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〈江戸時代(3)〉

寛永10年代はじめ

  島原地方で天候の異変が続き、農作物が不作に
     1634(寛永11)島原・天草とも凶作が続き、飢饉となり餓死者がでて、農民は窮乏のどん底に陥る状態に
     凶作を印象づけるような、朝焼け夕焼けが特に鮮やかに映え、桜が狂い咲きしたという転変地異的現象が伝わる
     1635(寛永12)07/九州地方に大風があり、田畑に多くの損害がでる
     1636(寛永13)夏/干ばつがあり多くの餓死者がでる
     農民は餓死を覚悟して耕作放棄する事態が生じる
     悪天候はほぼ全国的なもの
     1637(寛永14)幕府は大風雨による被害状況を巡視使に調査させる
     1637(寛永14)06/頃元小西行長の家臣、大矢野松右衛門ら5人が深江辺りをまわる
     25年前国外追放された宣教師が予言したことが起きていると、キリシタンに立ち帰るように勧めてまわる
     一連の天変地異は島原一揆[1637(寛永14)12/10《10/24》勃発]の要因のひとつに

1633(寛永10)〜1637(寛永14)

  生月出身の司祭・聖トマス西ほか女性2人を含む16人が西坂などで殉教
     1987(昭和62)聖トマス西と15人の殉教者が二十六聖人以来、125年ぶりに聖人の列に上げられる
       聖ドミニコ・イバニェズ・デ・エルキシア(スペイン/司祭)
       聖フランシスコ右右衛門(エルキシア神父の協力者/修道士)
       聖ヤコブ朝長(大村/司祭)
       聖ミカエル九郎兵衛(朝長神父の協力者/信徒)
       聖ルカ・アロンソ(スペイン/司祭)
       聖マテオ小兵衛(アロンソ神父の協力者/修道士/18才)
       聖長崎のマグダレナ(ヨルダン神父の協力者/修道女)
       聖大村のマリナ(ドミニコ会第三会会員/修道女)
       聖ヨルダノ・アンサローネ(イタリア/司祭)
       聖トマス西(平戸/司祭)
       聖アントニオ・ゴンザレス(スペイン/司祭)
       聖ギヨーム・クルテ(フランス/司祭)
       聖ミゲル・アオザラザ(スペイン/司祭)
       聖ヴィセンテ塩塚(ドミニコ会/司祭)
       聖京都のラザロ(京都/信徒)
       聖ロレンソ・ルイス(フィリピン/信徒)

1634(寛永11)【明正】 甲戌(きのえいぬ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》曽我又左衛門(02/役儀御免、07/29大坂奉行転出)、今村伝四郎(02/役儀御免・05/退任)
      榊原飛騨守(職直・前書院番組頭・05/18発令)、神尾備前守(元勝・前作事奉行・05/18発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル

  05/幕府がポルトガル人を収容するため富裕な長崎町人25人に出島の築造を命じる
     埋設の折りに25人がそれぞれ負担する区域を定める
     市内雑居のポルトガル人により混血児が多数生まれ、キリスト教の布教もあとを絶たず
     風紀、禁教その他取締りの必要性から、江戸町前面の海に人口島を埋築し家を建てポルトガル人を隔離収容することに
     1636(寛永13)05/10完成
  05/長崎に武具類の輸出禁止の制礼を立てる
     倭寇や朝鮮の役で日本の刀剣武具の優秀さが認められ海外への需要が多くなる
     のちの伊藤小左衛門や末次平蔵らの抜け荷も多くは刀剣武具類の密輸出
  09/07青木賢清は神尾と榊原の奉行の援助により、はじめて09/07〜09をもって祭日とする
     長崎奉行が諏方神事「長崎くんち」を認定。奉納踊りの初め
     宮司の青木賢清は西役所西側空地に奉行の許可を得て境内を定める
     75尋の注連縄を張り巡らし西役所西側空地の境内を「お旅所」と定める
  奉納踊りとあわせ大波戸への諏訪神事の神輿渡御がはじまる
     お旅所へは町民が傘鉾をつくり行列しお下り
     09/07午後、大波戸の御旅所に諏方・住吉2社の神輿が渡御
     太夫町の虎屋抱えの遊女高尾・音羽が、散楽の曲舞を諏訪社の広前に奉納
     奉納踊り…船津町、本博多町、樺島町、平戸町、新紙屋町、麹屋町、馬町、本鍛冶屋町、浜町、銀屋町、諏訪町
     09/08大祭。御旅所で湯立神事が執行
     09/09神輿が還御される
     奉納踊り…榎津町、古川町、本紙屋町、新大工町、磨屋町、毛皮屋町、大村町、本五島町、今町、金屋町
  のちに、諏方神事踊り町の順番が定まり、全市66町のうち出島町を除いて65町
     さらに丸山・寄合町を除いた63町を、21町ずつ3組に分け3年に一巡に
       21町の踊り町を前日(09/07)に11町、後日(09/09)に10町に分け
       丸山・寄合町の両遊女町は毎年、踊りを奉納する
     この年、丸山・寄合町の遊女町はまだできていない
  長崎奉行の榊原飛騨守は諏方社を長崎住民の総氏神と定める
     1647(正保04)08/05長崎奉行が西山郷圓山(松の森)の「諏方社」に幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨。幕府より朱印地を得る【02/05?】
  角屋三郎右衛門ら3人が町代に選ばれる
     また、内町乙名2人と外町乙名4人計6人が諏方祭礼の当人の役を勤める。当人町のはじめ
     外町乙名のひとりは銀屋町の乙名河本庄五郎が当人の任に就き、祭事に関与する
  中島川に興福寺の2代住持唐僧黙子如定(36)が日本最初のアーチ式石橋・眼鏡橋を架ける
     日本初のアーチ橋(橋脚を中央に置く双円アーチ)で長さ23米、幅4.7米
     (「日本橋」「錦帯橋」と並び日本3名橋に数えられ、皇居の二重橋のモデルにもなる)
     1647(正保04)06/04大洪水がおこり酒屋町の橋(眼鏡橋)が流れ落ちる
     重修が修復か再架かは不明
     1648(慶安01)平戸好夢が重修
     1982(昭和57)07/23大水害で半壊
     1983(昭和58)10/15大水害で破損した「眼鏡橋」の復元完工式が行なわれる
  延命寺を開基した真言僧龍宣が浦上淵村竹久保郷に能満院万福寺を建立
     【1647(正保04)?】
     1647(正保04)弁財天を合祀。稲佐弁天社とも呼ばれるようになる
     1868(明治01)万福寺は廃寺となり淵神社に
  幕府が日本人の海外往来と通商を制限(第2次鎖国令
     1635(寛永12)05/28幕府が日本人の海外渡航と海外在住、日本人の帰国を禁止(第3次鎖国令)
     唐船の入港地を長崎に限定
     朱印船貿易が終焉を迎える…日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため
  悪政と汚職のために職を解かれた長崎奉行竹中采女が、息子とともに江戸で死刑に処せられる
     竹中采女は唐、蘭人が輸入した物品を原価で買い上げ京阪地区に送り巨利を得ていた
  アサガオが長崎に伝来する

1635(寛永12)【明正】 乙亥(きのとい)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》榊原飛騨守、神尾備前守(作事奉行転出)、仙石大和守(久隆・前目付・05/20発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル

  05/28幕府が日本人の海外渡航と海外在住、帰国を禁止(第3次鎖国令
     唐船の入港地を長崎に限定
     1636(寛永13)幕府が前年の鎖国令を強化。混血児を追放し、海外との交通を禁止などを強力に遂行(第4次鎖国令)
  唐僧・超然が聖寿山・崇福寺(黄檗宗)[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]を創建
     福州人の檀家が多く福州寺ともいった
     1644(正保01)諸檀越が殿堂を整えることに着手
  住吉神社が創建。上筒男命、中筒男命、底筒男命を祀る
  金鍔次兵衛が戸根村にいるとの報に長崎奉行は直ちに徹底した大山狩り(山関)を指令【1633(寛永10)?】
     佐賀、平戸、島原、大村の4藩に出兵を命じ、さらに大村藩には地元の土民の男のほとんど動員
     1人1歩の間隔で横一列に並び、山を越え、谷を渡って西彼杵半島を南に下る空前の山狩り
     35日かかって、関所を設けた半島の付け根の時津と浦上淵村のラインにたどり着く
     めざす次兵衛は影もなく、網にかかったのは長浦村の脇崎で、次兵衛の世話をしたという塩焼きの男1人のみ
     山関で次兵衛神父が捕らえられなかったのは江戸にあり、将軍家光の小姓たちに伝道していたため
     小姓数人がキリシタンになったことが発覚し斬殺。将軍家光は激怒し次兵衛召し捕りの厳命が下される
     べつに次兵衛神父が捕らえられなかったこととして71人のキリシタンが捕まり火刑と斬罪に処せられる
     1637(寛永14)06/15金鍔(きんつば)次兵衛が捕らえられる
     11/《09/》アウグスチノ会トマス・デ・サン・アゴスティン(金鍔次兵衛)と4人のキリシタンが西坂にて穴吊り拷問により処刑
       穴吊りの刑…体を綱でぎりぎり巻き、掘った穴に逆吊りにされる。口や鼻から血がしたたる過酷なモノ
  関所を通過するため使われた往来手形が、キリシタンの検挙も含め用いられることに
     キリシタンでないことの証明書ともなる
  日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船の貿易制度が国内海運に不向きなため姿を消す
  ポルトガル船3隻、蘭船7隻、明船4隻が入港

1636(寛永13)【明正】 丙子(ひのえね)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》榊原飛騨守、仙石大和守(04/10小姓組番頭転出)、馬場三郎左衛門(利重・前目付・05/19発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル

  貿易品を預けていた倉庫が類焼。ポルトガル商人たちは利潤があげられなくなる
     火災にあわない場所を求め幕府に要請
  06/13《05/10》3924坪の扇形をした出島が完成。ポルトガル人を収容し市内雑居を禁止
     市内に雑居していたポルトガル人により混血児が多数生まれ、風紀、禁教その他取締りの必要性から
     大きさは、周囲286間2尺9寸、総面積3969坪1分
     約1万5395平方米・東35間半、西35間半、南118間半、北96間半
     島の面積は築造当時約1万3千平方米、周囲約500米で扇方の小島
     面積3924坪1歩(約1万5200平方米)、東西各35間4尺5寸(70.296米)
     北側96間4尺9寸(190.556米)、南側118間2尺7寸(223.219米)の扇形
     土地の丈量は1間を6尺5寸(1.9米)で換算
     島は土塀を巡らし、西側に荷揚場、江戸町へ向けて橋を架け、まわりの海中には13本の標示杭を立てる
     住宅のほか土蔵、出島乙名や出島町人の詰所、番所小屋などが建ち、花畑、牛豚、鶏の飼育などもできる
     埋築に要した費用は銀200貫目に上る
     25人の町人は「出島町人」と呼ばれ、25株を持つ
     後年人数に移り変わりがあり12〜13人に減じるが25か所25株は変わりない
     出島築造に出資した25人
      有馬家休庵、高石家惣右衛門、高木彦右衛門、伊予屋半三郎、橋本久兵衛、平戸道喜、海老屋四郎左衛門、
      後藤庄左衛門、犬塚十右衛門、大黒屋善右衛門、肥前屋又兵衛、宮崎孫兵衛、鈩鹿九右衛門、堀九郎右衛門、
      平野屋善右衛門、村山善左衛門、久松新兵衛、山岡平吉、杉岡半左衛門、角屋三郎右衛門、末次宗徳、
      高島四郎兵衛、村田宗有、加賀屋半右衛門、高木作右衛門
     「出島町人」はポルトガル人から家賃として毎年銀80貫目を受け取る。収入は25人の町人が分配
     江戸町の地形が扇方で、江戸町前面の海中に埋築された島も扇方でなければ、出島町人の負担が公平にならなかった
     出島の政務は長崎奉行がいっさいを所管。事務は乙名が担当。出島乙名は世襲ではなく実力主義・人材主義
     ポルトガル人と称せられた者の中にはスペイン人、イタリア人も含まれ、南蛮人として待遇
     出島のポルトガル人は、長崎で貿易を行う間だけ滞留を許され、貿易が終了すると長崎を出帆
     1639(寛永16)07/05出島が無人化
     島原の乱でキリスト教の脅威を知った幕府は禁教徹底のためポルトガル人を追放
     1641(寛永18)06/25出島を築いた長崎の有力者の訴えにより、平戸にあった和蘭商館を出島に移す【06/18?】
     幕府はキリシタン禁圧と長崎衰退の救済、貿易統制を目的として移転。オランダ東印度会社長崎支店が発足する
     オランダへの許可理由…島原の乱で原城砲撃に協力したこと
      新教国オランダが旧教国ポルトガル追い落とし策動に成功したこと
  06/13《05/10》出島完成と同時に、出島へさらには海外への窓口として出島〜江戸町間に木橋が架かる
     1678(延宝06)石橋となる
     1888(明治21)頃中島川の流路変更工事に伴い出島の北岸が削られ、石橋がはずされる
  出島が完成し信者と潜伏宣教師の最後の拠り所がなくなる
     ポルトガル人たちの家は秘密の教会の役割を果たしていたが、出島に閉じ込められキリシタンの姿が消える
  07/29宣教師が大村のハンセン病者の小屋に潜伏
     オランダ商館長のフランソア・カロンが「日本大王国志」で伝える
  09/10長崎出生の南蛮人との混血男女287人がポルトガル船4隻に乗せられマカオへ追放
     大村藩士800余人が逃亡を見張り警備につく
     池松小四郎は南蛮人の子を養い追放、伊予屋千松の母は南蛮人の混血児を生み追放
     松田久左衛門兄弟の母は南蛮人
     兄弟が身代わりになると奉行に愁訴、奉行は幕府に伺いを立て兄弟の孝心に免じ追放を許される
  老中堀田正盛が長崎奉行に下知状
     1)南蛮人の子は日本に残しておいてはいけない。違反者は死罪
     2)南蛮人の子は南蛮人に渡されるが再び日本に来たり文通したりした者は死罪
  沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)が「顕偽録」を著し、キリスト教に反論
     1650(慶安03)沢野忠庵はキヤラ(岡本三右衛門)が持参した天文書を幕命で翻訳、「仮名天文鈔」として提出
     忠庵は日本文字を読むことはできたが、漢字をつづることはできず
     光源寺住持松吟和尚が筆訳し、世に「光源寺天文書」とも
  御朱印船貿易商の荒木宗太郎(年齢不詳)が没する。墓所は大音寺の後山
     荒木は安南国王族阮(グエン)氏の娘を妻として連れ帰る。子孫は幕末まで町乙名を勤める
  長崎の好運と京都の水学が許しを得て、港外に沈むマードレ・デ・デウス号の財貨引き揚げに着手
     両人は争論となり奉行が差しとめる
     1653(承応02)町田市左衛門が官許を得て銀300貫を引揚げる
  第4回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は任絖、総人数478。使命は朝鮮政策の確認と対馬藩の擁護
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1643(寛永20)第5回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹順之、総人数477。使命は徳川家綱の誕生祝い
  幕府が前年の鎖国令を強化。混血児を追放し、海外との交通を禁止などを強力に遂行(第4次鎖国令
     1639(寛永16)07/05幕府がポルトガル船の渡航を禁止(第5次鎖国令)
  ホンタイジ(皇太極、太宗)がモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位する
     女真の民族名を満洲に改める
     1644(正保01)03/19李自成の乱により盛京(瀋陽・北京)が没落し明が滅びる
     直後満洲に清朝が建国される。清は首都を盛京に遷し、中国支配を開始。中国を支配した最後の統一王朝
     1911(明治44)武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こる。清は完全な内部崩壊を迎える
     1912(大正01)01/01南京に中華民国が樹立
     02/12清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)が正式に退位。清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡する
  この年、ポルトガル船4隻が入港。一行は出島に抑留される

1636(寛永13)頃

  出島に出入りする商人がポルトガル人からパンの製法を伝授

1637(寛永14)【明正】 丁丑(ひのとうし)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》榊原飛騨守、馬場三郎左衛門(12/着)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル

  01/19諏方社の石の大鳥居が総町の献納で起工する。総町より人夫2千人を差し出す
     08/竣工。のちの二ノ鳥居
  02/初オランダで世界最初のバブル経済事件チューリップ・バブル(チューリップ狂時代)が起きる
     スマン帝国から輸入されたチューリップの球根に人気が集中し、異常な高値がつく
     価格は100分の1以下にまで下がり、オランダ諸都市は混乱に陥ることに
  06/15金鍔(きんつば)次兵衛が片淵村の助右衛門の訴えにより捕らえられる
     金鍔次兵衛…容易なる人物。フライ・トマス・デ・サンアウグスチノという日本人
      大村生まれ、父母ともに熱心なキリシタン。6歳で有馬のセミナリオに入学
      禁教令でマカオに渡り、コレジヨに5年学ぶ。マカオに渡航してアウグスチノ会の司祭となる
     11/《09/》アウグスチノ会トマス・デ・サン・アゴスティン(金鍔次兵衛)と4人のキリシタンが西坂にて穴吊り拷問により処刑
       穴吊りの刑…体を綱でぎりぎり巻き、掘った穴に逆吊りにされる。口や鼻から血がしたたる過酷なモノ
  06/19華南出身の林氏五官呉公(年齢不詳)が没する。墓所は深堀村の菩提寺
  夏悪政と大凶作に苦しんでいた天草方面において天草四郎時貞[益田四郎(15)]という少年が出現
     神の使いと信じられ、キリシタンの再興と布教とが噂されはじめる
     心身ともに疲れ、救いを求めていた島原の農民は噂に呼応。天草四郎を頭主として結束を固め、ついには暴徒化
     12/01《10/15》加津佐の寿庵により廻文(檄文)がまわる
     「天人が下り、異教徒は皆デウス様より火の呵責を受ける。キリシタンになるものは、私の所に来れ」
     12/10《10/24》「デウスの絵」を破った有馬村代官の兵左衛門を殺したことにより反乱が開始
     12/24夜〜12/26噂はあっという間に島原藩南部の諸村に飛び火、各地で呼応した蜂起が起きる
     有馬村での代官殺害を発端に加津佐・小浜・千々石の代官を次々と殺害。各地の神社仏閣を焼き払う
     暴徒化した農民と藩兵とは、島原・天草のいたるところで衝突。島原の乱の前哨戦に
     これに対して島原藩北部の諸村は蜂起に反対。一部の過激派が扇動しているにすぎないと鎮圧に協力
     いくつかの村で一揆のリーダーを討ち取ることに成功
     知らせを受けた島原城は急遽鎮圧の兵を100人ほど差し向ける
     続報を受けて、それではとても足りないと判断。城内の兵を総動員して有馬村方面に向かう
     しかし一揆はとても手が付けられない状態に。やむを得ず鎮圧軍はいったん島原城にもどる
     12/26〜27一揆側はどんどん各村のリーダーが連合、逆に島原城に迫り藩軍側が籠城して堪え忍ぶ羽目に
     のち島原での一揆の勃発が天草にも飛び火
     11/08島原と天草で相次いでの大規模な一揆が起きたとの知らせが幕府に届く
     シンボルに天より下った天人(救世主)として、大矢野島のわずか15才の天草四郎時貞が祭り上げられる
     11/末天草・島原の共同戦線が張られ、廃城となっていた原城(有馬氏の旧城)に農民が集結
     1638(寛永15)01/07《寛永14・12/03》天草四郎時貞が原城に入城
     四郎を核に農民を主体に構成された老若男女3万7千人が城跡に籠城
     一揆に参加した農民がみな原城に入り、島原南部と天草は人っ子1人いない廃村のようになる
     一揆軍は四郎を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行など…幹部を置いて組織をしっかりと固める
     幕府軍12万5千人と4か月にわたり対峙することに
     12/05幕府の上使、板倉重昌島原城に入る
     1638・02/03《寛永14・12/20》幕府が上使に任命した板倉内膳正重昌が攻撃を開始
     九州諸大名は1万1千石の貫録では武家諸法度を盾にして動かない。遅れての開始
     12/10板倉重昌は暴徒化した農民一揆を鎮圧しようと第1回目の原城総攻撃を試みる
     農民の計算された戦法の前に敗退。その後2度にわたる攻撃も失敗
     12/27板倉重昌は小禄のため統率できなかったと判断した将軍家光は自ら決断を下す
     新追討使として腹心中の腹心の老中・松平伊豆守信綱を援軍として派遣
     1638(寛永15)02/14《01/01》松平伊豆守の着陣に焦った板倉重昌は総攻撃をかける
     板倉は手勢の兵を率いて無謀な城突入作戦を敢行し、胸を撃たれて戦死
     この戦闘における幕府軍の死者は4千人、対する一揆側の死者はわずか100人
     1638(寛永15)02/17《01/04》松平信綱・戸田氏鉄が原城近くの幕府陣営に着陣
     動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万5800余人の大軍に。戦法が変えられ、兵糧攻めによる持久戦に
     一揆勢3万7千人のうち女、子どもを除く実戦参加者は1万3千
     プロの失業浪人が指揮する一揆勢を打ち破るのに苦労する
     02/24《01/11》03/10《01/25》幕府軍原城を海陸から包囲、基本戦略の虚をつく干殺し(兵糧攻め)に
     松平信綱は平戸のオランダ軍艦デ・ライブ号を呼び寄せる
     15門から砲撃をさせる。また山上からも備砲5門での砲撃を試みる
     15日間で425発の砲弾を撃ち込むが劇的な効果はない
     砲弾は炸裂しないただの塊で、原城は城のない廃城のため
     オランダの原城への砲撃参加で幕府は、のちの出島での独占の貿易など優遇する理由のひとつとなる
     1638(寛永15)04/11《02/27》松平信綱は城内に食糧、弾薬が尽きたことを知ると総攻撃を開始
     幕府軍にはたとえ女子供でも全員殺害せよ、との厳命が下る
     わずかに事情聴取のために生かされた山田右衛門だけを残して一揆軍は全滅
     矢弾も尽き果てた一揆勢は鍋釜までも投げ、最後の抵抗を見せる
     1638(寛永15)04/12《02/28》午前06時、本丸に残る小屋へ火矢を射る
     天草四郎の住居と思われる屋内に細川家の家臣の陣佐左衛門が駆け込み首を討ち取る
     この戦闘で幕府側は1千人以上の死者を出す
     04/12《02/28》正午、本城西の方を攻撃。原城が落城
     幕府軍総攻撃により原城が陥落。戦闘員1万4千、婦女子あわせて3万7千余人がことごとく戦死
     島原半島南目の布津、堂崎、有家、有馬、口之津、加津佐、串山各村の村民全員が乱に加わり死亡
     北目の村のうち中木場9割、深江8.8割、小浜8.4割、千々石5.8割、三会5.3割、島原3割が乱に参加
     徳川幕府に270年間の最も基本的政策となった鎖国、キリスト教の禁止という二大政策の断行を 決定させた事件となる
     島原の乱の鎮圧を指揮したのは上使として島原入りした老中松平伊豆守信綱
     幕府軍の犠牲は8135人
     のち天草四郎らの首が出島橋の側でさらされる
     1万人の首は3等分され長崎、愛野、富岡(天草)でさらして埋められる
  10/17《08/29》マストリリが長崎で殉教
  幕府は島原天草の乱の余波を恐れ、大村侯に長崎を警備させる
  島原の反徒が軍用金調達のため多数のキリスト教徒が潜在する長崎を襲うとの風説あり
     市民は動揺し、諏方社社頭に詣でるもの引きもきらず
     青木賢清父子は奉行の命により天下太平武運長久の祈願祭を執行する
  雲仙満明寺が島原の乱により焼き払われ打撃を受ける
     1640(寛永17)新たに島原藩主となった高力忠房により満明寺の旧地を復興
  唐船主などの指宿(さしやど)がはじまる
     指宿…唐人が民家を宿泊所として指名すること
     宿料や商取引の札銭にあたる口銭銀による収入はかなりな額にのぼる
     市民は唐船入港を聞くと競って小舟をだし迎え荷主を奪いあうことに
     のち少数特定の市民が独占することになり不平がおこる
     1666(寛文06)唐船の指宿制度を廃止し宿町・付町の制度をはじめる
     内町・外町の各町の順番をきめ当番の町を宿町、次の番の町を付町に
      船頭や役付き船員はその町の乙名宅に泊め、その他の船員はその町の家々に分宿
     順送りに唐人を市民の家に宿泊させることに改める
     唐人宿からあがる利益を町全体に分配するように仕組んだもの
  初代・大倉治右衛門が京都府南部の笠置町から城下町、宿場町として賑わう京都伏見馬借前にて酒屋を創業
     屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」と称する
     1895(明治28)港町・宿場町である伏見から東京方面へ販路を拡張、全国銘柄への歩みをはじめる
     1905(明治38)勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用
  筑後柳河、光源寺の住持松吟が長崎奉行から銀屋町に寺地を与えられ巍巍山・光源寺(浄土真宗本願寺派)を開山
     1676(延宝04)火災により類焼し伊良林郷の現在地に移築
  本草学者の板坂卜斉が薬園を創設
  平戸オランダ商館が貿易の増大に対処するため拡張を図り日本初の西洋方式による巨大な石造倉庫を建設
  五人組みが整備される。5戸1組が年貢の連帯責任や犯罪の防止のために作られる
  ポルトガル船6隻、唐船64隻が入港

1637(寛永14)頃

  丸山の地に遊女屋3軒があり、俗に「三軒屋」と称する。太夫町とも
     1639(寛永16)新紙屋町、大井手町、今博多町、寄合町(旧)、桶屋町など市中に散在する遊女屋を2町に集める
     丸山町寄合町(新)が誕生。官許の遊女町となる【1642(寛永19)?】
     もともとは船乗りなどが使う、おもてなしや接待をする宿屋だった
     小島村の丸山野地に遊女屋3軒あり、それまでは太夫町と称した
     寄合町(旧)に遊女屋街があり、全てを太夫町の隣接地に移した
     1958(昭和33)04/01丸山・寄合の花街は明治以後も存続するが売春防止法の施行によって廃止

1638(寛永15)【明正】 戊寅(つちのえとら)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》榊原飛騨守(01/免職閉門)、大河内善兵衛(正勝・前目付代・11/10発令)、馬場三郎左衛門
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル

  正月/鍛冶屋町の鋳物師金屋助右衛門国久が石火矢の弾丸を鋳造する
     島原攻めのためと称されたが実用に供することなく大波戸に放置される
     のち「大波戸の鉄砲ン玉」として親しまれる
     1792(寛政04)大波戸の砲丸を公式計測する
     周り5尺8寸(1.758米)、重さ924斤5合(554.7瓩)。町年寄高島作兵衛や町乙名が立ち合い公式計測
     1986(昭和61)03/「大波戸の鉄砲ン玉」が公式計量される
     直径56糎(周囲1.758米)、重量560瓩。鉄分63.96%、炭素2.94%、硫黄0.35%、その他不純物で中空となる
     石火矢の弾丸が鋳造されたのは1638(寛永15)正月、鍛冶屋町の鋳物師金屋助右衛門国久による
  02/27島原・天草の乱で原城陥落。戦闘員1万4千、婦女子あわせて3万7千余人がことごとく戦死
     オランダ軍も砲撃に参加
     徳川幕府の基本的政策となった鎖国、キリスト教の禁止という二大政策の断行を決定させた事件となる
  03/16松平信綱が天草の富岡を出発、茂木を経て長崎着。勝山町の代官末次平蔵宅に宿泊し長崎を巡視
     03/25平戸へ行き蘭館を調査する
  04/幕府は島原城主松倉勝家の所領を没収、唐津城主寺沢堅高の封を削り天草を没収
     のち遠江国浜松城主の高力忠房を島原に移し、天草を山崎家治に与える
     07/幕府は島原、天草における失政の責任を追及。松倉勝家を斬罪、寺沢堅高を蟄居に
     1639(寛永16)06/唐津城主寺沢堅高の蟄居が解かれる
     1641(寛永18)09/天草の山崎家治を讃州丸亀に転封し天草を公領管地とする
  05/幕府は商船に限り500石積以上の大船の建造を解禁する
  06/26幕府が長崎奉行の榊原飛騨守を評定所に召喚
     島原の乱の際、軍法に反し抜け駆けした廉により免職閉門
     のち閉門が解かれ先手鉄砲頭に任命される
  夏/翌年の春にかけて伊勢参宮が大流行する
  島原の乱ののち幕府は長崎警備の重要性を痛感
  島原の乱のため幕府は出島のポルトガル商人に通商禁止の命を伝える
  奉行を長崎に常駐させる
     1人は江戸詰、1人は長崎詰とし、1年ごとに交代する制度
     鎖国体制後の長崎奉行の任務は、長崎の治安維持、外国貿易の監督、キリシタンの取締り、長崎港の防備
     長崎は福岡(黒田)、佐賀(鍋島)の2藩によって交代で警備を担当
      港内外に遠見番、烽火台、番所、台場などの施設を設置
  老中松平伊豆守の発案により野母岬権現山頂上に遠見番所、斧山(現烽火山)の頂上に狼煙台のある番所を設置
     松平伊豆守が肥前国有馬一揆(島原の乱)への出陣から江戸に帰る途中、長崎へ立ち寄る
     外国船に対する警戒の必要性から見張り番所を設置する旨を奉行馬場三郎左衛門に命じる
     野母岬権現山頂上に見張り番所、長崎近隣諸藩へ知らせるため長崎港を見下ろす斧山の頂上に狼煙台を設ける
     野母の遠見番所は唐津藩寺沢兵庫頭堅高の預地。野母、高浜、川原の3か村の百姓が番人、水主、船番を交代で勤める
      野母村権現山・野母遠見番所〜奉行所に早船で報告(白帆注進)
     斧山は長崎代官末次平蔵の管理地。長崎領(長崎村、浦上山里村)の百姓が2人ずつ交代で勤める
      長崎村斧山・烽火山番所〜山頂から狼煙をあげる〜肥前諌早領多良岳・大村領琴ノ尾山〜順次他領へ
     1659(萬治02)長崎奉行甲斐庄喜右衛門が遠見番(公儀役人)を新たに召抱える
     それまで番所には近隣の浦人・百姓が勤番していたが公役は負担を伴い、なかには困窮者がでる
     長崎代官の末次平蔵は浦人、百姓の困窮を見かねて奉行に建議、江戸へ訴える
     江戸では外国船の監視は外交上(貿易制限、禁教)重要な任務であるとし訴えが認めらる
     浦人、百姓は役番をとかれる
     遠見触番頭に吉村甚左衛門、原三郎左衛門が採用される
     遠見番10人(戸田、保田、中村、日高、福田ほか)が採用される
     水主10人を召抱え番所付御注進船2艘を配する
     役宅は長崎村十善寺郷に設けられ十人町とよばれる
     1764(明和01)斧山の番所が一時的に閉鎖
     1808(文化05)斧山の番所が再開
     1815(文化12)10/斧山の勤番が廃止
     1868(明治01)04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  奉行が長崎に常駐され与力5人、同心20人が長崎奉行に配属される
     1665(寛文05)長崎奉行の与力が10人、同心が30人になる
     1687(貞享04)長崎奉行の与力、同心制度が廃止。町年寄制度が充分に整備されたため
     奉行抱えの給人10人、下役30人に変わる
     1842(天保13)奉行所の機能の充実が必要となり、再び与力、同心1が置かれる。与力10人、同心15人
  老中松平伊豆守信綱が山王日枝の「山王権現」を招祭するよう進言
     近江琵琶湖岸の坂本に地名や景色が酷似しているとして長崎奉行、代官が寺町・延命寺の龍宣法印師に依頼して建立
     延命寺の末寺「圓福寺」として運営
     1648(慶安01)山王権現の廟社を建立。山王神社が創立
     1652(承応01)現在の坂本町に移転
     1868(明治01)山王日吉神社に
     1924(大正13)山王日吉神社の二の鳥居が建立。のち参道に一の鳥居から四の鳥居まで建つ
     1945(昭和20)08/09原爆で境内の建物が壊滅的被害を受けたが徐々に再建
     1945(昭和20)08/09爆心地から南東約800米にあった二の鳥居が原爆により、
     高温の熱線で上部は黒く焼け爆風で左半分は倒壊
     右半分は笠石を載せたまま残る。爆風で笠石の部分は約5糎横にねじ曲がるが、笠石と貫の一部でバランスを保つ
     1962(昭和37)03/一の鳥居は原爆による倒壊はせずに残り原型をとどめる
     のち一の鳥居は交通事故で倒壊、行方不明に
     1988(昭和63)ぼぼ旧来の姿に再建
  諏方社祭祀費を定め、毎年唐船1隻分の口銭銀を給する
     口銭銀とは唐商人が宿泊した日本人宿元に対する礼金のこと
     寛永年間の1隻分は9貫目、これを宿元、内町・外町で各3貫宛配分
  幕府が江戸麻布、大塚に薬苑を開設
  幕府が島原の乱で長崎警備に尽力した町年寄4人を江戸に召し、各時服2領と銀100枚を下賜
     高木作右衛門忠次、後藤庄左衛門貞朝、高島四郎兵衛茂卿、高木彦右衛門重成
     また砲術関係者の浜田新蔵に銀100枚、土井十左衛門【土井六永?】に50枚、島谷市左衛門、薬師寺久左衛門に各30枚
     その他大砲手の者へそれぞれ下賜
  島原の乱で長崎の出費は銀111貫目余に
     銃砲の修繕費、火薬・楯板・苫・菰・縄の代金、大工・鍛冶・人夫の賃金、市街警備の飲料などに消費
     経費は没収財産の保有金である闕所銀があてられる
  本博多町の大音寺が鍛冶屋町(現在地)に移築
     1641(寛永18)境内免租の朱印を賜る
  キリシタン訴人に賞金を改めバテレン銀200枚、イルマン100枚、その他30〜50枚とする
     1654(承応03)02/キリシタン訴人賞銀を増加。バテレン銀300枚、イルマン200枚、同宿その他50枚または30枚に
  諏方社が祭祀費を定める。毎年、唐船1隻分の口銭銀を給する
     口銭銀とは唐商人が宿泊した日本人宿元に対する礼金のこと
  今籠町の祇園宮延寿院が高野平郷(鍛冶屋町)に遷宮
     開創した高覚院は僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲与
     1667(寛文07)江戸東叡山の末寺、宝樹山現応寺
  ポルトガル船2隻が入港

島原の乱後

  加藤善左衛門が高力忠房に従って島原に赴任
     1653(承応02)加藤善左衛門が雲仙に古湯を開き湯小屋を設ける
     のち加藤善左衛門が雲仙に湯元旅館を創業
     1672(寛文07)湯元旅館2代目の加藤小左衛門が湯守役に任ぜられる
     山留役として乙名を兼ねた役目につき雲仙一帯を管理
     1695(元禄08)湯元が藩の管下を離れて個人経営となる
     九州鎮護の守り神、雲仙神社と満明寺に参詣する諸大名の陣屋「湯守の宿」として創業
     共同浴場・延暦湯の経営も兼ねる
     1721(享保06)湯元旅館2代目の加藤小左衛門が小地獄温泉を開く
     1878(明治11)湯元旅館9代目の加藤小左衛門が新湯を開く
     1891(明治24)頃湯元旅館9代目の加藤小左衛門が湯浴みする女の裸体のさし絵を載せた奇抜な観光案内書をつくる
     長崎における観光パンフレットの最初のもの
     1968(昭和43)09/湯元旅館が新館を完成。湯元ホテルとなる

1639(寛永16)【明正】 己卯(つちのとう)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門、大河内善兵衛(04/着)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ニコラス・クーケバッケル(←02/03)(02/04→)フランソワ・カロン

  02/21阿部対馬守より長崎奉行へ訓令
     1)オランダ人は日本人との混血児を持ってはいけない。もし持ったら父、母、子とも追放
     2)混血児の母が死亡し祖母が養育しているときはそのままにしてよい
     3)平戸の混血児はキリシタンのスパイとされマカオに追放すると死刑になる可能性があり本人の希望する国へ追放
  03/大村領の浦上、平宗、福田、式見、時津、三重以下の西彼半島のキリシタン改めを諸村の庄屋に誓詞を提出させる
  04/07幕府が平戸の蘭商館長に対して平戸領内に居住するオランダ人の子女を調査。氏名と両親の名を書きだすよう命じる
  06/唐津城主寺沢堅高の蟄居が解かれる。幕府は島原、天草における失政の責任を追及し前年の7月に蟄居を命じる
  07/05幕府がポルトガル船の渡航を禁止(第5次鎖国令
     1641(寛永18)06/25平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す(鎖国体制が完成)【06/18?】
  07/05島原の乱でキリスト教の脅威を知った幕府は禁教徹底のためポルトガル人を追放。出島が無人化
     長崎に来航のポルトガル船3隻に渡航禁止を通告、帰帆させる
     長崎在住のオランダ・イギリス人と子女に帰国命令
     出島は無人の島となり荒廃する
     1641(寛永18)06/25出島を築いた長崎の有力者の訴えにより、平戸にあった和蘭商館を出島に移す【06/18?】
     幕府はキリシタン禁圧と長崎衰退の救済、貿易統制を目的として移転。オランダ東印度会社長崎支店が発足する
     オランダへの許可理由…島原の乱で原城砲撃に協力したこと
      新教国オランダが旧教国ポルトガル追い落とし策動に成功したこと
  07/25幕府は蘭人と唐人のみに通商を許可し、蘭船は平戸、唐船は長崎に限って貿易をさせることに
  ポルトガル貿易が禁止となり長崎商人たちは生活に困る
     商人たちは奉行所に対して平戸のオランダ商館の長崎移転を要請
     1641(寛永18)06/25ポルトガル人に代わって出島にオランダ人が平戸から移転【06/18?】
  10/10《09/14》筑後町乙名の久保十右衛門が6人分の名前と年令を連記した送り状を長崎奉行所に差し出す
     幕府は禁教の徹底を図り、ポルトガル船の日本渡航禁止、長崎在住のオランダ人、イギリス人に帰国命令を出す
     10/オランダ・イギリス人の混血児とその母親32人がオランダ船プレダ号で平戸を出帆。バタビアに追放
     なかには、イタリア人でポルトガル船パイロットの父と日本人の母の間に生まれた混血児、15才のお春
     7年後お春はオランダ人のシモンセンと結婚
     のちお春の夫は税関長に栄進し、退官後は有能な貿易商に
     4男3女の子宝に恵まれ、裕福な生涯を送り77才まで生きる
  唐津出身の修験者・南岳院存祐が新高麗町川端の地に伊勢大神宮祈祷所を建て伊勢宮を再興させる
     1646(正保03)11/28伊勢宮社殿竣工
     12/08遷宮式を行なう
     1710(宝永07)06/大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
     1901(明治34)伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行われる
  大音寺を開山した伝誉閑徹が、島原町から鍛冶屋町への移転する際、仮本堂を建てる
     1642(寛永19)鍛冶屋町の大音寺本堂完成に際し、仮本堂を影照院と名付け別に本尊を安置
     円廓和尚をその初代住職とする
     のち大音寺の末寺として同寺歴代住持の位牌安置所となる
     明治時代末期独立して大本山知恩院の直轄となる
     終戦時頃廃止となり入口の門だけが残る
  新紙屋町、大井手町、今博多町、寄合町(旧)、桶屋町など市中に散在する遊女屋を1箇所に集める
     もともとは船乗りなどが使う、おもてなしや接待をする宿屋
     小島村の丸山野地に遊女屋3軒あり、それまでは太夫町と称していた
     寄合町(旧)に遊女屋街があり、全てを太夫町の隣接地に移す
     丸山町と寄合町(新)の2町が誕生。官許の遊女町となる【1642(寛永19)?】
     1958(昭和33)04/01丸山・寄合の花街は明治以後も存続するが売春防止法の施行によって廃止
  諏方社に木製の二ノ鳥居が竣工
     1645(正保02)石製に改められる
  唐船93隻が入港

1640(寛永17)【明正】 庚辰(かのえたつ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門、大河内善兵衛(06/13退任)、柘植平右兵衛(正時・前本丸修理奉行・06/12発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》フランソワ・カロン

  03/22長崎、京都、堺、江戸、大坂の五箇所商人が平戸の阿蘭陀商館の長崎移転を出願する
     ポルトガル船の追放により貿易に依存する五箇所糸割符商人団はたちまち困窮
     幕府は訴願を入れオランダ商館の長崎移転を命じる
     のち平戸商人は強力に反対するが幕命には抗しきれず
  03/22平戸蘭商館長のフランソワ・カロンが江戸に入る
  05/17使節ルイス・パエス・パチェコを乗せたポルトガル船1隻が、長崎に来航。貿易再開を求める
     06/06大目付の加々爪民部少輔忠隆を上使として長崎に派遣
     使節と引見し前年の通告を実行することを申し渡す
     のちくじにより61人を西坂で斬り、残り13人は邦船で放還する
     船は金銀財宝の積荷のまま西泊で焼き捨てる
     1663(寛文03)ポルトガル船の貨物金銀を黒川奉行の命で引き揚げる
     益金45貫余を町年寄、年行司、町乙名、目利役らに配付する
  06/12初代宗門改役の井上筑後守政重は在職20年間に亘り全国から夥しい数の潜伏キリシタンを江戸へ送らせる
     没収した宗門具や書物はキリシタン江戸小日向の山屋敷の蔵に保管
     1792(寛政04)09/17老中松平越中守定信の建議により江戸小日向の山屋敷は廃止される
     蔵の中にあるキリシタンからの没収品は神田見付内の多門櫓(たもんやぐら)に移される。俗に不浄倉とも呼ばれる
  06/カタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争が起きる
     スペイン帝国とポルトガル王国との戦争。事実上60年にわたり続いたポルトガルとスペインの同君連合が解消
     スペインからポルトガルが独立しブラガンサ朝が成立
  09/25大目付の井上筑後守が長崎奉行の柘植平右衛門と平戸へ。蘭館の閉鎖、破壊を命じる
     商館長のフランソワ・カロンは直ちに停泊中の蘭船乗組員200人を指揮して倉庫の貨物を他に移し破壊に着手する
  幕府が京都鷹ケ峯に薬苑を開設
  真言僧で修験者の金剛院良円が長崎初の稲荷神社を開く
     1672(寛文12)小島郷に移り金剛院如意輪寺となる
     1868(明治01)神仏混淆禁止により大崎神社
     1879(明治12)03/16午後1時丸山から出火した大火で焼失
  陳道隆(日本名潁川藤左衛門)と林守●(殿の下に土)(日本名林仁兵衛)が唐小通事に任命される。唐小通事のはじめ
     このとき大通事は馬田昌入、林長右衛門、中山太郎兵衛、潁川官兵衛の4人
  新たに島原藩主となった高力忠房により雲仙満明寺の旧地を復興
     1673(延宝01)火災で焼失し藩主松平氏により再建される
  雲仙の大乗院の旧地を興し、一大釈迦堂が建立され一乗院と号す
     1693(元禄06)島原城主松平忠房が四面宮とともに一乗院を改築
     1869(明治02)温泉四面宮を国魂神社と改称。神仏判別の制により京泊の末寺、観華院に一乗院を移す
     1898(明治31)一乗院の名残りのひとつであった釈迦堂が焼失。護摩堂も類焼する
     1916(大正05)一乗院釈迦堂の再建工事が完成し開眼式が行なわれる
  唐船74隻が入港

1640(寛永17)頃

  寄合町(現古町)の虚無僧寺「玖崎寺」跡地に虚無僧止泊所「松寿軒」が建つ

1641(寛永18)【明正】 辛巳(かのとみ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門、柘植平右兵衛
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》フランソワ・カロン(←02/13)(02/14→)マクシミリアン・ル・メール(←10/30)(11/01→)ヤン・ファン・エルセラック

  平戸オランダ商館に破壊が命じられ、無人の出島に移転を命じられる【1640(寛永17)?】
     直接の理由は建物の破風にキリスト紀元の年号を書き記していたことによる
     またポルトガル貿易禁止による長崎の衰退を防ぐ狙いもあり、鎖国体制の完成を意味する象徴的な出来事
  04/老中が江戸参府の甲比丹に平戸蘭館の長崎移転にあわせて西洋事情の報告書を提出するよう命じる
     同年オランダ商館が長崎に移り、江戸参府が長崎発となる
     1648(正保05・慶安01)01/前年のポルトガル船入港の予報を怠った責めとして甲比丹の参府拝賀を許さず
  06/18出島を築いた長崎の有力者の訴えにより、平戸にあった和蘭商館を出島に移す
     幕府はキリシタン禁圧と長崎衰退の救済、貿易統制を目的として移転
     新任甲比丹マクシミリアン・ル・メールが館員とともに平戸から出島に移る
     オランダ東印度会社長崎支店が発足
     オランダへの許可理由…島原の乱で原城砲撃に協力したこと
      新教国オランダが旧教国ポルトガル追い落とし策動に成功したこと
     石橋を渡ると出島の表門
     守衛の番士が常勤、出入りの者を厳重に改め、探番も出入りの人々の身体を改める
     一般人は出島への出入りはできない
     長崎奉行所の役人、長崎町年寄、阿蘭陀通詞、出島町人や職人、商人は…
     居住所の乙名に願いでて、身元を確かめた上で門鑑を下付されて出入りを許される
     オランダ商館は家賃として年額銀55貫目を支払う。収入は25人の出島町人町人が分配
     館員は甲比丹を筆頭にへトルと呼ばれる次席館員、荷倉役、上筆者、医者、簿記者など、
     他にバター製造人、黒人の召使など大体15人位が常任
     商館長は6月、7月の頃にオランダ船と共に交代するのが通例。翌年の正月に江戸参府のため長崎を出発
     鎖国体制が完成する
  06/25幕府が平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す【06/18?】
     順次行なわれた幕府の鎖国体制が完成する
     第1次…1633(寛永10)、第2次…1634(寛永11)、第3次…1635(寛永12)05/28、
     第4次…1636(寛永13)、第5次…1639(寛永16)07/05
  06/25出島を築いた長崎の有力者の訴えにより、平戸にあった和蘭商館を出島に移す【06/18?】
     幕府はキリシタン禁圧と長崎衰退の救済、貿易統制を目的として移転
     オランダ東印度会社長崎支店が発足
     オランダへの許可理由…島原の乱で原城砲撃に協力したこと
      新教国オランダが旧教国ポルトガル追い落とし策動に成功したこと
     新任の平戸商館長マキシミリアン・ル・メールが出島に上陸。甲比丹部屋に入る
     石橋を渡ると出島の表門
     守衛の番士が常勤、出入りの者を厳重に改め、探番も出入りの人々の身体を改める
     一般人は出島への出入りはできない
     長崎奉行所の役人、長崎町年寄、阿蘭陀通詞、出島町人や職人、商人は…
     居住所の乙名に願いでて、身元を確かめた上で門鑑を下付されて出入りを許される
     オランダ商館は家賃として年額銀55貫目を支払う。収入は25人の出島町人町人が分配
     館員は甲比丹を筆頭にへトルと呼ばれる次席館員、荷倉役、上筆者、医者、簿記者など、
     他にバター製造人、黒人の召使など大体15人位が常任
     商館長は6月、7月の頃にオランダ船と共に交代するのが通例。翌年正月江戸参府のため長崎を出発した
     鎖国体制が完成する
     1859(安政06)まで
  09/天草の山崎家治を讃州丸亀に転封し天草を公領管地とする
  10/出島への入口は江戸町の中央部に設けられ、出島に架けられた橋畔に制札場を設け、禁制の高札を掲示する
       禁制  出島町
       一、傾城之外女入事
       一、高野ひじり之外出家山伏入事
       一、諸勧進之者並に乞食入事
       一、出島廻り傍示木杭之内船乗り廻る事 附橋之下船乗通事
       一、断なくして阿蘭陀人出島より外江出る事
       右の条々堅可相守もの也
       卯 十月
  貿易と渉外の任にあたっていた通詞たちも平戸から出島へ移る
     はじめポルトガル語を交えてオランダ語を使用したが、本格的にオランダ語を使い、オランダ通詞としての身分を確立
     身分は江戸中期以降には10数段階に細分化
     基本的には通詞目付、大通詞、小通詞、稽古通詞、古くからオランダ語を理解して小仕事を手伝う内通詞
     オランダ通詞は、役俸ゆたかで受用銀も相当多く裕福。家は世襲で30余家
     当初は通詞の仕事としてオランダ語の研究に専念
     出島商館渡来の医師から指導を受け医学など西欧諸科学の知識を身につける
  興福寺の殿堂、山門、経蔵などを工事
     1663(寛文03)本堂の大雄宝殿が大火で類焼
  不動院・快元が鍛治屋町に南光寺を開創。天満宮を勧請
     1843(天保14)出来鍛治屋町からの火災で境内をことごとく消失
     1868(明治01)今籠町天満宮
     1975(昭和50)頃都市計画道路・恵美須町油屋町線拡張により移転、八坂神社本殿に合祀
  新紙屋町に修験者清光院増慶が真言宗宝輪寺を創建し大黒天を祀る
     1676(延宝04)高野平郷(現油屋町)に移転
     1972(昭和47)上戸町に移転
  オランダ商館が平戸から長崎出島に移り、まもなく悟真寺の墓域の一画がオランダ人に割り当てられる
     1858(萬治01)ロシアのフリゲート艦「アスコルド号」の艦内でコレラが発生
     死亡した数人の乗組員を埋葬するためロシア人墓地を開設
  旧本博多町天満宮の地に伝誉関徹が創立した寺(大音寺)が鍛冶屋町に移転
     戦後大音寺が放火により本堂を焼失、鉄筋コンクリート建築により再建
  大音寺が境内免租の朱印を賜る
  古川町天満宮の鳥居がつくられる
     諏訪神社の旧一の鳥居[1637(寛永14)造・現二の鳥居]に次ぐ古い鳥居
  大村氏などが支援して筑後町の聖林山本蓮寺が寺地を拡大。皓台寺、大音寺とともに長崎三大寺のひとつに
     1945(昭和20)08/09原爆ですべて焼失
  オランダ屋敷でパンを売る
  長崎より丸ボーロが佐賀へ、タルトが松山にそれぞれ伝わる
  蘭館医のJeuriaen Hasselinghが外科を日本人に教える
     長崎の名工・藤原九左衛門らが南蛮紅毛流の外科器械を製作
  外国船来航に備え西泊と戸町に番所を置く
     西泊御番所は長崎最大の御番所で幕府の命により福岡藩主がつくる
     敷地面積3870坪(1.3ha)で建物19棟、石火矢数22で駐屯兵は1千人内外
  伊王島で入港船調べをする
  唐船97隻、蘭船9隻が入港

1641(寛永18)頃

  長崎の市街は内町25町・外町48町、計73町
     (内町)桜町の裏手に東町(俗に喜蔵町)ができる
     島原町、分知町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町、江戸町、内下町、樺島町、
     本博多町、新町、本興善町、後興善町、築町、引地町、金屋町、今町、本五島町、
     浦五島町、豊後町、桜町、東町(俗に喜蔵町)、小川町、内中町、船津町
     (外町)本籠町、新船大工町、本石灰町、濱町、油屋町、今石灰町、本鍛冶屋町、榎津町、古川町、
     新籠町、今鍛冶屋町、歌舞伎町、新歌舞伎町、銀屋町、新銀屋町、磨屋町、諏方町、毛皮屋町、
     新紺屋町、本紙屋町、新紙屋町、新高麗町、新大工町、馬町、大井手町、炉粕町、新御座町、
     本御座町、勝山町、今博多町、寄合町、桶屋町、今紺屋町、本大工町、魚屋町、酒屋町、袋町、
     本紺屋町、材木町、八百屋町、上町、東中町、西中町、筑後町、外下町、築出町、浦築出町、太夫町
     正保年間(1644〜1647)内町は文知町(分知町)が外浦町に、横瀬浦町が平戸町に併合
     東町が桜町の内に入り、新たに堀町ができる。内町は23町となる。また外町は42町となる

1642(寛永19)【明正】 壬午(みずのえうま)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門、柘植平右兵衛(12/09江戸で死去)、山崎権八郎(正信・前目付・12/26発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ヤン・ファン・エルセラック(←10/29→)ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル

  07/16転んだクリスト・ヴァン・フェレイラ神父を救うべく5人のイエズス会士が薩摩国下甑島に上陸
     忽ち捕まり長崎奉行所へ送られる。所持品は没収される
  新紙屋町、大井手町、今博多町、寄合町(旧)、桶屋町など市中に散在する遊女屋を1箇所に集める
     もともとは船乗りなどが使う、おもてなしや接待をする宿屋
     小島村の丸山野地に遊女屋3軒あり、それまでは太夫町と称していた
     寄合町(旧)に遊女屋街があり、全てを太夫町の隣接地に移す
     丸山町と寄合町(新)の2町が誕生。官許の遊女町となる【1639(寛永16)?】
     1958(昭和33)04/01丸山・寄合の花街は明治以後も存続するが売春防止法の施行によって廃止
  山口太左衛門が丸山町に妓楼「引田屋」を創業
     1818(文政01)頃引田屋の庭園内に茶屋を建て「花月」と名づける
     のち花月には頼山陽や江芸閣など内外の文人墨客がよく往来し、書画の一種の展覧会・品評会も行なわれる
     1879(明治12)03/丸山の大火で類焼
     1880(明治13)花月の名称が引田屋の一部に移転
     1926(大正15)引田屋が廃業。料亭となり経営者も替わる。花月の名称と引田屋の庭園・家屋は継承
     1938(昭和13)頃花月が株式会社となり本田寅之助が支配人として経営
  岩原川河口右岸を埋立て築出町とし、これより現長崎駅寄りを埋立て浦築出町とする
  洪泰寺第2代住持一庭融頓が上洛、明正天皇に拝謁。「了外広覚禅師」の号と「海雲山普昭晧台寺」の寺号を下賜される
     洪泰寺が海雲山普昭晧台寺と改まる
     1665(寛文05)高一覧が自家の仏像を寄進。晧台寺の本尊とする
  長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)に博多商人初代伊東小左衛門が京都で鋳造した鐘を寄進
     1668(寛文08)唐商人何高材が黄檗様式が随所に見られる本堂を寄進
     鐘楼堂は隣の現応寺にあったもの
  今籠町に宗円寺が創建される。本尊の薬師如来は人々の尊崇をうける
     のち寺は衰微し廃寺同様に
     1679(延宝07)」今籠町の廃絶しようとしていた宗円寺を晧台寺第5代住持の逆流が晧台寺の末寺に
     妙相寺と改め再興。開山は逆流
     1706(宝永03)晧台寺第3代住持毒龍が今籠町の妙相寺を本河内郷の修験道場跡に修造移建する
  鍛冶屋町の大音寺本堂完成に際し、伝誉閑徹は仮本堂を影照院と名付け別に本尊を安置
     円廓和尚をその初代住職とする
     のち大音寺の末寺として同寺歴代住持の位牌安置所となる
     明治時代末期独立して大本山知恩院の直轄となる
  島原の乱のあと、島原、天草地方の住民が減り、幕府は農民を移住させるよう近藩、諸藩に令達する
  伊王島付近の海路をオランダ要路と唐船要路に定める
  鍋島藩が伊王島と沖之島に遠見番所を設く
  唐船34隻、蘭船5隻が入港

1643(寛永20)【後光明】 癸未(みずのとひつじ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門、山崎権八郎
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル(←08/01→)ヤン・ファン・エルセラック

  03/21〜25ルビノ神父ら8人が穴吊りの刑で殉教。ルビノは5日目に殉教【03/16《01/26》?】
  05/12バテレン5人と従者5人の一行が筑前宗像郡大島の津和瀬の浜に潜入、長崎奉行所に護送され、所持品は没収
     イスパニア人のイエズス会神父マルケス・ペドロを長とする一行。前年のルビノ隊の第2布教団
     のち江戸送りとなる。ほとんどみな棄教することに
  08/26夜、西中町より出火し町の半数を焼失、恵美須町に延焼し3分の1を焼亡
  神仏混淆の寺院として修験宥慶が願成寺を岩原郷に開創
     同年愛宕山に移転。山頂に愛宕山大権現を祀
     1868(明治01)愛宕神社
  岩原郷立山の大梅山春徳寺が境内がせまいため代官末次平蔵の喜捨によりトードス・オス・サントス教会跡地に移設
     山号を初代代官末次平蔵政直の院号から華嶽山に改める。住職は代々書物改め役に従事
     1650(慶安03)開山泰室清安が梵鐘をつくらせる
     施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入。銘は元南禅寺高大寺住三江紹益
     1686(貞享03)03/18昼、春徳寺より出火、全焼する
     飛び火し約2町離れた民家5戸を類焼。後山で誰かが揚げた火矢が原因
     のち再建する
     1699(元禄12)春徳寺の境内に崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる
  日本に潜入し長崎から江戸送りになったバテレン10人のうちイエズス会イタリア人のジュゼッペ・キヤラが棄教
     のち岡本三右衛門となのる
     のちキヤラが持参した天文書が発見され沢野忠庵に翻訳を命じる
     沢野忠庵はもとイエズス会神父クリストヴァン・フェレイラの転バテレン
     1650(慶安03)沢野忠庵はキヤラが持参した天文書を翻訳、「仮名天文鈔」として提出
  鍋島信濃守勝茂が長崎開港の海防の任にあたるため高島に遠見番所と石火矢台場(砲台)を建設
  第5回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹順之、総人数477。使命は徳川家綱の誕生祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1655(明暦01)第6回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(王編に行)、総人数485。使命は徳川家綱の将軍職就任祝い
     第6回以降は主として将軍就任の祝賀を目的に派遣
  唐船34隻、蘭船5隻が入港

1643(寛永20)頃

  潜伏キリシタンのうち最後に残ったたった1人のパードレ・マンショ小西神父が殉教

寛永年間(1624〜1644)

  寛永の20年間に長崎に創立した寺院は21か寺、神社も続々建てられ寛永末には12社を数える
  渋江刑部公師、文大夫公姿父子が大村から出来大工町に移り住む
     渋江氏は栗隈王の子孫で代々水族を治める妙法を伝える。長崎は水徳神の加護を仰ぐ人が多く各地から航海安全祈願にくる
     1652(慶安05・承応01)渋江刑部公師、文大夫公姿父子が出来大工町に水神祠を開創
     1656(明暦02)頃水神神社の社地を炉粕町に移転
     1694(元禄07)正殿、舞殿、大門が建立
     以後唐人、オランダ人からの寄付と参拝が続く
     1716(享保01)五島浦海中から引き揚げられた天后像(媽姐像、船魂神)を併祀する
     唐人の参拝がますます盛んになる
     1739(元文04)銭屋川の倉田水樋水源地近くの八幡町に移転
     1804(文化01)長崎在住の唐人たちが天后聖母の神像(媽姐像)を新たに寄進する
     1913(大正02)12/12中川郷の低部水源地構内に移転
     1919(大正08)12/07本殿の上棟式が行なわれる
     1920(大正09)本河内に正式に遷宮する
  金屋町に魚類集散場(魚市場)ができる
     人口増加とともに水産物の消費も並行し増える
      急激な人口増に高台での荷捌きが追いつかなくなる
      1632(寛永09)中島川の護岸工事が完成し海陸物流の接点が整備
      慶安以降(1648〜)は漁船の接岸可能な場所が選ばれる
     この時代、長崎に水揚げされた魚介類の大部分は地元消費
     慶安年間(1648〜1652)今魚町に移転
     1664(寛文04)材木町(賑町)の本通りに移る。魚類の集散や加工が行なわれ中国との海産物取引がはじまる
     1830(天保01)近くの中島川河岸に移す
     問屋、漁業者の勢力争いは魚行商人まで巻き込み、得意客の争奪戦さえ引き起こす事態に
     1914(大正03)尾上町海岸沿いが水産物の集散場となる
  浦上の中心的存在のジワンノ・ジワンナ・ミゲル親子が見せしめに捕らえられ火あぶりに
     のち浦上の村民は3人の亡骸を葬りベアトス様と呼び殉教者として崇める
  キリスト教鎮圧のため銭座(馬込)に松月庵が創建
     1868(明治01)銭座(馬込)天満宮に
  西洋アジアからオランダ船によってイチジク(無花果)がもたらされる
     西南洋の種を得て長崎に植え全国に広まる
  ポルトガル人によりもたらされたジャガイモ(オランダイモ)が長崎で食用に栽培
  中島川の本古川町と本紺屋町の間に木廊橋の古川町橋(本紺屋町橋)が架かる
     1647(正保04)06/04洪水で崩落
     1661(寛文01)06/27洪水で崩落
     1679(延宝07)崇福寺の大檀越魏之●(王遍に炎)が石橋に改める
     1721(享保06)閏07/28大洪水で少なくとも被害は受ける
     1795(寛政07)07/19洪水で崩落
     1796(寛政08)05/26洪水で仮橋が崩落
     1803(享和03)07/24銀12貫目の公費で再架
     1912(明治45)02/03長8間7合5勺、幅2間6合の鉄筋コンクリート橋に改築、常盤橋に改名
  佐賀藩が支藩の諌早藩に領地を貸すよう(実際は取り上げ)難題を持ちかける
     諫早領内14村を借地
     14村は栄田・西長田・福田・大渡野・永昌・真崎・貝津・小船越・平山・土師野尾・栗面・小川・川床・有喜
     さらに永昌に佐賀代官所を設置し村には役人を派遣。14村をお蔵入地と呼ばれるようになる
     断りきれなかった諫早藩の生活は苦しくなる
  アビラ・ヒロンの「日本王国記」に掲載された筆写図に町建ての様子がうかがえる
     本籠町、新船大工町、本石灰町、浜ノ町、油屋町、今石灰町、本鍛冶屋町、榎津町、
     古川町、新籠町、皮田町、歌舞伎町、新歌舞伎町、銀屋町、新銀屋町、磨屋町、
     諏訪町、毛皮屋町、新紺屋町、本紙屋町、新紙屋町、新高麗町、新大工町、馬町、
     大井出町、ろかす町、新御座町、本御座町、勝山町、今博多町、寄合町、桶屋町、
     今紺屋町、本大工町、魚屋町、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町、八百屋町、上町、
     東中町、西中町、筑後町、外下町、築出町、浦築出町、太夫町
  島原城主松倉豊後守が西浜町と東築町の間に木橋の豊後橋を架ける
     1672(寛文12)12/博多屋清右衛門らの世話で木橋を架け替え、長久橋と改称
     1682(天和02)03/24〜26大雨で流出
     のち数回洪水のため流失、再建する
     1804(文化01)05/13大雨洪水で流出
     1805(文化02)再び架かる
     1885(明治18)港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事で姿を消す
     1888(明治21)中島川に築町〜西浜町を結び木鉄混交のポニー型プラットトラス橋の長久橋を新しく架設場所を変更し建設
     橋長90尺(27.27米)、幅員18尺(5.45米)
     死荷重1尺毎800封度(1197.62kg/m)、活荷重1平方尺80英斤(395.26kg/m2)
     1889(明治22)中島川の変流に伴い木鉄混交橋に架け替えられる
     1899(明治32)鉄橋に架け替える
     橋長70尺(21.21米)、幅員18尺(5.45米)
     1902(明治35)05/22西側半分が墜落
     1903(明治36)03/改めてプラットトラス式に架け替える
     1930(昭和05)鉄筋コンクリート造に架け替え
     1967(昭和42)拡張架替工事が完工
     コンクリート造、長さ28米、幅員22米に
  榎津町と材木町の間に木廊橋が架かる
     1666(寛文06)榎津町と材木町に架かる木廊橋の榎津橋を唐商の何高材が石橋に改める
     1721(享保06)閏07/28大洪水では無事
     1795(寛政07)07/19大洪水で崩流
     1796(寛政08)05/26大洪水で崩流
     1799(寛政11)11/15銀12貫目の公費で石橋再架
     1901(明治34)06/石橋を鉄製のフラットトラス構造に改め賑橋に改名
     材木町(木)と榎津町(木)が合う。「二木合う」橋=賑橋
     橋長9間半(17.1米)、幅3間3合(5.94米)
     1928(昭和03)05/鉄筋コンクリート造りに架け替え拡幅
  岩原川の船津町〜恵美酒町に木橋が架かる
     1717(享保02)木橋の本新橋が石橋に架け替える
     1915(大正04)鉄筋コンクリート石橋となる
  今籠町に宗円寺が建つ
     1679(延宝07)廃絶しようとしていた宗円寺を晧台寺第5代住持の逆流が晧台寺の末寺に
     妙相寺と改め再興
     1706(宝永03)晧台寺第●代住持毒龍が今籠町の妙相寺を本河内郷の修験道場跡に修造移建する
  長崎の西坂刑場で262人のキリシタンが処刑される

1644(寛永21、正保01)【後光明】 甲申(きのえさる)

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