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〈大正時代(1)〉

大正時代初期

  佐世保川河口部の護岸工事が行われ、定期船の着岸が可能になる
  次第に移住者が増えキリシタンの集落となった田平に80戸の信徒が集まる
  山中百市が千々石で醤油・味噌の醸造をはじめる
     のち2代目の中山藤市がその頭文字をとって山藤(ヤマト醤油)と命名
  すき焼き専門店「松亭」が家業を料亭に切り替える
  島原の海を埋立ててできた旅館が、長崎歌壇に活躍した俳人碧梧桐により南風楼の名をうむ
     第2次世界大戦末期国の施設として軍部が使用
     戦後島原市が払い下げを受ける
  佐世保,早岐等へ長野舟(5挺櫓或は単帆の和舟)が運航を開始

1912(明治45、大正01・07/30)【大正】 壬子(みずのえね)

  《総理大臣》[第14代]第2次西園寺公望内閣(→12/21)、[第15代]第3次桂太郎内閣(12/21→)
  《知事》[第16代(官選)]安藤謙介(→12/30)、[第17代(官選)]李家隆介(12/30→)
  《市長》[第5代]北川信従

  01/01南京に中華民国が樹立
     02/12清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)が正式に退位。清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡する
  01/08鉄道の発車ベルが初めて設置される
     上野駅のホームに5か所、待合室に1か所。音の大きさの加減がわからず大音響に
  01/16白瀬矗が南極大陸に上陸、その地点を「開南湾」と命名する
     のち開南湾は上陸、探検に不向きなためロス棚氷の鯨湾に上陸、根拠地を設営する
     01/205人の突進隊は犬ぞりで内陸極地へ向けて出発
     01/28230粁進み、悪天候と食料不足で「使命は死よりも重し」と極点到達を断念、生還の道を選ぶ
     南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、標識を埋め大和雪原(やまとゆきはら)と命名
     隊員一同「万歳万歳万々歳」と唱和する。同地には「南極探検同情者芳名簿」をうめる
     05/12南極探検を終えた白瀬矗が帰途中、長崎に寄港
     福島屋旅館で休憩ののち、横浜へ向かう
  01/1718時30分頃、イギリスのスコット隊がノルウェーのロアール・アムンセン隊に遅れて南極点に到達する
     1911(明治44)12/14にノルウェーのロアール・アムンセン隊が人類で初めて南極点到達をはたしていた
     01/18英国国旗を立てる。アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1か月が過ぎ
     03/29スコットがテントのなかで息を引き取る。パーティーは帰途遭難、3月29日までに全員が死亡
     スコット隊に比べて不利と思われていたアムンセンが先に到着した理由
      スコット隊は学術調査を兼ね長いルートを選び、内燃機関を使った雪上車や馬、毛織物のセーターを使用
      アムンセン隊は極北航海の時に先住民から伝授された、寒さに強い犬ぞりや軽くて防寒性に優れた毛皮服を採用
  01/中央線の中野〜昌平橋間で日本初の女性専用車の朝夕2回の運行をはじめる
     男子学生が女子学生にラブレターを渡したりするのを防ぐため
  02/03石橋の古川町橋が鉄筋コンクリート橋に改築、常盤橋に改名
     石造り半円橋の古川橋が交通上不便のため本紺屋町、本古川町、西古川町の3町民が工費1556円を市に寄付
  02/12銅座〜本石灰町に架かる浜崎橋が鉄桁橋に改められる
     1950(昭和25)頃上流下流暗渠となり高欄を取除き下流は銅座市場となる
  02/1904(明治37)08/31に戦死した軍神・橘中佐の姿を残そうと銅像建立の建設委員会が組織される
     1912(明治45)07/30明治天皇崩御で中断
     1914(大正03)陸軍省と共同の形となり二体建設として再開
     1918(大正07)05/北村西望氏により建造が着手
     1919(大正08)02/竣工、除幕式が行われる
     像の高さは3米30糎。千々石町南船津上山の天然石に安置
     1919(大正08)02/長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名するよう正式に申請
     海軍水路部により地図に記載
     1928(昭和03)橘中佐の英霊を永遠に祀ろうと橘神社創建の活動が始まるも実働にいたらず
     1935(昭和10)本格的な創建に向けた活動が始まる
     1936(昭和11)02/長崎県知事田中広太郎を会長とし創建奉賀会設立
     1937(昭和12)神社創建の許可がおりる
     1940(昭和15)05/15鎮座祭が執り行なわれる
     1976(昭和51)05/25橘中佐顕彰奉賀会が結成
     1976(昭和51)08/29銅像の台座の改修除幕式、橘中佐の生家を橘神社社務所前に移転
  04/01下県郡与良村が豆酘村と久田村に分割される
     1919(大正08)04/01下県郡厳原村に町制が敷かれ厳原町となる
  04/10イギリスの客船タイタニック号 がイギリスのサザンプトンを出港、 アメリカのニューヨークに向けて処女航海にでる
     04/14真夜中、北大西洋のニューファウンドランド沖で氷山に衝突し、2時間40分で沈没
     乗船者2208名の中、1517人が死亡する世界最大の海難事故に
     1985(昭和60)09/01ロバート・バラード博士が海底3650米に沈没したタイタニック号を発見
  04/17長崎電気軌道線路敷設願書に対し免許状下付
     1914(大正03)08/02長崎電気軌道株式会社(資本金50万円)が創立
     1915(大正04)05/09工事施行認可が下る
     土地の買収・地質調査他の準備、変電所・橋梁の基礎工事、車庫・架線工事に着手
     1915(大正04)07/上軌道敷設工事に着手
     1915(大正04)11/16病院下(廃)〜築町に開通、営業運転を開始
  04/伊良林村の鶴鳴女学校が鶴鳴実科高等女学校となる
     1920(大正09)05/鶴鳴高等女学校となる
  05/12南極探検を終えた白瀬矗が帰途中、長崎に寄港
     福島屋旅館で休憩ののち、横浜へ向かう
  05/18長崎県医師会と市医師会の事務所が金屋町2番戸から袋町39番地へ移転
     1925(大正14)05/30長崎県医師会と市医師会の事務所が中島川端の袋町23番地に移転
  05/新聞「長崎民報」が創刊
     発行所は桜町。社長は深浦眞、主筆は福田四郎
     1914(大正03)07/廃刊
  05/浪花節の桃中軒雲右衛門の日本初のレコードが銀座蓄音器三光堂から1枚3円80銭で発売される
  06/01新橋町の県有家屋を利用して県立長崎図書館を創設
     長崎県立図書館の開設に古賀十二郎が尽力
     長崎文庫蔵書は新図書館に寄贈。開館当時の蔵書は2400冊、初年度利用者は1月平均239人
     1915(大正04)08/初代専任館長に永山時英が就任
  07/03第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が建設
     通天閣は天に通じる高い建物の意味。命名は明治初期の儒学者藤沢南岳
     設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7千円、入場料は10銭
     300尺(91米)という触れ込み【250尺/約75米?】で東洋一の高さを誇る
     通天閣は都市型遊園地のルナパークとロープ・ウエィで結ばれる
     のち吉本興業に買収される
     1943(昭和18)直下にあった映画館大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足に
     1943(昭和18)02/13鉄材を軍需資材として大阪府に献納。塔は解体され、初代通天閣は姿を消す
     1956(昭和31)10/28地元の人たちの想いの結晶として2代目通天閣が誕生する
     本体は鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)。塔高地上100米、幅24米、脚間24米
  07/06長崎市議会は尾上町の市有地に長崎市営魚類集散場の建設を可決
     水揚げと輸送を直結する新漁港をと願う関係者の声を受けてのこと
     1913(大正02)07/18長崎県水産組合連合会より魚市場建設の目的で敷地の使用願が提出
     市議会で特に急を要すると即決される
     長崎停車場海岸寄り(台場町)官有里道と波止場敷地175坪
     全会一致で賃貸を承認、材木町、万屋町の移転に向けて動き出す
     1913(大正02)08/06長崎市営魚類集散場に2〜3の問屋が率先して移転
     トロール物の荷役、直送を開始
     長崎市営魚類集散場は尾上町に併用された魚類集散場
     新生長崎魚市場の幕開け
      時を同じくして、長崎県水産組合連合会の魚市場も完成を迎える
     1914(大正03)03/長崎市内尾上町に専用鉄道引込線を敷設し、魚市場を移転
     1914(大正03)03/魚市場移転の噂が市民の間に拡がると賛否両論が起こる。一部反対者は移転を躊躇
      材木町市場に留まって営業の存続を図るが、関係者の努力によって全ての移転が完了
      1830(天保01)中島川河畔時代から80年間、長崎町民の台所を預かってきた材木町市場が姿を消す
     長崎魚市場の概要
      広大な市有地の中に長崎県水産組合連合会が建設した事務所、第1魚揚場と付属建物3棟
      長崎市が建設したトロール物専用の第2魚揚場の計6棟が東西に配置
      [1935(昭和10)イワシ類専用の第3魚揚場が増設]
      前面は長崎港に接する
      材木町市場時代とは比較にならない理想的な魚市場に
      長崎魚市場は第2魚揚場を長崎市から借り受けて長崎県水産組合連合会が運営に当たったが
      関係者は第1魚揚場を「魚市場」、第2魚揚場を「集散場」と区別して呼んでいた
     長崎魚市場の設備内容
      (1)事務所…2階建1棟(2)第1魚揚場…平屋建1棟、魚揚大斜堤…延140余坪
      (3)第2魚揚場…平屋建1棟、魚揚大斜堤…延160余坪(4)問屋詰所…平屋建1棟
      (5)仲買詰所…2階建1棟(6)魚類仲買(株)営業所…2階建1棟
  07/30大正に改元
  07/30軍神・橘中佐の銅像建立が明治天皇崩御で中断
     1914(大正03)陸軍省と共同の形となり二体建設として再開
  08/05日本で初めてのタクシー「タクシー自働車株式会社」が営業を開始
     数寄屋橋のかたわらに本社を置き、タクシーメーターを装備したT型フォード6台でスタート
     初乗り料金1マイル60銭、1/2マイルにつき10銭が加算。流しはせず
     山手線の1区間が5銭、市電が4銭の時代、かなり高価な乗り物
  09/13明治天皇大葬の夜、乃木希典が妻静子とともに自刃。享年62
     乃木の介添えで静子が胸を突き、つづいて乃木が割腹。衣服を整えたうえで、自ら頸動脈と気管を切断して絶命する
     遺書には明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記される
     乃木は辞世を詠む「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」
  10/01「長崎日日新聞」が津田式輪転機を設備し輪転機刷りを発行
     1924(大正13)04/色刷り輪転機を採用。特別な記事や特別広告などに利用し読者の注目をひく
  10/諒闇中につき「長崎くんち」(6)の傘鉾、踊ともに取止め、神輿の渡御、還御のみ。踊町は翌年に繰り延べ奉納
  10/10島原鉄道により愛野村〜山田村〜古部〜西郷〜神代町が延伸開業し、諫早〜神代町で営業運転を開始
     1913(大正02)05/10神代町〜多比良町〜大三東が延伸開業し、諫早〜大三東で営業運転を開始
  10/14馬場郷の長崎県師範学校から出火。寄宿舎の一部を残して焼失
     1923(大正12)04/01長崎県師範学校が東彼杵郡大村町の新築校舎に移転
  10/21コッテージ式2階建の長崎駅新駅舎が完成
     2階は貴賓室にあてられる
     1931(昭和06)2階の貴賓室を廃しレストランとなる
     レストラン共進亭には上海東京往来の内外紳士淑女でテーブルはいっぱいに
  10/26長崎市の島助役が神戸の被差別部落を視察
  10/長崎のコレラで139人が死亡
  11/11長崎貯金株式会社が発足。資本金10万円
     1915(大正04)06/無尽業法が発布。認可される
     1915(大正04)07/長崎無尽株式会社と改称
     1924(大正13)04/事務所を栄町に新築移転
     鉄筋コンクリート造3階建で竣工。設計は末広設計事務所。施工は不詳
     建築規模は幅38.90米、奥行き21.12米、延床面積1687.24平方米
     地面から1階床面まで 500粍、階高は1階4.40米、2階3.96米、
     3階床面よりパラペット頂部まで5.47米、総高は14.33米
     1階はロビー、事務室、書庫
     2階は役員室、総務室、経理室、企画室、会議室、応接室、書庫
     3階は営業統括室、会議室、事務室
     屋根は日本瓦屋根、一部カラー鉄板瓦棒屋根
     1941(昭和16)08/昭和無尽株式会社と新立合併。業務区域が長崎県下一円に
     1942(昭和17)04/諫早無尽株式会社を吸収合併
     1951(昭和26)10/20相互銀行法が公布され株式会社長崎相互銀行と社名を変更
     1952(昭和27)04/熊本中央信用組合を吸収合併
     1989(平成01)02/長崎銀行と改称
     1992(平成04)本社建物の窓枠や外壁の大幅な外装改修を行なう。裾周りや入口に石積みがなされる
  12/04福富町3丁目に長崎紡績(株)の工場が設立。資本金100万円、中国向け綿糸を製造
     長崎市は幸町一帯の市有埋立地を特に安く払い下げるという育成策をとる
     専ら中国向け綿糸の製造を行なう。長崎産業の花形に
     1928(昭和03)10/02〜18お待遇改善の労働争議がおこる
     1923(大正12)第2長崎紡績会社と合併。国光紡績に変わる。資本金2千万円
     第2次世界大戦中企業整備のため倉敷紡績会社に吸収
     1943(昭和18)01/三菱長崎造船所幸町工場内の紡績工場跡地に福岡県俘虜収容所台14分所が開設
  12/31三菱合資会社三菱造船所が戦艦建造のため立神の第1船台にガントリークレーンを設置
     ガントリークレーン…橋桁の両端に2本の車輪(走行脚)を設け、レール上を走行する構造のクレーン
     1939(昭和14)第1〜第8の全ての船台にガントリークレーンが竣工
     1967(昭和42)04/20ガントリークレーンの解体が始まる
  12/壱岐旧志原村の大曲実形が壱岐集報社を創立
     1913(大正02)01/「壱岐集報」を発行
     大曲実形は名義だけで実際の新聞作りは旧田河村の長島直衛
     1923(大正12)題号を「壱岐日報」と改める
     1945(昭和20)戦争のため休刊
     1946(昭和21)01/復刊
     1974(昭和49)05/資本金100万円をもって設立。有限会社に改める
  末/神武御陵と道を隔てた田んぼに土盛りがはじまる。木が植えられ石燈籠が立つ
     のち第2代綏靖天皇陵となる
  炉粕町の高林寺の地を三菱造船所に売り、鳴滝2丁目の現在地に移転改築
  長崎〜五島に定期航路が開設
  ゴルフ場建設のため雲仙の農家47戸が所有する牧草地に無償で99か年の地上権を設定
     倉場富三郎をはじめ、長崎内外倶楽部の日本人や主要外国商人などの設計をもとに着工
     なかには長崎在留中の銀行員ウォルキンショーの姿も
     1913(大正02)08/14雲仙県営公園内に日本初のパブリックコース雲仙ゴルフ場が完成
     ゴルフ場は9ホール(約17ヘクタール)
     ささやかな藁葺きのクラブハウスも完成
  17才の松本兼松がイギリスに渡る
     1913(大正02)アメリカに渡る
     のち23年間にわたりニューヨークに在住
     アメリカの大手自動車メーカー「ゼネラルモータース」の会長の専属シェフとして勤め上げる
     のち松本兼松が39才のとき日本に帰国
     1937(昭和12)アメリカのホームメイドのアイスクリーム・スイーツの店「ニューヨーク堂」を創業
  倉場富三郎が画家を雇い魚の写生を始める
     はじめ美校出身の小田紫星1人だったが萩原魚仙、女流の長谷川雪香、歌人の中村三郎が加わる
     1918(大正07)魚類図譜のほとんどが完成
     558種の魚を写生した700枚の図譜と貝類と鯨の図譜の計823枚からなる
  ほとんどが潜伏キリシタンの生月で山田カトリック教会が建つ
     カトリックの住民は16軒のみ。かくれの人たちは自分たちの方が本物だと思うが、 カトリックの人々と友好的につきあう
  長崎の●●●町に山口屋靴店が創業
  中津屋橋本商店がトロール漁船3隻により水産業にも進出
     1914(大正03)第1次大戦勃発と同時に、神戸市明石町を本社とする福洋汽船株式会社を設立し、海運業に進出
     大黒山丸9千瓲、大日山丸9千瓲、遠加丸1万瓲、茂木丸9千瓲
  本多キリが島原で料亭一冨士をはじめる
     キリは有家の網元の娘。美人のうえ気性が優れ名妓として鳴らす
     1951(昭和26)キリが63才で他界。次の女将が旅館に切り替える
  浪丿平の琴平神社境内に寄進による吉野桜800本が植えられる
  明治天皇が死に1年間喪章をつけることになる
     喪章をつけないと子どもは20銭、大人は50銭の即銭罰金に
  小浜でホテルを経営する木村沢治が愛野〜小浜の乗合自動車の許可を申請
     1913(大正02)愛野〜小浜の乗合自動車の営業をはじめる
     のち木村沢治は本多親宗が設立した小浜鉄道に売り、小浜〜雲仙の乗合自動車を開始
     のち本多親宗の小浜鉄道が経営に行き詰まる
     本多親宗は小浜〜雲仙の乗合自動車を島原の西金蔵を通じて上野喜左衛門、本坊豊吉の南国モータースに売る
  島原市中堀町に国光屋が創業
     鐘ケ江管一の父が分家して旅館をはじめる。屋号の由来は代々伝わる刀の銘から
  日本植物学の第一人者牧野富太郎が新種を発表
     ラムナス シーボルディアナ(Rhamnus sieboldiana)、和名はシーボルトノキと名づける
     1939(昭和14)御江久夫が中国のクロウメモドキ(Rhamnus utilis)と同種であることが明らかに
  農事試験場で長崎ハクサイの原種8升(14.4リットル)を配布
  高林寺が炉粕町の地を三菱造船所に売り、鳴滝町の晧台寺末庵の知足庵を合併、その地に移転改築
  宮崎作蔵が小浜に旅館春島屋を創業
     宮崎作蔵は雲仙の宮崎亀千代らの一族で小浜上脇部落の出身
     上脇部落は全村約30世帯が宮崎姓を名のる平家の落人部落
  島原の海を埋立てた土地で旅館が創業。渋江重寿が経営
     大正初期長崎歌壇に活躍した俳人碧梧桐により南風楼の名をうむ
     第2次世界大戦末期国の施設として軍部が使用
  第5回オリンピックストックホルム大会の陸上競技男子マラソンに金栗四三(20)が出場
     レース当日は40度という記録的な暑さで、参加者68名中、およそ半分が途中棄権
     途中、金栗は26.7粁の地点日射病で意識を失い倒れ、近くの農家で介抱される。目覚めたのは競技が終了後、翌日の朝
     のち棄権の意思がオリンピック委員会に伝わらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われる
     【07/14?】      1967(昭和42)03/21金栗がスウェーデンのオリンピック委員会から大会開催55周年の記念式典に招待される
     当時の記録を調べていたオリンピック委員会が金栗の失踪行方不明に気づき、記念式典でゴールさせることに
     招待を受けた金栗はストックホルムで、競技場内に用意されたゴールテープを切る
     この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8か月6日5時間32分20秒3
     これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会は総ての競技を終了しました」とアナウンスされる
     金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントする
     記録は世界一遅いマラソン記録に
  赤痢が長崎市、南高来郡、西彼杵郡で猖獗。またコレラも流行、患者数2千に
  帝国ホテル総支配人の林愛作が旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の設計を依頼
     ライトはアメリカの建築家で20世紀建築界の巨匠といわれる
     1919(大正08)初代帝国ホテルが失火から全焼する。新館の早期完成は経営上の急務に
     のち設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくはなる
     当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至り林は総支配人を引責辞任
     ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日

1913(大正02)【大正】 癸丑(みずのとうし)

  《総理大臣》[第15代]第3次桂太郎内閣(→02/20)、[第16代]山本權兵衞(02/20→)
  《知事》[第17代(官選)]李家隆介
  《市長》[第5代]北川信従(→05/24)、[第6代]薄定吉(08/21→09/18)、 [第7代]高崎行一(12/25→)

  01/壱岐旧志原村の壱岐集報社が「壱岐集報」を発行
     大曲実形は名義だけで実際の新聞作りは旧田河村の長島直衛
     1923(大正12)題号を「壱岐日報」と改める
  02/12アメリカ人女性マリー・フェルブ・ジャコブがブラジャーを発明し特許を取得
     発明当初は、ハンカチをリボンで結んだだけという単純なもの
  02/14中華民国大統領職を袁世凱に譲った孫文が長崎に上陸し東京に直行
     孫文は辛亥革命に成功し中華民国臨時政府の臨時大総裁となる
     03/21再び来崎。福島屋に2泊→03/23帰国
  03/梅月堂2代目の藤四郎が店舗を長崎市大浦町から本石灰町に移転
     1927(昭和02)03/浜町に移転し「梅月堂本店」として開業
  04/02長崎市新庁舎が起工
     1914(大正03)12/25鉄筋コンクリート造2階建ての長崎市新庁舎が完成
     工費は9万5322円65銭
     1958(昭和33)03/29出火焼失後に解体される
  04/24陸機密第45号により各要塞司令官及対馬警備隊司令官へ廃止すべき堡塁・砲台の達あり
     要塞名廃止すべき堡塁・砲台のなかに対馬要塞武隈山、佐世保要塞石原岳が含まれる
     廃止予定の発表のみで実際の廃止はばらばらに実施
  04/長崎市域の一部を分割合併し、すべての郷名を町名に変える事業を始める
     1923(大正12)すべての郷名が町名に変わる
  04/雲仙九州ホテルが開業
  04/「佐世保軍港新聞」が「軍港新聞」と改題
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「島原新聞」も同様に統合される
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  04/長崎市、館内と西上町にトラホーム無料診療所を開設
     1932(昭和07)03/31市内西上町の市立トラホーム治療所を市役所内に移す
  05/03五島病院が新築・移転
     1930(昭和05)05/01公立五島病院の移転新築落成式
  05/10島原鉄道により神代町〜多比良町〜大三東が延伸開業し、諫早〜大三東で営業運転を開始
     09/24大三東〜三会〜島原〜島原湊が延伸開業し、諫早〜島原湊で営業運転を開始
     諫早〜島原湊が全線開通する。総延長26哩3分(42.3粁)
  06/第1次市域拡張で市に編入された部落郷名を廃し、新しく56の町名を定める
     うち大浦地区では町に町名が付定され大浦元町、大浦川上町、大浦日之出町、
     大浦東山町、大浦下町、大浦相生町、大浦東町、大浦上田町、大浦出雲町となる
     1973(昭和48)住居表示が実施され大浦の冠が取れる
      下町(大浦下町)、大浦東町(大浦東町)、東山町(大浦東山町)、
      元町(大浦元町の一部)、日の出町(大浦日之出町)、出雲1・2丁目(大浦出雲町)、
      上田町(大浦上田町の大部分、大浦相生町と大浦出雲町の各一部)、
      相生町(大浦相生町の大部分、南山手町と大浦上田町の各一部)
       大浦東町だけは、東長崎地区に既に「東町」があり冠が取れなかった
     1974(昭和49)住居表示が実施され大浦の冠が取れる
      椎の木町(大浦元町・大浦日之出町の各一部)、高丘1・2丁目(大浦元町の一部)、
      南町(大浦元町の一部)、南が丘町(大浦元町の一部)、八景町(大浦元町の一部)、
      星取町(大浦元町と大浦川上町の各一部)、川上町(大浦川上町の大部分)
  06/03東洋汽船向け貨客船「安洋丸」が竣工。三菱第229番船
     9534瓲、7500馬力、15.311節。日本初のギヤード・タービンを装備
     南米西岸航路に就航
     1945(昭和20)01/08台湾西岸で米潜Barb(SS-220)の雷撃を受けて沈没
  06/10森永製菓の「キャラメル」が「ミルクキャラメル」に
     それまではブリキ缶1斤に1粒5厘のバラ売りで販売。容器代などにコストがかかる
     「携帯しやすさ」をキーワードにキャラメルを紙箱に入れた「ポケット用ミルクキャラメル」として発売
     20粒入り10銭   07/15小林一三が宝塚唱歌隊を発足
     宝塚温泉に客を誘致するため箕面電鉄株式会社(阪急有馬電気鉄道)が三越の少年音楽隊を手本に発足させる
     小林一三が唱えたモットーは「朗らかに 清く 正しく 美しく」。隊員の女性の平均年齢は12歳前後
     12/宝塚少女歌劇養成会と改称
     1918(大正07)文部省認可の私立宝塚音楽歌劇学校として設立される
     1939(昭和14)12/宝塚音楽舞踊学校と改称
     1946(昭和21)03/宝塚音楽学校に校名を変更
  07/18長崎県水産組合連合会より魚市場建設の目的で提出された敷地の使用願が市議会で特に急を要すると即決
     長崎停車場海岸寄り(台場町)官有里道と波止場敷地175坪
     全会一致で賃貸を承認、材木町、万屋町の移転に向けて動き出す
     1913(大正02)08/06長崎市営魚類集散場に2〜3の問屋が率先して移転
     トロール物の荷役、直送を開始
     長崎市営魚類集散場は尾上町に併用された魚類集散場
     新生長崎魚市場の幕開け
      時を同じくして、長崎県水産組合連合会の魚市場も完成を迎える
  07/22長崎県立長崎中学校の鳴滝校舎が新築落成し長崎市福富町から移転
     旧長崎県中学校は1884(明治17)04/01創立
     1948(昭和23)04/県立長崎高等学校と改称
  08/06長崎市営魚類集散場に2〜3の問屋が率先して移転しトロール物の荷役、直送を開始
     長崎市営魚類集散場は尾上町に併用された魚類集散場
     新生長崎魚市場の幕開け
      時を同じくして、長崎県水産組合連合会の魚市場も完成を迎える
     1914(大正03)03/長崎市内尾上町に専用鉄道引込線を敷設し、魚市場を移転
     1914(大正03)03/魚市場移転の噂が市民の間に拡がると賛否両論が起こる。一部反対者は移転を躊躇
     材木町市場に留まって営業の存続を図るが、関係者の努力によって全ての移転が完了
     1830(天保01)中島川河畔時代から80年間、長崎町民の台所を預かってきた材木町市場は姿を消す
  08/14雲仙県営公園内に日本初のパブリックコース雲仙ゴルフ場9ホール(約17ヘクタール)が完成
     ささやかな藁葺きのクラブハウスも完成
     1914(大正03)ヒノキ、スギあわせて100万本余りが植栽
  08/20中島川沿いの材木町、魚類集散所を尾上町に移転。長崎魚市場開所式を挙行
  08/24雲仙に県営ゴルフ場(池の原9ホール)が開設
     県営ゴルフ場は長崎県立雲仙公園の設置を機に犬塚知事が公園の発展策としてゴルフ場を計画
     アメリカ領事のダイクマン氏や、香港上海銀行支配人のメイ氏、バックランド氏は大賛成で協力を惜しまず
     9ホール、3200ヤード、ささやかな藁葺きの一軒家のクラブハウスもできる
     日本最初のパブリックコースで雲仙ゴルフ場が誕生
  09/24島原鉄道により大三東〜三会〜島原〜島原湊が延伸開業し、諫早〜島原湊で営業運転を開始
     諫早〜島原湊が全線開通する。総延長26哩3分(42.3粁)
     1943(昭和18)07/01戦時統制により島原鉄道が口之津鉄道を吸収合併(諫早〜加津佐間78.5粁となる)
     同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
  10/「長崎くんち」(6)…丸山町(本踊・段尻)、本大工町(曳段尻)、今博多町(本踊)、
     本紺屋町(本踊)、今魚町(川船)、本籠町(蛇踊)、材木町(川船)、古町(本踊)、
     上筑後町(本踊)、江戸町(兵式教練)、本興善町(本踊)
  11/15早稲田大学総長の大隈重信が夫人同伴で来崎
     長崎市民は鳳鳴館で官民連合大歓迎会を催す
     11/16汽艇で三菱造船所で建造中の軍艦「霧島」を見る
     諏訪神社に参拝、長崎中学校、女子師範学校で講演をする
     舞鶴座で「長崎市民に対して」と題して講演。5600人の大聴衆を前に大隈ブシが炸裂
     11/17早大校歌の合唱と演奏に送られ長崎駅をあとにする
     大隈伯は三菱社宅に宿泊、老齢の身で2日間の滞在に8回の講演を行なう
  11/22徳川15代将軍、最後の征夷大将軍だった徳川慶喜が77歳で没する
  11/日本海員掖済会が大阪診療所を開設
     1915(大正04)02/大阪掖済会病院となる
  11/石田昇の構想を基に長崎県立病院(長崎医専の附属病院)に精神病室(定員14人)が落成
     臨床診療が石田を科長として開始。石田は長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授
     のち教授在任中の長崎時代には「新撰催眠療法」「健全なる精神」などを執筆
     日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍する
     初めて「Schizophrenie」の語を「分裂病」と訳す
     1917(大正06)12/文部省留学生としてアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に2年間の予定で留学。春洋丸にて渡る
     当初は、それまでの呉門下生同様ドイツに留学予定。第一次世界大戦のため渡航できず、アメリカに変更される
  12/07飽の浦町の劇場「亀岡座」が要町(現NIB長崎国際テレビ所在地)に移転、劇場「永久座」として開場
     1945(昭和20)08/廃座
  12/12八幡町の水神神社が中川郷の低部水源地構内に移転
     1919(大正08)12/07本殿の上棟式が行なわれる
  12/12盗難にあっていたレオナルド・ダ・ビンチの名作「モナリザ」がフィレンツェで発見される
     犯人はイタリア出身の木工大工ヴィンチェンツォ・ペルッジャ。ルーブル美術館の保護ガラスを取り付けた職人
     「ナポレオン時代にフランスに取られたイタリアの文化遺産を取り戻す目的で盗った」と供述
     のちイタリアで展示され、無事フランスのルーブル美術館に戻される
  鳴滝に煉瓦造2階建の長崎県立長崎中学校が完成
  浦上天主堂が宣教師ラゲーにより再び竣工
     1914(大正03)03/17中央ドームは造らず、双塔は未完成のまま献堂式を挙げる
     床面積1162平方米(352坪)の東洋一の大天主堂となる
  桜町に弦洋会楽器店が創業
     1939(大正14)05/浜町本通りに進出
  浜市商店連合会が発足
     1961(昭和36)加盟店数が82店となる
  「瓊浦遊泳協会」の「瓊浦」が分かりづらく「長崎遊泳協会」と改称
     1972(昭和47)08/20第2次長崎外港埋立計画によりねずみ島が閉鎖されることになる
     最後の大名行列が行なわれる
     協会は松山町の市民プールに活動の場を移す
  本石灰町に洋菓子・コーヒー店の梅月堂が創業。長崎初の洋生菓子店。のち船大工町に移転
     1927(昭和02)02/柳通りに進出
  松本兼松がイギリスからアメリカに渡る
     のち23年間にわたりニューヨークに在住
     アメリカの大手自動車メーカー「ゼネラルモータース」の会長の専属シェフとして勤め上げる
     のち松本兼松が39才のとき日本に帰国
     1937(昭和12)アメリカのホームメイドのアイスクリーム・スイーツの店「ニューヨーク堂」を創業
  後藤新平が来崎。長崎高商で「いたずらに部分に片寄って大局を忘れるな」と講演
     1926(大正15)09/27後藤新平が再来崎
     後藤新平は満鉄初代総裁、逓相兼鉄道院総裁、東京市長、帝都復興院総裁などを歴任
     政治倫理化を目的にした講演行脚で、駅ホームには知事、市長、商議会頭、少年団幹部ら多数が出迎え
     中島会館で少年団に関する講演を行ない、精洋亭での官民合同大歓迎会に出席
     普選問題、長崎県の漁況、県民への警告を語る
  (株)有家銀行が創業
     1929(昭和04)株式会社十八銀行に買収される
  世知原町の岩谷口面岩下に祝橋が架かる
     のち改修される
     2000(平成12)03/31倉渕橋などとともに町指定文化財に登録される
  垣立寅蔵が鍛冶屋町にべっ甲原料の輸入、垣立商店を興す(カメヤべっ甲店)
     べっ甲の製造や南洋木材で財をつくる
     のち江戸町から浜町に移転
     1929(昭和04)06/大阪支店を設け、朝鮮・満州・北支中支・香港方面に販路を伸ばす
     戦後垣立商店の名称を垣立工芸品に変える
     1956(昭和31)垣立工芸品製造部を独立
  森永ミヤ女が小浜の雲仙西登山口に旅館大和屋を創業
  島原の名門料亭「腰駕楼」が経営を住吉旅館にかえる
     1945(昭和20)07/強制疎開をうけ建物が取り毀される
  小浜でホテルを経営する木村沢治が愛野〜小浜の乗合自動車の営業をはじめる
     のち木村沢治は本多親宗が設立した小浜鉄道に売り、小浜〜雲仙の乗合自動車を開始
     のち本多親宗の小浜鉄道が経営に行き詰まる
     本多親宗は小浜〜雲仙の乗合自動車を島原の西金蔵を通じて上野喜左衛門、本坊豊吉の南国モータースに売る
  「郵便報知新聞」を発行する報知社が第一次護憲運動で政府系と見られて群衆の襲撃を受ける
     1920(大正09)東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した
  旭町一帯が下関に変わるトロール漁船の基地となる
  雲仙に県営テニスコート(湯の里)が開設
  第1次世界大戦にともないドイツからの梅毒の薬サルバルサンの輸入が途絶
     国産サルバルサンの製造が開始される
     のちサルバルサンの開発により梅毒の根本療法が確立
     第2次世界大戦後ペニシリンをはじめとする各種抗生物質が開発されるまで、サルバルサンが梅毒の治療の中心に
  南高出身者たちにより公的機関を通じた本格的海外移住が始まる
  出歯の亀吉」こと植木職人の池田亀太郎がわずか5年で自由の身に
     池田は1908(明治41)03/22に豊多摩郡大久保村で女性(27)が殺害された事件で強姦殺人の犯人として逮捕
     無期懲役の判決を受けたが服役。冤罪の可能性あり
  アメリカのギデオン・サンドバックが、ファスナーの歯の裏側にへこみを作り噛み合わせが大幅に改良
     一般的にはギデオン・サンドバックがファスナーの発明者とされる
     より小さく軽い物に改良し、「ホックレス・ファスナー」と名付けられる
     1921(大正10) B.F.グッドリッチ社が「ジッパー」というネーミングでオーバーシューズに採用

1913(大正02)頃

  「瓊浦遊泳協会」の大名行列が行事化される
     大名とお姫様を乗せた御輿を中心に露払い、騎馬、大鳥毛、小鳥毛、挟箱などの供廻りや道具持ちに入墨姿の雲助など
     総勢200人に及ぶ勇壮な行列に
     1972(昭和47)08/20第2次長崎外港埋立計画によりねずみ島が閉鎖されることになる
     最後の大名行列が行なわれる

1913〜1914(大正02〜03)

  粗末な発動船1、2隻で佐世保を中心に貨客の輸送を開始
  西彼杵半島北部で日光丸(船主は他所人で船賃は当時大人5銭位)が運航される。永続せず

1914(大正03)【大正】 甲寅(きのえとら)

  《総理大臣》[第16代]山本權兵衞(→04/16)、[第17代]第2次大隈重信内閣(04/16→)
  《知事》[第17代(官選)]李家隆介
  《市長》[第7代]高崎行一

  01/02長崎市内に天然痘患者発生、(〜05/)150余にのぼる
  01/10夜から、桜島で有感地震が頻発
     01/11未明、地鳴りが伴い、地震はますます激しさを増す
       M5クラスの火山性地震が10回ほど連続して発生、噴火の前兆現象として他に類を見ない激しさ
     01/1208時頃から、桜島東側の鍋山付近、西側の標高500米付近と山頂から白煙が噴き上がる
       10時05分、西桜島村赤水の上方標高350米付近の谷間から黒煙が上昇し噴火が始まる
       噴火口からは火炎と噴石が噴出。噴煙は7千米〜8千米の高さに達し、火山雷が多数発生
       10時15分、南東側の山腹、標高400米のあたりから噴火が始まり、黒煙を噴出
       午前11時頃から、火山弾が黒神や瀬戸の集落に降り注ぎ火災が発生、多数の家屋が焼失
       噴火は勢いを強め、猛烈な黒煙が天を焦がし、島全体が噴煙でおおわれる
       噴煙の中には、火山雷が飛びかい、強い地震がひっきりなしに発生
       11時半頃、岩石が噴出、昼過ぎには全島が黒煙、白煙に包まる
       18時28分、桜島と鹿児島市の中間あたりを震源にM7.1の火山性地震が発生
       鹿児島市内付近で多数の地震災害が発生
       鹿児島市街地で家屋の全壊39戸、死者13人。鹿児島市外で、全壊81戸、死者22人を数える
       各所で崖崩れによる土砂災害も発生、甲突川に沿う通りに無数の地割れが生じる
       鹿児島湾では、小規模ながら津波が発生、交通や通信網が破壊
       混乱の中、暖まった海水による天然露天風呂に入る鹿児島人もいた
     01/1301時頃、噴火は最高潮。未明から日中にかけて間断なく爆発。噴煙は8千米の上空まで達する
       19時30分頃、大火柱が見られる。このころ、火砕流が発生したものと推定
     01/1320時頃、桜島の西側斜面で溶岩の流出が目撃
       夜、西側山腹に開いた7つの火山と南東側の8つの火口から溶岩が流出
     01/15溶岩は斜面を流れ下り、赤水・横山地両集落を埋めて海岸線に達する
       引き続き、溶岩流は海中に流入
     01/18烏島が埋没02/上流動が停止
       桜島東側の鍋山方面から流れ出た溶岩は、瀬戸、脇、有村などの各集落を埋没
       01/29溶岩流は幅360米、深さ72米の瀬戸海峡を閉鎖。桜島が大隅半島と陸続きになる
       02/中〜下さらに東側山腹で、新たな火口を生じて溶岩が流出。先に流出した溶岩流の上をおおう
       ※噴煙は上空8千米に達し、遠くカムチャッカ半島にまで灰を降らせる
        降下した軽石や火山灰の総量は約6億2千万瓲、噴出した溶岩の量は約15億6千万瓲
        死者35人、行方不明23人。なかには島から避難しようと海を泳ぎ渡るうち、溺死した者も少なくない
        瀬戸、脇、有村、赤水、横山などの各集落は、溶岩流や降下噴出物の下に埋没して2100戸余が焼失
        桜島は人が住めるような環境ではなくなる
        山林や耕地の被害も甚大で、約560ヘクタールが埋没。桜島特産の蜜柑や枇杷などがすべて枯死
        降灰は大隅半島にまで及び農作物は壊滅的な打撃を受ける
  03/17(浦上の信徒発見記念日)中央ドームは造らず、双塔は未完成のまま浦上天主堂が献堂式を挙げる
     浦上の山里村庄屋高屋邸屋敷跡の床面積1162平方米(352坪)の東洋一の大天主堂となる
     1925(大正14)05/ヒュ−ゼ神父のとき正面双塔が竣工
     フランスから取り寄せた2個のアンゼラスの鐘を取り付ける
     外部正面が西方を向き左右に四角形の双塔を設けドームをおいて縦に3分し双塔の間に切妻屋根を配する
     6千人収容、東洋一の大会堂が完成。請負は鉄川与助
     1945(昭和20)08/09原爆で堂は全壊。ドーム部分は地上に落下
     双塔につく鐘楼のうち小さい方は壊れるが、大きい方はほぼ完全な形で残る
     戦後すぐ木造仮聖堂が建てられ本聖堂建設計画が持ち上がる
     長崎県原爆資料保存会から廃虚を原爆遺構として保存して欲しいという要望がだされる
     12/24永井隆の提案により急ごしらえのアンゼラス鐘が被爆後初めて鳴り響く
     「長崎の鐘」と呼ばれる
     1946(昭和21)11/神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
     原子野に再建された最初の公共建造物で聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
     中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
     1947(昭和22)中島万利神父を中心に本聖堂再建計画が立つ
     信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
     1954(昭和29)浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
     1958(昭和33)天主堂の再建着工を知った原爆資料保存委員会が廃虚は貴重な資料とし保存を要望
     残すか壊すか世論も揺れ山口愛次郎司教を中心に検討し廃虚の取り壊しはやむを得ないと結論
     のち保存委員会が再度保存を申し入れ、市議会でも取り上げられる
     廃虚全てを移築することは資金的、技術的に困難であるとし側壁一部を原爆中心地に移築保存することで決着
     1958(昭和33)04/14ハンマーによる人力取り壊し作業がはじまる
     1959(昭和34)11/01原爆被災以前の天主堂をモデルに鉄筋コンクリート造りの天主堂が再建
     受難に耐えた信徒の歴史を物語る同じ場所に再建する事が意義あるものとし新聖堂が建立
     床面積1679平方米、塔高29米。献堂式が行なわれる
     双塔にあったフランス製の聖鐘の原爆でも壊れずに残ったひとつが、新天主堂の右側の塔につるされる
     1962(昭和37)特別な聖堂として大浦天主堂に代わり司教座聖堂(Cathedral)に指定される
     1980(昭和55)04/ローマ法王の訪日要請を契機に、今までの不足を補って鉄筋による改装工事が着工
     外装を赤レンガ造りに、窓をすべてステンドグラスに
     1980(昭和55)10/崩壊前と同じ赤煉瓦造りの御堂が蘇る
     1996(平成08)聖堂2階に英国製パイプオルガンを設置
  03/30鍛冶屋町と本石灰町の間に架かる石橋「思案橋」がセメント・コンクリートを塗った鉄橋に架け替え【02/15?】
     急勾配で交通に不便、さらに橋面が狭くて窮屈なため
     両側を鋳鉄にして中央の鋳鉄にはブランケット、グローブ3個付きの電燈を取り付ける
     長さ4間7合、幅3間。広さは14坪1合
     工事に着手したのは請負の典崎定作。橋名は加悦長氏の筆による
     工費の総額は1972円47銭。うち1109円60銭を鍛冶屋町以外の4町の住民寄付に係り残りを長崎市が負担
       思案橋の由来は、はじめ木廊橋が作られたとき
       シャム船の廃材料を使って架けられシャム橋の名がつく
       また遊客が思案する場所なのでそれが訛って思案橋とも
     1924(大正13)鉄筋コンクリー橋となる
  03/魚市場移転の噂が市民の間に拡がると賛否両論が起こる。一部の反対者は移転を躊躇
     材木町中島川河岸の市場に留まって営業の存続を図るが、関係者の努力によって全ての移転が完了
     尾上町海岸沿いが水産物の集散場となる
     1830(天保01)の中島川河畔時代から80年、長崎町民の台所を預かった材木町中島川河岸の魚市場が姿を消す
     長崎魚市場の概要
      広大な市有地の中に長崎県水産組合連合会が建設した事務所、第1魚揚場と付属建物3棟
      長崎市が建設したトロール物専用の第2魚揚場の計6棟が東西に配置
      [1935(昭和10)イワシ類専用の第3魚揚場が増設]
      前面は長崎港に接する
      材木町市場時代とは比較にならない理想的な魚市場に
      長崎魚市場は第2魚揚場を長崎市から借り受けて長崎県水産組合連合会が運営に当たったが
      関係者は第1魚揚場を「魚市場」、第2魚揚場を「集散場」と区別して呼んでいた
     長崎魚市場の設備内容
      (1)事務所…2階建1棟(2)第1魚揚場…平屋建1棟、魚揚大斜堤…延140余坪
      (3)第2魚揚場…平屋建1棟、魚揚大斜堤…延160余坪(4)問屋詰所…平屋建1棟
      (5)仲買詰所…2階建1棟(6)魚類仲買(株)営業所…2階建1棟
  03/トロール漁業の発達にともない、水揚げ高の激増県外出荷の必要性から尾上町に専用鉄道引込線を布設
  03/長崎商業会議所主催による長崎開港350周年記念全国特産品博覧会が開催
  05/10九州商船が茂木〜千々石・小浜航路を開始
  06/19探検家の白瀬矗が来崎。長崎中学校で講演を催す
     06/20市立商業学校、勝山高等小学校で講演を催す
     講演は、さきの探検の4万円にも及ぶ多額の借金返済のため
  07/26近代的な設備を備えた初の鉄筋コンクリート建築でエレベータ付きの三菱21号館が丸の内に完成
     初の共同利用型近代的賃貸オフィスビル。これまでの事務所建築は棟割長屋式か一棟特定企業利用方式の個別型
     「東洋一の貸事務所」と称される
     【06/?】
  07/28第1次世界大戦勃発
     オーストリア市民権を持つジークムント・D・レスナーが敵国民と見なされ営業停止処分に
     1919(大正08)末営業再開を許される
  07/28オーストリアがセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦が始まる
     大戦中戦闘機、戦車、潜水艦、毒ガスが戦場に初めて登場する
  07/新聞「長崎民報」が廃刊
  07/九州瓦斯会社と長崎電灯会社が合併。長崎電灯瓦斯株式会社が設立(資本金56万円)
     袋町に事務所を建築。稲佐、旭町に2千馬力以上の第2発電工場を創設
     1916(大正05)04/九州電灯鉄道会社に合併される
     八千代町に瓦斯製造工場を置き、副産物としてコールタール、コークスを製造
  08/02長崎電気軌道株式会社(資本金50万円)が創立
     1915(大正04)05/09工事施行認可が下る
  08/153億ドル以上の資金と10年の歳月をかけたパナマ運河が開通
     パナマ運河はパナマ地峡を開削して太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河で、全長約80粁、最小幅192米
  08/23日本が日英同盟を名目としてドイツに宣戦布告。第1次世界大戦に参戦
  08/24旅順要塞・澎湖島要塞・基隆要塞・鎮海湾要塞・長崎要塞・佐世保要塞に警急戦備が下令
     10/01旅順要塞・基隆要塞・鎮海湾要塞・長崎要塞・佐世保要塞の警急戦備が解除される
  08/26ドイツ領事館が国交断絶により閉館
  10/01東京上野竹の台の陳列館で第1回二科展を開催
     「二科会」は文部省美術展覧会(文展/日本美術展覧会・日展)から分離、在野の美術団体として結成される
     文展は官展(政府主催の展覧会)で、日本画の部門は旧と新の二科に分かれ、新しい傾向の画家たちも比較的活動的
     比べて、洋画部門は二科に分かれておらず、審査側が硬直的・停滞的な体質に
     新帰朝者のグループは文展の審査に不満を持ち、日本画同様の新旧「二科制」を政府側に建白書を提出
     受け入れられず新しい美術の発展を図るために文展を脱退。在野の団体「二科会」を結成する
  10/09渡御。「長崎くんち」(7)が雨天のため日程変更10/11還御
     皇后陛下御大喪、第一次世界大戦のため傘鉾、踊りともに奉納中止
     *駕輿町…片淵、桜馬場、夫婦川
  10/13伝染病研究所が内務省より文部省に移管される
  11/ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略
  11/神戸市東川崎町に神戸掖済会病院が開設
  12/06ルネッサンス式新館の三越日本橋本店が落成
     鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作に
     商品は呉服を中心に百貨全般にわたって取りそろえ、エスカレータが日本で初めて建物内に設置される
     エレベータ、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられ近代百貨店としての形態を完成
     屋上庭園、茶室、音楽堂などが設置される
  12/06落成した三越日本橋本店の玄関にライオン像が設置される
     ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像がモデル
     英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要す
     イギリスの彫刻界でも相当な話題に
  12/18首都東京の中央停車場の開場式が行なわれる
     駅の建物はレンガを壁面に配した八角形の大きなドームを両翼に配した3階建て
     停車場は丸の内側宮城の正面の原野に設定される。出入口は4か所に設けられるが京橋方面に乗降口はなし
     丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口が造られ、国家の象徴的な位置づけとなる
     駅本屋は辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て
     総建坪9545平方米・長さ330米の豪壮華麗な洋式建築
     12/20東京駅と改称し開業。東海道線、京浜電車の起点となる
  12/25鉄筋コンクリート2階建の長崎市役所庁舎が落成。中央には高い望楼がそびえる
     外側は赤い煉瓦が貼られ、一見は煉瓦作りのようにも見える洒落たデザイン。設計は山田七五郎
     本館は387坪2合7勺(約1278平方米)、工費は9万5322円65銭
     戦時中望楼の塔上に据えられる4面のサイレンは独特な音色で不気味に警報を吹き鳴らす
     1945(昭和20)08/09原爆でも焼け残る
     1958(昭和33)03/29夜、市議会事務局付近より出火。2階の大半を焼失
     のち全館が建て替えられる
  12/愛宕町を流れる白木川に鋼桁橋の愛宕橋が架かる
     橋長6.2米、幅4.9米、車道3.5米。5本のI型鋼で橋床を受ける
  12/雲仙高原ホテルが開業
  12/東京芝公園の伝染病研究所が内務省から文部省への移管決定と同時に所員が総辞職となる
     本来の目標の遂行に懸念を抱き、新たに私立の北里研究所を創立、信念を貫く
  年末/ツァーリズム(専制政治)のもとで近代化が遅れていたロシアは軍需品の不足に
     多くの農民が兵士として大動員されたので農業生産が低下して食糧難が深刻となる
     生活必需物資も不足し物価の値上がりが起こり、国民生活が窮乏するなかで戦争の継続に批判的な空気が強まる
     1917(大正06)三月革命、十一月革命が起きる
  長崎県が長崎県水産組合連合会と協議。埋立地前面の2か年の暫定措置として団平船4隻を並べた係船場を設置
      荷役作業の改善を図る。工費は4900円
      竣工した沖見川河口の埋立地前面は干潮時水深マイナス2米を保持
      しかし延長230米の水揚護岸は、所々に階段を配した傾斜岸壁であったためにトロール漁船は接岸できず
      沖がかりのまま漁獲物を団平船に積替えて揚陸する不便さを抱えていた
  長崎市内のガス灯の最盛期で、その数8997基
  諏訪神社に日本初の「英文みくじ」が登場。訳文は長崎中学校英語教師の釘本小八郎
     1915(大正04)11/16国幣中社に昇格する
  株式会社十八銀行が長崎では初となる支店を開設する
     北支店(台場町・現大黒町、ホテルニュー長崎ビル1階)…尾上町に新魚市場開設のため
     稲佐支店(瀬ノ脇町・現丸尾町)…第一次世界大戦勃発により長崎三菱造船所が活況を呈したため
     1916(大正05)ウラジオストクの松田銀行部(十八銀行支店)が朝鮮銀行に譲渡
     第一次世界大戦に伴うルーブルの下落に災いされたため
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
  第一次世界大戦がはじまり梅ケ崎11番地のユダヤ教会堂が敵国財産として没収
     のち荒れたままになる
     のち建物様式が珍しく歴史的価値があるとして市内一部有志の間で保存が呼ばれる
     のち民間に払下げられる
     1945(昭和20)07/解体
  浜町本通り商店街に生き人形(マネキン人形)が流行る
  下り松43〜45番地の長崎ホテルが、第一次世界大戦で経済界は好況に恵まれ邦人により再開。永続しなかった
  かまぼこの「長崎一番本舗」が創業
     長崎一番のかまぼこは最高の原料「えそ、ぐち」や風味豊かな「あじ、いわし」などをふんだんに使用
     魚の自然の旨味を味わえるよう、合成保存料は一切使っていない
  三菱合資会社三菱造船所の堅削盤が彦島造船所(のち下関造船所)に設立とともに移される
  西浦上村家野郷と浦上山里村本原郷の間を流れる浦上川に石橋・二郷橋を架ける
     橋名は二村の郷民が架設したことによる
     1923(大正12)洪水のため流失
     0000(●●00)再架
     1985(昭和60)河川拡張のため解体、若干下流に再建
  西浜町にセセッション様式でドーム屋根を持つ鉄筋コンクリート造2階建の不動貯金銀行長崎支店が完成
  煉瓦造2階建の東邦電力株式会社長崎支店の建物が袋町に竣工
     設計者は県庁や市役所を設計した山田七五郎
     のち長崎市水道部の建物として使用
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  軍神・橘中佐の銅像建立が陸軍省と共同の形となり二体建設として再開
     1918(大正07)05/北村西望氏により建造が着手
  第1次大戦勃発と同時に、中津屋橋本商店が神戸市明石町を本社とする福洋汽船株式会社を設立し、海運業に進出
     大黒山丸9千瓲、大日山丸9千瓲、遠加丸1万瓲、茂木丸9千瓲
     1921(大正10)12/組織改革を行い橋本商店より株式会社橋本商会(資本金50万円)とする
     取扱品目を工業用資材・土建用資材等にひろげ、その販路も拡大
  鹿町町中野免の中野橋が1か月の工期と188円の工事費をかけて架け替えられる
  県水産試験場が大浦の沢山商会・沢山精八郎からロシアの傷病兵慰問のため白人向け缶詰を依頼
     松田缶詰の後継業者後藤義一郎の提案でトマトソース漬けイワシ缶詰(トマトサージン)の製造試験が始まる
     1300故の缶詰を製造。ロシアに送った残りを海外市場へ見本として送り好評を博す
     1916(大正05)4ダース入り93箱を発注し英国に輸出
     次第に産業としての地位を固めていく
  田平に中田藤吉神父が赴任。煉瓦造りの教会を建てることに
     のち資金づくりが困難で中田神父は紐差教会のマタラ神父に相談
     フランス人篤志家の匿名の寄付などで着工。途中、崖崩れ惨事が発生
     1918(大正07)田平教会(瀬戸山教会)が完成
     教会建築の第1人者の鉄川与助の設計では最後の煉瓦造教会
     張り出した特徴的な3層の高い塔屋を持つ。平屋で479平方米
     第1層が玄関部、第2層に3連アーチの縦長窓、第3層が鉄川与助独特の十字架を頂く八角ドームを載せた鐘塔
  日本初のパブリックコース雲仙ゴルフ場にヒノキ、スギあわせて100万本余りが植栽
     のち外国人向け娯楽場やテニスコートが相次いでオープン
  雲仙国魂神社が温泉神社と改名され県社となる

1915(大正04)【大正】 乙卯(きのとう)

  《総理大臣》[第17代]第2次大隈重信内閣
  《知事》[第17代(官選)]李家隆介
  《市長》[第7代]高崎行一

  01/04長崎市平戸小屋町に腸チフス患者発生、各地に流行し年末まで患者147人に
  01/23第1次大戦に修正の軍医の凱旋帰国歓迎会が西浜町精洋亭にて開かれる
  02/日本海員掖済会の大阪診療所が大阪掖済会病院となる
  03/曳船「真名鶴丸」が竣工
     181瓲、567馬力、10.393節
  04/15巡洋戦艦「霧島」が竣工
     2万7500瓲、7万8千馬力、27.5節
     世界で最も強力な巡洋戦艦で各国から注目された優秀艦
     太平洋戦争に臨み真珠湾攻撃以来、多くの主要海戦に参加
     1942(昭和17)11/15第3次ソロモン海戦でガダルカナル沖に戦没
  04/伊勢宮前〜高麗町間の石橋の高麗橋がコンクリートで斜めに橋面を増設
     1982(昭和57)07/23大水害後の河川改良工事で解体
  05/09長崎電気軌道の線路敷設工事施行認可が下る
     土地の買収・地質調査他の準備、変電所・橋梁の基礎工事、車庫・架線工事に着手
     1915(大正04)07/上軌道敷設工事に着手
     埋立地の県道など、ほぼ平坦な既設路面であり工事も比較的平易に進む
     1915(大正04)11/16病院下(廃)〜築町に開通、営業運転を開始
  06/無尽業法が発布。長崎貯金株式会社が認可される
     1915(大正04)07/長崎無尽株式会社と改称
  06/東京にて第1回全国商業会議所会頭会議が開かれる
  西尾正左衛門の発明した棕櫚製の亀の子束子(たわし)の特許侵害者が続出【7月より前】
     好景気時代に売れ行きも商品名も順調に拡大したことによる。1908(明治41)に実用新案を取得
     07/02特許として価値ありとの理由で新に特許権を付与。1個5銭に
     1918(大正07)特許侵害者があとを絶たず、新聞や婦人雑誌に広告をだし強くアピール
     商標の認識高揚に努め束子の包装を決断。1個10銭
  07/長崎貯金株式会社が長崎無尽株式会社と改称
     1924(大正13)04/事務所を栄町に新築移転
     鉄筋コンクリート造3階建で竣工。設計は末広設計事務所。施工は不詳
     建築規模は幅38.90米、奥行き21.12米、延床面積1687.24平方米
     地面から1階床面まで 500粍、階高は1階4.40米、2階3.96米
     3階床面よりパラペット頂部まで5.47米、総高は14.33米
     1階はロビー、事務室、書庫
     2階は役員室、総務室、経理室、企画室、会議室、応接室、書庫
     3階は営業統括室、会議室、事務室
     屋根は日本瓦屋根、一部カラー鉄板瓦棒屋根
  07/上長崎電気軌道が軌道敷設工事に着手
     埋立地の県道など、ほぼ平坦な既設路面であり工事も比較的平易に進む
     1915(大正04)11/16病院下(廃)〜築町に開通、営業運転を開始
  08/01県下初の大浦託児所が開設
  08/県立長崎図書館の初代専任館長にキリシタン史等を研究する永山時英が就任
     永山時英は、鹿児島県出身で、第七高等学校造士館教授から李家隆介知事の懇請によって来崎
     死亡するまで20年間、図書館長を勤めた
     古賀十二郎などの進言をいれ図書館資料の発掘収集に努め、県立図書館の基礎を築く
     11/28新橋町から上西山町1番地の建物に移転
     建物は改築した諏訪公園内の旧交親館(県会議事堂兼迎賓館)
     図書館は博物館や講演会場、展覧会場の機能を備えた文化センターとなる
  10/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (1)…丸山町(本踊・段尻)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、
     樺島町(太鼓山)、平戸町(本踊)、八幡町(剣舞・段尻)、麹屋町(本踊)、
     万屋町(鯨潮吹き)、西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
     *駕輿町…上西山、西山、下西山
  10/16新大工町の「舞鶴座」が「長崎劇場」と改称
     1917(大正06)06/29三菱が買収。三菱合資会社所有の「中島会館」となる
  10/長野県長野市の市章に「五角星」が制定
     1967(昭和42)03/まで使用
  11/16諏訪神社が国幣中社に昇格する
     第二次大戦後神社本庁の別表神社となる
  11/16大正天皇即位御大典奉祝
  11/16長崎電気軌道(株)(以下、長崎電鉄)が病院下〜築町[第1期線]に長崎初の路面電車の営業運転を開始
     九州で6番目、国内では67番目の開通となる
     電車8両が奉祝旗を翻して走る。当日の乗客は1万5千人、収入880円
     運賃は1区1銭、9区10銭で区間制(別に通行税1銭)と全線(通行税込み)
     築町〜千馬町〜末広町〜大波止〜浦五島町〜長崎駅前〜
     八千代町〜稲佐橋通〜井樋の口〜浦上駅前〜坂本町〜病院下
     距離3667米、動力・直流600ボルト、軌間1435粍
  11/25アルベルト・アインシュタインが加速度運動と重力を取り込んだ一般相対性理論を発表する
     最終論文を書きあげてプロイセン科学アカデミーで発表
  11/28新橋町の県立長崎図書館が大正天皇大典記念事業として上西山町1番地の建物に移転
     建物は諏訪公園内の旧交親館(県会議事堂兼迎賓館)を改築した煉瓦造2階建
     図書館は博物館や講演会場、展覧会場の機能を備えた文化センターとなる
     1960(昭和35)新館を竣工し開館
  12/銅座〜船大工町に架かる石橋の銅座橋が鉄筋コンクリート造に架け替えられ大正橋と改称
     1950(昭和25)頃上流側が暗渠となり銅座市場となる
  三菱合資会社が設立し「三菱合資会社三菱造船所」が三菱合資会社長崎造船所となる
     1917(大正06)11/01三菱造船株式会社が設立し「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
  23才の中古賀民男が大徳寺下の本籠町筋に中古賀べっ甲店をはじめる。中古賀民男は1893(明治26)諫早生まれ
     本籠町、船大工町の通りはべっ甲、洋品小間物、古美術品、食料品などの店が並ぶ長崎のメインストリート
     のち中古賀民男はマニラ、シンガポールなど東南アジアをまわり、べっ甲の輸出に新ルートを開発
     シンガポールにはイギリス東洋艦隊の基地があり、べっ甲細工が大量に売れる
     のち店舗を浜町に移り隆盛をとげる
     終戦直後べっ甲の原料が入手できず貿易会社を作りべっ甲原料の輸入を駐留軍司令部に働きかける
     外国人の好みにあう製品を持ち上京。原料輸入の許可をとることに成功。戦後の長崎べっ甲の発展が軌道にのる
  創業者平坂茂市がアスピリンの入った鎮痛解熱剤「ヘデクパウダー」を考案
     厚生省の認可を得て 製造・販売を始める
     1918(大正07)スペイン風邪が大流行し「ヘデクパウダー」はその効果で大評判となる
     1931(昭和06)頃長崎市袋町に本社ビルが完成
     地上3階・地下1階、エレベーター・水洗トイレ完備。地下には自社印刷工場 を設備
     1933(昭和08)中国満州、蒙古へ進出
     1937(昭和12)頃日本全国の営業の為、フォード3台を購入。マイク放送による宣伝活動を開始する
     1941(昭和16)「ヘデクパウダー」の原料のひとつ、アスピリンの入手が困難となり、一時休業を余儀なくされる
     1947(昭和22)前年の創設者平坂茂市の死去にともない、長女平坂米子が会社復興
     社名を平坂製薬株式会社とし、本社を金屋町に置く
     1947(昭和22)鎮痛解熱剤「ヘデクパウダー」の全国での発売を再開
     1950(昭和25)全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
     1970(昭和45)「頭いた〜い・歯いた〜い…」のインディアンをキャラクターとしたテレビCMを開始
  雲仙新湯に富貴屋旅館が創業。創立者は内田久次郎
     1929(昭和04)雲仙古湯に移り純日本旅館富貴屋を経営
     1960(昭和35)1億円余りをかけて鉄筋3階建、内部和風のデラックス旅館を建設
     戦後の観光客の増加により雲仙は発展の一途。旅館やホテルが増築ムードの中、いち早く近代施設に
     工事は工期が遅れ資金償還の問題で苦しむことに
     1969(昭和44)03/鉄筋5階建の別館を落成
     一般客300人、団体客400人の大旅館を完成
  寺の馬場の旅籠万屋で5代目勝秋が雲仙初の内湯を開始
     それまで雲仙の旅館には内湯の設備がなく湯元経営の共同浴場(延暦湯)に依存
     内湯は共同浴場からの「湯くみ男」による
     1919(大正08)公園事務所の許可を得て八幡地獄の温泉を引き温泉旅館をスタート
  弁天橋が架け替えられる
  旭町に黄金橋が架かる
  三浦環がニューヨークのメトロポリタン劇場で「蝶々夫人」を主演。以降、200回主演記録を作る
     1922(大正11)帰朝の折、長崎でリサイタルを開く
     旧米国領事館(南山手14番館・オルト邸)など「蝶々夫人」ゆかりの地を訪れる
  岩原川の船津町〜恵美酒町に架かる石橋の本新橋が鉄筋コンクリート石橋となる
     1954(昭和29)08/架け替え、船津橋となる
  万屋町〜築町の石橋の万橋がコンクリート橋に架け替え
  1899(明治32)07/14に公布された「要塞地帯法」が改正される
     「何人ト雖要塞司令官ノ許可」を得なければ「要塞地帯内ヲ航空」してはならないと定められる
     1940(昭和15)04/02法律第九十号として「要塞地帯法」が改正
     新たに(1)爆発物の使用や貯蔵、(2)山林や原野での焚火、
     (3)運動場・競馬場・飛行場・高周波電流を発する設備の新設又は変更、等を規制する条文が加えられる
     注目すべき点は「要塞地帯」の幅員が拡大されたこと
     それまで要塞の「防御営造物ノ各突出部ヲ連結スル線」より「二千二百五十間(約4km)以内」だったのが
     「一萬五千メートル(15km)以内」と改められる
     要塞地帯が拡大されたことにより、12月2日、陸海軍省告示によって要塞地帯が指定され直される

1916(大正05)【大正】 丙辰(ひのえたつ)

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