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〈明治時代(8)〉

1898(明治31)【明治】 戊戌(つちのえいぬ)

  《総理大臣》[第6代]第2次松方内閣(→01/12)、[第7代]第3次伊藤博文内閣(01/12→06/30)
        [第8代]大隈重信(06/30→11/08)、[第9代]第2次山縣有朋内閣(11/08→)
  《知事》[第12代(官選)]小松原英太郎(→12/28)、[第13代(官選)]服部一三(12/28→)
  《市長》[第2代]横山寅一郎

  01/20九州鉄道、大村〜早岐が開通し大村〜鳥栖全通。長与〜大村は船舶で連絡
  04/「長崎要塞」がを建設開始。神の島高砲台が起工
     1936(昭和11)08/「佐世保要塞」を吸収合併する
  05/15夕刻、米人オーウェン・ギャノン(27)が3人の仲間と大浦川沿いの狭い路地に立ち並ぶ酒場のひとつに
     夜8時頃、パトロール中の巡査が銃声を聞き酒場に入るとギャノンが倒れていた
     ギャノンの遺体は坂本国際墓地308番に埋葬
     のちアメリカ本国に改葬
     酒場の主人で米人のジョン・ケリーが逮捕。第一級殺人罪にとわれアメリカ領事館で裁判を受ける
     泥酔状態のギャノンがケリーの店に入ると酒を要求
     普段から飲み代で口論が絶えず、このときも口論となりケリーはポケットから拳銃を撮りだし3発発射
     1発目は天井へ、2発目は木のカウンターへ、3発目がジャノンの胸に命中
     ケリーは暴発と主張したが陪審員は故意に発砲したと断定
     裁判官を務めたアメリカ領事のチャールズ・B・ハリスは死刑を判決
     のち東京の米国総領事は再審を要求。刑期は7年に減刑
     横浜のアメリカ刑務所に収監される
     1899(明治32)07/外国居留地と治外法権制度の廃止などの混乱により釈放
  07/01西彼杵郡淵村の一部が小榊村に分立する
     西彼杵郡深堀村の一部が香焼村に分立する
     10/01西彼杵郡淵村の一部が浦上山里村に編入される
     西彼杵郡下長崎村、戸町村、淵村と上長崎村の一部が長崎市に編入される
  07/27勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布
     以下に対して要塞司令官の許可が必要となる
     「要塞ニ於ケル各防御営造物ノ周囲ヨリ外方五千七百五十間(約10km)以内ノ水陸ノ形状ヲ測量、模写、撮影、筆記」
     違反すると「十一日以上一年以下ノ重禁固又ハ二円以上五十円以下の罰金」に処せられる
  08/10長崎市に初めて学校医を置き、初代学校医に開業医・吉田寅次郎が就任
  08/15医会事務所を東中町60番戸に置く
     1903(明治36)09/長崎県医会(市医会)事務所が東中町60番戸から金屋町2番戸に移転
  08/16日本初の日本郵船向け近代的大型貨客船「常陸丸」が竣工。三菱第99番船
     6172瓲、3847馬力、14.184節
     1904(明治37)06/15玄界灘で日露戦争の兵員輸送中にロシア艦隊の砲撃を受け戦没
  09/01下り松43〜45番地に赤煉瓦3階建の「長崎ホテル」が完成(現香港上海銀行長崎支店記念館の並び南側)
     F・リンガーを初めとする外国人が株式会社方式(資本金13万円)で設立
     支配人は英国人、コック長はフランス人の本格的な西洋式ホテル
     客室50室の室内は衛生的で諸設備は全て近代的な電気装置
     電灯、電気呼び鈴、電気火災報知器等があり、全室電話機完備
     1904(明治37)12/25パワーズ商会より広告がだされ競売に。リンガー商会が落札し開業
     1908(明治41)春閉業
     1914(大正03)第一次世界大戦で経済界は好況に恵まれ、邦人により再開。永続しなかった
  安中半三郎を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって「長崎盲唖院」として創立
  09/12開院。自ら視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として授業が開始
     開院時の生徒数は13人、京都以西では2番目に設置された盲聾教育機関
     1898(明治31)11/28電話発明者のA・G・ベル博士が来院、教師及び生徒に対して手話演説
     のち九州初の盲聾教育機関として九州全域や愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増加
     校舎が手狭になり2度の移転
     1900(明治33)「私立長崎盲唖学校」と改称
     1908(明治41)桜馬場町に新校舎が落成
     1919(大正08)「長崎盲唖学校」と改称
     1924(大正13)07/12盲聾教育の組織分離。「長崎盲学校」「長崎聾唖学校」が開設
     1929(昭和04)04/01県に移管され「長崎県立盲学校」となる
     1934(昭和09)上野町(のち橋口町)に最新設備を有する鉄筋コンクリート造3階建て新校舎が完成、移転
     1937(昭和12)05/29浦上校舎にヘレン・ケラー女史が来校、記念として月桂樹を手植
     1945(昭和20)02/校舎を三菱長崎造船所に貸与。学校は長崎市近郊の長与村に疎開移転
     1945(昭和20)08/09帰省中の生徒4人と長崎出張中の校長が被爆死亡、浦上校舎も壊滅的な被害を蒙る
     1948(昭和23)05/長与村の仮校舎が手狭になり大村市に移転し再び盲聾学校併設となる
     1949(昭和24)08/原爆で損壊した旧浦上校舎跡に寄宿舎と外来治療室が完成
     聾学校と再び分離、仮校舎で授業を再開
     1950(昭和25)05/木造2階建て復旧校舎の落成祝賀会開催。永井隆博士が祝いの色紙を送る
     1975(昭和50)児童生徒数の増加と復旧浦上校舎の老朽化で、時津町に校舎・寄宿舎が新築され移転
  09/海星学園が現在の東山手町に移転。スウェーデン人技師の設計で煉瓦造1部地階、地上2階建の新校舎完成
     外国人と日本人の共学に
     1918(大正07)2階のうえに1階積み足し3階建に
  10/01小松原知事が人口増加にともない村民の反対を押しきり長崎市が市域を拡張(第1次)
     上長崎村の船津郷、岩原郷、西山郷、馬場郷、中川郷、伊良林郷の各一部
     下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各全域、戸町村の大浦郷、浪之平郷、下郷の各全域
     浦上山里村の馬込郷、里郷の各一部、浦上淵村の全域、小榊村木鉢郷の一部を市域に編入
     16.00平方粁(推)、戸数1万6559、人口11万3307となる[1898(明治31)12/31現在]
     編入された区域の人口は3万9333人[1897(明治30)12/31現在]
     1920(大正09)10/01長崎市の第2次市域拡張により西彼杵郡上長崎村と浦上山里村を市域に編入
     41.10平方粁、戸数3万3240、人口23万2912となる[1920(大正09)12/31現在]
     上長崎村・浦上山里村(推)24.00平方粁3226戸1万6830人[1919(大正08)12/31現在]
  10/01西彼杵郡上長崎村の船津郷、岩原郷、西山郷、馬場郷、中川郷、伊良林郷の各一部
     西彼杵郡下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各全域、戸町村の大浦郷、浪之平郷、下郷の各全域
     浦上山里村の馬込郷、里郷の各一部、浦上淵村の全域、小榊村木鉢郷の一部が長崎市域に編入
     1919(大正08)10/01茂木村に町制が敷かれ茂木町となる
  10/01西彼杵郡淵村の一部が浦上山里村に編入される
     1919(大正08)10/01西彼杵郡茂木村に町制が敷かれ茂木町となる
  10/20「日本海員掖済会」が民法施行法の規定により社団法人の認可を受け、法人登記第1号となる【10/27?】
     掖済会は民法施行前からの独立の財産を有する社団として、民法施行法の規定により第1号に
     のち海員に対する宿泊、職業紹介や、海員の養成、表彰、援護、医療等海員の福利厚生に関する事業を網羅的に行なう
     戦後医療と社会福祉活動に重点を置き、対象を海員に限らず広く地域社会とすることに
  10/「長崎くんち」(6)…丸山町(本踊・段尻)、本大工町(本踊・曳段尻)、
     今博多町(本踊)、本紺屋町(本踊)、今魚町(川船)、本籠町(蛇踊)、
     材木町(川船)、古町(本踊)、上筑後町(本踊)、江戸町(陸軍操錬)、本興善町(獅子踊)
     材木町の川船では生きた鯛や海老を並べる
  11/02九州鉄道の大村〜諫早〜長与が急勾配、トンネルなど難工事の末に開通
     早岐回りの鳥栖〜長崎間が全通
     諫早〜長与に諫早駅、喜々津駅、大草駅が開業
  11/28電話発明者のA・G・ベル博士が「長崎盲唖院」に来院、教師及び生徒に対して手話演説
     のち九州初の盲聾教育機関として九州全域と愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増加
     校舎が手狭になり2度の移転
     1900(明治33)「私立長崎盲唖学校」と改称
  11/高野房太郎は期成会常任幹事、鉄工組合常任委員を辞任
     生活協同組合運動の重要性を説き、横浜に共働店(生活協同組合)横浜鉄工共営合資会社を設立
     みずから経営にあたる
     1900(明治33)01/頃高野房太郎は東京京橋区八丁堀に「共働店・共営社」を設立
     石川島造船所、沖電気の労働者などを組合員とする。共営社の2階には石川島造船所の労働者クラブが設けられる
     【詳しくは1869-01/06に】
  12/26ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻によりラジウム226(半減期1600年)が発見
     放射線をだしているためラテン語のradiusに因んで命名される
  12/「九州日之出新聞」が創刊
     鈴木力(天眼)、坂井伊之吉らによって東浜町に創立
     主筆は鈴木力、太田雪松、岩永八之凾と続く
     のち五島町、樺島町、銀屋町と社屋は転々とする
     1918(大正07)03/廃刊
  長崎電話交換局の庁舎が築町に竣工
     1903(明治36)長崎郵便局に併合、長崎郵便局電話部に
  淵村が長崎市に編入したため、淵村字飽浦の飽浦尋常小学校や稲佐小学校が長崎市立の学校となる
  長崎県知事大森鐘一の尽力で丸馬場上の高台の東照宮が東照宮神社として再興、諏訪神社の境内神社となる
     1910(明治43)09/19諏訪神社の末社となる
  測候所が十善寺郷からドンの山(●●●●●山)に移る
  長崎県尋常師範学校が長崎県師範学校と改称。長崎県教員養成の基礎が確立
     1908(明治41)04/01長崎県師範学校女子部が立山の県立長崎中学校跡地に移転。長崎県女子師範学校に改められる
  長崎市中川町に農事試験場開設。長崎ハクサイの早生・晩生の2系統を選抜
  「郵便報知新聞」に案内広告のはじまりとなる「職業案内」欄が創設
     1901(明治34)01/02〜03「二十世紀の豫言」を掲載。20世紀中に実現すると思われる23項目の事柄が書かれる
     科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い
  フランス人でマリア会修道士センネツの設計により、南山手の丘の上のイエズス会修道院本部が煉瓦造建物に建て替えられる
     建物は3階建であるが2階までが煉瓦造、3階は小屋裏をうまく利用した木造
     銅板張りのマンサード屋根と白い鎧戸と、煉瓦壁面が静寂な林間にとけ込み美しい風景を醸しだす
     1950(昭和25)同修道会本部が兵庫県に移転
     女子修道院「マリア園」となり幼稚園、養護学校が併設されて修道女による運営が行なわれる
  初代、田中素郎市によって田中旭栄堂が創業
     1904(明治37)『福砂屋』で菓子づくりを学び「栗饅頭」を作り始める
     日露戦争の戦勝祝いとして作られ、はじめ形は卵形、栗がなく原材料の質は劣っていた
     『勝ちぐり』にあやかって作られた
  長崎市に伝染病患者303
     うち赤痢は66(死亡139)、腸チフス29(死亡13)、痘瘡7、狷紅熱2、コレラ2(死亡2)
  雲仙の一乗院の名残りのひとつであった釈迦堂が焼失。護摩堂も類焼する
     1916(大正05)一乗院釈迦堂の再建工事が完成し開眼式が行なわれる

1898(明治31)頃

  本県でダイコンの品種比較・肥料試験が実施される

1899(明治32)【明治】 己亥(つちのとい)

  《総理大臣》[第9代]第2次山縣有朋内閣
  《知事》[第13代(官選)]服部一三
  《市長》[第2代]横山寅一郎

  02/13私立長崎医学校が開業医試験合格をめざし授業開始
  03/23グラバーの妻ツル(49)が東京のグラバー邸で胃癌のため死去
     遺体は火葬に付され長崎へ運ばれ太平寺の墓地へ埋葬
     1908(明治41)日本帝国政府から外国人には破格の勲二等旭日重光章が贈られ功績をたたえる
  04/01長崎市内に電話が開通。磁石式単式交換機3台で九州初の電話交換業務を開始
     開通当時の加入者は191人。1日の通話数は4月平均で10回半
     1902(明治35)男子交換手が廃止
     1903(明治36)長崎電話交換局で女子交換手だけとなる
     職場の花「紫式部(和服に紫の袴を着用)」が世間の憧れに
  04/11鎮鼎小学校が鎮鼎高等小学校と改称(高等科生のみ収容)
     1908(明治41)04/01義務年限6か年となり浪平尋常高等小学校と改称
  04/13女神検疫所が内務省直轄の長崎海港女神検疫所として常置される
  04/東山町の大浦尋常高等小学校が高等科を廃止し大浦尋常小学校と改称
     1904(明治37)04/大浦実業補修学校を付設
  05/26上海から長崎入港の日本郵船「日本丸」船客の中国人少年がペストで死亡
  06/倉場富三郎が横浜在住の英国人ジェームズ・ウォルターと日本人女性中野エイの娘中野ワカと結婚
     1907(明治40)長崎汽船漁業の専務取締役に就任
  07/01外国為替銀行の横浜正金銀行、長崎出張所が大浦海岸通りに開設
     1900(明治33)01/01長崎出張所が長崎支店に昇格
     1903(明治36)梅ケ崎町4番地に移転
  07/05磨屋町の長崎裁縫学校が麹屋町に移転
     1906(明治39)03/01玉木女学校と改称
  07/14法律第百四号として「軍機保護法」が公布
     「軍機保護法」は軍事機密の探知収集・漏洩・公示に対する処罰方法を明らかにしたもの
     要塞施設の測量・模写・撮影・録取や同施設への侵入に対する処罰にも触れる
     1945(昭和20)10/12勅令第五百六十八号によって「軍機保護法」等が廃止となる
  07/14法律第百五号として「要塞地帯法」が公布
     「要塞地帯法」は要塞施設の周囲に「要塞地帯」を設定、同地帯内及び周辺における禁止・規制事項とその罰則を明らかにしたもの
     内容としては前年の勅令第百七十六号より規制事項が増やされる
     例えば(1)漁猟、(2)採藻、(3)艦船の停泊、(4)不燃建築・埋葬地・水車・風車・井戸・公園・畑・堤防・運河・
     道路・橋・鉄道・トンネル・永久桟橋の新設又は変更、(5)家屋倉庫の増改築、(6)堆土・開削の工事、等が規制
     この法が適用される「要塞地帯」は、要塞の「防御営造物ノ各突出部ヲ連結スル線」より「二千二百五十間(約4km)以内」
     要塞地帯の「境界線ヨリ外方三千五百間(約6km)以内ノ区域」(つまり勅令第百七十六号の適用区域と同じ)においても
     「水陸ノ形状ヲ測量、撮影、模写、録取」するには要塞司令官の許可が必要となる
     1915(大正04)「要塞地帯法」が改正
     「何人ト雖要塞司令官ノ許可」を得なければ「要塞地帯内ヲ航空」してはならないと定められる
     1940(昭和15)04/02法律第九十号として「要塞地帯法」が改正
     新たに(1)爆発物の使用や貯蔵、(2)山林や原野での焚火、
     (3)運動場・競馬場・飛行場・高周波電流を発する設備の新設又は変更、等を規制する条文が加えられる
     注目すべき点は「要塞地帯」の幅員が拡大されたこと
     それまで要塞の「防御営造物ノ各突出部ヲ連結スル線」より「二千二百五十間(約4km)以内」だったのが
     「一萬五千メートル(15km)以内」と改められる
     要塞地帯が拡大されたことにより、12月2日、陸海軍省告示によって要塞地帯が指定され直される
     1943(昭和18)11/13勅令第八百六十八号により「要塞地帯法戦時特例」が公布される
     1945(昭和20)10/13勅令第五百七十六号によって「要塞地帯法」「要塞地帯法戦時特例」等が廃止となる
  07/17諸外国との条約が改正実施。各地の居留地が一斉に回収(返還)され日本が欧米諸国と対等の位置に立つことに
     以降外国人は「内地雑居」を認められて旅行制限も解除される
  07/17治外法権が撤廃され長崎外国人居留地が廃止。外国人の内地雑居が許される
     長崎在留外国人戸数731戸、人口1702人
  07/17横浜の元居留地でアメリカ人の水夫ロバート・ミラーが銘酒屋にて外人1人と日本人2人を殺害
     ミラーが捕われたのは外人雑居後初めての捕縛
     巡査は尻込みをし、留置場ではナイフを使えぬためパンを細く切って与える
     のち新例が開かれ初めて日本の裁判官が審判することに。外人の公判は開国以来初で大々的に報道される
     08/19ミラーは死刑を宣告される。控訴するが、東京控訴院で棄却
     1900(明治33)死刑が執行される
  07/勝山町の長崎尋常小学校児童1500余人にトラホーム検診を行なう
     患者620余を発見。重傷者43に停学を命じ、伝染を防止
  08/01横山長崎市長、松田源五郎、倉場富三郎、荘田平五郎ら発起人の「長崎内外倶楽部」が発足
     外国人と日本人の友愛と相互理解を深めるための社交の場として
     西浜町の料亭「精洋亭」で初会合が開かれ日本人125人、中国人5人、欧米人20人が出席
     11/●●から浜町の旧「港湾事務所」の建物へ移転
     1903(明治36)中心メンバーの倉場富三郎が雇主フレディック・リンガーに出島移転の協力を要請
     リンガー所有の出島町7番地に木造2階建の洋館を建設
     11/10夕最初の月例晩餐会が新築のクラブで行なわれる
  08/04煉瓦建の「恵比寿ビール BEER HALL」が現在の東京新橋に近い京橋区南金六町(銀座8丁目)にオープン
     日本麦酒の社長馬越恭平のアイデアで誕生したビヤホールはヱビスビールの宣伝が目的
     工場直送の出来立て生ビールを味わい、よさを知らせるため
     「常に新鮮なる樽ビールを、氷室に貯蔵いたし置き、最も高尚優美に、一杯売仕候」との新聞広告をだす
     日本初のビヤホールとなる【07/04?】
  08/25島原にて「開国新聞」が創刊
     のち「島原新聞」と改題
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「軍港新聞」も同時に統合
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  08/要塞地帯法施行を受けて、長崎県内では長崎、佐世保、壱岐、対馬が指定
     要塞地帯内の、水陸の形状の測量、撮影、模写や録取、航空などは要塞司令官の許可が必要に
     【要塞地帯区域の最外線】
     西彼高島〜伊王島西北端式見村神楽島三重・時津・長与各村の一部
     黒岳矢上・日見両村茂木村東海岸川原・高濱村高島
     さらに撮影不許可区域を設ける。長崎地区では4ケ所を指定
     1・大浦河口―長崎市、福田村、元浦上山里村ノ接触点―稲佐橋以南ノ福田村、
       小榊村及長崎港以西ノ長崎市並香焼村、伊王島村
     2・神崎鼻―女神以北ノ長崎港
     3・松ケ枝川―田上―転石―川平―蓑ノ尾―女神―松ケ枝河口ノ区域
     4・琴平神社―木田谷―高野―琴平神社ノ区域
       撮影許可証の中に制限つき
       「右ノ外広範囲ニ亘ル水陸ノ形状、被写体ニ対シ100米以上ノ高所ヨリ撮影スルコトヲ禁ス」
       撮影した写真の検閲は許可期限内に原板と密着焼2枚を要塞司令部に提出
       1枚は司令部が保管、1枚は検閲済のスタンプを印画紙の裏面に押し原板とともに返却
     撮影許可証の中に記された中には戦争に向けての内容も
       「本証ハ撮影ニ際シ必ス之ヲ携帯シ、憲兵、衛戌服務ノ軍人、
       当部職員、警察官吏ヨリ提示ヲ求メラレタル場合ハ直ニ之ニ応スベシ」
  09/市民20余人が狂犬にかまれ死亡
     1899(明治32)09/20野犬20余頭を撲殺
  09/新町尋常師範学校校舎跡地の長崎商業学校が馬場郷徳蓮田の新築校舎に移転
     敷地面積2800坪、建築総坪4029坪、総工費支出額6万648円13銭
     1901(明治34)05/長崎商業学校を改め市立長崎商業学校と称す
  10/「長崎くんち」(7)…寄合町(本踊・段尻)、浦五島町(本踊・段尻)、
     引地町(本踊・曳段尻)、掘町(本踊)、本石灰町[イ](本踊・段尻)、
     桶屋町(本踊)、大井手町(本踊)、船大工町(本踊・川船)、袋町(本踊)、
     酒屋町(本踊)、出来大工町(本踊)、本石灰町[ロ](龍神踊)。新町は辞退
     *本石灰町は分裂奉納。[イ]上組・下組・本町組、[ロ]中ノ組
       傘鉾[イ]従来のモノ、[ロ]千珠満珠の2つを岩上におき注連縄
       外題[イ]布引の滝、[ロ]玉取り海士7回目(実際は蛇踊)
  12/大浦町25番地に日本人が経営する初めてのホテル「ジャパン・ホテル」が開業
     1937(昭和12)12/19全焼。大浦居留地に最後まで残った唯一のホテルであった
  ホーム・リンガー商会が香港上海銀行の代理店を営む
     1904(明治37)11/14香港上海銀行長崎支店」の新社屋が松ケ枝町42番地に竣工
  長崎市内の人力車の数が1300台に
  福建省出身の陳平順が広馬場町2番地(元唐人屋敷大門付近)に従業員30人の中華菜館兼旅館「四海樓」を創業
     看板には大きく『官許大清國四海樓御旅館菜園酒館時點雅菜各国料理』『四海樓清國御料理御旅館』と
     従業員30人の意欲に満ちた開業
     1951(昭和26)09/26籠町(旧広馬場町)で2代目のもと再び開業
     1973(昭和48)11/14観光業も取入れた営業拡大に伴い、松が枝町4番5号に新築移転
     大宴会場4、小宴会場13、大ホール2の設備で1700人収容の日本の代表的な中華料理店に発展
     1986(昭和61)米国の料理雑誌「グルメ」に紹介される
     ちゃんぽんという名の非常に素晴らしい料理に興味を覚え、調理方法を雑誌で紹介したいと
     1999(平成11)01/31店舗改築のため一時閉店。銅座町のダイエー銅座店前にて仮店舗営業
     2000(平成12)07/04創業100周年を機に店舗を新築オープン
  観光通り万屋町角に永尾靴店が開業
     1945(昭和20)12/浜町本通りに移転
  千馬町にフジオカが石油販売業を興す
     当時、家庭の照明などはまだ石油ランプが使われており、灯油販売が主。石油精製品の販売一筋
     1934(昭和09)長崎で初の石油スタンド(石油地下槽)となる給油所を馬町に開設
     1949(昭和24)株式会社藤岡石油店を設立
  五島玉之浦町の井持浦教会内に日本で最初のルルドの洞窟ができる
     五島全域の信徒が各地の奇石、珍石、美石を持ち寄って作られる
  要塞地帯法施行を受けて、佐世保より佐世保要塞砲兵連隊の1個大隊が長崎入る
     長崎重砲大隊が竹の久保に駐屯
     1921(大正10)10/大隊が下関、和歌山等に移転
     1923(大正11)04/長崎重砲大隊の木造2階建兵舎を仮校舎として県立瓊浦中学校が新設
  清田習蔵が榎津町に西川家、川崎家、内田家と並んで高級な商人宿として旅館内田屋を発足
     市内の旅館の中で常に歴史の推移にひとつの役割を果たす
  東京赤坂で森永太一郎がキャンデーを作る(のちの森永製菓)
  長崎市内の伝染病患者148(ジフテリア90、腸チフス24、痘瘡23、赤痢11)
  あらためて長崎市内全域にハタ揚げの禁止令がだされる
     長崎で電話交換がはじまり電信線の他に電話線が張りめぐらされ規制が厳しくなる
     1873(明治06)05/08、1879(明治12)03/07に次ぐ罰則
     1904(明治37)03/長崎市内でハタ揚げをし糸を電線に引っかけた者に過料50銭が課せられる
     それでもなおハタ揚げによる架線事故が相継いだため
  築町〜西浜町を結ぶ木鉄混交橋の長久橋が鉄橋に架け替えられる
     橋長70尺(21.21米)、幅員18尺(5.45米)
     1902(明治35)05/22西側半分が墜落
  雲仙に夏季のみの季節電信取扱所が置かれる
     1905(明治38)2等郵便局となる
  14代の竹中藤右衛門がヨーロッパ型の建築技術を導入、名古屋から都市化し始めた神戸へ進出
     「竹中工務店」創立第1年とする。数々の建築物を施工し、その名を知られるようになる

1899〜1903(明治32〜36)頃

  農事試験場で赤カブの品種比較試験を実施

1900(明治33)【明治】 庚子(かのえね)

  《総理大臣》[第9代]第2次山縣有朋内閣(→10/19)、[第10代]第4次伊藤博文内閣(10/19→)
  《知事》[第13代(官選)]服部一三(→10/25)、[第14代(官選)]荒川義太郎(10/25→)
  《市長》[第2代]横山寅一郎

  01/01横浜正金銀行の長崎出張所が長崎支店に昇格
     1903(明治36)梅ケ崎町4番地に移転
  01/丸山町72番地にカステラの文明堂が開業
     1902(明治35)店舗を船大工町4番地に移転
     1903(明治36)店舗を船大工町84番地に移転
     1910(明治43)店舗を馬町に移転
     1910(大正09)今町54番地に今町店を開設。料理屋金鍋すき焼店を開業
     1923(大正12)09/玉江町3丁目に大波止店を開設
     1927(昭和02)08/馬町本店を今町に移転、新装開店
     1928(昭和03)09/大波止店を新築、木造3階建にし料理屋金鍋すき焼店を併設
     1933(昭和08)12/東京・新宿に支店を開設
     のち「カステラ一番、電話は二番」のキャッチフレーズで電話帳広告他、本格的な宣伝を開始
  01/大浦22番地に「ホテル・メトロポール」が開業
  01/ドイツ領事館が大浦11番地に移転、イタリア代理領事を兼ねる
  01/頃高野房太郎は東京京橋区八丁堀に石川島造船所、沖電気の労働者などを組合員とする「共働店・共営社」を設立
     共営社の2階には石川島造船所の労働者クラブが設けられる
     09/高野房太郎は「労働世界」の誌上で労働運動からの引退を伝える
     「◎高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして
     今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ。」
     【詳しくは1869-01/06に】
  03/治安警察法が公布される
  03/治安警察法が公布されたことで事実上、労働組合運動を禁止するものに
     日本鉄道大宮工場は鉄工組合の組合員を圧迫して辞職に追い込むなど、経営者側の抑圧も露骨に
     鉄工組合は数年で衰える
  04/新橋町尋常女児小学校が新橋町1番地に開設
     1904(明治37)新町6番地に移り、新町高等小学校の創立となる
     1908(明治41)新町尋常小学校と改称
  04/06長崎県が乗合馬車営業規則を定める
     同時に時津新道に定期乗合馬車が走る。出島〜大波止〜長崎駅〜病院下、八坂町〜茂木
  04/30明治天皇を招き神戸沖で行なわれた海軍初の大演習観艦式で「軍艦行進曲」が演奏される
  04/東京株式市場が大暴落。各地に金融恐慌が起こる
  05/02長崎市記章を「(五角星)」に制定
     03/07汚物掃除法の公布で汚物監督巡視の帽章を制定する必要に迫られた市長が庶務課長に命じて考案
     ☆の外形は、草書体で長崎の『長』の字を図案化、《鶴の港》のイメージから折り鶴にだぶらせた形
     ☆の内形には、幕末の安政年間に開港した長崎・神戸・横浜・新潟・函館の五つの『市』の字を加えた
     当時、五港に東京、京都、大阪の三府を加えて、全国の大都市を《三府五港》と呼んだ
  05/2412歳以上の男女の混浴を禁止する布達がだされる
  05/竹の久保の長崎重砲大隊に長崎要塞司令部が置かれる
     ほかに呉、芸予、鳴門、佐世保、舞鶴、函館にも要塞司令部が設置
     1903(明治36)05/長崎要塞司令部が竹の久保から大黒町に移転
     上長崎村舟津郷字舟津(大黒町・西坂町の一部/NHK長崎放送局)の長崎兵器支廠築城部長崎支部と合併
     1906(明治39)12/平戸小屋町に移転
  09/11夏目漱石を乗せたドイツ汽船プロイセン号が長崎に入港
     熊本五高教授の夏目漱石に「英語研究のため満2年間英国へ留学を命ず」との辞令のため
     09/08横浜を出帆
     長崎では県庁で馬淵、鈴木の2氏に面会、筑後町の迎陽亭で入浴、昼食をとる
     のち上海、香港を経てコロンボへ。さらにスエズ運河を経てジェノバで下船。汽車でパリへ
     10/28ロンドン着。日本が恋しく孤独に繰りしみ、神経衰弱を病む
     1902(明治35)08/強度の神経衰弱で文部省に発狂の噂が伝わる
     1902(明治35)10/藤代夫人に「夏目ヲ保護シテ帰朝」せよとの電命が届く
     1902(明治35)12/05ロンドンを出発
    ※1903(明治36)01/20長崎に入港。宝屋旅館に投宿
     1903(明治36)01/23帰京する
  09/11東京の上野と新橋の両停車場構内に日本で初めての「自働電話(公衆電話)」が設置される
     料金は5分間で15銭、交換手を呼びだしお金を入れて相手につないでもらう方式
     1925(大正14)10/01ダイヤル式で交換手を必要としない電話が登場。「公衆電話」と呼ばれる
  09/高野房太郎は「労働世界」の誌上で労働運動からの引退を伝える
     「◎高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして
     今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ。」
     秋/労働運動の前途に失望した高野房太郎は親友の城常太郎とともに中国に渡る
     天津で商店をひらく
     1904(明治37)03/12高野房太郎が病を得て青島で客死。35才歳と2か月の生涯。病名は肝臓膿腫
     【詳しくは1869-01/06に】
  10/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (1)…丸山町(本踊・段尻)、船津町(本踊)、本博多町(本踊)、樺島町(太鼓山)、
     平戸町(本踊)、八幡町(山伏行列・段尻)、麹屋町(本踊)、万屋町(鯨潮吹き)、
     西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(本踊)、諏訪町(本踊)
  10/25長崎市がペスト予防のため、1匹2銭で初めてネズミの買い上げを実施
  11/16フランス軍に雇われた下働きのベトナム人4人が中国の義和団事件で戦死
     ン・ヴァン・トゥ、ン・ヴァン・ナム、フイン・ヴァン・タン、ラ・ヴァン・フォンの4人
     遺体は坂本国際墓地81〜84番に埋葬
  12/0950才の海軍中佐ロティを乗せたフランス軍艦リドウタァブル号が長崎に入港
     東シナ海でフランス艦隊の司令長官が病気に。暖かい長崎で養生のため
     1885(明治18)07/08に続いての2回目の入港
     12/13ロティが上陸。思い出の町を散歩していると偶然お兼の母おきんに出会う
     おきんからお兼が提灯屋の主人に縁付いていることを知らされる
     おきんはお兼夫婦を呼んで食事に誘うがロティは辞退
     12/23お兼との思い出を十善寺に訪ねる。家主の佐藤は3年前に亡くなり未亡人暮らしをしているお梅に会う
     のちおきんから再び長崎妻をもつよう自分の末娘を売り込むがロティは応じず
     1901(明治34)01/01ロティが司令長官代理として長崎県庁に知事を訪れ祝賀のことばをのべる
     のち寺町の僧侶の娘稲本に出会う
     10/29船出港の前日、ロティは病床のお梅を見舞いサヨナラを告げる
     10/30フランス艦隊の軍艦リドウタァブル号が長崎を出港
  長崎村の有志により中島川上流中川郷の地を開いて中川カルルス温泉を開業
     明治20(1888)日下義雄知事らが吉野桜数千本を植えた地
     オーストリアのカルルス温泉分析表を取り寄せ、その成分を調合し温泉にいれた
     (安田伊太郎らがチェコ共和国のカルロヴィ・ヴァリ温泉の成分を調合した湯の浴場をつくりカルルスと名づける)
     のち安田伊太郎が独力で道路や橋を整備、皆花園と命名
     敷地1300坪、龍吟橋や桜雲閣などがあった
  稲佐お栄(道永エイ)が平戸小屋にホテル兼住宅を建てる
  大浦28番地に「ホテル・デ・コロニース」が開業
  大浦18番地Aに「インピーリアル・デ・ツゥリエスト」が開設
  フランス領事館が再開
     1908(明治41)05/閉館しロシヤ領事館に委託
  市内の伝染病患者251、うち腸チフス152が最も多く、赤痢は22
     西彼杵郡では伝染病患者195、うち腸チフスが最も多く128、赤痢55、コレラ3発生
  「長崎盲唖院」が「私立長崎盲唖学校」と改称
     1908(明治41)桜馬場町に新校舎が落成
  坂本町外人墓地にフランスが兵士のための墓地を購入
     1902(明治35)中国義和団事件で兵士や船員の遺体でいっぱいに
  佐世保市内に定期乗合馬車が初めて登場。区間は佐世保駅〜八幡町
  長崎−阿久根間に汽船航路が開設される
  農事試験場でトマトの品種比較試験を実施。栽培はそれ以前より
  鄭ハマが北清事変のとき天津領事館で夫、鄭永昌とともに「扶清滅洋」を標榜する義和団の攻撃に対処
     領事館は攻撃を受け困難な状況の中、敵味方の区別なく救護にあたる
     重要な外交資料を危険な状態の中からすべて持ち出すことに成功
     鄭ハマは女性には与えられていなかった勲六等宝冠章を受章
  武島羽衣の作詞、田中穂積の作曲により「美しき天然」が作られる
     作曲の田中穂積は佐世保鎮守府の軍楽隊楽長。佐世保女学校の音楽教師の委嘱をうけ教材用に作曲
     西海の自然にあう武島羽衣の詩をのせ教材に使うと全国にひろがり「天然の美」の別名も
     女学生たちを魅了
     のちメロディーは活動写真の伴奏や見せ物小屋のジンタにも使われる
     1908(明治41)やまと新聞の記者八雲山人の詞「夜半の追想(男三郎の歌)」のメロディーに
     演歌師の添田唖蝉坊の詞「袖しぐれ(野口曾恵子の歌)」のメロディーに使われる
     1940(昭和15)01/コロムビアから二葉あき子の歌により「天然の美(30467)」が再発される
  大和田建樹の作詞、多梅稚の作曲により「鉄道唱歌〈第2集〉山陽・九州編」が作られる
     59番から66番までに早岐、佐世保、南風崎、川棚、大村、諫早、喜々津、長与、長崎が歌いこまれる
  森下博が発売した梅毒薬「毒滅」の商標としてドイツの鉄血宰相ビスマルクが使われる
     1905(明治38)仁丹の商標として大衆の憧れ理想にデザインされ創売される
     大礼服にシルクハット、謹厳なうちにもりりしい男ぶりと美髭の持ち主に
     のち全国の薬店で大礼服マークの看板がシンボルマークに
     のち広告益世を基本方針に、あらゆる空間に野外看板の仁丹塔を設置
  前年07/17に横浜で起こったアメリカ人による殺人事件で犯人の死刑が執行される
     横浜の元居留地でアメリカ人の水夫ロバート・ミラーが銘酒屋にて外人1人と日本人2人を殺害
     ミラーが捕われたのは外人雑居後初めての捕縛
  対馬に万関橋が架橋。橋長80米、高3米のトラス式鉄橋
     1956(昭和31)2代目万関橋に架け替え
     総事業費3300万円、橋長81.6米、幅5.2米(1車線)、設計荷重(自動車荷重)9瓲の上路式アーチ橋
     1996(平成08)09/3代目万関橋に架け替え。2代目万関橋から西側へ10〜40米移動
     総事業費15億円、橋長210米、幅10米(2車線)、設計荷重25瓲の鋼中路ローゼ桁橋
  対馬の浅茅湾内の竹敷港に基地を置く海軍が対馬東海岸に派遣する艦艇の水路として万関瀬戸を開削
     延長約500米、幅員約25米、水深約マイナス3米
     1975(昭和50)03/幅員40米、水深マイナス4.5米に拡がる
     700D/W瓲級の貨物船が航行可能な航路に広がる
  小浜、光泉寺へののぼりぐち角にあった旅館一角楼が、増加する外人客を対象に北本町に移転
     小浜唯一のホテルとして発足
     1901(明治34)中国に北津事件が起こり、北京、天津方面から避難してきた外人で、ホテルは半年以上満員に
  男女群島近海でさらに大きなサンゴの漁場が発見される
     地元の船ばかりでなく鹿児島や高知の船まで何100隻もの漁船が出漁
     1906(明治39)10/台風でサンゴ船、カツオ船173隻が沈没、死者行方不明者734人に

1900(明治33)頃

  波止場から徒歩3分の大浦14番に「日の出ホテル」が開業

1901(明治34)【明治】 辛丑(かのとうし)

  《総理大臣》[第10代]第4次伊藤博文内閣(→1901年05/10)、
        [第4次伊藤内閣]伊藤博文の単独辞任により枢密院議長西園寺公望が臨時兼任(05/10→06/02)
        [第11代]桂太郎(06/02→)
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第2代]横山寅一郎(→06/21)、[第3代]横山寅一郎(06/22→)

  01/0150才の海軍中佐ロティが司令長官代理として長崎県庁に知事を訪れ祝賀のことばをのべる
     長崎への入港[1900(明治33)12/09]はフランス艦隊の司令長官が病気になり暖かい長崎で養生のため
     のち寺町の僧侶の娘稲本に出会う
     10/29船出港の前日、ロティは病床のお梅を見舞いサヨナラを告げる
     10/30フランス艦隊の軍艦リドウタァブル号が長崎を出港
  01/02〜03「郵便報知新聞」に「二十世紀の豫言」を掲載。20世紀中に実現すると思われる23項目の事柄が書かれる
     科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い
     1903(明治36)新聞直営店制を開始する
  01/伊良林村の長崎女子学院が鶴鳴女学校となる
     1912(明治45)04/鶴鳴実科高等女学校となる
  02/05官営の八幡製作所が操業を開始。東田第1高炉で火入れが行なわれる
     構造物を造るための近代鉄鋼業がはじまる
     八幡製作所の建設資金には日清戦争の賠償金が充てられ、技術はドイツ、鉄鉱石は中国より輸入
     のち日露戦争、第1次世界大戦による鉄鋼の需要が高まり、民間鉄鋼企業が次々に設立
  03/10勝山小学校が勝山尋常小学校と改称
     1924(大正13)07/21勝山尋常高等小学校と改称
  03/明治以降荒廃していた長崎聖堂(中島聖堂)の大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺境内に移築復元
  04/10英国軍艦ボンフラー号の甲板員ヘンリー・スネル(32)が下り松川河畔の外国人酒場をでようとしたとき
     フランス人水兵と鉢合わせ。フランス人の1人が仕込み杖を抜いてスネルの腹部の上をひと突き
     英仏水兵双方数10人が大乱闘。犯人は凶器を川に投げ捨て混乱に乗じて逃亡
     スネルはアメリカ病院へ運ばれたが死去
     スネルが刺殺され始まった喧嘩でボンフラー号の機関員リアンダ・ブルックス(24)がフランス兵に切られる
     ドイツ船アドリア号の機関員ウィルヘルム・ガイボルド(25)が巻き添えをくい行方不明に
     英国水兵2人即死、英国水兵1人、仏国水兵3人重傷
     04/11スネルの遺体が正式な軍隊の礼により坂本外人墓地233番に埋葬
     フランス艦隊の代表団も葬列に参加
     04/14ブルックスが死去。坂本外人墓地78番に埋葬
     04/19ガイボルド土左衛門となって岸に打上げられる。遺体は坂本外人墓地77番に埋葬される
  04/長崎市で内務省医術開業試験が施行
  04/長崎商業会議所の第2代会頭に岩田清秋が就任
     1903(明治36)02/第3代会頭に的野市二が就任
     1903(明治36)07/第4代会頭に森喜智郎が就任
  05/長崎商業学校が市立長崎商業学校と改称
     1919(大正08)11/28文部省告示第266号をもって長崎商業学校と改称
  06/30長崎県中学校が長崎県立長崎中学校と改称
     長崎県中学校は1884(明治17)04/01創立
     1908(明治41)03/長崎市福富町に移転
  06/榎津町と材木町に架かる石橋の榎津橋が鉄製のフラットトラス構造に改められる。賑橋に改名
     材木町(木)と榎津町(木)が合う。「二木合う」橋=賑橋
     橋長9間半(17.1米)、幅3間3合(5.94米)
     1928(昭和03)05/鉄筋コンクリート造りに架け替え拡幅
  10/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (2)…寄合町(本踊・段尻)、榎津町(本踊・段尻)、西古川町(相撲踊)、本紙屋町(本踊)、
     新大工町(剣舞・曳段尻)、磨屋町(本踊・段尻)、新橋町(本踊)、出来鍛冶屋町(本踊)、
     大村町(本踊・段尻)、本五島町(本踊・段尻)、今町(本踊)、金屋町(小薩摩)
  10/30ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロティ)を乗せたフランス艦隊の軍艦リドウタァブル号が長崎を出港
     1929(昭和04)05/岩波書店から文庫「お菊さん」が発行。野上豊一訳
  11/15米国のM.R.ハッチンスンが世界で初めて補聴器の特許を取得する
     補聴器は19世紀末から使用していたカーボンマイクロホンと電磁型イアホンによる電気補聴器
  11/18官営八幡製鉄所が操業を開始。東京から多数の来賓を迎えて作業開始式が催される
     建設費は日清戦争で得た賠償金で賄われる
     八幡村が選ばれ理由として軍事防衛上や原材料入手の利便性などが挙げられる
     日本国内で2番目の銑鋼一貫製鉄所
  小曽根町22番に三菱高島炭鉱長崎駐在員事務所が建つ。通称炭礦舎
     木造2階建で寄棟造り、各階南西北3面にベランダ、1階ベランダは有田焼のタイル張り
     ベランダが周囲を取り巻く建築様式は、植民地風建築物として貴重な存在
     建物裏の桟橋は、高島、端島へ行く夕顔丸の発着場として長いあいだ親しまれる
     1971(昭和46)02/06小曽根町の三菱高島炭坑の長崎駐在員事務所、通称炭礦舎が火災により2階一部が焼失
     1985(昭和60)01/老朽化のため惜しまれながら解体される
  ●●●●に木造3階建の九州海運局長崎支局が完成
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  伊勢町川端の伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行なわれる
  戸町の藤田東三郎、東人親子が敷地約1千坪の公園、玉蝉園を開設
     園内には温泉場があり戸町カルルスと呼ばれる
  南山手17番地のロシヤ領事館が南山手5番地乙に移転
     1904(明治37)日露戦争により一時閉鎖
  西勝寺住職の発起で崇福寺内に長崎孤児院が創立
     1906(明治39)現在の上町1番33号に移転
     1943(昭和18)実質的に閉鎖
  松尾シナが大浦慶邸跡の油屋町1番地に旅館「宝家」を経営
     松尾シナは雷が丘(現東小島町)で料亭「宝亭」を営む2代目松尾仲三郎の姉
     「宝亭」初代松尾浅吉が大浦慶の店で働きシナは慶に可愛がられ、その縁故で邸跡を譲り受けた
     1911(明治44)炭坑保証で失敗し神戸市下山手通りに移住。長崎料理「宝屋」を経営
  西浜町から新地蔵に架かる新地橋が鉄橋(ガーター吊橋)となる
     1905(明治38)鉄筋コンクリート橋になる
  長崎医学校から長崎医学専門学校が分離創立。校長に田中正が就任
     校舎を建設(現平野町)
     1922(大正11)長崎医科大学となる
  長田村(現諫早市)で農家7人が各自タマネギを5〜10a栽培
  小浜、北本町の旅館一角楼が半年以上満員に
     中国に北津事件が起こり、北京、天津方面から避難してきた外人による
     1911(明治44)新館を増設
  市内の伝染病患者243(腸チフス128、ジフテリア58、赤痢53、痘瘡3、猖紅熱1)
  部落の人が生活改善の試みとして真中馬込に宗大谷派の青年会館を建設する
     間口4間、奥行7間の本館。1間半の控室。外見は洋風、内部は畳を敷きつめ本館の床の間に聖人の御影と仏像が安置
     部落の人は毎日5厘の寄附や仕事の余暇を利用して諏訪神社や山王神社に行商
     寄附は毎月、大阪、ウラジオ、中国各地の身売りした娘たちからも競いあい集められる
     その間、8年の間に総額2675円が集まる
     眺めのいちばん良い場所に344坪を買い入れ青年会館を建てるべく整地される
  真宗本願寺派(西)が浦上町の部落のなかに大光寺の説教所をつくる
     寄附や積金によって建てられ町内にお他力屋の小店を設け建設費にあてる
  アメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての薄い刃を使った安全剃刀を発明する
     ジレットは剃刀本体を安く売れば、替え刃の市場が生まれてそこで利益を上げられると思いつく
     「剃刀と替え刃のビジネスモデル」、ロスリーダーなどと呼ばれ、その後様々な製品で応用されるようになる
     12/03ジレットがアイデアを実現すべく特許を申請
     1904(明治37)11/15アメリカ合衆国特許が発効する

1901(明治34)頃

 長崎で高等商業学校の設立運動が起こる
     1905(明治38)03/28長崎高等商業学校が長崎県西彼杵郡上長崎村片淵郷1万2912坪(4万2609.6平方米)の敷地に設立
     大陸へ進出する人材の養成を目的として初代校長に隈本有尚が就任
     東京高商(第1高商/一橋大)、神戸高商(第2高商/神戸大)に次ぐ第3高商として設立
     1917(大正06)海外貿易科が設けられる
     1922(大正11)外国人の日本留学のため門戸を開く
     1944(昭和19)03/29勅令第165号により長崎経済専門学校と改称
     長崎工業経営専門学校が併設
     1946(昭和21)04/01長崎工業経営専門学校がその使命を終えて廃止
     1949(昭和24)05/31国立大学設置法の公布で長崎大学が設置。新制大学制度に経済学部として組み込まれる
     初代学部長に伊藤勇太郎教授が就任

1902(明治35)【明治】 壬寅(みずのえとら)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第3代]横山寅一郎(→07/29)、[第4代]横山寅一郎(09/18→)

  01/01九州日之出新聞を退社した鈴木天眼が今鍛冶屋町8番地で「東洋日之出新聞」を創刊
     東洋豪傑型の士が集まる
     西郷四郎、福島熊次郎、大串喜好(のち主筆)、大久保玉●(王偏に民)、丹羽翰翰山ら…
     主幹に熊本出身で漢学者の丹羽末広(翰山)、編集人に会津出身の西郷四郎らを擁する
     発行所は本五嶋町49番地。印刷所は本五嶋町29番地の境活版工場
     当初の紙面タブロイド判4ページ建ての小型紙。購読料は1枚1銭、月20銭
     中正な民論を代表政党政派にかたよらないことを主義とする
     地元の数ある新聞の中でも論説や報道記事に異彩を放ち人気紙に
     政党にくみせず中立的立場を守り独自の論陣をはり紙勢が大いに
     「長崎新報」「鎮西日報」とならぶ有力紙に
     のち孫文の辛亥革命を全社一丸となって支援
     1934(昭和09)廃刊
  01/23日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が冬季訓練のため八甲田山へむけて出発
     のち訓練の参加者210人中199人が死亡する遭難事件が発生する
  01/31銭座尋常小学校が開校
  01/大浦25番地、ジャパン・ホテルの隣にホテル・ダルニー・ヴォストックが開業
     ロシア語を使用するロシア人向けの唯一のホテル、経営は稲佐お栄の愛娘道永千代
  01/「長崎絵入り新聞」が発刊
     2年後廃刊
  02/01長崎市小島郷仁田頭に木造2階建て12教室の仁田尋常小学校が開設。3年生までの662人の児童を収容
     1903(明治36)04/4年制の仁田尋常小学校が完成。4年生まで児童数731人
     1908(明治41)04/改正小学校令を実施。5年生2個学級を増設
     1909(明治42)04/6年生2個学級を増設
     1921(大正10)03/2階建て4教室を増設し高等科を併設
     1927(昭和02)03/創立25周年の式典を挙行。校歌を制定
     1943(昭和18)04/上大浦小学校廃止ににより児童約300人を収容。同時に高等科の児童を大浦国民学校に収容
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により校舎の屋根が大破、降雨期は授業を中止。校舎の至る所に損害を受け使用禁止
     1950(昭和25)01/12招魂社境内に鉄筋コンクリートの校舎第1期工事を起工
       以降1953(昭和28)02/28の第2期工事(19教室)、
         1955(昭和30)03/の第3期工事(6教室、管理室、玄関)
         1958(昭和33)03/の第4期工事(3教室及び階段)、
         1959(昭和34)03/08の第5期工事(理科室及び便所)まで随時、工事を続行
     1963(昭和38)10/01体育倉庫の改造、陸橋の架設工事に着手。12/21竣工
     1973(昭和48)05/体育館工事完了。07/31プール完成
  03/18東彼杵郡佐世保村の一部が佐世村として分立
     04/01東彼杵郡佐世保村に市制が敷かれ佐世保市となる
  04/01東彼杵郡佐世保村に市制が敷かれ佐世保市となる
     佐世保村は「町」を飛び越し異例の2階級特進。県内では長崎につぐ屈指の大都市に
     1904(明治37)04/01東彼杵郡日宇村の一部が佐世保市に編入される
  04/01新町尋常小学校が開校
     1934(昭和09)興善小学校と合併し新興善小学校が開校
  04/長崎県立長崎病院が浦上山里村(坂本町)に開院
     1922(大正11)04/国に移管し官立長崎医学専門学校附属医院と改称一般診療をはじめる
  04/「絵入り長崎新聞」が創刊
     日刊紙で発行所は東古川町と本石灰町31番地に。社長は萩原龍次郎
     1904(明治37)07/廃刊
  05/01下西山町に県立長崎高等女学校が開校。生徒数155
     1948(昭和23)04/県立長崎女子高等学校と改称
     1948(昭和23)11/01県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、市立女子高等学校とともに統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  05/22築町〜西浜町を結ぶ鉄橋の長久橋の西側半分が墜落
     1903(明治36)03/改めてプラットトラス式に架け替える
  06/08フランスの気象学者テスラン・ド・ポールが成層圏を発見する
     成層圏は雲の高さよりも高く、上空およそ10粁から50粁の高さのこと
  06/県内最大の商店街・浜市商店連合会ができる。東京の佐竹本通り商店街に次ぐ歴史を誇る
  07/08旅順帰りの長崎入港の船客、コレラを持ち込む。忽ち全市内に流行
  08/17新町小学校から男子151人、勝山小学校から男子358人を分けて伊良林尋常小学校が開校
     校舎は長崎商業学校に隣接する畑地を拓いて建設
     1905(明治38)女子も収容し、男女共学の小学校となる
  09/門司市ケンメイ迫(八幡町)に門司出張所が創立、船員の養成救護事業を始める
     1921(大正10)10/門司区清滝町1丁目字赤ハゲに海員養成所及び定員47の門司病院を新築し開設
  10/07「浸礼教会長崎講義所」の講義所が講義所を長崎市桜町18番地(市水道局隣接地)に移転
     「長崎浸礼教会」と改め新発足
     「長崎バプテスト教会」が誕生(浸礼とは水に浸す洗礼、つまりバプテスマを意味)
     民家は敷地79坪、建物22坪と広く、講壇のほか長椅子14脚が置かれ集会所としての機能アップ
     教会には、キリスト教関係の図書を取次販売する書店を設置。「福音書店」と称し文書伝道をはじめる
  10/27渡御。「長崎くんち」がコレラと雨天のため日程変更10/31還御
     (3)…丸山町(本踊・段尻)、油屋町〈下の切〉(本踊)、下筑後町(獅子踊)、
     今籠町(本踊)、今鍛冶屋町(本踊・段尻)、西中町(川船)、東中町(本踊)、
     豊後町(本踊)、本下町(本踊・曳段尻)、外浦町(本踊)、萬歳町(本踊)
  11/14東京帝大運動会で藤井実が100米競走に10秒24の世界記録をつくる
     1906(明治39)11/10棒高跳びで3米90糎を飛び世界記録3米70糎を抜く。事実上の世界記録を達成
  11/20ペスト病など伝染病予防上の病原菌検査のため馬込郷の浦上警察署跡に長崎県細菌検査所を建設
     1903(明治36)04/13完成
  11/日本海員掖済会長崎病院が開設。病床数30床
     1938(昭和13)03/国内船、外国船の無線電信による医療相談機関として逓信省より指定される
     1945(昭和20)08/09原爆のため長崎病院半壊、職員若干負傷するもただちに救援活動を行なう
     1946(昭和21)03/病床数12床で再開する
     1948(昭和23)12/年末無料診療を開始
     1949(昭和24)04/病棟を増築して病床が21床となる
     1954(昭和29)04/4床増床して25床になる
     1960(昭和35)12/原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の規定に基づく医療機関に指定される
     1964(昭和39)07/鉄筋コンクリート3階建の病院を建築、病床が63床となる
     1964(昭和39)10/救急病院の指定を受ける
     1974(昭和49)06/病棟の増築、旧病棟改造改装を行ない病床数が100床となる
     1990(平成02)02/新病棟の増築及び病棟改修工事が竣工。病床数が160床となる
     2008(平成20)12/亜急性期病床15床を届け出。総病床数が一般病床143床、亜急性期病床15床、合計158床に変更
  12/山内善三郎、脇山啓次郎、小曾根晨太郎らが資本金10万円で長崎瓦斯合資会社を設立
     事務所、工場を小曾根町に設置。燈火と燃料に新機軸を開く
     市内各所に管を敷設。九州初、全国で東京、横浜、神戸に次ぐ4番目のガス事業
     1903(明治36)06/小曽根町にタンクを設置、ガス灯と炊飯用火力を製造供給
     九州最初のガス事業で外国人居住の炊事用として需要があり、また商店街の店頭用として歓迎される
     1905(明治38)業績が上がらず解散
     名称を山内商会瓦斯部(資本金20万円)に改称。山内善三郎の個人経営で営業を継続
     1911(明治44)07/福岡系資本に吸収され九州瓦斯会社が創立。資本金25万円
     1914(大正03)07/九州瓦斯会社と長崎電灯会社が合併
     長崎電灯瓦斯株式会社が設立(資本金56万円)
     袋町に事務所を建築。稲佐、旭町に2千馬力以上の第2発電工場を創設
     1916(大正05)04/九州電灯鉄道会社に合併される
     八千代町に瓦斯製造工場を置き、副産物としてコールタール、コークスを製造
     1922(大正11)05/九州電灯鉄道会社と名古屋市の関西電気株式会社の合併
     東邦電力株式会社が創設。本社を東京に置く資本金1億3千万の大会社に
     1922(大正11)06/東邦電力株式会社長崎支店と改称
     県内需要家数4万8222(うち長崎市3万5454)、実灯数13万5726(うち長崎市10万9476)
     のち東邦電力株式会社の瓦斯部が分離し新たに東邦瓦斯株式会社が設立
     長崎の瓦斯部門はその支店に
     1930(昭和05)12/01東邦瓦斯株式会社の九州支店が分離独立
     福岡、熊本、長崎、佐世保支店の事業を継承し西部瓦斯が設立
     資本金1千万円。顧客戸数2万9千戸
     1943(昭和18)北九州を営業区域とする九州瓦斯を合併
     資本金1400万円となる。顧客戸数6万3700戸
  丸山町、寄合町両町の貸座敷39軒、芸妓180人、娼妓520人
  上野彦馬が東洋日之出新聞に「日本写真の起源」を口述で19回連載
  坂本町外人墓地が中国義和団事件で死去した兵士や船員の遺体でいっぱいに
      坂本外人墓地の埋葬者数(325)
      イギリス(103)、アメリカ(73)、フランス(56)、ドイツ(29)、イタリア(14)、
      ポルトガル(11)、オーストリア(9)、ベトナム(8)、ロシア(7)、日本(3)、
      スウェーデン(2)、ノルウェー(2)、デンマーク(1)、ギリシア(1)、不明(6)
      1903(明治36)外国人の急激な増加で南側の区画がいっぱいに
      北側の区画に新坂本町外人墓地を新設
  私立口之津女子手芸高校が開校
     1930(昭和05)長崎県立口加高等女学校となる
     1948(昭和23)長崎県立口加高等学校に改称
     2008(平成20)02/29家政科の閉科にともない式典が催される
     式典には在校生、OB・OG、地元住民ら約750人が出席。最後の家政科生27人は長着とはかま姿で入場
     式典後、手芸を象徴する針山をイメージした記念碑を除幕。針に見立てた支柱は最初の被服科に在席した68人にちなんで68本
     2008(平成20)04/普通科内に生活創造コースを設置。家政科の精神を引き継がれる
  大浦13番地にメイン・ホテルが、梅ケ崎6番にブリタニア・ホテルがそれぞれ開業
  勝山町の和菓子店「岩永梅寿軒」が矢寄町(丸山町)鍛冶屋町に移転ののち
     現諏訪町の中通りに移転
  電話交換業務の男子交換手が廃止
     1903(明治36)長崎電話交換局で女子交換手だけとなる
     職場の花「紫式部(和服に紫の袴を着用)」が世間の憧れに
  長崎駅(現浦上駅)に自動電話が設置される
     1907(明治40)03/佐世保駅に自動電話が開設される
     1908(明治41)03/21大波止に自働電話が開設される
     1925(大正14)10/01自働電話を公衆電話と改称
     1937(昭和12)08/30上海からの避難者の便を図るため出島岸壁に公衆電話を設置
     1949(昭和24)08/01長崎市内に公衆電話ボックスが復活。浜町、山の口、浦上駅前、水の浦
     1953(昭和28)06/簡易委託公衆電話が黒から赤電話となる
     1953(昭和28)10/ボックス公衆電話が紙幣式から硬貨式に切り替え
     1970(昭和45)03/19公衆電話の市内通話が3分制となる(長崎、東長崎、時津、長与)
     1973(昭和48)02/26長崎に黄色の公衆電話が設置される
     1976(昭和51)07/07長崎駅前などにプッシュ式100円公衆電話が設置される
  カステラの文明堂が店舗を船大工町4番地に移転
     1903(明治36)店舗を船大工町84番地に移転
  市内の伝染病患者938(コレラ748、腸チフス89、ジフテリア58、赤痢40、ペスト2、猖紅熱1)

1902(明治35)頃

  松ケ枝町41番Aに外国艦船の下級乗組員相手の「イーグル・ホテル」(別名・マドロス・ホテル)が開業

1903(明治36)【明治】 癸卯(みずのとう)

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