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〈昭和時代(5)〉

戦前

  長崎市田中町で紅ダイコンを栽培

戦前以降

  高来町の中山間地(善住寺、萩原、黒新田、坂元)でこんにゃくを自家採種
  高来町の中山間地(神津倉)でもちとうもろこしを自家採種

1941(昭和16)【昭和】 辛巳(かのとみ)

  《総理大臣》[第38代]第2次近衞文麿内閣(→07/18)、[第39代]第3次近衞文麿内閣(07/18→10/18)
        [第40代]東條英機(10/18→)
  《知事》[第33代(官選)]平敏孝
  《市長》[第14代]井野次郎(→05/23)、[第15代]岡田壽吉(10/22→)

  01/01北松浦郡佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
     北松浦郡星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
     1942(昭和17)05/27北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
  01/31輸送船「川工丸」が川南造船所にて進水
     長崎と川南造船所を結ぶ輸送船で川南の従業員が通勤
  01/長崎バス(株)のタクシー部門を日の丸自動車に譲渡
  02/11李香蘭が日本劇場での「歌ふ李香蘭」に出演。大勢のファンが大挙して押し寄せ大盛況に
     観客が日劇の周囲を7周り半にわたり取り巻き、消防車が出動・散水、群衆を移動させる程の騒動に
     日劇7周り半事件
  02/コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が亡命者を救援したのを理由にドイツ秘密国家警察に再逮捕
     05/アウシュビッツに送られる
     第17・第12号獄舎を経て農業従事者の第14獄舎へ移される
     のち第14獄舎で1人の収容者が逃亡。所長は報復に10人を餓死刑に指名
     08/14コルベ神父は10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
     餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
     コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
     残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
  03/01長崎県営バスの雲仙出張所が開設、雲仙車庫が落成
     1959(昭和34)03/20雲仙営業所改築完成
     1963(昭和38)05/30小浜町より雲仙営業所車庫用地として2250.44平方米を買収
     1968(昭和43)05/30雲仙女子職員寮が新築落成
     1973(昭和48)01/31雲仙営業所職員住宅3戸を新築落成
     2007(平成19)03/31雲仙出張所が廃止
  03/長崎測候所による風取山(どんの山)山頂での正午を報せる空砲がサイレンに変わる
     空砲の前は大砲を撃っていた
     1941(昭和16)12/31正午を報せるサイレンが廃止になる
  03/長崎バス(株)が個人経営の瀬戸〜時津線を買収
  03/国民学校令(昭和16年勅令第148号)が公布され、小学校は国民学校と改称
     教科は国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科、体練科(武道・体操)、芸能科に統合
     1947(昭和22)03/31学校教育法(昭和22年法律第26号)により廃止
  04/01磨屋尋常小学校が磨屋国民小学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立磨屋小学校と改称
  04/01勝山尋常高等小学校が勝山国民小学校と改称
     1945(昭和20)08/09原爆投下ののち臨時救護所となる
  04/01新興善小校が新興善国民小学校と校名を変更
     1945(昭和20)08/09爆心地から南3粁の地点にあり爆風により窓ガラスが飛び散る
     午後、付近一帯火災が発生するが、類焼はまぬがれる
     負傷者は、戦時災害時に備えて計画された焼け残った救護所へと詰め掛ける。新興善国民学校もそのひとつ
  04/01城山尋常小学校が城山国民学校となる
     1945(昭和20)08/09原爆により児童、教職員等約1400人が死亡
     校舎の損傷も大きく修理しながら授業をすすめられた
  04/01上田町の南大浦小学校が長崎市大浦国民学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立南大浦小学校と改称
  04/01浪平尋常高等小学校が長崎市浪平国民学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立浪平小学校と改称
  04/01長崎市が浜屋デパート店内に結婚相談所を開設
     「生めよ、増やせよ」の国策に沿い結婚を奨励
  04/01南松浦郡青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
     04/03南松浦郡岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
  04/01音楽の階名ドレミファ…がイロハニ…となる
  04/03南松浦郡岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
     1943(昭和18)12/08南松浦郡奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
  04/11市内全町が結成
     町内連合会24、町内会294、隣組4878
     町内会は衛生組合の区域ごとに設立、町内会長は衛生組長に
     国策遂行の末端機関として位置づけられる
     1942(昭和17)02/05長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
     戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
  04/親和銀行が大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
     1943(昭和18)10/佐世保貯蓄銀行を合併
  04/長崎市商工団体連合会が主体となり長崎県商業報国会長崎支部を結成
     (1)新商業倫理の確立(2)商業新秩序の確立(3)統制順守を実践要綱に掲げる
     商業報国運動を積極的に展開することに
     のちすべての生活必需物資が不足して配給制に、商店は配給の末端機関と化して商業本来の機能は全く失われる
  04/長崎市鮮魚介出荷統制組合が設立。出荷統制業務を行なう
  05/1690(元禄03)04/創業の「鍵屋」が法人組織に改組。資本金三百万円・株式会社山本山と称す
     「山本山」は1830年代、6代目嘉兵衛(徳翁)のときに大評判の自園栽培のお茶の商品名
  06/01長崎県営自動車運輸事務所が長崎県自動車局と改称
     1945(昭和20)05/20馬町81番地の富国徴兵保険(株)跡に移転
  06/戦時下、統制令の企業整備により船蔵町に「長崎醤油味噌醸造工業組合」がスタート
     長崎県下の味噌・醤油の醸造元28軒が共存共栄と企業の合理化が目的
     業界としては全国初の共同施設による共同生産・販売を開始
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により生産設備の大半を失う
     1947(昭和22)02/長崎醤油味噌工業組合へ改称
     1950(昭和25)04/長工醤油味噌有限会社へ商号変更
     1966(昭和41)04/長工醤油株式会社へ組織変更
     1973(昭和48)10/チョーコー醤油株式会社(販売)へ社名変更
     1983(昭和58)03/西坂町に本社ビルが完成
  07/関門トンネル工事で第1トンネルが貫通
     起工は1936(昭和11)09/19
     1942(昭和17)06/11急ピッチの工事の末、関門海底隧道の第1トンネル(6614米)が開通
     世界初の海底トンネル。試運転が開始される
  07/対馬・壱岐・下関・旅順・羅津要塞の重砲兵連隊が編成
     以後次々と各要塞守備のため、既存の「重砲兵連隊」から「要塞重砲兵連隊」が編成される
  07/昨年九月の9月の北部仏印進駐に続いて日本が南部仏印に進駐
  08/05読売新聞社が戦時下に行なわれた新聞統合により報知新聞社の「報知新聞」を合併
     「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題される
     1945(昭和20)05/27読売報知、朝日新聞、毎日新聞、日本産業経済、東京新聞の5社共同による「共同新聞」が発行される
  08/10市営交通船の元船町〜志賀波止航路の運航を中止
  08/14コルベ神父が獄舎10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
     コルベ神父はマキシミリアノ・マリア・コルベという
     アウシュビッツ強制収容所の餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
     コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
     残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
  08/長崎無尽株式会社が昭和無尽株式会社と新立合併。業務区域が長崎県下一円に
     1942(昭和17)04/諫早無尽株式会社を吸収合併
  08/アメリカが対日石油輸出を全面禁止。さらにABCD包囲陣を構成して日本の南進阻止をたくらむ
  09/01石油の消費規制が強化
  09/01西海町営船が燃料不足により大八丸1隻にて運航
     1941(昭和16)面高曲の鼻沖で沈没2人死亡
  09/04大阪商船所属の「ぶら志る丸」が海軍に徴用されて輸送船となる
     1942(昭和17)08/05北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
     空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中のこと
     フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
     姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
  09/05日本郵船発注の商船「春日丸」から改装した特設空母「大鷹」が佐世保海軍工廠で竣工
     1944(昭和19)08/18フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
  09/長崎バス(株)が野母〜脇岬間、瀬戸〜大串間のバス路線を長期運休に
  09/第3回水道拡張事業の市北部に浦上水源地、市南部に鹿尾水源地が起工される
     1945(昭和20)02/11第3回水道拡張事業の浦上水源地濾過池6面のうち3面が完成。1日5千立方米の給水が可能に
  10/01三菱造船所の浦上グラウンドで国民徴用令による初の従業員徴用者(2万人)の徴用式が挙行
  10/06三菱長崎造船所の副長岡田寿吉が市会で第15代市長に当選
     岡田寿吉は1887(明治20)03/兵庫県生まれ
     東大法学部を卒業し1913(大正02)に長崎造船所に入社
     10/15造船所を退社(年金1560円)
     10/22市長に就任
     1945(昭和20)08/09原爆時、岡田寿吉は市役所にいて助かる
     平野町の自宅は被災、妻初枝、長女輝子、長男陽太郎をなくす
     1945(昭和20)10/21任期満了
     1945(昭和20)10/22第16代市長に再任
     1946(昭和21)10/15退任。公職追放(パージ)該当者に指定される前に退陣。菅野助役が市長職務代理に
     1949(昭和24)03/06前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
     1949(昭和24)03/08戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
     足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
     手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
     1956(昭和31)11/18唐八景から八郎岳へ向かう山中のお万茶屋付近の山林の中で、白骨死体となって発見
  10/07「長崎くんち」
     (6)…丸山町(本踊)、興善町(傘鉾のみ)、本籠町(蛇踊囃子)、
     今博多町(しゃぎり)、上筑後町(しゃぎり)、江戸町(しゃぎり)
  10/12内務大臣の命により全市内で総合防空訓練が実施
  10/米の配給が切符制から通帳制に改められる
     1942(昭和17)01/塩の通帳制配給が実施される
  秋日華連絡第3船、三菱重工長崎造船所で進水した東亜海運貨客船の「神戸丸」(約8千瓲)が就航
     1942(昭和17)11/11午前05時28分、東シナ海で日本郵船貨物船天山丸と衝突し沈没
     乗員乗客875人中、乗客80乗員15人が死亡
  11/01政府の新聞統合令により「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。「日本産業経済」と改題
     1946(昭和21)03/01社名を日本経済新聞社に、題号を「日本経済新聞」に改める
  11/01新聞統廃合令で愛知県以西の産業経済専門紙が統合。「産業経済新聞」となる
     1950(昭和25)03/東京で印刷発行を開始。経済紙から一般全国紙への基礎を固める
     1955(昭和30)11/東京発行の「産業経済新聞」が「時事新報」を買収。「産経時事」と改題
     1958(昭和33)07/11東京発行の「産経時事」を「産経新聞」に改題
     1959(昭和34)大阪発行の「産業経済新聞」を「産経新聞」に改題。東西で異っていた題号が「産経新聞」に統一される
     1969(昭和44)05/題号を「サンケイ新聞」に改題
     1988(昭和63)05/28題号を再び漢字の「産経新聞」に戻し、全国紙初の本格的カラー紙面を採用する
  11/05頃敵の判断を混乱させる陽動作戦として、連合艦隊の主力が橘湾に集結。小浜町民を驚かせる
     のち連合艦隊は大分県の佐伯湾に向かったと推測される
     11/18機動部隊が佐伯湾を出港し待機地点の択捉島の単冠湾に向けて移動を開始
     11/28機動部隊が単冠湾を出港。無線封鎖を行なって米軍に気づかれることなくハワイへ向かう
  11/長崎要塞司令部と長崎要塞重砲兵連隊(人員387)をもって長崎要塞防空隊を編成
     稲佐山、星取山に高射砲陣地が構築される
  11/長崎中央教会が長崎銀屋町教会と改称。宣教師は全員帰国
  12/01長崎県営バスの大村出張所が開設
     1950(昭和25)08/12大村営業所落成
     1970(昭和45)10/25大村営業所女子職員寮が新築落成
     1971(昭和46)03/28大村営業所及び整備工場が新築落成
     1972(昭和47)10/25大村営業所職員住宅2戸が新築落成
  11/05御前会議で12月初旬の対米開戦を想定
     12/01御前会議で対米英開戦が決定される
  12/08稲佐警察署が設置される
  12/08日本軍がマレー半島に上陸。ハワイ真珠湾に攻撃し米英両国に宣戦布告
  12/08午前07時、日本放送協会(NHK)のアナウンサー館野守男が開戦を知らせるニュースを2度繰り返す
     「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表…
     帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
  12/08午前11時50分、大東亜戦争の勃発により長崎―上海間の海底線が不通になる
     1942(昭和17)01/03長崎―ウラジオ間の海底線に障害が生じ修理不能となる
  12/08英国領事館が閉鎖
     1954(昭和29)09/公売にされる
  12/08気象情報が戦時下の気象管制のため中断される
     気象観測値、天気予報は軍事機密となり、一般への公表と報道が禁止に。気象無線通報はすべて暗号化
     1945(昭和20)08/21気象通報管制解除される【08/22?】
  12/09天気予報を出すことが敵国に利するとして防空対策上、報道禁止に
     1945(昭和20)08/22昼のラジオ放送で気象情報の報道が再開
  12/20長崎県営バスに大村地区路線の免許が交付12/24運行開始
  12/31長崎測候所による風取山(どんの山)山頂での正午を報せるサイレンが廃止になる
  12/太平洋戦争勃発に伴い「移民教養所」を「小倉陸軍病院分院」に転用
     1945(昭和20)10/22米国が接収、長崎軍政府管理の下、長崎茲惠(慈恵)病院となる
     原爆被爆者をはじめ、一般市民の診療にあたる
     1946(昭和21)04/米国より長崎市民に寄贈
     日本医療団経営による長崎県中央病院「長崎慈恵(慈恵)病院」として発足
     1948(昭和23)11/日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
     日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
     1948(昭和23)12/01長崎市立市民病院として開設(内科、外科及び耳鼻咽喉科の3科。病床数96床)
     1957(昭和32)07/01総合病院の承認を受ける
     1962(昭和37)01/新館増築工事が完成。鉄筋コンクリート造4階建て、工費6035万円
     1974(昭和49)10/25新館(地下1階・地上7階建)が完成、診療業務開始
     1975(昭和50)12/01増改築工事が完成、落成式。総工費16億7000万円
  12/物資統制令が公布される
  「長崎日日新聞」が東京読売新聞に譲渡
     社長は読売本社から小林光政、武藤具三らが後を継ぐ
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」とともに統合
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  長崎バスが共益自動車(大串線)を買収
  東山手12番地の旧プロシア領事館の建物が活水学院に譲渡
     1976(昭和51)建物が活水学院から長崎市に寄贈
  古町の日本基督教会聖ケ丘伝導教会が日本キリスト教団長崎古町教会と改称
  炉粕町の長崎商品陳列所が長崎市立博物館として活用される
  電報の検閲が強化される。検閲官が駐在することに
  西海町営船が面高曲の鼻沖で沈没2人死亡
     1942(昭和17)09/14横瀬丸がで3600円売却される
  大政翼賛会のすすめで「みそぎ」による「明魂運動」が盛んに行なわれる
  長崎市立博物館が創立
  伊王島炭鉱を開抗
  伊王島に初めて電灯がともる
  「郵便報知新聞」を発行する報知社の販売方針を見直すなど経営努力を重ねるが結局ふるわず講談社は撤退
     のち政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡
     1942(昭和17)08/05戦時下に行なわれた新聞統合により讀賣新聞に合併
     「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題される
  平坂製薬の「ヘデクパウダー」の原料のひとつ、アスピリンの入手が困難となり、一時休業を余儀なくされる
     1947(昭和22)前年の創設者平坂茂市の死去にともない、長女平坂米子が会社復興
     社名を平坂製薬株式会社とし、本社を金屋町に置く
     同年全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
  ドロップス、キャラメル、ビスケットが子供用菓子として切符制に
  小林重守が長崎市内でに池月旅館を創業
     招集を受けて中支、北支に転戦し召集解除となって帰還したのちのこと
     1942(昭和17)小林重守が三菱造船に徴用される
     1947(昭和22)池月旅館が原爆で焼かれたため木材商を営む
     1954(昭和29)木材商を廃し恵美須町で旅館えび屋をはじめる
     1964(昭和39)船山某が営む上町の迎陽荘を譲り受けて経営。えび屋支店迎陽荘に
  雲仙でみやげ品店を営んでいた松本某が旅館松本屋を開業
     1949(昭和24)合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする

1941(昭和16)頃

  鍛冶屋町の古書店大正堂が自転車で注文図書を会員宅に貸し出していた移動雑誌回読会を終える

戦前〜戦中

  夏ネギが中国から導入される
     戦後まもなく長崎市田手原で栽培が開始

開戦後

  開戦の詔勅が下された8日を毎月「大詔奉戴日」と定める。それまでは毎月朔日が「興亜奉公日」

第二次世界大戦中

  三菱造船所のグラバー邸が大浦クラブとして使用
     1945(昭和20)から約4年間米進駐軍の司令官公舎として接収
  大浦上田町の七楽座が大浦劇場と改称
     1964(昭和39)火災により焼失
  西古川町の上田神仏具店が三菱長崎造船所で建造される艦船に祭られる神棚を製作
     昭和30年代三菱社員の福利厚生事業のひとつに、家族の葬儀を受ける
     のち葬祭業に進出。(株)上田葬儀社(のち長崎新生活センター)を設立。さらに婚礼部門にも参入
     のち油屋町に移転
  福富町3丁目の国光紡績が企業整備のため倉敷紡績会社に吸収
     1943(昭和18)01/三菱長崎造船所幸町工場内の紡績工場跡地に福岡県俘虜収容所台14分所が開設
  多くの梵鐘が供出されるなか大浦天主堂の朝顔型の青銅製聖鐘は国宝のため供出が免れる
     1945(昭和20)08/09原爆により屋根、正面大門扉、ステンドグラス、その他の部分に甚大な被害
  ド・ロ神父が建てた出津の聖堂の四角の鐘塔に吊るされた鐘が供出される
  上五島中道島の鯛之浦港に特攻基地が設けられ鯛ノ浦教会聖堂が基地司令部となる
     1949(昭和24)煉瓦造りの鐘塔が増築
     旧浦上天主堂の被爆煉瓦が使われる
  日本初のコンクリート造りの小曽根邸が建物の強制疎開となり取り壊される
  外浦町の長崎県庁庁舎に黒いまだらな迷彩が施される
     1945(昭和20)08/0912時過ぎに原爆による火災が発生
     青銅の屋根から白煙が生じ職員が手押ポンプで消火にあたるが、火の勢いが大きくなり手に負えない状態に
  長崎市役所庁舎望楼の塔上に据えられる4面のサイレンが、独特な音色で不気味に警報を吹き鳴らすようになる
     1945(昭和20)08/09原爆でも焼け残る
     1958(昭和33)03/29夜、市議会事務局付近より出火。2階の大半を焼失
     のち全館が建て替えられる
  運転士の召集、ガソリンの配給制限などにより長崎県営バスの事業が圧迫される厳しい状況に
  野母商船の中国揚子江航路、フィリピン航路で10隻の優秀船舶を被爆等で喪失
     中国揚子江航路[上海〜新港〜南京(霍橋)]、フィリピン航路[マニラ〜イロイロ〜セブ〜ダバオ]
  田主丸から長崎へ来て貿易を営んでいた菊池某が貿易の停止を理由に家業を廃止
     1952(昭和27)初代が建てた家が原爆の被害をまぬがれ改築し旅館業をはじめる
     屋号は母の名菊池春代から旅館菊春に
  諏訪公園の丸馬場の初代会頭松田源五郎翁の銅像が金属供出のため撤去
     戦後長崎商工会議所と十八銀行が中心になり再建が進められる
  新地の砂糖やメリケン粉などの卸問屋「萬順号」が輸入の中断により廃業
     1954(昭和29)林昭夫が祖父からの屋号「萬順」を継ぎ中華菓子をはじめる
     祖父が菓子を作った新地に店舗を構え金銭餅を看板に売り出す
  島原の藤田チェリー豆が名称を共栄製菓に変え備える
     戦後本来のチェリー豆の製造もどる
  榎津町の卸小売店、西坂食料品店が企業統合で肥塚酒店食料品部と合併
     株式会社菊屋食料品店に機構をかえ食料品の配給業務を行なう
     1947(昭和22)西坂食料品店が浜町に移り再スタート
     和洋酒、食料品のほか土産品部を新たに設け、観光みやげ品の販売に力を入れる
     県内の特産品がならび、壱岐のうに、壱岐の焼酎「山の守」、長崎のからすみなど、珍味を集める
  シーボルト宅跡の竹林のなかに設置されていたシーボルトの胸像が金属供出のため失われる
     胸像は東京美術学校の水谷鐡也教授により製作
     1963(昭和38)シーボルト史跡保存会により長崎県立長崎図書館に残っていた石膏型を使って復元される
  島原の吉田正八商店が企業統制で島原食品有限会社を作る
     吉田正八商店の創業者、吉田正八が代表取締役に
     1955(昭和30)頃観光客の増加で、長年の経験からナスの三楽漬け、ナスの一口辛子漬けを発売
     有明海のわかめをもみわかめにして土産品に進出

1942(昭和17)【昭和】 壬午(みずのえうま)

  《総理大臣》[第40代]東條英機
  《知事》[第33代(官選)]平敏孝(→06/15)、[第34代(官選)]山内義文(06/15→)
  《市長》[第15代]岡田壽吉

  01/03長崎―ウラジオ間の海底線に障害が生じ修理不能となる
     1943(昭和18)04/30大北電信会社の陸揚げ権が消滅
     大デンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社の海底電信は長崎沖の日本領海において切断することに
  01/日本郵船発注の商船「八幡丸」が大鷹型の2番艦として呉海軍工廠で特設空母「雲鷹」への改装に着手
     05/31竣工
     のち南方方面への輸送業務に従事。何度も魚雷攻撃を受ける
     1944(昭和19)09/17シンガポールから日本に向かう途中、
     南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
  01/長崎バス(株)が戸町〜西彼杵郡為石村と蚊焼村の路線を運営する野母自動車を買収
     野母自動車戸町社屋が長崎バスの出張所に
     1956(昭和31)08/戸町出張所が営業所に昇格
     1964(昭和39)戸町営業所が廃止、小ケ倉営業所を開設
     1971(昭和46)小ケ倉営業所が廃止
  01/塩の通帳制配給が実施される
     02/味噌、醤油の通帳制配給、衣料の点数切符制が実施される
  02/01衣料切符制が実施される
     都市部の居住者は1年に100点、郡部の居住者は80点の点数切符をもらい、点数内で衣料品の購入が認められる
     主な衣料品の点数…背広1着50点、男オーバー50点、袷着物48点、単衣24点、ツーピース27点、レインコート30点、
     学生オーバー40点、女オーバー40点、袴24点、ブラウス8点、ワイシャツ12点、ズロース4点、靴下2点、敷布団24点、
     毛布40点、スカート12点、エプロン2点、ズボン下12点、セーター20点、パジャマ40点、タオル手拭い3点など
  02/05長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
     戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
     1947(昭和22)02/21長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
  02/11東彼杵郡三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し大村市となる
     長崎県下で5番目に市政を施行
     05/27東彼杵郡早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
  03/16長崎県営バスに島原市内線の免許が交付03/19運行開始
  03/29陸相と内務相を兼任する東条英機が民情と軍需産業施設視察のため立川飛行場から西下
     03/30夕方、大村を経て県差しまわしの車で県庁に到着
     知事より県政報告を聞いた後、中庭で戦争完遂の訓辞をする
     職員の不真面目さを大声で叱り、平敏孝知事は06/免官
     03/31早朝より香焼島川南造船所を視察。川南豊作から将来計画を詳しく聞き従業員に訓辞
     午前10時、三菱造船所でマイクにより全従業員に激励と感謝の訓辞を、各工場を視察
     帰り、民衆を見て下車。挙手で答礼し旭橋付近まで歩く
  03/東条内閣の命令のもと全国の新聞は1県1紙となり島唯一の対馬朝日新聞が廃刊
     1946(昭和21)05/戦後物資統制の中、用紙割当を受けるため創立者の斉藤隼人が商工省繊維局に出頭陳情
  04/01「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」が政府の強権により「長崎日報」に統合
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
     1945(昭和20)07/「長崎新聞」と改題
     1945(昭和20)08/09原爆により大村町の社屋が灰燼に帰す
     のち社屋は出島町の旧長崎民友新聞社に移転
     1946(昭和21)05/10「長崎新聞(長崎日報)」従業員組合が西岡取締役会長の辞任を要求し大争議
     旧長崎日日系と旧長崎民友系との溝が深まり対立化したのが争議の主な原因
     1946(昭和21)12/09統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」に分離
  04/日本通運株式会社の日通元船町倉庫7棟が完成。建物は鉄筋コンクリート造平屋建
     1945(昭和20)08/09原爆により6、7号棟の鉄扉の中央が屈曲して内側に吹き飛ばされる
     戦後すぐに一部を補修して使用
     1947(昭和22)1〜5号棟が建替えられる
  04/長崎無尽株式会社が諫早無尽株式会社を吸収合併
     1951(昭和26)10/20相互銀行法が公布され株式会社長崎相互銀行と社名を変更
  05/17長崎〜上海の日華連絡船「長崎丸」(東亜海運)が伊王島北沖で日本軍布設の機雷に触れ沈没
     船長が割腹自決
     1943(昭和18)10/30揚子江口で南方兵員輸送船「崎戸丸」と衝突し「上海丸」が沈没
  05/17ソ連のスパイ組織が日本国内でスパイ行為をしていた「ゾルゲ事件」が公表。大きく新聞報道される
     新聞記者でナチ党員の肩書ながら実はスパイの中心人物ソビエト共産党員のドイツ人リヒャルト・ゾルゲ
     スパイのひとり尾崎秀実は近衛文麿内閣のブレーンとして政界に大きな影響を与えた評論家
     軍部とも通じ日中戦争を推進した元朝日新聞記者
     報道の内容は
     ソ連のスパイ組織であるゾルゲや尾崎らのグループが日本国内で諜報活動および謀略活動を行なう
     その容疑で、1941(昭和16)9月から1942(昭和17)4月にかけて警視庁の特高が逮捕したというもの
  05/20戦艦「武蔵」が長崎を出港し呉軍港へ向かう。第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
     1943(昭和18)連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
  05/27東彼杵郡早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
     1955(昭和30)04/01東彼杵郡折尾瀬村、江上村、崎針尾村が佐世保市に編入される
  05/27北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
     1947(昭和22)10/10北松浦郡鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
  05/日本郵船発注の商船「新田丸」が大鷹型3番艦として呉海軍工廠で特設空母「冲鷹」への改装に着手
     11/25竣工。それまでの戦訓を踏まえ、より大がかりな改装が加わる
     のち空母としての生涯のほとんどを横須賀〜トラックの飛行機輸送として従事
     1943(昭和18)12/03トラック島から日本に向かう途中、
     八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
  05/企業整備令が公布される
  06/11急ピッチの工事の末、世界初の海底トンネルとして関門海底隧道の第1トンネル(6614米)が開通
     試運転が開始される
     06/12「見よ世紀の処女列車は今ぞ行く(略)米英よ聞けこの建設の凱歌を、
     重慶よ見よこの凄まじい鉄輪の回転を」(福岡日日新聞)
     06/13旅客列車よりも先に試運転の名目で貨物列車が走る
     07/01第1トンネルで貨物列車を正式に運転開始。この日をもって開業となる
  06/ミッドウェー海戦で日本海軍が大敗。以後戦局はアメリカ軍が優勢に
  07/厚生省令をもって「妊産婦手帳規定」が交付され、世界で初めて妊産婦登録制度が発足する
     手帳の内容は妊産婦の心得、妊産婦・新生児健康状態欄、分娩記事欄、必要記事欄、出産申告書
     手帳を持参すると米、出産用脱脂綿、腹帯用さらし、砂糖など優先的に配給を受けることができる
     出産申告書は出生証明書に近いもの。提示によりミルクが手に入る
     のち届出が軌道にのり、産婦の約70%が妊産婦手帳の交付を受けていたと推定
     1948(昭和23)05/前年の児童福祉法を受けての改善。「母子手帳」として様式が定められる
     従来の妊産婦手帳が出産までの記録であったのを小児まで拡大。全24ページに綴られることに
     子どもの健康チエックや予防接種の記録が付け加えられ、名前通り母と子のためのものに
     のち効果のひとつに入院(施設内)分娩の普及。1950(昭和25)の施設内分娩は4.5%に過ぎず
     1966(昭和41)05/12前年の母子健康法成立をうけ母子手帳が改善。「母子健康手帳」に
     「妊婦は自ら進んで母子保健に関する知識の習得ならびに母性及び乳幼児の健康の保持増進につとめる」
     従来の消極的な姿勢から妊娠、出産、育児を自主的なものに変換しようという風潮に従ったもの
     のち医学的に細かい記載が多くされるような形になる
     のち妊婦(母親)の自主的な記録欄が増え、母と子の健康記録としての性格が強化される
  夏/長崎市内にデング熱が流行
  08/05「ぶら志る丸」が北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
     空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中
     フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
     姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
  08/19「長崎県仮設住宅建設部隊」が編成され大工組合員によって組織される
     企画、資材供給等は県、市があたり木材商組合、金物商組合で木材、釘などを備蓄
     戦後資材は復旧に放出
  08/市役所の下あたり、船津町の煉瓦造3階建の三菱病院船津町支局が船津町分院と改称
     1945(昭和20)08/09夕刻、金屋町方面より燃え下ってきた火により延焼。夜にかけて炎上
  09/12鉄道局長崎管理部が発足。第20代門司駅長の前田重作が初代長崎管理部長に就任
     1945(昭和20)08/13伊能門司鉄道管理局長が視察と慰問のため来崎。長崎管理部を訪れる
     前田重作は、これまで常に「従事員の士気は益々旺盛」の旨を報告してきたが
     今回は「遺憾ながら職員の意気阻喪の感がある」と報告。これは将に偽りのない処
  09/14西海町営船所有の横瀬丸がで3600円売却される
     1943(昭和18)04/01瀬川丸(1日1航海)就航。大八丸、畑丸は海軍施設部傭船契約に
  10/07「長崎くんち」渡御
     (7)…寄合町(本踊)、五島町(本踊)、新引地町(本踊)、本石灰町(本踊)、船大工町(川船囃子)、
     大井手町(傘鉾のみ)、眼鏡橋町(傘鉾のみ)、出来大工町(傘鉾のみ)、桶屋町(傘鉾のみ)
     *新町と引地町で新引地町、袋町と酒屋町で眼鏡橋町に
  10/17本石灰町34番地の「南座」が大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「長崎宝塚劇場」となる
     のち洋画常設館となる
     2005(平成17)02/18閉館となる
  10/川南工業香焼島造船所に「福岡俘虜収容所第2分所」を設け1227人を収容
     南方戦線で捕虜になった英、米、蘭、豪等7か国の将兵が収容
     将校27人は労働を免除、下士官と兵は川南造船所で労働に服す
  10/産業統制令が公布される
  11/11午前5時28分、日華連絡第3船「神戸丸」が東シナ海で日本郵船貨物船天山丸と衝突し沈没
     乗員乗客875人中、乗客80乗員15人が死亡
  11/15関門海底隧道の第1トンネル(3614米)で旅客列車の運行を開始
     午前11時、新築・移転した下関駅で八田慶明鉄道大臣ら2千人が集まり開通式が挙行
     鉄道省などが公募した「海の底さへ汽車はゆく」を東海林太郎が披露
     1944(昭和19)09/09上り線(3604米)も開通。これまでの単線は下り線となる
  11/15長崎〜東京間に九州最初のネームド・トレイン客車特急「富士」が運転開始。所要時間23時間30分
     それまでは下関〜東京間を走る。上海航路の入港日には長崎港駅発着に
     1943(昭和18)10/01博多〜東京間に短縮
     1944(昭和19)04/01廃止
  11/15巡洋戦艦「霧島」が第3次ソロモン海戦でガダルカナル沖に戦没
  11/20雲仙ホテルが休業となり海軍病院となる
  株式会社十八銀行が(株)諫早銀行を買収する
     1944(昭和19)(株)長崎貯蓄銀行を合併する
  ロシア教会が撤去、長崎要塞司令部が外浪町から港内、砲台陣地の島々を望む南山手の地に移る
  株式会社十八銀行の預金が1億円を突破
     1967(昭和42)預金が1千億円を突破
  十七銀行の地階の地下食堂十七食堂(個人経営)が太平洋食堂と改称
  明治維新前後から第二次世界大戦までの戦没者を祀る長崎県護国神社が創建
     梅香崎招魂社と佐古招魂社を合併
     1945(昭和20)08/09原爆で本殿をはじめことごとく灰になる
     1963(昭和38)10/再建される
  スズラン灯が金属回収命令により供出
     1949(昭和24)05/24復活
  長崎要塞司令部が外浪町から港内他、砲台陣地の島々を望む南山手町へ移転
  家野町の約6万坪を買収、1万6106坪の三菱兵器長崎製作所ができる
     海軍の生産増強要請により1944(昭和19)まで工場の拡張工事が続く
  市営交通船の松が枝〜旭町航路を休止
  香港に「ホンコン玉屋」が開業
  物価統制令に基づき惣菜類最高販売価格が定められる
  戦時統制のため電話番号簿の発行が中止となる
     1948(昭和23)電話番号簿が復活する
  国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の福井川橋梁が架かる
     単線鉄道橋でアーチ部全長67m6cm、アーチ半径10m×3
     戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
     1944(昭和19)04/13潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
     2004(平成16)製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
     鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
     2006(平成18)02/竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
     竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
     2006(平成18)09/同駅間にある吉田橋梁、吉井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
     長崎県のまちづくり景観資産にも指定
     統制は魚を使った寿司、天ぷら類の値段まで事細かに定められる
     長崎蒲鉾組合では長崎市発行の購入切符で1人当たり25匁を配給
     蒲鉾など練り製品にも最高販売価格が適用される
  池月旅館を営んでいた小林重守が三菱造船に徴用される
     1947(昭和22)池月旅館が原爆で焼かれたため木材商を営む

1943(昭和18)【昭和】 癸未(みずのとひつじ)

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