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〈大正時代(2)〉

1916(大正05)【大正】 丙辰(ひのえたつ)

  《総理大臣》[第17代]第2次大隈重信内閣(→10/09)、[第18代]寺内正毅(10/09→)
  《知事》[第17代(官選)]李家隆介
  《市長》[第7代]高崎行一

  02/28三菱長崎造船、市内船津町に三菱病院支局を新築
  03/31地洋丸(東洋汽船)がニラより香港に向け航海中、担杆(タンカン)島北東端で座礁、のちに解体
  03/村木汽船部が長崎〜野母に旅客定期の航路を開始
  03/それまで興善町にあった三菱病院の仮支局が、市役所の下あたり、船津町に煉瓦造3階建の三菱病院支局として移転完成
     1942(昭和17)08/船津町支局を船津町分院と改称
     1945(昭和20)08/09夕刻、金屋町方面より燃え下ってきた火により延焼。夜にかけて炎上
     のち焼け残った外壁は、その後修理され、戦後一時、「長崎日日新聞」が使用
     1946(昭和21)12/09には、この地で「長崎日日新聞」復刊第1号を発行
  春/機船共同組合にて天興丸が就航。佐世保、西彼杵半島北部にて。発起人は原田喜十
     同年第2天興丸就航
     1919(大正08)民営同業者航路を畑下の田崎重郎を中心として開始
     ○畑丸(18瓲、10節、66人乗)就航
     ○第2東浦丸(21瓲、71人乗)佐世保,俵浦,寄船
     ○大八丸(16.23瓲、8節、26人乗)就航
     1926(大正15)03/第2天興丸が遭難。死者18人、船長・辻脇甚太郎
     1928(昭和03)西海町営船として瀬川村一円の組織となる
  04/01麹屋町の玉木女学校が伊勢町に移転
     1921(大正10)10/15愛宕町に移転
  04/01九州汽船「若津丸」が五島沖で沈没、死者112人
  04/22原敬が来崎
     04/23港務部のランチで港内を巡視、立神で建造中の戦艦「日向」を視察
     午後、長崎劇場で開催の政友会長崎支部臨時総会に出席
  04/長崎電灯瓦斯株式会社が九州電灯鉄道会社に合併される
     八千代町に瓦斯製造工場を置き、副産物としてコールタール、コークスを製造
     1922(大正11)05/九州電灯鉄道会社と名古屋市の関西電気株式会社の合併
     東邦電力株式会社が創設。本社を東京に置く資本金1億3千万の大会社に
  05/01雲仙に九州ホテルが開業
  05/15本石灰町34番地の寄席「満知多座」が「三七三座」に改称
     1919(大正08)05/03「南座」に改称
  10/「長崎くんち」(2)…寄合町(本踊・段尻)、榎津町(川船)、西古川町(角力踊)、
     本紙屋町(本踊)、新大工町(剣舞・曳段尻)、磨屋町(本踊)、新橋町(本踊)、
     玉江町(本踊)、大村町(本踊・段尻)、本五島町(本踊)、今町(本踊)、金屋町(獅子踊)
     *駕輿町…立山、木場、岩原
  11/09午前2時3分頃、東京日日新聞の記者・神近市子(26)が社会主義者の大杉栄(32)を刺傷
     場所は相州三浦郡葉山村の日蔭茶屋
     長さ8寸あまりの短刀をもって左頸部にひと突きついてえぐり、深さ2寸の重傷をおわせる。日蔭茶屋事件
      大杉は1906(明治39)、大杉は堀保子と結婚
      1915(大正04)、神近市子と炎のように燃え
      1915(大正04)2月、辻潤の妻伊藤野枝と恋愛関係に
      その複雑な女性関係を新聞でなじられ騒がれることに
      事件の発端は伊藤野枝、神近市子、堀保子(大杉の内妻)の大杉に対する多角的恋愛のもつれ
     11/06午後2時頃、大杉は2月頃から恋仲の伊藤野枝を引き連れ日蔭茶屋に投宿
     11/07午後4時頃、神近が茶屋を訪ねる。神近は女中より大杉に婦人の同伴者があると聞く
      不快な面持ちながら案内される
      伊藤は神近の存在を知るとその場をはずす
      午後9時、伊藤は逗子発の汽車で東京へ帰ると装い、途中、鎌倉で引き返す
      その夜は、3人枕をならべて寝る
     11/08伊藤は午前7時逗子発の汽車で帰京
     のち大杉と神近は変わった様子もなく過ごす
     11/09午前2時3分頃、神近が狂気に及ぶ
      神近は雨中をはだしで葉山派出所に自首
  11/18岩原川の五島町〜大黒町にセメントコンクリート柱板橋の岩原橋を架ける
  12/15東京御徒町の旅館で強盗傷害事件が発生。犯人を警察犬スター号(ハルクイングレート種)が追跡する
     スター号が事件発生4時間を経過して居場所を突き止める
  12/27長崎電鉄が千馬町〜大浦[第2期線]に路線を延長
     第1期線に続き埋立地の県道など、ほぼ平坦な既設路面であり工事も比較的平易に進む
  12/27長崎電鉄が千馬町〜大浦に路線を延長。同時に鉄製トラス橋の出師橋に単線軌道を敷設
     1958(昭和33)09/出島地区土地区画整理事業により銅座川が付け替え。姿を消す
  雷が丘(現東小島町)の高島秋帆旧宅で営業した料亭「宝亭」が廃業
     1917(大正06)瓜生タツが旧「宝亭」の一部を借りて待合「辰巳」を営業
  大浦の沢山商会が4ダース入り93箱を英国に輸出。次第に産業としての地位を固めていく
  土井の首に長崎陶器株式会社が創業
     南洋、ブラジル方面へ輸出するゴム碗、コーヒー茶碗などを製造
     1931(昭和06)02/磁器タイル製造所として継承
  大波止桟橋脇に橋本商店の洋風建築物が建つ。これより橋本商会と改称
  旧長崎病院跡地(大徳寺跡)を橋本辰二郎が払い受く
  郷土先見紀功碑が長崎公園内の東照宮神社下に建立
     長崎の発展に功績のあった日本人79人と外国人22人(中国人12、西洋人10)の名前が刻まれる
     長崎市小学校職員会が発起、市内有志者の賛助による
     戦後長崎公園内、別の場所に移される
  東京菓子製菓(株)が設立される
     1924(大正13)大竹製菓と東京菓子製菓が合併。社名を明治製菓(株)に改称
  ザボンの害虫が大発生し長崎市内のザボンの木を伐採
  長崎電鉄が車両製作のため茂里町車庫内に工場を建設
     外注で2千円以上した車両が1400円で造られ、出来栄えが評判になり他社からの注文が入る
     1917(大正06)07/富山電鉄2両、12/四国水力電気(高松琴平電鉄)4両、
     1918(大正07)01/土佐電鉄5両を新造
     1924(大正13)01/13自社での車両製造を終了
     1921(大正10)05/23茂里町車庫から火災が発生
     車両19両、散水車1両、組立中の台車4両、車両工場建物延べ330坪。付近の建物7楝22戸を焼失
     九州電灯鉄道から3両を借用。8か月後に返還したが借車料に8149円58銭を払う(新車1両分に匹敵)
     1937(昭和12)05/螢茶屋車庫の竣工により解体、廃止に
  株式会社十八銀行の松田銀行部(十八銀行ウラジオストク支店)が朝鮮銀行に譲渡
     第一次世界大戦に伴うルーブルの下落に災いされたため
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
     1924(大正13)株式会社十八銀行の東京支店が開設
  雲仙の一乗院釈迦堂の再建工事が完成し開眼式が行なわれる
  千々石〜雲仙間に自動車道路が完成
  長崎市大浦上田町にコレラ患者総数454、うち死亡266(死亡率58.9%)

1917(大正06)【大正】 丁巳(ひのとみ)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅
  《知事》[第17代(官選)]李家隆介(→01/17)、[第18代(官選)]島田剛太郎(01/17→)
  《市長》[第7代]高崎行一(→12/24)

  03/01長崎市中川町にコレラ患者発生
  03/08首都ペトログラードで約8万人の労働者がストライキを行ない、「パンをよこせ」「戦争反対」を掲げ大規模なデモが行なわれる
     03/09ストライキに参加する労働者の数は約15万人に。デモのスローガンには「専制打倒」も現われる
     03/10ストライキは全市をおおい、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超える
     03/12首都の軍隊の多くが革命側につき政治犯を釈放、政府の要人が続々と逮捕
     わずか1週間で首都は完全に労働者と反乱軍によって占拠される
     労働者、兵士は1905年の第一革命の例にならいソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成
     ときに皇帝ニコライ2世は革命勃発時、前線の大本営に
     03/12事態の深刻さを認識したニコライ2世は軍に首都進撃の命令を下したが遅く
     03/15ニコライ2世は退位勧告を受け入れて弟のミハイルに譲位。翌日、ミハイルは辞退
     300年続いたロマノフ朝は崩壊。三月革命
     三月革命後旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦に
     十一月革命後ニコライ2世は監禁、内戦中に家族とともに革命派によって処刑される
     10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
  03/10長崎三菱兵器製作所が設立
     我が国最初で唯一の民間魚雷製作所
     1918(大正07)04/茂里町に工場が完成。西彼杵郡長与町堂崎に発射場を設ける
     1918(大正07)04/17製作魚雷第1号の発射実験を行なう
     茂里町工場は敷地約4万2900平方米(1万3千坪)に建物施設は約2万6400平方米(8千坪)
     事務所、試験場は鉄筋コンクリート造、工作部各工場の大部分は鉄骨、鉄板張り
     1939(昭和14)11/国際情勢の緊迫化にともない海軍の要請で大橋町に新工場を着工
     1944(昭和19)規模を次第に拡張し、大橋工場がほぼ完成
     工場敷地約19万8千平方米(6万坪)に配置された建物施設は7万5900平方米(2万3千坪)
     1945(昭和20)長崎三菱兵器製作所の拡張工事が完成。全部で20楝余
     土地7万5千坪、建物4万1794坪、機械設備3435台、従業員1万5千人に
     一部鉄筋コンクリート造の他は大部分が鉄骨、鉄板張りの建物で、本部事務所と食堂は木造建築り
     大橋工場では飛行機用91式魚雷、茂里工場では艦船用95式魚雷の製作が主
     91式魚雷は太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃、マレー沖海戦で使用
     91式魚雷7343個、95式魚雷2699個を海軍に納める
     1945(昭和20)08/09原爆により「大橋工場」の建物は全て倒壊
     鉄筋コンクリートの研究室は空洞化し、鉄骨、鉄板張りの各工場は木端微塵に破壊
     外皮をはがされた鉄骨が飴のように折れ曲がり、折れ重なって無惨な残骸をさらす
     本部と食堂の木造2楝は倒壊ののち、すぐに火災で焼失
     「茂里工場」の屋根のスレートと周囲の鉄板は四方に飛び散り、鉄骨は幾重にも曲がり、押し潰されて倒壊
     鉄筋コンクリートの建物は外壁を残し窓枠と内部の造作、器物は破損
     試験場2階から出火し建物1棟が焼けるが、機械工場の一部がかろうじて残る
     他に九州各県から動員された学徒報国隊、女子挺身隊用の7か所の寮と4か所の学校疎開工場が全壊、全焼
     2工場あわせての死者は職員335人、工員1358人、生徒580人
     負傷者は職員361人、工員4260人、生徒1058人
     1945(昭和20)11/15長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖
     1946(昭和21)10/15残存者の強い要請で「長崎精機製作所」として再建
     民需品の生産を始める
     1951(昭和26)07/三菱関連各社に吸収され工場は閉鎖
     1956(昭和31)技術を引き継いだ三菱長崎造船所が防衛庁の注文で54式魚雷を生産
     1956(昭和31)01/21西彼杵郡長与町堂崎の施設で航海発車試験を行なう
  03/15ロシア3月革命。ニコライ2世が退位を勧告されロシアのロマノフ王朝が滅亡(2月革命)
     11/07ロシア11月革命。軍事革命委員会が武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧する
     ソビエト政権が成立(10月革命)
  04/27東京遷都50周年を記念して読売新聞主催の「東海道五十三次駅伝徒歩競走」が開催される
     京都の三条大橋を午後2時にスタート。東京までの23区間距離は約508粁
     駅伝の名は東海道五十三次の駅舎にちなんで名づけられる
     東日本出身選手と西日本出身選手の東西対抗戦
     04/29午前11時34分、東軍のアンカー金栗四三選手がゴール地点の東京上野・不忍池の博覧会正面玄関へ到着
  05/10田代正が長崎医専校長を辞任
     大正07(1918)01/30長崎県・市医師会長の田代正が死去、享年59歳
     02/05葬儀を皓台寺にて行なう
  05/東京で第3回極東オリンピック大会が開かれる。日本初の国際競技大会
  05/南有馬生まれの七条達馬が雲仙の新湯に九州ホテルを開業
     七条達馬はシャンハイ航路の船に乗り込んで料理の修行を積む。自ら洋食コック長を兼ねて開業
     洋式ホテルで上海、香港から訪れるイギリス人、ロシア人がほとんどで、夏場だけの営業
     1943(昭和18)日本海軍の保養施設として接収さる
     戦後日本軍の接収が終わる
     のちアメリカ軍の保養地として接収される
     支配人の七條達夫はホテルに常駐している米軍将校と日本人従業員の間にあって、何かと神経を使う日々を過ごす
     のちアメリカ軍の保養地として接収が終わる
     1950(昭和25)ホテルの内部改装工事、一部新築工事に着手
     1974(昭和49)1950(昭和25)に着工した内部改装工事、一部新築工事の全館の工事が終了
     改装工事は、日本人客に敬遠される洋風ホテルから、和室の旅館へ転換し集客力を上げるため
  06/01大波止〜戸町に大人7銭の運航を開始
  06/04長崎電鉄が大浦〜出雲町[第2期線]に路線(1086米)を延長
     第1期線に続き埋立地の県道など、ほぼ平坦な既設路面であり工事も比較的平易に進む
  06/07新村出が京都帝大教授として来崎。県立図書館で講演会を開き、翌日は長崎を堪能
     1955(昭和30)05/25新村出が編著者として携わる「広辞苑」の初版が発行
  06/29新大工町の「長崎劇場(旧舞鶴座)」を三菱が買収し中島会館となる
     1989(平成01)中島会館がトレディアホテル中島に名称を変更
  06/金の輸出が禁止となる
     1930(昭和05)01/金の輸出が解禁となり実施(金本位制に復活)
     1931(昭和06)12/金の輸出が再禁止となる
  07/09東京YMCAに初の室内温水プールができる
     水質の維持のため水着の着用は禁止され、全裸で泳ぐように指導される
  07/27大逆事件で起訴された岡本頴一郎(38)が長崎監獄で病死
     大阪平民社の運動に参加していた岡本は大石誠之助から東京の土産話として幸徳秋水の空想革命談を聞く
     幸徳秋水の空想革命談を聞いたことを理由にされて大逆事件に連座
     1911(明治44)死刑判決。特赦で無期懲役となる
  09/27栃木県の渡辺はま(23)が日本の女性としては初めて警視庁の自動車試験に合格し運転免許を取得する
  10/02平戸小屋に朝日尋常小学校が開校
  10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
     10/23党中央委員会でレーニンの主張する武装蜂起の方針が決定される
     10/26ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11/06に決行
     11/06早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じる
     蜂起を煽動したとしてボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃
     対してボリシェヴィキはレーニン・トロッキー指導のもとで武装蜂起
     夜半までに駅、郵便局、電信局、国立銀行など首都の主要な拠点をほとんど抵抗を受けることなく占拠
     11/07午前10時、臨時政府が打倒したことでペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は権力を掌握したと宣言する
     11/07午後9時、臨時政府の閣僚たちがこもる冬宮への攻撃が始まる
     11/08午前2時、冬宮を占領し全閣僚が逮捕される。ケレンスキー首相は脱出
     冬宮を攻撃する砲声がとどろく中、第2回全ロシア=ソヴィエト大会が開かれる
     大会の代議員650人のうちボリシェヴィキは390人を占める
     メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難し退場、新政権の成立が宣言され「平和に関する布告」「土地に関する布告」が採択
     人民委員会議(ソヴィエト政府)の議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出される
     1922(大正11)12/30ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
  10/25県下の伝染病患者(初発〜)赤痢326、腸チフス428
  10/「長崎くんち」(3)…丸山町(本踊)、油屋町(本踊)、下筑後町(獅子踊)、
     今籠町(本踊)、鍛冶屋町(本踊・段尻)、西中町(川船)、東中町(剣舞)、
     豊後町(本踊)、本下町(本踊)、外浦町(本踊)、萬歳町(本踊)
     *駕輿町…十善寺郷
  11/01三菱造船株式会社が設立し「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
     1934(昭和09)04/11三菱重工業株式会社が設立し「三菱重工業株式会社長崎造船所」と改称
  11/07ロシア11月革命。軍事革命委員会が武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧する
     ソビエト政権が成立(10月革命)
  12/01日就社の商号が読売新聞社に改称
     1942(昭和17)08/05読売新聞社が戦時下行われた新聞統合により報知新聞社の「報知新聞」を合併
     「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題される
  12/長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授石田昇がアメリカへ留学
     文部省留学生として2年間の予定でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ。春洋丸にて渡る
     当初は、それまでの呉門下生同様ドイツに留学予定。第一次世界大戦のため渡航できず、アメリカに変更される
     のち留学中に自らが精神を病む。妄想に犯されるようになる
     のち米国はボルチモアにある J.Hopkins大学 A.Meyer 教授のもとに留学して研究中に精神病を発病
     1918(大正07)12/21石田が被害妄想により見学先の病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役する
  12/18午後05時05分、斎藤茂吉が東京発の最大特急で長崎駅到着
     斎藤は長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授石田昇の後任として第2代教授に任ぜられる
     長崎に赴任、精神病学と法医学を講じる
     1917(大正06)12/19長崎医専に出勤、尾中守三校長の訓辞を受け、付属病院(長崎県立病院)部長室へ
     1917(大正06)12/22県立長崎病院精神科部長の嘱託を受ける
     1918(大正07)11/25来崎の与謝野鉄幹・晶子夫妻に面会
     1919(大正08)05/07〜12来崎した芥川龍之介、菊池寛と初対面する
     1920(大正09)05/02皇太子時代の昭和天皇が長崎港に東郷平八郎らとご来艦。茂吉奉迎歌を作る
     1920(大正10)03/14一般公開による茂吉送別歌会が県立図書館で開かれる
    ※1920(大正10)03/16午後11時発の列車で長崎を離れる
  唐人屋敷内の観音堂が華僑、永記号主人・鄭永超の寄進により改築
     のち数度改修
  玉浪町に三菱兵器製作所を開設
     1946(昭和21)長崎精機製作所として再出発
  瓜生タツが雷が丘(現東小島町)の旧料亭「宝亭」(高島秋帆旧宅)の一部を借りて待合「辰巳」を営業
     1922(大正11)10/12敷地が「高嶋秋帆旧宅」として、史蹟名勝天然記念物保護法の第1回指定に選ばれる
  花火の卸・小売の商店・立岩商店が寺町に開業
     のち[1945(昭和20)08/09以前]材木町(のち賑町)に移転
  長崎高等商業学校(第3高商)に海外貿易科が設けられる
     1922(大正11)外国人の日本留学のため門戸を開く
  ロシア革命が起こり、シベリア鉄道拡張のための資材を満載したアメリカの貨物船が長崎での待機を命じられる
     乗組員は雲仙、小浜に逗留。小浜、北本町の旅館一角楼にも70余人が滞在
     まったく予定外の滞在客をうけて創業期における経営の基礎をつくる
     1934(昭和09)自家温泉のボーリングを開始
     2年半あまりの間に10本を掘り、うち2本から温泉が吹き上げる
  永井荷風が短編小説「四畳半襖の下張」を雑誌「文明」に発表
     1948(昭和23)04/28警視庁が「四畳半襖の下張」(非売品)の出版社社長を猥褻容疑で逮捕
     1972(昭和47)06/「面白半分」7月号に「四畳半襖の下張」の特集で本文掲載。発禁に
     株式会社面白半分社長の佐藤嘉尚、編集長の野坂昭如は有罪判決となる
  江平町(1丁目)にアーチ形石橋の高江橋が架かる
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で壊れる
     のち江平橋として架け替わる
  松井須磨子が歌う「今度生まれたら」(作詞は北原白秋)が発禁レコード第1号となる
     歌詞のなか「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が文部省により猥褻扱い
  白木屋呉服店が組織した日本最初の少女歌劇が幕を閉じる
     三越少年音楽隊に対抗して東京日本橋の白木屋呉服店が店舗大改築に併せて日本最初の少女歌劇を組織
     余興場と称された本店3階の劇場で歌舞、コミックオペラ、お伽歌劇などを上演
  佐世保市内と相浦を結ぶ定期乗合馬車が走りはじめる
  (初発〜12/24)県下の伝染病患者、赤痢381、腸チフス435、パラチフス122、ジフテリア189

1918(大正07)【大正】 戊午(つちのえうま)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅(→09/29)、[第19代]原敬(09/29→)
  《知事》[第18代(官選)]島田剛太郎
  《市長》[第8代]高崎行一(01/17→)

  01/01東京の交通混乱防止のため警視庁がオートバイ「インディア」「ライディングカー」を輸入。取締りをはじめる
     警視庁本部に3台、麹町、愛宕、上野の各警察署に各1台、合計6台を採用
     オートバイは車体が赤く塗られ、一般に「赤バイ」と呼ばれる
     1936(昭和11)08/01赤バイが白バイになる
  01/12北松浦郡御厨村に腸チフス発患84、上志佐村3、調川村101、星鹿村13
  01/17西彼杵郡茂木村の天然痘終息
  01/23長崎大浦のロシア人、天然痘に罹患
  01/30長崎県・市医師会長の田代正が死去、享年59歳
     02/05葬儀を皓台寺にて行なう
  03/26西彼杵郡松島村の炭鉱に腸チフス患者、初発以来18人
  03/31長崎市茂里町に天然痘患者、初発以来9人
  03/東浜町で発行していた「九州日之出新聞」が廃刊
  03/鳴瀧川に近代的な設計による御影石造りアーチ橋の中川(なかご)橋を創設
     上流のそれまでの中川橋は古橋と改称される
     国道25号の改良工事に伴う措置。橋長11.9米、幅7.5米。鳴瀧川は鳴瀧都市下水路
  春/世界的流行のスペインかぜがわが国に進入、翌年にかけて大流行、死者15万
  04/01県下各地の娼妓病院が名称を変更して県立小島病院・県立小佐世保病院・県立大村武部病院・厳原病院に
  04/20長崎市館内町在住の中国人幼児、天然痘を発症
     のち飽の浦(04/26)、竹の久保(04/28)発症以来14人
  04/30流行性脳脊髄膜炎、長崎市3人・西彼杵郡1人
     のち天然痘、南高千々石3人(05/03)、長崎大浦元町(05/08)、新地町(05/10)にも
  04/茂里町に長崎三菱兵器製作所の工場が完成。西彼杵郡長与町堂崎に発射場を設ける
     04/17製作魚雷第1号の発射実験を行なう
     茂里町工場は敷地約4万2900平方米(1万3千坪)に建物施設は約2万6400平方米(8千坪)
     事務所、試験場は鉄筋コンクリート造、工作部各工場の大部分は鉄骨、鉄板張り
     1939(昭和14)11/国際情勢の緊迫化にともない海軍の要請で大橋町に新工場を着工
  05/15(〜初発)長崎市内の天然痘患者27
  05/梅香崎町1番地に近代的な長崎郵便本局のビルが完成、開局
     それまでの赤煉瓦作りの郵便局の建物は解体
     長崎の郵便行政の中心的役割を果たす
     1970(昭和45)06/25長崎郵便局の新庁舎が恵美須町に完工落成。長崎中央郵便局に昇格
     九州で4番目の中央郵便局、鉄筋コンクリート造地下1階・地上4階、総工費3億9140万円
  05/軍神・橘中佐の銅像が北村西望氏により建造が着手
     1919(大正08)02/竣工、除幕式が行われる
     像の高さは3米30糎。千々石町南船津上山の天然石に安置
     1919(大正08)02/長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を「橘湾」と命名するよう正式に申請
     海軍水路部により地図上に記載
  06/01日本で初めてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125が演奏される
     徳島県板東町の板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜により全曲演奏がされる
     1924(大正13)01/26九州帝国大学の学生オーケストラ「フィルハーモニー会」が第9の第4楽章を演奏
     摂政宮の御成婚祝いに開いた「奉祝音楽会」の席上で
     ただ、歌われた歌詞はドイツ語でも日本語の訳詞でもなく
     文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を第9のメロディにアレンジしたもの
  06/05市内小学校でトラホーム検診
     興善小323、仁田小313、南大浦小304、磨屋小183、小島小151、新町小151がトラホームと判明
  06/09長崎・戸町の遊郭で娼婦15人が流感
  06/12片淵の高商寮内で流感80人
  06/天然痘の発生が相次ぐ
     市内目覚町(06/22)、梅香崎・入江町(06/23)、発生以来48人
     06/30更に女神沖に停泊中の「天洋丸」にも患者4人発見される
     警察署別には
      長崎所部内:(〜初発)赤痢4、疫痢6、腸チフス25、ジフテリア13、猖紅熱2、痘瘡18、流行性脳脊髄膜炎10
      梅香崎署部内:赤痢2、疫痢6、腸チフス5、ジフテリア41、天然痘27、流行性脊髄膜炎5
  夏/秋/)長崎新地町に天然痘
  07/01近代児童文学の成立期に主導的な役割を果たした児童文芸誌「赤い鳥」が創刊される
     主宰は鈴木三重吉。発行は赤い鳥社
     1923(大正12)09/01関東大震災により10月号が全焼
     のち1923(大正12)の12月号が雑誌組合の協定により休刊
     のち1929(昭和04)から1931(昭和06)まで休刊
     1936(昭和11)08/同年06/27に鈴木三重吉が肺臓ガンで死去したため終刊
     10/「赤い鳥鈴木三重吉追悼号」が刊行される
     【1936(昭和11)のみ記載】
  07/ジャパンツーリストビューロー(JTB)の夏期温泉出張所が県雲仙公園事務所内に開設される
  08/02伝染病が猖獗を極める中、日本軍がシベリア出兵
  08/03富山県で米騒動が起こり怱ち全国に波及
  08/18長崎医専の林、磯部、菅沼、大西の4教授がフィラリア症研究で五島へ出張
  08/29生駒鋼索鉄道が鳥居前駅〜宝山寺駅間を開業。日本初のケーブルカー
     宝山寺への参拝客を見込んでの開業
  08/31夕方。子連れの竹久夢二が銅座の富豪永見徳三郎宅の客になる
     10日ほど滞在しオランダ屋敷、丸山、眼鏡橋など長崎の異国的雰囲気や幻想美に肌でふれる
     代表作「長崎十二景」のイメージのもとになる
  09/05伝染病の発生状況、県下で赤痢146(真性80・疑似66)、(01/〜09/02現在)累計真性171・疑似214、計385
  09/10長崎・飽の浦で赤痢が発生
  09/21南高来郡千々石で天症痘2人
  09/26東洋日の出新聞に「細民部落調査結果」の見出し
     部落数39、戸数577、人口男1417、女1394。部落外に居住する者573、納税戸数525、1戸あたり3円80銭
     中等教育以上の教育を受ける者15、公民権を有するもの156
     1921(大正10)04/13東洋日の出新聞に「細民部落改善方法」の見出し
     部落数505、人口2万2519。出稼ぎ、移住の奨励、貯金組合の設置、人材養成、懇談会の方針
     浦上町では青年団、処女団の設置、道路、下水道の改良、補習教育奨励
  09/東京相撲の長崎巡業の折り長崎在住の齊藤茂吉が同郷山形県出身の出羽嶽を行きつけの四海樓に招く
     ちゃんぽんをご馳走する
  09/悟真寺墓地の門と煉瓦塀がオランダ政府によって設置
     1945(昭和20)08/09原爆で悟真寺の本堂が倒壊
  10/上スペイン風邪が長崎市内でも猛威を奮う。
  10/26スペインかぜ、西彼杵郡福田村で患者140余、長崎女子師範学校でも50余、初発以来70〜80
  10/29スペインかぜも長崎市内で死亡者182(〜11/14)
  10/「長崎くんち」(4)…寄合町(本踊)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、
     東上町(剣舞)、馬町(本踊)、大黒町(浮立)、八坂町(川船)、
     東浜町(本踊・段尻)、東古川町(川船)、本古川町(軍艦)、銅座町(本踊)
     *駕輿町…小島郷
  10/31スペイン風邪により小学校全校が一斉に臨時休校。10/29〜11/14の死者182
  10/佐世保の栄町に百貨店「田中丸商店」が設立
     1931(昭和06)商号を「玉屋」と改称
  11/11ドイツが連合国と休戦協定を調印。第一次世界大戦が終わる
  11/飽の浦町に三菱病院ができる
  12/21長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授・石田昇が被害妄想により留学先のアメリカの病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役する
     1925(大正14)病状悪化のため日本に送還される。かつて勤めていた松沢病院(旧巣鴨病院)に入院
  12/31東洋日の出新聞が報道(11/21付調査)悪性感冒、初発以来、長崎市1万6086、佐世保市9797
     西彼杵郡3万8150、南松浦郡9806、壱岐郡1131、上・下県郡2172
     (10/20〜12/31)県下のスペインかぜ患者数27万2331、死亡は2730に
  海星学園の2階校舎のうえに1階積み足し3階建に
     1948(昭和23)学制改革により新制の中学校、高等学校に
  島根県生で新劇指導者、文学者の島村抱月が来崎。妙行寺で講演をする
  大阪商船の長崎〜大連の航路が第一次世界大戦による船舶不足、従来から利用が少ないため廃止
     1924(大正13)朝鮮郵船、大阪商船により復活就航
  田平に田平教会(瀬戸山教会)が完成
     教会建築の第1人者の鉄川与助の設計では最後の煉瓦造教会
     張り出した特徴的な3層の高い塔屋を持つ。平屋で479平方米
     第1層が玄関部、第2層に3連アーチの縦長窓、第3層が鉄川与助独特の十字架を頂く八角ドームを載せた鐘塔
  草野千代次郎が小浜で旅館さぬきやを創業
     それまでは製米・製粉・黒砂糖の製造を営み栄える讃岐屋
     1961(昭和36)千代次郎の死後、息子の久男が引き継ぐ
     久男は1918(大正07)生まれ、長崎逓信講習所をでて小浜郵便局に勤め、戦後は小浜町役場に勤める
     1968(昭和43)全館改装する
  与謝野寛(鉄幹)が妻晶子と来崎、長崎港を「ナポリを見たる目にも美し」と詠む
  スペイン風邪が大流行。平坂茂市が考案した「ヘデクパウダー」はその効果で大評判となる
     1931(昭和06)頃長崎市袋町に本社ビルが完成
     地上3階・地下1階、エレベーター・水洗トイレ完備。地下には自社印刷工場 を設備
  森永がチョコレートを国内で初めて製造
  倉場富三郎が画家を雇い描かせた魚類図譜のほとんどが完成
     558種の魚を写生した700枚の図譜と貝類と鯨の図譜の計823枚からなる
     1943(昭和18)05/04妻ワカが69才で死去
     遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
  政府は国会に初年度予算を計上
     翌8年から10か年継続事業で関門トンネルを完成させることが決議
     のち第1次世界大戦勃発、物価高騰。戦後も物価高
     1923(大正12)関東大震災が発生し国の予算は復旧費が最優先に
  宝塚少女歌劇養成会が文部省認可の私立宝塚音楽歌劇学校として設立される
     1939(昭和14)12/宝塚音楽舞踊学校と改称
  西尾正左衛門の発明した棕櫚製の亀の子束子(たわし)の特許侵害者があとを絶たず
     新聞や婦人雑誌に広告をだし強くアピール
     商標の認識高揚に努め束子の包装を決断。1個10銭

1918(大正07)頃

  愛野村、千々石村、小濱村、北串山村、南串山村が5個村連盟を結成し愛濱電鉄設立構想が持ち上がる
     しかし願書を提出したが受け入れられず、千々石村が連盟を脱退
  ニンニクを福岡県より壱岐へ移入

大正時代半ば

  1892(明治25)生まれの藤田貞行が四国伊予から肥前鹿島に移る
     鹿島吉浦神社の桜花にヒントを得て、自家製のサンラィズ豆にチェリー豆と名づける。藤田チェリー豆の起こり
     のち島原を永住の地に定め、チェリー豆の製造をはじめる
     のち事業の目鼻をつけると四国から実弟の藤田安市を呼び寄せ、兄弟が協力して経営にあたる
     1932(昭和07)島原市内の中組に工場を建て店を広げ発展
     第2次世界大戦中名称を共栄製菓に変え備える
     戦後本来のチェリー豆の製造もどる
     1951(昭和26)会社組織を変更し合資会社藤田チェリー豆本舗となる
     1959(昭和34)藤田安市が死去。藤田チェリー豆が2つに割れる
     安市の長男昌之が突然、藤田チェリー豆本舗と称して高島町に独立
     藤田貞行と貞行の長男実は藤田チェリー豆総本店に社名を変える
     1965(昭和40)藤田チェリー豆総本店の新工場が●●●町に完成
     ラッキーチェリー豆うに豆、時貞羊かん、やまなみサブレを製造

1919(大正08)【大正】 己未(つちのとひつじ)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《知事》[第18代(官選)]島田剛太郎(→04/18)、[第19代(官選)]渡辺勝三郎(04/18→)
  《市長》[第8代]高崎行一

  02/191月中の流感患者1532
  02/馬場家具が創業
  02/軍神・橘中佐の銅像が竣工、除幕式が行われる
     像の高さは3米30糎。千々石町南船津上山の天然石に安置
  02/長く橘中佐の偉勲を記念して千々石灘を「橘湾」と命名するよう正式に当局に申請
     海軍水路部により地図上に記載される
     1928(昭和03)橘中佐の英霊を永遠に祀ろうと橘神社創建の活動が始まるも実働にいたらず
  03/18長崎市徴兵適齢者610うちトラホーム63、花柳病28
  03/19西彼杵郡高島村端島炭鉱に天然痘患者3人発生
  03/世知原町矢櫃免に石橋の倉渕橋が架かる
     世知原地区に残る石橋群の中で最大、県内でも単一のアーチ式石橋としては最長の橋
     2000(平成12)03/31祝橋などとともに町指定文化財に登録される
  04/01下県郡厳原村に町制が敷かれ厳原町となる
     1932(昭和07)04/01下県郡竹敷村が鶏知村に編入される
  04/03長崎市内に腸チフス患者18人
  04/10島原鉄道の傍系会社、口之津鉄道(南目軽便鉄道)が創立。社長は植木元太郎
  04/18長崎署管内の各種営業者にトラホーム検診を行なう
  04/22口之津鉄道により島原湊〜堂崎が開業。営業運転を開始
     1926(大正15)07/02堂崎〜南有馬(現原城)が延伸開業。島原湊〜南有馬(現原城)で営業運転を開始
     1928(昭和03)03/01南有馬〜加津佐が延伸開業。島原湊〜加津佐で営業運転を開始
     口之津鉄道の島原湊〜加津佐間36.2粁が全通
     1943(昭和18)07/01戦時統制により島原鉄道が口之津鉄道を吸収合併(諫早〜加津佐間78.5粁となる)
     同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
  05/01長崎三菱造船所が八八艦隊に備え浦上に長崎製鋼所を設立
     1907(明治40)の「帝国国防方針」により、海軍の国防所要兵力として八八艦隊の方針が決定
     アメリカを仮想敵国として日本海軍の健艦計画を戦艦8、巡洋艦8を主力とする方針
     1921(大正10)08/経済界の不況で長崎製鋼所が廃止に
     1921(大正10)09/長崎製鋼所を長崎三菱造船所所管に移し、長崎三菱造船所製鋼部に
  05/03本石灰町34番地の「三七三座」が「南座」に改称(旧・寄席「満知多座」)
     05/04こけら落とし興行は大阪歌舞伎の片岡仁左衛門一座。演し物は長崎ゆかりの松平長七郎など
     長七郎役の片岡我童が田上の長七郎の墓を参詣
     1942(昭和17)10/17大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「長崎宝塚劇場」となる
  05/06菊池寛芥川龍之介が来崎。途中、菊池寛は体調を崩し05/08に着く
     2人は永見徳太郎家で落ち合い、平戸蘭館、和蘭船図などを見る
     05/092人は浦上天主堂を見に行き、長崎医専の斎藤茂吉と会う。夜は丸山遊廓見物
  06/02西坂尋常小学校が開校
  06/長崎株式取引所が開業する
  07/東京高等工業学校の田中三郎ら学生4人が外国映画専門誌として「キネマ旬報」を発刊
     アート紙4ページで月に3回「1」のつく日に発行
  08/15県令により活動写真興行取締規則が設けられフィルムの検閲が行なわれる
  08/20長崎港の英国船に真性コレラの船員を発見、「筑後丸」にも保菌者
  09/01トラホーム予防法施行
  09/01福井屯ら、長崎地方では腸内寄生虫の保有者90%以上と発表
  09/11午後1時、連合国軍側に拿捕された旧ドイツ潜水艦が駆逐艦「叢雲」に引率され大分から長崎港に
     拿捕された旧ドイツ潜水艦は02号、06号の2隻
     02号は、ドイツ時代のU46号で商船15隻を沈めた戦歴の持主
     06号は、同U125号で、防潜網を破る「のこぎり状」の器具をつけた新鋭艦
     翌日一般公開されて、市民の関心を呼ぶ
  10/01西彼杵郡茂木村に町制が敷かれ茂木町となる
     1920(大正09)10/01西彼杵郡上長崎村と浦上山里村が長崎市に編入される
  10/01南松浦郡福江村(福江島)に町制が敷かれ福江町となる
     1922(大正11)09/01南松浦郡富江村(福江島)に町制が敷かれ富江町となる
  10/「長崎くんち」(5)…丸山町(本踊・段尻)、桜町(本踊)、小川町(本踊)、
     西上町(本踊・曳段尻)、八百屋町(曳段尻)、勝山町(大薩摩)、恵美須町(恵美須船)、
     紺屋町(本踊・曳段尻)、炉粕町(本踊)、伊勢町(本踊)。内中町なし
     *駕輿町…高野平郷
  11/01株式会社十八銀行が県内銀行合同の先駆けとして(株)口之津銀行を合併。資本金650万円に
     1927(昭和02)06/01長崎銀行を買収
     1929(昭和04)(株)有家銀行を買収する
     1942(昭和17)(株)諫早銀行を買収する
     1944(昭和19)(株)長崎貯蓄銀行を合併する
  11/10県下の伝染病患者、赤痢385、うち死亡74。疑似赤痢221、死亡90
     腸チフス926、死亡155。天然痘61、死亡11。ジフテリア200、死亡55
  11/15長崎商業会議所が桜町1番地に所屋を買収。大村町の旧所屋から移転
     煉瓦造2階建の長崎税務監督局の内外を改装
     1925(大正14)04/第7代会頭に松田精一が就任
  11/28市立長崎商業学校が文部省告示第266号をもって長崎商業学校と改称
     1925(大正14)06/30文部省告示第294号をもって長崎市立商業学校と校名を変更
  12/02温泉軽便鉄道(旧愛濱軽便電気鉄道)が私設鉄道免許を取得
     1920(大正09)07/06千々石村有志と愛野村有志の間で温泉軽便鉄道株式会社が設立
     社長は植木元太郎
     1923(大正12)05/05愛野村〜愛津〜水晶観音〜千々石の9.3瓩が開通
     開業時車両数は蒸気機関車2両、客車6両、貨車9両
     愛野村〜千々石の運行は、朝05時44分千々石発から夜09時02分千々石着まで1日7往復
     運賃は愛野村〜千々石28銭。汽車は2両の客車を引いて走る
     1924(大正13)05/31温泉鉄道と改称
     1927(昭和02)06/06温泉軽便鉄道の車輌が小濱地方鉄道に乗り入れ
     諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転を開始
     1933(昭和08)07/小濱地方鉄道と合併し雲仙鉄道と改称
     所要時間は小濱〜千々石〜愛野村が片道約1時間半
  12/07水神神社の本殿の上棟式が行なわれる
     1920(大正09)本河内に正式に遷宮する
  12/17長崎初の公設市場を館内町と今下町に開設
  12/25長崎電鉄が長崎駅前〜桜町に路線(789米)[第3期線]を延長
     道幅の狭い繁華街の密集地内での敷設となり工事は困難を極める
  12/資本金875万円にて壱岐交通が旅客運送事業を開始する
     のち事業の拡大を計り、島内の公共交通機関としての役割を果たす
  年末オーストリア市民権を持つジークムント・D・レスナーが営業再開を許される
     1920(大正09)02/24南山手の自邸から梅香崎の事務所に着いたレスナー(61)が急死
     原因は心臓発作。葬儀はユダヤ協会で行なわれ遺体は坂本国際墓地内ユダヤ人墓地IVに埋葬
     新聞「ナガサキ・プレス」に記事
     「知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、あらゆる国籍、業種、宗教の外国人たちが葬儀に参列した…」
  長崎商業会議所内にブラジル領事館を設置
  「長崎新聞」が憲政派同志で長崎新聞同志会社を組織。経営することになる
     1922(大正11)神戸新聞との組合経営となる
     今魚町が発行所で中川観秀や岩永八之凾が筆をふるう
  「私立長崎盲唖学校」が「長崎盲唖学校」と改称
     1924(大正13)07/12盲聾教育の組織分離。「長崎盲学校」「長崎聾唖学校」が開設
     1929(昭和04)04/01県に移管され「長崎県立盲学校」となる
  飽の浦に市内で6番目の新聖堂・飽の浦教会が建立し、中町小教区から独立
     1926(大正15)保育園親愛園が開設。長崎教区にある保育所としては最古
     1959(昭和34)戦時中の被弾や老朽化により新聖堂が落成
  榎津町に食料品、乾物、洋酒、ビールの卸小売店の西坂食料品店がオープン
     初代西坂銀之助。洋酒の輸入で全国の同業者に知られる
     第2次世界大戦中企業統合で肥塚酒店食料品部と合併、株式会社菊屋食料品店に機構をかえ食料品の配給業務を行なう
     1947(昭和22)西坂食料品店が浜町に移り再スタート
     和洋酒、食料品のほか土産品部を新たに設け、観光みやげ品の販売に力を入れる
     県内の特産品がならび、壱岐のうに、壱岐の焼酎「山の守」、長崎のからすみなど、珍味を集める
  「芝罘」より採種されたものから、やや早生で品質良好、結球率の高い「辻田ハクサイ(辻田長次郎育成)」が選抜
     長与町・田平町・松浦市を中心に広く栽培
  宝町に井上病院が開院
  中島川の新大工町〜伊良林町に鉄筋コンクリート橋の銭屋橋が架かる
     1985(昭和60)01/架け替え
  西山川の片淵町〜西山町、富貴楼前に架かる鉄筋コンクリート橋の西山橋が改築される
  東長崎の中尾川に石橋の鮎帰橋が架かる
     2001(平成13)中尾ダムの完成で水没する前に解体。橋柱だけ保存される
  西海畑下の田崎重郎を中心として民営同業者航路を開始
     ○畑丸(18瓲、10節、66人乗)就航
     ○第2東浦丸(21瓲、71人乗)佐世保、俵浦、寄船
     ○大八丸(16.23瓲、8節、26人乗)就航
     1926(大正15)03/第2天興丸が遭難。死者18人、船長・辻脇甚太郎
  初代帝国ホテルが失火から全焼する。新館の早期完成は経営上の急務に
     のち設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくはなる
     当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至り林は総支配人を引責辞任
     ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日
     1923(大正12)08/末初代帝国ホテルの隣接地に新館(ライト館)が全館落成
     鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート構造、地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
     皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積3万4千平方米余の大建築
     中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配される
     全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がされる
     鷲が翼を広げたような巨大なホテルは小部分がいくつも繋ぎ合わされた連結構造
     建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組み
     大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用、耐震防火に配慮した画期的な設計
     09/01新館落成記念披露宴の準備中に関東大震災発生
     ホテルは小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せ、ひときわ人々の目を引くことに
  新上五島町にて石造りの頭ヶ島(かしらがしま)教会が完成
  旅籠万屋が雲仙公園事務所の許可を得て八幡地獄の温泉を引き温泉旅館をスタート
  東山学院長シュファー博士が古町に弘道館を設立。伝導をはじめる
     1929(昭和04)日本基督教会聖ケ丘伝導教会になる
     1941(昭和16)日本キリスト教団長崎古町教会と改称
  八幡町に生まれた大泉黒石が「中央公論」に『俺の自叙伝』を連載。一躍文壇に名を馳せる
  (01/01〜12/30)県内の流感患者は1万1000余に

1920(大正09)【大正】 庚申(かのえさる)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《知事》[第19代(官選)]渡辺勝三郎
  《市長》[第8代]高崎行一

  01/10流感はますます猖獗、長崎市内の磨屋小・浪の平小が閉校、市内の流感による死亡者15人
     01/15勝山・興善小も閉校
  01/16(01/01〜)の死亡者101。(〜01/20)141人に
  01/22稲佐町の医師伊藤文治が流感で死去
  01/30原敬内閣総理大臣などが参列して国会議事堂の地鎮祭が挙行される
     11/07国会議事堂が落成
     鉄骨鉄筋コンクリート造。地上3階、地下1階、中央塔4階(塔屋最上部9階)
     幅206.36米、奥行き88.63米、高さ(両翼)20.91米、(中央塔)65.45米、総床面積5万3466平方米
     総工費は約2573万6000円。工事に従事した人員延べ254万人
  01/31市内の1月中死亡者378人
  02/01県下の流感患者7016人、死亡328人(〜02/07)
  02/15県内流感患者総数4万9545人、うち死亡者1551人(前年11/〜本年01/31)
  02/16海軍が打ち出した八八艦隊の一環で戦艦「土佐」が、三菱長崎造船所で起工
     「土佐」は、世界最大の戦艦「長門」型を上回る次世代の新鋭戦艦として設計された「加賀」型の2番艦
       「長門」型が全長約210米で排水量3万2720瓲なのに対し、「加賀」型の計画値は234米で3万9900瓲…
       「長門」型より主砲塔を1基増やし火力をアップ、機関を新たな設計に変え煙突の数が2本から1本に減る…
       などなど「長門」型より20%程度、巨大な戦艦になる予定
     1921(大正10)12/18参観者5万人が見守る中、「土佐」が進水
     1922(大正11)07/同年02/06の軍縮会議「ワシントン条約」により「土佐」が未完成のまま廃艦が決定
     のち海軍に引き渡され、実験標的艦として魚雷・機雷・徹甲弾等の各種射撃実験に使用、海の藻屑に
     1925(大正14)02/09豊後水道にて海没処分される
     1925(大正14)09/20除籍となる
  02/24南山手の自邸から梅香崎の事務所に着いたジークムント・D・レスナー(61)が急死
     原因は心臓発作。葬儀はユダヤ協会で行なわれ遺体は坂本国際墓地内ユダヤ人墓地IVに埋葬
     ナガサキ・プレスに記事
     「知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、あらゆる国籍、業種、宗教の外国人たちが葬儀に参列した…」
     のち墓石の上にはレスナーの胸像(国際墓地で唯一)がすえられる
  02/海運業沢山精八郎ら発起の長崎銀行が玉江町で開業。資本金500万円
     1927(昭和02)06/01十八銀行に合併
  02/西肥自動車株式会社(西肥バス)が設立。佐世保と郊外をつなぐ重要な交通機関として発展
  03/日中間交通の重要化に鑑み、艦屯数5500瓲、最強速力21節の快速客船2隻を建造して日華連絡航路の開設を決定
     のち1隻52万ポンドで英国ウィリアム・デニー造船所に注文
     1923(大正12)02/11長崎〜上海に日華連絡船「長崎丸」が就航
     1923(大正12)03/25長崎〜上海に日華連絡船「上海丸」が就航
  03/伯爵歌人の吉井勇が「五足の靴」以来の再遊。銅座の永見家に10日ほど滞在
     長崎医専教授の斎藤茂吉と毎日のように崇福寺、福済寺、浦上天主堂、大浦天主堂を見て、酔っては煙華の巷に遊ぶ
  03/長崎公設市場条例が制定されると共に、公営市場が各地に設置。市民の便宜をる
  03/株価が暴落し戦後恐慌が起こる
  03/東洋軒製パン所が鍛冶屋町に創業
     1976(昭和51)10/皿うどん・ちゃんぽん・ラーメンの製造販売を開始
     1986(昭和61)08/本社を長崎市田中町に移転
     1989(平成01)12/東洋軒製パン所が改組。株式会社東洋軒となる。資本金1000万円
     1999(平成11)04/本社を長崎県諫早市に移転
  04/02初の九州旅行中の皇太子裕仁親王殿下が東郷平八郎海軍元帥等とともに長崎港に入港
     軍艦「香取」で駆逐艦4隻を率いて来崎
     午前8時、奉迎の花火が打ち上げられる中、大波止桟橋に上陸
     その夜長崎市民は提灯行列をして歓迎
     翌日、佐世保へ向け出航
  04/02大正天皇が長崎巡幸のおり長崎図書館で植樹の際、石を踏み台に用いる
     石は力石といい、そのむかし力競べに用いられたもの
  05/01長崎イーグルホテル開業
  05/02日曜日、第1回メーデーが東京の上野公園で行なわれる。15団体1万人が参加
     治警法第17条の撤廃、恐慌による失業防止、最低賃金制設定の3項目を決議
     さらに8時間労働制、東京市電争議支援、シベリア撤兵などの緊急動議をすべて可決
  05/伊良林村の鶴鳴実科高等女学校が鶴鳴高等女学校となる
     1921(大正10)上小島町に移る
  06/11県が「コレラ予防心得」につき告論出す
  06/16長崎市尾上町前の海上に停泊中の発動機船にコレラ患者発生
     のち患者79人、その多くは発病後1〜2日で死亡、茂木村でも132人(〜08/11)
  06/16県警察部長、県医師会長へ「下痢症届出の件」で通牒
  06/パリで国際商業会議所の創立総会が開かれる
  07/06千々石村有志と愛野村有志の間で温泉軽便鉄道株式会社が設立。社長は植木元太郎
     1923(大正12)05/05愛野村〜愛津〜水晶観音〜千々石の9.3瓩が開通
  07/09長崎電鉄が桜町〜馬町の路線(631米)と病院下〜下の川の路線(356米)を延長
     ともに[第3期線]。道幅の狭い繁華街の密集地内での敷設となり工事は困難を極める
  07/09県がコレラ予防のため茂木の盆祭り、長崎の精霊流しを禁止
  07/10県下のコレラ患者245人に、西彼杵郡茂木街道に関所を設け通行を監視
  07/11茂木村のコレラ46人から100人(07/14)に増え、県下の患者総数330人(07/14)から438人(08/03)に
  07/21アララギ派の中心的指導者島木赤彦が長崎を訪れる
     長崎医学専門学校教授として滞在中の斎藤茂吉が自宅療養していた病気見舞い
     7/26島木赤彦は雲仙での転地療養をすすめ、茂吉夫妻に同道して登る
  08/24茂木村のコレラ終息
  08/対馬要塞司令部が設置
  09/長崎手形交換所が開所する
  10/01★第1回国勢調査が長崎でも実施される
     長崎市の世帯3万7039、人口17万6534(男9万0937、女8万5597)
     人口は九州第1位、全国第7位
     増加の駆動誘因は近代化への加速と第1次世界大戦による産業界の発展
     人が都市に集まり、あふれた住宅が郊外に広がる
  10/01長崎市の第2次市域拡張により西彼杵郡上長崎村と浦上山里村を市域に編入
     41.10平方粁、戸数3万3240、人口23万2912となる[1920(大正09)12/31現在]
     上長崎村・浦上山里村(推)24.00平方粁3226戸1万6830人[1919(大正08)12/31現在]
     1938(昭和13)04/01長崎市の第3次市域拡張により西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村を市域に編入
     90.54平方粁、戸数4万8270、人口26万8945となる[1938(昭和13)12/31現在]
     小榊村2.05平方粁、640戸、3741人(男1921・女1820)
     土井首村13.93平方粁、657戸、3880人(男1872・女2008)
     小ケ倉村9.78平方粁、425戸、2289人(男1135・女1154)
     西浦上村23.68平方粁、877戸、4665人(男2255・女2410)
     [拡張区域は1937(昭和12)12/31現在]
  10/01西彼杵郡上長崎村と浦上山里村の残り全域が長崎市に編入される
     1928(昭和03)06/01西彼杵郡瀬戸村に町制が敷かれ瀬戸町となる
  10/01我が国で初めての近代人口センサスとなる第1回国勢調査が実施される。大規模調査
     センサスとは人口調査、国税調査のこと
     12/19調査結果のうち、所帯数と人口が国勢調査発表として新聞に速報される
     内地人口5596万3053人、外地人口2102万5326人
     全国1位は東京市の217万3201、2位は大阪市の125万2983、3位は神戸市の60万8644、
     4位は京都市の59万1323、5位は名古屋市の42万9997、6位は横浜市の42万2938
     以下、長崎、広島、函館、呉、金沢、仙台、小樽、鹿児島、札幌、八幡、福岡、岡山、新潟、横須賀
  10/「長崎くんち」(6)…寄合町(本踊)、本大工町(本踊)、今博多町(本踊)、本紺屋町(本踊)、今魚町(川船)、
     本籠町(蛇踊)、材木町(本踊)、古町(本踊)、上筑後町(本踊)、江戸町(兵式教練)、本興善町(本踊)
     *駕輿町…本河内、伊良林、中川郷
  11/出島岸壁工事に着手
     1924(大正13)09/長さ230間の出島岸壁が完成
     浚渫の結果、水深30尺となり8千瓲級の船舶が2〜3隻同時に接岸可能となる
  12/02小濱地方鉄道が私設鉄道免許を取得
     1921(大正10)08/25小濱地方鉄道株式会社が設立
     1927(昭和02)03/10肥前小浜〜富津〜木津〜上千々石〜千々石の8粁が開通
     斜面工事、トンネルなど難工事の末の開通
     開業時車両数は蒸気機関車2両、客車3両、貨車3両
     1927(昭和02)06/06温泉軽便鉄道の車輌が諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転を開始
  12/25長崎電鉄が古町〜築町に路線(964米)[第3期線]を延長
     道幅の狭い繁華街の密集地内での敷設となり工事は困難を極める
  12/長崎市竹の久保に結核診療所新設
  本下町に松田玩具店が創業
     1927(昭和02)06/長崎警察署跡地に移転。長崎初の均一店として10銭均一の店を開く
  水神神社が本河内に正式に遷宮する
  大浦国際墓地が閉鎖後、浦上淵(竹の久保)に開設した墓地が閉鎖
     コレラや天然痘など伝染病による死者が埋葬。遺族や友人が遺体の火葬に同意すれば山里に埋葬
     伝染病墓地は166区画の墓が備えられていたが埋葬者数は少ない
     墓の閉鎖にともない11の墓が淵から山里(坂本外人墓地)に移設
     その他数人の中国人の墓は悟真寺唐人墓地に移設
     のち病院が建設(長崎成人病院)
  在崎の斎藤茂吉が吉井勇の歓迎歌会を長崎公園内の月見茶屋で催す
  小ケ倉水源地が起工
     1925(大正15)03/難工事の末に完成
     完成までの間、水不足が続き錦織幹市長は再三にわたり市民より非難を受ける
     総工費は503万8296円
  東濱町の呉服店「徳島屋」(岡政)が雑貨部を開設
     1925(大正14)食料品部を増設、岡政呉服店に
  カステラの文明堂が今町54番地に今町店を開設。料理屋金鍋すき焼店を開業
     1923(大正12)09/玉江町3丁目に大波止店を開設
  (株)長崎銀行が創業
     1927(昭和02)株式会社十八銀行に買収される
  フランス領事館が三度目の開館
  瀬崎町1丁目と宝町4丁目のあいだ丁字川に架かる玉杵名橋が鉄筋コンクリート橋となる
     戦後御舟川が埋め立てられて国道敷地となり架かる橋が姿を消す
  小佐々町西川内の県道18号線沿いに橋梁延長15.5米の西川内橋が架かる
  晧台寺副寺の柴田漢三が27代世霖玉仙の援助を受け稲佐3丁目に晧台寺稲佐説教所を開創
     対岸稲佐方面の布教教化にあたる
     1931(昭和06)稲佐公園の用地を買収し移転。現在の地となる
     1947(昭和22)大龍山泰三寺と寺号公称することに。法地寺院に昇格
     開基開山は大龍(柴田)漢三
  1893(明治26)茂木生まれの石橋道雄が築町で鮮魚商を営む
     1924(大正13)築町市場内で蒲鉾の製造販売をする石橋蒲鉾店に切り替える
     1951(昭和26)新地町に移転
  国道47号がそのまま国道33号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」となる
     施行の旧道路法に基づく路線認定による
     1952(昭和27)12/04新道路法に基づく路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武雄町 - 長崎県佐世保市)に指定
  長崎の豪商永見寛二が諏訪荘を建築
     無節の日本栂材を用い、釘を1本も使用しない大正時代を代表する日本建築となる
     1936(昭和11)「諏訪荘」の商号により、和式旅館として営業
     日本三指に数えられ、皇族をはじめ内外の著名人が多数利用
     1984(昭和59)廃業にあたり取り壊されることになる
     しかしながら保存を望む市民の熱意により諏訪神社に移築奉納される
  吉田正八[1895(明治28)有明町生まれ]が島原で吉田正八商店を創業
     漬物、味噌、醤油などの製造をはじめる
     第2次世界大戦中企業統制で島原食品有限会社を作り吉田正八が代表取締役に
     1955(昭和30)頃観光客の増加で、長年の経験からナスの三楽漬け、ナスの一口辛子漬けを発売
     有明海のわかめをもみわかめにして土産品に進出
  長田村で和歌山産のタマネギの種子を使用し生産が安定する
  「郵便報知新聞」を発行する報知社が東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した
     1930(昭和05)講談社の野間清治に買収され、販売方針を見直すなど経営努力を重ねる
  三菱造船所の国産蒸気タービンの使用が終わる
     日本初の国産陸用蒸気タービン(発電用タービン)第1号機で出力500キロワットで中央発電所用に使用
  この年県下で伝染病患者、赤痢、1052、腸チフス536、コレラ381、
     ジフテリア183、パラチフス63、流行性脳脊髄膜炎38、痘瘡19、猖紅熱3
  インフルエンザが流行して328の死者を記録
     長崎医学専門学校校長の尾長守三が流感のため死亡

1921(大正10)【大正】 辛酉(かのととり)

  《総理大臣》[第19代]原敬(→11/04)
        [原内閣]原敬の死去により外務大臣内田康哉が臨時兼任(11/04→11/13)
        [第20代]高橋是清(11/13→)
  《知事》[第19代(官選)]渡辺勝三郎(→05/27)、[第20代(官選)]赤星典太(05/27→)
  《市長》[第8代]高崎行一

  01/28上県郡豊崎村に天然痘発生
  02/01長崎商業会議所が「長崎線新線建設速成に関する建議」を内閣総理大臣、鉄道大臣宛提出
     1898(明治31)開通の在来長崎本線の長崎〜長与〜諫早の区間は、大きく迂回し
     長与〜大草間に急勾配のトンネルがあり、長時間を要するはかりでなく輸送力にも限界
     そこで喜々津から分岐し古賀、現川を経由して浦上に至る短絡路線建設の構想が持ちあがる
     のち折衝を重ねる
     1927(昭和02)新線が建設予定線に指定される
     会議所はその早期着工を訴えるが、着工の目途はまったく立たず
     戦後まで放置された状態で推移
     のち他地域との貨客の交流が活発化し、長崎本線のダイヤも過密化。在来線だけでは対応できない状況に
     鮮魚輸送の迅速化、観光客の誘致推進の面からも、浦上新線の早期実現の必要性が痛感される
     県、市、商工会議所は、政府、国会、関係方面に対し熱烈な陳情活動を再開
     1962(昭和37)05/調査線に指定を受けるに至り一歩前進をみることに
     のち県、関係市町、経済界は、早期着工を求めるため、「諫早・長崎間国鉄浦上線建設促進協議会」を結成
     より強力に建設促進運動を進める
     1966(昭和41)10/31待望の起工式にこぎつける
     1972(昭和47)10/0285億円の工費と6年の歳月を要して、喜々津〜浦上間に国鉄長崎本線新線が開通
     市布駅、肥前古賀駅、現川駅が開業
     新線の開通により在来線より6.7キロ短縮され、勾配も緩和される
     在来線と合わせて複線化されたことになり輸送力は大幅に増強され、スピードアップ
  02/22民俗学者の柳田国男が沖縄、鹿児島、熊本を経て久留米より来崎、上野屋に宿泊
     02/23夜、土俗研究講演会を行なうなど、本格的な民俗資料収集の目が長崎に向けられる
  02/銭座川の銭座町〜宝町間に鉄筋コンクリート造の目覚橋が架かる
     橋長6米、橋幅6米
     1948(昭和20)08/09原爆の爆風で橋の片方の欄干が倒壊、残った片方の欄干もひび割れ剥離し傷だらけに
  03/05築町に公設の卸市場を新設。指定商人47人を収容、野菜・果実の卸販売を始める
     1922(大正11)01/09築町が大火災に見舞われ、市場も延焼
     築町、本下町一帯で全半焼132戸の大被害に
     1924(大正13)10/01本下町に公設中央市場がオープン
     珍しい鉄筋コンクリート3階建
     階下が食料品、階上が日用品雑貨、3階が事務所その他、屋上では夏の夜など活動写真大会を無料で開催
     1930(昭和05)2階が「長崎百貨店」に
  03/061917(大正06)12/18に来崎した斎藤茂吉が午後11時発の列車で長崎を離れる
  03/31天草の天然痘が南高来郡口之津村に蔓延、長崎市大浦相生町(04/03)、
     南高口之津西有家に5人(04/15)、布津村にも3人、また大浦相生町に2人、県下では初発以来59人に
  03/仁田小学校が2階建て4教室を増設し高等科を併設
     1927(昭和02)03/創立25周年の式典を挙行。校歌を制定
  04/09上田町の南大浦尋常小学校が南大浦小学校と改称
     1935(昭和10)04/01南大浦青年学校を併置
  04/11メートル法を基本とする度量衡法の改正「メートル法度量衡法」がなされる
     尺貫法からメートル法へ国内単位の統一をはかる
     1951(昭和26)06/07度量衡法は廃止。日本国憲法の地方自治の精神を取り込んだ計量法が制定される
  04/13東洋日の出新聞に「細民部落改善方法」の見出し
     部落数505、人口2万2519。出稼ぎ、移住の奨励、貯金組合の設置、人材養成、懇談会の方針
     浦上町では青年団、処女団の設置、道路、下水道の改良、補習教育奨励
  04/30長崎電鉄が西浜町〜思案橋に路線(369米)を延長。西浜町が南北に大きく分断される
     道幅の狭い繁華街の密集地内での敷設となり工事は困難を極める
     途中に銅座町電停が開業
     1930(昭和05)04/柳通りに改称
     1953(昭和28)07/観光通りに改称
  04/30県下の伝染病、赤痢21人、うち死亡6人。腸チフス148人、うち死亡38人。パラチフス15人、うち死亡1人
     ジフテリア72人、うち死亡21人。天然痘79人、うち死亡11人(01/01〜04/30)
  04/長崎商業会議所主催による広告意匠図案展覧会が開催
  05/23長崎電鉄の茂里町車庫から火災が発生
     車両19両、散水車1両、組立中の台車4両、車両工場建物延べ330坪。付近の建物7楝22戸を焼失
     九州電灯鉄道から3両を借用。8か月後に返還したが借車料に8149円58銭を払う(新車1両分に匹敵)
     1937(昭和12)05/螢茶屋車庫の竣工により解体、廃止に
  05/29長崎市当局、最近5年間の伝染病発生状況を発表、患者総数1878人(死亡781人)
     即ち大正中期では一旦、伝染病に罹患すれば約4割が死亡、コレラに至っては半数が死亡することが判明
  05/長崎税務署が大村町から本大工町に移転
  06/長崎電鉄思案橋終点に洒落た形のモダンな洋風3階建ビルが完成。2階と3階は簡易食堂。
     1階は電車利用者のための待合室、電車ホームも建物のなかにあり、雨の日でも濡れずに電車が待てる
     ホームはコの字形で4輪車2両分の各2面、入口から見て右側ホームが螢茶屋行き、左側ホームが浦上行き
     操車場が螢茶屋行き乗り場の先端にあり、浦上行き乗り場ホームは河川上に張りだした造りとなる
  07/08イラクのバスラで世界最高気温の58.8度を記録
  07/13県下の天然痘患者、初発以来140人、死亡22人
  08/25小濱地方鉄道株式会社が設立
     1927(昭和02)03/10肥前小浜〜富津〜木津〜上千々石〜千々石の8粁が開通
     斜面工事、トンネルなど難工事の末の開通
     開業時車両数は蒸気機関車2両、客車3両、貨車3両
  08/長崎三菱造船所が八八艦隊に備え浦上に設立した長崎製鋼所が経済界の不況で廃止に
     09/長崎製鋼所を長崎三菱造船所所管に移し、長崎三菱造船所製鋼部に
  08/第1回国際テニス大会が雲仙で開催
  09/03佐世保市で疑似コレラ、一方、長崎市外小ケ倉村にコレラ9人発病、うち4人死亡
  09/05県が前年度の県下コレラ患者数363人、うち死亡203人と発表
  09/09新聞「長崎経済日報」が創刊
     発行所は銅座町。社長は朝長美景、主筆は黒木春雄
     1914(大正12)04/廃刊
  10/03小ケ倉村にコレラ患者9人発生、うち4人が死亡
  10/04為石村に赤痢も発生、初発以来213人、うち42人が死亡
     10/11下火になり、219人、うち死亡461人に落ち着く
  10/「長崎くんち」(7)…丸山町(本踊・段尻)、浦五島町(本踊)、引地町(本踊)、
     本石灰町(本踊)桶屋町(本踊)、大井手町(本踊)、船大工町(川船)、
     袋町(本踊)、酒屋町(本踊)、出来大工町(本踊)
     *駕輿町…桜馬場、夫婦川、片淵郷
  10/11(09/〜10/01)長崎県衛生課がトラホーム検診を実施
     3万1603人のうち4176人(13.2%)がトラホームであったと発表
  10/15伊勢町の玉木女学校が愛宕町に移転
     1953(昭和28)04/01玉木女子短期大学が開校
  10/20赤星典太県知事の立案により我が国初の共同募金が県社会事業協会により実施
     11/02期間14日間で37.319円3銭(うち街頭募金で2200円余)を集める
     配給金総額は15764円は淳心園、大善婦人会幼児保育園、長崎孤児院、長崎盲唖学校、
     長崎開成学園、長崎キリスト教青年会社会事業部、長崎啓成会、長崎市方面委員(12方面)、
     長崎県社会事業協会の9社会事業団体に配給
     募金に応じた人には造花の徽章(バッジ)が贈られた
     大規模な募金の最初で好成績を上げたが惜しくも1回限りで終わる
  10/30東京市京橋区木挽町の歌舞伎座が漏電により焼失
     1923(大正12)09/01再建工事中に関東大震災に見舞われる
  10/人口増加にともない竹の久保の紅葉谷に市営の火葬場を設置。工費4万6173円
  10/長崎重砲大隊(佐世保より佐世保要塞砲兵連隊の1個大隊)が下関、和歌山等に移転
     1923(大正11)04/長崎重砲大隊の木造2階建兵舎を仮校舎として県立瓊浦中学校が新設
  11/01北松浦郡志佐村に町制が敷かれ志佐町となる
     1925(大正14)04/01北松浦郡平戸村と平戸町が合併し平戸町となる
  11/04内閣総理大臣の原敬が関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後、刺殺され即死。満65歳没
     突き刺したのは鉄道省大塚駅転轍手の右翼青年中岡艮一
     短刀を右胸に突き刺された原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受ける
     傷は原の右肺から心臓に達し、ほぼ即死状態
  11/長崎市聖徳寺において「解剖千体祭」が行なわれる
     1888(明治21)〜1921(大正10)に1千体の解屍が行なわれたことによる
  12/18三菱長崎造船所で参観者5万人が見守る中、八八艦隊の1隻、戦艦「土佐」が進水
     1922(大正11)07/同年02/06の軍縮会議「ワシントン条約」で「土佐」は未完成のまま廃艦に決定
  12/19海軍が打ち出した八八艦隊の一環で巡洋艦「高雄(4万1千瓲)」が、三菱長崎造船所で起工
     1922(大正11)02/06軍縮会議「ワシントン条約」が調印され建造中止命令が下される
  12/組織改革を行い橋本商店を株式会社橋本商会(資本金50万円)とする
     取扱品目を工業用資材・土建用資材等にひろげ、その販路も拡大
     1939(昭和14)11/古鉄部門が業務拡張。株式会社橋本商会古鉄部(資本金19万5千円 社長/橋 本和太八)として発足
     朝鮮・台湾方面よりの屑鉄輸入等にともない同部門を株式会社橋本商会から、別会社として分離独立
  茂木鉄道株式会社が設立。茂木淵頭から北浦を通り長崎へ通じる鉄道布設のため弁天山も北側を掘削
     残土を茂木港内、打越海岸の埋立てに利用し茂木北浦の交通路が完成
     1926(大正15)鉄道の開通計画を挫折
  長崎師範学校に長崎県実業補修学校教員養成所水産科が併設
     1922(大正11)諫早市の県立農学校に水産科を併設
     1928(昭和03)学則を定め水産科を新設
     定員を農業科15人、水産科5人とし水産に関する専門教育を県水産講習所(旭町)に移して実施
     1935(昭和10)03/31県水産講習所(旭町)が廃止となり水産科の専門教育は県立水産学校(土井首)に委託
     1944(昭和19)国立の青年師範学校に昇格。水産科は廃止
     1948(昭和23)04/大村市の長崎青年師範学校に水産科が再び設置
    ※1949(昭和24)05/31国立大学設置法の公布で長崎大学が設置
     長崎青年師範学校は長崎大学に統合。水産学部は新制大学制度に組み込まれる
  松早石油が海上用重油を漁船に配給してまわるようになる(港湾給油船の始まり)
  三菱球場が浜口町の湿地帯を埋立て完成
  高浜虚子が長崎を訪れる
     1955(昭和30)高浜虚子が再び長崎を訪れる
  崎陽自動車商会(常盤町)がフォード4台で常盤町〜茂木に乗合自動車を運行
     同時にビュック幌型で長崎〜雲仙も運行
  卓袱料理仕出の店「山ぐち」が創業
     のち長崎の独特な文化の卓袱料理にこだわり、素材の持ち味を活かして幅広く親しまれる味を提供
     明治時代に中国から長崎に伝わり、長崎の料亭で卓袱料理の一品となった「ハトシ」を製造販売
     ハトシは海老のすり身などを食パンではさみ油で揚げたもの
     中国語で「蝦吐司」。「蝦」はエビ、「吐司」はトーストの意味
  島原に電灯がつく。電気、瓦斯の進出で薪炭業の転職が目立つようになる
  千々石生まれの黒田清蔵が雲仙の上田屋を買う。芳仙館として旅館を経営
     1956(昭和31)合資会社となる
     1966(昭和41)10/十八銀行の融資で3億円をかけてリニューアル
  森田留蔵が小浜の雲仙西登山口に旅館つゆのやを発足
     のち増築を重ねる
  明治屋商店が創業。ハムやソーセージなどを製造販売する
     2007(平成19)05/05国際食肉産業専門見本市「IFFA2007」のハム・ソーセージ国際品質コンテストが開催
     明治屋商店が出品したソーセージ3点が金賞、銀賞を獲得
     IFFAは、3年に一度開催する世界最大規模の見本市
      出品したソーセージは、伝統的なドイツの製法を心掛け、化学調味料は入れず、県産豚肉、ドイツ産の香辛料、天日塩を使用
      練り方にもこだわり、素朴な食感とまろやか味を引きだす
      今回、2点が金賞、1点が銀賞と、出品した三点すべてが入賞する快挙を達成
  鶴鳴高等女学校が伊良林村から上小島町に移る
  麹屋町に電報通信事業に従事する技術者を養成するための長崎逓信講習所が逓信省により開所
     1948(昭和23)閉所
  中島川の新中川町〜中川町間に鉄筋コンクリート橋の八幡橋が架かる
     名前は中川八幡神社に由来
  光町と弁天町の間を流れる小川の浦上川寄りに鉄筋コンクリート造の紅葉橋が架かる
     橋長12.3米、橋幅6.7米
     1961(昭和36)01/架け替え。橋長9.3米、橋幅8.4米
  カナダ・トロント大学のバンティングとベストらがインスリンを発見する。医薬界での20世紀最大の発見
     イヌのすい臓をすりつぶして得た液を注射すると血糖が下がる
     名前は「島」の意のラテン語「insula」にちなんでつけられる
   B.F.グッドリッチ社が「ジッパー」というネーミングでオーバーシューズにファスナーを採用
     のちアメリカでは「ジッパー」と言う呼び方が定着する
     1923(大正12)フランスでエルメスがバックに初めてジッパーを採用

1922(大正11)【大正】 壬戌(みずのえいぬ)

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