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〈昭和時代(2)〉

1930(昭和05)【昭和】 庚午(かのえうま)

  《総理大臣》[第27代]濱口雄幸
  《知事》[第26代(官選)]伊東喜八郎(→08/26)、[第27代(官選)]木下信(08/26→)
  《市長》[第10代]富永鴻

  01/11東山手の鎮西学院が東山手から竹の久保町(現宝栄町、活水高校)に移転
     1945(昭和20)08/09原爆の被害を受け授業の継続が不能に
     のち諫早の新築校舎に移転
  01/14長崎市稲佐町に腸チフス患者27人、井戸水の共同使用が原因
  01/16稲佐町一帯で腸チフス予防注射を約4000人に施行
  01/この月の長崎市内伝染病、赤痢10・疫痢4・腸チフス63・パラチフス2・ジフテリア9・猖紅熱3・流行性脳脊髄膜炎1
  01/尾上町の水産物卸売市場内、長崎県水産会の事務所裏から出火
      会事務所、水産物卸売市場魚揚場、仲買業者共同荷捌所、委託売買業者共同事務所の一部が焼失
      急拠臨時株主総会を開催。予算1万4900円で復旧工事を行なう
     1930(昭和05)10/06新たな長崎魚市場が完成し盛大な新築落成式が行なわれる
  01/金の輸出が解禁となり実施(金本位制に復活)
     1931(昭和06)12/金の輸出が再禁止となる
  03/19長崎駅から出島岸壁に至る臨港鉄道(1.1粁)が開通し長崎港駅が開業。日華連絡船と連結
     上海航路連絡列車により旅客、手小荷物および旅客は随時手小荷物の取扱を開始
     日華連絡船の長崎入港日には、接続して上り急行列車が長崎駅から出発
     急行列車は関門航路を介して下関から上り急行「富士」に連絡。上海〜東京の所要時間は54時間25分
     1943(昭和18)10/30「上海丸」の沈没により航路が途絶え駅の役目は終わる
     1949(昭和24)10/15長崎港駅から、さらに大浦川まで692米の臨港線延長敷設工事が完成
     長崎港駅で開通式を挙行
     1982(昭和57)11/14連絡船の復活を期待し駅名は残っていたが廃止
     貨物列車が魚類運搬などのために、ときたま臨港線を走る程度
     1985(昭和60)03/魚類運搬などのために、ときたま臨港線を走ったが線路を撤去
  03/19島原町に猖紅熱、一部落に10人くらい
  03/23東京日比谷の交差点に日本で初めての自動交通整理信号機が設置される
     電気式信号機でアメリカから輸入。緑、黄、赤の縦3色灯器で交差点の中央に設置。緑と赤のあとに黄色を同時点灯
     大正期の半ばから昭和初期にかけての交通整理は警察官の「挙手の合図」等により行なわれる
     【05/?】      1931(昭和06)08/20東京の34か所の市電交差点に、日本初の3色灯の自動信号機が設置される
     東京・銀座の尾張町交差点や京橋交差点など。色が変わるたびにジリジリとベルが鳴る仕組み
  03/30平戸町に猖紅熱
  04/03北松浦郡山口村に町制が敷かれ相浦町となる
     1938(昭和13)04/01北松浦郡相浦町が佐世保市に編入される
  04/16北高来郡本野村小学校で麻疹143人
  04/2436才のマキシミリアノ・マリア・コルベ神父が、ゼノ修道士らとともにすでに肺結核に冒されながら来崎
     1930(昭和05)05/仮修道院として南山手10番館を借り印刷所を設立
     小冊子「聖母の騎士」を創刊、布教に尽す
     1931(昭和06)05/本河内に用地を求め、コンベンツアル聖フランシスコ会聖母の騎士修道院を設立
     1932(昭和07)05/コルベ神父が聖母の騎士修道院の裏山、彦山の麓にルルドの洞窟を建立
     1936(昭和11)05/管区会議出席のためポーランドへ帰国
     ポーランド・ニエポカラヌフの院長に再選
     1939(昭和14)第2次世界大戦がはじまる。ドイツ軍がポーランドに侵入しニエポカラヌフが占領される
     コルベ神父は逮捕されアムティツに入れられるが、のち解放される
     1941(昭和16)02/亡命者を救援したのを理由にドイツ秘密国家警察に再逮捕
     1941(昭和16)05/アウシュビッツに送られる
     第17・第12号獄舎を経て農業従事者の第14獄舎へ移される
     のち第14獄舎で1人の収容者が逃亡。所長は報復に10人を餓死刑に指名
     08/14コルベ神父は10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
     餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
     コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
     残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
  04/長崎電鉄、銅座町停留場の名称が柳通り停留場に改称
     1953(昭和28)07/観光通に改称
  04/長崎商工会議所が長崎開港記念会を設立
     長崎港に対する市民の認識を深め将来の一層の発展を期するため、長崎港の開港を記念する行事を行なうこと
     史学者の古賀十二郎らに委任。史実によって長崎開港を1571(元亀02)と認め、開港記念日を04/27に
     県・市・海事関係官署とはかり、記念行事を執行する機関として長崎開港記念会を設立することに
     04/27「長崎みなと祭」が開催
     諏訪神社中庭での記念式典、貿易展覧会、記念講演会、旗行列、港の映画大会、各市大売出しなど
     多彩な催しを行ない市民の非常な人気を呼ぶ
     1970(昭和45)04/27〜29長崎開港400年記念みなと祭を開催
     04/26夜、市公会堂で前夜祭が催される。会場には約1800人の市民が集まる
     NHKのど自慢、ミス・準ミス長崎選彰式、歌謡ショーと盛りだくさんのプログラム
     04/27大波止ターミナルビル前庭で、港繁栄祈願祭、先賢慰霊祭、記念碑除幕式、記念植樹式が行なわれる
     名誉総裁の三笠宮殿下夫妻を迎え、総裁(県知事)、会長(市長)ら関係者300人が参列
     港内では土井首ぺーロン協会によるペーロン競漕、夜は大波止突堤で花火大会が開かれて祝賀気分を盛りあげる
     04/28市公会堂にて盛大な祝賀式が行なわれる
     三笠宮殿下ご夫妻をはじめポルトガル、オランダ、中国の大・公使、領事ら多数の来賓を迎え、各界各層の代表約2千人が出席
     式典は実行委員会会長の式辞にはじまり、総裁の挨拶、名誉総裁三笠宮殿下による祝辞
     故大村純忠公ら154人の先賢顕彰、来賓祝辞と続き、ミス・オランダ、ミス・準ミス長崎による「友好の花束」贈呈が行なわれる
     最後にはアトラクションとして、オランダ万才や龍踊りが出され、なごやかな雰囲気のなかで閉式
     04/29記念行事のハイライトである祝賀パレード
     総勢3千人、延々6キロに及ぶ大パレードは沿道を埋めた15万人の大観衆の大喝采を浴びる
       ミス・オランダ、ミス長崎を先頭に、官公庁職員の時代風俗行列をはじめ
       商工会議所議員団、華僑総会、商店街などによる仮装行列、
       中・高校、職域の音楽隊、婦人レクリエーション団休の舞踊大行進と続く
  05/01公立五島病院の移転新築落成式
  05/03北高来郡森山町にパラチフス発生
  05/04大村女子職業学校寄宿舎にパラチフス発生
  05/コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が、仮修道院として南山手10番館を借り印刷所を設立
     小冊子「聖母の騎士」を創刊、布教に尽す
     1931(昭和06)05/本河内に用地を求め、コンベンツアル聖フランシスコ会聖母の騎士修道院を設立
     1932(昭和07)05/コルベ神父が聖母の騎士修道院の裏山、彦山の麓にルルドの洞窟を建立
     1936(昭和11)05/ポーランドへ帰国
     1941(昭和16)08/141人の若い父親の身代わりとなり、アウシュビッツ強制収容所で死去。享年47歳
  06/03同潤会の大塚女子アパートの入居がはじまる
     鉄筋コンクリート5階建ての女子アパートは女性専用。モダンできわめて贅沢な作りのアパート
     1階に雑貨屋、食料品店、お菓子屋、フルーツパーラーなどの店舗
     2階以上が住居。30人が入れる風呂場や娯楽室が完備
     娯楽室にはにはミシン、ピアノ、真空管ラジオ、卓球台、などが置かれる。居住する者なら無料で使用が可
     間取りは4畳半か6畳。家賃は1か月で和室が9円50銭〜11円、洋室が10円〜16円
     かなりの高額家賃のアパートにもかかわらず、総戸数158戸の部屋は募集を開始後すぐに予約で一杯に
  06/09榎津町の実演劇場「栄之喜座」が映画常設館の劇場「中座」となる
     ソ連映画を上演したりと、かなり実験的な映画館に
  06/18西彼杵郡時津町に腸チフス12人、疑似患者5人発見
  06/20平戸町の腸チフス患者77人、避病舎は満員
  06/26県下で疫痢31人、赤痢12人、腸チフスは疑似を含めて214人(06/01〜26)
  06/代表藤木喜平が株式会社「精洋亭」を設立
     1947(昭和22)05/レストラン「精洋亭」を継承
  07/03島原鉄道の1号機関車が鉄道省に返還・保存されることになる
     島原駅構内で惜別式が盛大に行なわれる
     「惜別感無量 昭和五年六月 為記念 島鐵社長 植木元太郎識」
     感謝の念を込めた社長自筆文字の刻まれた銘板が1号機関車側水槽につく
     1号機関車は1972(明治05)新橋〜横浜を走った日本最初の実用蒸気機関車
     英国バルカン・ファンドリー社製作で重量23.47瓲、全長7.4米
  07/03平戸町の腸チフス患者150人、河水使用で蔓延、死亡30余人
  07/13ジュール・リメ杯世界サッカー選手権第1回大会がウルグアイで開催される
     現「FIFAワールドカップ」。07/13〜07/30
     出場権をかけての地区予選は行なわれず全てのチームが招待されての参加
     南米(ウルグアイ、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ブラジル、ペルー、ボリビア)
     ヨーロッパ(フランス、ベルギー、ユーゴスラビア、 ルーマニア)
     北中米・カリブ海(アメリカ合衆国、メキシコ)の13か国。すべてが初出場
     優勝国は開催国のウルグアイ
  08/02対馬に腸チフスが発生
  08/11熊本逓信診療所長崎支所が長崎市紺屋町103番地に新設。診療を開始
  08/18佐世保市の伝染病患者、1月以降284人、うち死亡85人
  08/19谷崎潤一郎が妻の千代子と離婚。千代子は谷崎の友人の佐藤春夫と再婚。3人の合意と連名で新聞社に発表
     各新聞は社会面トップで取り上げセンセーションを巻き起こす。「大阪毎日」と東西「朝日」に谷崎の談話を掲載
     妻君譲渡事件(小田原事件)
     のち新聞各紙が各方面の意見を掲載、柳原白蓮、山田耕筰、池崎忠孝(赤木桁平)は賛成
     矯風会会長・林歌子、里見、濱本浩、無想庵は激しく非難
  08/30疫痢の死亡率が71.3%に
  08/この月の県下の伝染病、赤痢60・腸チフス151・疫痢24・ジフテリア10・パラチフス6・流行性脳脊髄膜炎255
  08/野母商船が博多〜上五島の航路を開設
  09/01鎮西汽船の利権と設備の一切を長崎電鉄が5万円で買収
     大波止〜立神〜戸町航路の競合が一部解消
     戸町・出島・金鍔・立神・神崎航路と鎮西丸・雲仙丸・立神丸・金鍔丸の船舶、艀船桟橋等を継承
     賃金は大波止〜戸町〜立神(6銭)、大波止〜神崎(20銭)
  09/01五島青方町に腸チフス猖獗
  09/20電鉄が三菱長崎造船所の通勤輸送を引き受け、大波止〜水の浦、向島航路の運航を開始
  09/生糸が大暴落。農村恐慌が深刻化となる
  10/01神戸〜東京に特急「つばめ」が運転開始。長崎〜東京の所要時間が21時間に短縮
  10/06新たな長崎魚市場が完成し盛大な新築落成式が行なわれる
  10/06東彼杵郡尾瀬村で疫痢患者が死亡
  10/07「長崎くんち」
     (2)…寄合町(本踊)、榎津町(川船)、西古川町(本踊)、本紙屋町(本踊)、
     新大工町(剣舞・曳段尻)、磨屋町(本踊)、新橋町(本踊)、金屋町(獅子踊)、
     大村町(本踊)、本五島町(本踊)、今町(本踊)、玉江町(本踊)
  10/26長崎女子師範生に腸チフスが発生
  11/28夜半、数え年22才の太宰治が鎌倉腰越町の小動崎の海岸で通称田辺あつみとともにカルモチンを嚥下
     田辺あつみは銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給で戸籍名田部シメ子19才
     小動崎の海岸は一説に東側突端の畳岩の上
     11/29午前8時頃、出港しようとした漁夫の1人に苦悶中を発見される。女性はすでに絶命
     1935(昭和10)03/17夜、数え年27才のとき、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で縊死を図る。紐が切れ未遂に終わる
  12/01佐世保市に天然痘、長崎市大浦町に腸チフス患者発生
  12/01東邦瓦斯株式会社の九州支店が分離独立。福岡、熊本、長崎、佐世保支店の事業を継承し西部瓦斯が設立
     資本金1千万円。顧客戸数2万9千戸
     1943(昭和18)北九州を営業区域とする九州瓦斯を合併、資本金1400万円となる。顧客戸数6万3700戸
  12/03長崎女子師範の赤痢患者32人
  12/06北高来郡長田村に腸チフス患者
  12/18袋町の青年会館を古賀重太郎が会館・敷地とも3万2千円で買収
     改造費3万5300円を添えて市に寄付。長崎市公会堂が落成
     1931(昭和06)01/01一般に開放。講堂使用料は午前8時〜午後5時・10円、午後6時〜午後12時・15円
  12/島原鉄道が旅客自動車営業開始(バス3台・タクシー2台)
  鍛治屋町に西洋レストラン「銀嶺」がオープン
  本下町の公設中央市場2階が「長崎百貨店」に
  「西部戦線異状なし」の宣伝として昭映座が長崎初のアドバルーンをあげる
  私立口之津女子手芸高校が長崎県立口加高等女学校となる
     1948(昭和23)長崎県立口加高等学校に改称
  築町〜西浜町を結ぶプラットトラス式の長久橋が鉄筋コンクリート造に架け替え
     1967(昭和42)拡張架替工事が完工
     コンクリート造、長さ28米、幅員22米に
  コロムビアから植森たかおの歌による「長崎節(25791)」が発表される
     作詞は西岡水朗、作曲は杉山長谷夫
     片面は作詞、作曲、歌ともに同じで「片しぶき」
  コロムビアから藤本二三吉の歌による「雲仙節(25792)」が発売される
     作詞は西岡水朗、作曲は杉山長谷夫
     片面は作詞、作曲、歌ともに同じで「長崎小唄」
  1907(明治40)、南高来郡布津村出身の池田平が東京で長崎タクシーを経営
     のち東京から引き揚げ丸山に住む
     1958(昭和33)旅館二鶴を寄合町ではじめる
  「郵便報知新聞」を発行する報知社が講談社の野間清治に買収され、販売方針を見直すなど経営努力を重ねる
     1941(昭和16)販売方針を見直すなど経営努力を重ねるが結局ふるわず講談社は撤退
  一口香の生産をする茂木の角屋、4代目の山崎三代治が枇杷羊かんをはじめる
  世界大恐慌が日本に波及
  ダンスが流行。愛宕町(デジラ邸・現愛宕病院)や大浦に倶楽部ができる
     1931(昭和06)02/長崎署がダンスを禁止に
  郡市における部落の数
     上県郡・下県郡2、壱岐郡1、平戸市1、松浦市2、北松浦郡4、佐世保市5、東彼杵郡4、
     西彼杵郡12、大村市6、諫早市3、北高来郡2、南高来郡4、長崎市2、島原市1

1930(昭和05)頃

  鍛冶屋町の古書店大正堂が自転車で注文図書を会員宅に貸し出す移動雑誌回読会を経営
     1941(昭和16)頃移動雑誌回読会を終える

1931(昭和06)【昭和】 辛未(かのとひつじ)

  《総理大臣》[第27代]濱口雄幸(→04/14)、[第28代]第2次若槻禮次郎内閣(04/14→12/13)
        [第29代]犬養毅(12/13→)
  《知事》[第27代(官選)]木下信(→04/15)、[第28代(官選)]小柳牧衛(04/15→08/28)
      [第29代(官選)]鈴木信太郎(08/28→)
  《市長》[第10代]富永鴻(→03/22)、[第11代]草間秀雄(07/23→)

  01/16佐世保市の流感患者が3000人を突破
  01/20長崎市衛生課調査、昭和5年度の伝染病患者640人(死亡188人)
     発生件数で最も多いのは腸チフスで258人、死亡率で高いのは疫痢で181人中122人(67.4%)と発表
  01/27北海道美深町で日本最低気温のマイナス41.5度を記録
  02/この月の県下の流感患者7200人、死亡者は佐世保9人、大村・壱岐各2人
  02/長崎署がダンスを禁止に
  03/12佐世保市にコレラ、県下に猖紅熱患者
  04/02対馬厳原地方で流感猖獗
  04/0509時15分、三菱長崎造船所の右側の第1船台から巡洋艦「鳥海」が進水
  04/松ケ枝町42番地の石造洋館「香港上海銀行長崎支店」が閉鎖
     1940(昭和15)06/25建物を長崎県が買収し梅香崎警察署が移る
  04/ビクターから根本美津子の歌による「ながさき(51699)」が発表される
     作詞は林柳波、作曲は藤井清水
     片面は羽衣歌子による「和蘭蛇船」。作詞は西岡水朗、作曲は藤井清水
     1937(昭和12)東京音楽学校の寮で上田英子が「ながさき」をソプラノで披露。流行する
     上田英子は長崎出身で県立高女時代に「ながさき」を教わっていた
  04/長崎開港360年記念祭を開催
  05/01長崎電鉄が立神航路に木造船(天領丸)を吉沢トミより2500円で購入
     鈴田造船所で850円をかけて改造。第11電鉄丸となる
  05/08長崎市西古川町に腸チフス、一家6人に発生、女子師範生にも22人
  05/20竹の久保伝染病院の収容患者が80人
     05/21竹の久保避病院に収容患者93人、もはや収容の余地なし。医大の隔離病棟25床も28人収容
     05/22竹の久保避病院、腸チフス患者を物置にまで収容、患者総数120余人
  05/21女子師範の腸チフス38人
  05/31長崎市の腸チフス患者400人突破
  05/コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が本河内に用地を求める
     コンベンツアル聖フランシスコ会聖母の騎士修道院を設立
     1932(昭和07)05/コルベ神父が聖母の騎士修道院の裏山、彦山の麓にルルドの洞窟を建立
  05/電話番号簿に広告の掲載が開始
     1942(昭和17)戦時統制のため電話番号簿の発行が中止となる
  06/02女子師範の腸チフス96人
  06/02長崎市の腸チフス600人突破・伝染病院は戦時状態
  06/22太刀洗発大阪行き日本空輸の旅客機2便が福岡県朝倉郡志波村上宮近くの山中で濃霧の中を30分間さまよう
     旅客機はスーパーユニバーサルBCAO機
     山にぶつかり発火、火を噴いてまっさかさまに墜落する
     機体は夜須村桑曲の冷水峠近くの谷の中で見つかる。操縦士、機関士、乗客の3人が焼死
     日本初の旅客機墜落事故に
  06/野母商船が博多〜壱岐の航路を開設
  06/小島川の油屋町と東小島の間に鉄筋コンクリート造の新玉橋が架かる
     橋長9.6米、橋幅3.2米、うち車道2.6米
     玉帯橋のひとつ上流側に架かる
  07/10長崎市の腸チフス患者2千人、料亭・飲食店・花柳界、閑古鳥が啼く有様
  08/07佐世保市に赤痢と腸チフス患者4人
  08/20東京の34か所の市電交差点に、日本初の3色灯の自動信号機が設置される
     東京・銀座の尾張町交差点や京橋交差点など。色が変わるたびにジリジリとベルが鳴る仕組み
  09/13長崎港にコレラ侵入
  09/18満州事変の発端となる柳条湖事件が起こる。中国では「九一八事変」
     午後10時20分頃、中華民国の奉天北方約7.粁の柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊
     関東軍は張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移る
     実際は爆破は関東軍の虎石台独立守備隊の一小隊が行なったもの。関東軍の自作自演
     満州事変のはじまり
  09/19午前6時54分。満州事変の一報として、NHKラジオが日本で初めて臨時ニュースを放送する
     冒頭には聴取者の注意を喚起するため「チャイム」を鳴らす
  09/中島川をまたぐ鉄橋が鉄筋コンクリート製に架け替わる
     1990(平成02)07/17再度架け替わる
     橋上にはエミリオ・グレコ作「水浴の女」がお目見え。橋のたもとには新橋完成祝いの時計塔が建つ
  10/01西彼杵郡崎戸村に町制が敷かれ崎戸町となる
     1938(昭和13)04/01西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村が長崎市に編入される
  10/04米国人飛行家の2人が単発エンジンで単葉機のミス・ビードル号でアメリカへ向け青森県三沢の淋代海岸を離陸
     2人はクライド・パングボーンとヒュー・ハーンドン
     太平洋上では機体重量を軽減。少しでも飛行距離を延ばすため、車輪を機体から切り離す
     小さなコンパスを頼りに方向を確認し、夜は北極星を目印に飛行
     10/06米国ワシントン州ウェナッチ地区の泥地に胴体着陸。2人の飛行は世界初の成功を収めることに
     太平洋上を無着陸で横断飛行。41時間10分後、距離にして約4,900マイル(7,847粁)【7,910粁?】の区間
  10/07「長崎くんち」
     (3)…丸山町(本踊)、油屋町(本踊)、下筑後町(獅子舞)、今籠町(本踊)、鍛冶屋町(本踊)、
     西中町(川船)、東中町(剣舞)、豊後町(本踊)、本下町(本踊)、外浦町(本踊)、萬歳町(本踊)
  11/25平凡社が「大百科事典」全28巻の第1巻を刊行
     企画出版したのは創業者の下中弥三郎。編集長は東大の心理学者の木村久一
     1934(昭和09)完結【1935(昭和10)?】
  12/31東京市淀橋区角筈に大衆劇場ムーランルージュ新宿座がオープン。定員は430人
     本家のフランス・パリのモンマルトルのムーラン・ルージュ同様、フランス語で「赤い風車」の意味
     本家同様、建物の上に大きな赤い風車が
     浅草オペラ時代にチェロ奏者、その後、玉木座の支配人をした佐々木千里が個人で開いた劇場
     1951(昭和26)05/ストリップショーなど新しいジャンルの娯楽に押され閉館
     育った多数の人材は映画や放送界に流れる
  12/金の輸出が再禁止となる
     1917(大正06)06の禁止、1930(昭和05)01の解禁に続くもの
  コッテージ式2階建の長崎駅駅舎の2階貴賓室を廃しレストランとなる
     レストラン共進亭には上海東京往来の内外紳士淑女でテーブルはいっぱいに
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  喜楽館で日本映画初のトーキー「マダムと女房」が上映
  長崎公設市場条例が公設小売市場条例と卸売市場条例に改定整備
     公設市場(小売市場)は中央市場、今下町、館内町、本石灰町、銭座町、大浦町、八幡町、水の浦町
     卸売市場は築町、浜口町分場
  農村不況がいよいよ深刻化。恐慌頂点に達する
  三菱長崎造船所で巡洋艦「三隈」が起工
     1935(昭和10)08/2909時30分、軍への引渡し式が挙行
  松早石油が三菱商事と特約店契約を結び三菱石油と日本石油商品を取り扱うことになる
  日見トンネル本河内側の入口に文明堂の中川安五郎が公園をつくり、園内に50本余の桜が植えられる
  九州内の新聞9紙が「西日本新聞連盟」を結成。福岡日日新聞が盟主となる
     福岡日日新聞、関門毎夕新聞、長崎民友新聞、佐世保民友新聞、
     日州新聞、佐賀日報、大分日報、鹿児島毎日新聞、熊本日日新聞
  竹の久保に消毒所が復活
  土井の首の長崎陶器株式会社が磁器タイル製造所として継承
  柴田漢三の晧台寺稲佐説教所が稲佐公園の用地を買収し移転。現在の地となる
     1947(昭和22)大龍山泰三寺と寺号公称することに。法地寺院に昇格
     開基開山は大龍(柴田)漢三
  川南豊作がイワシ漁獲地、朝鮮の新浦にトマトサージン工場を造る
     のち独自の製法を編みだし成功
  佐世保栄町の百貨店「田中丸商店」が商号を「玉屋」と改称
  下五島久賀島の田ノ浦の浜脇教会が潮風に曝され激しく痛み建て替えられる
     五島で最初の鉄筋コンクリートづくりの教会が建てられる
     解体された旧聖堂が久賀島の五輪地区に移設
  ビクターから愛八の歌による「ぶらぶら節(51665)」が再発
     片面は同じ愛八による「浜節」作詞は古賀十二郎、作曲は愛八
     「浜節」は昭郷土史家の古賀十二郎が歌詞を作る
      古賀十二郎は昭和の初め新大工町の舞鶴座で先代の中村鴈治郎の芝居を観た際、
      幕切れにでた住吉踊りの歌「浜じゃエー…」を元唄に数節の歌詞を作る
     丸山の名妓愛八に節をつけさせる
  林田貢が南島原駅前に幸屋旅館を開業
  沖之島の馬込に建つ聖堂が台風に耐える鉄筋コンクリート造平屋でゴシック洋式の聖堂に再建される。340平方米
     1927(昭和02)、1930(昭和05)と相次いだ台風で壊れる
  聖フランシスコ・ザビエル記念教会(平戸カトリック教会)が建立
  この年、長崎市内で腸チフスが大流行、患者総数2521人、うち死亡は470人
  満州事変が勃発。軍需物資の輸送量が増え関門両側に滞貨の山ができる
     軍は本州〜九州間を貨物がスムーズに流れなくては国防に支障が起こると強硬な意見を主張
     1935(昭和10)関門トンネルの建設話が復活

1932(昭和07)【昭和】 壬申(みずのえさる)

  《総理大臣》[第29代]犬養毅(→05/16)
        [犬養毅内閣]犬養毅の死去により大蔵大臣高橋是清が臨時兼任(05/16→05/26)
        [第30代]齋藤實(05/26→)
  《知事》[第29代(官選)]鈴木信太郎
  《市長》[第11代]草間秀雄

  01/01南高来郡南有馬村に町制が敷かれ南有馬町となる
     1937(昭和12)02/11南高来郡多比良村に町制が敷かれ多比良町となる
  01/28上海事変勃発
  02/02佐世保市福石免方面に腸チフス患者数人発生
  02/04放浪の俳人、種田山頭火が税関勤務で酒屋の松本十返花を、ぶらり訪ねる
     数日滞在し好きな酒樽の傍らで寝る
     すっかり剥げて布袋は笑ひつづけている (福済寺)
     冬雨の石段をのぼるサンタマリア    (大浦天主堂)
     逢うてチャンポン食べきれない     (友情に感激)
     灯の海の底から鐘が鳴りはじめた    (夜景)
     02/08松本十返花宅を辞す。再び托鉢姿で行乞の旅にでる。日見峠へ
     02/11小浜で2泊。加津佐、口之津、有家、布津から島原へ。坂本屋で休養
  03/01満州国が建国。国旗は新五色旗、年号は大同と決定
     1934(昭和09)03/01満州国の執政溥儀が満州国皇帝の即位式を行なう
     帝政となり元号を康徳と改元
     1945(昭和20)08/18溥儀が退位式を執り行なう
  03/02日華連絡船「長崎丸」、上海からの避難者848人を乗せ入港
     長崎駅前には救護所を設け、長崎医大の救護班が避難者の手当にあたる
  03/19浦上川の竹の久保町〜岩川町に架かる鉄筋コンクリート橋の竹岩橋を創建
     1945(昭和20)08/09原爆の爆風で東岸に接した桁は吹き飛び転倒、残された橋床は45米下流に吹き飛ばされる
     1948(昭和23)03/原形に復旧
     1959(昭和34)全面的に架け替えられる。長さ46米、幅員8.6米
     1976(昭和51)11/改修される
  03/27長崎刑務所片淵支所跡地〜長崎高商の片淵道路が開通
  03/28旭町に旭橋が架かる
  03/31市内西上町の市立トラホーム治療所を市役所内に移す
  03/以降日華連絡船「長崎丸」「上海丸」が前年の満州事変勃発で9万0099人の避難者を輸送
     1942(昭和17)05/17伊王島北沖で日本軍布設の機雷に触れ沈没
     1943(昭和18)10/30揚子江の東方40哩の沖合で南方兵員輸送船「崎戸丸」(1万瓲)と衝突し沈没
  04/01長崎電鉄が市営交通船との競合を避けるため旭町〜水の浦航路を休止
     長崎電鉄の航路は波の平・戸町・金鍔、船舶は常備6隻、予備4隻の合計10隻に
  04/01下県郡竹敷村が鶏知村に編入される
     1940(昭和15)10/17下県郡鶏知村に町制が敷かれ鶏知町となる
  04/01上野駅、東京駅構内に10店舗で鉄道弘済会が物品販売を行なう売店を開く
     鉄道事故などで一家の働き手を失ってしまった家族(主として鉄道殉職者の妻)に働き口を確保する目的
     1973(昭和48)08/01イメージチェンジを図るため「Kiosk(キヨスク)」という愛称が付けられる
     語源はトルコ語の「あずまや」。その語源はペルシャ語のコクーシュク(宮殿・別荘)
     キオスクにキヨク(清く)のイメージを託し、キヤスク(気安く)との思いを込めて
  04/24目黒競馬場で第1回「東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催
     イギリスのクラシック競走であるダービーステークスを範して創設された
     1周1600米のコースを1周半。結果ワカタカが優勝、騎手は函館孫作
     1933(昭和08)11/08東京府中競馬場が開設される
     目黒競馬場周辺の宅地開発が進み地代が高騰し移転を余儀なくされたため
  04/田中正行(25)が父から個人商店の「田中商店」を継承。2代目となる
     1934(昭和09)04/合名会社「田中長一本店」として法人化
  05/15五一五事件起こる
     夕方5時、海軍青年将校15人、海軍予備役将校1人、陸軍士官学校生徒11人、愛郷塾の農民決死隊21人が行動を起こす
     永田町の首相官邸にて犬養毅首相を撃って昏倒05/16午前02時35分死去
      田中五郎巡査を射殺、平山八十松巡査を撃って重傷
     芝三田台町の内大臣官邸に牧野伸顕を襲う
      橋井亀一巡査を撃って重傷
     政友会本部を襲い爆弾が爆発、丸の内の三菱銀行を襲い爆弾が破裂
     午後7時、亀戸、田端、鳩ケ谷、目白、淀橋の東電各変電所と尾久の鬼怒川水力電気変電所を襲撃
     田端と目白には爆弾を投げられず、亀戸と尾久では不発、鳩ケ谷と淀橋で炸裂。たいした被害にあらず
     参加した軍人たちはその足で全員、東京憲兵隊に自首。戒厳令は公布されず
  05/20福岡連隊差別事件の水平社社員出獄歓迎演説会が浦上町の大光寺説教所で開催される
     300人が出席
  05/25三浦環が来崎。佐世保会館で昼夜2回の公演。会費1円50銭
     05/28長崎市内、南座で昼夜2回公演
  05/東山学院(旧スチイル記念学校)が明治学院に併合され廃校に
     のち長崎東陵中学校となる
  05/コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が聖母の騎士修道院の裏山、彦山の麓にルルドの洞窟を建立
     1936(昭和11)05/管区会議出席のためポーランドへ帰国
     ポーランド・ニエポカラヌフの院長に再選
  06/18西彼杵郡大串村小迎小学校に麻疹流行
  06/18福江町の県立五島高女生が九州各地の修学旅行から帰った後、腸チフス発症、死亡
  07/01樺島灯台が初点灯
  07/20大村方面に疫痢・腸チフスが蔓延(〜07/22)
  07/27不況と失業が深刻化。全国の失業者50万人、農漁村の欠食児童は20万人にも上る
  07/31ドイツの国会議員選挙。ナチス・ドイツが230議席を獲得し第1党となる
     得票率37.8%、改選前107議席
     1933(昭和08)01/30国家社会主義ドイツ労働者党党首のアドルフ・ヒトラーが首相に任命される
     1945(昭和20)04/30ドイツの指導者兼首相アドルフ・ヒトラーが拳銃で自殺。エヴァ・ブラウンは毒を仰ぐ
     ふたりは前日にベルリンの地下壕で結婚式を挙げたばかり
     のち遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却される
     死亡は側近らの証言によって間接的に確認されるのみに
  07/林兼長崎支店が旭町3番地1に移転
     1937(昭和12)12/土井の首冷蔵所を新設
  08/05長崎電鉄の大波止〜戸町航路を浪の平寄港とする
  09/07佐世保海兵団で流行性脳脊髄膜炎
  09/30長崎県商工連合会の創立総会が長崎商工会議所で開かれる
     県内の商工会議所など42団体の代表71人が参集
     会長に長崎商工会議所、副会長に佐世保商工会議所、評議員に諌早、大村など10商工会を指名
     理事に長崎、佐世保両会議所理事をあげる
     1943(昭和18)10/各地の商工会議所を統合して長崎県商工経済会が設立されるに及び連合会も吸収
      それまで長崎県内の商工会議所の連合組織はなく
      各会議所固有の問題や県内商工業者に共通する問題も、各会議所が個別に問題解決に当っている実情
      会議所をはじめ県内の商工会等から必然的に連合組織の結成を望む声が高まる
      長崎商工会議所が佐世保商工会議所に呼びかけて県内商工団体の連合組織を設立
  10/06午後4時頃、東京市大森区の川崎第百銀行大森支店に拳銃を持った覆面男3人組が裏口から侵入、床に向けて発砲
     【10/07?】
     犯人グループは行員たちを応接室の前にならばせ、3万1700円を奪い裏口から用意していた自動車で逃走する
     のち主犯格で日本共産党資金局員のサイトウを検挙。サイトウの供述でのこる2人も検挙される
     犯人が共産党員で米映画に登場するギャングそのままの犯罪のため「赤色ギャング事件」と呼ばれるようになる
  10/07「長崎くんち」
     (4)…寄合町(本踊)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、築町(剣舞・御座船)、
     東上町(剣舞)、馬町(本踊)、大黒町(浮立)、八坂町(川船)、東浜町(本踊)、
     東古川町(川船)、本古川町(軍艦)、銅座町(本踊)
     本古川町の軍艦(三社艦)が三笠型から櫓マストの長門型へ変更
  12/02午前2時、静岡市呉服町にある田中屋百貨店仕入部階上の店員宿舎から出火
     宿舎と4階建て本館が炎上、さらに近隣の店舗が全焼して午前6時30分に鎮火する
     出火時、田中屋百貨店の階上宿舎に店員50人が寝泊り
     火事に気がつき、2階、3階から飛び降りて避難するが16人が負傷し男性店員2人が死亡
     田中屋百貨店は1931(昭和06)末に開店したばかり。火災は歳末大売出し2日目のこと
     日本最初のデパート火災となる
  12/16午前9時15分頃、東京日本橋の白木屋デパート4階の玩具売り場で火災が発生
     警視庁消防部は通報を受けてポンプ車29台、ハシゴ車3台などを出動させて消火活動にあたる
     ハシゴ車は4階までしか届かず、ポンプも送水圧力が上がらないため4階以上への放水はできず
     午後12時過ぎ地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して鎮火
     火災で逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し500人余りが重軽傷を負うなど、日本初の高層建築物火災に
      隊員の指示で店員の女性たちは次々に梯子を伝って降りていくが、途中で転落した者が続出
      ロープを伝って脱出している真下には大勢の野次馬。女性は和服で長襦袢のためズロースをはかず
      命よりも、女性の恥じらいを重んじた女性店員たちはロープから手を離し裾を押さえることに
      のち火災の報道が写真を含めて世界中に配信
      欧米諸国では女性の恥じらいを重んじ死んだ女性店員へ同情と涙を誘うことに
      のち白木屋は女性店員にはズロースをはくことを義務づけ、1933(昭和08)には和服から洋装を奨励
  12/20稲佐岳登山道路の工事に着工
     1933(昭和08)07/23延長3.3粁の稲佐岳登山道路が完成
  12/長崎工場懇話会が設立される
  映画常設活動写真館「喜楽館」が松竹作品を上映する映画常設興行場となる
     場所は「電気館」の隣り東浜町39番地の浜町本通。それまでは日活、東亜、マキノ、パラマウントを上映
     1960(昭和35)12/福岡の東宝九州興行株式会社が鉄筋コンクリート4階建を新築
     「長崎東宝劇場」と改称
  藤田チェリー豆が島原市内の中組に工場を建て店を広げ発展
     第2次世界大戦中名称を共栄製菓に変え備える
  長崎市農業会が長崎ハクサイを宮内省に献上
  島原鉄道、温泉軽便鉄道、小濱地方鉄道による諫早〜愛野〜千々石〜小濱の直通運転が休止
     1933(昭和08)07/小濱地方鉄道と合併し雲仙鉄道と改称
     所要時間は小濱〜千々石〜愛野村が片道約1時間半
  島原港湾の大手入海の旅館有明館の経営に村中茂夫が加わる
     1948(昭和23)島原市の推薦を受け村中茂夫は南風楼の経営を引き継ぐことに

1932(昭和07)頃

  長崎市袋町に平坂製薬の本社ビルが完成
     地上3階・地下1階、エレベーター・水洗トイレ完備。地下には自社印刷工場 を設備
     1933(昭和08)中国満州、蒙古へ進出
  自転車の荷台に飴玉の入った道具箱を積んだ紙芝居屋が大波止にあらわれる
     鉄砲玉付近に自転車を停めて町内を拍子木を叩きながら歩いてまわり子どもを集める
     1961(昭和36)頃街頭紙芝居がテレビの普及とともに姿を消す

1933(昭和08)【昭和】 癸酉(みずのととり)

  《総理大臣》[第30代]齋藤實
  《知事》[第29代(官選)]鈴木信太郎
  《市長》[第11代]草間秀雄

  01/23大浦天主堂が日本洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として、国宝に指定
     第2次世界大戦中多くの梵鐘が供出されるなか大浦天主堂の朝顔型の青銅製聖鐘は国宝のため供出が免れる
  01/30腸チフスが西彼松島村に発生
  01/30国家社会主義ドイツ労働者党党首のアドルフ・ヒトラーがドイツの首相に任命される
     1945(昭和20)04/30アドルフ・ヒトラーが拳銃で自殺。エヴァ・ブラウンは毒を仰ぐ
     ふたりは前日にベルリンの地下壕で結婚式を挙げたばかり
  01/雲仙大弓場が完成
     1973(昭和48)弓道場が老朽化のため撤去
  02/11長崎共産党事件がおきる。治安維持法違反で62人が検挙される
     芸術、文化運動を共産党、全協の外郭として再組織するため日本プロレタリア文化連盟(コップ)が結成
     コップは明確な左翼団体であり当局の厳重な警戒により追及、多数が検挙される
     長崎ではコップの名を使わず、福岡醇次郎らが文化サークルのグループ活動を組織
     主要な目的は労働者の組織づくり
     福岡らは自然発生的に中央の労働組合組織に準じて長崎でも進歩分子を中心にして全協の下部組織をつくろうとする
     非合法活動の共産党では困難として組合運動の活発なところは印刷技工組合
     労働組合の必要性を訴え全協の長崎準備会などの名を使い密かにビラ入れ
     同志に香焼炭坑の大納屋頭の息子林内栄蔵(25)、電鉄の運転士の田原治男(25)
     11/06長崎裁判所にて第1回公判が開かれる
     被告として福岡醇次郎(30)、林内栄蔵(25)、田原治男(25)が出廷
     福岡が懲役3年、林内、田原にそれぞれ懲役2年の実刑
  02/14パリ気象台長の発案で電話時報がはじまる
  02/20築地署の特別高等警察に検挙された小林多喜二が3時間にわたる拷問を受け息絶える
     指と前歯が折られ蹴り上げられた睾丸と陰茎は通常の3倍にまで膨れ上がる
     こめかみや二の腕には焼け火鉢を突き刺した跡。太股には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6か所も残る
     凄惨なリンチが死をもたらしたのは誰に目にも明らか。でも警察は死因を心臓麻痺と発表
     多喜二の関係者が望んだ遺体解剖については、どの医療機関もかかわりを恐れて引き受けず
  02/長崎商業会議所の第8代会頭に脇山啓次郎が就任
     1937(昭和12)02/第9代会頭に山田鷹治が就任
  03/27日本政府が国際連盟脱退に踏み切る
  03/東浜町16番地で文具店を営む2代目石丸忠兵衛が清水建設株式会社に文具店店舗建築を依頼
     清水建設株式会社の長崎進出第1号工事として鉄筋3階建の店舗が東浜町に完成
     1階が店舗、2階が倉庫、3階が応接室など。入口両側のショーウインドに施されたステンドグラスが好評
     長崎でも2番目の鉄筋コンクリート造り3階建店舗を新築。話題を呼ぶ
     当時、浜市商店街の中で3階建は林田洋傘店と二枝鼈甲店(ともに木造)だけ
     1935(昭和10)法人組織に改め、合名会社石丸文行堂設立。石丸忠兵衛(2代目)代表社員に就任
  03/矢の平町を流れる矢の平川に鉄筋コンクリート造の彦山橋が架かる
     橋長5.4米、橋幅4.6米、うち車道3.9米
  04/長崎市立商業学校が馬場郷徳蓮田から西彼杵郡西浦上村油木谷20番地に新校舎が落成し移転
     1945(昭和20)04/講堂や教室の一部が県の備蓄食糧保管倉庫として
     本館1階、雨天体操場などが三菱兵器製作所大橋工場分工場として使用される
  04/アメリカ映画「お蝶夫人」が日本で公開。お蝶夫人ブームがわき起こる
     演芸や音楽などの分野でさまざまな企画が実行に移される
  05/03戸町トンネルが開通。長さ327米、幅員7.7米、高さ5.8米【幅7.8米、高さ5.6米?】。総工費18万6千円
     長崎市の中心部と西彼野母崎、三和町など市南部を結ぶ国道499号の交通の要衝となる
  05/21北高来郡小江村に腸チフス発生
  05/スコットランドのネス畔でホテルを経営するマッケイ夫妻が巨大な怪獣の目撃。新聞報道される。ネッシー
     06/09巨大な怪獣がでるという噂が広がり、怪記事が「デイリー・エクスプレス」に掲載される
     11/英国アルミニウム会社の社員ヒュー・グレイが「ネッシー」をはじめて写真に収める
     グレーはフォイヤーズの近くで湖面から15米ほど上の崖の茂みを歩く
     ほんの200米ほどの距離、突然怪獣があらわれ、湖面を暴れまわるように泳ぐ。グレーは夢中でシャッターを切る
     12/06スコットランドの「デイリー・レコード」紙とロンドンの「デイリー・スケッチ」紙に掲載される
  05/長崎郵便局電話課が「電話の申込は今」と屋上から軽気球を揚げる
     電車広告、照明灯などで電話加入を勧奨する
     1933(昭和08)現在の電話加入総数は3976
  06/06天洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が東洋商事に売却。神奈川鶴見に曳航
     1933(昭和08)12/24天洋丸が浅野造船所で解体
  06/10浦上町西沢教習所にて長崎消費組合の創立総会が開かれる
  06/17大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一1等兵が信号無視
     交通整理中の曽根崎警察署の戸田忠夫【中西忠夫】巡査が注意し、天六派出所まで連行する
     中村1等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論したためつかみ合いの喧嘩になる
     互いに負傷、中村1等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治1週間の怪我を負うことに
     のち日本陸軍と日本警察の大規模な抗争に発展し、過剰なほどの騒ぎとなる
     議論は平行線をたどり、新聞をはじめとするマスメディアも「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じる
     08/24事件目撃者ひとり高田善兵衛が憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺
     国鉄吹田操車場内で轢死体となって発見される
     11/19事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が調停に乗りだし和解が成立
     11/20大阪地方検事局の和田良平検事正が仲介。官舎で戸田と中村が会い互いに詫びたあと握手
     和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したもの?
  06/19午前11時半、丹那トンネルの貫通式が開催される
     丹那トンネルは東海道線、熱海と函南のあいだ。総延長7804米
     三土忠造鉄道大臣が大臣室で最後の発破合図のボタンを押すと、坑道内に信号が伝えられ発破を実行し貫通
     1934(昭和09)03/10鉄道省は工事完成を発表
     丹那トンネルの総延長780米。清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長に
     のちレール敷設工事や電化工事が行なわれる
     11/30丹那トンネルの第1通過列車は午後10時東京発神戸行き2、3等急行、第19列車
     乗車希望者が多いために臨時に車両を増結し当時としては異例の15両編成での運行に
     12/01午前0時3分30秒に来宮信号所を通過
     午前0時40分に熱海口に入り、9分2秒で丹那トンネルを通過し沼津駅に到着
  06/27東彼杵郡川棚港に碇泊中の船中で疫痢患者死亡、また早岐町で腸チフス患者発生
  07/13長崎紡織の腸チフス患者36人
  07/23延長3.3粁の稲佐岳登山道路が完成
  07/25山形市でフェーン現象のため日本最高気温40.8度を記録
  07/温泉軽便鉄道と小濱地方鉄道が合併し、雲仙鉄道と改称
     所要時間は小濱〜千々石〜愛野村が片道約1時間半
     1935(昭和10)06/01営業管理を島原鉄道に委託。期間は1年間
     1938(昭和13)07/22経営不振で第35回定期株主総会において解散が決定
  07/雲仙の白雲の池キャンプ場開設
  09/20NHK長崎放送局開局(JOAGラジオ第1)
     ラジオ本放送開始。受信戸数は県内5790戸、市内2321戸、聴取料75銭
  09/22小説家・随筆家・戯曲家の吉田絃二郎が来崎
     講演会に出席し。演題は「否定と肯定の間で」で、思索する世界の魅力へ聴衆を誘う
  10/08「長崎くんち」
     (5)…丸山町(本踊)、桜町(剣舞)、小川町(コッコデショ)、内中町(獅子踊)、
     西上町(本踊)、八百屋町(本踊・曳段尻)、勝山町(剣舞)、恵美須町(恵美須船)、
     紺屋町(川船)、炉粕町(本踊)、伊勢町(剣舞)、台場町(薩摩棒踊)
  「長崎くんち」がNHK長崎放送局からラジオで全国中継放送される
  11/03平戸町に腸チフス患者発生
  11/03南松浦郡玉之浦村(福江島)に町制が敷かれ玉之浦町となる
     1934(昭和09)10/17南松浦郡有川村(中通島)に町制が敷かれ有川町となる
  11/08東京府中競馬場が開設される
     目黒競馬場周辺の宅地開発が進み地代が高騰し移転を余儀なくされたため
  11/11長崎署管内各検番の芸妓中花柳病感染者45人、厳重説諭
  11/11長崎商工会議所が長崎発明協会を創立
  11/28米内光政が佐世保鎮守府長官(中将)として着任
     佐世保官民合同主催の歓迎会が万松楼で開催される
  12/04長崎県営バス関係議案上程(12/15可決)
     1934(昭和09)01/23共栄自動車の営業権及び路線を買収
     01/24崎陽自動車の営業権及び路線買収
     01/25梅崎自動車の営業権及び路線買収
     01/26長諫自動車の営業権及び路線買収
     02/28温泉自動車の営業権及び路線買収
     03/24長崎県営自動車(長崎県営自動車運輸事務所)が長崎市玉江町3-3にて発足
  12/14南松浦郡三井楽町にパラチフス患者5人発生
  12/19浦上川の大橋町〜駒場町を結ぶ鉄筋コンクリート造の下大橋が創建
     1945(昭和20)08/09原爆により欄干の半分10数米が川に落ち、橋脚の一部が破壊
     1947(昭和22)欄干を修理
     1981(昭和56)03/全面架け替え
  12/19浦上川の橋口町〜大橋町を結ぶ鉄筋コンクリート造の本大橋が創建
     1945(昭和20)08/09原爆で崩落
     のち復旧
     1984(昭和59)06/昭和の大水害の災害復旧改良事業で架け替え
  12/23松尾サダ(愛八)座敷の帰りに倒れる
     12/30意識不明のまま眠り続け60才で死去
     古賀十二郎が葬儀の一切の面倒をみる
     葬儀には多くの知名士が参列、新聞も詳報をするほど盛大に行なわれる
  12/24天洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が浅野造船所で解体
  12/24東京有楽町に日本劇場が開場。披露式が行なわれる
     屈曲した外壁、広大な舞台、アールデコ調の内装など、画期的な建築要素がふんだんに取り入れられる
     設計は渡辺仁、施工は大林組
     1981(昭和56)02/15施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館となる
  12/25長崎電鉄が下の川(廃)〜大橋に路線(734米)を延長
  12/カステラの文明堂が東京・新宿に支店を開設
     のち「カステラ一番、電話は二番」のキャッチフレーズで電話帳広告他、本格的な宣伝を開始
     1962(昭和37)文明堂のテレビコマーシャルに仔グマのカンカンダンスが始まる
     当初は欧米で人気のキャンキャンキャットを想定して制作
     しかし担当者には仔グマに見え、健康的なイメージも欲しいと本番当日、クマという設定に
     ラストにしっぽを振るポーズはネコだった唯一の名残り
     のち軽快な「天国と地獄」に踊る仔グマは大反響
  12/長崎市の外郭団体・市教育会の創立15周年記念事業として、市から委嘱を受け市歌の歌詞を懸賞応募
     453点のなかから長崎商業学校の教諭松原清美の作品を選出、教育会が補作し「市教育会編」として歌詞が決定
     のちクラシック作曲家の橋本国彦が作曲を手がけ長崎市歌が制定
      一、立ち囲む 山皆青く 打ち浸す 汐の香(か)高し
        美(うるわ)しや 詩歌(しいか)の港 長崎 長崎 わが長崎
      二、新日本文化の光り 先がけて 射(さ)したる処(ところ)
        誇(ほこ)らしや 歴史の都 長崎 長崎 わが長崎
      三、百船(ももふね)の 出入り繁(しげ)く 雷(いかずち)と 鎚(つち)の音(ね)よどむ
        頼もしや 輝く 希望(のぞみ) 長崎 長崎 わが長崎
      四、国の為 力を 協(あわ)せ 自治の花 咲かせん清(きよ)く
        やよ 我等 市の民共(たみとも)に 長崎 長崎 わが長崎
     12/コロムビアから伊藤武雄の歌による「長崎市歌(A139)」が発売される
     レコードを学校などに配布、普及につとめる
     1972(昭和47)改めてスポットがあてられレコードが作り直される
  12/コロムビアから横山良三の歌による「長崎博覧会の歌(27632)」が発売される
     作詞は渡部龍夫、作曲は大村能章
     渡部龍夫は油屋町の歯科医院の技工士
     片面は赤坂小梅による「崎陽小唄」。作詞は乳井三郎、作曲は大村能章
  昭和恐慌を境に状況は一変、市内に2店舗ある糸岐商店のうち船大工店が閉店
     1943(昭和18)銀屋町の本店が閉鎖に追い込まれる
  町ごとの衛生組合が257組合に達する
     主として清掃・消毒・伝染病予防など衛生行政の協力を目的として活動
  平坂製薬が中国満州、蒙古へ進出
     1937(昭和12)頃日本全国の営業の為、フォード3台を購入。マイク放送による宣伝活動を開始する
  多くのキリスト教会が国家の強制的な要請をうけて、国家体制に迎合していく
     宮城来拝や戦争勝利祈願、戦地に送り出す兵士の送迎など
  「阿蘭陀満歳」が2代目花柳寿輔と花柳寿太郎の振りつけで東京新橋演舞場で初演
     1934(昭和09)国際産業観光博覧会演芸館にて花柳寿太郎が「阿蘭陀満歳」を指導、町検の芸妓衆が演じる
     1949(昭和24)05/29聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭で各国巡礼団の歓迎行事として再演。好評を博す

1934(昭和09)【昭和】 甲戌(きのえいぬ)

  《総理大臣》[第30代]齋藤實(→07/08)、[第31代]岡田啓介(07/08→)
  《知事》[第29代(官選)]鈴木信太郎
  《市長》[第11代]草間秀雄(→03/31)、[12]笹井幸一郎(05/21→)

  01/20長崎市内の流感による病欠生徒2千人、佐世保市1800人、平戸町1千人以上
  01/23長崎県営バスが共栄自動車の営業権及び路線を買収
     のち随時、営業権及び路線を買収
     01/24崎陽自動車の営業権及び路線買収
     01/25梅崎自動車の営業権及び路線買収
     01/26長諫自動車の営業権及び路線買収
     02/28温泉自動車の営業権及び路線買収
     03/16長崎県営自動車(長崎県営自動車運輸事務所)が長崎設立
     03/24長崎県営自動車(長崎県営自動車運輸事務所)が長崎市玉江町3-3にて発足
  01/25長崎市観光誘致協会と長崎市観光協会がそれぞれ「景勝の長崎」を発行
     鳥瞰図サイズ770×177mm 表面カラー刷/裏面1色刷・印刷折本
     「景勝の長崎」は吉田初三郎が描いた鳥瞰地図で被爆前の貴重な資料
     吉田初三郎は大正から昭和初・中期にかけて多視点魚眼法による鳥瞰名所図会を全国にわたり1400種以上描く
     「大正の広重」とも呼ばれた鳥瞰絵師
     長崎を中心として、北は東京から、南は台湾・上海まで描き込まれ、長崎から上海まで上海航路の軌跡が描かれる
  01/30学校閉鎖44校にのぼる
  02/04平戸町で感冒の患者、腸チフスと判明
  02/09東彼杵郡上波佐見村に無料診療所開設
  03/01満州国の執政溥儀が満州国皇帝の即位式を行なう
     帝政となり元号を康徳と改元
     1945(昭和20)08/18溥儀が退位式を執り行なう
  03/10鉄道省が東海道線、熱海〜函南間の丹那トンネルの工事完成を発表
     丹那トンネルの総延長780米。清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長に
     のちレール敷設工事や電化工事が行なわれる
     11/30丹那トンネルの第1通過列車は午後10時東京発神戸行き2、3等急行、第19列車
     乗車希望者が多いために臨時に車両を増結し当時としては異例の15両編成での運行に
     12/01午前0時3分30秒に来宮信号所を通過
     午前0時40分に熱海口に入り、9分2秒で丹那トンネルを通過し沼津駅に到着
  03/16日本初の国立公園、雲仙天草国立公園が霧島、瀬戸内海とともに正式に誕生
     1956(昭和31)公園区域に天草が加わる
  03/16雲仙が国立公園に指定され温泉公園の名を正式に雲仙公園に変更される
     温泉(うんぜん)温泉では紛らわしく雲仙温泉と改められる
  03/16雲仙天草国立公園が誕生すると同時に雲仙の観光開発に伴う旅客輸送手段として長崎県営自動車が設立
     長崎県では長崎市と雲仙の2会場で「長崎国際産業博覧会」を開催しようと準備中
     会場間の大量輸送を行うには既存事業者では困難と判断。民営5社の営業権を県が譲受しての発足
     03/24長崎県営自動車(長崎県営自動車運輸事務所)が発足
  03/18渕大橋(五厘橋)が鉄筋コンクリート造の梁川橋となり架設
     1945(昭和20)08/09原爆で欄干が損傷
  03/22竹の久保〜城山に全長440米、幅員3.6米の竹の久保道路が開通
  03/24官設鉄道の湯江〜諫早に有明線が開通
  03/24長崎県営自動車(長崎県営自動車運輸事務所)が長崎市玉江町3-3にて発足
     車輌18台、運転手8人、車掌14人で長崎〜諫早間の運行を開始
     05/20長崎市出島町4へ移転
     1937(昭和12)11/18大波止の玉江町3-4に移転
     1940(昭和15)07/10大波止の玉江町3-5に移転
     1941(昭和16)06/01長崎県営自動車運輸事務所を長崎県自動車局と改称
     1945(昭和20)05/20馬町81番地の富国徴兵保険(株)跡に移転
     1947(昭和22)07/29長崎県自動車局を長崎県交通局と改称
     1948(昭和23)05/11長崎県交通局を長崎県公共事業部と改称
     1950(昭和25)02/20長崎市大黒町に長崎県営バスの本部庁舎が落成
     1950(昭和25)08/12長崎県公共事業部を長崎県交通部と改称
     1961(昭和36)05/10長崎県営バス本局用地一部買収(大黒町588.38平方米)
     1961(昭和36)12/24長崎交通産業ビル着工
     1962(昭和37)04/20本局用地買収(大黒町541.30平方米)
     1963(昭和38)07/15長崎県交通部を長崎県交通局に改める
     1963(昭和38)11/30長崎県営バス、交通局本局庁舎及びバスターミナル「長崎交通産業ビル」が新築落成
     交通局本局庁舎(2階)及びバスターミナル(1階・地階)
     1968(昭和43)11/15幸町に本局用地として683.98平方米を買収
     1969(昭和44)04/25幸町に本局庁舎が新築落成
     1969(昭和44)05/06本局が大黒町3-1から幸町6-21へ移転
     2002(平成14)12/20八千代町に交通局本局及び長崎営業所が新築落成
  03/25第4回国際産業観光博覧会【長崎観光産業国際博覧会とも】が市内中之島、商工奨励館と雲仙にて開催
     長崎中之島会場のパビリオン
      産業本舘、産業貿易舘、海事水産舘、観光舘、長崎舘、外国舘、朝鮮舘、満洲舘、台湾舘、
      文明発祥舘、機械舘、ラヂオ舘、社会保険舘、国防舘、製鉄所、演藝舘の他、子供遊園地など
     05/23まで、入場者62万8784人
  03/25国際産業観光博覧会で長崎商工会議所は協賛会(会長・脇山啓次郎会頭)を設置
     主な事業は(1)演芸館建築(2)歓迎門・装飾塔設置(3)立看板・ポスター作成
     (4)花自動車宣伝隊(5)福引(6)休憩所・案内所(7)演芸館・野外劇場の演芸など
     事業に要した費用はすべて商工業者有志の寄附によってまかなわれる
     寄附金収入は1万1651口、15万1278円15銭
  03/25長崎産業博覧会が中之島埋立他で開催するににともない市営交通船が増便
     市営交通船、元船町〜志賀波止航路に中之島架設桟橋を開設
     第1・第2旭丸、第1飽の浦丸が就航(大人2銭、小人1銭)
     他の市営交通船は大波止〜旭町(玉丸、園丸)、大波止〜水の浦(第1・第2水の浦丸)が就航
  03/25長崎国際産業博覧会の期間中、鉄道省の客車を長崎〜島原湊(島原鉄道)に直通運転
     雲仙小浜自動車、島原自動車組合、九州商船との連帯運輸を行なう
  03/25長崎国際産業観光博覧会の開催初日、NHK長崎放送局からラジオで実況中継される
  国際産業観光博覧会演芸館にて花柳寿太郎が「阿蘭陀満歳」を指導、町検の芸妓衆が演じる
     1949(昭和24)05/29聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭で各国巡礼団の歓迎行事として再演。好評を博す
  03/31興善小学校と新町小学校が合併、新興善小学校が開校
     1936(昭和11)03/28鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工
     普通教室30、特別教室5、管理室6、雨天体操場1
  03/31国道34号の改良工事に伴い中島川上流に鎮西橋、中之橋、一之橋の3橋が創設
     3橋は形式の異なるコンクリート造アーチ橋
     鎮西橋…橋長10.4米、橋幅23.6米
     中の橋…橋長23.6米、橋幅23.1米
     一之橋…橋長15.2米、橋幅23.4米
     1989(平成01)04/01国道34号に架かる鎮西橋、中之橋、一之橋の3橋の幅が広がる
     中川2丁目〜馬町の国道34号の道路拡幅工事が完成したことによる
     鎮西橋…橋長13米、橋幅40.5米
     中の橋…橋長23.1米、橋幅36.6米
     一之橋…橋長17.5米、橋幅34.7米
  03/ビクターから小唄勝太郎の歌で「長崎音頭(53039)」が発売される
     作詞は西条八十、作曲は中山晋平
     長崎国際産業観光博覧会にちなんだ歌で「東京音頭」と同じトリオによるもの
     開局したばかりのNHKラジオでも紹介される
     片面は藤山一郎の歌による「長崎小唄」。作詞は平山蘆江、作曲は中山晋平
     03/25「長崎小唄」は長崎国際産業博覧会の期間中、初代藤間金弥の振りがつき会場で披露される
     駒菊、力丸、鹿の子ら6人の町検グループと、こでぼ、すずめ、から子、綾菊ら10人の東検グループの2組による
     2組は1日2回、26日間にわたって披露される
  04/11三菱重工業株式会社が設立し「三菱重工業株式会社長崎造船所」と改称
     1950(昭和25)01/10戦後の財閥解体により三菱重工業株式会社が解散3社に分割
     「東日本重工業株式会社」「中日本重工業株式会社」「西日本重工業株式会社として発足
     「三菱重工業株式会社長崎造船所」は「西日本重工業株式会社長崎造船所」として発足
  04/18アメリカのテキサス州フォートワースでJ.F.カントレルがアメリカ初のセルフサービス式ランドリーをはじめる
     「washateria(ウォッシャテリア)」はコインランドリー
     コインを入れて動かす4台の電気洗濯機が置かれ料金は1時間単位
  04/個人商店の「田中商店」が合名会社「田中長一本店」として法人化
     1934(昭和09)旭硝子(株)の新・特約店の1号となる
     のち旭硝子(株)、日本板硝子(株)の特約店となる
     1938(昭和13)02/合資会社「田中長一商店」に改組、改称
  05/05福岡県筥崎八幡宮で無事故祈願した長崎県営バス初の新車10台が到着
  05/06長崎県営バスが長崎〜雲仙間に直通運行を開始
  05/29佐世保海軍病院に家族診療所設置
  05/31西彼杵郡崎戸町に天然痘
  05/第4回国際産業観光博覧会にあわせ
     東濱町46番地に木造3階、一部4階建の(株)岡政百貨店が開業。県内でも佐世保玉屋に次ぐ百貨店
     1988(昭和63)07/31閉店
  06/19腸チフスが長崎市内に蔓延し始める
  06/22長崎市内小菅町に腸チフス18人、北松佐々・柚木にも続発
  06/23長崎市が井水の使用を禁止
  06/30東彼杵郡折尾瀬村に腸チフス発生
  06/長崎県営バスが雲仙で開催された全国新聞記者大会へ初の貸切バス10台を運行
  07/11長崎県営バスが東望海水浴場に初の臨時運転
  07/11猖紅熱が大村町の女子師範に発生
  07/24長崎医大眼科の開眼検診、西彼杵郡瀬戸町より始まる
  07/野母商船が長崎〜平戸〜壱岐〜対馬の航路を開設
  08/11北松浦郡津吉村に腸チフス患者6人
  08/16長崎市浪の平町に疑似赤痢、館内町に腸チフスが発生
  09/21午前5時、室戸岬から台風が上陸。室戸台風
     徳島、淡路島、神戸を経て、京都、福井、石川、富山、各府県を経由して正午過ぎに新潟の海上へ抜ける
     世界気象観測はじまって以来最低の911.9mbを記録
     被害は全国にわたり、死者2702人、行方不明334人、負傷者1万4994人、
     倒壊家屋9万2740戸、浸水家屋40万1157戸、船舶損壊2万7594隻
     のち政府は災害を教訓として注意報警報を発表するようになる
  10/07「長崎くんち」
     (6)…寄合町(本踊)、本大工町(曳段尻)、今博多町(本踊)、本紺屋町(コッコデショ)、
     今魚町(川船)、本籠町(蛇踊)、材木町(本踊)、古町(本踊)、上筑後町(獅子踊)、
     江戸町(兵式調練)、本興善町(本踊)
  10/17南松浦郡有川村(中通島)に町制が敷かれ有川町となる
     1940(昭和15)11/03南松浦郡三井楽村(福江島)に町制が敷かれ三井楽町となる
  10/松永東が雲仙にことぶき旅館を創業
     のち県の教職員組合が経営
     1951(昭和26)本多新次郎が経営を引き継ぐ。本多は1906(明治39)愛野生まれ
     のち先妻が死去、後添いを迎える
     1960(昭和35)本多が死去。夫人が経営を引き継ぐ
     1967(昭和42)02/雲仙国際観光会館の上にホテル本多をオープン
  11/03東彼杵郡川棚村に町制が敷かれ川棚町となる
     東彼杵郡上波佐見村に町制が敷かれ上波佐見町となる
     1939(昭和14)11/03東彼杵郡西大村、竹松村、大村町が合併し大村町となる
  11/27諫早町の長崎製糸で腸チフス患者80人突破
  11/アメリカメジャーリーグ選抜軍35人が横浜港に来日。メンバーはベーブルースやルー・ゲーリックなど超一流
     日本は読売新聞社・正力松太郎の「大日本東京野球倶楽部」や六大学OBを主体とする実業団チーム東京倶楽部と対戦
     仙台をはじめ函館、小倉、東京は神宮など11の地方球場で転戦をかさねる。戦績はアメリカの18戦18勝
  12/01官営鉄道有明東線と有明西線が結ばれ有明線(長崎平坦線)が全通。長崎本線となる
     旧長崎本線は佐世保線、大村線に改称。長崎〜門司は早岐回りに比べ普通で約1時間、急行で約30分の短縮
  12/13西彼杵郡崎戸町に疑似天然痘
  12/20長崎電鉄が諏訪神社下(現・諏訪神社前)〜螢茶屋に路線(992米)を延長
  長崎学三羽烏の永山時英、古賀十二郎、武藤長蔵と斎藤茂吉が蘭学者大槻玄沢の孫、大槻如電と料亭「瓊林館」で会食
  元船町3丁目に長崎初の石油スタンド「藤岡石油店」が開業
  鈴木天眼が今鍛冶屋町8番地で発行していた「東洋日の出新聞」が廃刊
  馬場郷の長崎県女子師範学校が東彼杵郡大村町の長崎県師範学校の地に移転
     東彼杵郡大村町の長崎県師範学校が馬場郷にもどる
     1937(昭和12)10/30長崎県師範学校が西浦上村家野郷に校舎を新築。桜馬場から移転
  諏訪馬場新設、新国道開設、馬町螢茶屋間電車開通のため、旧国道が市道に格下げ
  大手橋(堂門橋)が国道から市道になり当初の石造アーチ部分の上に鉄筋コンクリート橋が架かる。長さ12.5米
  道路改装のため余った大手橋の擬宝珠親柱1本を足りなかった眼鏡橋の控柱に補充活用
  茂木道路が開通(現国道324号)
  長崎電鉄の浪の平航路に長崎遊泳協会から日の丸号を1日当り4.5円で借り、三菱の鵯丸で曳航して運航
  向井家11代兼徳氏が伊勢町の長崎聖堂(中島聖堂)の大成殿と大学門を長崎県教育委員会に寄贈
     1959(昭和34)03/大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺の境内に移築復元
  「長崎県立盲学校」が上野町(のち橋口町)に最新の設備を有する鉄筋コンクリート造3階建ての新校舎を完成
     桜馬場町から移転
     1945(昭和20)02/校舎を三菱長崎造船所に貸与。学校は長崎市近郊の長与村に疎開移転
  商店街の繁栄が本籠町・船大工町から浜町に移行、船大工町の川口べっ甲店も浜町に移転
  小浜、北本町の旅館一角楼が自家温泉のボーリングを開始
     2年半あまりの間に10本を掘り、うち2本から温泉が吹き上げる
     1964(昭和39)鉄筋6階建の一角楼観光ホテルを竣工
  県下で流感猖獗
  平凡社の「大百科事典」全28巻が完結。第1巻刊行は1931(昭和06)11/25
     企画出版は創業者の下中弥三郎。編集長は東大の心理学者の木村久一
     【1935(昭和10)?】

1934(昭和09)頃

  海産物輸出の衰退を補う形でイワシ缶詰の輸出が急増する

1935(昭和10)【昭和】 乙亥(きのとい)

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