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〈明治時代(6)〉

1889(明治22)【明治】 己丑(つちのとうし)

  《総理大臣》[第2代]黒田清隆(→10/25)
        [黒田内閣]黒田清隆の単独辞任により内大臣三條實美が兼任(10/25→12/24)
        [第3代]山縣有朋(12/24→) 
  《知事》[第8代(官選)]日下義雄(→12/26)、[第9代(官選)]沖守固(12/26→)
  《市長》[第1代]北原雅長(06/08→)

  01/22臨時長崎区議会で区立水道敷設案を可決
     01/25長崎区長の金井俊行が水道敷設工事を県に委託
  01/「中外物価新報」が「中外商業新報」に改題
     1942(昭和17)11/01政府の新聞統合令により「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。「日本産業経済」と改題
     のちの「日本経済新聞」
  02/02岩原郷(のちの県立美術館の地)の県立長崎商業学校がふたたび長崎区に移管され長崎商業学校となる
     04/01長崎区が長崎市と改まるが市立を冠せず長崎商業学校として校名を残す
     1891(明治24)09/県より無償貸与された新町の尋常師範学校校舎跡地へ移転
  02/11大日本帝国憲法が公布される
  02/11大日本帝国憲法のなかに「信教の自由」が条文化される
     愚昧な農民に過ぎないと思われた人々の信仰に殉ずる無抵抗の抵抗が因縁となり個人の信仰と良心を尊重する近代性をもたらす
     憲法制定のときの伊藤博文の意見が大日本帝国憲法第28条の信教の自由条文となって具体化
     「その国君或は政府で、その国人民の天有の公権を束縛し、或は奪うなど野蛮の風習は固より禁ずる所」
  02/11大日本帝国憲法発布当日。長崎公園で1万余人の祝宴が開かれる
     西道仙が発起人総代となり「ケンポウハツプヲシユクシテマンザイ」の電報を宮内大臣に献じる
  03/22日刊の新聞「長崎商報」が平戸町で創刊。初代社長は
     社主に加悦章平、松尾己代治、加藤重奉。幹部には丹羽末広、笹山光太郎、石川良道ら
     のち廃刊
  03/31パリのシャン・ド・マルスの広場に立つ鉄塔「エッフェル塔」の落成式が行なわれる
     第4回パリ万国博覧会にあわせて建設され、フランス人技師エッフェルが設計
     旗部を含める高さは312.3米で世界一高い建造物
     展望台は3つ。高さは57.6米、115.7米、276.1米である。第2展望台までは階段でも昇ることが可能
  04/01長崎区と上長崎村、下長崎村の各一部が合併、長崎市が成立(初代市長北原雅長)
     推定面積7平方粁(推)、戸数9230【一説に1万0135戸】、人口5万4502
     上長崎村の内船津郷、馬場郷の全部、西山郷、岩原郷、片淵郷、夫婦川郷、伊良林郷の一部
     下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各一部を市域に編入。長崎区90町が合併
     1898(明治31)10/01小松原知事が人口増加にともない村民の反対を押しきり長崎市が市域を拡張(第1次
     上長崎村の船津郷、岩原郷、西山郷、馬場郷、中川郷、伊良林郷の各一部
     下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各全域、戸町村の大浦郷、浪之平郷、下郷の各全域
     浦上山里村の馬込郷、里郷の各一部、浦上淵村の全域、小榊村木鉢郷の一部を市域に編入
     16.00平方粁(推)、戸数1万6559、人口11万3307となる[1898(明治31)12/31現在]
     編入された区域の人口は3万9333人[1897(明治30)12/31現在]
     1920(大正09)10/01長崎市の第2次市域拡張により西彼杵郡上長崎村と浦上山里村を市域に編入
     41.10平方粁、戸数3万3240、人口23万2912となる[1920(大正09)12/31現在]
     上長崎村・浦上山里村(推)24.00平方粁3226戸1万6830人[1919(大正08)12/31現在]
     1938(昭和13)04/01長崎市の第3次市域拡張により西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村を市域に編入
     90.54平方粁、戸数4万8270、人口26万8945となる[1938(昭和13)12/31現在]
     小榊村2.05平方粁、640戸、3741人(男1921・女1820)
     土井首村13.93平方粁、657戸、3880人(男1872・女2008)
     小ケ倉村9.78平方粁、425戸、2289人(男1135・女1154)
     西浦上村23.68平方粁、877戸、4665人(男2255・女2410)
     [拡張区域は1937(昭和12)12/31現在]
     1950(昭和25)04/01長崎市の第4次市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
     90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
     福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
     1955(昭和30)01/01長崎市の第5次市域拡張により西彼杵郡福田村と深堀村を市域に編入
     114.23平方粁、戸数6万4231世帯、人口29万2765となる[1955(昭和30)01/31現在]
     福田村21.47平方粁、992世帯、5431人(男2641・女2790)
     深堀村21.8平方粁、1222世帯、6097人(男3026・女3071)
     [拡張区域は1954(昭和29)03/31現在]
     1955(昭和30)02/01長崎市の第6次市域拡張により西彼杵郡日見村を市域に編入
     121.32平方粁、戸数6万4988世帯、人口29万6323となる[1955(昭和30)02/28現在]
     日見村7.09平方粁、666世帯、3462人(男1736・女1726)
     1962(昭和37)01/01長崎市の第7次市域拡張により西彼杵郡茂木町と式見町を市域に編入
     165.41平方粁、戸数8万9692世帯、人口37万2027となる[1962(昭和37)01/31現在]
     茂木町34.30平方粁、2661世帯、1万4272人(男6983・女7289)
     式見村9.79平方粁、1404世帯、8048人(男3949・女4099)
     [拡張区域は1960(昭和35)12/31現在]
     1963(昭和38)04/20長崎市の第8次市域拡張により西彼杵郡東長崎町を市域に編入
     206.62平方粁、戸数9万6743世帯、人口39万2072となる[1963(昭和38)04/30現在]
     東長崎町41.21平方粁、2919戸、1万5490人(男7546・女7944)[1963(昭和37)07/31現在]
     1973(昭和48)03/31長崎市の第9次市域拡張により西彼杵郡三重村を市域に編入
     238.12平方粁、戸数12万4968世帯、人口43万1181となる[1973(昭和48)03/31現在]
     三重村30.02平方粁、1198世帯、5190人[1972(昭和47)12/31現在]
     1973(昭和48)04/01長崎市の第10次市域拡張により西彼杵郡時津町の横尾・巡り両地区を市域に編入
     239.03平方粁、戸数12万5492世帯、人口43万3196となる[1973(昭和48)04/01現在]
     時津町の一部0.91平方粁、524世帯、2015人[1972(昭和47)12/31現在]
     1997(平成09)04/01長崎市が中核市に指定される
     日本の大都市制度のひとつ。ほかには政令指定都市・特例市の別がある
     いずれも都市の規模に応じて、市に都道府県の事務権限の一部を移譲する制度
     中核市は日本の地方公共団体のうち、地方自治法第252条の22第1項に定める政令による指定を受けた市
     指定要件は法定人口が30万人以上であること
     所属する都道府県の議会と、その市自身の市議会の議決を経て総務大臣へ指定を申請
     九州では1996(平成08)04/01の熊本市、鹿児島市に次いで、大分市と同時指定
     2005(平成17)01/04長崎市の第11次市域拡張により
     338.72平方粁、戸数18万2519世帯、人口44万7103となる[2005(平成17)01/04現在]
     香焼町4.51平方粁1674世帯4200人(男1915・女2285)、高島町1.34平方粁432世帯778人(男349・女429)
     伊王島町2.26平方粁460世帯879人(男398・女481)、野母崎町20.93平方粁2715世帯7420人(男3422・女3998)
     三和町21.74平方粁4213世帯1万1925人(男5530・女6395)、外海町46.62平方粁2459世帯5401人(男2544 2857)
     2006(平成18)01/04長崎市の第12次市域拡張により
     406.35平方粁、戸数18万4119世帯、人口45万4739となる[2006(昭和18)10/01現在]
     琴海町67.63平方粁4146世帯1万2457人(男5946・6511)[2006(昭和18)01/04現在]
  04/01長崎市と同時に生まれた市は全国で31市
     九州では福岡、久留米、佐賀、熊本、鹿児島の各市
  04/01市制・町村制の施行により対馬以外の長崎県に8つの郡ができる
     東彼杵郡に22の村と1つの町ができる、西彼杵郡に48の村と1つの市ができる
     南高来郡の島原半島に28の村と2つの町ができる、北高来郡に18の村と1つの町ができる
     南松浦郡(五島列島)に20の村ができる、北松浦郡に36の村と1つの町ができる
     壱岐島に壱岐郡(5つの村)、石田郡(7つの村)の2郡ができる
     1908(明治41)04/01島嶼に町村制が施行され対馬島に下県郡上県郡ができる
     東彼杵郡に22の村と1つの町ができる
     三浦村、鈴田村、大村、西大村、萱瀬村、竹松村、福重村、松原村、千綿村、彼杵村、川棚村、下波佐見村、
     上波佐見村、宮村、広田村、崎針尾村、江上村、早岐村、折尾瀬村、日宇村、佐世保村、大村町
     1902(明治35)03/18佐世保村の一部が佐世村として分立
     1902(明治35)04/01佐世保村に市制が敷かれ佐世保市となる
     1904(明治37)04/01日宇村の一部が佐世保市に編入される
     1923(大正12)04/01早岐村に町制が敷かれ早岐町となる
     1925(大正14)04/01大村と大村町が合併し大村町となる
     1927(昭和02)04/01広田村が早岐町に編入される
     佐世村と日宇村が佐世保市に編入される
     1934(昭和09)11/03川棚村に町制が敷かれ川棚町となる
     上波佐見村に町制が敷かれ上波佐見町となる
     1939(昭和14)11/03西大村、竹松村、大村町が合併し大村町となる
     1940(昭和15)11/03彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
     1942(昭和17)02/11三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し大村市となる
     1942(昭和17)05/27早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
     1955(昭和30)04/01折尾瀬村、江上村、崎針尾村が佐世保市に編入される
     1956(昭和31)06/01下波佐見村と上波佐見町が合併し波佐見町となる
     1958(昭和33)08/01宮村が佐世保市に編入される
     1959(昭和34)05/01彼杵町と千綿村が合併し東彼杵町となる
     1963(昭和38)07/01東彼杵町一部が大村市に編入される
     西彼杵郡に48の村と1つの市ができる
     面高村、瀬川村、七釜村、大串村、多以良村、瀬戸村、雪浦村、亀岳村、長浦村、神浦村、黒崎村、
     村松村、三重村、時津村、長与村、伊木力村、大草村、喜々津村、西浦上村、式見村、福田村、
     矢上村、日見村、上長崎村、浦上山里村、淵村、下長崎村、戸町村、茂木村、小ケ倉村、土井首村、
     深堀村(深堀、大篭、香焼が合併)、蚊焼村、為石村、川原村、高浜村、脇岬村、野母村、樺島村、
     高島村、伊王島村(伊王島と沖之島が合併)、松島村、黒瀬村、崎戸村、江島村、平島村、長崎市
     1898(明治31)07/01淵村の一部が小榊村に分立する
     西彼杵郡深堀村の一部が香焼村に分立する
     1898(明治31)10/01淵村の一部が浦上山里村に編入される
     西彼杵郡下長崎村、戸町村、淵村の一部、上長崎村の一部が長崎市に編入される
     1919(大正08)10/01茂木村に町制が敷かれ茂木町となる
     1920(大正09)10/01西彼杵郡上長崎村と浦上山里村が長崎市に編入される
     1928(昭和03)06/01瀬戸村に町制が敷かれ瀬戸町となる
     1931(昭和06)10/01崎戸村に町制が敷かれ崎戸町となる
     1938(昭和13)04/01小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村が長崎市に編入される
     1948(昭和23)10/01高島村に町制が敷かれ高島町となる
     1949(昭和24)04/01黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
     1950(昭和25)05/01福田村の一部が長崎市に編入される
     1951(昭和26)12/01時津村に町制が敷かれ時津町となる
     1955(昭和30)01/01深堀村と福田村が長崎市に編入される
     1955(昭和30)02/01日見村が長崎市に編入される
     1955(昭和30)02/11矢上村と北高来郡古賀村、戸石村が合併し東長崎町となる
     多以良村、瀬戸町、雪浦村、松島村が合併し大瀬戸町となる
     神浦村、黒崎村が合併し外海村となる
     為石村、川原村、蚊焼村が合併し三和町となる
     伊木力村と大草村と喜々津村が合併し多良見村となる
     1955(昭和30)04/01面高村、七釜村が合併し西海村となる
     高島町と高浜村の一部が合併し高島町となる
     野母村、脇岬村、樺島村、高浜村の一部が合併し野母崎町となる
     1956(昭和31)09/01江島村と平島村が崎戸町に編入される
     1957(昭和32)03/31西海村と瀬川村が合併し西海村となる
     1959(昭和34)01/15村松村の一部が時津町に編入される
     長浦村と村松村の一部が合併し琴海村となる
     1960(昭和35)05/03外海村に町制が敷かれ外海町となる
     1961(昭和36)06/29亀岳村と大串村が合併し西彼村となる
     1961(昭和36)11/03香焼村に町制が敷かれ香焼町となる
     1962(昭和37)01/01西彼杵郡茂木町と式見町が長崎市に編入される
     1962(昭和37)05/20伊王島村に町制が敷かれ伊王島町となる
     1963(昭和38)04/20東長崎町が長崎市に編入される
     市域が206.62平方米、人口が39万2886人となる
     1965(昭和40)11/23多良見村に町制が敷かれ多良見町となる
     1969(昭和44)01/01西彼村に町制が敷かれ西彼町となる
     西海村に町制が敷かれ西海町となる
     琴海村に町制が敷かれ琴海町となる
     長与村に町制が敷かれ長与町となる
     1973(昭和48)03/31三重村が長崎市に編入される
     2005(平成17)01/04香焼町、伊王島町、高島町、野母崎町、三和町、外海町と長崎市が合併
     2005(平成17)03/01多良見町と北高来郡森山町、飯森町、高来町、小長井町と諫早市が合併し諫早市となる
     2005(平成17)04/01西彼町、西海町、大島町、崎戸町、大瀬戸町が合併し西海市となる
     2006(平成18)01/04琴海町が長崎市に編入される
     南高来郡の島原半島に28の村と2つの町ができる
     愛野村、山田村、守山村、古部村、伊福村、西郷村、神代村、土黒村、多比良村、湯江村、大三東村、
     三会村、杉谷村、島原村、安中村、深江村、布津村、堂崎村、東有家村、西有家村、北有馬村、
     南有馬村、口之津村、加津佐村、南串山村、北串山村、小浜村、千々石村、島原町、湊町
     1924(大正13)04/01島原村と島原町、湊町が合併して島原町となる。南高来郡小浜村に町制が敷かれ小浜町となる
     1926(昭和01)07/01古部村と伊福村が合併し大正村となる
     1927(昭和02)01/01東有家村に町制が敷かれ有家町となる
     1927(昭和02)04/01西有家村に町制が敷かれ西有家町となる
     1928(昭和03)01/01加津佐村に町制が敷かれ加津佐町となる
     1928(昭和03)04/01口之津村に町制が敷かれ口之津町となる
     1928(昭和03)11/01千々石村に町制が敷かれ千々石町となる
     1932(昭和07)01/01南有馬村に町制が敷かれ南有馬町となる
     1937(昭和12)02/11多比良村に町制が敷かれ多比良町となる
     1940(昭和15)04/01島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる
     1949(昭和24)08/01愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
     1954(昭和29)04/01山田村と守山村が合併し吾妻村となる
     1955(昭和30)02/11北串山村と小浜町が合併し小浜町となる
     1955(昭和30)04/01大三東村と湯江村が合併し有明村となる
     三会村が島原市に編入される
     1956(昭和31)09/01土黒村と多良見町が合併し国見町となる
     1956(昭和31)09/25大正村、西郷村が合併し瑞穂村となる
     1956(昭和31)09/30堂崎村と有家町が合併し有家町となる
     1957(昭和32)03/22神代村が国見町に編入される
     1961(昭和36)11/03有明村に町制が敷かれ有明町となる
     1962(昭和37)05/03深江村に町制が敷かれ深江町となる
     1963(昭和38)04/01吾妻村に町制が敷かれ吾妻町となる
     1969(昭和44)04/01瑞穂村に町制が敷かれ瑞穂町となる
     南串山村に町制が敷かれ南串山町となる
     北有馬村に町制が敷かれ北有馬町となる
     布津村に町制が敷かれ布津町となる
     2005(平成17)10/11国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、千々石町、小浜町、南串山町が合併し雲仙市となる
     2006(平成18)01/01有明町が島原市に編入される
     2006(平成18)03/31加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町、深江町が合併
     南島原市となる
     北高来郡に18の村と1つの町ができる
     古賀村、戸石村、田結村、真津山村、小栗村、江ノ浦村、有喜村、小野村、森山村、
     諫早村、北諫早村、本野村、長田村、深海村、小江村、湯江村、小長井村、諫早町
     藩政時代には北高来郡内に50余りの村があった
     1923(大正12)04/01北高来郡北諫早村と諫早村、諫早町が合併して諫早町となる
     1940(昭和15)09/01小栗村、小野村、有喜村、真津山村、本野村、長田村、諫早町が合併し諫早市となる
     1940(昭和15)11/03湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
     1955(昭和30)02/11江ノ浦村と田結村が合併し飯森村となる
     1955(昭和30)02/11古賀村、戸石村と西彼杵郡矢上村が合併し東長崎町となる
     1956(昭和31)09/20深海村、小江村、湯江村が合併し高来町となる
     1965(昭和40)04/01飯森村に町制が敷かれ飯森町となる
     1966(昭和41)11/01小長井村に町制が敷かれ小長井町となる
     1969(昭和44)04/01森山村に町制が敷かれ森山町となる
     2005(平成17)03/01森山町、飯森町、高来町、小長井町と西彼杵郡多良見町と諫早市が合併し諫早市となる
     南松浦郡(五島列島)に20の村ができる
     玉之浦村、富江村、三井楽村、岐宿村、大浜村、本山村、崎山村、福江村、奥浦村、久賀島村、
     樺島村、奈留島村、日島村、若松村、奈良尾村、有川村、浜ノ浦村、青方村、魚目村、北魚目村
     1919(大正08)10/01福江村(福江島)に町制が敷かれ福江町となる
     1922(大正11)09/01富江村(福江島)に町制が敷かれ富江町となる
     1933(昭和08)11/03玉之浦村(福江島)に町制が敷かれ玉之浦町となる
     1934(昭和09)10/17有川村(中通島)に町制が敷かれ有川町となる
     1940(昭和15)11/03三井楽村(福江島)に町制が敷かれ三井楽町となる
     1941(昭和16)04/01青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
     1941(昭和16)04/03岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
     1943(昭和18)12/08奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
     1954(昭和29)04/01奥浦村、崎山村、本山村、大浜村、福江町が合併し福江市となる
     1956(昭和31)06/01青方町、浜ノ浦村(中通島)が合併し上五島町となる
     1956(昭和31)09/25若松村、日島村(若松島)が合併し若松町となる
     1956(昭和31)09/30魚目村、北魚目村(中通島)が合併し新魚目町となる
     1957(昭和32)03/31樺島村(樺島)が福江市に編入される
     1957(昭和32)11/01久賀島村(久賀島)が福江市に編入される
     1957(昭和32)11/03奈留島村(奈留島)に町制が敷かれ奈留町となる
     2004(平成16)08/01奈留町(奈留島)、富江町、玉之浦町、三井楽町、岐宿町、福江市(福江島)が合併。福江市となる
     樺島、久賀島も福江市に含まれる
     若松町(若松島)、上五島町、新魚目町、有川町、奈良尾町(中通島)が合併し新上五島町となる
     北松浦郡に36の村と1つの町ができる
     山口村、中里村、皆瀬村、大野村、柚木村、世知原村、吉井村、佐々村、小佐々村、鹿町村、江迎村、南田平村、
     田平村、御厨村、星鹿村、志佐村、上志佐村、調川村、今福村、福島村、鷹島村、大島村、平戸村、生月村、中野村、
     紐差村、獅子村、中津良村、津吉村、志々伎村、黒島村、平村、神浦村、笛吹村、前方村、柳村、平戸町
     1921(大正10)11/01志佐村に町制が敷かれ志佐町となる
     1925(大正14)04/01平戸村と平戸町が合併し平戸町となる
     1926(昭和01)04/01笛吹村、前方村、柳村が合併し小値賀村となる
     1929(昭和04)04/01今福村に町制が敷かれ今福町となる
     1930(昭和05)04/03山口村に町制が敷かれ相浦町となる
     1938(昭和13)04/01相浦町が佐世保市に編入される
     1940(昭和15)02/11小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
     1940(昭和15)04/01江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
     1940(昭和15)04/17大野村に町制が敷かれ大野町となる
     生月村に町制が敷かれ生月町となる
     1940(昭和15)11/03世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
     1941(昭和16)01/01佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
     星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
     1942(昭和17)05/27中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
     1947(昭和22)10/10鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
     1949(昭和24)01/01調川村に町制が敷かれ調川町となる
     1949(昭和24)08/01平村に町制が敷かれ平町となる
     1950(昭和25)05/03小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
     1951(昭和26)12/01福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
     吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
     1954(昭和29)04/01南田平村、田平村が合併し町制が敷かれ田平町となる
     上志佐村、志佐町が合併し志佐町となる
     柚木村、黒島村が佐世保市に編入される
     1955(昭和30)01/01中野村、獅子村、紐差村、中津良村、津吉村、志々伎村と平戸町が合併し平戸市となる
     1955(昭和30)03/31新御厨町、志佐町、調川町が合併し松浦市となる
     1955(昭和30)04/01神浦村と平町が合併し宇久町となる
     1955(昭和30)04/15今福町が松浦市に編入される
     1958(昭和33)10/01鹿町(ししまち)町を鹿町(しかまち)町に改称
     1975(昭和50)01/01鷹島村に町制が敷かれ鷹島町となる
     2001(平成13)04/01佐世保市が特例市指定となる
     2005(平成17)04/01吉井町、世知原町が佐世保市に編入される
     2005(平成17)10/01大島村、生月町、田平町と平戸市が合併する
     2006(平成18)01/01福島町、鷹島町、松浦市が合併し松浦市となる
     2006(平成18)03/31宇久町、小佐々町が佐世保市に編入される
     壱岐郡石田郡の2郡ができる
     壱岐郡に香椎村、箱崎村、鯨伏村、那賀村、田河村の5つの村ができる
     石田郡に石田村、志原村、初山村、武生水村、渡良村、柳田村、沼津村7つの村ができる
     1896(明治29)04/01壱岐郡と石田郡が統合され壱岐郡となる
     1925(大正14)04/01武生水村に町制が敷かれ武生水町となる
     1935(昭和10)04/01香椎村に町制が敷かれ勝本町となる
     1947(昭和22)11/03田河村に町制が敷かれ田河町となる
     1955(昭和30)02/11鯨伏村と勝本町が合併し勝本町となる
     初山村、柳田村、志原村、渡良村、沼津村、武生水町が合併し郷ノ浦町となる
     1955(昭和30)04/01田河町と那賀村が合併し芦辺町となる
     1956(昭和31)09/30箱崎村が芦辺町に編入される
     1958(昭和33)04/01郷ノ浦町の一部が石田村に編入される
     1961(昭和36)04/01芦辺町の一部が石田村に編入される
     1970(昭和45)08/01石田村に町制が敷かれ石田町となる
     2004(平成16)03/01壱岐郡の郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町が合併し壱岐市となる
  04/22ダム工事反対派が多い中、工事に着手
     長崎は飲料水に適した川がなく井戸水に依存
     下水道の不備でコレラなど伝染病が発生すると汚染され大量の死者をだす
     知事は伝染病予防の衛生面から水道設備の必要性を力説
     また外人商社による「長崎の不衛生を改善しなければ引き揚げる」との外圧が決定的に
     反対派の理由は莫大な費用の負担
     第1回市議会では反対派の議長、副議長が選出
        1891(明治24)03/ダム式の本河内高部水源地が完成
     予算以下で完成したのは、工事に従った多数の囚人の手抜きのない堅実な仕事にある
     賛否両派の抗争はダム完成後も続く
        1891(明治24)05/16市民への水道共用栓の無料給水が始まる
     のち水道初使用による消火で類焼を免れた、反対派の旗頭上野屋旅館主が賛成派に転じ、流れを変える
     1893(明治26)賛成反対が5年ぶりに和解
  05/佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上と公示
     1889(明治22)07/佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
  05/徳川家歴代将軍を祀る東照宮が丸馬場上の高台に移る
     1897(明治30)05/社殿が建立される
  06/08天皇の裁可を得て北原雅長が初代長崎市長に就任
  06/11西彼杵郡内に赤痢が流行、患者3137人
  07/佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
     のち鎮守府司令長官には連合艦隊司令長官となる東郷平八郎中将や第1級の海軍指導者が歴任
     佐世保市民は、県知事の名を知らなくても鎮守府司令長官の名は知っていた
     1889(明治22)12/海兵団の第1回新兵入団をみる
  07/我国初の有料道路日見峠一等県道の道銭徴収を終了
  07/婦人矯風会が一夫一婦制確立の建白書を政府に提出
  08/09長崎市役所が開庁し6課8係53人の職員で発足
  08/西道仙が「長崎水道論」を発行。水道の必要性を訴える
  09/23自由民権を旗印に日刊の新聞「長崎新報」(現長崎新聞)が西浜町で創刊
     志波三九郎、家永芳彦らが同士と計り政治思想の普及を目指して創刊
     志波三九郎、家永芳彦らは民権拡張を唱えて長崎県改進党を組織していた
     長崎で唯一日刊新聞として発行の保守系「鎮西日報」に対抗して盛んに筆戦を試みる
     発行者・社長は改進党の家永芳彦
     1910(明治43)夏/編集上のミスで「長崎新報」が不敬事件に問われる
     連載ものの「昔の女」「今の女」に不敬罪に触れる内容のものがあり発行責任者は懲役6か月の刑を受ける
     長期発行停止の処分を受け更生策が立てられる
     1911(明治44)03/11「長崎日日新聞」と改題
     【03/18?】
  10/「長崎くんち」(4)…寄合町(本踊)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、
     築町(川船)、馬町(本踊)、大黒町(唐人船)、東上町(獅子踊)、八坂町(本踊)、
     東浜町(本踊・段尻)、東古川町(本踊)、本古川町(本踊・龍船)、銅座町(本踊)
  10/12築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階建のモダンな第十八国立銀行本店の新社屋が完成
     1889(明治22)12/01東濱町より移転。営業を開始
  10/18午後4時過ぎ、御前での閣議を終えた大隈重信が馬車で霞ケ関の官邸に向かう
     途中、馬車が外務省の門前にさしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の男が近づく
     馬車に爆弾を投げる
     右脚に重傷を負った大隈は憤然、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。膝の上に燃える断片を払う
     兇行におよんだ男は爆弾の破裂を見届けると即座に短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる
     大隈重信暗殺未遂事件
     のち大隈は佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手により右足切断手術を受ける
     犯人は日本の右翼活動家、テロリスト。筑前共愛公衆会で国家主義組織玄洋社の一員、来島恒喜(31)
  11/21東京市京橋区木挽町に初代歌舞伎座が開場する
     演劇改良運動の熱心な唱導者福地源一郎が自分たちの理想を実現すべく日本一の大劇場を目指しつくる
     外観は洋風、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人
     間口十三間(23.63米)の舞台を持つ大劇場
     1911(明治44)07/施設の老朽化と帝国劇場の出現を受け改造
     10/第2代の歌舞伎座が竣工
     第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施さる
     正面車寄せは唐破風造り、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造りに
     内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井となる
     1921(大正10)10/30漏電により焼失
     1923(大正12)09/01再建工事中に関東大震災に見舞われる
     1925(大正14)01/04第3代の大殿堂で開場式
     奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠
     鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築。設計は岡田信一郎
     正面大屋根の高さは100尺(約30米)、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18米)
     照明設備はアメリカとドイツから取り寄せる。内容外形ともに日本一を誇る大劇場に
     1945(昭和20)05/25東京大空襲で大屋根が落ち、外郭を残して内部を焼失
     1951(昭和26)01/03第4代の復興した建物で開場式(こけら落し)
     戦禍をまぬがれた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修。設計は吉田五十八
     外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現、同時に近代的な設備が取り入れられる
     客席数は桟敷、一幕見を含めて約2千席
     舞台間口15間(約27.6米)、廻り舞台の直径60尺(約18米)、大小合わせて4か所にセリがつく
  12/01第十八国立銀行が東濱町より築町の俵物役所跡のルネサンス様式で洋風煉瓦造2階建のモダンな新社屋に移転。営業を開始
     1890(明治23)国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川に支店開設
  12/佐世保鎮守府への海兵団の第1回新兵入団をみる
     1890(明治23)はじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
  木鉄混合橋の長久橋が架かる
  平戸町にて「長崎商報」が発刊
  中心部のエゴばたに柳などを植えて柳通りと呼ぶようになる
  南山手25番館に香港上海銀行長崎支店長社宅が建つ
     1966(昭和41)06/愛知県犬山市の明治村に移築のため解体。約37万3千円で売却
     1967(昭和42)02/14明治村で復元。九州から明治村入りした第1号の建物
  馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に長崎県尋常師範学校の校舎と寄宿舎を新築。男子部・女子部ともに移転
     1898(明治31)長崎県師範学校と改称。長崎県教員養成の基礎が確立
  松田源五郎、香坂留彦が長崎製氷会社を発足
     5瓲の製氷機械とラムネ製造機を九州で初めて設置
     のち幾度かの変遷を減る
     1928(昭和03)大日本製氷会社と合併
     冷凍能力10瓲、冷蔵能力10瓲の設備は九州随一
  カブリュー学校(加伯利英和学校)が鎮西学館と改称
     1906(明治39)私立鎮西学院に
  出島聖公会神学校隣接の出島教会(長崎監督教会、出島8・9番地)が解体
     1890(明治23)出島教会(長崎監督教会)が大村町に移る
     1893(明治26)出島聖公会神学校は教会跡地を含めて東側に宣教師宿舎を増築
     のち出島聖公会神学校は増改築や模様替えがされる
     明治末出島聖公会神学校は病院として使われる
  近代的水道の本河内水源地、高部水道が起工
     1891(明治24)03/近代的水道の本河内水源地、高部水道が落成
     日本全国で、1887(明治20)10/の横浜、1889(明治22)12/の函館に次いで三番目
     横浜、函館は河川取水式、長崎はダム築造の貯水池式で日本初
     1891(明治24)05/16市民への水道共用栓の無料給水が始まる
  ウラジオストク〜長崎の航路が神戸まで延長
     1907(明治40)04/敦賀起点の直行便が大阪商船により開設。長崎線が大きく後退
  西彼杵郡内に赤痢流行、患者3137
  東海道本線が全通
  上海のノースチヤイナー・デイリーニユースが雲仙を紹介
     上海、香港、南洋方面外人の避暑客を誘致する
  小浜、光泉寺へののぼりぐち角に旅館一角楼が創業
     1900(明治33)増加する外人客を対象に北本町に移転。小浜唯一のホテルとして発足
     1901(明治34)中国に北津事件が起こり、北京、天津方面から避難してきた外人で、ホテルは半年以上満員に
     1911(明治44)新館を増設
     1917(大正06)ロシア革命が起こる
     シベリア鉄道拡張のための資材を満載したアメリカの貨物船が長崎での待機を命じられる
     乗組員は雲仙、小浜に逗留。一角楼にも70余人が滞在
     まったく予定外の滞在客をうけて創業期における経営の基礎をつくる
     1934(昭和09)自家温泉のボーリングを開始
     2年半あまりの間に10本を掘り、うち2本から温泉が吹き上げる
     1964(昭和39)鉄筋6階建の一角楼観光ホテルを竣工
     1968(昭和43)08/旧館を解いて8階建800坪の建設を完成。「小浜観光ホテル」と改名
  大阪本社発行の「朝日新聞」が「大阪朝日新聞」と改題
     1940(昭和15)09/01大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を「朝日新聞」に統一
  本河内の野石造アーチ石橋(幻の石橋)が造成中の本河内高部水源地に水没する
     1978(昭和53)12/20本河内高部水源地に沈んでいた石橋が10年ぶりに姿をみせる。長崎市有形文化財に指定
  築町〜西浜町を結ぶ木鉄混交のポニー型プラットトラス橋の長久橋が中島川の変流に伴い木鉄混交橋に架け替えられる
     1899(明治32)鉄橋に架け替える
     橋長70尺(21.21米)、幅員18尺(5.45米)
  市内の赤痢患者350余。死亡は100余

明治中期

  長崎県でキャベツの栽培が開始される

1890(明治23)【明治】 庚寅(かのえとら)

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋
  《知事》[第9代(官選)]沖守固(→01/07)、[第10代(官選)]中野健明(01/07→)
  《市長》[第1代]北原雅長

  02/01初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
     議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
     03/長崎医会が東京で開催の第1回日本医学会に出席する長崎県医会総代として吉田健康、西道仙を選出
     長崎県医会が組織される
     1892(明治25)06/02長崎医会が開かれる
  02/11(紀元節)武功抜群な陸海軍人に金鵄勲章が与えらる。功1級から功7級に至る
     1947(昭和22)05/03GHQの指示で廃止となる
  03/08新大工の地に九州一の大劇場「舞鶴座」が起工
     11/02「舞鶴座」が落成開場
  03/27長崎公園(諏訪公園)が県営から市営になる
  05/01第1回国際メーデーが行なわれる
     ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ラテンアメリカの労働者が8時間労働制を要求
  05/西彼杵郡戸町村大浦の大浦小学校が東山町に校舎を新築。05/30開校式を行なう
     1892(明治25)05/高等科を加設し大浦尋常高等小学校と改称
  06/01県から05/09付の衛生組合準則が公布。町ごとに衛生組合を設けることになる。この年に50か町が結成
     主として清掃・消毒・伝染病予防など衛生行政の協力を目的として活動
     1933(昭和08)257組合に達する
  06/長崎にコレラが発生。全国に流行
     この年の長崎の患者858人、全国の患者4万6019人、死亡3万5227人
     内務省が長崎市をコレラの流行地に指定
  07/01第1回衆議院議員総選挙が行なわれる
     全国の千曲は257の小選挙区制で議員定数は300人
     選挙資格は25才以上の男子で府県内に1年以上住み、直接国税15円以上(または3年以上所得税15円以上)納めるもの
     そのため有権者は全人口のわずか1.24パーセント
     長崎県下は6選挙区にわかれ、定員は7人
     長崎県第1選挙区の例をみても有権者は長崎市58人、西彼杵郡で364人に過ぎず
     当選者は
     第1区(長崎市・西彼杵郡)……富永隼太(雪浦)、家永芳彦(長崎)
     第2区(東彼杵郡・北高来郡)…朝永慎三(大村)
     第3区(南高来郡)………………牧朴真(島原)
     第4区(北松浦郡)………………立石寛司(柚木)
     第5区(南松浦郡)………………宮崎栄治(福江)
     第6区(壱岐・対馬)……………相良正樹(対馬)
  08/08(初発〜)県下のコレラ患者1641人、うち死亡943人。赤痢も郡市で猖獗
  08/アメリカ改革派教会から教師として米人キャリー・B・ランターマンが派遣され来日
     直ちに長崎の梅香崎スタージーズ女学校で英語と体操の指導を担当
     1892(明治25)梅香崎スタージーズ女学校の校長に就任
     1892(明治25)09/10急病のため東山手14番地Aの自宅で30才で死去
     坂本国際墓地202番に埋葬され墓石は改革派教会婦人伝道局によって建立、日本初の宣教師の墓石
  09/07軽業師ポンテがナイアガラの滝の観望公園からゴート島へ渡る260米の橋の下に綱を張って綱渡り
  10/09フランスのクレマン・アデールが20馬力の蒸気機関を装備した単葉機「エオル号」を製作
     アデールはフランスの軍人であり、電気技術者でも
     アデールは地面から浮き上がり、飛行距離は50米と主張
     実際には50米走っただけのようで「初飛行」とは認められず
  11/02新大工の地に九州一の「舞鶴座」が落成開場
     瓊浦劇場株式会社を経営する本古川町の帯谷宗七が設立
     敷地1700坪、建坪600坪、総檜造り釣天井、二重廻り舞台、せり上げ、花道長13間半、3800人収容
     回り舞台が2面(蛇の目)あり、入口から座席までの下足扱いの廊下が工夫されている
     照明設備が不充分で午前8時開幕、午後6時終演
     1915(大正04)10/16「長崎劇場」と改称
     1917(大正06)06/29三菱合資会社所有の「中島会館」と改称
     1936(昭和11)廃館
     1989(平成01)中島会館が「トレディアホテル中島」に名称を変更
  11/03鹿鳴館のとなりに帝国ホテルが開業。総建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層
     設計は渡辺譲。総工費26万円。客室数約60。ビリヤード台、ダンスホールを備える
     室料は最下等50銭、2食付き2円50銭
     【11/20?】
     1912(明治45)総支配人の林愛作が旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の設計を依頼
     ライトはアメリカの建築家で20世紀建築界の巨匠といわれる
     1919(大正08)ホテルが失火から全焼する。新館の早期完成は経営上の急務に
     のち設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくはなる
     当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至り林は総支配人を引責辞任
     ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日
     1923(大正12)08/末ホテルの隣接地に新館(ライト館)が全館落成
     鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート構造、地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
     皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積3万4千平方米余の大建築
     中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配される
     全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がされる
     鷲が翼を広げたような巨大なホテルは小部分がいくつも繋ぎ合わされた連結構造
     建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組み
     大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用、耐震防火に配慮した画期的な設計
     09/01新館落成記念披露宴の準備中に関東大震災発生
     ホテルは小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せ、ひときわ人々の目を引くことに
  11/07渡御。「長崎くんち」(5)が日程変更11/09還御となる
  11/11東京浅草に12階建ての塔「凌雲閣」が開業
     名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味。浅草十二階、浅草凌雲閣とも
     発案は写真家で東京市議会議員の江崎礼二、設計者のウィリアム・K・バルトン
     東京の高層建築物の先駆けとして建築。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡す
     高さ173尺(約52米) 、建坪37坪(122.31平方米)。構造10階まで煉瓦造り、11、12階は木造
     入場料大人8銭、子供4銭
     1階は入口階、2〜7階は諸外国の物品販売店(計46店舗)、8階は休憩室、10〜12階は展望室
     1〜8階にかけて日本初のエレベータが設置される
     12階の展望室には望遠鏡が設置され、見料は1銭
     1891(明治24)05/開業当日よりエレベータの故障が頻発し使用中止に
     1923(大正12)09/01関東大震災により建物の8階部分より上が崩壊
     地震発生時、頂上展望台付近には12〜3人の見物者
     福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死する
     09/23経営難から復旧が困難であったため陸軍赤羽工兵隊の手で爆破解体され、その幕を閉じる
  11/29大日本帝国憲法の下での第1回帝国議会が開かれる
     1891(明治24)03/09第1回帝国議会が閉幕
     日本が立憲政治の第1歩を踏みだす
     帝国議会は貴族院と衆議院の2院で構成される
     貴族院は公選制ではなく皇族や華族と国に功績のあった人その他の中から天皇が任命する議員で組織
     定員は251人、そのうち皇族10人、5等爵のうち第1位の公爵10人、第2位の侯爵21人、第3位の伯爵14人
     第4位の子爵70人、第5位の男爵20人、天皇みずからの選定した勅選が61人、多額納税者が45人
  11/「朝野新聞」が「大阪毎日新聞」社長渡辺治に2万5千円で売り渡される
     1893(明治26)11/19第6052号をもって廃刊となる
  12/16日本で初めて東京と横浜に電話が開通。東京千代田区内に電話交換局が設置され業務を開始
     使われた電話機はベルギー製の単線式単式交換機
     加入者からの通話表示があると交換手はそのジャックにプラグを差し込み
     加入者の告げた通話相手のジャックにもう一方のプラグを差し込んで接続する
  港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事が完成
  アメリカから輸入された、錬鉄のピン結合のプラットトラス橋の新川口橋が架かる
     1910(明治43)06/玉江橋に接近し交通上存置の要が少なく撤去
     また木鉄混交橋の旧出島橋が老朽化したために、この新川口橋が出島橋に移設された
  ボールデンハウス貿易商会が竣工。木造2階建でヴェランダコロニアル建築
  松翁軒8代貞次郎はパリの大博覧会にカステラを出品。金牌を受賞
     のちセントルイス万国大博覧会にカステラを出品。名誉大金牌を受賞
  坂本町外人墓地が地元カトリック伝道団の要請により4つの区域がカトリック教徒の墓地に指定
     1892(明治25)ユダヤ人商人M・ギンズバーグとN・メスがユダヤ人墓地を購入
     背後に石造門や壁、鉄柵が施され整備
  長崎最初の海水浴場として鼡(ねずみ)島海水浴場会社が設立
     鼡島の名称は江戸時代に深堀の真北(十二支の子)の方角にあたるため子角(ねずみ)島
     あるいは作物ができないほど鼠が多かったため
     1903(明治36)07/「東洋日の出新聞」を創刊した鈴木天眼、西郷四郎が記念事業として「瓊浦遊泳協会」を設立
     市民皆泳武道鍛練の目的で長崎港口鼠島に遊泳場を設ける
     東洋日之出新聞の鈴木天眼が主唱し浜町の田中直三郎の援助による
     西郷四郎は協会師範となり青少年の心身の鍛練を行なう
     1903(明治36)新聞社内に協会事務所を置いて鼡島海水浴場で青少年の水泳指導を行なう
     発足当時の小中学生の正会員は810余人、そのほかあわせて1日平均1000人以上の参加があり盛況に
     1913(大正02)「瓊浦」が分かりづらく「長崎遊泳協会」と改称
     1972(昭和47)08/20第2次長崎外港埋立計画によりねずみ島が閉鎖されることになる
     最後の大名行列が行なわれる
     協会は松山町の市民プールに活動の場を移す
  第十八国立銀行本店の国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川に支店を開設
     1897(明治30)07/01国立銀行制度改革で株式会社十八銀行に転換。営業を継続
  長崎〜阿久根に汽船航路が開設
  端島砿が三菱合資会社として操業を開始
     1974(昭和49)01/15軍艦島」と呼ばれた三菱石炭鉱業高島砿業所端島砿で閉山式が挙行
     閉山の理由…1965(昭和40)10/から採炭中の三ツ瀬地区の坑道が海面下340米あり、埋蔵量が尽きたこと
     その他の地区も採掘が期待できず、これ以上の操業継続が不可能と判断
  倉場富三郎がペンシルヴェニア大学の自然科学部に入学。生物学を学ぶ
     1894(明治27)外国系商社ホーム・リンガー商会に入社
  出島教会宣教師(鎮西学院兼務)のH・B・ジョンソンが東浜町に講義所を創設
  日本人専用の出島教会(長崎監督教会)が大村町に移る
     1895(明治28)長崎聖三一教会と改称
  佐世保鎮守府へのはじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
  上野彦馬がウラジオストクに支店を開設
  木造白亜漆喰のゴシック様式沖之島天主堂が建立
  第1回衆議院議員総選挙実施
  第1回帝国議会開く
  外国誌「上海ノースチャイナデリーニュース」に雲仙が紹介され外国からの避暑客が増加する
  長崎にコレラが発生し、全国に流行、死亡3万5227。内務省は長崎市をコレラ流行地に指定
  東京麹町山下町の鹿鳴館の建物が宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用
     1894(明治27)06/20明治東京地震で被災

1891(明治24)【明治】 辛卯(かのとう)

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋(→05/06)、[第4代]松方正義(05/06→)
  《知事》[第10代(官選)]中野健明
  《市長》[第1代]北原雅長

  03/09大日本帝国憲法の下での第1回帝国議会が閉幕
     日本が立憲政治の第1歩を踏みだす
     帝国議会は貴族院と衆議院の2院で構成される
     貴族院は公選制ではなく皇族や華族と国に功績のあった人その他の中から天皇が任命する議員で組織
     定員は251人、そのうち皇族10人、5等爵のうち第1位の公爵10人、第2位の侯爵21人、第3位の伯爵14人
     第4位の子爵70人、第5位の男爵20人、天皇みずからの選定した勅選が61人、多額納税者が45人
  03/24度量衡法(明治24年法律第3号)が制定される
     尺・貫 をそれぞれ定義しメートル法の計量も認める間接的なメートル法採用体系に。尺貫法という言葉ができる
     1921(大正10)04/11メートル法を基本とする度量衡法の改正「メートル法度量衡法」がなされる
     尺貫法からメートル法へ国内単位の統一をはかる
  03/近代的水道の本河内高部水源地、高部水道が予算以下で落成。土堰堤の長さ128米
     受刑者も動員し念入りにつき固め16.76米の高さに盛り上げる
     中心を岩盤に達する粘土、そのまわりを精選土で固める
     予算以下で完成したのは、工事に従った多数の囚人の手抜きのない堅実な仕事にある
     賛否両派の抗争はダム完成後も続く
     日本全国で、1887(明治20)10/の横浜、1889(明治22)12/の函館に次いで三番目
     横浜、函館は河川取水式、長崎はダム築造の貯水池式で日本初
     05/16市民への水道共用栓の無料給水が始まる
  04/27ロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世が軍艦で東方諸国旅行の最終訪問地として来日
     ニコラス2世の甥ギリシャのジョージ親王とともに長崎へ
     午前9時頃ロシア軍艦アゾーワ号がナヒモフ、モノマフ両艦を従え伊王島沖合まで出迎えた軍艦高尾の先導で入港
     港内に停泊中の八重山、武蔵の2艦が歓迎の礼砲を放つ。ロシアの3艦が答礼の砲門を開く
     皇太子の公式上陸は05/03、それまでは一切がおしのび
     稲佐のお栄が県当局の依頼で皇太子をもてなす
     04/28、04/29、ジョージ親王を誘った軽装の皇太子は侍従1人をつれ人力車にゆられる
     04/28大浦8番館、今魚町の江崎べっ甲店、麹屋町の池島骨董店、
     出島町の香蘭社支店、本籠町の白山写真店、大波止や東浜町の勧工場に立ち寄り買い物をする
     東浜町では居合わせた12才の少女にカンザシを買いプレゼント
     のち本籠町の本田漆器店、新大工町の上野彦馬写真屋にも寄る
     買い物は女性的な嗜好で愛する妻へのプレゼント?
     04/30稲佐悟真寺内のロシア人墓地を訪れる
     墓地では迎える人もなく入口は鍵がかかっていたが垣根をとび越える
     丸山芸者と遊び、両腕に龍の刺青を刻印させる
     05/03公式上陸。大波止から知事官邸までの沿道には官公庁の代表や一般市民、学校生徒が整列
     知事官邸で昼食会、交親館で長崎の美術工芸品を観賞、その足で長崎公園丸馬場での市民歓迎会に出席
     05/03夜、ロシア士官が部屋借りをする稲佐の福田米造家で酒宴を開き歓をつくす
     ジョージ親王や士官8人と丸山の芸妓5人を呼ぶ
     おまつとともに稲佐のお栄はロシア語で挨拶をしジョージ親王とダンスを踊る
     のちおまつの店で飲み明かし帰艦したのは4日の午前4時
     05/05長崎を出港。のち、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ
     05/11琵琶湖見物を終え京都の宿舎に帰る途中
     滋賀県の大津で警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ負傷。大津事件
     05/11夜、知事あてに政府電報が届く
     「国家のため慨嘆に耐えず、朝野とも痛心す、ついては貴地各新聞発行人を呼出し、この電報を示し、
     本件は実に驚惨の所為なるむねを記載、深く慨嘆の意を表すようご注意ありたし」
     05/13ロシアの報復をおそれた日本は明治天皇自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむく
     のち首相の松方正義は司法部に極刑を申し入れる
     外相の青木周蔵は駐日ロシア当局に死刑にすることを明言
     大審院長の児島惟謙は刑法では謀殺未遂罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣告
     児島惟謙は政府の干渉を排除し、法規に従い司法権の独立を守る
  04/門司駅(門司港駅)開業の直後に九州鉄道の赤煉瓦造の豪華な社屋が完成。本社を博多より移転
     1907(明治40)07/01国有鉄道となる
  05/16市民への水道共用栓の無料給水が始まる(〜06/末)
     水道料金の市民負担が過大になるとして反対運動が起き完成した共用栓に悪評をあおる
     対して長崎市は市民に水道に慣れてもらおうと無料にした
     物珍しさと好奇心が手伝い共用栓には長蛇の列ができる。おかみさんたちの新しい井戸端会議場に
     共用栓は砲弾型共用栓
     シナ日本貿易商会が請け負い、工事費26万4357円59銭、専用申し込みはわずかに80戸
  05/29築町から出火、初めて水道水を利用して消火に努める
     焼失2戸、焼死2人に留める
  05/東京浅草の12階建ての塔「凌雲閣」のエレベータの故障が開業当日より頻発。使用中止に
     1923(大正12)09/01関東大震災により建物の8階部分より上が崩壊
     地震発生時、頂上展望台付近には12〜3人の見物者
     福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死する
     09/23経営難から復旧が困難であったため陸軍赤羽工兵隊の手で爆破解体され、その幕を閉じる
  夏/高野房太郎は桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
     同じ桑港で働いていた友人の靴工・城常太郎、洋服職人・沢田半之助らとともに
     職工義友会は労働組合運動についての研究会
     また白人の靴工に迫害されていた日本人靴工による「加州日本人靴工同盟会」の母体に
     1896(明治29)06/桑港から帰国      【詳しくは1869-01/06に】
  07/05清国の北洋水師(艦隊)が戦艦「鎮遠」「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動のため東京湾へ来航
  夏長崎(諏訪)公園園内3か所に石油ランプによる夜間照明灯が設置される
     夏になると夕涼みがてら公園を散歩する市民が多く、暗闇の公園では風紀上からもよくないため
     08/23から10/31まで。ただし陰暦九日から十八日までの月夜の明るい期間を除く50日間
     毎日夜12時まで点灯(防犯灯台第1号)
     設置費1基3円の3基で9円、灯心費5銭、油代45銭の計9円50銭を予算費から支出
     その予算案が市会に提出
     1893(明治26)04/長崎電灯会社の開設により園内の照明が石油ランプから電燈に切り替えられる
  08/18長崎・伊良林郷にコレラ発生
     のち十善寺郷、築町、浪之平、丸山町に流行
     11/終息
  08/フランスの富豪の未亡人が喜捨した8万フランを基金に旧大村藩蔵屋敷跡を購入
     外国人用の大浦天主堂以外に教会がなく増加する日本人信徒のため
     教会堂建設に着手。設計は仏人宣教師パピノー
     1896(明治29)09/08煉瓦造り瓦葺きロマネスク洋式の西中町天主堂が竣工
  08/清国北洋艦隊丁汝昌が来航
  09/21上海「ホプキンズ・ダン商会」所有、鉄製肋材使用3本マストの帆船「ケープ・シティ号」が長崎へ入港
     乗員は船長R・H・ウェザラルと船員13人
     他2人の乗客(ウェザラルの妻レベッカ・E・ウェザラル(28)と中国人召使い)
     積荷のバラスト200瓲を長崎で石炭に積み替える予定になっていた
     飽の浦投錨後、バラストを積み上げし、船長と夫人は石炭の到着までくつろいでいた
     と、突風を受けた船は右舷へ約15度傾き、船長はバラストを積み戻すよう命じるが、数分後には転覆
     沈没し乗組員全員が海に投げ出される
     泳いだり漂流物につかまったりしたが船長の妻と二等航海士フィリッツ・ハンセン(独)が行方不明に
     数時間後、沈没船から2人の溺死体が発見
     レベッカは坂本国際墓地31番にフィリッツ・ハンセンは同318番にそれぞれ埋葬される
     のちウェザラル船長はバラスト全てを下ろし船を危険な状態にしたとして過失罪容疑で法廷に召喚
     自己弁護をしたが有罪となり海技免状が取り消しに
  09/長崎商業学校が県より無償貸与された新町の尋常師範学校校舎跡地へ移転
     1899(明治32)09/馬場郷徳蓮田の新築校舎に移転
     敷地面積2800坪、建築総坪4029坪、総工費支出額6万648円13銭
  09/「海岸要地防備ノ位置選定ノ件」が裁可される
     「海岸防御計画大要」に沿って砲台築城地として、着工中の東京湾口・対馬浅茅湾・関門海峡・紀淡海峡の他、17箇所が選定
     芸予海峡・鳴門海峡・広島湾・佐世保・舞鶴・長崎・函館・室蘭・七尾・敦賀・鳥羽・和歌浦・小樽・女川・清水・宇和島・鹿児島
     のちこれらの地域に砲台を整備するには莫大な予算を必要とするため、着工されないうちに日清戦争を迎える
  10/17渡御。「長崎くんち」がコレラのため日程変更10/19還御
     (6)…寄合町(本踊)、本大工町(本踊・曳段尻)、今博多町(本踊)、本紺屋町(本踊)、
     今魚町(小薩摩)、本籠町(蛇踊)、材木町(川船)、古町(本踊)、上筑後町(本踊)、
     江戸町(振遠隊凱旋踊)、本興善町(本踊)
  10/26(初発〜05/29)長崎市内の赤痢110、うち死亡33
  10/286時38分50秒、濃尾地方で濃尾地震が発生。日本史上最大の直下型地震で美濃・尾張地震とも
     震源は岐阜県本巣郡根尾村、北緯35度35分、東経136度20分の地点
     規模はM8.0【8.4?】、モーメントマグニチュードは7.4と推定
     根尾谷断層帯が活動した典型的な直下型地震で、日本の陸域で発生した地震としては史上最大規模
     濃尾地震の被害は濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県や福井県にも及ぶ
     明治時代では最大規模の地震で、死者は7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋は14万2177戸を数える
  11/浪之平の遊廓が出雲町の新指定地に移転
     川をはさんで二筋の平行した石畳の道路沿いに、最盛期には遊廓16軒、女性340人を数えた
     市内の遊廓は丸山・寄合町、稲佐、戸町、出雲町の4か所に
     浪之平の遊廓は和船の停泊地で自然に発生。この頃は貸座席14軒、遊女6〜70人
  12/10時事新報に福沢諭吉の医薬分業論の記事が掲載。医師と薬舗の癒着を憂える
  梅香崎町の長崎税関の建物が煉瓦造2階建の官庁建築として新築される
     1928(昭和03)梅香崎町の建物が出島岸壁に移り鉄筋コンクリート2階建として完成
     時勢に順応して港湾機能を充分に発揮するため
  相生町の諏訪神社で神社再興200年祭の祭礼に「俄(にわか)踊り」の奉納がある
  浜町に林田傘店が開業
  大浦上田町の七楽座が演芸場となり劇場「七楽座」が誕生
     浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
     第二次世界大戦中大浦劇場に改称
  東山手9番地のスチイル記念学校が東山学院と改称
     1932(昭和07)05/明治学院に併合され廃校に
     のち長崎東陵中学校となる
  高島カトリック教会が建立される
  喜真(株)が創業
     1922(大正11)(株)喜真銀行に改名
     1929(昭和04)03/(株)諫早商業銀行とともに(株)諫早銀行に合併される
  ウラジオストクでシベリア鉄道が起工。長崎近辺から鉄道工事への出稼ぎ労働者が増える
     並行して大工、洗濯業などの職人層の移住が増大
  高島の信徒の献金により最初の聖堂が建つ
     フランスから鐘を取り寄せる
  出津に信者が増えド・ロ神父が建てた聖堂の祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
     1909(明治42)正面玄関部を増築。四角の鐘塔を建て鐘を吊るしフランスから取り寄せたマリア像を塔上に据える
  上野彦馬が上海、香港に支店を開設
  小浜の本多西男が小高竹三郎に命じて小浜湯せんべいを作らせる
     本多西男は島原藩主より代々湯守役を拝受
     本多西男が欧州旅行中、源泉を利用した焼菓子の製造を見て小浜温泉の湯を利用した「湯せんべい」を考案し販売する
     以後、卵・砂糖・小麦粉を温泉水で程よく伸ばし、せんぺいを焼いたのが、湯せんぺいのはじまり
  アメリカのホイットコム・ジャクソンがチェーンがスライダーにより交互にかみ合うファスナーを考案する
     靴紐を結ぶ不便さを解消するため
     1893(明治26)シカゴの「コロンビア博覧会」に出品される
     のち「ユニバーサルファスナー会社」が設立されファスナーの生産が開始
     商品名は「Cキュリティ」、当時は噛み合わせが悪く、開いたり、からまるなど問題が多く発生
     1913(大正02)アメリカのギデオン・サンドバックが、歯の裏側にへこみを作り噛み合わせが大幅に改良
     一般的にはギデオン・サンドバックがファスナーの発明者とされる
     より小さく軽い物に改良し、「ホックレス・ファスナー」と名付けられる
     1921(大正10) B.F.グッドリッチ社が「ジッパー」というネーミングでオーバーシューズに採用
     のちアメリカでは「ジッパー」と言う呼び方が定着する
     1923(大正12)フランスでエルメスがバックに初めてジッパーを採用
     1927(昭和02)頃日本でも広島県御調郡向島の日本開閉器工場がファスナーの製造を開始
     【日本開閉機会社、日本開閉器商会とも】
     分派会社の「チャック・ファスナー」社が、巾着をもじった「チャック印」という商標で販売する

1891(明治24)頃

  雲仙の湯元旅館9代目の加藤小左衛門が湯浴みする女の裸体のさし絵を載せた奇抜な観光案内書をつくる
     長崎における観光パンフレットの最初のもの
     1968(昭和43)09/湯元旅館が新館を完成。湯元ホテルとなる

1892(明治25)【明治】 壬辰(みずのえたつ)

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