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〈江戸時代(1)〉

1603(慶長08)【後陽成】 癸卯(みずのとう)

  《将軍》[第1代]徳川家康(徳川宗家)(02/12→)
  《奉行》小笠原一庵(為宗・前幕府側近・翌年04/着・10/発)
  《代官》村山東安

  02/12徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府が成立する
  04/14《03/03》江戸幕府を開いた徳川家康の全国道路網整備計画に際して日本橋が架かる
     全長28間(約51米)、幅4間2尺(約8米)。ケヤキとヒノキを使用
     1604(慶長09)諸街道の基点と定められる
     のち1603(慶長08)、1618(元和04)、1659(万治02)、1700(元禄13)、
     1712(正徳02)、1763(宝暦13)、1773(安永02)、1796(寛政08)、
     1805(文化02)、1860(万延01)、1872(明治05)の架け替えが行なわれる。いずれも木橋
     1911(明治44)04/03日本橋の架け替え工事が完了し、開通式を挙行
     木橋から石造(花崗岩製)の二連アーチ橋となる。総工費52万円
  10/06《09/02》在日イエズス会会員は119人
  浦上の川上(こうかみ・家野郷、現大橋町)にサンタ・クララ教会が建つ
     ポルトガル人や日本人キリシタンの喜捨により小さな礼拝堂だったものを再建
     アルウァレス神父と日本人修道士は浦上から付近の村々を司牧する
     のち特に船員たちに親しまれるようになる
     1606(慶長11)大村の宣教師たちが追放されたとき増築。大村と浦上の教会となる
     信徒発見後秘密教会が建つ
     4つの秘密教会のうちのひとつ
      サン・フランシスコ・ザベリオ堂跡(如己堂と平和公園の間、橋口町7番地)
      サンタ・マリア堂跡(辻町の十字架山中腹)
      サン・ヨゼフ堂跡(石神町のお告げのマリア修道会十字修道院の場所)
  酒屋町に慈善団体ミゼリコルディアの組が運営するサン・ティアゴ病院が建つ
     1604(慶長09)病院のとなりに病院付属の聖ヤコボに捧げるサン・ティアゴ教会が建つ
     のち病院の近くに小学校がつくられる
     1612(慶長17)ポルトガル船の入港船が多くなり病人が増え病院が増築される
     病院の鐘が造られる【同時期?】
     のち病院の鐘が大分県竹田市の中川神社に保存される
     1613(慶長18)後藤宗因の印刷所が病院内に移される
     1614(慶長19)10/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  被昇天の聖母教会が司教座聖堂として利用される
  狩野ペドロらが教皇あてに廿六殉教者列聖懇願状を認める
  被昇天のサンタ・マリア教会[サン・パウロ教会(岬の教会)]に塔(やぐら)が建ち3つの鐘と珍しい時計がつけられる
      大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支の2通りに記されている
      陰陽両式の日を示すカレンダー時計で、3つの鐘が音を奏するチャイム時計
     市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた
     時計の製作はジョワンニ・ニコラオ神父。イタリアルネサンス派の画家で教会の祭壇の絵や壁画を描くために派遣
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  長崎イエズス会コレジヨ版「和葡対訳字書」(本編)が刊行される
  メスキータ神父によって建てられたサンティアゴ病院の聖堂がイエズス会にゆだねられた小教区となる

江戸時代初め

  有力唐人の欧陽華宇と張吉泉が悟真寺に100間四方の墓地を定める。中国人墓地の始まり
     1641(嘉永18)オランダ商館が平戸から出島に移り、まもなく悟真寺の墓域の一画がオランダ人に割り当てられる
  長崎に在住したイスパニア人の商人アビラ・ヒロンが「日本王国記」でかわた町付近の地を記す
     「市外の、最もひどい町はずれにいる、鼻高(はなだか)、雪踏(せった)、金剛(こんごう)などの
     履物(カルサード)や草履(アルパルカ)を作る者たち、これらの人々は漁師らよりも低く見られているが、
     鹿皮をなめす連中も、彼らと一緒に住んでいる。しかし鹿やかもしか革で足袋や手袋や袴(カルソン)を作る
     職人は尊ばれている。なお、こういう職人たちのための特定の町々がある一方では、とくに足袋職や、
     金銀細工師や刀剣師など、彼らの店が、市のとびとびにある」

1604(慶長09)【後陽成】 甲辰(きのえたつ)

  《将軍》[第1代]徳川家康(徳川宗家)
  《奉行》小笠原一庵
  《代官》村山東安

  03/04《02/04》徳川幕府が日本橋を起点に東海、東山、北陸の3街道に一里塚を築くよう命じる
     家康は「これからは江戸が日本の中心」になることを庶民に印象付けるため
     一里(約3.927粁)ごとに築かれる。塚には榎や松などが植えられ旅人のための里程標に
  05/03幕府がポルトガル貿易に対する不当な高値輸入を防ぐための統制として糸割符法(白糸割符)を制定
     ポルトガル船が輸入する生糸を京都・堺・長崎の商人(特権を持つ大商人)が入札
     糸年寄が長崎に運び込まれる全ての生糸の価格を決め、その価格で糸割符仲間に全て買い取らせる
     結果、日本の商人には買付け競争が起こらなくなりポルトガルの生糸を安い価格で買いたたくことができるようになる
     1655(明暦01)04/幕府が糸割符制度を廃止。唐蘭からの輸入品が全て相対貿易となる
     長崎貿易はすべてが自由売買に
     のち相対貿易により国内の貿易商人間の競争の激化を招くことに
     結果、輸入商品の価格が騰貴し金銀の流出が増大
     のち一時的に銀の輸出を禁止するが効果は上がらず
     1672(寛文12)11/貿易を市法売買法に変更
     市法売買法…市法会所が輸入品を評価した価格で買い入れ国内の商人に売る
      利益は幕府や長崎の町民や関係した商人に分配
      自由貿易から再び官営貿易・統制貿易に戻ったことに
      ただ、貿易額の制限ができず、額が年を追って増加することに
     輸入品はすべて入札で値段を決めることに
     売り手の外国人(オランダ人、中国人)には不利な安値であり、長崎商人が暴利を得る
     安値に対して外国人は商品の量を増やし長崎商人の支払いは増える一方に
     1685(貞享02)秋再び糸割符制度を復活させる。定高貿易法となる
     幕府が金銀流出の問題から長崎貿易の貿易仕法を再検討。初めて貿易額の制限を実施
     御定高商売法が制定され1年間の貿易額を制限する
     唐船銀6千貫目(金10万両)、オランダ船銀3千貫目(金5万両)
     加えて生糸の輸入額を制限。唐…総輸入額の4分の1に、蘭…3分の1に
     生糸は糸割符制、その他の商品は相対貿易となる
     しかし激増する唐船の要求を到底満たすことができない
     のち銅代物替貿易と称して銅が金や銀に代わって輸出される
     1698(元禄11)中国貿易に銀2千貫目分の俵物諸色による代物替が許可され、唐船の数が80隻に増加
     糸割符会所を幕府の長崎貿易官営化として貿易を司る役所「長崎会所」と改め正式に発足
     町年寄筆頭高木彦右衛門が勘定奉行直属の幕吏身分、異国商売吟味定役并運上銀納方役となる
     長崎会所は外国貿易と運上事務を統括。市政・貿易を中心に会計事務や貿易業務の一切を取り扱う
      貿易額の決算から地役人約2千人の諸給与、地下配分、幕府への上納金、
      市内や長崎10か村の徴税・貿易品入札・品物の引渡しなど
      天災・人災による被害の復旧や災民救済にかかる多額費用は「非常備金」「貧民救助米代」の名目で長崎会所が支出
       以前の災民救済は幕府に直接救済を頼み大坂金庫より支出
     彦右衛門のもと町年寄4人に兼任を含む請払役12人と筆者小役15人の陣容
     一般貿易収入以外に取引高に比例して得た礼銀などを長崎奉行、目付、地役人、特権商人、長崎町人へ配られる
     利益銀の「箇所銀」「かまど銀」(ボーナス?)が7月と12月に配分される
     のち八百屋町の敷地219坪余の会所に移す
       会所調役、目付、吟味役、請払役、筆者、金見、銀見、札読、極印打などの諸役が設けられる
     1859(安政06)06/02奉行管理の下、長崎会所の一部として外交、貿易事務を処理する湊会所を俵物役所内に設置
  05/対馬の住民が釜山浦へ。朝鮮国王は貿易をすることを承諾する
  08/末次氏が家康より安南渡航の朱印状を得て盛んに貿易を行なう
     1616(元和02)12/01《10/26》末次興善の子、末次平蔵政直が長崎代官に。末次家が代官を世襲することに
     代官の村山等安がキリシタンであることが発覚したため
  09/市街地における寺院復興の初めとして奉行の支援を得て一向僧道智が鍛冶屋町に正覚寺を創建
     一向僧道智は、もと加藤清正に仕え朝鮮の役に従い帰国した肥前有田の士。僧となり来崎。鍛冶屋町に住む
     1607(慶長12)キリシタンにより放火され全焼
  中国語の通訳を主な職務とする役職に住宅唐人馮六が任命される。唐通事の始まり
     のち組織や人員が拡張
     唐通事は地役人で「大通事」「小通事」の上級通詞(本通事)と「稽古通事」の下級通詞
     大通事、小通事の定数はそれぞれ5、稽古通事には定数はなく12〜30
     大・小通事、稽古通事を基幹として、唐通事頭取・唐通事諸立会・御用通事・風説定役・
     唐通事目付・小通事並・小通事末席・稽古通事見習などの諸役がある
     唐通事の業務は、1人の大・小通事に1〜2人の稽古通事が一組、唐人屋敷や新地蔵所で通訳などの諸業務に従事
     唐船入港→起帆地・乗組員氏名・積荷品名・ 数量・価格などを調査し目録を作成
     貿易業務がはじまると、必要な値組帳・勘定帳や配銅帳など様々な種類の帳簿を作成、貿易業務の円滑化に努力
     唯一の海外ニュースとして風説定書の作成。オランダ通事によるオランダ風説書とともに重要視される
     増大する中国貿易を制限するため施行された正徳新令による貿易許可書の発給などに携わる
     正徳新令で制度化された貿易は、唐通事と中国人の契約により幕府は無関係とされる
     1867(慶応03)唐通事の組織が解散するまでに24の役職と延べ1644人(実数826)を数える
  酒屋町のサン・ティアゴ病院のとなりに病院付属の聖ヤコボに捧げるサン・ティアゴ教会が建つ
     のち病院の近くに小学校がつくられる
     1612(慶長17)ポルトガル船の入港船が多くなり病人が増え病院が増築される
     病院の鐘が造られる【同時期?】
  長崎イエズス会コレジヨ版「和葡対訳辞書」「日本文典」(ジョアン・ロドリゲス著)が刊行される
  ジョアン・ロドリゲス著「日本大文典」(外国人宣教師の日本語学習書)3巻1冊の印刷がはじまる
     1608(慶長13)長崎学林から刊行する
  江戸日本橋が諸街道の基点と定められる
     のち1603(慶長08)、1618(元和04)、1659(万治02)、1700(元禄13)、
     1712(正徳02)、1763(宝暦13)、1773(安永02)、1796(寛政08)、
     1805(文化02)、1860(万延01)、1872(明治05)の架け替えが行なわれる。いずれも木橋
     1911(明治44)04/03日本橋の架け替え工事が完了し、開通式を挙行
     木橋から石造(花崗岩製)の二連アーチ橋となる。総工費52万円
  原城が完成

1604(慶長09)以降

  朱印船の貿易制度が盛んとなる
     1635(寛永12)日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため姿を消す

1605(慶長10)【後陽成】 乙巳(きのとみ)

  《将軍》[第1代]徳川家康(徳川宗家)(→04/16)、[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)(04/16→)
  《奉行》小笠原一庵(佐渡奉行転出)
  《代官》村山東安

  04/12英国のジェームズ1世が国旗のユニオン・ジャックを制定
     イングランドの国旗(白地に赤い十字の聖ゲオルギウス十字)と
     スコットランドの国旗(青地に白い斜め十字の聖アンデレ十字)が組み合わされる
  07/領地の件で代官村山東安が大村喜前と交渉。大村領長崎村を公領として西浦上村を大村氏に渡す
     長崎6町に続いて新たに建てられた長崎新町とそれに所属する村は大村領で長崎甚左衛門が支配
     公領長崎(内町)よりはみ出した甚左衛門の支配地[大村領長崎(外町)]に多数の人家が建ち長崎の治政上不便となる
     東安は幕府に建議し許しを得て自身が支配する浦上と甚左衛門が支配する大村領長崎(外町)を交換することに
     東安の大村領、浦上西村、浦上北村、●(阜篇に百・あぜ)別当、外目村、家野村1898石9升8合が与えられる
     浦上東村と浦上南村は公領として残す。東村がのちの山里村、南村がのちの淵村となる
     結果、長崎内町24町が長崎奉行と町年寄に、その他外町、長崎村、浦上村山里郷、浦上村淵郷が長崎代官の管轄となる
  セルケイラ司教が筑後町のラザロ病院の側にサン・ジュアン・パウチスタ教会(現本蓮寺)を建てる
  三ノ堀の一部が埋立てられ引地町が造成
     1672(寛文12)涸水がちで埋められる
  庄屋が不在だった浦上村で高谷小左衛門が浦上村惣庄屋となり、庄屋屋敷(現浦上天主堂)を置く
     明治維新まで代々庄屋を世襲
  長崎甚左衛門純景が長崎村と長崎新町の収公により知行地がなくなり長崎を退去する
     大村喜前は甚左衛門に時津村その他の700石を与えるが甚左衛門はうけず
     キリシタンのよき保護者である筑後国柳河の田中吉政に仕え2300石が与えられる
     のち吉政が没し、子の忠政があとを継ぐ
     1620(元和06)田中忠政が子をなくして没し田中家が断絶
     甚左衛門は大村に帰り横瀬浦で100石を領する
     1621(元和07)12/12長崎甚左衛門純景(年齢不詳)が死去。
     1622(元和08)夫人とらが没
     1702(元禄15)09/10大村藩家老大村内匠助長頼が時津村の山影に、長崎甚左衛門夫妻の墓碑を修める
  豊後国の大友氏の家臣・志賀氏が大友氏滅亡後、長崎にくる
     長崎奉行により浦上淵村の庄屋に任命され、明治維新まで代々庄屋を世襲
  キリシタン宗教書「サカラメンタ(秘蹟)提要」(ローマ字版)が長崎で刊行する
  カミロ・コンスタンツォ神父が来日
     のち小倉や堺で活動のちマカオに追放
     のち再び日本に潜入のち佐賀や生月で活動のち宇久島で捕らえられる
     1622(元和08)田平の焼罪の丘で火あぶりとなり殉教
  長崎の人口が1万5千人に
  日本全国のキリシタンの数が約75万人、うちイエズス会関係35万人。キリシタン史上最高に

1606(慶長11)【後陽成】 丙午(ひのえうま)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》小笠原一庵(佐渡奉行転出)
  《代官》村山東安

  01/大村喜前が棄教し領内のバテレンを放逐する
  本大工町にサン・アントニオ教会が建つ
     教会は代官村山東安が息子で司祭になったフランシスコ村山のために造る
     教会と魚町のあいだには小さな墓地が
  浦上の川上のサンタ・クララ小聖堂が大村の宣教師たちが追放されたとき増築。大村と浦上の教会となる
     信徒発見後秘密教会が建つ
     4つの秘密教会のうちのひとつ
      サン・フランシスコ・ザベリオ堂跡(如己堂と平和公園の間、橋口町7番地)
      サンタ・マリア堂跡(辻町の十字架山中腹)
      サン・ヨゼフ堂跡(石神町のお告げのマリア修道会十字修道院の場所)
  ヴァリニャーノ神父がマカオにて67才で死去

1607(慶長12)【後陽成】 丁未(ひのとひつじ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安

  キリシタン以後の神祠再興の初めとして東中町、筋違橋のたもとに天満宮の小祠が建つ
     1610(慶長15)数々の妨害に直面しながらも新高麗町のヤブの中にに移転。祠を建て天満宮をまつる
     1622(元和08)長崎奉行長谷川権六郎が神社の由来を聞き馬場郷の敷地を寄進
     社殿の造営を助成
     のち宝生院威福寺の寺号を受ける
     1868(明治01)廃寺、天満神社となり桜馬場天満宮となる
     1874(明治07)村社となる
  鍛冶屋町の正覚寺がキリシタンにより放火され全焼【こ】
     のち伊良林郷(現浄安寺の地)に再建
     1618(元和04)新橋町(現市立中央保育所の地・寺町の筋をはさんで向かい)に移転
  大村喜前の子純頼が江戸から帰国。藩財政の窮乏打開策として一族一門十三家の知行地を没収して再配分を行なう
     喜前の実弟のひとり大村善次郎(長与)の知行地は半減
     長崎周辺所領の大村一門はことごとく知行地を没収され他へ追放
      大村性五左衛門(時津)、大村勝八郎(時津、三重)、大村伊左衛門(滑石)など
     対して在地領主層に系譜をもつ西方衆の長崎純景の養子となった松浦右近頼直や福田氏は上級家臣団に進出
     諸氏の序列が大きく変化する   本大工町にサン・アントニオ教会、今町にサン・ペドロ教会が建つ
     【サン・ペドロ教会は一説に1611(慶長16)】
  幕府の儒官林羅山が幕命により再び来崎。明版「本草綱目」を入手し江戸へ戻る。家康に献上
  ローマ字日本文の宗教書「スピリツァル修行」(信心の勧めと殉教者の心得を説いた書)を版行
  宗義智の努力により朝鮮国から日本の国書に対する第1回朝鮮通信使使節団が来朝
     朝鮮王朝の使節となる朝鮮通信使の来日が実現。正使は呂祐天、総人数504。使命は和平と国情視察
     当初は日本の国情を知ること、秀吉軍による捕虜問題の解決が主な目的
     のち日本幕府の将軍家の代変わりや慶事のときに、幕府の意を受けて、朝鮮国から親書を持って派遣される
     ※朝鮮通信使は、釜山の永嘉台を発船対馬の佐須奈浦(上県町)に入港ついで府中(厳原町)に上る
     府中で島主宗氏と一定の儀礼をすませるのに約10日対馬を発ち壱岐、筑前、瀬戸内海の各港を経て大阪へ
     大阪から川船に乗り換えて淀川を上り、京の淀に上陸東へ陸路、中仙道、美濃路、東海道を経て江戸に到着
     幕府上使による信使の客館訪問があり、将軍に拝謁し慶賀の儀に。儀式が終了、再び対馬に渡り朝鮮への帰路に
     この間およそ8か月から1年、一行400人から500人に上る通信使は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛の任にあたる
     ※朝鮮通信使は親書の他に人参、織物、虎皮、馬、鷹など数々の献上品を携えて日本へ
     幕府から謝物としては長刀、黄金、屏風などが渡される。幕府は1回の来日で朝鮮通信使のために100万両を費やす
     のち北方女真族(のちの清王朝)の勢力が拡大し、日本との友好が一層促進
     1609(慶長14)朝鮮国からの通信使の来朝がきっかけとなり慶長条約(己酉約条)が締結され国交回復が成立
     1617(元和03)第2回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は呉允謙、総人数428。使命は和平と国情視察
     1624(寛永01)第3回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は鄭●(山冠に立)総人数460。使命は徳川家光の将軍職就任祝い
     1636(寛永13)第4回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は任絖、総人数478。使命は朝鮮政策の確認と対馬藩の擁護
     1643(寛永20)第5回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹順之、総人数477。使命は徳川家綱の誕生祝い
     1655(明暦01)第6回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(王編に行)、総人数485。使命は徳川家綱の将軍職就任祝い
     第6回以降は主として将軍就任の祝賀を目的に派遣
     1682(天和02)第7回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹趾完、総人数473。使命は徳川綱吉の将軍職就任祝い
     1711(正徳01)第8回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙泰億、総人数500。使命は徳川家宣の将軍職就任祝い
     1719(享保04)第9回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪致中、総人数475。使命は徳川吉宗の将軍職就任祝い
     1748(延享05)第10回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪啓禧、総人数475。使命は徳川家重の将軍職就任祝い
     1764(宝暦14)第11回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(日編に嚴)、総人数477。使命は徳川家治の将軍職就任祝い
     1811(文化08)第12回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は金履喬、総人数328。使命は徳川家斉の将軍職就任祝い
     日本側の財政負担がかさみ、江戸までは行かず対馬で祝賀の儀や国書の交換が執り行われる
     対馬で国書を受領[易地聘礼(へきちへいれい)]
     実質上最後の朝鮮通信使となる。1607(慶長12)の第1回以来12回を数える

1608(慶長13)【後陽成】 戊申(つちのえさる)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安

  06/11《04/29》教皇パウロ5世がグレゴリオ13世とクレメンテ8世の両勅書を無効にする
     各修道会宣教師の渡日を無条件で許可する勅書を発す。日本の教界は再び各派布教の渦中に入る
     もはや秀吉の禁令の姿はなく公然と布教活動が日本の半分にわたる地域に展開
     長崎は司教の駐在地として、その中心として盛況をきわめる
  冬/有馬晴信の御朱印船が家康の書簡と進物をのせ占城(シャンパ王国・ベトナム南部)に渡航
     帰途、同船の乗組員らがマカオでポルトガル人と衝突し、数人を殺傷後、民家に立てこもる
     マカオ守備司令官アンドレア・ペッソアの兵と戦い、多数が射殺される
     マードレ・デ・デウス号爆沈事件の発端に
  本博多町のミゼリコルジアの組の本部に教会が建つ
     1614(慶長19)7つの病院を有することに
  亀翁良鶴が立山山麓、俗に女笠頭(岩原郷上筑後町)に海雲山洪泰寺(曹洞宗)を創建
     亀翁良鶴は肥前国松浦郡山口村(佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持
     1615(元和01)一庭融頓が徳川家康より住職に任命される
     1626(寛永03)岩原郷上筑後町から高野平村(寺町)へ移転
     船本弥平次、梅野了安が所有地を寄付、幕府の援助を受けて移転する
     1642(寛永19)第2代住持一庭融頓が上洛、明正天皇に拝謁
     「了外広覚禅師」の号と「海雲山普昭晧台寺」の寺号を下賜される。洪泰寺が海雲山普昭晧台寺と改まる
     1665(寛文05)高一覧が自家の仏像を寄進。晧台寺の本尊とする
     1677(延宝05)第5代住持の逆流が丈六の毘盧舎那大仏を鋳造する。身の丈1丈6尺(5.33米)、台座6尺(2米)
     逆流は華厳社がありながら毘盧舎那大仏がないのを遺憾に思い信者の協力を得て建立
     1681(天和01)仮大仏堂を建立
     1723(享保08)木造本瓦葺入母屋造の大仏殿「華厳閣」が落成する。5間半四方
  ジョアン・ロドリゲス著「日本大文典」(外国人宣教師の日本語学習書)3巻1冊が長崎学林から刊行する

1608(慶長13)頃

  大川(中島川)河口の左岸一帯を整地し濱町ができる
  有馬晴信の御朱印船が帰途、マカオで日本人の進出に不満をもつポルトガル人と衝突。争いになる
     乗組員と家臣あわせて48人【53人?】が殺される事件に
     のち晴信は怒って徳川家康に仇討ちの許可を求める
     1609(慶長14)06/29《05/28》マカオのマーデレ・デ・デウス号が長崎に入港

1609(慶長14)【後陽成】 己酉(つちのととり)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安
  《商館長》(09/20→)ヤックス・スペックス

  05/06《04/03》幕府の指示で島津藩の島津家久が琉球へ侵攻。薩摩軍が首里城を陥し、琉球国王尚寧を捕らえる
     07/幕府は琉球を島津氏の所管とする
  06/29《05/28》マカオよりポルトガル定期船マードレ・デ・デウス号が通商のため生糸を満載して長崎に入港
     【1610・01/03《慶長14・12/09》?】
     マーデレ・デ・デウス号は別名ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号
     船長はマカオのポルトガル責任者アンドレ・ベッソア、他乗組員300人
     出港しようとするデウス号を島原キリシタン大名の有馬晴信が追跡
     数100隻の小舟に分乗した7千人の手勢で包囲し攻撃
     場所は神ノ島、四郎ケ島の南沖1粁の地点、沖ノ島と伊王島の海上
     4日間の壮絶な海戦の末退路を断たれたデウス号は弾薬庫に火をつけ爆沈
     マカオのポルトガル側の責任者でありデウス号船長アンドレ・ベッソアは殺され
     さらに乗組員全員と司祭11人、修道士2人も死亡
     12/15有馬晴信は長崎港外でマードレ・デ・デウス号を焼き、乗組員を全滅させる
     沈没時、生糸30万斤、金塊30貫目【2万両?】、銀2600貫目、陶磁器数千個、黄金属類を積載
     1636(寛永13)長崎の好運と京都の水学が許しを得て、港外に沈むデウス号の財貨引き揚げに着手
     両人は争論となり奉行が差しとめる
     1653(承応02)町田市左衛門が官許を得て銀300貫を引揚げる
     のち江戸期、大正期、昭和期に探索するが何も発見できず
     1980(昭和55)10/31笹川良一が関係する日本海洋開発が財宝の引き揚げを試みる
     港口四郎ケ島南約8百米の海上で、調査船上には本島長崎市長ら関係者以外の20人の姿も
     音波探知機には反応するが船体は発見できず
     半月後引き揚げを断念
  07/01《05/30》オランダ船2隻が平戸に入港
     外国船誘致を希望していた松浦法印【平戸領主松浦鎮信?】は歓迎し積極的にすすめるために種々の便宜をはかる
     駿府の家康に謁見させる
     09/19《08/21》使者は家康にオランダ国王の書簡と贈り物を渡し答書と通商許可の朱印状を受けて戻る
     09/20《08/22》協議の末、平戸オランダ商館を設立することを決定
     場所は現崎戸町、民家72戸を立退かせて建設
     初代平戸商館長はスペックス。1621(元和07)まで務め、のちオランダ東インド総督となる
     のち危機感を抱いたポルトガルは幕府に「オランダは海賊基地を建設している」と訴える
     1611(慶長16)オランダ商館が平戸の崎方の町家22軒を取り払った跡地に造られる
     商館長スペックスはパタニの商館から羅紗、絹織物、鋼鉄、象牙、胡椒を日本に運ばせる
     1612(慶長17)さらにアムステルダム本社から日本向け贈答用商品を多量に運ばせる
     のち家康に謁見し、国書を渡すなどしてオランダの優位は決定的なものに
     1616(元和02)防波堤ができる
     1618(元和04)商館近くの民家50軒を移転させ商館を拡張
     1641(寛永18)平戸オランダ商館に破壊が命じられ、無人の出島に移転を命じられる【1640(寛永17)?】
     直接の理由は建物の破風にキリスト紀元の年号を書き記していたことによる
     またポルトガル貿易禁止による長崎の衰退を防ぐ狙いもあり、鎖国体制の完成を意味する象徴的な出来事
  高麗町(現鍛治屋町)に高麗人のためのサン・ロレンソ教会が建つ
     【1610(慶長15)の現伊勢宮との違い?】
     高麗人は豊臣秀吉の朝鮮出兵や奴隷制度により長崎に奴隷として連れてこられる
     イエズス会宣教師の批判により解放され高麗町(現鍛治屋町)がつくられる
     のち長崎の中心の町が大きくなり高麗町は現伊勢町付近に移され新高麗町となる
  キリシタンによる迫害により諏方明神を祀った社が破壊され御神体が廃棄される
     1623(元和09)佐嘉の修験道者、金重院の修験道(山伏)青木賢清(かたきよ)が長崎にはいる【肥前唐津】
     長崎はキリシタンの全盛期、賢清は神道の再興に乗りだす
     公文九郎左衛門より別々に鎮座し、キリシタンに破壊された三神の祭祀を譲り受ける
     *東山の地に打ち捨てられた「諏方(すわ)大明神」と刻まれた碑石
      1555(弘治01)に織部亮為英が京都から諏方明神を分霊勧請したもの
     *小島かみなり岡の小祠に祀られた小島大王ともいわれた「住吉大明神」【小島郷尾崎(正覚寺付近)】
     *長崎6町を構築する際に壊された天満天神「森崎大権現(杵崎大明神)」を祀る
  代官村山等安が寄進した勝山町の土地にサン・ドミンゴ教会(旧勝山小学校)が建つ。別名ロザリオ教会
     ドミニコ会修道者らが京泊(鹿児島県川内市)の教会を解体した木材で建設される
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
     1619(元和05)跡地に代官の末次平蔵が代官屋敷を建てる
  オランダ商館長、甲比丹による江戸参府がはじまる
     1633(寛永10)制度化され毎年行なわれるようになる
     出島のオランダ商館長が対日貿易の継続に感謝する目的で江戸に参府
     将軍に謁見しお礼を言上、献上物を呈上。オランダ商館長にとって日本の見聞を広める好機会
     有益で愉快な行事で、窮屈な出島の生活から開放される大名旅行
     長崎の出発は年末、翌正月に江戸へ到着し拝礼
     行程は長崎〜小倉、下関が陸路。下関〜室又は兵庫が水路。大坂〜京都、江戸が陸路
     オランダ人の定宿は江戸日本橋本石町3丁目の長崎屋源右衛門の家「長崎屋」
     2階には畳の上に毛せんを敷き、椅子、テーブルを置きすべてオランダ風に飾る
     所要日数は平均90日、約3か月
     オランダ人がカピタン、書記、医師の3人、長崎奉行所から正、副検事、通事、料理人など 56人、合計59人
     献上品はシャンデリア、ジュータン、更級、地球儀、望遠鏡、珍獣など
     また珍獣には象、虎、ラクダ、オランウータン、ジャコウ猫、水牛、 火食鳥
     将軍家光はシャンデリアを気にいり日光東照宮に飾る。
     定宿の江戸の長崎屋、京都の海老屋は度々火災により焼失。長崎奉行所はその再建資金援助のため白砂糖を送る
     1641(寛永18)04/老中が江戸参府の甲比丹に平戸蘭館の長崎移転にあわせて西洋事情の報告書を提出するよう命じる
     同年オランダ商館が長崎に移り、江戸参府が長崎発となる
     1648(正保05・慶安01)01/前年のポルトガル船入港の予報を怠った責めとして甲比丹の参府拝賀を許さず
     1650(慶安03)01/甲比丹ボロンコスが本国使節フレイシュスとともに参府。幕府は拝賀拒否をもとに復して許す
     1643(寛永20)の漂流蘭人厚遇の謝礼を受ける
     1659(萬治02)甲比丹一行の江戸参府の長崎〜小倉間を陸路と定める
     従前、長崎〜大坂間は海路をとっていたが、この年の帰途、玄海灘で破船したため令がでる
     1660(萬治03)02/幕府が甲比丹の参府を明年より3月に改める
     長崎を正月に出発し、02/末に江戸着、03/01又は03/15日に拝礼
     これまでの参府は毎年冬に長崎を出発し、正月幕府に拝賀したが江戸は冬に火事が多く被災が三度に及んだため
     1660-01/12《萬治02-11/30》発1660(萬治03)04/26《03/17》帰着の甲比丹ヨアン・ボーヘリヨン一行の江戸参府の経費
     銀51貫400匁4分、68匁替えにして金756両
     105日間の1日平均489.5匁(金7両余)。別に将軍や幕閣以下への献上品、土産代も莫大に
     1661(萬治04)01/15甲比丹一行が長崎を発して江戸参府に
     1743(寛保03)商額の減少により甲比丹の毎年参府の制を5年に一度と改める
     幕府への献上品その他諸役員への贈品すべて半減させる
     1764(明和01)商額の減額により甲比丹の江戸参府を隔年にする
     1790(寛政02)09/商額減額のため甲比丹(出島商館長ロムベルフ)に対し江戸参府を5年【4年?】ごとにする
     幕府献上品、諸役贈与品、奉行その他への八朔銀を半分に減らす
     1794(寛政06)03/幕府側の都合で延期していた甲比丹の参府が再開
     1810(文化07)江戸参府は従前の長崎の正月出発から02/20前後の出発に変更する
     1850(嘉永03)03/甲比丹レフィスゾーンが江戸参府。甲比丹最後の江戸参府となる。合計166回を数える
  慶長条約で釜山浦に倭館が再設、接待貿易と対馬島民の居留に供される
     日本から銀、銅、胡椒、明ばんなどが輸出、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、米などが輸入された
     1678(延宝06)草梁項(現釜山)に李氏朝鮮政府が日本からの通交特使のために設けた客館・新倭館が落成
     その大きさは東西450間、南北250間【規模は諸説あり一定しない】。全面積は約10万坪(出島の25倍)
     高さ6尺の石垣の外側には堀をめぐらし、門が2か所がある
     東に守門(平常の通用門)、北の宴席門は平常は開かず、れん官が来るときだけ開く
     中央に龍頭山、その東に館主館、接礼や貿易のための大庁、裁判所、代官屋、通詞屋が並び、寺院(東向寺)もある
     滞留の日本人(すべて対馬人)は館主以下の役人を含め約600人
      長崎の出島とは正反対に、日本から朝鮮におもむき、対馬藩のみの人たちが鎖国下に堂々と貿易に従事した
     1873(明治06)02/新政府外務省が接収
  ウイリアム・アダムズや平戸領主・松平鎮信の呼びかけに応じてオランダ人が到着
     家康からほぼ無制限な自由貿易を保証される。イギリスも数年後に同様の許可を得る
     ポルトガルは「オランダ人は海賊」と中傷
     オランダやイギリスは、日本とヨーロッパとの貿易をほぼ独占していたポルトガルを「宗教を武器に日本侵略を企図している」と提訴
     オランダはヨーロッパでの国力もなく、オランダ船による海賊行為は事実
     幕府は海外での国家間の争いよりも、宗教にからむ主権侵害をおそれる
     オランダは平戸に商館を設立。家康は関東近辺を望むが、中国との交易も視野に入れていたオランダは平戸を選択
  長崎のイエズス会経営の画学舎(工芸学校)が大追放により廃舎となる
  朝鮮国からの第1回朝鮮通信使使節団の来朝がきっかけとなり慶長条約(己酉約条)が締結され国交回復が成立
  イエズス会士のイタリア人オルガンチノ(79)が没する
  平戸オランダ商館が設立された際、商館医が常勤。蘭学が伝えられる
  生月の奉行西内記(にしないき/洗礼名ガスパル)のの娘マリヤが別の奉行の子と結婚
     夫の父と信仰のことで喧嘩し、怒った父は殿様にキリシタンであることを報告。ガスパル親子は処刑される
  ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーにより天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」が解明され発表
     第1法則は楕円軌道の法則、第2法則は面積速度一定の法則
     1619(元和05)ケプラーが天体の運行法則に関する「ケプラーの第3の法則」を発表
     第3の法則は調和の法則

1609(慶長14)頃

  キリシタンによる迫害により領地内の社寺は全て破壊される。神社の御神体まで廃棄される

1610(慶長15)【後陽成】 庚戌(かのえいぬ)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安
  《商館長》ヤックス・スペックス

  12/16老中本多正純と奉行長谷川左兵衛が幕命により福建省総督陳子貢に書を送り勘合符を要請。公式の通称を求める
  東中町、筋違橋のたもとの天満宮が数々の妨害に直面しながらも新高麗町のヤブの中に移転
     祠を建て天満宮をまつる。のちの威福寺
     1622(元和08)長崎奉行長谷川権六郎が神社の由来を聞き馬場郷の敷地を寄進
     社殿の造営を助成
  長崎移住の朝鮮人らが新高麗町(伊勢町)に聖ロレンソに捧げた教会を建て、セルケイラ司教が教会を祝別する
     朝鮮人は秀吉の朝鮮出兵で捕虜となり、日本に奴隷として連れてこられ長崎の高麗町(榎津町のはずれ)に住む
     のち、榎津町、浜町の海岸から中島川筋が発展し新高麗町(伊勢町)へ集団移住する
     【1609(慶長14)?】
     のちキリシタン迫害時代、朝鮮人は迫害を受けた宣教師をかくまい、少なからぬ数の朝鮮人が殉教
     1619(元和05)サン・ロレンソ教会が破壊される
  イエズス会神父クリストヴァン・フェレイラが日本に渡来
     のち約20年間日本の各地に転々と布教を続ける
     1627(寛永04)頃イエズス会日本管区長になる
     1632(寛永09)年報を報告後、潜伏中の大坂方面で捕縛、長崎に護送される
     1633(寛永10)09/フェレイラら8人が西坂で穴吊りの刑を受ける
     処刑後5時間目に転宗を申し出る
     すぐ禅宗曹洞派に帰依し日本に帰化
     のち日本人女性と結婚。沢野忠庵(忠安)と改称
     のち転宗しキリシタン目明しとなり幕府に仕える
     後世ころびバテレンの非難を受ける
     のち日本語に精通し、長崎でトレミー天文学を紹介し、医学を伝えるなど貢献
     1636(寛永13)沢野忠庵が「顕偽録」を著し、キリスト教に反論
     1650(慶安03)沢野忠庵はキヤラ(岡本三右衛門)が持参した天文書を幕命で翻訳、「仮名天文鈔」として提出
     忠庵は日本文字を読むことはできたが、漢字をつづることはできず
     光源寺住持松吟和尚が筆訳し、世に「光源寺天文書」とも
     11/04《10/11》沢野忠庵は72歳で死去。戒名は忠安浄功信士
     1656(明暦02)奉行甲斐庄喜右衛門が阿蘭陀通詞西吉兵衛と向井元升に命じ「仮名天文鈔」を倭字に書き改めさせる
     さらに向井元升は翻訳書の批判を命じられ「乾坤弁説」を著す【1658(萬治01)?、1659(萬治02)?】
  平戸から日本で初めて西洋に茶を輸出
  織田信長の元家臣、初代竹中藤兵衛正高が尾張国名古屋で創業。神社仏閣の造営を業とする
     1899(明治32)14代の竹中藤右衛門がヨーロッパ型の建築技術を導入、都市化し始めた神戸へ進出
     「竹中工務店」創立第1年とする。数々の建築物を施工し、その名を知られるようになる
  ガリレオ・ガリレイが木星の衛星のうちイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストを発見する
     まとめてガリレオ衛星と呼ばれる。月以外の衛星をはじめて発見

1611(慶長16)【後水尾】 辛亥(かのとい)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安
  《商館長》ヤックス・スペックス

  11/28明国の商人が家康に会い長崎での貿易を許可される
  12/02《10/28》午後2時頃、 慶長三陸地震が起きる
     三陸沖を震源として発生した地震で地震の規模を示すマグニチュードは8.1
     強震に見舞われたが震害はほとんどなく、津波による被害が甚大
     津波は三陸沿岸および北海道東岸に来襲し、伊達政宗領内で死者1783人
     南部・津軽の海岸でも人馬死んだもの3000余、蝦夷地南東岸ではアイヌ民族が多数溺死
  今町にサン・ペトロ教会が建立
     【1607(慶長12)?】
  桜町(クルス町)の墓地跡地にフランシスコ会のアスンシオン神父によりサン・フランシスコ教会と修道院が建つ
     1614(慶長19)09/教会と修道院が禁教令による切支丹弾圧により完成をみずに破却される
  後藤宗印印刷所がキリシタン書「ひですの経」を国字で出版
  オランダ商館が平戸の崎方の町家22軒を取り払った跡地に造られる
     商館長スペックスはパタニの商館から羅紗、絹織物、鋼鉄、象牙、胡椒を日本に運ばせる
     1612(慶長17)さらにアムステルダム本社から日本向け贈答用商品を多量に運ばせる
  長崎の人口が約1万5千人に

1612(慶長17)【後水尾】 壬子(みずのえね)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安
  《商館長》ヤックス・スペックス(←08/→)ヘンドリック・ブラウエル

  03/21幕府がキリシタン禁止令を発し、京都の教会堂を破却
     08/06幕府は重ねてキリシタンを禁じ直轄領から実施する
  04/13宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島にて決闘を行なう
     【異説あり】
  05/有馬直純がキリシタン弾圧を開始する
  家康の股肱、本多正純の家臣の岡本大八が肥前日野江藩主の有馬晴信に近づく
     大八はデウス号攻撃の恩賞として肥前国3郡を賜る御内意があると偽りの話を晴信に持ちかける
     有馬の領地は豊臣時代に龍造寺に奪われ、のち鍋島の領地に
     大八はキリシタンであり、デウス号事件の時には奉行長谷川左兵衛の配下におり晴信は大八を信用する
     晴信は大いに喜び白銀6千両のほか多額の金銀衣類など賄賂を大八や関係要路に贈り、斡旋を依頼
     のち1年余り経つも音沙汰がなく、不審を抱いた晴信が直接本多正純に旧領の下賜の恩賞について決裁を求める
     1612(慶長17)02/23大八の虚偽が本多正純の耳に入り発覚。贈収賄事件が露見し家康は激怒
     のち捜査の途中、大八も晴信もキリシタンであることが発覚
     家康の身辺にまでキリスト教徒が存在していることで幕府を驚かせる
     おまけに大八は獄中で晴信が長崎奉行長谷川藤広暗殺も計画していた旨を自白
     03/21大八は駿府市中を引き回しの上で、安倍川の河原において火刑
     03/22晴信もまた贈賄の罪をとわれて甲斐国にお預け
     06/05《05/06》キリスト教徒の晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせる。46歳【47歳?】
     のち岡本大八事件でキリスト教は最悪の状態に
     キリシタンを黙認していた家康は放置する事はできないとキリスト教禁止を表明、摘発にのりだす
  11/08長崎とマカオでイエズス会神父により、科学的な月蝕観測が行なわれる
     長崎ではカルロ・スピノラ神父を観測の主宰者とし、日本人も参加する
  長崎に進出したベルナルド・アヤラらアウグスチノ会修道士らが本古川町の中島川川端にサン・アウグスチノ教会を建設
     【1606(慶長11)?】
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  豊臣秀吉は、ヤソ教禁止令を発令。ポルトガル人を追放するが、医術は大阪、堺、長崎等を中心に残る
  ポルトガル船の入港船が多くなり病人が増え酒屋町のサン・ティアゴ病院が増築される
     病院の鐘が造られる【同時期?】
     のち病院の鐘が大分県竹田市の中川神社に保存される
     1613(慶長18)後藤宗因の印刷所が病院内に移される
  有馬に殉教がある
      長崎の教会の取り壊しが終わった後、直ちに長崎奉行・長谷川左兵衛が有馬に赴き、厳しい弾圧を始める
     とりわけ口之津には殉教者が多くなる
  大阪冬・夏の陣で長崎の信者にとってひとやすみに
  トードス・オス・サントス教会が増改築される
     庭内には八代の殉教者の遺骨を納める小さな聖堂が造られる。この場所も巡礼地になる
     1619(元和05)破壊される
  有馬の宣教師が追放されセミナリヨが長崎のトードス・オス・サントス教会内に移転
     1614(慶長19)1580(天正08)に設立され戦乱と追害で各地を転々としたセミナリヨが閉鎖される
  デンマーク東インド会社がデンマーク王国のクリスチャン4世の特許によって設立される
     「重商主義」政策を進めるクリスチャン4世の方針とコペンハーゲン在のオランダ商人、英国人商人の利害が一致して設立
     のちインドのトランケバールや西インド諸島に植民地を建設。デンマーク海上帝国と呼ばれる交易圏の形成に成功する
     グリーンランドなどの北方の探検を行なう
     しかし構成員はイギリス東インド会社やオランダ東インド会社から疎外された英国人商人やオランダ人商人
     交易の実態も「もぐり」に近いもので、イギリス、オランダ、フランスの先行3社には勢力は及ばず
  平戸オランダ商館が、さらにアムステルダム本社から日本向け贈答用商品を多量に運ばせる
     のち家康に謁見し、国書を渡すなどしてオランダの優位は決定的なものに
     1616(元和02)防波堤ができる
  中世の豪族多比良氏が豊臣頼高により没落
  天正遣欧少年使節の1人、マンショ伊東祐益(43)が没する

1613(慶長18)【後水尾】 癸丑(みずのとうし)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛
  《代官》村山東安
  《商館長》ヘンドリック・ブラウエル

  06/22《05/05》対日貿易の使命を帯びたイギリス東インド会社のクローブ号が平戸に入港
     オランダに4年遅れ、国王ゼームズ1世の国書をもった貿易船隊司令官ジョン・セーリスが乗船
     緋羅紗、更羅、火薬、鉄砲、ブドウ酒などを法印公鎮信におくる
     外国船誘致を希望していた松浦法印はオランダ同様に歓待し1軒の家を貸す
     09/18《08/04》セーリスはアダムスとともに駿府に赴き、家康に謁見、国書と贈り物を渡す
     アダムスはイギリス人でオランダ船リーフデ号の水先案内人
     10/14《09/01》家康はセーリスに日本のどの湊に入港してもよいなど、有利な条件での通商許可を与える
     10/25《09/06》セーリスは会議を重ね、平戸への商館設置を決定
     家康の朱印状を得て平戸に英国商館を開設
     借家を買収して改築、商館らしく構え体裁を整える
     初代商館長リチャード・コックスは徳川家康のもとで幕府の外交顧問を務める
     1623(元和09)英本国の外交方針の転換により平戸撤退を余儀なくされ、通商を断念
     対日通商への参入の遅れ、中国貿易への取引の失敗などから不振になり閉鎖される
  06/22《05/05》イギリス東インド会社のクローブ号が平戸に入港したときにビールがもたらされる
  10/28《09/15》支倉常長が遣欧使節として通商交渉を目的にサン・フアン・バウティスタ号で石巻の月ノ浦を出帆
     正使はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ、支倉は副使。180人余を引き連れる【26人?】
     伊達政宗の命をうけ期待のもと行先はスペインを経てローマへ
     のち太平洋岸を横断アカプルコ(メキシコ)へ。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスへ
     ベラクルスからは大西洋を渡りエスパーニャ(スペイン)経由でローマに至る
     1615(慶長20)01/30《01/02》エスパーニャ国王フェリペ3世に謁見
     1615(元和01)11/03《09/12》ローマ教皇パウルス5世に謁見
     のちスペインとの交渉は不成功に
     1620(元和06)09/20《08/24》帰国
     出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。帰国時には日本ではすでに禁教令がだされる
     洗礼を受けていた常長はキリスト教徒弾圧の中で、影に潜むように生きるのみ
     1622(元和08)08/07《07/01》太平洋横断という偉業を成し遂げた支倉常長は失意のうちひっそりと死去
  10/有馬直純が晴信の遺児2人を殺しキリシタンの重臣3人を妻子とともに火刑に処す
  長崎のイエズス会本部(インド管区副管区)が日本管区として独立する。管区本部は従来通り長崎に置く
  ディオゴ林田他7人が有馬にて殉教
  後藤宗因の印刷所が酒屋町のサン・ティアゴ病院内に移される
     1614(慶長19)10/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  大村喜前がキリシタン撲滅のため閣老本多正純から再三の要請で東上する
  長文の伴天連追放令が正式に発布。京都にキリシタン総奉行が置かれ、教会堂を破壊、宣教師などが国外追放に

1614(慶長19)【後水尾】 甲寅(きのえとら)

  《将軍》[第2代]徳川秀忠(徳川宗家)
  《奉行》長谷川左兵衛(12/12堺町奉行転出)
  《代官》村山東安
  《商館長》ヘンドリック・ブラウエル(←08/→)ヤックス・スペックス

  01/06都のバテレンが幕府から追放の通達を受ける
  01/13潜伏する者以外、都を出発して長崎に向かう
     02/01長崎につく。九州各地のバテレンも続々と長崎に集まる
  01/27徳川家康が禁教令を発布
     まず幕府直轄領の江戸、大坂、京都、長崎で教会を破壊、布教を禁止、伴天連を追放することに
  徳川家康が天領に禁教令をだしても長崎代官の村山等安は信仰は捨てずに過ごす
     長崎奉行が警告するが無視。地位を保つ
  02/16《01/08》徳川家康による禁教令を発布の便りが長崎に届く少し前、日本司教のセルケイラ(年齢不詳)が没する
  02/九州各地から伴天連が長崎に集い禁教令への対策を協議。遠くは京都からも集まる
  04/信者たちの熱心さが盛り上がり神のあわれみを求めるため苦行の行列が行われる
  05/09〜29幕府の迫害に対するデモンストレーションとしてキリシタン行進が行なわれる
     数千人が町内各地の教会を一巡しを巡る。数万の信徒が沿道に祈る
     追放された宣教師や信者たちは全国から長崎に潜入
     10数箇所の教会では禁教令に抗して、燃える祈りが公然と捧げられる
     長崎代官村山東安の夫人ジュスタは両手で十字架聖牌をささげ、腕から肩を荒縄で縛り、頭に茨の冠を被り素足で歩く
     最終日には代官の村上等安自らも参加
     《行列道順》(※は外町) ※古川町※本紺屋町島原町分知町外浦町大村町
     本博多町興善町豊後町小川町※上町※新紺屋町※大工町※魚町
  05/10《04/02》キリシタン迫害に抗議して、数千人規模で教会を練り歩く
     サン・アウグスチノ教会(古川町ミゼリコルジャ教会(本博多町)イエズス会本部教会・司教座教会(外浦町)
     サンタ・マリア教会(立山役所)サン・ドミニコ教会(勝山町)サン・フランシスコ教会(桜町)
     サン・アントニオ教会(大工町)サン・アウグスチノ教会(古川町)
  09/禁教令の切支丹弾圧により筑後町のサン・ジョアン・バプチスタ教会が破却される
     1620(元和06)大村本経寺の僧日慧【日恵?】がキリスト教徒の迫害を受けながら教会跡に聖林山本蓮寺を建立
  09/桜町(クルス町)のサン・フランシスコ教会と修道院が禁教令による切支丹弾圧により完成をみずに破却される
     1620(元和06)サン・フランシスコ教会跡地に囚獄屋敷(クルス牢)が建つ
  10/〜10/14《09/〜09/11》徳川家康が「禁教令」を発布。切支丹弾圧により教会堂や南蛮寺が破却される
     慶長の大破却。ザビエル渡来65年で日本のキリシタン諸教会が壊滅的な打撃を受ける
     教会の破壊は山口駿河守直友を上使として長崎奉行長谷川左兵衛と3人の僧が協力
     佐嘉、唐津、大村、平戸、有馬の諸侯は兵を起こして市中の警備にあたり小倉の細川忠興鉄砲組500人をだす
     ものものしい警戒は長崎市民すべてがキリシタンであったため万一の警戒としてとられた措置
     破壊された教会の木材はことごとく釈教の僧にたまう。釈教僧の長崎に港にいるもの、わずかに5人
     5人はキリシタンの妨害で生命の危機にさらされながら仏教の再興に尽力
     《破壊された主な教会・施設》
     5人とは道智(正覚寺)、慶西(光永寺)、伝誉(大音寺)、泰雲(晧台寺)、慶了(大光寺)
     山のサンタ・マリア教会(立山町)、被昇天の聖母の教会[サン・パウロ教会(岬の教会)・外浦町]、
     サン・ペドロ教会(今町)、サン・フランシスコ教会(未完成・桜町)、サン・ティアゴ病院(酒屋町)、
     サン・ティアゴ病院附属教会(酒屋町)、サン・アントニオ教会(本大工町)、サン・アウグスチノ教会(本古川町)、
     サン・ドミンゴ教会(勝山町)、サン・ジョアン・バウチスタ教会(筑後町)、サンタ・クララ教会(川上・大橋町)、
     教会堂(里郷)、ハンセン病病院(里郷)
     1619(元和05)遅れて3つの教会が破壊される
     トードス・オス・サントス教会(桜馬場町)、サン・ロレンソ教会(伊勢町)、ミゼリコルジア教会(本博多町)
  10/下上使山口駿河守直友と間宮権左衛門伊治が島原半島のキリシタン弾圧に向かう
     長崎奉行長谷川左兵衛を従え、諸藩の兵1万を率いる
     島原、有家、有馬、口之津、小浜各地で殉教者がでる
  11/07〜09《10/06〜08》(耶蘇会年報)在日宣教師の3分の2と高山右近らキリシタン145人【148人?】が追放
     高山右近、内藤徳庵らはマニラ行きの船に乗せられる
     マカオ、マニラなど海外に船が出るや否や、さらに教会の取り壊しが始まり、15日まで続く
     厳重な追放令にもかかわらず総数の3分の1にあたる37人のバテレンは潜伏して残る
     のち教徒も信仰を守り続け250年にわたる禁教と殉教、潜伏が続くことに
  金沢から追放された高山右近、内藤徳庵とその家族や、都の比丘尼など他地方から追放された宣教師たちが長崎に集まる
  山口駿河守、間宮権左衛門が江戸幕府下で初めて上使として長崎に下向
     諸国で捕らえられた宣教師や日本人信徒をマカオに追放。教会の破却を推進
     上使、目附…幕府は長崎の支配を徹底させるため奉行とは別に派遣
      キリシタン禁圧、貿易の統制、異国船対策、会計監査に目を光らせる
  深堀の鍋島茂賢が大坂冬の陣に参戦する
     1615(慶長20・元和01)04/06大坂夏の陣に参戦する
  教区司祭たちは、サン・ペドロ教会に集まる
     司教代理としてイエズス会管区長バレンティン・カルワリヨ神父を選ぶ
  龍造寺一族の僧慶了が伊良林に小庵を設ける
     のち中紺屋町のすすき原橋のたもとに大谷山大光寺(浄土真宗本願寺派)を創建
     1660(萬治03)今籠町(現在地)に移築
  本博多町のミゼリコルジアの組が7つの病院を有することに
     1619(元和05)禁教令による切支丹弾圧により破却される
  唐津の僧慶西が桶屋町の切支丹寺跡地に寺を創建
     肥前の国唐津の慶西(唐津久兵衛)は浦上に庵室を設け仏教復興のため身を挺して奮闘
     功により幕府から寺地が与えられる
     1621(元和07)東本願寺から浄土宗大谷派光永寺の寺号を得る
     1663(寛文03)火災にあい焼失。再建される
     1789(寛政01)火災にあい焼失。再建される
     1808(文化01)山門が桶屋町筋から東向きの位置に移される。向陽山と号する
  1580(天正08)に設立され戦乱と追害で各地を転々としたセミナリヨとコレジヨが徳川家康の禁教令により閉鎖される
  金属活字印刷機械がマカオへ渡る
     金属活字印刷機械は1590(天正18)07/21《06/20》ヴァリニャーノが遣欧少年使節と帰国したときに長崎に持ち込む
     出版活動によって生まれたキリシタン版は宗門書、文典、文学書など約50種となる
  僧伝誉が彼杵郡野母村に行き蔵徳寺蔵徳寺に投じる。伝誉は筑後国潴郡の安武城主安武八郎の子
     のち長崎に来住、布教をはじめる
     1617(元和03)公然と布教活動を開始する
     1620(元和06)伝誉が本博多町のミゼリコルディア教会跡地を賜り正覚山中道院・大音寺(浄土宗)を創建
     1638(寛永15)鍛冶屋町(現在地)に移築
     1641(寛永18)境内免租の朱印を賜る
  本多氏が島田氏とともに小浜に来て、「湯小屋」と呼ばれる湯治宿泊用の長屋を設ける。小浜温泉の始まり
  長崎の人口は5万。市民全てがキリシタン
     1616(元和02)キリシタン迫害のため長崎の人口が3万人以下に減る

慶長年間(1596〜1615)

  のち唐人屋敷となる場所にあった十禅寺(十善寺)をキリシタンが破却、教会を建てる
     十禅寺(十善寺)は長崎氏が十禅師(瓊々杵尊)と八王子(国狭槌尊)を祀った祈祷寺
  ベトナムのチャンパからチャモ(倭鶏)の原種が渡来
  ジャワよりジャガイモが長崎に渡来
  ゴア国が大兵力でシャムに侵入。津田又左衛門は山田長政とともに渡航日本人でつくった軍隊を指揮し、ゴア軍を撃破する
     のちシャム王は勲功を賞し津田を娘婿として迎える
     1619(元和05)津田又左衛門がシャム国より赤檀(しゃくたん)を得て帰国
     赤檀は3等分され鍋島侯、末次代官、残り3分の1で仏像を刻み、西山郷の能仁寺に献納する
     のち材木町の乙名となる

1615(慶長20、元和01・07/13)【後水尾】 乙卯(きのとう)

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