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〈江戸時代(2)〉

1615(慶長20、元和01・07/13)【後水尾】 乙卯(きのとう)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六(守尚・左兵衛の甥【一説に弟】・前年12/23発令)
  《代官》村山東安
  《商館長》ヤックス・スペックス

  01/30《01/02》支倉常長ほかの遣欧使節がエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見
     支倉常長は伊達政宗の命をうけ遣欧使節として通商交渉を目的にローマへ
     11/03《09/12》ローマ教皇パウルス5世に謁見
     のちスペインとの交渉は不成功に
     1620(元和06)09/20《08/24》帰国
     出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。帰国時には日本ではすでに禁教令がだされる
     洗礼を受けていた常長はキリスト教徒弾圧の中で、影に潜むように生きるのみ
  04/06深堀の鍋島茂賢が冬の陣に続いて大坂夏の陣に参戦する
  05/08大坂夏の陣で大坂城が燃え上がり落城。豊臣家は滅亡
     1620(元和05)2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建がはじまる
  06/19平戸の英国商館長リチャード・コックスが庭を造り琉球からきた芋(甘藷・カンショ)を植える
  09/19代官の村山東安が台湾征討の朱印状をうける
  幕府の禁教政策により仏寺の創建が盛んに
  禅寺だった東禅寺がキリシタン宗徒の妨害で廃寺に。僧・浄慶が譲り受け東林山・深崇寺(浄土真宗本願寺派)とする
     【1627(寛永04)?】
  炉粕町に本覚寺が建つ
     1868(明治01)廃寺
  岩瀬道八幡神社が創建
  ウイリアム・アダムスの船が故障し琉球へ立ち寄る。蕃藷(サツマイモ・南蛮渡りのいも)の存在を知り、平戸へ持ち込む
  一庭融頓が徳川家康より洪泰寺住職に任命される
     1626(寛永03)岩原郷上筑後町から高野平村(寺町)へ移転
     船本弥平次、梅野了安が所有地を寄付、幕府の援助を受けて移転する

1616(元和02)【後水尾】 丙辰(ひのえたつ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》村山東安(斬罪)、末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  01/31奉行長谷川権六が将軍のマカオの大船に対する多額の投資を妨害しないよう蘭、英両国人に警告する
  04/17徳川家康(75)が駿府城で死去
     のち遺命によりただちに遺骸が駿河国の久能山へ葬られる
     1617(元和03)04/15遺言により久能山から下野国日光へ改葬される
     04/172代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと正遷宮が厳粛に行なわれる
     東照社として鎮座することに
     1645(正保02)朝廷から宮号を賜り東照社から東照宮に改称
  08/08幕府がかさねて禁教令を発する
  08/08蘭、英両国人に対して内地での自由な営業上の特権を廃止
     外国船の貿易取引は中国船の平戸、長崎のみに制限。他の国、他の場所での貿易取引はいっさい禁止する
  08/08大村家第19代の大村喜前(48)が玖島城で没する
     喜前は純忠の子、病死。墓所は本経寺
     朝鮮の役後、喜前を慕ってきた朝鮮人秀山と藩士1人が殉死
  08/町年寄の高木作右衛門は率先してキリスト教を捨て、末次平蔵と協力して諸人に改宗をすすめる
  12/01《10/26》末次興善の子、末次平蔵政直が長崎代官に。末次家が代官を世襲することに
     代官の村山等安がキリシタンであることが発覚したため
     1676(延宝04)代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     前年、禁を犯し密かに商船を唐国へ遣わし、日本の絵図、刀剣など国禁品を輸出
     末次家の資産60万石の大名に匹敵する財産はことごとく
     長崎代官の制度がなくなる
  旧本博多町天満宮の地に伝誉関徹が一寺(大音寺)を創立
     1641(寛永18)鍛冶屋町に移転
     戦後大音寺が放火により本堂を焼失、鉄筋コンクリート建築により再建
  長崎の人口がキリシタン迫害のため3万人以下に減る
  備前岡山より訪れた僧・阿門利(あじゃり)龍宣が薬師如来の像を背負い来崎
     医山遍照院・延命寺(真言宗御室派)を創建
     流行していた疫病を治すことと港に出入する船舶の海上安全を祈願するため
     1657(明暦03)長崎奉行立山役所の門を延命寺の山門として移築
  池田与右衛門入道好運がポルトガル人の航海士マノエル・ゴンサロから航海術を学ぶ
     池田与右衛門入道好運は肥後菊池氏の一族で喜蔵町(桜町の一部)に住む
     ゴンサロに従いルソンへの実習航海を試みる
     1618(元和04)「元和航海記」を著す
  ガリレオ・ガリレイが第1回異端審問所審査でローマ教皇庁検邪聖省から、地動説を唱えないよう注意を受ける。
     コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる
     1633(寛永10)06/22第2回異端審問所審査でローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受ける
     自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。終身刑を言い渡される
     直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑される
  代官に付属する年行司を外町に2人置く
  幕府がすすき原橋のたもとに銀座屋敷を設け良質銀の海外流出を監視。偽造銀を取り調べる
     のち大村町に移る
     1672(寛文12)廃止となる
  大和五条から松倉重政が原城に入封
     1618(元和04)1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城。新たに島原城(森岳城)を築く
  平戸のオランダ商館前に防波堤ができる
     1618(元和04)商館の民家50軒を移転させ商館を拡張
  はじめて南蛮通詞が任命される。西吉兵衛が南蛮大通詞に
  松倉重政が島原の領主になると、度々小浜の湯治を訪れる
  長崎の人口2万4693人

1617(元和03)【後水尾】 丁巳(ひのとみ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  01/大村純頼が年頭賀礼のため東上する
     将軍秀忠より「長崎には多数のバテレンが潜伏していると聞いている」と厳しく詰問される
     純頼は将軍の威圧に屈し信仰を捨てる。キリシタンの弾圧にのりだす
  04/15徳川家康の遺骸が遺言により久能山から下野国日光へ改葬される
     04/172代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと正遷宮が厳粛に行なわれる
     東照社として鎮座することに
     1645(正保02)朝廷から宮号を賜り東照社から東照宮に改称
  10/02神ノ島の沖合にある高鉾島で宣教師をかくまうガスパル上田彦次郎、アンドレア吉田が処刑
     海中に投げ捨てられる。二十六聖人以後、最初の殉教
     ガスパル彦次郎はナバレット神父のアンドレア吉田はエルナンド神父の宿主
     のちオランダ人は高鉾島をパーペンベルグ島(パーパの島・キリシタンの島)と呼ぶ
  12/25マカオ船が長崎に入港。翌日、蘭船の攻撃を恐れ福田に去る
  僧伝誉が長崎の町で公然と布教活動を開始する
     1620(元和06)伝誉が本博多町のミゼリコルディア教会跡地を賜り正覚山中道院・大音寺(浄土宗)を創建
  大村のジョアン・バウチスタ・マシャド神父とペドロ神父が十二社権現で斬首
     大村で最初の殉教者となる
  第2回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は呉允謙、総人数428。使命は和平と国情視察
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1624(寛永01)第3回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は鄭●(山冠に立)総人数460。使命は徳川家光の将軍職就任祝い
  平戸でペーロンが行なわれる
  築地本願寺が西本願寺の別院として浅草近くの横山町に建立。「江戸浅草御坊」と呼ばれる

1618(元和04)【後水尾】 戊午(つちのえうま)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  03/01唐人四官のジャンク船が長崎を出航して交趾(コーチン)へ向かう。アダムス(三浦按針)らが同乗
     03/23故障のため長崎に引き返す
  08/12《06/22》ディエゴ神父らバテレンたちがマニラから長崎に潜入する
     神父は長崎付近の山中に隠れて指揮をとる
  伊良林郷(現浄安寺)の正覚寺が新橋町(現市立中央保育所の地・寺町の筋をはさんで向かい)に移転
     1630(寛永07)本古川町からの出火で類焼
  伴天連の訴人に銀30枚の高札が立つ
  1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城に
     松倉重政は新たに島原城(森岳城)の築城に着工。築城まで7年の歳月がかかる
     1637(寛永14)12/11《10/25》島原一揆が起こる。一揆軍が原城に籠城
  平戸のオランダ商館。商館の民家50軒を移転させ商館を拡張
     1641(寛永18)長崎出島に移転
     直接の移転理由は建物の破風にキリスト紀元の年号を書き記していたことによる
     またポルトガル貿易禁止による長崎の衰退を防ぐ狙いもあり、鎖国体制の完成を意味する象徴的な出来事
  肥後菊池氏の一族で喜蔵町(桜町の一部)に住む池田与右衛門入道好運が「元和航海記」を著す
     ポルトガル人の航海士マノエル・ゴンサロから航海術を学ぶ

1618(元和04)頃

  キリシタンの処刑にあたり馬込の非人株杭原の者がその役を命じられるが、処刑を拒む

元和02〜04(1616〜1618)

  平戸オランダ商館に近代塗装のペンキが施される

1619(元和05)【後水尾】 己未(つちのとひつじ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  05/18佐賀鍋島の重臣で深堀城主第18代の鍋島純賢(73)が左馬助茂宅で没する。殉死3人
  08/07《06/28》イエズス会スピノラが大村の鈴田牢に投ぜられる
  11/13大村家第20代の大村純頼(28)が玖島城で没する。墓所は本経寺。殉死1人
  11/18《10/13》木村レオナルド、村山徳安アンドレスら5人が長崎で火刑にされる
  12/01《10/26》末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流されていた村山等安が江戸で斬首
     末次と村山は不仲で等安を父興善時代の貸与銀15貫目の不払いを理由に幕府へ訴え
     村山等安の息子がドミニコ会宣教師をかくまっていたことが露見し将軍家忠が激怒したことによる
     【1616(元和02)?】
  幕府はキリスト教の危機を感じ『大追放』を行なう
     宣教師62人、信徒53人がポルトガル船でマカオに追放。宣教師31人と信徒多数がマニラヘ
     マニラ行には高山右近らも含まれた
  勝山町のサン・ドミンゴ教会跡地に代官の末次平蔵が代官屋敷を建てる
  長崎で殉教が行なわれる
  1614(慶長19)に行なわれた教会堂の大破却に遅れて、福祉事業団体ミゼリコルディア(慈悲)の組が厳しい弾圧のもと壊される
  桜馬場のトードス・オス・サントス教会堂(諸聖人教会堂)がサン・ロセンソ教会などとともに破壊される
     のち東土参台(とうどのさんだい)、トードノサンタと記憶され唐渡山(とうどさん)と呼ばれる
     いまの城の古址のこと
     1643(寛永20)教会跡地に岩原郷立山の大梅山春徳寺が境内がせまいため代官末次平蔵の喜捨により移設
     山号を初代代官末次平蔵政直の院号から華嶽山に改める
  津田又左衛門がシャム国より赤檀(しゃくたん)を得て帰国
     赤檀は3等分され鍋島侯、末次代官、残り3分の1で仏像を刻み、西山郷の能仁寺に献納する
     のち材木町の乙名となる
  ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが天体の運行法則に関する「ケプラーの第3の法則」を発表
     第1の法則、第2の法則に続いて第3の法則は調和の法則

1620(元和06)【後水尾】 庚申(かのえさる)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  01/17不干斎ハビアンが長崎で反キリシタンの書「破提宇子(はでうす)」を執筆
     10/頃刊行される
     ハビアンはもと禅僧。京都の南蛮寺に住みイルマン(教弟)となるが、のち棄教
     「破提宇子」はデウスの実在性、アダムとイブの説話、キリストの出生などについて記述、キリスト教の批判をこころみる
  07/イギリスのエリザベス号が朱印船の平山常陳の船をだ捕。連行して平戸に入港。平山常陳船事件
     朱印船の平山常陳の船には日本布教のため密航を企てたアウグスチノ会のズニガ神父とドミニコ会のフローレス神父が便乗
     1622(元和08)08/19《07/13》ズニガ神父、フローレス神父と平山常陳が西坂で火刑に
     船員10人は斬罪に
  09/16イギリスの清教徒ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でイギリス南西部プリマスを出航
     メイフラワー号は全長27.5米、180瓲
     25〜30人の乗員を除く船客102人のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属す
     この102人はイギリスからニューイングランド地方への最初の永久移民となる
     船上で社会契約説に基づくメイフラワー誓約を結ぶ
     11/11コッド岬に到達
     12/26現在のマサチューセッツ州プリマスのマサチューセッツ湾沿岸に到達
     彼らの上陸した土地は偶然にもニュー・プリマスと出発地に因む名がつけられていた
     メイフラワー号はイギリスからアメリカまでの大西洋4400粁を66日間かけて横断
  09/20《08/24》支倉常長ほかの遣欧使節が帰国
     支倉常長は伊達政宗の命をうけ遣欧使節として通商交渉を目的にローマへ
     出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。帰国時には日本ではすでに禁教令がだされる
     洗礼を受けていた常長はキリスト教徒弾圧の中で、影に潜むように生きるのみ
     1622(元和08)08/07《07/01》太平洋横断という偉業を成し遂げた支倉常長は失意のうちひっそりと死去
  皆吉宅跡を欧陽雲台が買い別荘地としていた場所
     のち南京地方出身の船主が集まり、航海の安全を祈願して寺町の欧陽雲台の別荘地に媽姐堂を建立
     明国江西省の僧・真圓を庵主として小庵をつくる
     隠元が東明山・興福寺(黄檗宗)[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]を開法開山
     日本黄檗宗発祥の地。南京地方の人の寺で、南京寺、赤寺といわれ、三江会所があった
     【1623(元和09)開祖?】
     長崎に来た中国人の中にはキリスト教とがおり、長崎奉行が幕府の命で唐人の宗教についても厳重な取り調べ
     (1)対して長崎在留の南京地方船主達は遺憾に思い、進んで来舶唐人中のキリスト教信者を調査
     (2)海上の安全を祈り(3)故人の冥福を祈るため…仏殿を設ける
     1632(寛永09)興福寺第2代の住持・黙子如定が本堂の大雄宝殿を建立
     本堂は中国工匠による純粋の中国建築
     精緻な彫刻、華麗な彩色に氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井などが珍しい
     コンブラ仲間は後に出島を通して醤油や酒を陶器の瓶に詰めて輸出するようになる
     1641(寛永18)殿堂、山門、経蔵などを工事
     1663(寛文03)本堂の大雄宝殿が大火で類焼
     1689(元禄02)本堂の大雄宝殿が再建
     1690(元禄03)山門が再建される
     元禄年間(1688〜1704)中国の海の神を祀る媽姐堂が再建される
     1865(慶応01)本堂の大雄宝殿が暴風で大破
     1883(明治16)中国から工匠を招き本堂の大雄宝殿が再建
     中国清朝の華南系の建築様式をよく伝える
  佐賀の山伏高覚院盛宥が今籠町に祇園社(天王社)を開創
     1626(寛永03)長崎奉行に許可され京都祇園社の神霊を天王社に合祀。祇園宮延寿院と改称
     1638(寛永15)高野平郷(鍛冶屋町)に遷宮、高覚院は僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲与
     1667(寛文07)江戸東叡山の末寺、宝樹山現応寺
     のち3代住職玄澄は安禅寺の開山で以後も同寺住職を兼帯
     1766(明和03)大火により焼失
     1773(安永02)市中の町々、人々の寄付により再建
     1819(文政02)一の鳥居が風頭石で建立
     1868(明治01)神仏分離に伴い澤宣嘉総督により八坂神社と命名
     1879(明治12)本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
     明治期現應寺(祇園社)の鐘楼が清水寺に移される
     明治期宮司小西成則の身内・十四世忍達恵等大和尚が清水寺住職として就任
     全国でも稀な神社と寺の境内が結ばれる参道が整備
     1924(大正13)昭和天皇御成婚記念により狛犬が替わる
  伝誉が本博多町のミゼリコルディア教会跡地を賜り正覚山中道院・大音寺(浄土宗)を創建
     1638(寛永15)鍛冶屋町(現在地)に移築
  大村本経寺の僧日慧【日恵?】がキリスト教徒の迫害を受けながら筑後町のサン・ジョアン・バプチスタ教会跡に聖林山本蓮寺を建立
     1641(寛永18)大村氏などが支援して寺地を拡大。皓台寺、大音寺とともに長崎三大寺のひとつに
  桜町のサン・フランシスコ教会跡地に囚獄屋敷(クルス牢)が建つ
     宣教師や信者が入れられ西坂の丘まで引き連れていかれ殉教
     1881(明治14)09/囚監が片淵郷の乃武館跡に移る
  長崎甚左衛門純景が仕えた筑後国柳河の田中吉政の子、田中忠政が子をなくして没し田中家が断絶
     甚左衛門は大村に帰り横瀬浦で100石を領する
     1621(元和07)12/12長崎甚左衛門純景(年齢不詳)が死去
  島原7か村124人が殉教の決意をローマへ表明する
  2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建がはじまる
     大坂夏の陣で大坂城は燃え上がり落城したため
     1629(寛永06)3期にわたる工事を経て完成

1620(元和06)頃

  出島埋立工事の際、熊本県八代の出身者が移住してくる
     高野家創業者の勇助もそのうちのひとり。勇助は万屋町にて魚屋を開業
     1675(延宝03)からすみの店、高野家を創業
     万屋町の魚屋、高野勇助が野母崎方面に赴きボラのマコを塩漬けにしたからすみをを作る
     売り出したところ味が評判に
     1712(正徳02)長崎奉行から幕府へ献上されるようになる
     幕府は勇助に年俸銀100匁を下賜。献上は維新まで続く
     明治初期本下町(現築町)に移転

1621(元和07)【後水尾】 辛酉(かのととり)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス(←10/29→)レオナルド・カンプス

  08/大音寺を開山した伝誉の弟子信誉が下筑後町に浄土宗の法泉寺を建立する
  12/12長崎領主で大村家重臣の長崎甚左衛門純景(年齢不詳)が死去
     1622(元和08)夫人とらが没
  代官の末次平蔵が皮屋町の者に殉教者を留置しておくよう下命する
     町の者は命令に従いたくない旨を答える
  代官の末次平蔵が馬町の代表者にドミンゴスを炙るための薪を運ぶように命じる
     伝言は3回繰り返されるが、全町民はこぞって応じたくない旨を答える
  桶屋町の寺が東本願寺から浄土宗大谷派光永寺の寺号を得る
     1663(寛文03)火災にあい焼失。再建される

1622(元和08)【後水尾】 壬戌(みずのえいぬ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》レオナルド・カンプス

  08/07《07/01》太平洋横断という偉業を成し遂げた支倉常長は失意のうちひっそりと死去
     支倉常長は伊達政宗の命をうけ遣欧使節として通商交渉を目的にローマへ
     出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。帰国時には日本ではすでに禁教令がだされる
     洗礼を受けていた常長はキリスト教徒弾圧の中で、影に潜むように生きるのみ
  08/19《07/13》アウグスチノ会のズニガ神父とドミニコ会のフローレス神父、平山常陳が西坂で火刑に
     船員10人は斬罪に
     2人の神父は1620(元和06)7月朱印船の平山常陳の船に乗り日本布教のため密航を企てた罪。平山常陳船事件
  09/10《08/05》西坂で宣教師と天主教徒55人が殉教。スピノラ神父ら25人が火刑、30人が斬首の殉教
     スピノラ、木村セバスチアン、F・モラレス、オルファネルら殉教。二十六聖人と異り、ほとんどが長崎在住の信者
     元和の大殉教。【25人火刑、32人斬首】
  09/12《08/07》籠手田ガスパスらドミニコ第3会員、長崎で殉教
  長崎奉行の長谷川権六が日本に潜入した伴天連2人と船長を西坂で火刑、船員10人を斬罪に
  荒木宗太郎が交趾(こうち)国の王族阮(グエン)氏の
     娘・王加久戸女(わかくとめ・アニオさん)を妻とする
  5人組の制度が敷かれる
     5人組…向こう3軒両隣りの単位で神父をかくまっていないかキリシタンがいないかを互いに監視
     キリシタンが組内にいる場合、組内が届ければかくまった本人が、組外から訴えられると5人組全部が処罰
  新高麗町が長崎奉行長谷川権六郎が神社の由来を聞き馬場郷の敷地を寄進
     社殿の造営を助成
     のち宝生院威福寺の寺号を受ける
     1868(明治01)廃寺、天満神社となり桜馬場天満宮となる
     1874(明治07)村社となる
  長崎甚左衛門純景の夫人とらが没
     1702(元禄15)09/10大村藩家老大村内匠助長頼が時津村の山影に、長崎甚左衛門夫妻の墓碑を修める
  イエズス会の神父と3人の信徒が島原の今村刑場で火刑にあう。今村刑場で最初の殉教
     1658(万治01)大村郡崩れで捕らえられた信徒が斬首される。今村刑場で最後の殉教となる
  皮なめし職人が刑場の準備を命じられるが、それを怠る
     長崎で火刑にされる密入国の神父2人と日本人船長を守ろうとして
  宇久島で捕らえられたカミロ・コンスタンツォ神父が田平の焼罪の丘で火あぶりとなり殉教

1623(元和09)【後水尾】 癸亥(みずのとい)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)(→07/27)、[第3代]徳川家光(徳川宗家)(07/27→)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》レオナルド・カンプス(←11/21→)コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  佐嘉の修験道者、金重院の修験道(山伏)青木賢清(かたきよ)が長崎にはいる【肥前唐津】
     長崎はキリシタンの全盛期、賢清は神道の再興に乗りだす
     公文九郎左衛門より別々に鎮座し、キリシタンに破壊された三神の祭祀を譲り受ける
     *東山の地に打ち捨てられた「諏方(すわ)大明神」と刻まれた碑石
      1555(弘治01)に織部亮為英が京都から諏方明神を分霊勧請したもの
     *小島かみなり岡の小祠に祀られた小島大王ともいわれた「住吉大明神」【小島郷尾崎(正覚寺付近)】
     *長崎6町を構築する際に壊された天満天神「森崎大権現(杵崎大明神)」を祀る
     1625(寛永02)青木賢清が奉行や代官らの保護援助により「諏方社」の社殿を西山郷圓山(松の森)の地に建立
     青木は社殿造営でキリシタンから「天狗(悪魔)」と罵倒され、社殿造営にはキリシタンから妨害される
     大村の人夫を使う等の苦難の末に一宇の小社を建立
     「諏方大明神」「住吉大明神」「森崎大権現(杵崎大明神)」の三神を合祀。初代宮司青木賢清により産土神として再興
     1634(寛永11)長崎奉行の榊原飛騨守は諏方社を長崎住民の総氏神と定める
     1647(正保04)08/05長崎奉行が西山郷圓山(松の森)の「諏方社」に幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨。幕府より朱印地を得る【02/05?】
     12/05《11/09》玉園山の地に社殿造営工事がはじまる
     1648(正保05、慶安01)08/玉園山の地に諏方社の仮殿が完成する
     諏方社が神宮寺の寺号を賜い玉園山神宮寺と改称
     1651(慶安04)04/西山郷圓山(松の森)から移る
     「諏方社」の鎮西無比の荘厳な社殿が旧神宮寺の旧跡、「玉園山」の地に完成
     10/03《08/19》遷宮
     以降、調停や幕府の崇敬が厚く長崎の総鎮守府に
     10/27《09/13》造営完了の祝能の催しあり
     1653(承応02)06/代官末次平蔵が自費で拝殿を造る【03/?】
     1679(延宝07拝殿、廻廊、能舞台が完成
     1683(天和03)08/玉園山神宮寺の寺号をやめて神道一式となる。寺号を賜ったのは1648(慶安01)
     1722(享保07)諏方社の長坂が73段に改修される
     1723(享保08)正一位にとなる
     1809(文化06)08/総町奉納金で諏方社の踊り馬場石垣に欄干を設ける
     年内奉行曲渕甲斐守が諏方社に桜樹350本を寄付、境内に植え付けさせる
     1815(文化12)本石灰町の中村嘉右衛門の喜捨で、一の鳥居から踊り場までを石畳とする
     1827(文政10)正殿の柿葺を檜皮葺に改める。経費1千両は総町の寄付
     1832(天保03)1828(文政11)の台風で倒壊した諏方社の能舞台と回廊が修復
     各戸銀3匁を負担、総町より銀100貫を拠出して
     1857(安政04)09/20正午、古幣、注連縄などが焼却中に飛び火し失火。社殿回廊はもとより奉納物などすべてが灰に
     1806(文化03)江戸城に送り将軍の上覧に供したオランダ船の模型が焼失
     3社の神輿は西山妙見社に遷宮
     12/19仮殿が落成する
     1863(文久03)02/朝延が島原侯松平主殿頭に勅し、諏方社の再建を急ぐよう命じる
     1864(元治01)再建に着手。本社拝殿は長崎会所が負担
     1869(明治02)09/孝明天皇の勅諚により、以前にも勝る諏訪社の諸殿の工事成る。竣工奉告祭を挙行
     工師は尾張の水野正明。すべてひのき材を用いて建造するが、能舞台は再建されず
     1872(明治05)07/県社に列せられる
     1881(明治14)06/準国幣社となる
     1895(明治28)07/05国幣小社となる
     1906(明治39)01/28はじめておみくじを備える
     日露戦争後、参拝者が急激に増えおみくじを希望する者が多くなる
     1914(大正03)日本初の「英文みくじ」が登場。訳文は長崎中学校英語教師の釘本小八郎
     1915(大正04)11/16国幣中社に昇格する
     第二次大戦後神社本庁の別表神社となる
  山城国・京都清水寺の真言僧・慶順が仏像を抱いて来崎
     薬師石(瑞光石)が光った場所に長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)を開く
     1627(寛永04)島原城主松倉重政が瓦葺の堂(瓦堂)を寄捨、石欄をめぐらし京都の清水寺を模して建立
     1642(寛永19)博多商人初代伊東小左衛門が京都で鋳造した鐘を寄進
     1668(寛文08)唐商人何高材が黄檗様式が随所に見られる本堂を寄進
     鐘楼堂は隣の現応寺にあったもの
     1771(明和08)石門が建立
  浄土僧・転誉が長州の萩から阿弥陀如来像を背負って来崎
     教化に努め長崎奉行長谷川権六の助力で堂宇を建立
     のち万年山比経院・三宝寺(浄土宗)となる
  平戸の英国商館が英本国の外交方針の転換により通商を断念
     対日通商への参入の遅れ、中国貿易への取引の失敗などから不振になり閉鎖され商館を閉鎖。日本から撤退する
  漆工長兵衛が舶来中国人から青貝漆器の製作法を学ぶ
  イスパニア使節が薩摩に来航
     のち1624(寛永01)03/幕府は上京を差し止め復交の拒絶を回答する

元和年間(1615〜1624)

  長崎の漆工生島藤七が来泊の中国人から螺鈿(らでん)の法を学ぶ
  佐賀藩が支藩の諌早藩に領地を貸すよう(実際は取り上げ)難題を持ちかける
     断りきれなかった諫早藩の生活は苦しくなる
     寛永年間同じく佐賀藩が支藩の諌早藩に、領地を貸すよう(実際は取り上げ)難題を持ちかける
  皮革産業の中心摂津の渡辺村に唐物皮を長崎毛皮屋町へ仕入れにいく大問屋が12軒生まれる
     長崎問屋12軒
     岸部屋三右衛門、河内屋吉兵衛、大和屋四郎兵衛、明石屋助右衛門、備中屋吉左衛門、日向屋仁右衛門、
     住吉屋支宗兵衛、豊後屋太右衛門、淡路屋孫右衛門、讃岐屋治兵衛、大和屋弥四郎、池田屋七郎兵衛
  長崎の西坂刑場で117人のキリシタンが処刑される

1624(元和10、寛永01)【後水尾】 甲子(きのえね)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  03/幕府は前年に薩摩に来航したイスパニア使節に対し上京を差し止め復交の拒絶を回答する
  07/17彼杵郡小干の浦に父子2人の殉教者がでる
  09/09湯立神事がはじまる
  唐津の僧誓誉が草庵を結んで開蒼庵とする
     のち一寺を建て東雲山・浄安寺(浄土宗)の寺号を得る
     聖徳太子が作ったといわれる薬師如来を奉安
  福砂屋がポルトガル人からカステーラの製法を習う。引地町に創業
     1775(安永04)六代目市良次の頃、市中の発展と共に船大工町に移転
     ●●(明治●●)12代清太郎のとき蝙蝠を商標として、特製の白菊、黄菊、五三焼など独特なカステラを作る
  長崎の浜田弥兵衛がフィリピンへ渡り眼鏡作りを習う。生島藤七に教えて作らせる
  八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
     1705(宝永02)吉祥院が崇嶽(瓊杵山)に移り、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
  中国人貿易商の鄭芝龍と平戸の日本女性田川マツのあいだに鄭成功が生まれる
  第3回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は鄭●(山冠に立)総人数460。使命は徳川家光の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1636(寛永13)第4回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は任絖、総人数478。使命は朝鮮政策の確認と対馬藩の擁護
  深堀の鍋島茂賢が大坂城普請奉行を勤むことに
  オランダ人が台湾を占領する

1625(寛永02)【後水尾】 乙丑(きのとうし)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  夏/オランダの台湾総督ソンクが日本商人の来航阻止のため日本商品に1割を課税、さらに在日中国人の台湾通商を禁止する
     のち日蘭両国、商人の間で紛争が起こる
  青木賢清が奉行や代官らの保護援助により「諏方社」の社殿を西山郷圓山(松の森)の地に建立
     青木は社殿造営でキリシタンから「天狗(悪魔)」と罵倒され、社殿造営にはキリシタンから妨害される
     大村の人夫を使う等の苦難の末に一宇の小社を建立
     「諏方大明神」「住吉大明神」「森崎大権現(杵崎大明神)」の三神を合祀。初代宮司青木賢清により産土神として再興
     1634(寛永11)長崎奉行の榊原飛騨守は諏方社を長崎住民の総氏神と定める
  松倉文後守重政、徳川幕府の命令によりキリスト教徒の弾圧を厳重にする
     この年教徒10人を温泉火坑に投じる
  山伏大学院照寛が本紙屋町に玉泉院を開創
     のち馬場郷の威福寺内に移転
     1758(宝暦08)寄合町の現地に
     1868(明治01)玉泉神社
  キリシタンに破却された六地蔵を村人が赤迫の岸壁に再興
  慈眼大師天海大僧正により寛永寺が創建される
     秀忠は徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地を天海に与える
     もと伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷で、公収して寺地にあてる

1626(寛永03)【後水尾】 丙寅(ひのえとら)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》長谷川権六(04/退任)、水野河内守(守信・前使番・04/発令)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  04/09《03/13》長崎付近の山中に潜伏中のディエゴ・デ・フランシスコらが長崎を発ち東北に向かう
  04/水野河内守が奉行就任とともにキリシタン弾圧を強化する
     入牢中のバテレン数人を火刑に処し、さらに教徒の検挙に着手する。過酷な体刑を科して転宗を強制
     まず転宗(ころび)を勧め、ころばぬ者は家を追い、山のなかに小屋を建てて住めば焼き払う
     ころぶと申しでる者があれば切支丹仏(イエス像)を足で踏ませ、転び帳に判をつかせて許す
     このときに踏み絵がはじまる
  05/06《閏04/26》F・パシェコ、イルマン、ガスパル貞松が長崎で殉教
  10/25・28《09/06・09》後水尾院天皇が京都二条城に行幸したときの献立にカステラがでる
  キリシタン弾圧強化のため長崎奉行の水野守信が絵踏をはじめる
     目付から長崎奉行となった水野河内守守信は踏絵を始め、キリシタン弾圧を厳しくする
     初めの目的はキリシタンに聖像を踏ませ背教させるため
     【1628(寛永05)、1629(寛永06)等諸説あり】
     踏絵と絵踏のちがい
      踏絵…踏む絵のこと(踏ませる絵)
      絵踏…絵を踏むこと(踏ませる行為)
     1629(寛永06)絵踏が年中行事化する
     毎年《01/04〜09》各町の乙名、組頭ら町役人が家々を訪れるなど市内で行なわれる
      丸山遊女は乙名の家で踏ませる
     毎年《01/12〜17》長崎村、山里村、淵村で行なわれる
     毎年《02/07〜12》日見村、古賀村、茂木村、野母村、高浜村で行なわれる
     のち踏絵には当初、画像が用いられたが損傷が激しくなる
     のちマドリッド造幣局で製造された銅牌を板に嵌め込み用いるようになる
     銅牌は無原罪の聖母2枚、ロザリオの聖母3枚、ピエタ1枚、エッチェホモ4枚
     のち貸し出しに不足するようになる
     1669(寛文09)本古川町の鋳物師萩原祐佐に命じ唐銅の踏絵板20枚を作らせる
     唐銅はエッチェホモ5枚、十字架上のキリスト5枚、ピエタ5枚、ロザリオの聖母5枚
     そのうちの1枚は長崎から天草へ貸し出したときに誤って海に落としてしまう
     鋳物師萩原祐佐は真に迫った出来栄えのためキリシタンと疑われ処刑される
     1858(安政05)春/日米修好通商条約の締結によって年中行事の絵踏行事が廃止される
     踏絵板は長崎奉行所の蔵に収められる
  長崎奉行の水野守信がキリシタン弾圧を強化。入牢中のバテレン数人を火刑に
  代官の末次平蔵らが台湾で生糸を買占めオランダ人との間に紛争を起こす
     1627(寛永04)05/中代官の朱印船船長浜田弥兵衛が台湾人16人を連れて帰崎
     平蔵に台湾でのオランダ人による暴状を訴える
     平蔵は奉行に訴え台湾人一行を使節として江戸に送る
     06/20オランダ台湾長官のヌイツが紛争解決のため日本に向かい、平戸に入港
     09/将軍に会見を拒絶され紛争解決の交渉が不調に終わる
     11/台湾に引き返す
     1628(寛永05)04/代官末次平蔵の朱印船船長浜田弥兵衛が僚船1隻と台湾に着く
     台湾の長官ヌイツは日本人の上陸を禁止。交渉にきた弥兵衛を抑留し船中の武器を取り上げる
     便乗中の台湾人を拘禁して将軍の下賜品を押収する。台湾事件
     05/浜田弥兵衛は仲間13人を連れて官邸にヌイツを訪ねる
     日本への帰国などについて交渉するが拒絶されたため、ヌイツを捕虜にして交渉を続行
     のち日蘭双方から5人の人質をだすことなどで和解
     06/弥兵衛は蘭船と蘭人を連行して長崎に帰り、末次平蔵に台湾事件を報告する
     連行の人質は大村の牢に収容
     のち幕府が蘭船4隻の抑留と平戸蘭館の閉鎖を命じる。台湾事件はわが国を侮辱したものとして
     1632(寛永09)10/日蘭の国交が回復し蘭館の閉鎖が解除される
  岩原郷上筑後町の洪泰寺が高野平村(寺町)へ移転
     船本弥平次、梅野了安が所有地を寄付、幕府の援助を受けて移転する
     1642(寛永19)第2代住持一庭融頓が上洛、明正天皇に拝謁
     「了外広覚禅師」の号と「海雲山普昭晧台寺」の寺号を下賜される。洪泰寺が海雲山普昭晧台寺と改まる
  肥前松浦郡の浪人・川上久右衛門光房所有の菅原道真直筆の露像が様々な奇跡をおこす
     今博多町の自宅側に祠を祀り天満宮と名づけ人々の信仰を受ける
     1630(寛永07)浪人川上久右衛門光房の今博多町の自宅側の天満宮の祠を同町中島川畔に移転。仮殿を造営
     翌年初めて例祭を執行
     1656(明暦02)08/28長崎奉行黒川与兵衛の肝入りで今博多町の天満宮を西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命
     1659(萬治02)09/25諏方社跡の地に天満宮神殿竣工、正遷宮を行なう
     1680(延宝08)03/元諏方社の跡に移った天満宮の社殿を長崎奉行牛込忠左衛門勝登が整備
     新築や改築で正殿、拝殿から正門まですべての建物が整備、松森神社の落成大祭が行なわれる
     長崎奉行牛込忠左衛門が「涼しさや御影とたのむ松の森」を詠じ、神前に奉納
     松森神社(松森天満宮)の名称の基になった句
     由来は、境内に同根3株の立派な松の木があり、「松」と木が3つでできている「森」の文字が当てられる
     奉行の要請で豪商魏之●(王篇に炎)が正門を寄進
     1713(正徳03)長崎奉行久松備後守定持らが松森神社を大改修
     本殿周囲を飾る「職人尽(ほり物)」が奉納される
     彫刻者は御用指物師喜兵衛・同藤右衛門。長崎奉行御用絵師小原慶山が下絵を描く
  正覚寺開祖道智の隠居所として十善寺郷に廣済寺が創立
     1676(延宝04)正覚寺境内に移る
     1883(明治16)正覚寺内から独立、現在の中新町に移転
  キリシタン訴人に賞金を定め制札場に掲げる。嘱託銀。賞金はバテレンが銀100枚
     【1622(元和08)?】
     1638(寛永15)賞金を改める。バテレン銀200枚、イルマン100枚、その他30〜50枚に
     1654(承応03)02/キリシタン訴人賞銀を増加。バテレン銀300枚、イルマン200枚、同宿その他50枚または30枚に
     1682(天和02)05/キリシタン訴人賞銀を増額。初めて「立ちかえりの者」の訴人に対する懸賞金を加える
     いったん棄教した者のキリシタン復帰を防止する。嘱託銀制を強化し、密告を奨励する
     バテレン銀500枚、イルマン銀300枚、立ちかえりの者300枚、同宿および宗門100枚
  浦上のキリシタンが林中に隠れる。捕吏は火を放ち駆りだす。残酷な拷問で多数の棄教者がでる
  戸町神社(松尾大明神)が創建
  修験者の宥道が岩原郷に真言宗躰性寺を創建
     1868(明治01)廃寺となる
  筑後の僧浄念(俗名高光甚左衛門信宗)が下筑後町に観善寺を創建【上筑後町】
     1671(寛文11)上筑後町の現在地に移建
  悟真寺開基の聖誉の弟子が稲佐坊山に聖徳寺を創建
     ●●(●●00)銭座に移る
  今籠町の祇園社(天王社)が長崎奉行に許可され京都祇園社の神霊を天王社に合祀。祇園宮延寿院と改称
     1638(寛永15)高野平郷(鍛冶屋町)に遷宮、開創した山伏高覚院は僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲与

1627(寛永04)【後水尾】 丁卯(ひのとう)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》水野河内守
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  02/18《01/03》島原藩主の松倉重政がパウロ内堀作右衛門ら16人を拷問し殉教させる
     重政は雲仙地獄に投げ込み、熱湯責めで拷問。雲仙地獄責めのはじまり
     作右衛門は有家の者。過去3回捕えられるが信仰は微動もせず
     4回目の捕縛で松倉重政が初めて試みた雲仙地獄の熱湯責めで息絶える
  03/ピーテル・ヌイツがオランダ台湾長官に任命されバタビヤを発つ
  04/11長崎甚左衛門の弟、長崎織部亮為英(年齢不詳)が没する。墓所は夫婦川町の織部神社の地
  05/06《03/21》辻トマス、宿主ルイス、その長子ジョアンが火刑で殉教【09/06《07/27》?】
  05/中代官末次平蔵の朱印船船長浜田弥兵衛が台湾人16人を連れて帰崎
     平蔵に台湾でのオランダ人による暴状を訴える
     平蔵は奉行に訴え台湾人一行を使節として江戸に送る
     06/20オランダ台湾長官のヌイツが紛争解決のため日本に向かい、平戸に入港
     09/将軍に会見を拒絶され紛争解決の交渉が不調に終わる
     11/台湾に引き返す
     1628(寛永05)04/代官末次平蔵の朱印船船長浜田弥兵衛が僚船1隻と台湾に着く
     台湾の長官ヌイツは日本人の上陸を禁止。交渉にきた弥兵衛を抑留し船中の武器を取り上げる
     便乗中の台湾人を拘禁して将軍の下賜品を押収する。台湾事件
  08/17《07/07》長崎のドミニコ第3会員らが殉教
  08/27《07/17》長崎のフランシスコ第3会員らが殉教
  09/06《07/27》殉教者が相次ぐ。日本人バテレンの辻トマスら6人が西坂で火刑に処せられる【05/06《03/21》?】
  11/24長崎頭人(町年寄)で朱印船貿易商の後藤宗印(年齢不詳)が没する【80余歳?】
     通称惣太郎、のち庄左衛門。キリシタンのため前年に江戸送りとなり牢死。墓所は晧台寺
  キリスト教徒に対する弾圧が一層厳しくなる
     〜1630(寛永07)まで「山入り」と称し、教徒を温泉におくり地獄責めをして改宗を迫る
  長崎奉行の水野守信がキリシタン340人を松倉重政に引き渡し処刑させる
  長崎の信徒の組織が残る
  最後のキリシタン乙名・町田と後藤が江戸に追放。他の信者のリーダーたちはマカオに流される
  島原城主松倉重政が長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)を建立
     松倉重政は瓦葺の堂(瓦堂)を寄捨、石欄をめぐらし京都の清水寺を模す
     1642(寛永19)博多商人初代伊東小左衛門が京都で鋳造した鐘を寄進
  イエズス会神父クリストヴァン・フェレイラがイエズス会日本管区長になる
     1632(寛永09)年報を報告後、潜伏中の大坂方面で捕縛、長崎に護送される
  島原城主の松倉重政が雲仙地獄でキリシタン追害を行なう
     地獄の熱湯をかけるなどして転宗を迫るもの
     長崎奉行の竹中采女も次々にキリシタンを雲仙に送り残酷な拷問を繰り広げる
     1632(寛永09)この年まで5年間にわたり続く
  医を業とする明人陳明徳が渡来
     のち帰化して潁川入徳と称する。小浜温泉を開発する
  ポーランドでウシの原種とされる野生種のオーロックスの死亡が確認。この1頭を最後に絶滅する
     ウシ科ウシ属に属するウシの一種。家畜牛の祖先で、子孫であるコブ無し系家畜牛やコブウシは全世界で飼育された
     およそ200万年前にインド周辺で進化したと考えられる
     第四紀初頭のうちに中東に分布を広げ、ヨーロッパに到達したのはおよそ25万年前
     更新世末期(1万1千年前)までには、ヨーロッパ・アジア・北アフリカなどの広い範囲に分布
     1万5千年前のラスコー洞窟の壁画に描かれたのもオーロックス

1627(寛永04)頃

  キリシタン弾圧に被差別部落の人々を刑吏に直接かかわらせる施策がとられる
     被差別部落のなかにもキリシタンがいたためすぐに刑吏としては使えず、牢番に
     のち次第に処刑にも直接かかわらせるようになる

1628(寛永05)【後水尾】 戊辰(つちのえたつ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》水野河内守(大坂町奉行転出)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  04/代官末次平蔵の朱印船船長浜田弥兵衛が僚船1隻と台湾に着く
     台湾の長官ヌイツは日本人の上陸を禁止。交渉にきた弥兵衛を抑留し船中の武器を取り上げる
     便乗中の台湾人を拘禁して将軍の下賜品を押収する。台湾事件
     05/浜田弥兵衛は仲間13人を連れて官邸にヌイツを訪ねる
     日本への帰国などについて交渉するが拒絶されたため、ヌイツを捕虜にして交渉を続行
     のち日蘭双方から5人の人質をだすことなどで和解
     06/弥兵衛は蘭船と蘭人を連行して長崎に帰り、末次平蔵に台湾事件を報告する
     連行の人質は大村の牢に収容
     のち幕府が蘭船4隻の抑留と平戸蘭館の閉鎖を命じる。台湾事件はわが国を侮辱したものとして
     1632(寛永09)10/日蘭の国交が回復し蘭館の閉鎖が解除される
  09/08《08/02》アントニオ・デ・サン・ヴェナベントゥラおよび第3会員らが殉教
  唐僧覚悔が弟子了然と覚意を伴い渡来、岩原郷に庵を建て天后聖母(媽姐聖母?)を祀る
     切支丹禁制が最高潮の時、唐人は宗教上のことで貿易の利潤を失わないために地方別の寺院建立が得策と考える
     福済寺[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]の起源
     1649(慶安02)泉州人の僧蘊謙(うんげん)が重興開山
     ●(ちゃく・「シ・さんずい」に「章」)州人の檀家が多く●(左に同じ)州寺ともいった
     のち筑後町に移転
     1655(明暦01)黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
     1658(万治01)唐大通事頴川藤左衛門が山門を寄進
     1945(昭和20)08/09唐大通事頴川藤左衛門が寄進した山門、黄檗天竺様式の大雄宝殿が原爆で焼失
     1979(昭和54)福済寺に「万国霊廟長崎観音」が建立
  新高麗町民が伊勢宮再興を祈願。奉行所に願出、唐津出身の天台宗修験南岳院存祐を神主に推挙
        存祐は伊勢に赴き外宮長官の檜垣常晨より許状を受取る
     1639(寛永16)山伏南岳院存祐が(新)高麗町に伊勢大神宮祈祷所を建て伊勢宮を再興させる
     1646(正保03)11/28伊勢宮社殿竣工
     12/08遷宮式を行なう
     1710(宝永07)大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
     1901(明治34)伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行われる
  台湾の台南にあるオランダの貿易基地に長崎代官、末次平蔵の朱印船2隻が入港
     船頭は浜田弥兵衞、武装している2隻の船の乗組員は合計で470人
     台南のゼーランジャ城の長官ピーテル・ノイツは弥兵衞が交渉のために上陸してきたのを捕らえる
     その間に武装解除し、しばらくの間、2隻を抑留しようとする
     ピーテル・ノイツは弥兵衞が襲撃してきたと誤解
     弥兵衞は交渉をするが要領を得ず。弥兵衞は逆にノイツを捕らえて人質に
     結果、双方がいきり立ち数人が集まり乱が及ぼうとするところ、和解が成立

1628(寛永05)頃

  江戸で女歌舞伎が流行する
     1629(寛永06)遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)が風紀を乱すとの理由から禁止となる
     1652(慶安05)前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が禁止となる
     売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどにより
     1653(承応02)03/歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じることに。野郎歌舞伎
     江戸時代の文化の爛熟の中で洗練されて完成していく

1629(寛永06)【明正】 己巳(つちのとみ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》竹中采女正(重興・前豊後府内城主)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  01/長崎奉行竹中采女正が板踏絵をつくらせ広く絵踏みを行なわさせる
  07/長崎奉行の竹中采女正が松倉重政の勧めでキリシタンを雲仙地獄で拷問。最初の犠牲は64人
  10/23天正遣欧少年使節の1人、原マルチノ(61)がマカオで没する
  残酷で有名な長崎奉行竹中采女正がキリシタンが浦上の山に隠れていることを知る
     山に火をつけて狩り出し、長崎に連れていき駿河問にかける
     駿河問=拷問の一種で、手足を背中に回して縛りその綱を四隅の柱に吊るす
         ヨリをかけて手を離すとヨリが戻り吊るされた体が回り気を失う。何回も繰り返し棒で叩く
  キリシタン弾圧強化のため長崎奉行が絵踏を年中行事化する
     毎年《01/04〜09》各町の乙名、組頭ら町役人が家々を訪れるなど市内で行なわれる
      丸山遊女は乙名の家で踏ませる
     毎年《01/12〜17》長崎村、山里村、淵村で行なわれる
     毎年《02/07〜12》日見村、古賀村、茂木村、野母村、高浜村で行なわれる
     のち踏絵には当初、画像が用いられたが損傷が激しくなる
     のちマドリッド造幣局で製造された銅牌を板に嵌め込み用いるようになる
     銅牌は無原罪の聖母2枚、ロザリオの聖母3枚、ピエタ1枚、エッチェホモ4枚
     のち貸し出しに不足するようになる
     1669(寛文09)本古川町の鋳物師萩原祐佐に命じ唐銅の踏絵板20枚を作らせる
     唐銅はエッチェホモ5枚、十字架上のキリスト5枚、ピエタ5枚、ロザリオの聖母5枚
     そのうちの1枚は長崎から天草へ貸し出したときに誤って海に落としてしまう
     鋳物師萩原祐佐は真に迫った出来栄えのためキリシタンと疑われ処刑される
  奉行竹中采女正が西坂に拷問所を設ける
     種々の責め道具を使い転宗を迫るなど、残虐な拷問を行ない追害は過酷の極に達する
  福州地方の唐人を檀越とする唐寺を建てる
     中国福州出身の王引、何高材、魏之●(王偏に炎)、林仁兵衛らが唐僧超然を招く
     崇福寺の開基となる[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]
     最初は船神媽祖を祭る小堂。福州地方出身の豪商達が多く帰依し、次第に殿堂が整備
     1632(寛永09)在留の福州地方出身者が一寺建立の官許を得る
     1635(寛永12)唐僧・超然が聖寿山・崇福寺(黄檗宗)を創建。福州人の檀家が多く福州寺とも
     1644(正保01)諸檀越が殿堂を整えることに着手
     1646(正保03)01/唐商で大檀越の何高材の寄進により本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が上梁
     釈迦(大雄)を祭る仏壇、大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による
     1647(正保04)08/檀徒らが梵鐘を寄進する。鍛冶屋町の冶工阿山助右衛門国久が鋳造
     1672(寛文12)三門が創建される
     1677(延宝05)大雄宝殿安置の十八羅漢が完成する。江西省南昌府豊城県の仏師潤陽ほか2人の作
     十八羅漢は他の唐3福寺にはなく、長崎では崇福寺のみ
     1681(元和01)大雄宝殿が上層に入母屋造屋根を付加し2階建てに重層化
     1階の黄檗様式に対し2階は和様式
     1766(明和03)02/27明和の市中大火で三門が類焼する
     1814(文化11)上梁の門が再建される
     1828(文政11)大風で三門が倒壊する
     1849(嘉永02)三門が再建される。龍宮造楼門
     発願主は唐通事の游竜彦十郎、鄭幹輔、棟梁大串五郎平
  大坂城が3期にわたる工事を経て完成
  遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)が風紀を乱すとの理由から禁止となる
     1652(慶安05)前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が禁止となる
     売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどにより

1630(寛永07)【明正】 庚午(かのえうま)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵政直(05/25江戸で死去)
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  05/25朱印船貿易商で長崎代官の末次平蔵政直(年齢不詳・初代平蔵)が江戸で没する
  07/13幕府が諸大名に対して毎年、宗旨改めを行なうよう命じる
     1651(慶安04)頃宗旨改めが制度として全国的に毎年行なわれ、年ごとに宗旨改帳が作成されるようになる
     絵踏みが制度として行なわれた長崎では宗旨改帳は絵踏台帳を兼ねており宗旨改踏絵帳と表記される
  豊後府内の建仁寺三江紹益の法子泰室清【靖】安が岩原郷に大梅山春徳寺(臨済宗)を創建
     岩原郷の立山。場所は現在の旧県立美術博物館あたり
     1643(寛永20)境内がせまいため代官末次平蔵の喜捨によりトードス・オス・サントス教会跡地に移設
     山号を初代代官末次平蔵政直の院号から華嶽山に改める。住職は代々書物改め役に従事
     1650(慶安03)開山泰室清安が梵鐘をつくらせる
     施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入。銘は元南禅寺高大寺住三江紹益
     1699(元禄12)崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる
  新橋町(現市立中央保育所の地・寺町の筋をはさんで向かい)の正覚寺が本古川町からの出火で類焼
     1676(延宝04)境内狭溢を理由に小島郷現在地に移転
  奉行竹中采女正は多くの転宗者に1日に2度ずつの墓参を命じる
     往来の途次、必ず檀那寺に詣でて仏僧の説教を聞くことを強制
  奉行竹中采女正が盂蘭盆会を執行させる
  浪人川上久右衛門光房の今博多町の自宅側の天満宮の祠を同町中島川畔に移転。仮殿を造営
     翌年初めて例祭を執行
     1656(明暦02)08/28長崎奉行黒川与兵衛の肝入りで今博多町の天満宮を西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命。のちの松森神社
  松倉重政が長崎奉行所からの帰途、小浜に入浴療養中に死去

1631(寛永08)【明正】 辛未(かのとひつじ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  本蓮寺を開山した日慧が個人の土地を譲り受け、弟子の日與が開基に光栄山・長照寺(日蓮宗)を創建
  筑後柳河、光源寺の住持松吟が来崎。布教をはじめる
     1637(寛永14)長崎奉行から銀屋町に寺地を与えられ巍巍山・光源寺(浄土真宗本願寺派)を開山
     1676(延宝04)火災により類焼し伊良林郷の現在地に移築
  僧嶺光が伊勢町に浄土宗地福院を建てる
  多数の処刑すべき人がでてきたため、武士は刀を使って処刑すること自体を負担に感じる
     多くのハンセン病者がキリシタンとして摘発されたとき、武士の大切な刀が穢れると病者を国外追放にする

1631(寛永08)頃

  トマス次兵衛が長崎に潜入
     金鍔次兵衛…容易なる人物。フライ・トマス・デ・サンアウグスチノという日本人
      大村生まれ、父母ともに熱心なキリシタン。6歳で有馬のセミナリオに入学
      禁教令でマカオに渡り、コレジヨに5年学ぶ。マカオに渡航してアウグスチノ会の司祭となる
     1635(寛永12)次兵衛が戸根村にいるとの報に長崎奉行は直ちに徹底した大山狩り(山関)を指令【1633(寛永10)?】
     佐賀、平戸、島原、大村の4藩に出兵を命じ、さらに大村藩には地元の土民の男のほとんど動員
     1人1歩の間隔で横一列に並び、山を越え、谷を渡って西彼杵半島を南に下る空前の山狩り
     35日かかって、関所を設けた半島の付け根の時津と浦上淵村のラインにたどり着く
     めざす次兵衛は影もなく、網にかかったのは長浦村の脇崎で、次兵衛の世話をしたという塩焼きの男1人のみ
     山関で次兵衛神父が捕らえられなかったのは江戸にあり、将軍家光の小姓たちに伝道していたため
     小姓数人がキリシタンになったことが発覚し斬殺。将軍家光は激怒し次兵衛召し捕りの厳命が下される
     べつに次兵衛神父が捕らえられなかったこととして71人のキリシタンが捕まり火刑と斬罪に処せられる
     1637(寛永14)06/15金鍔(きんつば)次兵衛が捕らえられる。のち西坂にて穴吊り拷問により処刑
       穴吊りの刑…奉行今村伝四郎、曽我又左衛門が考案
       殉教者は綱で体をギリギリ巻きにされ、地中に掘った穴に逆さずり逆吊りにされる。口や鼻から血がしたたる過酷なモノ

1632(寛永09)【明正】 壬申(みずのえさる)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  09/03《07/19》グティエレス、石田アントニオ、V・カルヴァリヨ、城ジェロニモらが長崎で殉教
  10/日蘭の国交が回復し平戸蘭館の閉鎖が解除される
     1628(寛永05)に起きた台湾事件を発端として幕府は蘭館の閉鎖を命じる
  在留の福州地方出身者が一寺建立の官許を得る
     1635(寛永12)唐僧・超然が聖寿山・崇福寺(黄檗宗)を創建
  筑後の旧黒田藩士守讃が東中町に京都西本願寺の末寺として一向宗西勝寺を建てる
  興福寺第2代の住持・黙子如定が本堂の大雄宝殿を建立
     本堂は中国工匠による純粋の中国建築
     精緻な彫刻、華麗な彩色に氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井などが珍しい
     コンブラ仲間は後に出島を通して醤油や酒を陶器の瓶に詰めて輸出するようになる
     1641(寛永18)殿堂、山門、経蔵などを工事
  奉行竹中采女正が中島川両岸の海辺を埋立てて護岸を構築
     濱町〜築町に長さ14間、幅3間の屋根付きの木廊橋、通称大橋を架け交通の便をはかる
     濱町一帯の市街化が進む
     1647(正保04)06/04大洪水がおこり半ばより折れる
     詳細は分からず。正保の大水害
     1663(寛文03)木廊橋より平橋に架け替わる
     1772(安永01)08/12夜、大雨洪水で平橋が流出
     のち相継ぎ木橋が再架け、修繕される
     1868(慶応04)08/01鉄橋に架け替え。鐵(くろがね)橋
  残酷な拷問が繰り広げられた雲仙地獄でのキリシタン追害が終わる
  イエズス会神父クリストヴァン・フェレイラが年報を報告後、潜伏中の大坂方面で捕縛、長崎に護送される
     1633(寛永10)09/フェレイラら8人が西坂で穴吊りの刑を受ける
     処刑後5時間目に転宗を申し出る

1633(寛永10)【明正】 癸酉(みずのととり)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》竹中采女正(02/11免職)、曽我又左衛門(古祐・前目付・02/14発令)、
      今村伝四郎(正長・前下田奉行・02/14発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ(←01/31→)ピーテル・ファン・サンテン(←09/06→)ニコラス・クーケバッケル

  02/01幕府が長崎奉行竹中妥女正重次を、その悪政と汚職のため罷免に
     長崎奉行は毎年、その役得として御調物の名目で唐、蘭が輸入した物品を原価で買い上げる特権をもつ
     この特権を利用して、毎年、定期の物品を買い入れ京坂地方に送り巨利を得る
     商人的性格が強く利欲に走ることとなり失政を生ずることに
     【03/20?】
     1634(寛永11)息子とともに江戸で死刑に処せられる
  02/14長崎奉行が2人制となる。1人は在府、1人は在崎、毎年交代して任務
     1592(文禄01)の奉行設立時は1人制
     本博多町の東西に分け、東屋敷と西屋敷となる
     1687(貞享04)長崎奉行が3人制となる。2人在勤、1人在府
     奉行交替時、前任者が安禅寺に引き移ることがはじまる
     1699(元禄12)06/28長崎奉行を4人として隔年2人交代となる
     幕府は長崎貿易を重視。席次を京、大坂町奉行の上座にする
     1713(正徳03)03/長崎奉行の定員を1人減じて3人とする。1人在府、2人在勤、毎年1人交代【1712(正徳02)?】
     1714(正徳04)11/18長崎奉行が2人制となる。1人在勤、毎年交代
     1843(天保14)09/長崎奉行が1人制となる
     1846(弘化03)09/長崎奉行が再び2人制となる。9月在勤交代
     1863(文久03)08/08開国・鎖国の論が国内に沸騰し人心動揺、長崎は土地柄からして殊に激しくなる
     幕府は奉行2人の上に、大村丹波守純熈を長崎総奉行として置く
     奉行は長崎市街の取り締まりにあたり、外国船の入港の警備を厳重にして長崎の総兵力を指揮する
     1864(元治01)09/21大村丹後守純熈の総奉行を廃止にする
     1865(慶応01)05/01長崎奉行並を置き、奉行の事務を代行させる
     1866(慶応02)03/在勤2人となる
     1868(慶応04)01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて長崎奉行河津守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     江戸へ引き揚げ、実質的に奉行職は自然消滅となり、徳川幕府の長崎奉行所は門を閉じる。長崎は無政府状態に
  02/幕府が奉書船以外の海外渡航禁止。在外5年以上の日本人の帰国を禁止。貿易を制限。キリシタン取締令を発令
     奉書船とは朱印船のこと
     貿易の制限…蘭船の滞留期間は50日、貿易は平戸港のみ。抜錨は蘭船唐船ともに9月20日を期限に
     (第1次鎖国令
     1634(寛永11)幕府が日本人の海外往来と通商を制限(第2次鎖国令)
     1635(寛永12)05/28幕府が日本人の海外渡航と海外在住、日本人の帰国を禁止(第3次鎖国令)
     唐船の入港地を長崎に限定
     朱印船貿易が終焉を迎える…日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため
     1636(寛永13)幕府が前年の鎖国令を強化。混血児を追放し、海外との交通を禁止などを強力に遂行
     (第4次鎖国令)
     1639(寛永16)07/05幕府がポルトガル船の渡航を禁止(第5次鎖国令)
     1641(寛永18)06/25平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す(鎖国体制が完成)【06/18?】
  05/本博多町の今村奉行屋敷で失火、市街の5、6町を延焼
     外浦町の糸割符宿老会所も類焼し奉行屋敷と敷地を交換。外浦町に奉行所を建てる
     【外浦町の旧大坂江戸割符会所の敷地を2分し東役所と西役所が設置?】
     1663(寛文03)03/08寛文の大火で奉行所をはじめ寺社33軒、獄舎などを焼く
  06/22ガリレオ・ガリレイが第2回異端審問所審査でローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受ける
     自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。終身刑を言い渡される
     直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑される
  07/31《06/26》福永ニコラオけいあんが穴吊りの刑で殉教。穴吊りの刑、最初の受刑者
     ミゼリコルジヤ会長薬屋ミゲルが火刑で殉教しミゼリコルジヤの会が解散となる
  08/15《07/11》潜入バテレンのなかには穴吊りの刑を受ける者が多くなる
  08/16《07/12》ボルジェスが長崎で殉教
  08/17《07/13》ドミニコ会ヤコボが長崎で殉教
  09/イエズス会神父クリストヴァン・フェレイラら8人が西坂で穴吊りの刑を受ける
     フェレイラは処刑後5時間目に転宗を申し出る
     すぐ禅宗曹洞派に帰依し日本に帰化
     のち日本人女性と結婚。沢野忠庵(忠安)と改称
     のち転宗しキリシタン目明しとなり幕府に仕える
     後世ころびバテレンの非難を受ける
     のち日本語に精通し、長崎でトレミー天文学を紹介し、医学を伝えるなど貢献
     1636(寛永13)沢野忠庵が「顕偽録」を著し、キリスト教に反論
  10/02《08/29》B・フェルナンデスと斎藤パウロが長崎で殉教
  10/09《09/07》長崎で穴吊りの刑に処されて殉教
     イエズス会のダ・コスタ、伊予シスト、深江ダミアン修道士、フランシスコ会宮崎ジョアン修道士、その他4人
  10/21《09/19》中浦ジュリアンが穴吊りの刑(4日間)で殉教
  10/22《09/20》アダミが長崎で殉教
  10/26《09/24》長崎で穴吊りの刑に処されて殉教
     ソーザ、その他ペトロ修道士、マテオ修道士、ドミニコ会サント、フランシスコ修道士
  11/11《09/21》ドミニコ会の西トマス・デ・サン・ハシントとホルダン(7日間)穴吊りの刑
     ドミニコ第3会員67人が火あぶり、斬首で殉教
  恵美須町の恵美須神社を小柳五郎左衛門道長が瀬ノ脇(現飽の浦)に移し釛山恵美須神社とする
     以降、諏訪神社の末社に
  オランダ商館長、甲比丹による江戸参府が制度化され毎年行なわれるようになる
     出島のオランダ商館長が対日貿易の継続に感謝する目的で江戸に参府
     将軍に謁見しお礼を言上、献上物を呈上。オランダ商館長にとって日本の見聞を広める好機会
     有益で愉快な行事で、窮屈な出島の生活から開放される大名旅行
     長崎の出発は年末、翌正月に江戸へ到着し拝礼
     行程は長崎〜小倉、下関が陸路。下関〜室又は兵庫が水路。大坂〜京都、江戸が陸路
     オランダ人の定宿は江戸日本橋本石町3丁目の長崎屋源右衛門の家「長崎屋」
     2階には畳の上に毛せんを敷き、椅子、テーブルを置きすべてオランダ風に飾る
     所要日数は平均90日、約3か月
     オランダ人がカピタン、書記、医師の3人、長崎奉行所から正、副検事、通事、料理人など 56人、合計59人
     献上品はシャンデリア、ジュータン、更級、地球儀、望遠鏡、珍獣など
     また珍獣には象、虎、ラクダ、オランウータン、ジャコウ猫、水牛、 火食鳥
     将軍家光はシャンデリアを気にいり日光東照宮に飾る。
     定宿の江戸の長崎屋、京都の海老屋は度々火災により焼失。長崎奉行所はその再建資金援助のため白砂糖を送る
     1641(寛永18)04/老中が江戸参府の甲比丹に平戸蘭館の長崎移転にあわせて西洋事情の報告書を提出するよう命じる
  潜入バテレンが長崎奉行の今村伝四郎、曽我又左衛門の考案した刑を受ける
     体を綱でまいて逆吊りにする穴吊りの刑
  長崎の教会にとって殉教者が多い年となる
  在外5年以上の日本人の帰国を禁止、貿易制限とキリシタン取締りの法令をだす

1634(寛永11)【明正】 甲戌(きのえいぬ)

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