●●●●「長崎年表」は編集著作権で保護されます
●●●● (c) 2003-2013 makuramoto all right reserved.


鎌倉以前 室  町 安土桃山
(1)
安土桃山
(2)
江戸(1) 江戸(2) 江戸(3) 江戸(4) 江戸(5)
江戸(6) 江戸(7) 江戸(8) 江戸(9) 江戸(10) 江戸(11) 江戸(12) 江戸(13) 江戸(14)
江戸(15) 江戸(16) 江戸(17) 江戸(18) 明治(1) 明治(2) 明治(3) 明治(4) 明治(5)
明治(6) 明治(7) 明治(8) 明治(9) 明治(10) 大正(1) 大正(2) 大正(3) 昭和(1)
昭和(2) 昭和(3) 昭和(4) 昭和(5) 昭和(6) ・昭和(7) 昭和(8) 昭和(9) 昭和(10)
昭和(11) 昭和(12) 昭和(13) 昭和(14) 昭和(15) 昭和(16) 昭和(17) 昭和(18) 昭和(19)
・昭和(20) 昭和(21) 昭和(22) 平成(1) 平成(2) 平成(3) 平成(4) 平成(5) (表 紙)

 前のページへ


〈大正時代(3)〉

1922(大正11)【大正】 壬戌(みずのえいぬ)

  《総理大臣》[第20代]高橋是清(→06/12)、[第21代]加藤友三郎(06/12→)
  《知事》[第20代(官選)]赤星典太(→10/16)、[第21代(官選)]平塚広義(10/16→)
  《市長》[第8代]高崎行一(→01/16)、[第9代]錦織幹(11/11→)

  01/09築町が大火災に見舞われ、公設の卸市場も延焼
     築町、本下町一帯で全半焼132戸の大被害に
     1924(大正13)10/01本下町に公設中央市場がオープン
     珍しい鉄筋コンクリート3階建
     階下が食料品、階上が日用品雑貨、3階が事務所その他、屋上では夏の夜など活動写真大会を無料で開催
  01/24流感、長崎市で猖獗、毎日平均12人死亡者
  01/31五島中学寄舎内で流感35、6人・通学生200人
  02/02長崎市内では流感400余人に
  02/06米・英・仏・伊・日の5か国が締約する「ワシントン海軍軍縮条約」が調印される
     当時、巨大な戦艦の建造には、莫大な費用がかかり各国の財政を圧迫していたという実情と、
     急速にアジアで勢力を拡大し始めた日本の動向に、脅威を感じた先進諸国(特にアメリカ)が
     米、英、日の主力艦の所有率を「5:5:3」に制限。枠から外れる主力艦は廃棄するよう申し渡される
       8・8艦隊の戦艦「安芸」「香取」「鹿島」「摂津」「土佐」
       巡洋戦艦「鞍馬」「生駒」「伊吹」を廃艦として処分することに
       軍艦に搭載した(搭載予定)大口径砲塔が多数不要となり、のちに陸上用の砲塔砲台に改造して要塞に転用
     前年12/19に三菱長崎造船所で起工した巡洋艦「高雄(4万1千瓲)」に建造中止命令が下される
     07/戦艦「土佐」が未完成のまま廃艦が決定
  02/25「旬間朝日」が創刊。発行は大坂朝日新聞社
     B4変形で毎月5日、15日、25日発行。定価1部10銭
     「ロンドンタイムス」の日曜版にならって
     04/025号から週刊に
  03/19俳人、小説家の高浜虚子が雲仙登山前に来崎。上野屋に宿泊
     03/20大浦天主堂、丸山花月を訪れ、夜、商工会議所での句会に出席
     1955(昭和30)05/181953(昭和28)「去来250年忌」に欠席したことの謝意を表わすため来崎
     福岡、柳川、熊本を経由し三角より姫島丸に乗船。島原に上陸
     花月で歓迎句会、芥川ゆかりの料亭菊本で歓迎宴。道の尾温泉・桃太郎で1泊
  03/30「六大都市行政監督ニ関スル法律」が施行される
     東京市、京都市、大阪市、横浜市、神戸市、名古屋市が六大都市とされる(人口順でない)
  04/01県立長崎病院が国に移管。官立長崎医学専門学校附属医院と改称し一般診療をはじめる
     1923(大正12)04/長崎医科大学附属医院と改称
  04/01長崎商業会議所が実業補習教育長期講習会を開講
     商業従業員に対して夜間を利用して実務に必要な学科の補習教育を行なう
     第1回講習会[〜1923(大正12)03/28]毎週、月・水・金曜日の夜間2時間、講習生55人が聴講
     講習科目は(1)商事要項(2)経済大要(3)商業英語(4)商業算術(5)商業簿記(6)商業作文(7)珠算
     長崎市立商業学校の須藤教諭らを講師として授業を行なう
     1923(大正12)04/01第2回講習会が開講。36人の講習生が参加
     小学校での実業補習教育が充実してきたのに伴い、この年限りで廃止となる
  04/01電話番号簿が横書き50音順となる
     1931(昭和06)05/電話番号簿に広告の掲載が開始
     1942(昭和17)戦時統制のため電話番号簿の発行が中止となる
     1948(昭和23)電話番号簿が復活する
     1949(昭和24)戦争中、中止されていた電話番号簿への広告掲載が復活
  04/02「サンデー毎日」が創刊される
     大阪毎日新聞の新社屋の落成記念の一環として創刊。定価1部10銭
     「サンデートリビューン」にならって
  04/07長崎入港の「対馬丸」に天然痘患者発見
  04/22口之津鉄道が島原湊〜堂崎の営業運転を開始
     1926(大正15)07/堂崎〜南有馬の営業運転を開始
     1928(昭和03)02/南有馬〜加津佐の営業運転を開始し全通
     1943(昭和18)07/01島原鉄道に吸収合併され諫早〜加津佐78.5粁となる
  04/25長崎市本紺屋町・伊良林町に天然痘が発生
  04/29猖紅熱が伊良林町に発生
  04/長崎重砲大隊の木造2階建兵舎を仮校舎として県立瓊浦中学校が新設
     長崎県立長崎中学校の3学級分の生徒を配当
     1948(昭和23)04/県立瓊浦高等学校と改称
     1948(昭和23)11/01県立長崎高等学校、県立長崎女子高等学校、市立女子高等学校とともに統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  04/長崎市立女学校が創立
     1948(昭和23)04/市立女子高等学校と改称
     1948(昭和23)11/01県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校とともに統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  04/竹の久保に消毒所を設置
     1929(昭和04)廃止
     1931(昭和06)復活
  05/11芥川龍之介が再び来崎
     料亭菊本の女将、杉本わかに興にまかせて「河童屏風」を一気に描き与える
  05/14ベトナム人でフランス軍艦の機関員トラン・ヴァン・コー(28)が長崎入港中に病死
     遺体は坂本墓地80番に埋葬される
  05/九州電灯鉄道会社と名古屋市の関西電気株式会社の合併により東邦電力株式会社が創設
     本社を東京に置く資本金1億3千万の大会社に
     1922(大正11)06/東邦電力株式会社長崎支店と改称
     県内需要家数4万8222(うち長崎市3万5454)、実灯数13万5726(うち長崎市10万9476)
  06/08(〜初発)県下の伝染病は総数406人
     (01/〜)赤痢14人、腸チフス205人、パラチフス34人、ジフテリア90人、猖紅熱7人、天然痘51人、流行性脳脊髄膜炎5人
     赤痢長崎市高平町(08/06)、北高・長田村に34人発生(08/15)
  06/東邦電力株式会社長崎支店と改称
     県内需要家数4万8222(うち長崎市3万5454)、実灯数13万5726(うち長崎市10万9476)
     のち東邦電力株式会社の瓦斯部が分離し新たに東邦瓦斯株式会社が設立
     長崎の瓦斯部門はその支店に
     1930(昭和05)12/01東邦瓦斯株式会社の九州支店が分離独立
     福岡、熊本、長崎、佐世保支店の事業を継承し西部瓦斯が設立
     資本金1千万円。顧客戸数2万9千戸
  06/浦上にはじめて市営住宅49戸が完成。貸付開始
     経済不況と住宅の設計が関東間の狭い造りだったため入居希望者が少なく赤字となる
  07/10鎮西汽船が設立。戸町・出島・金鍔・立神・神崎航路の運航を開始
     1930(昭和05)09/01長崎電鉄が利権と設備の一切を5万円で買収
  07/鍛治屋町、思案橋際の松添舶来小間物店で女子店員を採用。長崎の女子店員の始まり
  07/同年02/06の軍縮会議「ワシントン条約」により戦艦「土佐」が未完成のまま廃艦が決定
     戦艦「土佐」は1921(大正10)12/18に三菱長崎造船所で進水したばかり
     のち海軍に引き渡され、実験標的艦として魚雷・機雷・徹甲弾等の各種射撃実験に使用、海の藻屑に
     1925(大正14)02/09豊後水道にて海没処分される
  08/29有限責任長崎信用組が設立
     産業組合法による市街地信用組合制度に基づいて浜町を中心とする地元商工業者189人が発起
     1943(昭和18)04/市街地信用組合に
     1950(昭和25)04/信用組合に
     1951(昭和26)10/20信用金融金庫法に基づく信用金庫に改組
     のち壱岐、対馬を除く長崎一円に営業区域を拡大
     1999(平成11)11/01諌早信用金庫が長崎信用金庫との合併により「たちばな信用金庫」と名称変更
  08/築町の佐世保銀行長崎支店を本紺屋町に移転
     のち本紺屋町の佐世保銀行長崎支店を●●●町(現賑町)に移転
     1939(昭和14)09/佐世保商業銀行と佐世保銀行が合併。親和銀行が創立。資本金310万円
  09/01南松浦郡富江村(福江島)に町制が敷かれ富江町となる
     1933(昭和08)11/03南松浦郡玉之浦村(福江島)に町制が敷かれ玉之浦町となる
  09/1009/02から続いた豪雨で被害が続出。大正の大水害
     死者7人、家屋の流出半壊および浸水1142戸、橋の流出12、道路の決壊122か所などの被害がでる
  09/21コレラは県下で21人、その半数は北松浦郡大島村で、真性は10人
  09/28南松浦郡若松島神の浦に真性コレラ
  09/29浦上山里村里郷に赤痢、一部落で5人発生
  10/01自働電話を公衆電話と改称
     1937(昭和12)08/30上海からの避難者の便を図るため出島岸壁に公衆電話を設置
  10/「長崎くんち」(1)…寄合町(本踊)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、
     樺島町(太鼓山)、平戸町(獅子踊)、八幡町(剣舞)、麹屋町(本踊)、
     万屋町(鯨潮吹き)、西浜町(龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
     *駕輿町…西山郷
  10/12雷が丘(現東小島町)の「高嶋秋帆旧宅」敷地全体が史蹟名勝天然記念物保護法の第1回指定に選ばれる
     他に町のなかに埋もれた本来の出島(出島和蘭商館跡)が、内務省の告示で国指定の史跡になる
     またシーボルト宅跡も史蹟名勝天然記念物保存法により指定される
     1929(昭和04)瓜生タツが今籠町崇福寺門前に「辰巳」を新築移転
  11/16赤痢はますます猖獗、初発以来、長崎市で35人、疑似47人。佐世保市51人、疑似30人
     西彼杵郡98人、疑似22人。東彼杵郡32人、疑似47人、北高来郡97人、疑似10人、南高来郡109人、疑似44人
  11/長崎港湾第3期改良工事に着手
     1927(昭和02)11/完成。目的は出島沿岸の護岸築造
  11/ワシントン条約の締結により海軍の将兵7500人、造船所の職工1万4千人が整理
  12/01土井首町に福井内科医院創設
     1955(昭和30)12/草住町に医療法人浩仁会福井病院が設立。一般病床4、結核病床49
     1969(昭和44)04/結核病床が廃止 。一般病床141
     1977(昭和52)03/深堀町1丁目に移転。一般病床207
     1986(昭和61)敷地内に鉄筋5階建の新棟を建設
     ベット数が120床増え327床に。各階にデイルームを設け最新型のCTスキャンを導入。医療設備、環境面を充実
     1986(昭和61)04/01病院名を長崎記念病院に改称
  12/08島原半島南部に激震(マグニチュード6.5)、震源地は千々石灘
     長崎市で震度5、南高北有馬町などで震度6を記録
     死者27人、重軽傷39人、家屋全壊654戸、半壊1428戸
  12/18南松浦郡大洗村に天然痘患者が発生
  12/30第1回全連邦ソビエト大会が召集されソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
     世界初の社会主義国となる
     1991(平成03)12/25ソビエト連邦が解体され崩壊する
     大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立
  12/日本帝国海軍が佐世保市針尾中町に針尾送信所の3本の無線塔を完成。着工は1918(大正07)
     鉄筋コンクリート製の塔が一辺300米の正三角形を構成するよう配置
     1号塔(135米)、2号塔(135米)、3号塔(137米)。塔基部直径は約12米、周囲は約33米、厚さ76糎
     塔頂部の展張装置を介して、塔と塔の間に空中線が張られアンテナを構成
     当時、長波が用いられ、大規模なアンテナ施設が建造
     1948(昭和23)05/海上保安庁が発足
     第7管区・佐世保海上保安部の管轄となり、海難通信等の海上保安業務に供される
     1997(平成09)新送信所局舎、新鉄塔など代替施設が整備され役目を終える
  「長崎新聞」が神戸新聞との組合経営となる
     今魚町が発行所で中川観秀や岩永八之凾が筆をふるう
     1935(昭和10)08/廃刊
  穴見栄七が福岡の八女から長崎へ。長崎駅前で果物店をはじめる
     果物のほか唐人せんべい、人造豆、さくら干し、名所絵葉書なども売る
     1950(昭和25)駅前の区画整理で駅前別の場所に新築移転。土産品店たちばなやを開業
  飽ノ浦カトリック教会ができる
  三浦環が帰朝の折、長崎でリサイタルを開く
     旧米国領事館(南山手14番館・オルト邸)など「蝶々夫人」ゆかりの地を訪れる
  長崎高等商業学校(第3高商)に外国人の日本留学のため門戸を開く
     1944(昭和19)03/29勅令第165号により長崎経済専門学校と改称
     長崎工業経営専門学校が併設
  長崎医学専門学校が長崎医科大学となる
  新しい栄養素として注目のグリコーゲンを生かした栄養菓子「グリコ」が売りだされる
     栄養がある点をアピールするため「ランニングマーク」と「一粒300メートル」のコピーが生まれる
     ランニングマークは初代社長が自ら原画を描く
     駆けっこをする子どもたちが両手をあげてゴールをする元気なイメージを込める
     のち女学生などからランニングマークの顔がこわいと声があがる
     オリンピックやマラソンで人気のある選手のにこやかなゴールインポーズを参考に描き直される
  マヨネーズのキューピーが商標登録となる
     元来日本では生野菜を食べる習慣がなかったが、関東大震災を契機として暮らしが洋風化
     初代のキューピーは顔も身体もほっそりしていて、顔にはまゆ毛もありまつ毛も長い
  (株)諫早貯蓄銀行が創業
     1927(昭和02)(株)諫早商人銀行に合併される
     (株)諫早商業銀行と改名
  喜真(株)が(株)喜真銀行に改名する
     1929(昭和04)03/(株)諫早商業銀行とともに(株)諫早銀行に合併される
  (初発〜)県下で赤痢499人、疑似273人、うち死亡132人、腸チフス833人、うち死亡179人

1923(大正12)【大正】 癸亥(みずのとい)

  《総理大臣》[第21代]加藤友三郎(→08/24)
        [加藤友三郎内閣]加藤友三郎の死去により外務大臣内田康哉が臨時兼任(08/24→09/02)
        [第22代]第2次山本内閣(09/02→)
  《知事》[第21代(官選)]平塚広義(→10/25)、[第22代(官選)]堀内秀太郎(10/25→)
  《市長》[第9代]錦織幹

  01/01雲仙に日本初の火山観測所「県立長崎測候所附属温泉岳観測所(のち測候所)」が創設
     温泉公園事務所に嘱託していた公園内で観測
     きっかけは前年12/の千々石灘地震(島原地震・M6.9、死者27人)、県民の強い要望で生まれる
     1924(大正13)04/01絹笠山頂(849.4米)に風力塔と庁舎をつくり移転、観測開始
     1939(昭和14)県立から国立となり、雲仙岳測候所と改名
     1977(昭和52)03/庁舎の老朽化とアメダスの実現により廃止
  01/01雲仙に街灯が点灯される
  01/出島岸壁が180米に拡張
  02/11「紀元節」の佳日。日本郵船が長崎〜上海に日華連絡船を週2回の運行で就航
     就航第1船は日本郵船の貨客船「長崎丸」。1922(大正11)10/23竣工
     総屯数(5272瓲)、船客収容(1等155人・3等200人)、最強速力(20.87節)
     長崎〜東京が汽車で所要時間36時間の頃、長崎〜上海は26時間で連絡。3等18円、旅券不要
     のち見送り、そのまま上海に渡るという話も珍しくなく、上海を「長崎県上海市」というように
     1924(大正13)05/02年平均1万人弱程度の乗客による経営不振で長崎から神戸まで延長
     1932(昭和07)03/以降前年の満州事変勃発で9万0099人の避難者を輸送
     1942(昭和17)05/17伊王島北沖で日本軍布設の機雷に触れ沈没
  02/「要塞再整理要領」の裁可。壱岐要塞の新設と廃艦の砲塔を陸上砲台にすることが決まる
     1924(大正13)10/「壱岐要塞」の建設開始。的山大島砲台の起工
  03/25長崎〜上海に「長崎丸」の姉妹船として日華連絡船「上海丸」が就航。1923(大正12)01/15竣工
     総屯数(5259瓲)、船客収容(1等155人・3等189人)、最強速力(20.17節)
     日華連絡線開設に伴い長崎上海航路を本線とし、神戸上海線と横浜上海線を附属線とすることに変更
     長崎にとって上海が東京よりも、もっとも身近な外国に。上海を旅行する人や上海で暮らす在留邦人が増加
        船は「長崎丸」「上海丸」ともに英国W・デニー造船所で建造
        5259瓲、蒸気タービン2基、航海速力17.2節(時速約32粁)の快速船
        船客定員1等155人、3等200人、乗組員125人
        1等運賃、特別室(1人使用200円、2人使用150円)、
         2人室(1人使用65円、2人使用55円)、3人室50円、5人室45円)
        3等運賃18円
        出島岸壁を午前09時に出港、26時間後の翌日午前10時に上海に到着
        上海を午前06時に出港、翌日朝09時に長崎に到着
        パスポートは不要で、東京に行くよりも、安く早い
     のち見送り、そのまま上海に渡るという話も珍しくなく、上海を「長崎県上海市」というように
     関東大震災直後日華連絡船「上海丸」が神戸〜横浜に救助活動のため連絡救援資材運送船として徴発
     1924(大正13)05/02年平均1万人弱程度の乗客による経営不振で長崎から神戸まで延長
     1932(昭和07)03/以降前年の満州事変勃発で9万0099人の避難者を輸送
     1943(昭和18)10/30揚子江の東方40哩の沖合で南方兵員輸送船「崎戸丸」(1万瓲)と衝突し沈没
  04/01官立長崎医学専門学校附属医院が廃止、長崎医科大学に昇格。県立長崎病院は大学付属病院に
     学長は山田基
     1945(昭和20)08/原子爆弾により被災
  04/01九州初のコンクリート3階建て校舎の城山尋常小学校が設立。工費9万3718円
     緑に囲まれた白亜の校舎は、モダンな小学校で有名となる
     1941(昭和16)04/城山尋常小学校から城山国民学校となる
     1945(昭和20)08/09原爆により児童、教職員等約1400人が死亡
     校舎の損傷も大きく修理しながら授業をすすめられた
     1948(昭和23)04/城山小学校として復興
     1980(昭和55)原爆校舎の階段塔屋部分は教室として使われるが、新校舎建設の際、一部が遺構として残る
     1982(昭和57)09/07城山小学校の原爆校舎のうち被爆の惨劇をもっとも留めた南校舎が解体される
     1999(平成11)02/旧城山国民学校の遺構が生徒の努力で整備、城山小平和祈念館として生まれ変わる
  04/01竹久保町の長崎重砲大隊の木造2階建兵舎を仮校舎として県立瓊浦中学校が開校
     1948(昭和23)県立瓊浦中学校跡地に県立長崎西高等学校が開校
  04/01焼失[1912(大正01)10/14]した馬場郷の長崎県師範学校が東彼杵郡大村町の新築校舎に移転
     立山の長崎県女子師範学校が馬場郷の旧長崎県師範学校の校舎に
     1934(昭和09)馬場郷の長崎県女子師範学校が東彼杵郡大村町の長崎県師範学校の地に移転
     東彼杵郡大村町の長崎県師範学校が馬場郷にもどる
  04/01長崎市、学校衛生技師2人と学校衛生助手11人を採用、毎日各小学校児童のトラホーム治療にあたらせる
  04/01東彼杵郡早岐村に町制が敷かれ早岐町となる
     1925(大正14)04/01東彼杵郡大村と大村町が合併し大村町となる
  04/01北高来郡北諫早村と北高来郡諫早村と諫早町が合併して諫早町となる
     1940(昭和15)09/01北高来郡小栗村、小野村、有喜村、真津山村、本野村、長田村、諫早町が合併し諫早市となる
  04/01長崎商業会議所が実業補習教育長期の第2回講習会を開講。36人の講習生が参加
     小学校での実業補習教育が充実してきたのに伴い、この年限りで廃止となる
  04/本原郷が本原町1・2・3丁目となる
     本原町の旧小字名[本原郷]荷尾(大部分)、畔無(一部)、板ノ首(一部)、東荷尾(大部分)、野中(一部)
             [中野郷]野下(一部)、山王辻(一部)、上原(一部)
     1964(昭和39)本原町3丁目の大部分と本原2丁目の一部が合併して三原町(もと原三ちょうめ)となる
     0000(●●00)三原町が三原1・2・3丁目となる
  04/新聞「長崎経済日報」が廃刊
  05/05温泉軽便鉄道、愛野村〜愛津〜水晶観音〜千々石の9.3粁が開通
     開業時車両数は蒸気機関車2両、客車6両、貨車9両
     千々石〜愛野村の運行は、朝5時44分千々石発から夜9時2分千々石着まで1日7往復
     運賃は千々石〜愛野28銭。汽車は2両の客車を引いて走る
     1924(大正13)05/31温泉鉄道と改称
  05/2624時間耐久レースグランプリ第1回ル・マンが開催される
     激しい雨のなか33台が参加、うち30台が完走
     優勝はフランスのアンドレ・ラガシュとルネ・レオナールの。車種シュナール・ワルケル・スポール
     周回128、距離2209.536粁 【2209.47粁】。平均時速92粁/時
  06/09白樺派の作家有島武郎が婦人公論記者で人妻の波多野秋子と軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げる
     07/07発見されるが、腐敗がひどく遺書の存在で本人と確認される
  06/佐世保海軍凱旋記念館が開館
     第1次大戦時の鎮守府所属艦船の武勲を讚えるため九州、四国各県の寄付で建設
     海軍の行事や合同葬などに使用される
     鉄筋コンクリート造り2階建。鉄板葺で建築面積は826平方米
     戦後米軍に接収される
     1982(昭和57)佐世保市に返還される
     のち佐世保市民文化ホールとなる
  07/老朽化と執務不便から東濱町の長崎警察署を江戸町・県庁西側に新築移転
     1968(昭和43)10/22江戸町から桶屋町に新築移転
     東濱町の一画に浜の町交番所が設置される
  08/末初代帝国ホテルの隣接地に新館(ライト館)が全館落成
     鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート構造、地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
     皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積3万4千平方米余の大建築
     中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配される
     全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がされる
     鷲が翼を広げたような巨大なホテルは小部分がいくつも繋ぎ合わされた連結構造
     建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組み
     大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用、耐震防火に配慮した画期的な設計
     09/01新館落成記念披露宴の準備中に関東大震災発生
     ホテルは小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せ、ひときわ人々の目を引くことに
  09/01午前11時58分44秒、関東を中心に静岡、長野まで広い範囲に激震。関東大震災
     東大理学部の地震計だけでマグニチュード7.9を記録
     被害数は日本の災害史上最悪。死者9万9331、負傷者10万3733、行方不明4万3476
     全壊家屋12万8266、半壊家屋12万6233、火災焼失約44万7100
     火災によって東京全戸数の70%(都内で130カ所以上で火災発生)、横浜では60%が焼失
     本所横綱町・陸軍被服廠跡の空地では、避難した民衆約3万8千人が四方からの火に巻かれ焼死
     暴徒取締りに自警団が各所に生まれたが、自警団員による暴行や殺人が横行
     朝鮮人暴動のデマが流れ約6000人の朝鮮人が虐殺される
     地震の2日後には警視庁が、5日後には内閣が、朝鮮人迫害を戒める掲示を発表
  09/01近代日本の最初のカトリック教会、横浜天主堂が関東大震災で焼失
  関東大震災直後日華連絡船「上海丸」が神戸〜横浜に救助活動のため連絡救援資材運送船として徴発
     1924(大正13)05/02年平均1万人弱程度の乗客による経営不振で長崎から神戸まで延長
  09/01東京浅草の12階建ての塔「凌雲閣」が関東大震災により8階部分より上が崩壊
     地震発生時、頂上展望台付近には12〜3人の見物者
     福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死する
     09/23経営難から復旧が困難であったため陸軍赤羽工兵隊の手で爆破解体され、その幕を閉じる
  09/01東京市京橋区木挽町の歌舞伎座が再建工事中に関東大震災に見舞われる
     1925(大正14)01/04第3代の大殿堂で開場式
     奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠
     鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築。設計は岡田信一郎
     正面大屋根の高さは100尺(約30米)、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18米)
     照明設備はアメリカとドイツから取り寄せる。内容外形ともに日本一を誇る大劇場に
  09/01東京での正午の空砲報時「ドン」は関東大震災のときも、掛員の将校と下士官は責務を正確に履行
     地震発生2分後のこと
     1929(昭和04)04/30経費難により東京での空砲の報時が終了となる
  09/01関東大震災により児童文芸誌「赤い鳥」の10月号が全焼
     のち1923(大正12)の12月号が雑誌組合の協定により休刊
     のち1929(昭和04)から1931(昭和06)まで休刊
     1936(昭和11)08/同年06/27に鈴木三重吉が肺臓ガンで死去したため終刊
     10/「赤い鳥鈴木三重吉追悼号」が刊行される
     【1936(昭和11)のみ記載】
  09/04大震災後の浅草で、焼け残った釜をでご飯と具を一緒に炊いた屋台がならび釜飯が誕生する
  09/09関東大震災から避難者が続々と長崎入り。09/18までに1926人に
  09/16伊藤野枝が大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵甘粕正彦大尉に連れ去られる
     憲兵構内で扼殺されて死亡。遺体は畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられたる。伊藤野枝享年28才
     関東大震災の混乱を利用した、白色テロル(為政者が反政府運動や革命運動に対して行なう激しい弾圧)の犠牲に
  09/カステラの文明堂が玉江町3丁目に大波止店を開設
     1927(昭和02)08/馬町本店を今町に移転、新装開店
  09/浦五島町48番地に林兼長崎支店が開設
     1932(昭和07)07/旭町3番地1に移転
     1937(昭和12)12/土井の首冷蔵所を新設
     1943(昭和18)04/水産統制令により西大洋漁業統制(株)長崎支社を設置
     1945(昭和20)12/社名を大洋漁業株式会社と変更
     1948(昭和23)06/戸町冷凍工場を竣工
     1956(昭和31)08/漁港冷凍工場を竣工
     1959(昭和34)04/長崎支社を旭町から水産会館5階に移転
     1962(昭和37)05/漁港冷凍工場を増設
     1965(昭和40)12/旭町8番23号の大洋ビルに移転
  10/07渡御。「長崎くんち」(2)が雨天のため日程変更10/11還御
     関東大震災のため傘鉾、踊ともに奉納中止
     *駕輿町…立山、木場郷
  11/01シーボルト胸像除幕式、鳴滝塾跡で開催
     1924(大正13)04/27シーボルト渡来100周年記念式典が鳴滝塾跡で行なわれる
     東大精神科の呉秀三教授も来崎し出席
     1948(昭和23)02/15長崎市鳴滝町のシーボルト宅跡、史跡地として保存することに決定
     シーボルトの孫楠本チエの陳情により農地としての強制買い上げは中止に
     1961(昭和36)10/16シーボルト宅跡保存会が発足。会長は北村精一長大学長・副会長は田川務長崎市長
     シーボルト宅跡の整備と胸像の復元に乗りだす
     1963(昭和38)03/16長崎市鳴滝町のシーボルト宅跡に19年ぶりにシーボルトの胸像が復元され除幕式を挙行
  11/三菱造船所の電機工場が分離独立、三菱電機製作所となる
  12/25永見徳太郎がブラジル名誉領事に任じられる
  12/大村海軍航空隊として箕島に空港が開設
     1955(昭和30)05/旧軍施設を使用し、「大村空港」が開設
     1960(昭和35)04/第2種空港として供用が開始。現A滑走路
     1975(昭和50)05/01世界初の海上空港「長崎空港」が開港。「大村空港」が「長崎空港」に改称
      180億円の建設費を投じ約154万平方米の用地を造成
      広さ134万4千平方米、滑走路の延長2500米、幅60米をもつ第2種空港として供用を開始
      大型機時代の幕開けとして東京・大阪便にはジェット機が就航
     1979(昭和54)09/11日中定期航空路の3番目として長崎〜上海が開設。国際空港としてスタート
     上海行1番機DC-8・62型機が飛び立つ
     「税関空港」「動物検疫飛行場」「植物防疫飛行場」「入出国港」に指定
  福富町3丁目の長崎紡績(株)が第2長崎紡績会社と合併。国光紡績に変わる。資本金2千万円
     第2次世界大戦中企業整備のため倉敷紡績会社に吸収
  家野郷と本原郷の間の石橋・二郷橋が洪水のため流失
     0000(●●00)再架
     1985(昭和60)河川拡張のため解体、若干下流に再建
  長崎市域のすべての郷名が町名に変わる
  矢上の中尾川に架かる明治橋が鉄筋コンクリート橋に架け替えられる
     名称が番所橋にもどる
     1982(昭和57)07/23崩壊
  油屋町〜本石灰町に架かる鉄橋の油屋橋(石灰橋)が鉄筋コンクリート橋に架け替える
  本原郷辻の丘(十字架山、クルス山)に建つ木製の十字架が石製に
     1950(昭和25)西坂殉教地とともに、ローマ教皇によって公式巡礼地に指定
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  山崎善三郎の遺志により妻貞子、娘園子が25万円で山内慶華財団を組織。仏教精神に基づく慈善活動を行なう
     今町で山内慶華会館と幼稚園を経営。山内慶華会館は3階建ての華麗な洋館
     1945(昭和20)08/15山内慶華会館が原爆で焼け落ちる
  壱岐集報社発行の「壱岐集報」の題号を「壱岐日報」と改める
     1945(昭和20)戦争のため休刊
  関東大震災が発生し国の予算は復旧費が最優先に。関門トンネルの工事計画が頓挫
     1924(大正13)国会で関門トンネル建設工事が中止と決まる  フランスでエルメスがバックに初めてジッパーを採用
     1927(昭和02)頃日本でも広島県御調郡向島の日本開閉器工場がファスナーの製造を開始
     【日本開閉機会社、日本開閉器商会とも】
     分派会社の「チャック・ファスナー」社が、巾着をもじった「チャック印」という商標で販売する


1924(大正13)【大正】 甲子(きのえね)

  《総理大臣》[第22代]第2次山本權兵衞内閣(→01/07)、[第23代]清浦奎吾(01/07→06/11)
        [第24代]加藤高明(06/11→)
  《知事》[第22代(官選)]堀内秀太郎(→07/23)、[第23代(官選)]富永鴻(07/23→)
  《市長》[第9代]錦織幹

  01/26九州帝国大学の学生オーケストラ「フィルハーモニー会」が第九の第4楽章を演奏
     摂政宮の御成婚祝いに開いた「奉祝音楽会」の席上で
     ただ、歌われた歌詞はドイツ語でも日本語の訳詞でもなく
     文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を第9のメロディにアレンジしたもの
     11/29、30東京音楽学校のメンバーがベートーヴェンの交響曲第9番全曲を演奏
     指揮はドイツ人教授グスタフ・クローン
     1927(昭和02)05/03ベートーヴェンの交響曲第9番をプロ・オーケストラ新交響楽団(NHK交響楽団)が日本初演
  03/21大浦13番地の「カイダ・ホテル」が焼失閉業
  03/日見国道隧道を起工
     1926(大正15)04/03全長640米の日見国道隧道完成。日本最長の歩行トンネル
     技官は本田県千代と田原秀雄、経費47万円
     2001(平成13)坑口のデザインが大正期の様式を色濃く残す日見トンネルが国の有形文化財に登録
  04/01長崎交通船(株)から譲り受けた市営交通船が運航開始
     大波止〜水ノ浦(片道4銭)、元船町〜志賀(片道3銭)に運航。船舶5隻
     1969(昭和44)07/01バスの普及により廃止
  04/01浪平尋常小学校に高等科を併置し浪平尋常高等小学校と改称
     1941(昭和16)04/01長崎市浪平国民学校と改称
  04/01県立長崎測候所温泉岳観測所が絹笠山頂(849.4米)に風力塔と庁舎をつくり移転、観測開始
     1939(昭和14)県立から国立となり、雲仙岳測候所と改名
  04/01南高来郡島原村と島原町、湊町が合併して島原町となる
  04/01南高来郡小浜村に町制が敷かれ小浜町となる
     1926(昭和01)07/01南高来郡古部村と伊福村が合併し大正村となる
  04/27シーボルト渡来100周年記念式典が鳴滝塾跡で行なわれる
     東大精神科の呉秀三教授も来崎し出席
     1948(昭和23)02/15長崎市鳴滝町のシーボルト宅跡、史跡地として保存することに決定
     シーボルトの孫楠本チエの陳情により農地としての強制買い上げは中止に
  04/「長崎日日新聞」が色刷り輪転機を採用。特別な記事や特別広告などに利用し読者の注目をひく
     のち1924(大正13)11/24創刊の民政党系「長崎民友新聞」(政友会色)と張合うようになる
     1941(昭和16)東京読売新聞に譲渡
     社長は読売本社から小林光政、武藤具三らが後を継ぐ
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」とともに統合される
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  04/長崎無尽株式会社の事務所を栄町に新築移転
     鉄筋コンクリート造3階建で竣工。設計は末広設計事務所。施工は不詳
     建築規模は幅38.90米、奥行き21.12米、延床面積1687.24平方米
     地面から1階床面まで 500粍、階高は1階4.40米、2階3.96米
     3階床面よりパラペット頂部まで5.47米、総高は14.33米
     1階はロビー、事務室、書庫
     2階は役員室、総務室、経理室、企画室、会議室、応接室、書庫
     3階は営業統括室、会議室、事務室
     屋根は日本瓦屋根、一部カラー鉄板瓦棒屋根
     1941(昭和16)08/昭和無尽株式会社と新立合併。業務区域が長崎県下一円に
  05/02日華連絡船「長崎丸」「上海丸」が長崎から神戸まで延長
     連絡線の運航成績が毎航平均6〜7千円の欠損で、年平均1万人弱程度の乗客による経営不振となる
     阪神及び京浜方面の貨客の便に供し損失の軽減に努める
     3等18円、旅券も何もいらず見送りに行き、そのまま上海に渡ったという話も
     1932(昭和07)03/以降前年の満州事変勃発で9万0099人の避難者を輸送
  05/31温泉軽便鉄道が温泉鉄道と改称
     1927(昭和02)06/06小濱地方鉄道に乗り入れ。諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転を開始
  07/21勝山尋常小学校が勝山尋常高等小学校と改称
     1936(昭和11)03/14鉄筋コンクリート造3階建ての現校舎が竣工
     1933(昭和08)長崎市建築課に技丁として入庁の丹羽漢吉が改築設計を行なう
     当初はモルタル仕上げの明るいクリーム色で建設されるが、戦時中は建物に迷彩が施される
  08/21国民新聞が新聞に日本で初めて天気図を掲載する
  09/24長崎三菱造船所で新造された客載貨車渡船「津軽丸」(5431瓲)が青函連絡船に配属。10/11就航
  09/長さ230間の出島岸壁が完成。総工費約150万円
     浚渫の結果、水深30尺となり8千瓲級の船舶が2〜3隻同時に接岸可能となる
  10/01本下町に珍しい鉄筋コンクリート3階建の公設中央市場がオープン
     階下が食料品、階上が日用品雑貨、3階が事務所その他、屋上では夏の夜など活動写真大会を無料で開催
     1930(昭和05)2階が「長崎百貨店」に
  10/11病理学者アショッフ教授が来崎、長崎医科大学で講演、富貴楼で歓迎会
  10/「長崎くんち」(3)…寄合町(本踊)、油屋町(本踊)、下筑後町(獅子踊)、
     今籠町(本踊)、鍛冶屋町(本踊)、西中町(川船)、東中町(本踊)、
     豊後町(本踊)、本下町(本踊)、外浦町(本踊)、萬歳町(本踊)
  10/25長崎三菱造船所で建造された客載貨車渡船「松前丸」(3484瓲)が青函連絡船に配属。11/11就航
  10/山王日吉神社の二の鳥居が建立。のち参道に一の鳥居から四の鳥居まで建つ
     1945(昭和20)08/09原爆により二の鳥居が、高温の熱線で上部は黒く焼け爆風で左半分は倒壊
     右半分は笠石を載せたまま残る。爆風で笠石の部分は約5糎横にねじ曲がるが、笠石と貫の一部でバランスを保つ
     爆心地から南東約800米にあった
     のち原爆で境内の建物が壊滅的被害を受けたが徐々に再建
  10/「壱岐要塞」の建設開始。的山大島砲台の起工
  11/2434才の西岡竹次郎(社長兼主筆)が大浦町で「長崎民友新聞」が創刊
     一般大衆の立場に立ったデモクラシーを基調としての記事、論調に一種独特の持ち味があり大衆に人気
     社長の西岡自身は政友会の党人で長崎日日新聞の則元由庸とは立場を異にし対立
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎日日新聞」「軍港新聞」「島原新聞」とともに統合される
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  12/市営交通船が元船町〜志賀波止(3銭)の航路を新設
  12/世界的な富豪のジョン・ロックフェラーから東京大学図書館再建のための援助の申しでる
     ロックフェラー財団より図書館再建資金400万円が受贈
     1892(明治25)竣工の煉瓦造の図書館が関東大震災により焼失したため
  長崎交通船株式会社が長崎大波止〜伊王島に定期航路をはじめる
  長崎〜大連の航路が朝鮮郵船、大阪商船により復活就航
  稲佐お栄が茂木ホテルの経営から退く
     1928(昭和03)砂田三次郎が借用し茂木ビーチホテルと改称して経営
  十七銀行が浜町本通りに社屋を新築して開業
  十七銀行の地階に長崎初の地下食堂十七食堂(個人経営)開設
     1942(昭和17)太平洋食堂と改称
  蒲鉾専門店「石橋蒲鉾」が新地町に創業
  昭和天皇御成婚記念により八坂神社の狛犬が替わる
  西彼杵郡土井ノ首村に長崎食品製造所(内外食品)が設立
     イワシのトマト漬缶詰(トマトサージン)の生産工場を長崎県下で初めて稼動
     1925(大正14)イワシのトマト漬缶詰(トマトサージン)の大量生産を始める
     製品は三井物産を通じて輸出、イワシ王国長崎の名を高める
  株式会社十八銀行の東京支店が開設される
     1942(昭和17)預金が1億円を突破
  天草の合津で営む松尾呉服店の4代松尾猪一郎が千々石に本店をおく
     また朝鮮浦項支店、南支広東に丸松商工(百貨店)を経営
     戦後5代松尾治雄は呉服商となり、観光関係に目をむけて旅館の浴衣、丹前などの販路を開拓
  銀屋町に糸岐千代蔵を開店した糸岐千代蔵が死去。2人の息子が後を継ぐ
     のち店は三菱長崎造船所から記念品などの注文を受けるなど順調に
     1933(昭和08)昭和恐慌を境に状況は一変、船大工店が閉店
  駒場町から城山町に抜ける浦上川に鉄筋コンクリート橋の簗橋が架かる
     1945(昭和20)08/09原爆の爆風により南側の橋面に亀裂が生じ、川岸へ約10センチほどほど後退、欄干は45度西に傾く
     のち補修される
     1986(昭和61)長崎大水害の河川改修工事により架け替えられる
  鍛冶屋町と本石灰町の間に架かる「思案橋」がセメント・コンクリートを塗った鉄橋から鉄筋コンクリー橋となる
     思案橋の由来は、はじめ木廊橋が作られたとき
     シャム船の廃材料を使って架けられシャム橋の名がつく
     また遊客が思案する場所なのでそれが訛って思案橋とも
     1956(昭和31)道路拡張に伴い撤去
  大竹製菓と東京菓子製菓が合併。社名を明治製菓(株)に改称
  築町で鮮魚商を営む石橋道雄が、築町市場内で蒲鉾の製造販売をする石橋蒲鉾店に切り替える
     1951(昭和26)新地町に移転
  東京美術学校の水谷鐡也教授がシーボルトの胸像を製作
     シーボルト宅跡の竹林のなかに設置される
     戦時中金属供出のため失われる
     1963(昭和38)シーボルト史跡保存会により長崎県立長崎図書館に残っていた石膏型を使って復元される
  国会で関門トンネル建設工事が中止と決まる
     1931(昭和06)満州事変が勃発。軍需物資の輸送量が増え関門両側に滞貨の山ができる
     軍は本州〜九州間を貨物がスムーズに流れなくては国防に支障が起こると強硬な意見を主張
  インドの詩人タゴールが雲仙にくる

1925(大正14)【大正】 乙丑(きのとうし)

  《総理大臣》[第24代]加藤高明
  《知事》[第23代(官選)]富永鴻
  《市長》[第9代]錦織幹

  01/04東京市京橋区木挽町に第3代の歌舞伎座が大殿堂で開場式
     奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠
     鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築。設計は岡田信一郎
     正面大屋根の高さは100尺(約30米)、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18米)
     照明設備はアメリカとドイツから取り寄せる。内容外形ともに日本一を誇る大劇場に
     1945(昭和20)05/25東京大空襲で大屋根が落ち、外郭を残して内部を焼失
  01/26入江町〜新地に入江橋が開通
  02/09戦艦「土佐」が「ワシントン条約」により未完成のまま廃艦が決定
     海軍に引き渡され豊後水道にて海没処分される
     09/20除籍となる
  03/22午前9時30分、東京放送(のちNHK)が東京芝浦の仮放送所からラジオ放送を開始する
     「JOAK、JOAK、ジェー、オーゥ、エーィ、ケーィ、こちらは東京放送局であります」
     途中には天気予報の放送の開始される
     受信契約数は約3500。ラジオ放送は06/01から大阪で、07/15から名古屋でも開始される
  03/鍛治屋町に喫茶店「ツル茶ん」が創業。長崎の喫茶店の始まりであり、九州初の喫茶店でもある
     店名の由来は…ツルの港の長崎に初めて生まれた喫茶店
     創業時の建物は中国の革命家孫文、柔術家西郷四郎が活躍した東洋日ノ出新聞社の社屋
  04/01東彼杵郡大村と大村町が合併し大村町となる
     1927(昭和02)04/01東彼杵郡広田村が早岐町に編入される
     東彼杵郡佐世村と日宇村が佐世保市に編入される
  04/01北松浦郡平戸村と平戸町が合併し平戸町となる
     1926(昭和01)04/01北松浦郡笛吹村、前方村、柳村が合併し小値賀村となる
  04/01壱岐郡武生水村に町制が敷かれ武生水町となる
     1935(昭和10)04/01壱岐郡香椎村に町制が敷かれ勝本町となる
  04/長崎商業女学校が興福寺内に開校
     1926(大正15)長崎女子商業学校と改称
     1936(昭和11)新町に移転
     1947(昭和22)栄町の現在地に移転
  04/長崎商業会議所の第7代会頭に松田精一が就任
     1928(昭和03)08/長崎商業会議所を長崎商工会議所に改組
  05/30長崎県医師会と市医師会の事務所が中島川端の袋町23番地に移転
     1935(昭和10)09/13長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
     県医師会事務所も同会館内に移転
  05/ヒュ−ゼ神父のとき浦上天主堂の正面双塔が竣工
     フランスから取り寄せた2個のアンゼラスの鐘を取り付ける
     外部正面が西方を向き左右に四角形の双塔を設けドームをおいて縦に3分し双塔の間に切妻屋根を配する
     6千人収容、東洋一の大会堂が完成。請負は鉄川与助
     1945(昭和20)08/09原爆で堂は全壊。ドーム部分は地上に落下
     双塔につく鐘楼のうち小さい方は壊れるが、大きい方はほぼ完全な形で残る
  05/長崎電鉄が市営交通船に対抗し港内連絡船を開業するため三菱長崎造船所で電鉄丸6隻を建造
  06/30長崎商業学校が文部省告示第294号をもって長崎市立商業学校と校名を変更
     1933(昭和08)04/西彼杵郡西浦上村油木谷20番地に新校舎が落成し移転
  06/島原銀行が営業不振により倒産
  07/11長崎電鉄が出島〜水の浦(第1・第2電鉄丸)、出島〜旭町(第3・第4電鉄丸)に交通船の運航を開始
     1943(昭和18)12/18並行航路統合の国策に基づく燃料統制が施行
     長崎電鉄が所有する船舶・施設・航路権など関係の設備一切を73万円で長崎市へ譲渡、港内航路の統合を図る
  07/20島原鉄道の車両が自動連結器装置に切替実施
  09/西中町教会の塔が台風により崩壊
     のち再建
     1945(昭和20)08/09原爆で大破。火災で外郭の壁と尖塔を残して焼け落ちる
  10/01ダイヤル式で交換手を必要としない「自働電話」が登場。「公衆電話」と呼ばれる
     1937(昭和12)08/30上海からの避難者の便を図るため出島岸壁に公衆電話を設置
  10/「長崎くんち」(4)…丸山町(本踊)、興善町(薩摩踊)、今下町(本踊)、
     築町(本踊)、東上町(剣舞)、馬町(本踊)、大黒町(唐人船)、八坂町(川船)、
     東浜町(本踊)、東古川町(川船)、本古川町(軍艦)、銅座町(本踊)
  12/04朝鮮郵船会社が大連〜長崎に定期航路を就航
  12/08長崎電鉄が出島〜戸町航路を開設。賃金は電車連絡で6銭
  12/12アメリカのアーサー・ハイネマンがカリフォルニアにモーテル・インという自動車旅行者用の宿泊施設をつくる
     【ロサンゼルス北方のサン・ルイス・オビスポ】
     モーテル(motel)は幹線道路沿いにある自動車旅行者のための簡素なホテル
     自動車(motor)とホテル(hotel)のかばん語、あるいは自動車運転者のホテル(motorists'hotel)の略
  柳通りの溝(エゴばた)が暗渠となり広い道路となる
     1949(昭和24)05/柳通りの通称を観光通りと改める
     1967(昭和42)06/16岡政前〜勧業銀行長崎支店270米に観光通り商店街アーケードが完成
     片屋根の商店街アーケードで工費約5500万円
     1982(昭和57)10/01浜市観光通りが従来の片屋根式から全覆い開閉式のアーケードが完成
     全長280米、幅10米、高10.5米、総工費約5億3千万円
     1996(平成08)観光通りアーケードが道路舗装工事によりテラゾー舗装に、アーケードも一新
     「ベルナード観光通り」に生まれ変わる
  長崎市内の映画館は5を数える
     1939(昭和14)7館になる
     1950(昭和25)9館になる
     1956(昭和31)06/映画ブームで映画館が急造に増え21館を数える
     東宝宝塚、大洋映劇(以上本石灰町)、松竹国際映劇、第1映画、東宝富士館(以上西濱町)、東宝喜楽館(東濱町)、
     中央映劇、長崎大映(以上銅座町)、東映映劇、新世界(以上梅香崎町)、新大映劇、諏訪名画(以上新大工町)、
     榎津東映(榎津町)、千日映劇(出来大工町)、東館(船大工町)、戸町大東映劇(戸町)、みなと映劇(大浦町)、
     大橋平和(大橋町)、住吉公楽映劇(住吉町)、平和劇場(浜口町)、月館(稲佐町)
     1960(昭和35)25館となる
  西浜町62番地に映画館「崎陽館」が開館
     1938(昭和13)長崎初の洋画封切館「富士館」となる
     1965(昭和40)東宝富士館となる
     1977(昭和52)06/10東宝富士館が銅座町5番4号に移転
     長崎ステラ座がオープン(1スクリーン、374席)
     イタリア語で「星」を意味する館名のステラ座は一般公募
     最初の上映作品は「サスペリア」
     同時にファッションショップがオープン
     のち上映作品が洋画から東宝系の邦画へかわり、数々のヒット作品が公開される
     2008(平成20)08/31閉館となる
     ここ数年、年間平均8万人強の入場があり、ほとんどの年が黒字。栄光の撤退となる
     最後の上映作品は「劇場版ポケットモンスター」
     2008(平成20)10/02茂里町に大型複合商業施設「みらい長崎ココウォーク」がオープン
     シネマコンプレックスを運営するTOHOシネマズの「TOHOシネマズ長崎」(9スクリーン、1936席)に引き継がれる
  東濱町の呉服店「徳島屋」が食料品部を増設、岡政呉服店
     1934(昭和09)05/東濱町46番地に木造3階、一部4階建の(株)岡政百貨店が開業
     県内でも佐世保玉屋に次ぐ百貨店
  大黒町の老舗「山熊呉服店」が鍛冶屋町に支店を出す
  今魚町〜諏方町の石橋魚市橋がコンクリート橋に架け替え
  焼きちくわの「宮嶋竹輪製造本舗」が創業
  石田昇が病状悪化のため留学先のアメリカより日本に送還される。かつて勤めていた松沢病院(旧巣鴨病院)に入院
     石田は長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授。留学先のアメリカの病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役していた
     のち病状は回復することなく、むしろ統合失調症による精神荒廃が進むようになる
     1940(昭和15)05/31アメリカでかかっていた肺結核が悪化したため松沢病院内で死亡。享年64才
  太田知右衛門が長崎駅前に太田屋旅館を創業
     1950(昭和25)原爆で焼失した太田屋を新築再開。屋号を新成館に変更
     1958(昭和33)樺島町に移転
  島原でミクリヤ商店自動車部としてタクシーの営業が開始される
     1939(昭和14)戦争で燃料が不足し営業を中止
     戦後営業を再開
  三越少年音楽隊が解散する。成立したのは1909(明治42)
     三越は音楽教育や演奏を主目的せず、西洋的文明と近未来の繁栄のイメージ戦略の中で少年音楽隊を発足
     音楽界の重鎮となる人材を次々と育て、交響楽運動において大きな役割を担うことに
  彼杵郡土井ノ首村に長崎食品製造所(内外食品)がイワシのトマト漬缶詰(トマトサージン)の大量生産を始める
     製品は三井物産を通じて輸出、イワシ王国長崎の名を高める

大正年間

  東望ノ浜海水浴場がはじまる
     1968(昭和43)頃東望ノ浜海水浴場が廃止され民間事業による埋立て工事がはじまる
     1970(昭和45)長崎市の東望浜埋立事業が起工
     1974(昭和49)長崎市の東望浜埋立事業が完成
     1977(昭和52)東望山公園が開設
  茂木鉄道株式会社が茂木淵頭から北浦を通り長崎へ通じる鉄道布設計画を挫折
  大黒町の寄席「大黒座」が宮古座と改称
  栄町に料亭松楽が開業
     1950(昭和25)浜口しづが名義を継いで桶屋町に開業

1926(大正15、昭和01)【昭和】 丙寅(ひのえとら)

 次のページへ


鎌倉以前 室  町 安土桃山
(1)
安土桃山
(2)
江戸(1) 江戸(2) 江戸(3) 江戸(4) 江戸(5)
江戸(6) 江戸(7) 江戸(8) 江戸(9) 江戸(10) 江戸(11) 江戸(12) 江戸(13) 江戸(14)
江戸(15) 江戸(16) 江戸(17) 江戸(18) 明治(1) 明治(2) 明治(3) 明治(4) 明治(5)
明治(6) 明治(7) 明治(8) 明治(9) 明治(10) 大正(1) 大正(2) 大正(3) 昭和(1)
昭和(2) 昭和(3) 昭和(4) 昭和(5) 昭和(6) ・昭和(7) 昭和(8) 昭和(9) 昭和(10)
昭和(11) 昭和(12) 昭和(13) 昭和(14) 昭和(15) 昭和(16) 昭和(17) 昭和(18) 昭和(19)
・昭和(20) 昭和(21) 昭和(22) 平成(1) 平成(2) 平成(3) 平成(4) 平成(5) (表 紙)

「長崎年表」は編集著作権で保護されます
(c) 2003-2013 makuramoto all right reserved.