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〈江戸時代(9)〉

1736(享保21、元文01・04/28)【桜町】 丙辰(ひのえたつ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》窪田肥前守(09/着)、細井因幡守(09/18死去・本蓮寺に埋葬)、萩原伯耆守(美雅・前佐渡奉行・10/28発令)
  《商館長》ベルナルドス・コープ・ア・フルーン(←10/24→)ヤン・ファン・デル・クライセ

  02/09申下刻、唐人屋敷より出火。3棟焼失。公儀より船主5人に各銭100貫が支給
  02/13伊勢町の長崎聖堂で孔子を祭る釈菜の儀式が行なわれる
     議定により、今後は毎年03/21に行なうこと、費用として長崎会所から銀3貫目を支出することが決まる
     在留唐人らは儀式3、4日後に参拝を許すことがきまり恒例となる
     聖堂の正式の祭典は釈典をやや簡略化したものが釈菜となる。釈典では牛と羊を供えるが釈菜では野菜を供える
  04/「長崎犯科帳」に非人に対する「定」が示される
  05/06蘭館の上外科医ファン・ハステルの相手、丸山町、丹波屋の遊女若松が女児を出産
  06/長崎貿易制限のため市街の困窮により幕府が金4万両を貸与
  08/12朝、本紺屋町より出火
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  11/13夜、桜町より出火
  唐人屋敷内に南京人達が航海安全を祈願し天后聖母を祀る天后堂を建立
     天后聖母の脇には千里眼、順風耳も安置
     関帝も併祀され、別名関帝堂とも
     1784(天明04)大火により唐人屋敷が天后堂を除き全焼
     1790(寛政02)重修
     1906(明治39)全国の華僑の寄附により再建
  1734(享保19)に続いてオランダ人の時計師が渡来
  住僧謙光が中島聖堂隣地の臨川院内に小祠を建て瓜生野天神を安置する
     1868(明治01)中島天満神社となる
  幕府が長崎奉行に命じてサポン(石鹸)の製法を習わせる
  無宿の長左エ門が禁制の密貿易を行なったため非人手下へ
  吉宗が暦を作るための蘭人1人を求める
  幕府が落書きや雑説などの政治批判を禁止する
  唐船17隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1736(享保21・元文01)頃

  物産学が流行する。顕微鏡の輸入もあり、急速に一般人の蘭学に対する関心が高まる

1737(元文02)【桜町】 丁巳(ひのとみ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》萩原伯耆守(08/着)、窪田肥前守(09/発)
  《商館長》ヤン・ファン・デル・クライセ(←10/13→)ヘラルドス・ベルナルドス・フィッセル

  02/04未中刻、唐人屋敷より出火。住家4棟と土神祠を焼失
  06/島原藩に百姓一揆がおこる
  09/寄合町、引田屋の遊女大橋が広南船主、林達新の子を流産
  12/長崎の天文学者で盧草拙の門人の北島見信が官命により「紅毛天地二図贅説」を記す
     1745(延享02)11/天文方に任ぜられる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  唐人屋敷内に観音堂が建立。観音菩薩が祀られる
     1784(天明04)火事で焼失
     1787(天明07)再建
     1917(大正06)華僑、永記号主人・鄭永超の寄進により改築
     のち数度改修
  蘭船が馬2頭を輸入する
     1725(享保10)から始まった幕府の依頼による蘭人の大馬の輸入が27頭となる
  多年にわたり良馬の輸入に尽くした賞として蘭船に銅10万斤を与える
     甲比丹には別途に銅10万斤を下賜
  唐館行き丸山遊女の延べ人数は1万6913人。代銀は84貫余り
     蘭館行き丸山遊女の延べ人数は620人。代銀は18貫余り
     計延べ1万7533人、1日平均約50人に
  唐船5隻、蘭船2隻が入港

1738(元文03)【桜町】 戊午(つちのえうま)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》窪田肥前守(09/着)、萩原伯耆守(09/発)
  《商館長》ヘラルドス・ベルナルドス・フィッセル

  01/27大村の足軽のせがれが盗みなどの罪で屠戸に授く
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  蘭人の諏方神事踊り観覧を中止する
     1746(延享03)復活
  唐船の入港が激減したため、蘭船に依頼して奥港(コーチン、カンボジア方面の港)の物品を輸入させる
     1739(元文04)蘭船は断る
  濱町築地の「築地銅座」が廃止
  銅座の鋳銅所が廃止となる
  稲佐の稗田浜の鋳銅所が廃止となる
  唐船5隻、蘭船2隻が入港

1739(元文04)【桜町】 己未(つちのとひつじ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》萩原伯耆守(09/着)、窪田肥前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘラルドス・ベルナルドス・フィッセル(←10/21)(10/22→)トーマス・ファン・レー

  02/蘭館の上外科医フィリップ・ピイトル・ムスクルスの相手、丸山町、長門屋の遊女満汐が女児を出産
  03/15代官再設される。御用物方高木作右衛門忠与が長崎付地方3千石の代官に。御用物方も兼務
     幕末まで世襲する
     代官制度は1676(延宝04)末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚により廃止
     1849(嘉永02)10/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が任命される
  04/興福寺10代の和僧大倫と崇福寺、福済寺の住持らが、連名をもって唐僧招請について長崎奉行に斡旋方を出願する
     不成功に終わる
     1755(宝暦05)1757(宝暦07)まで毎年願いでるが、不成功に終わる
     唐僧の渡来が断絶する
  05/ロシアの探検船が陸奥、安房、伊豆の沿海に出没する
     07/幕府は沿海の諸藩に命じ海防を厳しくする
  06/18唐人屋敷内の湖州人が争乱。唐人死者2人、負傷者11人。唐人騒擾
     07/20再び争乱が予知されるため唐人69人を検束
     09/06和睦なる
     1741(寛保01)罰として湖州人の渡来を禁じる
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  11/古町橋が僧周傳により再架
     1795(寛政07)07/19破損
  炉粕町の水神神社が銭屋川の倉田水樋水源地近くの八幡町に移転
     1804(文化01)長崎在住の唐人たちが天后聖母の神像(媽姐像)を新たに寄進する
  生きているべっ甲亀が渡来、唐人屋敷で飼育を始める
  蘭船に依頼して奥港(コーチン、カンボジア方面の港)の物品を輸入させようとしたが断られる
     唐船の入港が激減したため
  ロシア船が陸奥、安房沖に出没。ロシアとの関係がはじまる
  唐船20隻、蘭船2隻が入港

1740(元文05)【桜町】 庚申(かのえさる)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》窪田肥前守(09/着)、萩原伯耆守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》トーマス・ファン・レー(←11/08)(11/09→)ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン

  06/28カンボジア船が生きているべっ甲亀を持ち渡る
     唐人屋敷内で小役の者2人に飼育法を習わせる
     08/江戸へ送る
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  カピタン、トーマス・ファン・レーの相手、寄合町、佐伯屋の遊女常咲が女児さおを出産
     さおは佐伯屋で育てられていたが3才で死去
  堂門川(西山川)の新大工町〜馬町間に架かる大手橋(堂門橋)が再架される
     1934(昭和09)国道から市道になり当初の石造アーチ部分の上に鉄筋コンクリート橋が架かる。長さ12.5米
  唐船25隻、蘭船2隻が入港

1741(元文06、寛保01・02/27)【桜町】 辛酉(かのととり)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》萩原伯耆守(08/着)、窪田肥前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン(←10/28)(10/29→)トーマス・ファン・レー

  01/07東国の浪人堀田権兵衛が悪僧の景岳を殺して切腹。景岳事件
     権兵衛は東国の大名に700石で仕えたが、故あり禄を辞して江戸に遊び景岳と知り合う
     景岳は権兵衛の金を巻き上げ逃亡。長崎で崇福寺の僧に入り込み色衣をまとう高位の身分になる
     片淵村に庵室を構え望月庵と名づけ庵主になりすます
     権兵衛は景岳が長崎で羽振りよいとの風の噂を聞き、長崎へ下る
     景岳を訪ね食客をきめこみ14年暮らし続ける。景岳は権兵衛に悪態をつくようになる
     怒った権兵衛は景岳の寝込みを襲い、一太刀で斬り殺す
     江戸で権兵衛に出会う前の景岳は大和国郡山藩に250石で使える三宅弥平太という侍
     人を殺して大坂に逃亡。さらに宿主夫妻も殺して、こんどは江戸へ走り、のちに僧となる
  01/08蔵米支出の法を定める
     長崎へ迴漕する各地貢米のうち5千石は非常の備穀、5千石は別途支出
     8千石は諸役人給与に充て残りがあれば非常の備穀に入れ、凶年に市街の米が窮したときにこれを売る
     備穀は毎年、新穀に変え、古米は支出またはは売ることに
  01/15夜、岩原目付空屋敷より出火
  02/23夜、長崎村中川郷より出火
  04/野呂元丈の「阿蘭陀本草和解」ができる
  12/09喜三次、伝三郎の兄弟が母の仇を9年目にして討つ
     奉行はその志を賞で無罪として、かえって白米各2俵を与える
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  銅座の鋳銅所跡地で鉄銭の鋳造が行なわれる
     1745(延享02)廃止となる
  1739(元文04)に唐人屋敷内の湖州人が争乱した罰として湖州人の渡来を禁じる
  丸山町、山田屋の遊女松村が唐人大官との間に男児を出産
     届け出たところ懐妊の届けを怠り志摩屋が押込みを言渡される
  唐船14隻、蘭船2隻が入港

1742(寛保02)【桜町】 壬戌(みずのえいぬ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》窪田肥前守(03/28西丸留守居転出)、田村阿波守(景厖・前佐渡奉行・03/28発令・08/着)、萩原伯耆守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》トーマス・ファン・レー(←10/17→)ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン

  05/01午前6時〜8時、日食で暗夜のごとくなる
  05/20唐船が寧波漂着の薩摩人20人を送還する
  06/28カンボジアからの願い出により信牌1枚を与える
  08/26雨が降りはじめる
     08/28大風雨で、近畿・中部地方の諸河川が氾濫
     08/30《08/01》台風が江戸を襲い大名屋敷が水浸しになる。千曲川にも大洪水が発生し集落全体が流出するなど被害が拡大
     戌の満水
     09/01大風雨により利根川や荒川が大洪水に。関八州全域に被害が及び田畑の水没流出は80万石に及ぶ
     09/06再び関東が洪水に
  09/14夜、長崎村高野平郷より出火
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  新橋町〜本大工町にアーチ石橋東新橋を再架。費用は新橋町、本大工町の掛り町が負担
     1795(寛政07)洪水で再び流失
  唐船15隻、蘭船2隻が入港

1743(寛保03)【桜町】 癸亥(みずのとい)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》萩原伯耆守(01/11勘定奉行転出)、松波備前守(正房・前佐渡奉行・01/11発令・08/着)、田村阿波守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン(←11/09)(11/05→)ダビッド・ブラウエル

  08/13大風が吹く。潮風が吹きあがり山野や田畠、草木などみな塩気のため枯れなえる
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  09/幕府の倹約令に基づき諏方神事に際し供奉者衣服はもちろん傘鉾などにいたるまで木綿を用いる
  商額の減少により甲比丹の毎年参府の制を5年に一度と改める
     幕府への献上品その他諸役員への贈品すべて半減させる
     1764(明和01)商額の減額により甲比丹の江戸参府を隔年にする
  鍋冠山に誠孝院が創建される
  馬込郷の聖徳寺全面の浜手(現銭座小学校の地)で鉄銭の鋳造がはじまる
     1745(延享02)銭座を廃止
  1734(享保19)以降の未使用の信牌を有効とし1か年20隻までの貿易を許す
  江戸日本橋大伝馬町3丁目に「大文字屋(大丸屋)」江戸店が開業
  唐船15隻、蘭船2隻が入港

1743(寛保03)頃

  陸(おか)ペーロンがはじまる
     ペーロンの賑やかさを真似て陸手の子どもたちが競技を思いつく

1744(寛保04、延享01)【桜町】 甲子(きのえね)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》田村阿波守(10/着)、松波備前守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ダビッド・ブラウエル(←11/01)(11/02→)ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン

  04/07暁、東浜町の茂平次所持の掛屋敷より出火。隣接する小家4棟を類焼するが不審者なく30日間戸〆
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  09/寄合町、筑後屋の遊女袖高がカピタン、ダビッド・ブロムエルとの間に男児を出産。4才で死去
  09/西役所の屋根を瓦葺に改める
     12/立山役所の屋根を瓦葺に改める
     1868(慶応04)01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて長崎奉行河津守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     江戸へ引き揚げ、実質的に奉行職は自然消滅となり、徳川幕府の長崎奉行所は門を閉じる。長崎は無政府状態に
  島原藩が領内にハゼノキ5万本を植栽
     のちさらに5万本を植える
  青木昆陽が幕命により長崎に留学し蘭学を学ぶ
     青木昆陽の長崎滞在は2年足らず
     蘭通詞の西喜三郎、吉雄耕牛らは昆陽の来崎に力を得て、蘭書の読書、訳文も許されたいとしきりに懇願
     昆陽も当然のこととして正式に官に願い出たので吉宗は許す
  江戸神田佐久間町に天文台を建てる
  石灰町の借家の御家がコソ泥をしばしば働いて親類縁者もないため非人手下へ
  清人の李仁山が長崎にきて人痘種痘法を伝える
  唐船20隻、蘭船2隻が入港

1744(寛保04・延享01)頃

  青木昆陽が幕命により長崎に留学し蘭学を学ぶ。滞在は2年足らず
     蘭通詞の西善三郎、吉雄耕牛らは昆陽の来崎に力を得て、蘭学の読書や訳文も許されたいと懇願
     昆陽も当然のこととし正式に官に願い出
     1745(延享02)長崎の蘭通詞にオランダの書を読むことが許される

1745(延享02)【桜町】 乙丑(きのとうし)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)(→09/25)、[第9代]徳川家重(紀州徳川家)(11/02→)
  《奉行》松波備前守(10/着)、田村阿波守(12/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤコブ・ファン・デル・ワーイエン(←12/28)(12/30→)ヤン・ルイス・ウィン

  11/長崎の天文学者で盧草拙の門人の北島見信が天文方に任ぜられる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  福済寺の唐僧大鵬和尚の難病を治療した名医で詩・書にも長じていた唐人沈草亭は遊女中葉を寵愛
  馬込銭座を廃止
  長崎の蘭通詞にオランダの書を読むことが許される
  銅座の鋳銅所跡地で行なわれていた鉄銭の鋳造が廃止となる
  唐船20隻、蘭船3隻が入港

1746(延享03)【桜町】 丙寅(ひのえとら)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》松波備前守(03/27死去・大音寺に埋葬)、安部主計頭(一信・前目付・05/01発令)、田村阿波守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤン・ルイス・ウィン(←11/02)(11/03→)ヤコブ・バルデ

  01/16夜、長崎村馬場郷より出火。30戸を焼失
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、
     東上町、南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  05/11薩摩より漂流唐人15人を護送
  奉行松波備前守正房の死去(03/27)に伴い家臣は西役所に移る。2班にわかれて江戸へ引き上げる
     06/0582人
     08/2469人
  06/18僧慧通(年齢不詳)が没する。長崎君●(舍偏に予)。長崎甚佐衛門の子孫
  08/14唐人屋敷内の唐人が争い死傷者18人をだす。唐人騒擾。商人などは構内に入ることを禁じられる
  09/阿蘭陀人の大波戸御旅所での神事踊を再び観覧ができるように
     1738(元文03)の中止以来、8年ぶりに復活
  11/26唐船が香焼島で難破し、乗員80人中56人が水死
  元東上町の無宿・又次郎は目下悪事は働いていないが町内を徘徊するため非人手下へ
  元新石灰町の無宿・幸之助は町内の風聞が悪く盗人体にみえるため非人手下へ
  未使用の信牌をなお有効とする
  唐船10隻、蘭船3隻が入港

1747(延享04)【桃園】 丁卯(ひのとう)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》安部主計頭(08/着)、田村阿波守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤコブ・バルデ(←10/25)(10/28→)ヤン・ルイス・ド・ウィン

  02/02夜、長崎村中川郷より出火
  07/20荷役中の唐船乗組員19人が館内の唐人を襲撃。唐人騒擾。全員が逮捕、投獄される
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  顕微鏡(むしめがね)が2台輸入される。1台は将軍家重の注文、1台は長崎奉行田付阿波守のもの
  唐船10隻、蘭船3隻が入港

1748(延享05、寛延01・07/12)【桃園】 戊辰(つちのえたつ)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》田村阿波守(06/20西丸留守居転出)、松浦河内守(信正・勘定奉行兼任・06/20発令・09/着)、安部主計頭(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤン・ルイス・ド・ウィン(←11/11)(11/12→)ヤコブ・バルデ

  06/02御時計師の幸野吉郎左衛門(59)が没する
     時計細工に熟達し将軍吉宗に招かれオランダ時計を修理する
  09/06《08/14》「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として大坂竹本座にて初演
     「仮名手本忠臣蔵」は元禄赤穂事件を題材とした人形浄瑠璃や歌舞伎の代表的な演目
     2代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作によるもの
     上演は1749・01/初頭《寛延01・11/》まで
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  12/05薩摩より下甑島難破の唐人18人を護送
  吉雄耕牛が25才で阿蘭陀大通詞となる
     1762(宝暦12)長崎の甚太郎にカテーテル(導尿管)を模造させ、小便詰まりの臨床用に供する
     1765(明和02)甲比丹とともに江戸参府、平賀源内に蘭学を指導する
     1790(寛政02)阿蘭陀通詞目付に昇進
     11/18蘭大通事の吉雄耕牛、楢林重兵衛が30日間の戸締めを命じられる
     12/04小通詞の西吉兵衛とともに入牢
     10日出牢のうえ町預けとなる
     輸出樟脳と輸入銀貨の件について不都合な措置したかどによる
     1791(寛政03)03/103人ともに免職。5年間の蟄居を申し渡される
     のちロシア使節の渡来やエゾ地侵攻がありイギリス船も日本近海に出没して通詞の大量養成が必要となる
     1797(寛政09)09/233人は許され蛮学指南所に蘭書和解掛を兼ねて教授に任じられる
     若い通詞の養成にあたる
     1800(寛政12)08/16蘭通詞で蘭医の吉雄耕牛(77)が没する
     医学では吉雄流といわれるオランダ外科の一派を形成。全国の長崎留学生はほとんど門をたたき数は600余人に
  風頭山のふもと元晧台寺の敷地にあった柞原(ゆすばる)八幡宮が中川郷に移転。
     隣接、聖福寺の敷地拡張のため。中川八幡神社
  第10回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪啓禧、総人数475。使命は徳川家重の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1764(宝暦14)第11回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(日編に嚴)、総人数477。使命は徳川家治の将軍職就任祝い
  福田十郎右衛門が町年寄末席に補せられる
     1755(宝暦05)一代町年寄となる
     1767(明和04)鋳銭掛となる
     1768(明和05)町年寄世襲になる
  奉行の松浦河内守は桜町の囚獄がせまくなり浦上村馬込郷に溜牢を新設【1731(享保16)?】
     溜小屋ともいわれ一般農工商の被疑者を収容する。1間半に2間の牢屋を建て1番溜という
     1749(寛延02)2番溜が建つ
     1752(宝暦02)3、4番溜が建つ
     1755(宝暦05)5番溜が建つ
     1814(文化11)10/奉行遠山左衛門尉が浦上村の溜牢の構内に細工所を設ける
     犯罪の無宿者や放蕩息子を父兄の願いにより入所。縄や筵などをつくる仕事をさせ、おりにつけて教諭を加える
     改心した者には製品を買い上げて賃銭として渡し、釈放して正業に就く道を開く
     維新後まもなく廃止となる
  イギリス、ロンドンで出版された小冊子「ザ・スクエア・レシピーズ」に「Cock Tail」が登場
     その名は、酔っ払った客が酒場の壁に飾ってあるオンドリの尾羽根(コックテイル)をみて
     「あのコックテイルを1杯」とオーダー。店員は気をきかせ数種の酒を混ぜ尾羽根を添えてだす
     1806(文化03)05/13アメリカの雑誌「バランス」に「カクテル」の定義が掲載
     「蒸留酒に砂糖、水、ビターを加えて作る刺激的な酒がカクテルである」
  唐船12隻、蘭船2隻が入港

1749(寛延02)【桃園】 己巳(つちのとみ)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》安部主計頭(09/着)、松浦河内守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヤコブ・バルデ(←12/08→)ヘンドリック・フォン・ホムッド

  04/30夜、浦上山里村平野宿より出火。60余戸を焼失
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  09/力士の丸山権太左衛門一行が梅園芝居所で大相撲興行【10/?】
     のち長崎興行のあと不幸にも病にたおれる
     11/14長崎で客死。晧台寺で葬儀を行ない。墓は本河内国道の上に
  12/佐嘉藩家老の諫早石見茂行が佐嘉本藩の相続問題にからみ、知行高1万石を没収され蟄居隠居を命じられる
  仏師宇右衛門が日見村の長兵衛に誘いをかけられ唐人商売取り引き用の偽銀札をつくり獄門
     仕事場を提供した庄次郎は死罪。長兵衛は行方不明
  諫早藩が、ささいなことから佐賀藩から4千石の減地を申し渡される
     佐賀藩に対する諫早領民の怒りが爆発。百姓騒動がおこる
     1750(寛延03)10/26中心人物・若杉春后と大坂町奉行所に直訴した農民3人が佐賀藩の手で磔刑に
  将軍吉宗献上の郊外中野村の百姓の源助に貸与さらた雄象が、源助は餌代をけちり栄養失調で餓死
     1816(文化13)甲比丹ヘンドリキ・ドーフが 将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶
  浦上村馬込郷の溜牢、2番溜が建つ
     1752(宝暦02)3、4番溜が建つ
  唐船13隻(内積戻船1)、蘭船3隻が入港

1750(寛延03)【桃園】 庚午(かのえうま)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》松浦河内守(10/着)、安部主計頭(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘンドリック・フォン・ホムッド(←12/24)(12/25→)アブラハム・ファン・スフテレン

  01/04丸山町、寄合町の遊女たちが小舟に乗って唐船の出帆を見送るため沖へ出ていたのが奉行所に知れる
     奉行所は不届き至極であるとして、今後、同じようなことがあれば罰されるであろうと両町乙名へ請書を提出させる
  03/16遊女、遣手などへ起請文を読みきかせ誓詞血判をさせる
     1)唐人、オランダ人へ書面、金銀などの取次ぎをしないこと
     2)金銀、反物を揚代として貰い隠しおいて持ち出してはいけない
     日本のことを尋ねられても、ひとことも喋ってはならない。異国の話など聞いてはならない
     3)出島蘭館、唐人屋敷へ禁制品を持ち込んではいけない。金銀の製品も持ち込んではいけない
     4)日本人が唐人、オランダ人へ何事によらず頼み込んでいる者がいたら隠さず早速届け出ること
     5)遣手が出島唐人屋敷へ遊女を連れていくときは、決して道筋を変えてはいけない
     途中でどのような人に呼び止められても立ち寄ってはならない。その場合は遊女をつれて帰ること
  05/29諫早領の百姓1万3千人が多良峠に集結。諫早一揆
     2日後1里半にもおよぶ列となり佐賀へ出発する
     10/佐嘉藩が諫早一揆で諫早藩主の諫早行孝に蟄居を命じ、家老の三村惣左衛門は獄門に、儒者の若杉春后は磔の刑に処す
  09/23唐船の水夫が船主に乱暴。日本官署にも被害を加えたため船の信牌を没収。銅を減じ、水夫に罰金を科す
  10/26前年の諌早百姓騒動の中心人物・若杉春后と大坂町奉行所に直訴した農民3人が佐賀藩の手で磔刑に
     のち佐嘉藩が諫早一揆で諫早藩主の諫早行孝に蟄居を命じ、家老の三村惣左衛門は獄門に、儒者の若杉春后は磔の刑に処す
  10/22禅宗曹洞派の天長山太平寺が古町に建立される
     1757(宝暦07)新橋町に移る
     1877(明治10)小曽根乾堂の援助により浪之平に移る
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  蘭人が貿易額の増加を願い出たが許されず
  唐船10隻、蘭船3隻が入港

1751(寛延04、宝暦01・10/27)【桃園】 辛未(かのとひつじ)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》安部主計頭(02/13退任)、菅沼下野守(定秀・前在勤目付・02/15発令・同日着)、松浦河内守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》アブラハム・ファン・スフテレン(←11/18)(11/19→)ヘンドリック・フォン・ホムッド

  03/24唐館から紛れ女が1人発見される
     さらに3月26日に2名、03/27に2人発見される
       紛れ女…正式に遊女の届けをとらず紛れ込んで唐人、紅毛人に関係する女
  03/長崎奉行松浦河内守は市中の風紀を取り締まるため唐館内の名付遊女、仕切遊女、雇禿、紛れ女を捜索
     120余名が検挙される
       名付遊女…手数料を払って名義だけ遊女屋に籍をおき唐館や出島に出入りする女
       仕切遊女…唐人またはオランダ人の相手を1人に限る遊女
     04/19奉行所から丸山町、寄合町の乙名への達し
     検挙された120人のうち70人は丸山町の遊女屋へ、50人は寄合町野遊女屋へ割り当てる
     120人は3年間、遊女勤めをさせ、唐人屋敷や出島への立ち入りは禁止
  04/山口太左衛門が亀屋銀太夫の所有地3反5畝10歩を譲り受けて引田屋の土地とし花月楼を建てる
     唐人は養花山館と呼ぶ
  04/唐人屋敷へ出入する遊女、禿(かむろ)は取締役人の下付する門通札がなければ出入を許可しない
     04/〜07/下付去れた門通札は312枚
     安政年間まで続く
  05/十善寺の御用薬園で栽培した薬草木を初めて一般町民に配給する
  05/捨て児の禁を犯す者は五人組を罰する
     五人組は江戸時代の庶民の自治的組合。幕府はむしろ強制的に全国に施行した制度
     村方では総百姓、町方では地主と家主とを単位として五家一組合が原則
     組合の主な目的は犯罪の防止と告発
     連帯責任の負担と組合員の訴訟行為や私法的法律行為に際して保証人、立会人になる義務を負う
     維新後五人組制度が存続
     1888(明治21)市町村制の公布とともに除かれる
  08/寄合町、石見屋の仕切遊女都路が唐人屋敷の垣外を通っていると馴染みの唐人姜再過に呼び止められる
     「東古川町の武七から金子を受取る筈だから至急渡すように」と伝言を頼まれる
     翌日武七へ連絡
     10/06唐館内の二の門で姜再過の封書が発見し露顕
     都路は訊問の上、町預けに
     11/18町預け赦免
     11/30押込みを言渡される
  12/20唐船が福建省漂着の南部人6人を送還する
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  唐通事の事務所が今町の人参座跡に設立。唐通事会所と呼ばれる
     1762(宝暦12)07/09本興善町の糸荷蔵跡に移転。敷地は156坪
  唐船から寺社への寄進物品は長崎会所にいったん受け入れ、その代金を寺社に交付することに改める
     密商品が混入することを防止
     1754(宝暦04)定額に改められる
     1768(明和05)旧に復する
  長崎の溜牢が未決員の収容所として使用されるようになる
     溜の御預り御用が強まると同時に非人手下の判決が極端に減る
     1868(慶応04)03/15浦上村馬込郷の溜牢が廃止される
  唐船11隻、蘭船3隻が入港

1752(宝暦02)【桃園】 壬申(みずのえさる)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》松浦河内守(02/15長崎奉行兼任を解く)、大橋近江守(親義・前目付・02/15発令・08/着)、菅沼下野守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘンドリック・フォン・ホムッド(←12/05)(12/06→)ダビッド・ブーレン

  02/15勘定奉行松浦河内守が長崎奉行兼任を解かれ、改めて長崎御用加役を命じられる
     500石加増、役料1千俵とする
  03/30深夜、寄合町の遊女屋大阪屋へ江戸町の新蔵が覆面の旅人を連れてくる
     遣手ふじが遊女桜木(19)、薄菊(18)を座敷へ出すが旅人は覆面のまま
     のち再び覆面の客を連れくる。気をつけて見ると客は異国人であることが分かる
     遣手ふじは新蔵に重ねて連れてこないように注意し、主人甚三郎には知らせず
     のち噂がひろがり主人甚三郎の耳に入る
     10/09夜、寄合町の油屋に覆面の客が現れ、遣手さんが八千代(19)、九重(17)、八十島(18)を座敷へ
     遊女たちは客が異国人と気づき遣手さんに告げ、客を帰宅させる。主人与之助に知らせ、主人は寄合町乙名へ内々通知
     10/10夜、大阪屋へ異国人の客が来る。酒肴をだし主人甚三郎は役人へ届ける
     隠密方の町使が2人きて4人の異国人を捕らえる
     12/中判決が下る
     江戸町新蔵は入墨のうえ長崎払い、寄合町大阪屋甚三郎は町預、戸〆、油屋町与之助は町預、戸〆、
     寄合町遣手さん叱置、大阪屋遣手ふじ叱置、寄合町乙名、芦刈猪之八叱置、
     異国人マアルト・ハンテイモル(28)他3人は不明
  04/25夜、出島東番所より出火し焼失
  06/22アメリカの政治家で科学者のベンジャミン・フランクリンはが電気現象であることを実験で確かめる
     フランクリンは雷雲をめがけて凧を上げる。凧の糸は絹製
     雷が鳴る空で絹糸は帯電し糸に取り付けられた地上のライデンびんに蓄電される
     雷が静電気であることが確かめられる
  06/天文方の西川忠次郎(如見の子)が改歴のことで、土御門三位泰邦と意見があわず幽居を命じられる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  浦上村馬込郷の溜牢、3、4番溜が建つ
     1755(宝暦05)5番溜が建つ
  讃岐出身の平賀源内(25)が高松藩主松平頼恭の命により長崎に遊学。蘭語や絵画、西洋技術などを学ぶ
     1770(明和07)田沼意次の知遇を得て2度目の長崎遊学
     通詞・西善三郎から壊れたエレキテル(摩擦起電器)を入手
     また外国人から「雲中飛行船」の図を購入し、田沼主殿頭に贈る
     のち長崎で入手した起電機をヒントにエレキテルやコンパスを発明
  唐船15隻、蘭船2隻が入港

1753(宝暦03)【桃園】 癸酉(みずのととり)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》菅沼下野守(08/着)、大橋近江守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ダビッド・ブーレン(←10/15)(10/16→)ヘンドリック・ファン・ホムッド

  02/23勘定奉行の松浦河内守が用行組事件で免職閉門に処せられる
     用行組事件……長崎会所目付の村山庄左衛門や請払役の盛弥次郎などが私設会所「用行組」を設け、村山が長に
     町人も会所に出勤、事務をとり公の会所と変わることなく河内守の旨をうけ、諸役人の進退から市内の諸行政にいたるまで取り扱う
     その弊害が問題視され河内守は江戸で処断、用行組は解散、会所は禁止、村山と盛は壱岐に流される
     出島乙名の島谷又次郎、会所請払役の森路弥平太を追放、ほか関係者が追放または免職に
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  09/21長崎奉行所の門前に訴状箱(目安箱・訴訟箱)が設置される
     おもに諸役人の不正、抜荷の情報を直訴させるための手段として偶数月(隔月)にだされる
     訴人は長崎町民と代官支配の郷民に限られる
     差し出すときは訴訟事を書状に書きしたため、住所姓名を明記し封目に印鑑をおす
     無記名のものは取上げられない
      訴訟事…行政のためになること、諸役人の私曲、抜荷の情報、救済銀など
     書付は封印のまま江戸へ差上げられ意趣遺恨で嘘の訴えをした者は吟味の上処罰される
     訴訟は役所に訴えるのが原則
      箱訴しても取上げない、役所が多忙で訴訟が滞る場合、役所へ断りのうえ直訴せよとの規則も。ほとんど利用されず
     訴状箱は朝6時に奉行所役人2人の立会いで訴状箱管理役に渡し門前に設置
      午後2時に引取るときも役人1人と訴状箱守方に管理され厳重な取扱がなされる
      凡そ8時間のあいだに投函するよう定められる
     1790(寛政02)往来切手も願わず江戸に行き直訴する者が横行
     1797(寛政09)06/往来切手も願わず江戸に行き直訴する者はふらちであると訴状箱の趣旨の達しをだす
  10/16巳刻、西中町の三浦才兵衛宅と森山金左衛門宅の間より出火
  12/05夜、長崎村西山郷より出火。40余戸を焼失
  唐船25隻、蘭船2隻が入港

1754(宝暦04)【桃園】 甲戌(きのえいぬ)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》大橋近江守(04/09勘定奉行転出)、坪内駿河守(定央・前目付・04/09発令・09/着)、菅沼下野守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘンドリック・ファン・ホムッド(←11/03)(11/04→)ダビッド・ブーレン

  01/10唐船が浙江漂着の仙台人13人を送還
     中国で厚遇され米薪水衣服のほか、船頭は銀100目、水夫は30目ずつ受け取る
     幕府の下知で長崎奉行から唐送還船荷主に米70俵、船頭と財副(唐船の筆記勘定役)に30俵、通訳に20俵を贈り誠意を表わす
     05/奥州仙台から使者が32人の従者とともに来崎、13人の者を仙台に連れ帰る
  閏02/山脇東洋と小杉玄通が京において初めて死体を解剖する
  03/15夜、今博多町より出火。5軒を焼失
  06/08細工師の森仁左衛門(81)が没する。晧台寺後方に埋葬。墓碑には「御用御目鏡師役祖」
     仁左衛門は将軍吉宗の命により大望遠鏡をつくるが実用にはならず
  07/08唐船が広東漂着の相馬人6人を送還
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  09/蘭館ヘトル(荷蔵)役ヤン・ヘッキが三国屋の遊女玉菊へべっ甲、櫛形などを贈る
  10/14丑刻、八百屋町より出火。炉粕町に延焼し御用物蔵、普請方用屋敷その他34戸を焼失
     同年御用物蔵は代官高木作右衛門の屋敷内(勝山小学校)に再建される
     御用物は朝廷や将軍家の用に供するもの
     御用物庫(蔵)は御用物として輸入品のなかから買い上げた品を一時貯蔵する倉庫
     御用物役は御用物を一定に扱う栄職で巨額の利を収める。代々高木作右衛門が勤める
  唐船から寺社への寄進物品は、途中、いったん受け入れた長崎会所が定額の代金を寺社に交付する
     1768(明和05)旧に復する
  梅毒の治療薬、山帰来(サンキライ)およそ400トンが中国から長崎に輸入される
     山帰来は別名を土茯苓(ドブクリョウ)
     この年の中国船による輸入薬物の46%。90万人以上の患者1か月分の用量に当たると推測
  唐船24隻、蘭船2隻が入港

1755(宝暦05)【桃園】 乙亥(きのとい)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》菅沼下野守(08/着)、坪内駿河守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ダビッド・ブーレン(←10/25→)ヘルベルト・フェルミューレン

  05/23唐船が呂宋漂着の伊豆人1人を送還
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  11/03夕、福済寺の弁天堂を焼失
  安藤昌益が「自然真栄道」を著す
  福田十郎右衛門が一代町年寄となる
     1767(明和04)鋳銭掛となる
  東古川町古着屋の喜三郎が死んだ丸山遊女の負債を肩代わりする唐人六官に会うため唐人屋敷へ
     大門の番人に見つかり居町払い処分をうける
     唐人屋敷内の唐人と日本人との対応は、すべて唐通事を介さない限り許されず
     日本人は一部門鑑所有者以外は出入りできず
     居町払いは現住所から追い払う刑罰
  興福寺10代の和僧大倫と崇福寺、福済寺の住持らが、連名をもって唐僧招請について長崎奉行に斡旋方を出願する
     1757(宝暦07)まで毎年願いでるが、不成功に終わる。唐僧の渡来が断絶する
  浦上村馬込郷の溜牢、5番溜が建つ
     1814(文化11)10/奉行遠山左衛門尉が浦上村の溜牢の構内に細工所を設ける
     犯罪の無宿者や放蕩息子を父兄の願いにより入所。縄や筵などをつくる仕事をさせ、おりにつけて教諭を加える
     改心した者には製品を買い上げて賃銭として渡し、釈放して正業に就く道を開く
  唐船12隻、蘭船3隻が入港

1756(宝暦06)【桃園】 丙子(ひのえね)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》坪内駿河守(09/着)、菅沼下野守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘルベルト・フェルミューレン(←10/12)(10/13→)ダビッド・ブーレン

  01/01丑刻、今紺屋町の太田某の錦屋より出火。中紺屋町、本大工町、今魚町、引地町に延焼、423戸を焼失
     罹災者 借家の者戸主1人銭700文、家族1人銭500文を給与される
  01/13夜、出島より出火
  01/31夜、出島で出火
  02/04唐船が呂宋漂着の筑前人4人を送還
  02/25夜、浦上山里村平野宿より出火
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  熊本藩が薬園を設置
  唐船7隻、蘭船2隻が入港

1757(宝暦07)【桃園】 丁丑(ひのとうし)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》菅沼下野守(06/01勘定奉行転出)、正木志摩守(康恒・前目付・06/15発令・10/着)、坪内駿河守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ダビッド・ブーレン(←10/31)(11/01→)ヘルバルト・フェルミューレン

  02/寄合町、油屋抱遊女の若浦が紅毛人フルスヘッキとの間に女児きりを出産
     フルスヘッキはきりを自宅でオランダ人として養育したいと願い出
     年番大通詞、小通詞から抱主油屋利三太に命じ若浦と両親と相談。これを拒絶
     1786(天明06)09/30才のきりは外出したまま行方不明に
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  小島郷のとめは赤ん坊を残して主人に死なれて困る
     天草生まれのあきは養子に欲しがっている者があると偽る。銭1貫文とともに赤ん坊を受け取る
     赤ん坊は銭屋川に捨てて殺す
     あきは町中引き回しの上獄門に処せられる
     引き回しは死罪以上の極刑に処せられる者を見せしめに、罪状を記し町中を引き回すこと
     町順は桜町(牢屋)、勝山町、南馬町、北馬町、大井手町、本紙屋町、八幡町、麹屋町、今紺屋町、中紺屋町、新橋町、諏方町、
     磨屋町、銀屋町、出来鍛冶屋町、今鍛冶屋町、本石灰町、船大工町、本籠町、唐人屋敷、銅座跡、東濱町、西濱町、東築町、
     西築町、本下町、江戸町、出島町、大波戸、樺島町、本五島町、船津町、小川町、恵美酒町、東中町、西上町、西坂(刑場)
     獄門、磔は港内樺島で行なわれることも、犯罪現場で執行されることも
  幕府が長崎奉行に命じて今町の人参座が廃止となり、広東人参の売買を禁止させる
     広東人参は貞享、元禄のころから国産人参が大いに奨励されたため朝鮮から輸入の人参種子も盛んに栽培される
     1734(享保19)長崎では町民たちの願い出により広東人参の販売が許可され今町に人参座が置かれる
     人参座には吟味役3人と諸払役5人が任命され人参の販売を取り締まることに
     1763(宝暦13)08/その後も密輸入されたため、幕府が再び長崎奉行に命じて広東人参の売買を禁止させる
     1764(明和01)09/03唐人屋敷門前で広東人参450斤を焼き捨てる
     ひそかに密輸入されていたものを没収して焼却処分にする
     1781(天明01)輸入禁止の広東人参を没収、ふたたび焼き捨てる
  禅宗曹洞派の天長山太平寺が古町から新橋町に移る
     1877(明治10)小曽根乾堂の援助により浪之平に移る
  唐船12隻、蘭船2隻が入港

1758(宝暦08)【桃園】 戊寅(つちのえとら)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》坪内駿河守(10/着)、正木志摩守(11/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヘルバルト・ヘルミューレン(←11/11)(11/12→)ヨハネス・レイノウツ

  春/夏にかけて市中や郷村で疫病が流行する
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  12/25ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュが彗星を発見、ハレーの予言が証明される
     ハレーは1531(享禄04)、1607(慶長12)、1682(天和02)、に出現した3つの彗星は同一の天体が76年ごとに回帰したと結論
     ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算し、次は1758(宝暦08)に再び出現すると1702(元禄15)に予言
     ハレー自身はこの回帰を見ることなく1742(寛保02)に没す。ハレーの功績を記念して彗星にハレーの名が付けられる
  馬場郷の威福寺の内にあった玉泉院が現在の寄合町の地に移転
     1868(明治01)玉泉神社
  唐船14隻、蘭船1隻が入港

1759(宝暦09)【桃園】 己卯(つちのとう)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)
  《奉行》正木志摩守(08/着)、坪内駿河守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠与
  《商館長》ヨハネス・レイノウツ

  01/15イギリス、ロンドンに大英博物館が開館。初代館長は著名な医者で発明家のゴーウィン・ナイト
     博物館の起源は古美術収集家の医師ハンス・スローン卿の収集品。個人としては最大の博物学的収集品を持つ
     ハンスは遺言で収集した美術品や稀覯書8万点の収蔵品を総合的に一括管理し一般人の利用に供することを指示した
  03/25唐船が台湾漂着の志摩人3人を送還
  10/06夜、長崎村小島郷より出火
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  紅毛人ロイトルが出島に呼び入れている越後屋の遊女色袖にべっ甲爪42、其他を贈る
  山脇東洋が「蔵志」刊行
  唐船18隻、蘭船3隻が入港

宝暦年間(1750年代)

  外海の樫山地区から追害を逃れたキリシタンが高島に移り住む

1760(宝暦10)【桃園】 庚辰(かのえたつ)

  《将軍》[第9代]徳川家重(紀州徳川家)(→05/13)、[第10代]徳川家治(徳川宗家)(05/13→)
  《奉行》坪内駿河守(06/23勘定奉行転出)、大久保土佐守(忠與・前目付・06/23発令・10/着)、正木志摩守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠与(08/13死去・本蓮寺後山高木家墓地に埋葬)
  《商館長》ヨハネス・レイノウツ(←11/11)(11/12→)マルティン・ハイスホールン

  01/22夜、浦上山里村中野宿より出火
  02/25暁、長崎村十善寺郷より出火
  08/13長崎代官で御用物方の高木作右衛門忠与(年齢不詳)が没する。墓所は本蓮寺後山
  09/23夜、唐人屋敷で出火。土神祠が焼失
     出火の折り銅座の源右衛門が唐人屋敷に忍び込み召捕られ吟味、密売が発覚100敲の上、追放
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  唐船12隻(中国側記録、清朝文献考16)、蘭船2隻が入港

1761(宝暦11)【桃園】 辛巳(かのとみ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》正木志摩守(09/着)、大久保土佐守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠興(忠与の3男・菊次郎)
  《商館長》マルティン・ハイスホールン(←10/30)(10/31→)ヨハネス・レイノウツ

  04/13御料所巡見使の成瀬久蔵ら19人が来崎
     04/16長崎をあとに帰府へ
     05/14巡見上使の青山七右衛門らが来崎
     05/20長崎をあとに帰府へ
  07/07住吉社が8日まで夏越祭を行なう。前将軍家重の死去に伴い延期執行。本来は6月30日
  09/11諏方神事能定日の12日を11日に改める。12日は将軍吉宗の嗣子家重の忌日のため日程変更
     09/11渡御09/13還御
     (5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  09/22僧尼が家重の冥福を祈る行事として大音寺前で窮民に米や銭を与える。施しに預かる者1020人
     1人に米1升、鳥目10文以後これが例となる
  唐船12隻、蘭船2隻が入港

1762(宝暦12)【後桜町】 壬午(みずのえうま)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》大久保土佐守(05/29退任)、石谷備後守(清昌・勘定奉行兼任・06/06発令・10/着)、正木志摩守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヨハネス・レイノウツ(←12/02)(12/03→)フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ

  07/09唐通事の事務所唐通事会所が今町の人参座跡から本興善町の糸荷蔵跡に移転。敷地は156坪
  08/12諏方社が桃園天皇の崩御で09/03まで大門を閉鎖。謹慎を表すが期間中の祭儀・諸式は執行
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  吉雄耕牛が長崎の甚太郎にカテーテル(導尿管)を模造させ、小便詰まりの臨床用に供する
     1765(明和02)甲比丹とともに江戸参府、平賀源内に蘭学を指導する
  スイス生まれの政治思想家ジャン=ジャック・ルソーが「社会契約論」を記す
  蘭船がジャワ産の雄馬2頭を舶載
     1763(宝暦13)江戸へ送る
  唐船が十姉妹(じゅうしまつ)を持ち渡る
  梅香崎の海を埋め立てる
  唐船15隻、蘭船2隻が入港

1763(宝暦13)【後桜町】 癸未(みずのとひつじ)

  《将軍》[第10代]徳川家治(徳川宗家)
  《奉行》正木志摩守(05/10作事奉行転出)、大岡美濃守(忠移・前山田奉行・06/01発令・11/着)、石谷備後守(11/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ(←11/06)(11/07→)ヤン・クランス

  02/14唐人屋敷内の唐人乗組員62人が高圧的な日本の役人に反抗。唐人騒擾
     入牢中の同船水主董道武の救出のため牢屋破壊を企てる。屋敷はじまって以来の騒ぎに
      董道武は密売の目的で密かに広東人参を屋敷内へ持ち込むが発覚。再渡を禁じられ帰国させられることに
      帰国の船が出帆する際、替え玉を使い、屋敷内に隠れるが見つかり屋敷内の牢に入れられる
      奉行所は唐人の反抗に強硬な弾圧方針をとり、騒ぎに加勢した一般乗組62人全員に対し日本の再渡を禁じ帰国させることに
      主謀者2人には罰銅2千斤ずつの納入を命じる
     のち船主たちの嘆願で再渡禁止の点は許される
  02/26夜、今魚町より出火
  08/幕府が長崎奉行に命じて広東人参の売買を禁止させる
     1757(宝暦07)に一度、禁じるがその後も密輸入されたため
     1764(明和01)09/03唐人屋敷門前で広東人参450斤を焼き捨てる
     ひそかに密輸入されていたものを没収して焼却処分にする
  09/01午前8時頃、日食が6〜7分ほど。人々おおいに驚く
  09/07夜、船津町より出火
  12/01夜、勝山町より出火
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  前年に蘭船が舶載してきたジャワ産の雄馬2頭を江戸へ送る
  青の洞門が完成【1750(寛延03)?】
     諸国遍歴の途中立ち寄った禅海和尚が断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見る
     トンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進により掘削の資金を集め、石工たちを雇う
     ノミと槌だけで30年かけて掘り抜く   唐船13隻、蘭船2隻が入港

1764(宝暦14、明和01・06/02)【後桜町】 甲申(きのえさる)

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