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〈江戸時代(17)〉

1860(安政07、萬延01・03/18)【孝明】 庚申(かのえさる)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》岡部駿河守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス(←02/28)

  01/01《安政06-12/09》日米修好通商条約により新潟が開港する
  01/04《安政06-12/12》日米修好通商条約により日米和親条約で開港した下田湊が閉鎖される
  01/13軍艦奉行の木村喜毅、軍艦操練所教授の勝海舟らが咸臨丸で品川を出港
     96人が乗組みアメリカに向けて約8923粁の旅する
     咸臨丸=艦種/木造蒸気内車、長さ/27間半、幅/4間、馬力/100ps、砲/12門
     1856(安政03)オランダのカンデルクで建造
     02/27サンフランシスコに入港【02/26?】
     帰路は03/19サンフランシスコを出港05/06品川に入港
  01/寄合町、筑後屋の遊女高歌と門屋の遊女玉男が馴染みの広東人から大浦の中国婦人が英船へ行くと同伴を頼まれる
     英船へ行くと英人から「是非乗船せよ」といわれ暫く乗り移り、やがて大浦に引き返す
     港会所から寄合町へ始末を糺し申し出よとの達しがある
     かねて申し渡してあるのに無視したのは不届千万であると遊女はもとより抱主まで厳しく戒められる
  02/開港後最初の伝道者、米国監督教会宣教師リギンスが病のため帰国
  03/24《03/03》江戸城桜田門外にて水戸藩、薩摩藩の浪士が彦根藩の行列を襲撃して大老の井伊直弼を暗殺。桜田門外の変
  03/浪之平海岸付の小曽根町築地に南接して大浦湾岸の浜百姓の替え地を埋立て
     07/完工する
     梅香崎寄り元大浦番所から湾頭の石橋に至る沿岸に住む浜百姓の生計は、従来前面海上の漁業と湾内繋留の諸国回船目当て
     しかし外国船の来航に伴い回船の繋留場所が変更され、次いで第1次居留地造成でその地域が消滅
     従って「替え地嘆願」により大浦居住民の地域をそのまま浪ノ平替え地に移すことに
     のち埋立地は浪之平遊郭となる
  03/外国人に酒を飲ませるのを禁じる
  閏03/外国人を宿泊させることを禁じる
  04/08大雨出水で西浜町と東築町の間の長久橋が流れ、流家2戸
     1885(明治18)港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事で姿を消す
  04/08茂木村木場名山川河内で山崩れ、圧死32人
  04/外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じる
  05/蘇州から十二月家船主程稼堂が家族召使12人(うち女性4人)とともにアメリカ船で入港
     長崎奉行へ唐館入りを願い出て許可される
  06/長崎奉行所は遊女の外出は届けでが必要にもかかわらず勝手にしているのは不取締である
     又、隠売女、名付遊女の厳禁を達す
  06/提督ビリレフの命によりロシア海軍軍医3人が丸山の遊女屋へ遊女の検梅を申し出る
     遊女屋が拒否し引き返す
  06/重ねて密売春行為を取り締まる
     1864(元治01)02/重ねて密売春禁止の令を公布する
     1866(慶応02)12/重ねて売女の禁を布達
  06/悟真寺と平戸小屋の外国人休息所に当分ロシア人が寄泊することを許す
  07/20唐通事の鄭幹輔(50)が没する。墓所は崇福寺の後山
  07/日本で布教する若い3人の宣教師がメルセデス号で清国の上海を出帆
     途中、東支那海で暴風に遭い船が沈没
     3人はピエール・マリエ・セシエール神父(25歳)、アドリアン・ジャン・ジエール神父(24歳)、
     ナポレオン・アルフォンソ・フェリック・ソネ神父(23歳)
     うち2人が長崎へ派遣され1人が箱館へ派遣される予定だった
  08/15長崎居留地の地所規則が交渉の結果、制定される。居留地の性格、地代、管理、自治制を定める
     地所は永久貸与の契約による
     地代は年間100坪につき上等地(海岸通り)37ドル、中等地(裏通り)28ドル、下等地(山手)12ドル
     道路の修理、築造、下水口の設置、掃除などは日本政府が負担。経費は徴収した借地料の2割をあてる
     居留地には自治制をしき、経費はわが国が関与しない居留地内の徴収でまかなわれる
  08/稲佐郷にロシア遊廓(マタロス休息所)が公許される
     休息所使用願、水夫引揚げ届はロシア提督から長崎奉行所へ差し出される
     休息所はロシア軍艦の入港とともに開かれ出帆の間際に閉鎖
     丸山遊女の名儀で15才から22才までの女性がマタロス休息所にいく
  09/日本初の検梅として長崎稲佐の遊女の検梅が始まる
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  10/第1次外国人居留地の造成工事が完成。大浦海岸水域の大半を梅香崎側に埋立てる
     海面埋立て1万8525坪、背後の陸手と山手1万6127坪、計3万4652坪
  10/第1次外国人居留地の造成工事が完成。大浦海岸水域の大半を梅香崎側に埋立てる
     工事は天草赤崎村の庄屋北野織部が実家小山家の財閥を背景に請け負う大工事
     海面埋立て1万8525坪、背後の陸手と山手1万6127坪、計3万4652坪
  10/市中市民に非常用の穀類を貯蓄させる
  10/第1次居留地が完成したときには、すでに堀の内(小曽根町)、波の原(浪ノ平町)の小曽根築地で商行為が行なわれる
     小曽根六左衛門が築地造成のため多額の金額を拝借した福井藩はその貿易で藩の財政立て直しに
  10/日本布教を命じられたフューレ神父とプチジャン神父が那覇に上陸
     1862(文久02)12/那覇に待機中のフューレ神父とプチジャン神父を日本(横浜)に入国させる
  11/06エイブラハム・リンカーンが第16代アメリカ合衆国大統領に選出。共和党員として初の大統領となる
     選挙の最中、11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが良い」とアドバイスされ、ひげを生やす
  11/09画家で本興善町乙名、長崎会所目付の三浦梧門(53)が没する
  11/26暁、茂木村本郷の漁師弥六宅より出火。折からの烈風にあおられ大火に。344軒が焼ける
  11/外国人が大浦埋立地の地割りをし、道路幅、敷地寸法を揃え下水道を設ける
  11/本木昌造が長崎熔鉄所の御用掛となる
  12/末ハルデスが長崎熔鉄所の上棟式ののち解雇、帰国する
  松本良順らが検梅を行う。遊女揚代金1歩2朱、そのうち500文が遊女の取分に
     提督ビリレフの意向は
     1)一定の場所をロシアマタロス休息所に指定し風紀を取締る
     2)休息所に女性を呼びその女性に必ず検梅を受けさせ病気を予防する
  土佐藩郷廻(郷村査察職)の岩崎弥太郎が外国事情の偵察調査で最新の情報は吸収するものの
     客の接待や花街の遊興で金を使うほど遊びすぎ解任を申し出る
     のち藩命を待たず独断で帰国したのは不届きとして罷免される
     1867(慶応03)再度、来崎
     開成館貨殖局長崎出張所(土佐商会)の所長・後藤象二郎が大政奉還運動で上京のため岩崎弥太郎が主任に
  老中、安藤対馬守より回訓
     1)外国人が混血児を本国へ連れ帰ることを希望するなら、その母である遊女の承諾を得ること
     母の遊女に異義がなければ連れ帰っても良い
     2)混血児も幼児、青少年、壮年などであらうから後々の問題がないよう良く考え
     神奈川奉行、箱館奉行とも打合せて上申せよ
  英国の汽船が長崎にラムネをもたらす。長崎在住のオランダ人【イタリア人?】が外国人向けに製造を開始
     ラムネは最初、ポン水とかレモン水とか呼ばれる
     本来、レモン水に風味をつけた炭酸飲料がラムネとなるが、現在はラムネ瓶に入った炭酸飲料をラムネと分類
  長崎奉行岡部駿河守は神奈川奉行、箱館奉行と打合せ上申
     1)母の遊女に異義がなければ父は混血児を本国へ連れ帰って良い
     2)外国人が混血児を長崎に留置くならば母の遊女は混血児を貰切りにすることができる
     3)もし母の遊女が混血児を貰切りにする話がまとまらないときは、
     混血児は10才までは日本人として扱い市中に居住させ10才以上になれば外国人として居留地に居住させること
  老中稲葉兵部小輔が清国から紅花草弁、白花草弁、白花重弁の3種類の蓮根(食用蓮根)を取り寄せる
  1855(安政02)6月に長崎に入港した蘭軍艦フェデー号にオランダ国王侍従長リンデン伯が乗船
     リンデン伯は滞在中の見聞録をまとめ帰国5年目にして「日本印象記」を出版する
  幕府がポンペの要請により病院の設立を認める。名称は「養生所」とし場所は小島郷に決まる
  西山神社境内の井戸と椿原の水源とを接続する710米の水樋ができる
  出島水門の左右が荷揚場として225坪余が埋立。以降、港湾改良工事まで以下の埋立てが行なわれる
     1861(文久01)荷揚場がさらに幅4間、長さ10間(86坪余)と細長く延長
     1864(元治01)旧水門の南側がほぼ正方形に186坪理立て。貿易品の荷改所が設置
     1867(慶応03)06/出島の南側が長さ129間余、幅平均で4間(518坪)、
     荷改所の南東側が12間四方(144坪)をそれぞれ埋め立て、
     外国人が乗馬を楽しむ遊歩場と、Uターンの馬返し(馬廻し)とした
  アメリカが広馬場町にて仮設事務所を開き外交折衝に当たる
     1865(慶応01)10/21南山手乙5番地にアメリカ領事館を設置
  対馬に英吉利軍艦が来島
  長崎港艦船輸入数1、横浜1

1861(萬延02、文久01・02/19)【孝明】 辛酉(かのととり)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》朝比奈甲斐守(昌寿・前西丸留守居・03/22発令・05/12普請奉行転出・長崎在勤せず)
      高橋美作守(和貫・前勘定吟味役・05/12発令・09/着)、岡部駿河守(09/発・11/16外国奉行転出)
  《代官》高木作右衛門忠知

  01/22《萬延01・12/12》浦上村淵字飽の浦に建設中の「徳川幕府 長崎溶鉄所」を「官営長崎製鉄所」と改称
     05/04《03/25》長崎製鉄所工場が完成【05/07《03/28》?】
     キングポストトラス鉄骨造にプラスター塗りで仕上げた工場
     鍛冶場、工作場、溶鉄場の3工場で編成され8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の最新の工作機械蒸気機関が設置
     機械代9334両を含め工費は5万8千両。官立でなければ負担できない金額
  01/ロシア艦隊司令長官イワン・リハチェフから申し出
     長崎奉行、岡部駿河守へ悟真寺、光明庵、平戸小屋休息所その他船津浦の民家をロシア人への貸与を申出、許可される
  02/03露艦ポサドニックが対馬の占領を企てる。対馬事件
  02/多くの外国人が居留するようになり、英国領事が先頭に立ち大浦の居留地近隣に墓地の設置を求め日本役人と交渉
     日本側は応じ大浦郷字山仁田(大浦川上町)に5段造りの大浦外国人墓地(3374平方米【3778平方米?】)を設ける
     判読可能な最古の墓碑は文久01(1861)06/21に死去イギリス軍艦長ゼームス・ホーケンス・ホイットセッドのもの
     一時は13列5段に分けられ283の墓所が備えられる
     埋葬された多くは船員、自船が港に停泊中に病気や事故で死亡した人々
     1884(明治17)諸外国領事からの要請で墓地の左手に新しい区画(1〜15番)を増設
     1880年代後半事実上満杯状態になる
     3374平方米【3778平方米?】、墓碑252基
     大浦国際墓地の埋葬者数(208)
       イギリス(133)、アメリカ(30)、ドイツ(15)、フランス(8)、
       ポルトガル(6)、オランダ(5)、イタリア(2)、ノルウェー(2)、
       オーストリア(1)、スウェーデン(1)、デンマーク(1)、ベルギー(1)、不明(3)
     1888(明治21)04/23付近住民の保健衛生などの面から閉鎖
     1888(明治21)07/01正式に閉鎖され管理責任は長崎市に委ねられる
  03/浦上淵村立神郷に軍艦打建所が設置
     1863(文久03)04/幕府が神戸に海軍操練所を設立
     神戸操練所とすみ分けて造船工場に
     1864(文久04)01/立神の造船工場を立神造船所と改称しオランダから器械類を購入
  04/01川添家9代川添甚兵衛により出島の門前、江戸町にガラスを含む洋品雑貨の貿易を営む
     1894(明治27)02/板硝子需要の旺盛にともない雑貨商を廃止して板硝子専業に
     1908(明治41)08/台湾、朝鮮、満州方面へ販路を拡張
  04/第1次居留地の完成に伴い、仮泊地協定により4月をもって居留地への移動を決める
     大浦海岸通りの造成により仮泊地で待機していた山手地区一帯の貿易商人や商社が移動を開始
     ほとんどが英米系で、なかでも英国人は海岸に面する上等地を占領して活躍する
  05/04《03/25》浦上村淵字飽の浦に「官営長崎製鉄所」工場が完成【05/07《03/28》?】
     キングポストトラス鉄骨造にプラスター塗りで仕上げた工場
     鍛冶場、工作場、溶鉄場の3工場で編成され8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の最新の工作機械蒸気機関が設置
     機械代9334両を含め工費は5万8千両。官立でなければ負担できない金額
     1863(文久03)04/幕府は神戸に海軍操練所を設立
     長崎製鉄所より機械類の一部を移送、機械方職工数人を転任させる
     長崎製鉄所は神戸操練所の付属工場に
  05/15A・W・ハンサードが大浦居留地を我が国初の欧字新聞を創刊
     「The Nagasaki Shipping - list and Advertiser(ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー)」
     縦47糎、横36糎大、水曜(4頁)、土曜(2頁)の週2回発行タブロイド判
     内容は外国商社の広告、各国公館の公示・公報、絹や茶の市場価格、わずかに海外情報や長崎のローカルニュースなど
     第1面の全てが主に上海の企業をスポンサーとした広告
     最終面の船舶案内は日付、船名、瓲数、船長名、出港地(仕向け港)、積荷、荷主など詳細を極める
     1861(文久01)08/0228号で廃刊
     1861(文久01)10/21ハンサードは横浜に移り週刊新聞「The Japan Herald(ジャパン・ヘラルド)」を創刊
  05/マッケンジーが中国へ去りグラバーが仕事を引き継ぎ「グラバー商会」を旗揚げ
     マッケンジーの南山手1番地自宅を引き継ぐ
     のち若い武士たちに銃や艦船などの機械類を大量に販売。茶、絹、銀など、各地方の特産物を輸出
     日本茶の加工輸出業をはじめる
     1863(文久03)グラバーがマッケンジーの南山手1番地の土地を引き継ぎ家(グラバー邸)を建てる
     1864(元治01)艦船や武器の取引、不動産、地金取引、金融代理店的な仕事もはじめる
  06/21砲艦レヴァン号艦長の英人ゼームス・ホーケンス・ホイットセッドが下関で死去
     日本政府の要請で遺体は長崎へ移される
     09/30大浦墓地172番に改葬
     判読可能な最古の墓碑
     当日夜泥棒が貴重品を狙い棺をこじ開け物色
     英国政府が長崎奉行所に抗議文を送り付ける
  06/22唐人屋敷波止場広馬場に「インターナショナル・ボウリングサロン」が開業
     我が国初のボウリングレーン付社交サロンで、いわゆるボウリング場
     最高級ワインなど、いろいろな酒が格安で提供される
     (「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」より)
     ボウルは大中小の3酒類あり、ピンは9本。指穴はなく抱えるようにして投げる
     レーンの長さは現在の3分の2程度、ボウルを投げ、倒れたピンをピンボーイが元の一に並べ、ボウルを運んで返却した
  06/3月の奉行上申に基づき第2次外国人居留地造成工事に着工
     下り松海岸埋め立てと梅香崎山手埋立て
     12/下第2次外国人居留地造成工事が完成
     造成により大浦川南岸の南山手地区一帯が居留地の様相を整える
     弁天崎の下り松側に大浦川の水路を残して5791坪を埋立てる
     小曽根築地とつながり築地の海岸付3千坪が居留地に編入される
     居留地と修船場とのあいだの火除地800坪だけが除外され、背後の陸地地域とともに小曽根家の自由裁量に任される
     土地は、横浜、神戸では競売されたが、第1次、第2次で埋め立てられた土地は賃貸
     海岸付の上等地は100坪につき年37弗、背後の中等地は28弗、山手の下等地は12弗
     のち造られた10万余坪の土地を6地区155地所に分け、町名をつけて外国人に賃貸
     それぞれの土地は利便性や景観・賃金により上・中・下と3段階にランク付けに
     大浦海岸は上等地にランク。有力な外国人商人たちの商館や各国の領事館が建ち並ぶ
     中等地の東山手居留地の平地には金融機関・ホテル・病院・製茶場が軒を連ねる
     南山手居留地の台地は利便性に乏しく地代の安い下等地に
     居留外国人は居留地が狭いことを理由に、低地より港への展望がよいベランダ付きの山手住宅に長く住み着く
     このため下水道をはじめとしたインフラストラクチュアが整備。石畳で完全舗装された山手への坂道ができる
     のち海岸沿いに商社や倉庫が、背後にホテルや金融、病院、娯楽施設、輸出用製茶所が、山手に領事館や住居が建つ
  07/24新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」の記事
     英国人オルトが下り松の船大工J・ミッチェルのアバディーン・ヤード(造船所)でヨット「ファントム号」を建造
     「ファントム」は日本初のヨット。全長6呎、最大幅14呎、吃水6呎、排水量36瓲の大型スクーナー
  07/小島郷に養生所が完成
     08/16小島療養所が開所
  08/02ハンサードの欧字新聞「The Nagasaki Shipping -list and Advertise」が28号で廃刊
     1861(文久01)10/21ハンサードは横浜に移り週刊新聞「The Japan Herald(ジャパン・ヘラルド)」を創刊
  08/16下長崎村小島郷字佐古稲荷岳、425坪の敷地に日本初の西洋式病院小島養生所が開所。また医学所を開校
     【開所式は08/06?】
     東西22.7米、南北7.3米の2階建2楝には洋式8病室・124床・手術室・薬品室・隔離室・浴室・調理室を備える
     隣接した医学所が入る別棟に教室・講義室・奇宿舎をもつ
     医療器具は輸入するが、日本の臨床講義が可能となり本格的な現代医学教育が誕生
     食事はパン等の西洋式で、病室も風通し等を考慮にいれて設計された
     08/17診療開始
     1865(慶応01)医学所の学制をオランダ学則に準じ改める
     理化学・解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内科・外科の7科をおく
     1865(慶応01)04/上養生所が精得館と改称。医学所(医学伝習所)は付属機関に
     1868(明治01)改革により一般患者も治療ができるようになる
  08/17小島養生所にて診療を開始。養生所教頭ポンペ、同所頭取松本良順
  08/23英国軍艦「オーディン号」の乗組員たちが丸山歓楽街へ
     機関員チャールヅ・コリンズ(27)は泥酔、居酒屋の前に放置され1時間後、路上で遺体となって発見
     顎の骨が折れ、暴行の跡があったが、争った形跡はなかった
     遺体は稲佐国際墓地29番に埋葬、仲間が墓碑建立のため資金を募る
  10/21ハンサードが横浜に移り週刊新聞「The Japan Herald(ジャパン・ヘラルド)」を創刊
  12/13横浜天主堂(横浜聖心堂)が献堂式を迎える
     1863(文久03)08/29鐘の祝別式が行なわれる
     日本では永いことキリスト教が禁制であり異国風の建物も珍しく毎日1千人もの見物人が押しかける
     ジラール神父やムニクウ神父の流暢な日本語による説明が人気を呼ぶ
     キリストや聖母マリアの御絵までも貰い大切に持ち帰る有様
     のち瓦版などにより広く宣伝。天主堂の前には門前市が建ち並び旅籠屋では蒲団が足りなくなる
  12/新興善町の家持関平代利兵衛宅より出火。小間7間を焼失
      新興善町・関平代利兵衛
  12/下第2次外国人居留地造成工事が完成
     弁天崎の下り松側に大浦川の水路を残して5791坪を埋立てる。小曽根築地とつながる
     大浦川左岸の南山手一帯の居留地の様相を整える
     土地は、横浜、神戸では競売されたが、第1次、第2次で埋め立てられた土地は賃貸
     海岸付の上等地は100坪につき年37弗、背後の中等地は28弗、山手の下等地は12弗
     のち造られた10万余坪の土地を6地区155地所に分け、町名をつけて外国人に賃貸
     それぞれの土地は利便性や景観・賃金により上・中・下と3段階にランク付けに
     大浦海岸は上等地にランク。有力な外国人商人たちの商館や各国の領事館が建ち並ぶ
     中等地の東山手居留地の平地には金融機関・ホテル・病院・製茶場が軒を連ねる
     南山手居留地の台地は利便性に乏しく地代の安い下等地に
     居留外国人は居留地が狭いことを理由に、低地より港への展望がよいベランダ付きの山手住宅に長く住み着く
     このため下水道をはじめとしたインフラストラクチュアが整備。石畳で完全舗装された山手への坂道ができる
     のち海岸沿いに商社や倉庫が、背後にホテルや金融、病院、娯楽施設、輸出用製茶所が、山手に領事館や住居が建つ
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  奉行高橋美作守は奉行出馬の際の出動場所変更を絵図面とともに町年寄に申し渡す
     長崎会所、大音寺、西役所、唐人屋敷、出島居留所等の朱線内は風向き等に関係なく奉行が出動
     御船蔵外9箇所の二重朱線は組頭1人が出動、大火の際にはいずれの場所にも奉行が出動
  英国領事館が東山手甲13番地に移転
     1863(文久03)下り松バンドに移転
  石橋から東山手に通じるオランダ坂の石畳ができる
  種痘所を西洋医学所と改める
     1863(文久03)西洋医学所を医学所と改め機構を改変し漢方の医学館と同格となる
     1865(慶応01)オランダ学則に準じ医学所の学制を改める
     理化学・解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内科・外科の7科をおく
     1865(慶応01)04/上養生所が精得館と改称し医学所は付属機関となる
  新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に、初めてビールの宣伝広告が掲載
  松翁軒7代熊吉が飾菓子の名手としてその名が知られる
     のち8代貞次郎は珍重されるチョコレートに心惹かれ元祖伝来のカステラにチョコレートの味を加える
     1890(明治23)8代貞次郎はパリの大博覧会にカステラを出品。金牌を受賞
  出島の荷揚場が幅4間、長さ10間(86坪余)と細長く延長
     1864(元治01)旧水門の南側がほぼ正方形に186坪理立て。貿易品の荷改所が設置
  ロシアの軍艦が対馬の美津島町尾崎浦に上陸
     船の修理場づくりを口実に諸施設をつくり基地設置をはじめる。ロシア軍艦対馬占領事件
     半年後英国などの詰問により退去。村民の2人が死亡
  出島オランダ印刷所がシーボルトの著「日本からの公開状」を出版
  フランス人実業家ユージーン・ピナテールが事業を上海から長崎に移転。大浦10番地を割り当てられる
     のち出島5番地に自宅と会社をしつらえる
     のち10代の息子ヴィクトールとシャルルが来崎
     主に食料品、洋酒類を扱う家業の「ピナテール商会」を手伝う
     1870(明治03)父ユージーンが死亡。商会が息子2人に引き継がれる
     のちヴィクトール・ピナテールが丸山随陽亭遊女の正木と恋に落ち、身請けをして結婚
     3年後正木が病に倒れ急死。正木が遺した朱塗りの箱枕をいとおしみつつ余生を独身で過ごす
     のちシャルルは銀行関係の仕事をするためフランスへ帰国。ヴィクトールは長崎で家業を引き継ぐ
     1922(大正11)01/30ヴィクトール(75)が出島の自宅で病気のため死亡。遺体は坂本外人墓地に埋葬
  天然痘流行
  長崎港の茶輸出高が260万ポンドに。長崎の茶は横浜の生糸とならんでわが国の主要輸出品
  長崎港艦船輸入数1、横浜1

1862(文久02)【孝明】 壬戌(みずのえいぬ)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》高橋美作守(07/召還・08/16退任)、妻木源三郎(奉行事務)、
      大久保豊後守(忠恕・前目付・06/05発令・09/着)
  《代官》高木作右衛門忠知

  01/01第1回遣欧使節がイギリス軍艦オーデンに乗り長崎を出帆
     正使竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)、副使松平康直(神奈川奉行兼外国奉行)、目付京極高朗ら一行総員36人
     なかには咸臨丸で渡米した福沢諭吉や通訳として福地源一郎、翻訳官として箕作秋坪、松木弘安(寺島宗則)らが加わる
     香港〜インド洋〜スエズマルセイユを経てパリに入り、さらにロンドンを訪問
     オランダからベルリンを訪ね、北上してロシアの首都ペテルスブルグへ
     帰途はパリからポルトガルの首都リスボンを経て、往路と同じ道をとる
     12/106か国を公式に訪問し江戸品川に帰る
  01/08組頭、日行使、小使、番屋爺が遊女屋をまわり宗門人別改めを行う
  01/09町役人が遊女屋をまわり遊女、禿、遣手の誓詞血判をさせる
  01/12創建横浜天主堂(聖心教会堂)が祝別
     古典様式にもとづく神殿風のポーチを持つが内部天井の形式は不明
  01/寄合町の門屋、遊女妻栄が飽の浦製鉄所の鍛冶頭ヤンセンとの間に女児を生む
  03/12蘭医の二宮敬作(59)が没する
     二宮は伊予宇和島の生まれでシーボルトに師事し外科、産科に通じる。シーボルトの娘楠本いねの面倒をみる
     一度、宇和島で開業するがシーボルトの再渡来を迎えて長崎に移り諏方町で死去。晧台寺、楠本家の墓地に眠る
  春/下岡蓮杖(40)が横浜の弁天通に写真館を開業する
  春/オランダ貿易会社長崎支店顧問のシーボルトが幕府に献言しようとしてオランダ総領事に妨げられ帰国
  04/29幕府が初の上海渡海互市(交易)のため長崎からバーグ型帆船「千歳丸」(358積瓲)を上海へ向けて派遣
     開国後初の官営貿易の試み【1861(文久01)?】
     千歳丸には幕府使節や長崎の中堅商人が乗組み
     ほかに藩命による長州藩高杉晋作、薩摩藩五代才助、佐賀藩中牟田倉之助ら総員51人が乗組み
     05/06上海到着
     08/09《07/14》長崎帰着。試売品は水産物、雑貨類、返り荷は綿・毛織物類
  05/09幕府使節の竹内保徳らが英外相との間にロンドン覚書を調印
  05/老中、安藤対馬守から長崎奉行所へ
     1)混血児は年令の長幼にかかわらず、
       すべて父の外国籍とし日本人の人別に加えぬ積もりであることを外国領事へ談判せよ
     2)混血児出産の場合はその度に届出、居留外国人の人別増減を1年一度づつ各国領事から報告させること
     のち長崎奉行が領事と交渉したがオランダ領事は遊女との間の混血児をオランダ人として承認することを拒絶
  06/08教皇ピオ9世が「西坂で殉教した26人を聖人に列する」ことを宣言。以降「日本廿六聖人」と呼ばれる
     1864(元治01)12/2926聖人に捧げて、大浦天守堂が西坂の丘に向けて竣工
  07/06シーボルトがオランダ貿易会社長崎支店顧問として子のアレキサンダとともに再来日
  07/グラバーらの発起により戸町村字古川海岸に外国人の食用のため解牛場(屠牛場)を開設
     戸町村古河海岸500坪(約1650平方米)の土地を借り受ける
  07/長崎英語所(英語稽古所)が立山奉行所の東長屋に移転
     12/江戸町の元五箇所宿老会所跡に移転、洋学所と改称
  07/コレラが流行し養生所で施薬する
  07/寄合町の筑後屋、遊女初瀬が飽の浦製鉄所の銅器師頭役イ・ハ・ウェイスセンビュルグとの間に男児を生む
     男児はほどなく死去
  07/高橋美作守が幕府に召還され目付妻木源三郎奉行の事務をとる
  08/19幕府使節の竹内保徳らが露外相との間に開港開市延期、樺太国境は改めて確定との協定を調印
  08/21島津久光の行列護衛にあたっていた薩摩藩士が英人を斬る「生麦事件
     1863(文久03)05/イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から賠償金10万ポンドを受け取る
     08/06《06/22》ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため7隻の艦隊とともに横浜を出港
     08/11《06/27》イギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7粁の谷山郷沖に投錨
     08/12《06/28》イギリス艦隊が前進、鹿児島城下前之浜約1粁沖に投錨
     艦隊を訪れた薩摩藩の使者にイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償金2万5千ポンドを要求
     薩摩藩側は回答を留保、翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案する
     08/13《06/29》イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める
     のち交渉が決裂し
     08/15《07/02》英艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と戦う。薩英戦争
  閏08/幕府服制を改め熨斗目長袴を廃す
  09/10長崎養生所のポンペの後任としてウトレヒト軍医学校の教官ボードインが着任
     ポンペ・ファン・メールデルフォルトは帰国
     オランダ軍医学校のカリキュラムで医学教育を行なう
     より高度な実地重視の教育、治療が充実し、日本の医療技術がヨーロッパのレベルまで引上げられる素地に
     120種の薬と15種の器具をオランダに注文
     日本滞在5年のうち、種痘の公認、梅毒検査、公娼制度廃止を唱えるなど多く の功績を残す
  09/11幕府最初の海外留学生らが長崎からオランダに向かう
     内田正雄、榎本武揚、赤松則良ら11人(海軍)、津田真道、西周(法学)、伊東玄伯、林研海(医学)
     1863(文久03)04/18到着
  09/22アメリカ南北戦争のさなか第16代大統領リンカーンが奴隷解放令をだす。予告版
     連邦軍が戦っていた南部連合が支配する東部諸州の地域
     1863(文久03)01/01連邦側にまだ戻っていない全ての州の奴隷が解放されることを宣言
     リンカーンは奴隷解放宣言に署名、合衆国に公然と反旗を翻している州の奴隷たちを解放する
  10/東山手11番地(928坪)に外国人のための日本初の新教(プロテスタント)の教会が完成【1863(文久03)秋/?】
     教会は「聖公会礼拝堂(英国聖公会会堂)」という
     土地は928坪、借地名義人は英国領事モリソン、所要経費は整地費を含め銀1782分、居留外国人の献金による
     教会は米国聖公会派遣宣教師C・M・ウイリアムズ師にチャプレン(礼拝堂付牧師)に委嘱した
  11/上野彦馬が帰郷。新大工町中島川端の父俊之丞の製煉所に写真館・上野撮影局を開く
     試行錯誤の研究の末、写真撮影の技術を習得。撮影局には内外人が訪れ繁盛
     ダゲレオタイプ(銀板写真法)より新しいコロディオン法(湿板写真法)を使い人気を集める
     1874(明治07)12/09金星が太陽面を通過する現象を撮影。失敗
     1877(明治10)長崎県令の北島秀朝の勧めで西南戦争に従軍
     新政府軍から戦場写真の撮影を依頼され門弟2人と戦場へ
     21日間にわたり暗箱を人夫8人に担がせ転々とする戦場を駆け巡り、4つ切り記録写真69枚、207枚を撮影
     1890(明治23)ウラジオストクに支店を開設
     1891(明治24)上海、香港に支店を開設
     1893(明治26)明治天皇、昭憲皇太后の写真を複写し、400枚を焼付し、九州全域の学校に納める
     1902(明治35)東洋日の出新聞に「日本写真の起源」19回連載を口述
  12/長崎英語所(英語稽古所)が江戸町の元五箇所宿老会所跡に移転、洋学所と改称
     1865(慶応01)01/大村町に移転、語学所と改称。露・英・仏を教授
  12/パリ外国宣教会のジラール神父の指令で那覇に待機中のフューレ神父とプチジャン神父を日本(横浜)に入国させる
     聖地「長崎」での布教と「日本二十六殉教者聖堂」の建設のため日本に入国させる
     1863(文久03)01/フューレ神父が長崎へ
     08/05プチジャン神父が横浜から長崎へ
     10/フューレ神父が司祭館の設計・建築に着手、聖堂の設計も並行して進めるがフランスに帰国
     残ったプチジャン神父が聖堂の建設と日本人への布教策を練る
     11/ローカーニュ神父が長崎へ赴任
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、平戸町、
     八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     西浜町の傘鉾垂れ「姑蘇十八景の図」が製作される
  英語伝習所が片淵郷組屋敷内乃武館(だいぶかん)に移転、長崎英語所(英語稽古所)と改称
     頭取に中山右門太、柴田大介。教員は4人に
     1863(文久03)07/立山奉行所の東長屋に移る
     何礼之助、平井義十郎が学頭に。他教師は4人
     12/江戸町の元五箇所宿老会所跡に移転、洋学所と改称
     これまでの英語に加えて蘭学の授業も
     レフォームド教会の宣教師フルベッキが英語教授として嘱託
  出島のドクトル・ポンペ・ファン・メーデルフォールトの「日本記」に遊女制度についての記述
     1)遊女制度は幕府が之を保護し社会も之を認めているが、遊女制度は廃止すべきであり何度も申出たが成功せず
     2)薩摩藩では遊女制度を厳禁しているが隠売女がいる。日本人はこのような情事を不正とは思っていない
     3)貧困な親は5、6才の娘を遊女屋に売る。娘は遊女屋で読み、書き、歌曲、三味線を習う
     嘘付き、窃盗偽瞞は厳しく罰せられる。おそらく家庭でよりもより善く学ぶ
     4)ヨーロッパでは女性が自発的に娼婦になり、そのため社会から爪弾きにされる
     日本では親のために遊女に売られるので社会は娘よりも親を批難する
     5)西洋諸国は日本の人身売買に異義を提出することに努めないで良いであらうか
     キリスト教的観念からも無関心であってはならない
     遊女の中には親の犠牲になり肺結核で倒れる者が多い
     私自身も盲目の父の犠牲になった遊女を身請して父の許に返したことがある
     6)25才になると遊女は自由の身となり名誉ある婦人として社会に復帰することができる
     こうしてよき母になった者を、私は幾人も親しく見た
     反して隠売女は甚だ厳しく蔑視され社会の最下位として取扱われる
     7)遊女屋に対して厳重な医学上の監督が必要であるが日本政府はなにひとつ行わない
     ヨーロッパ諸国はその勢力を用いて日本政府に対し批難を理解させるよう努めなければならない
  上海から戻った高杉晋作が長州藩のお粗末な軍備に不安を抱く
     藩に独断で、長崎で売り物にでたオランダ蒸気船を2万両で購入
     「敵を防ぐには軍艦や大砲が必要と説くが聞き入れられず、売買は破約となる
     1865(元治02)伊藤博文と洋行という名目で2度目の来崎
     グラバーに説得され洋行を断念。軍備強化の相談をする
     1866(慶応02)3度目の来崎。目的は薩長同盟に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ
  外国人居留地より出火
  市中各所に火候所(火事見張所)を置く。出火の際は町役人が指揮して半鐘を打ち鳴らす
     出火場所を知らせ火消人夫の招集までは2点、鎮火の節は5点当て打ち鳴らす
     火災の際の報知は従来は聖福寺、大徳寺その他の吊鐘によっていた
  津藩食客の上野彦馬が藩の子弟のため講義用として「舎密局必携」(最古)を著す
     化学実験室必携ともいわれ漢字で元素記号と化学式を表わす
  日本初の「英和対訳袖珍辞書」が刊行。編者は通詞出身の堀達之助
  出島オランダ印刷所がポンペ著「薬学指南」を印刷
  本木昌造が自著「秘事新書」で硬石けんの製造法を紹介
  水戸藩主徳川斉昭の16男で慶喜の弟、忠和が島原藩最後の藩主に就任
  近代日本の最初のカトリック教会、横浜天主堂が創建
     1923(大正12)09/01関東大震災で焼失
  長崎に麻疹大流行
  長崎在留外国人数178人(清98、米37、英31、和蘭5、葡4、仏2、露1)
  6月から9月までの外国商船入港数45
  長崎港艦船輸入数3、横浜8

1862(文久02)頃

  フランスが小島郷大徳寺内に仮事務所を設置
     1863(文久03)南山手15番地にフランス領事館を開設。初代領事ジュリー
     07/東山手甲13番地の英国領事館跡に移転
     1870(明治03)普仏戦争にて一時閉館
     1900(明治33)再開
     1908(明治41)閉館しロシヤ領事館に委託
     1920(大正09)三度目の開館

1863(文久03)【孝明】 癸亥(みずのとい)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》服部長門守(常純(左衛門左・筑前守・越前守)・前小納戸頭取・04/26発令・05/着)、
      大久保豊後守(05/発・06/12大目付兼任道中奉行)、
      大村丹後守(純煕・大村藩主・05/26発令・08/08総奉行・長崎在勤せず)、
      杉浦兵庫頭(勝静・前目付・07/23発令・07/29再び目付転出・長崎在勤せず)、
      京極能登守(高朗・前神奈川奉行・09/08発令・11/28騎兵奉行転出・長崎在勤せず)
  《代官》高木作右衛門忠知

  初/英艦数隻が神奈川にきて種々強要する。対英関係が緊迫し江戸や横浜で大いに人心が動揺する
     02/対英戦争の危機が報じられ在勤諸役の家族や市民の避難所を大村の放虎原に定める
     そのため臨時立退方取扱掛を置く
  01/01《文久02-11/12》日米修好通商条約により兵庫が開港する
  01/01アメリカ連邦側にまだ戻っていない全ての州の奴隷が解放されることを宣言
     リンカーンは奴隷解放宣言に署名、合衆国に公然と反旗を翻している州の奴隷たちを解放する
  01/02南山手15番地にフランス領事館を開設
     07/東山手甲13番地の英国領事館跡に移転
  01/10世界初の地下鉄がロンドンで開通する
     メトロポリタン鉄道のパディントン駅〜ファリンドン駅間
     列車は10分毎に運転。初日には4万人の利用客
  01/20神奈川奉行阿部正外は横浜天主堂に捕吏を遣わす
     見物していた50余人の中、33人を捕まえ戸部村にある奉行所の牢に入れる「横浜天主堂事件」
     事件を目撃したジラール神父は早速にフランス国公使ド・ベルクールへ知らる
     公使は神奈川奉行に釈放を求めたところ幕府は直接交渉してもらいたいと言う
     01/26幕府老中に掛け合う
     02/05老中は神奈川奉行に釈放を命じる
     02/14この日までに全員が釈放されて事件は収まる
  01/外国人居留地の埋立てがほとんど完成。居留地の区域を定め町名を付ける
     大浦海岸5間築足(1090坪)、梅香崎海面(3800坪)
     新設町は出雲町、広馬場町、梅ケ崎町、常盤町、下り松町、大浦町、東山手町、南山手町
  01/フューレ神父が横浜から長崎へ
     パリ外国宣教会のジラール神父が聖地「長崎」での布教と「日本二十六殉教者聖堂」の建設のため日本に入国させる
     08/05《07/04》ベルナルド・タデ・プチジャン神父がフューレ神父に遅れて横浜から長崎に入る
     教会建立に加わるためプチジャン神父は那覇で日本語と日本キリシタン史の勉強に励む
     特にキリシタンの子孫の発見を期待して心を燃やす
     10/フューレ神父が司祭館の設計・建築に着手、聖堂の設計も並行して進めるが休暇をとりフランスに帰国
     残ったプチジャン神父が聖堂の建設と日本人への布教策を練る
     11/ローカーニュ神父が長崎へ赴任
  01/22《1862(文久02)12/03》フューレ神父が居留地に付随した天主堂を作るため横浜から長崎に入る
     出島のオランダ人宅に泊まるがフランス領事レオン・デューリーのいる小島郷本籠町の大徳寺にも仮寓
     02/13《12/25》今籠町の崇福寺付属の高嘯庵を借りようと長崎奉行に申し入れるが居留地ができており断られる
     直ちに居留地に隣接する現地の入手申請、先ず司祭館の設計・建設に着手。聖堂の設計も並行して進める
     10/司祭館の設計・建築に着手、聖堂の設計も並行して進めるがフランスに帰国
  02/朝延が島原侯松平主殿頭に勅し、諏方社の再建を急ぐよう命じる
     1864(元治01)再建に着手。本社拝殿は長崎会所が負担
  03/聖福寺、大徳寺の鐘を連打させることで、非常の際の報知の法を定める
     非常の際は適宜、火事具または着込みを着し武器携帯を許す
  03/奉行は老若男女、やもめ暮らし、孤独者を優先して扶助退去させるよう各町乙名に命じる
     幕府は島原侯に茂木浦を警備させるよう命じる。まさに臨戦態勢状態に
  春/イギリスに帰化したイタリア人フェリックス・ベアトが来日
     1865(慶応01)横浜の外国人居留地に画家ワーグマンと商業写真館を開業
     その作品をアルバムに仕立て多数販売
     のち不動産や洋銀相場などに関心を移し共同経営を解消
     のち写真館、ネガ、顧客をスチルフリードに売り渡す
     1884(明治17)離日
  04/18前年9月に長崎を発った幕府最初の海外留学生らがオランダに到着
     内田正雄、榎本武揚、赤松則良ら11人(海軍)、津田真道、西周(法学)、伊東玄伯、林研海(医学)
  04/大久保奉行が市民へかまど銀や貧民救助米を前渡し退避の資としたことで、市民はこれを恩に
     奉行が江戸へ帰るときは大勢の市民が旗を立てて見送り恩を謝す
  04/幕府が神戸に海軍操練所を設立
     長崎製鉄所より機械類の一部を移送、機械方職工数人を転任させる
     長崎製鉄所は神戸操練所の付属工場に
     1868(明治01)06/19明治政府に収められ長崎府判事の総轄のもと経営
     官営長崎製鉄所となり工部省所管長崎造船局と改称
  04/立神の軍艦打建所が造船工場に
     幕府が神戸に海軍操練所を設立したことで、すみ分けをするため
     1864(文久04)01/立神の造船工場を立神造船所と改称しオランダから器械類を購入
  05/18幕府が英仏守備兵の横浜駐屯を許す
  05/攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(関門海峡)を封鎖
     05/10長州藩が下関で米船を砲撃する
     のちついで仏、蘭艦にも砲撃。下関事件(下関戦争、馬関戦争)
     06米仏軍艦が長州藩の砲台を報復攻撃。馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与える
     のち長州は砲台を修復、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築く。海峡封鎖を続行
     1864(元治01)07/海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国が長州に対する懲戒的報復措置をとると決定
     仏 蘭 米の3国に参加を呼びかけて艦船17隻で連合艦隊を編成
     08/05〜07英、米、仏、蘭4国連合艦隊が長州藩の馬関と彦島の砲台を徹底的に砲撃。各国陸戦隊が占領、破壊する
     連合軍兵士約2千人、軍艦17隻対して長州藩士約1500人、軍艦6隻。損害は死傷者連合軍62人に対して長州藩47人
     08/14長州藩が4国艦隊と講和5条件を結ぶ【08/18?】
     ○下関海峡の外国船の通航の自由
     ○石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し
     ○悪天候時の船員の下関上陸の許可
     ○下関砲台の撤去
     ○賠償金300万ドルの支払い
  05/イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から「生麦事件」の賠償金10万ポンドを受け取る
     08/06《06/22》ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため7隻の艦隊とともに横浜を出港
     08/11《06/27》イギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7粁の谷山郷沖に投錨
     08/12《06/28》イギリス艦隊が前進、鹿児島城下前之浜約1粁沖に投錨
     艦隊を訪れた薩摩藩の使者にイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償金2万5千ポンドを要求
     薩摩藩側は回答を留保、翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案する
     08/13《06/29》イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める
     のち交渉が決裂し
     08/15《07/02》英艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と戦う。薩英戦争
  06/13コレラが流行し長崎奉行がボードウイン著の「これらの養生法」を公布
  06/フューレ神父がフランス領事でデューリーの世話で南山手居留地乙一番の地を手に入れ司祭館を建てる
     12/天主堂の工事に着工
  07/フランス領事館が東山手甲13番地の英国領事館跡に移転
     1870(明治03)普仏戦争にて一時閉館
  07/片淵郷組屋敷内乃武館(だいぶかん)の長崎英語所(英語稽古所)が立山奉行所の東長屋に移る
     何礼之助、平井義十郎が学頭に。他教師は4人
     12/江戸町の元五箇所宿老会所跡に移転、洋学所と改称
     これまでの英語に加えて蘭学の授業も
     レフォームド教会の宣教師フルベッキが英語教授として嘱託
     1864(元治01)01/江戸町の洋学所仮校舎が大村町に落成開校した新校舎に移転。語学所と改称
     魯、英、仏の3か国語が修められることに
  08/05《1864(元治01)07/04》ベルナルド・タデ・プチジャン神父がフューレ神父に遅れて横浜から長崎に入る
     教会建立に加わるためプチジャン神父は那覇で日本語と日本キリシタン史の勉強に励む
     特にキリシタンの子孫の発見を期待して心を燃やす
     10/フューレ神父が休暇をとってフランスに帰国。残ったプチジャン神父が聖堂の建設と日本人への布教策を練る
  08/08開国・鎖国の論が国内に沸騰し人心動揺、長崎は土地柄からして殊に激しくなる
     幕府は奉行2人の上に、大村丹波守純熈を長崎総奉行として置く
     奉行は長崎市街の取り締まりにあたり、外国船の入港の警備を厳重にして長崎の総兵力を指揮する
     1864(元治01)09/21大村丹後守純熈の総奉行を廃止にする
  08/29横浜天主堂(横浜聖心堂)の鐘の祝別式が行なわれる
     日本では永いことキリスト教が禁制であり異国風の建物も珍しく毎日1千人もの見物人が押しかける
     ジラール神父やムニクウ神父の流暢な日本語による説明が人気を呼ぶ
     キリストや聖母マリアの御絵までも貰い大切に持ち帰る有様
     のち瓦版などにより広く宣伝。天主堂の前には門前市が建ち並び旅籠屋では蒲団が足りなくなる
  08/湊会所を運上所と改める。梅ケ崎、下り松、出島に荷改所(通称・運上所)を設置
     1866(慶応02)06/本格的な運上所新庁舎建設で梅香崎に移転
  08/朝廷が筑前侯松平美濃守に勅して長崎を警備させる
     このころ市中に浪人の徘徊が目立つ
  草野丈吉、長崎奉行服部長門守が片淵奉行所役人官舎近くに武道道場・乃武館(だいぶかん)を開設
  09/地役人と一般に対し乃武館にでて文武の術を習得させる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  10/フューレ神父が司祭館の設計・建築に着手、聖堂の設計も並行して進めるが休暇をとりフランスに帰国
     残ったプチジャン神父が聖堂の建設と日本人への布教策を練る
  10/長崎、江戸、京都市中に貿易商人を非難、天誅を加えよとの張り紙があらわれる
  秋/草野丈吉が薩摩藩士五代才助(友厚)の勧めで西洋料理専門店「良林亭(自遊亭)」をオープン
     西洋料理専門店「良林亭」は伊良林郷の若宮神社前の地に
     草丈吉は出島オランダ屋敷のボーイ兼雑用人として雇われる
     またオランダ軍艦にボーイ見習いで乗船した際、コックの仕事を学ぶ
     「良林亭」は藁葺き、店内は6畳1間で6人(料金1人前3朱)までしか収容できなかった
     のち本大工町に移転
     1878(明治11)07/馬町に移転。「自由亭」と改称
     のち京都・大阪に支店をだす
     1887(明治20)01/廃業
     のち長崎地方裁判所が買収し検事正官舎に
     1973(昭和48)05/検事正官舎でなくなる
     1974(昭和49)長崎市が買収しグラバー園に移設
  11/19エイブラハム・リンカーンが南北戦争の激戦地ゲティスバーグの戦没者を祀る国立墓地の開所式で演説
     272語、3分足らずの短い挨拶「ゲティスバーグ演説」がされる
     演説のなかに「人民の人民による人民のための政治」のフレーズがはいる
     民主主義の本質を語ったものとして世界的に知られる
     言葉はリンカーンのオリジナルではなくジョン・ウィクリフが翻訳した聖書の序言から引用
     「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」
  11/ヨゼフ・マリ・ローカーニュ神父が長崎へ赴任
     のち以後プチジャン、ローカーニュ両神父の手で聖堂の建設と日本人への布教策が練られる
     日本人に信教の自由はなく、禁教政策下の聖堂の建設も居留地在留外人の為にのみ認可
     聖堂建設の工事を請け負ったのは天草の大工棟梁小山秀之進
     小山棟梁の下に伊王島の大渡伊勢吉、浦上村の溝口市蔵、外海村の川原粂吉らの大工
     禁教下においては工人として参加することにも相当な覚悟を要する
  12/ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに熊本県天草出身の棟梁・小山秀之進の施工で天守堂建立に着手
     1864・12/29(元治01・12/01)大浦天主堂が竣工する
     1865・02/19(元治02・01/24)大浦天主堂の献堂式を行ない、「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名
     1879(明治12)はじめフランス人のために建てられたが追害解除の後、日本人信者が多く参るため改築
  12/第3次居留地造成工事として「大浦居留地の海岸築き出しと梅香崎の埋立て」の申請がだされる
     1864(元治01)着工
     大浦居留地の海岸築き出しは前面水域を5間築き出し従来の工事を補強し、海岸道路(バンド)の拡幅をはかる
     梅香崎地先の埋立ては、長崎の町に接する格好の場所で、構想では最初にありながら唐船修理場があり最後にまわされる
     年末/造成工事が完成
     大浦居留場海岸築出し1千坪と梅香崎4千坪を埋立てる。いずれも入札による請け負い
     3次にわたる海岸埋築で居留地造成は終了
  グラバーがマッケンジーの南山手1番地の土地を引き継ぎ家(グラバー邸)を建てる
     1939(昭和14)06/30倉場富三郎から三菱造船所が買収
     戦時中三菱造船所の大浦クラブとして使用
     1945(昭和20)から約4年間米進駐軍の司令官公舎として接収
     1955(昭和30)三菱造船所は寮にするため解体を計画。市立博物館専門委員による交渉の末、計画中止に
     1957(昭和32)10/10三菱長崎造船所の創業100年祝賀記念事業として長崎市に寄贈
  西道仙(28)が眼鏡橋側の酒屋町35番戸1号に来住、医院兼私塾を開く
     西道仙は1836(天保07)01/01肥後天草郡御陵村の医家に生まれる
  諫早藩が東望、牧島、かき道に砲台を築く
  英国領事館が下り松バンドに移転
     1907(明治40)大浦6番館(赤煉瓦造瓦葺2階建)に移転、オーストリア、オランダの領事も代行
     上海の英国技師ウイリアム・コーワンの設計に基づき大浦町の後藤亀太郎が施工
     煉瓦造2階建、寄棟造、鉄板葺、各階正面と側面にベランダがあり中廊下式
  約15年の歳月を費やし、五島石田陣屋の跡に石田城(福江城)が完成
     城郭は、東西160間(約291米)、周囲740間(約1346米)
     野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、異国警備という使命を持った海城
     完成後、40歳以下の領民に禁酒令を出すなど藩の財政建て直しに懸命となる
     1872(明治05)石田城は新政府に収納。城と備えつけの武器、馬具一切が売り払われる
     石田城の生命はわずか10年足らずと短く、時代の変遷にふりまわされた
     石田城は江戸時代を通じて築城を許された例外であり、わが国最後の築城となる
  出島のテキストル商会社長C・J・テキストルは遊女正●との間に女児2人、男児1人を設ける
     遊女正●(?・「シ・さんずい」に「和」)
     神奈川の商会設立に際し長崎奉行所の許可を得て女児2人を神奈川へ伴う
  コレラ流行
  地役人数1680人。役料米2977石余、銀2879貫目余【1650人?】
     だいたい市民16人に1人の割合で地役人を抱えていたことに
  長崎港艦船輸入数10、横浜4
     長崎が艦船の主要な輸入港であったのは
     (1)江戸に近接した横浜は浪人らの攘夷テロ行為が頻発しているため、受取場として不適当ことによる
     (2)艦船の輸入に最も意を注いだのは薩摩、土佐、肥前、長州など西南の諸藩であった、ことによる
  長崎総輸入額184万1344ドル。横浜341万6852ドル

1863(文久03)頃

  南山手11番地にベルビューホテルが開業する
     1906(明治39)11/閉業
     のち澤山商会を経営する澤山家が邸宅として活用
     1974(昭和49)225室の長崎東急ホテルが開業

1863(文久03)以降

  中島名左衛門が下関で没し、雷が丘(現東小島町)の高島秋帆旧宅が料亭「咲草屋」となる
     1870(明治03)松尾浅吉が料亭「宝亭」を開く

1864(文久04、元治01・02/20)【孝明】 甲子(きのえね)

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