湾への軍艦派遣が建言される
     琉球を自国の領土とみなす立場から清国に対して事件の責任を問う
     1974(明治07)04/19征伐出兵の準備に入るが、英・米の駐日公使が出兵反対の意向を示す
     政府は一旦は派兵の延期を決定
  06/12《05/07》日本で初めての鉄道が品川〜横浜間で仮営業を開始。2往復の列車が運行
     06/13《05/07》6往復となる
     07/10《06/05》途中に川崎と神奈川の駅が設けられ営業を開始
     10/14《09/12》新橋〜横浜間が正式開業
     開業の式典が催され明治天皇のお召列車が横浜まで往復する
     10/15《09/13》鶴見駅が開業し旅客営業が開始される
     列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8粁/時
  06/14夕方、西国巡幸の明治天皇お召艦「竜驤」が長崎に入港
     駐伯所には広運館に近い島原町の旧町年寄高木邸があてられる
     西役所跡には官立学校広運館、立山役所跡には県庁があったが建物は老朽なため
     大波止の新桟橋から上陸
     天皇は西郷隆盛陸軍大将、徳大寺実則宮内卿、河瀬真孝侍従長らを従えて行在所まで行進
     本五島町の脇山啓次郎ら5人の少年が高木邸で給仕役をつとめる
      脇山啓次郎は脇山勘助長崎電軌社長の父、のち長崎商業会議所会頭
     06/15東京出発以来の西国巡幸はずっと炎暑続き。でも朝から雷雨、涼風が流れる
     天皇は外出せず駐在各国領事の拝謁も断り行在所で県内の産物や県民所蔵の古い書画、珍器類をみる
     午後からふたたび強い日が照りつける
     縁先から近くの本下町、今下町の町民有志があげる長崎名物ハタあげをみる
     旅館上野屋に泊まっていた西郷隆盛が近衛兵を連れてきて庭先の空き地で調練をはじめる
     天皇は縁先の椅子からじっと見つめる
     06/16宮川権令の先導で立山の県庁へ。役人たちの執務の状況をみる
     大波止からお召艇に乗り工部省所管の小菅の修船所(ソロバンドッグ)へ
     汽船感通丸の船架引き揚げ作業をみる
     小菅から飽の浦へわたり造船所の各機械場や工作所を視察
     昼食となる。大浦町の森慶次郎(13)ら4人の少年が給仕役をつとめる
     06/17出発の日。大波止までの沿道をうめた官民による奉送の列のなかを天皇の行列が進む
     お召艦「竜驤」は長崎を離れ熊本へ向けて出帆
  06/14天皇巡幸の際、被差別部落民100余名、キリシタン宗徒100余名が皆新調の衣服をつけ道路清掃を行なう
  06/町年寄兼戸長を廃止
  06/市街を2大区に大別、第1大区を8小区に第2大区を9小区に分け小区ごとに戸長1名を置く
  07/15《06/10》前嶋密らによって「郵便報知新聞」が創刊される
     1873(明治06)会社報知社が設立
     1877(明治10)西南戦争が勃発し記者の犬養毅が従軍ルポ「戦地直報」を掲載
     1881(明治14)矢野龍渓は大隈重信と謀って報知社を買収
     犬養毅・尾崎行雄らが入社し立憲改進党の機関紙になる。記者の原敬はこれに反発して退社
     のち政論新聞(大新聞)が自由民権運動の退潮とともに人気低下
     1886(明治19)報知社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行ない、新聞の大衆化を図る
     1894(明治27)三木善八が社主に就任
     12/26「報知新聞」と改題
     1898(明治31)案内広告のはじまりとなる「職業案内」欄が創設
     1901(明治34)01/02〜03「二十世紀の豫言」を掲載。20世紀中に実現すると思われる23項目の事柄が書かれる
     科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い
     1903(明治36)新聞直営店制を開始する
     1904(明治37)川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真となる
     1906(明治39)夕刊の発行を開始する
     1913(大正02)第一次護憲運動で政府系と見られて群衆の襲撃を受ける
     1920(大正09)東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した
     1930(昭和05)講談社の野間清治に買収され、販売方針を見直すなど経営努力を重ねる
     1941(昭和16)販売方針を見直すなど経営努力を重ねるが結局ふるわず講談社は撤退
     のち政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡
     1942(昭和17)08/05戦時下に行なわれた新聞統合により讀賣新聞に合併
     「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題される
  07/諏訪社が県社に列せられる
     1881(明治14)06/準国幣社となる
  07/運上所が外務局から大蔵省租税寮の直轄に
     1872(明治05)11/運上所を長崎運上所と改め梅ケ崎27番地に開庁
  08/03文部省が全国に学制を発布
     学制は全国を大学区、中学区、小学区に区分し学区制によって小学校、中学校、大学校を設置
     長崎県は九州でも重要視され第6大学区本部となる
     中学区は諌早・北高来郡第1中学区となり長崎の広運館を第1番中学校に
  08/17旧厳原県(対馬)が佐賀県(旧伊万里県)より長崎県へ移る【08/12】
  08/18長崎医学校を第6大学区医学校と改称
     1873(明治06)04/10第五大学区医学校と改める
  08/26《07/23》開拓使函館支庁の福士成豊がプラキストンの観測機器を譲り受けて自宅に設置。気象観測をはじめる
     函館気象測量所は我が国の気象観測所における気象観測のはじまり。日本で最初の気象台となる
     気温、気圧、曇天日数、雨雪日数、湿度、水蒸気張力、雨量、雪の溶解水容積などを測量
     のち統計表は航海術にも農業にも大いに役立つことに
     1939(昭和14)01/11国営に移管、中央気象台函館測候所と改称
     ○東京1875(明治08)06/01開設
     東京府第2大区(赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構内にて気象業務を開始
     1887(明治20)01/01中央気象台として発足する。管轄は内務省
     ○札幌1876(明治09)09/01開設
     開拓使雇のウイリアム・ホィラーが石狩国札幌区東創成通り教師舘内で観測を開始
     1879(明治12)10/28国営移管。文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称
     ○長崎1878(明治11)07/01開設
     内務省地理局長崎測候所が初の国費により設置
     ○広島1879(明治12)01/01開設
     明治政府には国営で整備する余裕がなく広島県が広島測候所を設置
     1939(昭和14)11/01国営移管。中央気象台広島測候所となる
  08/30上田虎之助が新橋駅停車場構内で西洋食物店の営業をはじめる
     駅を利用する乗降客や見送り、出迎えの客などのニーズに応えて作られる
     【06/30?】
  08/立山役所跡の長崎府管轄の広運館が文部省の学制頒布により第六大学区第一番中学と改称
     10/授業料制が採用され1か月金50銭に
     1873(明治06)04/大学区の区画改定により第五大学区第一番中学と改称
     04/30文部省布達第62号により校名を改称。広運学校となる
     06/10立山の旧県庁所在地に移転
     江戸町の旧西役所にあった広運学校と立山屋敷にあった県庁(立山庁舎)が地所、建物ともに交換
  09/明治天皇の長崎行幸を記念して西道仙の提案により島原町が萬歳町に改称
  10/02大政官達
     太政官達第二百九十五号「娼妓芸妓年期奉公人開放令」が発せられ
     遊女、芸子、其他年期奉公で、主人が勝手に酷使するのは人道に反し
     古来から禁じられたことで人身売買は以ての外のことであり厳禁すべきで
     娼妓、芸子等の奉公人は一切開放すること。このことについての貸借訴訟は一切取上げない
     きっかけは横浜に寄港したペルー船の苦力(クーリー)を解放した「マリア・ルーズ号事件」
     長崎では関係者の生活が成り立たず、丸山町、寄合町の旧遊女屋28人から貸座敷営業願がだされ延命策が講じられる
  10/14《09/12》新橋〜横浜間の日本で初めての鉄道が仮営業から正式開業
     開業の式典が催され明治天皇のお召列車が横浜まで往復する
     10/15《09/13》鶴見駅が開業し旅客営業が開始される
     列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8粁/時
  10/23日本橋釘店の林秋造が新聞「新聞雑誌」に日本初の尋ね人広告を掲載
     音信のない伊藤逸之助の住所、足取りを求める
  10/28遊女屋などが貸座敷営業を歎願し許可される
  11/02《10/02》娼妓解放令がだされる
     「僕婢娼妓等の年期を限り、人心売買に類似する者は、悉くこれを解放し、およそ雇使、必ず一年を限る」
  11/09東浜町326番地の永見松田商社が資本金を8万円に増資、合資組織の立誠会社となる
     社長は松田勝五郎
     1874(明治07)09/15株式組織、立誠会社に改組
  11/09「旧暦12月3日を以て、明治6年1月1日とする」詔書がだされる
     12/03江戸時代から引き続き使用していた太陰太陽暦(旧暦)を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替え
     西洋の制度を導入して欧米との統一をはかる近代化政策のひとつ
     1872(明治05)12/03が1973(明治06)01/01となる
     この時期に改変した理由……明治政府の財政危機による官吏への給料支給の問題
     ○明治5年の12月が2日しかなければ12月分の給料がまるまる節約できる
     ○明治6年は旧暦で閏月があるため13か月となり、その1か月分が節約できる
  11/12「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告がだされる
     それまでの公家風・武家風の和服礼装(裃や束帯)が廃止
     軍人や警官につづき文官の礼服にも洋式が採用され、政府役人に大礼服、通常礼服の着用が義務づけられる
     この太政官布告では男性の礼服が洋装とされのみ
     1886(明治19)女官服にも洋服が採用される
  11/13「公文通誌」が創刊される。横長の紙1枚に上段に政府の布告を紹介、下段に社告
     日毎に発せられる政府の布告を振り仮名をつけて、定期購読者には手元にまで配達
     出資者は、出雲は松江の旧藩主の鵜飼渚と播磨は明石の乙部鼎。神田仲町2丁目に社屋が建つ
     のち社屋が尾張町2丁目14番地(現銀座6丁目の三井住友銀行あたり)に移る
     1874(明治07)09/旧幕臣の成島柳北を社長に迎え「朝野新聞」と改題。論説を主とする政論新聞に変身
     柳北はコラム「雑話」を担当し時事を風刺する
     1875(明治08)06/新聞紙条例、讒謗律が公布された時、新律を攻撃してたびたび発行停止を受ける
     10/「東京曙新聞」の末広鉄腸を編集長に迎える
     1876(明治09)11/社屋を銀座4丁目に移転(現和光の地)
     イギリス人ブラックが「日新真事誌」を創刊した地を買い取る
     1877(明治10)西南戦争の現地取材は逡巡して時期を逸し、遅れて柳北が京都まで行き西報を送る。読者を失望させる
     1890(明治23)11/「大阪毎日新聞」社長渡辺治に2万5千円で売り渡される
     1893(明治26)11/19第6052号をもって廃刊となる
  11/23東京両国、回向院の勧進大相撲2日目から、それまでの女人禁制の相撲見物が許可される
     相撲場は決して安全な場所とはいえず、ひいき力士の応援をめぐり観客同士の喧嘩、口論が絶えず
     「相撲場に行って喧嘩のひとつもできないようでは江戸っ子とはいえない!」と女性の見物などもってのほか
  11/運上所を長崎運上所と改め梅ケ崎27番地に開庁
     1873(明治06)01/長崎運上所が長崎税関と改称。管轄区域は九州、沖縄、山口
  12/03太陰太陽暦を廃し太陽暦を採用。1872(明治05)12月3日が1973(明治06)1月1日となる
  12/05午後3時頃、ポルトガル沖480粁辺りを航海中のイギリス船ディ・グラチア号が帆船メアリ・セレステ号を発見
     不思議に思ったディ・グラチア号の船長が信号を送るが反応がなく、望遠鏡で船を見ても人影はなく
     ディ・グラチア号の船長と数人の乗組員はメアリ・セレステ号に乗り込む。が船には誰もおらず無人
     食堂のテーブルには食べかけのパンやベーコン。コーヒーは暖かく、湯気が立つ
     調理室では火にかけた鍋がグツグツと煮立ち、洗面所はヒゲを剃っていた形跡
     船に荒らされた形跡はなく、水や食料も十分あり、装飾品、金庫の現金や宝石もそのままで船自体に外傷はない
     ついさきほどまで人がいた雰囲気だが船長室に残された日誌を見ると最後の日付は11月24日
     これが本当だと日誌以降10日間漂流していたことに
     船が発見されたのはサンタマリア島から 西方76粁の地点(バミューダトライアングルに近い地点)
     メアリ・セレステ号は11月4日、ニューヨークから イタリアのジェノバに向かって出航
     そのときの乗組員は全員で10人【11人?】。発見された時には全員消失
  大浦海岸通り9番地のA・B・アンダースンが香港上海銀行のエージェントとして動きはじめる
     1892(明治25)香港上海銀行のエージェントがトーマス・エス・ベーカーに
     1899(明治32)ホーム・リンガー商会が香港上海銀行の代理店を営む
     1904(明治37)11/14「香港上海銀行長崎支店」の新社屋が松ケ枝町42番地に竣工
  キリシタン追害の21の藩に分かれた宗徒のうち拷問が厳しく改宗した人たちが、早めに浦上村に帰される
     1873(明治06)03/14太政官より「浦上異宗徒帰籍ノ達【長崎県下異宗徒帰籍?】」の布令がでる
     259年ぶりにキリスト教徒への弾圧が終わり「浦上四番崩れ」の旅から戻る
     浦上に帰ったのは約半数の1930人のみ。660人【613人?】が帰らぬまま死亡
     うち776名は「旅」の間に家が壊され住む場所もない状態
     1164人は家とは名ばかりの壁も瓦もないあばら屋に住むことに
  片岡伊右衛門がアメリカ人ペンスニからハム・ソーセージの製法を教わり、大浦の工場で製造販売
  浦岡福松がオランダ人からハム・ソーセージの製法を教わり下籠町に浦岡ハム製造所を創業
     それまでは出島オランダ商館や唐人に牛や豚の生肉を売っていた
     のち経営を広げ社名を変更。別々の会社に譲渡
  東浜町の酒類商・木貞商店の品川貞五郎がアメリカ人宣教師から洗濯石鹸の話を聞き
     試作を重ね原料の調合など苦心の末、洗濯石鹸「長崎石鹸」を創製し売出す
     日本初の石鹸製造。横浜の堤磯右衛門より1年早い
  谷口中秋が長崎に。長照寺で漢学を講じる
     1873(明治06)「瓊林学館」創設を機に館長として迎えられる
  長崎公園内丸馬場に東郷平八郎の書による「忠魂碑」が建立
  西浦上小学校が開校
  英商オールト商会は誠意を見せない遠山一也、大浦慶等に手附金6千両の返還を求める訴を起こす
     判決は、遠山一也を懲役10年、大浦慶等関係者に多額の賠償責任を負わせる
     大浦慶は嘆願書を出した結果、違約金3千両は免除
     他の関係者が弁済できなかった残額1250両は家、屋敷を担保にして、月々62両2分づつ弁済
     大浦慶は心労のあまり病臥、大浦家は急速に没落
     【一説には遠山一也が大浦慶を欺くため、数々の手段を講じたとも】
  日本初の水道土管が岩瀬道の焼成窯で焼かれる
  福田尋常小学校が開校
  寄合町の遊女屋、引田屋のぶは抱えの遊女を親元へ引渡す
     当座の手当として抱え遊女22人へ1人につき白米1斗宛を贈る
     長崎県は賞状と褒美金500匹を与え善行を賞する
  寄合町の筑後屋、遊女梅の井は父の古鉄買い惣三郎と病気の継母マツの生計を助けていた
     開放された後も筑後屋への恩義を忘れず金子を差出す
     丸山はもとより町中でも孝女として義理堅き女として評判に
     長崎県は賞状と褒美金500匹を与えて篤行を賞する
  長崎造船所が長崎製作所と改称
     1873(明治06)長崎造船局と改称
  五島石田城は新政府に収納。城と備えつけの武器、馬具一切が売り払われる
     石田城の生命はわずか10年足らずと短く、時代の変遷にふりまわされた
     石田城は江戸時代を通じて築城を許された例外であり、わが国最後の築城となる
  イギリス人ブラックが銀座4丁目(現和光の地)で「日新真事誌」を創刊
     1875(明治08)12/廃刊となる
  英国教会派遣の初代宣教師エンソーが長崎を去る
     エンソーは東山手宣教師館に入り伝導に奔走
  洪水で崩壊した矢上の中尾川に架かる番所橋を旧石材で再建
     名称を明治橋に改める
     1923(大正12)鉄筋コンクリート橋に架け替え名称が番所橋にもどる
  写真家の内田九一が明治天皇と昭憲皇太后を写す。明治天皇の写真は公式の御真影第1号

1873(明治06)【明治】 癸酉(みずのととり)

  《知事》[第4代(官選)]宮川房之

  01/10徴兵令が発布される
  01/長崎運上所が長崎税関と改称。管轄区域は九州、沖縄、山口
     1891(明治24)梅ケ崎町の建物が新築される
     1928(昭和03)梅ケ崎町の建物が出島に移る
     1943(昭和18)11/01第2次世界大戦により 税関事務を海運局に統合
     長崎税関は門司海運局長崎支局に併合
     1945(昭和20)08/09原爆投下、旧長崎税関庁舎甚大な被害を受ける
     1945(昭和20)09/アメリカ第8海兵師団が税関庁舎を接収。長崎の進駐軍本部となる
     1946(昭和21)税関再開(門司税関長崎支署として再開)
     1953(昭和28)08/01長崎税関として門司税関から独立
  01/本木昌造が松田源五郎、池原日南、西道仙らと「長崎新聞」を創刊
     松田源五郎は金融資本家、池原日南は勤王家で眼科医、西道仙は勤王家・漢方医で漢詩人
     編集は新町の元小倉屋敷跡、発行所は新街活版局(長州屋敷跡)
     週間発行の冊子式で型は半紙の2つ折り表紙とも10枚内外の袋綴り
     1部3銭3厘。書家池原日南筆の活字を使い印刷
     内容は小学校新設などの時事問題から雑事ニュース、上海来信の海外情報、事件報道、
     県庁が交付した賞状、読者投書や大浦外人商社の広告まで掲載
     1873(明治06)12/廃刊
     1875(明治08)02/教科書販売業者の本田実が「長崎新聞」を隔日版で復刊再興。西道仙が編集長に
  01/「日要新聞」に「長崎丸山松月楼の遊女6名…思ひ思ひに西洋製の女服をまとひ…」の記事
     娼妓の洋装は我が国婦人洋装史の1ページを飾る
     丸山遊廓では外国人客のために娼妓が洋装、西洋料理がでて寝室にはベットがあることが全国的に知れ渡る
  02/07司法卿の江藤新平らによる司法制度の整備が行なわれる
     明治政府は第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」を発布し、仇討を禁止
  02/10長崎県は小学校の設立と就学奨励について各区長に告諭を発する
     第1番小学・向明学校を勝山町に、
     第2番小学・啓蒙学校を磨屋町に、
     第3番小学・楓川学校を伊勢町の中島聖堂内にそれぞれ設置
     修学年限は8か年、上等下等にわけて毎級6か月を就学期限とし、教科目を定める
     下等小学…字綴習字単語会話読本修身書牘文法算術養生法地学大意地理大意体操唱歌
     上等小学…下等小学の科目に史学大意幾何学罫画大意博物学大意化学大意英語
  02/21「五榜の掲示」のうち三札が撤廃
     1614(慶長19)以来の長い弾圧と追害が終わる
  02/24倉大使の要請により太政官布告第68号をもって、明治政府は曖昧な文書によりキリシタン禁制の高札を撤去
     03/14太政官達をもって「長崎県下異宗徒帰籍【長崎県下異宗徒帰籍?】」が命令
     1614(慶長19)にはじまるキリシタン禁制が262年ぶりに効力を失う
     日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられる
     259年ぶりにキリスト教徒への弾圧が終わり「浦上四番崩れ」の旅から戻る
     浦上に帰ったのは約半数の1930人のみ。660人【613人?】が帰らぬまま死亡
     うち776名は「旅」の間に家が壊され住む場所もなく、1164人は家とは名ばかりの壁も瓦もないあばら屋に
  02/朝鮮の草梁項(現釜山市)に設けた客館・新倭館を新政府外務省が接収
     客館・新倭館は李氏朝鮮政府が日本から通交特使のために●●●(●●00)に設立
  03/11県下初の公立小学校がそれぞれ創設。08/〜10/に開校
     第1番小学・向明学校(勝山町)…生徒174人・教員8人
     第2番小学・啓蒙学校(磨屋町)…生徒44人・教員8人
     第3番小学・楓川学校(伊勢町の中島聖堂内)…生徒43人・教員7人
     女児小学・英華学校(向明学校内)
      授業料は文部省の規定で1か月50〜25銭。長崎では貧困家庭が多く上等10銭、下等5銭に
      50銭は米相場で約1戸5升に相当し授業料の負担は民衆の生計に相当重い
  第1番小学・向明学校(勝山町)
     12/教員講習所が置かれる。長崎県師範学校の起源
     のち木造の校舎を増築しながら授業が行なわれる
     その間老朽化という理由で、大正末ごろに鉄筋コンクリート造の新築案が出されるが、実現せず
     1874(明治07)01/01勝山小学校と改称
     1901(明治34)03/10勝山尋常小学校と改称
     1924(大正13)07/21勝山尋常高等小学校と改称
     1935(昭和10)1933(昭和08)長崎市建築課に技丁として入庁の丹羽漢吉が改築設計を行なう
     1936(昭和11)03/14鉄筋コンクリート造3階建ての現校舎が竣工
     当初はモルタル仕上げの明るいクリーム色で建設されるが、戦時中は建物に迷彩が施される
     1941(昭和16)04/01勝山国民学校と改称
     1945(昭和20)08/09原爆投下ののち臨時救護所となる
     1947(昭和22)04/01長崎市立勝山小学校と改称
     1982(昭和57)07/23運動場が長崎大水害の臨時塵芥集積所となる
     1997(平成09)03/31磨屋小学校、新興善小学校とともに統廃合
     長崎市立諏訪小学校(旧磨屋小学校)と長崎市立桜町小学校(旧勝山小学校)の2校を新設
  第2番小学・啓蒙学校(磨屋町)
     のち榎津学校と改称
     1874(明治07)01/01奮川小学校に改称
     1886(明治19)02/長崎町年寄薬師寺某の邸宅213坪を買収
     中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)と改称
     1893(明治26)04/01長崎女児磨屋小学校と改称
     1908(明治41)04/01磨屋尋常小学校と改称
     1927(昭和02)03/15鉄筋コンクリート3階建校舎が改築竣工
     1941(昭和16)04/01磨屋国民学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立磨屋小学校と改称
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で1階全教室が1.2〜1.5米まで水没
     1987(昭和62)02/22崇福寺前通りの道路新設のため通学路の変更を決定
     1997(平成09)03/31新興善小学校、勝山小学校とともに統廃合
     長崎市立諏訪小学校(旧磨屋小学校)と長崎市立桜町小学校(旧勝山小学校)の2校を新設
  03/14太政官より「浦上異宗徒帰籍ノ達【長崎県下異宗徒帰籍?】」の布令がでる
     02/24の太政官布告第68号のキリシタン禁制の高札撤去に続く措置
     259年ぶりにキリスト教徒への弾圧が終わり「浦上四番崩れ」の旅から戻る
     浦上に帰ったのは約半数の1930人のみ。660人【613人?】が殉教。帰らぬまま死亡
     残酷な拷問の中で、1011人が転ぶ。流されていた3394人のうち1900人が浦上に帰る
     【3404人が流されるが、その中660人が旅先で死去、176が出生】
     【諸外国の圧力により全員が赦免され1938人が帰村。旅先で土着した人たちも】
     04/0718県に流刑されていた浦上キリシタンのうち和歌山県の53人が帰村
     08/07最後の放免者が帰村
     664人が殉教し、殉教の旅より戻った者は1883人
     耐えきれず棄教した1022人は帰郷後、ほとんど元の信仰に戻る
  03/14キリスト教徒への弾圧が終わり「浦上四番崩れ」の旅から戻る
     うち776人【736人】は「旅」の間に家が壊され、住む場所もなく荒れ果て放題
     残りの1164人には家はあったが、家とは名ばかりで壁も瓦も落ちたあばら屋に
     もちろん畳や建具などは全くない状態。畑には雑草が生い茂り、農具も食物もない
     家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、ひとりあたり1坪の3、4軒続きのバラック長屋を建てる
     あばら屋に住みつつ、港で拾った茶碗のかけらで荒れ果てた畑を耕し、虫のついた切りぼし芋を食べる苦しさ
     近くの村に日雇いに出て、芋やキュウリの苗をもらい、働き始める
     1874(明治07)やっと畑からもいくばくかの実りが収穫、生活もようやく一息つき落ち着く
     しかし疫病や天災が折り重なって浦上を襲うことに
     1874(明治07)夏/赤痢が流行
     07/岩永マキらがド・ロ神父の救護活動を助け、赤痢など患者の身の回りの世話を買ってでる
     08/15岩永マキが本原に浦上養育園を設立。孤児らの救済をはじめる
     08/21追い打ちをかけるように台風が来襲、長崎は大被害を受ける
     建てたばかりの浦上のバラック長屋は総倒れに、昔からの家を含めて全戸数の半分は倒壊
     辛苦の中で育てた農作物は風に吹きちぎられ、収穫は皆無
     米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に赤痢はますます拡がる
     ド・ロ神父と岩永マキら篤志看護婦の献身により浦上だけでも210人の患者と8人の死者にとどまる
     しかし信仰の自由を得た喜びは何ものにも代えられないもの
     迫害後のひどい困窮の中で信徒たちは「神の家」の建設に取り組む
     1876(明治09)たまたま売りに出された、旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷を買い取る
     村の中央の丘で位置もよく、250年間信仰の取り締まりの場であり、迫害の償いの祈りの場所としても最適
     しかし信徒たちの経済力は買い取るだけで精一杯
     1877(明治10)岩永マキらが浦上十字会(準修道会)を創立
     1880(明治13)宣教師ボアリアの斡旋により旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷の地に仮教会堂を建築
  03/14諸外国との条約改正交渉に支障を来したため全員が釈放される
     耶蘇教徒から没収したロザリオ155連、メダイ278点、スカプラリオ8点、聖人像8点などが旧長崎奉行所の宗門倉へと収められる
     1874(明治07)耶蘇教徒から没収した品々が旧長崎奉行所から東京の教部省へと運ばれる
  03/14太政官布告第103号、通称「内外人民婚姻条規」により国際結婚が認められることに
     05/13山口県の士族出身の銀行員、南貞介(24)がイギリス赴任中にライザ・ピトメン嬢(23)がと結婚
     帰国し外務省に届け出
  03/19自転車路上運転等の禁止令がでる
  03/25太政官布達によって上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の5か所を日本で最初の公園として指定
     以後の公園造成のさきがけに
  03/31日本代牧ベルナルド・タデ・プチジャン司教は香港の会計責任者ピエール・マリ・オズーフ神父あて宣教師15人の派遣を要請
     在日するパリ外国宣教会士は19人、修道女6人、伝教士227人、信者が1万5千人
  04/07浦上四番崩れ」で18県に流刑されていた浦上キリシタンのうち和歌山県の53人が帰村
     08/07最後の放免者が帰村
     664人が殉教し、殉教の旅より戻った者は1883人
     耐えきれず棄教した1022人は帰郷後、ほとんど元の信仰に戻る
  04/10第六大学区医学校を第五大学区医学校と改める
     1874(明治07)10/12征台の役に当たり長崎病院を公兵員病院にするため長崎医学校を廃止
     学生は東京医学校に転学
  04/第六大学区第一番中学が大学区の区画改定により第五大学区第一番中学と改称
     04/30文部省布達第62号により校名を改称。広運学校となる
     06/10立山の旧県庁所在地に移転
     江戸町の旧西役所にあった広運学校と立山屋敷にあった県庁(立山庁舎)が地所、建物ともに交換
     1874(明治07)04/新たに長崎外国語学校として発足
     12/27愛知、大阪、広島、新潟、宮城の外国語学校とともに校名を改称、長崎英語学校となる
  05/08県知事からの布達「ハタ揚げを電信線の近くで行なってはならぬ」
     1879(明治12)03/07長崎県庁が電信線障害防止のため市内はもとより周辺部でのハタ揚げを全面禁止する
     1873(明治06)05/08の布達でもハタ揚げはやまず架線障害が続出していたため
     1899(明治32)あらためて長崎市内全域にハタ揚げの禁止令がだされる
     長崎で電話交換がはじまり電信線の他に電話線が張りめぐらされ規制が厳しくなる
     1904(明治37)03/長崎市内でハタ揚げをし糸を電線に引っかけた者に過料50銭が課せられる
     それでもなおハタ揚げによる架線事故が相継いだため
     1873(明治06)05/08、1879(明治12)03/07、1899(明治32)に次ぐ罰則
  05/15ハインリッヒ・シュリーマンが「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見
     伝説のトロイアを発見したことにより古代ギリシアの先史時代の研究が大いに進むことに
     ハインリッヒ・シュリーマンは、ドイツの考古学者、実業家
  06/11第一国立銀行が創設される
     紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案した民間経営の商業銀行第1号店
     江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核にして設立
     資本金は双方100円に一般応募44円をあわせた244円
     紙幣の発行も認められる。ただし兌換紙幣で、金との交換が条件
     08/01営業を開始する
  06/郵便切手売捌所を新たに恵美須町、銀屋町、麹屋町、馬町、十善寺口に増設
  07/18太政官布告による火葬禁止令がだされる
     明治政府が仏教での葬法としての火葬に反対した神道派の主張を受け入れたため
     1875(明治08)05/23火葬禁止令が解除される
     火葬を禁止したことで仏教徒の反発が強く、また衛生面から好ましいとの意見があり
     都市部での土葬スペース不足という現実には逆らえず
  07/シーボルトの娘・楠本イネ、宮内庁御用掛を拝命、宮中の産事をつかさどる
  08/07浦上四番崩れ」の最後の放免者が帰村
     664人が殉教し、殉教の旅より戻った者は1883人
     耐えきれず棄教した1022人は帰郷後、ほとんど元の信仰に戻る
  09/13岩倉具視を全権大使とする使節団が全12か国をまわり帰国。横浜に帰港
     1871(明治04)12/23《11/12》日本→亜米利加→英吉利→仏蘭西→白耳義
     →阿蘭陀→独逸→露西亜→丁抹→瑞典→独逸→伊太利→墺太利→瑞西→仏蘭西→日本
  09/初代知府事の沢宣嘉(38)が没する【1874(明治07)9月?、39才?】
     のちロシア公使には急遽、榎本武揚が着任することに
  12/第1番向明小学校(勝山小学校)に教員講習所が置かれる。長崎県師範学校の起源
     のち木造の校舎を増築しながら授業が行なわれる
     その間老朽化という理由で、大正末ごろに鉄筋コンクリート造の新築案が出されるが、実現せず
     1874(明治07)01/01勝山小学校と改称
  12/「長崎新聞」が廃刊
     1875(明治08)02/教科書販売業者の本田実が「長崎新聞」を隔日版で復刊再興。西道仙が編集長に
  国内最古の内外海運専門クリーニング店として青田クリーニング商会が●●町(現相生町)に開業
     長崎についた船の毛布やシーツなどを洗う
  西道仙が友人と協力して桶屋町の光永寺に私学校(私塾)「瓊林学館」を創設
     長照寺で漢学を講じていた谷口中秋が「瓊林学館」創設を機に館長として迎えられる
     ほどなくして西山の崇福寺末庵の大悲庵跡に移転
     のち「瓊林学館」には四方から生徒が争って集まり数常に300人、西海第一の大学といわれる
  松森参道に建つ崇福寺末庵の大悲庵が西道仙の私塾「瓊林学館」に
     のち名を引き継いだ料亭「瓊林館」ができる
  人力車が出現。一般交通用として長崎の居留地を走る
     料金は梅ケ崎を起点に大黒町まで10銭
  水産関係の問屋に取引上の紛議が起る
     一部の問屋業者が材木町とは別に対岸の万屋町に新市場を開く
     以来、材木町と万屋町が対立しながら業務を行なう
  英字週刊新聞「ナガサキ・エキスプレス」が2月号で社主がシーサットン・A・ノルマンに変わる
     「ライジングサン・アンド・エキスプレス」と改題
     1878(明治11)01/05「キューシュータイム」と改題
  県令宮川房之が「市民遊楽の地として又外客の旅情を慰する」ため県営の長崎公園を造る
     明治維新までは長崎奉行所立山役所に隣接
     歴代将軍に位牌を祀る天台宗松嶽山安禅寺(東照宮)と諏訪神社宮司青木家の屋敷があった
     1875(明治08)03/諏訪神社所在の玉園、玉垣の9864坪【1万4025坪?】が県下初の公園に指定される
     内務省令によるもので、日本でも東京の日比谷公園等と並ぶ古い公園
     1890(明治23)03/27県営から市営になる
  滑石小学校が開校
  大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画
     キリシタン禁教が解かれ、各地へ流配されていた浦上の信徒たちが釈放されたのを契機に
     1875(明治08)南山手町1番Bに羅典神学校兼宿舎が完成
     羅典神学校兼宿舎は木骨レンガ造り3階建、一部地階、切妻造、桟瓦葺
     1926(大正15)司祭館や集会所として使用
  長崎のキリスト教関係…教会8、聖堂3、チャペル27の他
     司教1人、司祭29人、伝導士227人、水方250人、信者1万5千人を数える
  パリ外国宣教会所属のフレノー神父が来日
     のち浦上四番崩れのあとの混乱にの中にある信徒たちの世話をする
     1877(明治10)五島常駐となり布教
     1881(明治14)長崎に戻り2年間に渡り長崎公教神学校の校長を務める
     のち豊後地方で巡回宣教に従事
     1885(明治18)4年間に渡り再び五島で布教
     1888(明治21)浦上教会主任司祭となり典礼の充実と聖歌隊指導に力を入れる
     1895(明治28)自ら浦上天主堂の建築監督に当たるが完成を見ずに死去
  長崎製作所が長崎造船局と改称
     のち三菱社が自家造船所経営の必要に迫られる
     のちちょうど、政府が工部省所管長崎造船局を民間に経営を委ねる方針を出す
     のち三菱社は機を逸せず長崎造船局の貸与を願いでる
     1884(明治17)07/06郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太
  シーボルトの娘・楠本イネが宮内庁御用掛を拝命、宮中の産事をつかさどる
     イネは1870(明治03)02/〜東京で産科医を開業、わが国における最初の産婦人科医となる
  アントン・ヨハネス・ゲールツが長崎税関の委嘱により輸入キニーネの分析を行なう
     その鑑定報告に添えて粗悪な輸入薬品の取締りと薬品試験所の必要性を建議
     のち長與専斎が進言をとりあげ、薬品検査機関として司薬場が設置されることに
     1874(明治07)03/東京日本橋馬喰町に初めて司薬場が開設
     永松東海を場長、ドイツ人マルチン(Georg Martin)を監督として薬品試験業務を開始
     我が国における薬品取締りの発端であり、以後の薬学の発展にもこの司薬場の開設は大きな影響を与える
     1876(明治09)08/12新橋町に長崎司薬場が設立される
  横浜吉原町の遊廓が高島町に移転。梅毒専門病院「横浜梅毒病院」も高島町9丁目(現西区高島町)に移転
  「郵便報知新聞」を発行する会社報知社が設立
     1877(明治10)西南戦争が勃発し記者の犬養毅が従軍ルポ「戦地直報」を掲載
  本木昌造が東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  グラバーが高島から離れる
     のち三菱高島礦業所の迎賓館として使用
     1948(昭和23)老朽のため取り壊し

1874(明治07)【明治】 甲戌(きのえいぬ)

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