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〈江戸時代(5)〉

1658(明暦04、萬治01・07/23)【後西】 戊戌(つちのえいぬ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》甲斐庄喜右衛門(09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヨアン・ブーシェリヨン(← 10/23(10/22→)ザハリアス・ワーヘナール

  06/24鄭成功の使者の船が台湾より来航。明朝再興の援助を要請する
     09/幕府は拒絶し帰帆させる
  06/27大風雨があり長崎港内の数船が破損し水死者34人
  10/25《09/29》大村のキリシタン5人が長崎で斬首
  11/隠元が江戸で将軍家綱に謁見、酒井忠勝らのすすめで永住を決意
     1661(寛文01)閏08/京へ上り将軍家の保護のもと、山城国宇治郡大和田に寺地を授かる
     閏08/29黄檗山万福寺(新黄檗)を開山。第1代住持に就任、晋山式をあげる
     弟子たちが各地に散り黄檗禅を広める
  閏12/19酒麹の今年分相改候書付を奉行へ差上げ。酒高2万3678石、麹高1万5032石1戸升8合
  僧西順が大浦郷に一向宗妙行寺を創建する
  下筑後町の利生院が聖無動寺と改称
  向井元升が家族とともに長崎を去り京都に移る。京極通りで医を開業する
  唐大通事頴川藤左衛門が福済寺の山門を寄進
     1945(昭和20)08/09唐大通事頴川藤左衛門が寄進した山門、黄檗天竺様式の大雄宝殿が原爆で焼失
  甲比丹一行が江戸在府中に再び火災にあう。幕府より米50人扶持を給される
     1657(明暦03)の振袖火事に次いで2度目
  大村の群崩れによるキリシタンの迫害が行なわれる
  島原の今村刑場で大村郡崩れで捕らえられた信徒が斬首される。今村刑場で最後の殉教となる
  唐船43隻、蘭船10隻が入港

1659(萬治02)【後西】 己亥(つちのとい)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(08/着)、甲斐庄喜右衛門(10/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ザハリアス・ワーヘナール(← 11/04 →)ヨアン・ボーヘリヨン

  01/長崎散宿の唐人たちが悟真寺の外人墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
     1858(安政05)プチャーチンが来航。日露修好通商条約締結交渉は進展せず、出航入港を繰り返している最中、
      出航入港を繰り返す最中、ロシアのフリゲート艦「アスコルド号」艦内でコレラが発生し乗組員20人が死亡
      オランダ人墓地の上方にはじめてロシア人の遺体を葬る
  02/
     一、町中茅葺き・藁葺き早々土にて屋根を塗り可申事
     一、当春焼候町は茅葺き・藁葺き不及申、こけら葺き土にて塗り可申候事、
       勿論茅葺きにても芝にても勝手次第にふき可申候事
  02/江戸参府で江戸に赴いたワーヘナール商館長は献上品の球儀、望遠鏡、草木誌を老中稲葉美濃守に贈る
     望遠鏡はレンズが薄暗くて操作が難しい、草木誌は木版挿絵が粗雑で小さいとの理由で20日足らずで返却
     地球儀はまだしも天球儀は画家が天空に動物を描いただけと思う
     商館長は日本人の態度を無知あるいは認識不足によるものとして、学術的な贈り物の意義の疑念を報告書に残す
  05/02夜、長崎村一ノ瀬口より出火
  05/03長崎村より出火、部落をことごとく焼亡
  07/22オランダ商館長のワーヘナールはバタビアから送られてきた書状をもとに、
     モカ(アラビア半島南部)向けの輸出磁器5万6700個のうち半分余りを出島の役人を通じて有田の窯場に注文
       もともとオランダ東インド会社は中国磁器をヨーロッパや東南アジアへ輸出していた
       しかし中国は明王朝から清王朝への政権交替による内乱のため磁器の輸出が激減。で、変わりに肥前に注文
     発注から引き渡しまで3か月と思われたが2か月後には、出島に磁器が出回る
     おそらく見本の一部が契約した窯主以外の手に渡り大急ぎで焼いたもの
     この模倣品は手抜きのため模様が寂しく多くが売れ残る
  09/25諏方社跡の地に天満宮神殿竣工、正遷宮を行なう
     1680(延宝08)03/元諏方社の跡に移った天満宮の社殿を長崎奉行牛込忠左衛門勝登が整備
     新築や改築で正殿、拝殿から正門まですべての建物が整備、松森神社の落成大祭が行なわれる
     長崎奉行牛込忠左衛門が「涼しさや御影とたのむ松の森」を詠じ、神前に奉納
     松森神社(松森天満宮)の名称の基になった句
     由来は、境内に同根3株の立派な松の木があり、「松」と木が3つでできている「森」の文字が当てられる
     奉行の要請で豪商魏之●(王篇に炎)が正門を寄進
  10/15出島の外科医マルティン・レミが遺書を残して行方不明になる
     遺書には丸山遊女を愛してしまったが、自分のものにすることができず死ぬしかない等と記されていた
     出島のオランダ人や長崎奉行、地役人が出島はもとより人家や船を探す
     商館長のワーヘナールは海中に網を投げるが見つからない
     10/18夕方、出島東側に停泊していた唐船の帆の下から空腹に耐えきれず姿を現わし無事に保護
     【一説に09/02、旧暦・新暦の違い?】
  幕府が飢饉のため九州公領の米1万0712石余と諸侯よりの1万8047俵を長崎に回漕し町民に貸与
     豊後国2万1070俵(銀595貫101匁)、その他国1万8047俵(銀312貫99匁)
     その代銀総額は総計908貫297匁余
  甲比丹一行の江戸参府の長崎〜小倉間を陸路と定める
     従前、長崎〜大坂間は海路をとっていたが、この年の帰途、玄海灘で破船したため令がでる
     1660(萬治03)02/幕府が甲比丹の参府を明年より3月に改める
     長崎を正月に出発し、02/末に江戸着、03/01又は03/15日に拝礼
     これまでの参府は毎年冬に長崎を出発し、正月幕府に拝賀したが江戸は冬に火事が多く被災が三度に及んだため
     1660-01/12《萬治02-11/30》発1660(萬治03)04/26《03/17》帰着の甲比丹ヨアン・ボーヘリヨン一行の江戸参府の経費
     銀51貫400匁4分、68匁替えにして金756両
     105日間の1日平均489.5匁(金7両余)。別に将軍や幕閣以下への献上品、土産代も莫大に
  長崎奉行甲斐庄喜右衛門が遠見番(公儀役人)を新たに召抱える
     それまで野母と斧山(烽火山)の番所には近隣の浦人・百姓が勤番していたが公役は負担を伴い困窮者もでる
     長崎代官の末次平蔵は浦人、百姓の困窮を見かねて奉行に建議、江戸へ訴える
     江戸では外国船の監視は外交上(貿易制限、禁教)重要な任務であるとし訴えが認めらる
     浦人、百姓は役番をとかれる
     遠見触番頭に吉村甚左衛門、原三郎左衛門が採用される
     遠見番10人(戸田、保田、中村、日高、福田ほか)が採用される
     水主10人を召抱え番所付御注進船2艘を配する
     役宅は長崎村十善寺郷に設けられ十人町とよばれる
     1764(明和01)斧山の番所が一時的に閉鎖
     1808(文化05)斧山の番所が再開
     1815(文化12)10/斧山の勤番が廃止
     1868(明治01)04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  長崎の人口約4万0700人。1月の糧米4500石
  唐船60隻、蘭船8隻が入港

1660(萬治03)【後西】 庚子(かのえね)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》甲斐庄喜右衛門(06/05江戸で死去)、妻木彦右衛門(頼熊・前目付代・06/21発令・09/着)、
      黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヨアン・ボーヘリヨン(←10/26→)ヘンドリック・インダィク

  02/幕府が甲比丹の参府を明年より3月に改める。長崎を正月に出発し、02/末に江戸着、03/01又は03/15日に拝礼
     これまでの参府は毎年冬に長崎を出発し、正月幕府に拝賀したが江戸は冬に火事が多く被災が三度に及んだため
     1660-01/12《萬治02-11/30》発1660(萬治03)04/26《03/17》帰着の甲比丹ヨアン・ボーヘリヨン一行の江戸参府の経費
     銀51貫400匁4分、68匁替えにして金756両
     105日間の1日平均489.5匁(金7両余)。別に将軍や幕閣以下への献上品、土産代も莫大に
     1661(萬治04)01/15甲比丹一行が長崎を発して江戸参府に
  秋/諸国に風水害がおこる
  11/13夜、本興善町より出火。豊後町、新町、引地町、酒屋町、袋町に延焼
  滑石村の氏神として大村家家老の大村弥五左衛門純成が滑石大神宮を創建
     1976(昭和51)04/20未明に火災にあい拝殿と神殿を全焼
     1977(昭和52)氏子らの寄進により再建
  岩屋山神宮寺が領主・大村純長により祈願所として再興。2人扶持を給し岩屋山神通寺と改称
     1773(安永02)「密蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
  中紺屋町の大光寺が今籠町(現在地)に移築
  唐船45隻、蘭船5隻が入港

1660(萬治03)頃

  島原藩がハゼの木の栽培を奨励
     1744(延享01)領内に5万本を植える
     のちさらに5万本を植える

萬治年間(1658〜1661)

  十人町に天満神社が創建
  長崎の西坂刑場で112人のキリシタンが処刑される

1661(萬治04、寛文01・04/25)【後西】 辛丑(かのとうし)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(08/着)、妻木彦右衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヘンドリック・インダィク(←11/21)(11/11→)ディルク・ファン・リール

  01/15甲比丹一行が長崎を発して江戸参府に
     1743(寛保03)商額の減少により甲比丹の毎年参府の制を5年に一度と改める
     幕府への献上品その他諸役員への贈品すべて半減させる
  06/09鄭成功の台湾侵入でオランダ船が逃れて長崎に入港
     船には紅毛女性4人、小児3人ら170人が乗船、出島上陸を許される
     乗船していた新教牧師マルクス・マシュースが紅毛人の寡婦と出島蘭館員との結婚式を司式
     場所は出島カピタン、インディキの部屋。参列者は在留紅毛人、出島乙名、オランダ通詞など
  06/27木廊橋の古川町橋(本紺屋町橋)が洪水で崩落
  08/26昼、材木町より出火
  閏08/永住を決意した僧隠元禅師が京へ上り将軍家の保護のもと、山城国宇治郡大和田に寺地を授かる
     閏08/29黄檗山万福寺(新黄檗)を開山。第1代住持に就任、晋山式をあげる
     弟子たちが各地に散り黄檗禅を広める
  伊勢町に鋳銭所を設け、唐輸出銭「元豊通宝」「祥符元宝」「嘉祐通宝」などを鋳る。中島銭座
     唐貿易の代替品に和銭を用いると大坂から長崎へ回送する輸送費がかかり、また相場の変動などから損失を招いたため
     1685(貞享02)02/唐、蘭船の需要がなくなり伊勢町の鋳銭所(中島銭座)が廃止となる
  伊勢町に中島銭座ができ中島銭座前の川を銭屋川と呼ぶようになる
  八剱神社が神南の地より現在の地に
     のち小島郷の鎮守社となる
  スウェーデンの民間銀行ストックホルム銀行が国家による承認を受けヨーロッパ最初の紙幣を発行
  鄭成功が台湾を占領する
  蘭婦人33人が鄭成功のため台湾を追われオランダ船2隻で長崎に来航する
     帰国船がでるまで出島在留が許される
  唐船39隻、蘭船11隻が入港

1662(寛文02)【後西】 壬寅(みずのえとら)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》妻木彦右衛門(04/12勘定奉行転出)、嶋田久太郎(守政・前目付・05/01発令・09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ディルク・ファン・リール(←11/06→)ヘンドリック・インダイク

  01/天然痘が流行する。〜03/28まで死者2318人
     07/15総町が供養のため一ノ瀬街道に法華経塔を建てる。一ノ瀬無縁塔、お亀の塔
     死者には嬰児、幼児が多く、碑には唐僧即非の偈を請けい、その法子、化林、曇瑞、碧崖の書を刻む
     街道口に建てられるのは疫病の侵入防止を祈念する意味
     1712(正徳02)08/1662(寛文02)以来、再び天然痘が大流行し幼児を中心に多数の死者がでる
     〜翌年03/まで患者3000余人
     1713(正徳03)小島郷茂木街道の入口に供養塔が建てられる。茂木道無縁塔
     碑の文字は崇福寺住持の義勝、大衡の書
  05/19小倉城主小笠原忠庵が筑紫探題として長崎外船事務を取り扱う
  町年寄高木作右衛門宗能が御用物方に任ぜられ切米100俵を給される
  出島のなかに伊万里磁器店が開設。諸品が陳列売買される。ラクバザール
     出島内の邦人の店舗はここのみ
  オランダ商館医にアルマンス・カッツが来朝
     1663(寛文03)ダニエル・プリシュ渡来
     平戸藩医の嵐山甫安が藩命により直ちに長崎に留学し、この2人に師事し、外科を学びヨーロッパ医学興隆の兆しを作る
     1665(寛文05)01/21ブリシュは嵐山甫安に対し医術証明証を与える
     のち甫安の子孫は桂川と改姓して江戸に出て医官となり法眼の位まで上る。江戸医学の発達に貢献
     桂川甫筑(邦教)→国華→国訓→桂川甫周(解体新書の訳に携わる)
  唐船42隻、蘭船8隻が入港

1663(寛文03)【霊元】 癸卯(みずのとう)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》黒川与兵衛(10/着)、嶋田久太郎(10/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヘンドリック・インダイク(←10/20→)ウィルレム・フォルヘル

  03/08未刻(午後02時)筑後町の樋口惣右衛門が発狂して自宅に放火。「寛文の大火
     折からの烈風で火は四方に飛び長崎は空前の大火となる
     03/09巳刻(午前10時頃)鎮火
     全66町のうち全焼57町
     堀町、筑後町、船津町、上町、中町、恵美酒町の6町が半焼。金屋町、今町、出島町の3町が焼け残る
     罹災規模は、表口間数1万5330間のうち1万3757間、家数3291軒のうち2927軒に
     【18時間で家数2901軒(間数1万3772間余)を焼く?】
     奉行所をはじめ寺社33軒、獄舎などを焼く
     奉行所……1663(寛文03)09/05焼失した西屋敷の再築なる
     長崎聖堂(立山書院)…1676(延宝04)長崎奉行牛込忠左衛門が再興。南部草寿を聖堂祭酒に任じ塾師に。長崎発の官学
     長崎の町家は大抵藁葺きか板葺き屋根で空前の大火に。奉行所さえ瓦葺きではなかった
     1672(寛文12)市街の区画が整理。焼失各町の道路を通り筋4間・脇町3間・溝幅1尺5寸に
  03/普賢岳南側が大噴火をおこす(寛文3年噴火)
     普賢岳北東部にある妙見岳から古焼溶岩が北へ1粁流下
     1664(寛文04)火口の九十九島池から出水し、水無川が氾濫して30余人が亡くなる
  09/05焼失した長崎奉行西屋敷の再築なる。嶋田奉行が大黒町鍋島の松平丹後守屋敷より移る
     内町外町からの祝儀は受けず
     11/04焼失した長崎奉行東屋敷の再築なる。黒川奉行が大黒町鍋島の松平丹後守屋敷より移る
     内町外町からの祝儀は受ける
     奉行の再建にあたり奉行所東側の高木作右衛門屋敷と五か所町人屋敷を西浜町の土地と交換し奉行屋敷を拡張する
     在来地に西屋敷を、拡張部分に東屋敷を建てる
     1671(寛文11)09/奉行牛込忠左衛門は就任と同時に奉行所の分離建設を幕府に申請する
     東西奉行所が同じ屋敷内に隣接しているのは、火災の場合、同時に焼失する恐れがあるとして分離建設を申し出る
  東上町の「立山書院」が大火で焼失。一時中絶
     1676(延宝04)長崎奉行牛込忠左衛門が再興
  桶屋町の光永寺が火災にあい焼失。再建される
     1789(寛政01)火災にあい焼失。再建される
  田上の皆行庵が島原藩主高力摂津守忠房により再興し田上寺と改称
  濱町に新地の築立てをし江戸町の801坪が埋立てられる
  濱町〜築町の通称大橋が木廊橋より平橋に架け替わる
     1772(安永01)08/12夜、大雨洪水で平橋が流出
  崇福寺中興開山の即非如一が宇治黄檗に上り12年ぶりに隠元と再会
     その帰りに小倉で藩主小笠原忠真に引き留められ広寿山福聚寺を開創、開山となる
     1668(寛文08)長崎の崇福寺に戻る
  肥後細川、筑前黒田、佐嘉鍋島のほか大村、島原の諸侯と天草代官が、所領から産米と大豆を長崎に急送する
     被災民に安値で貸し与える
  ダニエル・プリシュ渡来
     平戸藩医の嵐山甫安が藩命により直ちに長崎に留学
     ダニエル・プリシュと先年来朝のオランダ商館医アルマンス・カッツの2人に師事
     外科を学びヨーロッパ医学興隆の兆しを作る
     1665(寛文05)01/21ブリシュは嵐山甫安に対し医術証明証を与える
     のち甫安の子孫は桂川と改姓して江戸に出て医官となり法眼の位まで上る。江戸医学の発達に貢献
     桂川甫筑(邦教)→国華→国訓→桂川甫周(解体新書の訳に携わる)
  興福寺の本堂の大雄宝殿が大火で類焼
     1689(元禄02)本堂の大雄宝殿が再建
  1642(寛永19)に五島に移住させられた非人が「五島にかどわかされる」と訴え本国に帰される
  蘭船が火食鳥を舶載
  1640(寛永17)5月に焼き沈めたポルトガル船の貨物金銀を黒川奉行の命で引き揚げる
     益金45貫余を町年寄、年行司、町乙名、目利役らに配付する
  長崎の市街は内町23町・外町43町、計68町
     (内町)島原町、大村町、外浦町、平戸町、江戸町、内下町、築町、本博多町、新町、引地町、堀町、金屋町、
     今町、樺島町、本五島町、浦五島町、本興善町、後興善町、豊後町、桜町、内中町、小川町、船津町
     (外町)船大工町、本石灰町、本籠町、油屋町、今石灰町、濱町、榎津町、材木町、酒屋町、古川町、本紺屋町、
     袋町、本鍛冶屋町、今鍛冶屋町、今籠町、銀屋町、磨屋町、諏方町、毛皮屋町、麹屋町、本紙屋町、新紙屋町、
     新高麗町、新大工町、本大工町、魚屋町、今紺屋町、桶屋町、古町、今博多町、大井手町、勝山町、馬町、炉粕町、
     八百屋町、東中町、西中町、恵美須町、上町、筑後町、丸山町、寄合町、出島町
     外町に出島町が増える
  唐船29隻、蘭船6隻が入港

1664(寛文04)【霊元】 甲辰(きのえたつ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》嶋田久太郎(09/着)、黒川与兵衛(10/発・12/23免職)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ウィルレム・フォルヘル(←11/07→)ヤコブ・フライス

  06/01暁、上町より出火、焼亡仮屋22戸
  10/24すい星が出現する。長崎でも観測される
     11/消滅する
     1665(寛文05)08/ふたたびすい星が出現する。長さ1町(60間、約110米)ほどに見える
     09/消える
  11/幕府による宗門改が制度化され転宗者の登録制を実施する。各地に宗門改役を置き宗門改帳を作成
     村ごとに住民の宗教を調べ、寺は住民が檀家でキリシタンではないことを証明
  小島郷に楠稲荷神社が創建
  魚類水揚場が今魚町から材木町(賑町)の本通りに移る。魚類の集散や加工が行なわれ中国との海産物取引がはじまる
     1830(天保01)近くの中島川河岸に移す
  前年の雲仙火山の噴火に引き続き雲仙火口の九十九島池から出水し、水無川が氾濫して30余人が亡くなる
  1655(明暦01)に来崎した木庵が黄檗山第2代となる
  フランス東インド会社(Compagnie fran_aise des Indes orientales)が設立
     フランスの重商主義政治家ジャン=バティスト・コルベールが立案、ルイ14世によって認可された国営貿易会社
     資本金1500万トゥール・リーブル(約60万英ポンド)
     イギリスやオランダより半世紀以上遅いものの、東半球における商業利権獲得をめざす
     1769(明和06)フランス東インド会社が財政的な困難のため解散
  唐船38隻、蘭船8隻が入港

1665(寛文05)【霊元】 乙巳(きのとみ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》稲生七郎右衛門(正倫・前目付・03/13発令・07/着)、嶋田久太郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヤコブ・フライス(←10/27)(10/28→)ウィルレム・フォルヘル

  01/21ダニエル・プリシュが嵐山甫安に対し医術証明証を与える
     嵐山甫安は平戸藩医が藩命により長崎に留学させる
     のち甫安の子孫は桂川と改姓して江戸に出て医官となり法眼の位まで上る。江戸医学の発達に貢献
     桂川甫筑(邦教)→国華→国訓→桂川甫周(解体新書の訳に携わる)
  05/24港内停泊中のオランダ船が荷役中に出火。町火消がでて海水で消化する。銭座町付近まで漂流し大破
     火災により大砲が暴発し稲佐郷(現江の浦)の海岸を直撃。岩が割れる。「割石」
     焼け残った積荷の弁柄糸5万5380斤が海水に濡れる。弁柄糸は町中に割当てられ真水で洗い直すよう命じられる
     1斤につき4分ずつ合計銀22貫152匁を洗い賃として総町中へ、銀5貫目を謝礼として内町外町の乙名へ差し出す
     のち半焼の船体は阿蘭陀通詞がもらい銀3貫目で売却
     船長21間半、横4間、深2間、解体に人夫手間1500人がかかる
     のちオランダ船の砲弾と火薬は出港まで長崎奉行が厳重に管理
  07/朱舜水が徳川光圀に招かれ長崎を出発、江戸に上る
     09/水戸着
  08/12奉行嶋田久太郎が島原町一ノ堀(のち堀町)に報時所(鐘撞所)を設ける
     報時の機関がなく市民の間に時間の正確さを欠き、たいへん不便が多く
     鐘の高さ3尺5寸、口径2尺5寸5分、重量900斤。鋳工費銀1貫400目。鐘の銘は即非がかく
     鐘撞きに2人雇し銀800目を支給する。費用は総町が負担する
     1666(寛文06)鐘が破損し改鋳する
     1673(延宝01)11/09今籠町の大光寺北側境外畑地に移す
     1766(明和03)03/14総町の願い出により豊後町の高札場跡地に移転。昼夜12時に報時を行なう
     のち俗称鐘の辻と呼ばれるようになる
     1774(安永03)鐘が破損し改鋳する
     1903(明治36)10/05長崎市が長崎測候所に委託し午砲を発射することに
     時撞と時旗での知らでは、市内の戸数2万戸、人口15万人すべてに行き届かないため
  08/前年に続いて、再びすい星が出現する。長さ1町(60間、約110米)ほどに見える
     09/消える
  元唐大通事の高一覧が中国から持参した自家の仏像を晧台寺に寄進
     同年晧台寺の本尊とする
     1677(延宝05)第5代住持の逆流が丈六の毘盧舎那大仏を鋳造する。身の丈1丈6尺(5.33米)、台座6尺(2米)
     逆流は華厳社がありながら毘盧舎那大仏がないのを遺憾に思い信者の協力を得て建立
  役所所属の町火消に飛水筒8個を配布
  長崎奉行の与力が5人から10人に、同心が20人から30人体制になる
     1687(貞享04)長崎奉行の与力、同心制度が廃止。町年寄制度が充分に整備されたため
     奉行抱えの給人10人、下役30人に変わる
  イタリア出身のフランスの天文学者ジョヴァンニ・カッシーニが木星の大赤斑を発見
     1675(延宝03)土星の環に隙間を発見
     カッシーニの間隙(カッシーニの空隙、カッシーニの隙間とも)
  長崎出島オランダ商館長が徳川家にべっ甲を献上
  長崎3村(長崎、山里、淵)高3435石余に
  唐船36隻、蘭船12隻が入港

1666(寛文06)【霊元】 丙午(ひのえうま)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》嶋田久太郎(01/江戸町奉行転出)、稲生七郎右衛門(02/17死去・光源寺に埋葬)
      松平甚三郎(隆見・前御先弓頭・03/19発令・06/着)、河野権右兵衛(通定・前使番・03/19発令・08/着)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ウィルレム・フォルヘル(←10/27)(10/18→)ダニエル・シックス

  07/04唐通事の高一覧(64)が没する。日本名は深見(渤海)久兵衛。出身は福建省●[シ(さんずい)に章]州府
  08/13漂着蘭人の8人を五島より長崎に護送する
     蘭人15人が朝鮮に漂着し投獄されたが、うち8人が脱走、小舟で五島に着く
     1668(寛文08)08/残りの蘭人7人を放免するよう対馬侯を通じ朝鮮政府に厳重抗議をする
     釈放され長崎に護送される
  榎津町と材木町に架かる木廊橋の榎津橋を唐商で崇福寺の大檀越の何高材が喜捨で石橋に改める
     1721(享保06)閏07/28大洪水では無事
     1795(寛政07)07/19大洪水で崩流
     1796(寛政08)05/26大洪水で崩流
     1799(寛政11)11/15銀12貫目の公費で石橋再架
     1901(明治34)06/石橋の榎津橋が鉄製のフラットトラス構造に改められる。賑橋に改名
     材木町(木)と榎津町(木)が合う。「二木合う」橋=賑橋
     橋長9間半(17.1米)、幅3間3合(5.94米)
     1928(昭和03)05/鉄筋コンクリート造りに架け替え拡幅
  唐船主など指宿制度を廃止し宿町・付町の制度をはじめる
      宿料や商取引の札銭にあたる口銭銀による収入はかなりな額にのぼり
      市民は唐船入港を聞くと競って小舟をだし迎え荷主を奪いあうことに
      少数特定の市民が独占することになり不平がおこったため
     内町・外町の各町の順番をきめ当番の町を宿町、次の番の町を付町に
      船頭や役付き船員はその町の乙名宅に泊め、その他の船員はその町の家々に分宿
     順送りに唐人を市民の家に宿泊させることに改める
     唐人宿からあがる利益を町全体に分配するように仕組んだもの
  杉本忠恵が幕医に採用
  島原町一ノ堀(のち堀町)の報時所(鐘撞所)の鐘が破損し改鋳する
     1673(延宝01)11/09今籠町の大光寺北側境外畑地に移す
  霊源院(滝の観音)が創建
  唐船37隻、蘭船7隻が入港

1667(寛文07)【霊元】 丁未(ひのとひつじ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》松平甚三郎(09/着)、河野権右兵衛(11/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ダニエル・シックス(←11/06→)コンスタンティン・ランスト

  05/02幕府が堕胎業禁止令を発令
  06/03大雨で出水する。小川町の人家が床上浸水2尺。また各所で崖崩れ、家屋の倒壊あり
  11/28伊藤小左衛門吉直の持ち船が暴風で難破し対馬の鰐の浦に漂着
     密貿易の足がつき抜け船で朝鮮へ武器輸出の抜け荷をしていたことが発覚。一族もろとも西坂で磔刑に処せられる
     伊藤小左衛門は博多の豪商で長崎にも進出。五島町に豪邸を構え盛んに貿易を営む
     伊藤は財力にものをいわせ豪邸の天井に硝子張りの水槽をつくり金魚を泳がせる豪勢な生活をし世人を驚嘆させる
     連座の濱町乙名浅見吉左衛門ら一味も斬罪、獄門、追放となる
     丸山遊女、神南屋の定家が死を悲しみ長崎港内岩瀬戸へ身を投げる。霊魂が小左衛門の晒し首を盗み博多の母の元へ届ける
     のち連座する者が90人に。磔刑5人、獄門14人、斬罪18人、追放52人、赦免1人
     のち丸山遊女、定家の投身にあわれみ、悟真寺に比翼の塚を建て供養する
  小林義信(謙貞)が恩赦により出獄。小林は1646(正保03)に処刑された林吉左衛門の門下生中第1で21年の禁固に
     長崎奉行牛込忠左衛門の知遇を得ることにより、教えを請う者が増え天文数学の研究は盛んに
  高野平郷(鍛冶屋町)の祇園宮延寿院が江戸東叡山の末寺、宝樹山現応寺
     のち3代住職玄澄は安禅寺の開山で以後も同寺住職を兼帯
     1766(明和03)大火により焼失
  本五島町の廻船問屋で乙名の倉田次郎右衛門が奉行の許可を得て銭屋川に埋樋。市内の給水工事に着手。「倉田水樋
     市内の地下水は大部分が悪水で立山、西山方面以外は麹屋町の湧水などが清浄な水
     倉田は渇水期の水飢饉や火災時の水利などに心を痛め水利の開発を思い立つ
     伊良林の矢の平川(若宮川)と銭屋川の合流地である旧水神社裏手に湧く清泉に水源を求める
     のち工事は難航し費用も多額にのぼる。自己の宅地3箇所と回漕船3隻を売却処分し工事費にあてたが不足
     長崎奉行が白銀300枚を下賜し工事を促進させる
     1673(延宝01)倉田次郎右衛門により水道「倉田水樋」が創設
     水源は伊良林の矢の平川(若宮川)と銭屋川の合流地である旧水神社裏手に湧く清泉
     水源に石造りの水樋を築き、市中に木樋その他で配水する
     八幡町を起点に中島川左岸は八幡町から東浜町(のち銅座跡)、右岸は大井手町から西築町
     それぞれの街路を3尺から5尺掘り下げ木樋を埋設、配水幹線とし、支樋を通じて各町に給水
     恩恵は66町中50余町に及ぶ
     1674(延宝02)奉行所が倉田水樋の給水、修理にあたる水樋係を新設して倉田氏に世襲させる。年俸2貫目を支給
     1707(宝永04)水樋役の倉田次郎右衛門が官許を得て高野平郷(現小島小学校付近)に水源を求める
     木樋「出島水樋」を出島オランダ屋敷に給水
     給水料金として年間に蘭人から銀3貫600目を徴収。うち銀3枚を運上銀として納入。残りで水樋修繕他に
     1795(寛政07)寛政大水害のあと、倉田水道や井戸水の汚染がひどくなる
     奉行所は大窪川から臨時の水道をひき給水。完成するまでは水害のない地域の井戸水を人夫に汲ませて配給する
     明治維新以後水樋係が廃止される
     1891(明治24)03/本河内水源地の完成、本河内上水道の布設まで飲料水や防火用水として利用
  人類最初の輸血がイギリスとフランスで同時に行なわれる
     ○イギリスはオックスフォードの生理学者で内科医のリチャード・ローワーがアーサー・コガ(22)に
      羊の血液を輸血。輸血中コガは発汗をみたのみで何の副作用も起こらず
      ローワーは人類最初の動物の血液の輸血を行いその経過を詳細に記述
     ○フランスの哲学者で医師のジャンーバチスト・ドニーが発熱性痙攣で深い昏睡の15歳の少年に
      羊の血液を輸血。輸血後、少年は非常に元気に
      ドニーは人への輸血を最初に成功させことの名誉を受ける
     2症例とも何の副作用もなく成功
     のち若返りのために健康な若者の血液や動物の血液の輸血が行なわれる
     激しい溶血性反応を呈し死亡する例が多発
     1678(延宝06)人に対しての輸血実験禁止の命令が各国で時の権力者からだされる
     輸血は行なわれなくなる
  ジャワから入港した唐船主の周九娘が取引相手の唐通事盧庄左衛門にザボンの種の種子を贈る
     盧庄左衛門は在宅唐人盧君玉の子で内通事、盧草拙の先々代にあたる
     ザボンの種子の伝来は日本初
     庄左衛門は西山妙見の境内で栽培
     8年後ザボンの実がなる
     元木の種子が各地に播かれ、長崎近郊、島原半島、鹿児島地方に広まり、「長崎ザボン」の発祥となる
     のち100年近く生きるが盧氏宅類焼の際に枯れる
  唐船33隻、蘭船8隻が入港

1668(寛文08)【霊元】 戊申(つちのえさる)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》河野権右兵衛(09/着)、松平甚三郎(10/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》コンスタンティン・ランスト(←10/25→)ダニエル・シックス

  07/14唐僧で崎陽漢画の祖、逸然性融(68)が没する。出身は●[シ(さんずい)に折]江省杭州府仁和県
  08/朝鮮に漂着監禁されていた蘭人7人を放免するよう対馬侯を通じ朝鮮政府に厳重抗議をする
     釈放され長崎に護送される
     前年8月、蘭人15人が朝鮮に漂着し投獄、うち8人が脱走、小舟で五島に着き長崎に護送される
     7人はそのまま朝鮮に監禁されていた
  鄭成功の親友で唐人の根本五島一官(のち帰化して清川某)が中国伝来の「線香」を長崎でつくりはじめる
     【根本五島一官(のち帰化して清川某)の子?】
  銀輸出禁止令がだされる
  長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)に唐商人何高材が黄檗様式が随所に見られる本堂を寄進
     鐘楼堂は隣の現応寺にあったもの
     1771(明和08)石門が建立
  蘭通詞の西玄甫が甲比丹より医術修得証明書を得る
     1673(延宝01)江戸に召され幕医となる
  唐船の帰帆の時期を11月までと改める
  宇治黄檗に上った崇福寺中興開山の即非如一が長崎の崇福寺に戻る
     1671(寛文11)06/26《05/20》師隠元に先立ち56歳で示寂
     遺言により崇福寺後山で当時は珍しかった荼毘(火葬)に付される
  唐船43隻、蘭船9隻が入港

1669(寛文09)【霊元】 己酉(つちのととり)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》松平甚三郎(09/着)、河野権右兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房(11/02死去)、末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》ダニエル・シックス(←10/14→)フランソワ・ド・ハーズ

  06/08将軍家綱が丹波福知山の城主松平忠房を島原藩主に命じる
     松平忠房は島原領3万8300石の他、豊前宇佐郡と豊後国東郡を併せた2万7600石の加増で島原入り
     のち天草志岐組1300石が預けられ島原藩主は7万石の大名に
  奉行が本古川町の鋳物師萩原祐佐に命じ踏絵板20枚を鋳造させる
     絵踏が制度化され損耗が激しくなり祐佐に真鍮製の聖像を模造させる【唐銅?】
     唐銅はエッチェホモ5枚、十字架上のキリスト5枚、ピエタ5枚、ロザリオの聖母5枚
     そのうちの1枚は長崎から天草へ貸し出したときに誤って海に落としてしまう
     1677(延宝05)05/10あまりにも真に迫った出来栄えのため鋳萩原祐佐はキリシタンと疑われ処刑される
     1858(安政05)春/年中行事の絵踏行事が日米修好通商条約の締結によって廃止される
     踏絵板は長崎奉行所の蔵に収められる
  幕府が長崎代官4代目末次平蔵に唐船造御船の建造を命じる
     この頃、鎖国政策により外洋航行が可能な船は皆無
     1670(寛文10)03/中大串安左衛門ほか船大工たちが唐船造御船を竣工
     唐船造御船は凌波甲板を備えた長さ30米、実質1500石積程度の船
     1673(寛文13)01/25志州安乗沖で海難により沈没
     1673(寛文13)02/頃幕命を受け改良型の2艘目を建造
  日見、小賀(こが)、茂木、千じ(ちじ)、大崎、樺島の6か村を長崎代官の支配下に置く
  西浜町の786坪との牢屋敷93坪が埋立てられる
  長崎の家数9341、人口4万0558(男2万1164・女1万9394)
  唐船38隻、蘭船5隻が入港

1669(寛文09)頃

  ビードロの製造がはじまる

1670(寛文10)【霊元】 庚戌(かのえいぬ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》河野権右兵衛(09/着)、松平甚三郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》フランソワ・ド・ハーズ(←11/02→)マルティヌス・カエサル

  03/中幕府が長崎代官4代目末次平蔵に命じ船大工たちに建造させた唐船造御船が竣工
     唐船模造船は凌波甲板を備えた長さ30米、実質1500石積程度の船
     03/25島谷市左衛門が唐船模造船を航して長崎を出発
     04/10江戸に着く
     1673(寛文13)01/25志州安乗沖で海難により沈没
     02/頃幕命を受け改良型の2艘目を建造
  紀州みかん船船員が江戸の南方、母島に漂着し奇跡的に生還
     「八丈島はるか南方洋上に無人島群あり」と驚くべき発見を幕府に報告
     1674(延宝02)新造の唐船御船の船頭嶋谷市左衛門に無人島調査を密命
     1675(延宝03)06/22《閏04/29》苦難の末、無人島を発見、父島湊内に錨をおろす
     翌日調査を開始。父島・母島に神社を建立、日本領土明示の標柱を建てる
  西玄甫が医業を開き西流外科を興す
     1673(延宝01)西玄甫は幕医に召される
  唐船36隻、蘭船6隻が入港

1670(寛文10)頃

  トマトが長崎に伝来
     唐柿(ヨーロッパから中国経由で伝来)とも蕃柿(南方から渡来)とも呼ばれ
     赤茄子(なす)、蕃茄、オランダ茄子(なすび)とも呼ばれる
  総町66町(内町23町・外町43町)
     (内町)島原町・大村町・外浦町・平戸町・江戸町・下町・築町・本博多町・新町・引地町・堀町・金屋町・
     今町・樺島町・本五島町・浦五島町・本興善町・後興善町・豊後町・桜町・内中町・小川町・船津町
     (外町)船大工町・本石灰町・本籠町・油屋町・今石灰町・濱町・榎津町・材木町・酒屋町・古川町・本紺屋町・
     袋町・本鍛冶屋町・今鍛冶屋町・今籠町・銀屋町・磨屋町・諏方町・毛皮屋町・麹屋町・本紙屋町・新紙屋町・
     新高麗町・新大工町・本大工町・魚ノ町・今紺屋町・桶屋町・古町・今博多町・大井手町町・勝山町・馬町・
     炉粕町・八百屋町・東中町・西中町・恵美酒町・上町・筑後町・丸山町・寄合町・出島町

1671(寛文11)【霊元】 辛亥(かのとい)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》松平甚三郎(05/普請奉行転出)、牛込忠左衛門(勝登・前目付・05/06発令・09/着)、河野権右兵衛(10/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》マルティヌス・カエサル(←10/21)(10/22→)ヨハネス・カンファイス

  06/26《05/20》崇福寺中興開山の唐僧即非如一が死去。師隠元に先立ち56歳で示寂
     翌日正午、遺言により崇福寺後山で当時は珍しかった荼毘(火葬)に付される
     火葬に付した場所を和尚闇維處(じゃいしょ)という。闇維とは僧侶を火葬にすること
  09/18長崎村伊良林郷博労町より出火
  09/奉行牛込忠左衛門は就任と同時に奉行所の分離建設を幕府に申請する
     東西奉行所が同じ屋敷内に隣接しているのは、火災の場合、同時に焼失する恐れがあるとして分離建設を申し出る
     12/許可を得る
     1673(延宝01)立山屋敷(立山役所)が竣工する
     大目付井上筑後守が長崎に下向したときに使用した立山の屋敷跡に奉行所を竣工。旧サンタマリア教会の地
     外浦町の東屋敷(東役所)を立山に移す。外浦町の旧役所を西役所と称する
  観善寺が上筑後町の現在地に移建
  恵美須町の370.6坪が埋立てられる
  長崎の家数9341(家持3435・借家5906)、人口3万9208)
  唐船38隻、蘭船7隻が入港

1672(寛文12)【霊元】 壬子(みずのえね)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》河野権右兵衛(03/鑓奉行転出)、岡野孫九郎(貞明・前使番・03/30発令・08/着)、牛込忠左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》ヨハネス・カンファイス(←11/12)(11/13→)マルティヌス・カエサル

  02/銀屋町の青貝屋善右衛門の弟、善七が丸山町の青木藤左衛門抱えの遊女高尾を惨殺。善七はその場で自殺
     奉行は善七の母がまだ存命中であるのに不孝、不義であるとし
     見せしめのため梟首の刑にし丸山入口に3日の晒しを申し渡す
  閏06/17ヨゼフ・キヤラ神父が宗門改役御用人となり十人扶持が与えられる
     ヨゼフ・キヤラ神父は、イエズス会士第2陣として来日した4人のうちの1人で長崎から江戸小日向の山屋敷に収容される
     山屋敷で全国から送られてくる宗門具や宗門書などの見聞に当たる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  秋/長崎奉行牛込忠左衛門勝登が丸馬場の安禅寺二代院主玄海と計り寺の整備を行なう
     御宮・御霊殿・二王門・鐘楼・本堂・庫裡・僧房・浴室・僧厨に至るまで総てが完備
     1681(天和01)東叡山より厳有院(四代将軍家綱)の位牌を賜る
     これを機に、以後、免租朱印地に準じ歴代将軍の位牌を安置することとなる
  11/幕府が貿易を強化し相対貿易から市法売買法に変更
     市法売買法…市法会所が輸入品を評価した価格で買い入れ国内の商人に売る
      利益は幕府や長崎の町民や関係した商人に分配
      自由貿易から再び官営貿易・統制貿易に戻ったことに
      ただ、貿易額の制限ができず、額が年を追って増加することに
     輸入品はすべて入札で値段を決めることに
     売り手の外国人(オランダ人、中国人)には不利な安値であり、長崎商人が暴利を得る
     安値に対して外国人は商品の量を増やし長崎商人の支払いは増える一方に
     1685(貞享02)秋再び糸割符制度を復活させる。定高貿易法となる
     幕府が金銀流出の問題から長崎貿易の貿易仕法を再検討。初めて貿易額の制限を実施
     御定高商売法が制定され1年間の貿易額を制限する
     唐船銀6千貫目(金10万両)、オランダ船銀3千貫目(金5万両)
     加えて生糸の輸入額を制限。唐…総輸入額の4分の1に、蘭…3分の1に
     生糸は糸割符制、その他の商品は相対貿易となる
     しかし激増する唐船の要求を到底満たすことができない
  12/博多屋清右衛門らの世話で西浜町と東築町の間の木橋を架け替え、豊後橋を長久橋と改称
     1682(天和02)03/24〜26夜来の大雨で家、水車、長久橋が流失。船大工町が崖崩れで死者2人、小川町も家屋が浸水
     1804(文化01)05/13大雨洪水で西浜町と東築町の間の長久橋が流出。家屋の流出も多数
     1805(文化02)再び架かる
     1860(万延01)04/08大雨出水で長久橋が流れ、流家2戸
     1885(明治18)港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事で姿を消す
  寛文の大火の再建にあたり都市計画を施行し町を細分化
     市街の区画を整理。各町本通り筋4間(7.2米)、脇通り筋3間(5.4米)、溝幅1尺5寸(約45糎)に
  奉行所は貿易差銀分配のことから、大町13町を分割して27町に
     内町26と外町51で77町に。丸山、寄合、出島を合わせると外町54で総計80町となる
     箇所数設定[内町(26町)971箇所・外町(54町)2787箇所]により、ほぼ一段落
     家数9293(家持3364・借家6522)、人口4万0025(男2万0722・女1万9293)、石橋29、板橋6、土橋2
     ※内町26(奉行が支配)
      島原町、大村町、外浦町、平戸町、江戸町、本下町(旧・内下町)、今下町(旧・内下町)、樺島町、
      東築町(旧・築町)、西築町(旧・築町)、本博多町、新町、堀町、本興善町、後興善町(旧・後興善町)、
      新興善町(旧・後興善町)、引地町、金屋町、今町、本五島町、浦五島町、豊後町、桜町、内中町、
      小川町、船津町(俗・内船津町)
     ※外町51(代官が支配)
      材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町、今魚町、本大工町、今紺屋町(俗・染紺屋町、旧・今紺屋町)、
      中紺屋町(旧・今紺屋町)、桶屋町、古町、今博多町(俗・あめがた町)、大井手町、新大工町(旧・新大工町)、
      出来大工町(旧・新大工町)、新高麗町(後・伊勢町)、新紙屋町(後・八幡町)、本紙屋町、麹屋町、新橋町、
      諏訪町、磨屋町、銀屋町(俗・シロカネ町)、本古川町(旧・古川町)、東古川町(旧・古川町)、
      西古川町(旧・古川町)、榎津町、本鍛冶屋町(後・萬屋町)、西濱町(旧・濱ノ町)、東濱町(旧・濱ノ町)、
      今鍛冶屋町(旧・今鍛冶屋町)、出来鍛冶屋町(旧・今鍛冶屋町)、今籠町(俗・大音寺籠町)、
      本籠町(俗・十善寺籠町)、今石灰町(俗・祇園石灰町)、新石灰町、油屋町、本石灰町、船大工町、
      北馬町(旧・馬町)、南馬町(旧・馬町)、勝山町、炉粕町(俗・宮前町)、八百屋町、東上町(旧・上町)、
      西上町(旧・上町)、東中町、西中町、上筑後町(旧・筑後町)、下筑後町(旧・筑後町)、
      恵美酒町(旧・恵美酒町)、大黒町(旧・恵美酒町)
     [旧=旧町が分離、俗=俗称、後=1678(延宝06)本鍛冶屋萬屋、1680(延宝08)新高麗伊勢、新紙屋八幡]
     1699(元禄12)07/04内町26町・外町54町の区別を廃止し、長崎80町すべでが長崎奉行の支配下になる
  町割の背景として宮日の奉納の配分も前提に
     開港以来、大町、小町など町が増え、小町は踊町として経済的な負担も大きく不平等観もあり是正するため
     市街77町となり諏方神事の踊り町も1年11か町7年回りと改められる
     丸山・寄合両町は従来通り毎年奉納、出島町はなし
  奉行所訓令
     遊女屋は日本人ならば当座に揚銭をとり、異国人ならば1か月までは相対(交渉)で決めること
     唐人は船主、財副など上級船員の支払いがよいが、下級船員、特に漕者などの揚代支払はとかく渋滞が多い
  三ノ堀が涸水がちで埋められる
  1655(明暦01)に来崎した慈岳が福済寺2代住持となる
  崇福寺の三門が創建される
     1677(延宝05)大雄宝殿安置の十八羅漢が完成する。江西省南昌府豊城県の仏師潤陽ほか2人の作
     十八羅漢は他の唐3福寺にはなく、長崎では崇福寺のみ
  稲荷神社が現在地に移り金剛院如意輪寺となる
     1868(明治01)大崎神社になる
  儒者の南部草寿が京都より長崎にきて塾を開く
     西川如見が入塾し宋学を学ぶ
  福建省福州府の鉅鹿家の始祖、魏之●(えん・王へんに炎)(魏九官、魏爾潜)らが帰化
     子の高は鉅鹿清左衛門、貴は鉅鹿清兵衛、下僕の喜は魏五右衛門に
  大村町の銀座屋敷が廃止となる。良質銀の海外流出を監視し銀座屋敷は偽造銀を取り調べるところ
  対馬21代藩主宗義真が大船越瀬戸の運河を開かせる
     開削には延べ3万5千人が従事
     のち拡張され最終的に長さ242米、幅49米に
     1900(明治33)対馬の浅茅湾内竹敷港に基地を置く海軍が東海岸に派遣する艦艇の水路として万関瀬戸を開削
     延長約500米、幅員約25米、水深約マイナス3米
     1975(昭和50)03/幅員40米、水深マイナス4.5米、700D/W瓲級の貨物船が航行可能な航路に広がる
  引地町の104坪が埋立てられる
  雲仙の湯元旅館2代目の加藤小左衛門が湯守役に任ぜられる
     山留役として乙名を兼ねた役目につき雲仙一帯を管理
     1695(元禄08)湯元が藩の管下を離れて個人経営となる
     九州鎮護の守り神、雲仙神社と満明寺に参詣する諸大名の陣屋「湯守の宿」として創業
     共同浴場・延暦湯の経営も兼ねる
  長崎の家数9293(家持3364・借家6522)、人口4万0025(男2万0722・女1万9293)
     1681(元和01)家数1万1065(家持3697・借家7366)、人口5万2702(男2万7798・女2万4904)
  唐船43隻、蘭船7隻が入港

1672(寛文12)頃

  八幡町から東濱町に流れるししとき川(猪解川・鹿磨川)がつくられる
     旧新橋町を毛皮屋町といい、猪などを解体していたことが所以か?

寛文年間(1661〜1673)

  岩原川の船津町〜恵美酒町に木橋の新橋が架かる
     1673(寛文13・延宝01)頃中島川の新橋町〜本大工町に東新橋が架かり本新橋となる
     1717(享保02)石橋に架け替える
     1915(大正04)鉄筋コンクリート石橋となる
     1954(昭和29)08/架け替え、船津橋となる

1673(寛文13、延宝01・09/21)【霊元】 癸丑(みずのとうし)

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