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〈昭和時代(6)〉

1943(昭和18)【昭和】 癸未(みずのとひつじ)

  《総理大臣》[第40代]東條英機
  《知事》[第34代(官選)]山内義文
  《市長》[第15代]岡田壽吉

  01/01東西で異なっていた「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の題号が「毎日新聞」に統一される
  01/13ジャズなど約1千種の欧米の音楽の演奏、レコードの発売が禁止となる
  01/15警察での常備消防部を廃し、本興善町9番地(瓊林会館を買収)に市・長崎消防署を設置
  01/福富町3丁目の三菱長崎造船所幸町工場内の紡績工場跡地に福岡県俘虜収容所第14分所が開設
     元長崎紡績(株)、国光紡績(株)のち倉敷紡績の跡地
     建物は全部で7楝と付属施設。7楝のうち1楝が煉瓦造りで、他6楝は木造平屋建
     インドネシア人480人を収容
     収容所の日課は毎日引率され飽の浦の三菱造船所にいき、鋳物、木工、鋲打ちなどの作業をする
     一部は幸町工場でも働く
     1943(昭和18)春/収容所でクルプ性肺炎が流行し、死者が続出
     作業中の事故死を含め原爆前に110人が長崎の土となり、遺骨は浦上天主堂に安置
     1944(昭和19)05頃/オーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
     1645(昭和20)08/015次空襲で造船所と幸町工場が攻撃を受け、収容所の俘虜3人が死亡
     1945(昭和20)08/09原爆落下日は造船所の就労はなく、全員が幸町工場、収容所の修理などをする
     幸町工場は瞬時にして全施設が全壊、猛火に包まれる
     収容所は煉瓦塀が崩れ落ち建物は全焼し、60〜80人が即死、200人余りが重軽傷を負う
     08/09夜、俘虜は金比羅山や浦上川川岸の空地などで一夜を過ごす
     08/10朝、どこからともなく幸町工場に集まり、仲間の遺体を発掘
     のち俘虜は造船所の小が倉寮(現戸町中学校)に移る
     09/それぞれ本国に送還
  01/内務省と情報局が米英音楽約1000曲の演奏禁止リストを示し追放を指示
     「軽佻浮薄、物質至上、抹消感覚万能」に毒され「国民の士気の昂揚」のために一掃すると説明
     さらに国民生活に溶け込んでいる「敵性語」も使用禁止に
  02/15神戸〜東京の客車特急「鴎」が廃止となる
     1953(昭和28)03/15博多〜京都に復活。列車番号6レ、5レ
     初日の編成(7)〜(9)は招待客用車両
     (機)EF10、C57+(1)スハニ35+(2)スハ44+(3)スハ44+(増)スロ54+
     (4)スロ54+(5)スロ54+(6)スシ47+(7)スロ54+(8)スロ54+(9)スハフ43
  02/26長崎市内で戦争遂行に必要な金属類が不足し、金属類の回収を開始
     神社、寺院、教会、墓地等の金属類が対象となり、各寺院の由緒ある梵鐘などが姿を消す
     茂木町田上寺の232年の歴史を持つ梵鐘も軍需品に姿を変える
     07/01長崎県金属類非常回収工作隊が結成され、組織的な推進が活発化
     1944(昭和19)05/01長崎県金属類決戦回収工作隊と改称
     橋の欄干、神社の鳥居、寺の梵鐘さえも回収の対象に
     橋の欄干は木製に換わり危険防止に「サワルナ」の張り札がつく
  大阪通天閣の脚部が直下にあった映画館大橋座の火災で加熱により強度不足に
     02/13鉄材を軍需資材として大阪府に献納。塔は解体され、初代通天閣は姿を消す
     1956(昭和31)10/28地元の人たちの想いの結晶として2代目通天閣が誕生する
     本体は鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)。塔高地上100米、幅24米、脚間24米
  03/01国民体力法に基づき長崎市が乳幼児の体力検査を実施
  03/31長崎市療養所を廃止、これを長崎医療団に移管
  03/男子フランシスコ会が聖フランシスコ神学校を結核療養所とし浦上第1病院開設
     軍に摂取される前の苦肉の策として、難を逃れるため結核病院に
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により壊滅
     1945(昭和20)11/焼け跡に聖フランシスコ診療所が開かれる
     1947(昭和22)木造建病舎(25床)を建設
     1949(昭和24)10/聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
     聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
     診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
     1963(昭和38)聖フランシスコ結核療養所が聖フランシスコ病院に改名
     1968(昭和43)10/宗教法人聖フランシスコ病院会として改組
     1970(昭和45)02/新病院竣工。近代的な病院に改築。鉄筋4階、地下1階となる
     1980(昭和55)06/結核病床が廃止となる。病床数が228床となる[一般病床228床]
     1996(平成08)04/救急病院の告示認定がされる
     2000(平成12)04/居宅介護支援事業所のフランシスコ ケアプランセンターが開設
  04/01長崎県師範学校と長崎県女子師範学校が合併
     官立の専門学校となり長崎師範学校と改称。男子部、女子部に
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により長崎師範学校男子部の校舎が全壊全焼、学生54人が被爆死
     本部が大村市の女子部に移転。男子部は大村市の旧西部147部隊兵舎に移り授業を再開
     【旧四六連隊の旧兵舎を使用して授業を開始】
  04/01西海町営船に瀬川丸(1日1航海)就航。大八丸、畑丸は海軍施設部傭船契約に
     1944(昭和19)03/20大瀬戸町三年ケ浦沖で沈没、約200人死亡
  04/10門司鉄道管理局長崎管理部の新庁舎が出島長崎港駅前に落成
     起工は1942(昭和17)07/17
     敷地1151坪、建坪430坪、建設費27万円、
     招待 部外170人、局33人、元在勤者6人、現場長76人、部員217人で計503人
      それまでの第1庁舎は出島町7番地のホーム・リンガーの建物、
      第2庁舎は出島町10、11番地の朝永病院の一部
     1945(昭和20)04/12夜、施設課員の電熱器の不始末により失火。管理部建物の約2/3を焼失
     敵機の来襲が次第に烈しく港湾地帯であり、比較的攻撃目標になりやすいため修復を断念
     また出島近辺では、防空壕の施設が非常に困難等々の理由で長与駅前の適地を物色、管理部の施設を仮設することに
     05/06長与村大字吉無田郷字内園101番地にて地鎮祭
     突貫工事は地方村民各位の奉仕作業などをあわせて早期に完成。防空壕は裏山に掘鑿
     06/20頃長与村大字吉無田郷字内園101番地にて仮庁舎が落成
     06/23管理部が移転
     官舎は管理部裏の谷間に10数のバラックを建設、浦上村付近にある鉄道官舎の強制疎開となっているものを移転
     幹部級はおおよそこれに居住する
     08/09門司鉄道管理局長崎管理部は原爆の大きな被害から逃れ、鉄道の早期復旧の原動力になる
  04/16アルバート・ホフマン博士が偶然、彼の指先を通るいくつかの統合「LSD-25」を摂取
     副作用により奇妙な「LSD(lysergic acid diethylamide)による幻覚体験」を発見する
  04/30デンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社の陸揚げ権が消滅
     大北電信会社の海底電信は長崎沖の日本領海において切断することに
     1953(昭和28)04/01長崎国際電報局、国際電信電話(株)が長崎国際電報局として新発足
     大北電信会社から運用権をはじめ、長崎の局舎、機械、日本領海の海底線などいっさいの所有権を買収
     大北電信の名が長崎から完全に消える
  04/有限責任長崎信用組が市街地信用組合に
     1950(昭和25)04/信用組合に
  04/水産統制令により林兼長崎支店が西大洋漁業統制(株)長崎支社を設置
     1945(昭和20)12/大洋漁業株式会社と社名を変更
  04/上大浦小学校廃止により仁田小学校が児童約300人を収容。同時に高等科の児童を大浦国民学校に収容
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により校舎の屋根が大破、降雨期は授業を中止。校舎の至る所に損害を受け使用禁止
  春/福岡県俘虜収容所第14分所でクルプ性肺炎が流行し、死者が続出
     福岡県俘虜収容所第14分所は福富町3丁目の三菱長崎造船所幸町工場内に所在
     作業中の事故死を含め原爆前に110人が長崎の土となり、遺骨は浦上天主堂に安置
     1944(昭和19)05/頃オーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
  05/04倉場富三郎の妻ワカが69才で死去
     遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
     1945(昭和20)08/26富三郎が自殺
     遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
  05/長崎商業会議所の第10代会頭に松田一三が就任
     1943(昭和18)09/第11代会頭に橋本辰二郎が就任
     1943(昭和18)09/新法に基づき長崎商工会議所が長崎県商工経済会に統合
  06/10長崎市が米英蓄音器音盤の回収をはじめる
     07/01739枚を回収し長崎署へ送付
  06/15長崎市が毎月15日を防空訓練日と定め、各町内ごとに隣組単位で実施することを決める
  06/20飛行機「長崎市民号」の献納準備協議会が開かれ町内会、会社、工場単位に募集がはじまる
     寄付金募集には翼賛壮年会、大日本婦人会支部、青年団も積極的に協力
     年末約58万円が集まる
     1944(昭和19)03/08、19献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
     三菱長崎造船所従業員の醵金で艦上戦闘機「三菱長崎造船号」を海軍省に献納。正式名は「報国第1373号」
  06/30長崎県営バスが西肥バスの5路線とを共栄自動車の2路線買収
  06/野母商船がマニラ〜イロイロ〜セブ〜ダバオのフィリピン航路を開設
  07/01島原鉄道口之津鉄道を吸収合併し諫早〜加津佐78.5粁となる
  07/01戦時統制により島原鉄道口之津鉄道を吸収合併。諫早〜加津佐間78.5粁となる
     島原鉄道…諫早〜島原湊、口之津鉄道…島原湊〜加津佐
     同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
  07/大学や高専の学生たちが三菱の各工場や川南造船所などに貴重な労働力として動員されるようになる
  08/09八幡神社横の常設芝居小屋「八幡座」が「長崎歌舞伎座」と改称
     1946(昭和21)火事により焼失
     のち教会と幼稚園に
  08/防空指導員会議が袋町の公会堂で開かれる
     軍、県、各警察署、市役所、警防団、報道機関、地区の指導者など防空の指導層を網羅
  08/三菱長崎造船所が「必勝」「報國」(各430瓲)2隻を建造。水の浦・立神に配置し直営で運航
     戦後「女神丸」「新生丸」と改称
  09/新法に基づき長崎商工会議所が長崎県商工経済会に統合
     1946(昭和21)10/長崎県商工経済会が全国いっせいに解散される
     商工経済会は戦時中に、商工会議所に代わり国策協力機関として各都道府ごとに設立
  10/01長崎〜東京間の客車特急「富士」が戦況を鑑みて博多〜東京間に短縮
     1944(昭和19)04/01廃止となる
  10/07「長崎くんち」渡御
     (1)は御神幸のみ。奉納踊は自粛。東検番が奉納踊と称し三菱会館で舞い納める
  10/21東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部主催の出陣学徒壮行会が実施される
     兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵出征させるため
     強い雨の中、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県の各大学、専門学校から召集された出陣学徒が隊列行進
     伴奏は「陸軍分列行進曲」「海ゆかば」の斉唱、宮城遙拝、
     岡部長景文部大臣の開戦詔書の奉読、東條英機首相の訓辞、
     東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎の答辞などが行なわれる
     送られる学徒2万5千人、見送る女子学生ほか約5万人が集まる
  10/30日華連絡船「上海丸」が揚子江の東方40哩の沖合で南方兵員輸送船「崎戸丸」(1万瓲)と衝突しが沈没
  10/30日華連絡船の航路が途絶え臨港鉄道、長崎港駅の役目が終わる
     1949(昭和24)10/15長崎港駅から、さらに大浦川まで692米の臨港線延長敷設工事が完成
     長崎港駅で開通式を挙行
  10/親和銀行が佐世保貯蓄銀行を合併
     1969(昭和44)04/佐世保市に本店を完工
  10/各地の商工会議所を統合して長崎県商工経済会が設立されるに及び連合会も吸収
      それまで長崎県内の商工会議所の連合組織はなく
      各会議所固有の問題や県内商工業者に共通する問題も、各会議所が個別に問題解決に当っている実情
      会議所をはじめ県内の商工会等から必然的に連合組織の結成を望む声が高まる
      長崎商工会議所が佐世保商工会議所に呼びかけて県内商工団体の連合組織を設立
  11/01第二次世界大戦により税関事務を海運局に統合
     長崎税関は門司海運局長崎支局に併合
     1945(昭和20)08/09原爆投下、旧長崎税関庁舎甚大な被害を受ける
  11/13勅令第八百六十八号により「要塞地帯法戦時特例」が公布される
     1945(昭和20)10/13勅令第五百七十六号によって「要塞地帯法」「要塞地帯法戦時特例」等が廃止となる
  11/20寄合町1番地より出火。俗に丸山の火事。原因はお燈明
     貸座敷大吉楼、梅月楼、三日月楼などが焼け全焼11棟、半焼1棟
     焼失面積1万1022平方米、被災者22世帯128人、死者6人、負傷者2人
  12/03日本郵船発注の商船「新田丸」から改装した特設空母「冲鷹」が沈没
     トラック島から日本に向かう途中、
     八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
  12/08南松浦郡奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
     1954(昭和29)04/01南松浦郡奥浦村、崎山村、本山村、大浜村、福江町が合併し福江市となる
  12/17作家の丹羽文雄が海軍報道班員として戦意高揚のため長崎に派遣される
  12/18並行航路統合の国策に基づく燃料統制が施行
     長崎電鉄が所有する船舶・施設・航路権など関係の設備一切を73万円で長崎市へ譲渡、港内航路の統合を図る
     譲渡航路は大波止〜立神〜戸町、大波止〜浪の平〜西泊、大波止〜向島
     既存の市営航路は大波止〜水の浦、大波止〜旭町、旭町〜松が枝
     譲渡船舶は第1〜第4電鉄丸(69.32瓲)、第5・第6電鉄丸(55.82瓲)
     第7・第8電鉄丸(39.35瓲)、第10電鉄丸(39.62瓲)、第11電鉄丸(128.48瓲)
     第12電鉄丸(のちの第3鶴丸128.48瓲)、のちの第4鶴丸。市営交通船は合計16隻となる
     第1〜第9電鉄丸は第1〜第9長港丸と改名
     船車連絡料金は電鉄が収納
  年末飛行機「長崎市民号」の献納準備協議会が開かれ町内会、会社、工場単位に募集
     寄付金募集には翼賛壮年会、大日本婦人会支部、青年団の積極的な協力の結果、約58万円が集まる
     1944(昭和19)03/08、19献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
     三菱長崎造船所従業員の醵金で艦上戦闘機「三菱長崎造船号」を海軍省に献納。正式名は「報国第1373号」
  長崎バス(株)が戸町〜梅ケ崎間の崎陽バスと運休状態の城山〜福田〜式見間の山一バスを買収
     長崎バスは目標通り野母半島と西彼杵半島全域にバス路線を結ぶことに
  長崎バス(株)が長崎雲仙連絡汽船を吸収し設立した海運部が戦時合理化により長期休業に入る
  諏訪神社の青銅製鳥居が金属類特別回収のため撤去
     1952(昭和27)04/28鎮西大社諏訪神社に一の鳥居が建立
     戦後講和記念として橋本和太八ら6人の奉納による
  長崎駅裏の中之島で興行中のサーカスが終了後、軍命令でライオンを薬殺すると噂される
  西部瓦斯が北九州を営業区域とする九州瓦斯を合併、資本金1400万円となる。顧客戸数6万3700戸
  銀屋町にある糸岐商店本店が閉鎖に追い込まれる
     糸岐商店は1883(明治16)、銀屋町に糸岐千代蔵が開店
  東山手教会、長崎聖教会、救世軍長崎小隊が国家による解散を命ぜられる
     長崎銀屋町教会がそれらの信徒・牧師数10人を受け入れる
  矢上〜江の浦に県営バスが運行を開始
  上町の長崎孤児院が実質的に閉鎖
  1911(明治44)生まれの山賀誠二が長崎市内でに旅館油屋を創業
     山賀誠二の父は築町で山賀石油店を経営。松早石油や藤岡石油と並んで集まりの席では常に上座につく
     1967(昭和42)岡町の住宅地に旅館を建て屋号をまこととして新発足
     閑静、高台の都心から離れた場所で純旅館としての経営は長崎観光旅館業界の注目を集める
  雲仙新湯の九州ホテルが日本海軍の保養施設として接収さる
     戦後日本軍の接収が終わる
  戦艦「武蔵」が呉軍港から連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
     1944(昭和19)10/米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
     レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す

1944(昭和19)【昭和】 甲申(きのえさる)

  《総理大臣》[第40代]東條英機(→07/22)、[第41代]小磯國昭(07/22→)
  《知事》[第34代(官選)]山内義文(→08/01)、[第35代(官選)]田中重之(08/01→)
  《市長》[第15代]岡田壽吉

  03/06戦局悪化で用紙不足のため新聞の夕刊が廃止となる。朝刊は4ページに
  03/08、19飛行機「長崎市民号」の献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
     海軍省への献納は三菱長崎造船所従業員の醵金による艦上戦闘機「三菱長崎造船号」
     正式名は「報国第1373号」
  03/20西海町営船が大瀬戸町三年ケ浦沖で沈没、約200人死亡
     1945(昭和20)10/01大八丸(1日1航海)が横瀬を基地とし就航
  03/29長崎高等商業学校(第3高商)が勅令第165号により長崎経済専門学校と改称
     長崎工業経営専門学校が併設
     1946(昭和21)04/01長崎工業経営専門学校がその使命を終えて廃止
  04/01博多〜東京間の客車特急「富士」が廃止となる
  04/01小樽の海員寄宿所が日本海員掖済会小樽病院として開設する。25床
  04/06資本金10万円(2千株)で土木建築請負業を目的に(株)長崎土建工業所が発足
     本店は長崎市茂里町91番地に。代表取締役に溝越繁義が就任
     1946(昭和21)01/30本社を長崎市東浜町44番に移転
     1952(昭和27)05/09本社を長崎市羽衣町31番に移転
     1976(昭和51)05/10本社を長崎市出島町4番2号に移転
  国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の吉井川橋梁が架かる
     単線鉄道橋でアーチ部全長45m88cm、アーチ半径5m×4
     戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
     1944(昭和19)04/13潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
     2004(平成16)製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
     鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
     2006(平成18)02/竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
     竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
     2006(平成18)09/同駅間にある吉田橋梁、福井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
     長崎県のまちづくり景観資産にも指定
  04/13国鉄伊佐線の潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間が開業
     コンクリートアーチ橋の吉田橋梁、福井川橋梁、吉井川橋梁の3橋がそれぞれ供用開始
     2004(平成16)鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
     鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
  04/15長崎県が県下の中等学校に初めて学徒動員を指令
     第1陣として長崎市立商業学校、県立長崎工業学校の3、4年生と市内の全女学校の4年生
     三菱造船、川南造船、三菱兵器、三菱電機の主要生産部門に6か月配置
     1945(昭和20)学業が1年間中止に
     男子中学2年生以上は工場労働に専念、1年生は土木作業の合間に授業を受ける
  04/「決戦非常措置要綱」により6大都市の国民学校児童200万人へのおにぎり1個の給食が開始
     09/パンに変更
  05/01金属類の回収をする長崎県金属類非常回収工作隊が長崎県金属類決戦回収工作隊と改称
     橋の欄干、神社の鳥居、寺の梵鐘さえも回収の対象に
     橋の欄干は木製に換わり危険防止に「サワルナ」の張り札がつく
  05/01警察官による「長崎県警備隊」の結成式が挙行。隊長以下74人
     警備隊は激化する空襲に対処するために設けられ、ひたすら非常事態発生に備えての訓練に徹底
     本部は立山町に(現ユースホステルの場所)
  05/27長崎三菱造船所で特攻艇「震洋(○に四で[マルヨン]とも呼ばれる)」の試作第1号艇が完成
     06/30約200隻が完成
     ベニヤ製の1人乗りモーターボートで艇首に250瓩爆弾を搭載。重量1.4瓲、全長1.5米、速力23節
     本土決戦に備えた水上特攻部隊の主力となり、全国の整備隊25と済州島に配備
     攻撃目標は輸送船と大型上陸用舟艇
  05/長崎製鉄所が諏訪神社に奉納した青銅の神馬が長崎県金属類決戦回収工作隊に回収される
     1985(昭和60)10/01新しい青銅の神馬が奉納される
     北村西望が前年に制作した第16回日展出品作品で、天皇在位60年を奉祝して復元
  05/長崎駅前の文明堂支店の前の建物を中川安五郎から戸野本得蔵が月300円で借り受け旅館を始める
     戦後樺島町に移る
     1946(昭和21)旅館中央荘として経営を開始
     1967(昭和42)12/万才町にニューホテル中央荘を建てる
     地下1階、地上7階の和洋折衷、客室36。宴会場、会議場の設備のほか、7階にスカイレストラン、屋上はビアガーデン
     貿易港長崎の発祥の地、万才町の高台に長崎の展望所としてタワーの役割を果たす
  春/福富町3丁目の福岡県俘虜収容所第14分所にオーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
     1645(昭和20)08/015次空襲で造船所と幸町工場が攻撃を受け、収容所の俘虜3人が死亡
  06/06第2次世界大戦中、連合国軍がナチス・ドイツに占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦を行なう
     最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡りフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸する
     「史上最大の上陸作戦」となる
  07/03午後11時、台湾基隆から門司へ向けて航行中の日本郵船の賀茂丸(7954トン)が米潜水艦の攻撃を受ける
     場所は長崎県の五島列島黄島富江の南南西9マイル付近
     23時08分沈没して499人が死亡。賀茂丸は台湾航路の一般乗客を扱う船
     戦時中のため賀茂丸撃沈については報道されず
  07/沖縄戦に備え内閣は沖縄県民のうち老幼婦女子と学童の集団疎開を決定。8万人を本土へ、2万人を台湾へ
  08/1029機のB-29が中国の成都基地を発進、長崎に初空襲を行なう
     第1次空襲(目標:市街地)
     午後11時20分、警戒警報発令。1分間のサイレンが鳴り響く
     午後11時30分、空襲警報発令。警報の短い断続10回のサイレンが響く
     08/11午前03時12分、空襲警報解除
     各機3瓲の焼夷弾、爆弾は三菱の工場地帯を攻撃目標としたが外れ三菱造船所に被害はなくすむ
     平戸小屋町、稲佐町と古河町の一部が焼け、焼夷弾のほとんどは大山、彦山を含む山中に落下
     家屋被害は全半焼9戸、全壊1戸。死者13人、重傷26人で空襲による長崎初の犠牲者に
  08/18日本郵船発注の商船「春日丸」から改装した特設空母「大鷹」が沈没
     フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け、1本の魚雷が命中
  08/22学童疎開船「対馬丸(6754瓲)」が那覇から長崎へ向けて出港
     すでに九州南海は米潜水艦が出没する危険地帯で、護衛なしの航行は無謀
     鹿児島県トカラ列島、悪石島の北西10粁で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、わずか10分で沈没
     児童、教師、付添人ら1661人が乗船。1484人(うち児童738人)が死亡。救助されたのは177人のみ
  08/23学徒動員令が発令
  08/長崎バス(株)が時津〜長与間、栄上〜蚊焼間、面高〜板の浦間、城山〜福田〜式見間などを運休に
  08/1〜2人乗り特攻兵器「回天(○に六で[マルロク]とも呼ばれる)」の建造が長崎三菱造船所で着手
     93式魚雷に人が乗り込み操作できるよう改造した特攻兵器。魚雷の頭部に爆弾を装填し敵艦に体当たりする
     全長14.75米、直径1.0米、全重量8.3瓲、速力30節、航続距離23粁、爆弾1550瓩
     脱出装置はなく、後進もできず、旋回圏が大きく、耐圧深度80米で航行中の艦船攻撃は無理
  09/09関門海底隧道の上り線(3604米)が開通。上下2本が開通する。これまでの単線は下り線となる
  09/17日本郵船発注の商船「八幡丸」から改装した特設空母「雲鷹」が沈没
     シンガポールから日本に向かう途中、南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
  09/長崎市は午後10時以降、電燈に黒い筒カバーを降ろし、カーテンを閉めるなどの厳重な灯火管制を敷く
  10/01県立諫早、島原、小浜、平戸、武生水各保健所設置
  10/07「長崎くんち」
     (2)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
  長崎くんち奉納踊りが中止されるに至り、宮日振興会そのものも自然消滅
     1949(昭和24)宮日振興会に代わる長崎おくんち振興会を結成、「くんち」の円滑な運営と振興にあたる
  10/戦艦「武蔵」が米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
     レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す
     10/2419時35分、フィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
     猛襲は魚雷20発以上、爆弾17発の他、至近爆弾多数
  10/2419時35分、戦艦「武蔵」がフィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
     猛襲は魚雷20発以上、爆弾17発の他、至近爆弾多数
  10/25神風特別攻撃隊の第1陣、敷島隊(零戦6機、隊長は関行男大尉)がルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃
     レイテ湾のアメリカ艦隊に突入成功、米護衛空母セント・ローを撃沈
     ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入
     敷島隊、大和隊、朝日隊、桜隊の4隊の零戦10、彗星1が突入。米艦船5隻を撃破
  10/長崎医大第2病理学教授 吉田富三が“吉田肉腫”の作成実験に成功
  11/01日本郵船向け豪華貨客船「浅間丸」が南支那海のバシー海峡にて雷撃により沈没
  11/米海軍による本土空襲が激化する
  12/17長崎市、空襲時の医療救護機関を設置
     救護本部1、救護所28、救護病院16、助産救護所8、特設救護病院5、移動班2、計60か所
     構成人員、医師165人・歯科医師96人・薬剤師114人・看護婦118人・助産婦92人・保健婦25人、計610人
  12/27決戦体制に呼応し「1億火の玉」となって、軍官民連合による大規模防空演習が行なわれる
     消火、防火、救護に重点を置く
  12/特設航空母艦「隼鷹」が長崎港外で雷撃を受け中破
     特設航空母艦「隼鷹」は時局緊迫のため日本郵船の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲)を改装
  後半特殊兵器が三菱長崎造船所で盛んに建造
     「○四(まるよん・実際は一文字)」は合板製で自動車のエンジンで滑走
     「蚊龍」は排水量わずか59瓲の潜航艇で魚雷2本を搭載し水中16節で敵に接近する
  赤迫にトンネルを掘削し三菱兵器工場の一部を移す
  株式会社十八銀行が(株)長崎貯蓄銀行を合併する
  大橋の屠畜場が赤迫に移転
     1975(昭和50)市営屠畜場を食肉センターと改称
  珠算能力検定試験が日本商工会議所最初の検定制度にとりあげられる
     それまで各地の会議所が独自で随意に実施してきた検定試験を統一して、全国同時に同一問題で実施することに
  長崎市大浦にて戦中の混乱の中、借家にて小さな食堂「京華」が創業
     1949(昭和24)長崎市新地町に移転
     木造2階建一部3階で屋号を「中華料理京華園」に改名
     営業内容はレストラン・出前及び宴会
     1960(昭和35)鉄筋コンクリート4階建に増築
     1972(昭和47)角地を買収し、鉄筋コンクリート6階建一部4階神前式場を増設
     営業内容はレストラン・宴会及び婚礼
     1977(昭和52)全館鉄筋コンクリート建て6階で厨房を2階に移設
     長崎中華街で初の洋室を増設し婚礼を充実
     1982(昭和57)中国海鮮料理始める
     1988(昭和63)外装及び1・2階を改装
     1995(平成07)時代のニーズに合わせ全面改装
  朝鮮の青年徴用工が三菱長崎造船所に約2400人、川南香焼島造船所に約300人、三菱長崎製鋼所に110人入所
     日本人男性の多くが徴兵され、不足を「学徒勤労令」で生徒を各工場に配置しても足りず
     長崎刑務所から540人の囚人を動員し長崎造船護国隊を編成し三菱長崎造船所に出動させたが不足
  規模を次第に拡張し、長崎三菱兵器製作所大橋工場がほぼ完成
     工場敷地約19万8千平方米(6万坪)に配置された建物施設は7万5900平方米(2万3千坪)
     1945(昭和20)長崎三菱兵器製作所の拡張工事が完成
     土地7万5千坪、建物4万1794坪、機械設備3435台、従業員1万5千人に
     一部鉄筋コンクリート造の他は大部分が鉄骨、鉄板張りの建物
     本部事務所と食堂は木造建築。全部で20楝余り
     大橋工場では飛行機用91式魚雷、茂里工場では艦船用95式魚雷の制作が主
     91式魚雷は太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃、マレー沖海戦で使用
     91式魚雷7343個、95式魚雷2699個を海軍に納める

1945(昭和20)【昭和】 乙酉(きのととり)

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