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〈江戸時代(8)〉

1704(元禄17、宝永01・03/13)【東山】 甲申(きのえさる)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》石尾阿波守(01/着)、永井讃岐守(01/発)、佐久間安芸守(04/着)、別所播磨守(04/発)
  《商館長》ヒデオン・タント(←10/18→)フェルディナンド・ド・フロート

  01/「長崎虫眼鏡」が発売される。前年に大坂冨士屋長兵衛が開板
     人口5万2702(男2万7798、女2万4904)、かまど数1万1065(家持3697、借家7368)
     町数=内町26(陸手15、舟手11)、外町54(陸手34、舟手20)。合計80(陸手49、舟手31)
     陸手は陸上の公役に服し、舟手は港内外の海上の公役に服するようにあらかじめ定めてある町
     総間数1万5353間2合4勺2才(内町3676間5尺7寸7分、外町1万1676間2尺3寸)
     地子銀=内町外町中銀50貫目上納
     酒屋数160軒、大酒屋高59石5斗1合8才、小酒屋高20石、総高合計3781石5斗6升2
     橋33(石橋20、板橋13)、内訳=大橋17(石橋13、板橋4)、小橋16(石橋7、板橋9)
     船438艘(内町船159艘、外町船279艘)
  03/08夜、西坂より出火
  04/27東古川町より出火
  06/20《05/07》近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」が道頓堀にある竹本座で初演
  07/01安禅寺で善光寺如来を開帳する。100文出して額の上に印を押してもらう人多し
  08/02薩摩より琉球漂着の異国人6人(蘭人、英人各3人)を船とともに護送
     09/蘭船で送還する
  10/08《09/10》後興善町に生まれた向井去来(54)が京都・聖護院近くの家で病没
  12/01唐人屋敷で放火
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  大徳寺が大教院として伊勢町から梅香崎に移転創建
     1707(宝永04)御朱印地となり三大寺(晧台寺、大音寺、本蓮寺)と同格になる
  三味線歌謡集「松の葉」が刊行される。長崎の項に長崎小歌の組歌が見える。第3巻に「長崎節」が紹介
  唐船84隻(内積戻船4)、蘭船4隻が入港

1705(宝永02)【東山】 乙酉(きのととり)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》永井讃岐守(03/着)、石尾阿波守(03/発・12/01勘定奉行転出)、
      別所播磨守(閏04/着)、佐久間安芸守(閏04/発)
  《商館長》フェルディナンド・ド・フロート(←11/06→)ヘルマヌス・メンシンフ

  02/01夜、福済寺浴堂より出火。1人焼死
  08/10暁、本下町より出火。本下町が焼失、東築町と西築町の大半、島原町の半分、大村町と船番屋数戸を焼失
  09/07「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  09/07諏方神事に初めて森崎社の神輿が諏方、住吉二社とともに大波戸に渡御となる。三座渡御の初め
  09/10夜丑下刻(午後3時頃)、唐人屋敷より出火。11棟焼失、類焼。泊船に飛火し18艘が焼失
     午前9時過頃鎮火
     11/09別所、永井奉行が検分し失火の責任を追及。唐人屋敷乙名・組頭以下全役人を火災責任者として罷免
  聖福寺に天王殿が建立
     天王殿は中央に仏殿があり左右に通り抜けられる門がある
     1717(享保02)09/梵鐘が再鋳される
  真言僧の長慶が吉祥院を崇嶽(瓊杵山)に移し、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
     1726(享保11)05/神宮寺の寺号が公式再興。無凡山神宮寺と号す
     のち「華蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     1868(明治01)神仏分離令により金刀比羅神社と改称
  イギリスの天文学者ジョン・マチンによって逆三角関数を用いた円周率を計算するためのマチンの公式が発見される
  イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが古天文学の手法を用いてハレー彗星の予言を記した「彗星天文学概論」を発表
     1682(天和02)に出現しハレー自身が発見した彗星の観測的性質、
     1531(享禄04)にドイツのペトルス・アピアヌスが観測した彗星、
     1607(慶長12)にプラハのヨハネス・ケプラーが観測した彗星がほとんど同じだと気づく
     ハレーはこれら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したと結論づける
     ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算し、次は1758(宝暦08)に再び出現すると予言
     1758(宝暦08)12/25ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュが彗星を発見、ハレーの予言が証明される
     ハレー自身はこの回帰を見ることなく1742(寛保02)に没す。ハレーの功績を記念して彗星にハレーの名が付けられる
  京都で本格的なお蔭参り(お伊勢参り)が発生する
     2か月間に330万〜370万人が伊勢神宮に参詣。4月上旬から1日に2〜3千人が松阪を通り、最高は1日23万人に
  在留唐人2236人
  唐船88隻(内積戻船8)、蘭船4隻が入港

1706(宝永03)【東山】 丙戌(ひのえいぬ)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》駒木根肥後守(政方・前目付・01/11発令・06/着)、永井讃岐守(06/着)、
      佐久間安芸守(08/着)、別所播磨守(08/発)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←10/26→)フェルディナンド・ド・フロート

  02/中3月にかけて市中の男女子どもの大神宮、抜け参りが流行する
     5人、10人が組になり、印の旗を立てて「おびただしきこと前代未聞」と記録される
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  楢林春斎(鎮山)が「紅夷外科宗伝」を著す
     もとは渡来した医師ホフマンが与えたフランスの名医アンブロアス・パレ(フランス後期ルネッサンスの名医)の「外科全書」
  晧台寺第3代住持毒龍が今籠町の妙相寺を本河内郷の修験道場跡に修造移建する
  唐船93隻(内積戻船13)、蘭船5隻が入港

1707(宝永04)【東山】 丁亥(ひのとい)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》永井讃岐守(08/着)、駒木根肥後守(08/発)、別所播磨守(12/着)、佐久間安芸守(12/発)
  《商館長》フェルディナンド・ド・フロート(←10/15→)ヘルマヌス・メンシンフ

  06/09唐船が広東漂流中の奥州人1人を護送
  08/12朝8つ時、唐人屋敷で出火。2棟が焼失
     永井、佐久間奉行をはじめ諸役人が駆付けるが風もあまりなく、まもなく鎮火
     町火消に死者1人、負傷者1人
  08/14大雨洪水。小川町の人家が床上4尺浸水。大川筋も家屋が浸水する
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  10/04正午ごろ、大地震が発生。高潮がでて諸所が破損
     11/余震が続く
  12/16《11/23》午前10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなる
     噴火がはじまる。宝永大噴火
     火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰がふる
     午後3時頃、小康状態になるが夕方から再度激しく。夕方からの降灰は黒色に、火口近くにはスコリアが降下
     12/31《12/08》噴火が終焉となる
  水樋役の倉田次郎右衛門が官許を得て高野平郷(現小島小学校付近)に水源を求める
     木樋「出島水樋」を出島オランダ屋敷に給水
     給水料金として年間に蘭人から銀3貫600目を徴収。うち銀3枚を運上銀として納入。残りで水樋修繕他に
     1795(寛政07)寛政大水害のあと、倉田水道や井戸水の汚染がひどくなる
     奉行所は大窪川から臨時の水道をひき給水。完成するまでは水害のない地域の井戸水を人夫に汲ませて配給する
  大徳寺が御朱印地となり三大寺(晧台寺、大音寺、本蓮寺)と同格になる
     1708(宝永05)本籠町岸上に移る
  唐船84隻(内積戻船4)、蘭船4隻が入港

1708(宝永05)【東山】 戊子(つちのえね)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》駒木根肥後守(09/着)、永井讃岐守(10/発)、別所播磨守(在勤)、佐久間安芸守(在府)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←11/02→)ヤスペル・ファン・マンスダーレ

  01/唐館大門出入改方訓令
     遊女の衣類などを入れるときは、その度に改めること
     遊女、禿(かむろ)の出入りは帳面に記し翌朝奉行所へ届け出ること
  02/11暁、榎津町より出火
     今石灰町、新石灰町、万屋町、油屋町の過半、東浜町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町の半分、今籠町、本古川町の一部を焼失
     類焼者に銀50貫目を貸与
  02/前年11月の富士山の噴火で武州3か国の田畑に1〜2尺の降灰があり農家が全滅
     100石につき金2両の義援金をだすよう全国に命令がでる
     長崎でも畑1石巻につき1匁3分を宛出する
     麦1升をまく畑の広さを1升巻と称する。1石巻はその100倍にあたる
  04/02唐人屋敷の在留唐人多数が二の門外にでて乱暴をはたらく
     乱暴唐人の乗船20隻の商売を禁止し全員を帰国させる。唐人騒擾
     【04/01?船21隻?】
     厳重警戒のうち毎日5隻ずつ4日間で出港
     遠見番、唐人番、船番、町使など30〜40人に、市中の各町組頭1人と日行司1人が昼夜出動
  04/密商が多く、捕縛される者があとを絶たず
     08/密商人8人を唐人屋敷前で磔、6人を晒し首、2人を斬る
     責任を追及し本籠町の乙名ら役人を免職にする
     11/小舟に乗りこみ銀10貫目と小銃を持つ4人組が捕縛される
  05/遊女が出島へ出入りするときは衣類、花簪まで改めること
     遊女は出島行、唐館行を除き丸山から市中や郊外への外出を禁止
  06/27暁、船津町より出火
     小川町、東上町、上筑後町を全焼、船津町、金屋町、恵美須の半分、後興善町、豊後町、東中町の一部を焼失
  08/29イタリア人在俗司祭ジョアン・バプチスタ・シドッチ神父が大隅国屋久島に上陸
     忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られ、所持した大袋の中身を長崎奉行がオランダ人通詞を介して調べる
     「異国人致所持候大袋ノ内諸色之覚(いこくじんしょじいたしそうろうおおぶくろのうちしょしきのおぼえ)」によると
        ミサ典書、カズラ、カリス、パテナ、聖遺物、アルバ、スルプリ、聖香油、十字架などミサに用いる一式の外、
        キリスト像、聖母マリア画、聖務日課、ロザリオ、ディシヒリナ、教理書などを所持
     シドッチ神父は「親指のマリア」画を持参
     長崎奉行所の記録によると「堅壱尺、横八寸五分、
      但裏ハ皆木にてかねのくわん打有之候(うちこれありそうろう)、赤とんすの袋へ入候。白ドンスに赤きうら也」と
     11/09長崎に護送
     1709(宝永06)11/01シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため江戸小日向の山屋敷に送られる
     はじめ所持品は後から送るとして目録だけだったが間もなく送られてくる
     新井白石は「親指のマリア」画を「6此女の像年の比(ころ)四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて
      鼻みねたちてうれはしき面躰也(おざしなり)、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」と
     1714(正徳04)03/01シドッチ神父が召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
     のち新井白石はシドチを尋問して西洋の国情や文化を探究
     その成果が「西洋記聞」「采覧異言」で鎖国下の日本の西洋研究の基礎とる
  10/22唐大通事の林道栄(69)が没する
  12/21夜、新地蔵番人権左衛門、佐助の火の不始末により新地番所暗灯から出火
      新地蔵番人・権左衛門、佐助01/18入牢
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  大徳寺が本籠町岸上に移る
     自然災害の都度公借を受け累積借銀を多額となり、外国貿易の不振で唐からの寄付は皆無
     檀家を持たず什宝物は漸次売却、本堂・鐘楼などの建造物も売却
     1868(明治01)廃寺
  楢林鎮山が将軍綱吉に召される
  西川如見が「増補華夷通商考」1〜5巻を刊行する
  今紺屋町の銀細工職人の久保田権左衛門を密輸の罪で投獄
  唐船104隻(内積戻船45)、蘭船3隻が入港

1708(宝永05)頃

  中国原産の落葉樹ナンキンハゼが長崎に渡来

1709(宝永06)【中御門】 己丑(つちのとうし)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)(→01/10)、[第6代]徳川家宣(甲府徳川家)(05/01→)
  《奉行》佐久間安芸守(08/着)、別所播磨守(08/発)、永井讃岐守(09/29退任)、駒木根肥後守(在勤)
  《商館長》ヤスペル・ファン・マンスダーレ(←10/22→)ヘルマヌス・メンシンフ

  02/19多良村に非人小屋が作られる
  02/第7代領主茂晴は諫早領内の息災を祈り本明川上流、富川に竜神を祭る
     また岸壁に五百羅漢像を彫刻するなどして安泰を祈願
     継続事業として9年間の歳月を費やす
  09/07家宣が将軍宣下に伴う恩赦を行なう。深堀騒動関係の五島流刑者の赦免状が佐嘉鍋島藩に到着
     10/13流刑者9人が8年ぶりに深堀に帰る
     五島藩の好意ある計らいで遠島9人のうち7人が現地で妻をもらい、うち5人は子供1人ないし2人をもうける
     他領の者を同道することが禁止されており、妻子のいる流刑者は帰郷の歓びと哀別離苦が交錯したものに
  11/01シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため江戸小日向の山屋敷に送られる
     はじめ所持品は後から送るとして目録だけだったが間もなく送られてくる
     新井白石は没収品の「親指のマリア」画を「6此女の像年の比(ころ)四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて
      鼻みねたちてうれはしき面躰也(おざしなり)、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」と
     シドッチ神父はイタリア人在俗司祭で、前年、大隅国屋久島に上陸するが、忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られた
     1714(正徳04)03/01シドッチ神父が召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  初代江崎清蔵が魚の町に鼈甲店「江崎べっ甲店」を創業。日本一古いべっ甲店といわれる
     1898(明治31)建築面積403平方米、木造2階建の店舗が建つ
     店鋪外観は東が町家風、西が土蔵風、上げ下げ窓や隅石飾りなど軒回りや窓回りが洋風
     店鋪室内は全体が洋風
  唐船57隻(内積戻船3)、蘭船4隻が入港

1710(宝永07)【中御門】 庚寅(かのえとら)

  《将軍》[第6代]徳川家宣(甲府徳川家)
  《奉行》久松備後守(定持・前目付・01/11発令・07/着)、駒木根肥後守(07/発)、
      佐久間安芸守(在勤)、別所播磨守(在府)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←11/10→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  06/新高麗町川端の伊勢宮大神宮が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
     1901(明治34)伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行われる
  10/03万寿山聖福寺開基の鉄心道●(月偏に半)(70)が没する
     父は陳朴純、母は西村氏。木庵に師事
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  僧圓識が横超山・発心寺(浄土真宗本願寺派)を開創。子孫は累代、大光寺の役僧として勤続
     1818(文政01)一代限りの寺号公称を許される
     1878(明治11)三栗円照のとき寺号公称が独立
  遊女の神社詣、両親の病気見舞い、諏訪神事の踊り奉納、仏事等の外出が許可される
  肥前平戸の領民五平太が高島の広磯で石炭を発見。炭穴を開き採掘を行なう   ロンドンの金融街、シティ・オブ・ロンドンにイギリス国教会の大聖堂セント・ポール大聖堂が完成
     建築家クリストファー・レンにより再建されたバロック建築で7大ドームと正面に2つの塔を持つ
  唐船54隻(内積戻船3)、蘭船4隻が入港

宝永年間(1704〜1711)

  オランダから蘭鶏(紅毛鶏)が渡来

1711(宝永08、正徳01・04/25)【中御門】 辛卯(かのとう)

  《将軍》[第6代]徳川家宣(甲府徳川家)
  《奉行》別所播磨守(04/11依頼免職)、大岡備前守(清相・前西丸留守居・04/12発令・09/着)
      佐久間安芸守(10/発)、駒木根肥後守(在府)、久松備後守(在勤)
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←10/31→)コルネリス・ラルディン

  03/29阿蘭陀大通詞で外科医の楢林鎮山(63)が没する。墓所は聖徳寺
     楢林流外科として門弟数百人を擁した
  05/幕府より高札。放火対策としての定めを出す
     一、火を付ける者を早く申出し、もし隠し置きにおいては其罪重かるへし
       たとひ同類たりといふ共、申出めに於ては其罪を許され褒美をやる
     一、火をつける者を見付けたら是を捕へ、早く申出るへし、見逃してはいけない
     一、怪しき者あらば、せんさくを遂げて、早く奉行所へめしつれてくること
     一、火事の節鑓、長刀、刀、脇差などぬきみにしてはいけない
     一、火事場其外いずれの所にても、金銭諸色拾ったものは奉行所へ持参すること
       もし隠置き他所よりあらわるるに於ては、其罪重し
       たとひ同類たりともいふ共、申出輩は其罪をゆるされ褒美をやる
  08/東上町の「立山書院」が伊勢町の鋳銭所跡に移転、545坪の長崎聖堂(中島聖堂)が竣工【1714(正徳04)?】
     伊勢町の敷地は立山に比べ3.5倍に拡張
     のち殿門堂舎が逐年整備され、儒風大いに揚がる
     1718(享保03)後方の畑田721坪を奉行所が寄付
  島原藩の宗門改めの触れに「癩病人・見ぐるしき者」の人別の別帳化。「乞食部屋」への収容を指示
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  江戸浅草茅町に初代治郎兵衛が節句人形玩具店を開く
     のち徳川六代将軍家宣公より「吉野屋」の 屋号を賜わる
     以来、雛人形手遊問屋として吉野屋治郎兵衞を名乗る
     のち6代目以降に吉野屋徳兵衛と名乗り「吉徳」に
  第8回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙泰億、総人数500。使命は徳川家宣の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1719(享保04)第9回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪致中、総人数475。使命は徳川吉宗の将軍職就任祝い
  唐船57隻、蘭船4隻が入港

1712(正徳02)【中御門】 壬辰(みずのえたつ)

  《将軍》[第6代]徳川家宣(甲府徳川家)(→10/14)
  《奉行》駒木根肥後守(01/着)、久松備後守(01/発)、大岡備前守(在勤)、>佐久間安芸守(在府)
  《商館長》コルネリス・ラルディン(←10/20→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  03/対馬より朝鮮漂着の薩摩人1人を護送する
  08/1662(寛文02)以来、再び天然痘が大流行し幼児を中心に多数の死者がでる
     〜翌年03/まで患者3千余人
     1713(正徳03)06/小島郷茂木街道の入口に供養塔が建てられる。茂木道無縁塔
     街道口に建てられるのは疫病の侵入防止を祈念する意味
     碑の文字は崇福寺住持の義勝、大衡の書
  12/対馬より朝鮮漂着の唐津人11人を護送する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  オランダ船に関して野母・小瀬戸両番所の14人が鯨船1艘にて見張を強化
     前年、オランダ船が長崎沖での抜荷が発覚したことによる
  万屋町の魚屋、高野勇助の作るボラのマコを塩漬けにしたからすみが、長崎奉行から幕府へ献上されるようになる
     幕府は勇助に年俸銀100匁を下賜。献上は維新まで続く
     明治初期本下町(現築町)に移転
  ケンペルが「廻国奇観(海外奇聞)」を刊行
  唐船62隻(内積戻船3)、蘭船4隻が入港

1713(正徳03)【中御門】 癸巳(みずのとみ)

  《将軍》[第7代]徳川家継(徳川宗家)(04/02→)
  《奉行》佐久間安芸守(03/12退任)、久松備後守(08/着)、大岡備前守(09/発)、駒木根肥後守(在勤)
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←11/07→)コルネリス・ラルディン

  01/23夜、本五島町より出火。浦五島町に延焼
  03/長崎奉行の定員を1人減じて3人とする。1人在府、2人在勤、毎年1人交代【1712(正徳02)?】
     1714(正徳04)11/18長崎奉行が2人制となる。1人在勤、毎年交代
  閏05/22唐船が広東漂着の筑後人4人を送還する
     07/08奥州人5人を送ってくる
  06/前年の天然痘大流行の死者を供養するため小島郷茂木街道の入口に供養塔が建てられる。茂木道無縁塔
     街道口に建てられるのは疫病の侵入防止を祈念する意味
     碑の文字は崇福寺住持の義勝、大衡の書
  07/12夜、暴風雨。翌日の夕刻には高潮となり家屋の破損や浸水が多くなる
  07/14人災や天災が続き米価騰貴のため米商の買占めがある。市民多数が怒って米屋を打ちこわす
     米価騰貴のため米はもちろん雑穀の類さえ食べられず木の葉までも口に入れ飢えをしのぎ体力が消耗
     役人が出動し鎮める
     のちコレラが流行。貧者ばかり5千人余が死亡
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  烏帽子山近くの平野地を拓き金毘羅大権現を祀るの本社を建立
  長崎奉行久松備後守定持らが松森神社を大改修
     本殿周囲を飾る「職人尽(ほり物)」が奉納される
     彫刻者は御用指物師喜兵衛・同藤右衛門。長崎奉行御用絵師小原慶山が下絵を描く
  盧草拙が長崎聖堂の学頭になる
  奉行所訓令
     唐人屋敷へ行く遊女は午後2時から4時までに出入りすること
     多人数の時は午後4時から7時まで出入りさせる
     大門の内で遊女、禿(かむろ)、遣手は念を入れ改め、その上遊女、禿は二の門の内へ入れ遣手は大門の外にだすこと
     遊女が一夜だけでなく二、三夜づつ留置きたい場合は毎日改めるには及ばない。宿へ帰るときに改めること
  唐船49隻(内積戻船9)、蘭船3隻が入港

1714(正徳04)【中御門】 甲午(きのえうま)

  《将軍》[第7代]徳川家継(徳川宗家)
  《奉行》大岡備前守(09/着)、駒木根肥後守(10/発・11/18作事奉行転出)、久松備後守(在勤)
  《商館長》コルネリス・ラルディン(←10/27→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  02/26《01/12》江戸城大奥御年寄の江島が仕える月光院の名代として前将軍家宣の墓参りのため、宮路らと寛永寺、増上寺へ参詣
     帰途、懇意の呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見物
     芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開き、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れることに
     大奥七ツ口の前で口論の内に江戸城中に知れわたり評定所が審理することに。江島生島事件
     のち評定所により関係者が徹底的に調べられ、大奥の規律の緩みが次々と明らかに
     江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)
     連座して江島の兄、旗本の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟は重追放に
     江島の遊興相手生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となり山村座は廃座に
     巻き添えを食う形で、江戸中の芝居小屋は簡素な造りに改築を命ぜられ、夕刻の営業は禁止
     大奥御殿医の奥山交竹院と弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、材木商らも遠島や追放の処分に
     大奥の風紀粛正のために多数の連座者がだされ最終的に1500余の人々が罰せられる
     04/18《03/05》月光院の嘆願により、江島は罪一等を減じて高遠藩お預けとなるが事実上の流罪に
  03/01江戸小日向の山屋敷に送られたシドッチ神父が、召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
     シドッチ神父はイタリア人在俗司祭で、大隅国屋久島に上陸するが、忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られた
  春/駒木根、久松の両奉行と町年寄の高木作右衛門らが長崎貿易制度の改正の必要ない旨を答申する
  春/夏にかけてコレラが流行する
  06/寄合町、引田屋の遊女浮雲が唐船主許端澄との間に混血児を出産、吉之助と名づける。6才で死去
  11/18長崎奉行が2人制となる。1人在勤、毎年交代
     1843(天保14)09/長崎奉行が1人制となる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  在留唐人が初めて諏方社に参拝。神社側では憩席を設け、茶菓子や食事を出して歓待
     在留唐人らは3〜4か月、長いものは年余にわたって唐人屋敷内に滞留するが自由に外出ができず無聊に苦しむ
     そこで神社・仏閣のうち18か所を指定し、墓参・参拝または花見という名目で外出が許可
     唐人たちにとって神社詣では寺詣でとともに解放されたレクリエーションの日となる
  桜町の観朝という男は檜物屋渡世をしていたが、人柄が悪く親類や乙名は相談のうえ非人に渡すことに
  唐船51隻、蘭船3隻が入港

1715(正徳05)【中御門】 乙未(きのとひつじ)

  《将軍》[第7代]徳川家継(徳川宗家)
  《奉行》久松備後守(03/発・11/07作事奉行転出)、石河土佐守(政郷・前目付・11/07発令)、大岡備前守(在勤、
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←10/19→)ヒデオン・バウダン

  01/11新井白石の建議により「長崎新令」(正徳新令)が実施
     幕府が銅の不足から発布。「竈銀(かまどぎん)」「箇所銀(かしょぎん)」の制度が始まる
     貿易額は唐船30隻、銀6千貫目、オランダ船2隻、銀3千貫目となる
     オランダ貿易、唐貿易の利益は幕府への運上金、地役人の給料、他を差し引いても毎年7万両位は残る
     7万両は長崎77か町の町民に配分。配分の時期は07/と12/の2回、
     地主には箇所に応じて「箇所銀」が借家人には世帯に応じて「かまど銀」が各町の乙名を通じて配られる
     税金、助成金他を除き渡され、箇所銀は平均して銀130匁、かまど銀は30匁 (現在の約20万円、5万円に相当)
     農民の税負担は4公6民といわれ、収入の4割が税金として取り立てられ他国の人にとってはうらやましい限り
     長崎の町全体が唐貿易、オランダ貿易になんらかの形で協力しており、長崎の人にとっては当然のこと
     制度は他に例を見ない自治体のしくみであり150年間も続く
     1867(慶応03)制度が終わる
  06/遊女を大門で改めるとき
     第1は唐人票及び書付け又は日本人の書物を見出したら、早速差し出すこと
     第2は遊女、禿(かむろ)、遣手の懐中の品、籠包み物、箱の中に金銀の有無を調べ、もしあれば申し出ること
     但し唐人が与えたのに間違えなければ遊女に取らせるから正直に申し出ること
     唐金銀の他、或いは端物類、衣類器物の類いを唐人から遊女へ与えるのは
       唐人の自由に任せるから乙名、組頭が聞いて申し出ること
  07/長崎奉行から丸山町、寄合町へ訓令
     遊女がオランダ人、唐人の子を懐妊したらすぐ申し出ること
     隠していたら遊女、主人、乙名も罰せられる
     唐人は滞在中、唐館内で混血児を養育してよい
     唐人帰国後に混血児を出生したらその遊女の抱主である遊女屋で養育し、父唐人が再渡来したときに申し聞かせること
     唐人が滞在中に出生した混血児については父唐人帰国後の養育方法をよく相談しておくこと
     唐人の混血児は父が本国へ連れていきたいと願っても絶対に許可しない
       オランダ人との場合も同様
  08/寄合町、引田屋の遊女大山が台湾船主、林達文との間に男児を出産。10/に死去
  09/寄合町、引田屋の遊女浮橋が広東船主、李韜士との間に女児を出産。7日後に死去
  10/寄合町、佐伯屋の遊女大山が寧波船主、鄭大典との間に男児を出産。10/末に死去
  10/寄合町、薩摩屋の遊女白藤が寧波船主、何定扶との間に女児を出産。11/に死去
  10/丸山町、岩田屋の遊女八重雲が寧波船主、王哲卿(63)との間に男児を出産。金八と名づける
     のち王はしばしば渡来、八重雲と金八の行末を見守り計らう
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  南部藩が薬園を設置
  立山役所を改築する。本年着工し年内に竣工
     1717(享保02)立山屋敷の高低をなくし本屋長屋すべてが改築される
  目附が長崎に常駐するようになる
     最初の長崎在勤の目附として石川三右衛門、大久保一郎右衛門が任命
     長崎における外国貿易法の大改正のとき。幕府は長崎へ政治、貿易、外交その他の監察官として上使御目附を配する
     長崎奉行立山役所の上段平地に役宅として岩原御目附屋敷を新設
     岩原御目附屋敷は、御勘定方役宅として総坪数863坪を建設
     御本屋1棟、土蔵1棟、東長屋1棟1部屋、向長屋1棟2部屋、川上長屋1棟1部屋、厩長屋1棟4部屋
  長崎奉行の布告
     「当地の風俗として女の心だてがよろしくない。身持ちが悪く、夫をも敬わず、甚だしきにいたっては夫に悪事を
     すすめる者がいる。そしてその悪事によって少しでも金銀を儲け出せばそれで自分の身を飾ろうとする。そうなる
     ともう夫は要らないと、夫婦の縁を切るものもなかにはあるという。怪しからぬことである。その罪は軽くない」
  僧恵通が「長崎図誌」を著す
  近松門左衛門の人形浄瑠璃「国性爺合戦」が大坂の竹本座で初演
     父が中国人、母が日本人で、台湾を拠点に明朝の復興運動を行なった鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材に脚色
     初演から17か月続演の記録を打ち立てる
  長崎の家数1万0206(家持1703・借家8500)、人口4万1553
  唐船20隻(内積戻船13)、蘭船3隻が入港

1716(正徳06、享保01・06/22)【中御門】 丙申(ひのえさる)

  《将軍》[第7代]徳川家継(徳川宗家)(→04/30)、[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)(08/13→)
  《奉行》石河土佐守(04/着)、大岡備前守(05/発)
  《商館長》ヒデオン・バウダン(←11/03→)ヨアン・アウエル

  03/寄合町の豊後屋たま下人勘八が酒に酔い煙草の火を捨置き、豊後屋たま2階より出火。大事には至らず
     勘八は入牢
  伊勢町の長崎聖堂(中島聖堂)に初めて唐通事子弟の唐韻勤学会を開く
     大小通事を指導者として稽古通事に唐語の学習試験を行なう。詩作も試みる
     のち一時、中絶
     1788(天明08)唐通事子弟の唐韻勤学会が再興する
     のちふたたび、一時、中絶する
     1839(天保10)三度び再興する
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  本籠町に蛇踊が伝わる
  炉粕町の水神神社が五島浦海中から引き揚げられた天后像(媽姐像、船魂神)を併祀する
     唐人の参拝がますます盛んになる
     1739(元文04)銭屋川の倉田水樋水源地近くの八幡町に移転
  無信牌唐船19隻は商売を許さず帰国させる
  将軍吉宗が幕臣を出島に派遣。ヨーロッパ地図の主要都市などを日本文字で記録させる
  唐船26隻(内積戻船19)、蘭船2隻が入港

1717(享保02)【中御門】 丁酉(ひのととり)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》大岡備前守(04/12西丸留守居転出)、日下部丹波守(博貞・前目付・05/21発令・09/着)、石河土佐守(09/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル(←10/24→)クリスティアン・ファン・フレイベルフ

  03/25長崎生まれの無宿女みつが養育料詐取の幼児殺しの罪で西坂で獄門
     女の身で獄門の極刑に処せられた者は長崎奉行所の記録8200余件のうち2件ほど。いずれも養育料詐取の幼児殺し
  08/05大浦湾に約7尺(2米あまり)ほどの魚(頭は鯨、尾はイルカ)があらわれる
  09/聖福寺2代暁石が鉄心の志をついで鐘楼を改築、梵鐘を再鋳する
     鐘は高さ5尺2寸、径3尺8寸、重さ3千斤、俗に鉄心の大鐘。鋳工は安山弥兵衛国久
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  岩原川の船津町〜恵美酒町に架かる木橋の本新橋が石橋に架け替える
     1915(大正04)鉄筋コンクリート石橋となる
  長崎聖堂の学頭であり唐通事でもある盧草拙(ろそうせつ)が自宅に北辰妙見尊星を祀る
     1719(享保04)諏訪神社吟味役・村田四次郎が自宅に祀った妙見尊神と合祀。社殿が完成し西山妙見社に
     1868(明治01)西山神社となる
  長崎奉行所が入れ墨刑を採用する
     入れ墨の入れ方は奉行所により場所や形が異なる。長崎では手首から3寸ほど上に1寸5分ほどの横線が2本ひかれる
     初犯1本、再犯2本、3犯3本で長崎追放。入れ墨の入れ方を見れば、どこでの前科者かが知れる仕組み
  下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業
     1726(享保11)大阪心斎橋筋に大阪店「松屋」を開き、現金正札販売をはじめる
     1728(享保13)名古屋本町4丁目に名古屋店を開き、初めて「大丸屋」と称する
     1743(寛保03)江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業
  奉行所立山屋敷の高低をなくし本屋長屋すべてが改築される
     1718(享保03)江戸町の西役所が老朽化のため全面的に改築。立山役所も同時に改築する
     のちときどき増築、取り崩しなどが行なわれる。だいたいにおいてこの時期の規模、形態で維新を迎える
  唐船50隻(内積戻船7)、蘭船2隻が入港

1718(享保03)【中御門】 戊戌(つちのえいぬ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》クリスティアン・ファン・フレイベルフ(←10/13→)ヨアン・アウエル

  03/09目付の渡辺外記が幕命により来崎
     04/筑前に向かい豊前、筑前、長門沿海に来航して密商を行なう唐船を打ち払う
     05/24長崎に帰る
     1719(享保04)02/21帰府
     1727(享保12)長崎奉行となる
  05/11筑前の海上で渡辺外記に追撃された密商貿易船の乗組員唐人43人と荷物が平戸から送られてくる
     10人は即死、その他は負傷し、難破破船と偽り平戸に入港。船と荷物は焼却。乗組員は他船に託して帰国
  07/28大雨洪水のため溺死者46人。川沿いの38町が床上浸水に
  08/五島沖で抜け荷買いの金元の罪により住所不定の長崎者けづりの八右衛門と一味60余人が大坂、京都で一網打尽
     のち人形浄瑠璃、歌舞伎「毛剃」(博多小女郎波枕)のモデルになる
  11/近松門左衛門作「博多小女郎波枕」が大坂の竹本座で初演上演される
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  奉行所が伊勢町の長崎聖堂(中島聖堂)に後方の畑田721坪を寄付
     1868(明治01)学制改革で廃止となる。建物は大成殿と大学門を残すのみに
  平戸小屋郷に保食大神(うけもちのおおかみ)を勧請し烏岩神社が祀られる
  皮屋町が浦上一帯を見おろす金比羅山のすそ地浦上村馬込の地に三度目の集団移住
     長崎の被差別部落は強制的に支配者の都合により寺町→西坂→馬込と移される
     キリシタン信者の集落のほとんどは浦上村一帯集中しており檀那寺の聖徳寺との衝突が絶えず
     支配者は聖徳寺を守るためにキリシタンの防波堤の役割として部落の存在が必要となる
      キリシタン集落〜檀那寺の聖徳寺〜西坂皮屋町キリシタン集落〜馬込皮屋町〜檀那寺の聖徳寺
  吉宗が測午儀を吹上苑に置く
  幕府が唐商人に良馬の輸入と良医の斡旋を依頼する
  江戸町の西役所が老朽化のため全面的に改築。立山役所も同時に改築する
     のちときどき増築、取り崩しなどが行なわれる。だいたいにおいてこの時期の規模、形態で維新を迎える
     1744(延享01)09/西役所の屋根を瓦葺に改める
  唐船41隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1719(享保04)【中御門】 己亥(つちのとい)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル

  02/21前年、幕命により来崎していた目付の渡辺外記が帰府
     1727(享保12)長崎奉行となる
  02/石河奉行の家臣井上平馬が江戸参府の甲比丹護衛中、駿河島田の宿で発狂し料理人を殺して自殺する
  05/以降長雨と大風3度、人家農作の損害が寛大
     3か村の人民に米174石9斗を配与
  07/江戸町浜手の米蔵(浜蔵)の位置が不便なため北瀬崎に移転。総坪数1561坪、土蔵3軒
     1724(享保09)北瀬崎の米蔵が北の御蔵という名称に
  11/西川如見が子の忠次郎も協力して「長崎夜話草」(5巻)を著す【1720(享保05)?】
     1735(享保20)忠次郎が幕府天文御用方となる
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  盧草拙が祀った北辰妙見尊星と諏訪神社吟味役・村田四次郎が祀った妙見尊神を合祀
     長崎奉行石河土佐守の許しを得て盧草拙の自宅に北辰・妙見の二神を祀る社殿を建立
     盧草拙は長崎聖堂学頭
     のち西山郷に社殿が完成し西山妙見社とよばれる
     1868(明治01)日本神話の造化3神を祀る西山神社となる
  西川如見の名声を聞いた徳川吉宗が、西川如見と廬草拙を江戸に招き20日間にわたり質問をする
     世界の学問から日本がいかに遅れているかを説き、洋学解禁を決断させる
     西川如見は長崎の鍛治屋町生まれで天文・地理学者
     1720(享保05)西川如見の大胆な提言により、キリスト教以外の洋書輸入が解禁となる
     洋書の解禁により日本の学問は近代化への1歩を踏み出す
  対馬の宗家から幕府に献上された6粒の朝鮮人参の種を日光に植える
     およそ50年後1万株に増えたといわれ、幕府は朝鮮人参の栽培にとりわけ力を入れる
  第9回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪致中、総人数475。使命は徳川吉宗の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1748(延享05)第10回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪啓禧、総人数475。使命は徳川家重の将軍職就任祝い
  唐船40隻(内積戻船3)、蘭船0隻が入港

1720(享保05)【中御門】 庚子(かのえね)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル(←10/21→)ルーローフ・ディオダティ

  02/11幕府が注文した雄馬2頭が唐船で長崎に渡来
  02/唐人の水墨画家伊●(浮のシなし)九が渡来。南画の法を伝える
     清国呉都の人で20余年間にわたり長崎に滞在
  04/08夜、八幡町より出火。21戸を焼失
  06/小倉藩主が唐の密貿易商人3人を捕縛、長崎へ護送する。唐人屋敷内に牢をつくり拘留
  08/天草代官所所属の小島郷(梅香崎・南瀬崎)の米蔵を長崎所属に改められる
     総坪数275坪半、土蔵3軒
     1724(享保09)南瀬崎の米蔵が南の御蔵という名称に
  09/12大村でキリスト教にかかわる信者の疑いが露見
     「大嶋」に「所替」が命じられる。その際、一切が穢多に渡される
  12/徳川吉宗への西川如見の大胆な提言により、キリスト教以外の洋書輸入が解禁となる
     洋書の解禁により日本の学問は近代化への1歩を踏み出す
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  清の船主・伊孚九が幕府の命に応じてペルシア馬の雄2頭を日本に初めて輸入
  立山奉行所内(現立山町)の御薬園が薬園の役目を終える
     新たに小島村の天草代官所跡地(小島郷十善寺)に御薬園が移される
     1179坪(現十人町)に立山役所内の薬草木を移し、更に輸入した薬草木を植える
     吉宗により海外から有用植物の輸入が奨励されたこともあり、受け入れの窓口を果たしていた長崎の薬園の業務が増える
     受け入れた苗や種子は一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送られる
     また、幕府用品が不足した場合は直接に献上したり、奥医師に高額で売り渡す
     1809(文化06)薬園の役目を終える
  幕府が江戸駒場に薬苑を開設
  唐船37隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1721(享保06)【中御門】 辛丑(かのとうし)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ルーローフ・ディオダティ(←11/09→)ヘンドリック・デュルフェン

  06/唐医の陳振先が渡来。幕命により長崎近郷山野から薬草162種を採取し処方録をまとめる
  閏07/28連日降雨の後、夜半の大雷雨、地震により烽火山から泥水噴出し市中が大洪水に「享保の大水害
     38町が浸水。水死46人(男17、女29)。流家潰家120かまど、破損家96かまど、家内人数458、
     町境門流出8、破損12。門番町流出14か所、破損3か所。土蔵1軒、小屋40軒、納屋11軒流落
     石垣崩壊372間。船破損22艘。その他近郊郷方も損害は大
     奉行所は流家人民へ499貫500目を貸与。罹災貧民へ家1戸米6升、流家1戸米1斗と銭300文を与え救済
     石橋崩流8、損壊7、板橋崩流6、損壊1(橋崩流14、損壊8)総計22橋が被害をこうむる
     大手橋……………………………のち掛り町の北馬町、南馬町、新大工町銀1貫500目を拝借し修理1740(元文05)再架
     大井手橋…………………………1740(元文05)再架
     編笠橋……………………………再架のち1795(寛政07)07/19崩流
     古町橋……………………………1739(元文04)11/僧周傳により再架
     一覧橋……………………………再架のち1795(寛政07)07/19崩流
     すすき原橋………………………1722(享保07)再架
     東新橋……………………………1742(寛保02)アーチ石橋を再架。費用は新橋町、本大工町の掛り町が負担
     魚市橋……………………………木橋で再架のち1795(寛政07)07/19崩落
     袋(町)橋………………………被害を受ける
     本古川町(本紺屋町)橋………少なくとも被害は受ける。のち1795(寛政07)07/19崩流
     榎津橋……………………………無事1795(寛政07)07/19大洪水で崩流
     萬屋町橋…………………………無事1795(寛政07)07/19少し損じるが往来の妨げはなし
     阿弥陀橋…………………………無事
  08/147月28日の大水害の死者供養のため一の瀬街道に青銅の供養塔を建立。青銅塔(からかねとう)という
     発起は長崎滞在の下野国安蘇郡粕屋村出身の木食僧観心
     洪水死者の冥福と天下泰平を祈り今紺屋町と中紺屋町の町民が援助して財を募り塔を建てる
     鋳工は鍛冶屋町の鋳物師安山弥兵衛国久
  08/五島から難破船と唐人と荷物を送ってくる番外として貿易を許す
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  一の瀬街道入口喰い違いに石垣を築き高札場を設ける
  雲仙の湯元旅館2代目の加藤小左衛門が小地獄温泉を開く
     1878(明治11)湯元旅館9代目の加藤小左衛門が新湯を開く  唐船33隻、蘭船3隻が入港


1722(享保07)【中御門】 壬寅(みずのえとら)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》ヘンドリック・デュルフェン

  02/立山奉行所で唐人が演じる芝居をみる
  04/05復活祭の夜、オランダ海軍提督のヤコブ・ロッゲフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する
     発見した日がイースターであったため「イースター島」と名前がつく
     この島に上陸したヤコブ・ロッゲフェーンを待っていたのは、1000体を超えるモアイ像
     像の前で火を焚き地に頭を着けて、祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにする
  08/10高一覧の二男、高玄●(上が代で下が山)(74)が江戸で没する。日本名は深見新右衛門
     唐僧独立に書、医術を学び島津公の侍医を勤める
  09/田上名の合戦原(合戦場)で初めて石火矢(大砲)の試射を行なう。日下部奉行が自ら臨場してこれを見る
  10/寄合町、引田屋の遊女両山が寧波船主、謝榿臣と脇船主、陳伯威から唐館に呼入れられ梅之助を出産
     1723(亨保08)仁三郎を出産
     1724(亨保09)林之助を出産。7才で死去
     梅之助と仁三郎は両山の親元、諏訪町に1728(元文03)まで居住
  11/中紺屋町と今紺屋町をつなぐ石橋のすすき原橋が中紺屋町、今紺屋町の掛り町が拝借銀を願い再架
     1795(寛政07)07/19大洪水で破損
  12/04小石川御薬園の付属施設として小石川療養所(施薬院)が開設される【1721(享保06)?】
     将軍への直訴状を受理するための目安箱への投書をもとに設立
     施薬院は貧窮の病人に薬を施して療養させる施設
  12/幕府が出版書籍業の取締令をだす。政治批判を禁止
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  諏方社の長坂が73段に改修される
     1723(享保08)正一位にとなる
  幕府は歌舞伎、浄瑠璃の心中物を禁止し、情死を処罰する
  唐船に東京、占城、カンボジア船の信牌を公布する
     信牌の法を実施してから奥船が来航せず、奥港の事情が不明となり状況を探り輸入を促進させるため
  薬種商桐山太左衛門が幕府の許可を得て下総国千葉郡小金原に薬園を開設
  この年、唐船33隻、蘭船1隻が入港

1723(享保08)【中御門】 癸卯(みずのとう)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヘンドリック・デュルフェン(←10/18→)ヨハネス・テーデンス

  02/幕府が大坂で情死、心中ものの刊行、上演を禁じる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  12/唐船が馬3頭(雄1頭、雌2頭)を輸入する
     良馬の輸入をした唐商郭亨統は信牌制度実施の際も他の唐商がみな反抗したのに対しひとり従順に容認
     1724(享保09)恩賞として一生のあいだ通用する信牌1枚が付与される
  幕府が大馬の輸入を蘭人に依頼する。吉宗は鉄砲、兜の注文をする
     1725(享保10)蘭人による大馬の輸入がはじまる
     1737(元文02)この年までに30頭が輸入される
  今博多町の天満宮跡地に再び天満宮を建て広徳山大行寺と号する
     1868(明治01)大行寺は廃寺となり、天満宮のみに
     1969(昭和44)04/25都市計画で松ノ森神社内に移る
  本覚寺の霊海僧が豊前英彦山から神霊を分祀、標高401.8米の舞岳(眉岳)に英彦山神を勧請する
     のち英彦山と呼ぶようになる
  諏方社が正一位にとなる
     1809(文化06)08/総町奉納金で諏方社の踊り馬場石垣に欄干を設ける
  北馬町の源七が桶屋町の娘せきと密通してこれをうばう
     源七は嫁盗みの罪で五島に遠島
     せきは両親のもとに帰らず奉行の命で丸山の傾城屋の手に渡され遊女におとされる
     「嫁盗み」は長崎の町に古くからの奇習。略奪結婚で自分の女房にほしい娘を知人や友人に頼み盗んできてもらうもの
     知人、友人は駕籠を用意し、夜にまぎれて娘をさそいだす
     いざ駕籠にのせると、今度はおおっぴらに「よめご盗み、よめご盗み」と連呼しつつ連れ去る
     のち人を立てて親元へ交渉にいくと、たいていの場合はそれでおさまることが普通
     どうしても親が承知せず娘を返せと訴えたときに初めて問題となる
     親も内心は許したくても、世間の体面上反対するような場合は、むしろ嫁盗みされることを黙認する
     この風習は幕末まで続く
  唐僧竺が渡来。興福寺7代となる。最後の唐僧渡来となる
  晧台寺で木造本瓦葺入母屋造の大仏殿「華厳閣」が落成する。5間半四方
  唐船34隻、蘭船2隻が入港

1724(享保09)【中御門】 甲辰(きのえたつ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(11/発)
  《商館長》ヨハネス・テーデンス

  08/10天文学者で地理学者でもある西川如見(77)が没する。墓所は長照寺の後山
     名は忠英、号は求林斎、通称次郎右衛門。儒学、暦学、天文学に通じた
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  北瀬崎米蔵が北の御蔵に、南瀬崎米蔵が南の御蔵という名称に
  東築町生まれで無宿の長介が町中と母親の願いによって非人手下へ渡される
  唐商郭亨統が恩賞として一生のあいだ通用する信牌1枚が付与される
     郭亨統は信牌制度を従順に容認し、前年に馬3頭(雄1頭、雌2頭)を輸入
  天然痘が流行し患者が多数でる
  唐船13隻、蘭船1隻が入港

1725(享保10)【中御門】 乙巳(きのとみ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヨハネス・テーデンス(←10/25→)ヨアン・ド・ハルトッホ

  02/唐儒者の朱●(人偏に凧)章が来朝
     1726(享保11)02/馬医と騎射に長ずる物を迎えるため臨時の信牌を得て帰国
     11/再び来朝
  春濱町の築地に鋳銅所を設け、貿易代の品として棹銅を鋳造。「築地銅座
     1738(元文03)廃止となる
     1741(寛保01)鋳銅所跡地で鉄銭の鋳造が行なわれる
     1745(延享02)廃止となる
  04/密貿易者を捕えた唐船主伊敬心、呉子明に対し賞として各銀100枚を与える
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  09/25夜半から10月4日まで地震がつづく
  11/15夜、西上町の細井清兵衛宅より出火。9世帯を焼失(「細井火事」という)
  12/10翌日にかけて再び地震が起こる
  幕府の依頼で蘭人による大馬の輸入がはじまる。ペルシア馬3頭、ジャワ馬2頭の洋馬5頭を輸入
     1737(元文02)馬2頭が輸入される。この年までに27頭が輸入される
  洋馬とともにオランダの馬術師ケイツルが渡来。ケイツルはハンブルグ生まれのドイツ人
     1726(享保11)春/馬術師ケイツルが幕府の招きで江戸へ。甲比丹ハルトオも同行する
     03/01江戸城内吹上馬場で吉宗の前で馬術をみせる。甲比丹へ銀30枚、ケイツルへ30枚を下賜
     04/江戸から帰崎
     のちオランダの馬術師クリーデマンがケイツルと交替のため来朝。ケイツルは帰国
     1727(享保12)07/26クリーデマンが出島で病死したため、オランダの馬術師ケイツルが再び渡来
     同年ケイツル、諏方社流鏑馬場で乗馬の練習を行なう。陳宋若・沈大成も日本馬で練習し見物人が殺到
     1729(享保14)08/12ケイツルが再び江戸に召され出発
     09/19江戸着。浜御殿に住み馬術を幕府の士に教授する
     1730(享保15)03/馬術上覧。銀70枚が下賜される
     1735(享保20)01/再び召されて江戸へ行く。銀100枚を賜る
     08/江戸から帰崎
     09/帰国の途につく
     12/ジャカルタで病没
  オランダ商館から将軍吉宗に塩漬肉1貫目、ハム600匁を納上
  唐館銀札(銀券・長崎唐館役所札)が発行される
     中国人の在留諸費用支弁用で、長崎の唐館居住の中国人と唐館出入りの者との取引だけが使用できる
     通用期間は1か月。唐館乙名は毎月の銀札使用高を長崎会所に通知
     長崎会所は銀札を受領した商人の請求に応じて正銀と引き換える
     在留中国人は使用した銀札高に応じて長崎会所との間で決済を行なう
     1766(明和03)唐館銀札(銀券・長崎唐館役所札)が廃止となる
     1795(寛政07)唐館銀札(銀券・長崎唐館役所札)が復活する
  出来大工町乙名若杉喜三太が自宅に祀っていた伊良林神社の分霊を矢の平に移す
     小さな社殿を建て矢ノ平稲荷神社に
  銅座〜船大工町に土橋の銅座橋が架かる
     1851(嘉永04)05/土橋が石橋に架け替える
     1894(明治27)一部補修
     1915(大正04)12/鉄筋コンクリート造に架け替えられ大正橋と改称
     1950(昭和25)頃上流側が暗渠となり銅座市場となる
  唐船31隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1726(享保11)【中御門】 丙午(ひのえうま)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》石河土佐守(05/25退任)、三宅周防守(康敬・前目付・05/28発令・10/着)、日下部丹波守(11/発)
  《商館長》ヨアン・ド・ハルトッホ(←10/15→)ピーテル・ボックスティン

  02/前年に来朝した唐儒者の朱●(人偏に凧)章が馬医と騎射に長ずる物を迎えるため臨時の信牌を得て帰国
     11/再び来朝
  春/馬術師ケイツルが幕府の招きで江戸へ。甲比丹ハルトオも同行する
     03/01江戸城内吹上馬場で吉宗の前で馬術をみせる。甲比丹へ銀30枚、ケイツルへ30枚を下賜
     04/江戸から帰崎
     のちオランダの馬術師クリーデマンがケイツルと交替のため来朝。ケイツルは帰国
     1727(享保12)07/26クリーデマンが出島で病死したため、オランダの馬術師ケイツルが再び渡来
  05/崇嶽(瓊杵山)の金刀比羅大権現を祀る本社に神宮寺の寺号を公式再興。無凡山神宮寺と号す
     のち「華蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     1868(明治01)神仏分離令により金刀比羅神社と改称
  10/僧浄遍が「長崎略縁起」を記す
     浄遍の号は白夢堂。正覚寺4代住職で隠居して蓮池院と号する
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  幕府が駿府に薬苑を開設
  大阪心斎橋筋に「大文字屋」大阪店の「松屋」を開き、現金正札販売をはじめる
     1728(享保13)名古屋本町4丁目に名古屋店を開き、初めて「大丸屋」と称する
  唐船42隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1727(享保12)【中御門】 丁未(ひのとひつじ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》日下部丹波守(閏01/11退任)、渡辺出雲守(永倫・前目付・閏01/15発令・08/着)、三宅周防守(10/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←11/03→)アブラハム・ミネドンク

  06/03蘭船が馬2頭をもち帰る
  06/唐人の騎射術者陳采若と沈大成、馬医の劉経光が来朝
     07/24幕府が富田又左衛門を長崎に派遣して接待させる
     1731(享保16)帰国
  07/26クリーデマンが出島で病死したため、オランダの馬術師ケイツルが再び渡来
     同年ケイツル、諏方社流鏑馬場で乗馬の練習を行なう。陳宋若・沈大成も日本馬で練習し見物人が殺到
     1729(享保14)08/12ケイツルが再び江戸に召され出発
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの著書「日本誌」が刊行
     鎖国日本の内側の姿を本格的、科学的にヨーロッパに紹介
     正式タイトルは『日本誌、その帝国の往古と現在の状況および政府について
     また、その諸寺院、宮殿、城郭およびその他の建築について
     その「産出する」金属類、鉱物、樹木、植物、諸動物、鳥類および魚類について
     皇室および幕府の事蹟と継承について
     さらに、国民の由来、宗教、農工業、ならびにオランダ人および中国人との通商について
     あわせて、シャム王国の記述を付す
』という
  カンボジアの使臣が長崎にきて通商を求める。幕府は許して信牌を与える
  桶屋町の甚八は大酒乱心のため町乙名と近所の者の申し出により非人手下へ渡される
  中紺屋町の吉次郎は障害をおこし人品よろしからず者で町内親類が見放したため非人手下へ
  唐船43隻(内積戻船1)、蘭船2隻が入港

1728(享保13)【中御門】 戊申(つちのえさる)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》三宅周防守(10/着)、渡辺出雲守(10/発・翌年05/13江戸で死去)
  《商館長》アブラハム・ミネドンク(←10/20)(10/22→)ピーテル・ボックスティン

  07/19《06/13》安南国(ベトナム)産の、将軍吉宗の希望で雄雌各1頭が唐船で長崎に入港
     【一説にオランダ船に乗って】
     1408(応永15)、1575(天正03)に次いで徳川吉宗の時代に3度目の象
     陸揚げするのに大波止から海中へ長い仮橋を作り、唐船を横づけ
     仮橋には土を置き、象の通り路だけ空けて土手のように土を盛り上げ、1頭宛てに象使いがつきそい慎重に上陸
     象はひとまず唐人屋敷の中に収容
     雌1頭は菓子を与え過ぎ象の舌の上に「できもの」ができ象使いが八方手をつす
     長崎の豪胆な町人が口に手をさし入れ舌の「できもの」を洗う
     10/15《09/13》苦痛がやわらぎ元気を取り戻したかに見えたが、雌象はほどなく死亡
     残りの7歳の雄象は江戸の将軍吉宗へ献上
     1729(享保14)04/10《03/13》長崎を出発
     14人の飼育係に交代で見守られ江戸までの300里を行進
     長崎奉行より出された用意すべき飼料を見て街道の諸藩が驚く
     新わら200斤、笹葉150斤、草100斤、大唐米8升、芭蕉2本、あんなし饅頭5拾、橙5拾、九年母3拾…
     「献上もの」とあって、道中は取締り厳しく、街道の小石を取り除き橋を架け換えムシロを敷く
     他に道路、宿舎の整備、驚くから鼠をだすな、人声をだすな…など細かい注意がいくつもでる
     要所に水桶を置く。大変な騒ぎに
     04/261日に4里、5里と歩き京都に到着。京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
     04/29京都出発
     途中、大井川ではいかだを組んで渡す
     06/21《05/25》長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る。 沿道黒山の群集を驚かす
     05/27江戸城内に引き入れられ、将軍吉宗は諸大名と共に象見物
     将軍謁見。象は前足を折り、頭上高く鼻を振り上げ挨拶。象は曲芸を演じて愛嬌を振りまき一同感嘆の声をあげる
     1日の食糧が相当量なため幕府はもてあます
     唐米8升、あんなん饅頭50、橙50、新わら200斤、笹の葉50斤、 イタヤカズラ100斤、草1千斤など
     のち浜御殿で13年間飼われるが飼育法が分からず幕府は持て余す。享保の改革にそぐわず、次第にやせ衰える
     のち郊外中野村の百姓の源助に貸与。象舎を作って移す
     源助は象を見せ物にしあくどく儲けに使う
     1749(寛延02)源助は餌代をけちり栄養失調で餓死
     1816(文化13)甲比丹ヘンドリキ・ドーフが 将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶
  08/05諏方社にて将軍吉宗の嗣子家重の癌瘡快癒で祝賀。神事及び神事能の催しを行なう【疱瘡?】
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  名古屋本町4丁目に「大文字屋」名古屋店を開き、初めて「大丸屋」と称する
     1743(寛保03)江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業
  奉行抱え下役の名目をすべて足軽とする
  ジャマイカの総督ニコラス・ローズ卿により日本にコーヒーが伝来
  日本に初めて乳牛が輸入される
  唐船22隻、蘭船2隻が入港

1729(享保14)【中御門】 己酉(つちのととり)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》細井因幡守(安明・前奈良奉行・06/28発令・10/着)、三宅周防守(11/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←10/12→)アブラハム・ミネドンク

  04/10《03/13》安南国産の生き残った7歳の雄象が江戸の将軍へ献上。長崎を出発
     14人の飼育係に交代で見守られ江戸までの300里を行進
     長崎奉行より出された用意すべき飼料を見て街道の諸藩が驚く
     新わら200斤、笹葉150斤、草100斤、大唐米8升、芭蕉2本、あんなし饅頭5拾、橙5拾、九年母3拾…
     「献上もの」とあって、道中は取締り厳しく、街道の小石を取り除き橋を架け換えムシロを敷く
     他に道路、宿舎の整備、驚くから鼠をだすな、人声をだすな…など細かい注意がいくつもでる
     要所に水桶を置く。大変な騒ぎに
     1729(享保14)04/261日に4里、5里と歩き京都に到着。京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
  04/26安南国産の生き残った7歳の雄象が1日に4里、5里と歩き京都に到着
     京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
     04/29京都出発
     途中、大井川ではいかだを組んで渡す
     06/21《05/25》長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る。 沿道黒山の群集を驚かす
  05/儒者で聖堂学頭の盧草拙(59)が没する。字は元敏・清素、通称元右衛門
  06/21《05/25》安南国産の生き残った7歳の雄象が長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る
      沿道の黒山の群集を驚かす
     05/27江戸城内に引き入れられ、将軍吉宗は諸大名と共に象見物
     将軍謁見。象は前足を折り、頭上高く鼻を振り上げ挨拶。象は曲芸を演じて愛嬌を振りまき一同感嘆の声をあげる
     1日の食糧が相当量なため幕府はもてあます
     唐米8升、あんなん饅頭50、橙50、新わら200斤、笹の葉50斤、 イタヤカズラ100斤、草1千斤など
     のち浜御殿で13年間飼われるが飼育法が分からず幕府は持て余す。享保の改革にそぐわず、次第にやせ衰える
     のち郊外中野村の百姓の源助に貸与。象舎を作って移す
     源助は象を見せ物にしあくどく儲けに使う
     1749(寛延02)源助は餌代をけちり栄養失調で餓死
  08/12オランダの馬術師ケイツルが再び江戸に召され出発
     09/19江戸着。浜御殿に住み馬術を幕府の士に教授する
     1730(享保15)03/馬術上覧。銀70枚が下賜される
  森野藤助が幕府の御薬草御用係植村左平次の大和での採薬道中を案内
     報酬に薬草を貰い「森野薬園」にて栽培をはじめる
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  奉行所訓令
     丸山遊女が寺社詣りなどの際、絹紬以上の物を着用してはならない。普段の寺社参詣は無用
  長崎の時計師幸野吉郎左衛門が将軍家の香箱時計を修繕
  本五島町の吉郎兵衛はふしだらで酒癖が悪く酔えば乱暴をはたらく
     同町のなつは尻軽女で、とかくの噂が絶えず吉郎兵衛はなつを女房に迎えるが、すぐ別れる
     またよりが戻り復縁を迫るが、反対されると刃物で脅し父が申し出
     吉郎兵衛は非人手下へ。なつは女郎として年期なしで遊女屋へ【1727(享保12)】
     1734(享保19)吉郎兵衛は非人原を抜けだす
     無宿となり丸山の遊女屋で働く七浦と駆け落ちし再び非人手下へ
  唐船31隻、蘭船2隻が入港

1730(享保15)【中御門】 庚戌(かのえいぬ)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》三宅周防守(10/着)、細井因幡守(01/発)
  《商館長》アブラハム・ミネドンク(←10/31→)ピーテル・ボックスティン

  03/オランダの馬術師ケイツルが江戸で馬術上覧。銀70枚が下賜される
     1735(享保20)01/再び召されて江戸へ行く。銀100枚を賜る
  09/06昏、諏訪町より出火
  09/07「長崎くんち」を雨天強行するも途中で中止
     09/09踊り直し。09/09渡御09/11還御
     (2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  11/唐船主の謝●(りっしん篇に鎧の旁)臣が密貿易者を捕える
     1731(享保16)05/銀100枚の賞金を与えられる
  稲佐船津の抜け荷前科2犯の吉右衛門の手代八助が主人に唐品受け取りを命じられ唐船に向かって泳ぐ途中水死。「おぼれ抜け荷」
     吉右衛門は2犯で鼻そぎの刑に処せられながら、こりもしないで三度抜け荷を企てて捕まり死罪に
  幕府から長崎奉行所へ長崎でも敲仕置きを申しつけるよう達し
     天保年間(1830〜1844)の諸事留には下帯を外しての敲は如何なものかと、下帯をさせての敲になる
     50敲、100敲がある
  本下町の善左エ門は平生人柄が悪く町内を騒がし親類はじめ町内一同の願出のため非人手下へ
  浦上川河口付近の浦上山里村内で新田の開発のため埋立てが行なわれる
     のち数回にわたり埋立てられ浜口町、川口町、岩川町あたりができる
  川ざらえ船をつくる
  はしかが流行する。死者が多数
     1731(享保16)春まで
  唐通事の彭城藤次右衛門が命を受けて「清国通商産物略記」を著す
  唐船38隻、蘭船2隻が入港

1731(享保16)【中御門】 辛亥(かのとい)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》細井因幡守(10/着)、三宅周防守(11/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン

  03/五島から難破の唐船乗組員36人と貨物が送られてくる
  05/密貿易者を捕えた唐船主の謝●(りっしん篇に鎧の旁)臣が銀100枚の賞金を与えられる
  12/唐人写生画家の沈南蘋が渡来。中国画壇で流行の花鳥画派に属する有数の画家
     門下には熊代熊斐、僧鶴亭、建部●(にすいに俊の旁)岱、森蘭斎などがでて南蘋派の隆盛をみる
     1733(享保18)09/帰国
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  宮甚右衛門が官許を得て稲佐の稗田浜に鋳銅所を建て棹銅を造る
     1738(元文03)廃止となる
  飽の浦に塩田ができる
  大村で享保の大飢饉を芋で免れる
     のち評判になり幕府に望まれ芋窯(貯蔵用に土の中に掘った穴)から取った種芋を江戸へ送る
     のち青木昆陽が研究し全国に栽培が普及
  溜牢が馬込郷の株杭原(非人原)の隣接地に建設される
     のち溜牢は江戸では元来未決拘留の犯罪者を預かる場所
     長崎では一時的に当初から非人手下の裁可が下った犯罪者を預かる場所に
     のち非人目明かしが召し捕らえた者の拘留場所として使用される
     1751(寛延04)長崎の溜牢が未決員の収容所として使用されるようになる
     溜の御預り御用が強まると同時に非人手下の判決が極端に減る
     1868(慶応04)03/15浦上村馬込郷の溜牢が廃止される
  油屋町の庄三郎は平生乱酔して人に手むかうため非人手下へ
  長崎にきていた唐人の騎射術者陳采若と沈大成、馬医の劉経光が帰国
  無宿の伝五郎は借銀の常習で町内の手にあまるため非人手下へ
  春まで、はしかが流行する。死者が多数
  雲仙温泉の小地獄に浴場をつくる。南温泉として1653(承応02)の古湯を北温泉とする
  スウェーデン東インド会社(Swedish East India Company, SEIC)が民間会社によって設立される
     主に清国の広東との貿易に重視し正確には「スウェーデン広東会社」ともいえる。本拠地はイェーテボリ
     のちスウェーデンは植民地を保有しておらずヨーロッパの植民地戦争にほとんど巻き込まれずにすむ
     スウェーデン東インド会社は、他の東インド会社と比べると僅かな経済領域でしかない
     会社の存在はスウェーデンにとって意義深いもの。スウェーデン経済を支え、学芸・文化の促進をもたらす
     1813(文化10)スウェーデン東インド会社が閉鎖となる
     ナポレオン戦争の影響で会社の貿易基盤を完全に崩壊し行き詰まったため
  唐船38隻、蘭船1隻が入港

1732(享保17)【中御門】 壬子(みずのえね)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》三宅周防守(08/07大目付転出)、大森山城守(時長・前目付・08/07発令・12/着)、細井因幡守(在勤)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←11/07→)ヘンドリック・ファン・デル・ベル

  02/寄合町、肥前屋の遊女朝波が唐館で男児を出産
     相手方の唐人、呉竜官は自分の子と認めず、混血児ではなく父なし子として取り扱われる
     抱主肥前屋八左衛門は朝波を臨月まで唐館においたのは不調法と叱責され奉行所に証文2通を差出すよう命じられる
  05/05諏方社にて将軍吉宗の子家重の婚儀祝賀とし神事及び神事能を催す
     以後、将軍及び嗣子の吉慶に際して神事能を催す
  06/うんかの大発生により西日本一帯が大凶作となる。米や銭を貧民に与える
     夏、長雨といなごの大群の害で中国地方を中心に空前の大凶作となり飢民260万人に達する
     大村藩7代藩主純富のとき領内も平年作の9割の被害を受ける
     へいぜい琉球芋(甘藷)を栽培して備え多数の餓死者をださずにすむ
     のち以後、凶作、飢饉は頻繁におこる
  06/米価が高騰し石90匁となる。1.5倍に
     奉行大森山城守は人民に斗米を施し唐3か寺の他、寺56か所にて施粥
  10/16夜、大風。唐船が暗礁にのりあげて港外に沈没。乗組員中1人は沖の島に漂着、他の39人は全員死亡
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  長崎で発生した狂犬病が全国に伝播する
  唐人屋敷に出入りした丸山遊女の延べ人数は2万4644人、
     出島商館に出入りした丸山遊女の延べ人数は339人
  無宿の長太郎は人柄よろしからず町内のき引請人がないため非人手下へ
  唐船36隻、蘭船2隻が入港

1733(享保18)【中御門】 癸丑(みずのとうし)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》細井因幡守(01/発・11/着)、大森山城守(11/発)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・デル・ベル(←10/27→)ローヒル・ド・ラフェル

  01/07米価高値の売買に対し桶屋町・古町・今博多町・大井手町の米屋に市中の「かるきもの」33人が集まる
     穀物を取散らかし騒動を起こす
     乙名が訴え検使をを指出し鎮める
  02/筑後屋の遊女若紫が客唐人陳●(手偏に倫の旁)三との間に男児を出産、万太郎と名づける
     08/死去
  05/28将軍吉宗が疫病死者の慰霊と悪霊退散を祈り、隅田川の両国橋近辺で水神祭りを行ない川開きをする
     飢饉やコレラの大流行で亡くなった人たちの弔いと悪霊退散の願いを込めて、花火を打ち上げる
  12/01夜、長崎村小島郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  本博多町、大音寺坂の坂の上、ミゼリコルディア教会跡、大音寺跡に坂上神社が建立
     (坂の上天満宮、土産天神、駕屋天神、大音寺坂天神とも)
     原爆で焼失
     1955(昭和30)坂の下に社殿を新築。坂の下なのに坂上神社
  長崎奉行大森山城守が東北諸国の米を迴漕させて難民に施す。長崎での餓死者はなし
     11/大森山城守が任務を終え江戸へ発つとき、市民数千人が一の瀬まで見送り恩を謝す
  博多屋久左衛門、鱗形屋勘十郎、刀屋八郎兵衛、河内屋庄兵衛、
     森弥次兵衛、春善次郎、村山庄右衛門、服部甚次郎ら町方、寺社方にて寄付、施粥が行われる
  甲比丹が幕府の依頼で数年間、良馬を輸入した功により銅10万斤を賜る
  緑蘿庵、大悲庵、廣徳庵、曇華庵、万寿庵、廣福庵などで施粥が行われる
  高島作兵衛音●(糸偏に櫻の旁)が一代町年寄に任ぜられる。大村町の高島の別家となる
  生月の益富又左衛門が捕鯨の方法を突組(銛で突いて捕る)を網組(網に絡ませ銛で突き捕る)に改める
  唐船28隻、蘭船2隻が入港

オランダ人の時計師、渡来以前1733〜1734

  長崎の御用時計師幸野吉郎左衛門がオランダ渡来の時計の修理をなした功により5人扶持、受用銀10貫を給される

1734(享保19)【中御門】 甲寅(きのえとら)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》大森山城守(02/04退任)、窪田肥前守(忠任・前佐渡奉行・02/08発令・08/着)、細井因幡守(09/発)
  《商館長》ローヒル・ド・ラフェル(←10/16→)ダビド・ドリンクマン

  01/18西役所で唐人の芝居をみる
  02/寄合町、薩摩屋の遊女初瀬が唐人陳捷英との間に男児、吉之助を出産
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     大波戸の御旅所にて湯立神事が再開される
  09/12唐人30人が許しを得て諏方社の神事能をみる【03/12?】
  吉郎兵衛は非人原を抜けだす
     無宿となり丸山の遊女屋で働く七浦と駆け落ちし再び非人手下へ
     本五島町の吉郎兵衛は1729(享保14)ふしだらで酒癖が悪く酔えば乱暴をはたらいていたため非人手下へ渡されていた
  蘭船が雄馬6頭と虎1頭を持ち渡る
  今町に人参座を置く
     貞享、元禄のころから国産人参が大いに奨励されたため朝鮮から輸入の人参種子も盛んに栽培される
     この年、長崎では町民たちの願い出により広東人参の販売が許可される
     人参座には吟味役3人と諸払役5人が任命され人参の販売を取り締まることに
     宝暦年間廃止となる
  オランダ人の時計師が渡来
     1736(元文01)再びオランダ人の時計師が渡来
  興福寺9代の竺庵が長崎を去り黄檗山万福寺13代となる
     以後興福寺を継承する唐僧がいなくなり、代々和僧となる
     1739(元文04)04/興福寺10代の和僧大倫が崇福寺、福済寺の住持らと協議
     連名をもって唐僧招請について長崎奉行に斡旋方を出願するが、不成功に終わる
     1755(宝暦05)1757(宝暦07)まで毎年願いでるが、不成功に終わる
     唐僧の渡来が断絶する
  唐船31隻、蘭船1隻が入港

1735(享保20)【桜町】 乙卯(きのとう)

  《将軍》[第8代]徳川吉宗(紀州徳川家)
  《奉行》細井因幡守(08/着)、窪田肥前守(09/発)
  《商館長》ダビド・ドリンクマン(←11/04→)ベルナルドス・コープ・ア・フルーン

  01/幕府の招きで渡来していたオランダの馬術師ケイツルが再び召されて江戸へ行く。銀100枚を賜る
     08/江戸から帰崎
     09/帰国の途につく
     12/ジャカルタで病没
  09/諏方社大祭費が銀11貫目余に。各町の費用はこのほかとする
  11/25夜、八百屋町藤崎久右衛門宅より出火。東中町、勝山町に延焼、55戸を焼失(「火玉火事」)
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  西川如見の子忠次郎が幕府天文御用方となる
  唐船29隻、蘭船1隻が入港

享保年間(1716〜1736)

  浦上新田のため潮水の出入りを調整する堰堤を築く(井樋ノ口のはじめ、現宝町辺り)
  インド原産の夾竹桃(キョウチクトウ)が中国を経て長崎に移入
  長崎ガラスによるビードロ細工が長崎土産として有名になるまで発展
     眼鏡類や宙吹き素文のガラス器類、髪差し、笄(こうがい)、玉飾りのつり灯籠など
  浦上村馬込の船江の谷間と斜面の株杭原に集落をつくり2つの非人部落が形成される
     この地域は木の切株が杭の如く立つ意味から株杭原と呼ばれる
  ハタあげが盛んになる
  木場六枚板に住む松浦家元家老パウロ原田善左衛門夫妻が難河原で火あぶりとなり殉教
  伊藤伊兵衛が江戸巣鴨に薬園を設置
  高松藩が薬園を設置

1736(享保21、元文01・04/28)【桜町】 丙辰(ひのえたつ)

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