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〈昭和時代(8)〉

1946(昭和21)【昭和】 丙戌(ひのえいぬ)

  《総理大臣》[第44代]幣原喜重郎(→05/22)、[第45代]吉田茂(05/22→)
  《知事》[第36代(官選)]永野若松(→01/25)、[第37代(官選)]杉山宗次郎(01/25→03/14)
      [第38代(官選)]高橋一郎(03/14→)
  《市長》[第16代]岡田壽吉(→10/15)

  01/01官報により昭和天皇の詔書が発布
     天皇裕仁(46)が「新日本建設に関する詔書」によって、自らの神格性を否定
     この「天皇の人間宣言」を新聞各紙は一面で報じる
     詔書には公用文としての題名が付されておらず、題名に準ずる件名としては2度にわたり付与
     「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)
     「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)
  01/25永野若松がGHQによる特高追放で長崎県知事を依願免官
  01/25全国に先駆け設けていた県地方労働委員会の第1回委員会が開催
     労働者が関係する労使紛争を解決するため、各都道府県に設置されている行政委員会
     行政委員会は公益委員、労働者委員、使用者委員の3者で構成
  01/26 連合軍総司令部と覚書を交わされ、小笠原諸島の行政権が日本から分離される
     1951(昭和26)09/08サンフランシスコ講和条約によりアメリカ海軍の統治下に置かれる
     1968(昭和43)06/26南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定が発効
     小笠原諸島が日本に返還。東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属することに
     戦前の旧大村、旧扇村、袋沢村、旧北村、旧沖村および旧硫黄島村は、小笠原村に
     かつて小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖の鳥島および西之島も小笠原村の区域となる
  01/26日本海員掖済援護会において名古屋に病院建設を決定
     1948(昭和23)11/08日本海員掖済援護会名古屋病院が診療を開始。30床
  01/30(株)長崎土建工業所が本社を長崎市東浜町44番に移転
     1952(昭和27)05/09本社を長崎市羽衣町31番に移転
  01/長崎電鉄の古町〜小川町〜長崎駅前が復旧
  01/壱岐集報社発行の「壱岐日報」が復刊
     1974(昭和49)05/資本金100万円をもって設立。有限会社に改める
  01/日蓄工業株式会社から「コロムビアレコード」の第1回新譜臨時発売分として「リンゴの唄」が市場にでる
     歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇
     「リンゴの唄」は前年の10/10に公開された映画「そよかぜ」の挿入歌
     並木路子と霧島昇は映画の出演者
     のち日本の戦後のヒット曲第1号となる
  02/09新興善国民小学校が長崎医科大学付属病院に校舎を引き渡し晧台寺に移転
     1947(昭和22)04/01長崎市立新興善小学校と改称
  02/17インフレを加速する浮動資金を封じ込めるため政府が金融緊急措置令、日銀券預入令、財産調査令を発令
     預金封鎖による新円発行を行なう
     03/02流通している手持ちの日銀券が通用を廃止
     市内の各金融機関が旧円を預け入れる人で大混雑に
     旧円は全て銀行へ預け入れて新円と交換。新円は10円と100円の2種類
     払戻額は1か月につき世帯主300円、家族1人につき100円、
     給与の現金支払いは500円まで、それ以上は封鎖預金に
     新円の発行が間に合わず旧円に証紙を貼る珍事も出現
  02/20宗教法人 「長崎県神社庁」 が設立される
     宗教法人に関する事務、神宮大麻の頒布をはじめとする伊勢神宮への奉賛活動、
     神職・総代をはじめ神社関係者の研修や大会、功労者の顕彰、神職の養成、神社神道の広報などの活動が行なわれる
  02/長崎電鉄の長崎駅前〜浦上駅前が復旧
  02/金融緊急措置令(新円切り替え)が施行される
  03/01社名を日本経済新聞社に、題号が「日本産業経済」から「日本経済新聞」に改める
  03/06わが国最初のスポーツ新聞「日刊スポーツ」が創刊される
  03/09食料事情がかなり悪化していた長崎市が「都会地転入抑制緊急都市」の抑制都市に
     1946(昭和21)03/10〜1948(昭和23)01/09☆市内への転入禁止が続く
     06/01市民に食料疎開を呼びかける異常事態が発生
     1か月で898人の疎開者が長崎市を去る
     06/30食料危機対策として県警察部はが高級料理店の一時休業を決定。県下で24軒が休業
     長崎市では「竹馬」「花月」「富貴楼」「新富」「梅美津」「泉屋」「米春」「通天閣」が休業
  03/株式会社橋本商会古鉄部が三菱製鋼株式会社の製鋼原料である屑鉄の一手納入者の指定を受ける
     戦後の国土復興に尽力する
     1956(昭和31)11/株式会社橋本商会古鉄部が鋼材及び新商品の成長につれて取扱品目が多角化
     社名を橋本商事株式会社(資本金3千万円)に変更する
     株式会社橋本商会も遂年発展して資本金600万円となり営業活動は関西・関東に及ぶ
  03/日本海員掖済会長崎病院が病床数12床で再開する
     1948(昭和23)12/年末無料診療を開始
  03/記録映画「広島、長崎における原爆の影響」(全19巻/2時間45分)が完成
     映像は文部省の原子爆弾災害調査研究特別委員会の補助機関として、日本映画社が原爆被災記録映画制作のため広島と長崎で撮影
     米軍の干渉により撮影が一時中断していたが、交渉の結果、米軍の監視下で撮影・編集を続けることに
     のち米軍が映画フィルムを没収
     05/映画フィルムがアメリカに送られる
     1967(昭和42)没収された映画フィルムが日本に返還される
  03/宝塚音楽舞踊学校が宝塚音楽学校と校名を変更
  04/01長崎経済専門学校に併設する長崎工業経営専門学校がその使命を終えて廃止
     1949(昭和24)05/31国立大学設置法の公布で長崎大学が設置。新制大学制度に経済学部として組み込まれる
     初代学部長に伊藤勇太郎教授が就任
  04/07ニューヨークで開かれた国際保健会議で世界保健機関憲章が採択される
     1948(昭和23)04/07世界保健機関憲章に基づいて国際連合の専門機関のひとつ世界保健機構(WHO)が設立
     WHOはWorld Health Organizationの略
     目的は世界の全ての人々の健康の保護、増進のため国際保健活動を計画、実施、調整すること
  04/10戦後初の衆議院選挙。長崎県では全県1区の定数8に対し婦人3人を含む57人が立候補
     選挙者の年令も、それまでの25才以上から20才以上に引き下げられる
     県内の投票率は男74.33%、女62.45%
  04/長崎軍政府管理の長崎茲惠(慈恵)病院が米国より長崎市民に寄贈
     日本医療団経営による長崎県中央病院「長崎慈恵(慈恵)病院」として発足
     1948(昭和23)11/日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
     日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
  04/三菱重工業株式会社が造船祭を催す。所内を一般市民に初めて公開
  04/東山町の北大浦尋常小学校が長崎市立北大浦小学校と校名変更
     1956(昭和31)02/児童数増加により4階部分を増築
  04/引揚船上海丸が長崎に到着
     膵臓膿腫で倒れた名取洋之助が乗船。帰国する
  05/01戦時の「共同新聞」の題号が「讀賣新聞」に復帰
  05/03極東国際軍事裁判(東京裁判)の審議がはじまる。東条英機ら28人がA級戦犯として起訴される
     1948(昭和23)11/12極東軍事裁判にて判決、刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了。東京裁判閉廷となる
     極東国際軍事裁判所、A級戦犯25名に有罪判決。うち東条英機ら7被告に絞首刑判決
     12/23午前0時1分7人よりの絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行。35分に終了する
     巣鴨拘置所で7被告に絞首刑執行
      板垣征四郎(軍人)中国侵略・米国に対する平和の罪
      木村兵太郎(軍人)英国に対する戦争開始の罪
      土肥原賢二(軍人)中国侵略の罪
      東條英機(軍人)ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪
      武藤章(軍人)一部捕虜虐待の罪
      松井石根(軍人)捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)
      広田弘毅(文民)近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作。唯一の文人
  05/戦後物資統制の中、用紙割当を受けるため対馬朝日新聞の創立者・斉藤隼人が商工省繊維局に出頭陳情
     05/21全国離島紙で最初の用紙割当を受け、タブロイド版「対馬新聞」を発刊
     のち戦後最も古いローカル紙として創刊号のマイクロフィルムがアメリカ進駐軍によって製作
     国会図書館に保管される
  05/10「長崎新聞(長崎日報)」従業員組合が西岡取締役会長の辞任を要求し大争議
     旧長崎日日系と旧長崎民友系との溝が深まり対立化したのが争議の主な原因
     1946(昭和21)12/09統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」
  05/13浜町裏手・自由市場でのヤミ物資一斉摘発、280人の警官隊が禁制品を押収、182人を検挙
     中国人、朝鮮人、日本人一部業者が反発、長崎署、東浜町・湊公園両派出所を襲撃、警官12人が死傷
     05/14警官隊、進駐軍、海兵隊が出動し鎮圧
     05/16長崎県警察部は、ヤミ市場の取締で、朝鮮人30人と日本人約100人を長崎警察署に連行
     在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100人とその他中国人など総勢約200人が同署を襲撃し、破壊活動を行なう
  05/23日本映画で初めてキスシーンが登場する「はたちの青春」が封切られる。監督は佐々木康
     映画製作はGHQの検閲下にあり、民間情報教育局のコンデはキスシーンを含めよう指示
     日本では人前でキスははばかられていたが、民主化政策のためキスシーンの取り入れがGHQにより指示される
     主演の大坂史郎と磯野道子がほんの少しだけ唇を重ねるシーンが入る
     大坂史郎と磯野道子は口にガーゼをあてて撮影にのぞむ
     のちキスシーンが話題を呼び、映画館は連日満員に
  05/新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、
     元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始(第二医院は7月診療開始)
     1949(昭和24)05/国立学校設置法に伴い、長崎大学医学部附属病院と改称
  05/市営交通船の第9長港丸(39.62瓲)を九州商船に貸与。三角〜天草大浦航路に就航
  07/01九州海運局内に不法入国監視部が設置
     1948(昭和23)05/01長崎海上保安部と改称
  07/15県警察部が初めて婦人警官178人を募集。長崎市は60人を募集
     07/31試験結果19人採用
  07/15長崎港停泊の機帆船乗組員にコレラ患者が発生
  07/21今籠町11番地の料亭「万歳」を市が買収し、市営旅館「万歳」を開設
     1951(昭和26)09/所期の目的に達し廃止
  07/長崎魚市組合が厳しい食糧難にあえぐ消費者と漁業生産者の要請に応えて魚市場の復旧工事に着手
     1947(昭和22)06/尾上町の旧位置に漁港施設が復旧
       荷揚場、荷捌場、事務所等、延1160坪の魚市場施設と
       浮桟橋2基、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧
     1947(昭和22)06/元船町海岸通りに水産倉庫7棟が完成
  08/28戦後の食糧対策の一端として建造された捕鯨母船「第1日新丸」(1万1781瓲)が三菱長崎造船所で進水
     2か月の突貫工事で貨客船から改装
     11/「第1日新丸」を母船とする捕鯨船団が長崎をあとに南極へ出漁
  08/三菱造船幸町工場が鉄道当局と折衝し戦災機関車の補修工事に着手
     原爆で破壊された工場の棟だけをトタン板で補修し残ったクレーン等を利用
  08/キングから樋口静雄の歌による「長崎シャンソン(C146)」が発売される
     作詞は内田すとむ、作曲は上原げんと
     戦後の長崎ものの第1号として登場した歌
     1952(昭和27)11/キングから若原一郎の歌で再発(C848)
  08/野母商船が長崎〜香焼〜高島〜端島航路、博多〜五島航路の維持整備再建に着手
  10/01長崎市出島町に性病対策として県立出島病院発足
     1969(昭和44)03/31廃止となる
  10/01旧佐世保海軍工廠の造船施設を借受、資本金600万円をもって「佐世保船舶工業株式会社(SSK)」を設立
     1961(昭和36)07/「佐世保重工業株式会社」に社名変更
  10/09「長崎くんち」。8時奉納踊、10時神輿渡御、市中一巡のち17時還御。御旅所仮宮はなし
     (4)…寄合町(本踊)、踊当番町合同(本踊)、連合町(本踊)、東古川町(川船)
     神輿順路 馬町〜県庁(仮庁舎・現美術博物館)〜(休憩)〜築町〜
     長久橋〜濱町〜鍛冶屋町〜(休憩)〜磨屋町〜中通り〜伊勢宮〜国道〜還御
     御旅所がないのは進駐軍モータープールに使用されているため
  10/15第16代長崎市長の岡田寿吉が退任
     公職追放(パージ)該当者に指定される前に退陣。菅野助役が市長職務代理となる
     1949(昭和24)03/06前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
     1949(昭和24)03/08戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
     足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
     手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
  10/15正式に閉鎖した長崎三菱兵器製作所が残存者の強い要請で「長崎精機製作所」として再建
     民需品の生産を始める
     1951(昭和26)07/三菱関連各社に吸収され工場は閉鎖
  10/市営交通船の第9長港丸(39.62瓲)を新興汽船のチャーターとして伊王島〜式見航路に就航
  10/長崎県商工経済会が解散
     商工経済会は戦時中に、商工会議所に代わり国策協力機関として各都道府ごとに設立
     のち時を移さず、全国各地で商工会議所の設立があい次ぐ
     長崎県内でも長崎をはじめ佐世保・諫早・大村・島原の各市に新商工会議所が次々に誕生
     民法に基づく社団法人長崎商工会議所が設立
     第12代会頭に中部悦良が就任
     1947(昭和22)01/14長崎県商工会議所連合会が設立
     長崎商工会議所で各会議所の代表者が出席して開かれる
     規則、事業計画、収支予算を議決。会長に中部長崎会頭、副会長に北村佐世保会頭を選出し、新体制による連合会の発足をみる
  11/15玉浪町の三菱兵器製作所が長崎精機製作所として再出発
  11/原爆により全壊した浦上天主堂跡に神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
     原子野に再建された最初の公共建造物。聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
     中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
     1947(昭和22)中島万利神父を中心に本聖堂再建計画が立つ
     信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
  11/18大洋漁業の「第1日新丸」(1万1781瓲)を母船とする捕鯨船団が期待を担って出港
     GHQが南氷洋捕鯨を日本水産と大洋漁業に各1船団を許可したことによる
     第1日新丸は三菱長崎造船所で建造中止になっていたタンカーを改造。進水は08/28
     捕獲総数は1175頭、塩蔵肉1万6560瓲、冷凍肉1822瓲、塩蔵・冷凍肝臓132瓲
     日本水産の捕鯨船団は11/07大阪より出港
  11/日本国憲法が発布
  11/放射線影響研究所の前身である原爆傷害調査委員会が第406一般医療班として調査を開始
     移動には、連合軍特急列車に連結された三つの車両が利用される
     1947(昭和22)03/米国原子力委員会の資金により米国学士院(NAS)が原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立
     広島赤十字病院の一部を借り受けて「原爆障害調査委員会(広島BCC)」が開設。血液学的研究を開始
     1948(昭和23)07/長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「原爆障害調査委員会(長崎ABCC)」が設立
     厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
     1949(昭和24)11/長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
     予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
     1975(昭和50)04/01「ABCC(原爆傷害調査委員会)」が再編成のため閉所
     新たに「放射線影響研究所(RERF・放影研)」として日米両国が財団法人となり運営経費を分担する形に変更し再発足
     日米共同による調査研究を続行する必要性があると考えられ両国政府が共同で管理運営する公益法人とし発足
     日本国民法に基づき、日本の外務省および厚生省が所管。運営管理は日米の理事で構成される理事会が行なう
     調査研究活動は両国の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て進められる
     経費は日米両国政府が分担し、資金は日本は厚生労働省を通じて、米国はエネルギー省を通じて交付
     変更後の長崎研究所では被爆者の健康診断、調査、研究を行なう
     研究所には臨床研究、疫学、放射線生物の3部門がおかれる
     放射線生物部は放射線が発がん遺伝子や免疫機能に及ぼす影響などについての基礎的研究を行なう
     1982(昭和57)09/17国道34号拡幅工事にともない中川1丁目の新築の教育会−放影研合同ビルへ移転
     鉄筋コンクリート造り4階建、総工費約3億5千万円
     1996(平成08)03/中川町の放射能影響研究所長崎研究所(放影研)の放射線生物部が閉鎖
  12/09統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」に分離
     12/09渡貫良治が社長の「長崎日日新聞」は船津町で復刊第1号を発行
     1951(昭和26)06/桑原用二郎が読売系の持株を譲り受け完全に独立
     1953(昭和28)県内紙で初めて高速輪転機、写真電送機などを導入
     のち西岡竹次郎は「長崎民友新聞」を出島で創刊
     1951(昭和26)西岡竹次郎が県知事に就任し夫人のハルが経営に携わる
     のち「新島原新聞」が「島原新聞」と改題
     1953(昭和28)「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」が「九州時事新聞」と改題
     1961(昭和36)09/「九州時事新聞」が「長崎時事新聞」と改題
     1959(昭和34)01/「長崎日日新聞」と「長崎民友新聞」が合併、「長崎新聞」と改題。夕刊を復刊
     1968(昭和43)08/01「長崎時事新聞」と合併
  12/09長崎市立商業学校が油木の校舎に復帰。開校式をあげる
     西山から油木までの約4キロはリレー式に校具類を移送
     それまでは上長崎小学校の校舎の一部や東青年学校(現片淵中学校旧校舎)を併用
     1948(昭和23)04/学制改革により長崎市立長崎商業高等学校となる
  12/歓楽街が復活。市内の街角に喫茶店が開店。ダンスホールのネオンが目を引く
     12/末現在、芸妓41人、貸席121軒、酌婦621人、純料理店36軒、飲食店264軒、
     キャバレー1軒、ダンスホール2軒、ダンサー107人
  12/長崎県営バスが6年ぶり雲仙観光バスを復活
  12/社団法人日本商工会議所が設立
  小島町に菓子製造業同和甘味(株)が創設
     戦後初の選挙で村木覚一社長が市会議員に
     市長の諸政演説で「戦争に負けた長崎は水産も三菱造船もなくなる。長崎は観光都市以外には栄える術はない」
     村木覚一は議員を辞めたのちに長崎の観光はどうすべきかを考え風頭山が目につく
       戦争時は風頭山から造船所が全望できたために、山の上に建物を建てられず
       風頭はハタあげの名所。空しか見ず、眼下に望む長崎の街を見ることはない…風頭が観光の名所になると考える
     1951(昭和26)風頭山中の八太郎岳に旅館を築くため自分たちで山を切り開く工事に着手
     バスが通る道をつくり、水道を引く
     1954(昭和29)09/27木造3階建、客室7室、広間1室の旅館矢太樓を造る。バスは木炭車バスだったとか
     名前の由来は県下に広く公募。地名(八太郎岳)がつく
     1959(昭和34)04/鉄筋コンクリートに増設6階建て、客室15室を増設
     1960(昭和35)10/株式会社矢太樓に社名変更
     1971(昭和46)09/30増築鉄筋コンクリート造陸屋根7階建て、民営国民宿舎「太郎の家」を増設。客室31室
     1972(昭和47)02/木造旧館を解体し鉄筋コンクリート2階建て(矢太樓)洋室を増設。客室洋室18室
     1986(昭和61)露天風呂をつくろうと代表取締役村木營介、自らユンボを借り設計無しに掘る
     掘ったあとに設計、長崎市内で最初の露天風呂「桃源境」をつくる
     1992(平成04)ヤタロウイン1号館を階層して矢太樓南館に屋号変更
  連合軍総司令部が日本政府に公娼廃止の覚書を渡すが、特殊飲食店(赤線)は存続
  八幡神社横の「長崎歌舞伎座」が火事により焼失
     のち教会と幼稚園に
  稲佐郷に長光寺が創建
  べっ甲業界にマッカーサー司令部より朗報が舞い込む
     「材料は必要なだけ提供する。多量に作って貰いたい」と県へ指令がでる
     連合軍将兵への土産として1組2千円の化粧セット、シガレットケース、コンパクト、カフスボタンなどが注文
  旧海軍の耐氷艦「宗谷」が船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
     台湾、ベトナム等から引揚者を輸送
     07/旧満州(大連、樺太、北朝鮮、等)から引揚者を輸送
     1956(昭和31)11/08国際地球観測年に伴う南極観測で、耐氷構造を買われ南極観測船に選定
     初代南極観測船となり以降1961(昭和36)まで、毎年1回ずつ南極へ向けて計6回にわたり出港
  門司税関長崎支署として長崎税関が再開
     1953(昭和28)08/01長崎税関として門司税関から独立
  台風被害により市営交通船の第1・第4長港丸(各69.32瓲)が香焼島沖野島岩礁に座礁して使用不能に
     第7長港丸(39.35瓲)はスクラップに
  原爆で大破した西中町教会跡地に信徒たちが木造の仮聖堂を建てる
     1951(昭和26)10/16残った礎石、外郭の壁と尖塔を生かして手作業で聖堂を修復再建
     屋根は単層、堂内は単廊式平面のロマネスク様式の建物に再建
     改めて「殉教者の元后」に捧げる献堂式が行われる
  小浜で料理屋を営んでいた山口亮が戦後配給で思うような料理が作れないことを理由に旅館業に転業
     旅館清川荘を創業
     1967(昭和42)池田某が営んでいた隣のきらく荘を買収。施設を拡張する
  アメリカの「少年の町」の創設者フラナガン神父が長崎を来訪
     神父は子どもたちの悲惨な様子を見て、「早く戦災孤児に家を」と進言
     GHQがそれを受け、戦災孤児の収容施設計画が立つ
     1947(昭和22)02/04長崎市岩屋町666番地に長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が開設
     生活保護法による孤児収容施設として発足
     初代寮長の餅田千代は男女2人の子どもを育てながら寮生からお母さんと親しまれる
     定員50人、廃材などで建設される
     04/01児童福祉法の実施にともない県立の養護施設「向陽寮」と改称
     1955(昭和30)03/寮舎基礎沈下腐朽のため基礎工事ならびに腐朽部の改修工事に着手
     07/竣工
     1963(昭和38)寮長の餅田千代が婦人寮へ転勤。15年にわたる寮児との生活をひとまず終える
     1968(昭和43)「光りと緑の園、長崎県立向陽寮」を改称、大村に移転。社会福祉法人として民営化
     初代寮長は再任の餅田千代
  川野福一が森永製菓長崎支店長の矢山清の許可を得て大村でエンゼルマークの飴菓子をはじめる
     のち主食統制の緩和とともに菓子製作に踏み切る
     「ばってん」や「丸山」を作り大村の名菓舗に数えられる
     1950(昭和25)☆浜屋で開かれた全国みやげ品展示会にて「ばってん」がトップで入賞
     のち政治に干渉し失敗、無一物で長崎に
     のち未経験ながらざぼん漬の製造に成功
     のち蝶々柑、唐ざぼん、輪ざぼん、若ざぼん、切ざぼんなど次々と生み出す
  百田妙子により「長崎復興音頭」が歌われる【自主制作?】
     作詞は大串邦雄、作曲は木野普見雄
  強制疎開をうけ建物が取り毀された島原の住吉旅館の経営を井上籠子が再開
     住吉旅館は井上ユキヨが1869(明治02)にはじめた料亭「腰駕楼」で1913(大正02)から旅館となる
     井上籠子は井上ユキヨの孫にあたる
  海産物の卸商をしていた魚住一時が魚住商店としてふぐの製造に取り組む
     のちふぐ味淋ぼし、焼ふぐ、ふぐ茶漬、ふぐの燻製などふぐの珍味で知られるようになる
     のち東京、関西、北九州、北海道から沖縄まで販路を伸ばす
     1967(昭和42)カステラの製造も経営
  旅館中央荘として経営を開始
     1967(昭和42)12/万才町にニューホテル中央荘を建てる
     地下1階、地上7階の和洋折衷、客室36。宴会場、会議場の設備のほか、7階にスカイレストラン、屋上はビアガーデン
     貿易港長崎の発祥の地、万才町の高台に長崎の展望所としてタワーの役割を果たす
  長崎市内に天然痘流行。市衛生課、職域ごとに種痘を実施
  この年、長崎市の赤痢発生状況215(死亡23)
  米駐留軍により雲仙の県有地(ゴルフ場)と 各ホテルが接収される
     1950(昭和25)ゴルフ場、テニスコート、各ホテル等の米駐留軍による接収が解除される

1947(昭和22)【昭和】 丁亥(ひのとい)

  《総理大臣》[第45代]吉田茂(→05/24)、[第46代]片山哲(05/24→)
  《知事》[第38代(官選)]高橋一郎(→04/16)、[第39代(公選1代)]杉山宗次郎(04/16→)
  《市長》[第17代]大橋博(04/09→)

  01/14長崎県商工会議所連合会が設立
     長崎商工会議所で各会議所の代表者が出席して開かれる
     規則、事業計画、収支予算を議決。会長に中部長崎会頭、副会長に北村佐世保会頭を選出し、新体制による連合会の発足をみる
     1947(昭和22)04/公職追放令により第12代中部会頭が辞任
  01/15日本初のヌードショー「ヴィーナスの誕生」が東京新宿の帝都座5階劇場にて上演される
     企画・演出はドイツ文学者の秦豊吉。ダンサーの甲斐三和(19)は上半身をあらわにする
     ダンサーは額縁をかたどった中で立ち、「額縁ショー」「名画ショー」などと呼ばれる
     ショーは黒いカーテンが開いてから閉じられるまでわずか4、5分の間という短いもの
     場内の観衆はかたずをのんで見守る
  01/25長崎県営バスを増発し、中止線を復活してほぼ戦前の状態となる
  01/コロムビアから渡辺はま子の歌による「雨のオランダ坂(A197)」が発売される
     作詞は菊田一夫、作曲は古関裕而
     松竹映画「地獄の顔」の主題歌4曲(雨のオランダ坂、長崎エレジー、夜霧のブルース、夜更けの街)のうちの1曲
     「雨のオランダ坂」は中国抑留生活を終えて帰国した渡辺はま子の最初の吹き込み
     映画「地獄の顔」は劇作家菊田一夫の原作で水島道太郎に月岡夢路、千秋の姉妹が初競演
     雨とオランダ坂をぴったり結びつけて昇華させた歌のはしり
     片面は伊藤久雄の歌による「夜更けの街」。作詞は菊田一夫、作曲は古関裕而
  02/04長崎市岩屋町666番地に長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が開設
     生活保護法による孤児収容施設として発足
     初代寮長の餅田千代は男女2人の子どもを育てながら寮生からお母さんと親しまれる
     定員50人、廃材などで建設される
     04/01児童福祉法の実施にともない県立の養護施設「向陽寮」と改称
  02/06西浜町の長崎最大のヤミ市で違反が目立つため警察が急襲、250人が検挙
  02/10山里小学校で脱脂粉乳による副食のみの学校給食が開始
     のち順次、学校給食が広がる
  02/21長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
     04/01町内連合会、町内会、隣組が廃止
  02/「長崎醤油味噌醸造工業組合」が長崎醤油味噌工業組合へ改称
     1950(昭和25)04/長工醤油味噌有限会社へ商号変更
  02/テイチクからディック・ミネ、藤原千多歌による「長崎エレジー(412)」が発売される
     作詞は島田磬也、作曲は大久保徳二郎
     松竹映画「地獄の顔」の主題歌4曲(雨のオランダ坂、長崎エレジー、夜霧のブルース、夜更けの街)のうちの1曲
     「エレジー」は「悲歌」「哀歌」と訳されるが、日本の流行歌に「エレジー」が付いたのは初めての歌
     片面はディック・ミネの歌による「夜霧のブルース」。作詞は島田磬也、作曲は大久保徳二郎
  03/30長崎県自動車局が労働組合を結成
     1948(昭和23)10/長崎県交通局が従業員組合を結成
     1953(昭和28)04/04長崎県交通部労働組合が結成
  03/31学校教育法(昭和22年法律第26号)により国民学校令が廃止
  03/米国原子力委員会の資金により米国学士院(NAS)が原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立
     広島赤十字病院の一部を借り受けて「原爆障害調査委員会(広島ABCC)」が開設。血液学的研究を開始
     1948(昭和23)07/長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「原爆障害調査委員会(長崎ABCC)」が設立
     厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
  04/01磨屋国民学校が長崎市立磨屋小学校と改称
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で1階全教室が1.2〜1.5米まで水没
  04/01勝山国民学校が長崎市立勝山小学校と改称
     1982(昭和57)07/23運動場が長崎大水害の臨時塵芥集積所となる
  04/01新興善国民学校が長崎市立新興善小学校と改称
     1950(昭和25)10/医科大学付属病院の全科の病室(入院)が坂本町の現在地に移る
     新興善小学校に外来診療所を設置
  04/01上田町の長崎市大浦国民学校が長崎市立南大浦小学校と改称
     1954(昭和29)07/16新校舎落成。及び創立50周年記念式を挙行
  04/01長崎市浪平国民学校が長崎市立浪平小学校と改称
     1954(昭和29)01/24上部運動場が落成
  04/01長崎市岩屋町666番地の長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が県立の養護施設「向陽寮」と改称
     児童福祉法の実施にともなう措置
     1955(昭和30)03/寮舎基礎沈下腐朽のため基礎工事ならびに腐朽部の改修工事に着手
  04/02差別事件についての謝罪状がだされる
     長崎靴工業協同組合と長崎市西彼靴修理工業協同組合あて
  04/18高島中学校が開校する
     1948(昭和23)10/01町制施行により高島町立高島中学校と名称が変更になる
     1964(昭和39)最高在籍生徒数約1700名を記録
     1986(昭和61)11/27炭鉱閉山等により生徒数が激減
     1995(平成07)04/01小学校と中学校が中学校の地に併設される
  04/24復員輸送のため国鉄が大村線南風崎から早岐経由で東京・上野までの臨時列車を運行
     南風崎発15時40分上野着(翌)06時23分
     南風崎〃17時30分東京〃(〃)06時28分
     南風崎〃00時45分東京〃(当)18時40分
  04/30長崎市南山手町5番地に「長崎海洋気象台」が創立
     場所は南山手の旧長崎要塞司令部跡地(ロシア領事館跡)
     07/19開庁式が執り行なわれる
     1949(昭和24)06/01「長崎測候所」が廃止
     業務は1947(昭和22)04/30創立の長崎海洋気象台が受け継ぎ統合される
  04/公職追放令により長崎商工会議所の第12代中部会頭が辞任
     1947(昭和22)04/第13代会頭に脇山勘助が就任
    1950(昭和25)03/11煉瓦造り地下1階、地上2階建、延べ630坪の所屋が全焼
  04/独占禁止法・労働関係基準法・地方自治法が公布
  05/03日本国憲法の施行とともに華族の称号制度が廃止となる。貴族制度の禁止と法の下の平等が定められる
     華族制度は1869(明治02)07/25《06/17》に制定される
     従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し華族となる
     華族は皇族の下、士族の上に置かれた族称。日本近代の貴族階級のこと
  05/03GHQの指示で金鵄勲章の制度が廃止となる
     金鵄勲章は武功抜群な陸海軍人に与えらる。功1級から功7級に至る
     1890(明治23)02/11(紀元節)に制定される
  05/09買い出し客130人を乗せた渡海船「幸丸」(13瓲)が亀岳村に向け時津港を出港
     途中、村松村沖合い100米で激浪により傾き沈没
     定員60人の「幸丸」に乗っていたのは、ほとんどが長崎市内からの買い出し客
     身動きできぬほどに詰め込まれ船底の人は脱出できず、溺死21人、行方不明50人の犠牲者をだす
  05/西浜町のレストラン「精洋亭」を継承
     1959(昭和34)06/原爆による補修修理と共に県側の要請により「精洋亭」を改装
     階下をレストラン、2階を18室25人収容の洋式ホテル「精洋亭ホテル」として業務開始
  06/尾上町の旧位置に漁港施設が復旧
     荷揚場、荷捌場、事務所等、延1160坪の魚市場施設と
     浮桟橋2基、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧
  06/元船町海岸通りに水産倉庫7棟が完成
  06/長崎魚市組合が出資金300万円で設立
  06/長崎経済復興会議が設立される
  07/12森伊土建が●●町にて設立
     1948(昭和23)02/16三光商事へ商号を変更。主に食用添加物を販売する
     1950(昭和25)06/07(株)中山洋行へ商号を変更
     1950(昭和25)米進駐軍からの払い下げコーヒーを販売
     1952(昭和27)コーヒー自家焙煎を開始
     1970(昭和45)08/店舗を●●町から新地町へ移転
  07/23長崎市立長崎病院に隔離中の伝染病患者は41人と発表される
  07/29長崎県自動車局が長崎県交通局と改称
     1948(昭和23)05/11長崎県交通局を長崎県公共事業部と改称
  08/コロムビアから霧島昇、音丸の歌による「長崎盆踊り歌(PR106、PRE1417)」が発売される
     作詞は小川流太郎、作曲は古関裕而
     一般募集で入選した作詞者は朝日新聞長崎支局の記者
     (PR106)の片面は藤山一郎、渡辺はま子の歌による「霧の長崎」。作詞は白浜一路、作曲は仁木多喜雄
  08/09長崎市連合青年団が本大工町の市民グランドで「平和盆踊り大会」を開催
     「長崎盆踊り歌」が披露される
  09/01午前08時、長崎バス(株)の大瀬戸発長崎行きバスが30人の乗客を乗せ時津の打坂峠を登る
     バスは車体の後ろに大きな釜をつけ木炭を焚いて走る木炭バス
     打坂峠は未舗装で勾配が20度もある急な坂道。バスの運転手から「地獄坂」と呼ばれる
     打坂峠頂上まで少しのところでバスのギアシャフトが外れる
     運転手はサイドブレーキを引くがブレーキは効かず、バスは急な坂をズルズルと後ろ向きに下がりはじめる
     運転手はバスを停めようと必死になるがバスはドンドン下がる
     運転手は車掌に「鬼塚!すぐ降りろ!石ころを車の下に敷け!」と絶叫
     鬼塚車掌はバスから飛び降り、手近にあった石を車輪の前に置きバスを停めようと必死
     バスは急な加速度的に勢いをつけて下り、車輪は石を乗り越えて輪止めの役を果たさず
     バスは高さ20米の険しい崖に迫る。もし崖からバスが落ちたら…。乗客はなすすべもなくパニックに
     「こいは、おしまいばい!」乗客皆が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリで停止
     運転手と乗客はホッと胸をなで下ろす
     運転手はバスから降り「鬼塚!」と叫ぶ。乗客の1人が「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」
     車輪の下を見ると鬼塚車掌が車輪の下に横たわったまま
     鬼塚車掌は自分の体を輪止めにしてバスを停め、崖からの転落を防ぐ
     鬼塚道男車掌は、病院での必死の手当てのかいもなく21才の若い生涯を閉じる
  09/15長崎県営バスの長崎〜雲仙直行便が復活
  09/西浜町新地通り西浜町42番地の常設活動写真館「電気館」の跡地に松竹配給洋画系の「松竹国際映劇」が設立
     1966(昭和41)10/01東洋美装店が長崎松竹映画劇場跡に完成した地下1階から地上8階建の6階までをS東美と改称し開店
     7、8階は長崎松竹映画劇場
  10/08「長崎くんち」。8時奉納踊、13時神輿渡御、市中一巡のち還御。御旅所はなし
     (5)…丸山町(本踊)
     丸山町を除き踊町辞退。立方6人、地方6人で、芸妓衆は芸名でなく本名で出演
     踊りの外題は「国栄祝舞衣(くにのさかえいおうまいぎぬ)」で焦土日本の繁栄を祈念
     桟敷はないが長坂その他周囲は黒山の人だかりで熱狂
     踊りは伊勢宮、八坂神社のあと商工会議所、県庁、長崎軍政府(新大工町・旧長崎会館)前でも踊る
  10/10北松浦郡鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
     1949(昭和24)01/01北松浦郡調川村に町制が敷かれ調川町となる
  11/03壱岐郡田河村に町制が敷かれ田河町となる
     1955(昭和30)02/11壱岐郡鯨伏村と勝本町が合併し勝本町となる
     壱岐郡初山村、柳田村、志原村、渡良村、沼津村、武生水町が合併し郷ノ浦町となる
  12/戦争の激化によって中断していた長崎県のイワシ缶詰製造が復活
     原料のイワシが全国的に不漁のなか本県がイワシの豊漁に恵まれ原料入手が容易であったため
     以降、日本食品製造所、大興食品(株)(のち長崎漁業)など缶詰業界に新しい企業が続々と誕生
  米軍長崎軍政府が出島の三菱会館から桜馬場へ移転
  日本通運株式会社の日通元船町倉庫7棟のうち1〜5号棟が建替えられる
  新町の長崎女子商業学校が栄町に移転
  純心中学校が現在の地に新制の開校
     1948(昭和23)純心女子高等学校が開校
  浦上刑務所の仮庁舎が西郷字塚原(現白鳥町)の三菱精機寮跡にできる
     1949(昭和24)03/庁舎1楝、房舎1楝、付属建物が竣工
     1949(昭和24)04/諫早から被告人を移し開庁
     その後長崎刑務所長崎拘置所と改称
     1971(昭和46)規模を縮小、鉄筋コンクリート2階建の庁舎と5階建の房舎を建設
     未決囚のみの収監を行なうようになる
  立神に浄正寺が創建
  聖フランシスコ診療所が木造建病舎(25床)を建設
     1949(昭和24)10/聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
     聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
     診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
  中島万利神父を中心に浦上天主堂本聖堂再建計画が立ち、信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
     1954(昭和29)浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
  市営交通船の園丸が平戸口運輸のチャーターとして田平〜平戸口航路に就航
  久米保が中町にみふね旅館を新築開業
     1961(昭和36)設備を増築
     「旅にでて心からの接待を受けるほど旅の印象を深めるものはない」と家族的なサービスに徹底
  前年の創設者平坂茂市の死去にともない、長女平坂米子が会社復興
     社名を平坂製薬株式会社とし、本社を金屋町に置く
     同年、鎮痛解熱剤「ヘデクパウダー」の全国での発売を再開
     1950(昭和25)全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
  進駐軍の影響でチューインガムが流行。代用原料を使ったチューインガムが市場に出回る
  山水荘が母峰政子の名義で恵美須町に創業
     父峰今朝吉は喜々津の古い地主の家に生まれ、米屋の経営で財を作る
     1956(昭和31)中央大学をでた峰今朝吉の長男峰敏昭が旅館の経営を引き継ぐ
     1967(昭和42)10/それまでの木造建築を解き鉄筋8階建の旅館を落成。新時代の経営に切り替える
     のちさらに別館8階、地下1階の建設に踏み切る
     のちホテル山水荘を完成
     長崎国体を控え大浴場、大広間、本格的な売店、バー、新婚旅行客向けのデラックスな部屋、8階の展望所などを備える
  社長小村良治により恵美須町で太平水産加工が発足
     1953(昭和28)1909(明治42)茂木生まれの山口吉太郎が社長となり社名を太平蒲鉾に
     1955(昭和30)社名を山吉水産と改称
     電化焼蒲鉾が独特で、ちくわ、板付けなどを作り長崎有数の店として知られる
  浦上川の大橋町〜駒場町を結ぶ下大橋の欄干を修理
     1981(昭和56)03/全面架け替え
  中国から引き揚げてきた峰眞直が雲仙こぶ高菜の種子を持ち帰り吾妻町で栽培開始
  島原、広馬場の3階建の料亭氷家を創業者、岩本一男が7・5制令により廃業
     氷家の由来は貨車のない時代、岩本の祖父が雲仙普賢岳の氷を熊本、佐賀方面まで船で運んでいたことから
     料亭屋号の氷家から名前をとり南島原駅前に旅館幸利屋を開業
     1963(昭和38)経営をユースホステルのシステムにかえる
  柴田漢三の晧台寺稲佐説教所が大龍山泰三寺と寺号公称することに。法地寺院に昇格
     開基開山は大龍(柴田)漢三
  西坂食料品店が浜町に移り再スタート
     和洋酒、食料品のほか土産品部を新たに設け、観光みやげ品の販売に力を入れる
     県内の特産品がならび、壱岐のうに、壱岐の焼酎「山の守」、長崎のからすみなど、珍味を集める
     もともと西坂食料品店は1919(大正08)、榎津町に食料品、乾物、洋酒、ビールの卸小売店として創業
     第2次世界大戦中には企業統合で肥塚酒店食料品部と合併、株式会社菊屋食料品店に機構をかえ食料品の配給業務を行なう
  池月旅館が原爆で焼かれたため小林重守は木材商を営む
     1954(昭和29)木材商を廃し恵美須町で旅館えび屋をはじめる
  占領下、道路交通取締法が制定され「人も車も左側通行」と決められる
     1949(昭和24)05/04GHQの指導により道路交通取締法で「車の通行は左、人の通行は右」と規定
  この年、長崎市の赤痢発生状況113(死亡20)

1948(昭和23)【昭和】 戊子(つちのえね)


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