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〈江戸時代(18)〉

1864(文久04、元治01・02/20)【孝明】 甲子(きのえね)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》大久保豊後守(06/17退任)、大村丹後守(09/21依願免)、
      朝比奈甲斐守(昌広・歩兵頭・10/11発令・長崎在勤せず)、服部長門守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知

  初/英人ジャールズ・サットンが大浦4番地の裏通りを通行中、侍に背後から刀で襲われ左腕と頚椎後部に深傷を負う
     のち左腕の切断手術を受け九死に一生を得る。攘夷論が生んだ最初の犠牲者の1人
     日本側は犯人の特定は難し…と発表。英国政府は不服とし両国間に緊張が走る
     サットンは回復し大浦47番地に事務所を構え荷役と元請業を生業に
     1877(明治10)01/31英字新聞「ライジング・サン&ナガサキ・エクスプレス」社の経営者に
     1892(明治25)04/18乗馬中、頭痛に襲われ帰宅。脳出血と判明
     04/19朝、意識不明に。英、米、露、独、各国出身の混成医師団による治療が開始
     04/2852才で死去。遺体は坂本国際墓地208、209番に埋葬される
  01/21国学者の中島弘足(72)が没する
  01/立神の造船工場が立神造船所と改称しオランダから器械類を購入
  01/江戸町の洋学所仮校舎が大村町に落成開校した新校舎に移転。語学所と改称
     魯、英、仏の3か国語が修められることに
     1865(慶応01)08/新町の長州屋敷跡に新築校舎を竣工移転、済美館と改称
     学則を改め英、仏、露、清、蘭の語学以外に歴史、地理、数学、物理、経済の教授を開始
     これまで洋学書の取締方は運上所において執行されたが、以後、済美館で行なうことに
  02/長崎奉行服部長門守は隠売女の禁制、名付遊女の禁制を厳達、併せて町芸者の風紀紊乱を戒める
  02/諸役所の休日の3日、14日、25日を1日、15日、25日に改める
  02/重ねて密売春禁止の令を公布する
     1866(慶応02)12/重ねて売女の禁を布達
  03/16《02/09》幕府が軍艦奉行の勝海舟を外国軍艦による下関攻撃の延期交渉を命じ長崎に派遣
     勝は坂本龍馬を伴って神戸を出帆後、佐賀関に着。陸路九州を横断
     03/30《02/23》長崎入り。勝は各国の領事や艦長と交渉し延期に成功
     05/09《04/04》勝が長崎を発つ
  03/長崎奉行が一般人から250人(砲隊、平士隊で編成)を募り警衛隊を組織
     幕末の動乱で各地から牢人が入り込み治安が悪化
     市中警備と外国人保護のため警衛隊を組織。主として唐人屋敷前と浜町付近に勤番する
     警衛隊の他、町年寄久松寛三郎が組織した小銃隊や槍鉄砲組など地役人とその子弟による組織も警備にあたる
  03/諏方社が神事町に諸費節減を令する
  04/ヨーロッパに派遣留学した長州五傑のうち井上聞多と伊藤俊輔が日本からの下関事件の報道に帰国する
     のち薩摩藩からの密航留学生たちの存在を知り、交遊
     1866(慶応02)遠藤謹助が帰国する
  05/大村にてお触れがでる
     落牛馬の皮剥は武具、馬具のみならず稽古道具のためにも必要であり下賤の者までわきまえて皮剥を行なうよう
  07/08《06/05》新撰組が京都三条木屋町の旅館池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃
     新撰組は京都守護職配下の治安維持組織
  08/20《07/19》長州兵が京都で幕府軍に敗れる。禁門の変、蛤御門の変、元治の変、元治甲子の変とも
  07/前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国が長州に対する懲戒的報復措置をとると決定
     仏 蘭 米の3国に参加を呼びかけて艦船17隻で連合艦隊を編成
     08/05〜07英、米、仏、蘭4国連合艦隊が長州藩の馬関と彦島の砲台を徹底的に砲撃。各国陸戦隊が占領、破壊する
     下関事件(下関戦争、馬関戦争、4国艦隊下関砲撃事件)
     連合軍兵士約2千人、軍艦17隻対して長州藩士約1500人、軍艦6隻。損害は死傷者連合軍62人に対して長州藩47人
     08/14長州藩が4国艦隊と講和5条件を結ぶ【08/18?】
     ○下関海峡の外国船の通航の自由
     ○石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し
     ○悪天候時の船員の下関上陸の許可
     ○下関砲台の撤去
     ○賠償金300万ドルの支払い
  08/19長州屋敷を没収
     09/19家屋をこわす
  08/幕府が奉行の大村丹後守に長崎を警備させる
  08/大隈重信が鍋島藩代品方用務のため来崎
     大隈重信(八太郎)は父信保が長崎砲台長であったこともあり早くから長崎に憧れる
     20代半ばにして長崎留学を命じられフルベッキに英語、ウイリアムスに数学を習う。特にフルベッキの影響を強く受ける
     のち以後、しばしば長崎と兵庫の間を往来する
  「長崎くんち」が長州征伐のため翌年春に延期
  09/21大村丹後守純熈の総奉行を廃止にする
     1865(慶応01)05/01長崎奉行並を置き、奉行の事務を代行させる
  12/10諫早で斃牛馬の皮処理について穢多の支配をはずす
  12/29《12/01》フューレ神父の設計、天草出身の大工・小山秀之進の施工で大浦天主堂が竣工する
     1862(文久02)の日仏条約を受け南山手のフランス人居留民のため建設していた教会が完成
     フランス人フューレ神父が設計し建築が開始、志を継いだプチジャン神父が完成させる
     1865・02/19(元治02・01/24)江戸から駆けつけたジラール日本教区長により大浦天主堂の献堂式を行なう
     「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名
     八角形の尖塔を頂き漆喰を格子状に盛り上げたナマコ壁の外壁やバラ窓、3つの尖頭の金色の十字架などを持つゴシック様式
  第3次外国人居留地造成工事が着工
     大浦居留地の海岸築き出しは前面水域を5間築き出し従来の工事を補強し、海岸道路(バンド)の拡幅をはかる
     梅香崎地先の埋立ては、長崎の町に接する格好の場所で、構想では最初にありながら唐船修理場があり最後にまわされる
     年末/造成工事が完成
     大浦居留場海岸築出し1千坪と梅香崎4千坪を埋立てる。いずれも入札による請け負い
     3次にわたる海岸埋築で居留地造成は終了
  長崎芸子の風儀が悪化し芸者風儀取り締まりの訓令がでる
     1868(明治01)03/町芸者停止の達書が発せられる
  諏方社が再建に着手。本社拝殿は長崎会所が負担
     1869(明治02)09/孝明天皇の勅諚により、以前にも勝る諏訪社の諸殿の工事成る。竣工奉告祭を挙行
     工師は尾張の水野正明。すべてひのき材を用いて建造するが、能舞台は再建されず
  出島旧水門の南側がほぼ正方形に186坪理立て。貿易品の荷改所が設置
     1867(慶応03)06/出島の南側を長さ129間余、幅平均で4間(518坪)、
     荷改所南東側の12間四方(144坪)をそれぞれ埋め立てる
     外国人が乗馬を楽しむ遊歩場と、Uターンの馬返し(馬廻し)とした
  グラバーが艦船や武器の取引、不動産、地金取引、金融代理店的な仕事もはじめる
     のち若い武士たちに銃や艦船などの機械類を大量に販売。茶、絹、銀など、各地方の特産物を輸出
     日本での主な取引相手は倒幕を画策する西南諸藩で維新前の政治情勢に深くかかわる
     のち上海や横浜に支店をおく
     1867(慶応03)淡路屋ツルと結婚
  朝廷は禁門の変で京都御所へ向かっての発砲を理由に長州藩を朝敵とし、幕府に対して長州征討の勅命を下す。第1次長州征伐
     1866(慶応02)06/07幕府軍艦が長州藩領の周防大島郡を砲撃。第2次長州征伐の戦闘がはじまる
     08/幕府小倉藩が全面敗北し長州征伐が停止する
     09/02慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣、井上馨が宮島で会談し、停戦合意が成立する
     1867(慶応03)01/ようやく両藩の和約が成立する
  フレディック・リンガーがトーマス・グラバーの招請により来崎。グラバー商会に製茶及び輸出の監督として入社
     1868(明治01)11/グラバー商会の暖簾分けとして同僚のE・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を開設
     場所は大浦12番地、弁天橋北側筋向かいのち大浦7番地に移転
     まもなくホームは英国へ帰国、グラバー商会が倒産
     のちリンガーはグラバーに代わって長崎での外国貿易の第1人者に
     事業は広範にわたり製茶業、捕鯨を含む漁業、世界数十社の保険海運会社の代理業
     対外貿易として欧米から機械、造船材料、鉄板、板ガラス、オレゴン松材、毛織物、洋酒などを輸入
     夏季には函館より天然氷を取り寄せ好評を博す
     蒸気洗濯所、製革工場、新聞、ガス会社、麦粉工場、ホテル業など長崎の経済に貢献、地元の商社近代化に影響
     1907(明治40)リンガーがノーフォークへ帰途の際、死亡。子供や孫がホーム・リンガー商会を引き継ぐ
     1940(昭和15)長男F・E・E・リンガーが南山手の自宅で病没
     1940(昭和15)10/ホーム・リンガー商会が閉鎖
  箱館奉行小出秀実が旧奉行所から五稜郭内の箱館御役所に移転、業務を開始
     五稜郭はフランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭。天守閣を備えた城郭は持たない
     当初は開港による外国の脅威を念頭に、より多くの堀や城累の設置が検討された
     1866(慶応02)すべての工事が終了
  長崎総輸入額204万5397ドル。横浜564万6490ドル
  長崎港艦船輸入数9、横浜1

1865(元治02、慶応01・04/07)【孝明】 乙丑(きのとうし)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》合原伊勢守(義適・前持筒頭・閏05/01奉行並発令・06/19歩兵頭転出・長崎在勤せず)、
      川勝美作守(広運・前寄合・07/10奉行並発令・07/30退任・長崎在勤せず)、
      能勢大隅守(頼之・前日光奉行・08/10発令・12/着)、
      朝比奈甲斐守(09/13外国奉行兼任)、服部長門守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知

  02/19《01/24》江戸から駆けつけたジラール日本教区長がプチチャン、ロカイン神父を従えて大浦天主堂の献堂式を行なう
     「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名
     由来は豊臣秀吉のキリシタン禁教令により処刑された日本人20人、外国人6人の殉教者たちに捧げられたことによる
     天主堂は西坂の丘に向けて建てられ、居留するフランス人のために建てられ「フランス寺」とも呼ばれる
     日本では地名をつけて呼ぶ習慣があり大浦天主堂と通称(天主堂とは、カトリックの聖堂を中国風に呼んだもの)
     祝別式ははじめ日本二十六聖人の祝日02/05の予定がジラール教区長の都合で02/19に
       入港中のフランス軍艦キエンシャン号、ロシア軍艦ワリヤーグ号、オランダ軍艦アムステルダム号、
       イギリス軍艦アルガス号の各国艦船の艦長は正装した12人ずつの儀杖を引き連れ参列
       フランス領事デューリをはじめ長崎在住の外国人や軍艦の水兵らが多数参列
       ワリヤーグ号(露)の軍楽隊がミサ中奏楽、正午にはキエンシャン号(仏)から21発の礼砲を撃つ
       時あたかもオランダ国王の誕生日にあたり碇泊中の各艦が奉賀の祝砲を打ち出し、丁度これに呼応するかのように重なる
       長崎奉行は案内状を受け取るが来ず下役を代理として参列
       賑々しさを増し長崎市民を驚かせるが、当日のフランス寺見物は厳しく禁止。姿はなかった
       日本人に対しては、なおキリシタンは御禁制の宗旨
     1862(文久02)の日仏条約を受け南山手のフランス人居留民のため建設していた教会。総工費3万フラン以上
     正面の中央に大尖塔、左右に小尖塔の3基を持つ三廊式平面の小規模ではあるが本格的な木造教会堂
     外観は古典様式(ジェスイスト様式?)とゴシック様式の混合様式
       窓や戸口を除いた建物の外壁の構成や柱形、玄関まわりは古典様式で屋根上の尖塔はまたゴシック風の木造八角塔
     のち異国風の建物に長崎の市民たちは驚き、連日見物人でにぎわう
     3つの塔の金色の十字架は長崎中から仰ぎ見られ、黒い瓦屋根の連なる町の人々の好奇の的に
     子供も老人も、男も女も、武士も町民も、お祭りにでも行くかのように、フランス寺を参拝した
     06/長崎奉行が市民の天主堂参観を禁止する
     のち大風で一部破損
     1879(明治12)ポワリエ神父の監督のもと施工拡張
     創建時の天主堂が大風により一部損壊し、また切支丹開放令以降に急増する日本人信徒による狭隆を解消するため
     ベルナルド・タデ・プチジャン司教によって祝別
     増改築を担当しのは浦上随一の大工といわれた溝口市蔵、天草の大工棟梁丸山佐吉、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉
     初代天主堂を包み込みつつ四方へ拡張し外壁を煉瓦造とする大規模な増改築を行なう。煉瓦造平屋で525平方米
     祭壇部分の奥行きも深くし当初の2倍の大きさに拡張3本の尖塔が1本になる
     クリヤーストーリーを除き、間口を左右に1間ずつと前後もに増築され3廊が5廊に
     バロック、ギリシア様式がなくなり、外壁の木造漆喰塗りが煉瓦構造の純然なゴチック建築様式になる
     内部の木造ゴシック風の洋式は創建当初の洋式を残す
     1933(昭和08)01/23大浦天主堂が日本洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として、国宝に指定
     第2次世界大戦中多くの梵鐘が供出されるなか大浦天主堂の朝顔型の青銅製聖鐘は国宝のため供出が免れる
     1945(昭和20)08/09原爆により屋根、正面大門扉、ステンドグラス、その他の部分に甚大な被害を受ける
     1951(昭和26)修理工事が始まる
     1952(昭和27)06/30国庫補助を受け修復工事が完了修復される
     1953(昭和28)03/31改めて国宝に再指定される
     1966(昭和41)02/01国宝大浦天主堂礼拝堂が拝観料を取り一般に公開される
     大人20円、中高校生15円、小学生と子供10円、30人以上の団体は各5円引き
  03/17《02/20》12時30分頃。門扉に人目をはばかった浦上の農民男女老幼12〜15人が大浦天主堂を訪れる
     【一説に02/12、もしかしたら旧暦新暦の違い】
     ただの好奇心できた者とは様子が違う
     プチジャン神父は急いで門を開け聖所に進んでいこうとすると見物人もあとから付いてくる
     プチジャン神父は一瞬祈ったと思うころ、40歳か50歳位の年ごろの婦人が1人、かたわらに近づき胸に手をあてて言う
     「ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます」
     プチジャン神父「本当ですか? どこの方です、あなた方は?」
     浦上のイザベリナゆり、クララてるらがプチジャン神父に近づき
     「私たちは、浦上の者です。浦上の者は皆、私たちと同じ心を持っています…サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねる
     神父が聖母子像の前に案内すると
     「サンタ・マリアさまだ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と、浦上のキリシタンたちがささやく
     1614(慶長19)の大禁教令から251年に及ぶ厳しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンが復活
     神父と日本のキリシタンの子孫との出会いを『信徒発見』と呼ぶ
     日本カトリック再建の歴史的出発点となり、信仰の強さと伝承の正確さは他国に例を見ず世界宗教史の上でも注目される
     …クリスマス、キリストの死、祈りの言葉、洗礼、教会暦、マリア像、十字架など…
     このとき浦上だけでも潜伏切支丹は3千数100人にのぼる
     翌日プチジャン神父がジラール日本大牧長に信徒発見の驚きを書簡で送る
     のち長崎郊外の神ノ島、蔭ノ尾島、高島、伊王島、大山から外海にかけて、続々と切支丹が発見、長崎各地で5万人に
     のち厳しい禁制が続くなか、秘密裏に信徒と神父の交流は続く
     のち神ノ島、伊王島、外海町、五島、平戸、佐賀の馬渡島、黒島などに布教が再開
  03/19渡御。「長崎くんち」が前年の踊町で奉納09/15還御
     (3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、今鍛冶屋町、
     今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  03/諏方神事奉納踊りで舞妓を裸体にすることを禁止する
     長坂に市中の壮年者が集合、なかには無宿無頼の者もいて、舞踊をけなしたり、舞妓の裸体を強要
     神事町総てその旨に従う慣習であり、ますます増長。無理難題をいい当局も断固取り締まることに
     「仕来たりなどと唱え、そのような所行に及んだ者は用捨なく召し捕るから左様心得よ」と布告
     09/05重ねて布告、効果てきめんに
  03/高杉晋作(27)が伊藤俊輔(博文)を洋行という名目で2度目の来崎
     グラバーと英国領事のラウダに海外渡航を相談、グラバーらは高杉の海外渡航に反対する
     幕府の第2次長州征伐に備え戦力を蓄えるため下関を開港しイギリスと貿易を行なうよう強調
     高杉は説得を聞き入れ下関に帰る
     1866(慶応02)3度目の来崎。目的は薩長同盟に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ
  医学所の学制をオランダ学則に準じ改め、理化学・解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内科・外科の7科をおく
     04/上養生所が精得館と改称。医学所(医学伝習所)は付属機関に
     1868(明治01)11/長崎府医学校、長崎府病院と改称
     1868(明治01)改革により一般患者も治療ができるようになる
     1869(明治02)07/09長崎県病院医学校に改称
     1871(明治04)11/14長崎県病院を文部省管轄とし、長崎医学校と改称
     1872(明治05)08/18第六大学区医学校と改称
     1873(明治06)04/10第五大学区医学校と改める
     1874(明治07)10/12征台の役に当たり長崎病院を公兵員病院にするため長崎医学校を廃止
     学生は東京医学校に転学
     1874(明治07)11/01長崎県病院は蕃地事務局(兵員)病院と改称
     1888(明治21)03/31県立長崎医学校が廃止となり、校舎・敷地を第五高等中学医学部に移管
     1888(明治21)04/10第五高等中学医学部に九州各地区の元医学生徒369人を入学させ、仮開校式を挙行
     1892(明治25)03/07第五高等中学医学部の新校舎の一部が西彼杵群浦上山里村の敷地1万7822坪に完成
  04/14第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカーンが狙撃される
     フォード劇場で「Our American Cousin」(われらのアメリカのいとこ)を観劇中
     妻メアリー・トッド、従者フォーブスとラスボーン少佐、少佐のフィアンセのクララと観劇
     北軍メリーランド州出身のジョン・ウィルクス・ブースに1.2米の至近距離から拳銃で後頭部左耳後5糎を1発撃たれる
     狙撃時刻は午後10時13分【午後11時17分?】
     04/15午前7時21分、向かいの民宿、ピーターセンハウスにて死亡が宣告される
  04/04大村で池田乱民の変が起こる
     周辺住民500人が部落焼き竹槍及び梏(てかせ)を以て男女十余人を殴殺する
     1866(慶応02)12/07《1867・01/12》池田の変で処罰
     「客歳屠児を殺せる池田の乱民を或いは獄に繋ぎ、或いは徒刑に処す。各々差あり」
  04/上日本初の西洋式病院小島養生所が精得館と改称
  04/12《03/17》午後、唐津の材木町年寄の平松儀右衛門が長崎見物にやってくる
     ちょうど、グラバーが大浦海岸通りで走らせていた、蒸気機関車「アイアン・デューク号」に出くわす
     平松は、その様子を「道中日記」に記す(以下、大意)
     「……陸蒸気船(蒸気機関車)の見物人で混雑する中を押し分けて大浦に到着した。陸蒸気船の仕掛けを見
     ると、三寸(約九センチ)くらいの太さの鉄の棒(線路)が長さ三百間(約五四〇メートル)続いており、
     およそ一間(約一・八メートル)置きに板を敷いている。この鉄の棒に船(蒸気機関車)の車をかみ合せる
     ようである。長さ一間半(約二・七メートル)あまりの蒸気のための船に、異国人五、六人と帯刀の役人二、
     三人が背を合わせて乗りこんでいた。蒸気の勢いで走る速さは、人間の足では、とても及ばない……」
  04/17《03/22》グラバーが海外渡航の国禁を犯し持ち船のオホスタライエン号で薩摩藩士19人を密かに英国に留学させる
     出港場所は串木野の羽島浦、19人のうち4人は外交使節、15人は留学目的
     新納久脩、町田久成、寺島宗則、五代友厚、村橋久成、畠山義成、名越時成、鮫島尚信、朝倉盛明、吉田清成、
     中村博愛、高見弥一、市来和彦、東郷愛之進、森有礼、町田申四郎、町田清蔵、磯長彦輔、堀孝之
     のちヨーロッパに留学した長州五傑のうち井上聞多と伊藤俊輔を除く遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)らと交遊
  05/01長崎奉行並を置き、奉行の事務を代行させる
     1866(慶応02)03/在勤2人となる
  05/初夏のころに行なわれる、子どもたちの陸(おか)ペーロン競争を禁止する
     長い竹をペーロン舟に見立て小旗をつくり、鉦を鳴らして市街をまわり競争する風習。勝者は敗者の紙旗を奪う
     勝敗について子どものケンカに大人が口をだし、町内同志のケンカに発展
  05/頃グラバーが上海展覧会出展中の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を輸入
     2両の客車を引いて大浦の海岸通り600米の区間を走らせる。燃料は長崎港外高島の石炭を使用
     機関車の「アイアン・デューク(公爵)号」の由来は
     1830(天保03)09/13、イギリスのリバプール・マンチェスター間に鉄道が開通したとき臨場した有名なウェリントン公
     グラバーは同公にちなみ「公爵」となづける
     ○機関車に同乗した小島町の海運業、松島長太郎の談話
     「機関車というものに初めて乗ってみた。走り出したときはほんとうにびっくりした。
     短い時間だったが、夢見心地だった。試運転が何回か繰り返された。
     毎日近郊近在から見物人が押しかけて、海岸通は黒山の人だかり。みんな“アレヨ、アレヨ”と驚いていた」
     ○長崎の古老・吉田義徳の手記
     「拙者、幼少の時大浦海岸において陸蒸気を運転すると聞及び、直ちにその場所に走り行き見物。
     現今の税関前辺り上り松が枝橋辺りの中間を運転し或いは停留しおる時、
     間近く立寄り居る際何人(なにびと)か後方より我を抱き乗せたる者あり、其時朋友新年なるものも乗り居たり」
     ○ロンドンで発行された「鉄道タイムス」(7/22付)の94行3列組みの紙面にわずか4行の記事が載る
     「ジャパン―炭水車付機関車の鉄道が長崎のバンドで運転中。日本人の関心を大きくそそり、遠近を問わず見物にやってくる」
     のち機関車は大阪へ運び、川口の外国人居留地付近の松島辺りで同じるレールを敷いて公開運転を行なう
     のちさらに横浜に送られ3たび公衆に観覧させる
     のちアイアン・デューク号が上海に戻る
  閏05/坂本龍馬が伊良林の亀山に「社中」(軍事的・政治的かつ商業的組織)をつくる
     亀山社中のはじまり
     薩摩藩に藩所有の汽船を任された坂本龍馬が同士と商社を設立。通商航海業をはじめる
     亀山社中…
     1864(元治01)05/に発足した幕府の直轄施設の神戸海軍操練所の生徒の一部と坂本龍馬を筆頭とする一団が母体
     神戸海軍操練所の解散をきっかけに亀山の地で結成
     1867(慶応03)07/上土佐藩は「亀山社中」を「海援隊」(隊長坂本龍馬)と称し、藩の付属に
     坂本龍馬は海援隊長としての活躍がはじまる。外国を視野に入れた回路が形成される
     1858(慶応04)04/27「海援隊」解散。同時に「土佐商会」も閉鎖
  06/13朝、酒屋町の医師道朔宅より出火
      酒屋町・道朔押込20日
  06/木橋の弁天橋が架かる
  06/プチジャン神父がひそかに浦上や五島などに布教を兼ねて隠れた信徒の発見に努める
  07/21長州藩士の井上馨伊藤博文がひそかに来崎
     坂本龍馬の社中や薩摩藩の斡旋によりグラバー商会から小銃や汽船を購入
     07/28井上と伊藤が鹿児島を訪問する
     08/26下関に帰る。運送は亀山社中と薩摩藩が協力
  08/本木昌造が長崎製鉄所の経営困難につき改革意見を提出する
  08/大村町の語学所が新町の長州屋敷跡に新築校舎を竣工移転。済美館と改称
     学則を改め英、仏、露、清、蘭の語学以外に歴史、地理、数学、物理、経済の教授を開始
     これまで洋学書の取締方は運上所において執行されたが、以後、済美館で行なうことに
     1868(慶応04)04/08立山役所跡に移転、長崎府の管轄となり広運館と改称
  09/01夜、獄内より出火。吟味所と牢番長屋を焼失
  09/11前年、ビクトリア号が暴風で遭難し沈没した事件で、八丈島に漂着した乗務員が汽船長崎丸で長崎に帰着する
  09/15橘周太が橘家12代橘季憐(すえやす)通称甚右衛門の次男として肥前国南高来郡千々石村小倉名に生まれる
    ※1875(明治08)11/叔父が長崎の副戸長の役目に就き、長崎の勝山小学校に入学(11歳)
    ※1877(明治10)10/長崎中学校に進学。このとき西南の役が勃発(13歳)
    ※1879(明治12)12/中学校の学期末試験終了、後陸軍幼年学校入校を父に申し出て単身上京
     叔父本多潤の家に寄寓(15歳)
     1880(明治13)05/私塾二松学舎で漢学を、他の私塾で英語、数学を学ぶ
     1881(明治14)05/陸軍士官学校試験に合格し陸軍幼年生徒となる
     1884(明治17)09/01陸軍士官生徒を命じられる
     1887(明治20)07/22陸軍士官学校歩兵科卒業後、陸軍歩兵少尉に任命され、青森に赴任、歩兵第5連隊小隊長
     1889(明治22)01/15近衛第3中隊付小隊長
     1891(明治24)01/24東宮侍従武官に
     1892(明治25)01/15郷里千々石の城代保蔵の三女エキ子と結婚(28歳)
     1892(明治25)04/19少尉から歩兵中尉に進級
     1893(明治26)05/28嫡男一郎左衛門出生
     1895(明治28)07/09陸軍歩兵大尉
     1895(明治28)08/01清に宣戦布告
     1896(明治29)03/12台湾守備隊に転属
     1896(明治29)09/11近衛歩兵第4連隊付を命じられる
     1896(明治29)11/05越前の歩兵第36連帯中隊長
     1897(明治30)05/28戸山学校教官兼教育大隊中隊長に
     戸山学校は1874(明治07)創設された日本最古の術科教育学校
     1902(明治35)04/0138歳で陸軍歩兵少佐となり、名古屋陸軍地方幼年学校長を命じられる
     1904(明治37)02/09ロシアが日本に宣戦布告し、日本も翌日宣戦布告
    ※1904(明治37)03/06第2軍(司令官:奥大将)動員の際、橘少佐は軍管理部長として出征
     1904(明治37)04/21午後4時広島出航
     1904(明治37)05/09遼東半島上陸
     1904(明治37)08/11静岡歩兵第34聯隊大隊長に
     1904(明治37)08/24前進命令
    ※1904(明治37)08/30午前2時30分、宿営地出発。首山堡南方高地山頂めざし突撃を繰り返す
     遼陽付近で日露両軍主力が初めて激突した「遼陽会戦」で、第2軍は首山堡を攻撃
     ロシア軍の激しい抵抗により攻撃は進展せず、悲惨な戦況を現出
     午前05時30分、遼陽街道の峠から3〜400米の高地山頂に日章旗が掲げられる
    ※1904(明治37)08/31午後06時30分頃、首山堡の攻撃中に敵の逆襲の中、銃弾にたおれ壮烈な戦死を遂げる
     享年40歳(満38歳)
    ※のち陸軍歩兵中佐に特進。正六位に叙され、勲四等攻四級金鵄勲章、旭日小綬章を授けられる
     【以降「※」のみを記載】
  09/19英、米、仏、蘭の4国公使が条約勅許、兵庫の先期開港要求のため軍艦を率いて兵庫に来航
     10/05天皇が条約は勅許するが兵庫の先期開港は不許可に
     1867(慶応03)03/28将軍慶喜が英、仏、蘭の代表と大坂城で会見。兵庫の開港実施を約する
     05/24勅許と決定
     06/06幕府が12月7日より兵庫開港と布告
  09/「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  秋プチジャン神父が日本人学生の養成に着手
     初の神学生高木仙右衛門の子、敬三郎(16)と源太郎(12)
     司祭館2階の天井裏を室にしてクザン神父がラテン語や教理を教え神学生としての教育をする
  10/21広馬場町の仮設事務所のアメリカ領事館を南山手乙5番地に設置。初代領事はジョン・フォウルス
  10/中江兆民が土佐藩から「英学修行」を命じられ、公費留学生として長崎へ向け出発
     のち長崎では済美館に入学。学頭の平井義十郎に師事しフランス語を学ぶ
  12/30本石灰町の夘三太宅脇の細工小屋より失火
      本石灰町・夘三太押込20日
  12/八幡町に芝居小屋「八幡座」を許可
  ボードインが養生所から改称した「精得館」の物理学・化学部門を独立させ、分析究理所併設
  長崎の藤瀬半兵衛がラムネを製造し「レモン水」と名づけて発売
     【炭酸飲料製造第1号とされる?】
  興福寺の本堂の大雄宝殿が暴風で大破
     1883(明治16)中国から工匠を招き本堂の大雄宝殿が再建
     中国清朝の華南系の建築様式をよく伝える
  信仰深いフランス人が大浦天主堂に朝顔型の青銅製聖鐘を寄贈する
     第二次世界大戦中多くの梵鐘が供出されるが国宝のため供出が免れる
  信徒発見を実現した浦上のキリシタンたちは4か所に秘密教会をつくる
     1868(明治01)秘密教会が破壊される
  長崎出身の写真家、内田九一が大阪で写真館を開業
     内田九一はポンペに舎密学(化学)を学び、上野彦馬に写真術を学ぶ
     1866(慶応02)横浜に移る
     1870(明治02)東京浅草で写真館を開業
     1872(明治05)明治天皇と昭憲皇太后を写す。明治天皇の写真は公式の御真影第1号
  分限帳(ぶんげんちょう)に、2人の銀細工職人がいるとが記述
     先祖は享保年間(1716〜35年)にさかのぼる
  外国人の急増に伴って浦上山里郷に村営の屠牛場が造られる
  長崎港艦船輸入数11、横浜1。小銃輸入数2万5850挺
     艦船の主な供給国はイギリス、アメリカ。イギリスは全体の6割を占める
     購入者は幕府が筆頭で全体の3分の1を占め、ついで薩摩、長州、土佐、肥前の西南雄藩
      武器のうち輸入額の最高は小銃
  長崎総輸入額187万7771ドル。横浜1327万1867ドル
  在留外国人397人。清246人、英66、米33、蘭26、仏11、独10、葡3、露2

信徒発見後

  神ノ島の西政吉、忠吉兄弟が島の潜伏キリシタンの信仰復活に尽力
     のち大浦の神父たちが秘かに神ノ島を訪れミサを行なう
  4つの秘密教会(秘密礼拝堂)が建ち居留地から宣教師が巡回するようになる
     サンタ・クララ教会堂跡川上(こうかみ・家野郷、現大橋町)
     サン・フランシスコ・ザベリオ堂跡(如己堂と平和公園の間、橋口町7番地)
     サンタ・マリア堂跡(辻町の十字架山中腹)
     サン・ヨゼフ堂跡(石神町のお告げのマリア修道会十字修道院の場所)
     それまでは浦上村山里の本原郷、中野郷、家野郷、里郷、馬込郷の5集落のうち4郷で秘かにキリシタン信仰が受け継がれる

1866(慶応02)【孝明】 丙寅(ひのえとら)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)(→07/20)、[第15代]徳川慶喜(一橋徳川家)(12/05→)
  《奉行》服部長門守(01/発・08/12勘定奉行転出)、朝比奈甲斐守(06/15外国奉行専任)、
      徳永石見守(昌新・前目付・03/07発令・08/着)、能勢大隅守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知

  01/14旧土佐藩郷士で亀山社中統率者の近藤長次郎(29)による英国密航計画が社中に露顕【01/23?】
     本博多町の小曽根別宅にて自刃。墓は晧台寺後山、墓銘の「梅花書屋氏墓」は坂本龍馬の筆
     1968(昭和43)05/墓が小曽根家墓地内に移される
  01/14高島秋帆が長崎江戸講武所砲術師範役の現職のまま69歳で病死
     墓所は江戸本郷大円寺と長崎晧台寺後山(歯髪のみ埋葬)にある
  01/20坂本龍馬が立会いのもと、長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との間で薩長同盟が締結される
  02/28幕府が長崎、神奈川、箱館に出稼ぎ、自由交易及び商人の外国船舶の購買を許す
  02/十人町の遠見番所役宅が外国人居留地に接しており不都合なこともあり移転を命じられる
  03/21高杉晋作が伊藤博文を連れて3度目の来崎。薩長同盟に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ
     またグラバーからオテントサン丸を買う
     のちオテントサン丸は丙寅(へいいん)丸と命名され、幕府を向こうにまわし活躍する
  03/出島が外国人居留地に編入される
  03/目付の徳永主税昌新が長崎奉行に任じられ、石見守と改める
  03/長崎奉行が在勤2人となる
     1868(慶応04)01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて長崎奉行河津守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     江戸へ引き揚げ、実質的に奉行職は自然消滅となり、徳川幕府の長崎奉行所は門を閉じる。長崎は無政府状態に
  04/伊勢宮前〜高麗町の石橋の高麗橋を麹屋町の池島正助が私費で架け替え
     1915(大正04)04/コンクリートで斜めに橋面を増設
  04/信徒発見の知らせを受けた休暇中のフューレ神父が急遽フランスを出発して長崎へ帰へ戻る
     だが彼は大浦天主堂にいることもなく相模国三浦郡横須賀村に建設中の製鉄所付属の聖ルカ聖堂付の司祭に
  04/中亀山社中が薩摩藩の援助で帆船ワイルウェフ号を買う
  05/29英国公使パークスが着任の途次、長崎に立ち寄り奉行の能勢大隅守と対談
     同時に仏国公使ロッシュも来航、奉行と対談する
  06/07幕府軍艦が長州藩領の周防大島郡を砲撃。第2次長州征伐の戦闘がはじまる
     08/幕府小倉藩が全面敗北し長州征伐が停止する
     09/02慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣、井上馨が宮島で会談し、停戦合意が成立する
     1867(慶応03)01/ようやく両藩の和約が成立する
  06/運上所が本格的な運上所新庁舎建設で梅香崎に移転
     1872(明治05)07/運上所が外務局から大蔵省租税寮の直轄に
  07/26開成館奉行の後藤象二郎が開成館貨殖局長崎出張所「土佐商会(長崎商会)」開設のため長崎へ
     1866(慶応02)12/23開設のため西濱町田政之助の家を3千両で買収
     1867(慶応03)02/01業務を開始。土佐藩の長崎貿易が始まる
  07/諸藩屋敷は大黒町の佐嘉屋敷を除いて全廃に
  08/04八幡町乙名で画家の木下逸雲(67)が没する。墓所は禅林寺の後山
  08/26後藤象二郎がアメリカ船で長崎から上海に渡航
     08/28上海着。グラバーに砲艦1隻を注文する
     長崎に売船がなく上海まで買いに出かける
     09/06帰崎
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
     本籠町の蛇踊りが中絶
  09/諏方社神事の神輿渡御・還御に際し奉行名代・町年寄以下の地役人は、以後供奉することをやめる
     湯立神事・流鏑馬への出席や神事能奉納も廃止する旨が奉行より布達される
  10/07夜。稲佐のマタロス休息所でロシア軍艦イズムルート号の水夫7、8人がくつろぐ
     のち10時頃、ワリヤーク号の水夫3人がきて口論となる
     イズムルート号の水夫が去り、その場はおさまる
     のちワリヤーク号の水夫が遊女の所にいると
     イズムルート号のボーシマン(水夫長)2人がきて、再び争いに
     ワリヤーク号の水夫は逃げるが、下働きの百次郎、下僕の千次郎らに乱暴を働く
     茶碗や皿を打破り、千次郎は額を割られロシア通詞諸岡栄之助に報告
     諸岡はイズムルート号の1等士官とともに現場見聞を行う
     10/08朝。イズムルート号の軍医が千次郎を診察、傷所に繃帯をし薬を与える
     まもなくボーシマン2名が詫び言を延べる
     「千次郎の養生料は勿論、器具一切の破損料はだすから内聞に」と懇願、悲しみ嘆き穏便にすますことに
  10/グラバ−商会所属の中国人李松●が長崎奉行所に願い出る
     ●=(?・「竹・たけかんむり」に「均」)
     丸山町の津国屋、遊女東路との混血児を上海に連れていくと願い出、許可される
  12/05徳川慶喜が正二位権大納言に任ぜられ、徳川15代将軍、最後の征夷大将軍となる
     1913(大正02)11/2277歳で没する
  12/07《1867・01/12》大村で1865(慶応01)04/04に起きた池田の変で処罰
     「客歳屠児を殺せる池田の乱民を或いは獄に繋ぎ、或いは徒刑に処す。各々差あり」
     池田の変は周辺住民500人が部落焼き竹槍及び梏(てかせ)を以て男女十余人を殴殺する
  12/重ねて売女の禁を布達
  12/冠婚葬祭の華美、虚飾及び贈答などの虚礼を禁じる
  12/長崎居留外国人の遊歩範囲が諸外国領事の要請で少し拡張
     それまでは1858(安政05)の5か国条約によるり遊歩範囲は「周辺の御料地のみ」で、町方支配の奉行預地だけ
     明治はじめ遊歩範囲は変わりがなく宣教師の行動は制限される
     大浦天主堂に入り込む太政官探索方の石丸八郎、山村三郎、山口礼三、有江彰信、野上二郎などが宣教師の行動を逐一報告
     1879(明治12)12/27長崎居留外国人の遊歩範囲がかなり拡張される
     1873(明治06)02/にキリスト教が解禁されたことによる
  幕府が樺太境界劃定協議の正使をロシアに派遣
     淵村大庄屋の息子志賀親朋(ちかとも)がロシア語通訳として使節団に随行
  諏方神事を質素にするよう勧告
  長崎で米が不足。物価抑制を厳に
  写真家の内田九一が大阪から横浜に移る
     1870(明治02)東京浅草で写真館を開業
  長崎を訪れた伊予松山藩士・吉田宗吉信武が出入りしていた長崎在の肥後屋敷で茶わん蒸しを賞味
     ヒントを得て商品化。万屋町に茶碗蒸し・蒸し寿しの専門店「吉宗」を開業
     蒸ずしは寛政年間に京都、大阪で始まり、次第に江戸や長崎に広まる
     のち多忙な人のため簡略化した茶碗蒸しと蒸ずしのセットが町民や旅人に歓迎され浸透
  江戸条約が結ばれ条約第11条灯明台規定により、日本最初の灯台が建造
     伊王島、野母崎など全国8か所
     1867(慶応03)港外の伊王島灯台着工
     1870(明治03)06/13港外の伊王島灯台完成、点灯開始(仮点灯)
     1871(明治04)我が国初の鉄造り六角形灯台が本点灯
  ドイツ人のヨハネス・M・ウムランドとハインリッヒ・A・ショネックが来崎
     ウムランドはジョン・ウィリアム・ウムランドに、ショネックはヘンリー・シャナガンと英語圏の名前に改名
    ※1866(慶応02)2人は共同で大浦41番地Aに「プロシャ・イーグル・ホテル」を創業
    ※のち「ゲルマニア・ホテル」と改称
    ※1881(明治14)「インペリアル(帝国)ホテル」と改称
     1881(明治14)08/05長期間病床についていたショネック(46)が肺病のため死亡
     1881(明治14)08/06ウムランド(43)が急死。原因は不明
     ショネックは大浦国際墓地36番に、ウムランドは大浦国際墓地35番に並んで埋葬
  北海道の函館に五稜郭のすべての工事が終了
     五稜郭はフランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭。天守閣を備えた城郭は持たない
     当初は開港による外国の脅威を念頭に、より多くの堀や城累の設置が検討された
     のち箱館戦争では榎本武揚率いる徳川幕府軍が入城
     城塞であるとともに榎本らが設立した「蝦夷共和国」行政府としても機能
  長崎港艦船輸入数23、横浜2。小銃輸入数2万1620挺
  長崎総輸入額369万5036ドル。横浜1454万8718ドル

1867(慶応03)【明治】 丁卯(ひのとう)

  《将軍》[第15代]徳川慶喜(一橋徳川家)(→12/09)
  《奉行》能勢大隅守(10/発・12/12罷免)、徳永石見守(10/江戸召還・12/12罷免)、
      河津伊豆守(祐邦・前勘定奉行・08/15発令・10/11着)
  《代官》高木作右衛門忠知

  01/05暁、戸町村大浦郷より出火
  01/09睦仁親王(明治天皇)が践祚
  01/坂本龍馬と後藤象二郎が榎津町の料亭精風亭で会談
  01/28《慶応02・12/23》後藤象二郎が西濱町の田村政之助宅を3千両で買収
     02/01後藤象二郎が西濱町にて「土佐商会(長崎商会)」の業務を開始。土佐藩の長崎貿易が始まる
  01/第2次長州征伐による小倉藩と長州藩の和約がようやく成立する
  01/地役人に乃武館で砲術を学ばせる
  03/28将軍慶喜が英、仏、蘭の代表と大坂城で会見。兵庫の開港実施を約する
     05/24勅許と決定
     06/06幕府が12月7日より兵庫開港と布告
  03/30午前4時、アメリカがアラスカを720万ドルでロシアから購入する条約が調印
     1エーカー=約4047平方米あたり2セント、約100億円
     04/09アメリカ合衆国上院で批准される
     国務長官ウィリアム・H・スワードは「巨大な保冷庫を購入した」とアメリカ国民に非難される
     10/18アラスカの所有権がロシアからアメリカに正式に変更
     1896(明治29)アラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明。スワードの評価が高いものに変わる
  03/長崎の出入口、浦上口(西坂)、西山口、日見口、茂木口(田上)の4か所に関所を設ける
     諸国浪人や無頼の徒の流入を取り締まるため
     島原、平戸、大村の兵をもって関所に詰めるが浪人や諸侯藩士たちから軽侮され、通行人を改めることはできず
     2年あまりで廃止
  03/炉粕町の伊太郎の請け負いで出島遊歩場の工事に着手する
     06/出島から浪之平修船場に至る海岸に外国人が乗馬を楽しめる出島遊歩場が完工
     まず荷改所の先端に12間四方(144坪)の馬回し(ユータン)の場所を突きだす
     そこを起点に出島外回りに4間幅で長さ129間余(518坪)を築きだし遊歩場を形成
     遊歩場は居留地のメインストリート大浦バンドを中心に
     北は出島から新地蔵所と梅ケ崎居留地に及び一帯前面に道路敷を埋立て架橋で結ぶ
     南は大浦バンドから下り松居留地へ架橋し、海岸通りを居留地の末端の修船場へ結ぶもの
  04/05本原郷の茂吉が死去。これまでどおり檀那寺の聖徳寺の僧侶を呼ぶ
     使いの者が途中でわざとつまらぬことを言い、僧侶を怒らせ帰らせる
     これ幸いと茂吉の家では僧侶なしで自葬する。「自葬事件」
     04/06平の宿の久蔵が死去、聖徳寺に知らせずに自葬
     久蔵の死を知った聖徳寺が庄屋高谷官十郎に訴え出て問題になる
     04/14平の三八の母たかが死去
     庄屋が気を利かせて僧侶を連れてくる。家の者が承知しないでお経をあげるのを断り自葬。寺請を拒否する
     寺請制度…江戸幕府のキリシタン禁制の政策実施の方法のひとつ
          国民は仏寺の檀徒として所属することが強制、死者がでると必ず僧侶を呼んで葬式を行なうことが定められる
          浦上の潜伏キリシタンは止むなく聖徳寺の檀徒となる
       何時の頃からか、仏式の葬式をしても、お経消しのオラショをすれば許されると考えるようになる
       1人の司祭もいない厳しい弾圧下に生じた悲しい良心の妥協ともいえる
       神父の指導を受けると、キリシタンでありながら聖徳寺の檀徒であることは許されないことがわかる
     庄屋は「いまの坊さんが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」
     村の者は「どなたであろうと坊さんはいらないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答える
     祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間に決まった背くことのできない大事な掟)を断り庄屋はあわてる
     庄屋の「それでは聖徳寺との縁を切りたい者の名簿を出せ」とのふれが浦上村にいきわたる
     本原郷400戸、家野郷100戸余、中野郷100戸と浦上村のほとんどが署名した文書を庄屋に提出
     元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心の薄かったキリシタン30戸は署名せず
     浦上村の人々がキリシタンであることが明るみに
     キリシタンが発覚して信徒代表7人が長崎代官所に呼ばれ取り調べを受ける
     長崎奉行所は密かに捕縛の準備を始める
     長崎奉行所はたくさんの間者を浦上に潜入させ詳しく調査
     信者の名簿を作り、主だった指導者や4か所の秘密聖堂の坪数、間取りなど
     06/13長崎奉行の徳永石見守は浦上キリシタンの検挙、投獄を決意
     07/15《06/14》早朝3時頃、大雨のなか長崎奉行は安藤弥之助ら捕吏170人を遣わす【07/15に書き込みあり】
     数隊に分かれ秘密礼拝堂や主な信者の家を襲う
     秘密聖堂は散々荒らされ耶蘇教徒中心人物68人を捕縛。桜町の奉行所牢に投獄。「浦上四番崩れ」の発端に
     07/17浦上の農民たちが囚人たちを奪回するかもしれないと、長崎奉行は小島に新牢を造り移す
     仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは取り調べのためにたびたび西役所に引き出される
     各国の抗議の間も外交団との約束「入牢者には拷問を加えない」は破られ捕らえられた67人には拷問が加えられる
     のち捕縛されたあとも、浦上では死人がでても僧侶を呼ばない者が次々に桜町牢に入れられる
     10/05《09/08》外国総奉行の平山図書頭は捕縛中の浦上信徒は改宗しなければ釈放しない旨宣言する
     10/0568人が小島牢から桜町牢に戻される
     そのときには83人となり、2坪の4畳半の牢に83人が詰め込まれる
     のち桜町牢での駿河問などの拷問は凄惨をきわめる
     責め苦の駿河問(ドドイ)を受けるため6人が選ばれる
        両足を背中にそらせ、両足首と両手首、首、胸にも縄を掛けて背中の1か所くくり寄せ、
        その縄を梁に巻き上げ、体を弓のようにそらせて、吊るす
        コマのように勢いをつけて振り回し、よりを戻して逆に回転さる
        下に立った役人は棒とむちでさんざんに打ち叩く
        地面に引き下ろして水をかけ正気に戻して、再び繰り返す
        水をかけると縄は短く縮み肉にくい入り、皮膚は紫色に変わる。また気絶する
        6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされる
     拷問のありさまを見た何人かは転び証文の自分の名前の下に爪印を押す
     転んで帰った者は家に入れてもらえず、山中で3日3晩泣いて過ごす
     10/10高木仙右衛門ひとり除いた82人が転び、棄教を申し出て釈放される
     10/14仙右衛門は信仰を守り通し、最後に転んで牢を出された者より3日遅れて、村乙名預けとなり帰される
     仙右衛門が帰ると、凱旋将軍のように村人が迎える
     仙右衛門を見て女性5人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出す
     庄屋はやむなく、その夜のうちに彼らの名簿を添えて長崎代官に届ける
     数日後彼らは奉行所に呼び出され、殉教覚悟で出頭
     白州へでると案に相違して
     「いずれきびしく吟味する、呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追いだされる
     幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではない
     11/0915代将軍慶喜は大政を奉還し、長崎奉行は浦上事件を解決できないまま幕府は倒る
  04/戸町村小菅浦に修船場の建設に着工
  05/12中島川の洪水で人家数10、橋数橋が流失
     濱町の大橋も流失。 そのため直ちに仮橋が架けられる
     のち衆議がこの橋を永久橋として鉄橋にすることに決定。長崎製鉄所に発注
     長崎製鉄所頭取の本木昌造はその筋へ鉄橋架設の申し立ての書き付けを提出
  05/23《04/19》坂本龍馬が土佐藩の銃砲弾薬輸送のため「いろは丸(160瓲)」で長崎を出帆。海援隊の初航海
     途中讃州箱岬沖で紀州藩の明光丸と衝突し沈没
  05/幕府は長崎迴漕米を減らし毎年2万1千石に
  06/長州藩士の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が来崎
     ひそかに米国商社手代ジョセフ・ヒコ(米国籍の日本人、通称アメリカ彦蔵)を訪ねる
     ジョセフ・ヒコに長州藩の長崎港特別代理人を委託する
  07/上土佐藩は「亀山社中」を「海援隊」(隊長坂本龍馬)と称し、藩の付属に
     坂本龍馬は海援隊長としての活躍がはじまる。外国を視野に入れた回路が形成される
     1868(慶応04)04/27「海援隊」解散。同時に「土佐商会」も閉鎖
  土佐藩の岩崎弥太郎が再度、来崎
     開成館貨殖局長崎出張所(土佐商会)の所長・後藤象二郎が大政奉還運動で上京のため岩崎弥太郎が主任に
  07/10《06/09》後藤象二郎と坂本龍馬が土佐藩船「夕顔丸」で兵庫へ向けて長崎を出帆
     後藤象二郎が山内容堂から大政奉還に備えての上京を命じられたため
     坂本龍馬は船中で日本の危機を打開する道として新国家体制8か条を後藤象二郎に示す
     そばにいた海援隊文司の長岡謙吉が簡潔に書きとる
       一、大政奉還
         天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
       一、上下議政局
         上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
       一、有材之人物登用
         有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
       一、外国トノ交際
         外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
       一、無窮ノ大典(憲法)撰定
         古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
       一、海軍拡張
         海軍宜ク拡張スベキ事。
       一、御親兵帝都守衛
         御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
       一、金銀物貨外国ト平等(対等条約)
         金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
       以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時ノ急務アルベシ。
       苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並立スルモ亦敢て難シトセズ。
       伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。
     坂本龍馬は「このほかに策はなし」と断言
     これは横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映したもので「船中八策」という
     06/12兵庫に上陸
     06/14後藤象二郎が京都に入り、夜遅くには藩論としてまとめ上げる
     06/15成案を得る
     10/03成案を基にした大政奉還の建白書が幕府に提出
     のちさらに明治新政府の大方針を示す「五箇条の御誓文」へと繋がり新政府樹立後の国政の指標となる
  07/15浦上四番崩れで穢多、非人の身分のものが捕吏として動員される
     公事方掛は安藤銀之助、谷津勘四郎、小峰列五郎が責任者となる
     庄屋の下男として住み込んでいたキリシタン信者の佐重が道案内
     坂本、道上、平野宿、浜口、本尾、中野、家野、本原を襲い68人を逮捕
     庄屋の高谷官十郎の米蔵へつなぐ
  07/15《06/14》浦上の潜伏キリシタン68人が投獄された事件はその日のうちに外交問題に
     キリシタンという信仰の理由だけで捕縛投獄が行なわれたことに、居留外国人たちは大きな衝動を受ける
     07/15午前11時にプロシア領事が、07/16フランス領事レックスが、
     07/17ポルトガル領事ロレイロが奉行所を訪ね、それぞれに抗議
     数日後来崎したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議、牢内にいる信徒たちを見舞う
     大国アメリカの全権公使が農民信徒たちを懇切に慰問したことは長崎奉行を驚かせる
     領事たちは注意を促す
     「日本が宗教を許さないことは、野蛮国である証拠であり、
     事件を本国へ報告したら日本の立場は非常に悪くなる。対等の条約が結べなくなるかもしれない。
     早急に信者を放免し、さらにキリシタン命令の高礼を取り除くほうが、国家のためになる」
     奉行は「純粋な内政問題で外国の指図を受けるものではない。
     200年来守られた法令を止めるのは、幕府がすることで地方の問題ではなく江戸幕府へ談判して欲しい」と
     結果、江戸幕府と各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように幕府に迫る
  07/長崎会所」が廃止。仮御金蔵と改称
  07/プチジャン神父が浦上四番崩れによる信徒の釈放のために奔走
  08/05《07/06》英国船イカラス号の乗組員ロバート・フォウドとジョン・ハッチングス(23)が仲間と日本人歓楽街へ繰り出す
     とある茶屋の前で寝込んだ2人を仲間が放置、通りすがりの侍に斬り殺される
     遺体は大浦国際墓地93番に埋葬される
     長崎在住の英国領事フラワーズは坂本龍馬率いる海援隊の土佐侍が下手人と確信
     土佐侍2人の逮捕を要求したが日本側は証拠不充分と判断
     英国総領事パークスは事件捜査のためアーネスト・サトウを団長とする公式代表団を派遣
     立証までこぎ着けず、両国は嫌悪ムードに
     長崎奉行が事件未解決の責任を問われ解任するが、それでも英国側は納得せず
     1868(慶応04、明治01)01/新政府に改めて犯人の捜索を要求する
     のち再調査の結果、土佐役人は筑前黒田藩士の金子才吉を下手人とつきとめる
     泥酔して寝ている英国人が筑前の塾生の目にふれ、古参の者が刀を抜き冷酷に弄ぶように滅多切りにしたのが真相
     のち事件の直後、金子は自刃したことが判明
     筑前の役人は罪状とその後の処罰に関しては公表せず
     1869(明治02)筑前の仲間たちが投獄
     筑前領主は蟄居、殺された乗組員の家族に賠償金の支払いを命じられる
  08/18長崎立山奉行所へ龍馬ら海援隊士が出頭
  08/21坂本が率いた海援隊に対抗し市中警備のため長崎奉行直属の親衛隊として「遊撃隊」を組織する。総員359
     長崎警備の目的で地役人の子弟や長崎在留の剣客などを集める
     1868(慶応04)04/19「振遠隊」と改称。軍事と警察を兼任。屯所は乃武館
     1872(明治05)02/22「振遠隊」を解散、「邏卒」制度を新設
  08/24《07/25》仏公使のロッシュが大坂城白書院で将軍慶喜と会見
     浦上事件について談判。浦上キリシタンの弾圧が国際問題となる
  09/18坂本龍馬がプロシア商館からライフル小銃1300挺を購入
     土佐藩へ輸送のため芸州藩の震天丸で長崎を出帆
  10/14徳川慶喜の命により大政奉還上表を朝廷に提出。翌日、勅許
  10/17留学生の留学生の伊東玄伯が、オランダのニューウェデク市から電報を打つ
     アムステルダムに滞在中の同じ留学生赤松大三郎に宛て
     内容は「明日お訪ねするからお待ち下され」というもの
     日本人が初めて電報を打つ
  10/23夜、茂木村本郷の百姓与十の小屋から出火。大火となり95軒、104世帯が焼き出される
  11/06《10/11》新任の125代長崎奉行河津伊豆守が着任【10/12?】
     10/14大政奉還当日に新旧奉行の事務引き継ぎが行なわれる【10/16?】
     幕府は仏公使ロッシュとの口約を破り、浦上信徒を刑舎で拷問を加え改宗を強要したことについて遺憾の意を表明
     長崎奉行の徳永石見守と能勢大隅守に責任をとらせ罷免して江戸に召還する
     後任に発令されたのが最後の奉行河津伊豆守
  11/0610/11に赴任したばかりの125代長崎奉行・河津伊豆守祐邦が11/09《旧10/14》の大政奉還を知る
     江戸から到着した目付の保田鉄太郎より聞かされる
     1868(慶応04)01/14長崎奉行所が物騒な世情の混乱を避けるため
     また西役所は海岸に近く物騒だと立山の東役所へ移転
     西役所からはひっきりなしに大八車、用心籠、牛馬が桜町、勝山町を通り東役所へと列をなす
     夜更けには町に漏れ評判に。西浜町の薩摩屋敷では兵をくり出して西役所を占領するという噂も
     のち土佐藩の佐々木三四郎(海援隊隊長)が単身、西役所に出向き奉行・河津伊豆守に面会
     佐々木は「万一、遊撃隊と海援隊がことを起こせば、戦火は外国居留地に及び国際問題になる」と伊豆守を説得
     伊豆守は幕府追討令の情報を入手しており、勤皇派の多い九州諸藩を向こうにまわしては不利と長崎脱出を決意
     長崎警備の当番、筑前、肥前の聞役には連絡済み
     列国領事に対して国内の新事態により長崎の治安維持と政務の執行に関しては筑前、肥前両藩に委託した旨を通告
     1868(慶応04)01/14長崎奉行所西役所が伊豆守と入れ違いに海援隊士20余人に占領
     01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて伊豆守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     【アトリン号は英船、米船、仏船、露船の諸説あり】
     江戸へ引き揚げ(実質的に奉行所が消滅)
     長崎は無政府状態となる
  11/09大政奉還
  12/09朝廷が王政復古の大号令を出す
  12/09王政復古の大号令とともに本願寺僧侶などが耶蘇教抑圧に協力
     全国の天主堂建設に派遣された耶蘇伝教探索方となる
  12/小瀬戸の番所が廃止
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、(本籠町)、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     お旅所で土佐藩士が英国人水夫に斬りつける
  英国海軍付内科医ジョージ・B・ニュートンが日本主要都市に伝染病病院を新設する命をうけ来日
     梅毒や天然痘等の伝染病を撲滅させる目的
     開国後、横浜に駐屯していたイギリス海軍海兵の間に梅毒が蔓延。日常の軍務に支障をきたす。その対策として生まれる
     09/吉原町8(現中区長者町)の町会所を仮病院として初めて梅毒専門の病院「横浜梅毒病院」が開かれる。検診が開始
     ニュートンが中心になって、遊女の強制的な検診と患者の入院治療を行なう
     1868(明治01)06/18同じ横浜の吉原町に病院が新築
     1868(明治01)冬から1870(明治03)秋にかけて2千人あまりの患者を治癒
       ニュートンは長崎にも同種の病院を開設するよう命じられる
       1870(明治03)11/07長崎へ。早速、大徳寺跡に県立黴毒病院を新設
       1871(明治04)07/11《05/24》ニュートンは失意の内に41才で死去
     1873(明治06)遊郭が吉原町から高島町に移転。病院も高島町9丁目(現西区高島町)に移転
  「神事に舞妓を裸体となすを禁ず」の布令
  長崎奉行が長崎地役人制度の改革に乗り出す
     町年寄を調役、長崎会所の吟味役・請払役を勘定役、遠見番など番方五役と総町乙名などを組同心にして士分に
  グラバーが淡路屋ツルと結婚
     1868(慶応04)女の子が生まれハルと名づける
  西山郷(下西山町)の1228坪の御薬園が薬園の役目を終える
     維新後西山御薬園がいったん長崎県の所有となる
  唐通事の組織が解散。24の役職と延べ1644人(実数826)を数える
  「かまど銀」「箇所銀」の制度が終わる
  沖之島馬込、伊王島大明寺でキリシタン弾圧がはじまる
  洪水で矢上の中尾川に架かる番所橋が崩壊
     1872(明治05)旧石材で再建し名称を明治橋に改める
  港外の伊王島灯台に着工
     1870(明治03)06/13港外の伊王島灯台完成、仮点灯開始
     日本初の鉄造六角形の第一等不動灯。設計は英国人R・H・ブラントン技師
     1871(明治04)07/31点灯
  出島の波戸側を築き増す。埋立て201坪
  木場三番崩れが起こる。125人が大村牢に投獄、55人が獄死
  1842(天保13)に発令した家作を美麗にし3階を造ることの禁が解かれる
  イギリス人2名が許可なく雲仙を登山。小地獄で捕らえられ長崎へ護送される
  長崎港艦船輸入数11、横浜3。小銃輸入数6万5367挺、横浜10万2333挺
  長崎総輸入額604万3087ドル。横浜1340万8785ドル

慶応年間(1865〜1868)

  海外へ出稼ぎに出る女性「からゆきさん」が出現

幕末期頃

  本河内に野石造アーチ石橋(幻の石橋)が架かる
     1869(明治02)頃現川石橋群のモデルとなる
     1889(明治22)造成中の本河内高部水源地に水没する
     1978(昭和53)12/20本河内高部水源地に沈んでいた石橋が10年ぶりに姿をみせる。長崎市有形文化財に指定

1868(慶応04、明治01)【明治】 戊辰(つちのえたつ)

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