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・昭和(20) 昭和(21) 昭和(22) 平成(1) 平成(2) 平成(3) 平成(4) 平成(5) (表 紙)



0552【欽明13】 壬申(みずのえさる)

  百済の聖明王が金銅の釈迦如来像や経典や仏具などを献上。仏法のかぎりなき功徳を説き弘通を勧める
     多くの群臣たちは、異国の神を祀れば国神の怒りを買う恐れがあると反対する
     天皇は蘇我稲目に仏像を与え、試みに個人的に崇拝させることに。仏教伝来のはじまり
     【0538?】

0578【敏達07】 丁酉(ひのとのとり)

  聖徳太子の命を受けて、百済の国から3人の工匠が日本に招かれる
     工匠たちは日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わる
     0593(推古01)日本仏法最初の寺、四天王寺が建立される
     山号は荒陵山、本尊は救世観音菩薩
     のち重光は四天王寺の完成をみた後も留まり寺を護りつづける
     3人のうちの1人、金剛重光が初代金剛組となり、2代目、3代目と技術が受け継がれる
     株式会社金剛組の前身が創業

0581【敏達10】 辛丑(かのとのうし)

  が北周の皇帝から禅譲され建国する
     0589(崇峻02)02/02隋が江南の陳を滅ぼし、中国を統一
     遠征軍の総指揮官楊広(のちの煬帝)率いる51万8千の大軍の前に、陳の都・建康はあっけなく陥落
     陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられる

0586【用明01】 乙巳(きのとのみ)

  疫病が流行し、物部守屋が仏殿を破壊

0587【用明02】 丁未(ひのとのひつじ)

  07/蘇我馬子、厩戸皇子らが物部守屋を滅ぼす。丁未の乱、物部守屋の変
     有力な軍事氏族の物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立
     仏教の礼拝を巡って大臣、蘇我馬子と対立した大連、物部守屋が乱を起こして滅ぼされる
  いけばな発祥の地、六角堂(正式名称紫雲山頂法寺)が建立される
     四天王寺建立の用材を探し求め聖徳太子が山城国愛宕郡を訪れる
     清浄な泉にて太子は沐浴。枝にかけた護持仏が木から離れなくなり、一夜をその場にて過ごす
     その夜、護持仏が太子の夢に現われ、人々を救うためにとどまりたいと告げられる
     護持仏をまつる御堂を建立しようと材木を探していると老翁に出会う
     その旨を伝えると、紫雲たなびく杉の木があるとのことを教えられ、その杉で六角の御堂を建立
     護持仏の如意輪観世音菩薩を本尊に
     沐浴した池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があり「池坊」と呼ばれる
     のち池坊は朝夕宝前に花を供える
     のち池坊は代々いけばなの名手として知られるようになり、いけばながひろがる

0589【崇峻02】 己酉(つちのとのとり)

  02/02が江南の陳を滅ぼし、中国を統一
     遠征軍の総指揮官楊広(のちの煬帝)率いる51万8千の大軍の前に、陳の都・建康はあっけなく陥落
     陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられる


〈飛鳥時代〉

0593【推古01】 癸丑(みずのとうし)

  04/10聖徳太子が摂政になる。蘇我馬子とともに天皇を補佐
  日本仏法最初の寺、四天王寺が建立される
     山号は荒陵山、本尊は救世観音菩薩
  土地の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に厳島神社社殿を創建
     祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神
     1168(仁安03)平家一族の崇敬を受け平清盛が社殿を造営する
     平家一門の隆盛とともに平家の守り神として栄える

0597【推古05】 丁巳(ひのとみ)

  百済聖明王の第3王子、琳聖太子が来朝。崇嶽山頂で香を焚き北辰星をまつる
     のち肥後八代の白木山、周防山口の桂木山とともに西国妙見垂跡三山の霊場の名を誇る。崇嶽はその筆頭に

0600【推古08】 庚申(かのえさる)

  推古朝の倭国が隋に朝貢使を派遣する。遣隋使
     0607(推古15)第2回の遣隋使で小野妹子らを遣わす
     0618(推古26)唐が滅びるまでの18年間に5回以上派遣される

0604【推古12】 甲子(きのえね)

  「玳瑁杖(たいまいのつえ)」「玳瑁如意(たいまいにょい)」
     「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」等が中国からもたらされる
  04/03厩戸皇子(聖徳太子)が十七条憲法をつくる
     官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもの

0607【推古15】 丁卯(ひのとう)

  第2回の遣隋使で小野妹子らを遣わす
     0618(推古26)唐が滅びるまでの18年間に5回以上派遣される
  奈良の斑鳩に仏教聖徳宗の総本山法隆寺が創建される。別名、斑鳩寺
     金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方米

0610【推古18】 庚午(かのえうま)

  03/高句麗の僧・曇徴が紙、墨、絵具の製法を日本に伝える

0618【推古26】 戊寅(つちのえとら)

  李淵が隋の第2代煬帝を滅ぼしてを建国
     0690(持統04)武則天により唐王朝が廃され武周王朝が建てられる
     武則天は帝位に就く。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称する
     中国史上最初で最後の女帝となる。酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行なう
     0705(慶雲02)02/22武則天が失脚して国号の唐が復活
     0907(延喜07)唐が滅亡したことで五代十国時代に入る
     黄河流域が中心の華北を統治した五王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡
  隋が滅び遣隋使の派遣が終了。18年間に5回以上派遣される

0629【舒明01】 己丑(つちのとうし)

  唐代の訳経僧・玄奘三蔵が仏跡の巡礼を志し国禁を犯して出国する
     のち天山北路を通って中央アジアから天竺に至る
     のちナーランダ寺で5年にわたり戒賢より唯識を学び、各地の仏跡を巡拝
     0645(大化01)01/天山南路を経て帰国。657部という膨大な経典を長安に持ち帰る

0630【舒明02】 庚寅(かのえとら)

  倭国が唐に朝貢使を派遣する。遣唐使
     第1回は犬上御田鍬を派遣
     0894(寛平06)菅原道真の建議により停止される
     回数は中止、送唐客使などの数え方により諸説。12回、14回、15回、16回、18回、20回説


〈白鳳時代〉

0645(大化01・06/19)【孝徳】 乙巳(きのとみ)

  01/唐代の訳経僧・玄奘三蔵が天竺から天山南路を経て帰国。657部という膨大な経典を長安に持ち帰る
  07/17《06/19》蘇我氏を倒した中大兄皇子が日本初の元号「大化」を定める

0646(大化02)【孝徳】 丙午(ひのえうま)

  大化の改新に伴う律令体制のもとで長崎市全域は肥前国彼杵郡に属す
     その下部単位の里(のち郷)として、また浮穴里が存在
     0715(霊亀01)郷里制の施行により浮穴里が浮穴郷となる

0667【天智06】 >丁卯(ひのとう)

  対朝鮮半島防衛の最前線として対馬に古代山城(朝鮮式山城)の金田城が築かれる
     0663(天智02)白村江の戦いに敗れた倭国は唐・新羅に対する防衛のため、西日本各地に防衛施設を築く。その一環
     場所は対馬の中部にある浅茅湾の南岸に突き出た標高275米の城山
     山頂部に石塁、山の周囲を取り巻くように石垣が築かれる

0671【天智10】 辛未(かのとひつじ)

  04/17《03/03》水準器が献上される
     水準器は一定の物体の地面に対する角度や傾斜(水平、垂直、45度など)を確認する器具
     土木、建築、測量などの分野を中心に広く用いられる
  04/筑紫で8本の足を持つ鹿が発見されたと報告
  06/10《04/25》漏刻(水時計)が設置される
     管を通って落ちた水のたまった量を目盛りで読み鐘や鼓を打って時刻を報せることに

0674【天武03】 甲戌(きのえいぬ)

  04/17《03/07》対馬厳原の佐須鉱山で日本で初めて銀が産出。献上する

0680【天武09】 庚辰(かのえたつ)

  天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京の地に薬師寺の造営が開始される
     法相宗の大本山で本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇
     0716(霊亀02)平城京への遷都に際して、薬師寺が飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊への移転がはじまる

0685【天武14】 乙酉(きのととり)

  03/27「諸國家毎に佛舎(ほとけのみや)を作り、即ち佛像と経とを置きて礼拝供養せよ」
     天武天皇のもとに勅令が発布される

0690【持統04】 庚寅(かのえとら)

  01/23《持統03-12/08》持統天皇が双六を禁止
  武則天により唐王朝が廃され武周王朝が建てられる
     武則天は帝位に就く。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称する
     中国史上最初で最後の女帝となる。酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行なう
     0705(慶雲02)02/22武則天が失脚して国号の唐が復活

0694【持統08】 甲午(きのえうま)

  12/27《12/06》都が橿原の藤原京に移される
     日本史上最初の条坊制を布いた本格的な中国風都城となる
     0708(和銅01)元明天皇により藤原京から平城京への遷都の詔がだされる
     0710(和銅03)04/17《03/10》都が平城京に移される

0699【文武03】 己亥(つちのとい)

  06/26《05/24》謀反の疑いをかけられた役小角が伊豆に配流
     小角は葛木山に住み、呪術によって有名に。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると悪言したため
     0701(大宝01)11/大赦があり疑いが晴れて茅原に帰る

0701(大宝01・03/21)【文武】 辛丑(かのとうし)

  08/03大宝律令が完成
     大宝律令は日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂される
     刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入する
     行政法や民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令にならいつつも日本社会の実情に則して改変
     律令の制定により天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立
      太政官・神祇官の2官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の8省
  11/謀反の疑いをかけられた役小角に大赦があり疑いが晴れて茅原に帰る
     小角は葛木山に住み、呪術によって有名に。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると悪言したため
  僧行基が天草から温泉山(雲仙岳)の噴煙を見て温泉山を求法の地と定める
     行基は文武天皇に奏して堂塔伽藍の開基を願い、勅許を得て上免田まで寄進される
     勅許を受けた僧行基は大乗院満明寺を開基。山号は温泉(うんぜん)山
     のち温泉山満明寺は、比叡山・高野山とともに天下の三山と称される
     0778(宝亀09)満明寺の内乱により寺院が焼失する
     のち肥前国の田地一町歩につき銭100文宛の寄付を集めて再建
     0931(承平01)再び焼失。以後700年余り仮堂のままとなり一時中絶
     1115(永久03)僧の定僧が大乗院満明寺を再興。次第に繁栄する
     のち瀬戸石原(現札ノ原)300坊、別所700坊、計1000坊もの僧坊を誇り、世の崇敬を集める
     1562(永禄05)キリスト教が布教されるようになり満明寺は次第に衰退
     島原領主有馬義直がルイ・アルメーダを招いて、キリスト教が盛んになったため
     1571(元亀02)雲仙古湯の僧坊の稚児「学一丸」が可愛がる1羽の白雀をめぐり
     別所の僧坊の稚児「宝寿丸」と「白雀を貸せ貸さぬ」という争いに。「宝寿丸」が誤って白雀を殺す
     2人の喧嘩は僧坊同士の対立に。2派に別れた数百人は3日間にわたり刀槍を使った乱闘となる「白雀の乱」
     ついには満明寺が放火される事件に発展
     のち原城にいた有馬義直は300の兵を派遣して鎮定
     争いの原因が稚児にあるとして有馬義直は全坊の稚児を滝に落として処分
     のち再建される
     1637(寛永14)島原の乱により焼き払われ打撃を受ける
     1640(寛永17)新たに島原藩主となった高力忠房により満明寺の旧地を復興
     1673(延宝01)火災で焼失し藩主松平氏により再建される
     1997(平成09)満明寺の本堂が改築される
  僧行基が大乗院満明寺を開基したのとあわせて四面宮(温泉神社)を祀る。山号を温泉山に
     1693(元禄06)島原城主松平忠房が一乗院とともに四面宮を改築
     1827(文政10)雲仙四面社の第一鳥居が建立される
     女性はこの鳥居から先ヘの立入が禁止に
     1869(明治02)温泉四面宮を国魂神社と改称。神仏判別の制により京泊の末寺、観華院に一乗院を移す
     1914(大正03)雲仙国魂神社が温泉神社と改名され県社となる

0705(慶雲02)【文武】 乙巳(きのとみ)

  02/22武則天が失脚して国号の唐が復活
     0907(延喜07)唐が滅亡したことで五代十国時代に入る
     黄河流域が中心の華北を統治した五王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡
  03/山梨県巨摩郡に西山温泉慶雲舘が創業
     藤原真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかり、岩の間より盛んに噴きだす熱湯を偶然に発見
     試みに入る。すると神気爽快、四肢軽快いままでの労れが治り大変驚き、また喜ぶ
     のち真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造る。「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられる
     のち医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まるように

0708(慶雲05、和銅01・01/11)【元明】 戊申(つちのえさる)

  01/11武蔵国の秩父郡から銅が産出。元明女帝に献上する
     銅が乏しい時代、女帝は喜び年号を慶雲から和銅に改元
     「和同開珎」の貨幣を造らせる
     05/11和同銀銭が発行される
     07/26近江国に銅銭を鋳造させる
     08/10和同銅銭が発行される
     0709(和銅02)08/02銀銭が廃止となる。銅銭だけが流通貨幣となる
  07/元明天皇の勅願により高来町法川に行基が和銅寺を創建
     人々に異変を及ぼしていた肥後国宇土郡の橋脚で7体の観音像を彫る
     その1体が法川弘済院和銅寺の本尊となる

0709(和銅02)【元明】 己酉(つちのととり)

  08/02銀銭が廃止となる。銅銭だけが流通貨幣となる


〈奈良時代〉

8世紀前半

  肥前国彼杵郡浮穴郷に住む土蜘蛛の浮穴沫媛(うきあわあなひめ)が天皇の命に従わず景行天皇に退治される

0710(和銅03)【元明】 庚戌(かのえいぬ)

  04/17《03/10》元明天皇が都を藤原京から平城京に遷都する【04/23《03/10》】
     0741-01/10《天平12-12/15》恭仁京(大養徳恭仁大宮)に移される
     0744(天平16)04/17《02/26》難波京に移される
     0745(天平17)01/甲賀宮(紫香楽宮・信楽宮)に移される
     0745(天平17)06/19《05/11》都がふたたび平城京に戻される

0712(和銅05)【元明】 壬子(みずのえね)

  01/28元明天皇の命で編纂していた「古事記」が完成する
  行基菩薩が筑紫巡錫のとき、岩屋山に大権現を祀る
     のち弘法大師・空海が来錫。護摩の法を修し寺門大いに栄える
     平安から鎌倉・室町寺院繁栄し別院36坊を数える。西国有数の巨刹に
     のち次第に寺運が衰微
     0994(正暦05)藤原直純が伊予から下向。大村の久原に居城を構える。地名をとり初代大村氏となる
     下向の途中、郡岳の太郎大権現と岩屋山大権現を以って鎮護の岩屋山神宮寺にする(崇嶽神宮寺と表裏の関係)
     1260(文応01)頃北条時頼が諸国回遊の途次、この地に及ぶ
     1350(北朝・観応01)将軍足利氏が修復し寺領若干を付す
     1555(弘治01)有馬軍勢が乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
     のち里人が相寄って跡地に小堂が建つ
     1574(天正02)キリスト教徒による破却にあい廃滅
     1660(萬治03)領主・大村純長が大村家の祈願所として再興。2人扶持を給し岩屋山神通寺と改称
     1773(安永02)「密蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     のち寺運衰微。寺観の壮大を誇った女人禁制の一大霊場も廃滅
     1868(明治01)岩屋神社に

0713(和銅06)【元明】 癸丑(みずのとうし)

  元明天皇の詔により各令制国の国庁に「風土記」の編纂を命じる
     奈良時代初期の官撰の地誌で主に漢文体で書かれる
  肥前風土記の記録に雲仙が高来峰として現われる

0715(和銅08、霊亀01・09/02)【元正】 >乙卯(きのとう)

  郷里制の施行により肥前国彼杵郡の浮穴里が浮穴郷となる

0716(霊亀02)【元正】 丙辰(ひのえたつ)

  平城京への遷都に際して、薬師寺が飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊への移転がはじまる

0720(養老04)【元正】 庚申(かのえさる)

  舎人親王らの撰により「日本書紀」が完成
     神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻

0723(養老07)【元正】 癸亥(みずのとい)

  聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院のひとつとして悲田院を建てる
     四箇院は悲田院に敬田院・施薬院・療病院をあわせたもの
     悲田院は社会福祉施設の先駆け。仏教の思想にもとづいて設けられた貧窮者や孤児、老人の救済施設

0726(神亀03)【聖武】 丙寅(ひのえとら)

  10/10山部赤人は聖武天皇のお供をして明石地方を旅し、鮪を獲って栄えているこの地を讃えて歌を詠む
     「しび(鮪)釣ると海人[あま]船散動[さわ]き」(『万葉集』巻六・938段)

0733(天平05)【聖武】 癸酉(みずのととり)

  03/21《03/01》歌人の山上億良が遣唐大使丹比広成に会い、値嘉島(ちかのしま・五島列島)を入れた祝歌を贈る
       値嘉(ちか)の岫(さき)より大伴の 御津(みつ)の濱辺びに 直泊(ただはて)に
       御(み)船は泊(は)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして早歸りませ
       [「新訂 新訓 万葉集 上巻」(岩波文庫/佐佐木信綱編)巻五 八九四(三一)より]

0737(天平09)【聖武】 丁丑(ひのとうし)

  西日本から畿内にかけて天然痘が大流行して藤原四兄弟や舎人親王ら政府高官が相次いで死亡する惨事
     天然痘は「豌豆瘡(「わんずかさ」「えんどうそう」)」とも
     政治を行なえる人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥る。奈良の大仏造営のきっかけに

0740(天平12)【聖武】 庚辰(かのえたつ)

  馬牛屠殺禁止令が発令される
     のち幕末まで馬牛の屠殺業は存在せず

0741(天平13)【聖武】 辛巳(かのとみ)

  01/10《天平12-12/15》聖武天皇により平城京が一時的に放棄され恭仁京(大養徳恭仁大宮)に移される
     0743(天平15)12/造営が中止される
     0744(天平16)04/17《02/26》都が難波京に移される
  「聖武天皇が発布した「国分寺建立の詔」ののち、壱岐、対馬に島分寺が建てられる
     対馬では大日如来を本尊として対馬島分寺を下県郡の国府付近に建てる
     壱岐では新たに建立せず島司壱岐直の氏寺を島分寺とする
  聖武天皇が国情不安を鎮撫するため各国に国分寺、国分尼寺の建立を命じる
     国分寺、国分尼寺は寺格のひとつで、国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺
     僧寺は僧20人をおき、尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府区域内か周辺に置かれる
     大和国の東大寺、法華寺が総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられる

0742(天平14)【聖武】 壬午(みずのえうま)

  08/聖武天皇が近江国の紫香楽村に離宮「紫香楽宮(信楽宮)」を造立する
     0743(天平15)12/恭仁京の造営が中止され、紫香楽宮の造営が進められる
     0744(天平16)信楽宮から甲賀宮へ改名する
     0745(天平17)01/都が難波京から甲賀宮が都とされる
     のち人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぐ
     0745(天平17)05/都が平城京へ戻る

0743(天平15)【聖武】 癸未(みずのとひつじ)

  11/05《10/15》聖武天皇が近江国紫香楽宮(しがらきのみや)で大仏造立の詔を発する
     建立予定地は紫香楽宮の近くの甲賀寺
     のち紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があり造立計画は中止
     のち一時期、恭仁京や難波京へ遷都されるが都が5年ぶりに平城京に戻る
     0745(天平17)09/23《08/23》平城東山の山金里(東大寺)であらためて大仏造立が開始される
     0752(天平勝宝04)05/26《04/09》大仏の開眼供養会が盛大に開催される
     大仏本体の鋳造は基本的には完了するが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了
     また大仏殿も建物自体は完成するが、内部の仕上げは未完成

0744(天平16)【聖武】 甲申(きのえさる)

  04/17《02/26》聖武天皇により平城京が一時的に放棄され恭仁京から難波京に移される
     0745(天平17)01/都が甲賀宮(紫香楽宮・信楽宮)に移される

0745(天平17)【聖武】 乙酉(きのととり)

  06/19《05/11》甲賀宮(紫香楽宮・信楽宮)の都がふたたび平城京に戻される
     0761(天平宝字05)11/18《10/13》淳仁天皇と孝謙上皇が平城京から保良宮 (保良京・大津)に行幸
     0762(天平宝字06)06/23《05/23》淳仁天皇と孝謙上皇の不仲により平城京に戻る。孝謙上皇は出家
  09/23《08/23》平城東山の山金里(東大寺)であらためて大仏造立が開始される
     0752(天平勝宝04)05/26《04/09》大仏の開眼供養会が盛大に開催される
     大仏本体の鋳造は基本的には完了するが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了
     また大仏殿も建物自体は完成するが、内部の仕上げは未完成

0749(天平21、天平感宝01・04/14、天平勝宝01・07/02)【孝謙】 己丑(つちのとうし)

  僧行基が雲仙の地で入寂。墓は寺のノ馬場にひっそりとたたずむ

0752(天平勝宝04)【孝謙】 壬辰(みずのえたつ)

  05/26《04/09》平城東山の山金里(東大寺)の大仏の開眼供養会が盛大に開催される
     大仏本体の鋳造は基本的には完了するが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了
     また大仏殿も建物自体は完成するが、内部の仕上げは未完成

0753(天平勝宝05)【孝謙】 癸巳(みずのとみ)

  12/20鑑真が帰国する遣唐使船に乗り来日

0754(天平勝宝06)【孝謙】 甲午(きのえうま)

  唐僧、鑑真が蜂蜜、石蜜、蔗糖、甘蔗をもたらす

0756(天平勝宝08)【孝謙】 丙申(ひのえさる)

  06/21光明皇后が夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献
     皇后の奉献は前後5回に及び、品々は同寺の正倉(正倉院校倉宝庫)に収蔵し永く保存されることに
     正倉院宝物の起こり

0761(天平宝字05)【淳仁】 辛丑(かのとうし)

  11/18《10/13》淳仁天皇と孝謙上皇が平城京から保良宮 (保良京・大津)に行幸
     0762(天平宝字06)06/23《05/23》淳仁天皇と孝謙上皇の不仲により平城京に戻る。孝謙上皇は出家

0762(天平宝字06)【淳仁】 壬寅(みずのえとら)

  06/23《05/23》淳仁天皇と孝謙上皇の不仲により都が保良宮 (保良京・大津)から平城京に戻る。孝謙上皇は出家
     0784(延暦03)12/31《11/11》都が山城国乙訓郡(京都向日市)の長岡京に移される

0778(宝亀09)【光仁】 戊午(つちのえうま)

  雲仙満明寺が内乱により寺院が焼失する
     のち肥前国の田地一町歩につき銭100文宛の寄付を集めて再建
     0931(承平01)再び焼失。以後700年余り仮堂のままとなり一時中絶

0782(天応02、延暦01・08/19)【桓武】 壬戌(みずのえいぬ)

  僧勝道上人が日光を開山する
     勝道上人は男体山に初登頂し、山の上から中禅寺湖の存在をみつける

0784(延暦03)【桓武】 甲子(きのえね)

  12/31《11/11》桓武天皇の命により都が平城京から山城国乙訓郡(京都向日市)の長岡京に移される
     0794(延暦13)11/22《10/22》都が長岡京から平安京に遷都される

0790(延暦09)【桓武】 庚午(かのえうま)

  弘法大師が温泉山を登山、霊地に如くなしと賞賛する

0793(延暦12)【桓武】 癸酉(みずのととり)

  06/08北欧出身のバイキングがイングランド東海岸沿いのホーリー島リンディスファーン修道院を襲撃
     3隻の船からおり立った大男たちは剣や斧で武装し上陸。人々を斬り殺し物品を略奪、村は壊滅


〈平安時代〉

0794(延暦13)【桓武】 甲戌(きのえいぬ)

  11/22《10/22》桓武天皇がそれまでの長岡京から新たに首都を遷都
     山背国葛野、愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5粁、南北5.2粁の長方形に区画された都城
     都の北端中央に大内裏を設け、市街の中心に朱雀大路を通す
     左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲
     隋・唐の長安城に倣うものだが城壁は存在せず
     地の選定は中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行なわれる
     11/08桓武天皇が「この都を平安京と名付ける」と詔を下す

0797(延暦16)【桓武】 丁丑(ひのとうし)

  11/05坂上田村麻呂(40)が桓武天皇により征夷大将軍に任命される

0801(延暦20)【桓武】 辛巳(かのとみ)

  蝦夷地を平定するため征夷大将軍の坂上田村麻呂が遠く陸奥に出兵。治めて大変な功績をあげる

0804(延暦23)【桓武】 甲申(きのえさる)

  最澄が唐より砂糖を持ち帰る

0806(延暦25、大同01・05/18)【平城】 丙戌(ひのえいぬ)

  空海、唐国から煎餅の製法を伝える

大同年間(0806〜0810)

  佐世保の東の地に真言宗智山派の仏教寺院が建立される。正式には清岩寺、山号は福石山。通称福石観音

0819(弘仁10)【嵯峨】 己亥(つちのとい)

  嵯峨天皇の勅願によって長崎で最大の規模を誇る神宮寺を崇嶽(瓊杵山)の麓に建立
     長崎奉行や一般市民の信仰があり、特に長崎在住の華僑は海上交通の守護神と仰ぎ海上交通の安全と貿易の隆昌を祈る
     寺社は桜馬場中学校、諏訪神社、諏訪公園、炉粕町、馬町、立山町一帯で支院は30余坊あった
     0841(承和08)一度、修復される
     1350(南朝・正平05)征西将軍懐良親王が修復。5千貫の地を付与
     1581(天正09)10/切支丹宗徒の放火により焼亡
     のち崇嶽廃寺。80余所に散在していた支院末坊も次第に廃絶
     1624(寛永01)八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
     1705(宝永02)吉祥院が崇嶽(瓊杵山)に移り、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
     1725(享保10)神宮寺の寺号が再興
     のち「華蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     1868(明治01)神仏分離令により金刀比羅神社と改称

弘仁年間(0810〜0823)

  長崎が寺領となる

0841(承和08)【仁明】 辛酉(かのととり)

  崇嶽の神宮寺が一度、修復される
     1350(南朝・正平05)征西将軍懐良親王が修復。5千貫の地を付与

0842(承和09)【仁明】 壬戌(みずのえいぬ)

  橘逸勢が反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて非人の姓を天皇から与えられる

0848(承和15、嘉祥01・06/13)【仁明】 戊辰(つちのえたつ)

  06/16疫病退散を願い改元した仁明天皇が神前に16個の菓子、餅を神に供えて疫病除け、健康招福を祈る

0860(貞観02)【清和】 庚辰(かのえたつ)

  温泉岳(雲仙岳)が噴火

0861(貞観03)【清和】 辛巳(かのとみ)

  05/19《04/04》福岡の直方にある武徳神社境内に隕石が落下。直方隕石
     翌日深くえぐられた土中から黒く焦げた石が掘出され、桐箱に納めて保存する
     重量472gのL6-コンドライトの石質隕石である
     1979(昭和54)地元のラジオ番組で隕石の存在を知った研究者が調査を開始
     1981(昭和56)国立科学博物館、理化学研究部長の村山定男らの鑑定により、世界最古の隕石落下と確認される

0863(貞観05)【清和】 癸未(みずのとひつじ)

  春/京畿内に咳病が流行する

0864(貞観06)【清和】 甲申(きのえさる)

  06/富士山が北西斜面(長尾山)から大量の溶岩を流す噴火を起こす。火山砕屑物を多量に噴出
     貞観大噴火[〜0866(貞観08)]
     富士北麓にあった広大な湖のせのうみが溶岩流により埋め立てられ、水面の大半を失う
     埋め立てを免れた西端部、東端部に新たな湖を形成(精進湖、西湖)
     北東に流れた溶岩流は吉田付近に達し人家が埋没、湖の魚に被害あり
     また流れ出た溶岩は一帯を広く覆い青木が原溶岩を形成する
     のち青木が原溶岩の上に新たに森林が形成される(青木ヶ原樹海)

0894(寛平06)【宇多】 甲寅(きのえとら)

  菅原道真の建議により遣唐使の派遣が停止される
     回数は中止、送唐客使などの数え方により諸説。12回、14回、15回、16回、18回、20回説

0905(延喜05)【醍醐】 乙丑(きのとうし)

  05/29《04/18》勅命によって編まれた「古今和歌集」が醍醐天皇に奏上。最初の勅撰和歌集
     撰者は紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒
  08/「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」の編纂が藤原時平ほか11人によって開始
       藤原時平、藤原定国、藤原有穂、平惟範、紀長谷雄、藤原菅根、
       三善清行、大蔵善行、藤原道明、大中臣安則、三統理平、惟宗善経
     0927(延長05)12/式が藤原忠平ほか4人により奏進する
     のち修訂が加えられる
     0967(康保04)施行される。全50巻。条数は約3300条
      神祇官関係の式(巻1〜10)、太政官八省関係の式(巻11〜40)、
      その他の官司関係の式(巻41〜49)、雑式(巻50)律令官制に従って配列される
     神祇官関係の式(巻1〜巻10)のうち、巻9・10は神名帳
        官社の一覧表で祈年祭奉幣にあずかる神社2861社 (天神地祇3132座)を国郡別に羅列
        記載された神社が「式内社」。 式内社は平安時代(10世紀)すでに官社として認定された神社で、由緒ある神社
     ◎肥前國:4座 大1小3
      松浦郡:2座大1小1
      ○田嶋坐神社[タシマノ](名神大)
       田島神社「田心姫尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊 配 大山祇神 合 稚武王尊」
      ○志々伎神社[シシキ]
       志々伎神社「十城別命 配 鴨一隼命、七郎氏廣」
      基肄郡[キイ]:1座小
      ○荒穂神社[アラホ]
       荒穂神社[あらほ]「瓊瓊杵尊 合 住吉大神、春日大神、五十猛命、加茂大神、八幡大神、寶滿大神」
      佐嘉郡[サカ]:1座小
      ○與止日女神社[ヨトヒメ]
       与止日女神社[よどひめ]「與止日女命」神功皇后の妹神といわれる

0907(延喜07)【醍醐】 丁卯(ひのとう)

  が滅亡したことで五代十国時代に入る
     黄河流域が中心の華北を統治した五王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡

0911(延喜11)【醍醐】 辛未(かのとひつじ)

  06/15宇多上皇が亭子院の水閣を開いたとき酒豪を選んで酒を賜る。「亭子院酒合戦」を開催
     参議藤原仲平、兵部大輔源嗣、左近衛少将藤原兼茂、藤原俊蔭、
     出羽守藤原経郷、兵部少輔良峯遠視、右兵衛佐藤原伊衡、散位平希世
     8人が勅命により競う
     20盃を限り、杯に墨を点して量を定めまわし飲むと、6、7めぐりで満座が酩酊
     平希世は門外に偃臥し、藤原仲平は殿上に嘔吐し、他はいずれも泥酔
     藤原経郷は始め意気が揚がっていたが、ついに吐瀉
     藤原伊衡だけが乱れず10杯でとめられ賞として駿馬を賜る

0915(延喜15)【醍醐】 乙亥(きのとい)

  十和田火山が大噴火を起こす。毛馬内火砕流が周囲20粁を焼払う
     噴火の火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらす
     十和田火山の噴出物は湖の西側に流れる。夏の気象現象であるやませが原因
     噴出物は米代川流域を覆い尽くし大災害をもたらす
     過去2千年間、日本国内で起きた最大規模の噴火に

0927(延長05)【醍醐】 丁亥(ひのとい)

  12/「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」が藤原忠平ほか4人により奏進する
     のち修訂が加えられる
     0967(康保04)施行される。全50巻。条数は約3300条

0931(延長09、承平01・04/26)【朱雀】 辛卯(かのとう)

  雲仙満明寺が再び焼失。以後700年余り仮堂のままとなり一時中絶
     1115(永久03)僧の定僧が大乗院満明寺を再興。次第に繁栄する

0935(承平05)頃

  紀貫之が土佐の国から京まで帰京する最中に起きた出来事や思いなどを綴る。「土佐日記」が成立
     土佐国の国司、貫之が任期を終え京へ戻るまでの55日間の紀行を、女性に仮託して仮名文で表現

0939(天慶02)頃

  武士勢力が台頭し長崎市域で丹治比氏の一族戸町氏や福田氏らが土着の武士としてあらわれる

0945(天慶08)【朱雀】 乙巳(きのとみ)

  06/04唐の呉越船3隻が野母半島肥の御埼嶋浦付近に来航
     警固所の兵士が12隻の船で追い、外人応接機関の鴻●(月篇に盧)館に回航させる

0960(天徳04・宋の建隆01)【村上】 庚申(かのえさる)

  03/23媽姐が中国福建省興化府●(艸冠に甫)田県の東南に浮かぶ●(さんずいに眉)洲という小島で林氏の娘として生まれる
     生後1月たっても泣き声をてず、黙娘と名づけられる
     幼少の時から聡明で9歳で金剛経に親しむ
     小さい時から賢くよく神通力を示し悪をしりぞけて世間を救う
     15歳の時三教(儒教・仏教・道教)の本を全て読み尽くしていたといわれる
     17歳の頃風が吹くある日のこと
     媽姐は道を歩いて●(さんずいに眉)洲湾に達したとき
     港内で1隻の商船が暴風に見舞われ転覆するところに遭遇する
     瞬間、媽姐は路傍の草をむしって投げる
     草は木に変じ、船乗りたちはそれにしがみついて助かる
     19歳の頃家で機を織りながら疲れてウトウトしていると父と兄の乗った船が難破する夢をみる
     媽姐はとっさに海中に身を躍らせ、兄を口にくわえ父をつかんでけんめいに泳ぐ
     そのとき母に起こされ返事をしたため兄を離してしまう
     ちょうど父と兄の乗った船が海難事故にあい、父は助かるが兄は溺れて亡くなった知らせが届く
     23歳の頃桃花山で妖怪の金精(千里眼)と水精(順風耳)が付近の作物を荒らし村人をこまらせる
     千里眼は千里先を見ることができ、順風耳は千里先のかすかな物音を聞きつける能力をもつ
     2人の精をみつけた媽姐は、ハンカチをひと振りすると両精は目が眩み、手がしびれてひれふする
     媽姐は両精を許し、海上を守護を手伝わせることにする
     0987(宋の太祖雍煕04)09/0928歳のとき修行を終えた媽姐は、人々を救うため家人に別れをつげる
     海上を歩き●(さんずいに眉)山へと登るとき、足下から風が起こり雲が生じ媽姐をつつむ
     媽姐は神となり五色の雲に乗って昇天する
     のち彼女が紅い衣装をつけ海上を飛び、難民を救助している姿が見られるようになる
     のち霊験あらたかに護国救民を行ない、郷民は廟を当てて祭るようになる
     のち歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」を贈る
  09/23日本の首都、平安京の内裏が火災で全焼
     のち幾度も火災に見舞われることに

0967(康保04)【冷泉】 丁卯(ひのとう)

  「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」が施行される
     全50巻。条数は約3300条
      神祇官関係の式(巻1〜10)、太政官八省関係の式(巻11〜40)、
      その他の官司関係の式(巻41〜49)、雑式(巻50)律令官制に従って配列される
     神祇官関係の式(巻1〜巻10)のうち、巻9・10は神名帳
        官社の一覧表で祈年祭奉幣にあずかる神社2861社 (天神地祇3132座)を国郡別に羅列
        記載された神社が「式内社」。 式内社は平安時代(10世紀)すでに官社として認定された神社で、由緒ある神社
     ◎肥前國:4座 大1小3
      松浦郡:2座大1小1
      ○田嶋坐神社[タシマノ](名神大)
       田島神社「田心姫尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊 配 大山祇神 合 稚武王尊」
      ○志々伎神社[シシキ]
       志々伎神社「十城別命 配 鴨一隼命、七郎氏廣」
      基肄郡[キイ]:1座小
      ○荒穂神社[アラホ]
       荒穂神社[あらほ]「瓊瓊杵尊 合 住吉大神、春日大神、五十猛命、加茂大神、八幡大神、寶滿大神」
      佐嘉郡[サカ]:1座小
      ○與止日女神社[ヨトヒメ]
       与止日女神社[よどひめ]「與止日女命」神功皇后の妹神といわれる

0979(天元02)【円融】 己卯(つちのとう)

  59歳の安倍晴明が皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行なう
     花山天皇の信頼を受けるようになる。晴明が占いや陰陽道の儀式を行なう様子が見られる

0984(永観02)【花山】 甲申(きのえさる)

  宮中医官の鍼博士丹波康頼が全30巻からなる「医心方」を朝廷に献上
     医師の倫理、医学総論、各種疾患に対する療法、保健衛生、養生法、医療技術、医学思想、房中術などから構成
     本文はすべて漢文で書かれ唐代の膨大な医学書を引用する

0987(寛和03、永延01・04/05 宋の太祖雍煕04)【一条】 丁亥(ひのとい)

  09/09修行を終えた28歳の媽姐は人々を救うため家人に別れをつげる
     媽姐は神となり五色の雲に乗って昇天する
     のち彼女が紅い衣装をつけ海上を飛び、難民を救助している姿が見られるようになる
     のち霊験あらたかに護国救民を行ない、郷民は廟を当てて祭るようになる
     のち歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」を贈る

0994(正暦05)【一条】 甲午(きのえうま)

  藤原直純が伊予から下向。大村の久原に居城を構える。地名をとり初代大村氏となる
     下向の途中、郡岳の太郎大権現と岩屋山大権現を以って鎮護の岩屋山神宮寺にする(崇嶽神宮寺と表裏の関係)
     1260(文応01)頃北条時頼が諸国回遊の途次、この地に及ぶ

1051(永承06)【後冷泉】 辛卯(かのとう)

  平安時代後期、奥州を舞台に前九年の役が起きる。結果、安倍氏が滅び、清原氏が東北の覇者となる

1083(永保03)【白河】 癸亥(みずのとい)

  平安時代後期、陸奥・出羽を舞台に後三年の役が起きる
     前九年の役のあと、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなる

1088(寛治02)【堀河】 戊辰(つちのえたつ)

  イタリアボローニャ大学がジョズエ・カルドゥッチ他による委員会により創設される
     ボローニャにあるヨーロッパ最古の総合大学で世界の大学の原点とされ、母なる大学とも呼ばれる
     のちダンテ、ガリレオ、コペルニクス等が学ぶ

1115(永久03)【鳥羽】 乙未(きのとひつじ)

  僧の定僧が雲仙の大乗院満明寺を再興。次第に繁栄する
     のち瀬戸石原(現札ノ原)300坊、別所700坊、計1000坊もの僧坊を誇り、世の崇敬を集める
     1562(永禄05)キリスト教が布教されるようになり満明寺は次第に衰退
     島原領主有馬義直がルイ・アルメーダを招いて、キリスト教が盛んになったため
  関白右大臣藤原忠実の転居祝いの宴席の料理膳に蒲鉾がだされる

1124(保安05、天治01・04/03)【崇徳】 甲辰(きのえたつ)

  08/20奥州藤原氏の初代藤原清衡(69)が中尊寺金色堂を建立
     金色堂は中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ
     方三間(正面、側面ともに柱間が3間)、平面の1辺が5.5米の小型の仏堂
     1965(昭和40)堂が鉄筋コンクリート造の覆堂(さやどう)内のガラスケースに納められる
     外気と遮断。24時間体制で温度・湿度が調整される

1139(保延05)【崇徳】 己未(つちのとひつじ)

  ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスがオーリッケの戦いでムラービト朝を破り大勝
     独立を宣言し自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗る
     のちカスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約が結ばれる
     1143(康治02)カスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立

1143(康治02)【近衛】 癸亥(みずのとい)

  カスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立
     ポルトガル最初の王朝ブルゴーニュ王朝

1156(久寿03、保元01・04/27)【後白河】 丙子(ひのえね)

  07/平安時代末期、地位をめぐる確執から後白河天皇と兄の崇徳上皇が対立し、双方の武力衝突に至った保元の乱が起きる

1160(平治02、永暦01・01/10)【二条】 庚辰(かのえたつ)

  01/19《平治01-12/09》清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙に、反信西派がクーデターを起こす。平治の乱
     03/11平清盛の命により源義朝の三男、源頼朝が死一等を減ぜられ伊豆国の蛭ケ小島へと流される
     義朝が平治の乱で敗れたため

1165(長寛03、永万01・06/05)【六条】 乙酉(きのととり)

  01/30《長寛02・12/17》後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて法住寺院殿が完成
     後白河上皇が離宮として建てた広大な法住寺殿の一画で、五重塔なども建つ本格的な寺院
     その一角には蓮華王院本堂(三十三間堂)が建てられる
     1249(建長01)火災で焼失
     1266(文永03)後嵯峨上皇により蓮華王院本堂(三十三間堂)のみが再建される
     朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られる。建築様式は和様
     三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来
     「法華経」などに観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説くことから

1167(仁安02)【六条】 丁亥(ひのとい)

  02/11平清盛が太政大臣となるが、3か月後の05/17には辞任

1168(仁安03)【高倉】 戊子(つちのえね)

  平家一族の崇敬を受け平清盛が0593(推古01)創建の厳島神社社殿を造営
     平家一門の隆盛とともに平家の守り神として栄える

1177(安元03、治承01・08/04)【高倉】 丁酉(ひのととり)

  俊寛僧都、藤原成恒、平康頼が鬼界が島(伊王島)に流刑さる

1180(治承04)【安徳】 庚子(かのえね)

  11/28福田氏の祖平兼盛(平包守)が公文僧の某から彼杵荘老手村(福田村)、手隈村の定使職に任ぜられる
     定使職は荘官の一種
     のち平兼盛が藤津荘沙汰人の藤七助兼に殺される。弟の兼信が地頭となる
  有王が鬼界が島で俊寛僧都と合う
     俊寛僧都断食ののち死去、有王が墓の印に小姫松を植える


〈鎌倉時代〉

1185(元暦02、文治01・08/14)【後鳥羽】 乙巳(きのとみ)

  04/25《03/24》長門国赤間関で源氏と平家による壇の浦の戦いが起こる
     義経を総大将とする源氏軍と平家軍が決戦
     正午近くに戦闘が開始され、はじめは潮流に乗った平家が優勢。のち潮の流れが変わり形勢逆転
     栄華を極めた平家一門は滅亡、安徳天皇は入水。源氏軍が勝利する
  壇ノ浦の戦いで敵対武家勢力が消滅。名実ともに武家政権として源氏による鎌倉幕府が成立する

1186(文治02)【後鳥羽】 丙午(ひのえうま)

  05/29源頼朝が源平合戦で荒廃した寺社の復興を命じる
  08/23平兼盛の長男平兼貞(通称隈平太)が鎌倉幕府から彼杵荘老手、手隈両村の地頭職に任ぜられる
     肥前国御家人となる
     1189(文治05)平兼貞が鎮西奉行天野遠景の命により責賀島(鬼界島・硫黄島=鹿児島)にわたるが討ち死に
     兼貞の戦死で弟の兼信が地頭となり自ら姓を福田に改め福田平次と号し、老手村を福田村と改める
  平重盛の曾孫長崎小太郎重綱が源頼朝から深江浦(長崎)の地を賜わり西下。砦を構える
     【1222(承久04、貞応01)?】
     1587(天正15)14代長崎甚左衛門純景が故あって長崎を退去【1578(天正06)?】

1186(文治02)頃

  伊豆国御家人の天野遠景が彼杵荘惣地頭となる
     惣地頭は九州独特のもの。地頭職の上位に広域にわたって東国の有力の御家人が知行地を給与されて任ぜられる

1188(文治04)頃

  彼杵荘戸町浦と永埼浦の間にある杉浦の領有をめぐり戸町本主の丹藤次俊長と永埼本主の四郎俊信が争う
     決着がつかず荘地頭の天野氏が預かることに
     1257(正嘉01)閏03/第3代深堀行光と戸町氏の間で杉浦の沙汰(知行権の行使)をめぐり争い
     幕府は六波羅探題北条長時に双方を召して対決させるよう命じる

1189(文治05)【後鳥羽】 己酉(つちのととり)

  06/15《閏04/30》藤原泰衡が500騎の兵をもって源義経主従の10数騎を藤原基成の衣川館に襲う
     義経の郎党は防戦するが、ことごとく討たれる
     館をかこまれた義経は一切戦うことをせず持仏堂にこもる
     正妻の郷御前と4歳の女子を殺害、のち義経は自害してはてる。享年31
  07/鎌倉政権と奥州藤原氏との間で奥州合戦が起こる
     関東の後背に独自の藤原政権があることを恐れた源頼朝が義経を長らくかくまう事を罪として奥州に出兵
     贄柵(秋田県鹿角)にて家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅ぶ
     のち頼朝による武士政権が確立する
  平兼貞が鎮西奉行天野遠景の命により責賀島(鬼界島・硫黄島=鹿児島)にわたるが討ち死に
     兼貞の戦死で弟の兼信が地頭となり自ら姓を福田に改め福田平次と号し、老手村を福田村と改める

1191(建久02)【後鳥羽】 辛亥(かのとい)

  栄西禅師が宋より平戸に帰国、小院「冨春庵」で10数人の弟子とともに禅規を行なう。日本最初の禅伝来
     また栄西は優良な茶の実を持ち帰り、[新しい抹茶(碾茶)]の製茶の法を伝える
     宗朝禅林の喫茶の法を伝え「喫茶養生法」を著す
     禅房の裏山約2畝に茶の種を播き茶畑とする
     【背振山のこと?】
     のち拇尾から宇治へ全国へ広まる
     それまで茶は平安期など遣隋使、遣唐使により伝わり朝廷の特殊な法会の供応や薬用など上層貴族階級用
     その後、衰退の傾向に合ったが栄西により一般庶民のものに

1192(建久03)【後鳥羽】 壬子(みずのえね)

  07/12源頼朝が征夷大将軍に任官される。鎌倉幕府が開かれる

1192(建久03)以降

  長崎のもとの地名、深江浦や瓊の浦の名称が史料に見られ、ときに永崎浦とも記されるようになる
     1331(北朝・元徳03)以降地名として「長崎」の字が定着するようになる

1204(建仁04、元久01・02/20)【土御門】 甲子(きのえね)

  08/14《07/18》伊豆修善寺に幽閉された鎌倉幕府第2代将軍の源頼家(23)が北条氏の手兵によって殺害される
     入浴中を襲撃。激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺す

1206(元久03、建永01・04/27)【土御門】 丙寅(ひのえとら)

  02/テムジンがモンゴル高原をほぼ統一してイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)をひらく
     テムジンは功臣や諸部族の指導者たちを集め最高意志決定機関クリルタイを開く
     クリルタイにより諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位。チンギス・カンの尊称を得る
     モンゴル帝国の初代皇帝に即位

1221(承久03)【仲哀】【後堀河】 辛巳(かのとみ)

  後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ承久の乱を起こす
     武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権との二頭政治が続くなかでの反乱
     06/10《05/19》北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行なう
     06/10《05/19》上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺
     しかし北条政子は頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた声明をだし動揺を鎮める
     のち乱の結果、幕府が優勢となり朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる
     08/05《07/09》承久の乱で幕府の大軍に完敗した後鳥羽上皇が隠岐島に配流される

1222(承久04、貞応01・04/13)【後堀河】 壬午(みずのえうま)

  長崎小太郎重綱が肥前国彼杵郡に下り深江浦に居す。城館(城の古祉)を築く

1235(文暦02、嘉禎01・09/19)【四条】 乙未(きのとひつじ)

  01/18《文暦01-12/28》霧島山の高千穂峰に付随する側火山の御鉢が雷鳴のような音や火焔、火光を伴い噴火
     霧島山の記録の中では最大規模の噴火であり、大量の噴石、火山灰および溶岩を噴出する
     周辺の多くの寺社が焼失し、降り積もった火山灰は火口から20粁離れた場所においても深さ60糎に達す
     噴出物は特に火口東側に広く分布、高原スコリアと呼ばれる
  05/27藤原定家によって小倉百人一首が完成される
     古代から平安時代を経て鎌倉時代初期までの有力歌人100人を選び、それぞれの和歌1首を掲げたもの
     歌はすべて《古今集》以下の勅撰集を典拠とする
     男性歌人79(うち僧侶13)、女性歌人21
     内容別では春歌6、夏歌4、秋歌16、冬歌6、恋歌43、旅歌4、離別歌1、雑歌20と恋の歌がきわめて多い
      定家が書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られる
      和歌百首は定家が親友の宇都宮頼綱の求めに応じて書写したもの

1237(嘉禎03)【四条】 丁酉(ひのととり)

  12/京都大番を勤めた御家人の大番交名に肥前国彼杵荘御家人として10人の名
     大村七郎太郎、千綿太郎、時津四郎、長崎小太郎、浦上小太夫、同三郎、戸町藤次、今富次郎、同三郎、同四郎

1238(嘉禎04、暦仁01・11/23)【四条】 戊戌(つちのえいぬ)

  03/鎌倉の高徳院で木造大仏と大仏殿の建造がはじまる
     鎌倉幕府第三代執権・北条泰時のとき、僧の浄光が諸国を勧進して浄財を集める
     1243(寛元01)06/11鎌倉の高徳院で木造大仏の開眼供養が行なわれる
     1247(宝治01)木造大仏が暴風のために倒壊
     1252(建長04)08/17金剛の鎌倉大仏・銅造阿弥陀如来坐像の造営がはじまる
     像高約11.3米(台座を含め高さ13.35米)。重量約121瓲

1243(仁治04、寛元01・02/26)【後嵯峨】 癸卯(みずのとう)

  06/11鎌倉の高徳院で木造大仏の開眼供養が行なわれる
     1247(宝治01)木造大仏が暴風のために倒壊

1244(寛元02)【後嵯峨】 甲辰(きのえたつ)

  08/道元が越前志比庄に傘松峰大佛寺を建立。開道説法がされる。永平寺の開創
     1246(寛元04)06/山号寺号を吉祥山永平寺と改める
     上堂説法される。釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際にわたって祈念されたもの

1246(寛元04)【後深草】 丙午(ひのえうま)

  06/道元が開創した越前志比庄の傘松峰大佛が山号寺号を吉祥山永平寺と改める
     上堂説法される。釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際にわたって祈念されたもの

1247(寛元05、宝治01・02/28)【後深草】 丁未(ひのとひつじ)

  鎌倉高徳院の木造大仏が暴風のために倒壊
     1252(建長04)08/17金剛の鎌倉大仏・銅造阿弥陀如来坐像の造営がはじまる
     像高約11.3米(台座を含め高さ13.35米)。重量約121瓲

1249(宝治03、建長01・03/18)【後深草】 己酉(つちのととり)

  後白河上皇が離宮として建てた法住寺院殿が火災で焼失
     後白河上皇が離宮として建てた広大な法住寺殿
     1266(文永03)後嵯峨上皇により蓮華王院本堂(三十三間堂)のみが再建される
     朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られる。建築様式は和様
     三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来
     「法華経」などに観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説くことから

1252(建長04)【後深草】 壬子(みずのえね)

  08/17鎌倉の高徳院で金剛の鎌倉大仏・銅造阿弥陀如来坐像の造営がはじまる
     像高約11.3米(台座を含め高さ13.35米)。重量約121瓲

1255(建長07)【後深草】 乙卯(きのとう)

  長崎半島(野母半島)中央部城山の麓に位置する地域の名称が深堀となる
     上総国伊南荘深堀の深堀五郎左衛門尉能仲が承久の役の戦功により肥前国戸八浦の地頭職に補任されたことから
     元禄年間(1688〜1704)佐賀藩深堀領として、藩主鍋島綱茂のもと鍋島官左衛門茂春が領主を勤める
     1889(明治22)深堀、大篭、香焼が合併して深堀村となる
     1898(明治31)香焼が分離
     1955(昭和30)01/第5次市域拡張で長崎市に編入合併
  戸町氏が幕府から戸町浦地頭職を改易(没収)される
     03/28上総国の御家人深堀能仲が新たに戸町浦地頭職に任命される
     深堀氏は相模国の三浦氏の一族で上総国深浦に地頭職を分与され同地に住み深堀氏を称する

1257(康元02、正嘉01・03/14)【後深草】 丁巳(ひのとみ)

  閏03/第3代深堀行光と戸町氏の間で戸町浦と永埼浦の間の杉浦の沙汰(知行権の行使)をめぐり争い
     幕府は六波羅探題北条長時に双方を召して対決させるよう命じる

1259(正嘉03、正元01・03/26)【亀山】 己未(つちのとひつじ)

  02/執権の北条長時が第4代深堀時光に明年1月1日から6月晦日まで、番頭足利三郎の下で京都大番役を勤仕するよう命じる
     1268(文永05)02/執権の北条長時が深堀時光に足利入道に属し明年1月1日から6月晦日まで都大番役を勤仕するよう命じる

1260(正元02、文応01・04/13)【亀山】 庚申(かのえさる)

  11/福田平次包信の弟平兼俊、嫡男兼重に福田手隈を譲る
  北条時頼が諸国回遊の途次、岩屋山神宮寺に及ぶ
     1350(北朝・観応01)将軍足利氏が修復し寺領若干を付す

1266(文永03)【亀山】 丙寅(ひのえとら)

  火災で焼失した法住寺院殿のうち後嵯峨上皇により蓮華王院本堂(三十三間堂)のみが再建される
     朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られる。建築様式は和様
     三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来
     「法華経」などに観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説くことから

1268(文永05)【亀山】 戊辰(つちのえたつ)

  02/執権の北条長時が深堀時光に足利入道に属し明年1月1日から6月晦日まで都大番役を勤仕するよう命じる

1274(文永11)【後宇多】 甲戌(きのえいぬ)

  11/04《10/05》900隻の兵船に乗った蒙古・高麗軍2万8千人が対馬に上陸。元寇(文永の役)
     対馬守護代の宋助国は80余騎とともに厳原から佐須浦に直行。防戦するが討死
     11/13《10/14》元軍は佐須浦に火をつけ壱岐に向かう
     対馬を蹂躙した蒙古・高麗軍が壱岐を襲い上陸。多数の島民を虐殺
     守護代の平景隆はご家人100余騎とともに応戦するが、勝負とならず自殺
     対馬への進攻と同様に島民は殺害され生け捕りにされる
     女たちは1か所に集められ手の平に穴を開け数珠つなぎにされ、舷側にくくりつけられるなど残酷な目にあう
     11/19《10/20》元軍はさらに進攻し博多湾西部に上陸
     各所で激戦が繰り広げられ、蒙古軍の石火矢を用いた集団戦法にかき回され水城まで退却
     沿岸周辺での戦いは元軍が優勢だったが船は戻りはじめる。翌日には撤退し博多湾から消える
     撤退の途中で大暴風雨「神風」が吹き荒れる
     蒙古軍の兵船は大破、沈没し遠征軍2万8千人のうち帰国したのは1万4500人のみ

1280(弘安03)【後宇多】 庚辰(かのえたつ)

  09/12守護の少弐経資が第5代深堀時仲に8月27日から9月12日まで異国警固の博多番役を勤仕した証判を交付する
     蒙古来襲に備え博多津に防塁を築く

1281(弘安04)【後宇多】 辛巳(かのとみ)

  06/モンゴルの皇帝フビライが再び日本征服を企てる。2つに分け第2次遠征軍を向かわせる。元寇(弘安の役)
     東路軍対馬と壱岐を経て九州の上陸拠点とした福岡の志賀島に来襲
     博多湾を守備する日本勢の猛攻により上陸して進撃できず壱岐へ退却
     07/☆平戸に移動し遅れてきた江浦軍と合流
     08/12《07/27》平戸を出発した東路軍、江浦軍の両軍が鷹島に移動
     日本勢は鷹島のモンゴル軍を果敢に攻撃
     08/15《07/30》夜半から大爆風「神風」が吹き荒れ4400隻の船がほとんど壊滅
     元軍の未帰還者10万人、高麗軍の未帰還者7千人

1291(正応04)【伏見】 辛卯(かのとう)

  08/01スイスが建国
     ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始3州が既得権益の自由と自治を守るため盟約者同盟を結成
     シュヴィーツ州の地名がスイスの語源

1293(正応06、永仁01・08/05)【伏見】 癸巳(みずのとみ)

  05/福田兼光が関東からの早馬により異国警固番役として博多警固を勤める
  鎌倉幕府が九州の統括のために鎮西探題を設置。行政、訴訟(裁判)、軍事などを管轄する
     9代執権北条貞時のとき北条兼時、名越時家が派遣される
     探題館(探題城、姪浜城、鷲尾城とも)は筑前国早良郡の愛宕山に置かれる
     のち室町幕府が確立されると、軍事的出先機関として鎮西探題を踏襲するかたちで九州探題が設置される

正応年間(1288〜1293)

  船越又次郎入道如覚が船越城を築く。伊佐早之庄を支配する庄司となり姓を伊佐早と変える
  西郷(南高瑞穂町)の西郷氏が次第にその勢力を拡大し宇木(有喜)に城を構える

1328(嘉暦03)【後醍醐】 戊辰(つちのえたつ)


1329(嘉暦04、元徳01・08/29)【後醍醐】 >己巳(つちのとみ)

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