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〈明治時代(5)〉

1885(明治18)【明治】 乙酉(きのととり)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(12/22→)
  《知事》[第7代(官選)]石田英吉

  02/07岩崎彌太郎が52歳で死去
     のち弟の彌之助が第2代社長に就任し三菱社を設立
  02/25長崎医会第1回通常会を開き会長に吉田健康を選任
     1890(明治23)02/01初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
     議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
  05/内務省省直轄事業として港湾第1期改良工事の工事始まる
     一環で中島川の変流と港内浚渫
     1885(安政05)の開港以降、維持管理が不充分で河口の土砂堆積が進行し、海上交通の支障が懸念されるため
     中島川から流出土砂があり、長崎港に土砂が堆積、港湾機能に支障
     多量の土砂を港湾海底に堆積させる中島川を出島背後に変流。五島町、樺島町の海岸線の埋立て
     1890(明治23)完成
     出島の江戸町側を平均18米削られる
  05/東濱町の長崎蓄積銀行が廃業
  07/08フランス軍艦「トリオン・ファント」が修理のため長崎港に到着
     将校の中には35才の中尉ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロティ)も乗船
     ロティは上陸後、人力車夫に案内されて小島郷の料亭百花園へ
     ラシャメンの世話をする勘五郎を呼び長崎妻のとりもちを頼む
     3日後ロティの間借り先、十善寺郷佐藤家の2階に勘五郎が長崎妻候補の娘を連れてくる
     ロティは娘に気が向かずお供のお兼(17)を所望。その夜、勘五郎の説得で両親はお兼を売ることを承諾
     09/17船出港の前日、ロティはお兼に十善寺郷の家に会いにくる
     キレイに片づけられた部屋の中で、お兼は昨夜ロティの与えた銀貨をばらまいて遊んでいる
     09/18トリオン・ファントが出港
     のち日本滞在の経験を小説「マダム・クリサンテール」として書き上げる
     1900(明治33)12/0950才の海軍中佐ロティを乗せたフランス軍艦リドウタァブル号が長崎に入港
     東シナ海でフランス艦隊の司令長官が病気に。暖かい長崎で養生のため
     12/13ロティが上陸。思い出の町を散歩していると偶然お兼の母おきんに出会う
     おきんからお兼が提灯屋の主人に縁付いていることを知らされる
     おきんはお兼夫婦を呼んで食事に誘うがロティは辞退
     12/23お兼との思い出を十善寺に訪ねる。家主の佐藤は3年前に亡くなり未亡人暮らしをしているお梅に会う
     のちおきんから再び長崎妻をもつよう自分の末娘を売り込むがロティは応じず
     1901(明治34)01/01ロティが司令長官代理として長崎県庁に知事を訪れ祝賀のことばをのべる
     のち寺町の僧侶の娘稲本に出会う
     10/29船出港の前日、ロティは病床のお梅を見舞いサヨナラを告げる
     10/30フランス艦隊の軍艦リドウタァブル号が長崎を出港
     1929(昭和04)05/岩波書店から文庫「お菊さん」が発行。野上豊一訳
  07/16日本鉄道の大宮〜宇都宮間が開通、営業をはじめる
     同時に宇都宮市伝馬町で旅館白木屋を経営する斉藤嘉平が鉄道会社の依頼で日本初の駅弁を宇都宮駅ホームで売りだす
     弁当の内容は黒ゴマをまぶした梅干し入りのおにぎり2個とたくあん2切れを竹皮で包んだ質素なもの
     駅弁1個5銭という高額であったため、不評
  07/三友銀行の本店が平戸から長崎に移る
     1893(明治26)02/廃業
  07/長崎区内でコレラ流行、盂蘭盆の墓前の暴飲暴食が誘因で患者833、うち死亡617
  09/18ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロティ)を乗せたトリオン・ファントが出港
     のち日本滞在の経験を小説「マダム・クリサンテール」として書き上げる
     1900(明治33)12/0950才の海軍中佐ロティを乗せたフランス軍艦リドウタァブル号が長崎に入港
  09/21内務省派遣の北里柴三郎が来崎
     1894(明治27)07/25政府派遣の北里柴三郎(伝染病研究所長)が香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄る
     1907(明治40)10/14北里柴三郎来崎
  09/29郵便汽船三菱と共同運輸が合併し日本郵船会社が設立。支店を梅ケ崎町に開設
     長崎と中国、フィリピン、北南アメリカとの航路が結ばれ、九州唯一の外国航路の港になる
  10/05フリーメーソン長崎支部奉献式が行なわれる。支部は下り松50番地に創設
  11/01豪気多感な松岡好一が長崎港から高島通いの汽船明新丸に乗り込む
     目的は高島の坑夫虐待の実態を身をもって調べるため、坑夫を装い潜入
     坑夫で高島へ渡ったものは二度と生きて本土へは戻れないという噂があるなか
     翌日カンテラを下げて坑内に入る。暗い地底での激しい12時間労働
     はじめての体験のなかで坑夫虐待の実情を知り、強烈な闘魂をみがく
     1か月後納屋頭から採炭坑夫ではなく勘定役をすすめられ受け入れる
     新入りの松岡は坑夫180人の監督役に昇進
     1886(明治19)03/04納屋頭から「代理として長崎まで坑夫募集にいってこい」といわれる
     松岡好一は同行者のすきをみて姿を消す
     1888(明治21)06/雑誌「日本人」第6号に松岡好一による潜入体験手記「高島炭鑛の惨状」が掲載される
     「日本人」は国粋主義系の出版社、政教社が発行
     悲惨な内容は国民にショックを与え全国にセンセーショナルを巻き起こる
     「欧米の奴隷は異邦人よりなりしが、奴隷禁止のわが国において、同邦人、同種族を奴隷とするものあるは、そも何の怪事ぞや」
     「日本人」主筆の三宅雪嶺は論じ三菱資本を厳しく非難
     のち8月3日発行の雑誌「日本人」第9号では「高島炭坑」の特集を組む
  11/03東京帝国大学の学生と横浜の外国人の間でボートレースが行なわれる
     日本初の国際ボートレースとなる
  11/15公立長崎商業学校が大村町11番地の旧商業会議所跡に開校
     1886(明治19)03/公立長崎商業学校と長崎外国語学校が合併
     長崎外国語学校は付属物所蔵一切を長崎商業学校に移し廃校となる
     04/08公立長崎商業学校が長崎県へ移管。県立長崎商業学校となる
     岩原郷(のちの県立美術館の地)へ移転
  11/19渡御。「長崎くんち」がコレラ流行のため日程変更11/21還御
     (7)…寄合町(本踊)、浦五島町(本踊)、引地町(本踊)、本石灰町(蛇踊)、
     桶屋町(本踊)、大井手町(竹の芸)、船大工町(川船)、袋町(川船)、酒屋町(本踊)、
     出来大工町(小薩摩)。新町、掘町は辞退
  11/24東京医学校(のちの東京大学医学部)お雇い教師エルウィン・ベルツが来崎、長崎医学校を訪問
     ベルツは1876(明治09)日本に招かれ1905(明治38)に帰国
     1892(明治25)09/11ベルツ再来崎
  12/22それまでの太政官制を廃す
     内閣総理大臣及び宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・通信の各大臣を置く
     宮内以外の諸大臣で内閣を組織することを定める。内閣制度が確立
     内閣総理大臣伊藤博文以下の各大臣を任命。第1次伊藤内閣が成立
  12/27東京府仲見世で商いをしていた全商店を借地権保障なしで取り払い煉瓦作りの近代仲見世を完成させる
     新装開業し煉瓦造り2階建ての新店舗139店が開店
     煉瓦は各刑務所の罪人の手によってによってつくられる
  12/茂木県道(田上の切通し竣工)と時津県道(浦上以北の改修)が開通
  12/コレラ流行のため竹の久保に県立長崎伝染病病院を設置
     1892(明治25)04/無期限無償で借り受け長崎市避病院へ移管される
     1937(昭和12)12/長崎市立長崎病院と改称【09/01】
  コレラ流行後、下水道の大溝を改築。中小溝・下水路の改修が行なわれる
  日見街道が1等県道から第4号国道に昇格
     外浦町(県庁前)〜日見〜矢上〜古賀〜喜々津〜諌早〜大村〜俵坂(東彼杵郡)に至る延長68.3瓩
  グラバーの息子、倉場富三郎が稲佐3丁目に製氷会社(通称氷会社)を設立
  八幡町に菊次五郎が饅頭屋の「喜久屋」が創業
     のち県庁坂下に移転
  天本愛命堂が萬屋町に創業
     1903(明治36)銅座町に新築移転
     初代天本愛次郎は1892(明治25)〜1893(明治26)、上海にて秘法を会得
     自家製剤『六神丸』の官許に取り組む
  銅座〜本石灰町に架かる石橋の浜崎橋が再度木橋になる
     1912(大正01)02/12鉄桁橋に改められる
  浜町と東築町の間の長久橋が港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事で姿を消す
     1888(明治21)中島川に築町〜西浜町を結び木鉄混交のポニー型プラットトラス橋の長久橋を新しく架設場所を変更し建設
     橋長90尺(27.27米)、幅員18尺(5.45米)
     死荷重1尺毎800封度(1197.62kg/m)、活荷重1平方尺80英斤(395.26kg/m2)
  三菱社で鉄製の浚渫船を竣工
  諏訪神社の「皇大神宮御分霊」を万才町の神宮奉祭会へ移し「大村町大神宮」に
     戦後長崎大神宮神社」に
     1953(昭和28)栄町の現在地に移転、改築
  木場郷(現三ツ山町)に三ツ山カトリック教会が設立
  諏訪神社本殿の西側に参拝後の休憩場として月見茶屋が創業
  医師としての西道仙が長崎医会を創設
     医会会長に長崎医学校の吉田健康、副会長に漢方医の西道仙
     1886(明治19)瓊浦医学会と改称
     のち長崎医学会となる
  ド・ロ神父が黒崎村出津に診療所を設立、薬局を置く
     1886(明治19)聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
     貧農の青年には農業の近代化を図る
     水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
  経営破綻したビール会社スプリング・バレー・ブルワリーをグラバーらが買取る
     スプリング・バレー・ブルワリーの土地・建物を取得
     スプリング・バレー・ブルワリーはアメリカ人ウイリアム・コープランドにより開設
     スプリング・バレー・ブルワリーは1870(明治03)に横浜山手に開設
     グラバーらは、ジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立(香港法人)。本格的なビール醸造をはじめる
     社長は横浜在住の英国人J・ドッズが務める
     のちグラバーが社長を務める
     当時の日本財界の指導者である岩崎彌之助、渋沢栄一らが出資者となる
     1897(明治30)日本人の妻ツルとともに東京へ転居
  フレノー神父が4年間に渡り再び五島で布教
     1888(明治21)浦上教会主任司祭となり典礼の充実と聖歌隊指導に力を入れる
  中津屋橋本商店が平戸港外で沈没したオランダ船をグラバーの指導のもとに、引揚げに成功
     日本に於ける沈没船引揚げ第1号
     1888(明治21)台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
     成功しサルベージ技術を確立
  南北戦争で負傷したペンバートンがモルヒネ中毒になる
     中毒を治すものとして注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いつく
     ペンバートンはジョージア州アトランタを拠点に活動する自然療法家のひとり
     のちフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として売りだす
     フレンチ・ワイン・コカはワインにコカインとコーラのエキスを調合
     のちフレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博す
     のちコカインの中毒が問題となり、禁酒運動でフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れがでる
     ワインに代えて炭酸水の風味付けのシロップとして売りだすことに
     のちペンバートンのビジネスに参加した印刷業者のフランク・M・ロビンソンによってコカ・コーラと名づけられる
     1886(明治19)05/08ペンバートンによるコカ・コーラが発売される
     1957(昭和32)06/25日本飲料工業株式会社が設立。日本で「コカ・コーラ」の製造販売を開始

1880年代後半

  大浦外国人墓地事実上満杯状態になる
     大浦国際墓地の埋葬者数(208)
       イギリス(133)、アメリカ(30)、ドイツ(15)、フランス(8)、
       ポルトガル(6)、オランダ(5)、イタリア(2)、ノルウェー(2)、
       オーストリア(1)、スウェーデン(1)、デンマーク(1)、ベルギー(1)、不明(3)
     1888(明治21)04/23付近住民の保健衛生などの面から閉鎖

1886(明治19)【明治】 丙戌(ひのえいぬ)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《知事》[第7代(官選)]石田英吉(→02/25)、[第8代(官選)]日下義雄(02/25→)

  01/14小島小学校が開校
  02/奮川小学校(のちの磨屋小学校)が長崎町年寄薬師寺某の邸宅213坪を買収
     中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)と改称
     1893(明治26)04/01長崎女児磨屋小学校と改称
  03/04高島に潜入し脱島を狙っていた松岡好一が納屋頭から「代理として長崎まで坑夫募集にいってこい」といわれる
     松岡好一は同行者のすきをみて姿を消す
     1888(明治21)06/雑誌「日本人」第6号に松岡好一による潜入体験手記「高島炭鑛の惨状」が掲載される
     「日本人」は国粋主義系の出版社、政教社が発行
     悲惨な内容は国民にショックを与え全国にセンセーショナルを巻き起こる
     「欧米の奴隷は異邦人よりなりしが、奴隷禁止のわが国において、同邦人、同種族を奴隷とするものあるは、そも何の怪事ぞや」
     「日本人」主筆の三宅雪嶺は論じ三菱資本を厳しく非難
  03/公立長崎商業学校と長崎外国語学校が合併
     長崎外国語学校は付属物所蔵一切を長崎商業学校に移し廃校となる
     04/08公立長崎商業学校が長崎県へ移管。県立長崎商業学校となる
     岩原郷(のちの県立美術館の地)へ移転
     1889(明治22)02/02ふたたび長崎区に移管され長崎商業学校となる
     04/01長崎区が長崎市と改まるが市立を冠せず長崎商業学校として校名を残す
  03/有栖川宮威仁親王を本会総裁に。会名を「海員掖済会」から「日本海員掖済会」と改称する
     1898(明治31)10/20民法施行法の規定により社団法人の認可を受け、法人登記第1号となる【10/27?】
     掖済会は民法施行前からの独立の財産を有する社団として、民法施行法の規定により第1号に
  04/01西浜町の長崎県女子師範学校が長崎県立師範学校に合併
     長崎県立師範学校女子部と改称。校舎は西浜町の付属小学校内のまま
     1886(明治19)06/04女子部内に幼稚科が設置(本県の幼稚園のはじめ)
     女子部内幼稚科は全国でも古く、九州では鹿児島幼稚園に次いで2番目
  04/16日本でメートル条約が公布される。前年のメートル条約への加盟による
     のち条約に加盟するも、尺・貫が一般に広く用いられる
     1891(明治24)03/24度量衡法(明治24年法律第3号)が制定される
     尺・貫をそれぞれ定義しメートル法の計量も認める間接的なメートル法採用体系に。尺貫法という言葉ができる
  05/01合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを中心に約35万人の労働者を動員
     8時間労働制を要求しゼネストを行なう
     1890(明治23)05/01第1回国際メーデーが行なわれる
     ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ラテンアメリカの労働者が8時間労働制を要求
  05/02眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所を東京市四谷区内藤新宿1番地に創業。国産初の鉛筆製造販売を開始する
     【1887(明治20)】
     工場生産の鉛筆で、工場は水車を動力とする
  05/08ペンバートンによるコカ・コーラが発売される
     ペンバートンは南北戦争で負傷し中毒になり、治療薬としてコカインを使った薬用酒の開発を思いつく
     コカインとコーラのエキスを調合しフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として売りだす
     フレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博す
     コカインの中毒が問題となり、禁酒運動でフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れがでる
     ワインに代えて炭酸水の風味付けのシロップとして売りだすことに
     1957(昭和32)06/25日本飲料工業株式会社が設立。日本で「コカ・コーラ」の製造販売を開始
  05/市内の水溝整理工事がはじまる
  05/萬歳町の長崎上等裁判所が長崎控訴院と改称
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  06/04長崎県立師範学校女子部内に幼稚科が設置(本県の幼稚園のはじめ)
     女子部内幼稚科は全国でも古く、九州では鹿児島幼稚園に次いで2番目
     1886(明治19)06/29長崎県立師範学校が長崎県尋常師範学校と改められる
  06/29長崎県立師範学校が長崎県尋常師範学校と改められる
     1889(明治22)馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に校舎と寄宿舎を新築。男子部・女子部ともに移転
  06/小学校令改正により公立中等小曾根小学校が尋常小曾根小学校と改称
     1887(明治20)03/小曾根・浪平・古河の3町共同して鍋冠山に校舎新築。尋常鎮鼎小学校と改称
  07/13東経135度の兵庫県明石市の時刻を日本の標準時とすると勅令が公布される
      明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)
     東経135度の子午線を太陽が通過する時刻が正午となり、明石市の正午が日本全国の正午に
     グリニッジから整数の時間差で自国の標準時を決定する。経度が15度毎に時差は1時間。明石市は9時間進む位置に
  08/01清国出師提督の丁汝昌率いる北洋艦隊主力艦定遠、鎮遠、成遠、済遠の4艦が入港
     旗艦定遠に丁汝昌が、鎮遠に副提督の英国士官ヤングが座乗
     山脈のような鋼鉄艦隊の停泊は港内を圧する観
     08/13花街丸山界隈は宵の口から清国水兵たちがゾロゾロと姿を見せる
     寄合町の遊廓、遊楽亭に5人の水平が登楼するが断られる
     カッとなった酔いどれ水平たちは暴れだし戸障子やフスマをやぶり手がつけられない状態に
     楼主は「ご注進」と丸山の派出所へ。黒川小四郎巡査がかけつけその場は鎮める
     夜9時士官につれられた14、5人の水兵が丸山派出所をとりかこむ
     黒川は取調中に逃げだした1人を見つけ、素手で捕らえようとする
     水兵は抜剣して頭に切りつける。黒川はひるまず肩車で投げ飛ばす
     血まみれになり逃げる水兵を追跡、船大工町の片峰薬局の格子戸に頭をぶつけ倒れた大男
     西、島田両巡査の応援で逮捕
     大男の王発は鎮遠乗組みの水兵。外国人は治外法権により日本では処罰ができない
     夜、長崎署の田川基明警部が清国領事館を訪ね大王発を引き渡す
     王発は怪我をしており領事蔡軒の要求で長崎病院で手当てを受けさせる
     夜の騒ぎで市民の吉川兼太郎が数人の清国水兵に袋叩きにあい重傷を負う
     08/14朝、領事の蔡軒が県庁舎に知事の日下義雄を訪ねる
     清国側は水兵の集団上陸を禁止。上陸の際は必ず監督士官を付き添わせるという平和協定ができる
     しかし協定は守られず、多数の清国水兵が上陸し広馬場、本籠町、船大工町、山の口、本石灰町一帯は不穏な空気に
     08/15朝、清国水兵が上陸をはじめ、昼ごろには450〜60人にふくれあがる
     水兵たちは行動をはじめる。街角や店先で日本人に乱暴をし市民と小競りあいとなる
     広馬場受け持ちの梅香崎署の坂本半四郎が巡察中に水兵の一団に捕まる
     水兵たちはののしり、なかのひとりは小刀をふり回すなど挑発的な態度をとるが、坂本は我慢
     坂本はその場を切り抜け梅香崎署に駆けもどり報告。警備巡査の増派を要請
     広馬場へ福本富三郎と喜多村香巡査、本籠町の立番所に黒田雲章巡査を配置
     夜8時清国居留民が福本の棍棒を引ったくろうとし、福本はふり返す。清国居留民が大声でわめく
     恩福楼、宝和楼など料理店で酒を飲んでいた清国水兵が喚声をあげて飛びだし立番の3巡査を包囲
     ジリジリと迫り、帯剣のない無防備の3巡査にいっせいに躍りでる
     頭を殴られ倒れた福本は刀で突き刺される。喜多村も昏倒
     重傷を負った黒田は梅香崎署になだれ込む
     福本と喜多村は市民により付近の民家に運ばれ手当てをうける。福本は息が絶え、喜多村は重傷
     梅香崎署の小野木源次郎は清国領事館に報告。鎮圧を要請
     吉田警部補を指揮官とする警官隊7、8人を広馬場へ走らせる
     清国水兵は加勢にきたと勘違い。警官隊は広馬場の四つ角で取り囲まれ殴られ、蹴られ、切りつけられる
     鎮圧の方針でいた小野木署長は腹を決め全署員に帯剣を命じる
      梅香崎署は外国人居留地を管内にもち外国人とのいさかいを避けるため常時帯剣を警棒に替えていた
     清国水兵たちは士官に指揮され5、60人ずつの一団となり梅香崎署を襲撃
     40人足らずの署員は必死に攻防。襲撃は数回続けられ、その都度勇敢に撃退
     上陸した清国水兵は500人に近い。一隊は船大工、丸山、寄合町付近でも暴れだす
     人力車で駆けつけた長崎署の森監督巡査は山の口で水兵に囲まれる
     いきなり胸を刺され車から転げ落ち、市民が長崎病院に担ぎ込むがその後息を引きとる
     市民は十善寺、大浦、小島、丸山一帯から中央地区まで伝令がとび血気の若者は殺気立つ
     清国の士官が停泊中の4艦から仲間を呼ぼうと連絡員を飛ばす。小野木署長は水上署長に連絡
     海陸の交通網全てを遮断。時宜を得た措置となる
     ノコギリ、ノミ、カミソリ、包丁とあらゆる凶器を動員し、凄まじい乱闘がはじまる
     怒号のなかに血が飛び怪我人が続出。次第に清国水兵が追いつめられる
     県警察部から警部以下多数が出動して鎮圧に努める
     08/16午前2時、街が平静を取り戻す
     「清国水兵事件」で日本側は警察官を含め即死1、負傷後死亡1、重軽傷29
     清国側は即死4、負傷後死亡4、重軽傷42
     日下知事は内務、外務両省に報告、清国との談判に備え事件の真相調査、証拠品の収集に全力をあげる
     外務大臣の井上馨から訓令が届く
     「清国北洋艦隊の将校と談判し、互いに後事を戒むる方法を講じ、大事に至らぬよう注意を加うげし」
     08/17総理大臣の伊藤博文から示達
     「事件処理のため外務省に一局を設け、外務、内務、司法各省から委員1人ずつを任命した」
     政府は事件を重大視、事件の不拡大を望む
     08/20内務省警保局長の清浦奎吾が、08/23司法省刑事局長の河津祐之、外務省取調局長の鳩山和夫が来崎
     09/06善後措置を講じ日本側は鳩山と日下知事を談判委員として清国側と話合いに入るがラチがあかず
     11/長崎での談判が打ち切られる
     1887(明治20)03/事件調べが清国北京に移される
     のち東京での井上外務大臣と徐清国公使との会談で和議が成立。事件はようやく解決する
     「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送る」
  08/長崎紡績所工場内にて近代的な工場照明の初めとして自家発電の電灯を点灯
  10/28ニューヨークのリバティ島に建つ自由の女神像の除幕式が行なわれる
     像はアメリカ合衆国独立100周年を記念してフランスから贈られる。高さは48.05米、重さは225瓲
     右手にはたいまつを、左手には独立宣言書を持つ
  10/本石灰町と船大工町の間を流れる仁田川をまたぐ丸山山ノ口に小橋「思切橋」が架橋
     橋長1間8合9勺(約3.42米)、橋幅4間7合5勺(約8.6米)
     1908(明治41)鉄橋となる
     のち幅7米のセメント踏面で橋面は土砂で覆われる
  12/02高野房太郎がパシフィック・メール会社のニューヨーク号で単身横浜港を出港
     1891(明治24)夏/高野房太郎は桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
     同じ桑港で働いていた友人の靴工・城常太郎、洋服職人・沢田半之助らとともに
     職工義友会は労働組合運動についての研究会
     また白人の靴工に迫害されていた日本人靴工による「加州日本人靴工同盟会」の母体に
     【詳しくは1869-01/06に】
  12/03帝国陸軍が対馬分遣隊を改編して「対馬警備隊」を置く
     1903(明治36)04/14「対馬警備隊司令部条例」が制定。司令部が長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれる
  12/07渡御。「長崎くんち」がコレラ流行のため日程変更12/09還御
     (1)…丸山町(本踊)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、平戸町(本踊)、
     樺島町(太鼓山)、八幡町(山伏踊)、麹屋町(本踊)、万屋町(鯨潮吹き)、
     西浜町(龍船・アニオー行列)、銀屋町(本踊)、諏訪町(蛇踊)
  東山手9番地の英国領事館跡に木造2階建のスチイル記念学校が設立
     1891(明治24)東山学院と改称
     1932(昭和07)05/明治学院に併合され廃校に
     のち長崎東陵中学校となる
  興善小学校が尋常興善小学校と改称
     1934(昭和09)03/31興善小学校と新町小学校が合併、新興善小校が開校
  西道仙が創設した長崎医会が瓊浦医学会と改称
     のち長崎医学会となる
  公立長崎商業学校が大村町に創立
     1889(明治32)伊良林の中島川畔の地に新築移転
     のち中川町に移転
     1933(昭和08)06/11中川町から西郷(油木町)に校舎を新築移転
     1945(昭和20)08/09原爆により校舎が破壊。教職員13人、生徒162人が犠牲に
     一時、上長崎小学校の校舎を借りて授業再開
     1946(昭和21)市立長崎商業学校が油木町の旧校舎に復帰
     1986(昭和61)校舎の老朽化から現在地の泉町に総工費62億円で新校舎を建設移転
  県下に天然痘患者1087、コレラは1927
  福江島の南西約70粁にある男女群島の近海で富江の山本弥三郎のフカの延べ縄にアカサンゴがかかる
     サンゴ漁場が発見される
     1900(明治33)近海でさらに大きな漁場が発見される
     地元の船ばかりでなく鹿児島や高知の船まで何100隻もの漁船が出漁
     1906(明治39)10/台風でサンゴ船、カツオ船173隻が沈没、死者行方不明者734人に
  第三海軍区、西海鎮守府が2年余の実地調査の末、佐世保に決定
     候補地には平戸島の江袋湾、佐賀県の伊万里湾もあった
     佐世保村民は狂喜して、2万数千坪の用地買収に坪当たり10銭〜25銭という破格の安い値段で応じる
     1887(明治20)建設工事が始る。全国各地から人夫が集まり、商人が殺到
  女子としてわが国最初の医籍登録者、荻野吟子が誕生
     荻野は東京女子師範学校を卒業したあと私立医学校好寿院を終了
     内務省の医術開業試験を受けようとしたが、受験を拒否され、長与専斎の尽力で受験が認めらる
  黒島教会のラゲ神父が田平の原野1町を買い黒島から3家族を移住させる
     1887(明治20)出津教会のド・ロ神父が1町を買い4家族を移住させる
     のち次第に移住者が増えキリシタンの集落となる
     大正時代初期80戸の信徒が集まる
  大浦の林某、村川某の寄進で頑丈な石造アーチ橋の大浦石橋が架かる
     のち周辺が暗渠となり橋は道路の下に姿を消す。電停の名称「石橋」だけが残る
  女性の官服にも洋服が採用され、それまでの公家風・武家風の和服礼装が廃止となる
  「郵便報知新聞」を発行する報知社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行ない、新聞の大衆化を図る
     1894(明治27)三木善八が社主に就任
  ド・ロ神父が黒崎村出津に聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
     貧農の青年には農業の近代化を図る
     水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
  この年、県下に天然痘患者1087、コレラは1927発生

1887(明治20)【明治】 丁亥(ひのとい)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《知事》[第8代(官選)]日下義雄

  01/01東京気象台が中央気象台として発足する。管轄は内務省
  01/22東京電灯株式会社が鹿鳴館に白熱電灯を設置する
  01/馬町の西洋料理専門店「自由亭」が廃業
     のち長崎地方裁判所が買収し検事正官舎に
     1973(昭和48)05/検事正官舎が閉鎖。検察庁より長崎市が譲り受け
  03/小曾根・浪平・古河の3町共同して鍋冠山に校舎新築。尋常小曾根小学校が尋常鎮鼎小学校と改称
     1893(明治26)04/学制改正により鎮鼎小学校と改称
  03/1886(明治19)08/に起きた「清国水兵事件」の事件調べが清国北京に移される
     のち東京での井上外務大臣と徐清国公使との会談で和議が成立。事件はようやく解決する
     「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送る」
  04/09井上馨が外務大臣を辞任。鹿鳴館時代は井上とともにその歴史に幕をおろす
     1890(明治23)鹿鳴館の建物が宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用
  04/「内務省地理局長崎測候所」が長崎県へ移管され「長崎県立長崎測候所」と改称
     1897(明治30)08/01海星高校が新校舎を建設
     観測に支障をきたし西彼杵郡戸町村大浦郷字日南平(現大浦元町129番地)に移転
  04/三菱社社長岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局の払下げを申請
     1887(明治20)06/代金45万9千円で許可を受け長崎造船局は三菱社の所有に
  04/「対馬要塞」が建設を開始。温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工
  04/長崎海運局の前身となる長崎司検所が開所
  05/26三菱社が日本初の鋼鉄製汽船の「夕顔丸」を竣工
     三菱炭坑社高島炭坑向け貨客船206瓲、330馬力、8節
     1962(昭和37)04/01船齢75年で廃船、解体
  05/佐野常民が起こした日本博愛社が日本赤十字社と改称
     シーボルトの長男、次男、ポンペが支援し万国赤十字社に加入
     09/29ドイツで開催された万国赤十字社大会に森鴎外が日本の代表として出席
     ポンペと会談し日本での赤十字社設立を喜ぶ
  06/20代金45万9千円で許可を受け工部省所管の長崎造船局(長崎製鉄所?)は三菱会社の所有に
     1893(明治26)三菱合資会社が設立し「三菱合資会社三菱造船所」と改称
     長崎造船所を拡張。神戸、下関に造船所を新設
  07/01日本薬局法が施行
     1880(明治13)10/衛生局長長与専斎の建議にも基づいて日本薬局方が制定され
     1886(明治19)06/内務省令をもって初めて日本薬局方が発布され、この年の施行に
     日本薬局方編集総裁および委員は総裁=元老院幹事細川潤次郎、
      委員=陸軍軍医総監松本順、同軍医監林紀、海軍軍医総監戸塚文海、一等侍医池田謙斎、内務省衛生局長長与専斎、
      東京大学医学部教授三宅秀、海軍中医監高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等軍医正永松東海、柴田承桂、
      東京司薬場教師オランダ人エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人ゲールツ、
      東京大学医学部教師ドイツ人ベルツおよびランガルト、オランダ人ブッケマン
  07/08「國道表」に国道47号「東京より佐世保鎮守府に達する路線」が追加される
     この路線は、国道4号(現1号・2号ほか)を経由し、武雄で分岐して佐世保に至るもの
     武雄と佐世保とを結ぶ国道35号の起源となる
     1920(大正09)旧47号がそのまま国道33号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」となる
     施行の旧道路法に基づく路線認定による
     1952(昭和27)12/04新道路法に基づく路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武雄町 - 長崎県佐世保市)に指定
     1965(昭和40)04/01道路法改正によって一級、二級の別がなくなり一般国道35号となる
  07/31鍛冶屋町と本石灰町の間に架かる石橋「思案橋」の修繕をする。起工は07/23
     長崎区役所が負担した修繕費用は20円
     この石橋は急勾配で交通に不便、さらに橋面が狭くて窮屈となる
       思案橋の由来は、はじめ木廊橋が作られたとき
       シャム船の廃材料を使って架けられシャム橋の名がつく
       また遊客が思案する場所なのでそれが訛って思案橋とも
     1914(大正03)03/30セメント・コンクリートを塗った鉄橋に架け替え【02/15?】
     両側を鋳鉄にして中央の鋳鉄にはブランケット、グローブ3個付きの電燈を取り付ける
     長さ4間7合、幅3間。広さは14坪1合。
     工事に着手したのは請負の典崎定作。橋名は加悦長氏の筆による
     工費の総額は1972円47銭。うち1109円60銭を鍛冶屋町以外の4町の住民寄付に係り残りを長崎市が負担
  08/県管轄の長崎病院が医学校の国立移管に伴い、長崎県立長崎病院と改称
     1902(明治35)04/浦上山里村(坂本町の現在地)に移転
  10/「長崎くんち」(2)…寄合町(本踊)、榎津町(川船・本踊)、西古川町(相撲踊)、
     本紙屋町(本踊)、新大工町(川船・本踊)、磨屋町(本踊)、新橋町(本踊)、
     出来鍛冶屋町(御座船・本踊)、大村町(本踊)、本五島町(本踊)、今町(本踊)、金屋町(本踊)
  11/19アメリカ軍艦オマハ号の乗組員2人が上陸許可を得て街へでたまま行方不明に
     アイルランド生まれの大工見習マイケル・マローニ(26)と
     ロシア生まれの艦尾掌砲長フランク・ジェイコブズ(40)
     11/26居留地近くの海岸にマローニの遺体が打ち上げられる
     11/27少しはなれた浅瀬にジェイコブズの遺体を発見
     泳げないジェイコブズが海に落ちマローニが助けようと海に入る
     ジェイコブズがもがきすぎ、ともに海中に引き込まれたと思われる
     2人の遺体はともに大浦国際墓地7番に埋葬
  手作りオリジナル和菓子の店、白水堂が油屋町に創業
  大浦上田町に沢山熊右衛門ら有志7人が地区民の娯楽場「娯楽園」を建設。
     1888(明治21)合資会社七楽座に
     1891(明治24)劇場「七楽座」となる
     演芸場となり浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
     第二次世界大戦中大浦劇場と改称
     1964(昭和39)火災により焼失
  日下義雄知事らが中島川上流中川郷の地に吉野桜数千本を植える
     1900(明治33)長崎村の有志により地を開いて中川カルルス温泉を開業
  小菅修船場(通称ソロバンドック)が三菱の所有になる
  ルーマニア生まれのジークムント・D・レスナーが妻ソフィ・レヴァーをめとる
     1892(明治25)坂本国際墓地内にユダヤ人墓地を作るための資金調達に奔走
  第三海軍区、西海鎮守府が佐世保で建設工事が始まる
     全国各地から人夫が集まり、商人が殺到。
     1888(明治21)人口が一挙に倍増。佐世保には新興の活気がみなぎる
     80余人に上る犠牲者を出しながら突貫工事が進む
  出津教会のド・ロ神父が田平に1町を買い4家族を移住させる
     のち次第に移住者が増えキリシタンの集落となる
     大正時代初期80戸の信徒が集まる
  大村の竹松にド・ロ神父が移住者用の畑を買い、教会の周辺に本国フランスからトマトの種子を持ち入れ栽培
     大浦天主堂の宣教師の接待用に用いられる
     大村では西洋ナス畑柿と呼ばれ、無支柱、無摘心の放任栽培で果実の直径は4〜5糎から5〜6糎の小実

1887(明治20)頃

  螢茶屋にあるアーチ式石橋一の瀬橋の橋銘に「ICHINOSEBASHI」と刻まれる
     【一説に1882(明治15)の日見国道改修の折り】

1888(明治21)【明治】 戊子(つちのえね)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(→04/30)、[第2代]黒田清隆(04/30→)
  《知事》[第8代(官選)]日下義雄

  03/31県立長崎医学校が廃止となり、校舎・敷地を第五高等中学医学部に移管
     04/10第五高等中学医学部に九州各地区の元医学生徒369人を入学させ、仮開校式を挙行
     1892(明治25)03/07第五高等中学医学部の新校舎の一部が完成
     新校舎の一部は西彼杵群浦上山里村の敷地1万7822坪に完成
  04/13東京下谷区上野西黒門町2番地に日本に初めて喫茶店「可否茶館」ができる。創始者は鄭永慶
     1階がビリヤード場、2階が喫茶室の2階建て洋館で
     コーヒー1銭5厘、牛乳入れ5厘、席料1銭5厘。1杯2銭の牛乳よりは安い
     開店広告には「珈琲の美味なる思わず●(月篇に旁が思・あご)を置き忘れん事疑いなし」
     3年後閉店となる【5年後?】
     もりそば1杯1銭の時代に高価すぎ
     日本人の口にはまだ馴染みがなかった
     1925(大正14)03/長崎市鍛治屋町に喫茶店「ツル茶ん」が創業
     長崎の喫茶店の始まりであり、九州初の喫茶店でもある
  04/23大浦外国人墓地が付近住民の保健衛生などの面から閉鎖
     1888(明治21)07/01正式に閉鎖され管理責任は長崎市に委ねられる
  06/01帝国大学付属として東京天文台が東京港区麻布飯倉に設立
     帝国大学の学生用観象台と海軍省観象台と内務省地理局が統合される
  06/雑誌「日本人」第6号に松岡好一による潜入体験手記「高島炭鑛の惨状」が掲載される
     「日本人」は国粋主義系の出版社、政教社が発行
     悲惨な内容は国民にショックを与え全国にセンセーショナルを巻き起こる
     「欧米の奴隷は異邦人よりなりしが、奴隷禁止のわが国において、同邦人、同種族を奴隷とするものあるは、そも何の怪事ぞや」
     「日本人」主筆の三宅雪嶺は論じ三菱資本を厳しく非難
     のち8月3日発行の雑誌「日本人」第9号では「高島炭坑」の特集を組む
  07/01大浦外国人墓地が正式に閉鎖され管理責任は長崎市に委ねられる
  07/01県令日下義雄が保険衛生上から長崎区と上長崎村、下長崎村、戸町村の長崎区に近接した地区での土葬を禁止
  07/10大阪の「朝日新聞」が東京の「めさまし新聞」を買収。改題し「東京朝日新聞」を創刊
     社屋は京橋区元数寄屋町。号数は自由燈、燈新聞、めさまし新聞を引き継ぎ1076号からスタート
     1889(明治22)大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改題
  07/15会津の磐梯山が噴火
     噴火時に小磐梯が麓から湧き出していた温泉により風化したのが原因で山体崩壊を起こす
     発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落が埋没するなどの被害を及ぼし477人の死者がでる
     のち長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼など大小さまざまな湖沼が形成
  07/18長崎県私立衛生会臨時会を開き、長与専斎が来崎、講演。女神検疫所・口之津港を巡視
  08/古賀祐一、松田源五郎ら数人が長崎電灯(株)を発起
  10/コレラ流行のため「長崎くんち」の奉納踊りはなし
     (3)…丸山町、油屋町、下筑後町、今籠町、今鍛冶屋町、
     西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、萬歳町、小曾根町
  10/16フランス海軍の砲艦「ヴァイペル号」の水兵ガブリエール・ブールヒ(23)が仲間と上陸
     浪の平の日本人界隈の飲み屋で仲間の1人が日本人労働者と喧嘩。たちまち表に出て取っ組み合いに
     双方傷を負い、水兵たちは意識不明のブルーヒを置き去り逃げ出す。まもなく瓶による頭部打撲で死亡
     のち1か月の聞き込み捜査の結果、大工の森上豊松が逮捕。有罪となり重労働6年の刑に
     ブルーヒの遺体は新設された坂本国際墓地に埋葬者第1号となり339番に葬られる
     1900(明治33)フランス人兵士区域の開設と同時に245番に移転
  11/20「大阪日報」が「大阪毎日新聞」と改題
     1911(明治44)「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が合併。全国紙として第一歩を踏み出す
  12/01勝山小学校にて長崎縣聯合醫會が開かれる
  12/31長崎市成立直前の長崎区総町90町、総戸数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
     上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299人
     1889(明治22)04/01長崎区と上長崎村、下長崎村の各一部が合併、長崎市が成立(初代市長北原雅長)
     推定面積7平方粁(推)、戸数9230【一説に1万0135戸】、人口5万4502
     上長崎村の内船津郷、馬場郷の全部、西山郷、岩原郷、片淵郷、夫婦川郷、伊良林郷の一部
     下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各一部を市域に編入。長崎区90町が合併
  中島川支流一帯の溝渠板石を敷設
     のち放置された状態となる
  大浦国際墓地が閉鎖後、同時に浦上山里(坂本町)と浦上淵(竹の久保)に墓地を開設
     浦上村淵(竹の久保)…コレラや天然痘など伝染病による死者が埋葬
     遺族や友人が遺体の火葬に同意すれば山里に埋葬
     伝染病墓地は166区画の墓が備えられていたが埋葬者数は少ない
     1920(大正09)浦上淵の墓地が閉鎖
     墓の閉鎖にともない11の墓が淵から山里に移設
     その他数人の中国人の墓は悟真寺唐人墓地に移設
     のち病院が建設(長崎成人病院)
     浦上村山里(坂本)…「坂本町外人墓地(4698平方米、墓碑442基)」を設置
     【一説に5594平方米、377の区画の墓】
     1890(明治23)地元カトリック伝道団の要請により4つの区域がカトリック教徒の墓地に指定
     1892(明治25)ユダヤ人商人M・ギンズバーグとN・メスがユダヤ人墓地を購入
     背後に石造門や壁、鉄柵が施され整備
     1900(明治33)フランスが兵士のための墓地を購入
     1902(明治35)中国義和団事件で兵士や船員の遺体でいっぱいに
     坂本国際墓地の埋葬者数(325)
        イギリス(103)、アメリカ(73)、フランス(56)、ドイツ(29)、イタリア(14)、
        ポルトガル(11)、オーストリア(9)、ベトナム(8)、ロシア(7)、日本(3)、
        スウェーデン(2)、ノルウェー(2)、デンマーク(1)、ギリシア(1)、不明(6)
     1903(明治36)外国人の急激な増加で南側の区画がいっぱいになる
     北側の区画に新坂本町国際墓地を新設
     1908(明治41)新坂本国際墓地で初の埋葬が行なわれる
     新坂本国際墓地の埋葬者数(117)
        イギリス(31)、アメリカ(20)、日本(16)、イタリア(9)、オランダ(8)、
        ドイツ(8)、フランス(5)、ロシア(5)、オーストリア(3)、ポーランド(3)、
        ポルトガル(2)、スウェーデン(2)、デンマーク(2)、不明(3)
  木鉄混合橋の元川口橋と木鉄混合橋の出島橋が架かる
  宮地嶽八幡神社に陶製の大鳥居が奉納される
  土葬禁止令により濱町の島瀬某が伊良林郷四ケ辻に火葬場を設ける
  江戸時代から続く五人組制度が市町村制の公布とともに除かれる
  大浦上田町の娯楽園が合資会社七楽座に
     1891(明治24)演芸場となり浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
  港湾第1期改良工事の一環で出島と十八銀行本店との間の約450坪が埋め立て
     1954(昭和29)出島と十八銀行本店との間, 銅座川を通すため再び開削される
  九州鉄道株式会社が設立。仮本社を博多におく
     1891(明治24)04/門司駅(門司港駅)開業の直後に九州鉄道の赤煉瓦造の豪華な社屋が完成
     九州鉄道株式会社本社が博多より移転
     1907(明治40)07/01国有鉄道となる
  中島川に築町〜西浜町を結び木鉄混交のポニー型プラットトラス橋の長久橋を新しく架設場所を変更し建設
     橋長90尺(27.27米)、幅員18尺(5.45米)
     死荷重1尺毎800封度(1197.62kg/m)、活荷重1平方尺80英斤(395.26kg/m2)
     1889(明治22)中島川の変流に伴い木鉄混交橋に架け替えられる
  佐世保での第三海軍区、西海鎮守府の建設により人口が一挙に倍増
     新興の活気がみなぎり、80余人に上る犠牲者を出しながら突貫工事が進む
     1889(明治22)05/佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が公示
     区域は九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上
  フレノー神父が浦上教会主任司祭となり典礼の充実と聖歌隊指導に力を入れる
     1895(明治28)自ら浦上天主堂の建築監督に当たるが完成を見ずに死去
  田平に仮聖堂が建つ
     1914(大正03)中田藤吉神父が赴任。煉瓦造りの教会を建てることに
     のち資金づくりが困難で中田神父は紐差教会のマタラ神父に相談
     フランス人篤志家の匿名の寄付などで着工。途中、崖崩れん惨事が発生
     1918(大正07)田平教会(瀬戸山教会)が完成
     教会建築の第1人者の鉄川与助の設計では最後の煉瓦造教会
     張り出した特徴的な3層の高い塔屋を持つ。平屋で479平方米
     第1層が玄関部、第2層に3連アーチの縦長窓、第3層が鉄川与助独特の十字架を頂く八角ドームを載せた鐘塔
  中津屋橋本商店が台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
     成功しサルベージ技術を確立
     1905(明治38)旅順港内で港湾閉塞のために自沈したロシアの艦船の過半数を軍命により引揚げる
  (初発〜12/28)県下の伝染病患者5421(腸チフス1472が最も多く、赤痢3892が次ぐ)、うち死亡745
  小浜町立雲仙小学校が創立

1888(明治21)頃

  出島オランダ商館と江戸町を結ぶ石橋がはずされる
     中島川の流路変更工事に伴い、出島の北岸が削られる

1889(明治22)【明治】 己丑(つちのとうし)

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