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〈昭和時代(3)〉
▼
1935(昭和10)
【昭和】
乙亥(きのとい)
《総理大臣》
[第31代]岡田啓介
《知事》
[第29代(官選)]鈴木信太郎(→01/15)、[第30代(官選)]田中広太郎(01/15→)
《市長》
[第12代]笹井幸一郎
03/02
★
対馬に天然痘患者3人
03/10
★
旭町4丁目88番地に初めて公益質屋が開業
→
1945(昭和20)03/
☆
戦局の重大化にともない閉鎖
→
1949(昭和24)11/01
☆
第1市営公益質屋として復活、営業開始
→
1965(昭和40)04/01
☆
廃止
03/17
★
長崎市内小学校児童3万944人中2504人がトラホームと判明
03/17
★
夜、数え年27才の太宰治が街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で縊死を図る。紐が切れ未遂に終わる
→
1937(昭和12)03/20前後
☆
数え年29才のとき、妻初代と水上村谷川温泉に行く
→
03/21
☆
谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが未遂に終わる
04/01
★
上田町の南大浦小学校に南大浦青年学校が併置される
→
1941(昭和16)04/01
☆
長崎市大浦国民学校と改称
04/01
★
壱岐郡香椎村に町制が敷かれ勝本町となる
→
1947(昭和22)11/03
☆
壱岐郡田河村に町制が敷かれ田河町となる
04/03
★
本原〜西山の産業道路2200米が完成
04/
★
西中町に純心女学院が開校
→
1936(昭和11)04/
☆
長崎純心高等女学校と改称
→
1937(昭和12)
☆
家野町に移転
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により生徒700人のうち209人が死亡、全校舎が焼失
→
1945(昭和20)10/
☆
大村市の元海軍工廠跡にて授業が再開
→
1947(昭和22)
☆
新制の純心中学校が開校
→
1948(昭和23)
☆
純心女子高等学校が開校
→
1950(昭和25)
☆
純心女子短期大学が開校
→
1975(昭和50)
☆
純心女子短期大学が三ツ山町に移転
05/13
★
アラビアのロレンスがブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中、交通事故で意識不明に
アラビアのロレンスとして知られるトーマス・エドワード・ロレンスはイギリスの軍人、考古学者
オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物
→
05/19
☆
死去、46歳
→
のち
☆
墓所はドーセット州モートンの教会に
05/29
★
北原白秋が雲仙に遊び、投宿
05/
★
稲佐橋〜水の浦橋の稲佐海岸舗装道路、延長1313米、幅員5米が完成
05/
★
県庁横〜本下町〜江戸町〜長久橋の新坂道が完成
05/
★
ポリドールから東海林太郎の歌による「長崎行進曲(2153)」が発売される
作詞は渡部龍夫、作曲は大村能章
渡部龍夫はポリドールの依頼をうけ真夜中に大波止や大浦海岸を歩き想を練る
大スター東海林太郎の歌で長崎もの流行歌の第1号に
片面は喜代三の歌による「春の長崎」。作詞は渡部龍夫、作曲は山田栄一
06/01
★
本五島町と浦五島町が合併、五島町と改称
06/01
★
雲仙鉄道
の営業管理を島原鉄道に委託。期間は1年間
→
1938(昭和13)07/22
☆
経営不振で第35回定期株主総会において解散が決定
06/11
★
諫早町に天然痘、腸チフス(06/12)も発生
06/
★
この月の長崎市内の伝染病患者38人(赤痢9・疫痢14・腸チフス9・ジフテリア1・猖紅熱4・流行性脳脊髄膜炎1)
06/
★
島原、秩父が浦公園の海に突きでた小高い丘の上に
九十九ホテル
が開業。22才の大場千年が経営にあたる
外国人専用ホテルとしてオープンし上海や香港方面の避暑客を主として営業
明眉な風光と主人自ら先頭に立ったサービスとが外人客にうける
九十九島を一望できる絶景の地に建てられたことから命名
また九十九の語源は、百(も)に次ぐということから「次ぐ百(も)」として、たいへんおめでたい名
→
1967(昭和42)10/01
☆
全館オープン
本館地上8階、別館5階、客室72室、収容力350人、一度に150人が入浴できる展望風呂
本館内には自慢のいけ洲料理、天ぷらコーナー、すしこーなーなどを併営
07/31
★
長崎市片渕町に疑似疫痢患者4人発生
08/09
★
長崎市西立神町に疫痢患者、飽の浦町に腸チフスが発生
08/20
★
諫早町には赤痢患者3人
08/28
★
尾上町の魚市場内にイワシ類専用の第3魚揚場(174坪)が完成、取引が開始される
昭和初期は、まだイワシは長崎県水産会水産物卸売市場で執り行われていない
近海物が多く、氷蔵が普及していなかったため、早く弱るイワシは市民の食卓には不向きなため
1933(昭和08)頃、イワシが大量に獲れ、鮮度保持に氷を使いはじめ、新鮮で安いイワシが食膳に供されるように
イワシは元船町の波止場で取引。自称仲買人が無許可で流通。扱高の増加に従い金銭面や取扱上のトラブルが発生
十分な洗浄施設を整たない露天での商売で、魚市場の立場上、場外での市場活動は衛生的にも統制上許されないこと
長崎県水産会は魚市場関係者の要望に沿い、魚市場内にイワシ類専門売場の必要性から魚揚場建設を長崎県に要請
08/29
★
09時30分、三菱長崎造船所で建造した巡洋艦「三隈」の軍への引渡し式が挙行
08/
★
「長崎新聞」が廃刊
08/
★
この月の長崎市内伝染病147人(赤痢67・疫痢62・腸チフス9・猖紅熱3・ジフテリア3・流行性脳脊髄膜炎3)
09/01
★
芥川賞、直木賞が制定される
芥川賞は芥川龍之介の名を記念して制定
新聞や雑誌などに発表された純文学短編作品中最も優秀なものに呈する。無名もしくは新進作家が対象
第1回芥川賞受賞作品は石川達三の「蒼氓」で掲載誌は「星座」
直木賞は直木三十五の名を記念して制定
新聞や雑誌、または単行本として発表された短編、長編の大衆文芸作品中最も優秀なものに呈する
無名、新進、中堅作家が対象
第1回直木賞受賞作品は川口松太郎の「鶴八鶴次郎・風流深川唄その他」で掲載誌は「オール讀物」
09/13
★
長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
県医師会事務所も同会館内に移転
→
1948(昭和23)02/12
☆
(県)新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
→
1971(昭和46)12/18
☆
(市)長崎市医師会が榎津町55番地から新地町に移転新築、落成する
名称を長崎市医師会医療センターと改める
10/07
★
「長崎くんち」
(7)…丸山町(本踊)、五島町(本踊)、引地町(獅子踊)、本石灰町(本踊)、桶屋町(本踊)、
大井手町(蛇踊・西彼杵郡滑石村)、船大工町(川船)、袋町(本踊)、酒屋町(本踊)、出来大工町(本踊・段尻)
*新町、堀町は小屋入りのみの参加
10/10
★
県内はもとより東京、関西方面の知名士を招いて雲仙観光ホテルの落成式が盛大に行なわれる
→
10/11
☆
営業を開始
国内不況の打開策の一環として国際観光の推進が提唱されたことによる
社長の橋本喜造は橋本商会の初代橋本雄造の兄の子供で大分県生まれ
1875(明治08)頃、橋本商会の佐世保店を経営。船具、金属類の鎮守府御用達として大いに栄える
→
1961(昭和36)
☆
天皇皇后両陛下の宿泊を記念して館内に「魚苑」を建てる
「魚苑」では有明海の生き海老を目の前で揚げて天ぷらにし供する
10/
★
臨時国勢調査が行なわれる
長崎市の人口は21万2077人
★
三菱球場(現川口町)にて読売巨人軍と全三菱軍の野球試合が行なわれる
結果、25対1で全三菱が敗退
★
東中町51番地の松本鼈甲店が廃業
★
法人組織に改め、合名会社石丸文行堂設立。石丸忠兵衛(2代目)代表社員に就任
→
1959(昭和34)02/
☆
万屋町95・96番地の土地を購入裏通りまで拡張
★
市営交通船の大波止〜水の浦航路に第1鶴丸、第2鶴丸、他1隻を増強
★
フジオカが長崎で初の石油スタンド(石油地下槽)となる給油所を馬町に開設
→
1949(昭和24)
☆
株式会社藤岡石油店を設立
★
大村市で丸山五寸、長崎五寸との自然交雑種子を用いたニンジンを育種。黒田五寸へ
★
本格的な橘神社創建に向けた活動が始まる
→
1936(昭和11)02/
☆
長崎県知事田中広太郎を会長とし創建奉賀会設立
★
沖之島の松村茂氏字乗越に試錐して着炭、有望な石炭層の発見
★
西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸に橋を架けるよう地元から陳情書が提出される
→
のち
☆
日中戦争勃発により中止
→
1948(昭和23)06/
☆
県議会に架橋調査費を上程、承認を受ける
→
のち
☆
設計は九大の三瀬幸三郎博士に。つり橋型の構想から上路式アーチ型橋梁の有利性が浮上。途中で設計変更
→
1950(昭和25)11/23
☆
架橋建設は建設省の直営事業とされ、起工式が挙行
占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
→
1951(昭和26)
☆
「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替えのため、国道でない道路が半額県費負担に
猛運動が繰り広げられる
→
1952(昭和27)
☆
「道路整備特別措置法」により工事費の15か年償還を期限とした有料道路に指定、工事は続行
→
1955(昭和30)10/18
☆
針尾瀬戸に架かる橋の完工式が盛大に行なわれる。「
西海橋
」と命名される
全長316米、海面からの高さ42米、東洋一の固定網アーチ。総工費5億6千万円
長崎市、佐世保市、西彼杵郡大串村の3代3組夫婦による渡り初めが行なわれる
世代に受け継がれ蓄積された英知が橋を完成させたことを感謝し、永遠の幸福を願う日本独特の儀式
→
1970(昭和45)
☆
橋が無料開放される
★
満州国皇帝が訪日
★
長崎魚市場に入荷される主な魚の種類
中国東方海上物のタイ・レンコダイ・アマダイ・エソ・グチ・イカ、沿岸物のブリ・マグロ・カツオ・サバなど…
この年の水揚量は8千万斤、売上金額は750万円
市場入荷品のうち2800万斤、金額250万円は魚市場を通過し漁業者が直接、県外消費地へ貸車送りとなる
残りの5200万斤、金額500万円は魚市場に卸され問屋の手により売買
更にこの内の8割(400万円)は仲買人を経て県外消費地へ搬送され
2割(100万円)が小売人によって長崎市内外の消費者に供される
★
松尾正が26才のとき台場町に雲仙タクシーをはじめる
→
のち
☆
戦争で2度召集。北ボルネオで終戦を迎え復員
→
1949(昭和24)
☆
西浜町で
丸二タクシー
として再開
社長の松尾正は、信義を重んじ公私の区別を明らかにして、常に弱いものの味方になって業界をリード
★
関門トンネルの建設話が復活
→
1936(昭和11)
☆
本州〜九州間に鉄道トンネルの建設を決定
→
09/19
☆
門司側の工事現場で起工式が行なわれる
末/
★
田中作太郎が炉粕町の
諏訪荘
を譲り受けて旅館業を開始
田中作太郎は1893(明治26)長崎銀屋町生まれ、父子2代にわたって海運業福島屋の支配人をつとめる
諏訪荘は1920(大正09)に十八銀行4代頭取の永見寛二が金にあかして建てる
★
北原白秋が雲仙にくる
▼
1935(昭和10)頃
★
本石灰町70番地の「二宮病院」が廃業、のち賃貸アパートに
→
1987(昭和62)
☆
解体
★
大浦に街路樹としてナンキンハゼが植えられる。初めて街路樹にナンキンハゼが使われる
▼
1936(昭和11)
【昭和】
丙子(ひのえね)
《総理大臣》
[第31代]岡田啓介(→03/09)、[第32代]廣田弘毅(03/09→)
《知事》
[第30代(官選)]田中広太郎
《市長》
[第12代]笹井幸一郎
01/01
★
北高来郡湯江生まれの木下竜雄が本石灰町で料亭たつたを創業
→
1940(昭和15)
☆
丸山町の「千歳」を「錦」と名称を変えふぐ料理をはじめる
→
のち
☆
大村航空隊専用の待合となる
01/29
★
腐敗選挙をなくすため諏訪神社など市内18神社で、長崎市選挙粛正会委員による粛正選挙祈願祭が行なわれる
01/
★
第2次ロンドン海軍軍縮会議で日本案に反対された全権永野修身は脱退を正式に通告
海軍は米国と対等の海軍兵力を希望しながら対抗することができなくなる
個艦あたりの威力で補う巨艦主義が採用、世界最大の戦艦大和型4隻の建造を計画
1番艦「大和」、2番艦「武蔵」、3番艦「信濃」は空母に変更、4番艦はなし
02/26
★
二・二六事件起こる
未明。歩兵第1連隊、第3連隊、近衛歩兵第3連隊などの下士官兵1400人に非常呼集。民間人も加わる
午前05時10分頃。栗原安秀中尉の約280人は麹町区永田町の首相官邸を襲撃
警官4人を殺害、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を誤射
岡田は女中部屋の押入で難を逃れる。翌日弔問客に紛れて脱出
午前05時05分頃。坂井直中尉の約210人は四谷区仲町の斎藤実内大臣私邸を襲う
斎藤に機関銃40発を撃ち込み斬撃を加えて殺害
午前05時05分頃。中島莞爾少尉の約60人は赤坂区表町の高橋是清蔵相私邸に乱入
「天誅」と叫び高橋をピストルと軍刀で殺害
午前05時10分頃。安藤輝三大尉の約200人は麹町区三番町の鈴木貫太郎侍従長私邸に侵入
下士官がピストルで撃ち安藤がとどめを刺そうとするが孝子夫人の懇願にやめる
鈴木は一命をとりとめる→のち☆戦争受諾内閣の総理となる
午前06時頃。高橋太郎少尉の約20人は上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲う
ピストルで応射した渡辺を殺害
午前05時頃。野中四郎大尉の約450人は警視庁を占領
午前05時頃。丹生誠中尉の約160人は麹町区永田町の陸相官邸を占領
午前08時55分頃。田中勝中尉の約60人はトラック、乗用車を動員。各隊の移送に当たり朝日新聞社を襲撃
〜08時55分頃/日本電報通信社〜09時30分/報知新聞〜09時35分頃/東京日日新聞社
〜09時40分/国民新聞社〜09時50分頃/時事新報社とすすむ
午前05時40分〜06時20分頃。河野寿大尉は民間人6人と湯河原の牧野伸顕伯爵を襲撃
護衛巡査を殺すが牧野は難をまぬがれる
→
02/27
☆
午前02時40分。戒厳令施行が決定
→
02/28
☆
午後11時。戒厳司令官が命令
「叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、拠ツテ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」
→
02/29
☆
朝。鎮圧側は「下士官兵ニ告グ」のビラをまき、
「勅命下る、軍旗に手向ふな」のアドバルーンをあげ
中村アナウンサーはラジオを通じて「兵に告ぐ」を繰り返す
→
午後01時過ぎ。最後まで残った安藤中隊も安藤大尉の自決失敗により原隊に戻る
反乱軍将校は陸相官邸に集結。代々木の陸軍刑務所におくられる
→
のち
☆
軍法会議→判決
→
09/25
☆
事件の後処理が一切おわる
→
1937(昭和12)08/15
☆
黒幕として逮捕された北一輝と共鳴者の西田税がともに死刑判決
→
1937(昭和12)08/19
☆
磯部、村中を加えた4人の死刑が執行
02/
★
長崎県知事田中広太郎を会長とし橘神社創建奉賀会設立
→
1937(昭和12)
☆
神社創建の許可がおりる
02/
★
ポリドールから東海林太郎の歌による「お蝶夫人の唄(2247)」が発売される
作詞はサトウハチロー、作曲は大村能章
片面は日本橋きみ栄の歌による「恋の蝶々」。作詞は長崎出身の西岡水朗、作曲は阿部武雄
03/02
★
観光通りができる。工費8万6千円。本古川町〜萬屋町間は中通り
03/12
★
北海道帝国大学の中谷宇吉郎が低温実験室にて人工雪の製作に世界で初めて成功
気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明した
→
1938(昭和13)12/26
☆
低温実験室を使って人工雪の結晶「中谷ダイヤグラム」を作ることに成功する
03/14
★
勝山尋常小学校
に鉄筋コンクリート造3階建ての現校舎が竣工
昭和08(1933)長崎市建築課に技丁として入庁の丹羽漢吉により昭和10(1935)から改築設計が行なわれる
当初はモルタル仕上げの明るいクリーム色で建設されるが、戦時中は建物に迷彩が施される
→
1941(昭和16)04/01
☆
勝山国民学校と改称
03/14
★
「興安丸」が三菱重工業株式会社長崎造船所で起工
→
10/02
☆
進水、鉄道省所有
→
1937(昭和12)01/31
☆
関釜連絡船として就航
→
1945(昭和20)08/31
☆
引揚船に指定され博多・仙崎〜釜山を往復
往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事
→
1950(昭和25)08/
☆
朝鮮動乱により国連軍に傭船され兵士や傷病兵を輸送。以降、引揚輸送に従事する
→
1953(昭和28)03/23
☆
中国引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
→
1953(昭和28)11/30
☆
ソ連引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
→
1956(昭和31)12/26
☆
シベリヤ抑留者の最終梯団を乗せて舞鶴入港
→
1957(昭和32)08/
☆
東洋郵船に譲渡、東京湾周遊船として人気を博す
→
1970(昭和45)10/
☆
広島県三原市木原町沖にて解体
03/28
★
新興善小学校
に鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工
普通教室30、特別教室5、管理室6、雨天体操場1
→
1941(昭和16)04/01
☆
長崎市新興善小学校と校名を変更
03/30
★
長崎市と長崎商工会議所が中心となり大長崎振興会の創立総会が開催
関門海底鉄道トンネルの開通は、長崎市をわが国の南進基地として飛躍的に発展させる絶好のチャンスと判断
市当局にも働きかけて、大長崎建設のための具体的方策を練り、その実現を促進する機関
市会議場で、市長・笹井幸一郎、商工会議所会頭・脇山啓次郎、同副会頭・山田鷹治をはじめ官民有力者100余人が出席
総会は会則案を議定した後、役員選任を行なう
会長に笹井市長、副会長に脇山会頭、大石市会議長を推す
笹井会長から常務理事2人、理事30人、顧問21人を推薦、同年度予算3500円を可決して閉会
→
04/11
☆
第1回理事会を開く。次の各項について具体的計画を協議し、その実行に移ることに
○長崎港湾改良修築並びに海陸連絡改善に関する件
○長崎駅並びに長崎線鉄道の改善に関する件
○長崎空港開設に関する件
○逓信施設整備改善に関する件
○産業都市の建設に関する件
○長崎観光施設の整備に関する件
振興会は、長崎港修築、長崎駅改築、観光ホテル建設など当面緊急とする事項を取りあげて、その実現促進に乗りだす
→
1937(昭和12)07/
☆
支那事変が勃発し新規事業はすべて中止に
事変の影響を受けた日支連絡船の長崎・上海折返運航が実現する
04/17
★
天然痘が長崎市に発生
04/28
★
長崎〜茂木間でバス事業を営む2社を買収し長崎茂木乗合自動車株式会社が創立
2社は崎陽自動車商会と金子自動車商会
創業当時の運行路線は長崎市鍛治屋町〜茂木町本郷間の営業8.1粁。バス6台、従業員20人
→
08/15
☆
社名を
長崎自動車株式会社
[以下、
長崎バス(株)
]と改称。鍛冶屋町に本社をおく
→
1938(昭和13)01/
☆
本社を元船町の大波止に移転
→
1956(昭和31)02/
☆
本社を茂里町整備工場敷地内に移転
→
1966(昭和41)10/22
☆
本社を新地町に移転
本社事務所を含む長崎バスターミナルビルが完成。資本金7億8千万円に増資
04/
★
西中町の純心女学院が開校が長崎純心高等女学校と改称
→
1937(昭和12)
☆
家野町に移転
05/18
★
尾久の待合旅館で
阿部定
が東京中野の石田屋主人・石田吉蔵を扼殺、局部を切り取る事件が発生
午前2時、眠っている石田に定は腰紐で2回締める
定は包丁で石田の性器を切断する狂気におよぶ
出血した血でシーツと太ももに「定、石田の吉二人キリ」、石田の左腕に「定」を刻む
雑誌の表紙にペニスと睾丸を包み、逮捕されるまで3日間、定は持ち歩く
定は石田のステテコとシャツを腰巻の下につけ、午前8時頃に宿をでる
宿の者には「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と伝える
→
05/19
☆
新聞各紙が阿部定事件を報じる
→
05/19
☆
、定は買い物をし映画を観る
→
05/20
☆
品川の宿・品川館に大和田直なる偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定
定はマッサージを受け3本のビールを飲む
→
05/20
☆
午後4時、高輪署安藤刑事が偽名で逗留している彼女の部屋に取り調べ
「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」と言い逮捕される
05/20
★
佐世保市で靴の修繕中に水平社社員に対して差別言辞がなされる
05/
★
コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が、管区会議出席のためポーランドへ帰国
ポーランド・ニエポカラヌフの院長に再選
→
1939(昭和14)
☆
第2次世界大戦がはじまる。ドイツ軍がポーランドに侵入しニエポカラヌフが占領される
コルベ神父は逮捕されアムティツに入れられるが、のち解放される
06/28
★
県立五島高女寄宿舎内にパラチフス患者30人
07/31
★
ベルリンのホテル・アドロンで次回オリンピックの開催地が東京に決定する
1940(昭和15)の第12回オリンピック。開会式は9月21日、閉会式は10月6日。メイン会場は世田谷の駒沢
→
のち
☆
盧溝橋事件を発端として日中戦争の勃発
また戦時下、資源の統制はすすみ、昭和13年6月には鉄鋼配給の統制が決定
競技場建設に必要な800万円が国家予算の3%にも相当する巨大な金額
イギリスなどは戦争が続く限り選手を派遣しないと公表、以後、ボイコット国が増えるなど
……オリンピック開催にとってはマイナス要因が増大
→
1938(昭和13)07/15
☆
政府が東京オリンピック開催返上を閣議決定
日本の威信をかけた1940(昭和15)開催予定の国家イベントは幻に終わる
07/
★
コロムビアから中野忠晴の歌による「長崎造船所歌(287932)が発売される
作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰
08/01
★
それまで赤く塗られた警視庁のオートバイ赤バイが白く塗り替えられ白バイになる
1918(大正07)1月1日に東京の交通混乱防止のため警視庁がオートバイ「インディア」「ライディングカー」を輸入
警視庁本部に3台、麹町、愛宕、上野の各警察署に各1台、合計6台を採用
オートバイは車体が赤く塗られ、一般に「赤バイ」と呼ばれる
08/08
★
西彼杵郡式見村に腸チフス患者21人
08/15
★
北松浦郡生月村に腸チフス発生、他に10人の疑い
08/15
★
長崎茂木乗合自動車(株)が長崎バス(株)と改称。鍛冶屋町に本社をおく
→
1938(昭和13)01/
☆
本社を元船町の大波止に移転
08/22
★
北松浦郡生月村の腸チフス患者36人、佐世保海軍の赤痢患者は相次いで死亡
08/
★
「佐世保要塞」が「長崎要塞」に吸収合併される
08/
★
06/27に児童文芸誌「赤い鳥」主宰の鈴木三重吉が肺臓ガンで死去したため終刊
→
10/
☆
「赤い鳥鈴木三重吉追悼号」が刊行される
09/30
★
五島崎山村長手郷で腸チフス患者が死亡、戸口調査で10数人の患者がいることが判明
10/01
★
春洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が解体のため東京の甘粕産業に売却
→
1938(昭和13)02/18
☆
春洋丸が大阪で解体
10/01
★
長崎商工会議所が商工相談所を開設
中小商工業著が抱える諸問題の解決に積極的に対応するために開設
それまでの相談事業を大幅に拡充、広く中小商工業者に案内状を配布して、その利用促進に努める
記録によれば初年度の利用実績は1671件にのぼる
相談内容では商取引に関する事項が1018件で過半数を占め、商工業者の活気が満ちてきたことを物語る
→
のち
☆
翌年以降、商工相談所の相談実績は逐年増加の一途をたどる
戦時経済体制への移行に伴い、応召軍人家族の商工経営、企業合同、転廃業相談など相談事項は次第に変容
→
1948(昭和23)
☆
中小企業相談所と改称して再発足
→
1960(昭和35)
☆
国の小規模企業施策の強化とあいまって小規模企業階層の指導に重点をおくことに
専任の経営指導員を配置するなど相談所の機構と機能は大幅に拡充
10/05
★
立教大学の学生で編成した登山隊が日本人初のヒマラヤ登頂に成功
インド北部ヒマラヤ山脈中のナンダ・デビ山郡の南方にあるナンダ・コット(6861米)
毎日新聞社が後援となり、OB3人、学生1人、毎日新聞社から1人の計5人の隊員
頂上には立教大学校旗、大阪毎日新聞社の社旗、日章旗が掲げられる
10/08
★
渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更
→
10/10
☆
還御
(1)…寄合町(本踊)、船津町(川船)、平戸町(本踊)、本博多町(本踊)、
樺島町(太鼓山)、八幡町(剣舞)、麹屋町(剣舞)、万屋町(鯨潮吹き)、
西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
☆
7年1巡制の最後の年となる
10/25
★
ベルリンのドイツ放送でラジオのリクエスト番組がはじまる
生演奏番組の放送中にリスナーから、希望する曲目を演奏して欲しいとの電話がきっかけ
聴取者はお金を払うと申し出るが担当者は辞退。かわりにナチの冬の助け合い基金に寄付される
10/31
★
ソビエト連邦からの発注による耐氷型貨物船を川南工業株式会社香焼島造船所で起工
→
1937(昭和12)02/16
☆
第2次世界大戦直前の情勢に対処しソ連への引き渡されず商船「地領丸」として竣工
→
1940(昭和15)06/04
☆
耐氷能力に目をつけた海軍が徴用。特務艦(運送艦)「
宗谷
」として配備される
→
のち
☆
ミッドウェー海戦に動員される
→
1945(昭和20)10/01
☆
船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
→
1945(昭和20)10/
☆
ヤップ島→浦賀(1280人引揚)
→
1945(昭和20)11/
☆
グアム島、トラック島→呉(1520人引揚)
→
1946(昭和21)
☆
台湾、ベトナム等から引揚者を輸送
→
1946(昭和21)07/
☆
旧満州(大連、樺太、北朝鮮、等)から引揚者を輸送
→
1956(昭和31)11/08
☆
国際地球観測年に伴う南極観測で、耐氷構造を買われ南極観測船に選定
初代南極観測船となる
以降1961(昭和36)まで、毎年1回ずつ南極へ向けて計6回にわたり出港
→
1978(昭和53)10/02
☆
退役
→
1979(昭和54)05/
☆
船の科学館前に係留され永久保存展示
10/
★
長崎バス(株)がタクシー部門を新設(市内料金は50銭均一)
→
のち
☆
バスは鍛治屋町、タクシーは大浦町、八坂町、船大工町で営業
→
1941(昭和16)01/
☆
タクシー部門を日の丸自動車に譲渡
11/15
★
銅座町〜新地町に鉄筋コンクリート造の
銅座橋
が創設
銅座橋の命名は2回目。1代目は1725(享保10)銅座〜船大工町に架かった土橋
1915(大正04)12/に
大正橋
と改称。1950(昭和25)頃、上流側が暗渠となり銅座市場となる
→
1969(昭和44)09/04
☆
14米に拡幅し両側に歩道をつけて架け替える。工費754万円
11/16
★
雲仙〜仁田峠(仁田自動車有料道路)が開通
11/25
★
日独防共協定が成立
★
川南豊作が
川南工業(株)
を設立。港外香焼島の元松尾鉄工所跡を買収。資本金500万円
★
長崎の豪商永見寛二が建て諏訪荘が「諏訪荘」の商号により、和式旅館として営業
日本三指に数えられ、皇族をはじめ内外の著名人が多数利用
→
1984(昭和59)
☆
廃業にあたり取り壊されることになる
しかしながら保存を望む市民の熱意により諏訪神社に移築奉納される
★
新大工町の「舞鶴座」が廃館
★
興福寺内の長崎女子商業学校が新町に移転
→
1947(昭和22)
☆
栄町の現在地に移転
★
橋本覚一が中島川畔のカルルス公園を買う
橋本覚一は17才で諫早から長崎にで、衣料品の行商から1代で財を築き、多額納税者として長崎の財界に名を連ねる
→
のち
☆
この地に旅館虎屋を創業
→
戦後
☆
アメリカ軍に接収され、旅館を本石灰町に移す
→
1950(昭和25)
☆
駐留軍の接収が解かれ料亭
はし本
を新築開業。敷地約1千坪
→
1967(昭和42)02/01
☆
本石灰町の旅館虎屋の建物が古くなり、魚の町に鉄筋地下2階、地上5階の大旅館を完成オープン
部屋は豪華な純和風だがカギ1本で自由に振る舞えるようにホテル洋式を採り入れる
経営者の理念「外観は鉄筋の建物でも、旅館はあくまで古来のサービスと情緒とに徹しなければならない」
屋上は長崎の夜の展望所、地階はクラシックな和風レストラン虎茶屋と駐車場
「虎茶屋」では1品料理から天ぷら、鍋物料理、しっぽく料理、名物の虎鍋桜の葉で巻いたさくら寿司などを提供
建設は西日本菱重興産(三菱造船一環の事業)第1回の建設として施工
★
田浦数男、金子修二が経営していた長崎〜茂木の乗合自動車を南国モータースの上野喜左衛門、本坊豊吉が引き受ける
長崎茂木乗合自動車を創業。社長本坊豊吉、監査役白男川恒夫。幌の乗用車6台で営業を開始
★
小島川の正覚寺下辺り、油屋町〜本石灰町間に架かる石橋の玉帯橋がコンクリート橋となる
→
1968(昭和43)06/17
☆
思案橋〜正覚寺下間に電車開通し周辺が暗渠となり道路に埋没
★
樺島町の港温泉を譲り受けた森崎正人が経営を開始
それまでの港温泉にボイラーを取り付け、近代経営に切り替える
→
のち
☆
長崎市内120の浴場のうち港温泉は長崎一と繁昌する
→
戦争末期〜終戦後
☆
燃料がなく苦労し一家総動員で営業を続ける
→
1950(昭和25)
☆
戦後の観光ブームで2階を改装、旅館業を始める
浴場と旅館を併営して人気を集める
→
のち
☆
ボーリングを手がけ水脈を掘り当て港温泉と旅館経営がプラスとなる
→
のち
☆
本格的な旅館経営に取り組み増築を重ねる
→
1965(昭和40)
☆
港洋館を新築
★
本州〜九州間に鉄道トンネルの建設を決定
→
09/19
☆
門司側の工事現場で
関門海底隧道
の起工式が行なわれる
→
1939(昭和14)04/19
☆
先通導坑(工事促進のため先に掘削した小トンネル)が貫通
戦時体制下での輸送増強を目的に突貫工事で建設
最先端のシールド工法(三菱重工業製のシールド)を駆使し、多量の湧水に対抗する難工事
トンネルと海底との土被り(距離)が小さく、超小型潜水艇による調査が行なわれる
坑内で頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえる。海底に坑内の空気が漏れ出す
★
雲仙の有明ホテルが早くも合名会社の組織として経営の合理化を図る
→
終戦直前
☆
他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となる
→
終戦後
☆
アメリカ軍将校のレストハウスに接収
→
1950(昭和25)
☆
接収が解かれ従来のホテル経営に復する
▼
1937(昭和12)
【昭和】
丁丑(ひのとうし)
《総理大臣》
[第32代]廣田弘毅(→02/02)、[第33代]林銑十郎(02/02→06/04)、[第34代]近衞文麿(06/04→)
《知事》
[第30代(官選)]田中広太郎(→02/10)、[第31代(官選)]岡田文秀(02/10→)
《市長》
[第12代]笹井幸一郎
01/20
★
長崎電鉄が第11・第12電鉄丸(各128瓲、定員309)を三菱長崎造船所で建造
従来の第11電鉄丸は第9電鉄丸に
01/21
★
イギリスで料理番組の元祖「夕べの料理」の放送がはじまる
第1回は西洋料理の基本、オムレツの作り方
01/31
★
「興安丸」が関釜連絡船として就航
→
1945(昭和20)08/31
☆
引揚船に指定され博多・仙崎〜釜山を往復
往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事
02/01
★
日華連絡船「長崎丸」の乗客に天然痘患者
02/05
★
長崎電鉄は西泊汽船(梅丸の深沢シゲヨ)の営業権を200円で譲り受け大波止〜浪の平〜西泊航路を開設
02/11
★
南高来郡多比良村に町制が敷かれ多比良町となる
→
1940(昭和15)04/01
☆
南高来郡島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる
02/16
★
ソビエト連邦からの発注の耐氷型貨物船が商船「地領丸」として竣工
第2次世界大戦直前の情勢に鑑みソ連への引き渡しはなされず
→
1940(昭和15)06/04
☆
耐氷能力に目をつけた海軍が徴用。特務艦(運送艦)「
宗谷
」として配備される
02/
★
長崎商業会議所の第9代会頭に山田鷹治が就任
→
1943(昭和18)05/
☆
第10代会頭に松田一三が就任
→
1943(昭和18)09/
☆
第11代会頭に橋本辰二郎が就任
03/04
★
壱岐東部地方に麻疹流行
03/20前後
★
数え年29才の太宰治が妻初代と水上村谷川温泉に行く
→
03/21
☆
谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが未遂に終わる
→
1948(昭和23)06/19
☆
朝6時50分頃、東京・三鷹の玉川上水に入水した太宰治と山崎富栄の情死体が発見される
太宰治は数え年40才、山崎富栄は30才
03/
★
ポリドールから東海林太郎の歌による「踏絵(2411)」が発売される
作詞は佐藤惣之助、作曲は長津義司
1924(大正13)の第13回文展に出展された鏑木清方の名画「試さるる日」をモデルにした歌
踏絵板に白い足を乗せようとする丸山遊女の苦悩する姿を描く
歌う東海林太郎は「自分の数多い歌の中でも、これだけは永遠に心に残る作品だと思う」と語る
片面は関種子の歌による「じゃがたら文」。作詞は大木惇夫、作曲は阿部武雄
04/01
★
柳通りに続く市内縦貫道路として銅座〜新地の道路が開通
04/01
★
県立長崎工業学校が丸尾町の県水産講習所跡を仮校舎として開校
→
1940(昭和15)04/
☆
上野町(現南山高校)に移転
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆で全校舎が焼失
→
のち
☆
大村の元海軍空廠工員養成所の施設を仮校舎に
→
のち
☆
市立商業学校の一部を使用、長大医学部の病床を借りるなど転々とする
→
1952(昭和27)
☆
岩川町に新校舎が完成し落ち着く
04/17
★
大波止〜出島に
玉江橋
が架かる
05/06
★
アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で
ヒンデンブルク号
が爆発
炎上事故を起こし乗員乗客35人と地上作業員1人が死亡
→
のち
☆
大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ建造が行なわれなくなる
05/28
★
来日中の三重苦の
ヘレン・ケラー
が来崎。勝山小学校で講演会を行ない聴衆2千人が集まる
→
05/29
☆
「長崎県立盲学校」浦上校舎にヘレン・ケラー女史が来校、記念として月桂樹を手植
→
1948(昭和23)10/16
☆
戦後の混乱期のまっただ中、日本最後の訪問地として再び来崎
05/
★
長崎電鉄の螢茶屋車庫の竣工により茂里町車庫が解体、廃止に
06/26
★
長崎港外端島炭坑に腸チフスが猖獗、患者16人
07/01
★
神戸〜東京に客車特急「鴎」が誕生
→
1943(昭和18)02/15
☆
廃止
→
1953(昭和28)03/15
☆
博多〜京都に復活。列車番号6レ、5レ
初日の編成(7)〜(9)は招待客用車両
(機)EF10、C57+(1)スハニ35+(2)スハ44+(3)スハ44+(増)スロ54+
(4)スロ54+(5)スロ54+(6)スシ47+(7)スロ54+(8)スロ54+(9)スハフ43
→1957(昭和32)06/06☆客車を10系客車に置き換え。香椎線、勝田線での客車の方向転換が廃止となる
蒸気機関車をC57形からC59形に変更
→
1958(昭和33)10/01
☆
列車番号を202レ、201レに変更
→
1961(昭和36)09/30
☆
客車特急「かもめ」が廃止。最後の牽引蒸気機関車はC59形7号機
→
1961(昭和36)10/01
☆
長崎・宮崎〜京都に82系気動車特急「かもめ」の運転が開始
→
1963(昭和38)10/01
☆
14両編成での運転を開始
→
1964(昭和39)10/01
☆
運転区間を長崎・西鹿児島〜京都に変更
→
1968(昭和43)10/01
☆
運転区間を長崎(博多経由)・佐世保(筑豊本線経由)〜京都に変更
→
1975(昭和50)03/10
☆
新幹線の博多開業にともない廃止
→
1976(昭和51)07/01
☆
長崎本線、佐世保線の電化完成。長崎・佐世保〜博多・小倉に電車特急が登場
長崎・佐世保〜博多・小倉に485系電車特急「かもめ」7往復、電車特急「みどり」6往復が新設
長崎〜博多が20分短縮
長崎〜博多の「かもめ」と博多〜東京の新幹線「ひかり」で最短9時間46分。10時間を割る
→
2000(平成12)03/11
☆
日蘭交流400周年を記念し長崎〜博多に885系振子式電車特急「白いかもめ」がデビュー
それまでの赤色の「Red Express かもめ」の後継車両として登場
JR九州としては883系の特急「ソニック」に次いでの高速運転できる制御付き振子電車
カモメをイメージした白い車体に黄色と黒のアクセント、先頭部は流線形
車内は革張りの座席やオープンスペースデッキなど、高級感あふれる内装
最大寸法(長さ×幅×高さ)=2万1650×2910×3825粍
最高運転速度=時速130粁
出力=1両760キロワット(6両編成のうち電動車M車は、3両、主電動機MT402K、1両190キロワット×4個)
07/07
★
盧溝橋付近で演習中の日本軍に向けて数発の銃声が轟く
→
07/08
☆
午前3時30分頃、銃声を3発聞く。現地の一木大隊長が北京の連隊長に聞く
「戦闘を開始して可なり」との返事
午前5時30分、一木大隊は盧溝橋付近を警護する中国第29軍へ攻撃を開始
→
07/11
☆
一方的に中国側が事件の責任を認める形で現地協定が結ばれる
07/07
★
いわゆる
盧溝橋事件
をきっかけに日中戦争が勃発
07/27
★
長崎県営バスの小浜営業所が開設
→
1938(昭和13)05/15
☆
小浜営業所車庫が落成
→
1961(昭和36)10/11
☆
小浜営業所が開所、新築落成
→
1969(昭和44)08/07
☆
小浜営業所女子職員寮及び所長公舎が新築落成
→
1994(平成06)06/03
☆
小浜営業所が完成
→
2007(平成19)03/31
☆
雲仙市小浜町大字南木指字合屋1760番地の長崎県営バス小浜営業所が廃止となる
→
2007(平成19)04/01
☆
小浜ターミナルが島鉄バスのターミナルとなる
08/15
★
二二六事件の黒幕として逮捕された北一輝と共鳴者の西田税がともに死刑判決
→
08/19
☆
磯部、村中を加えた4人の死刑が執行
08/30
★
上海からの避難者の便を図るため出島岸壁に公衆電話を設置
→
1949(昭和24)08/01
☆
長崎市内に公衆電話ボックスが復活。浜町、山の口、浦上駅前、水の浦
08/
★
岩川町に国防婦人会が誕生。長崎では初めて
→
のち
☆
各町に続々と誕生する
「国防婦人会」「愛国婦人会」と書いたタスキをかけた婦人が出征軍人の送迎に、銃後の援護活動に献身的に活躍
09/01
★
長崎市伝染病病院が長崎市長崎病院と改称【12/?】
09/09
★
県下の伝染病患者1350人(腸チフス445・赤痢363・疫痢298)と発表される
09/10
★
長崎電信局での電報取り扱いが1日で5万268通。廬溝橋事件以来の最高
09/11
★
昭和自動車(株)の経営権を力武エイより青木洋鉄商店が譲り受ける
09/11
★
後楽園球場が開場。内野2階建てスタンドを持つ野球場として注目を浴びる
完成時の両翼は85米。中堅は114米とされている。同時に初代のスコアボード完成
もとは水戸家江戸屋敷の一部。のち陸軍東京砲兵工廠になり、移転したため空き地の国有地を払い下げで取得
→
1987(昭和62)11/09
☆
後楽園球場が閉場
競輪場跡に東京ドームが建設されたことで球場としての役割をドームに譲ることに
09/19
★
戦火の拡大とともに華商が大打撃を被る
長崎在住の華僑のうち320人が2次にわたって門司出帆の英国船で香港へ引き揚げ
09/25
★
華北戦場での戦勝を祝し3日間にわたり市民による提灯行列や女学生の旗行列が行なわれる
10/07
★
「長崎くんち」
(2)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
☆
くんち3日間は防空演習にあてられる
10/26
★
南松浦郡三井楽小学校に腸チフス発生
10/30
★
長崎県師範学校が西浦上村家野郷に校舎を新築。桜馬場から移転
→
1943(昭和18)04/01
☆
長崎県師範学校と長崎県女子師範学校が合併
11/15
★
銅座町〜新地町に鉄筋コンクリート造の
銅座橋
が完成
11/18
★
長崎県営自動車運輸事務所(長崎県営自動車)が大波止の玉江町3-4に移転
→
1940(昭和15)07/10
☆
大波止の玉江町3-5に移転
11/18
★
支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため
大本営
設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止に
新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定
→
11/20
☆
大本営が設置されそのまま大東亜戦争に移行
→
1945(昭和20)09/13
☆
大本営が廃止となる
12/13
★
南京城が没落
→
のち6週間
☆
日本軍は市内掃討戦の際、捕虜、敗残兵らの虐殺、放火、略奪などを行なう。
南京大虐殺
12/19
★
日本人経営の大浦町25番地「
ジャパン・ホテル
」が全焼
大浦居留地に最後まで残った唯一のホテルだった
12/
★
竹の久保の長崎市避病院が長崎市立長崎病院と改称
12/
★
林兼長崎支店が土井の首冷蔵所を新設
→
1943(昭和18)04/
☆
水産統制令により西大洋漁業統制(株)長崎支社を設置
★
松本兼松がアメリカのホームメイドのアイスクリーム・スイーツの店「ニューヨーク堂」を創業
松本は23年間にわたりアメリカの大手自動車メーカー「ゼネラルモータース」の会長専属シェフを勤め上げる
★
西中町の長崎純心高等女学校が家野町に移転
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により生徒700人のうち209人が死亡、全校舎が焼失
★
橘神社創建の許可がおりる
→
1940(昭和15)05/15
☆
鎮座祭が執り行なわれる
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諫早の池田喜四郎が独力で土木建築業を興し池田木材店を経営
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1953(昭和28)
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材木業を廃業し旅館経営に転業。五島町に池田屋旅館として創業
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のち
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屋号を池田荘に変更
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宮日振興会は長崎くんちにあわせて日支事変勃発まで毎年、継続的に実施
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のち
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戦局の進展に伴い祭自体が質素に
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1944(昭和19)
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長崎くんち奉納踊りが中止されるに至り、振興会そのものも自然消滅
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1894(明治27)に五島岐宿で生まれた松本甚十郎が雲仙に移り精肉、食堂を営む
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のち
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みやげ品店に転じる
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1941(昭和16)
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旅館松本屋を開業
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1949(昭和24)
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合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする
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1968(昭和43)
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拡張に踏み切り、雲仙ニューグランドホテルをオープン
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長崎駅頭や浦上駅頭で出征兵士を見送りする市民で埋まり、熱狂的歓呼と旗の波でどよめく
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吾妻村の地主の跡継ぎとして生まれた馬渡謙蔵が小浜で旅館・春陽館を創業
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東京音楽学校の寮で上田英子が「ながさき」をソプラノで披露。流行する
上田英子は長崎出身で県立高女時代に「ながさき」を教わっていた
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島原で漬物、味噌、醤油などの製造をする吉田正八商店を営む吉田正八が島原漬物組合の組合長に推される
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雲仙小浜自動車が県営バスに合併される
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国立公園指定記念雲仙記念館が竣工
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1977(昭和52)
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記念館が老朽化のため撤去
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合名会社「田中長一本店」の田中正行が29歳で長崎県板硝子卸商協同組合理事長に就任
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1937(昭和12)頃
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欧州〜日本の定期航路は、欧州8か国の船会社と日本郵船を合わせて14社の船が就航
旅客と貨物の輸送に活況を呈する
世界14社の就航隻数は187隻(貨客船94隻・貨物船93隻)162万瓲
うち日本郵船は27隻(貨客船10隻・貨物船17隻)
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平坂製薬が日本全国の営業の為、フォード3台を購入。マイク放送による宣伝活動を開始する
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1941(昭和16)
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「ヘデクパウダー」の原料のひとつであるアスピリンの入手が困難となり、一時休業を余儀なくされる
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1938(昭和13)
【昭和】
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