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〈江戸時代(4)〉

1644(寛永21、正保01・12/16)【後光明】 甲申(きのえさる)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ヤン・ファン・エルセラック(←11/24→)ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル

  03/19李自成の乱により盛京(瀋陽・北京)が没落し明が滅びる
     直後満洲に清朝が建国される。清は首都を盛京に遷し、中国支配を開始。中国を支配した最後の統一王朝
     1911(明治44)武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こる。清は完全な内部崩壊を迎える
  09/07「長崎くんち」…船津町、本博多町、樺島町、平戸町、
     新紙屋町、麹屋町、馬町、本鍛冶屋町、浜町、銀屋町、諏訪町
  09/09「長崎くんち」…榎津町、古川町、本紙屋町、新大工町、
     磨屋町、毛皮屋町、大村町、本五島町、今町、金屋町
  久留米の禅僧・石峯祖芳が長崎奉行で書物改めの役を命じられ、その功労を賞される
     奉行・馬場三郎左衛門が一寺の創建を許可。唐通事の娃頴川官兵衛が寄進
     河東山・禅林寺(臨済宗妙心寺派)を伊良林郷に創建。本山は京都花園妙心寺
  修験者で山伏周教が今博多町に徳苑院を開創
     のち禅僧の真常が住む
     1678(延宝06)禅林寺に譲与、八幡町に移転。禅宗妙心派の徳苑寺に改称
     1868(明治01)廃寺に
  下筑後町に利生院が創建
     1658(萬治01)聖無動寺と改称
  唐人キリシタン12人のうち林友官、黄五官、周辰官の3人をキリシタン目付に任命
     残り9人のうち7人は斬罪、2人は獄中で死亡
  福田の砦・手熊館跡地に白髭大明神を勧請して白髭神社を創建。祭神は猿田彦命
  諸檀越が崇福寺[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]の殿堂を整えることに着手
     1646(正保03)01/唐商で大檀越の何高材の寄進により本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が上梁
     釈迦(大雄)を祭る仏壇、大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による
  唐船54隻、蘭船8隻が入港

1645(正保02)【後光明】 乙酉(きのととり)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル(←11/30→)レイニール・ファン・ツム

  07/17夕方から強い風が吹き、夜半には暴風となり、翌朝まで雨風が吹き荒れる
     出島を囲む石垣の大半が飛ばされ、家屋や番小屋が倒されるなど多くの被害を受ける
     6隻入港していたオランダ船のうちレウェリック号に積まれた大砲9門が海に落ちる
     商館員たちが必死に探すが見つけられず、日本の潜水夫と契約を結び探してもらうことに
     のち最終的に4門の大砲が引き揚げられたが、残りは行方知れずに
  09/07「長崎くんち」…油屋町、今石灰町、筑後町、今籠町、
     今鍛冶屋町、西中町、東中町、豊後町、内下町、外浦町、島原町
  09/09「長崎くんち」…築町、桜町、小川町、内中町、上町、
     八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、新高麗町、炉粕町
  真言僧・慶順が出来大工町の桃溪橋傍に青光寺を創建
     1868(明治01)廃寺に
  出来大工町の光雲寺境内に松島神社が勧請される
     1854(安政01)松島神社が本河内に移され、本河内の古くからの稲荷の小祠と合祀。松島稲荷神社と称する
  豊後府内の城主・日野根織部正吉明が柞原(ゆすばる)八幡宮を風頭山のふもと元晧台寺の敷地に勧請
     1748(寛延01)隣接の聖福寺が敷地拡張のため中川郷に移転。中川八幡神社
  丸山町、寄合町の遊女の出島蘭館出入りが許される
     丸山遊女は日本行き、唐人行き、オランダ(出島)行きに分類、オランダ行きが最低とされた
  廣屋儀兵衛商店が創業
     初代・濱口儀兵衛が「山笠にキ」の暖簾を考えるが、紀州徳川家の船印と同じなため、キを横向きにして「ヤマサ」に
  明の医学書、廷賢の「寿世保元」、単元方の「病源候論」が翻訳される
  僧玄澄が炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む
     1652(承応01)一応の寺院を建立しようと発願
     時の長崎奉行黒川与兵衛正直・甲斐庄喜右衛門正述も助けて一寺が完成
     さらに玄澄は江戸に上り、東叡山昆沙門堂門主、前大僧正公海に拝謁
     一寺開創の意を述べ、末寺になることを願いでる
     公海は自筆の書、松嶽山の三大字を書き与え正光院と名づけ安禅寺の寺号を授ける
     その上、探幽斎守信が描く東照大権現尊像を絵所狩野宗貞に写させたもの、
     日光門跡輪王寺一品親王染筆の大猷院殿(大猷院=家光公)の宝号筆を併せて賜る
     玄澄は、長崎に帰ると直ちに廟を寺内に建ててこれを祀る
     本堂や庫裏は丸馬場であり丸馬場公園一帯が境内
     1672(寛文12)秋/長崎奉行牛込忠左衛門勝登が二代院主玄海と計り寺の整備を行なう
     御宮・御霊殿・二王門・鐘楼・本堂・庫裡・僧房・浴室・僧厨に至るまで総てが完備
     1681(天和01)東叡山より厳有院(四代将軍家綱)の位牌を賜る
     これを機に、以後、免租朱印地に準じ歴代将軍の位牌を安置することとなる
     のち長崎における東照宮として崇敬を集める
     1687(貞享04)以降、歴代長崎奉行が頻繁に参詣。奉行交替に際しては、随時の居館になるのが慣例に
     そのため行装所として門外に屋舎を建てて従臣の宿泊に備える
     1689(元禄02)新地御庫の土后祠、弁才天祠、大黒天祠が当寺の支配になる。唐船置銀から当寺へ寄付させる
     1819(文政02)乙名頭取や総町乙名の寄進によって石門が建立
     1868(明治01)明治維新で幕府の庇護がなくなり廃寺となる。御宮等は破壊
     1874(明治07)内務省公布に基き、安禅寺遺址に公園設置が決まり、長崎公園が誕生。俗に諏訪公園とも
     1889(明治22)05/徳川家歴代将軍を祀る東照宮が丸馬場上の高台に移る
     1897(明治30)05/社殿が建立される
     1901(明治34)長崎県知事大森鐘一の尽力で東照宮神社として再興、諏訪神社の境内神社となる
     1910(明治43)09/19諏訪神社の末社となる
  日光の東照社が朝廷から宮号を賜り東照宮に改称
  唐船76隻、蘭船7隻が入港

1646(正保03)【後光明】 丙戌(ひのえいぬ)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》レイニール・ファン・ツム(←10/27)(10/28→)ウイルレム・フェルステーヘン

  01/唐商で大檀越の何高材の寄進により崇福寺の本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が上梁
     崇福寺は[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]
     釈迦(大雄)を祭る仏壇、大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による
     1647(正保04)08/檀徒らが梵鐘を寄進する。鍛冶屋町の冶工阿山助右衛門国久が鋳造
  04/06林吉左衛門がキリシタンの疑いで処刑される。門下生中第1の小林義信(謙貞)も連座、21年の禁固に
     林は長崎の人で天文、地理、暦数の学に精通、門人多数。小林は林に師事し諸学を修める
     1667(寛文07)小林は恩赦により出獄
     長崎奉行牛込忠左衛門の知遇を得ることにより、教えを請う者が増え天文数学の研究は盛んに
  09/07「長崎くんち」…本大工町、今博多町、本紺屋町、今魚町、
     本籠町、材木町、古町、上筑後町、後興善町、江戸町、本興善町
  09/09「長崎くんち」…浦五島町、引地町、掘町、新町、
     本石灰町、桶屋町、大井手町、船大工町、袋町、酒屋町
  11/28新高麗町川端の地に伊勢宮社殿が竣工
     12/08遷宮式を行なう
     1710(宝永07)06/大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
  高麗町の大覚院内に本社八幡宮を勧請し祀る
     1653(承応02)八幡宮の社殿が創建
     1693(元禄06)寺号を大覚寺
     1868(明治01)八幡神社に
     1878(明治11)宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社に
  晧台寺の住持一庭が法嗣の松雲宗融とともに出来大工町に禅宗曹洞派の月桂山光雲寺を創建
     もとは本河内郷の行基の開祖になる一乗院の末坊三千のうちのひとつ
     キリシタン隆盛により荒廃していた寺基を松雲宗融が復興、奉行の許可を得て出来大工町に移転
     一庭が開山、松雲が2代住持に
  晧台寺の住持一庭と法嗣の天宗融察により阿蘭陀通詞の名村氏、猪俣氏の援助を得てが炉粕町に禅宗曹洞派の徳光山高林寺を創建
     一庭が開山、天宗が2代住持に
     1857(安政04)09/20諏方社が焼けた日の夜、高林寺本堂から出火して全焼
     のち再建する
     1912(明治45)炉粕町の地を三菱造船所に売り、鳴滝町の晧台寺末庵の知足庵を合併、その地に移転改築
  晧台寺の住持一庭が法嗣の洲山泉益とともに奉行の許可を得て上筑後町に禅宗曹洞派の瑞光山永昌寺を創建
     もとは平戸道喜の別荘地、死後、妻によって寄進される
     平戸道喜が開基、一庭が開山、洲山が2代住持に
     1688(元禄01)遠見番所が置かれる
  釈清安が照円寺を創建。江戸期から明治期を通じて西浦上地区唯一の真宗の寺院
  唐船54隻、蘭船5隻が入港

1647(正保04)【後光明】 丁亥(ひのとい)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞(09/12死去)、末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ウイルレム・フェルステーヘン(←10/10)(11/03→)フレデリック・コイエット

  06/04大洪水がおこり酒屋町の橋、袋町の橋、本古川町(本紺屋町)の橋が流れ落ち、濱町大橋は半ばより折れる
     詳細は分からず。正保の大水害
     酒屋町の橋とは眼鏡橋のこと、1648(慶安01)の重修が修復か再架かは不明
     1663(寛文03)木廊橋より平橋に架け替わる
  06/24ポルトガル修好使節乗組みのポルトガル船2隻が来航
     06/26港内に入り通商を請う
     烽火山番所から最初の狼煙をあげ、隣国の諸大名に出兵を要請。長崎奉行は急飛脚をだし使節の渡来を幕府に報じる
     九州、四国の諸侯は兵を率いて続々と長崎に馳せ参じ長崎の警備にあたる。その数5万、兵船1500超
     長崎の町民は戦禍を避けて付近の山林に逃げ、なかには大村領にまで非難する者も
     07/28大目付井上筑後守政重が上使として長崎奉行山崎権八郎とともに江戸から長崎
へ      ポルトガル使節に通商不許可、来航厳禁を通告する
     08/062隻が帰帆
  08/05長崎奉行が西山郷圓山(松の森)の「諏方社」に幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨。幕府より朱印地を得る【02/05?】
     12/05《11/09》玉園山の地に社殿造営工事がはじまる
     1648(正保05、慶安01)08/玉園山の地に諏方社の仮殿が完成する
     諏方社が神宮寺の寺号を賜い玉園山神宮寺と改称
  08/崇福寺の檀徒らが梵鐘を寄進する。鍛冶屋町の冶工阿山助右衛門国久が鋳造
     1672(寛文12)三門が創建される
  浦上淵村竹久保郷の能満院万福寺に弁財天を合祀。稲佐弁天社とも呼ばれるようになる
     1868(明治01)淵神社
  幕命により緊急情報の報告連絡機関として近国諸侯、家士による「聞役」を長崎に駐在させる
     《聞役を置いた14藩》
     薩摩、長州、久留米、柳川、島原、唐津、大村、五島…5〜9月在勤
     肥後、筑前、佐嘉、対馬、小倉、平戸…年中在勤
  新大工町〜馬町間に架かる「郭門・画棟・朱欄・金碧交々輝」く木廊橋が竹橋となる
     1650(慶安03)10/堂門川(西山川)の新大工町〜馬町間に、唐商高一覧が石橋の大手橋(堂門橋)を創建
  向井去来の父、向井元升が奉行馬場三郎左衛門の許可を得て私力で東上町に聖堂と学舎を創設
     学門所「長崎聖堂」を建てる。立山書院と称する
     向井元升は肥前神埼の人。聖堂は天文、暦学、本草学、医術、儒学に通じた孔子像を祭る
     これまでの聖堂は官学、藩学であったのに対し、向井は私力で創設、奉行が助ける
     1663(寛文03)03/08寛文の大火で焼失し一時中絶
     1676(延宝04)長崎奉行牛込忠左衛門が再興。南部草寿を聖堂祭酒に任じ塾師に。長崎発の官学
     1711(正徳01)08/伊勢町の鋳銭所跡に移転、545坪の長崎聖堂(中島聖堂)が竣工【1714(正徳04)?】
     伊勢町の敷地は立山に比べ3.5倍に拡張
     のち殿門堂舎が逐年整備され、儒風大いに揚がる
     1718(享保03)後方の畑田721坪を奉行所が寄付
     1868(明治01)学制改革で廃止となる。建物は大成殿と大学門を残すのみに
     1934(昭和09)向井家11代兼徳氏が長崎県教育委員会に寄贈
     1959(昭和34)03/大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺の境内に移築復元
  ヨハネス・ヘヴェリウスが月面にある山脈をアルプス山脈と命名
     アルプス山脈はカッシーニの北西約50粁に位置するアガシ岬から北西方向へと連なる複数の山岳の総称
  僧長音が桶屋町に妙音院を創建
     のち西山郷に移り能仁寺と改称
     1868(明治01)廃寺
  唐船不明、蘭船4隻が入港

正保年間(1644〜1647)

  内町は23町となる。文知町(分知町)が外浦町に、横瀬浦町が平戸町に併合、
     東町が桜町の内に入り、新たに堀町ができる
     島原町、大村町、外浦町、平戸町、江戸町、内下町、築町、本博多町、新町、引地町、堀町、金屋町、
     今町、樺島町、本五島町、浦五島町、本興善町、後興善町、豊後町、桜町、内中町、小川町、船津町
     また外町は42町となる
     1672(寛文12)奉行所は貿易差銀分配のこと、また寛文の大火の再建にあたり都市計画を施行。町を細分化する
     内下町が本下町と今下町に、築町が東築町と西築町に、後興善町が後興善町と新興善町に。内町26町となる
  長崎の町から皮田の町名が姿を消す

1648(正保05、慶安01・02/15)【後光明】 戊子(つちのえね)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》フレデリック・コイエット(←12/09→)ディルク・スヌーク

  01/前年のポルトガル船入港の予報を怠った責めとして甲比丹の参府拝賀を許さず
     1650(慶安03)01/甲比丹ボロンコスが本国使節フレイシュスとともに参府。幕府は拝賀拒否をもとに復して許す
     1643(寛永20)の漂流蘭人厚遇の謝礼を受ける
  08/玉園山の地に諏方社の仮殿が完成する
     諏方社が神宮寺の寺号を賜い玉園山神宮寺と改称
     1651(慶安04)04/西山郷圓山(松の森)から移る
     「諏方社」の鎮西無比の荘厳な社殿が旧神宮寺の旧跡「玉園山」の地に完成
  眼鏡橋を平戸好夢が重修
     重修が修復か再架かは不明
     1982(昭和57)07/23大水害で半壊
  山王権現の廟社を建立。山王神社が創立
     1652(承応01)現在地の坂本町に移転
  馬込郷に船蔵が建つ
  インドネシアから出島への途次船上で死亡したペーター・ブロチオフがオランダ人で初めて悟真寺に埋葬
  田上に真言僧尭存が観音寺を開創し「観音院」と公称
     1686(貞享03)尭存が高齢化して黄檗宗の僧、天州和尚に後の住職を委任。同宗の「石動山観音寺」となる
     開基には天州の師で臨済34世黄檗山万福寺第4代住持独湛を仰ぎ天州は開山
     唐船寄進銀受納資格を持つ黄檗山直属の末寺となる
  樋口権右衛門がオランダの医師カスハルより学んだ様式測量術を「規矩元法」と称して、免許状の形式で門人に伝える
     内容の大半は村上昌弘の「量地指南(1733)」、「量地指南後編(1754)」として公刊
     三角法を応用し、コンパスと定規を用いて距離と高さを測り、現地を縮図して地図作成を行う方法を示す
     のち時代とともにオランダ人を通じ様式測量術が漸次導入、多くの測量書が出版
  中国人医師の穎川入徳が小浜に来て、湯が病気などに効能のあること発見。温泉地として広く知られるようになる
  奉行と権力により北平の住民が晧台寺から、皮屋の住民は大音寺から、それぞれ馬込(西坂瀬崎)に移される
     あとからやってきた晧台寺、大音寺の僧は皮田町の土地を奪い取るため奉行に追い立てを策動する
     両寺の住職は金品をみつぎ部落の追い出しをはかる
     西坂は長崎時津間の旧道にして古くは断崖その下に聳立し漣波岸下を洗い、樹木鬱蒼として醒風人の肌を襲へり所
  唐船20隻、蘭船6隻が入港

1649(慶安02)【後光明】 己丑(つちのとうし)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ディルク・スヌーク(←11/05→)アントニオ・ファン・ブロウクホルスト

  福済寺が泉州人の僧蘊謙(うんげん)により重興開山
     ●(ちゃく・「シ・さんずい」に「章」)州人の檀家が多く●(左に同じ)州寺ともいった
     のち筑後町に移転
     1655(明暦01)黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
  オランダ商館医師としてカスパル・スハンベルヘンが渡来。初めてのオランダ商館医
     通詞西玄甫ら日本人青年4人が官許を得て彼に紅毛医術の教授を受ける(紅毛医師の医術がカスパル流)
     カスパル流外科は猪俣伝兵衛、河口良庵らにより伝えられる
     初め商館は貿易をつかさどる者だけが居住していたが、商館員の医療に携わる医官が来朝
     のち、この医官が日本文化、医学の発展に重要な役割を演じることに。医官は日本人にも診療を試みる
  死亡したオランダ使節ドクトル・ピーテル・プロクホービスがオランダ人として初めて悟真寺に埋葬される
  仏教信仰が厚い丸山の名妓梅は光雲寺の松雲禅師に来訪を請い「普門品」の講義を聞く
     道で名妓梅と禅師とが出会ったときは禅師から挨拶するほど
  明朝末期の乱を逃れて長崎にきた漢方医頴川入徳が小浜へ。温泉の特効を説く
  唐船59隻、蘭船7隻が入港

1650(慶安03)【後光明】 庚寅(かのえとら)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)
  《奉行》山崎権八郎(10/17死去・春徳寺に埋葬)、黒川与兵衛(正直・前目付・11/19発令)、馬場三郎左衛門
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(←10/25→)ピーテル・ステルテミウス

  01/甲比丹ボロンコスが本国使節フレイシュスとともに参府。幕府は1648(慶安01)の拝賀拒否をもとに復して許す
     1643(寛永20)の漂流蘭人厚遇の謝礼を受ける
     1659(萬治02)甲比丹一行の江戸参府の長崎〜小倉間を陸路と定める
     従前、長崎〜大坂間は海路をとっていたが、この年の帰途、玄海灘で破船したため令がでる
  06/町火消が創設
     それまで火災が発生したときは各町の町役人がそれぞれの火消人足を引連れて消防
  08/16高潮で浜辺の町家が床上3尺の浸水
  10/堂門川(西山川)の新大工町〜馬町間に、唐商高一覧が石橋の大手橋(堂門橋)を創建
     1721(享保06)閏07/28「享保の大水害」大洪水で破損
     掛り町の北馬町、南馬町、新大工町銀1貫500目を拝借し修理
  春徳寺の開山泰室清安が梵鐘をつくらせる
     施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入。銘は元南禅寺高大寺住三江紹益
     1686(貞享03)03/18昼、春徳寺より出火、全焼する
     飛び火し約2町離れた民家5戸を類焼。後山で誰かが揚げた火矢が原因
  沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)はキヤラ(岡本三右衛門)が持参した天文書を幕命で翻訳
     「仮名天文鈔」として提出
     忠庵は日本文字を読むことはできたが、漢字をつづることはできず
     光源寺住持松吟和尚が筆訳し、世に「光源寺天文書」とも
     11/04《10/11》沢野忠庵は72歳で死去。戒名は忠安浄功信士
     1656(明暦02)奉行甲斐庄喜右衛門が阿蘭陀通詞西吉兵衛と向井元升に命じ「仮名天文鈔」を倭字に書き改めさせる
     「仮名天文鈔」はキヤラ(岡本三右衛門)が持参した天文書で沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)が幕命で翻訳
     さらに向井元升は翻訳書の批判を命じられ「乾坤弁説」を著す【1658(萬治01)?、1659(萬治02)?】
  唐船70隻、蘭船7隻が入港

1651(慶安04)【後光明】 辛卯(かのとう)

  《将軍》[第3代]徳川家光(徳川宗家)(→04/20)、[第4代]徳川家綱(徳川宗家)(08/18→)
  《奉行》黒川与兵衛(06/着)、馬場三郎左衛門(11/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ピーテル・ステルテミウス(←11/03)(11/01→)アドリアーン・ファン・デル・ブルフ

  02/小島川の正覚寺下辺り、油屋町〜本石灰町間に第13代長崎奉行馬場三郎左衛門が石橋の玉帯橋を架設
     玉帯橋の命名は明治15(1882)以降で、それまでは油街橋、油屋町橋、南石橋と呼ばれていた
     1795(寛政07)07/19大水害で少し破損
     1895(明治28)改修される
     1936(昭和11)コンクリート橋となる
     1968(昭和43)06/17思案橋〜正覚寺下間に電車開通し周辺が暗渠となり道路に埋没
  04/西山郷圓山(松の森)から移る「諏方社」の鎮西無比の荘厳な社殿が旧神宮寺の旧跡、「玉園山」の地に完成
     10/03《08/19》遷宮
     以降、調停や幕府の崇敬が厚く長崎の総鎮守府に
     10/27《09/13》造営完了の祝能の催しあり
     1653(承応02)06/代官末次平蔵が自費で拝殿を造る【03/?】
  04/慶安の変(由井正雪の乱、慶安事件)が起きる。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義
     徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子徳川家綱が継ぐことに
     次の将軍が幼君であることを知った正雪は、契機として幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する
     計画では丸橋忠弥が江戸を焼討、混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ちとる
     京都で由比正雪が大坂で金井半兵衛が決起、混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れる
     徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする……作戦
     07/23一味の奥村八左衛門の密告により計画が事前に露見。まず丸橋忠弥が江戸で捕縛される
     07/22に江戸を出発した正雪は計画が露見していることを知らないまま07/25は駿府に到着
     07/26早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、正雪は自決を余儀なくされる
     07/30正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害08/10丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫
     のち老中阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れる
     改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励
     のち幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行することに
     奇しくも正雪らの掲げた理想通りの世になる
  11/16阿蘭陀通詞の肝付伯左衛門(年齢不詳)が没する
  12/31南蛮医の栗崎道喜(86)が没する
  万屋町で開業していた南蛮医の栗崎道喜が86歳で没
  唐船40隻、蘭船8隻が入港

1651(慶安04)頃

  宗旨改めが制度として全国的に毎年行なわれ、年ごとに宗旨改帳が作成されるようになる
     絵踏みが制度として行なわれた長崎では宗旨改帳は絵踏台帳を兼ねており宗旨改踏絵帳と表記される

慶安年間(1648〜1652)

  長崎の西坂刑場で97人のキリシタンが処刑される
  魚類集散場(魚市場)が金屋町から(今)魚町に移転
     問屋、漁業者は仕込金前貸に縛られた隷属的な関係にあり、漁業者の取込みや荷引きをめぐって問屋間の紛争が続く
     1664(寛文04)材木町(賑町)の本通りに移る

1652(慶安05、承応01・09/18)【後光明】 壬辰(みずのえたつ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》馬場三郎左衛門(01/退任)、甲斐庄喜右衛門(正述・前普請奉行・01/28発令・06/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》アドリアーン・ファン・デル・ブルフ(←11/03)(11/04→)フレデリック・コイエット

  04/興福寺3代住職逸念(明僧)が福州黄檗山万福寺の隠元に渡来を願う書を送る
     日本の仏教が官による保護に甘え堕落したのを憂い、改革し復興するため
     のち隠元は応じず使者の自恕を送り、ふたたび渡来をうながす
     1954(承応03)08/17《07/05》鄭成功が準備した船に隠元が30人の供と乗り3年の約束で来崎。興福寺に入る
  12/新高麗町に伊勢宮前〜高麗町に石橋の高麗橋が架かる
     【興福寺の檀徒である蘇州府の寄付で造られた】
     【伊勢の宮の神主が惣町勧化(長崎総町)の寄付で架けた】
     【陸手(くがて)28町の乙名の寄付で架けた】等の説がある
     1866(慶応02)04/麹屋町の池島正助が私費380両で架け替え
     1915(大正04)04/コンクリートで八幡町方4尺、伊勢町方15尺斜めに橋面を増設
     1982(昭和57)07/23大水害後の河川改良工事で解体
     のち改架
     1993(平成05)03/西山ダム下に移築復元
  渋江刑部公師、文大夫公姿父子が出来大工町に水神祠を開創
     渋江氏は栗隈王の子孫で代々水族を治める妙法を伝える。長崎は水徳神の加護を仰ぐ人が多く各地から航海安全祈願にくる
     1656(明暦02)頃社地を炉粕町に移転
  圓福寺(山王神社)が現在の地へ
     1868(明治01)山王日吉神社に
  炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む僧玄澄が一応の寺院を建立しようと発願
     時の長崎奉行黒川与兵衛正直・甲斐庄喜右衛門正述も助けて一寺が完成
     さらに玄澄は江戸に上り、東叡山昆沙門堂門主、前大僧正公海に拝謁
     一寺開創の意を述べ、末寺になることを願いでる
     公海は自筆の書、松嶽山の三大字を書き与え正光院と名づけ安禅寺の寺号を授ける
     その上、探幽斎守信が描く東照大権現尊像を絵所狩野宗貞に写させたもの、
     日光門跡輪王寺一品親王染筆の大猷院殿(大猷院=家光公)の宝号筆を併せて賜る
     玄澄は、長崎に帰ると直ちに廟を寺内に建ててこれを祀る
     本堂や庫裏は丸馬場であり丸馬場公園一帯が境内
     1672(寛文12)秋/長崎奉行牛込忠左衛門勝登が二代院主玄海と計り寺の整備を行なう
     御宮・御霊殿・二王門・鐘楼・本堂・庫裡・僧房・浴室・僧厨に至るまで総てが完備
  前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が禁止となる
     売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどにより
     1629(寛永06)遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)が風紀を乱すとの理由から禁止となって以来の事項
     1653(承応02)03/歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じることに。野郎歌舞伎
     江戸時代の文化の爛熟の中で洗練されて完成していく   4代藩主大村純長により徳川家歴代将軍の霊を祀るため円融寺が創建
     1868(明治01)廃寺となり護国神社となる
     のち境内奥の斜面に、江戸時代初期様式で造られた庭園が残される
     立石を組み合わせた枯山水の庭園で、国の名勝に指定される
  消防その他人夫雇入等を定める
  唐船50隻、蘭船9隻が入港

1653(承応02)【後光明】 癸巳(みずのとみ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(10/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》フレデリック・コイエット(←11/10)(11/04→)ハブリール・ハッパルト

  03/歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じることに。野郎歌舞伎
     江戸時代の文化の爛熟の中で洗練されて完成していく
  03/戴曼公が渡来、帰化する
     のち隠元に師事し出家して独立と号する
     独立は唐僧としてより学者、特に名医として有名。中国、九州の諸侯に招かれ重病人を診察する
     のち岩国の錦帯橋の架橋に関与する
  05/唐大通事陳道隆が私財を投じ螢茶屋にアーチ式の石橋一の瀬橋を架ける【03/12?】
     道隆の日本名は潁川(えがわ)藤左衛門で前年に妻を亡くす
     場所は旧日見会堂の一の瀬口。長さ9.1米【9.2米?】、幅4.4米
     1897(明治30)頃までは樹林が密生し閑寂の地域で、夏は蛍の名所で、近くの料亭をいつからか蛍茶屋と呼ぶようになる
     旅立ちのとき惜別の酒杯を交わしたのが蛍茶屋。一の瀬橋は長崎東側の玄関口に
     1887(明治20)頃橋銘に「ICHINOSEBASHI」と刻まれる
     【一説に1882(明治15)の日見国道改修の折り】
  06/代官末次平蔵が自費で諏方神社拝殿を造る【03/?】
     1679(延宝07)拝殿、廻廊、能舞台が完成する
  07/17稲佐浦で唐船が焼失
     唐船の燿火には順番をもって船附町制度を設ける
     町が順番で消防・警備等にあたり出火の際その他に備えるため人夫を雇う
     長崎最初の消防組織
  12/下総国佐倉藩領印旛郡公津村の名主木内宗五郎(佐倉惣五郎)が虐政を幕府に直訴する
     宗五郎は藩主堀田氏による苛政を藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられず
     上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴。その結果、藩主の苛政は収められる
     宗五郎夫妻は磔に、男子も死罪に
     のち宗五郎は堀田氏に祟るようになり、堀田氏は改易となる
  山岡氏の荘に春徳寺2代住職心伝が東渕山雲龍寺を建てる。場所は桜馬場町観音堂から蛍茶屋方面一帯のうち
     如意輪観音を祀り、初夏に咲く紫藤が有名に
     のち春徳寺の退隠僧が入る
     1772(明和09)07/02大風により紫藤が折れる。寺も衰微
     1868(明治01)廃寺となる
     長崎家の花苑の地山岡吉兵衛の別荘地吉兵衛が寄進
  高麗町の大覚院内に八幡宮の社殿を創建
     1693(元禄06)寺号を大覚寺
     1868(明治01)八幡神社に
     1878(明治11)宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社
  高鉾に砲台を築く
  町田市左衛門が官許を得てポルトガル定期船マードレ・デ・デウス号の引き揚げを試みる。銀300貫を引揚げる
     のち江戸期、大正期、昭和期に探索するが何も発見できず
     1980(昭和55)10/31笹川良一が関係する日本海洋開発が財宝の引き揚げを試みる
     港口四郎ケ島南約8百米の海上で、調査船上には本島長崎市長ら関係者以外の20人の姿も
     音波探知機には反応するが船体は発見できず
  逸然が幕府の命を受けて隠元に四度にわたり書を送り渡来を懇請する
  高力忠房に従って島原に赴任した加藤善左衛門が雲仙に古湯を開き湯小屋を設ける
     のち加藤善左衛門が雲仙に湯元旅館を創業
     1672(寛文07)湯元旅館2代目の加藤小左衛門が湯守役に任ぜられる
     山留役として乙名を兼ねた役目につき雲仙一帯を管理
  加藤善佐衛門、雲仙に湯つぼを開き延暦湯と名づける。共同浴場のはじまり
     1731(享保16)雲仙温泉の小地獄に浴場をつくる。南温泉として1653(承応02)の古湯を北温泉とする
  インド北部アーグラにある総大理石造の墓廟建築タージ・マハルが竣工
     ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建設した霊廟
     シャー・ジャハーンはペルシャやアラブ、はてはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造
  唐船56隻、蘭船5隻が入港

1654(承応03)【後西】 甲午(きのえうま)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》甲斐庄喜右衛門(09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ハブリール・ハッパルト(←10/31→)レオナルド・ウイニンクス

  02/キリシタン訴人賞銀を増加する。バテレン銀300枚、イルマン200枚、同宿その他50枚または30枚に
     1682(天和02)05/キリシタン訴人賞銀を増額。初めて「立ちかえりの者」の訴人に対する懸賞金を加える
     いったん棄教した者のキリシタン復帰を防止する。嘱託銀制を強化し、密告を奨励する
     バテレン銀500枚、イルマン銀300枚、立ちかえりの者300枚、同宿および宗門100枚
  03鳴瀧川の中川郷〜馬場郷間に唐大通事林仁兵衛(林守●[殿に土])が私費で中川橋を創建
     仁兵衛は福建省から鹿児島に渡来した林太卿(楚玉)の長男。崇福寺の4大檀越のひとり
     仁兵衛は母を亡くした翌年に架ける
     鳴瀧川は一の瀬川の支流で鳴瀧都市下水路
     ほぼ半円の石造アーチ橋で橋長8.6米、橋幅3.0米、径間5.1米
     高さ(アーチ頂上から基礎まで)2.6米、川底までは基礎から約2米下がる
     明治初年頃車を通すため橋面を平坦に改める。約1米嵩上げされ長さ8.7米に
     親柱・欄干をそのままに親柱は橋面に埋没する
     1918(大正07)03/鳴瀧川に近代的な設計による御影石造りアーチ橋の中川(なかご)橋を創設
     上流のそれまでの中川橋は古橋と改称される
     国道25号の改良工事に伴う措置。橋長11.9米、幅7.5米。鳴瀧川は鳴瀧都市下水路
  08/17《07/05》夜、黄檗派の明・福建省の唐僧隠元隆●(王篇に奇)(63)が長崎港に着く
     鄭成功が準備した船に30人の供と乗り3年の約束で来崎【20人?】
     興福寺第三代住職逸然性融(わが国唐絵の祖)の要請による
     翌朝唐三寺の僧俗に迎えられ興福寺に晋山。住持となる
     独言性聞以下の弟子たちや諸種の職人など30余人を伴う
     10/15冬期結制で日本僧70人、唐僧20余人に
     1655(明暦01)05/23隠元が崇福寺に晋山し、興福寺と崇福寺の住持となる
     それまでの住持は監寺(かんす)に下る
     隠元は仏教の堕落は自浄作用が期待できず、外圧による改革を試すことに
     08/09京都妙心寺の僧龍渓らによる懇請により摂津富田の普門寺へ向かうため長崎を離れる
     はじめは長崎に3年ほどいて中国へ帰る予定だった
     1658(万治01)江戸で将軍家綱に謁見、酒井忠勝らのすすめで永住を決意
     1661(寛文01)閏08/京へ上り将軍家の保護のもと、山城国宇治郡大和田に寺地を授かる
     閏08/29黄檗山万福寺(新黄檗)を開山。第1代住持に就任、晋山式をあげる
     弟子たちが各地に散り黄檗禅を広める
  08/17《07/05》夜、黄隠元が携行品のひとつにインゲンマメを持ってくる
     他に唐豆、胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。すいか、れんこん、なすび、もやしなどの中国野菜や普茶料理
     印鑑、明朝体文字、木魚、ダイニングテーブルなどを伝える。
     インゲンマメは興福寺に植えられる
     【一般にはインゲンではなくフジマメであるとされる】
     のち黄檗宗の文化とともに全国に広がる
     隠元の名は来日前から知れ渡っており「隠元冠字考」には
     隠元卓、隠元机、隠元帽子、隠元布団、隠元豆腐、隠元西瓜、隠元ハスなどがあった
  出島在留オランダ人が初めて大波戸御旅所の桟敷で諏方神事のお下りと奉納踊「長崎くんち」を観覧する
  向井元升が蘭通詞西玄甫を介し、紅毛医師アンス・ヨハンステイペルらの教示で「紅毛流外科秘要」(7巻)を著す
  天草郡に初めてキリシタン禁制の高札が建つ
  歴代阿蘭陀商館長は陸上埋葬許可の陳情を続け、ガブリエルハッパールトのとき初めて悟真寺に蘭人の遺体埋葬が許可
     それまで幕府は在留オランダ人の死者を陸上に葬ることを許可せず
     遺骸は海上4〜5哩沖におもりを付けて水葬をを命じていた
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
  唐船51隻、蘭船4隻が入港

1655(承応04、明暦01・04/13)【後西】 乙未(きのとひつじ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》レオナルド・ウイニンクス(←10/23→)ヨアン・ボーヘリヨン

  03/25クリスティアーン・ホイヘンスが自作した50倍の反射望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見
     ホイヘンスはオランダの数学者、物理学者、天文学者
  04/幕府が糸割符制度を廃止。唐蘭からの輸入品が全て相対貿易となる
     長崎貿易はすべてが自由売買となる
     のち相対貿易により国内の貿易商人間の競争の激化を招くことに
     結果、輸入商品の価格が騰貴し金銀の流出が増大
     のち一時的に銀の輸出を禁止するが効果は上がらず
     1672(寛文12)11/貿易を市法売買法に変更
     市法売買法…市法会所が輸入品を評価した価格で買い入れ国内の商人に売る
      利益は幕府や長崎の町民や関係した商人に分配
      自由貿易から再び官営貿易・統制貿易に戻ったことに
      ただ、貿易額の制限ができず、額が年を追って増加することに
     輸入品はすべて入札で値段を決めることに
     売り手の外国人(オランダ人、中国人)には不利な安値であり、長崎商人が暴利を得る
     安値に対して外国人は商品の量を増やし長崎商人の支払いは増える一方に
  05/23隠元が崇福寺に晋山し、興福寺と崇福寺の住持となる
     それまでの住持は監寺(かんす)に下る
     隠元は仏教の堕落は自浄作用が期待できず、外圧による改革を試すことに
     08/09京都妙心寺の僧龍渓らによる懇請により摂津富田の普門寺へ向かうため長崎を離れる
     はじめは長崎に3年ほどいて中国へ帰る予定だった
     1658(万治01)江戸で将軍家綱に謁見、酒井忠勝らのすすめで永住を決意
で永住を決意
  08/10《07/09》隠元の招きで唐僧木庵が慈岳ら随侍の僧10余人を従えて来崎
     翌日福済寺に入る
     1664(寛文04)木庵が黄檗山第2代となる
     1672(寛文12)慈岳が福済寺2代住持となる
  「長崎くんち」…船津町、本博多町、樺島町、平戸町、新紙屋町、麹屋町、馬町、本鍛冶屋町、浜町、銀屋町、諏訪町
  長崎くんちの踊り町の従来の慣習
     それまで出島・丸山・寄合の3町を除いた63町を3分して3年で一巡
      09/07に11町、09/09に10町、丸山・寄合は毎年奉納
     本年から6分して6年一巡と改め、当年は1町・翌年は10町に変更
      丸山・寄合町は従来通り毎年、踊りを奉納
     1672(寛文12)市街77町となり諏方神事の踊り町も1年11か町7年回りと改められる
     丸山・寄合両町は従来通り毎年奉納、出島町はなし
  福済寺で黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
     1658(万治01)唐大通事頴川藤左衛門が山門を寄進
  隠元の渡来により興福寺に全国の僧侶が雲集したため外堂、山門を建て寺観整う
  唐人が初めて競渡舟(ペーロン)を行なう
     前年の冬から長崎港に停泊していた数隻の唐人の人々が小船で競漕し船神をまつり風を祈ったのが始まり
     楚の屈原が汨羅(べきら)の川に身を投じた05/05、その死を悼んだ故事にちなむとも
  第6回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(王編に行)、総人数485。使命は徳川家綱の将軍職就任祝い
     第6回以降は主として将軍就任の祝賀を目的に派遣
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1682(天和02)第7回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹趾完、総人数473。使命は徳川綱吉の将軍職就任祝い
  唐船45隻、蘭船4隻が入港

1655(承応04、明暦01)頃

  袋町橋が架かる
  唐人から針、洗粉製造法を学ぶ

承応年間(1652〜1655)

  からすみ[ボラなどの卵(はららご、腹子=マコ)で作る塩乾品]が中国から長崎に伝来
     当初はボラではなく、サワラの卵巣を使い、色は黒く、形が唐墨に似てその名がつく

1656(明暦02)【後西】 丙申(ひのえさる)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》甲斐庄喜右衛門(09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヨアン・ボーヘリヨン(←11/01→)ザハリアス・ワーヘナール

  04/12将軍家綱の疱瘡全快を祝い長崎奉行以下諸役人らが諏方社に能を奉納
     以後、幕府に慶事あれば祝儀の神事及び能を奉納することが例となる
  05/17シャム船が長崎に来航。幕府は国法を告げて退去させる
     08/29退去
  07/02肥前国が大風に見舞われる。長崎港内で唐船23隻が破損
  08/28今博多町の中島川畔にある天満宮を崎奉行黒川与兵衛の肝入りで西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命
     1659(萬治02)09/25諏方社跡の地に天満宮神殿竣工、正遷宮を行なう。のちの松森神社
  今博多町の天満宮跡地には修験者が住む
     1723(享保08)今博多町の跡地に再び天満宮を建て広徳山大行寺と号する
     1868(明治01)大行寺は廃寺となり、天満宮のみに
     1969(昭和44)04/25都市計画で松ノ森神社内に移る
  奉行甲斐庄喜右衛門が阿蘭陀通詞西吉兵衛と向井元升に命じ「仮名天文鈔」を倭字に書き改めさせる
     「仮名天文鈔」はキヤラ(岡本三右衛門)が持参した天文書で沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)が幕命で翻訳
     さらに向井元升は翻訳書の批判を命じられ「乾坤弁説」を著す【1658(萬治01)?、1659(萬治02)?】
  ジャコウネズミが蘭船に乗ってジャカルタから渡来する
     以後市街に繁殖
  唐船57隻、蘭船8隻が入港

1656(明暦02)頃

  出来大工町の水神神社の社地を炉粕町に移転
     1694(元禄07)正殿、舞殿、大門が建立

1657(明暦03)【後西】 丁酉(ひのととり)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ザハリアス・ワーヘナール(←10/27→)ヨアン・ブーシェリヨン

  02/16即非如一が渡海して長崎の崇福寺に入り中興開山となる
     1663(寛文03)宇治黄檗に上り12年ぶりに隠元と再会
     その帰りに小倉で藩主小笠原忠真に引き留められ広寿山福聚寺を開創、開山となる
     1668(寛文08)長崎の崇福寺に戻る
     1671(寛文11)06/26《05/20》師隠元に先立ち56歳で示寂
     遺言により崇福寺後山で当時は珍しかった荼毘(火葬)に付される
  02/27第2代水戸徳川家藩主の水戸光圀が「大日本史」の編纂作業に着手する
     「大日本史」は紀伝体の歴史書。明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移り、史局を開発し編纂事業を開始する
     1906(明治39)第10代水戸徳川家藩主の水戸慶篤の孫にあたる徳川圀順が完成させる
     「本紀」「列伝」「志」「表」の全てが揃い合計397巻と目録5巻を献上する
  03/02《01/18》江戸で振袖火事が起きる。死者10万人、江戸城天守閣までが焼けおちる大火災に
     事の起こりは3年前。商家の娘おきくが偶然に見染めた若衆に恋いこがれながら死亡
     おきくの紫ちりめんの振袖は質屋、古着屋を会し2人の娘にわたるが、同じ01/16に急死
     供養を依頼された本郷丸山本妙寺では因縁の日をはずし01/18に供養すべく振袖に火をつける
     強風が舞い上げ大惨事となる
     【1656(明暦02)の吉原移転との前後関係、旧暦・新暦の表記の違い?】
  03/02《01/18》振袖火事により拝賀のため在府中の甲比丹一行も被災。滞在中、幕府より米50人扶持を給される
  05/高一覧が財を募って桶屋町〜本紙屋町に石橋の一覧橋(桶屋町橋)が架かる
     1721(享保06)閏07/28、1795(寛政07)07/19大洪水で流失
     1801(享和01)09/22代銀12貫目の公費で再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  09/大目付・宗門改役井上筑後守政重を長崎に下向させる
  11/02夜、本鍛冶屋町の糸屋七郎衛門宅より出火、止宿の唐人荷物を全て焼亡
  11/06夜、本紺屋町の志筑孫兵衛宅より出火
  11/30江西省健昌県の唐僧、黙子如定(61)が没する
  12/06夜、長崎村十善寺郷の百姓家より出火、家3軒を焼失
  12/21夜、東中町の村田宇兵衛借家錦屋市兵衛門より出火、家6軒を焼失
  12/24長崎代官、末次平蔵茂房が母や婦人たちを引き連れオランダ冬至(クリスマス)見物のため出島蘭館に赴く
  樺島町にあった大村藩蔵屋敷が西中町に移る
     1896(明治29)大村藩蔵屋敷跡地に西中町教会ができる
  長崎奉行立山役所の門を延命寺の山門として移築
  唐僧木庵禅師が瓊杵山、崇嶽の名をもつ山を山頂からの景趣を賞して無凡山と名づける
  大村領の百姓某が長崎酒屋町の利左衛門に大村領内のキリシタンについて口をすべらす
     利左衛門は官に訴え事件が発展
     地下に潜伏し信仰を守っていた純忠以来のキリシタンの子孫たちは次々に捕縛
     大村の仏谷洞窟周辺を中心に郡川流域の潜伏キリシタン608人が捕らえられる「郡崩れ」
     411人が処刑、78人が牢死、20人が永牢。長崎、大村、平戸、佐賀、島原の5か所に投獄
     大村牢に入れられた殉教者131人は放虎原で斬首。首と胴が500米ほど離して埋められる
     「大村郡崩れ」は初めてのキリシタン大検挙事件
     長崎酒屋町の利左衛門は銀12貫目の恩賞を受ける
  普賢岳鳩穴付近から北に向かって溶岩を噴出(明暦の噴火)
     1663(寛文03)03/普賢岳南側が大噴火をおこす(寛文3年噴火)
     普賢岳北東部にある妙見岳から古焼溶岩が北へ1粁流下
     1664(寛文04)火口の九十九島池から出水し、水無川が氾濫して30余人が亡くなる
  江戸大火の折り浅野因幡守と井伊掃部頭が燻皮羽織を着用して駆付ける。火事装束の起源
  唐船51隻、蘭船9隻が入港

1658(明暦04、萬治01・07/23)【後西】 戊戌(つちのえいぬ)

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