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〈安土桃山時代(2)〉

1592(天正20、文禄01・12/08)【後陽成】 壬辰(みずのえたつ)

  《奉行》寺沢志摩守(広高・前肥前唐津領主)

  01/再度、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎える
     1595(文禄04)08/聚楽第が徹底的に破却
     前月、秀吉が秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させたことによる
  02/03《天正19-12/20》長崎で第1回イエズス会管区会議が開かれる
     ローマ教皇庁とポルトガル王室に対し日本への布教費の援助要求を決議する
     秀吉が長崎を接収後、日本のイエズス会は財政的に深刻な事態を迎えることに
     年々規模が拡大する日本の修道会の運営経費は会員の死活問題でバテレン最大の問題でも
  03/第1次朝鮮出征部隊の編成が行なわれる
     大村軍には福田半兵衛兼親、弟式見六之丞兼重が従軍する
     深堀純賢は加藤清正の軍に属する鍋島直茂に従い出陣。功名をあげる
     のち深堀純賢は鍋島直茂の重臣となる。鍋島の姓をたまわり鍋島左馬助と改める。深堀氏は断絶
     1594(文禄03)鍋島左馬助が朝鮮遠征から帰る
  04/小西行長による第1陣と加藤清正による第2陣が朝鮮への遠征を開始。文禄の役
     05/小西行長が首府漢城(ソウル)に入る
  07/22秀吉が長崎教会の破壊を命じる
     08/10壊す
  10/09《09/04》ヴァリニアーノはフロイスとともに長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
     1595(文禄04)フロイスがマカオから再び長崎に戻る
     1597(慶長02)07/08《05/24》イエズス会の司祭ルイス・フロイスが長崎で病死。享年65才
  深堀氏は独立した大名であることを断念、鍋島直茂の家臣となる
     1588(天正16)深堀氏は自身の非行から秀吉に所領を没収され佐嘉嘉世床に在
  豊臣秀吉が博多町に長崎奉行所を設置
     1633(寛永10)05/本博多町の今村奉行屋敷で失火、市街の5、6町を延焼
     外浦町の糸割符宿老会所も類焼し奉行屋敷と敷地を交換。外浦町に奉行所を建てる
     【外浦町の旧大坂江戸割符会所の敷地を2分し東役所と西役所が設置?】
     1663(寛文03)03/08寛文の大火で奉行所をはじめ寺社33軒、獄舎などを焼く
     09/05焼失した長崎奉行西屋敷の再築なる。嶋田奉行が大黒町鍋島の松平丹後守屋敷より移る
     11/04焼失した長崎奉行東屋敷の再築なる。黒川奉行が大黒町鍋島の松平丹後守屋敷より移る
     奉行の再建にあたり奉行所東側の高木作右衛門屋敷と五か所町人屋敷を西浜町の土地と交換し奉行屋敷を拡張する
     在来地に西屋敷を、拡張部分に東屋敷を建てる
     1671(寛文11)09/奉行牛込忠左衛門は就任と同時に奉行所の分離建設を幕府に申請する
     東西奉行所が同じ屋敷内に隣接しているのは、火災の場合、同時に焼失する恐れがあるとして分離建設を申し出る
     12/許可を得る
     1673(延宝01)立山屋敷(立山役所)が竣工する
     大目付井上筑後守が長崎に下向したときに使用した立山の屋敷跡に奉行所を竣工。旧サンタマリア教会の地
     外浦町の東屋敷(東役所)を立山に移す。外浦町の旧役所を西役所と称する
     1678(延宝06)07/17夜、外浦町の唐通事頴川藤左衛門宅2階より出火。本宅を消失し、西役所や江戸町の諏方神事器具庫類焼
     1679(延宝07)03/1日250人を動員し西役所の再建がはじまる
     08/西役所が竣工
     1698(元禄11)04/08夜、七つ半に長崎奉行諏訪下総守頼蔭在勤の西役所より出火【04/11?】
     04/09暁、残火により東長屋1軒を残して西役所が焼失。江戸からの咎めもなく西役所は公費にて再建
     1715(正徳05)立山役所を改築する。本年着工し年内に竣工
     1717(享保02)立山屋敷の高低をなくし本屋長屋すべてが改築される
     1718(享保03)江戸町の西役所が老朽化のため全面的に改築。立山役所も同時に改築する
     のちときどき増築、取り崩しなどが行なわれる。だいたいにおいてこの時期の規模、形態で維新を迎える
     1744(延享01)09/西役所の屋根を瓦葺に改める
     12/立山役所の屋根を瓦葺に改める
     1868(慶応04)01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて長崎奉行河津守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     江戸へ引き揚げ、実質的に奉行職は自然消滅となり、徳川幕府の長崎奉行所は門を閉じる。長崎は無政府状態に
  初代奉行に肥前唐津の領主・寺澤志摩守広高が任命される
     1602(慶長07)退官
     奉行は行政、警察、裁判事務、外国との貿易、長崎の防備に至る行政、司法、軍事全般を掌握
     初期の奉行は行政官であるより貿易業者的色彩が強く、常時長崎に駐在せず外国船との貿易時だけ長崎に赴く
     実際の行政は代官・町年寄などが代行
     1867(慶応03)10/12125代奉行・河津伊豆守祐邦が任命される
     1868(慶応04)01/14河津伊豆守祐邦が長崎を脱出
  秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋に在陣中、長崎頭人らは村山東安(等安)を住民代表として伺候させる
     村山東安は尾張名古屋の人。はじめ伊藤小七郎といい長崎にきて金屋町に住み南蛮菓子屋を経営
     商用で頭人や実力者の家に出入りしているうち、気が利き、よく物事をわきまえると評判
  初代代官に長崎の裕福な商人村山東安が任命される。村山東安は朱印船貿易により巨利を得た豪商
     (代官は地役人の筆頭。管轄地の貢物、調租を司り、唐、蘭輸入貨物の検査や寺社の管理等)
     1616(元和02)12/01《10/26》末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流されていた村山等安が江戸で斬首
     末次と村山は不仲で等安を父興善時代の貸与銀15貫目の不払いを理由に幕府へ訴え
     村山等安の息子がドミニコ会宣教師をかくまっていたことが露見し将軍家忠が激怒したことによる
     末次平蔵政直が等安の跡を継いで長崎代官に。のち末次家が代官を世襲することに
     末次家は朱印船貿易を経営し、投資し、中国の生糸を大量買占めをし巨万の富をつかむ
     1676(延宝04)代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     巨額の財産は没収され父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配
     長崎代官の制度がなくなる
     末次家が闕所となったとき没収された資産は優に60万石の大名に匹敵するもの
     1739(元文04)03/15代官再設される。御用物方高木作右衛門忠与が長崎付地方3千石の代官に。御用物方も兼務
     幕末まで世襲する
     1849(嘉永02)10/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が任命される
     1868(慶応04)02/高木作右衛門忠知が長崎府取締役に
  ロケ・デ・メロ司令官の寄付により筑後町(本蓮寺)にサン・ジョアン・バプチスタ教会が建つ【1605(慶長10)】
     教会はサン・ラザロ病院(ハンセン病病院)の付属で慈善団体ミゼリコルディアの組により運営
     社会的に放置されたハンセン病患者を救護治療したとされるが、収容規模や医療実績の記録は確認されず
     ハンセン病や重い皮膚病などの患者を救護するためキリスト教関係者が設けた医療施設。大分、京都、大阪などにも設置
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  小島地区上から流れる玉帯川の川口、鍛冶屋町と本石灰町の間に土橋の「川口橋」が架かる。「黒川橋」とも
     のちの思案橋
     のち土橋から木の橋になる
     のち木の橋から屋根のついた木廊橋となる
     シャム船の材料を使って架けられる。シャム橋の名の由来となる
     また遊客が思案する場所なのでそれが訛って思案橋とも
     のち木廊橋から土の橋に戻る
     のち土橋から屋根のついた木廊橋となる
     のち木廊橋から木の橋に戻る
     1874(明治07)木橋が一部焼失
     1875(明治08)07/石橋に架け替わる
     1887(明治20)07/31石橋を修繕する。起工は07/23
     長崎区役所が負担した修繕費用は20円
     この石橋は急勾配で交通に不便、さらに橋面が狭くて窮屈となる
     1914(大正03)03/30セメント・コンクリートを塗った鉄橋に架け替え【02/15?】
     両側を鋳鉄にして中央の鋳鉄にはブランケット、グローブ3個付きの電燈を取り付ける
     長さ4間7合、幅3間。広さは14坪1合。
     工事に着手したのは請負の典崎定作。橋名は加悦長氏の筆による
     工費の総額は1972円47銭。うち1109円60銭を鍛冶屋町以外の4町の住民寄付に係り残りを長崎市が負担
     1924(大正13)鉄筋コンクリー橋となる
     1956(昭和31)道路拡張に伴い撤去
     1970(昭和45)思案橋に欄干の一部が復元
  長崎町中の防衛のため島原町と本博多町の境に大堀一ノ堀を、博多町の奉行所の北側に小堀つくる
     のち小堀は埋立てられ堀町が造成
  秀吉は4人の町人・頭人の名称を町年寄と改める
     外国へ渡航して貿易をすることを許す
     町年寄は内町の行政を実質的に支配する有力な町人
     彼らのほとんどがキリシタンの有力者で、のち改宗。富んだ貿易商人が多い
     1699(元禄12)07/04内町・外町の取り扱いの区別を廃止し長崎80町すべでが長崎奉行の支配下になる
     外町常行司福田伝次兵衛・久松善兵衛を新たに町年寄に任命、各15人扶持銀37貫300目を給する
     これより町年寄6人となり貿易事務を分掌する
  五島列島の領主宇久純玄が、これまでの宇久姓を五島に改称
  平戸では司祭3人の毒殺を前ぶれとして情勢は大きく転回
  文禄の役で朝鮮出兵のため肥前・名護屋城に出陣中の豊臣秀吉の元へ、長崎代表として代官の村山等安が名乗りでる
     村山等安はポルトガル人から習ったカステーラや南蛮菓子を作り豊臣秀吉に献上
  豊臣秀吉により朱印船の貿易制度が開始される
     朱印船とは「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ちアジア諸国と交易した船のこと
     長崎、京都、堺の貿易商人に異国渡海の朱印状をだし、それまで黙認されていた私貿易を統制するもの
     長崎より5艘(末次平蔵2、船本弥兵次1、荒木宗太郎1、●(糸篇に糸)屋随右衛門1)、京都より3艘、堺より1艘
     朱印状を添えて商売のための渡海が許される
     カウナン、トンキン、チャンバン、カンボヂャ、ロッコン、バタニ、シャムロ、台湾、ルソン、アマカワ(マカオ)など
     1604(慶長09)以降朱印船が盛んとなる
     1635(寛永12)日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため姿を消す
  博多より移住してきた末次氏が秀吉から朱印状を得る
     1604(慶長09)08/家康より安南渡航の朱印状を得て盛んに貿易を行なう

1592(天正20、文禄01)頃

  天草下島の志岐にセミナリヨとは別にイエズス会経営の画学舎(工芸学校)が設立される
     指導者ジュアン・コラのもと、10人から20数人の者が油絵画や銅版画、彫刻、楽器などの製作に専門的に従事
     朝鮮の役後出征将兵の大部分が日本へ引き揚げ、世は挙げて太平を謳歌する風潮が高まる
     太閤自身も南蛮の風俗を好み、そうした世俗からの需要も増加
     1600(慶長05)竹のパイプオルガンが製作される
     オルガンはブリキと同等かあるいはそれにも優る心地よい音色を備える
     1600(慶長05)有馬から長崎に移る
     1609(慶長14)大追放により廃舎となる
  人口増加に伴って6町に接近した大村領長崎村に新町の5町ができる
     博多町(のち本博多町)、樺島町、今町、本五島町、内下町
     新しくできた町は公領(秀吉領)ではなく大村領(長崎甚左衛門純景の所領)であり長崎氏が管轄
     のち江戸町、浦五島町、本興善町、後興善町、金屋町、豊後町、引地町、桜町、内中町、小川町、舟津町、新町ができる
     以上、23区画(町)は地子(税金)の御朱印をもらう。内町。人口3千人
     1600(慶長05)長崎港に近い大川筋(中島川)を築きたて築町ができる。内町に入り、内町は24町に
     1641(寛永18)頃桜町の裏手に東町(俗に喜蔵町)ができ、内町は25町に
     正保年間(1644〜1647)文知町(分知町)が外浦町に、横瀬浦町が平戸町に併合
     東町が桜町の内に入り、新たに堀町ができる。内町は23町となる
     1672(寛文12)奉行所は貿易差銀分配のこと、また寛文の大火の再建にあたり都市計画を施行。町を細分化する
     内下町が本下町と今下町に、築町が東築町と西築町に、後興善町が後興善町と新興善町に。内町26町となる
     1699(元禄12)07/04内町26町・外町54町の区別を廃止し、長崎80町すべでが長崎奉行の支配下になる

1593(文禄02)【後陽成】 癸巳(みずのとみ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  06/ポルトガル船が入港。船長ガスパル・ピントと神父フランシスコ・パシオが名護屋で秀吉と会う
     奉行寺沢志摩守のあっ旋でポルトガル人の宗教上の勤めのため神父10人の長崎在住と会堂再建の許可を得る
     町の人口は非常に増加し懺悔をする者の数は8千人を超えることに
     寺沢はポルトガル人のみのため再建する会堂に日本人の出入りを禁止
     しかしキリシタンの信仰は堅く会堂の出入り禁止はむずかしいところ
     新来の住民は自然とキリシタンとなり宣教師の数も増し禁教前通りに復することに
  筑前博多の博多商人が長崎で初めて今博多町、古町、桶屋町に遊女屋をひらく
     南蛮人を相手に遊興の場を供する
     【延宝年間(1673〜1680)より100年にほど足らない?、1606(慶長11)?、1607(慶長12)?】

1594(文禄03)【後陽成】 甲午(きのえうま)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  10/08《08/24》盗賊団の首領石川五右衛門が親子党類ともに京都の三条河原で釜ゆでの極刑に処される
     関白秀次に大金で雇われ豊臣秀吉を暗殺すべく忍び込むが捕縛
  11/上フランシスコ会ペドロ・パバウチスタ神父らが京都から来崎。上町にサン・ラザロ病院付属の聖堂を利用
     数か月後再び京都に上る
     イエズス会の宣教師はパバウチスタ神父の滞在を好まず奉行に頼み退去命令をださせる
  11/徳川家康が江戸に入府して間もなく、隅田川に初めての橋千住大橋が架かる
     それまでは渡裸川の渡し(戸田の渡し)と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所
     架橋を行なったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120米)、幅4間(7米)の橋
     難工事の末、熊野権現に祈願してようやく完成する
  鍋島左馬助(深堀純賢)が朝鮮遠征から帰る
  長崎の商人白山加左衛門が薩摩京泊で唐船を造る。コーチンへ航海。九州地方外国渡航のはじめ
  浦上の入口にサン・ラザロ病院がイエズス会によって建てられる。病院には付属の小聖堂もつく
  加藤清正に仕え朝鮮の役に従い帰国した肥前有田の士が僧・一向僧道智となり来崎。鍛冶屋町に住む
     1604(慶長09)09/市街地における寺院復興の初めとして奉行の支援を得て鍛冶屋町に正覚寺を創建
     1607(慶長12)キリシタンにより放火され全焼
     のち伊良林郷(現浄安寺の地)に再建
     1618(元和04)新橋町(現市立中央保育所の地・寺町の筋をはさんで向かい)に移転
     1630(寛永07)本古川町からの出火で類焼
     1676(延宝04)境内狭溢を理由に小島郷現在地に移転

1594(文禄03)頃

  奉行寺沢志摩守が洗礼を受ける。3月から1595(文禄04)10月の間
     まもなく棄教
     1597(慶長02)迫害者の側に立つ
  翌年にかけて南蛮ブームが起きる

1595(文禄04)【後陽成】 乙未(きのとひつじ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  08/京都内野の聚楽第が徹底的に破却
     前月、秀吉が秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させたことによる
     のち聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築
     1596(慶長01)09/05慶長伏見桃山地震で倒壊
  フロイスがマカオから再び長崎に戻る
     1597(慶長02)07/08《05/24》イエズス会の司祭ルイス・フロイスが長崎で病死。享年65才
  八良尾(北有馬町)のセミナリヨが有家に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設

慶長初め(1596〜)

  菊地蒲三郎正重が長崎浦上村に来住、居住地の地名から高谷小左衛門と改称
     菊地蒲三郎正重は1554(天文23)、肥後の菊地氏が大友宗麟に討たれ滅亡、のち大友氏の家臣となったその末孫
     1605(慶長10)庄屋が不在だった浦上村で浦上村惣庄屋となり、庄屋屋敷(現浦上天主堂)を置く
     明治維新まで代々庄屋を世襲

1596(文禄05、慶長01・10/27)【後陽成】 丙申(ひのえさる)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  07/12積み荷を満載したスペインのガレオン船サン・フェリッペ号がメキシコへ向けてフィリピンのマニラを出港
     10/上嵐に遭い四国・土佐海岸に漂着
     船には約200人の船員、乗客とフィリッポ・デ・ヘスス(後に殉教者の1人となる)も司祭叙階のため乗船
     10/19浦戸港に入港しようとしたサン・フェリッペ号が土佐港口で座礁、沈みかける
        膨大な量の絹、織物等が海に投げ込まれ、舟で砂浜へ陸揚げ
        積み荷は詳しく土佐の大名長曽我部によって秀吉のもとへ報告
        秀吉は増田長盛に命じ、サン・フェリペ号の積み荷をことごとく押収、京都へと運ばれる
        積み荷をめぐる確執から騒ぎは次第に大きくなる
     航海士は地図を見せ小さい日本に比べスペインは広大なことを誇る
     いかにして世界各地に広大な領土を入手したかの問いに
     「宣教師を派遣してキリスト教化を進め、その後、軍隊を送り占領した」と答え。対して豊臣秀吉が激怒
     12/08《慶長01・10/19》夜、キリスト教に不安を感じた秀吉がフランシスコ会と信者に対する捕縛命令を出す
      京都、大阪のキリシタン24人を捕らえ長崎での処刑が命じられる
     12/09《慶長01・10/20》京都フランシスコ会聖堂にいたレオン烏丸、パウロ鈴木、ボナペントゥラ、トマス小崎、ガブリエルが拘束
     12/10《慶長01・10/21》アンドレス小笠原の家でパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎の3人が拘束
     京都、大阪に居た宣教師と熱心な信者が次々と捕えられる
     1597・01/03《慶長01・11/15》捕えた24人の修道会士と信者は処刑を決めた秀吉の命により、
     見せしめのため鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされる
     1597・01/04《慶長01・11/16》明け方、牢を引きだされた24人は大阪、堺と引き回され、堺の牢に監禁
     1597・01/08《慶長01・11/20》秀吉は24人を長崎で磔刑にする判決を下す
     1597・01/09《慶長01・11/21》殉教者が堺を出発。長崎・西坂の丘に向けて歩きはじめる
  08/14《07/21》イエズス会士の第2代日本司教ドン・ペドロ・マルチンスがマカオより長崎に上陸
  09/04《閏07/12》在日イエズス会が教皇の勅書に基づいて在日フランシスコ会員の日本追放を決議する
     イエズス会とフランシスコ会の対立が激化
     フランシスコ会ペドロ・パバウチスタ神父が設けた病者収容所には親から見捨てられたらい患者が集まる
     修道士は患者の足を洗い悪臭を放つかい瘍に接吻。フランシスコ会宣教師はまさに聖者とする
  09/05近畿地方中部に慶長伏見桃山地震が起きる
     加藤清正は豊臣秀吉の身を案じ、伏見城へ真っ先に駆けつける
     被害は岐阜県から香川県までにおよび、京都の伏見、大山崎、八幡や兵庫の須磨で大半の家屋が全壊する
     伏見城では天守閣が大破して女●(藹の言が月/じょろう)73人、中居下女500人が圧死
     京都では西の郊外の嵐山、嵯峨野で清涼寺、大覚寺、天竜寺などの建物がのきなみ倒壊
     愛宕山でも登山道途中にいくつもあった坊と呼ばれる宿がすべて倒壊する
     奈良では、唐招提寺、海龍王寺、興福寺などの有名寺院で建物が倒壊
     東大寺大仏殿北側の般若寺では地盤堅固な丘の上にあり、高さ14.2米の十三重石塔の上部2層落下にとどまる
     秀吉がつくった京都内野の聚楽第が慶長伏見桃山地震で倒壊
  09/05京都内野の聚楽第が慶長伏見桃山地震で倒壊
  豊後町と桜町の間に二ノ堀をつくる
     1680(延宝08)08/涸水がちで埋められる。桜町通筋一面に土砂を埋め左右に石垣を築かれる
  筑後善導寺の僧聖誉玄故は仏教の廃絶を嘆き、再興を志して来崎
     1598(慶長03)稲佐山麓にキリシタン禁教後仏法再興の最初の寺として悟真寺が創立される
  日本司教マルチンスがポルトガル国王フェリッペ1世に日本の人身売買の情況を報じる
     ポルトガル商人の非人間的行為がイエズス会の伝道に妨害を与えるとし
     勅命違反者に対する裁判権を司教に付与するよう請願する
  長崎の乙名がポルトガル商人の人身売買についてマカオ会議所と日本司教マルチンスに対し文書で警告

1597(慶長02)【後陽成】 丁酉(ひのととり)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  01/09殉教者が堺を出発。長崎・西坂の丘に向けて歩きはじめる
     京都、大阪などで捕えられ、片耳をそがれ、町々を大八車で引きまわされた後、長崎へ送られる
     殉教者の世話のため付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎
     殉教者を最後まで見届けようと誓い、願って殉教者に加わった信者フランシスコ吉が加わる
     02/04《慶長01・12/18》彼杵に到着。3隻の舟に分乗し大村湾を渡る
     02/04《慶長01・12/18》午後11時、時津に着く。舟中泊
     02/05《慶長01・12/19》早朝に上陸し、浦上街道を歩く
     02/05《慶長01・12/19》午後05時、西坂の丘に着く
  01/再征のため日本軍が朝鮮に上陸。慶長の役
  02/05朝、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする人々で埋めつくされる
     ポルトガル人たちは穴が開いている罪人の刑場でなく、海に突き出た岬を奉行代理に懇願
     鉄の輪で首と両手首、両足を固定、十字架は穴に立てられる
     殉教の地へたどり着いた26人の殉教者は十字架に縛りつけられ、十字架は一列に並べて西坂の丘に建てられる
     処刑が始まり、若い修道士フィリッポ・デ・ヘススが槍で突かれ、最初の血を流す
     アントニオとルドビコの2人の少年は賛えの「子らよ、主をたたえよ」を歌い、歌声が終わる間際に槍で突かれる
     次々に処刑は進み、最後にペトロ・バプチスタ司祭が血を流して処刑が終わる
       聖フランシスコ吉(京都/大工)
       聖コスメ竹屋(尾張/刀研師 /38歳?)
       聖ペトロ助四郎(京都)
       聖ミカエル小崎(伊勢/弓矢師/46歳)
       聖ディエゴ喜斎(備前/イルマン(修道者)/64歳)
       聖パウロ三木(摂津/イルマン(修道者)/33歳)
       聖パウロ茨木(尾張/桶屋/54歳 )
       聖ヨハネ五島(五島/イルマン(修道者)/19歳)
       聖ルドビコ茨木(尾張 /12歳)
       聖アントニオ(長崎/13歳)
       聖ペトロ・バプチスタ(スペイン/サン・エステパン/司祭、48歳)
       聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン/アギラ/司祭/30歳)
       聖フィリッポ・デ・ヘスス(メキシコ/修道士/24歳)
       聖ゴンザロ・ガルシア(インド/修道士/40歳)
       聖フランシスコ・ブランコ(スペイン/ガルシア/司祭/28歳)
       聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル(スペイン/修道士/53歳)
       聖マチアス(京都)
       聖レオン烏丸(尾張/伝道士/48歳)
       聖ボナベントゥラ(京都)
       聖トマス小崎(伊勢/14歳)
       聖ヨアキム榊原(大阪/40歳)
       聖フランシスコ医師(京都/医師/46歳)
       聖トマス談義者(伊勢/薬種商/36歳?)
       聖ヨハネ絹屋(京都/織物師(大工?)/28歳)
       聖ガブリエル(伊勢/19歳)
       聖パウロ鈴木(尾張/49歳)
     のち鎖国、キリスト教への迫害が終わるまでに600人を越えるキリスト教信者の血が流される
     1862(文久02)06/08ローマ法王ピオ9世が「西坂で殉教した26人を聖人に列する」ことを宣言
     以降「日本廿六聖人」と呼ばれる
  02/05マルティンス司教は岬の教会の修道院の窓から殉教の場所を見る
     マルティンス司教は夕暮れに西坂までおもむき十字架の前で祈りを捧げる
  07/08《05/24》リスボン生まれでイエズス会の司祭ルイス・フロイスが長崎で病死。享年65才
  1594(文禄03)頃に洗礼を受けた奉行寺沢志摩守が迫害者の側に立つ
  長崎の市街が人口増加で狭溢となり、田畠に町割をはじめる
  市街人口増加のため田畑が拓かれて町屋となる
     酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町ができる。4町を含め以降にできた町は外町と称す
     中島川沿いにならぶ町で、物資を運び込みそれぞれの岸に荷揚げするようになり町ができる
     いずれも大村領長崎村の内にあり長崎甚左衛門が管轄
     町は代官に属し定額の地租を納めさせる
     1680(延宝08)新紙屋町が町内の八幡宮にちなんで町名を八幡町に、新高麗町が町内の伊勢宮にちなんで伊勢町に改める
     1699(元禄12)07/04内町26町・外町54町の区別を廃止し、長崎80町すべでが長崎奉行の支配下になる
  大波戸に制札場が設置される
     制札場は幕府の命令を一般市民に告示する制札を建てる場所
     奉行管轄で平常は当該個所の乙名の監視下におき、夜は夜警をたてる
     1680(延宝08)08/大波戸の制札場(高札場)を豊後町と桜町の間の埋立地に移す。昼番1人、夜番3人勤務
     1765(明和02)08/豊後町の制札場(高札場)を立山役所下の八百屋町に移る
  有家のセミナリヨが長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にコレジヨ、印刷所とともに移転
  天草のコレジヨが長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にセミナリヨ、印刷所とともに移転
  度島のキリシタン全島民をことごとく誅伐
  1596年度版「年報」でフロイスが日本の惨状を報告
     「草の根や樫の実や玉葱を食べ、また或る時は大麦、豌豆(えんどう)、わずかな米」しか食べない

1598(慶長03)【後陽成】 戊戌(つちのえいぬ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  04/20《03/15》豊臣秀吉が京都の醍醐寺で花見の宴「醍醐の花見」を催す
     豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の他、諸大名や配下など約1300人を従える
  08/05《06/24》ヴァリニャーノ神父が新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとともに長崎に着く
     ヴァリニャーノは3度目の来日
     1602(慶長07)12/04長崎を発してマカオに戻る
     1606(慶長11)マカオにて67才で死去
  09/04秀吉の朝鮮出兵で捕虜となり、日本に奴隷として連れてこられた高麗町(榎津町のはずれ)に住む朝鮮人が解放される
     夏、日本に到着したばかりのドン・ルイス・セルケイラ司教の勅令による
     朝鮮人奴隷の悲惨な状況をみたセルケイラは主だった宣教師を呼び会議を招集
     彼らから情報を収集し宣言「朝鮮出兵は不正な戦いであり、すべての捕虜は自由を与えられるべきだ」
     ポルトガル人と日本人信者に対して、彼らを解放しなければ破門すると命じる
     のち解放された朝鮮人は長崎に住みつき洗礼を受ける
     のち榎津町、浜町の海岸から中島川筋が発展し新高麗町(伊勢町)へ集団移住する
     1610(慶長15)聖ロレンソに捧げた教会を建て、セルケイラ司教が教会を祝別する
     朝鮮人は秀吉の朝鮮出兵で捕虜となり、日本に奴隷として連れてこられ長崎の高麗町(榎津町のはずれ)に住む
     のち、榎津町、浜町の海岸から中島川筋が発展し新高麗町(伊勢町)へ集団移住する
     【1609(慶長14)?】
     のちキリシタン迫害時代、朝鮮人は迫害を受けた宣教師をかくまい、少なからぬ数の朝鮮人が殉教
     1619(元和05)サン・ロレンソ教会が破壊される
  09/18《08/18》豊臣秀吉が死去
     秀吉の死因は不明。脳梅毒、痢病(赤痢・疫痢の類)、脚気、沈惟敬による毒殺?
     通夜も葬儀も行なわれず、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬。家督は秀頼が継ぐ
  11/25朝鮮の役に出征していた大村藩主大村喜前が釜山浦を経て大村に帰る
  朝鮮の役から戻った大村藩主大村喜前が大村に玖島城を築く
     本町、外浦町、上町、小姓町、草場町の5小路城下町を整備。庶家一門以下大身の者に対して屋敷を与え家作をせしめる
  文禄、慶長の役で多数の高麗人男女が捕らえられ長崎へ。安い値段でポルトガル人に売られマカオに送られる
     日本人男女も唐人やシャム人などに売られる
  稲佐山麓にキリシタン禁教後仏法再興の最初の寺として僧聖誉が悟真寺を創立
     開基は聖誉はキリスト教全盛下の長崎で布教に尽力した筑後善導寺の僧
     開基は聖誉の法徳を慕って帰依した唐商欧陽華宇と張吉泉。本尊は明時代の唐仏、阿弥陀三尊
     もともとはの地方豪族稲佐氏の居館跡、岩屋山神通寺の支院跡といわれる
     1602(慶長07)唯一の仏教寺だった悟真寺が福建省出身者の菩提寺となる
     福建省の商人欧陽華宇と張吉泉らが菩提寺の許可を奉行から得る
     また悟真寺を在住中国人の集会所とする。長崎華僑社会形成の緒
     江戸時代初め有力唐人の欧陽華宇と張吉泉が悟真寺に100間四方の墓地を定める。中国人墓地の始まり
     1641(嘉永18)オランダ商館が平戸から出島に移り、まもなく悟真寺の墓域の一画がオランダ人に割り当てられる
     1649(慶安02)死亡したオランダ使節ドクトル・ピーテル・プロクホービスがオランダ人として初めて埋葬
     1654(承応03)ガブリエルハッパールト阿蘭陀商館長のとき初めて蘭人の遺体埋葬が許可される
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
     1858(安政05)プチャーチンが来航。日露修好通商条約締結交渉は進展せず、出航入港を繰り返している最中
     コレラが発生し乗組員20人が死亡、オランダ人墓地の上方に初めてロシア人の遺体を葬る
     1945(昭和20)原爆で本堂その他を失う
     1959(昭和34)原爆で倒壊した本堂が再建
     仏教の寺有地山内に、キリスト教、イスラム教、道教などの異教徒が埋葬される墓地は、他にあまり例がない
  トードス・オス・サントス教会内のセミナリヨが長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内に移転
     コレジヨ、印刷所とともに移る
     1601(慶長06)有馬に移転
  日本司教のセルケイラが日本奴隷売買禁制破門令を公布
  トードス・オス・サントス教会内のコレジヨが長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内に移転
     セミナリヨ、印刷所とともに移る
     1614(慶長19)1580(天正08)に設立され戦乱と追害で各地を転々としたコレジヨが閉鎖される
  奉行寺沢志摩守が秀吉の日本奴隷売買禁制の法令を犯した売手と仲介者を死刑に処す
  長崎で職種名を付した町作りが行なわれる
     油屋町、本鍛冶屋町、皮田町、歌舞伎町、本籠町、新大工町、
     浜ノ町、磨屋町、毛皮屋町、桶屋町、魚屋町、八百屋町、太夫町など
     天領長崎における部落の形成基盤がつくられる
     ○博多、大村、平戸、佐賀、唐津などから武具生産職人を大音寺、晧台寺境内に集め皮田町と名づける
     弓、矢、太鼓、鎧などをつくらせる
     ○輸入原皮を扱わせるため毛皮屋町がもうけられる
  秀吉により金3397枚、銀79415枚が大阪城に備蓄される
  江戸城の拡張に伴い、増上寺が徳川家康により芝へ移される
     のち徳川将軍15代のうち6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られる
  オランダから5隻の船隊が東洋に派遣
     1599(慶長04)04/南米マゼラン海峡の到着し、南太平洋にさしかかったとき大嵐に遭遇
     1599(慶長04)11/かろうじて残ったデ・リーフデ号とホープ号の2隻はサンタマリア島(チリ)を日本に向かって出発
     のち太平洋上で暴風雨に遭遇し、ホープ号は行方不明となる
     1600(慶長05)04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する

朝鮮の役のころ

  長崎でポルトガル人に売り渡された高麗人男女がおびただしくマカオに送られる
     のち解放され長崎に帰り結婚して家庭をもつ者も

朝鮮の役後

  天草下島の志岐にあるイエズス会経営の画学舎(工芸学校)で油彩画や銅版画、彫刻、楽器などの需要が増加
     朝鮮の役出征将兵の大部分が日本へ引き揚げ、世は挙げて太平を謳歌する風潮が高まる
     太閤自身も南蛮の風俗を好み、そうした世俗から
     1600(慶長05)画学舎で竹のパイプオルガンが製作される
     オルガンはブリキと同等かあるいはそれにも優る心地よい音色を備える

1599(慶長04)【後陽成】 己亥(つちのとい)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  04/28大村喜前が第1回領内総検地を実施する。結果、高2万1427石を打ち出す
     大村藩独自の検地基準により行なわれる
     「慶長高帳」には最初10人の庶家一門が記載され合計石高7656石余に達し他の家臣団に対し圧倒的な優位を占める
     上級家臣のひとり長崎甚左衛門の知行高は967石6斗5升で庶家一門の4位にランク
     (時津村163石5斗1升、長崎村702石4斗7升、長崎新町43石8斗7升、三重村57石8斗)
     庶家一門に次いで大村給人28人と小姓衆79人が記載
     小姓衆上位3位のなかに長与十郎左衛門(知行高86石1斗3升)がいる
     他には在地給人として西方衆上位4位のなかに福田半兵衛(292石7斗3升)
、      長与軍助(223石6斗8升)、戸町惣兵衛(191石2斗8升)の名がみえる
     在地給人のひとり式見六之丞の知行高は149石6斗9升
  04/オランダから5隻の船隊が東洋に派遣が南米マゼラン海峡の到着し、南太平洋にさしかかったとき大嵐に遭遇
     11/かろうじて残ったデ・リーフデ号とホープ号の2隻はサンタマリア島(チリ)を日本に向かって出発
     のち太平洋上で暴風雨に遭遇し、ホープ号は行方不明となる
     1600(慶長05)04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する
  南蛮人がタバコの種子を輸入し桜馬場に試植。日本初のタバコ栽培
     トードス・オス・サントス教会に付属施設として南蛮医薬用の薬草園があり、タバコも薬草として試植
     【1605(慶長10)?】
  平戸の領主籠手田安一が長崎へ逃れる
     藩主からキリスト教徒をやめるよう言われるが、家族や信仰を守るため家来をつれて長崎へ
  平戸25代城主道可公の松浦隆信(71)が没する

1600(慶長05)【後陽成】 庚子(かのえね)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する
  09/佐嘉の鍋島直茂と深堀の鍋島茂賢が関が原の戦いで西軍(石田三成)に属す
  10/21《09/15》美濃国不破郡の関ケ原を主戦場として野戦・関が原の戦いが起こる
     関が原における決戦を中心に徳川家康の覇権を決定付けた天下分け目の戦い
     秀吉亡き後、徳川家康中心の一派と、それを快く思わない一派との間で主導権争いが増す。両派の勝敗を画した戦闘
     東軍の指揮官は徳川家康、徳川秀忠、結城秀康、伊達政宗
     西軍の指揮官は毛利輝元、石田三成、宇喜多秀家、上杉景勝
     結果は東軍の勝利。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが斬首
  10/鍋島の柳河(立花左近将監宗茂)征伐に深堀の鍋島茂賢が先鋒をたまわり勇戦する
     鍋島直茂は関が原の戦い後、徳川に忠誠を誓う
     一方、立花左近将監宗茂は豊臣の恩顧を思い徳川の命には屈服せず
     徳川は鍋島に対し忠誠の証の意味で立花攻めを命じる
     鍋島茂賢は部将立花三太夫の首級を挙げ戦勝の端緒をつくる
  馬町に囚獄屋敷ができる
  イギリス東インド会社(English East India Company)が設立される
     アジアとの貿易を目的に設立されたイギリスの特許会社
     それまでの貿易商人の組合に近い性格をもつ会社などと制規会社とは異なり
     自前の従業員を持つ合本会社(Joint Stock Company)として設立
     1875(明治08)01/01残務整理が終了。正式に会社の歴史の幕を下ろす
     イギリス政府が東インド会社株主に対して、1874年までの配当の支払いを約束していたため
  長崎港に近い大川筋(中島川)を築きたて築町ができる。内町に入り、内町は24町に
     1641(寛永18)頃桜町の裏手に東町(俗に喜蔵町)ができ、内町は25町に
  小川町〜船津町の堀通し川筋じと引地町〜本下町の川筋じができ内町と外町の境界が明確になる
     1601(慶長06)引地町と袋町の間に三ノ堀をつくり小川を通す。内町と外町の境界を定める
     1605(慶長10)一部が埋立てられ引地町が造成
     1672(寛文12)涸水がちで埋められる
  天草下島の志岐にあるイエズス会経営の画学舎(工芸学校)で竹のパイプオルガンが製作される
     画学舎では油彩画や銅版画、彫刻、楽器などが製作される
     同年画学舎が有馬から長崎に移る
     1609(慶長14)大追放により廃舎となる
  尼寺の安禅寺が創始
     のちまもなく廃寺
     1645(正保02)僧玄澄が炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む

1601(慶長06)【後陽成】 辛丑(かのとうし)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  06/29マニラ港からポルトガル船によって平戸にタバコの種子が伝わる
     08/徳川家康に献上
  09/22《08/26》サン・パウロ教会(岬の教会)」から日本人で初めて司祭として叙階
     イエズス会のセバスチャン・キムラとルイス・ニアバラの2人
  10/17興善町の一老人の家から出火。長崎6町で初の火災が起きる
     ミゼリコルディア寺院の堀から岬の教会の手前まで、町の大部分を焼失。町の戸数400、人口2千
     岬の教会は8日前に完成し献堂式が行なわれたばかり。奇跡的に風向きが変わり類焼をまぬがれる
     新聖堂が焼ければ、神仏を信じる者たちはその罰としてキリシタンを嘲笑するだろうと思われたが難を逃れる
  引地町と袋町の間に三ノ堀をつくり小川を通す。内町と外町の境界を定める
     1605(慶長10)一部が埋立てられ引地町が造成
     1672(寛文12)涸水がちで埋められる
  メスキータ神父が桜町(クルス町)のキリシタン墓地を立山の山すそのサンタ・マリア付近に移設。サン・ミゲル墓地
     1611(慶長16)桜町の墓地跡にフランシスコ会のアスンシオン神父によりサン・フランシスコ教会と修道院が建つ
  桜町から墓地に向かって真っ直ぐ延びる道が新設される。我が国初の石畳が敷かれる
     石畳の道は平戸から習ってきたもの
  炉粕町に墓地が建ち、サン・ミゲルに捧げられた小聖堂が造られる
  長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内のセミナリヨが有馬に移転
     1612(慶長17)有馬の宣教師が追放される。長崎のトードス・オス・サントス教会内に移転
  イタリア人芸術家のジョワンニ・ニコラオ神父が天草や有馬のセミナリヨ、長崎のコレジヨなどに時計の製作法を伝授
  大村と有馬にも立派な教会が建立
  セルケイラ司教の司式により「サン・パウロ教会(岬の教会)」の献堂式が挙行される
     「サン・パウロ教会(岬の教会)」はヴァリニャーノの指導の下で改築
     またセルケイラ司教は岬の教会に日本司教区大神学校を設立
     1602(慶長07)長崎で一番大きな準司教座教会「被昇天のサンタ・マリア」となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作

1602(慶長07)【後陽成】 壬寅(みずのえとら)

  《奉行》寺沢志摩守広高(本年退職)
  《代官》村山東安

  03/20オランダ東インド会社(V.O.C.=Vereenigde Oostindische Compagnie)が設立
     世界初の株式会社で資本金650万グルテン、本社はアムステルダムに設置
     商業活動のみでなく、条約の締結権、軍隊の交戦権、植民地経営権など喜望峰以東の諸種の特権を与えられる
     アジアでの交易や植民に従事
     1799(寛政11)12/31オランダ東インド会社が解散
     1795(寛政07)にフランス革命軍によりオランダ本国を占領された混乱のなかでのこと
     海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収される
  04/フィリピン諸島長官アクニヤが家康と長崎奉行寺沢志摩守に返書。朱印状の尊重を約束する
  06/25《05/06》フィリピンのイスパニア系修道会員が日本に向かう
  08/京都生まれの林信勝(20)が来崎
     のち林羅山と名し朱子学派儒学者に
     1607(慶長12)幕府の儒官林羅山が幕命により再び来崎。明版「本草綱目」を入手し江戸へ戻る。家康に献上
  10/22《09/08》第3代日本教区長ルイス・デ・セルケイラ司教がイスパニア修道会員の渡日は憂慮に堪えずと報告
     11/19さらにセルケイラ司教はローマ教皇クレメンテ8世あて定例報告書
     西坂での宣教師の処刑に対し豊臣秀吉は「日本占領のためスパイだから殺した」と放言したことに当惑していると記す
  12/04ヴァリニャーノが長崎を発してマカオに戻る
     1606(慶長11)マカオにて67才で死去
  唯一の仏教寺だった悟真寺が福建省出身者の菩提寺となる
     福建省の商人欧陽華宇と張吉泉らが菩提寺の許可を奉行から得る
     また悟真寺を在住中国人の集会所とする。長崎華僑社会形成の緒
     江戸時代初め有力唐人の欧陽華宇と張吉泉が悟真寺に100間四方の墓地を定める。中国人墓地の始まり
     1641(嘉永18)オランダ商館が平戸から出島に移り、まもなく悟真寺の墓域の一画がオランダ人に割り当てられる
     1648(慶安01)インドネシアから出島への途次船上で死亡したペーター・ブロチオフがオランダ人で初めてに埋葬
     1654(承応03)初めて蘭人の遺体を埋葬
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
     1858(萬治01)ロシアのフリゲート艦「アスコルド号」の艦内でコレラが発生
     死亡した数人の乗組員を埋葬するためロシア人墓地を開設
     のち日露戦争で犠牲となった兵士を合葬した集団墓地を含め270のロシア人の墓が造られる
     1870(明治03)オランダ人商人ヤナス・ラインフート(53)が悟真寺オランダ人墓地に埋葬された最後の人物に
     悟真寺のオランダ人墓地の埋葬者数(41)
       オランダ(18)、ロシア(4)、イギリス(3)、インド(1)、不明(15)
     悟真寺の稲佐国際墓地の埋葬者数(31)
       アメリカ(12)、イギリス(9)、フランス(2)、ポルトガル(2)、ドイツ(1)、中国(1)、不明(4)
     1918(大正07)09/墓地の門と煉瓦塀がオランダ政府によって設置
     1945(昭和20)08/09原爆で悟真寺の本堂が倒壊
     1959(昭和34)原爆で倒壊した本堂が再建
  町の突端の波止場の傍に建つ「サン・パウロ教会(岬の教会)」が「被昇天のサンタ・マリア教会」に
     「被昇天のサンタ・マリア教会」は長崎で一番大きな準司教座教会となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作
     1603(慶長08)塔(やぐら)が建ち3つの鐘と珍しい時計がつけられる
      大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支の2通りに記されている
      陰陽両式の日を示すカレンダー時計で、3つの鐘が音を奏するチャイム時計
     市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた
     時計の製作はジョワンニ・ニコラオ神父。イタリアルネサンス派の画家で教会の祭壇の絵や壁画を描くために派遣
  ドミニコ会のアウグスチノ会神父が初めて渡来し、日本への布教に参加する
  オランダ人とイギリス人が平戸に来航。居住して貿易をはじめる

1603(慶長08)【後陽成】 癸卯(みずのとう)

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