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〈明治時代(7)〉

1892(明治25)【明治】 壬辰(みずのえたつ)

  《総理大臣》[第4代]松方正義(→08/08)、[第5代]第2次伊藤博文内閣(08/08→)
  《知事》[第10代(官選)]中野健明
  《市長》[第1代]北原雅長

  01/08伝導にきたフランス人宣教師ジャック・バルツ師が南山手に海星学園を創立
     英語とフランス語の授業を始める
     1892(明治25)03/外浦町に移転。開校当時の生徒数は19人
     1898(明治31)現在の東山手町に移転
     スウェーデン人技師の設計で煉瓦造1部地階、地上2階建の新校舎が完成
     外国人と日本人の共学に
     1918(大正07)2階のうえに1階積み足し3階建に
     1948(昭和23)学制改革により新制の中学校、高等学校に
  01/08コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)がポーランドに生まれる
     1930(昭和05)04/24すでに肺結核に冒されながら来崎
     1930(昭和05)05/仮修道院として南山手10番館を借り印刷所を設立
     小冊子「聖母の騎士」を創刊、布教に尽す
     1936(昭和11)05/ポーランドへ帰国
     1941(昭和16)08/14獄舎10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
     アウシュビッツ強制収容所の餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
     コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
     残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
     1973(昭和53)南山手10番館の仮修道院が取り壊されるが暖炉(マントルピース)だけが残される
     1982(昭和57)10/10聖者に列せられる
  03/07第五高等中学医学部の新校舎の一部が西彼杵群浦上山里村の敷地1万7822坪に完成
     第3回卒業証書授与式を兼ねて新築落成式を挙行
     医学科と薬学科が小島から移転
  03/市内に狂犬が出没、県は首輪や名札のない犬を野犬とし撲殺を告知。野犬狩りがはじまる
  03/海星学園が南山手町から外浦町に移転。開校当時の生徒数は19人
     1898(明治31)現在の東山手町に移転
     スウェーデン人技師の設計で煉瓦造1部地階、地上2階建の新校舎が完成
     外国人と日本人の共学に
  04/16ドイツ人カール・フェルディナンド・ユーゲン・フリッツ・フォン・ザンダー(31)が来崎
     休暇で帰国中の長崎領事代理を務めるため
     05/09田舎で催されたパーティに出席。町への帰途、気分が悪くなり運転手に車を停めさせる
     友人たちが駆けつけ大浦海岸通りの家へ運び医者が呼ばれる。2時間と待たずに心不全で死去
     05/11ドイツ領事館で葬式が行なわれる。葬列は坂本国際墓地へ、201番に埋葬される
     入港中のスペイン船の楽団が先導する葬列には領事館員、海軍将校、地元代表者、友人たちが連なる
  04/18英人ジャールズ・サットン乗馬中、頭痛に襲われ帰宅。脳出血と判明
     ジャールズ・サットンは大浦4番地の裏通りを通行中、侍に背後から刀で襲われ深傷を負う
     左腕と頚椎後部を刀で斬られ深傷を負う
     左腕の切断手術を受け九死に一生を得る。攘夷論が生んだ最初の犠牲者の1人
     英字新聞「ライジング・サン&ナガサキ・エクスプレス」社の経営者
     04/19朝、意識不明に。英、米、露、独、各国出身の混成医師団による治療が開始
     04/2852才で死去。遺体は坂本国際墓地208、209番に埋葬される
  04/竹之久保町の県立避病院が長崎市へ移管される
     1937(昭和12)12/長崎市立長崎病院と改称【09/01】
  05/15玉木リツが磨屋町に長崎裁縫学校を開校
     1906(明治32)07/05麹屋町に移転
     1906(明治39)03/01玉木女学校と改称
     1906(大正05)04/01伊勢町に移転
     1921(大正10)10/15愛宕町に移転
     1953(昭和28)04/01玉木女子短期大学が開校
     2007(平成19)04/05玉木女子短期大学が男女共学となり校名を長崎玉成短大と改称
     新たに県内各地から46名が入学(服飾デザイン学科10人、幼児教育学科36人。うち男子学生は計10人)
     運営母体の玉木女子学園は玉木学園に改称。系列の玉木女子高も共学の長崎玉成高に移行
  05/東山町の大浦小学校が高等科を加設し大浦尋常高等小学校と改称
     1899(明治32)04/高等科を廃止し大浦尋常小学校と改称
  神辺種徳が諏訪神社の青銅製の鳥居の再建を決意
     肥塚與八郎と議して同志を募り委員15人を挙げ発起人とし市内各界に協力を要請
  06/02長崎医会が開かれる
     1898(明治31)08/15医会事務所を東中町60番戸に置く
  06/11資金協力者5800余人、2万円を集め諏訪神社の青銅製の鳥居の製造を三菱造船所に発注。再建
     1893(明治26)06/青銅製鳥居が竣工
     鳥居は三菱造船所で鋳造した堅固で精巧なもの。柱周4米余、高さ約10米
     残った資金1万円は諏訪神社の将来の経営に備えるものに
  06/21シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、ウラジオ・釜山を経て長崎に上陸
     長崎市民は世界的英雄を迎え諏訪公園丸馬場にて盛大な歓迎会を開催
     06/29新橋駅に降り立つ
     のち勲三等旭日勲章が授与される
  アメリカ改革派教会の教師、米人キャリー・B・ランターマンが梅香崎スタージーズ女学校の校長に就任
     1892(明治25)09/10急病のため東山手14番地Aの自宅で30才で死去
     坂本国際墓地202番に埋葬され墓石は改革派教会婦人伝道局によって建立、日本初の宣教師の墓石
  09/10米人キャリー・B・ランターマンが急病のため東山手14番地Aの自宅で30才で死去
     キャリー・B・ランターマンは梅香崎スタージーズ女学校の校長
     坂本国際墓地202番に埋葬され墓石は改革派教会婦人伝道局によって建立、日本初の宣教師の墓石
  09/11ベルツが来崎
  10/13渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/15還御
     (7)…丸山町(本踊・段尻)、浦五島町(本踊)、引地町(曳段尻)、掘町(竹の芸)、
     本石灰町(本踊)、大井手町(本踊)、桶屋町(本踊)、船大工町(本踊・川船)、袋町(本踊)、
     酒屋町(本踊)、出来大工町(曳段尻)。新町は奉納踊を辞退
  11/30福沢諭吉が私財を投じ北里柴三郎のために伝染病研究所を東京芝公園に建てる
     土地は福沢の所有で研究資材は森村市左衛門の寄付による
     のち大日本私立衛生会の所属となり、研究所を国に寄付し内務省の管轄となる
     1914(大正03)12/内務省から文部省への移管決定と同時に所員が総辞職となる
     本来の目標の遂行に懸念を抱き、新たに私立の北里研究所を創立、信念を貫く
  11/館内町と十人町の間を流れる溝に森伊三次が石造アーチ橋の森橋を架ける
     橋長4米、橋幅2.8米
     2つの町の間の溝は旧唐人屋敷を隔てる水路
     森伊三次は漬け物問屋で成功した大富豪
     森伊三次は水路に他に森伊橋、栄橋を架ける
  香港上海銀行のエージェントがトーマス・エス・ベーカーに
     1899(明治32)ホーム・リンガー商会が香港上海銀行の代理店を営む
  ルーマニア生まれのジークムント・D・レスナーが坂本外人墓地内にユダヤ人墓地を作るため資金調達に奔走
     1893(明治26)09/03梅香崎11番地にユダヤ教会を建立
  英人イライザ・グッドオールの女子塾「ガールズ・トレーニング・ホーム」を長崎女学校と改称
     1893(明治26)03/22イライザ・グッドオールが長い闘病生活ののち75才で死去
     遺体は坂本国際墓地123番に埋葬される
  坂本町外人墓地にユダヤ人商人M・ギンズバーグとN・メスがユダヤ人墓地を購入
     背後に石造門や壁、鉄柵が施され整備
     1900(明治33)フランスが兵士のための墓地を購入
  香月薫、安中半三郎、西道仙らが長崎文庫の創設委員に。古文書が散逸するのを惜しんで収集保存
     1894(明治27)05/02新橋町に「長崎文庫」(県内初の公共図書館)が設置
     1896(明治29)市民の閲覧に供される
     1912(明治45)06/01新橋町の県有家屋を利用して県立長崎図書館を創設
     長崎文庫蔵書は新図書館に寄贈
     1915(大正04)08/初代専任館長に永山時英が就任
     1915(大正04)11/28新橋町から上西山町1番地の諏訪公園内の改築した旧交親館(県会議事堂兼迎賓館)の建物に図書館が移転
     図書館は博物館や講演会場、展覧会場の機能を備えた文化センターとなる
     1960(昭和35)新館を竣工し開館
  本河内水源地建設のための寄付6万円を記念した碑が長崎公園内に建つ
     江戸時代、貿易商人らが利益の1千分の5を公共目的に積み立てていた残金
  (株)諫早商人銀行が創業
     1927(昭和02)(株)諫早貯蓄銀行を合併する
     (株)諫早商業銀行と改名
     1929(昭和04)03/(株)喜真銀行とともに(株)諫早銀行に合併される
  福建省福州の出身、19歳の陳平順がこうもり傘一本持って大陸から来崎
     平順は「長崎でひと旗あげよう」と、新地で砂糖貿易商を営む縁者の益隆号をたよる
     1899(明治32)福建省出身の陳平順が中華菜館兼旅館「四海樓」を創業
     場所は広馬場町2番地(元唐人屋敷大門付近)、従業員は30人
     看板には大きく『官許大清國四海樓御旅館菜園酒館時點雅菜各国料理』『四海樓清國御料理御旅館』と
     従業員30人の意欲に満ちた開業
  バッグの市丸が創業
  上野不忍池畔で行なわれていた共同競馬会社が経営難のため解散
  マルマン神父により沖ノ島の馬込に煉瓦造りの聖堂と司祭館が建てられる
     1927(昭和02)、1930(昭和05)続いた台風で壊れる
     1931(昭和06)台風に耐える鉄筋コンクリート造平屋でゴシック洋式の聖堂が再建される。340平方米
  高島炭坑の南洋井坑が終堀
     1986(昭和61)11/27105年にわたる高島炭坑が幕を閉じる

1893(明治26)【明治】 癸巳(みずのとみ)

  《総理大臣》[第5代]第2次伊藤博文内閣
  《知事》[第10代(官選)]中野健明(→03/10)、[第11代(官選)]大森鐘一(03/10→)
  《市長》[第1代]北原雅長

  02/三友銀行のが廃業
  英人イライザ・グッドオールが長い闘病生活ののち75才で死去
     遺体は坂本外人墓地123番に埋葬される
     イライザ・グッドオールは東山手3番地の自宅で女子塾「長崎女学校」を開いていた
  04/01長崎電灯株式会社が開業。長崎市内に初めて電燈がつく
     68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
  04/01中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)(磨屋小学校)が長崎女児磨屋小学校と改称
     1908(明治41)04/01磨屋尋常小学校と改称
  04/28第2回九州医学会が長崎市交親館で開かれる。。出席者300余人(〜04/30)
     西道仙が長崎部医師総代に推薦され会議を運営
  04/長崎電灯会社の開設により長崎公園園内の照明が石油ランプから電燈に切り替えられる
  04/尋常鎮鼎小学校が学制改正により鎮鼎小学校と改称
     1899(明治32)04/11鎮鼎高等小学校と改称(高等科生のみ収容)
  06/12清水の次郎長(長五郎)が74歳で没する。法号・硯量軒雄山義海居士
  06/築町に(株)長崎貯蓄銀行が創業
     1944(昭和19)株式会社十八銀行に合併される
  06/1874(明治07)の台風で倒壊した諏訪神社の青銅製鳥居が竣工
     鳥居は三菱造船所で鋳造した堅固で精巧なもの。柱周4米余、高さ約10米
     残った資金1万円は諏訪神社の将来の経営に備えるものに
     1943(昭和18)金属類特別回収のため鳥居が撤去
  07/11御木本幸吉が三重県の英虞湾で真珠の養殖に成功
     真珠5粒をあこや貝のなかから取りだす。この真珠は半円のもの
  08/12文部省告示「小学校祝祭日大祭儀式規定」の公布により、小学校の祝日・大祭日の唱歌として8曲が定められる
     公示されたのは「君が代」「勅語奉答」「一月一日」「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」
  09/03バーを開いていたユダヤ人コンドレーキが施主となりユダヤ教会堂を建てる
     ハスケル・ゴールデンベルグが、ジークムント・レスナーやナフタリー、エスコン等数人の協力を得る
     梅ケ崎11番地に煉瓦造り平屋建て色ガラス窓
     第一次世界大戦中の際敵国財産として没収
     のち荒れたままになる
     のち建物様式が珍しく歴史的価値があるとして市内一部有志の間で保存が呼ばれる
     のち民間に払下げられる
     1945(昭和20)07/解体
  10/「長崎くんち」(1)…寄合町(本踊・段尻)、船津町(本踊・川船)、本博多町(本踊)、
     樺島町(太鼓山)、平戸町(本踊)、八幡町(本踊)、麹屋町(本踊)、万屋町(鯨潮吹き)、
     西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(鷹狩行列)、諏訪町(本踊)
  10/大浦居留地の大浦町甲・乙32番地に清国政府が華僑のために長崎孔子廟を完成させる
     孔子を祀る大成殿、祖五世を祀る崇聖殿、表門、石門、会殿など中国洋式建築が造られる
     請負金1万3500円
     1967(昭和42)09/28大改修でいっそう中国色豊かな建物としてよみがえる
     総工費2億6千万円。ルリ瓦7万5千枚を使った屋根は圧巻
     中国政府が日本唯一の常設博物館として「中国歴代博物館」を完成
     1982(昭和57)中国政府、山東省曲阜孔子廟の助力を受け改築。日本唯一の本格派孔子廟となる
     中国華南と華北の建築様式が合体しユニークな廟宇が誕生
  11/19「朝野新聞」が第6052号をもって廃刊となる
  12/01県庁内に信号旗を掲げ長崎測候所の天気予報を一般に知らせる
  12/商業会議所条例に基づき長崎商工会を長崎商業会議所に改組。事務所を大村町に置く
     1901(明治34)04/第2代会頭に岩田清秋が就任
  第1期長崎港湾改良工事が落成。起工は1882(明治15)
     膨大な支出のため工事は中止という形での落成。工事費は31万1261円
     維持管理が不充分であった長崎港は、港内の海底が河川より流入した土砂で浅くなり、船舶に出入りに支障をきたしていたため
     大規模な浚渫・砂防・中島川変流工事
     中島川は江戸町と出島の間に迂回させ、西浜町と築町、築町と出島が陸続きに
     長崎港沿岸を浚渫した土砂で大波止から大黒町にかけての沿岸を埋立てる
     中島川筋3642坪、江戸町岸傍715坪、出島新橋傍1050坪、
     大波止沿岸643坪、突堤傍1906坪の計7956坪
     また海岸線では市街地より北部への連絡道路として時津街道が埋立地に整備
     同時期、長崎街道の日見峠切通と茂木街道の拡幅が行なわれ、近代化政策下において市街地外とをつなぐ連絡道路が整備
  本河内高部水源地による水道使用の賛成反対が5年ぶりに和解
     水道初使用の消火で類焼を免れた反対派の旗頭上野屋旅館主が賛成派に転じ、流れを変える
  三菱合資会社が設立し「三菱合資会社三菱造船所」と改称
     長崎造船所を拡張し、神戸、下関の造船所を新設
     1915(大正04)三菱合資会社長崎造船所となる
  出島聖公会神学校が東側に増築
  雲仙新湯の亀の屋旅館(新湯ホテル)が外国人専門ホテルとなる
  ド・ロ神父が神浦・大野地区の高齢者の信者のため自費を投じ大野教会を完成させる
     教会は石造り平屋(133平方米)で単廊式
     1926(大正15)佐賀県馬渡島からブルトン神父が赴任。祭壇部の先に司祭部屋を増築
     ド・ロ神父は玄武岩を用い赤土を水に溶かした濁液で石灰と土を捏ね合わせ固めて壁を作ることを考案
     40〜50糎の厚い壁を作る。ド・ロ様壁(温石)と呼ばれる
  佐世保の西公園として景勝の誉れ高い地に割烹旅館が創業
     1896(明治29)初代首相の伊藤博文が台湾視察の帰途、休息
     眺望絶景万山の翠を賞でて萬松楼と命名
     のち東郷平八郎、永井柳太郎、西郷従道、野口雨情、西条八十、井上日昭、山本五十六など 政治家軍人や文化人が多数訪れる
     2006(平成18)01/30(株)万松楼が民事再生法を適用申請(負債31億円)
  アメリカのホイットコム・ジャクソンが考案したファスナーがシカゴの「コロンビア博覧会」に出品される
     のち「ユニバーサルファスナー会社」が設立されファスナーの生産が開始
     商品名は「Cキュリティ」、当時は噛み合わせが悪く、開いたり、からまるなど問題が多く発生
     1913(大正02)アメリカのギデオン・サンドバックが、歯の裏側にへこみを作り噛み合わせが大幅に改良
     一般的にはギデオン・サンドバックがファスナーの発明者とされる
     より小さく軽い物に改良し、「ホックレス・ファスナー」と名付けられる
  上野彦馬が明治天皇、昭憲皇太后の写真を複写し、400枚を焼付し、九州全域の学校に納める
  (01/〜12/15)県下の伝染病患者6711(赤痢5441、痘瘡952、腸チフス318)

1894(明治27)【明治】 甲午(きのえうま)

  《総理大臣》[第5代]第2次伊藤博文内閣
  《知事》[第11代(官選)]大森鐘一
  《市長》[第1代]北原雅長

  02/11ジークムント・D・レスナーの母ハンナが心臓病のため66才で死去
     遺体は坂本国際墓地27番に埋葬
     のち南山手15番地に私邸を建設
     1904(明治37)10/04ジークムント・D・レスナーの父リオが88才で死去
     父は長崎ユダヤ教博愛協会の名誉会員、ユダヤ教会ラビの(宗教的指導者)だった
     遺体は坂本国際墓地26番に埋葬
  02/28田中長一(初代)が長崎の恵美須町で個人商店の「田中商店」を創業[のちの(株)タナチョー]
     1932(昭和07)04/田中正行(25)が父から「田中商店」を継承。2代目となる
     1934(昭和09)04/合名会社「田中長一本店」として法人化
     1934(昭和09)旭硝子(株)の新・特約店の1号となる
     のち旭硝子(株)、日本板硝子(株)の特約店となる
     1938(昭和13)02/合資会社「田中長一商店」に改組、改称
     1938(昭和13)頃☆三輪車“ニューエラ”を購入
     長崎市内で三輪車を備えた商店は10店もなかった時代
     1948(昭和23)04/長崎地区を始め、東京、福岡に営業拠点開設
     東京出張所は日本橋の三井村のそば(現・千疋屋)に構える
     のち東京出張所では特約店の看板がなかなかもらえず、卸業としての営業ができなかったためガラスの工事部門に進出
     1950(昭和25)12/本社を長崎から東京に移す
     1964(昭和39)07/木枠窓に代わるアルミサッシの需要の拡大と相まって、不二サッシ販売(株)の代理店となる
     1967(昭和42)日軽アルミニウム工業(株)、ユニテ(株)の代理店となる
     1968(昭和43)ホクセイアルミニウム(株)の代理店となる
     1973(昭和48)10/08株式会社タナチョーに改組改称を実施
  02/板硝子需要の旺盛にともない雑貨商を廃止して板硝子専業の川添硝子
     1908(明治41)08/台湾、朝鮮、満州方面へ販路を拡張
  03/09日本で初めての記念切手「明治天皇大婚25周年」が発売される
     紅色が内地用で2銭、青色が外地用で5銭
     デザインは菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツルが描かれる
  03/11長崎68戸129灯に初めて電灯がともる
  03/長崎市大浦町に、初代本田兼作が「梅月堂」を創業
     1913(大正02)03/2代目の藤四郎が店舗を長崎市本石灰町に移転
     1927(昭和02)03/浜町に移転し「梅月堂本店」として開業
     1958(昭和33)01/個人経営より法人組織に変更。資本金100万円で、有限会社梅月堂を設立
     1983(昭和58)09/組織変更により、株式会社梅月堂を設立
     長崎県多良見町市布名字尾上1530に工場新設
     1986(昭和61)07/和菓子部門を新設「菓匠穂俵」として新装開店
  04/11長崎市に管轄警察署長が指揮する消防組を設置される
  04/長崎古文書出版会が創設
     知事大森鍾一、松田源五郎、安中半三郎、荒木周道、田中岩三郎、西道仙らによる
     安中半三郎は長崎最大の書店「とらや号」を経営。市会議員や商業会議所副会頭などにも就いた名士
     長崎に関する史料を復刻。毎月1回、古文書を刊行。長崎叢書と題して会員に配布
  05/02新橋町に県内初の公共図書館「長崎文庫」が設置される
     1896(明治29)長崎文庫に収集保存された古文書が市民の閲覧に供される
  05/10長崎商業会議所の創立総会が開催
  06/05日清戦争における大本営が設置される
     1896(明治29)04/01大本営が詔勅によって解散
     1904(明治37)02/11日露戦争における大本営が設置される
     1905(明治38)12/20大本営が解散
     1937(昭和12)11/18支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため
     大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止に
     新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定
     1937(昭和12)11/20大本営が設置されそのまま大東亜戦争に移行
     1945(昭和20)09/13大本営が廃止となる
  06/12日赤長崎支部が設立
  06/20東京麹町山下町の宮内庁の建物(鹿鳴館)が明治東京地震で被災
     のち修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられる
     1927(昭和02)徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売却される
  07/15長崎で初めて給水制限が実施される
     人口増加により水道水が不足。梅雨期に雨量が少なく貯水量が減り1日12時間の給水制限を実施
     10/16断水が余儀なくされる
     12/26完全給水に戻る
  07/20日本汽船の長崎上海航路が運航停止
     日本郵船の庸船「アンゼルス丸」だけが英国旗を掲げ週1回就航
  07/25政府派遣の伝染病研究所長・北里柴三郎が香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄る
     1907(明治40)10/14北里柴三郎来崎
  07/27長崎でコレラ防疫に挺身中の警官1人が感染し殉職
  07/日清戦争が始まり長崎の清国人に引揚命令が下される
     しかし長崎県知事は「仮令(たとい)日清両国間に如何なる関係あるも在留人民に対し充分の保護を
     与ふるは当然の儀に付反目敵視粗暴の挙動無之様相心得べし」との諭告を発し、267人の中国人が残る
  08/01清国に宣戦布告。日清戦争が始まる
     1895(明治28)04/17日清講和条約(下関条約)が調印
  08/01政府派遣の東大教授・青山胤通が香港ペスト調査を終えての帰途、長崎に立ち寄る
  08/02大浦海岸通り2番地の清国領事館が閉鎖
  08/25北里柴三郎が破傷風菌を純粋培養して病原菌のペスト菌を共同発見する
     北里柴三郎は日本政府よりペストの蔓延していた香港に調査派遣
      ペストはペスト菌によって起こる病気で高熱を発し皮膚がカサカサになり、どす黒くかわる
      かかると死亡する可能性が大変高く恐れられる。ヨーロッパでは黒死病とも
     ほぼ同時期香港でアレクサンダー・イェルサンが北里とは別にペスト菌を発見
     イェルサンはスイス・フランスの医師でパスツール研究所の細菌学者でもある
  08/長崎県が日清戦争開始とともに赤十字社の方針により負傷者、疾病者看護のため看護婦募集を始める
     臨時促成看護婦養成既則を設け長崎病院で20人の看護婦を養成
     教育は医学部教授監督のもとで長崎病院医師が担当
  10/日清戦争のため「長崎くんち」(2)が傘鉾のみ奉納。踊は中止
  11/10長崎市役所が木造2階建て本館と平家建て別館を新築落成
  11/24東京音楽学校奏楽堂で日本で初めてのオペラが上演される【宮内省式部職付属音楽学校?】
     日清戦争義捐のための音楽会で演目はグノー作曲の『ファウスト』第1幕だけの部分上演
     指揮は音楽学校教授のフランツ・エッケルト、オーケストラ伴奏は宮内省楽部、合唱は音楽学校の生徒
     ファウストはブラッチャリーニ、メフィストフェレスはクーデンホーフ伯爵、マルグリートはヴァルナムがつとめる
     ゲーテの原作がドイツ語なのに対して、オペラはフランス語。フランス語題名は「フォスト」
  長崎県立長崎測候所と長崎郵便電信局との間に電信線が架設
     東京天文台から正午の時報が受信できるようになる
     1903(明治36)10/05市の要請で長崎測候所が風取山山頂の構内に午砲台を設置
     それまでの時撞と時旗での知らでは、市内の戸数2万戸、人口15万人すべてに行き届かないため
     大砲を撃ち正午を報せる。撃つのは市役所の砲手
     火薬をもって稲荷山に登り、測候所職員が近くでストップウォッチを片手に「用意」「撃て」と合図
     のち風取山が通称「どんの山」と呼ばれるようになる
     のち大砲は空砲に
     1941(昭和16)03/空砲がサイレンに変わる
     1941(昭和16)12/31正午を報せるサイレンが廃止になる
  矢上地区で両替、呉服商や旅館などを経営していた初代坂本寅一が金屋町に旅館「坂本屋」を創業
     のち長崎卓袱料理の代表のひとつ豚の角煮の東坡煮(とうばに)を作る
  東濱町の呉服店「徳島屋」(岡政)が呉服・太物の小売店を増設
     1920(大正09)雑貨部を開設
     1925(大正14)食料品部を増設、岡政呉服店に
  鳴滝のシーボルト宅が老朽化のため解体、跡地だけが残る
  長崎で英語を教えた米国人ラナルド・マクドナルド・ボートが死亡
     「ソイナラ・マイ・ディア・ソイナラ」と別れの言葉を口にする
  五島福江島、堂崎の養護施設が奥浦湾入口近くの丘の上に移転
     養護施設は孤児や病弱な子供を救済する養護施設。五島で最初の児童福祉施設
  倉場富三郎が外国系商社ホーム・リンガー商会に入社
     1899(明治32)06/横浜の英国人ジェームズ・ウォルターと日本人中野エイの娘中野ワカが結婚
  グラバー邸の増築された温室の屋根から突き出ていた一本松が老松となり病気に侵され切り倒される
  1806(文化03)に田中丸善吉がはじめた荒物商が日清戦争を機に佐世保へ進出
     1918(大正07)10/佐世保の栄町に百貨店「田中丸商店」として設立
  遊廓でのトラブルからフランス水兵騒擾
  「郵便報知新聞」を発行する報知社にの社主に三木善八が就任
     12/26「報知新聞」と改題
     1898(明治31)案内広告のはじまりとなる「職業案内」欄が創設
  県下の天然痘患者696
  銅座〜船大工町に架かる石橋の銅座橋が一部補修
     1915(大正04)12/鉄筋コンクリート造に架け替えられ大正橋と改称
  西浜町から新地蔵に架かる新地橋が中島川の変流で解体される
     1901(明治34)鉄橋(ガーター吊橋)となる

1894〜1895(明治27〜28)頃

  矢上村教宗寺の住職がいちごの苗を取り押せて鑑賞
  泉田某がそれを栽培

1895(明治28)【明治】 乙未(きのとひつじ)

  《総理大臣》[第5代]第2次伊藤博文内閣
  《知事》[第11代(官選)]大森鐘一
  《市長》[第1代]北原雅長(→06/07)、[第2代]横山寅一郎(06/22→)

  02/01日本初の路面電車が京都に誕生
     京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)〜伏見下油掛(京橋)間を開業
     当初は停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行なう
  02/フレノ神父の指揮の下、浦上天主堂が起工
     設計施工のフレノ神父は毎月日を決めて地区毎に積立金を集めてまわる
     資金が集まると石や煉瓦を購入し信徒たちが労働奉仕をする
     のち苦しい生活の中、信徒たちは金を積み立て石や煉瓦を買い労働奉仕で建設を進める
     資金難から工事は大幅に遅れる
  04/05日本初の1千瓲級貨客船「須磨丸」が竣工。三菱第65番船
     日本初の台湾航路として開設された大阪〜台湾航路に就航
     1563瓲、835馬力。日本初の二重底をもった船。それまでは単底の船ばかり
  04/17日清講和条約(下関条約)が調印。日清戦争が終結
  04/口之津船舶検疫所が開設
  05/九州鉄道・浦上(旧・長崎)〜長崎の路線延長に着工
     1905(明治38)04/05開通。台場町に長崎駅が新設
  06/19吉田健康が日見峠を越え蛍茶屋に凱旋
 07/04横浜クリケットクラブのトラックで自転車競技が行なわれる
  07/05県社準国幣社の諏訪神社が国幣小社となる
     1906(明治39)01/28はじめておみくじを備える
     日露戦争後、参拝者が急激に増えおみくじを希望する者が多くなる
  09/30(初発〜)県下のコレラ患者1717、うち死亡1189、患者の3分の1が西彼杵郡内住民
  10/21渡御。「長崎くんち」が日程変更10/23還御
     (3)…寄合町、油屋町、下筑後町、今籠町、今鍛冶屋町、
     西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、萬歳町、小曾根町
  10/市参事会員、市会議員、貿易商、隣港5村長により「長崎港湾改良及び浚渫期成同盟会」が結成
     市北部の浦上川からの土砂の堆積が進み、湾奥部から浦上川河口部にかけて干潟が現れる
     長崎港の改良事業の必要性を各所に働きかける
  11/08ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがエックス線を発見。レントゲン線と呼ばれる
     エックス線(X-ray)は物理学では波長が1pm〜10nm程度の電磁波のこと。放射線の一種
  11/20コレラ(猖獗)1748、うち死亡1220に達す
  半分の高さまで出来上がった頃、フレノー神父が自ら浦上天主堂の建築監督に当たるが完成を見ずに過労で死去
     日露戦争時工事が一時中断
  大浦25番地に「セントラル・ホテル」が開業
     1897(明治30)下り松バンドに移転、「クリフ・ハウス」と改称
  淵村字飽浦の淵小学校(旧飽浦小学校)が飽浦尋常小学校と改称
     1896(明治29)新築校舎が落成
  井上万次郎が寺町に井上仏具店を創業
  岩永金物店が創業
  島原出身の松田多次郎が本石灰町にすき焼き専門店「松亭」を創業
     大正はじめすき焼き専門店から料亭に切り替える
  大村町の出島教会(長崎監督教会)が長崎聖三一教会と改称
  浦上川上流に旧家の竹の久保六家が各50円をだし木橋の渕大橋(五厘橋)を架ける。通行料5厘
     架橋前は渡し舟が唯一の交通機関。かつての渡舟料金も5厘
     1934(昭和09)03/18浦上川の竹の久保町〜茂里町に架かる鉄筋コンクリート造の梁川橋となり架設
     1945(昭和20)08/09原爆で欄干が損傷
     1966(昭和41)鋼弦コンクリート造に架け替え
     1995(平成07)03/24都市計画道路の改良事業で本格的に架け替え。ゆったりとした幅5米の歩道ができる
     1995(平成07)12/22ブロンズ像2基が設置される
     彫刻家・山崎和国の作品。いずれも爆心地方向をむく
     上流側に平和のシンボル・ハトと若い女性の「平和讃歌」。時計がつるされる
     下流側にラッパを吹き鳴らす2人の子供の「希望の歌」。鐘がつるされる
  上戸栄助が吉井町立石に橋梁延長32.7米の樋口橋を架かる
     皇居の二重橋をモデルにして造られる
  小島川の正覚寺下辺り、油屋町〜本石灰町間に架かる石橋の玉帯橋が改修される
     1936(昭和11)コンクリート橋となる
  河野禎造が我が国最初の無機分析化学書「舎密便覧」を著す
     原本はドイツの分析化学者 H. Rose の「Handbuch der analytischen Chemie」
     オランダの H. Kramer Hommes が翻訳して1845(弘化02)に出版したものを
     オランダ軍医のファン・デン・ブルックが門弟の河野に与え、これを翻訳した
     河野禎造は筑前藩から長崎に来ていた第1次海軍伝習生
  酒屋「笠置屋」が港町・宿場町である伏見から東京方面へ販路を拡張、全国銘柄への歩みをはじめる
     1905(明治38)勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用
  日清戦争後、雲仙にハルピン、ウラジオストックからのロシア人避暑客が増加する
  榎津町の寄席「栄之喜座」が火災に遭う
     1903(明治36)11/23榎津町に「栄之喜座」が再建。実演劇場として落成
     1930(昭和05)06/09映画常設館の劇場「中座」となる
     ソ連映画を上演したりと、かなり実験的な映画館に

1896(明治29)【明治】 丙申(ひのえさる)

  《総理大臣》[第5代]第2次伊藤博文内閣(→08/31)
        [第2次伊藤内閣]伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任(08/31→09/18)
        [第6代]第2次松方内閣(09/18→)
  《知事》[第11代(官選)]大森鐘一
  《市長》[第2代]横山寅一郎

  04/01日清戦争の大本営が詔勅によって解散
     1904(明治37)02/11日露戦争における大本営が設置される
  04/01壱岐郡と石田郡が統合され壱岐郡となる
     1925(大正14)04/01壱岐郡武生水村に町制が敷かれ武生水町となる
  04/06近代オリンピック競技大会の第1回大会がギリシャのアテネで開催される。4月15日まで
     開会式はアテネのパンアテナイ競技場に5万人の観衆を集めて行なわれる。参加は欧米先進国の14か国
     選手は男子のみで280人。古代オリンピックと同じように女子禁制の大会
     実施競技は陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種
     ヨットも予定されたが悪天候のため中止に。ウエイトリフティングは体操の一種目として実施
     観衆に人気の陸上競技ではアメリカが圧倒的な強さを発揮し、全11種目のうち9種目において優勝
  05/バプテスト派の長崎伝道がウワーン宣教師と菅野半次師によってはじまる
     06/17東上町7番戸に敷地26坪、建物20坪の民家を借りる
     「浸礼教会長崎講義所」の看板を掲げ、本格的な伝道が開始。講義所には椅子はなく講壇1個のみ
     1902(明治35)10/07講義所を長崎市桜町18番地(市水道局隣接地)に移転
     「長崎浸礼教会」と改め新発足
     「長崎バプテスト教会」が誕生(浸礼とは水に浸す洗礼、つまりバプテスマを意味)
     民家は敷地79坪、建物22坪と広く、講壇のほか長椅子14脚が置かれ集会所としての機能アップ
     教会には、キリスト教関係の図書を取次販売する書店を設置。「福音書店」と称し文書伝道をはじめる
     1905(明治38)バプテスト派の最初の機関紙「星光」を発刊
     1926(大正15)09/26教会は長崎市勝山町4番地に新会堂を献堂して移転
     「浸礼教会長崎講義所」を「長崎バプテスト教会」と改める
     1945(昭和20)08/09会堂が原爆被災の影響もあり破損がひどく、雨漏りや危険を伴う状況に
     のち米国南部バプテスト教会より被爆地への会堂特別献金が献げられ、移転計画が進む
     1953(昭和28)05/03市内の片淵町1丁目に新教会堂を建て献堂式を挙行
     1994(平成06)09/24教育館と牧師館の新築並びに礼拝堂の修改築が完成。献堂式を挙行
  06/01横浜寄宿所内に病室を新築し日本海員掖済会として最初の医療施設、横浜掖済会病院をつくる
  06/高野房太郎が桑港から帰国
     1897(明治30)初/親友の城常太郎、沢田半之助らの協力を得て職工義友会を再建し運動を開始
     【詳しくは1869-01/06に】
  07/01渋沢栄一、浅野總一郎らにより東洋汽船が創立
     1908(明治41)04/22三菱造船所でわが国初のタービン船の天洋丸(東洋汽船)が完成
     全長168米、全幅19米、1万3454瓲、平均速力約20.6節、船価約4千万円
     建造費は工賃のみを三菱が請け負い、材料は東洋汽船が英国から支給
     燃料に初めて重油を使用。初めて短波無線送受信装置を採用
     客室設備は特別室をはじめ、ロンジ・喫煙室・読書室・食堂など豪華を極める
     桑港航路に就航
     1908(明治41)11/21三菱造船所で地洋丸が完成
     1911(明治44)08/15三菱造船所で春洋丸が完成
     天洋丸、地洋丸、春洋丸の3姉妹船は大きさ、速力、設備の面で世界有数の大客船
     1916(大正05)03/31地洋丸がニラより香港に向け航海
     途中、担杆(タンカン)島北東端で座礁、のちに解体
     1926(大正15)03/10桑港航路が日本郵船に移譲。天洋丸、春洋丸も移籍
     1933(昭和08)06/06天洋丸が東洋商事に売却。神奈川鶴見に曳航
     1933(昭和08)12/24天洋丸が浅野造船所で解体
     1936(昭和11)10/01春洋丸が解体のため東京の甘粕産業に売却
     1938(昭和13)02/18春洋丸が大阪で解体
  09/08西中町の旧大村藩屋敷跡地に煉瓦造り瓦葺きロマネスク洋式の西中町天主堂が竣工
     二十六聖人殉教300周年を記念し土地はフランスの富豪の未亡人が喜捨した8万フランを基金に旧大村藩蔵屋敷跡を購入
     外国人用の大浦天主堂以外に教会がなく増加する日本人信徒のため
     教会堂建設に着手。設計は仏人宣教師パピノー
     島内要助司祭の尽力とフランスのマルナス神父の協力による。まだ浦上天主堂はなく市内で一番大きな教会に
     1897(明治30)09/08献堂式が挙行される
     1925(大正14)09/台風により塔が崩壊
     のち再建
     1945(昭和20)08/09原爆で大破。火災で外郭の壁と尖塔を残して焼け落ちる
     1946(昭和21)信徒たちが木造の仮聖堂を建てる
     1951(昭和26)10/16残った礎石、外郭の壁と尖塔を生かして手作業で聖堂を修復再建
     屋根は単層、堂内は単廊式平面のロマネスク様式の建物に再建
     改めて「殉教者の元后」に捧げる献堂式が行われる
     1987(昭和62)聖トマス西と15人の殉教者が二十六聖人以来、125年ぶりに聖人の列に上げられる
     生月出身の司祭・聖トマス西ほか女性2人を含む16人が1633(寛永10)〜1637(寛永14)に西坂などで殉教
     1988(昭和63)記念して敷地内に碑が建てられ除幕式が挙行
     聖人の1人がフィリピンで最初の聖人ロセンソ・ルイスだったためマニラのハイメ・シン枢機卿により祝別
       聖ドミニコ・イバニェズ・デ・エルキシア(スペイン/司祭)
       聖フランシスコ右右衛門(エルキシア神父の協力者/修道士)
       聖ヤコブ朝長(大村/司祭)
       聖ミカエル九郎兵衛(朝長神父の協力者/信徒)
       聖ルカ・アロンソ(スペイン/司祭)
       聖マテオ小兵衛(アロンソ神父の協力者/修道士/18才)
       聖長崎のマグダレナ(ヨルダン神父の協力者/修道女)
       聖大村のマリナ(ドミニコ会第三会会員/修道女)
       聖ヨルダノ・アンサローネ(イタリア/司祭)
       聖トマス西(平戸/司祭)
       聖アントニオ・ゴンザレス(スペイン/司祭)
       聖ギヨーム・クルテ(フランス/司祭)
       聖ミゲル・アオザラザ(スペイン/司祭)
       聖ヴィセンテ塩塚(ドミニコ会/司祭)
       聖京都のラザロ(京都/信徒)
       聖ロレンソ・ルイス(フィリピン/信徒)
     のち中町教会を「聖トマス西と十五聖殉教者」に捧げられる
  09/25明治座で初世市川左団次一座の興行。25日間の全部を売り切り
     近所のそば屋の印を押した切手(売り切りそば券)を袋に入れて頭取から配る。大入袋のはじまり
  09/それまで民家や神社のお堂を校舎代わりにしていた稲佐小学校に立派な校舎が竣工。校長は坂本国五郎
     1898(明治31)長崎市に編入し長崎市立小学校に
  10/「長崎くんち」(4)…丸山町(本踊・段尻)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、築町(本踊)、
     東上町(獅子踊)、馬町(本踊)、大黒町(本踊・唐人船)、八坂町(小薩摩)、東浜町(本踊)、
     東古川町(川船)、本古川町(剣舞・軍艦)、銅座町(本踊)
  10/県庁の収税部が分離し長崎税務署が創設
  10/新潟の笠原田鶴子が「淑徳賢良の女子養成」の目的で出来大工町の中島川岸に長崎女子学院を開校
     0000(●●00)伊良林村に移る
     1901(明治34)01/鶴鳴女学校となる
     1912(明治45)04/鶴鳴実科高等女学校となる
     1920(大正09)05/鶴鳴高等女学校となる
     1921(大正10)上小島町に移る
  11/17日本初の活動写真が神戸神港クラブで上映
     高橋新治が輸入した「キネトスコープ」(ニーテスコップ/電氣作用寫眞活動機械)の映像を滞在中の小松宮彰仁親王に見せる
  11/25神戸で日本初の映画の一般公開が開始さる
     相生町の鉄砲火薬商、高橋信治が神戸花隈の神港倶楽部で上映
     「米国大博士エジソン氏新発明電気作用写真活動機会キネトスコープ」を輸入し上映
     スクリーンに映写されるタイプではなく1人ずつ覗き込んで見るタイプ
  11/台湾総督となり赴任途中の乃木希典将軍が長崎港に寄港
     大森知事等が主催して小島郷の西洋料理屋「福屋」で歓迎会を兼ねた晩餐会が開かれる
  12/28炉粕町の諏訪公園入口(旧安禅寺境内、現日銀長崎支店)に煉瓦造り2階建ての長崎商品陳列所(長崎市商工奨励館)が完成
     内外国の商品農工産物の見本を収集して業者の参考に供し、県市特産物の販路拡張を奨励するために設置
     1941(昭和16)長崎市立博物館として活用される
  淵村字飽浦の飽浦尋常小学校の新築校舎が落成
     1898(明治31)淵村が長崎市に編入。長崎市立の学校となる
  三菱合資会社三菱造船所に飽の浦第2ドックが竣工
  第九十九国立銀行(のちの親和銀行)佐世保支店が開業
     1907(明治40)佐世保銀行と改称。本店を佐世保に移転
  丸山町にすき焼き店「一二三亭」が創業
     のちお酒を飲んだ後に食べたい料理として「おじや」を創作
  長崎大山地区に教会が建立
     1952(昭和27)改築
     1994(平成06)新聖堂を建立
  長崎文庫に収集保存された古文書が市民の閲覧に供される
     1912(明治45)06/01新橋町の県有家屋を利用して県立長崎図書館を創設
     長崎文庫蔵書は新図書館に寄贈
  佐世保の西公園として景勝の誉れ高い地の割烹旅館に、初代首相の伊藤博文が台湾視察の帰途、休息
     眺望絶景万山の翠を賞でて萬松楼と命名
     のち東郷平八郎、永井柳太郎、西郷従道、野口雨情、西条八十、井上日昭、山本五十六など 政治家軍人や文化人が多数訪れる
     2006(平成18)01/30(株)万松楼が民事再生法を適用申請(負債31億円)
  立花銑三郎がダーウィンの著作を「生物始源」という題で日本初翻訳
  博多商業会議所が全国商業会議所連合会で九州と本州を鉄道でつなぐ趣旨の案を提出
     全国商業会議所連合会が関門海峡に鉄道隧道を建設する案を帝国議会に誓願
     1911(明治44)鉄道院総裁の後藤新平が土木技師の田辺朔郎に命じて関門海峡両岸の連絡手段を検討させる
     田辺は海底隧道により連絡可能と結論をだす。橋梁案は艦砲射撃への脆弱さから除外
     1918(大正07)政府は国会に初年度予算を計上
     翌8年から10か年継続事業で関門トンネルを完成させることが決議
     のち第1次世界大戦勃発、物価高騰。戦後も物価高
     1923(大正12)関東大震災が発生し国の予算は復旧費が最優先に
     1924(大正13)国会で関門トンネル建設工事が中止と決まる
     1931(昭和06)満州事変が勃発。軍需物資の輸送量が増え関門両側に滞貨の山ができる
     軍は本州〜九州間を貨物がスムーズに流れなくては国防に支障が起こると強硬な意見を主張
     1935(昭和10)関門トンネルの建設話が復活
     1936(昭和11)本州〜九州間に鉄道トンネルの建設を決定
     09/19☆門司側の工事現場で起工式が行なわれる
     1939(昭和14)04/19先通導坑(工事促進のため先に掘削した小トンネル)が貫通
     戦時体制下での輸送増強を目的に突貫工事で建設
     最先端のシールド工法(三菱重工業製のシールド)を駆使し、多量の湧水に対抗する難工事
     トンネルと海底との土被り(距離)が小さく、超小型潜水艇による調査が行なわれる
      坑内で頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえる。海底に坑内の空気が漏れ出す
     1941(昭和16)07/第1トンネルが貫通
     1942(昭和17)06/11急ピッチの工事の末、関門海底隧道の第1トンネル(6614米)が開通
     世界初の海底トンネル。試運転が開始される
  ロシアから720万ドルで買ったアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明
     買った当時、国務長官ウィリアム・H・スワードは「巨大な保冷庫を購入した」とアメリカ国民に非難される
     資源の発見でスワードの評価が高いものに変わる

明治20年代(1887〜1896)

  広馬場入口から銅座川までの本籠町68番地に貿易商兼倉庫業の本田平十が
     10棟続きの煉瓦造平屋建、切妻造の倉庫を建てる。通称・十軒蔵
     昭和初期7棟に
     戦後6棟に
     1970(昭和45)5棟に
     昭和50年代解体

1897(明治30)【明治】 丁酉(ひのととり)

  《総理大臣》[第6代]第2次松方正義内閣
  《知事》[第11代(官選)]大森鐘一(→04/07)、[第12代(官選)]小松原英太郎(04/07→)
  《市長》[第2代]横山寅一郎

  初/高野房太郎が親友の城常太郎、沢田半之助らの協力を得て職工義友会を再建し運動を開始
     04/高野房太郎は「職工諸君に寄す」と題するパンフレットをつくり労働者に配布。労働組合の設立を呼びかける
     のち演説会を開き、文書を配布して労働組合の意義を伝えまわる
     06/25職工義友会が東京神田の基督教青年会館で「我国最初の労働問題演説会」を開催
     席上、高野房太郎は義友会を代表して労働組合期成会設立の必要を説き来会者の賛成を求める
     07/05高野房太郎らにより労働組合運動の促進をめざす「労働組合期成会」が結成される
     【詳しくは1869-01/06に】
  01/西山神社に胸高幹囲約1米、樹高約7米の緋寒桜が植樹
     寒桜は旧暦の元日ごろ開花し元日桜ともいわれる
     西山神社の寒桜は1月上旬に開花し、2月上旬に終わる
  03/04長崎市栄之喜座で第5回九州医学会が開かれる(〜03/06)
  03/22日本人が初めて経営・編集した日刊英字新聞「ジャパンタイムズ」が創刊
     伊藤博文や福沢諭吉などの支援による
  05/21八坂神社境内で長崎初の活動写真上映が行なわれる。夜間興行
     【一説に05/31】
     映写幕は1間×1.5間、写真は風景等の実況約10種
     30分で特別席30銭、普通席20銭
  05/丸馬場上の高台の東照宮に社殿が建立される
     1901(明治34)長崎県知事大森鐘一の尽力で東照宮神社として再興、諏訪神社の境内神社となる
  06/04台湾基隆から入港の大阪商船「福岡丸」船内で死亡した婦人を検疫した結果、ペストと判明
  06/1206/04入港の福岡丸船乗船の男子船客発病し死亡内で死亡(長崎港に初めてペストが侵入)
  07/01第十八国立銀行が国立銀行制度改革で株式会社十八銀行と改称転換。営業を継続
     1907(明治40)十八銀行がウラジオストクに松田銀行部(十八銀行支店)を開業
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
  07/05高野房太郎らにより労働組合運動の促進をめざす「労働組合期成会」が結成される
     期成会の母体となったのは、1891(明治24)にサンフランシスコで日本人労働者により組織された職工義友会
     高野房太郎は城常太郎、沢田半之助の職工義友会の仲間とともに仮幹事に選ばれる。片山潜も加わる
     労働者が中心のものの一部財界人、知識人が資金を援助し演説会に出演するなど
     秀英舎(大日本印刷)の社長佐久間貞一、東京工業学校(東京工業大学)講師の鈴木純一郎、高野の弟岩三郎ら
     のち期成会に積極的に応じ、会員に加わったのは鉄工関係
     鉄工は旋盤工や仕上工、缶詰工など金属関係の職工の総称
     多くは東京砲兵工廠や石川島造船所、日本鉄道大宮工場など比較的大規模な工場で働く労働者
     12/01労働組合期成会の働きかけで日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が創立される
     【詳しくは1869-01/06に】
  07/22九州鉄道により長崎(現・浦上)〜道ノ尾〜長与が開通。開業当時の乗客数は1日平均700人
     日清戦争後の時運に乗った形での開業
     長崎駅から長崎の市街地へは埋立てがなされておらず、海岸線沿いの狭い道を通らなければならない
     1905(明治38)04/05台場町に長崎駅を新設
     それまでの長崎駅は浦上駅に変更し長崎〜浦上(旧・長崎)が開通
  08/01海星高校の新校舎が建設され「長崎県立長崎測候所」の観測に支障をきたす
     長崎県立長崎測候所は西彼杵郡戸町村大浦郷字日南平(現大浦元町129番地)に移転
     1939(昭和14)11/国へ移管され「長崎測候所」と改称
  08/20イギリスの細菌学者ロナルド・ロスがハマダラカ(羽斑蚊)類の蚊の胃の中からマラリアの原虫を発見
     蚊がマラリア(原虫)の感染の原因であることを証明する
  08/3008/20〜30の県下郡市の赤痢患者79、うち死亡6
  09/01英字新聞「キューシュータイム」が956号で廃刊
     1897(明治30)09/06F・リンガーが買収
     「ナガサキ・プレス」と改め2頁の日刊紙に。経営陣には倉場富三郎も
  09/03長崎県医・市医会長の吉田健康が死去
  09/06英字新聞「キューシュータイム」をF・リンガーが松が枝町で買収
     「ナガサキ・プレス」と改め2頁の日刊紙に。経営陣には倉場富三郎も
     1929(昭和04)08/廃刊
     【1928(昭和03)?】
  09/08西中町の西中町天主堂で献堂式が挙行される
     1925(大正14)09/台風により塔が崩壊
  09/「佐世保要塞」が建設を開始。高後崎砲台・面高堡塁砲台が起工
     1936(昭和11)08/「長崎要塞」に吸収合併される
  10/「長崎くんち」(5)…寄合町(本踊)、桜町(剣舞)、
     小川町(本踊)、内中町(竹の芸)、西上町(本踊)、八百屋町(曳段尻)、勝山町(大薩摩)、
     恵美須町(恵比須船)、紺屋町(本踊)、炉粕町(本踊)、伊勢町(本踊)
  10/23長崎港湾第2期改良工事が第1期完成後4年で起工
     起工式が大黒町の旧台場跡陸軍用地にて盛大に行なわれる
     長崎湾奥部から大黒町、大波止、出島前面を埋立てと港湾施設の整備を目指す
     第1期完成後わずか4年で土砂が堆積
      港湾面積150万坪の10分の1は干潮点以上に露出し船舶の停泊が不便なため
     急いだ理由…大阪・神戸の大築港計画による長崎港の地盤沈下の不安
      日清戦争後の活況での貿易の拡大など
     今回の工事の最大目標は水深確保
      最干潮時に5尺(1.5米)を維持するため、浅い海を埋立て陸地が拡大
     1904(明治37)11/16完成。24町が新設
  11/八幡町に「八幡座」が落成
     1943(昭和18)08/09「長崎歌舞伎座」に改称
     1947(昭和22)04/23失火のため廃座
  12/01労働組合期成会の働きかけで日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が創立される
     1898(明治31)11/高野房太郎は期成会常任幹事、鉄工組合常任委員を辞任
     生活協同組合運動の重要性を説き、横浜に共働店(生活協同組合)横浜鉄工共営合資会社を設立
     みずから経営にあたる
     【詳しくは1869-01/06に】
  12/01労働組合期成会の機関紙「労働世界」が創刊される。編集長は片山潜
     1899(明治32)01/「労働世界」に社会主義欄が常設され、毎号積極的に宣伝をはじめる
  唐人屋敷内の八●(ビン・門かまえに虫)会所を建物を全面的に改築。福健会館天后堂と改称
     1945(昭和20)08/09本館建物が原爆により倒壊。正門と天后堂のみが残る
     正門は三間三戸の薬医門形式
     中国風要素も若干含むが組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など主要部は和様の造り
     天后堂は外壁煉瓦造りで架構法など純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は和式
  大浦25番地の「セントラル・ホテル」が下り松バンドに移転、「クリフ・ハウス」と改称
  日本人の妻ツルとともに東京へ転居
     1899(明治32)03/23ツル(49)が東京のグラバー邸で胃癌のため死去
     遺体は火葬に付され長崎へ運ばれ太平寺の墓地へ埋葬
  デュラン神父が私財を投じ信者と協力して煉瓦造り平屋(290平方米)の聖堂・神ノ島教会が建つ
     正面に特徴的な八角ドームの大きな鐘塔をもつ
  寺町筋の麹屋町にのなか石材店が開業
  雲仙にイギリス人が経営するホテルができる
  高木喜三郎が小浜に旅館うぐいすやを創業
     のち増築を重ねる
     1964(昭和39)喜久屋を買収
     1967(昭和42)鉄筋4階、一部木造として完成
  中村文一が小浜に旅館熱海屋を創業
  長崎で開催の九州沖縄8県連合共進会に金銀細工を出展
  台湾より大ショウガが導入され矢上村、戸石で栽培される
  ドイツ宣教師が山東省で暗殺。この事件を理由にドイツ軍は青島占領する
     のち青島はドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道などが整えられる
     1914(大正03)11/ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略
  東京神田にミルクホールが開業される。これを契機に全国各地へ広がる
  市内に伝染病患者303
     うち赤痢66(死亡13)、腸チフス29(死亡13)、痘瘡7、狷紅熱2、コレラ2(死亡2)

1897(明治30)頃

  正覚寺境内の深廣寺が片淵の現在地に移転

1898(明治31)【明治】 戊戌(つちのえいぬ)

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