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〈明治時代(1)〉

明治時代はじめ

  大浦の片岡商店で外国艦船に生鮮食料品を納めはじめる
     1877(明治10)頃日本人で初めての製パン所を併設
  鳴瀧川の中川郷〜馬場郷間の中川橋が車を通すため橋面を平坦に改める。約1米嵩上げされ長さ8.7米に
     親柱・欄干をそのままに親柱は橋面に埋没する
     1918(大正07)03/鳴瀧川に近代的な設計による御影石造りアーチ橋の中川(なかご)橋を創設
     上流のそれまでの中川橋は古橋と改称される
     国道25号の改良工事に伴う措置。橋長11.9米、幅7.5米。鳴瀧川は鳴瀧都市下水路
  戸町遊廓ができる
  悟真寺国際墓地の南側にロシア兵の射的場ができる
     1903(明治36)頃廃止となる
  大徳寺境内に梅ケ枝餅屋「老舗 菊水」が創業
  長崎居留外国人の遊歩範囲が変わりがないが宣教師の行動は制限される
     大浦天主堂に入り込む太政官探索方の石丸八郎、山村三郎、山口礼三、有江彰信、野上二郎などが宣教師の行動を逐一報告
     1879(明治12)12/27長崎居留外国人の遊歩範囲がかなり拡張される
  福生某が丸山町に遊廓・角油屋をはじめる。福生某の妻は福地桜痴の妹
     のち随陽亭、遊楽、角海老と屋号を変える
     外観が西洋風の建物で珍しい遊廓として人気を集める
     1940(昭和15)松浦信太郎が角海老を譲り受けて経営を開始
     1958(昭和33)01/売春禁止法施行前に女性従業員の身の振り方を決め、旅館に転業
     過去の未練を断ち明るい経営に切り替える
  万屋町のカラスミの店、高野家が本下町(現築町)に移転
  浦上村馬込郷の1〜5番溜牢が廃止となる

明治維新後

  倉田氏に世襲された倉田水樋の水樋係が廃止される
     1891(明治24)03/本河内水源地の完成、本河内上水道の布設まで飲料水や防火用水として利用
1868(慶応04、明治01・09/08)【明治】 戊辰(つちのえたつ)

  《代官》高木作右衛門忠知(02/任長崎府取締役・04/辞職)
  《知事》[第1代(官選)]沢宣嘉(05/04→)

  01/03上洛を決意した平戸藩12代藩主詮(あきら)は平戸藩兵とともに一言丸で大坂に到着
     のち平戸藩は新政府の一員として倒幕戦に加わり近畿平定に従軍、さらに奥州へ出兵する
  01/03旧幕府軍が鳥羽・伏見で薩摩、長州藩との戦いに敗れる。鳥羽・伏見の戦い
     01/04戊辰戦争起こる
     04/11討幕軍が江戸城に入城
     05/15新政府軍が上野の彰義隊を攻撃、破る
  01/10午前2時頃、本古川町から出火。榎津町、萬屋町、東浜町に延焼、西浜町海岸沿いの土佐商会が全焼
     火事と前後して鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側の敗退が伝えられ、流言飛語が乱れ飛び市民の不安をあおる
     「それ戦争だ」と、おびえた町民の中には近在へ逃げだす者も
  01/13土佐藩の佐々木三四郎(海援隊隊長)が薩摩藩の松方助左衛門を訪ね対策を協議
     幕府方の遊撃隊と勤皇方の海援隊は一発触発の事態。流言が乱れ飛び市中は戦々恐々の毎日
     佐々木は単身、西役所に出向き奉行・河津伊豆守に面会
     佐々木は「万一、遊撃隊と海援隊がことを起こせば、戦火は外国居留地に及び国際問題になる」と伊豆守を説得
     伊豆守は幕府追討令の情報を入手しており勤皇派の多い九州諸藩を向こうにまわしては不利と長崎脱出を決意
     01/14佐々木、松方が西役所へ。伊豆守の姿はない
     居残った役人は帰順の意を表わす。手を下さずに奉行所を占領
     松方は伊豆守が遊撃隊に残した命令を不安に思い、単身、乃武館(遊撃隊詰所)へ説得に向かう
     遊撃隊幹部の白江竜吉は松方の意を受け入れ一発触発は回避されることに
  01/14新政府が天領を没収する旨の布告を発する
  01/14長崎奉行所が物騒な世情の混乱を避けるため
     また西役所は海岸に近く物騒だと立山の東役所へ移転
     西役所からはひっきりなしに大八車、用心籠、牛馬が桜町、勝山町を通り東役所へと列をなす
     夜更けには町に漏れ評判に。西浜町の薩摩屋敷では兵をくり出して西役所を占領するという噂も
     のち土佐藩の佐々木三四郎(海援隊隊長)が単身、西役所に出向き奉行・河津伊豆守に面会
     佐々木は「万一、遊撃隊と海援隊がことを起こせば、戦火は外国居留地に及び国際問題になる」と伊豆守を説得
     伊豆守は幕府追討令の情報を入手しており、勤皇派の多い九州諸藩を向こうにまわしては不利と長崎脱出を決意
     長崎警備の当番、筑前、肥前の聞役には連絡済み
     列国領事に対して国内の新事態により長崎の治安維持と政務の執行に関しては筑前、肥前両藩に委託した旨を通告
     のち長崎奉行所西役所が伊豆守と入れ違いに海援隊士20余人に占領
     01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて伊豆守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     【アトリン号は英船、米船、仏船、露船の諸説あり】
     江戸へ引き揚げ(実質的に奉行所が消滅)
     長崎は無政府状態となる
  01/14佐々木は役人たちを促し空家同然の役所を調べる
     伊豆守が金箱を全部持ち出していることが発覚
     「伊豆守が公金を持ち逃げするのなら、彼の乗船を砲撃して絶対に出港はさせぬ」
     息まく海援隊士に驚いた幕府方の波止場役人、白木保三が公金取り戻しに名乗りでる
     白木は伊豆守に面会し事の次第を伝えると
     「身の安全を守るのが第一」と伊豆守は素直に4箱、1万7千両分の金箱を白木に引き渡す
     佐々木は白木の懇請で3500両を伊豆守に返す
     01/15伊豆守に返した残りのうち8千両と奉行所保管の回米5千石を地役人に命じ市中に配給
     配給を受けたものは2万1780人にのぼる
  01/15長崎に屋敷をもつ諸藩の代表者が続々と西役所に集まる
     土佐藩の佐々木三四郎と薩摩藩の松方助左衛門から緊急招集の回章を受けてのこと
      薩摩、長州、土佐、駿州、大村、宇和島、対馬、加州、柳川、
      越前、筑後、肥後、筑前、肥前、平戸、五島、島原、小倉
     長崎の事態収拾について協議。長崎の治安を守ることに対して異を唱えるものはなし
     在崎諸藩に対し一致して王事に尽力する旨の同意を取り付けつことを決める
      一、長崎表の政治向きは、諸藩および地役人が相談して万事決める
      二、政治その他万事は従来のままとする
      三、西役所は長崎会議所と称する
      四、立山役所は黒田家(筑前藩)で預かる
        長崎奉行格として長崎とはもっとも縁の深い大村藩預かりに変更、筑前藩は譲歩
     「旧来のわだかまりをいっさい捨て、今後どんなことが起きても互いに協力し、調停のため鉄石の誠意を示す」
     誓書をしたため、18藩の代表はもれなく署名。長崎の新秩序が着々と進行する
     各藩の合議制によって治安の維持に当たることを決める
     01/16西役所に諸藩および地役人合議の行政機関として長崎会議所が設置される
     のち「朝廷からの正式の下知があるまでこれまでどおり公務をとるよう」示達
     西浜町、本石灰町、唐人屋敷前、桜馬場入口、新橋に市民に対して広報の高札が立つ
     「流言などにまどわされず、一般は安心して生活するように」
  01/15新政府が王政復古を全国に通告する
     01/17外国との和親を国内に通告
  01/16長崎奉行西役所が長崎会議所と改められ、長崎奉行の権限を引き継ぐ
     02/16「長崎会議所」を廃止し「長崎裁判所」が正式に発足
     明治政府が旧長崎奉行支配地を管轄する行政機関として長崎裁判所を置く。府庁が外浦町に設置
     所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれる
     05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
     1869(明治02)07/28《06/20》「長崎府」が「長崎県」と改められる
  01/17松方、佐々木、肥前藩の副島二郎、筑前藩の粟田貢が新地の運上所で外交処理について諸国領事と会見
     松方は英国領事に説明
     「長崎奉行は退去した。朝廷から正式な行政責任者が任命されるまで、とりあえず長崎駐在の諸藩と、
     地役人が万事を協議してやってゆく。貴国人に対しては、暴行など不祥事件の起きないよう十分取り締
     まるので、安心して貿易もこれまでどおり行なわれたい。貴国側も不祥事を起こさぬよう自重されよ」
     「適切な処置だ。在留英人の安全が確保されることは何よりだ」と英国領事は納得して帰る
     会議所では同様主旨の文書を領事に提出、領事は好意的な態度であいさつにくる
     アメリカ、フランス、ベルギー、ロシア、オランダ、ポルトガル、デンマークなど
     フランスは難色を示すが、松方の説得により平静に処理される
  01/20新政府が幕府締結の条約遵守を各国に通告する
  01/21薩摩藩の沖直次郎と芸州藩の石津蔵六を会議所総代として京都にのぼらせる
     2人は奉行脱走後の長崎の治安状況や外交処理の経過を中央政府に詳しく報告
     鎮撫使の下向を強く要請する
     01/28徳川体制の完全粉砕を目指す新政府が沢主水正宣嘉を九州鎮撫使兼外国事務総督に任命する
     02/01長崎の重要性を認めた政府は長崎に民政機関の長崎裁判所を設置することを決定
     02/02沢宣嘉の長崎裁判所総督兼任を発令
     鎮撫使は兵力をもって治安にあたる軍政機関であり、軍政と民政の総督を兼ねたことになる
     02/13夕方、沢卿着任の先触れとして沖と石津が京都より戻る
  01/25英、米、仏、蘭、普、伊の6か国が局外中立を宣言する
  01/28新政府は九州鎮撫使(兵力を持った軍政機関)兼外国事務総督に沢主水正宣嘉を任命
  01/鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争がはじまる
     1869(明治02)05/弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結
  01/鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍の敗走の激震は、どさくさにまぎれて強盗事件が多発
     長崎に屋敷を置く諸藩の動向があわただしさを増す
  01/イギリス人医師ウイリスが鳥羽・伏見の戦いにて創傷洗浄に過酸化マンガンを使用
  01/前年8月の英国水兵殺害事件で英国側は新政府に改めて犯人の捜索を要求する
     のち再調査の結果、土佐役人は筑前黒田藩士の金子才吉を下手人とつきとめる
     泥酔して寝ている英国人が筑前の塾生の目にふれ、古参の者が刀を抜き冷酷に弄ぶように滅多切りにしたのが真相
     のち事件の直後、金子は自刃したことが判明
     筑前の役人は罪状とその後の処罰に関しては公表せず
     1869(明治02)筑前の仲間たちが投獄
     筑前領主は蟄居、殺された乗組員の家族に賠償金の支払いを命じられる
  01/長崎府官地のうち肥後国天草郡に富岡出張所を、豊後国日田郡に日田出張所を置く
     閏04/25旧天草郡が富岡県(天草県)に、日田郡が日田県になる
     08/29富岡県(天草県)を廃して長崎府に復する。再び富岡出張所を置く
  01/「長崎新聞」が創刊
     のち廃刊
  02/01「長崎裁判所(民政機関)」を外浦町に置き、旧天領を管理
  02/02沢宣嘉は長崎裁判所総督をも兼任。軍政、民政の総督を兼ねる
  02/14午後3時、沢卿を乗せた肥前藩の持ち船甲子丸が静かに錨をおろす
     沢宣嘉は右舷に立ち長崎の街を見つめる
     右に鎮撫使主席参謀、長州の井上聞多、左に新たに長崎市中警備の任を帯びた大村丹後守が立つ
     打ち合わせのため一行は船内に1泊
     02/15大波止海岸には早朝から麻かみしもに威儀を正した諸藩の代表、地役人や諸藩兵士が整列
     市中は各戸に国旗を立て提灯をつるし、お祭りのような騒ぎ
     午前8時、朝廷の鎮撫使に敬意を表し在港の各国軍艦が一斉に放つ21発の祝砲が港の空をゆるがす
     鎧直垂(よろいひたたれ)胴服に太刀をつけた沢卿が上陸
     沢卿、井上参謀、大村候は馬上の人に、前後を薩摩、肥前、大村の兵で固めた行列は錦旗を先頭に大波止を出発
     長崎会議所(現県庁)前を通り諏訪神社に向かう
     沿道をうめる市民に迎えられ、じつに威風堂々のパレード
     氏神諏訪神社に着任を奉告した沢卿の行列は、ふたたび会議所に引き返す
     沢卿は佐々木三四郎の案内で総督室に落ち着く
     佐々木と松方が奉行脱走後1か月、長崎鎮撫の経過や市中警備の状況を報告
     総督はそのつどうなずき、その苦労をねぎらう
     02/16長崎会議所が廃されて長崎裁判所が正式に発足。職制の全面改革が行なわれる
     沢総督は九州全体の鎮撫使として西海道治安の大任をおう
     幕府時代、直轄地の長崎と西国郡代支配の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向諸国の中の旧幕領11万石の管理者に
     長崎裁判所内に九州鎮撫総督府を併置。天草の富岡、豊後の日田、日向の富高に出張所を置く
     重任をまっとうするため自分の補佐役となる人事には一流の人材を足下に集める
      参謀=井上聞多(長州)、同=町田民部(薩州)、参謀兼裁判所判事=野村盛秀(薩州)、
      参謀助役兼裁判所判事=佐々木三四郎(土州)、参謀助役=松方助左衛門(薩州)、
      同=大隈八太郎(肥前)、同=揚井謙蔵(長州)、同=楠本平之丞(大村)、権判事=吉井源馬(土州)
       参謀、助役は軍政、判事は民政を本務とする
  02/16「長崎会議所」が廃止。「長崎裁判所」が正式に発足。所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれる
     長崎会議所の全ての業務が長崎裁判所に引き継がれる
     05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
  02/16長崎会議所を廃止し「長崎裁判所」が正式に発足
     明治政府が旧長崎奉行支配地を管轄する行政機関として長崎裁判所を外浦町に設置
     1868(慶応04)05/04長崎裁判所を長崎府と改称
  02/30英公使パークスが参朝の途中、刺客に襲われ中止となる
     03/03参朝
  02/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が長崎府取締役に任命される
  03/07《02/14》明治政府が澤宣嘉に九州鎮撫使兼外国事務総督、長崎裁判所総督兼任を発令
     長崎裁判所は外浦町におき旧天領を管理
     長崎裁判所には九州鎮撫長崎総督府(九州の中心的役所)が置かれる
     参謀と助役は軍政、判事は民政を本務とする
     05/04長崎裁判所が長崎府に改められ長崎総督府を廃止
     沢宣嘉総督は初代知府事に(→1年後☆府知事と改称)に就任
     1869(明治02)03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が長崎県に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  03/14天皇が五箇条の御誓文を発布
  03/15浦上村馬込郷の溜牢が廃止される
  03/海援隊が和英辞典「和英通韻以呂波便覧(わえいつういんいろはびんらん)」を出版
     アルファベットや基礎的な単語を掲載する
  03/町芸者停止の達書が発せられる
  04/06《03/14》幕府全権陸軍総裁の勝安芳(海舟)と、新政府軍参謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれる
     徳川家側から大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)、東征軍側から村田新八、桐野利秋らも同席
     交渉は江戸高輪の薩摩藩江戸藩邸にて行なわれる
     前日に続く会談で江戸城は開城され、新政府軍に明け渡されることに
     新政府軍による江戸城総攻撃は03/15と予定されていたが、勝の説得に西郷が応じ江戸が戦火に巻き込まれずにすむ
     05/03《04/11》江戸城が無血開城、東征軍が接収。城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれる
     徳川慶喜は謹慎所の上野寛永寺から水戸へ移される
  04/07《03/15》明治新政府が旧幕府の高札を撤去、新しく五つの高札「五榜の掲示」を掲げる
     新政府は旧幕府に倣い神道国教主義の政治方針を明らかにする
     体制移行期の臨時治安立法で内乱や犯罪の増加など混乱を避ける為に作られる
     第一札 定
      一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
      一、鰥寡(かんか)孤独廃疾(はいしつ)のものを憫(あわれ)むべき事
      一、人を殺し家を焼き財を盗む等の悪業ある間敷(まじき)事
     第二札 定
      何事に由らず宜しからざる事に大勢申合せ候を徒党と唱え、徒党して強て願い事企るを強訴といい、
      或は申合せ居町居村を立退き候を逃散と申す。堅く御法度たり。・・・
     第三札 定
      切支丹(キリシタン)邪宗門の儀は堅く御制禁タリ。若し不審まる者これあらば、その筋の役所へ申し出ずべし
     第四札 定
      ・・・猥に外国人を殺害し或は不心得の所業等いたし候ものは、朝命に悖り御国難を醸成し候・・・・
     第五札 定
      ・・・自然今日の形勢を窺い、猥りに士民ども本国を脱走いたし候儀、堅く差し留められ候。
       慶応四年三月   大政官
     のち五榜の掲示を見た欧米の外交団から政府へ抗議があり書き改められる
       一、切支丹宗門之儀は、是迄御制禁の通り固く相守るべく候事。
       一、邪宗門之儀は固く禁止之事。
     1973(明治06)02/21「五榜の掲示」のうち三札が撤廃される
     1614(慶長19)以来の切支丹(キリシタン)の長い弾圧と追害が終わる
  03/24「九州鎮撫長崎総督府」が九州34藩の全てを管轄することに
  03/28新政府が太政官布告で「神仏分離令」を出す
     政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により神仏混淆がなくなる
     神道振興で諸社が格式をそなえ神社と仏寺の習合が禁じられる
     多くの仏寺が神社として存続するが、廃滅を余儀なくされた寺もある。廃寺改称が30か寺にのぼる
     順次移り変わる
     《神社として存続した主な仏寺》
     現応寺八坂神社(鍛冶屋町)、玉泉院玉泉神社(寄合町)、威福寺天満宮(桜馬場町)、
     神宮寺金刀毘羅神社(立山町)、金剛院如意輪寺大崎神社(本石灰町)、願成寺愛宕神社(愛宕町)、
     能満院万福寺淵神社(淵町)、琢生院楠稲荷神社(西小島町)、大覚寺宮地嶽八幡神社(八幡町)、
     楞厳院銅座稲荷社(銅座町)、大行寺今博多町天満宮(今博多町)、不動院南光寺天満宮(今籠町)、
     観音院圓福寺山王日吉神社(坂本町)、中島聖堂隣地の瓜生野天神中島天満神社、西山妙見社西山神社、
     松月庵銭座(馬込)天満宮(銭座(馬込))、桜谷権現天照大神を勧請して桜谷神社(立神)、
     弁財天伊都岐島神社(浪ノ平)明治43(1910)以前から祀られていた琴平神社に合祀、
     安禅寺東照宮神社(炉粕町)1874(明治07)内務省公布に基づき安禅寺遺址に公園設置が決定、長崎公園が誕生。諏訪公園とも…など
     《廃滅した主な仏寺》
     慈眼院大徳寺(西小島町)、法界院体性寺(玉園町)、青光寺(出来大工町)、本覚寺(炉粕町)、
     大教院(伊勢町)、大学院(八幡町)、真福寺(高平町)、金蔵院(八幡町)、徳苑寺(八幡町)、
     快行寺(鍛冶屋町)、興善院荒神堂(炉粕町)、雲龍寺(桜馬場町)、能仁寺(西山郷)、躰性寺(岩原郷)など
     のち全国で排仏毀釈運動が起こる
  04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  04/08《03/16》澤宣嘉は浦上キリシタンの指導者26人を総督府に召喚、キリシタンを捨てよと厳しく命じつめ寄る
     26人は殉教を覚悟し「死刑にされてもかまわない」と信仰を貫く
     04/29澤宣嘉は浦上村周辺の耶蘇教徒の家長180人を召喚
     改宗するよう説得したが成功せず、信者たちの決心の固さを知る
     のち澤宣嘉をはじめ、キリシタンに無理解な長州の伊東聞多ら参謀によって、浦上村総流罪の一大処分案が企画
     澤宣嘉は「中心人物は斬首、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨にもたせ京都へ、政府の決裁を求る
     05/12《04/20》長崎の各国領事がキリスト教弾圧を総督に抗議する
     05/17《04/25》大阪西本願寺の行在所で開かれた御前会議で澤宣嘉は政府へ決裁を求める
     浦上キリシタン全員を諸藩に配流することが決まる
     05/17《04/25》天皇の御座所、大阪の西本願寺にて浦上村民処分に関する御前会議が開かれる
       三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨、小松帯刀に、長崎から呼び出された大隈八太郎が加わる
       御前会議では澤宣嘉の処分案や重臣の意見も参考にされるが、木戸の意見が用いられる
       「中心人物は長崎で死刑。残り3千余人を名古屋以西の10万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与える
       7年間は一口半の扶助米を支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに」
       しかし、あまりにもひどすぎると参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出、死刑せずに全員流配することに決定
     明治新政府は神道国教主義をとり、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪」に
     結果、浦上の信者が金沢や名古屋、萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に流される
     明治時代となるが禁教令は残り、「浦上四番崩れ」の旅が決定される
     06/07《閏04/17》太政官達により浦上キリシタンの処分が開始される
     4100人を国律に反する罪として34藩に分散して預けることを命じる
     しかし新政府は多事多端で輸送能力もなく計画はかなり変更される
     実際の配流総人員は3380人となる【3394人?】
     07/11《05/21》新政府は名古屋以西の諸藩に浦上キリシタン総配流を断行
     まず仙右衛門や甚三郎などの中心人物ら戸主たち114人を捕縛、長崎府役所に召還
     長崎港から蒸気船で送り出し3藩に預ける。萩66人、津和野28人、福山20人
     「浦上四番崩れ」の始まり。第1次流罪、信徒らは「旅」という
     1870(明治03)01/01戸主700名が呼び出しを受ける
  04/08新町の済美館が立山役所跡に移転、長崎府の管轄となり広運館と改称
     1872(明治05)08/文部省の学制頒布により第六大学区第一番中学と改称
     10/授業料制が採用され1か月金50銭に
  04/11討幕軍が江戸入城、徳川慶喜は水戸へ退去
  閏04/18南山手17番地にロシヤ領事館が新設
     1901(明治34)南山手5番地乙に移転
     1904(明治37)日露戦争により一時閉鎖
     1906(明治39)再開
     1908(明治41)05/仏国領事の代理を兼摂
     ロシヤ革命露国壊滅により閉鎖
  04/19澤宣嘉総督は奉行直属の親衛隊だった「遊撃隊」を「振遠隊」と改称
     軍事と警察を兼任。屯所は乃武館
     応急に備え長崎表を警衛すべしとの命令が下る
     隊員はイギリス式の教練を受ける
     筒袖に袴、両刀を差しライフル銃を持ちニラヤマ笠を冠る。士官以上はフロックコートを着用
     総員333人、17歳の少年から60歳の老人まで
     ラッパや太鼓で歩調を整える。時々は沢総督指揮の下に田上で演習を行なうことも
     1872(明治05)02/22「振遠隊」を解散、「邏卒」制度を新設
  04/19府藩県にアヘンの吸食、売買、授与した者を厳罰に処することを掲示するよう命じる
     明治政府の太政官布告第319号
     【04/21?】
  04/21政体書が発布される
     地方制度は府、藩、県の3治制となる
     諸侯の領地はそのまま藩として残し、旧幕領は府、県として藩と区別することに
  04/27「海援隊」解散。同時に「土佐商会」も閉鎖
  04/京都から阿片の売買及び服用を厳禁する旨の公布
     05/長崎市中及び近郊の村へ達する
  閏04/03福地源一郎が江戸で「江湖新聞」を創刊
     05/彰義隊が上野で敗れた後、「強弱論」を掲載する
     「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。
     ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べる
     のち新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕される。木戸孝允が取り成し無罪放免に
     明治時代初の言論弾圧事件
  閏04/25明治維新とともに諏方祭礼日を再び7日(渡御)と9日(還御)に変更
     7日は将軍家宣の忌日にあたり、1793(寛政05)から9日・10日・11日に変更されていた
     1875(明治08)諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更される
  05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
     沢総督が初代知府事(1年後府知事と改称)に就任
     参謀助役の佐々木三四郎は天草富岡県知事に、同じく松方助左衛門は豊後の日田県知事となる
     1869(明治02)03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が「長崎県」に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  05/17《04/25》天皇の御座所、大阪の西本願寺にて浦上村民処分に関する御前会議が開かれる
       三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨、小松帯刀に、長崎から呼び出された大隈八太郎が加わる
       御前会議では澤宣嘉の処分案や重臣の意見も参考にされるが、木戸の意見が用いられる
       「中心人物は長崎で死刑。残り3千余人を名古屋以西の10万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与える
       7年間は一口半の扶助米を支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに」
       しかし、あまりにもひどすぎると参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出、死刑せずに全員流配することに決定
       一村総流配「浦上四番崩れ」という大変な処分が行われることに
     明治新政府は神道国教主義をとり、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪」にすることに決まる
     結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に流される
     明治時代となるが禁教令は残り、「浦上四番崩れ」の旅が決定される
     07/11《05/21》まず仙右衛門や甚三郎などの中心人物ら戸主たち114人を捕縛し長崎港から送り出し3藩に預ける
     萩66人、津和野28人、福山20人
  06/07《閏04/17》フランスのド・ロ神父が宣教師としてペルーズ号で来崎。大浦天主堂に入る
     石版印刷機で最初の本「聖教初学要理」が出版
     その年のうち大浦天主堂で「教会暦」「聖教日課」などの石版印刷をする
     のち1878(明治11)までに大浦天主堂で印刷出版された書物は32種類に
     1879(明治12)やせたわずかな耕地があるだけの寒村、黒崎村出津に赴任
     村の貧窮を救うため機織り、染物、パン、マカロニなどの製法を教える
     また多品種栽培の有利さを教え小麦、トマト、イチゴ、茶、綿栽培を指導
  06/18英国海軍付内科医のニュートンは横浜の吉原町に梅毒専門病院「横浜梅毒病院」を新築
     それまでは遊廓のある吉原町8の町会所を仮病院として初めて使用
     のち1868(明治01)冬から1870(明治03)秋にかけて2千人あまりの患者を治癒
     1873(明治06)遊郭が吉原町から高島町に移転。病院も高島町9丁目(現西区高島町)に移転
  06/18太政官布告によりもとの大坂三郷に大阪府が設置される。法制度上の変更で「大坂」が「大阪」の表記に
     「坂」は漢字の構成により「土に反る(死ぬ)」となり、縁起が悪いために「阪」へ改められる
  06/19旧幕府所有の長崎製鉄所が明治政府に収められ長崎府判事の総轄のもと経営
     官営長崎製鉄所となり工部省所管長崎造船局と改称
     1871(明治04)05/27《04/09》長崎造船所と改称
  06/東山手乙12番館にデンマーク領事館を設置
     大正年間米国領事が代理領事に
  07/04《05/15》戊辰戦争の戦闘のひとつ上野戦争が行なわれる
     彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍との戦い
     両軍あわせて400人近い死傷者をだすことに
  07/05《05/16》『別段中外新聞』が前日の上野戦争の戦況を報じ特別版を発行する。日本初の号外
     「別段」とは本紙の別刷り付録、号外速報の意味
     「中外新聞」は洋学者の柳河春三が同年に江戸で発刊(同年終刊)した日本人発行の初の本格的新聞
  07/09肥前の副島次郎が勅使として長崎に到着。九州勢の東北遠征命令を正式に伝達する【07/19】
     07/10沢府知事は管内諸藩に急使を送り動員を下令
      長崎振遠隊318人、佐賀藩2500人・砲17、福岡1千人、
      平戸316・砲4門、島原藩250人・砲2門、大村藩300人・砲3門
     07/17夕方までに第一陣が長崎に集結を終える
     07/19振援隊出動
     市中の家々は軒並み定紋入りの提灯をつるし晴れの征途を祝福
     “見送リ人ノ雑踏、文字通リ立スイノ余地ナシ”“くんち祭り”の人出をはるかに上回る
     午後6時出発を告げる16発の号砲が鳴り渡る
     新調の黒ラシャ服にライフル銃で新大工町の屯所から隊列を組み進む
     夜振遠隊318人が英船フイロン号で東北遠征に向けて出発07/22越後沖を越える
     07/23フイロン号が秋田領舟川港に到着
     07/29角間川の激戦に参加。勝ち誇る庄内藩兵士に初めて一矢をむく
     08/07島原、平戸、大村の各藩兵が長崎に集合、出港する
     08/08秋田領の朝舞口で酒井忠篤の軍を防ぐ
     08/19門倉08/22南樽岡08/23蛭川口と転戦。激戦が続く
     09/15・16苅和野では大乱戦に
     九州勢は戦場経験を積むにつれ洋式装備の優秀性が次第に威力を増し圧倒的な優位にたつ
     のち苦戦のすえ苅和野を奪取した九州勢は急進撃を開始
     09/23山形藩を屈服のち米沢上杉家を降す09/27庄内を抜く
     のち酒井軍を退け北盛岡を攻め国見峠から遂に盛岡城へ
     09/29最後のトリデ、盛岡城を攻略。奥羽平定の目的を達成
     のち大任を果たした振遠隊士は盛岡城を出発。陸路で帰国の途をたどる
     12/12江戸を経て京都に入る
     一同、大宮御所に招かれ親しく明治天皇の賜宴の栄に浴す
     賞詞の一説「征討出征、日夜攻撃、イタルトコロ功ヲ奏シ、今般凱旋ノ段、ソノ勲功少ナカラズ……」
     のち大阪を経て神戸港からロシア商船コレヤ号(汽船)に乗船
     12/20朝、長崎振遠隊がコレヤ号で長崎港に帰着。出港の朝から数えて5か月と3日ぶり
     戦役での戦死19人、戦病死4人、負傷19人
     出陣の朝をさらに上回る熱狂的な歓迎の市民の群れが大波止一帯を埋めつくす
  07/17江戸の地名が東京(東亰・とうけい)になる
  07/長崎府から丸山町、寄合町の遊女屋へ達し
     遊女屋へ店勤めもしない名付遊女を外国人方へ遣すのは甚だ不埒である
     名付遊女にも遊女屋にも各30両の罰金を科し、名付遊女は遊女屋に下げ渡す
     遊女どもは素人に紛らわしい風俗をしてはならないはずなのに違反する者がある
     今後、遊女の風俗になす様、抱主は良く申し諭すこと
  08/01中島川の築町と濱町の間に架かる木製の通称大橋が日本で最初の鉄橋(銕橋・鐵橋・くろがねばし)に架け替え【こ】
     九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督の沢宣嘉、参謀井上聞多らを先頭に渡り初めを行なう
     慶応03(1867)05/12中島川の洪水で木橋が流失。衆議は永久橋として鉄橋にすることに決定
     井上聞多が監督、オランダ人【ドイツ人】技師F.L.M.ボーゲルが設計、本木昌造が施工、長崎製鉄所が最新技術で建設
     工費は1万6500両。鉄の桁を渡し板を張ったブレートガーダー形式の橋
     長さ27.2米、幅6.5米【5.5米】(橋長15間、幅員3間7合)
     欄干には黒く光る擬宝珠が飾られた
     群衆が物珍しげに橋上を往来。漁船や小舟で川を上る市民も
     引きも切らぬ通行人の下駄の音がゴロゴロと雷鳴のように響く橋
     1931(昭和06)09/鉄筋コンクリート製に架け替え
     1990(平成02)07/17再度架け替わる
     橋上にはエミリオ・グレコ作「水浴の女」がお目見え。橋のたもとには新橋完成祝いの時計塔が建つ
  08/08長崎府庁を外浦町から立山役所跡へ移設
  08/19旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が艦船8隻を率いて品川を脱走。仏国士官5人が参加する
     12/15榎本武揚らがエゾ地を平定。五稜郭を本営とする
     1869(明治02)05/18五稜郭が開城、榎本武揚らが降伏。戊辰戦争が終わる
  08/23鳥羽・伏見の戦いにより勃発した戊辰戦争で会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘
     白虎隊が実戦に参加。越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げる
     飯盛山にいた白虎隊の2番士中隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津落が落城したものと思いこむ
     20人の隊員のうち19人が自刃
     会津藩は軍を年齢により白虎、朱雀、青龍、玄武の4班に分け、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成
     白虎隊が実戦に参加。越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げる
  08/27天皇が即位の大礼をあげる
  08/28沢知府事が諏訪神事を改革、華美禁止の令をだす。奉納おどりは全廃に
     沢卿は長崎に来て、くんちの華美に驚き厳令を下す
     (1)傘鉾は直径4尺(1.2米)、飾りは町名をしるす程度。その他は一切禁止
     (2)奉納踊りは全廃
     (3)神輿行列は、お供町11町から1町各3人の33人が武者姿で供奉
     (4)丸山・寄合町だけは例外として傘鉾と小舞の奉納を許す
     殺風景なものに
     1870(明治03)知事が代わり、おおまかに昔の姿を取りもどす
  08/29天草県(富岡県)が長崎府に編入される
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により長崎県の旧天草県が分離、熊本県、人吉県とともに合併し八代県となる
  08/和紙木版刷り冊子形式の日本初の地方新聞で週刊の「崎陽雑報」が創刊
     本木昌造の長崎新聞局経営で致遠閣発兌。致遠閣は佐賀藩の学舎、致遠館のこと
     長崎府の官報で「長崎府印」の朱印も捺してあり、佐賀藩の大隈八太郎(重信)も発行に関係
     ニュースの源は長崎府からの示達、居留地からの風聞、外字新聞の翻訳で官報の色彩が濃い
     内容は市中の事件、諸外国の話題、また長崎振遠隊の奮戦ぶりなどが報じられる
     最初の鉛活字は半強制的に中央に徴収され木活字を使用
     1号の題言として新聞の由来や発行の趣旨を述べる
     「文久二年来港ノ外国人“チャッパン・タイムス”ト名ヅケテ、長崎ニテ始メテ新聞ヲ刊行
     セリ、ツヅイテ横浜ニ移リ、爾後文教次第ニ昌明ナルニ従イ、日々盛ンニ行ナワレ、今年ニ
     至ッテ御国人ノ著ワセル新聞紙ソノ数十七局ニ及ベリ、ソノウチ公ケノ許シヲ得ズシテ、ミ
     ダリニ印行セシ分ハ、停止セラレシトイウ。ワガ局ハ勉メテ事績ノ確実ヲ択ビ、旧ヲ去リ、
     新ニ競イ、ソノ載スルトコロハ、アルイハ西洋ノ新聞紙ヨリ訳述シ、アルイハ新版有益ノ洋
     書ニ探リ、ワガ国内ノ新聞ノ如キハ、普ク四方ノ確報ニ譲リ、諸所往来ノ文書ヲ求ム」
     1871(明治04)13号で廃刊
  08/丸山遊女、芸子ら4名が阿片中毒で死去
     長崎府、外国管事務所は阿片の輸入を厳禁し阿片を所持する者は阿片1斤毎に洋銀16枚の罰金を科する旨を布告
  高島で佐賀藩とグラバーが共同経営による合弁事業として高島炭坑開発の契約が成立
     藩主鍋島閑叟は家臣松林源蔵を派遣しグラバーとともに経営
     日本初の本格的な近代炭坑北渓井坑が開さく
     1869(明治02)04/17日本初の蒸気機関による立坑(約43米)を開坑、日産300瓲を出炭
     巻き上げ、揚げ水用の蒸気機関を備え、波止場までレールを敷く。日本初の洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱
     1869(明治02)08/1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
     1874(明治07)01/官営となる
     1874(明治07)11/政府から後藤象二郎が北渓井坑、南洋井坑の払い下げを受ける
     1876(明治09)北渓井坑が潮水侵入のため廃坑
     1876(明治09)06/尾浜に横坑を開さく
     のち経営困難となり福沢諭吉が仲裁になり武家の商法で借金漬けの後藤象二郎から岩崎彌太郎に譲渡
     1881(明治14)04/岩崎彌太郎が買収。三菱の経営に移る
     高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱に
     1892(明治25)南洋井坑が終堀
     1986(昭和61)11/27105年にわたる高島炭坑が幕を閉じる
  08/大阪で男女混浴禁止の命令がだされる
     今までひとつだった浴槽を男女別々にするために直す期間として20日間の猶予が認められる
     1869(明治02)02/東京で市中の風俗矯正の目的で男女混浴が禁止される
     のち効果があらわれず
     1870(明治03)06/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
     1872(明治05)03/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
     のち全国各地で何回となく男女混浴禁止令がだされるが帯刀、丁髷の禁止と比べると成果なし
     1900(明治33)05/2412歳以上の男女の混浴を禁止する布達がだされる
  お達しにより、神事が質素なものに改められる
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     各町奉納踊は1874(明治07)まで廃止、丸山町、寄合町のみ慣例の傘鉾、小舞踊を奉納
  09/20天皇が東幸のため京都を出発
     10/13東京着、江戸城を皇居とする
  09/開版したばかりの「崎陽雑報」2号に鉄橋開架の記事が載る
     「八月ソノ工全ク成就ス、ソノ堅、硬久ニタエルノミナラズ、形容マタスコブル宏麗ナリ、
     タダシ鉄材製ナレバ、精巧尽サズトイエドモ、ワガ国鉄橋ヲ架スルノ濫觴ナリ」
     中には鉄橋を喜ばない市民も。俗謡が流行る
     「浜の町大橋は石でするのを金にして 金札は金でするのを紙でした」
  10/17精得館が長崎府医学校と改称
     校長に長与専斎、教頭にマンスフェルトを任命
     大学・小学の2科を設け、医学校規則・病院規則・薬局掟などを定める
     1869(明治02)02/長崎県病院医学校に改称
  10/17福岡藩預かりの地の肥前国彼杵郡浦上村を長崎府の管轄にする
  11/F・リンガー(29)がグラバー商会の暖簾分けとして同僚のE・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を開設
     場所は大浦12番地、弁天橋北側筋向かい
     のち海岸通りの大浦7番地に移転
     1940(昭和15)10/ホーム・リンガー商会が閉鎖
  11/精得館が長崎府医学校、長崎府病院と改称
     1868(明治01)改革により一般患者も治療ができるようになる
  11/高松凌雲が函館戦にて創傷洗浄に石炭酸水を使用
  12/06グラバーと薩摩藩五代友厚らとにより小菅修船場(通称ソロバンドック)の完工落成式行なわれる
     小菅修船場(通称ソロバンドック)は日本初の洋式近代的ドック
     引揚小屋は日本初期の薄手煉瓦造り
     1969(明治02)03/11明治政府がグラバー管理の小菅修船場を洋銀12万弗で買収。長崎製鉄所の付属に
     1876(明治09)西南戦争のため修理船が11隻を数える。新船も建造
     1879(明治12)05/21政府の支持を得て立神ドックが完成
     のち500瓲クラスの船舶までは小菅で引き受け、それ以上の内外国船は立神ドックを使用
     1887(明治20)小菅修船場が三菱の所有になる
  12/11英国教会派遣の初代宣教師エンソーが中国から渡来。東山手宣教師館に入り伝導に奔走する
     同年密かに10人の日本人に洗礼を授ける
     1872(明治05)長崎を去る
  12/15長崎裁判所総督の澤宣嘉が伊良林の稲荷神社を参拝。社号を伊良林稲荷神社と名づける
     若宮さまの名称で親しまれる
  12/20朝、東北遠征にでていた長崎振遠隊がロシア商船コレヤ号(汽船)で長崎港に帰着
     出港の朝から数えて5か月と3日ぶり。戦役での戦死19人、戦病死4人、負傷19人
     出陣の朝をさらに上回る熱狂的な歓迎の市民の群れが大波止一帯を埋めつくす
  12/26奥羽戦争での振遠隊戦死者等17人を祀るため大徳寺跡に梅香崎招魂社を設置
     1869(明治02)06/14函館戦役の戦死者等23名を合祀
  12/下新地が外国人居留地に編入される
  12/在留外国人数は574(清375、英81、米39、蘭30、独20、仏15、葡8、瑞6)
  12/宗門改規則を定め、寺証文のほか宗旨証文を提出させ、宗門改役所に提出させる
     宗門改役所に寺院、市郷の役人一同を呼び出し、寺印を押すのを確かめ、切支丹宗門でないことを証明させることに
  12/在留外人数574人(清375、英81、米39、蘭30、独20、仏15、葡8、瑞6)
  F・ワルシェが「ナガサキ・タイムス」を創刊。大浦居留地で英字新聞の復活
  東山手12番地にプロシア領事館が建つ
     木造平屋寄棟造桟瓦葺き。中廊下式で廊下の幅は3017粍と広い
     廊下の左右に執務室として使っらしい3つの居間(48.9平方米)を配し、北東の一角には3つの小室を配する
     ベランダは正面と側面に設けられ、幅は正面3260粍、側面2942粍
     のちアメリカ領事館、アメリカのメソジスト派(婦人外国伝道教会)の宣教師などの住宅に使用
     1941(昭和16)活水学院に譲渡
     1976(昭和51)建物が活水学院から長崎市に寄贈
  グラバーが高島炭坑開発のため高島に洋式邸宅を建てる
     1873(明治06)高島から離れる
     のち三菱高島礦業所の迎賓館として使用
     1948(昭和23)老朽のため取り壊し
  富江町で農業と海運業を営む田中庄三郎が薩摩から芋を移入
     のち芋苗の量産に成功
     のち五島中に広め、県外にも売りだす
     カンコロもちで有名な五島芋など
  唐人屋敷の処分が開始される
     長崎での在留中国人総数743人。うち館内242人、新地213人
     唐館在留の清国人は外人居留地の現出で奥地化した唐館を脱出して、前面の広場場新地蔵所に進出
     その性格を変えた新しい清国人の居留地が日清和親条約締結の前に実質的に形成される
     1870(明治03)火災でほとんどが焼失
  福健省泉州出身者が唐人屋敷内に八●(ビン・門かまえに虫)会所を創設
     1897(明治30)建物を全面的に改築。福健会館と改称
     1945(昭和20)08/09本館建物が原爆により倒壊。正門と天后堂のみが残る
        正門は三間三戸の薬医門形式
        中国風要素も若干含むが組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など主要部は和様の造り
        天后堂は外壁煉瓦造りで架構法など純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は和式
  長崎公園内、池の端に休憩所の月見茶屋と呑江(港)茶屋ができる
  改革により長崎府病院で一般患者も治療ができるようになる
     1869(明治02)07/09長崎府医学校が長崎県病院医学校と改称
  英国人ノース・レーが横浜で炭酸飲料水各種を居留外国人用に製造販売
     炭酸飲料水各種はジンジャーエール、ミネラルトニック、シャンペンサイダー
  五島久賀島の島民が寺請制度を拒否、信仰を公にする。キリシタン弾圧「五島崩れ」の発端
     大開・松ケ浦の6畳の仮牢に幼児から老人まで200人余りが8か月間押し込められる
     拷問を受け苦しみのあとに42人が殉教
     のち五島全土に広がる
     12/24福江島岐宿町水ノ浦の張方久三郎宅でナタラ(クリスマス)のオラショをしようとしたところ捕らえられる
     久三郎宅は仮牢となり60余人が拷問を受ける
  浦上四番崩れが起きたことにより、大村領の三ツ山などにも弾圧の手が伸びる
  西道仙が澤宣嘉に献策。報奨として賞金の代わりに道仙が所望した鳴瀧の琴石を賜う
     澤は賞状で「王制維新前後追々建言し且つ著書を為し、報国尽力神妙の至り、賞金を辞退致し候に付き、
     望みに任せ官有地に有る石を遣わし賞金に代えるものである」と功績をたたえる
     琴石は縦約1.2米、横約1.3米、長さ約3米の奇石。表面には琴の線のような数本の筋をもつ奇石
  長崎にいた鍋島藩士大隈八太郎(重信)が長崎裁判所参謀助役となる
     1913(大正02)11/16大隈重信伯爵が夫人同伴で来崎
     長崎市民は鳳鳴館で官民連合大歓迎会を催す
     舞鶴座で「長崎市民に対して」と題して講演。5600人の大聴衆を前に大隈ブシが炸裂
     大隈伯は三菱社宅に宿泊、老齢の身で2日間の滞在に8回の講演を行なう
  伊勢町の長崎聖堂(中島聖堂)が学制改革で廃止となる。建物は大成殿と大学門を残すのみに
     1934(昭和09)向井家11代兼徳氏が長崎県教育委員会に寄贈
  グラバーと淡路屋ツルの間に女の子が生まれハルと名づける
     1870(明治03)日本の政情不安定で武器弾薬の需要を見込み大量買付け
     1870(明治03)09/16英本国政府がグラバー商会に対し破産を宣告
     予想外の早期安定で売却できず、負債数10万弗となる。日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになる
  橋本商会の創業者の橋本雄造は中津藩士として参勤交代の江戸詰め中に維新を迎え、商人を志して長崎へ下る
     長崎のドイツ商会で商売の修業をする
     1872(明治05)03/橋本雄造が長崎市江戸町に金物商として中津屋橋本商店を創業
     洋鉄・洋釘・船具及び機械類の輸入、古鉄類の売買、船舶の解体等を行なう
     1885(明治18)平戸港外で沈没したオランダ船をグラバーの指導のもとに、引揚げに成功
     日本に於ける沈没船引揚げ第1号
     1888(明治21)台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
     成功しサルベージ技術を確立
     1905(明治38)旅順港内で港湾閉塞のために自沈したロシアの艦船の過半数を軍命により引揚げる
     1912(大正01)トロール漁船3隻により水産業にも進出
     1914(大正03)第1次大戦勃発と同時に、神戸市明石町を本社とする福洋汽船株式会社を設立し、海運業に進出
     大黒山丸9千瓲、大日山丸9千瓲、遠加丸1万瓲、茂木丸9千瓲
     1921(大正10)12/組織改革を行い橋本商店より株式会社橋本商会(資本金50万円)とする
     取扱品目を工業用資材・土建用資材等にひろげ、その販路も拡大
     1939(昭和14)11/古鉄部門が業務拡張。株式会社橋本商会古鉄部(資本金19万5千円 社長/橋 本和太八)として発足
     朝鮮・台湾方面よりの屑鉄輸入等にともない同部門を株式会社橋本商会から、別会社として分離独立
     1945(昭和20)01/株式会社橋本商会が販売部門のほかに鉄材の鍛造機械部品の加工・製造部門として鉄工部を新設
     1946(昭和21)03/株式会社橋本商会古鉄部が三菱製鋼株式会社の製鋼原料である屑鉄の一手納入者の指定を受ける
     戦後の国土復興に尽力する
     1956(昭和31)11/株式会社橋本商会古鉄部が鋼材及び新商品の成長につれて取扱品目が多角化
     社名を橋本商事株式会社(資本金3千万円)に変更する
     株式会社橋本商会も遂年発展して資本金600万円となり営業活動は関西・関東に及ぶ
     1957(昭和32)10/業容の競合回避と経営効率化のため、橋本商事株式会社が株式会社橋本商会を合併
     新生株式会社橋本商会(資本金3千600円 社長/橋本和太八)となる
     1966(昭和41)08/油屋町に地上5階地下1階の総合ビルを建設
     1976(昭和51)12/長崎市目覚町に地上4階建の橋本有料駐車場をオープン
     1984(昭和59)09/創業110周年を記念して本社ビル(地上8階)及び別館(地上5階)を竣工
     1985(昭和60)04/隣接地に本社ビルより直通出来る大型有料駐車場(地上8階 収容能力250台)をオープン
     1985(昭和60)07/旧本社ビル跡地に橋本商会第2ビル(地上5階)を竣工
  大村の円融寺が廃寺となり護国神社となる
     のち境内奥の斜面に、江戸時代初期様式で造られた庭園が残される
     立石を組み合わせた枯山水の庭園で、国の名勝に指定される
  島の守護神として深く信仰されていた高嶋神社が炭坑の守護神ともされる
     1874(明治07)07/大暴風雨で鳥居が崩壊
  市内における主な寺子屋私塾[名称(所在地・経営者・学科)]
     奇石軒(小川町、笹山繁、読書・習字・礼式・謡)、秋岡塾(東中町、秋岡種寿、算盤)、
     静寿軒(勝山町、渡辺一郎、算盤・習字)、谷山塾(鍛冶屋町、谷山悦十郎、算盤・習字)、
     長川塾(本興善町、長川幹二、漢文、習字)、学思軒(引地町、太田寿吉・習字)、
     嘯涛軒(桜町、勝木禎輔、読書・習字)、八尋私塾(西上町、八尋雅二、習字)
  長崎港艦船輸入数1、横浜1。小銃輸入数3万6514挺、横浜10万6036挺、兵庫・大阪1万4285挺

維新後

  西山郷(下西山町)の1228坪の御薬園がいったん長崎県の所有となる
     のち土地と薬草木は入札により売却され、御薬園としての幕を閉じる

1869(明治02)【明治】 己巳(つちのとみ)

  《知事》[第1代(官選)]沢宣嘉(→06/20)、[第2代(官選)]野村盛秀(06/20→)

  01/06《明治01-11/24》高野房太郎が長崎区銀屋町18番地で父高野仙吉、母ますの長男として生まれる
     1877(明治10)一家をあげて東京に移住し、浅草橋の畔で回漕業と旅館をはじめる
    ※1886(明治19)12/02パシフィック・メール会社のニューヨーク号で単身横浜港を出港
    ※1891(明治24)夏/高野房太郎は桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
     同じ桑港で働いていた友人の靴工・城常太郎、洋服職人・沢田半之助らとともに
     職工義友会は労働組合運動についての研究会
     また白人の靴工に迫害されていた日本人靴工による「加州日本人靴工同盟会」の母体に
    ※1896(明治29)06/桑港から帰国
    ※1897(明治30)初/親友の城常太郎、沢田半之助らの協力を得て職工義友会を再建し運動を開始
    ※04/高野房太郎は「職工諸君に寄す」と題するパンフレットをつくり労働者に配布。労働組合の設立を呼びかける
    ※のち演説会を開き、文書を配布して労働組合の意義を伝えまわる
    ※06/25職工義友会が東京神田の基督教青年会館で「我国最初の労働問題演説会」を開催
     席上、高野房太郎は義友会を代表して労働組合期成会設立の必要を説き来会者の賛成を求める
    ※07/05高野房太郎らにより労働組合運動の促進をめざす「労働組合期成会」が結成される
     期成会の母体となったのは、1891(明治24)にサンフランシスコで日本人労働者により組織された職工義友会
     高野房太郎は城常太郎、沢田半之助の職工義友会の仲間とともに仮幹事に選ばれる。片山潜も加わる
     労働者が中心のものの一部財界人、知識人が資金を援助し演説会に出演するなど
     秀英舎(大日本印刷)の社長佐久間貞一、東京工業学校(東京工業大学)講師の鈴木純一郎、高野の弟岩三郎ら
    ※のち期成会に積極的に応じ、会員に加わったのは鉄工関係
     鉄工は旋盤工や仕上工、缶詰工など金属関係の職工の総称
     多くは東京砲兵工廠や石川島造船所、日本鉄道大宮工場など比較的大規模な工場で働く労働者
    ※12/01労働組合期成会の働きかけで日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が創立される
     のち組合発足1年で、支部の数は32、組合員3千人を擁する組織に発展
     支部は東京砲兵工廠や石川島造船所のほか日本鉄道大宮工場、芝浦製作所、横須賀海軍工廠など
     東京周辺の大工場を中心に日本鉄道沿線の諸工場に組織される
     のち最盛期は5000人余の組合員を組織し、病気や怪我をしたときに給付金をだす共済活動に力を入れる
    ※1898(明治31)11/高野房太郎は期成会常任幹事、鉄工組合常任委員を辞任
     生活協同組合運動の重要性を説き、横浜に共働店(生活協同組合)横浜鉄工共営合資会社を設立
     みずから経営にあたる
     のち東京、横浜、横須賀、大宮など関東を中心に、東北、北海道にも組織を拡大
     横浜鉄工共営合資会社設立から半年余高野房太郎は辞任
     1899(明治32)06/高野房太郎は期成会、鉄工組合の常任役員に復帰する
     鉄工組合から20円、期成会から5円の月給を受ける。有給役員に
     1900(明治33)01/鉄工組合の財政情況が急速に悪化、常任委員としての給与を辞退
     のち常任委員を辞任する
    ※1900(明治33)01/頃高野房太郎は東京京橋区八丁堀に「共働店・共営社」を設立
     石川島造船所、沖電気の労働者などを組合員とする。共営社の2階には石川島造船所の労働者クラブが設けられる
    ※09/高野房太郎は「労働世界」の誌上で労働運動からの引退を伝える
     「◎高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして
     今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ。」
    ※1900(明治33)秋/労働運動の前途に失望した高野房太郎は親友の城常太郎とともに中国に渡る
     天津で商店をひらく
     のち山東省の青島で貿易業などに従事
    ※1904(明治37)03/12高野房太郎が病を得て青島で客死。35才歳と2か月の生涯。病名は肝臓膿腫
     【以降「※」のみを記載】
  01/09岩崎弥太郎(35)が開成館大阪出張所に転勤となり英国汽船で長崎を去る
  01/23岩佐純が相良知安医学校取調御用掛となる
     相良知安は、明治新政府が政治的配慮からイギリス医学導入を決めようとしていたとき、
     純粋に学問的立場からドイツ医学導入を強く説き、その採用に大きく貢献する
  01/28ドイツ系アメリカ人のグスターフ・ウィルキンズが37才で死去
     グスターフ・ウィルキンズは外国貿易商社カール・ニクル商会を共同経営していた
     財産は丸山の茶屋「津の国屋」の芸者玉菊(25)に遺贈
     悟真寺の稲佐国際墓地31番に埋葬。玉菊は死を悲しみ桁外れに大きな舵輪型の墓碑を建立し魂を慰める
  02/出島町〜築町に出島新橋(10間)、梅ケ崎町〜新地に梅香崎橋(15間)、
     遅れて築町〜新地に新大橋(27間)が架設される(いずれも近代木橋)
     出島は江戸町側の出島橋のみでつながっていたが、出島新橋の架橋で初めて出島と築町が陸続きとなる
     出島〜居留地の湾岸道路が完成
     しかし道路は主に居留地方面の整備にとどまり、他は徒歩主体の未整備状態のまま
  02/長崎府医学校(旧養生所、精得館)が長崎県病院医学校に改称
  02/維新以後、極度に弱体化した消防組織を再編成し、25か町からなる篤志消防組を編成する
     25か町を火消し町とし9組に分け、各町の負担する経費により任にあたる
     1874(明治07)警察の指揮下に移る
  02/東京で市中の風俗矯正の目的で男女混浴が禁止される
     のち効果があらわれず
     1870(明治03)06/繰り返して混浴禁止の通達がだされる
  03/01中小島町76番地に西洋料理店「福屋」の元となる日本家屋が上棟
     1875(明治08)06/19洋風増築家屋が上楝
  03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
  03/11明治政府がグラバー管理の小菅修船場(通称ソロバンドック)を洋銀12万弗で買収。長崎製鉄所の付属に
     1876(明治09)西南戦争のため修理船が11隻を数える。新船も建造
  03/長崎製鉄所を辞職した本木昌造が新町の長州藩蔵屋敷跡を購入。私学校「新街私塾」を開く
     読書、習字、数学、英語などを教え市民子弟の教育事業を行なう
     1870(明治03)03/私塾経費を賄う目的もあり新町活版印刷所を創設し活字製造と印刷を始める
  03/明治政府が陸海軍に函館攻略を命じる
     長崎から振援隊樂手と長崎海軍伝習所に学んだ士官等の他、奉行組下の船手係と水夫、火夫らが出征
     35人が朝陽丸に、15人が陽春丸に乗組む
     06/11朝陽丸沈没。長崎参戦者のうち20人が艦と運命を共に
  04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が長崎県に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  04/17高島炭坑の北渓井坑で日本初の蒸気機関による立坑(約43米)を開坑、日産300瓲を出炭
     巻き上げ、揚げ水用の蒸気機関を備え、波止場までレールを敷く。日本初の洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱
     1869(明治02)08/1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
  05/02キリシタン禁制高札対して政府法律顧問のオランダ改革派教会牧師フルベッキはブリーフ・スケッチの中で取り除くよう建言
  05/18五稜郭が開城、榎本武揚らが降伏。戊辰戦争が終わる
  05/弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結
  06/14函館戦役の戦死者等23人を大徳寺跡の梅香崎招魂社に祀る
  06/17各藩主に対し版籍奉還の奏請を許し、各藩主を藩知事に任命
     06/19任島原藩知事・松平忠和、任平戸藩知事・松浦詮、任厳原藩知事・宗義達、任福江藩知事・五島盛徳
     06/24任大村藩知事・大村純熙(左上は臣)
  06/29大村益次郎の尽力で勅命により東京招魂社を九段坂上の元歩兵屯所跡の火除地に設置
     鳥羽・伏見から箱館戦争にいたるまで、戊辰戦争の全戦没者が合祀される
     1879(明治12)06/04社号が靖国神社と改められ別格官幣社に列せられる
  07/09長崎府医学校、長崎府病院が長崎県病院医学校と改称
     1871(明治04)11/14文部省の所管となり、長崎県病院・長崎医学校と改称
  07/25《06/17》版籍奉還が行なわれる。藩主が旧来所有していた土地と人民を朝廷に返還
     島原(7万石)松平主殿頭忠和
     平戸(6万1700石)松浦肥前守詮
     大村(2万7977石)大村丹後守純熈(左上「ノ」でなく「冫」)
     福江(1万2600石)五島飛騨守盛徳
     厳原(5万2174石)宗少将義達
     佐賀(35万7千石)鍋島少将直大
  07/17蝦夷開拓史となった伊勢国の探検家の松浦武四郎が蝦夷の改名候補を政府に提出
     「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」
     候補は日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道。すべて地理や歴史に基づく
     北加伊道はアイヌ民族が自らの住む土地を「kay」と呼び、北に位置することから名づけられる
     08/15政府による審議を経て「北加伊道」案が「北海道」と改字
     南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」で「北海道」に
     太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」による
  07/25《06/17》行政官布達54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し華族となる
     華族は皇族の下、士族の上に置かれた族称。日本近代の貴族階級のこと
     1947(昭和22)05/03日本国憲法の施行とともに廃止となる。貴族制度の禁止と法の下の平等が定められる
  07/28《06/20》「長崎府」が「長崎県」と改められる【06/07?】
     判事野村盛秀が第2代知事に
  07/《06/》本木昌造が上海から宣教師ウィリアム・ガンブルを迎え、長崎製鉄所で金属活字(鉛)の鋳造に成功
     11/本木昌造らのグループが洋式活版術の移入を受ける
      興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)に、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞し新町に新町活版所を創設
     私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も
     日本最初の民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め近代日本の印刷技術発展の基礎がつくられる
     1870(明治03)新町活版所にて日本活字号数制を確立
     和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案した号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本
     ガンブルはスモールパイカ(11point)を5号活字とするが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあてる
     1870(明治03)新町活版所にて明朝活字の鋳造にも成功
     約半年ほどガンフルの指導を受け、電胎法による母型を作って和文活字の鋳造技術を獲得
     1870(明治03)大阪に大阪活版所を開設
     1871(明治04)12/12横浜に移り1枚摺りの日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊【12/08?】
     神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して活字と印刷機とを取り寄せる
     昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員陽其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構える
     1873(明治06)東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  08/07対馬の府中藩(対馬藩)が厳原藩と改称
     1871(明治04)07/14廃藩置県により厳原藩が厳原県となる
     1871(明治04)09/04佐賀県(旧佐賀藩)が伊万里県と改称し厳原県を統合する
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により厳原県を含む伊万里県が佐賀、唐津、鹿島、小城、蓮池各県を合併
     1872(明治05)05/29伊万里県が佐賀県と改称
     1872(明治05)08/17旧厳原県が佐賀県から分離し長崎県に統合される
  08/15《07/08》政治情勢の変動に対応して中央集権が強化される。新しい太政官制が導入され二官六省制がとられる
     二官……神祗官(太政官の上位に位置づけ)。太政官(左右の大臣、大納言、参議で構成)
     六省……刑部省、兵部省、大蔵省、外務省、民部省、宮内省
     アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制となる
     侍詔院、弾正台、集議院、大学校などの諸機関が置かれる
  08/高島炭坑の1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
     1874(明治07)01/官営となる
  09/孝明天皇の勅諚により、以前にも勝る諏訪社の諸殿の工事成る。竣工奉告祭を挙行
     工師は尾張の水野正明。すべてひのき材を用いて建造するが、能舞台は再建されず
     1872(明治05)07/県社に列せられる
  10/23《06/19?》東京―横浜間に国内初の電信線が着工
     12/25公衆和文電報の取り扱いがはじまる
  10/新地の築き増し工事が完成。従来、島であった新地蔵所の一角と本籠町が陸続きになる
     玉帯川の川口が右折、新地蔵所と西濱町の間に下流をつくり、中島川の川口あたりに延び、銅座川を形成
  11/17午前8時、エジプトのスエズ地峡の地中海と紅海(スエズ湾)を結ぶ海面と水平な人工のスエズ運河が開通
     アフリカ大陸を回りこまずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができるようになる
     運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結ぶ
     全長164粁(102マイル)、深さ8米(26フィート)の運河
     「東と西の結婚」と形容された開通式では、フランス皇后ユージェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切る
     イギリスのP&O liner社船が続く総勢48隻がポートサイドから運河を渡る
     オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000人以上の賓客が出席
  11/本木昌造らのグループが洋式活版術の移入を受け、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立
     長崎製鉄所付属活版伝習所の場所は興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞し新町に新町活版所を創設
     私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も
     日本最初の民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め近代日本の印刷技術発展の基礎がつくられる
  11/デンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社がロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得
     1870(明治03)08/25日本政府が大北電信の要求を受け入れる
     「長崎〜ウラジオ間および長崎〜上海間に海底線を敷設して、長崎に陸揚げさせる
     長崎〜横浜間に、九州、四国の南端を経由する海底線を敷設させる」
     外務卿沢宣嘉らは国内通信まで外国資本に握られかねないと条件をつける
     「ただし長崎〜横浜間は日本政府の電信線(陸線)が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
     1870(明治03)10/デンマークの軍艦キヨルト号が長崎に入港
     大北電信のシュエンシン総代をはじめ技師たちが乗船
     1871(明治04)04/14大北電信会社長崎支局を下り松にあるベルビューホテルの一室に開設
     1871(明治04)05/29海底ケーブル線を港外の小ケ倉千本海岸に陸揚げ
     1871(明治04)08/04《06/18》長崎〜上海(909.5粁)の海底電信線敷設工事が完成
     ベルビューホテルの一室に設けた大北電信長崎支局にて日本初の国際電信業務を開始
     1871(明治04)08/12《06/26》民部省が長崎〜上海の通信を開始
     1871(明治04)10/05長崎〜ウラジオ間の海底電信線敷設工事が完成
     1871(明治04)11/21長崎〜ウラジオストックの通信を開始
     1940(昭和15)06/01逓信省が大北電信会社長崎支局の通信運用権を接収
     「わが領土内に外国の通信租界を置いておくことは防諜上からもまずい」
     支局舎に長崎電信局第2通信課を新設し運用、従来の通信課は第1通信課となる
     デンマークの大北電信会社は1871(明治04)以来、長崎に海底電信線を陸揚げし外国通信を運用
     日本としては通信上、数々の支障があり開設後数度の条約改訂が行なわれ、最後の改訂された条約期限が1940(昭和15)末
     大北電信会社は長崎における営業権を日本政府に無償返還
     1941(昭和16)12/08午前11時50分、大東亜戦争の勃発により長崎―上海間の海底線が不通になる
     1942(昭和17)01/03長崎―ウラジオ間の海底線に障害が生じ修理不能となる
     1943(昭和18)04/30大北電信会社の陸揚げ権が消滅
     大北電信会社の海底電信は長崎沖の日本領海において切断することに
     1953(昭和28)04/01長崎国際電報局、国際電信電話(株)が長崎国際電報局として新発足
     大北電信会社から運用権をはじめ、長崎の局舎、機械、日本領海の海底線などいっさいの所有権を買収
     大北電信の名が長崎から完全に消える
     1969(昭和44)07/28梅香崎の長崎国際電報局が廃止となる
     長崎国際電報局は日本と欧州を結ぶ唯一の電信窓口として活躍
     直江津とナホトカを結ぶ新しい日本海ケーブルが完成し、また人工衛星を中継局とする衛生通信にバトンタッチするために廃局
     1871(明治04)にはじまる100年の国際通信の幕を閉じる
  12/25東京〜横浜間に電信が開通。公衆電報の取り扱いが開始される
  12/ジュル・アルフォンソ・クザン神父は大坂居留地川口に天主堂用地を入手
     1870(明治03)04/04大坂天主堂献堂式を挙げる
  旧長崎奉行所内の稲荷の方形鳥居を若宮稲荷境内脇に移す
  長崎在住の中国人鼎泰、孚泰と和昌号が初めて灯油を輸入
  西山郷の妙見社が西山神社となる
  丸山の一等地に遊廓、梅鶯楼が創業
     1958(昭和33)売春禁止法により旅館、公楽荘として新スタート
  イギリス人技師モーリスが日本初の洋式炭鉱、蒸気機関による立坑(約43米)を高島町に開坑。日産300瓲を出炭
     1874(明治07)01/官営になる
     1874(明治07)11/後藤象二郎に払い下げられる
     1876(明治09廃坑
  松田雅典が広運館の仏人教師レオン・デュリーから缶詰製造の指導を受ける
     1877(明治10)缶詰業の必要性を県令に説き缶詰試験場の設置を願い出る
     1879(明治12)県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにできる。松田雅典は主任に
     外国から缶詰製造機械を買い入れ、伝習生6人を採用し試作
     製品は海外にも送られ好評を得る
     1882(明治15)缶詰試験場が廃止
     のち松田雅典は缶詰製造に専念しようと官職を去る
     試験場を支払い下げてもらい松田缶詰工場として自営
     のち清国へ輸出し、ロシア東洋艦隊へ納入
  1867(慶応03)8月の英国水兵殺害事件で筑前の下手人の仲間たちが投獄
     筑前領主は蟄居、殺された乗組員の家族に賠償金の支払いを命じられる
  箱館の地名表記が函館となる
  写真家の内田九一が横浜から東京浅草に移り写真館を開業
     1872(明治05)明治天皇と昭憲皇太后を写す。明治天皇の写真は公式の御真影第1号
  井上ユキヨが島原で料亭「腰駕楼」をはじめる
     のち島原の名門料亭として栄える
     1913(大正02)経営を住吉旅館にかえる
     1945(昭和20)07/強制疎開をうけ建物が取り毀される
     1946(昭和21)井上ユキヨの孫にあたる井上籠子が住吉旅館の経営を再開
  温泉四面宮が国魂神社と改称。神仏判別の制により雲仙の一乗院が京泊の末寺、観華院に移す
     1898(明治31)一乗院の名残りのひとつであった釈迦堂が焼失。護摩堂も類焼する
  神仏判別の制により温泉四面宮を国魂神社と改称
     1914(大正03)雲仙国魂神社が温泉神社と改名され県社となる
  和泉要助が西洋から入ってきた馬車を東京で見て、人間が引いたらどうなるか考え人力車を発想
     のち鈴木徳次郎、高山幸助らと製作
     1870(明治03)04/22《03/22》東京府に人力車の製造と営業の許可を得て日本橋を拠点に人力車業を開業
  ナポレオン3世が軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集。マーガリンが考案される
     フランス人のイポリット・メージュ・ムーリエが牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案
     オレオマーガリン (oleomargarine) と名づけられ、後に省略してマーガリンと呼ばれるようになる
     名はギリシャ語の「margarites(マルガリテス=真珠)」から
  木村安兵衛が妻ぶんのわずかな蓄えを元手に芝日陰町(東京新橋駅あたり)にパン屋「文英堂」を創業
     店の名前は妻の名前である「ぶん」と文明の「文」と息子英三郎の「英」の字からとる
     1870(明治03)京橋区尾張町(銀座付近)に移り、屋号を「木村屋」と改称
     1874(明治07)銀座4丁目に店舗完成
     木村安兵衛が酒種あんぱんを考案、発売を開始
     1875(明治08)「あんパン」が安平衛の知り合いで明治天皇侍従の山岡鉄舟の心をつかむ
     鉄舟が安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」と申しでる
     のち木村安兵衛・英三郎親子は陛下のため、特別な「あんパン」を召し上がってもらおうと試行錯誤をかさねる
     1875(明治08)04/04明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問
     お茶菓子として「あんパン」が献上される段取りに
     「あんパン」を口にした明治天皇はお気に召し、ことのほか皇后陛下の口にあう
     「引き続き納めるように」という両陛下の言葉
     あんパンの中心には桜の塩漬けがのる
  貿易額380万4千円。対全国比11.29%、輸出122万9千円、輸入257万5千円
  外国商船入港数295。横浜638、神戸343に次いで全国3位

1869(明治02)頃

  現川区の架橋方頭取の中島土市が野石造アーチ石橋(幻の石橋)を参考に現川に5橋をつくる
     のち樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される。山川橋、屋敷橋、小藤橋、山の神橋が残る
     1972(昭和47)03/16長崎市有形文化財に指定。自然石のアーチ橋。
     1982(昭和57)07/23大水害によりすべてが流失
  本河内の野石造アーチ石橋(幻の石橋)が現川石橋群のモデルとなる
     1889(明治22)造成中の本河内高部水源地に水没する

1870(明治03)【明治】 庚午(かのえうま)

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