足尾鉱毒事件略年表  群馬県が廃娼県になるまでの年表

 2011(平成23)03/30(水)初回立上
 2015(平成27)10/12(月)最終更新

 4278事象(前2029、後2249)
 ▽「日本社会運動史年表」は編集著作権で保護されます  (c) 2011-2015 makuramoto all right reserved.
 ▽明治05年11月02日《10/02》☆芸娼妓解放令発効(別ページリンク)
 ▽明治05年11月09日《10/09》☆前借金無効の司法省達発布(別ページリンク)
 ▽明治20年12月25日☆保安条例発布(別ページリンク)
 ▽明治26年12月31日☆群馬県が公娼を廃止するまでの経緯(別ページリンク)
 ▽明治33年10月02日☆娼妓取締規則発布(別ページリンク)
 ▽明治34年12月09日☆直訴事件(別ページリンク)
 ▽明治38年09月05日☆発行停止をうけた新聞・雑誌(別ページリンク)
 足尾鉱毒事件関連は一貫して「足尾鉱毒事件略年表」のトップにとびます
 ▽明治30年03月03日☆第1回押出し
 ▽明治30年03月24日☆第2回押出し
 ▽明治31年09月26日☆第3回押出し
 ▽明治33年02月13日☆第4回押出し(川俣事件)
 ▽明治34年12月10日☆田中正造の直訴
 ▽明治35年02月19日☆第5回押出し
 ▽明治35年03月02日☆第6回押出し
 文字●書籍  ●雑誌、新聞  ●協会、学会、党  ●大会、集会、遊説、伝道行商  ●法令、条例、内閣  ●ストライキ、暴動、紛争、罷業、争議  
 下地(薄桃)=娼妓・遊廓関連の事象

1907(明治40)〜

1841(天保12)

  10/16《09/02》周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓林十蔵の長男として伊藤博文が生まれる
     母は秋山長左衛門の長女琴子
     1909(明治42)10/26ハルビン駅で韓国の民族運動家安重根によって射殺される
  12/15《11/03》田中正造が下野国安蘇郡小中村に父田中富蔵、母サキとのあいだに生まれる
     1913(大正02)09/04午後0時50分、足利郡吾妻村下羽田の支援者庭田清四郎宅で田中正造が永眠
     死因は胃癌。享年73才
     財産は鉱毒反対運動などに使いはたし無一文。死亡時の全財産は信玄袋1つ
     中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけ
     09/06雲龍寺で密葬が行なわれる
     10/12本葬が佐野町春日岡の惣宗寺で行なわれる。参列者は数万人に【5万人?】


1847(弘化04)

  12/08《11/01》中江兆民が高知城下の土佐郡北街山田町に生まれる
     1901(明治34)12/13中江兆民が大阪で病床に臥せ55才で死去。死因は食道癌
     【東京小石川区武島町の自邸?】【満54才?】
     12/14幸徳秋水、小島龍太郎ら門人に見守られ棺に入る
     12/17青山斎葬場で告別式が行なわれる【12/16月?】


1848(弘化05・嘉永01)

  01/04《弘化04・11/28》桂太郎が長門国阿武郡萩町の萩城下平安古で長州藩士馬廻役、桂與一右衛門の嫡男として生まれる
     1913(大正02)10/10胃がんで死去
     日露戦争を勝利に導いた総理大臣にもかかわらず国葬はなし
     のち増上寺で行なわれた葬儀の会葬者は数千人にのぼる。8か月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せる
  02/21共産主義者同盟の綱領としてカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが起草した『共産党宣言』発表される
     1904(明治37)11/13幸徳秋水と堺利彦が共訳した「共産党宣言」が『平民新聞』1周年記念号の第53号に訳載。発禁となる
     ドイツ語からの翻訳ではなく、小島龍太郎が提供したサミュエル・ムーアの英語訳からの重訳


1849(嘉永02)

  12/07《10/23》西園寺公望が清華家のひとつ、徳大寺家の次男として生まれる
     のち4才のとき同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続する
     1940(昭和15)11/24享年92、満90才で死去する
  12/25《11/11》長州藩支藩の長府藩の藩士乃木希次と壽子との三男として、江戸の長府藩上屋敷に乃木希典が生まれる
     1912(大正01)09/13妻静子とともに自殺

  のち熊本の遊廓・東雲楼の楼主となる中島茂七が生まれる


1850(嘉永03)

  05/19《04/08》星亨が江戸築地の小田原町、左官屋に生まれる
     1901(明治34)06/21心形刀流剣術第10代宗家の伊庭想太郎に市庁参事会室内で刺殺される


1852(嘉永05)

  11/03《09/22》13時頃、京都石薬師の中山邸にて孝明天皇の第2皇子として祐宮睦仁(さちのみやむつひと)が生まれる
     生母は権大納言中山忠能の娘慶子
     のち明治天皇となる
     1912(明治45)07/30崩御
  12/17《11/07》島田三郎が幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれる
     1923(大正12)11/1471才で死去する


1855(安政02)

  04/12頭山満が筑前国早良郡西新町の福岡藩士筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎
     のち母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める
     1944(昭和19)10/05静岡県御殿場の富士山を望む山荘で89年の生涯を閉じる
     葬儀委員長は元総理の広田弘毅


1856(安政03)

  03/15《02/09》原敬が盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれる
     1921(大正10)11/04内閣総理大臣在任中に東京駅で中岡艮一に刺殺される。ほぼ即死。65年の生涯を閉じる
     原敬は関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後。中岡艮一は山手線大塚駅の転轍手


1857(安政04)

  12/27《11/12》奥宮健之が土佐国土佐郡布師田村に生まれる。父の慥斉は藩内一流の陽明学者
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される


1858(安政05)

  02/14《01/01》加藤時次郎が豊前国田川郡香春村に医師吉松元簡、きくの次男として生まれる
     のち加治姓となる
     1883(明治16)加藤さだの養子となり加藤時次郎となる
     1930(昭和05)05/3073才で死去する
     06/01芝区二本榎町1丁目の承教寺で密葬
     06/05承教寺で本葬と告別式が営まれる


1859(安政06)

  12/26《12/03》片山潜が美作国久米南条郡羽出木村の庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎
     1933(昭和08)11/05モスクワで死去
     11/09葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まる
     棺にはカリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、ベーラ・クン、野坂参三ら14人が付き添う
     遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬される


1861(万延02・文久01)

  03/23《02/13》内村鑑三が上州高崎藩士の内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる
     三度自己を鑑みるの意味で父が「鑑三」と名づける
     1930(昭和05)03/26内村の古希感謝祝賀会に本人は出席できず。長男の祐之が挨拶
     03/28朝「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」の言葉を最後に昏睡状態に
     午前8時51分、家族に見守られて死去


1863(文久03)

  04/0923才の田中正造が大沢清三郎の次女カツと結婚する


1864(文久04・元治01)

  01/17《文久03・12/09》永岡鶴蔵が大阪府吉野郡大日川村の漢方医中井善次郎の4男として生まれる
     1914(大正03)02/10急なゼンソクで千葉監獄にて52才で死去する
     前年1913(大正02)3月31日「貨幣偽造行使」の容疑で収監、服役中
  02/08《01/01》川上音二郎が筑前国の博多中対馬小路町に生まれる
     福岡藩主黒田氏の郷士で豪商、川上専蔵の子
     1911(明治44)11/11舞台で倒れ死去
     「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言で、博多駅近くの承天寺に葬られる
  06/24《05/21》高木顕明が尾張国西春日井郡下小田井村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1914(大正03)06/24僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で服役中に自殺


1865(元治02・慶応01 05/01《04/07》〜

  01/23《元治01・12/26》山路愛山が幕臣山路一郎の子として江戸浅草の天文屋敷に生まれる
     1917(大正06)03/1554才で病死
  03/01《02/04》安部磯雄が福岡藩士岡本権之丞の次男とし福岡の新大工町にて生まれる
     安部姓を名乗ったのは徴兵忌避のため
     1949(昭和24)02/1085才で没する【83才?】
     02/14富士見町教会で告別式が行なわれる。葬儀委員長は片山哲が務める
  09/19才の中江兆民が土佐藩給費生として英学修業のため長崎派遣を命ぜられる。平井義十郎についてフランス学を習得
     土佐藩浪人の坂本竜馬に私淑
  11/22《10/05》景山英子(福田英子)が備前藩の下級武士景山確の次女として岡山県野田屋町に生まれる
     1927(昭和02)05/02午後6時5分、61才で没す


1867(慶応03)

  01/30《慶応02・12/25》孝明天皇が天然痘により崩御【死因は諸説あり】
     [1831(天保02)07/11《06/14》生]
  07/三河地方を皮切りに「ええじゃないか運動」が起こる
     60年に1回の熱狂的な「おかげ参り」の流行に幕末の政情不安が拍車をかけ豊年踊りにはじまる
     のち8月から12月にかけて近畿、四国、東海地方にひろがる
     次第に狂気じみた「ええじゃないか」の乱舞に世直しが加わる
  11/29《11/04》大石誠之助が紀伊新宮の仲之町に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される


1868(慶応04・明治01 10/23《09/08》〜

  閏04/政府が太政官布告で出版統制を行なう。新刊、重版とも官許を得ないものの売買を禁じる
     1869(明治02)05/13出版条例が公布される。政府批判を禁じるなど細かい取締規則を定める
  05/菅原薫子が女性で初めて建白書を提出する。内容は洋夷排斥の建白
     薫子は伏見宮の殿上人若江修理太夫の娘とされる
  07/27《06/08》官軍が新聞紙の私刊、無許可発行を禁止する
  07/31《06/12》花井卓蔵が備後国御調郡三原町に士族、立原四郎右衛門の四男として生まれる
     のち分家により花井姓を名のる
     1931(昭和06)12/03東京神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒により死去
     就寝中にガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れる
     のち通夜、葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけ、いくつかの重要裁判の公判が延期となる
  10/20産婆の堕胎禁止・堕胎薬の販売禁止令がだされる

  11/24吉原で火事が起こる
     新政府が仮宅の設置を認可
     本多隠岐守の上屋敷、堀長門守の上屋敷、井伊掃部頭蔵屋敷を上地した跡で町屋になっている土地
     業者たちは仮宅を京都の島原遊廓に似せた雰囲気作りで客を呼び込もうと「新島原」の名乗りをあげる
     馴染みになると膳の箸が木製の割り箸から象牙に変わるなと万事を京風になぞらえる
     1971(明治04)新島原が廃止となる
     隣接する築地の明石町に外人居留地ができ、遊廓が公然と人身売買が行なわれている印象を政府が恐れたため
  幕府陸軍奉行が根津遊廓の開業を許可する


1869(明治02)

  01/06《明治01・11/24》高野房太郎が長崎府彼杵郡長崎町銀屋町18番地に和服裁縫師の父仙吉、母ますの長男として生まれる
     1904(明治37)03/12日本に戻ることなく青島のドイツ病院で客死。35才と2か月の生涯。病名は肝臓膿腫

  03/01津田真一郎が太政官宛てに「人身売買禁止」を建白
     【05/津田真一郎が「女子売買禁止」の建白?】
     【津田真道が太政官に「婦女売買不可論」の建白書を提出する?】

  03/02《01/20》関所廃止令により関所が廃止となる
  03/20《02/08》新聞紙印行条例を定める。発行許可制、政治批評禁止などを規定
     戊辰戦争を収拾した新政府が内政面の整備に着手。正式に新聞の発行を認めた最初の関係法令
     政府は前出の厳しい新聞取締令から、治安維持のみでなく基礎的政治様式確立の手段として新聞の必要性を痛感
     のちたくさんの新聞が復活、創刊
  05/13行政官達により言論統制の一環として、出版物の取り締まりのために20か条からなる出版条例が公布される
     事前に官憲へ届け出て許可を得ることを出版の条件とする
     出版の取り締まりにかんする規定と、版権の保護にかんする規定をふくむ
     のち、改正のたびごとに規制は厳しさを増す
     1872(明治05)01/13出版条例を改正
     書中の大意を具して文部省に出願し、免許の検印を得なければならなくなる
     記載禁止事項は、成法の誹議および人罪の誣告のみに
     1875(明治08)09/03旧条例が廃され新たな出版条例が制定される
     版権保護規定を、より詳密なるものに。従来の出版免許主義をやめ、出版は内務省への届け出制に
     1883(明治16)06/29一部改正が行なわれる
     1884(明治17)10/一部改正が行なわれる
     1887(明治20)12/28全面改正
     取り締まりを厳しくするのではなく法規の整理。原稿検閲の規定は廃止、届け出主義になる
     治安を害し風俗を壊乱する出版物は、内務大臣に発売頒布を禁じ印本を差し押さえる行政処分権を認める
     べつに版権条例が制定公布。版権保護の規定が分離され出版条例の外におかれる
     1893(明治26)04/14出版法が制定され出版条例が廃止となる
  07/25《06/17》版籍奉還が行なわれる。藩主が旧来所有していた土地と人民を朝廷に返還
  10/12《09/08》木下尚江が信濃国松本城下の松本藩士木下廉左衛門秀勝の子として生まれる
     1937(昭和12)11/0569才で没する
  11/29《10/26》田川大吉郎が肥前国大村藩の藩士の長男として生まれる
     1947(昭和22)10/09衆議院議員在職中に死去


1870(明治03)

  02/楠本いねが東京築地居留地付近で産科を開業する
  前橋藩がスイス人技師ミュラ−を招く。12人取りの洋式製糸機械を導入
     06/01官営の前橋製糸所が開かれる。動力には広瀬川の水力が利用される
  08/加藤弘之が『真政大意』全2巻を刊行。出版者は日本橋通り2丁目の山城屋佐兵衛
     日本に初めて共産主義、社会主義を紹介した文献。社会主義を反対する立場から批判を加えての形で紹介
     1881(明治14)11/内務省が加藤の絶版届けに基づき1874(明治07)刊の『国体新論』とあわせて発売禁止に
  10/13《09/19》平民苗字許可令が布告。一般の「平民」も苗字を持つことが認められる
     国民(平民)は政府を信用せず、付けることで余計課税されるのではないかと警戒
     あえて苗字を名乗ろうとはせず
     1875(明治08)02/13太政官布告、平民苗字必称義務令が布告される
     国民はみな公的に苗字を持つことが義務づけられる


1871(明治04)

  01/15《明治03・11/25》堺利彦が没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂に生まれる
     1933(昭和08)01/23脳溢血で死去。享年64
  01/23《明治03・12/03》宮崎滔天が肥後国玉名郡荒尾村に郷士宮崎政賢(長兵衛)の8男で末子として生まれる
     本名は寅蔵(虎蔵)。浪曲家としての名は桃中軒牛右衛門
     1922(大正11)12/06腎臓病による尿毒合併症により東京で病没
  01/28《明治03・12/08》横浜で『横浜毎日新聞』が創刊される。日本最初の日本語の日刊新聞。横浜活版舎が発行
     神奈川県令の井関盛艮が近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説き、印刷業者の本木昌造と陽其二の協力の下で創刊
     出資、創刊を行なった島田豊寛が社長に就任。編集者は横浜税関の翻訳官子安峻
     内容は貿易に関する情報が紙面の中心。本紙は洋紙の両面に記事を木活字で印刷、紙面を欄で区切るという形をとる
     1873(明治06)妻木頼矩が編集長となる
     1874(明治07)頃民権派の新聞と目されるようになる
     のち島田豊寛の養子となった島田三郎、仮名垣魯文が文章方(記者)となる
     1879(明治12)11/18沼間守一が買収。社長も交代して東京に移駐
     『東京横浜毎日新聞』と改題。発行元も東京横浜毎日新聞社から毎日新聞社と改称
     肥塚龍らが健筆をふるい、嚶鳴社系の民権新聞として確立
     のち嚶鳴社一派を率い沼間も参加した立憲改進党の機関紙となる
     1886(明治19)05/01『毎日新聞』に改題
     1888(明治21)島田三郎が沼間守一から社長の座を受け継ぐ
     日露戦争に対しては徹底的な反戦姿勢を貫く
     1906(明治39)07/01『東京毎日新聞』と改題、『大阪毎日新聞』の東京進出に先手を打つ
     1909(明治42)経営が芳しくなく報知新聞社に身売り。報知の傍系紙として存続する
     のち報知でも持て余す存在に
     1914(大正03)ジャーナリストの山本実彦に譲渡
     1915(大正04)山本実彦が社長に就任
     のち経営者は転々とする。頼母木桂吉が社長を務めたことも
     1940(昭和15)11/30野依秀市が経営する『帝都日日新聞』に吸収合併される
  03/19「斃牛馬持主勝手処理令」が太政官布告としてだされる
     草場(一定に区切られた範囲の縄張り)内で死牛馬を無償で引き取ること…
     相撲・芝居などの興行の際、入場料の1割を徴収することのできる櫓銭徴収権…
     寺社祭礼での出店からの何某かの金品を徴収することのできる芝銭徴収権…など
     被差別部落の人々の特権がなくなる
  04/04戸籍法を定める
     1872(明治05)02/01施行
  04/10《02/02》横山源之助が富山県中新川郡魚津町の網元の家に生まれる。父母は不詳【下新川郡魚津町?】
     左官職の横山伝兵衛、すい夫妻に養われその姓を名のるようになる
     1915(大正04)06/03小石川白山御殿御前町にて死去する。享年45才

  04/東京の小菅県(葛飾一帯)に廃娼運動が起こる

  06/27《05/10》政府が新貨条例(貨幣条例)を施行。1両を1円に切り替え、円、銭、厘の貨幣単位に改める
     貨幣の基準単位を「両」から「圓(円)」に切り替える。旧1両を新1円に
     補助単位として「銭」「厘」を導入。1円を100銭に、1銭を10厘とし、10進法とする
     本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、銀貨1種(1円)、
     補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行
     のち旧貨幣は漸次廃止に
     のち新旧貨幣の引換えは進捗せず期限は度々延期される
     1888(明治21)12/31最終的に新旧貨幣の交換が廃止となる
  09/23《08/09》太政官が男子の散髪脱刀令(散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム)をだす
     以後、日本髪から断髪にする女性が増加する
     1872(明治05)05/11東京府が女子の断髪禁止の告諭する
  10/12《08/28》「解放令」が太政官布告としてだされる
     明治政府が行なった穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告、法令全書第448
     「穢多非人ノ稱ヲ廢シ身分職業共平民同樣トス」
     別称として身分解放令、賤称廃止令、廃称令、廃止令など
     穢多非人が廃され残ったのは非人、余戸、夙、穢多、隠亡など数種に
      第四百四十八 八月二十八日(布)
       穢多非人等ノ稱被廢候條自今身分職業共平民同樣タルヘキ事
      第四百四十九 八月二十八日(布)
       穢多非人等ノ稱被廢候條一般民籍ニ編入シ身分職業共都ヲ同一ニ相成候樣可取扱
       尤モ地租其外除●【益偏に蜀】ノ仕來モ有之候ハヽ引直シ方見込取調大藏省ヘ可伺出事
     10/「解放令」がほぼ全国に伝わる
     被差別部落の人々は大きな喜びでこれを迎える
  11/05《09/23》幸徳伝次郎が高知県幡多郡中村町京町に生まれる
     幸徳篤明(通称嘉平次)と多治の二男。家は薬種商、酒造業を営む
     1910(明治43)06/01湯河原の天野屋旅館を出立した直後に大逆罪で拘引される
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  12/23《11/12》上田てい、吉益りょう、山川捨松、永井しげ、津田うめの5人の少女が米国へ留学
     岩倉使節団に伴われ横浜を出港する
  この年の穢多28万311人、非人2万3480人【2万3418人?】、
     皮作等雑種7万9195人【7万6156人?】で総計38万2866人【37万9885人?】に
  兵庫、岡山、高知、福岡など関西地方で解放令に反対する一揆が起こる
     一揆は地租改正、徴兵制、義務教育など、明治政府の一連の改革に対する反対運動の一環の決起

  吉原の火事の後、政府が設置した仮の遊廓新島原が廃止となる
     隣接する築地の明石町に外人居留地ができ、遊廓が公然と人身売買が行なわれている印象を政府が恐れたため


1872(明治05)

  《司法省警保寮警保頭》島本仲道(09/02月→)


  01/131869(明治02)に公布した出版条例を改正
     書中の大意を具して文部省に出願し、免許の検印を得なければならなくなる
     記載禁止事項は、成法の誹議および人罪の誣告のみに
     1875(明治08)09/03旧条例が廃され新たな出版条例が制定される
     版権保護規定を、より詳密なるものに。従来の出版免許主義をやめ、出版は内務省への届け出制に
  02/01戸籍法(壬申戸籍)が施行される
  03/08《01/29》明治政府が人口調査を行ない、総人口3311万0796人と判明
  05/04神社仏閣への女人禁制が廃止される
  05/11《04/05》東京府が「女子断髪禁止令」の告諭する
     1871(明治04)09/23《08/09》の散髪脱刀令で「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が増加したため
  06/12《05/07》日本で初めての鉄道が品川〜横浜間で仮営業を開始。2往復の列車が運行
     06/13《05/08》6往復となる
     10/14《09/12》新橋〜横浜間が正式開業
     開業の式典が催され明治天皇のお召列車が横浜まで往復する
     列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は時速32.8キロ
  07/09《06/04》夜、中国漢門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が暴風雨の修復のため横浜港に寄港
     投錨4日目深夜、1人の清国人木慶が海中に飛び込む
     近くのイギリス軍艦アイアンデューク号に救いを求める
     「マリア・ルスには清国人苦力231人が船中に拘禁。苛酷な扱いを受け労働移民とは名ばかりの奴隷船」
     木慶から事情を聞いたイギリス艦長はマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断
     のちイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請する
     副島種臣外務卿は神奈川県権令(県副知事)の大江卓に清国人救助を命じる
     ただ、日本とペルーの間に2国間条約が締結されておらず
     政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見も
     副島は人道主義と日本の主権独立を主張、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定する
     08/22《07/19》マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ清国人全員を下船させる
     08/30《07/27》神奈川県庁に大江卓を裁判長とする特設裁判所が設置される
     清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与える
     判決を不服とした船長は清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴える
     のち船長の訴えに対し2回目の裁判が開かれる
     移民契約の内容は奴隷契約であり人道に反するものであるから無効であるとして却下
     裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人のフレデリック・ヴィクター・ディキンズ)が反論
     「日本が奴隷契約が無効であるというなら・・・・・
     日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつある。それは遊女の約定である」
     遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出する
     日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとの批判
     日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなる。同年10月に「芸娼妓解放令」が出される契機に
      【大江は「公娼制度は旧幕府時代の悪習で、現在の日本政府は公娼解放の準備中」と答える
       日本の勝訴となるも当時の政府は「公娼解放」など考えておらず
       1872(明治05)11/02《10/02》太政官布告第295号「娼妓解放令」となる】
     10/15《09/13》清国人が解放され清国に帰国
     清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明する
     1873(明治06)02/ペルー政府が前年のマリア・ルス号事件に対して日本政府に謝罪と損害賠償を要求する
     のち両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ第3国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることに
     1875(明治08)06/ロシア皇帝アレクサンドル2世による国際裁判が開かれる
     「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決にて、ペルー側の訴えを退ける
  08/20山室軍平が岡山県哲多郡に山室佐八、登毛(とも)の3男として生まれる
     【本人は09/01《07/29》とする】
     のち救世軍に入隊し活躍する
     1940(昭和15)03/13午後7時35分、山室軍平が急性肺炎にて死去【カタル性肺炎?】
     03/14山室の遺志により東京大学医学部にて解剖される

  11/02《10/02》太政官布告第295号、遊女の人身売買の規制などを目的とした通称芸娼妓解放令がだされる
     【娼妓芸妓年期奉公人開放令?】
     「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」
     遊女、芸子、其他年期奉公で、主人が勝手に酷使するのは人道に反し
     古来から禁じられたことで人身売買は以ての外のことであり厳禁すべきで
     娼妓、芸子等の奉公人は一切開放すること。このことについての貸借訴訟は一切取上げない
     前年のマリア・ルス号事件により人権問題の解消を促す流れの中での布告となる
     長崎では関係者の生活が成り立たず、丸山町、寄合町の旧遊女屋28人から貸座敷営業願がだされ延命策が講じられる
     【芸娼妓解放令】(別ページリンク)
  11/02《10/02》「娼妓解放令」がだされる
     「僕婢娼妓等の年期を限り、人心売買に類似する者は、悉くこれを解放し、およそ雇使、必ず一年を限る」
  11/02《10/02》「娼妓解放令」が発布する
     布告の内容は年季奉公かどうかにかかわらず、一切の人身売買を禁止し
      農商工の技芸習得のための徒弟奉公は原則として最長7年、通常の奉公は1年とするもの
     いずれも双方の話し合いで期間の延長は可能
     ここで禁止の対象となっているのは年季奉公を偽装する人身売買的奉公のみ
      通常の徒弟奉公や1年季の雇用は禁止されず
     この布告によりすべての年季奉公が禁止されたと誤解し職工や徒弟が雇用のもとを離れる現象がおこる

  11/04《10/04》富岡製糸場が官営模範工場のひとつとして操業を開始する

  11/09《10/09》司法省達第22号「前借金無効の司法省達」により、前借金で縛られた年季奉公人の遊女たちが妓楼から解放される
     「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」
     「芸娼妓解放令」ともに準備期間のないまま発せられ、解放された女性の転職、収入面の補償などのケアは個々の地方に任されることに
     法令としては機能せず、女性のおかれた状態はあまり変わらず
     のち遊廓自体は廃止されず、遊女屋は「貸座敷」と名をかえて遊女たちを吸収
     借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争敗戦後まで続くことに
     【前借金無効の司法省達】(別ページリンク)

  11/11《10/11》浅草猿若町の守田座が京橋区新富町6丁目36、37番地に移転開場する
     1875(明治08)座名を新富座と改める。経営者は12代目の守田勘弥
     1876(明治09)11/日本橋区数寄屋町の火災で類焼する
     1877(明治10)04/新富町4丁目に仮劇場を設営
     1878(明治11)06/ガス灯などを配備した近代劇場を新設。大々的に洋風開場式を挙行
     太政大臣の三条実美をはじめ、各外国の公使らが貴賓として開場式に招待される
     1910(明治43)松竹が買収、松竹の経営下に移る
     1923(大正12)09/01関東大震災で被災。再建されず廃座となる
  12/03《11/03》小泉策太郎(小泉三申)が小泉定次郎の長男として静岡県伊豆半島小浦に生まれる
     1937(昭和12)07/28死去
  12/09《11/09》「旧暦12月3日を以て、明治6年1月1日とする」詔書がだされる
     改暦ノ詔書並太陽暦が頒布。グレゴリオ暦導入を布告する
     12/03江戸時代から引き続き使用していた太陰太陽暦(旧暦)を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替え
     西洋の制度を導入して欧米との統一をはかる近代化政策のひとつ
     1872(明治05)12/03が1973(明治06)01/01となる
  12/25《11/25》添田平吉が神奈川県大磯の中農の家に生まれる
     父利兵衛、母つなとのあいだの四男一女の次男
     のち平吉は唖蝉坊の名で演歌の第一人者となる
     1944(昭和19)02/08添田唖蝉坊(72)が大森馬込の息子知道方にて老衰のため死去


1873(明治06)

  《内務卿》[第1代]大久保利通(11/29→)
  《司法省警保寮警保頭》島本仲道(→11/10)、河野敏鎌(11/10月→12/05)


  01/01水《明治05・12/03》太陰太陽暦を廃し太陽暦を採用。1872(明治05)12月3日を1973(明治06)1月1日とする
     【以降の年月日は太陽暦表記】
  01/10徴兵令が陸軍省から発布、施行される
     国民の兵役義務を定めた日本の法令
     満20才の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍とする
     国民皆兵を理念とするものの体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれる
     また当初「一家の主人たる者」、「家のあとを継ぐ者」、「嗣子並に承祖の孫(承継者)」、
     「代人料を支払った者」、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」は徴兵が免除に
     1927(昭和02)04/01徴兵令を全面改正し引き換えに兵役法が公布
     日本の男子は満20才になると徴兵検査を受ける義務が課せられる
     1945(昭和20)11/17「兵役法廃止等ニ関スル件」により廃止となる
  02/07復讐を厳禁とする仇討禁止令が布告される
  02/横田英(15)ら16人の士族の娘が富岡製糸伝習工場へ出立する
  02/ペルー政府が前年のマリア・ルス号事件に対して日本政府に謝罪と損害賠償を要求する
     のち両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ第3国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることに
     1875(明治08)06/ロシア皇帝アレクサンドル2世による国際裁判が開かれる
     「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決にて、ペルー側の訴えを退ける
  03/14外国人との結婚禁止が解除となる
  05/15太政官布告、妻からの離婚請求権が公認されるようになる
  06/大分県や北条県(岡山県美作地方)に血税騒動が起こる
     前年にだされた徴兵令詔書に「生血ヲ以テ国ニ報ズル」とある
     徴兵は外国へやられて、生き血を絞りとられると誤解、大衆は竹槍、鉄砲を携え蜂起する
     のち平戸、島根、高知など各地に騒ぎが広がる
  08/10南助松が石川県に生まれる
     1964(昭和39)10/1591才で死去
  10/19新聞紙発行条目が布告される
     1875(明治08)06/28新聞紙条例がそれまでの新聞紙発行条目を実質的に改正するかたちで成立する
     新聞紙条例は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例
     反政府的言論活動を封ずることを目的として制定
     1883(明治16)04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
      発行保証金制度は、東京市内1千円。横浜、京都、大阪、神戸、長崎各市内など700円、その他の地域で350円
      また1か月に3回以下発行のものは、それぞれの半額と納入が義務づけられる
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
     1887(明治20)12/28新聞紙条例が改正、公布する
     1909(明治42)05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される
  秋/日本最初の近代的啓蒙学術団体「明六社」が森有礼の提唱により設立する
     福澤諭吉、加藤弘之、中村正直、西周、西村茂樹、津田真道、箕作秋坪、杉亨二、箕作麟祥の10人で結成
     富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える
     欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて設立
     1874(明治07)03/機関誌『明六雑誌』を発行、開化期の啓蒙に指導的役割をはたす
     1875(明治08)太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行され機関誌の発行は43号で中絶廃刊に
     「明六社」は事実上解散となる
  11/10地方行政や警察、土木、衛生、選挙などの国内行政を担う中央官庁の内務省が設置される
     設置当初の内務省の長、内務卿は大蔵、司法、文部各省を除く内政のほとんどを管轄
     実質的に首相として機能
     1885(明治18)12/22内閣成立以降は第2次世界大戦後の改革まで、内閣総理大臣に次ぐ副首相格とされる
     1947(昭和22)12/31GHQにより解体、廃止となる

  12/10東京府令達第145号により「貸座敷(渡世)規則」「娼妓規則」「芸妓規則」がだされる
     【警保寮から貸座敷渡世規則娼妓渡世規則が発令される】
     前年の芸娼妓解放令を事実上棚上げする形で公娼制度復活への道をひらく
     娼妓は解放されたものの更正策もなく路頭にさまようようになる
     結局、自由意志で営業を希望する娼妓に場所を貸す、という形で遊郭が復活することに
      規則は業者を新しく「貸座敷渡世」として認め、芸妓には娼妓に紛らわしい行為を禁じ
      娼妓には娼妓の貸座敷への出入りは自由であるが他所や自宅での泊まり営業を禁じる
      結果、近世的経営は復活をみて「解放令(性売買ノ禁止)」は空文化となる
     のち「貸座敷渡世規則」により遊郭は貸座敷営業指定地となる
     従来の公認遊郭のほか飯盛旅籠屋や私娼街などが続々と指定地の免許をうけて拡大移行する
  12/公娼取締規則が施行される
     のち公娼取締規則の権限が地方長官にうつる。各地方の特状により取締規則が制定される
     1882(明治15)04/東京では警察令で父母および最近親族から出願しなければ許可しなこととなる
     のち群馬県では県会の決議により全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決される

  島田三郎が横浜本町6丁目65番地の『横浜毎日新聞』に入り外字新聞の翻訳に従事する
     午前中は米人S・R・ブラウンについて英語を学び、午後は新聞社へ
  『横浜毎日新聞』の編集長が妻木頼矩となる
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》
     1874(明治07)頃民権派の新聞と目されるようになる

  吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋に検黴会所が設置される
     娼妓の定期検査を毎月3回実施する


1874(明治07)

  《内務卿》[第1代]大久保利通(→02/14)、[第2代]木戸孝允(02/14→04/27)
  《内務卿》[第3代]大久保利通(04/27月→08/02)、[第4代]伊藤博文(08/02→11/28)、[第5代]大久保利通(11/28→)
  《大警視》[第1代]川路利良(01/24→)、08/04→10/15木は《警視長》
  《司法省警保寮警保頭》村田氏寿(01/29→)


  01/31大蔵省紙幣寮に女工規則を定める。初めて女工を置く
     04/13公債証書・印紙類製造業務に女工130人採用
  02/11江藤新平が佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談。翌日には佐賀征韓党首領として擁立される
     政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する
     02/16夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱が勃発する。佐賀の乱
     のち激戦が展開され政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走、江藤は征韓党を解散して逃亡する
     03/01鹿児島鰻温泉に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる
     03/25高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられず
     のち江藤は岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる
     その途上、安芸の甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される
     04/08江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれる
     04/13河野により除族の上梟首の刑を申し渡される。夕方、処刑
  03/1873(明治6)の秋に設立した「明六社」が機関誌『明六雑誌』を発行
     開化期の啓蒙に指導的役割をはたす
     1875(明治08)11/太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行され機関誌の発行は43号で中絶廃刊に
     「明六社」は事実上解散となる
  05/17内山愚童が新潟県北魚沼郡小千谷の宮大工で木形職人の直吉の息子に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  05/森有礼が『明六雑誌』に「妻妾論」を発表する
     のち5回の連載をして婚姻に関する問題提議を行なう

  冬/熊本の菊川喜太八が願い主となり遊廓の設置を請願する
     のち許可されて新堀、京町1丁目、京町2丁目に作られる
     清川楼、玉川楼、満月、東雲楼、浪速楼など20余の妓楼が建つ
     1877(明治10)西南の役で全焼
     のち遊廓全体が二本木町に移る

  12/加藤弘之が谷山楼から『国体新論』を刊行する
     1881(明治14)11/内務省が加藤の絶版届けに基づき1870(明治03)刊の『真政大意』とあわせて発売禁止に
  12/長崎の離島、高島炭鉱が後藤象二郎に55万円で払い下げられる
  12/福沢諭吉の媒酌で外務官員の富田銕之助と杉田阿縫が結婚
     日本ではじめてといわれる夫婦契約書を作り話題となる
  鈴木鐘三郎が『横浜毎日新聞』の社員総代島田豊寛の養子となる
  長崎の高島炭坑で囚人による労働がはじまる


1874(明治07)頃

  『横浜毎日新聞』が民権派の新聞と目されるようになる
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》
     のち島田豊寛の養子となった島田三郎、仮名垣魯文が文章方(記者)となる
     1879(明治12)11/18沼間守一が買収。社長も交代して東京に移駐
     『東京横浜毎日新聞』と改題。発行元も東京横浜毎日新聞社から毎日新聞社と改称
     肥塚龍らが健筆をふるい、嚶鳴社系の民権新聞として確立


1875(明治08)

  《内務卿》[第5代]大久保利通
  《大警視》[第1代]川路利良
  《司法省警保寮警保頭》村田氏寿


  02/06森有礼と広瀬常が結婚。婚姻契約書に署名し男女同等の結婚を実践する。福沢諭吉が証人となる
     日本における最初の契約結婚といわれる
  02/13太政官布告、平民苗字必称義務令が布告される。国民はみな公的に苗字を持つことが義務づけられる
  02/20武田九平が香川県香川郡浅野村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄
     1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡
  04/05赤羽一が長野県東筑摩郡広丘村郷原の地主問屋の父赤羽無事と母京の長男として誕生
     のち1910(明治43)5月25日発行の『農民の福音』が朝憲紊乱罪として入獄
     1912(明治45)03/01千葉監獄で獄中死
  04/26伊予宇和島藩士国学者師岡正胤の末女として千代子が生まれる
     1899(明治32)07/幸徳秋水(28)と結婚
     11/08婚姻届を提出
     1909(明治42)03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳秋水は正式に協議離婚をする【03/04?】
     1960(昭和35)02/26死去する
  06/28新聞紙条例がそれまでの新聞紙発行条目を実質的に改正するかたちで成立する
     新聞紙条例は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための言論規制法令
     反政府的言論活動を封ずることを目的として制定
     1883(明治16)04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
      発行保証金制度は、東京市内1千円。横浜、京都、大阪、神戸、長崎各市内など700円、その他の地域で350円
      また1か月に3回以下発行のものは、それぞれの半額と納入が義務づけられる
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
  06/28太政官布告第110号により言論規制法令の讒謗律が成立する
     明治初期の日本において名誉毀損に対する処罰を定める
     新聞紙条例とあわせて、新聞、風刺画等での為政者への批判を防ぐ目的
     自由民権運動の展開にともない、政府への批判を規制するための条例。人を誹謗する文書類を取り締まる
     讒謗律での逮捕者はこの年末まで7人、明治9年には40人にのぼる
     1880(明治13)07/17太政官布告第36号により旧刑法(刑法改定)が制定。讒謗律は消滅
     【明治15年刑法(旧刑法)?】   06/ロシア皇帝アレクサンドル2世による国際裁判が開かれる
     ペルー政府が1872(明治05)7月のマリア・ルス号事件に対して
     1873(明治06)2月に日本政府に謝罪と損害賠償を要求していた
     アレクサンドル2世は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決
     ペルー側の訴えを退ける
  07/24田添鉄二が熊本県飽託郡中緑村に太郎彦、シカの士族の長男として生まれる
     1908(明治41)03/1932年8か月のみじかい生涯をとじる
     7才年上の妻幸枝と満5才にみたない長男一、1才9か月の次男明が残される
     論敵となる幸徳秋水は森近運平の『日本平民新聞』で、その死を愛惜する
  08/14太政官布告第128号で「金銭貸借引当ニ人身書入厳禁」
     「人身を書き入れ候者も有之哉の趣、右は厳禁に候条此旨布告候事」と布告する
  08/福沢諭吉が『文明論之概略』全6巻を刊行。出版者は作者
  09/03旧条例が廃され新たな出版条例が制定される
     版権保護規定を、より詳密なるものに。従来の出版免許主義をやめ、出版は内務省への届け出制に
     1883(明治16)06/29一部改正が行なわれる
     1884(明治17)10/一部改正が行なわれる
  09/30宮下太吉が山梨県甲府市若松町で鍛冶職人の次男に生まれる
     1910(明治43)05/25信濃明科の宮下太吉が大逆事件最初の検挙者となり拘引される
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  11/太政官政府の讒謗律、新聞紙条例が施行され『明六雑誌』の発行が43号で中絶廃刊する
     『明六雑誌』は「明六社」機関誌での創刊は1874(明治7)3月、「明六社」の設立は1873(明治6)の秋
     「明六社」は事実上解散となる
  岐阜県揖斐郡養基村大字沓井の農村に日本で初めての小作組合が設立
     組合は小作地の争奪競争を防止する目的で作られる。地主に対し運動を起こす
  伝馬町牢屋敷が市谷谷町、富久町に移転。市谷監獄(市谷谷町囚獄役所)が設立される
  1872(明治05)11/11《10/11》に浅草猿若町から京橋区新富町6丁目36、37番地に移転した守田座が座名を新富座と改める
     経営者は12代目の守田勘弥
     1876(明治09)11/日本橋区数寄屋町の火災で類焼する


1876(明治09)

  《内務卿》[第5代]大久保利通
  《大警視》[第1代]川路利良
  《司法省警保寮警保頭》村田氏寿(→05/02)、
  《内務省警保局警保権頭》村田氏寿(05/02→)、
  《内務省警保局警保局長》村田氏寿(11/27月→)


  01/30岡林寅松が高知県鷹匠町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)04/29小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     1946(昭和21)02/24坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
  04/15小松丑治が高知市帯屋町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)04/29岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
     1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
  04/29西川光次郎が名東県津名郡佐野村(兵庫県津名郡津名町佐野)に父林蔵、母たつの3男として生まれる
     1940(昭和15)10/23醸母菌脳膜炎で64才で没する
     10/27遺言により神式にて告別式を行なう
  05/23石川三四郎(旭山)が埼玉県児玉郡山王堂村に、戸長五十嵐九十郎、シゲの3男として生まれる
     生家は利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み名主も務める家
     徴兵を逃れるため、同村の石川半三郎の養子になる
     1956(昭和31)11/25朝、脳卒中の発作に襲われる
     11/2880才で没する
     12/07しのぶ会が開かれる。友人や同志、後輩など二百数十人が集まる
     旧い同志、添田唖蝉坊、柴田三郎、西川光二郎、及川鼎寿、大杉栄、堺利彦の息子、娘の姿も
     ヴァイオリンをひく、詩をよむ、思い出をかたる、礼賛する、思想的解剖をする、素破ぬきをするなど

  05/24警視庁から布告
     「明治五年の娼妓解放条例に依って娼妓の廃業せんとする者ある時は
     其自由を妨ぐることを得ず。常に娼妓をして正業に就かしむることに注意すべし」
     東京府で貸座敷規則娼妓規則賦金取扱規則検黴規則密売淫取締規則がそろい公娼制度が事実上成立する
     これまで明治5年以降、いくどかの娼妓解放令に次ぐ布告示達をするも、事実上ほとんど何の効果もあがらず
     人間が人間を抵当にとり金を貸すことが非人道的な行為と痛感しなかったため

  08/29播州竜野の柳屋石吉の息子梅吉のもとに徴兵の通知がくる。家族は父母と妻
     驚いた家族はなんとか徴兵を逃れようとするが、父親は聞き入れない
     前途を悲観した3人はそろって首をつる。徴兵を嫌って一家心中す
  10/24熊本県の士族太田黒伴雄ら170人が「敬神党」が熊本鎮台を襲撃。神風連の乱敬神党の乱とも
     秩禄処分や廃刀令により明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱。翌日には収まる
     敬神党約170人のうち死者、自刃者は124人。残りは捕縛され、一部は斬首
     対し政府軍の死者は約60人、負傷者約200人に
     呼応して、秋月の乱、萩の乱、東京思案橋未遂事件が発生し、翌年の西南戦争へとつながる
  10/27福岡の旧秋月藩の士族400人が呼応、明治政府に対し反乱、「秋月党」が挙兵する
     秋月の乱を起こすも鎮圧される。政府軍の指揮官は27才の乃木希典
  10/28山口県の不平士族で松下村塾出身の前原一誠ら約200人が旧藩校明倫館を拠点に明治政府に対し反乱
     萩の乱をおこすも鎮圧される
  10/29東京日本橋区に流れる日本橋川に東堀留川が合流するすぐ手前の橋で思案橋事件が起こる
     萩での決起を知った旧会津藩士の永岡久茂(38)ら14人が集結、思案橋から船で千葉に向かうところ
       計画では千葉県庁を襲撃し県令を殺害し、のち佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得
       日光から会津若松を襲い、山口の前原に呼応して挙兵する予定
     船に乗り込む前、通報により駆けつけた警官隊と切りあいになる。明治政府に対する士族反乱計画は未遂に
     逃走を図った中根米七ら数人を除き、居合わせた永岡らはその場で逮捕される
     警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2人が殉職
     1877(明治10)01/12主犯の永岡は事件のときに負った傷がもとで獄中死
     02/07事件に参加した井口慎次郎(24)、中原成業(50)、竹村俊秀(33)の会津藩士3人が処刑される
     のち逃走した中根は西南の役で西郷軍に従い城山没落直前に脱出
     1878(明治11)08/23さらに逃走した中根は喜多方町の寺院境内で切腹
  11/京橋区新富町6丁目36、37番地の新富座が日本橋区数寄屋町の火災で類焼する
     1877(明治10)04/新富町4丁目に仮劇場を設営
  高知県土佐郡潮江村で、永小作権の擁護を目的とする団体田制会が作られる


1877(明治10)

  《内務卿》[第5代]大久保利通
  《大警視》[第1代]川路利良
  《内務省警保局警保局長》村田氏寿(→01/19)、《内務省警視局局長》川路利良(兼)(01/19→)


  01/12前年10月29日の思案橋事件主犯の永岡久茂が事件のときに負った傷がもとで獄中死
     02/07事件に参加した井口慎次郎(24)、中原成業(50)、竹村俊秀(33)の会津藩士3人が処刑される
     のち事件当日に逃走した中根米七は西南の役で西郷軍に従い城山没落直前に脱出
     1878(明治11)08/23さらに逃走した中根は喜多方町の寺院境内で切腹
  02/15西郷隆盛が私学校の生徒1万5千人を率いて熊本鎮台を目指して鹿児島を発つ
     九州各地の不平士族も合流し総勢は4万余
     西南の役はじまる
     政府は有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせる
     政府の兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送のため助成を受けている三菱に対して社船の徴用が命じられる
     三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込む
     西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂で敗走、宮崎県の各地を転戦
     戦中明治天皇が京都に赴き戦況の報告を受ける
     07/末政府軍の勝利が決定的になり、明治天皇は神戸から三菱社船広島丸に乗り東京に戻る
     09/24西郷隆盛が鹿児島の城山で自刀
     西南戦争による官軍の死者は6403人、西郷軍の死者は6765人に
  02/25広島出身の士族野村文夫が、東京の神田区雉子町31番地に団団社を設立
     時局諷刺週刊誌『団団珍聞』が創刊される。「団団珍聞」は「まるまるちんぶん」と読む。通称「団珍(まるちん)」
     毎週土曜日発行。定価5銭
     創刊号の初刷りは5千部。3千部は日報社を通して売り、2千部は売捌所で売り完売。ただちに増刷する
     1907(明治40)07/27この日発売の号で一時休刊に
     のち月刊誌として復活する
     1908(明治41)1月号で終刊となる
  04/新富座が新富町4丁目に仮劇場を設営
     1878(明治11)06/ガス灯などを配備した近代劇場を新設。大々的に洋風開場式を挙行
     太政大臣の三条実美をはじめ、各外国の公使らが貴賓として開場式に招待される
  05/01西南の役において佐野常民が博愛社を起こす
     1887(明治20)05/博愛社が日本赤十字社と改称
  07/東京府が小学校の女教員を募集する
  08/21第1回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる。西南戦争開戦の最中11月30日まで。入場者数は45万4168人
     約10万平方メートルの会場に美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建つ
     寛永寺旧本坊の表門の上に大時計が掲げられ、公園入り口に約10メートルのアメリカ式の風車が造られる
     1881(明治14)03/01第2回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる。6月30日まで。入場者数は82万3094人
     1890(明治23)04/01第3回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる。7月31日まで。入場者数は102万3693人
     1895(明治28)04/01第4回内国勧業博覧会が京都市岡崎公園にて開かれる。7月31日まで。入場者数は113万6695人
     1903(明治36)03/01第5回内国勧業博覧会が大阪市天王寺今宮にて開かれる。7月31日まで。入場者数は435万0693人
     のち1907(明治40)に予定された第6回を万国博覧会は延期、ついには中止に
     のち府県による博覧会は開かれるものの、国レベルの博覧会は1970(昭和45)の大阪万国博覧会に
  09/24西郷隆盛が鹿児島の城山で自刀する
  09/田口卯吉が『日本開化小史』の第1巻が刊行。出版者は田口卯吉本人
     のち1882(明治15)10月にかけて13章で全6巻が刊行

  09/西南戦争の終結後、出征中の主要客、職人が帰国。根津遊廓が大繁盛する

  12/戎雅屈・蘆騒(ジャン・ジャック・ルーソー)著、服部徳訳の『民約論』が刊行。発行者は有村壮一

  西南の役で熊本の遊廓が全焼する
     なかには中島茂七の東雲楼も
     のち中島は巨額の資本を投じて二本木町に一大庭園を造る計画をたてる
     のち旧藩士斯波家ほか30余戸の土地家屋をことごとく買い入れる
     のち中島は造園の主任に元熊本藩350石取りの細川候御茶道頭で水前寺お花畑掛の萱野蘇堂を口説きおとす
     1883(明治16)東雲苑を起工
     1893(明治26)東雲苑が完成する
     総面積は3300余坪
     他に広大な庭園をもつ妓楼はなく、建物も豪壮広大を誇り従業員もおびただしい数に


1878(明治11)

  《内務卿》[第5代]大久保利通(→05/14)、[第6代]伊藤博文(05/15→)
  《大警視》[第1代]川路利良
  《内務省警視局局長》川路利良(兼)


  05/広島鎮台管下で徴兵忌避して手指自傷したもの38人に
     内訳は高知県12人、愛媛県9人、広島県4人、岡山県3人、島根県6人、山口県4人
  06/新富座が京橋区新富町6丁目36、37番地にガス灯などを配備した近代劇場を新設。大々的に洋風開場式を挙行
     太政大臣の三条実美をはじめ、各外国の公使らが貴賓として開場式に招待される
     1910(明治43)松竹が買収、松竹の経営下に移る
  08/23竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊259人が武装反乱事件を起こす
     竹橋事件竹橋騒動竹橋の暴動とも
     動機は過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平
     大隈重信が行賞削減を企図したとして邸宅が攻撃目標となる
  08/231876(明治09)10月29日の思案橋事件で逃走した中根米七は喜多方町の寺院境内で切腹
     中根は事件のあと西南の役で西郷軍に従い城山没落直前に脱出
  09/16婦人の楠瀬喜多が高知県の区会議員選挙の件で県に抗議。書面を県庁に提出する
     「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないのはおかしい」と
     のち県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴える
     1880(明治13)09/203か月にわたる上町町会の運動の末、県令が折れる
     日本で初めて戸主限定ながら女性参政権が認められる
     のち隣の小高坂村でも同様の条項が実現する
     1884(明治17)05/07日本政府が「区町村会法」を改訂。規則制定権を区町村会から取り上げる
     町村会議員選挙から女性は排除されることに
  10/09『団団珍聞』の姉妹誌『驥尾団子』が創刊
     1883(明治16)05/09235号で終刊となる
  11/スチュアート・ミル『男女同権論』の翻訳本刊行
     著者は弥児 (ミル) 、訳は福島県士族の深間内基、蔵版は東京平民の山中市兵衛
  横浜の瓦斯会社からタールが流出し問題となる


1879(明治12)

  《内務卿》[第6代]伊藤博文
  《大警視》[第1代]川路利良(→10/13・在任中に死去)、[第2代]大山巌(10/16→)
  《内務省警視局局長》川路利良(兼)(→10/13)、大山巌(兼)(10/16→)


  01/27松尾卯一太が熊本県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  04/植木枝盛が愛国社『民権自由論』を刊行する
  06/13植木枝盛が「男女同権ニ就キテノ弁論」を発表する

  07/09東京府知事の大久保一翁の名で通達が発せられる
     「新吉原、根津、品川、新宿、板橋、千住等に於いて貸座敷、引手茶屋、娼妓三渡世筋の儀、
      向後警視庁一手にて取扱ひ候筈に付き、この旨心得のため相達し候事」
     新政府による遊廓の管理がはじまる

  08/31午前8時20分、東京の青山御所で明治天皇の第3皇子として明宮嘉仁(はるのみやよしひと)が生まれる
     生母は典侍の柳原愛子
     のち大正天皇となる
     1926(大正15)12/25崩御
     1927(昭和02)02/07〜08大喪の礼が執り行なわれる
     天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が宮城正門を出発
     宮中の伝統に従い夜間に執り行われる。葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行
     葬儀は新宿御苑にて行なわれ霊柩は新宿御苑仮停車場〜東浅川仮停車場に大喪列車を運転
     天皇として史上初めて関東の多摩陵に葬られる
  09/29「教育令」が公布される、男女別学を規程し小学校に裁縫科を設置し各校に女教員を配置する
     明治 12年太政官布告 40号。同 1879年9月学制を廃止して公布された学校制度全般に関する基本法令
     全文 47か条で学制に比べて簡略であり,また教育を地方の管理にゆだねる
  11/18『横浜毎日新聞』を沼間守一が買収。社長も交代して東京に移駐
     『東京横浜毎日新聞』と改題。発行元も東京横浜毎日新聞社から毎日新聞社と改称
     肥塚龍らが健筆をふるい、嚶鳴社系の民権新聞として確立
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     のち嚶鳴社一派を率い沼間も参加した立憲改進党の機関紙となる
     1886(明治19)05/01『毎日新聞』に改題
  京都の同志社教授でアメリカ人のラーネッドが日本の学校ではじめて社会主義を講義、紹介する
     ラーネッドは熱心なクリスチャンで経済学者で、社会主義を反対する立場から批判的に紹介する
     ラーネッドから影響を受けた学生に徳富蘇峰 、安部磯雄、海老名弾正、小崎弘道、深井英五、浮田和民ら


1880(明治13)

  《内務卿》[第6代]伊藤博文(→02/28)、[第7代]松方正義(02/28→)
  《大警視》[第2代]大山巌(→02/28)、[第3代]樺山資紀(10/23→)
  《内務省警視局局長》大山巌(兼)(→02/28)、石井邦猷(代)(02/28→10/23)、樺山資紀(兼)(10/23→)


  01/12新見卯一郎が熊本県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  02/05成石勘三郎が和歌山県東牟婁郡請川村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
     1931(昭和06)01/0352才で病死する
  03/12新田融が仙台市堤通町で生まれる
     1911(明治44)01/18大逆事件に連座したとされ捕らわれ、懲役11年の判決を受ける。1審限りで控訴なし
     1916(大正05)10/10千葉監獄を仮出獄
     1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
  04/05太政官布告第12号により集会条例が公布される
     集会・結社の自由を規制した法律。新聞紙条例出版条例とともに自由民権運動を圧迫する
     政治活動を甚だしく阻害するものとなる
     12/23集会条例が改正される。府知事、県令などに結社解散の権限が与えられる
     1882(明治15)06/03集会条例が追加改正され、政治運動の取り締まり規制がさらに強化
     主な内容には、政談演説会や政社は事前に警察署に届けでて認可を受けること
     会場監視の警察官には集会の解散権を与えること、軍人や教員、生徒の政治活動を禁止すること、など
     1890(明治23)07/25集会及び政社法の公布により消滅する
     認可制を届出制にかえるなど手続きを簡素化、臨席警察官の集会解散の縮小など規制をゆるめる
     臨監警察官による集会の解散権や内務大臣の結社禁止権などは残される
     政治結社の支社の設置や他の政社との連結通信を禁じ、民党連合の成立を法律上制限する
     2条を新設▽未成年者と女性の政談集会参加と政社への加入の禁止
     ▽帝国議会開会中3里(約9キロ)以内での屋外集会、多衆運動への規制
     1900(明治33)03/10治安警察法が公布され受け継がれる
     03/30治安警察法が施行される
     日清戦争後に高まり先鋭化しつつあった労働運動を取り締まるため、第2次山県有朋内閣時に制定した法律
     自由民権運動を念頭に置いた政治活動の規制が主な目的の集会及政社法に、労働運動の規制を付加した形で制定
     法律の範囲内で言論、著作、印行、集会および結社の自由を有する大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限
     1945(昭和20)11/21GHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により廃止となる
  05/27植木枝盛が愛国社から『言論自由論』を刊行する。定価20銭
     ときの権力の言論弾圧に抗議する意図のもとに書かれる
  07/17太政官布告第36号により旧刑法(刑法改定)が制定。讒謗律が消滅
     【明治15年刑法(旧刑法)?】
     讒謗律は1875(明治08)6月28日に成立
  09/12岡本頴一郎が山口県吉敷郡大内村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1917(大正06)07/27諫早監獄で服役中に病死
  09/15植木枝盛が婦人参政権をよびかける演説を行なう
  09/201878(明治11)9月16日に高知県の区会議員選挙で楠瀬喜多という婦人が県に対して抗議していた問題
     「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないのはおかしい」と
     3か月にわたる上町町会の運動の末に県令が折れ、日本で初めて戸主限定ながら女性参政権が認められる
     のち隣の小高坂村でも同様の条項が実現する
     1884(明治17)05/07日本政府が「区町村会法」を改訂。規則制定権を区町村会から取り上げる
     戸長官選となり、町村会議員選挙から女性は排除されることに
  10/11小崎弘道、植村正久、田村直臣らが評論雑誌の月刊『六合雑誌』を創刊する
     政治、思想、社会問題などについて、キリスト教社会主義など進歩的立場から論じる
     1921(大正10)02/01481号をもって終刊となる

  10/23万国廃娼連合会が日本政府に公娼廃止勧告状。以後、日本各地で廃娼運動活発となる

  12/20山川均が岡山県窪屋郡倉敷村字城の内の山川清平、尚の長男として生まれる。浦、次の2姉がある
     1908(明治41)05/末大須賀里子と結婚する
     1913(大正02)05/大須賀里子と死別する
     1916(大正05)11/03青山菊枝(満26)と結婚
     1958(昭和33)01/22終日臥床の状態に、病状は悪化
     03/23午前6時7分、死去。解剖の結果、主として膵臓癌と判定される
     04/02青山斎場にて日本社会党葬。倉敷市前神町長連寺の山川家墓地に埋葬
  12/234月5日に公布された集会条例が改正される。府知事、県令などに結社解散の権限が与えられる
     1882(明治15)06/03集会条例が追加改正され、政治運動の取り締まり規制がさらに強化
     主な内容には、政談演説会や政社は事前に警察署に届けでて認可を受けること
     会場監視の警察官には集会の解散権を与えること、軍人や教員、生徒の政治活動を禁止すること、など
  刑法上に堕胎罪が設けられる


1881(明治14)

  《内務卿》[第7代]松方正義(→10/21)、[第8代]山田顕義(10/21→)
  《大警視》[第3代]樺山資紀、《警視総監》[第3代]樺山資紀(01/14→)
  《内務省警視局局長》樺山資紀(兼)(→01/14)
  《内務省警保局局長》西村捨三(01/14→06/04)、田辺良顕(06/04→)、勝間田稔(扱)(10/10月→)


  01/20森近運平が岡山県の後月郡高屋村で生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  03/01第2回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる。6月30日まで。入場者数は82万3094人
     上野の山の花見客を期待して3月に開会し大盛況に。会場約14万3千平方メートルに本館ほか6館の陳列館が建設される
     1890(明治23)04/01第3回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる
     7月31日まで。入場者数は102万3693人
  03/16新村善兵衛が長野県埴科郡屋代町で生まれる
     1911(明治44)01/18大逆事件に連座したとされ捕らわれ、懲役8年の判決を受ける。1審限りで控訴なし
     1915(大正04)07/24千葉監獄を仮出獄
     1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
  03/18『東洋自由新聞』が創刊する。社主は山城屋の稲田政吉。社長に西園寺公望が就任
     発行所は東京市京橋区尾張町2の19の東洋自由新聞社。定価は2銭3厘。当初は2千部を印刷
     幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員は主筆の中江兆民の他、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明ら
     フランス的な自由民権論を展開する。内外の報道記事も充実
     のち西園寺の社長就任に対し、岩倉具視は宮内卿で西園寺の実兄徳大寺実則に働きかける
     明治天皇の内諭により社長辞任を申し入れる
     04/09辞任要請が内勅となり西園寺は辞任する
     のち内勅の事実を檄文によって暴露した松沢らが逮捕される
     言論弾圧の影響を受け社主の稲田が退くことに。資金が欠乏する
     04/30第34号で休刊となる。事実上の廃刊に
  04/小崎弘道がキリスト教系の雑誌『六合雑誌』に「近世社会党の原因を論す」を発表
     各先進国の社会主義思想を紹介。マルクスの説を日本に紹介した最初のものとされる
  06/07管野すがが大阪絹笠町に裁判官で代言人、鉱山事業家の管野義秀の長女として生まれる
     1910(明治43)05/31入獄したまま大逆罪で起訴される
     1911(明治44)01/25大逆事件で処刑される
  06/柴田浅五郎が地元秋田県横手の明治政府庁舎への暴動を計画
     柴田は計画を地元秋田の士族や農民の民衆に発表、実行を決意する
     のち計画は明治政府に知れ渡り、政府は直前に政府転覆を口実にして、柴田ら地元有志の弾圧を実施
     柴田は首謀者として死刑を言い渡され、処刑
  10/30島田三郎が東京横浜毎日新聞社に入社
     1888(明治21)島田が毎日新聞社を退社する
  11/内務省が加藤の絶版届けに基づき『真政大意』『国体新論』を発売禁止に
     『真政大意』は1870(明治03)8月刊、『国体新論』は1874(明治07)12月刊


1882(明治15)

  《内務卿》[第8代]山田顕義
  《警視総監》[第3代]樺山資紀
  《内務省警保局局長》田辺良顕、勝間田稔(扱)


  01/04明治天皇が陸海軍の軍人に勅諭の軍人勅諭を下賜
     正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という
     起草は西周、福地源一郎、井上毅、山縣有朋_によって加筆修正される
     軍部に広がる西南戦争や自由民権運動など社会情勢からの動揺を抑え、精神的支柱を確立する意図で起草
     1948(昭和23)06/19国会の衆参両議院の決議により教育勅語などとともに廃止に
  02/0517才の岡本磯雄(安部)が新島襄から洗礼を受ける
  04/01中島信行らが結成した日本立憲政党の演説会が大阪で開かれる
     岸田俊子が初めて登壇。「婦女の道」を演説する
     のち岸田は各地に演説でまわる
  04/06自由党党首の板垣退助が岐阜の中教院で遊説中に暴漢の相原尚●【耳火の下に衣】に襲われ負傷する
     「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」と叫ぶ
     板垣を診察した医者は後藤新平。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語る
     のち後藤は板垣の希望通り政治家となる
  04/18樽井藤吉らが長崎の十善寺郷で日本初の社会主義政党「東洋社会党」を結成【05/25?】
     綱領
     ○道徳を言行の規準とする○平等を主義とする○社会公衆の最大福利を目的とする
     綱領をみると社会主義的な面がとくに打ちだしているわけではない
     のち党員が各地に遊説。3〜4千人の同志を獲得する
     のち遊説と雑誌の発行で党勢を拡張。清国や韓国へも党の趣旨を普及させるほど
     のち樽井が社会党の政策をかかげる
     ○土地その他あらゆる自然物の共有○協同社会○児童の国家養育○優生学的生殖
     明治政府の弾圧の手がのびてくる
     長崎警察署は社会党の中心人物達を次々に呼びだし、署長の野田警部自身が直接尋問をはじめる
     07/07長崎警察署長が内務卿命により結社を禁止、解散を命じられる

  04/東京の警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母、最近親族(いない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとする

  05/11岸田俊子が岡山へ。女子親睦会の結成に力をそえる
     岡山の景山英子は岸田に感動し親睦会を組織。月2回の集会、新知識の交換などが図られる
  06/03集会条例が追加改正され、政治運動の取り締まり規制がさらに強化
     主な内容には、政談演説会や政社は事前に警察署に届けでて認可を受けること
     会場監視の警察官には集会の解散権を与えること、軍人や教員、生徒の政治活動を禁止すること、など
     1890(明治23)07/25集会及び政社法の公布により消滅する
  06/25東京馬車鉄道会社が新橋〜日本橋間を開業する
     10/25日本橋〜万世橋〜上野〜浅草〜浅草橋〜日本橋の循環線を開業
     1899(明治32)06/19品川〜新橋間の品川馬車鉄道会社を合併
     1900(明治33)10/東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社(東電)に改組
     1903(明治36)08/22新橋〜品川八ツ山に40人乗り木造4輪単車の市内電車が運転を開始
     1904(明治37)03/総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
     (印の事象は以降の記述なし)
  06/25東京で『自由新聞』が創刊される。定価は1部3銭で推定発行部数3千部
     社長は板垣退助が就任。馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉ら論客が編集、発行に携わる
  06/広島紡績所が広島綿糸紡績会社に1万2570円で払い下げられる
  08/12成石平四郎が和歌山県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

  夏枯れ頃東京の各遊廓が多様な宣伝で客寄せを演じる
     吉原では8月1日よりの3日間、午後4時から各妓楼選抜の売れっ妓が
         揃いの蝙蝠傘をさし大門入口の見返り柳の辺りまで歩く
     根津では7月10日から30日間、手描きの東京開化名所図の燈籠に灯りをともし華やかさを演出する
     品川では7月21日より5日間、浜で花火を連日打ち上げる
     新宿では妓楼2階の軒先に揃いの提灯をさげるのみに
     千住では7月13日から3日を限りに盆供養に近傍の貧窮人へ1軒につき1日白米1升づつ施入する

  10/10加藤弘之が谷山楼から『人権新説』を刊行。定価30銭
  10/14新橋〜日本橋間の馬車鉄道の開通により鉄道馬車反対同盟がつくられる
     自由民権運動の活動家で自由党の奥宮健之が失業した人力車夫の生活擁護を目的にした人力車懇親会
     中心は奥宮健之と車夫の三浦亀吉。植木枝盛、栗原亮一、伊藤仁太郎も協力
     のち「車会党(しゃかいとう・車界党)」と改称する
     車会党は車夫の共済組合的な性格を多分にもつ
     車会党規則総則第1条は「本会は車夫営業の為め相互に懇話親睦するを旨とし、名づけて車会党と称する」
     第4条は「会員たるもの他人の為め恥辱を蒙りもしくは損害等を受ける時はその情実によりこれを救助すべし」
  10/25中江兆民が仏学塾出版から『民約訳解』第1巻を刊行
  10/1877(明治10)9月から刊行がはじまった田口卯吉の『日本開化小史』が13章全6巻で終刊
     出版者は田口卯吉本人
  11/28福島県の自由党員、農民が県令三島通庸の圧政に反抗。福島事件が起きる
     三島通庸は会津三方道路工事に人夫や人夫賃を出させるなど、農民に大きな負担をかける
     県会議長河野広中を中心に自由党員や農民が団結して反対運動を展開
     佐治幸平らの逮捕をきっかけに数千人が喜多方警察署におしかける
     11/29約2千人が検挙、河野以下6人が内乱罪で処罰される
  愛媛県の別子鉱山で日本で初めてダイナマイトが使用。掘削に採用される

  根津遊廓が新吉原遊廓を抜こうとするほどに大繁盛する


1883(明治16)

  《内務卿》[第8代]山田顕義(→12/12)、[第9代]山縣有朋(12/12→)
  《警視総監》[第3代]樺山資紀、[第4代]大迫貞清(12/13→)
  《内務省警保局局長》勝間田稔(扱)(→01/18)、田辺良顕(→03/07)、勝間田稔(03/09→)


  01/馬場辰猪が『天賦人権論』を刊行。出版者は著者本人
  01/植木枝盛が『天賦人権弁』を刊行。出版者は栗田信太郎。定価30銭

  02/08大雪の日。除雪に困り果てた東京馬車鉄道会社が警視庁へ要請
     石川島の囚人100の出場で除雪作業が行なわれる

  02/18吉川守圀が東京に生まれる
     1939(昭和14)08/1457才で死去
  03/20高田町を中心とする北越の活動家、加藤貞盟、八木原繁祉、赤井景韶ら20人余りが政府転覆の容疑で逮捕
     高田事件が起きる
     05/党員や支持者ら37人が逮捕
     08/政府転覆計画の捜査が見込み捜査で、大半の容疑者は証拠が見つからないまま22人が不起訴
     加藤、八木原ら自由党幹部12人は起訴したが公判を維持できず、免訴、責付釈放となり事実上の無罪に
  04/03北一輝[本名は輝次(のち輝次郎)]が新潟県佐渡郡両津湊町の酒造業・北慶太郎、リクの長男として生まれる
     1937(昭和12)08/15軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑判決【08/14?】
     08/19北一輝(52)が元騎兵少尉で愛弟子の西田税(34)とともに処刑される
  04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
      発行保証金制度は、東京市内1千円。横浜、京都、大阪、神戸、長崎各市内など700円、その他の地域で350円
      また1か月に3回以下発行のものは、それぞれの半額と納入が義務づけられる
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
     新聞紙条例の成立は1875(明治08)6月28日
     1887(明治20)12/28新聞紙条例が改正、公布する
  04/19山口義三(孤剣)が山口県赤間関区豊前田町に呉服商の父福田伊助、母チヨの3男として生まれる
     1920(大正09)09/02持病の腎臓病が悪化し37才で没す
  05/09『団団珍聞』の姉妹誌『驥尾団子』が235号で終刊となる
     『驥尾団子』の創刊は1878(明治11)10月9日
  06/29出版条例の一部改正が行なわれる
     1884(明治17)10/一部改正が行なわれる
  07/02参議・山縣有朋の建議により初めて『官報』が発行される
     「官報」は法律、政令、条約などの公布をはじめ国や特殊法人等の諸報告や資料を公表する
     国の広報紙、国民の公告紙としての使命を持つ。編集・発行業務は太政官文書局で行なう
  10/31ネッケル・フレーの『共和政体論』が奥宮健之の訳で政治書院から刊行される
  11/28東京市麹区山下町の薩摩藩邸跡地に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」がオープン
     オープン当日は外務卿井上馨の誕生日。建設費は18万円
     鹿鳴館は外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場
     煉瓦造2階建で1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間に
     バーやビリヤード場も設備
     「鹿鳴」は詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもてなすことを表わす語
     落成の祝宴が1200人を招待して行なわれる【600人?】
     パーティは深夜にまでおよび午前1時新橋発横浜行の臨時列車が運行される
     1890(明治23)宮内省に払い下げられる
  大阪紡績会社などからばい煙が噴出し問題となる

  熊本二本木町の遊廓で中島茂七が東雲苑を起工
     1877(明治10)の西南の役で遊廓地が全焼し遊廓全体が二本木町に移る
     中島は巨額の資本を投じて二本木町に一大庭園を造る計画をたてる
     旧藩士斯波家ほか30余戸の土地家屋をことごとく買い入れる
     造園の主任に元熊本藩350石取りの細川候御茶道頭で水前寺お花畑掛の萱野蘇堂を口説きおとしていた
     1893(明治26)東雲苑が完成する
     総面積は3300余坪
     他に広大な庭園をもつ妓楼はなく、建物も豪壮広大を誇り従業員もおびただしい数に


1883(明治16)頃

  中島半三郎が群馬県の前橋で同志とともに地租軽減運動を行なう


1884(明治17)

  《内務卿》[第9代]山縣有朋
  《警視総監》[第4代]大迫貞清
  《内務省警保局局長》勝間田稔(兼)(→02/25)、清浦奎吾(02/25月→)


  01/山形県の鶴岡にある財産評価額1万7192円の油戸炭鉱が白勢成熙に2万7943円で払い下げられる
  05/13群馬県北甘楽郡で自由党急進派と農民の自由民権運動が激化。群馬事件が起きる
     自由党員の湯浅理平、小林安兵衛、三浦桃之助らが中心となり妙義山麓陣場ケ原で蜂起
     襲撃の目標は警察署や高崎鎮台分営。正確な蜂起人数は不明。10人、200人、数千人とも
     群集は松井田警察分署を襲撃、人数不足や士気減退で高崎鎮台分営襲撃は実行されず
     05/16北甘楽郡丹生村の高利貸岡部為作邸を打ちこわして蜂起は収束
     のち湯浅、小林、三浦らが逮捕、妙義山中の残党も1か月ほどで逮捕される
     のち最終的に湯浅、小林、三浦ら12人が有期徒刑、20人が罰金刑に
  05/07日本政府が「区町村会法」を改訂。規則制定権を区町村会から取り上げる
     1880(明治13)9月20日に高知県の上町にて、日本で初めて戸主限定の女性参政権が認められるものの
     町村会議員選挙から女性は排除されることに
     また区と長の権限を強化し、区町村費を以て支弁する費目として戸長役場費、土木費、教育費などを例示
     町村会の権限を明確にする
  06/12日本最初のバザー「婦人慈善会」が3日間にわたり東京日比谷の鹿鳴館で開かれる
     会場の2階2室に飾りつけられた陳列棚は13。緑葉で装飾し日章旗を交叉させ1棚に30〜40種の諸品を載せる
     棚ごとに貴族や政界の夫人総出の受持ち係が配置される
     第1番の松方夫人他、第2番の西郷夫人他、第3番の大山夫人他から第13番の長岡夫人他まで
     値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3千有余
     出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、襟巻など多種
     陳列室のほかに書画展観席があり、客の休憩所には階下の食堂があてられ喫煙、茶菓の店が設けられる
     集客は新聞広告、前例のない斬新な試みとして世の耳目を集め、錦絵の題材にも
     3日間の入場者は実に約1万2千人、売上は約8千円(現在の金額で1憶7千万円)に達し大盛況のうちに終了
     収益は看護婦養成所に寄付される
  06/14古河力作が福井県の遠敷郡雲浜村(現小浜市)で生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  06/15巖本善治が修正社から日本最初の婦人誌『女学新誌』を創刊する
     1885(明治18)07/02巌本が修正社を離れる
     1885(明治18)09/1927号で廃刊となる
  07/07制度取調局局長伊藤博文を中心に制定、華族令が公布される
     従前の華族を公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5爵に区分
     基本的に旧公家の華族は家格により、旧諸侯の華族は石高によりそれぞれの爵位を授爵
     また国家に勲功ある者を新たに華族に列し、勲功によりそれぞれの爵位を授爵
     華族令以前に華族だった家を旧華族、それ以後に華族に列した家を新華族に
      旧華族では本人一代限りの終身華族と、爵位が代々世襲される永世華族がある
        華族令により区別がなくなり終身華族が廃止されてすべてが永世華族に
     のち華族令制定直後の7月中に509人の有爵者が生まれる
     1889(明治22)02/11勅令第11号貴族院令により30歳以上の5爵が貴族院議員となる特権を得られることに
     公爵と侯爵は全員、伯爵・子爵・男爵はそれぞれ同爵の互選による
     華族とその子弟の婚姻に際しては宮内大臣の許可を必要となる
     1947(昭和22)05/廃止となる
     華族その他の貴族制度を禁止した日本国憲法(14条2項)の施行
     皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年皇室令第12号)の発令による
  07/群馬県の下仁田にある財産評価額2万4300円の中小坂鉄山が坂本弥八らに2万8575円で払い下げられる
  07/東京府深川町にある財産評価額6万7965円の摂綿篤製造と深川白煉化石が払い下げられる
     摂綿篤製造は浅野総一郎に6万1741円で、深川白煉化石は西村勝三に1万2121円で
  08/秋田県の十和田湖にある財産評価額19万2000円の小坂銀山が久原庄三郎に27万3659円で払い下げられる
  08/自由党員らが中心となり増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党」を組織、2度の山林集会を開催
     のち決議をもとに請願活動や高利貸との交渉を行なうも不調に
     のち租税の軽減、義務教育の延期、借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案
     大宮郷で代々名主を務める家が出身の田代栄助が総理として推挙
     蜂起の目的は暴力行為なく高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること
     10/31下吉田の椋神社で決起集会が行なわれ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定、蜂起が開始される
     軍律
      第1条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
      第2条 女色ヲ犯ス者ハ斬
      第3条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
      第4条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
      第5条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
     11/01秩父郡内を制圧し高利貸や役所等の書類を破棄。秩父事件が起きる
     のち政府は警察隊、憲兵隊等を送り込むが苦戦。最終的に東京鎮台の鎮台兵が送られ郡境を抑える
     11/04秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧される
     のち一部の急進派は北相木村の菊池貫平を筆頭に農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出する
     11/09一隊は佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受け壊滅
     のち指導者、参加者は各地で次々と捕縛。約14000人が処罰
     1885(明治18)02/19浦和重罪裁判所で首謀者とされた7人に死刑判決が下される
     田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、菊池貫平、井上伝蔵。うち井上と菊池は欠席裁判での判決
     05/17田代、加藤、新井、高岸、坂本が絞首刑に
     のち井上は北海道に逃走、菊池は甲府で逮捕、終身刑に減刑される
  08/立憲改進党の党員でもある田中正造が福島県令の三島通庸による暴政に抵抗する
     10/04加波山事件の連累者として警視庁に勾留される
     11/17佐野警察署に移送、拘置される
     12/23佐野警察署より釈放される
  荻野吟子が東京府庁に開業医の免許出願を提出する
     09/医術開業試験前期試験を女性3人で受験、吟子1人のみ合格
     1885(明治18)03/後期試験を受験し合格する
     05/本郷区三組町で「産婦人科荻野医院」を開業する
     34歳で近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過
     吟子のことは新聞や雑誌で「女医第1号」として大きく扱われる
  09/16竹久夢二(本名竹久茂次郎)が岡山県邑久郡本庄村に酒造業を営む家に次男として生まれる
     兄が前年に亡くなり、事実上の長男
     1934(昭和09)09/01長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で死去。49才
  09/栃木の民権家鯉沼九八郎が爆裂弾を製造中に事故を起こし重傷
     民権運動を弾圧した三島通庸県令や大臣を爆殺する計画が明らかに
     09/23無謀と知りつつも16人が爆裂弾百数十発をもち茨城県の加波山に立てこもり檄文を起草。加波山事件が起きる
     夜、河野広体ら10人が下山し真壁郡の町屋分署を襲撃
     のち自由党幹部の内藤魯一や小久保喜七ら300人の民権家が逮捕。起訴は加波山の16人と若干名のみ
     のち7人に死刑判決がくだる。1人は刑執行前に獄死、3人が無期懲役に
     のち獄死者を除いた服役者は特赦によって出獄する
  10/出版条例の一部改正が行なわれる
     1887(明治20)12/28全面改正
     取り締まりを厳しくするのではなく法規の整理。原稿検閲の規定は廃止、届け出主義になる
     治安を害し風俗を壊乱する出版物は、内務大臣に発売頒布を禁じ印本を差し押さえる行政処分権を認める
     べつに版権条例が制定公布。版権保護の規定が分離され出版条例の外におかれる
  10/静岡県の賀茂郡にある梨本村白煉化石が稲葉来蔵に101円で払い下げられる
  11/08名古屋の大日本帝国陸軍の鎮台を占拠しようと計画、戦闘準備をはじめる。飯田事件が起きる
     計画の発案は信州飯田の愛国正理社の桜井平吉と三河の田原自由党の村松愛蔵、八木重治、川澄徳次が中心となる
     11/09政府転覆を理由に村松、八木、川澄らを逮捕し刑務所に連行
  11/26片山潜(25)がサンパウロ号で横浜を発ち渡米する
     12/14サンフランシスコに上陸
     1895(明治28)12/下帰国のためヴィクトリア号に乗船。ワシントンのタコマを発つ
     1896(明治29)01/横浜につく。足かけ13年ぶりの帰国となる
     1903(明治36)12/29横浜からアメリカに向けて旅立つ。第2回渡米
     1904(明治37)01/17アメリカのシアトルにつく
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
     1906(明治39)07/131月にアメリカから帰ったばかりの片山潜が3度目の渡米
     1907(明治40)02/19アメリカから帰国
     1914(大正03)09/09佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる。最後の渡米で、事実上の亡命
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
     09/28サンフランシスコに上陸
  12/加波山事件後に解党していた旧自由党の党員が政府転覆未遂事件を起こす。名古屋事件が起きる
     自由党員挙兵の軍資金を調達するため紙幣の贋造や掠奪を行なうが、武装蜂起は失敗、処罰される
     明治政府に批判的な大島渚を中心とする博徒系グループ
     山内徳三郎、鈴木松五郎を中心とする愛国交親社系グループ
     久野幸太郎ら名古屋自由党公道協会の会員らが結合
  12/秋田県にある財産評価額7万2993円の院内銀山が古河市兵衛に10万8977円で払い下げられる

  12/警視総監、東京府知事が根津遊廓に営業禁止を通達
     「娼妓営業の儀は詮議の次第有之、明治廿一年限り禁止す」
     廓から見上げる位置に、各地に分散していた東京帝国大学が統合移転
     加えて第一高等学校の設置も決定し風教上好ましくないことから
     1887(明治20)までに富坂に帝国大学の校舎を新築する計画が策定されたため
     吉原には受け入れる余裕がなく洲崎弁天東側の広大な湿地を整備して移転することに
     1887(明治20)根津より洲崎への移転工事がはじまる
     1888(明治21)06/30夜、12時を合図に根津遊廓が一斉に廃業とする
     07/01洲崎遊廓が仮営業を開始。仮営業に間に合ったのはわずか20余軒だけ
     昼夜の突貫工事でも予定された妓楼の7割はまだ普請の途中
     2割は「地形、木拵へさへ出来ず、中には金策に奔走する者もありとか」
     09/15洲崎遊廓の開業式典が催される

  東京印刷会社の課長、池田竹次郎らが活版工組合を組織しようと企てる
     池田は秀英舎の佐久間貞一に相談すると協力を得て運動に着手。相談会をひらく
     一般職工に計るも労働運動を恐れ、池田の売名と誤解される
     2か月後池田は時期尚早と運動を中止する


1885(明治18)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(12/22→)
  《内務卿》[第9代]山縣有朋(→12/22)、《内務大臣》[第1代]山縣有朋(12/22→)
  《警視総監》[第4代]大迫貞清、[第5代]三島通庸(12/22→)
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  01/15政府が爆発物取締罰則を施行
     治安を妨げ、人の身体・財産を侵害する目的による爆発物の使用等を処罰するために制定される
     「爆取」と略称され、報道などでは爆発物取締法と呼称されることも
  01/17大杉栄が香川県丸亀に大杉東の長男として生まれる
     父の大杉東は大日本帝国陸軍の軍人で親戚にも軍人がいるという家庭環境
     1923(大正12)09/16関東大震災の混乱に乗じて、甘粕正彦憲兵大尉により伊藤野枝、橘宗一とともに虐殺される
     大杉の弟家族を鶴見に見舞った帰り。橘宗一は大杉の妹アヤメの子
     1887(明治20)03/長女春が生まれる。秋山是禮へ嫁ぐ
     1889(明治22)11/次女菊が生まれる。柴田勝造へ嫁ぐ
     1890(明治23)11/次男伸が生まれる。1922(大正11)10月没
     1893(明治26)03/三女松枝が生まれる。牧野田彦松へ嫁ぐ
     1894(明治27)12/三男勇が生まれる
     1897(明治30)01/四男進が生まれる
     1898(明治31)10/四女秋が生まれる。1916(大正05)12月没
     1900(明治33)06/五女アヤメが生まれる。橘惣三郎へ嫁ぐ
  02/19秩父事件の首謀者とされた7人に浦和重罪裁判所が死刑判決をくだす
     田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、菊池貫平、井上伝蔵。うち井上と菊池は欠席裁判での判決
     05/17田代、加藤、新井、高岸、坂本が絞首刑に
  03/秋田県にある財産評価額24万0772円の阿仁銅山が古河市兵衛に33万7766円で払い下げられる
  03/荻野吟子が医術開業試験後期試験を受験し合格する
     05/本郷区三組町で「産婦人科荻野医院」を開業する
     34歳で近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過
     吟子のことは新聞や雑誌で「女医第1号」として大きく扱われる
  04/01峰尾節堂が和歌山県東牟婁郡新宮町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1919(大正08)03/0635才のとき千葉監獄で服役中に病死
  04/宮城県の仙台区役所が25才以上の女戸主に限り各区、各町の組長選挙権を認める
  05/東京の大森にある財産評価額6万6305円の品川硝子が西村勝三、磯部栄一に7万9950円で払い下げられる
  06/28渡辺鼎、石川瑛作らが東京に婦人束髪会を設立する
  06/秋田県にある財産評価額9万8902円の大葛金山、真金金山が阿部潜に11万7142円で払い下げられる
  06/坪内逍遥が晩青堂から『当世書生気質』を刊行する。1冊定価7銭、全部前金98銭
     のち翌年1月にかけて17冊を刊行
  07/02巌本善治が婦人誌『女学新誌』の修正社を離れる
     1885(明治18)09/19『女学新誌』が27号で廃刊となる
     『女学新誌』は修正社が1884(明治17)6月15日に創刊
  07/04坂本清馬が高知県安芸郡室戸村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)10/01秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
     1934(昭和09)11/03高知刑務所を仮出獄
     1946(昭和21)02/24岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  07/20巖本善治が万春堂から女性雑誌『女学雑誌』が創刊する
     当初は菊判20ページ、発行は万春堂
     西欧化にも、日本的保守化にも偏さず中道的な立場をとる。啓蒙的要素が色濃い
     のち第11号から最終号までは四六倍判で16〜40ページ、発行が女学雑誌社
     1904(明治37)02/15526号で終刊となる
  07/安部磯雄が村上駒尾と婚約
     1895(明治28)07/03安部磯雄が岡山で駒尾と結婚する

  08/14『時事新報』に東京府内6つの遊廓の統計がでる
     (貸座敷)吉原=85軒、根津=106軒、品川=64軒、新宿=59軒、千住=38軒、板橋=15軒
     (娼妓)吉原=1424人、根津=943人、品川=545人、新宿=364人、千住=44人、板橋=103人
     (引手茶屋)吉原=157軒、根津=45軒、品川=38軒、新宿=13軒、千住=4軒、板橋=未詳
     (芸妓)吉原=158人、根津=38人、品川=未詳、新宿=未詳、千住=未詳、板橋=未詳
     1890(明治23)05/10『東京日日新聞』が「その筋の調査」を報じる
     (貸座敷)吉原=124軒、洲崎=93軒、品川=61軒、千住=35軒、新宿=59軒、板橋=14軒
     (娼妓)吉原=2442人、洲崎=1189人、品川=665人、千住=498人、新宿=512人、板橋=174人

  09/04宮城県栗原郡金成村の旧家鈴木益治の長男として鈴木文治が生まれる
     1946(昭和21)03/12心臓喘息により急逝。60歳
     戦後初の総選挙に日本社会党から立候補の届けをだした翌日のこと
  09/19修正社が1884(明治17)6月15日に創刊した婦人誌『女学新誌』が27号で廃刊となる
  09/坪内逍遥が松月堂から『小説神髄』を刊行。定価7銭【奥付の発行日は空白】
  10/12崎久保誓一が三重県南牟婁郡市木村下市木で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29秋田刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)06/26飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  11/23大井憲太郎らとともに朝鮮改革運動に加わった20才の景山(福田)英子が爆発物運搬などに協力し長崎で拘引【11/13?】
     大阪事件
     11/25長崎警察署の警部補宋栄次郎により訊問が行なわれる
     1887(明治20)05/25大阪臨時重罪裁判所で第1回公判が開かれる
     170枚の傍聴券はたちまちに渡し尽され追加分もすぐになくなる
     午前7時50分開廷。裁判長は評定官の井上操、陪席は評定官の臣佐武、矢野茂、検察官別府景通、堀田正忠
     のち事実審問35回、事実弁論40回、法律弁論19回
     09/21弁論が終わる
     09/24判決が下る。景山は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月の判決を受ける
     第1審の判決に服し即日下獄
     のち三重県の津監獄に送られる
     1889(明治22)02/14大赦令により出獄
  12/22内閣制度が確立。内務省が内閣に属するようになる
     内閣成立以降は第2次世界大戦後の改革まで、内閣総理大臣に次ぐ副首相格とされる
     1947(昭和22)12/31GHQにより解体、廃止となる
  徳富蘇峰が自費出版で『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を刊行
     1887(明治20)04/1章を加え『新日本之青年』と改題して集成社から刊行。定価45銭
  東京深川の浅野セメント深川工場の煙突からの降灰が問題化する


1886(明治19)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋
  《警視総監》[第5代]三島通庸
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  01/03島田三郎が親交のある長老派の牧師植村正久より受洗する
  02/10平塚明が東京市麹町区三番町で父定二郎、母光沢(つや)の間に生まれる
     定二郎は紀州の武家の出で官界に入り憲法草案の起草にかかわる。光沢は徳川家一門、田安家の御典医の娘
     姉孝と名をならべると孝明天皇の諱となる
     1971(昭和46)05/2485才で死去
  02/20石川啄木(本名石川一)が岩手県南岩手郡日戸村常光寺の住職石川一禎、カツの長男として生まれる
     1912(明治45)04/13東京は小石川区久堅町にて肺結核のため死去。享年27
  早春板垣退助が狩猟で高知中村を訪れる
     自由党壮士小野耕造が建てた料亭自由亭で有志の歓迎会が開かれる
     15才の幸徳秋水が「板垣大先生を迎える祝辞」を朗読する【2月? 16才?】
  03/28加藤時次郎が千住加藤病院を設立する
  05/01『東京横浜毎日新聞』『毎日新聞』に改題
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     1888(明治21)島田三郎が沼間守一から社長の座を受け継ぐ
     日露戦争に対しては徹底的な反戦姿勢を貫く
  06/上7月10日の箱根離宮落成式に臨席の政府高官暗殺し、天皇を擁立する計画をたてる
     爆弾を作り準備するがスパイの密告により発覚、一味は各地で捕縛される。静岡事件が起きる
     中心人物は旧岳南自由党、遠陽自由党員の民権左派の中野次郎三郎、山岡音高ら
  06/12〜16甲府の雨宮製糸紡績場の女工が時間短縮を要求するストライキを起こす
     のち甲府周辺の各製糸工場に波及、ストが続発する
  06/禁酒運動の講演のためにWWCTU(世界女性キリスト者禁酒同盟)からメリー・レビットが来日
     【万国婦人矯風会本部(シカゴ、エバンストン)から特派員とし手来日】
     レビットは万国婦人矯風会の第1回の万国遊説委員で「女性の禁酒の会だから、聴衆も通訳も女性を集めてほしい」と提言
     のち第1回の講演会参加者は600人を超える
     レビットはアメリカで教会女性が中心となって行った50日の禁酒運動で2千件を超える酒屋が閉店したこと
     この働きが禁酒のみならず、アヘンの禁止、売春の禁止にまで広がりつつあることを告げる
     組織作りを訴えるレビットの講演会は多くの人々を感動させる
     なかには印刷工の山室軍平の姿も、山室が禁酒と売春防止に力を尽くす原点となる
     のち岡山、長崎など5か所で講演し禁酒、貞潔思想を訴える、参加者は2千人をこえる
     のち夫人の主張が大きな波紋を広げる
     12/矢島楫子らが発起した「東京婦人矯風会」を設立するきっかけに

  06/東京府の2ケ年継続事業として深川区入舟町先の海岸埋め立て工事がはじまる
     作業は石川島監獄の囚人を使役
     のち根津遊廓の移転先に決まる
     1887(明治20)根津より洲崎への移転工事がはじまる
     05/総坪数7万坪の大方の完成をみる

  07/20藤村操が北海道の事業家藤村胖(ゆたか)の長男として生まれる
     胖は明治維新後に北海道に渡り事業家として成功。祖父、政徳は盛岡藩士で胖は政徳の長子
     1903(明治36)05/22第1高等学校文科1年在学中に日光の華厳の滝で投身自殺
     数えで18才の16才10か月。自殺現場のかたわらの木に「巌頭之感」を書き残す
     のちあとを追う者が続出。藤村の死後4年間で華厳の滝で自殺を図った者は185人に
  07/27末広鉄腸が博文堂から『政治小説 雪中梅(上)』(135ページ)を刊行
     11/30下巻(183ページ)が刊行
  10/24イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が横浜から神戸へむかう途中、紀州沖で座礁沈没する
     ノルマントン号にはイギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、日本人らが乗船
     事故の際、イギリス人船長ジョン・ウイリアム・ドレークの指示により乗組員は避難する
     日本人乗客の25人全員とインド人水夫など乗組員12人は誰ひとり助かることなく死亡
     のち「東洋人を人種的に差別しあたかも動物視している」 として世論をわかすことに
  10/徳富蘇峰が経済雑誌社から『将来之日本』を刊行。定価50銭
  12/02高野房太郎がパシフィック・メール会社のニューヨーク号で単身横浜港を出港
     1891(明治24)夏/高野は桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
     同じ桑港で働いていた友人の靴工・城常太郎、洋服職人・沢田半之助らとともに
     職工義友会は労働組合運動についての研究会
     また白人の靴工に迫害されていた日本人靴工による「加州日本人靴工同盟会」の母体に
     1896(明治29)06/桑港から帰国
  12/06矢島楫子らが発起しキリスト教系の日本の女性団体「東京婦人矯風会」の発会式が行なわれる
     アメリカの禁酒運動婦人団体「Women's Christian Temperance Union」(WCTU)の日本支部として設立される
     もとは京浜婦人祈祷会、斡旋は大儀見元一郎
     東京日本橋区両替町の日本橋教会で田村真臣、海老名弾正、厳本善治、大儀見元一郎が演説
     会員として56人が記名する
     会頭に矢島楫子、書記に服部千代、佐々木豊寿、会計に三浦柳、海老名みやらが挙がる
     第1に掲げた運動目標は2つの建白書をつくり各方面に配布すること
     「1、一夫一婦の請願 2、在外売娼婦取締法の制定」
     のち活動は廃娼、禁酒、禁煙などの社会改良運動から一夫一婦制の確立、男女同権を要求
     進歩的な人々やキリスト教徒の強い支持を得て活発に働く
     のち全国各地に矯風会ができる
     1893(明治26)04/03東京市の霊南坂教会で日本基督教婦人矯風会の総会が開かれる
     「東京婦人矯風会」が世界の平和、純潔、酒害防止を3大目標に掲げる
     全国各地の婦人矯風会を一丸とする全国組織「日本基督教婦人矯風会」が誕生する
     会頭に矢島楫子が選ばれる
     1923(大正12)財団法人となる
  12/06東京婦人矯風会の発会は鹿鳴館時代の弊風に対して日本婦人の根本的な批判をも意味する
  東京婦人矯風会の成立と同時期に各種組織される
     横浜市に横浜禁酒会が誕生する
     札幌市でクラーク博士を中心に内村鑑三、新渡戸稲造らにより北海道禁酒会が創立する
     京都市では西本願寺系の学校生徒が反省会を組織
     のち『反省会雑誌』『中央公論』の前身)を創刊する
  12/北海道の札幌醸造所が大倉喜八郎に2万7672円で払い下げられる


1887(明治20)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋
  《警視総監》[第5代]三島通庸
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  02/15徳富猪一郎(蘇峰)らが民友社から月刊誌『国民之友』を創刊する
     社名は蘇峰が主張する平民主義にちなむ。誌名は愛読誌「ネーション」にヒントを得る
     徳富はキリスト教の感化を受けた左翼的自由主義を奉じ自ら「平民的急進主義」と呼ぶ
     民間雑誌で日本初の総合雑誌。創刊号の発行部数は7500部をかぞえる
     のち徳富猪一郎の弟徳富健次郎(蘆花)はじめ山路愛山、竹越与三郎、国木田哲夫(独歩)らが入社
     のちまもなく月2回の発行になる
     1889(明治22)月3回の発行になる
     1896(明治29)週刊になる
     1897(明治30)08/月刊にもどる
     1898(明治31)08/第372号をもって廃刊となる
  02/15徳富蘇峰が『国民之友』創刊号に論説「嗟呼国民之友生れたり」を記す
  02/24東京石川島造船所の鉄工小澤弁蔵が両国橋畔の井生村楼で鉄工の懇親会を開く
     小澤は弟国太郎と、同じく鉄工の相田吉五郎と計る
     はじめは新聞記者らの演説など真面目な談をなす。会中頃から会衆間で賭博がはじまる
     散会後は洲崎遊廓に繰りこみ、3、4日流連し帰宅しない者が続出
     のち小澤らが第2回の懇親会を開こうとするも、労働者の妻たちが反対。運動は不成功に終わる
     1889(明治22)06/再び小澤をはじめ相田吉五郎ら西洋鍛冶の親方職人を中心に運動をおこす
     順調にすすみ同盟進工組の組織作りに成功する
     発起人は石川島造船所の小澤ほか5人、陸軍造兵廠の柳澤清次郎ほか4人、海軍造兵廠の千代松只蔵ほか12人、
     田中機械製造所の天野友一ほか25人、鉄道局の本多庫源太ほか3人、職工学校の大久保忠正、山岡定吉ら
     職業紹介や相互扶助、自立工場の建設を目的に掲げる
     自立工場は職工志願者の技術訓練や失業中の会員に職場を与えることを意図。これは後の工業団体同盟会と共通
     まもなくある工場にて委員らが積立金の一部を費消したとの風説がたつ
     噂は次第に拡大し組合は甚だしく動揺。やむを得ず幹部は積立金を分配し組合は解散することに
     規約の第24条には積立金を蓄積し将来工場を設立させる計画をもち、協同生産組合を作る意図などが組まれる
     組合創設者は抱負を抱き熱心に運動を進めも、労働大衆の自覚の程度が伴わず
     のち同盟進工組の活動経験は鉄工組合の成立[1897(明治30)12月1日]と発展に役だつことに
  04/20首相官邸にて内閣総理大臣伊藤博文主催の仮面舞踏会(ファンシーボール)が開かれる
     鹿鳴館時代のピークといわれる
  04/26新村忠雄が長野県埴科郡屋代町に父善兵衛、母やいの次男として生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  04/徳富蘇峰が『第十九世紀日本ノ青年及其教育』に1章を加え『新日本之青年』と改題
     集成社から刊行。定価45銭
  05/25朝鮮改革運動に加わった景山(福田)英子らへの第1回公判が大阪臨時重罪裁判所で開かれる。大阪事件
     170枚の傍聴券はたちまちに渡し尽され追加分もすぐになくなる
     午前7時50分開廷。裁判長は評定官の井上操、陪席は評定官の臣佐武、矢野茂、検察官別府景通、堀田正忠
     景山は爆発物運搬などに協力し1885(明治18)11月23日に長崎で拘引【11/13?】
     のち事実審問35回、事実弁論40回、法律弁論19回
     09/21弁論が終わる
     09/24判決が下る。景山は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月の判決を受ける
     第1審の判決に服し即日下獄
     のち三重県の津監獄に送られる
     1889(明治22)02/14大赦令により出獄
  05/博愛社日本赤十字社と改称する
     博愛社は1877(明治10)の西南の役において5月1日に佐野常民が起こす
  05/島田三郎が『六合雑誌』に「人生の目的」を書す
     山室軍平が読み感激、島田の名を知り崇敬の念を起こす
  05/中江兆民が集成社から『三酔人経綸問答』を刊行する。定価45銭【奥付は発行月まで、日付Sは空白】
     洋学紳士と豪傑君のそれぞれの立証に対して、南海先生が全体を捉えて推論する
  05/群馬県の高崎にある新町紡績所が三井会社に14万1千円で払い下げられる
  06/18福岡県那珂郡金平村に松本治一郎が生まれる。村会議員の父次吉と母チエの末子(5番目の子)
     1966(昭和41)11/22午前2時半、呼吸困難に。2時58分、79才で死去する
  06/長崎にある財産評価額45万9千円の長崎造船所が三菱会社に同額で払い下げられる
  07/西村茂樹、皇后の内旨をうけ『婦女鑑』編纂【06/?】
     全国の女学校に配布する
  07/兵庫県の神戸にある財産評価額32万0196円の兵庫造船所が川崎正蔵に18万8029円で払い下げられる
  07/甲府市外の製糸女工が労働強化反対のストライキが起きる
  08/11福岡本町の福陵新報社から国権派日刊紙『福陵新報』が創刊される
     玄洋社の頭山満を社長として刊行し、主筆には福沢諭吉の門弟で「時事新報」の記者川村惇が迎えられる
     1898(明治31)05/103134号から題号を『九州日報』に改め、記者として宮崎滔天、夢野久作ら
     1940(昭和15)東京の読売新聞社に買収される
     1942(昭和17)08/10新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる
  08/14荒畑勝三(寒村)が神奈川県横浜市永楽町の横浜遊廓内でに生まれる
     1981(昭和56)03/0696才で死去
  09/07幸徳伝次郎が出雲丸で高知港を出発
     09/09横浜に到着。林有造の書生となる
     小石川区丸山町岩村通俊の別荘に住み林包明の猿楽町英学館に通学する
     12/26保安条例により幸徳も令状が施行され西下する
     1888(明治21)01/正月を三州の豊橋で迎える
     01/15郷里の高知中村に帰る
  12/25保安条例が制定、発布され即日施行される(明治20年勅令第67号)
     全7条からなる自由民権運動など反政府運動を弾圧するための法律
     秘密結社、秘密集会、秘密出版の禁止、屋外の集会運動の制限などを定める
     内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがある自由民権派の人物が皇居から3里(約11.8km)以外に退去
     3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止される
     1898(明治31)06/25保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止となる
     【保安條例】(別ページリンク)
  12/26〜28保安条例により東京から退去を命じられる者が総計約570人に
     退去を命じられたのは尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、
     光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦、坂本直寛ら
     のち片岡健吉、坂本直寛ら10数人が退去を拒否し投獄される
     禁獄2年6か月、監視2年の刑を宣告
     1889(明治22)02/大赦令により出獄
  12/26保安条例により幸徳秋水にも令状が施行され西下する
     1888(明治21)01/正月を三州の豊橋で迎える
     01/15郷里の高知中村に帰る
  12/28出版条例が全面改正、公布される
     取り締まりを厳しくするのではなく法規の整理。原稿検閲の規定は廃止、届け出主義になる
     治安を害し風俗を壊乱する出版物は、内務大臣に発売頒布を禁じ印本を差し押さえる行政処分権を認める
     べつに版権条例が制定公布。版権保護の規定が分離され出版条例の外におかれる
     1893(明治26)04/14出版法が制定され出版条例が廃止となる
  12/28新聞紙条例が改正、公布する
     新聞紙条例の成立は1875(明治08)6月28日
     1909(明治42)05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される
  12/岩手県にある財産評価額73万3122円の釜石鉄山が田中長兵衛に1万2600円で払い下げられる
  東京婦人矯風会の矢島楫子が一柳子爵母堂と同道、一夫一婦の建白書を太政官に提出
     矢島は白装束に懐剣を収め身命を堵して請願する
     「臣下の身で、建白書を奉る事はお上に御抗議申上げる事であるから、
      いつ切腹を仰せつけられても、直ちにお受け出来る様」
  東京婦人矯風会が東京で男女同権を主張する大会を開く
  岐阜県可児郡中村に4個の小作同盟会が設立される
     小作料の引き上げ防止、小作地の争奪防止が目的

  根津より洲崎への遊廓移転工事がはじまる
     【本年表1887(明治20)2月24日に「洲崎遊廓」の記述あり】
     1888(明治21)06/30夜、12時を合図に根津遊廓が一斉に廃業とする
     07/01洲崎遊廓が仮営業を開始。仮営業に間に合ったのはわずか20余軒だけ
     昼夜の突貫工事でも予定された妓楼の7割はまだ普請の途中
     2割は「地形、木拵へさへ出来ず、中には金策に奔走する者もありとか」
     09/15洲崎遊廓の開業式典が催される


1888(明治21)

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(→04/30)、[第2代]黒田清隆(04/30月→)
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋、[第2代]山縣有朋(04/30月→)
  《警視総監》[第5代]三島通庸(→10/23・在任中に死去)、[第6代]折田平内(10/24→)
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  01/保安条例により東京から退去を命じられた幸徳秋水が、正月を三州の豊橋で迎える
     01/15郷里の高知中村に帰る
  01/15自由民権派の日刊紙『東雲新聞』が創刊される
     発行所は、大阪市北区堂島仲2丁目47番地の東雲新聞社。定価は1銭5厘。主筆は中江兆民
     1890(明治23)10/08廃刊となる
  01/27長崎で煙草の職工がストライキを起こす
  01/東京の芝区三田四国町にある三田農具製作所が子安峻らに3万3795円で払い下げられる
  02/10三浦安太郎が兵庫県武庫郡鳴尾村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1916(大正05)05/1829才のとき諫早監獄で服役中に自殺
  02/25四日市で煉瓦工がストライキを起こす
  島田三郎が毎日新聞社を退社する
     東京毎日新聞社への入社は1881(明治14)
  03/14島田三郎がシチー・オフ・リオデジャネロ号で横浜を出帆、外遊の途へ
     03/31サンフランシスコに到着する
     04/26ニューヨークへむけ出発する
     05/07ニューヨークに到着
     07/26ニューヨークを出帆する
     08/07ロンドンに到着
     のち帰国までほとんどロンドンに滞在する
     英国には末広重恭、藤田茂吉、荘田平五郎、星亨、尾崎行雄らが滞留するも
     島田は交際せず、観察修学に専念する
     1889(明治22)01/ケンブリッジに滞在
     03/19〜05/092か月を費やし独仏を旅行する
     06/スコットランドを歴遊する
     07/初旬英国を出発しフランスへ
     パリで開催中の万国平和博覧会を見物する
     07/14仏国船イロワヂ号で日本へむけてマルセイユを出帆
     08/22神戸に到着
     08/24日本郵船の薩摩丸に乗り換え横浜に到着する
  03/兵庫県の加古郡印南新村にある播州葡萄園が前田正名に5377円で払い下げられる
  04/国粋主義系の政治評論団体、「政教社」が結成
     発足時の同人は哲学館系の井上円了、加賀秀一、島地黙雷、辰巳小次郎、棚橋一郎、三宅雪嶺と、
     東京英語学校系の志賀重昂、松下丈吉、菊池熊太郎、今外三郎、杉江輔人の11人
  04/03「政教社」が結成。結成と同時に雑誌『日本人』を創刊する
     創刊時の発行所は東京府下、神田区小川町25番地の政教社。発行名儀人は編輯人が愛知県士族の志賀重昂
     はじめは月2回、3日と18日発行で、政教社同人11人の非営利的同人雑誌
     1891(明治24)06/29『亜細亜』
     1893(明治26)10/10『日本人(第2次)』
     1893(明治26)12/01『亜細亜』
     1895(明治28)07/05『日本人(第3次)』
     1907(明治40)01/01『日本及日本人』にそれぞれ改題
     1945(昭和20)02/廃刊となる
  04/「東京婦人矯風会」『東京婦人矯風雑誌』を創刊
     娼婦や売春に対する差別や抑圧が強くなるなか、編集委員の浅井柞が巻頭言「矯風会の目的」で述べる
     「娼婦も等しく之れ人なり、我等が姉妹同胞にあらずや」
     1893(明治26)02/57号まで発行される
     11/『婦人矯風雜誌』に改題、第1号が発行される
     1895(明治28)01/15号まで発行される
     02/28『婦人新報』に改題される

  04/市町村制が公布され東京15区を併せて東京市が発足する

  06/06神近市子が長崎県北松浦郡佐々村字小浦の漢方医神近養斎と同郷の漢方医田中養朴の妹ハナの三女として誕生
     長男、長女、次女、次男の次の末子
     1981(昭和56)08/01午後5時、93才で没する。遺児らにより告別式が営まれる
  06/18雑誌『日本人』第6号に松岡好一の潜入体験手記「高島炭鉱の惨状」が掲載される
     07/14雑誌『日本人』第7号の特集には、元高島炭礦社員の吉本襄が「高島問題で天下の人に訴う」を寄稿する

  06/30夜、12時を合図に根津遊廓が一斉に廃業とする
     07/01洲崎遊廓が仮営業を開始。仮営業に間に合ったのはわずか20余軒だけ
     昼夜の突貫工事でも予定された妓楼の7割はまだ普請の途中
     2割は「地形、木拵へさへ出来ず、中には金策に奔走する者もありとか」
     09/15洲崎遊廓の開業式典が催される
     16日までの3日間にわたり朝野の貴顕、紳士を招待する
     16日、南岸の海上では300発の花火を打ち上げ披露の宴を催す予定
     雨のため翌17日の午後5時より挙行
     当初の招待者名簿には総理大臣黒田清隆や東京府知事の高崎五六、警視総監の三島通庸の名前も
     これを知った廃娼運動闘士の巌本善治は抗議
     世論を考えたお歴々は断念せざるを得ず
     根津より移転した当座の妓楼は83軒【103軒?】、引手茶屋45軒、盛装した総計974人の娼妓が艶やかに見世をはる
     また29戸の飲食店が進出し雑業23戸、【合計203戸に?】
     大正末期300軒もの妓楼がひしめき賑わう。吉原と双璧をなすまでに
     1943(昭和18)洲崎遊廓に閉鎖令がくだされる
     跡地は軍需工場となる
     【戦争で深川地区が激しい空襲にあい、昭和18年に洲崎遊廓の閉鎖令が下される】
     【昭和18年以前には深川に空襲はない? 空襲が理由で閉鎖されたのではない?】
     【1945(昭和20)03/10の東京大空襲で洲崎遊廓が全滅する?】

  06/政論社から『政論』が創刊する
     1889(明治22)04/廃刊となる
  07/10兵庫県神戸市の回漕業者賀川純一と徳島の芸妓菅生かめの子として賀川豊彦が生まれる
     1960(昭和35)04/23午後9時13分、東京、上北沢3丁目の自宅にて死去
  08/末『朝野新聞』で記者をしていた犬養毅が高島へ渡り、取材記事「高島炭鉱の実況」が連載
     8月29日の第4459号から9月13日の第4472号まで連載
     犬養の報告記は、これまでの松岡好一や吉本襄の体験と正反対、まっこうから否定する内容
     のち松岡は犬養の記事を三菱の代弁ではないかと憤り、犬養に対し介添人をたて決闘状を突きつける
     犬養は拒絶するという事件が起きる
  08/福岡県の大牟田にある財産評価額44万8549円の三池炭鉱が佐々木八郎に459万0439円で払い下げられる
  09/幸徳伝次郎の保安条例による退去令が解除される
     11/郷里の高知から東上
  11/02幸徳伝次郎が上京の途次、大阪の壮士芝居角藤定憲の一座にいる幸徳の友人横田金馬に会う
     幸徳は横田の紹介で、保安条例の施行で東京を追放され大阪へ移った中江兆民と出会う
     幸徳は大阪に留まり中江の学僕として住み込み寝食苦楽をともにすることに。幸徳が中江家に1回目の学僕(1/3)
     1889(明治22)10/05幸徳が中江夫人、令嬢、令息とともに海路東京へ
     10/06東京に着
     のち幸徳は麹町区隼町、さらに神田区表神保町に移る
     1890(明治23)06/幸徳が病む。千葉に転居
  11/10中江兆民が盛業館から『国会論』を刊行。定価15銭
  12/31江戸時代からの旧貨幣と1871(明治04)に発せられた新貨幣との交換が廃止となる
  『毎日新聞』の社長が沼間守一から島田三郎へ受け継がれる
     日露戦争に対しては徹底的な反戦姿勢を貫く
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     1906(明治39)07/01『東京毎日新聞』と改題
  京都府紀井郡広大路村で小作地の争奪防止、農業の改良を目的とする小作組合の共愛会が設立
  中江兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に、中江は芝居公演の企画を提唱する
     角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げ。壮士芝居の先駆となる


1889(明治22)

  《総理大臣》[第2代]黒田清隆(→10/25・単独辞任)
  《総理大臣》[黒田内閣]三條実美内大臣が兼任(10/25→12/24)、[第3代]山縣有朋(12/24→)
  《内務大臣》[第2代]山縣有朋、[第3代]山縣有朋内閣総理大臣が兼任(12/24→)
  《警視総監》[第6代]折田平内、[第7代]田中光顯(12/24→)
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  01/外遊をしていた島田三郎がケンブリッジに滞在
     日本を発ったのは1888(明治21)3月14日
     1889(明治22)01/ケンブリッジに滞在
     03/19〜05/092か月を費やし独仏を旅行する
     06/スコットランドを歴遊する
     07/初旬英国を出発しフランスへ
  02/10佐々木道元が熊本県西坪井町真宗寺院即生寺で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1916(大正05)07/1528才のとき千葉監獄で服役中に病死
  02/11大日本帝国憲法が公布される
     1890(明治23)11/29施行となる
  02/11が津大日本帝国憲法とともに衆議院議員選挙法が公布
     直接国税15円以上を納付する満25才以上の男子に選挙権付与(制限選挙)。記名投票と規定
     1900(明治33)03/29衆議院議員選挙法が改正。直接国税10円以上満25才以上の男子による無記名投票に(秘密選挙の確立)
     1919(大正08)05/23衆議院議員選挙法が改正。直接国税3円以上の満25才以上の男子による無記名投票に改める
     1925(大正14)05/05衆議院議員選挙法(普通選挙法)が改正。制限選挙から納税条件を撤廃
     満25才以上のすべての成年男子に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)
     1945(昭和20)12/27衆議院議員選挙法が改正。GHQによる民主化により改正衆議院議員選挙法が公布
     婦人参政権と選挙権年令引き下げにより、満20才以上のすべての成人男女による完全普通選挙を確立
     (広義の普通選挙・完全普通選挙)
  02/11華族令が勅令第11号貴族院令により30歳以上の5爵が貴族院議員となる特権を得られることに
     公爵と侯爵は全員、伯爵・子爵・男爵はそれぞれ同爵の互選による
     華族とその子弟の婚姻に際しては宮内大臣の許可を必要となる
     1947(昭和22)05/廃止となる
     華族その他の貴族制度を禁止した日本国憲法(14条2項)の施行
     皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年皇室令第12号)の発令による
  憲法発布後自由党の一部の党員らにより普通選挙論が唱えられる。実際運動にはつながらず
  02/14大井憲太郎らとともに朝鮮改革運動に加わった景山(福田)英子が大赦令により出獄。大阪事件
     景山は爆発物運搬などに協力し1885(明治18)11月23日長崎で拘引【11/13?】
     判決は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月
  02/26飛松与次郎が熊本県鹿本郡広見村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)05/10秋田刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)06/26崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  02/保安条例による東京からの退去命令を拒否し投獄された片岡健吉、坂本直寛ら10数人が大赦令により出獄する
  02/中江兆民が大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除される
     1887(明治20)年末の保安条例施行で東京退去を命じられる
  04/24国家学会が『帝国憲法・皇室典範義解』を刊行。発行者は渡邊洪基
  04/政論社発行の『政論』が廃刊となる。創刊は1888(明治21)6月
  06/08〜1619才の堺利彦が初めて書いた小説「悪魔」を『福岡日日新聞』に投稿。連載される
  06/東京石川島造船所の鉄工小澤弁蔵や相田吉五郎ら西洋鍛冶の親方職人を中心に運動をおこす
     順調にすすみ同盟進工組の組織作りに成功する
     発起人は石川島造船所の小澤ほか5人、陸軍造兵廠の柳澤清次郎ほか4人、海軍造兵廠の千代松只蔵ほか12人、
     田中機械製造所の天野友一ほか25人、鉄道局の本多庫源太ほか3人、職工学校の大久保忠正、山岡定吉ら
     職業紹介や相互扶助、自立工場の建設を目的に掲げる
     自立工場は職工志願者の技術訓練や失業中の会員に職場を与えることを意図。これは後の工業団体同盟会と共通
      小澤弁蔵は1887(明治20)2月24日に鉄工の懇親会を開くも不成功に終わる
     まもなくある工場にて委員らが積立金の一部を費消したとの風説がたつ
     噂は次第に拡大し組合は甚だしく動揺。やむを得ず幹部は積立金を分配し組合は解散することに
     規約の第24条には積立金を蓄積し将来工場を設立させる計画をもち、協同生産組合を作る意図などが組まれる
     組合創設者は抱負を抱き熱心に運動を進めも、労働大衆の自覚の程度が伴わず
     のち同盟進工組の活動経験は鉄工組合の成立[1897(明治30)12月1日]と発展に役だつことに
  07/初旬外遊をしていた島田三郎が英国を出発しフランスへ
     パリで開催中の万国平和博覧会を見物する
     日本を発ったのは1888(明治21)3月14日
     07/14仏国船イロワヂ号で日本へむけてマルセイユを出帆
     08/22神戸に到着
     08/24日本郵船の薩摩丸に乗り換え横浜に到着する
  07/27宮内庁がスタインの『須多因氏講義』を刊行する
  08/クエーカー教徒で平和協会のウィリアム・ジョーンズが来日
     日本で最初の「平和と仲裁」の講演会が催され約80人が参加する
     11/平和協会の支部として日本平和協会が発足
     1890(明治23)03/機関誌『平和』第1号が発行される。発行人は加藤万治、主筆は北村門太郎(透谷)
     1892(明治25)07/在京会員30人が集まり平和について語る
     のち日本平和大会の開催を計画するも実現はならず
     のち日本平和協会は日清戦争のはじまりとともに消滅
     義戦として支持する会員があらわれ活動が滞ることに
  09/06芝公園内の三縁亭で島田三郎帰国の祝宴が開かれる
     島田は一場の演説を行なう
  09/28東京の佐々城豊寿が植木枝盛の『東洋之婦女』を刊行する
  09/30〜10/06大阪天満紡績の女工が賃上げのストライキを起こす【〜10/05?】
     300人の女工による同盟休業に男工も同調し労働者側が勝利すること
  09/秋田の太郎鉱山で坑夫がストライキを起こす
  10/04藤沢にて奥村市太郎の長男として奥村博が生まれる
     1916(大正05)奥村博が姓名学により博史と改名する
     1964(昭和39)02/18東京都世田谷区関東中央病院にて74才で急性骨髄白血病のため死去
  10/05幸徳伝次郎が大阪から中江夫人、令嬢、令息とともに海路東京へ
     10/06東京に着
     のち幸徳は麹町区隼町、さらに神田区表神保町に移る
     1890(明治23)06/幸徳が病む。千葉に転居
     09/幸徳は病気療養のため帰郷

  11/26島田三郎が前橋市で廃娼演説「公娼の害を論ず」を行なう

  11/北海道の幌内炭鉱、幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に35万2318円で払い下げられる
  11/品川乗合馬車鉄道が新橋〜品川間に無軌道式の乗合馬車を開業する
     1897(明治30)12/鉄道軌道式となり品川馬車鉄道会社に改称する
     1899(明治32)06/19東京馬車鉄道会社に合併

  12/09女学雑誌社の巌本善治が『妓楼全廃』を発行。定価5銭
     1873(明治06)の「貸座敷規則」により「解放令」が空文化し、多くの賛否論が登場する
     巌本は存娼を国辱で国家の健全を損なうものと国家、社会、男、女に反省を求める

  12/21東京市京橋区の厚生館にて大日本私立衛生会の第72常会が開かれる
     講演者のひとり森林太郎は「公娼廃後の策奈何」と題して演説する

  12/24岡田常三郎(愛国余史)が書籍行商社から『廃娼存娼大議論之結局』を発行する。定価3銭
     性病が公娼管理で減少するか、私生児・密通が公娼で減少するか、娼妓の生活難を救済できるか、などを論争

  12/29島田三郎が厚生館で「公娼の害」をテーマに演説する。弁士はほかに植木枝盛

  内務大臣が訓令で娼妓渡世は16歳未満の者には許可しないと布告する。各府県の基準は統一されることに
     1900(明治33)05/24内務省訓令第17号を以て娼妓の年令16才以上を18才以上に繰り下げる
  洲崎遊廓の大八幡楼の高尾が5千円で常盤楼を買収する

  秀英舎の跡部某が労働運動を志す
     社長の佐久間を説き賛成を得て、社内の職工を説いて納得させる
     のち秀英舎以外の印刷工から反対をうける。党を組んで秀英舎の印刷工と対立
     暴力沙汰に発展し運動は挫折
  横浜在留の西洋人が経営する製茶工場で職工の締め出し事件が起こる
  民友社発行の総合雑誌『国民之友』が月刊から月3回になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1896(明治29)週刊となる
  大阪電灯会社が開業し、それまでの大阪紡績会社のばい煙とあわせ激化する


1890(明治23)

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋
  《内務大臣》[第3代]山縣有朋内閣総理大臣が兼任、[第4代]西郷従道(05/17→)
  《警視総監》[第7代]田中光顯
  《内務省警保局局長》清浦奎吾


  01/『国民の友』に評論「平民的運動の新現象」が掲載される
     09/『国民の友』に評論「労働者の声」が掲載される
     2つの評論ともに労働者の団結権と同盟罷工権を主張する
  02/01『横浜貿易新聞』が創刊され横浜貿易商組合の機関紙となる
     宇川盛三郎が相談役に組合事務員の伊藤鉄次郎が主筆を務める
  02/11紀元節のこの日、「金鵄勲ノ等級製式佩用式」の勅令11号をもって金鵄勲章が制定される
     金鵄勲章は武功抜群な陸海軍人に与えられる勲章。功1級から功7級まで
     1947(昭和22)05/03GHQの指示で公示により廃止となる
  島田三郎が再び毎日新聞社に入社。助筆となる
     1908(明治41)12/31島田三郎が『東京毎日新聞』紙上に「愛読者諸君に告ぐ」を掲げる
     社より一切手をひくことを言明する
     あとのことは報知新聞社社主の三木善八が継承する

  03/08矯風会演説会発起の廃娼演説会が木挽町の厚生館で開かれる
     島田三郎と巌本善治が演説

  03/日本平和協会の機関誌『平和』第1号が発行される
     発行人は加藤万治、主筆は北村門太郎(透谷)
     会の発足は1889(明治22)11月
     1892(明治25)07/在京会員30人が集まり平和について語る
  03/北海道の伊達紋別にある紋鼈製糖所が伊達邦成に994円で払い下げられる
  04/01第3回内国勧業博覧会が東京市上野公園にて開かれる。7月31日まで。入場者数は102万3693人
     7月1日の帝国議会衆議院選挙の影響で全体の入場者数は伸び悩み
     会場は約3万2千平方メートル。本館のほか美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、外国製品を並べる参考館からなる
     東京電灯会社が会場内で日本初の路面電車を走らせる
     1895(明治28)04/01第4回内国勧業博覧会が京都市岡崎公園にて開かれる。7月31日まで。入場者数は113万6695人

  04/01婦人矯風会風俗部仮事務所『公娼可滅』を発行する。定価4銭
     3月5日【03/08?】に木挽町厚生館で催された島田三郎と巌本善治の演説を筆記、印刷公布する
     巌本善治は家庭こそ義人養成の場で国家盛隆の基本となると論旨
     長谷川泰の存娼論に対して性病の減少は医学と人間の理解によると反論する
     島田三郎らは森林太郎の区域限定、衛生重視に対して年々増加する娼妓の数をあげ反論する

  04/三重県一志郡川口村の村民百数十人が小作同盟の徹交社を組織
     同盟以外の地所は勝手に小作しないと定め、また小作料を軽減すると図る
     のち政府は地主保護の立場から小作人の組合運動を圧迫する態度にでる。内務大臣は解散を命じる

  04/島田三郎が『女学雑誌』に「廃娼の精神及順序」を掲載する
  05/03鳥取の林再蔵(思望居士)が『廃娼論 教育と廃娼との関係』を発行する
     あとがきは内田正
  05/10『東京日日新聞』が「その筋の調査」を報じる
     (貸座敷)吉原=124軒、洲崎=93軒、品川=61軒、千住=35軒、新宿=59軒、板橋=14軒
     (娼妓)吉原=2442人、洲崎=1189人、品川=665人、千住=498人、新宿=512人、板橋=174人
  05/24廃娼をめざす全国の諸団体に大同団結が生まれ、東京で「全国廃娼同盟会」が開かれる
     各府県から多数の代表者が来会し、それぞれに廃娼主義を主張する
     参加した団体は…上毛青年連合会、横浜青年会、鎮西廃娼会、兵庫県廃娼同盟、山梨廃娼会、
      大和廃娼会、神奈川西多摩郡青年会、岐阜原田村攻学会、伊予松山青年会、鶴岡廃娼同盟会、
      東京廃娼会、廃娼壮年議会、婦人矯風会、婦人白標倶楽部、不邪淫会
     未組織の有志代人として…武州南埼玉郡地方、仙台地方、西京地方、大阪地方の代表
     書状、電報を寄せたのは…大分県東国東部青年会、磐城平日本福斉磐城青年会、
      名古屋廃娼会、福井日本娼妓全廃会、山形県鶴岡荘内学事会、栃木県富山攻学会、
       新潟廃娼会、北越廃娼同盟議会、久留米青年従横会、岩国木町廃娼同盟会など
     さらに個人で来会する者約115人に

  05/酒井雄三郎が『国民之友』にメーデーを紹介する
  06/06「大日本労働者同盟会」が結成される
  06/14島田三郎が一番町基督青年の発起による貧民救助青年慈善会で、慈善事業の必要を説く

  06/29大阪の大日本護法協会本部が牧野善七の『公道余論』を発行する
     【表紙には7月10日発行?】
     芸妓と娼妓の差は質的な差でなく量的(美醜)差違である
     貸座敷の営業禁止で密売淫となるも警察取り締まりで減少する
     検黴は信用できず、などと主張する

  06/幸徳伝次郎が病む。千葉に転居
     09/病気療養のため帰郷
  07/01初の衆議院議員総選挙が行なわれる
  07/01第1回衆議院議員総選挙に立憲自由党の中江篤介が大阪4区から出馬
     1352票を獲得しトップで当選する
     1891(明治24)02/21中江は自由党土佐派の裏切りで政府予算が成立したことに憤慨し辞職届を提出
     辞職理由は「亜爾挌児(アルコール)中毒」で「行歩艱難(こうほかんなん)」なため
     02/27衆議院は1票差で中江の辞職が認められる
  07/25集会、結社規制法規の集会及び政社法が公布される
     1880(明治13)4月5日にできた集会条例を受け継ぐ条例
     認可制を届出制にかえるなど手続きを簡素化、臨席警察官の集会解散の縮小など規制をゆるめる
     臨監警察官による集会の解散権や内務大臣の結社禁止権などは残される
     政治結社の支社の設置や他の政社との連結通信を禁じ、民党連合の成立を法律上制限する
     2条を新設▽未成年者と女性の政談集会参加と政社への加入の禁止
     ▽帝国議会開会中3里(約9キロ)以内での屋外集会、多衆運動への規制
     1900(明治33)03/10治安警察法が公布され受け継がれる
  07/25集会及政社法が公布される
     第4条、第25条により、女性の政治への一切の関与が禁じられる
     「現役及召集中ニ係ル……官立公立私立学校ノ教員学生生徒未成年者及女子ハ政談集会ニ会同スルコトヲ得ス」(第4条(1))
     「現役及召集中ニ係ル……官立公立私立学校ノ教員学生生徒未成年者女子及公権ヲ有セサル男子ハ政社ニ加入スルコトヲ得ス」(第25条)

  08/21廃娼雑誌社が安枝武雄編集の『廃娼同盟会演説集 正義の反響』を発行。定価15銭
     開会の辞(飯野吉三郎)、快楽の源を潔くすべし(金森通倫)、官印に対する社会の良心(宮川経輝)、
     廃娼論の利害(イビー)、売奴の弊風再燃せんとするを防ぐべし(大江卓)、売淫に対する社会の思想(植木枝盛)、
     一女数男(根本正)、余が所謂廃娼論(三宅雄二郎)、家庭(横井時雄)、所感(ロビンソン口演、小方仙之助通訳)
     大江卓の「売奴の弊風再燃〜」が注目される
     「貸座敷規則」の現実的な例をあげ法的不備な諸点から他論者との異なりをみせる
     植木枝盛をはじめ帝国議会開設の時期と廃娼運動の始動を反映する

  08/〜09/政教社の桜田文吾が新聞『日本』に「貧天地」を連載
     08/29、30、09/01、04、05、08、09、11、12、14、16、17、21、1891(明治24)01/05に連載
     1893(明治26)06/10日本新聞社から『貧天地餓寒窟探検記』を刊行する
  09/29通信省が女子の電話交換手を募集する
  10/02東京婦人矯風会の矢島楫子ら有志が衆議院女子傍聴禁止に反対する
     10/20婦人矯風会が陳情書を提出する。内容は衆議院傍聴の許可1点にしぼった陳情
     矢島かじ以外21人の有志総代が名を連ねる
     海老名里無(海老名弾正母堂)、徳富ひさ(蘇峯、廬花兄弟の母堂)、島田まつ(島田三郎前夫人)などの名がみえる
     12/03衆議院の女子の傍聴禁止が解かれる
     政府の意図は政治に対して女子にも門戸を開くという考えは毛頭なく
     ただ諸外国なみに、洋風に形式的開化の歩調をあわせただけ
     12/083人の婦人が傍聴席にあらわれる
     のち衆議院の婦人傍聴が増え、夫婦連れの見物女客があとをたたない有り様に
  10/08自由民権派の日刊紙『東雲新聞』が廃刊となる
     『東雲新聞』は1888(明治21)年1月15日に創刊。主筆は中江兆民が務める
  10/30「教育ニ関スル勅語」が発布。いわゆる教育勅語
     宮中にて明治天皇が山縣有朋総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語
     12の徳目(道徳)が明記される
     1、父母ニ孝ニ 2、兄弟ニ友ニ 3、夫婦相和シ 4、朋友相信シ 5、恭儉己レヲ持シ
     6、博愛衆ニ及ホシ 7、學ヲ修メ業ヲ習ヒ 8、以テ智能ヲ啓發シ 9、徳器ヲ成就シ
     10、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ11、常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ 12、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
     1948(昭和23)06/19国会の衆参両議院の決議により軍人勅諭などとともに廃止に
  11/03青山菊枝が東京神田で父、森田龍之助、母(青山)千世のあいだに生まれる。兄弟は10人
     父は熊本県玉名郡出身の士族で、神田区三崎町に旅館玉名館を営む
     母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理、彰考館権総裁を務めた儒学者、史学者の青山延寿の娘
     菊枝は青山姓を名のる
     1916(大正05)11/03山川均と結婚
     1980(昭和55)11/02死去
  11/11東京浅草に12階建ての凌雲閣が開業する
     高さは173尺(約52米)、建坪は37坪(122.31平方米)
     設計はウィリアム・K・バルトン(イギリス人)
     構造は10階まで煉瓦造り、11と12階は木造
     1階は入口階、2〜7階は諸外国の物品販売店(計46店舗)、8階は休憩室、10〜12階は展望室
     1〜8階にかけて日本初のエレベーターが設置される
     入場料は大人8銭、子供4銭
     12階の展望室には望遠鏡が設置、見料は1銭
     1923(大正12)09/01関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊
     09/23経営難から復旧が困難となり陸軍工兵隊が爆破解体
  11/291889(明治22)2月11日に公布された大日本帝国憲法が施行となる

  12/08京都の人見鹿太郎が『公娼廃止請願書写』を発行。非売品
     公娼は国民の道徳、社会、国家の低下を招くこと、密淫は防げず、検黴は効かず女性のみに課するは不当とする
     公娼県の方が犯罪件数が少なく国、社会、同胞愛にもつながるとして請願をすすめる

  12/23大井憲太郎が『あずま新聞』を創刊する
  本多信興、深津雅直、直田鎌三らが自由党の中島又五郎を顧問として活版印刷工同志会を作る
     のち東京市京橋区木挽町の厚生館で第1回総会を開催
     会衆は1500人に及び盛会を極める
     のち委員が徴集した会費の使途について不明点があると内紛が生じ解散となる
  加藤時次郎が東京市京橋区水谷町に加藤病院を設立する
     1894(明治27)06/09懇意の者100人を帝国ホテルに招き加藤病院の木挽町移転工事落成を祝す
     長与専斎、佐々木東洋、田代基徳、松山棟庵ら
     06/加藤病院が東京市京橋区木挽町6丁目10番地に移転
     外科、皮膚病科のほかドイツドクトルの平野光太郎を聘し産科、婦人科を新設
     1896(明治29)02/10神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く
     のち神奈川県の小田原十字町海岸に別荘をかねた分院を設ける
     1899(明治32)加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
     1915(大正04)11/加藤病院を改組して平民病院を開設する
  東京婦人矯風会が集会及び政社法の改正運動を起こす
  東京市麹区山下町の西洋社交クラブ「鹿鳴館」が宮内省に払い下げられる
     オープンは1883(明治16)11月28日


1891(明治24)

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋(→05/06)、[第4代]松方正義(05/06→)
  《内務大臣》[第4代]西郷従道、[第5代]西郷従道(05/06→)、[第6代]品川弥二郎(06/01月→)
  《警視総監》[第7代]田中光顯、[第8代]園田安賢(04/03→)
  《内務省警保局局長》清浦奎吾(→04/09)、小松原英太郎(04/09→)


  01/01『立憲自由新聞』が創刊する
     05/30廃刊となる
  01/09内村鑑三が第一高等中学校の嘱託教員時代、教育勅語奉読式にて明治天皇の親筆の署名に対して最敬礼を行なわず降壇
     同僚、生徒などの非難から社会問題となり不敬事件に発展。「内村鑑三不敬事件」「第1高等中学校不敬事件」
     01/17新聞「民報」がいちばんに報じる
     01/25「密厳教報」が報じる
     01/27事件元一高の「校友会雑誌」や「読売新聞」「民報」など続報が続く
     のち事件20日目。事態の悪化に木下校長は改めて内村に敬礼を依頼
     内村は同意するが、インフルエンザから肺炎をこじらせ、代わりに木下駿吉が行なう
     のちマスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、キリスト教と国体の問題へ進展
     のち内村は病床にあり意識不明の状態のなか
     1月31日には代筆により本人の名前で辞表がだされ、2月3日付けで依願解嘱される
     2月に本人の知らないうちに内村の名前で弁明書が数紙に掲載される
     のち3月末までに事件を扱った新聞、雑誌は数十種、延べ150回近くに
  01/09内村鑑三の不敬事件をきっかけに各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられる
     のち祝祭日に学校で行なわれる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められる
     1891(明治24)の小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)
     1900(明治33)の小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などによる
     紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)、1月1日(元日、四方節)の四大節
     学校で儀式が行なわれ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げられる
     写しは御真影とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われる
     以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになる
  01/23東京府下の石工1300余人が親方への不満から仕事を中止
     我が国最初の同盟罷工といわれる石工のストライキ
     親方は約束の賃銀を支払わず、安い賃銀で働かされ不平が生じ罷工に
     01/28300人の親方は屈服し罷業者の勝利となる
  01/26宮城県仙台市北三番丁に旧米沢藩士で宮城県警部の父甘粕春吉と母内藤志けの長男として甘粕正彦が生まれる
     1945(昭和20)08/20甘粕は青酸カリを飲んで自殺する
     黒板にチョークで書かれた遺句が残る
       大ばくち打ちそこね 身ぐるみ脱いで すってんてん
     甘粕は1923(大正12)9月16日に関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
  01/岡山の鉄道工夫がストライキを行なう
  02/14近江の麻紡績職工が暴動を起こす
  02/21中江篤介が自由党土佐派の裏切りで政府予算が成立したことに憤慨し辞職届を提出
     中江は1890(明治23)7月1日に行なわれた第1回衆議院議員総選挙でトップ当選
     辞職理由は「亜爾挌児(アルコール)中毒」で「行歩艱難(こうほかんなん)」なため
     02/27衆議院は1票差で中江の辞職が認められる
  03/09城泉太郎が知新館から『済世危言』を刊行する。定価25銭
  03/10石谷斎蔵が『社会党瑣聞』を刊行する。出版者は著者。定価30銭
  03/三宅雪嶺が政教社から『真善美日本人』を刊行する
  04/27ロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世が軍艦で東方諸国旅行の最終訪問地として来日
     ニコラス2世の甥ギリシャのジョージ親王とともに長崎へ
     05/05長崎を出港。のち、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ
     05/11琵琶湖見物を終え京都の宿舎に帰る途中
     滋賀県の大津で警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ負傷。大津事件
     05/11夜、知事あてに政府電報が届く
     「国家のため慨嘆に耐えず、朝野とも痛心す、ついては貴地各新聞発行人を呼出し、この電報を示し、
     本件は実に驚惨の所為なるむねを記載、深く慨嘆の意を表すようご注意ありたし」
     05/13ロシアの報復をおそれた日本は明治天皇自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむく
     のち首相の松方正義は司法部に極刑を申し入れる
     外相の青木周蔵は駐日ロシア当局に死刑にすることを明言
     大審院長の児島惟謙は刑法では謀殺未遂罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣告
     児島惟謙は政府の干渉を排除し、法規に従い司法権の独立を守る
  04/病気療養のため帰郷したいた幸徳秋水が上京。中江家に寄寓し寝食苦楽をともにする
     幸徳が中江家に2回目の学僕(2/3)
     06/白山心光寺に転居、さらに神楽坂に移転、のち森川町に下宿
     07/中江が実業家として北海道小樽へ移り活動
  04/上州高崎で火夫の相木鶴吉、矢野鉉吉が自由党員の長坂某と新聞『上毛自由』を発刊。労働問題を論じる
     のち125号まで続く
  04/石川三四郎が身を寄せていた『自由新聞』が解体
     自由党員の福田友作に預けられる
  05/30三宅雪嶺が政教社から『偽悪醜日本人』を刊行する
  05/自由党大会で社会主義の排斥が宣言される
  06/06陸羯南が日本新聞社から『近時政論考』を刊行。定価30銭
  06/29国粋主義系の政治評論団体「政教社」発行の雑誌『日本人』『亜細亜』に改題
     1893(明治26)10/10『日本人(第2次)』に改題
     創刊は1888(明治21)4月3日発行の『日本人』
  06/高崎で奉職する火夫の川島某と自由党の壮士小島某が上州前橋の敷島座にて政談演説会を開く
     ときの県会を罵り川島は官吏侮辱罪に問われ会社を解雇となる
  06/『民権新聞』が創刊する
  07/03竹越与三郎が民友社から『新日本史』の上巻を刊行。定価40銭
     1892(明治25)08/04中巻が刊行。定価30銭
     のち下巻が刊行【1892(明治25)?】
  夏/高野房太郎が桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
     同じ桑港で働いていた友人の靴工・城常太郎、洋服職人・沢田半之助らとともに
     職工義友会は労働組合運動についての研究会
     また白人の靴工に迫害されていた日本人靴工による「加州日本人靴工同盟会」の母体に
     1896(明治29)06/桑港から帰国
  08/16ベルギーのブリュッセルで第二インターナショナル第2回大会が開かれる。16か国337人が参加
     1889年には〈マルクス主義者〉と〈ポッシビリスト〉に分かれていた国際労働者大会がここに一本化
     「戦争に対する戦争を」という標語が生まれる
     日本代表として中江兆民門下の酒井雄三郎が出席
     酒井は明治22(1889)に農商務省の嘱託としてフランスへ。欧州諸国の政治運動や社会運動の研究に没頭
     日本に社会主義の政党はなく日本代表にはあたらずも、酒井は帰国前に日本人として国際的大会に初めて出席
  08/21安部磯雄が米国留学のため横浜港を出帆
     09/コネチカット州にある全寮制のハートフォード神学校に入学
     1893(明治26)06/ニューヨークで市の社会事業を視察する
     1894(明治27)06/ハートフォード神学校を卒業。卒業演説は「基督教徒の経済観」
     07/英国へ遊学
     09/ドイツにむかう途中、日清戦争勃発を知る
     10/ベルリン大学に入学
     1895(明治28)01/帰国の途につく
  10/09東京市神田区錦町3丁目に錦輝館が集会のための貸しホールとして開業する
     1897(明治30)03/06「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる映画の上映会を行なう
     東京における最初の映画興行となる
     1899(明治32)06/01前年の米西戦争についてのアメリカのニュース映画「米西戦争活動大写真」が上映
     日本初のニュース映画上映とされる
     1908(明治41)06/22赤旗事件が起きる
     1908(明治41)08/01イタリアの映画会社と契約を結び活動写真会を開く
     のち洋画の専門館となる
     1918(大正07)08/19火災により焼失する
  10/28濃尾地震が起こる
  10/京都で活版職工同盟会が結成される
  12/内務大臣の訓令により士族女子の娼妓稼業が許可されることに
  12/東京の花崗石工がストライキを行なう
  12/国府義胤が『本邦地租論』を発行する
     跋文を田中正造が寄稿する
  木下尚江が長野県の松本町、長野町、新潟県高田町で禁酒運動、廃娼運動に取り組む

  濃尾地震後、人非人の人買いが愛知県、岐阜県へ流れ込む
     罹災者の弱味につけ込み極めて僅少な金銭で人の娘を買いあさる
     のちモルフィが自廃運動を起こしたころ、東京市内の遊廓にいた6750人の公娼中、2700人が両県の出身に
     罹災者のなかから全国でも最も多い娼妓の産出地となる
     のち欧米にも報じられる
  兵士による洲崎遊廓の女郎買いが1247人となる

  兵庫県高砂の三菱製紙所からの汚水排出が問題となる


1892(明治25)

  《総理大臣》[第4代]松方正義(→08/08)、[第5代](第2次)伊藤博文(08/08→)
  《内務大臣》[第6代]品川弥二郎、[第7代]副島種臣(03/11→)、[第8代]松方正義内閣総理大臣・大蔵大臣が兼任(06/08→)
  《内務大臣》[第9代]河野敏鎌(07/14→)、[第10代]井上馨(08/08→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《内務省警保局局長》小松原英太郎(→08/20)、大森鍾一(兼)(08/27→11/01)、高崎親章(11/01→)


  ドイツのベルリン公使館に駐在していた福島安正が任期を満了
     帰朝時、冒険旅行という口実でシベリア単騎横断行を行なう
     02/11ベルリンを出発
     途中モスクワの西部にあるボルジノ村では愛馬のガイセンがたおれる
     新たに求めた馬にウラルと名づけ旅を続ける
     1893(明治26)02/陸軍中佐に進級
     06/12ウラジオストックに到着。釜山を経て日本へ
     06/21長崎に上陸
     06/29新橋駅に降り立つ。繰りだしていたたくさんの民衆から熱烈の歓迎を受ける
     約1万8千キロを、1年4ケ月をかけて馬にのり横断
  01/20熊谷停車場で埼玉県内初のストライキが行なわれる
  01/28勅令第11号の緊急勅令として予戒令が公布される
     松方内閣が2月の総選挙で民党を抑える目的でつくる
     9条の条文からなり行政官の一方的認定により人民の自由を極端に制限するもの
     予戒令は先の保安条例とならぶ明治専制政府の最悪法令
     「社会公共の安寧秩序を紊す行為に出るおそれありと認むるとき、その者の自由を制限し予め謹慎せしむる命令」
     命令権者は警視総監、府県知事とする
     のち予戒令は間断なく適用される
     1914(大正03)01/20「予戒令廃止ノ件」(大正3年1月20日勅令第4号)によって廃止となる
     その間、被適用者は全国で2041人に
  02/15第2回衆議院議員総選挙に樽井藤吉が奈良県から土豪土倉庄三郎の後援を得て立候補。当選する
  02/東京府下で煉瓦職組合が設立される
  04/23ヘンリー・ジョージ著、小松三省訳の『社会問題 前篇』が自由社から刊行する
     定価60銭、郵税4銭
  春/景山英子が自由倶楽部で福田友作と出会う
     1893(明治26)長男鉄郎が生まれる
     1894(明治27)02/二男侠太が生まれる
     1899(明治32)12/20三男千秋が生まれる
  05/05中江兆民が博文堂から『四民の目ざまし』を刊行
  05/21政府が保安条例を施行。民党の壮士150余人を東京市外に追放する処分をくだす【143人?】
     05/26再開後、衆議院が保安条例廃止案を可決する
  06/03ドーワン著、光吉元次郎訳の『国家社会制』が哲学書院から刊行する
  07/日本平和協会の在京会員30人が集まり平和について語る
     会の発足は1889(明治22)11月
     のち日本平和大会の開催を計画するも実現はならず
     のち日本平和協会は日清戦争のはじまりとともに消滅
     義戦として支持する会員があらわれ活動が滞ることに
  08/04竹越与三郎が民友社から『新日本史』の中巻を刊行。定価30銭
     のち下巻が刊行【1892(明治25)?】
     上巻は1891(明治24)7月3日に刊行
  08/東京深川で左官がストライキを行なう
  09/29〜10/02甲府の製糸工場矢島組で女工がストライキ賃下げ反対のストライキを起こす
  09/アメリカの万国婦人矯風会本部からミス・ウエストが来日
     【世界女性キリスト者禁酒同盟から派遣される】
     全国都市をまわり97回にわたり「貞潔思想と人身売買の人間冒涜」を講演、4万人の聴衆を集める
     のちミス・ウエストが講演旅行中に金沢で病死
     ウエスト葬儀のとき当会初代会頭矢嶋楫子が鐘を打ち鳴らす
     鐘は会員津田仙が各地で喫煙の害を説き、禁煙した人々のキセルを集めて鋳造したもの
     のちウエストの公演中の死が刺激となり東京婦人矯風会が全国組織となるきっかけに
  秋/幸徳秋水が琴平町の根本鉄壁の寓居を訪ねる
     酒間、架上の「淵明集」をとり吟じ論じる
  10/27斯波貞吉が冨山房から『国家的社会論』を刊行する。定価表記なし
  10/3011月3日に発行する吉松茂彦の1枚もの『日本平権党宣言書』が発売頒布禁止の処分を受ける
  10/『国民の友』が評論「社会問題の新潮」を掲載。社会問題研究会を組織する必要性を力説する
  11/01『都新聞』のを辞した黒岩涙香が独立し朝報社を設立。日刊『萬朝報』を創刊する
     淡い赤色の用紙を使い内容はセンセーショナルなもの
     タブロイド版で4ページ、定価1銭、月極20銭
     当時、他紙は1銭5厘から2銭5厘、月極で『時事新報』が50銭、『東京朝日新聞』などが30銭
     のち政論や社会記事を売り物にする諸新聞を向こうに、たちまち帝都ジャーナリズムの一角を占めるまでに
     1940(昭和15)10/01『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる
  11/06大井憲太郎が元東洋社会党の樽井藤吉や小久保喜七、新井章吾らと東洋自由党を組織する
     大井は元自由党左派の幹部。東洋自由党は自由党の別働隊であるとする立場を表明
     各組織を設置する
     柳内義之進が主任の日本労働協会東京靴工協会を入会させ陸軍省内に靴工養成機関を設ける
     鈴木修吾が主任の普通選挙期成同盟会実際の運動として先駆的役割をはたす
     島内寛治が主任の小作条令調査会千葉県小金ケ原村の農民運動に同情し支援
     のち条約改正の本格化で漸進的改正論を唱える自由党との距離を置くことに
     対外硬派の立場から国民協会や新興の大日本協会との関係を強める
     1893(明治26)12/東洋自由党が解党。大日本協会に合流する
  東洋自由党が週刊の機関紙『新東洋』を創刊
     のち貧民労働者の保護政策を論じ、ベラミーの「ルッキング・フォアード」などを訳載する
  11/10ヘンリー・ジョージ著、角田剛一訳の『土地問題』が内田老鶴圃から刊行する。定価20銭
  11/12管野すが12才のとき、母のぶが死去
  11/民友社の松原岩五郎が『国民新聞』で「最暗黒の東京」の連載をはじめる。翌年8月まで
     1893(明治26)11/09民友社から『最暗黒之東京』を刊行。定価13銭
  12/28『平権倶楽部主旨竝規約書』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者は不明
  年末立憲自由党の元記者大道和一らが社会問題研究会をつくる【11/19?】
     ほかに党員の佐藤勇作、上野岩太郎、中江兆民門下の酒井雄三郎、小島龍太郎などが加わる
     のち上野の論説「自由主義の新領地」が社会問題の解決を主張。板垣退助の怒りを買い自然消滅
  長崎県北松浦郡鹿町村で松浦家小作人組合が設立される
     地主が自ら首脳者となり自家の小作人だけで組織
     地主小作人の共同利益を増進することを目的に協調主義組合の最初のものとなる
  クロポトキンの『The conquest of bread』(麺麭の略取)が仏国で出版される


1893(明治26)

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第10代]井上馨
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《内務省警保局局長》高崎親章(→03/10)、小野田元熈【ノ→ン】(03/10→)


  対露北海警備の必要性を感じた郡司成忠大尉が白瀬矗らと開拓団の「報效義会」を組織する
     03/20郡司成忠大尉ら約80人が5隻のボートで千島探検に向けて出港
     隅田川畔で盛大なセレモニーが催される
     政府や海軍の理解が得られず、批判が相次ぐなかでの出港
     途中暴風をうけ遭難。海軍軍艦の手を借りるなど、多数の苦難、援助がある
     08/31千島列島の北東端にある占守(シュムシュ)島に到着
     占守島、捨子古丹島及び幌筵島に隊員を上陸、越冬を試みる。占守島以外は全員病死
     占守島の7人は越冬に成功、開拓をはじめる
     1894(明治27)郡司は日清戦争を目前に海軍従軍のため、白瀬矗ら数人を残し帰還する
     のち白瀬らの1年間の孤島生活は悲惨をきわめる
     1895(明治28)08/最後まで残った白瀬ら3人が、北海道庁長官の命によるラッコ猟漁船に救助され帰還
     のち郡司に確執を持つ白瀬矗が報效義会を脱会
     1896(明治29)夏頃会員数57人の「第2次報效義会」を結成
     参加者には郡司の妻など女性も14人含まれる。探険的要素が強かった前回と違い、今回は拓殖が目的
     09/06郡司成忠らが再び占守島に上陸し農業開拓、漁業開発に成功
     のち成果が上がり定住者が増え、幌延島には分村が作られる
     1903(明治36)占守島の定住者は170人(男100、女70)となる
     のち日露開戦を知った郡司らはカムチャッカへ進撃するもコサック兵に襲われる
     のち報效義会は引き揚げを決定、第2次報效義会は事実上解散する
  01/04前時代的な飯場制度の撤廃を要求する夕張炭鉱の労働者300人が争議を起こす【400人?】
     09/労働者が会社直轄に切り換えられる
     1894(明治27)04/納屋頭から「坑夫世話役」制度に切り替わる
     1900(明治33)08/世話役に代わり巡視長および巡視制度を布く
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる
  01/28木下尚江が長野県の松本で代言人試験に合格
     02/松本の大名町に木下法律事務所を開設する
     05/01弁護士の登録をする
  02/シベリア単騎横断行中の福島安正が陸軍中佐に進級
     ベルリンの出発は1892(明治25)2月11日
     06/12ウラジオストックに到着。釜山を経て日本へ
     06/21長崎に上陸
     06/29新橋駅に降り立つ。繰りだしていたたくさんの民衆から熱烈の歓迎を受ける
     約1万8千キロを、1年4ケ月をかけて馬にのり横断
  02/「東京婦人矯風会」『東京婦人矯風雑誌』が57号まで発行される
     『東京婦人矯風雑誌』は1888(明治21)4月に創刊
     11/『婦人矯風雜誌』に改題、第1号が発行される
     1895(明治28)01/15号まで発行される
  03/04弁護士法公布のため代言人規則が廃止となる
  03/幸徳伝次郎が中江兆民のもとで生活。寝食苦楽をともにする。幸徳が中江家に3回目の学僕(3/3)
     08/幸徳は『自由新聞』の記者になり、9月に中江のもとを離れる
     1回目は1888(明治21)11月2日から1890(明治23)6月まで。幸徳は9月に病気療養のため帰郷
     2回目は1891(明治24)4月から6月まで。7月には中江が実業家として北海道小樽へ移り活動【4月から?】
  03/幸徳秋水が中江家に寄寓する3月から8月までの間に『兆民先生行状記』を書き綴る
     半紙原稿用紙取り混ぜ11枚という細字に記す
     1931(昭和06)民友社発行の徳富蘇峰の古希論文集「知友新稿」に収録
     1935(昭和10)中央公論社発行の小泉三申の随筆集「懐往時談」に再録
  04/03東京市の霊南坂教会で日本基督教婦人矯風会の総会が開かれる
     1886(明治19)12月6日設立の「東京婦人矯風会」が世界の平和、純潔、酒害防止を3大目標に掲げる
     各地の婦人団体や矯風団体を糾合。運動を一丸とする全国組織「日本基督教婦人矯風会」が誕生する
     会頭に矢島楫子が選ばれる
     1923(大正12)財団法人となる
  04/14出版法が制定され出版条例が廃止となる
     出版法の成立は1869(明治02)5月13日
  06/10大我居士(桜田文吾)が日本新聞社から『貧天地餓寒窟探検記』を刊行する
     政教社の新聞『日本』に1890(明治23)8月から9月まで連載
  06/石川三四郎が先輩の弁護士卜部喜太郎の世話になる
     まもなく再び牛込区天神町の福田友作の書生になる
     福田と同棲中の景山英子に会う
     1894(明治27)福田友作、景山英子の家の窮乏甚だしく
     石川三四郎は借金や質屋の使い、福田夫妻の喧嘩仲裁に追われる
     1895(明治28)福田友作、景山英子の家の窮乏がさらに甚だしくなる
     のち福田は実家に帰り一家離散
     12/福田家で書生をしていた石川三四郎は故郷の埼玉県児玉郡山王堂村に引き揚げる
  06/米国留学中の安部磯雄がコネチカット州にある全寮制のハートフォード神学校に在学中
     ニューヨークで市の社会事業を視察する
     横浜出帆は1891(明治24)8月21日
     06/ハートフォード神学校卒業。卒業演説は「基督教徒の経済観」
     07/英国遊学
     09/ドイツに向う途中、日清戦争勃発を知る
     10/ベルリン大学入学
     1895(明治28)01/帰国の途につく
  08/28民友社からウィリアム・グラハムの『新旧社会主義』が森山信規の訳で刊行される
  08/28民友社からジョン・レーの『現時の社会主義』が深井英五の訳で刊行される
  09/11京都の西陣織職工が賃上げ要求のストライキを行なう
  09/15朝報社の『万朝報』が発行停止の処分を受ける。10月6日まで
     以降、この年の『万朝報』の発行停止は4回に
      第2回目の発行停止は10月28日から11月3日
      第3回目の発行停止は11月10日から11月16日
      第4回目の発行停止は11月30日から12月6日
  09/25愛媛県新居浜の農民が別子銅山からの亜硫酸ガスによる煙害に反対運動を起こす
  09/23才の幸徳秋水が中江兆民の門から板垣退助が主宰する銀座南金六町の『自由新聞』の記者になる【08/?】
     同じ中江の従弟安岡秀夫は福澤諭吉の『時事新報』の記者になる
     09/幸徳が中江兆民のもとから離れ南波登発方に移る
     1894(明治27)03/平河町1丁目の下宿に移る
  09/群馬県の富岡製糸所が三井会社に12万1460円で払い下げられる
  10/07黒岩涙香が『万朝報』に「停止および解停」を発表する
  10/10黒岩涙香が『万朝報』に「新聞紙の新聞紙たるゆえん―それいずくにあるや」を発表する
  10/10国粋主義系の政治評論団体「政教社」発行の雑誌『亜細亜』『日本人(第2次)』に改題
     12/01『亜細亜』に改題
     1895(明治28)07/05『日本人(第3次)』に改題
     創刊は1888(明治21)4月3日発行の『日本人』
  10/17黒岩涙香が『万朝報』に「小局の見解をもって全局の方針を誤らしむるなかれ―あえてその筋々の新聞検閲者に告ぐ」を発表
  10/22木下尚江が長野県の松本で洗礼を受ける
  10/26秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で日刊『二六新報』が創刊される
     藩閥政治反対を唱え、朝鮮問題や中国の動向に注目した独立の政論新聞
     1895(明治28)05/資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     1900(明治33)02/同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
     のち三井財閥攻撃、吉原娼妓の自由廃業実践運動、天狗煙草の岩谷松平キャンペーンなどを次々と打ちだす
     1902(明治35)08/10東京5区から無所属で出馬した秋山が第7回衆議院議員総選挙で当選
     代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
     1904(明治37)03/代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
     1904(明治37)04/15『東京二六新聞』と改題
     のち『二六新報』『二六新聞』『世界新聞』『二六新報』と改題をかさねる
     1940(昭和15)09/新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
  11/09松原岩五郎(乾坤一布衣)が民友社から『最暗黒之東京』を刊行。定価13銭
     『国民新聞』に1892(明治25)11月から翌年8月まで連載
  11/15板垣退助、星亨らにより『めさまし新聞』が再刊される
  11/「東京婦人矯風会」『東京婦人矯風雑誌』『婦人矯風雜誌』に改題、第1号が発行される
     『東京婦人矯風雑誌』は2月に終刊となる
     1895(明治28)01/15号まで発行される

  12/31全国に先駆け群馬県の貸座敷が廃業となる
     群馬県が公娼を廃止するまでの経緯(別ページリンク)

  12/東洋自由党が解党。大日本協会に合流する
     東洋自由党は大井憲太郎が樽井藤吉や小久保喜七、新井章吾らと1892(明治25)11月6日に結党

  米人メソジスト宣教師のユリシーズ・グランド・マーフィ、通称モルフィが来日
     【ユー・ジー・モルフイでユー・エス・モルフイではない?】
     のち明治32年ごろから帰国するまでの約10年間を廃娼運動に活躍、廃娼運動の父とよばれる
     1908(明治41)帰国する
  熊本二本木町の遊廓で中島茂七の東雲苑が完成する
     総面積は3300余坪。他に広大な庭園をもつ妓楼はなく、建物も豪壮広大を誇り従業員もおびただしい数に
     1877(明治10)の西南の役で遊廓地が全焼し遊廓全体が本木町に移る
     中島は巨額の資本を投じて二本木町に一大庭園を造る計画をたてる
     旧藩士斯波家ほか30余戸の土地家屋をことごとく買い入れる
     造園の主任に元熊本藩350石取りの細川候御茶道頭で水前寺お花畑掛の萱野蘇堂を口説きおとす
     1883(明治16)に起工


1894(明治27)

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第10代]井上馨、[第11代]野村靖(10/15→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《内務省警保局局長》小野田元熈【ノ→ン】


  01/18高群逸枝が熊本県下益城郡豊川村南豊崎の小学校校長、高群勝太郎の長女として生まれる
     1964(昭和39)06/0777才で没する
  01/26日本初の工場ストライキが大阪の天満紡績会社に起こる
     原因は職工らが監督者に不満を抱き解雇を迫る
     相当の暴力を伴うも労働者は敗北。首謀者数人が工業妨害罪に問われ重禁錮と罰金刑に

  01/日本矯風会が職業婦人の宿舎の確保と転落婦人救済のため東京大久保の百人町に「慈愛館」を設立
     娼妓更生のための授産場でもあり、はじめは数人収容の微々たる施設
     のち12人ほどか収容できるようになる

  03/幸徳秋水が南波登発方から平河町1丁目の下宿に移る
  03/朝鮮で東学信奉の民衆が蜂起する
     06/政府が朝鮮に派兵する
  04/03神戸市活版工組合の結成に着手
  04/北海道の夕張炭鉱がそれまでの納屋頭制度から「坑夫世話役」制度に切り替わる
     1900(明治33)08/世話役に代わり巡視長および巡視制度を布く
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる
  06/05日清戦争における大本営が設置される
     1896(明治29)04/01大本営が詔勅によって解散
  06/07大本営設置の2日後、陸海軍の省令でマスコミに対して軍機軍略の報道が禁止される
     08/02宣戦布告の翌日、内務省による新聞記事の事前検閲令が緊急勅令として公布、施行される【08/01?】
     09/13緊急勅令が廃止
     09/14新聞紙条例第22条に基づく軍関係の新聞雑誌記事掲載禁止が陸海両省の省令に切り替えられる
     のちこの年の新聞雑誌の発行停止が過去最多に
     治安妨害を理由とした発行停止処分は140社を超える
  06/09加藤時次郎が懇意の者100人を帝国ホテルに招き加藤病院の木挽町移転工事落成を祝す
     長与専斎、佐々木東洋、田代基徳、松山棟庵ら
     06/加藤病院が東京市京橋区水谷町(1890(明治23)開院)から京橋区木挽町6丁目10番地に移転
     外科、皮膚病科のほかドイツドクトルの平野光太郎を聘し産科、婦人科を新設
     1896(明治29)02/10神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く
  06/新聞各社が日清戦争の最初の出兵に大きな関心を寄せる
     混成第9旅団の出征部隊に32人の新聞記者、2人の画工がつく
  07/23北海道炭坑鉄道で賃上げストライキが起きる
  07/26別子鉱山の煙害で被害民が製錬所の廃止を要求して住友分店を襲撃、警官と衝突する
     凶徒聚衆事件を起こし20人が検挙
  夏/毎日新聞社の肥塚竜が日清戦争に従軍する。社長の島田三郎が主筆も兼ねることに
  08/01清国に宣戦布告日清戦争が始まる
     1895(明治28)04/17日清講和条約(下関条約)が調印
  08/日清戦争がはじまると新聞記者の従軍要求が増加
     大本営は「新聞記者従軍規則」「従軍心得」を定める
     出願、渡航の手続きや従軍中の取り決めを明らかにする
     のち記者を派遣した新聞社は全国66社
     新聞記者114人、画工11人、写真師4人が従軍する
     画工は「報道画家」と呼ばれ、絵は「事実」を伝えるものとしての重みを維持する
  09/11『萬朝報』が開戦直後の1面に3段組の英文欄が設けられる
     記したのは名古屋英和学校から呼び寄せられた内村鑑三
  09/24才の国木田哲夫が正式に国民新聞社に入社
     直ちに国木田が海軍の従軍記者に志願する
     10/中旬軍の許可を得て軍艦「千代田」に乗り込む
     以後国木田は海上に暮らし艦の内外の実況を子細に観察し本社に通信する
     10/21『国民新聞』で弟収二に宛てた文体のルポルタージュ「愛弟通信」が連載を開始。翌年3月12日まで
     「国民新聞記者・国木田哲夫」が一躍有名となる
     1895(明治28)03/上旬約4か月半の海上生活を終え下船する
     1908(明治41)12/04佐久良書房から『愛弟通信』が発行される。定価95銭、送費10銭
     国木田独歩の処女作。発行は独歩の死の5か月後
  10/27志賀重昂が政教社から『日本風景論』を刊行。定価50銭
  11/18幸徳秋水が『自由新聞』で小説「おこそ頭巾」の連載を開始
     主人公は被差別部落出身。テーマは恋愛や結婚につきまとう「新平民の子」という差別
     被差別部落を扱った最初といわれる島崎藤村の「破戒」より12年前の作品となる
     11月18、20、21、22、23、25、27、28、29、30日、12月1、2、5、6、7日に掲載
     12/0715回の連載で終了
  11/内村鑑三が民友社から英文で『Japan and Japanese(日本及び日本人)』を刊行
     1908(明治41)『Representative Men of Japan(代表的日本人)』と改題。発行は警醒社

  12/17愛知の万峰浪士(岡本美之助)が『廓の嵐』を発行。定価15銭
     序を草野山人が、はしがきを露生が記す
     娼妓の生活の辛苦を記し廃業を勧める客との対話で、その方法や将来の仕事案内を提案する

  12/徳富蘇峰が同年6月以降に発表した時論を集め民友社から『大日本膨張論』を刊行する。定価10銭
     【発行日は12月20何日?】
  日清戦争時民友社の『国民新聞』が多くの従軍記者を派遣する。画工とあわせて30人に
     広島の大本営には主筆の徳富蘇峰自らが赴く
     第1軍に松原岩五郎、第2軍に古谷久綱、阿部充家、国木田哲夫ら
     画家の久保田米僊、米柴親子が第2軍に従軍
     各方面に10人余りの特派員を前線に派遣、報道の充実をはかる
     全紙面のほとんど半分が戦争記事と戦地からの通信文で埋められることに
  福田友作、景山英子の家の窮乏甚だしく石川三四郎は借金や質屋の使い、福田夫妻の喧嘩仲裁に追われる
     1895(明治28)福田友作、景山英子の家の窮乏がさらに甚だしくなる
     のち福田は実家に帰り一家離散
     12/福田家で書生をしていた石川三四郎は故郷の埼玉県児玉郡山王堂村に引き揚げる
  「報效義会」の千島探検で郡司成忠大尉は日清戦争を目前に海軍従軍
     占守島に白瀬矗ら数人を残し帰還する
     出港は1893(明治26)3月20日
     のち白瀬らの1年間の孤島生活は悲惨をきわめる
     1895(明治28)08/最後まで残った白瀬ら3人が、北海道庁長官の命によるラッコ猟漁船に救助され帰還
  30才の川上音二郎が政治家金子堅太郎の媒酌で、葭町の人気芸妓の貞奴(23・本名小山貞)と結婚
     新居は神田区駿河台に部屋数15、庭付きの借家を借りる。音二郎の門弟一同も同居する
  明治27年の内務省調べによる主要新聞の発行部数
     『万朝報』4万8千
     『中央新聞』4万5千
     『中外商業新報』4万2千
     『東京朝日新聞』5万5千
     『都新聞』3万5千
     『やまと新聞』2万7千
     『報知新聞』2万1千
     『時事新報』2万
     『読売新聞』1万8千
  この年、『大阪朝日新聞』が日清戦争の号外を66回にわたり発行する
     1895(明治28)この年は80回にわたり発行する


1895(明治28)

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第11代]野村靖
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《内務省警保局局長》小野田元熈【ノ→ン】


  01/05博文館から雑誌『太陽』が創刊される
     既刊の『日本商業雑誌』『日本大家論集』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』を『太陽』誌に統合
     1928(昭和03)02/全531冊を発行し廃刊となる
  01/21福岡県糸島郡今宿村大字谷1147番地に7人兄妹の3番目の長女として伊藤野枝が生まれる
     1923(大正12)09/16関東大震災の混乱に乗じて、甘粕正彦憲兵大尉により大杉栄、橘宗一とともに虐殺される
     大杉の弟勇家族を鶴見に見舞った帰り。橘宗一は大杉の末妹アヤメの子
  01/28島田三郎が鳥谷部銑太郎との合著『東洋治安策』を出版する。発行は毎日新聞社。定価20銭
  01/米国留学中の安部磯雄が帰国の途につく
     横浜出帆は1891(明治24)8月21日
     1893(明治26)6月、アメリカコネチカット州にある全寮制のハートフォード神学校を卒業後
     英国遊学から10月にはドイツのベルリン大学へ
  01/「東京婦人矯風会」『婦人矯風雜誌』が15号まで発行される
     『婦人矯風雜誌』は1893(明治26)11月に、それまでの『東京婦人矯風雑誌』を改題して創刊
     02/28『婦人新報』に改題される
  02/01日本初の路面電車が京都に誕生
     京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)〜伏見下油掛(京橋)間を開業
     当初は停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行なう
     電力は琵琶湖疎水の水力発電でまかなう。電力時代の幕開けに
     04/01七条から岡崎の内国勧業博覧会会場にいたる路線を開業
  03/布川孫市により社会学会が創立する
     賛成員は田口卯吉、三宅雪嶺、呉文聰、加藤弘之、ガルストなど
     布川はキリスト教徒で社会改良家であり会の立場も社会改良主義に立つ
     社会学の原理、社会主義、社会問題等を研究するを以て目的とする
     1897(明治30)04/社会学会の機関誌『社会雑誌』が創刊される。主筆は布川孫市

  03/岐阜県稲葉郡上加納村で16才の大橋ひさが名古屋市東角町の初夢楼に65円の前借金でつとめる
     1900(明治33)01/5年間稼ぎ通したのに前借金が返済できず。反対に借金が250円にふえたと楼主からいわれる
     楼主は大橋を名古屋市花園町の蓬莱屋に住み替えさせる
     のち大橋はこの先、借金が何倍に増えるか分からず、稼げば稼ぐだけ損になると気づく
     04/大橋はモルフィに相談する

  03/幸徳秋水が師中江兆民の忠告を斥け小田貫一主宰の『広島新聞』におもむく
     04/おもしろくなく2か月ほどで退社。同僚には前田三遊
     05/帰京し、小泉三申の斡旋で大岡有造の『中央新聞』に入社。翻訳を担当
     1896(明治29)01/論説をも担当することに
  04/01第4回内国勧業博覧会が京都市岡崎公園にて開かれる。7月31日まで。入場者数は113万6695人
     会場は平安神宮の南側、会場面積は17万8千平方メートル、会場正面には大理石製の噴水が建つ
     主要な建物は美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館
     7万3781人の出品人から16万9098点の出品を得る
     道路・旅宿の整備が進み京都の観光都市としての基礎が作られる
     1903(明治36)03/01第5回内国勧業博覧会が大阪市天王寺今宮にて開かれる。7月31日まで。入場者数は435万0693人
  04/正岡子規が新聞『日本』の近衛師団つき従軍記者として遼東半島に渡る
     のち上陸した2日後に下関条約が調印される
     05/第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国
     のちその船中で喀血して重態に陥り神戸病院に入院
     07/須磨保養院で療養したのち松山に帰郷
  04/17日清講和条約(下関条約)が調印。日清戦争が終結
     宣戦布告は1894(明治27)8月1日

  05/01京都の油谷次郎七が『警鐘』を発行。非売品

  05/06東京の煉瓦工が賃上げストライキを起こす
  05/秋山定輔の日刊『二六新報』が資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1900(明治33)02/同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
  05/内村鑑三が警醒社から『How I Became a Christian』を刊行
     邦題は『余は如何にして基督信徒となりし乎』
     11/アメリカのフレミング・H・レベル社から『Diary of a Japanese Convert』 の題名で刊行
  06/23東京第1師団の軍夫がストライキを起こす
  07/03安部磯雄が岡山で駒尾と結婚する。婚約は10年前の1885(明治18)7月
  07/05国粋主義系の政治評論団体「政教社」発行の雑誌『亜細亜』『日本人(第3次)』に改題
     1907(明治40)01/01『日本及日本人』に改題
     創刊は1888(明治21)4月3日発行の『日本人』
  08/「報效義会」の千島探検で最後まで占守島に残った白瀬ら3人が、北海道庁長官の命によるラッコ猟漁船に救助され帰還
     出港は1893(明治26)3月20日
     のち郡司に確執を持つ白瀬矗が報效義会を脱会
     1896(明治29)夏頃会員数57人の「第2次報效義会」を結成
  09/03夕方、ライト大佐以下17人の救世軍が布教の目的でドイツ船ホーレンゾレン号にのり横浜に入港
     【ライト大佐が男女11人の士官を率いて来日?】
     09/04朝、救世軍軍旗を先頭に軍士官たち14人が上陸する
     09/09一行が東京に入る
     新富座前の京橋区新富町6丁目11番地の木造5階建と築地新栄町5丁目の木造2階家を借り本営を置く
     10/金六町に小隊を設ける
     のち『救世軍の歌』を編纂し、機関誌『ときのこゑ』を発刊する
     のち貧民街を尋ねる
  09/04救世軍の到着を知った日刊英字新聞「ジャパン・ガセット」の記者が訪ねる
     洋服姿の記者は驚く。14人の救世軍軍人はみな揃いの浴衣をきて兵児帯を結んでいる
     救世軍のモットー「適合」、郷に入っては郷に従おうと香港で日本服を作る
  09/22救世軍が神田区美土代町の基督教青年会館にて日本での活動を宣言
     最初の集会が催される。布教伝道を行なう。聴衆は太鼓やタンバリンの響きに呆れ返る
     のち山室軍平が『救世軍略史』で評する
     「嗚呼此の狂気染みたる宗教、日本に入る、それ焉(いずくん)ぞ黙するを得んや。
      其の軍隊組織を以て他の国に入る、無礼之に過ぎたるはなし」
  10/03幸徳秋水が『めさまし新聞』に「読淵明集」の連載をはじめる
     10月17日までのあいだに7回連載
  10/半ば山室軍平が宮崎県の茶臼原より上京。救世軍本営の司令官ライト将軍を訪ねる
     山室は不作法で傲慢な態度に不愉快を感じる
     のち山室は京橋区南金六町にある救世軍軍営の営む集会を見物
     12/0123才の山室が救世軍に入隊する【11/末、記者に採用?】
  10/29大阪タバコ工300人がストライキを起こす
  10/下旬救世軍が京橋区新橋際の金六町に日本最初の小隊を開き伝道をはじめる
  10/アメリカから帰国した大石誠之助が新宮で医院を開業する
     大石はアメリカのオレゴン州立大学医学部で学ぶ
  11/末救世軍の機関誌『鬨声(ときのこえ)』発刊のため山室軍平が記者に採用される【12/01入隊?】
     【11/山室軍平が金六町の救世軍小隊に聴衆の下足番として入隊する?】
  12/02救世軍の機関誌『鬨声(ときのこえ)』第1号が発行される
     1897(明治30)10/01『ときのこゑ』に改称する
  12/木下尚江、中村太八郎らが信州松本で普選運動をはじめる
     1897(明治30)05/01中村太八郎、木下尚江らが信州松本で普選同盟会を設立する
     05/請願書を提出
     07/下旬中村太八郎、木下尚江らが普通選挙期成同盟会を結成
     普通選挙要求を独自の政治課題に押し上げ社会運動としての普選運動を組織した初の団体となる
     のち同盟会活動として「普通選挙ヲ請願スルノ趣意」を発表し政談演説会を開催
     10/請願書を提出
     1899(明治32)08/ふたたび請願書を提出する
  12/下片山潜が帰国のためヴィクトリア号に乗船。ワシントンのタコマを発つ
     片山初めての渡米は1884(明治17)11月26日に横浜を発ち、12月14日にサンフランシスコに上陸
     1896(明治29)01/横浜につく。足かけ13年ぶりの帰国となる
  福田友作、景山英子の家の窮乏がさらに甚だしくなる
     のち福田は実家に帰り一家離散
     12/福田家で書生をしていた石川三四郎は故郷の埼玉県児玉郡山王堂村に引き揚げる
  神岡鉱山で坑夫共済会が組織される
  この年、『大阪朝日新聞』が日清戦争の号外を80回にわたり発行する
     前年は号外を66回にわたり発行


1896(明治29)

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文(→08/31単独辞任)、[第2次伊藤内閣]黒田清隆枢密院議長が臨時兼任(08/31→09/18)
  《総理大臣》[第6代](第2次)松方正義(09/18→)
  《内務大臣》[第11代]野村靖、[第12代]芳川顕正司法大臣が兼任(02/03→)、[第13代]板垣退助(04/14→)
  《内務大臣》[第14代]板垣退助(09/18→)、[第15代]樺山資紀(09/20→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢、[第9代]山田為暄(09/27→)
  《内務省警保局局長》小野田元熈【ノ→ン】(→11/21)、寺原長輝(11/21→)


  01/12駸々堂が堺枯川の『破れ羽織』を発行する。定価20銭
  01/1895(明治28)12月下旬にワシントンのタコマをヴィクトリア号で発った片山潜が横浜につく
     片山は1884(明治17)11月26日に横浜を発ち、12月14日にサンフランシスコに上陸
     片山初めての渡米で足かけ13年ぶりの帰国となる
  01/『中央新聞』の幸徳秋水が翻訳のほか論説をも担当することに
  01/救世軍の山室軍平が中尉に任ぜられ、士官養成所付に補される
     日本人初の救世軍士官となる
  02/10加藤時次郎が神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く。本院は東京府京橋区木挽町6丁目10番地
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
     のち神奈川県の小田原十字町海岸に別荘をかねた分院を設ける
     1899(明治32)加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
  記者の横山源之助が『毎日新聞』に下層社会に関する調査報告の連載を開始
     のち1899(明治32)の夏まで連載
     毎日新聞社社長の島田三郎は秀英舎の佐久間貞一とともに横山の労働事情調査を援助する
  04/01日清戦争大本営が詔勅によって解散
     大本営の設置は1894(明治27)6月5日
  04/02無名研究会が創立する【04/26?】
     山崎覚次郎、桑田熊蔵、高野岩三郎、小野塚喜平次、織田一、鈴木純一郎ら東京帝国大学の法科教授たちにより組織
     6人は神田の甲午倶楽部に会合し社会政策について研究を行なう
     1897(明治30)小野塚の発議により門戸を開放し公的な会合に。日本社会政策学会となる
     1898(明治31)10/神田区の青年会館で第1回講演会を開く
     のち社会政策に関する研究や講演を重ねる
     のち昭和時代に及ぶ
  04/06〜15第1回オリンピックがギリシャのアテネで開催される
     近代五輪最初の大会として開催。14か国、241人が参加する【男子のみ280人が参加】
     実施競技は陸上、競泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目
  04/14板垣退助が第2次伊藤博文内閣の第14代内務大臣に就任する
  04/18神奈川県下の菓子商による菓子税廃止の祝賀会が開かれる
     毎日新聞社社長の島田三郎が出席する
  04/失業中の堺利彦(26)が落葉社の会員堀紫山の妹、美知子(23)と結婚する
     落葉社は堺が加藤眠柳、上司小剣、堀紫山らとつくった俳句の親睦団体
     美和子は1906(明治39)9月に大杉栄(21)と結婚する堀保子の姉
     1897(明治30)10/堺利彦、美知子との間に長男不二彦が生まれる
     1899(明治32)08/28脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去【12/23?】
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
     1903(明治36)01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から
     1904(明治37)08/病弱の美知子の持病の肺患が急激に悪化。加藤病院神奈川分院に入院加療
     のち堺が活動しやすいように真柄を加藤病院小田原分院がひきとる
     09/18美知子が入院先の加藤病院神奈川分院で死去。享年35才【08/18?】
  05/高橋幸吉、齋藤房次郎らが首唱者となり東京船大工組合が設立。会員は267人
     1897(明治30)04/賃銀値上げのため同盟罷業を起こす。1か月戦い勝利を得る
     石川島造船所の組合員のみ会社が強硬のために敗北する
     06/会員数が増加し640人に達する
     のち造船業者組合が船大工組合の撲滅を計り組合員を買収
     臨時総会の際、不適当な人物を頭取や副頭取にえらばせる
     悪だくみが功を奏し組合の統一融和が欠かれ組合は消滅
     1899(明治32)齋藤房次郎が再び起こし熱心に奔走。会員は300余人に
     のち次第に振るわなくなる
  06/15三陸沖で地震が起きる
     地震に伴い三陸海岸沿いに津波が押し寄せ甚大な被害となる
  06/三陸地方の海嘯の災害に救世軍が初めて救助活動に参加する
  06/高野房太郎が桑港から帰国
     渡米は1886(明治19)12月2日
     高野は桑港で日本の労働組合運動の源流となる「職工義友会」を組織する
  07/19〜21三重紡績でストライキが起きる
  夏頃会員数57人の「第2次報效義会」を結成
     参加者には郡司の妻など女性も14人含まれる。探険的要素が強かった前回と違い、今回は拓殖が目的
     09/06郡司成忠らが再び占守島に上陸し農業開拓、漁業開発に成功
     のち成果が上がり定住者が増え、幌延島には分村が作られる
     1903(明治36)占守島の定住者は170人(男100、女70)となる
  09/新潟県にある佐渡金山と兵庫県の朝来にある生野銀山が、あわせて三菱会社に256万0926円で払い下げられる
     佐渡金山の財産評価額は44万5250円、生野銀山の財産評価額は96万6752円
  10/07門司港沖の仲仕がストライキを起こす
  10/26救世軍が小石川区音羽町に「出獄人救済所」を開設する
     3棟で40人を収容できる施設
     1907(明治40)10/牛込区赤城下町87に移り「救世軍労作所」となる
  10/31『国民之友』第320号に「社会小説出版予告」の記事広告が載る
     第1斎藤緑雨、第2広津柳浪、第3幸田露伴、第4後藤宙外、
     第5嵯峨の屋主人、第6尾崎紅葉の6人の予定執筆者を挙げる
     のち企画のみに終わる
  12/29秋水生が『中央新聞』にルポルタージュ「織物会社を観る」を発表
  暮/24才の南助松が夕張炭坑へ入り斜坑運搬夫となる
     34才の永岡鶴蔵が院内銀山の同志80人と北海道夕張炭鉱へ移るのは1897(明治30)5月1日
  26才の幸徳秋水が母多治を麻布区市兵衛町に迎え同居
     福島県三春辺の旧久留米藩士の娘、17才の朝子と結婚
     3か月後離婚
  民友社発行の総合雑誌『国民之友』が月3回発行から週刊になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1897(明治30)08/月刊にもどる
  明治29年の内務省調べによる主要新聞の発行部数
     『万朝報』8万1千
     『中央新聞』7万
     『中外商業新報』4万9千
     『東京朝日新聞』4万6千
     『都新聞』3万6千
     『やまと新聞』2万7千
     『報知新聞』2万1千
     『時事新報』2万4千
     『国民新聞』3万6千
     『読売新聞』1万9千
  この年、労働争議が20件起こる
     1897(明治30)この年の労働争議は76件に


1897(明治30)

  《総理大臣》[第6代](第2次)松方正義
  《内務大臣》[第15代]樺山資紀
  《警視総監》[第9代]山田為暄
  《内務省警保局局長》寺原長輝


  初/高野房太郎が親友の城常太郎、沢田半之助らの協力を得てアメリカでの経験を生かし「職工義友会」を再建を模索
     04/城常太郎と澤田半之助の2人が東京市麹町区内幸町に職工義友会を作る。運動を開始運動を開始
     のち米国時代の同志で横浜の英字新聞記者高野房太郎や神田区三崎町にキングスレー館を設けた片山潜、
     工業学校で経済学を講じていた織田純一郎らが参加。島田三郎、佐久間貞一、村松介石らが運動を賛助する
     高野房太郎が、ただちにわが国初の労働組合の街頭宣伝刷り物となる「職工諸君に寄す」をつくる
     広く各工場や労働者に配布。労働組合の設立を呼びかける
     のち演説会を開き、文書を配布して労働組合の意義を伝えまわる
     07/05「職工義友会」を改称し「労働組合期成会」として発足
  01/11英照皇太后が崩御になり御大葬が行なわれる
     英照皇太后は孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母
     02/03幸徳秋水が大森駅での御大葬の列車の奉送記を『中央新聞』に掲げる
     記事文章が社長大岡有造の目にとまり一躍殊遇をうけることに
  01/15海南新聞社員の柳原極堂が松山で『ほとヽぎす』を創刊
     雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもの
     選者は正岡子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪ら
  01/25留岡幸助が警醒社書店から『感化事業之発達』を発行する。定価20銭
  01/27横浜の日本絹紡で職工がストライキを行なう
  01/街頭伝道をしていた救世軍の山室軍平が警察官の忌諱にふれる
     山室は3日間、矢吹大尉と副官は12日間、小石川署に拘留される
     英昭皇太后の崩御で音曲停止期間に賛美歌を放歌し道路規則違反にとわれる
  朝報社の黒岩涙香が名古屋にいる内村鑑三を訪ねて朝報社への入社を懇請
     02/内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社
     新聞『萬朝報』の英文欄主筆となる
     1898(明治31)05/22黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社
     06/10山県悌三郎を社主として『東京独立雑誌』を創刊。内村は主筆となる
  02/永岡鶴蔵ら院内銀山坑夫500人が賃下げ反対で3日間のストライキ
     警察署長の仲介で要求は承認されるが後に賃下げ実施
  03/01片山潜がアメリカで学んだ社会改良事業を計画【02/01?】
     組合派宣教師のグリーン博士より月25円を受けることに
     植村正久、伊藤為吉、松村介石、綱島佳吉、横井時雄、丹羽清二郎らの助力を得る
     「キリスト教社会事業の本営たらしめん」と「大学植民事業」
     神田区三崎町3丁目1番地に1戸を借りキングスレー館をはじめる
     のち青年倶楽部、幼稚園、社会問題講演、日曜講演、労働会月次懇親会、大学普及講演、
     西洋料理教授、英語教授、市民夜学校、青年会、職工教育会などの事業を勧める
  03/02足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第1回押出し
     03/03800余人が上京し農商務相に陳情、嘆願して農商務省をとりかこむ
     【第1回押出し】「足尾鉱毒事件略年表」へ
     03/23足尾鉱毒被害民3600人が渡瀬村雲竜寺に集合
     03/24第2回目の押出しが行なわれる
     【第2回押出し】「足尾鉱毒事件略年表」へ
  03/06東京市神田区錦町3丁目の錦輝館が「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる映画の上映会を行なう
     東京における最初の映画興行となる
     1899(明治32)06/01前年の米西戦争についてのアメリカのニュース映画「米西戦争活動大写真」が上映
     日本初のニュース映画上映とされる
  03/10島田三郎が横浜の出獄者保護の演説会に弁士として出席する
  03/17松村介石が警醒社から『社会改良家列伝』を刊行する
  03/幸徳秋水が母方の再従兄安岡雄吉からシェッフレの『社会主義真髄』の英訳本を借りて読む
     幸徳は初めて社会主義なるものの本質を理解する
  04/03中村大八郎、樽井藤吉、西村玄道の主唱により「社会問題研究会」が上野精養軒で発会する
     幹事は中村大八郎、樽井藤吉、西村玄道
     評議員は井上經重、巌本善治、石川安次郎、入江錦五郎、稻垣示、原餘三郎、鳩山和夫、波多野善三郎、堀内賢郎、片山潜、
     吉田義靜、田口卯吉、高橋五郎、坪谷善四郎、中村彌六、陸實、安岡雄吉、松村介石、福本誠、小島龍太郎、天野爲之、
     佐治實然、酒井雄三郎、佐久間貞一、三宅雄二郎、シー・ガルスト、人見一太郎、天田作之進、尺秀三郎、鈴木重遠
     発会式で片山潜が「将来の労働問題」を講演
     社会運動は会員の希望するところではなく社会問題の研究会にとどまる
     『中央新聞』の記者幸徳傳次郎が石川安次郎の紹介で即日に入会
     のち1年有余にして自然消滅する
     1898(明治31)10/18社会主義研究団体「社会主義研究会」が創立される
     社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究するを目的とする会
     『六合雑誌』の関係者がその中心となる
     東京芝区四国町の惟一館(ユニテリアン)の会堂を借り会を開くことに
     会長は村井知至、会員は片山潜、佐治實然、中村大八郎、幸徳傳次郎、高木正蔵、河上清、豊崎善之助、岸本能武太、新原俊秀、
     神田佐一郎、金子喜一、安部磯雄、村井知至、北川筌因、櫻井一義、綾部竹次郎、木下尚江、杉村廣太郎(杉村楚人冠)、平井金三
     1900(明治33)01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を東京芝区四国町のユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
     1903(明治36)10/片山が幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
  04/09片山潜が警醒社書店より『英国今日之社会』を刊行
  04/東京船大工組合が賃銀値上げのため同盟罷業を起こす。1か月戦い勝利を得る
     石川島造船所の組合員のみ会社が強硬のために敗北する
     06/会員数が増加し640人に達する
     のち造船業者組合が船大工組合の撲滅を計り組合員を買収
     臨時総会の際、不適当な人物を頭取や副頭取にえらばせる
     悪だくみが功を奏し組合の統一融和が欠かれ組合は消滅
     1899(明治32)齋藤房次郎が再び起こし熱心に奔走。会員は300余人に

  04/名古屋市若松町の金水楼に三重県阿蘇郡南若松村の娼妓愛之助こと藤原さとが360円の前借金でつとめることに
     のち3年間働いても借金返済の見込みがたたず。そこで廃業の決心をするも届けへの捺印を拒まれる
     のち愛之助はモルフィに相談する
     1900(明治33)03/26モルフィが「娼妓廃業届に連署捺印請求の訴訟」を名古屋地方裁判所民事部に提起する

  04/幸徳秋水がいろは庵のペンネームで『団団珍聞』に茶説(社説)を書きはじめる
     【第1回は4月17日の「擬新自由黨報告書」?】
     1901(明治34)04/連載を終える
  04/社会学会の機関誌『社会雑誌』が創刊される。主筆は布川孫市
     社会学会は1895(明治28)3月に創立される
  04/八王子で大火に見まわれ3800戸が焼失、死者40人、負傷者200人に
     八王子の救世軍小隊が義援金160余円を集め罹災者の救恤に努める
     小隊長は市民から袋叩きにあい、小隊の看板はドブのなかに投げ込まれる
     まだキリスト教が一般に受け入れられる状態でなく、警察当局も伝道を妨害して検束拘留に処すことも珍しくない
  05/01中村太八郎、木下尚江らが信州松本で普選同盟会を設立する
     05/請願書を提出
     07/下旬中村太八郎、木下尚江が郷里の長野県松本と近隣町村の有志と謀り普選請願運動を起こす
     普通選挙期成同盟会を結成。「普通選挙を請願するの趣意」なるビラを配布
     普通選挙要求を独自の政治課題に押し上げ社会運動としての普選運動を組織した初の団体となる
     のち同盟会活動として「普通選挙ヲ請願スルノ趣意」を発表し政談演説会を開催
     10/請願書を提出
     1899(明治32)08/ふたたび請願書を提出する
  05/0134才の永岡鶴蔵が院内銀山の同志80人と北海道夕張炭鉱へ移る
     24才の南助松が夕張炭坑へ入り斜坑運搬夫となるのは1896(明治29)の暮
  05/17幸徳秋水が『中央新聞』に「国民の麻痺」を発表する
  05/河野広中、鈴木重遠、稲垣示、樽井藤吉、中村太八郎の5人が社会問題研究会の事務所に集まる
     普通選挙運動を起こすことについて協議する
  06/05横浜ドックで船大工のストライキが行なわれる
  06/25「職工義友会」が神田区の基督教青年会館で我が国初の労働問題演説会を催す
     弁士は城常太郎、高野房太郎、松村介石、片山潜、佐久間貞一、島田三郎ら
     聴衆は1200人に達し盛会に進む
     片山は「労働団結の必要」について講演
     演説プログラム終了後、高野が再び登壇。義友会を代表して労働組合期成会設立の必要を説き来会者の賛成を求める
     即座に47人が賛成、入会者を獲得する。やがて会員数は71人に
     のち会名を「労働組合期成会」に改める
     かつての奥宮健之らの車会党や大井憲太郎らの日本労働協会(東洋自由党)が政治的労働運動なのに対し、
     職工義友会は経済的労働運動となる
  07/05高野房太郎らにより労働組合運動の促進をめざす「労働組合期成会」が京橋北槇町の「池の尾」で結成される
     【日本橋花月?】
     期成会の母体となったのは、1891(明治24)にサンフランシスコで日本人労働者により組織された「職工義友会」
     高野房太郎は城常太郎、沢田半之助の職工義友会の仲間とともに仮幹事に選ばれる。片山潜も加わる
     労働者が中心のものの一部財界人、知識人が資金を援助し演説会に出演するなど
     秀英舎(大日本印刷)の社長佐久間貞一、東京工業学校(東京工業大学)講師の鈴木純一郎、高野の弟岩三郎ら
     鈴木純一郎の演説のあと規約を討議、演説会開催のため有志から寄付を募ることを決議
     のち期成会に積極的に応じ、会員に加わったのは鉄工関係
     鉄工は旋盤工や仕上工、缶詰工など金属関係の職工の総称
     多くは東京砲兵工廠や石川島造船所、日本鉄道大宮工場など比較的大規模な工場で働く労働者
  07/15片山潜が『六合雑誌』に論説「労働団結の必要」を発表
  07/18労働運動期成会が第1回演説会を神田区の青年会館で開く
     城常太郎、岡友次郎、高野房太郎、片山潜、佐久間貞一、島田三郎が出演。聴衆は千人を越える
     新入会者が30数人ある。会員は増加し運動は拡大する
     07/26日本橋区米沢町の車屋で「鑢製造業組合」の総会とあわせて開催
     高野房太郎が「組合奨励」を演説
     08/15芝区の三田ユニテリアン教会で開かれる。400余人が集まる
     高野房太郎が「労働組合期成会について」を演説
     08/21石版印刷工組合集会所で「石板印刷工組合」の総会とあわせて開催
     08/22埼玉県大宮の末吉座で開かれる
     08/31牛込区の鶴扇亭で開かれる。鉄工400人が集まる
     高野房太郎が「労働者ノ責任」を演説
     09/01両国の井生村楼で「東京船大工組合」の総会とあわせて開催
     高野房太郎が「組合員の責任」を演説
     09/12横浜の港座で開かれる。800人が集まる
     09/15本郷区弓町の基督教会堂で開かれる。600人が集まる
     09/18神田区の青年会館で開かれる。1200余人が集まる
     高野房太郎が「我資本家に告ぐ」を演説
     09/20日本橋区薬研堀の初鷹で「東京雛人形組合」の発起会とあわせて開催
     高野房太郎が「組合設立の必要」を演説
     09/26京橋区木挽町の弘集館で開かれる
     09/28本所区の回向院前にある武蔵屋で開かれる
     10/09両国の井生村楼で開かれる
     10/16横浜の賛成員に演説を催す
     11/02芝区の愛宕下で開かれる
     11/08横浜の蔦座で開かれる
     11/16本所区の回向院前にある武蔵屋で談話会が開かれる
     11/17横浜の久保田氏方で談話会が開かれる
     11/20神田区の錦輝館で開かれる1千余人が集まる
     高野房太郎が「資本と労力の調和」を演説
     12/01神田区の青年会館で「鉄工組合」の発会式とあわせて開催
     高野房太郎が「開会の辞」を述べる
     1898(明治31)01/09本所区の二州楼で開かれる。200余人が集まる
     01/29大宮の末吉座で開かれる
     01/30横浜の蔦座で開かれる
     01/31芝区の七福亭で開かれる
     02/07本所区の二州楼で開かれる
     02/20神田区の青年会館で開かれる。300余人が集まる
     高野房太郎が「破壊的労働運動」
     02/27横須賀の立花座で開かれる
     04/10上野公園内の鶯亭で開かれる。奠都三十年祭祝会とあわせて会員800人が集まる
     04/22神田区の松月亭で開かれる
     05/15京橋区新栄町の連合会事務所で開かれる
     05/21芝区兼房町の玉翁亭で開かれる
     06/19横須賀の立花座で開かれる。700余人が集まる
  07/31幸徳秋水が『団団珍聞』第1122号の茶説「秋山参事官を迎ふ」で初めて言文一致体(口語体)を使う
     1898(明治31)08/『万朝報』の紙上ではじめて言文一致体を使う
  08/01呉服橋外の柳屋にて「労働組合期成会」の第1回月次会が開かれる
     幹事に片山潜、澤田半之助、高野房太郎、村松民太郎、山田菊三を推し、ほかに10人の常置委員を設ける
     佐久間貞一、鈴木純一郎は評議員に推される
     のち日野資秀、島田三郎、村井知至、安部磯雄らも評議員に推される
     のち毎月2回以上、東京神田区、日本橋区、芝区、牛込区、両国、本郷区、京橋区、本所区、上野公園内のほか
     横浜や横須賀、埼玉県大宮町などで演説会を催す
  08/10官憲の圧迫と県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で中村太八郎、木下尚江が逮捕
     中村は入獄、木下は2審で無罪確定。松本での同盟会活動が頓挫する
     1898(明治31)01/24重禁錮8か月の判決を受けて控訴
     02/09東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容
     12/07無罪判決で出獄し降旗元太郎邸へ
     降旗は木下と同郷の信濃国筑摩郡本郷村生まれ
     1898(明治31)3月15日の第5回衆議院議員総選挙で当選する
     【降旗邸は東京か?松本か?】
  08/15労働組合期成会が芝区の三田ユニテリアン教会で演説会を開く。400余人が集まる
     高野房太郎が「労働組合期成会について」を演説
     08/21石版印刷工組合集会所で「石板印刷工組合」の総会とあわせて開催
     08/22埼玉県大宮の末吉座で開かれる
     08/31牛込区の鶴扇亭で開かれる。鉄工400人が集まる
     高野房太郎が「労働者ノ責任」を演説
     09/01両国の井生村楼で「東京船大工組合」の総会とあわせて開催
     高野房太郎が「組合員の責任」を演説
  08/民友社発行の総合雑誌『国民之友』が週刊から月刊になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1898(明治31)08/第372号をもって廃刊となる

  08/坂井フタが北海道函館にて前借200円で身売り
     返済のため30か月の間貸座敷主山田精一へ寄留の上娼妓営業をして
     揚げ代金を以て返済にあてることを諾約
     のち満1年が過ぎても1銭も返済できず
     これでは永久に苦悩世界から出られないと坂井は稼業廃業を決意
     楼主と取締役に署加判を請求するも聞き入れられず
     【正業に転業したいと山田へ廃業届書への連印を求めるも貸座敷主が拒否、坂井が訴える?】
     のち弁護士を介し函館地方裁判所へ廃業届書に調印請求の訴訟を起こす
     のち第1審で敗訴となり、函館控訴院に控訴する
     1899(明治32)03/01第2審でも坂井フタの敗訴になる
     のち大審院に上告する
     のち大審院は上告を理由あるものとして原判決を破棄、事件を函館控訴院に差し戻す
     上告人坂井フタの控訴代理人は橋本好正、被上告人の楼主山田精一の訴訟代理人は石尾一郎助と斎藤孝治
     1900(明治33)02/23第4審の判決が言い渡される【控訴審で判決?】
     「娼妓が其の樓主に對し一定の年限間一定の場所に於いて娼妓を營むべき旨の契約を締結するは無効なりとす」
     その説明がされる
      娼妓が貸座敷営業者に対し一定の年限間一定の場所に於いて娼妓を営むべしとの契約は
      取りも直さず人身の自由を制限するを以て直接に契約の目的と為すものにして
      即ち公の秩序に反する無効の契約たるを免れず
      故に娼妓は楼主に対し借金の有無に不拘何時にても娼妓営業を廃止することを得べし
     日本の最も明らかに娼妓の自由廃業を認めた最初の文献となる
     1年前は非とし、今回を是としたのは時勢の推移が然からしめ、また廃娼の世論を作った人々の存在

  09/01労働組合期成会が両国の井生村楼で「東京船大工組合」の総会とあわせて演説会を開催
     高野房太郎が「組合員の責任」を演説
     09/12横浜の港座で開かれる。800人が集まる
     09/15本郷区弓町の基督教会堂で開かれる。600人が集まる
     09/18神田区の青年会館で開かれる。1200余人が集まる
     高野房太郎が「我資本家に告ぐ」を演説
     09/20日本橋区薬研堀の初鷹で「東京雛人形組合」の発起会とあわせて開催
     高野房太郎が「組合設立の必要」を演説
     09/26京橋区木挽町の弘集館で開かれる
     09/28本所区の回向院前にある武蔵屋で開かれる
     10/09両国の井生村楼で開かれる
  09/04労働組合期成会の第2回月次会にて雑誌発行の調査委員が選ばれる
     10/10第3回次会で委員からの報告があり可決される
     12/01鉄工組合発会の当日、日本初の労働運動雑誌『労働世界』が創刊される。編集部長は片山潜
  09/27大阪の友禅工が賃上げのストライキを起こす
  10/01救世軍の機関誌『鬨声(ときのこえ)』『ときのこゑ』に改称する
     『鬨声(ときのこえ)』は1895(明治28)12月2日創刊
  10/09労働組合期成会が両国の井生村楼で演説会を開く
     10/16横浜の賛成員に演説を催す
     11/02芝区の愛宕下で開かれる
  10/24鉄工労働者らが鉄工組合の規約作成について協議
     11/14鉄工組合創立相談会を開き37人の創立委員を挙げる
     のち創立委員が総会を開き規約を再議する
     12/01神田区の青年会館において鉄工組合の発会式が挙行される。日本最初の労働組合
  10/片山潜が鈴木純一郎の紹介で社会政策学会に入会する
     1899(明治32)04/片山潜が社会政策学会の宣言起草委員の1人になる
     「我々は極端なる社会主義に反対する」の点に片山が異議をとなえる
     学会は片山の退会勧告を議す
  10/堺利彦、美知子との間に長男不二彦が生まれる
     堺は「不二山に対ひ立ちてもふさはしき男の子になれと祈るなりけり」との気持ちから名づける
     1899(明治32)08/28脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去【12/23?】
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
  10/頃石川三四郎が上京する
     麹町区飯田町に屋敷を構える福田家に三度居候となる
  11/02労働組合期成会が芝区の愛宕下で演説会を開く
     11/08横浜の蔦座で開かれる
     11/16本所区の回向院前にある武蔵屋で談話会が開かれる
     11/17横浜の久保田氏方で談話会が開かれる
     11/20神田区の錦輝館で開かれる1千余人が集まる
     高野房太郎が「資本と労力の調和」を演説
     12/01神田区の青年会館で「鉄工組合」の発会式とあわせて開催
     高野房太郎が「開会の辞」を述べる
  11/07田島錦治が東華堂から『日本現時之社会問題』を刊行する。定価70銭
  11/15片山潜がきんぐすれい館(労働世界発売所)から『労働者之良友喇撒(ラツサール)傳』を刊行
     定価15銭
     『六合雑誌』第192、194、195号に発表した「独乙共和国の創立者フエルヂナンド・ラツサール」
     『六合雑誌』第196、197、198号に発表した「フエルヂナンド・ラツサールの社会主義」をまとめたもの
  11/田岡嶺雲が朝報社に入社する
  12/01神田区の青年会館において鉄工組合の発会式が挙行される。日本最初の労働組合
     開会の辞は高野房太郎が述べる
     佐久間貞一、島田三郎、高野岩三郎、鈴木純一郎らが祝辞や演説をする
     来賓には志村農商務省工務局長、織田農商務省文書課長、三好退蔵、逓信省技師、砲兵工廠技師などが集まる
     組合員は1184を数え、砲兵工廠、新橋鉄道局工場、逓信省工場、平岡工場、中島工場、大宮工場ほかの鉄工が参加
     本部参事会員には永山栄次会計部長、大江松蔵救済部長、平井梅五郎庶務部長、片山潜、高野房太郎らが選出
     閉会の辞を片山潜が述べる
     1898(明治31)鉄工組合が急速な発展を示す
     芝浦工場、石川島造船所、横須賀造船所、甲武鉄道、砲兵工廠精密工場、
     赤羽海軍工場、東京湾内汽船会社所属工場などに支部が設立する
     地方では福島、仙台、黒磯、青森、盛岡、北海道滝川などに支部が生まれる
     年末/組合発足1年で支部の数は32、組合員数が2717人を擁する組織に発展する
     1899(明治32)王子、北海道旭川、札幌、大宮工場木工部、水戸などに支部が設立
     1900(明治33)横浜浦賀などに支部が組織される
     一方、退会する者、会費滞納する者が続出
     04/組合員数5400に対し会費納入者はわずか1千人に
     06/09本部委員総会で「死亡に対する救済金15円を10円に
     疾病火災、負傷に対する救済金を当分停止」を決議
     のち財政悪化をきっかけに衰退
  12/01労働組合期成会が神田区の青年会館で「鉄工組合」の発会式とあわせて演説会を開催
     1898(明治31)01/09本所区の二州楼で開かれる。200余人が集まる
  12/01労働組合期成会の機関紙『労働世界』が創刊される。発行は。主筆は片山潜【12/05?】
     わが国最初の労働組合雑誌
     発行所/労働世界社、発行/月2回(5日、15日)
     定価/1部2銭5厘[送料(郵税)5厘込]、半年分26銭[送料(郵税)込]
     体裁/タブロイド判、頁建/10頁(創刊号12頁)
     編集部長に片山潜、会計部長に村松民太郎、庶務部長に掛川元明がなる
     1900(明治33)06/第62号から装いを新たに月刊として発行
     09/労働運動が行き詰まり『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる
     1901(明治34)01/第69号から再び月2回刊として発行
     06/第80号から1日、11日、21日の月3回刊となる
     12/21第100号で発行を終了
     1902(明治35)01/01日刊『内外新報』に改題、拡張される
     日本最初の社会主義日刊新聞に
     のち2か月間発行される【約3週間で廃刊?】
     1902(明治35)04/03『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
     1903(明治36)03/03『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
     1904(明治37)01/片山潜の渡米後、『渡米雑誌』に改題
     11/社会主義協会の解散と同時に発行禁止
  12/09片淵琢らの尽力で麹町に人力車の信用組合東京信用組合が起こる
     のち3、4か月も経たずして解散となる
     1899(明治32)04/神田の人力車夫が信用組合を組織しようと運動をする
     成功せず
  12/27河上清が東華堂から『労働保護論』を刊行。定価50銭
  12/無軌道式で新橋〜品川間を走る品川乗合馬車鉄道が鉄道軌道式となる。品川馬車鉄道会社に改称
     品川乗合馬車鉄道は1889(明治22)11月に開業
     1899(明治32)06/19東京馬車鉄道会社に合併
  年末/労働組合期成会の会員数が1200人に
     1898(明治31)年末/会員数が3千人に
     1899(明治32)年末/会員数が5700人に
     のち明治33年に入って次第に衰退することに
  『大阪朝日新聞』が「落葉籠」の欄を設ける
     難解な政治論ばかりでなく、読者から寄せられる身辺雑記が掲載
     民権時代の投書とは違い民衆の怒りや、悲しみ、笑い、困惑などが短信で寄せられ人気となる
  無名研究会が門戸を開放し公的な会合に。日本社会政策学会となる
     無名研究会は1896(明治29)4月2日、東京帝国大学法科教授によって組織【04/26?】
     山崎覺次郎、桑田熊蔵、高野岩三郎、小野塚喜平治、織田一、鈴木純一郎ら
     1898(明治31)10/神田区の青年会館で第1回講演会を開く
     のち社会政策に関する研究や講演を重ねる
     のち昭和時代に及ぶ
  救世軍が横浜居留地187番地に「水夫館」を開く【横浜市山下町123番地?】
     イギリス船を中心に外国人水夫のために60人の宿泊、食堂、読書室、風呂などを設備
     1907(明治40)年末イギリス東洋艦隊の寄港がなくなり「水夫館」が閉鎖となる
     1908(明治41)01/地域住民の強い要望で山下町85に「救世軍外人ホテル」が開設される
  本郷区菊坂町に岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江夫妻が下宿菊富士楼を開業
     1914(大正03)帝大生相手の下宿屋菊富士楼が3階建ての瀟洒な洋館「菊富士ホテル」となる
     菊富士ホテルは木造瓦葺きで外装白モルタルの3階建て高級下宿、長期滞在型のホテル
     はじめは上野で開かれる「大正博覧会」にむけて開業
     のち多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在、ホテルを舞台に数々のエピソードを残す
     1945(昭和20)03/10菊富士ホテルが東京大空襲で焼失する
  鈴木純一郎が『労働者の心得』を刊行する
  この年、労働争議が76件起こる。前年は20件
  この年に起こった同盟罷工は32件に及ぶ。北海道ポント硫黄山、北海道蛯子硫黄山、大阪天満紡績会社、
     大阪友染職工、横浜船大工、兵庫県塩田稼人、兵庫県神子畑鉱山、新潟県煉瓦形扱職工、群馬県新町紡績会社、
     千葉県保田石切工、栃木県日本鉄道工夫、静岡県人車鉄道車丁、静岡県気田製紙分社、長野県水車営業者、
     山梨県製糸女工、福島県磐城炭礦、徳島県煙草賃切職工、福岡県煙草刻職工、福岡県石炭運搬夫、
     島根県高津製糸会社、和歌山県煙草製造工、和歌山県木挽職工、岩手県大橋鉱山焼炭夫など


1898(明治31)

  《総理大臣》[第6代](第2次)松方正義(→01/12)、[第7代](第3次)伊藤博文(01/12→06/30)
  《総理大臣》[第8代]大隈重信(06/30→11/08)、[第9代](第2次)山縣有朋(11/08→)
  《内務大臣》[第15代]樺山資紀、[第16代]芳川顕正(01/12→)、[第17代]板垣退助(06/30→)、[第18代]西郷従道(11/08→)
  《警視総監》[第9代]山田為暄、[第10代]園田安賢/再任(01/14→)
  《警視総監》[第11代]西山志澄/現職衆議院議員(07/16→)、[第12代]大浦兼武(11/09→)
  《内務省警保局局長》寺原長輝(→01/21)、牧朴真(01/21→7/5)、小倉久(07/05→)


  初/松隈内閣を支持してきた『中央新聞』が立場をかえて第3次伊藤内閣を支持
     伊藤内閣は『中央新聞』を買収。その機関紙の役割を果たすようになる
     02/幸徳秋水が退社
  01/06夕張第1斜坑でガス爆発が発生し2人が死亡
  01/09労働組合期成会が本所区の二州楼で演説会を開く。200余人が集まる
     01/29大宮の末吉座で開かれる
     01/30横浜の蔦座で開かれる
     01/31芝区の七福亭で開かれる
     02/07本所区の二州楼で開かれる
  01/24木下尚江が重禁錮8か月の判決を受けて控訴
     木下は前年8月10日に中村太八郎と官憲の圧迫と県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で逮捕される
     02/09東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容
     12/07無罪判決で出獄し降旗元太郎邸へ
     降旗は木下と同郷の信濃国筑摩郡本郷村生まれ
     1898(明治31)3月15日の第5回衆議院議員総選挙で当選する
     【降旗邸は東京か?松本か?】
  02/初日本鉄道の機関方や火夫が「我党待遇期成大同盟会」を結成
     待遇改善を要求する日本鉄道機関方争議を引き起こすことに
     「我党待遇期成大同盟会」と銘打つ秘密出版物が日本鉄道各駅の機関方の手にまわる
     機関方の待遇は劣悪で酷使される奴隷と説き、手段として課長あてに匿名で請願書の提出を勧誘するもの
     内容は機関方、火夫全員に臨時増給をなす。職名を改称し労働者の地位向上を掲げる。従来の労働争議より進歩的に
      機関方機関手、心得機関手心得、火夫乗務機関生、掃除夫機関生
     のち不平を抱く機関方は秘密出版物の趣旨に賛同し各地で請願書を提出、さらに再版しては各従業員に配布する
     のち会社側は従業員の不穏な行動を察知、内密調査をして、石田六次郎、安居彦太郎ら10人を首謀者として解雇
     会社側は解雇により運動が途絶えるものとしたところ、逆に従業員の感情を激化させることに
     02/24〜25福島の機関方を中心に同盟罷業を断行
     上野、宇都宮、黒磯、仙台、青森、尻内、一の関の各機関方400人が電信電報を通じ一斉に行なわれる【800余人?】
     上野〜青森間の東北線全線の列車の運行が中止となり会社側は狼狽。担当者を仲裁に当たらせる
     罷業者側は「罷業を解いたあとも要求を受け入れなければ再び罷業する」と
     24人の陳情委員が上京。1週間にわたる組織的団体交渉が行なわれる【4週間?】
     のち期成会は同情を寄せ『労働世界』の全ページをあげて声援を送る
     02/27要求がとおり同盟罷業が解除される
     03/06会社側が要求を受け入れ「矯正会」の勝利に。解雇者10人のうちただちに8人が復職
     6か月後残る2人も復職
     04/05我党待遇期成大同盟会が解散。「矯正会」が新たに組織される
  02/07労働組合期成会が本所区の二州楼で演説会を開く
     02/20神田区の青年会館で開かれる。300余人が集まる
     高野房太郎が「破壊的労働運動」
     02/27横須賀の立花座で開かれる
     04/10上野公園内の鶯亭で開かれる。奠都三十年祭祝会とあわせて会員800人が集まる
  02/10〜02/16富岡製糸場で女工がストライキを起こす
  02/中江兆民が黒岩涙香に頼み幸徳秋水(28)を朝報社に入社させる。『万朝報』に携わる
     1903(明治36)10/12幸徳秋水が堺利彦、内村鑑三と「退社の辞」をもって開戦論に転じた朝報社を退社
  02/11朝報社に入った幸徳秋水が初めて『万朝報』に論説「紀元節を哀しむ」を記し藩閥政治を激しく攻撃する
  02/21井上円了が四聖堂から『破唯物論一名俗論退治』を刊行。定価30銭
  02/金子筑水が『早稲田文学』に「所謂社会小説」を発表する
  02/田岡嶺雲が『万朝報』に「社会問題」を発表する
  03/10片山潜がキングスレー館に市民夜学校を開く。職工30人余参加。普通学、英語、数学、物理学等を教授
  03/12景山英子が福田友作の妻として入籍する
  03/13労働組合期成会の委員会で、労働者相互の交情や意気向上に行進と「大運動会(メーデー)」の開催を決議
     神武天皇祭の4月3日、会員と家族は弁当持参で期成会事務所に近い日本橋の呉服橋内永楽町原に集合
     上野まで隊伍を組んで楽隊を先頭に、幟をひるがえして行進、博物館脇で花見をかねて食事をともにるす
     さらに運動会を開く娯楽的な催し。大人30銭、子供5銭の会費を徴収し、揃いの帽子やバッジを用意
     04/01警視庁が運動会禁止の命令をくだす
     委員会幹部は計画を変更。会員は永楽町原から三々五々上野公園に集まり運動会を催すことに警視庁が禁止に
     警視庁は労働者が永楽町原に集まることも、行進することも、上野公園に集合することも禁止に
     04/10期成会幹部は奠都30年祭をかねて運動会を挙行する
     会員800余人は委員長片山潜の指揮のもと午前8時に事務所に集合。宮城にむかって「天皇陛下万歳」を三唱
     そろいの帽子をかぶり支部旗をつらね、隊伍をくんだ集会禁止反対デモが行進歌をうたいながら上野公園へ行進
     上野公園の鶯亭で休憩し弁当や酒とともに歓談し、午後3時に散会
  03/20東京市本所区、深川区の活版工100余人が両国武蔵屋で活版工同志懇話会の発会式を挙げる
     期成会から片山潜と高野房太郎を派す。祝辞と助言を述べる
     発起人は深川の東京印刷株式会社の職工大崎彦造ら7人
     会社は趣意書の不穏当を責め、解散しなければ最後の手段にでると威嚇
     04/05発起人7人を解雇
     04/07会員は憤激し同盟罷業にはいる
     一般労働者就中印刷工は罷業者に同情を示し寄付金や書信を送り応援
     期成会は深大な援助を与え『労働世界』誌上で資本家の態度を攻撃する
     のち罷業は失敗に終わる。7人のなかには生活苦から転職や地方に移り組合は解体
     08/04江澤三郎らにより新たな活版工同志懇話会が設立される
  04/05日本鉄道会社の我党待遇期成大同盟会が解散。「矯正会」が新たに組織。日本初の企業別組合とされる
     本部は福島に置かれる。関東・東北各地に18の支部を組織する
     矯正会は日本鉄道在勤の機関手、機関助手の加入義務を定める
     他の鉄道会社からの加入要請は拒み、あくまでも企業別組合にこだわる
     さらに労働争議という設立経緯から鉄工組合よりも結束の度合いが強くなる
     矯正会は基本金の積み立て、組合の基礎確立、会社の改革などに力を注ぐ
     会の基礎が強固になり会社側も圧迫の手段をくだす余地がなくなる
     会員は大いに自重し「労働者の先覚者としての義務を尽くさねばならない」と観念を抱くようになる
     労働組合期成会は矯正会に深い好意と支援を与え両者は密接な関係で結ばれる
     1899(明治32)初め/1千人の会員と1万円の積立金を有し、同年末には2万円の積立金を持つまでにいたる
     1901(明治34)03/日本鉄道労働組合の年次大会が大宮で開かれる
     社会主義が労働組合の唯一の根本的解決であると宣言した決議が可決される
     04/18「矯正会」大会が開かれ「社会主義を標榜して労働問題を解決すべし」と決議。社会主義を表明
     11/警察が宮廷列車の事故を機に解散を迫る
     11/25矯正会は孤立無縁のまま解散届を提出
  04/05日本鉄道会社の組合「矯正会」が勝利を得たことで、援助していた労働組合期成会との距離が縮まる
     のち期成会の2回にわたる東北遊説で2会の関係はさらに親密に
     第2回東北遊説のとき片山潜は2会の合同を勧告。矯正会の主な支部で賛成を得る
     のち矯正会大会で合同論が否決される
  04/10労働組合期成会が上野公園内の鶯亭で演説会を開く。奠都30年祭祝会を兼ねた運動会とあわせて挙行
     運動会は会員800余人は委員長片山潜の指揮のもと午前8時に事務所に集合。宮城にむかって「天皇陛下万歳」を三唱
     そろいの帽子をかぶり支部旗をつらね、隊伍をくんだ集会禁止反対デモが行進歌をうたいながら上野公園へ行進
     上野公園の鶯亭で休憩し弁当や酒とともに演説会(歓談)し、午後3時に散会
     04/22神田区の松月亭で開かれる
     05/15京橋区新栄町の連合会事務所で開かれる
  04/27片山潜、横山源之助らが救世軍の山室軍平らと貧民研究会を結成。第1回研究会が開かれる
     ほかに本郷真治郎、片淵啄、松原岩五郎、布川静淵、松村介石、高野房太郎、安達憲忠らが集まる
  04/労働組合期成会「労働者大運動会」を開く
  05/10福岡の国権派日刊紙『福陵新報』が3134号から題号を『九州日報』に改める
     記者は宮崎滔天、夢野久作ら
     『福陵新報』は1887(明治20)8月11日に玄洋社の頭山満を中心に刊行
     1940(昭和15)東京の読売新聞社に買収される
  05/15労働組合期成会が京橋区新栄町の連合会事務所で演説会を開く
     05/21芝区兼房町の玉翁亭で開かれる
     06/19横須賀の立花座で開かれる。700余人が集まる
  05/22内村鑑三が黒岩涙香の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社
     朝報社への入社は1897(明治30)2月。新聞『萬朝報』の英文欄主筆となる
     06/10山県悌三郎を社主として『東京独立雑誌』を創刊。内村は主筆に
     坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光次郎、佐伯好郎、中村諦梁らが編集者となる
     大島正健、松村介石、留岡幸助、元田作之進、田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らが寄稿
     1900(明治33)07/05東京独立雑誌社が解散となり第72号で廃刊となる
  06/19労働組合期成会が横須賀の立花座で演説会を開く。700余人が集まる
  06/22自由党と進歩党(旧改進党)が合同して憲政党が成立する、議会で圧倒的多数を占める
     06/30憲政党が政権をとる
     大隈重信を首相に、板垣退助を内相とする日本最初の政党内閣「第1次大隈内閣(隈板内閣)」が成立
     10/末憲政党が内部分裂する。内閣はわずか4か月で総辞職に
     旧自由党系が憲政党に、旧進歩党系が憲政本党となる
  06/25保安条例が保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止となる
     保安条例は1887(明治20)12月25日に制定、発布され即日施行される
  06/石川半山(石川安次郎)が『毎日新聞』の主筆に招かれる
  06/矯正会の会員が700余人に。日本鉄道在勤の機関手、機関助手の対象者ほぼ全員を組織
  07/23労働組合期成会が全国的に労働組合組織の宣伝をすることに。第1回東北遊説が東京を出発
     23日大宮24日福島25日一の関26日盛岡27日青森28日尻内29日仙台30日宇都宮31日帰京
     メンバーは片山潜、高野房太郎、高橋定吉、小笠原賢太郎があたる
     各演説会は500人から千人の聴衆を集めて宣伝の効果を収めることに
     一の関、盛岡、尻内、青森、仙台などの矯正会員(日本鉄道機関手の団体)は遊説で期成会に深い同情を表わす
     青森に鉄工組合第25支部、盛岡に鉄工組合第26支部を設立する
     福島、仙台、宇都宮などの鉄工組合員を激励し気勢を高める
  07/江澤三郎が印刷工の組合運動をはじめる
     08/04創立委員会を開く。旧活版工同志懇話会の残党も加わる
     江澤ら12人が創立委員となり東京で新たな活版工同志懇話会を再建する
     09/「会報」1号を発行
     会は「完成せる活版工組合の結成」を目的に「資本と労働の調和」を標傍
     のち会員は続々増すも資本家からの圧迫が甚だしく会員名簿は極秘に
     1899(明治32)会員が益々増加し資本家は圧迫をやめ援助の態度をとるようになる
     03/05委員評議員連合会にて会員名簿を発表することに
     05/17毎日新聞社社長の島田三郎が会頭に就任【6月?会長?】
     11/03活版工同志懇話会が解散し活版工組合の発会式が挙げられる
  08/民友社発行の総合雑誌『国民之友』が第372号をもって廃刊となる
     徳富猪一郎(蘇峰)らが1887(明治20)2月15日に創刊
  08/幸徳秋水が『万朝報』の紙上ではじめて言文一致体(口語体)を使う
     その最初は前年の7月31日、『団団珍聞』の茶説「秋山参事官を迎ふ」で使用
  09/23「労働組合期成会」が工場法案の修正意見を提出
  09/261万人余が集合し足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第3回目の押出しが行なわれる
     各地で警察が憲兵の阻止行動。田中正造の説得で惣代50人を残して解散
     09/29農商務省などに陳情する
     【第3回押出し】「足尾鉱毒事件略年表」へ
  09/28活版工同志懇話会創立委員の手により会報が創刊する。編集主任は高木久馬太
     1899(明治32)02/頃岸上克己を主筆としての発刊となる
     11/活版工組合の設立とともに『活版界』と改称
     1900(明治33)05/活版工組合の規約の運用を停止するとともに『誠友』と改称
     名士の名論なくも活版工らによる愛あり敬する文に満ちる
  09/救世軍の山室軍平が神田区三崎町方面の長屋1軒をかり模範小隊を作る
     山田弥十郎、角倉賀道の1軒で自給をはじめる
     【神田区三崎町の角倉嘉道の割長屋を借り新しく1小隊を設ける?】
     『鬨声(ときのこえ)』の編集作業のあと週3日を野戦に、土曜と日曜の夜は11畳の自宅で集会を開く
     全体で11畳半の小さな家で月給7円の山室が半額3円50銭を割いて屋賃にあてる
  10/18社会主義研究団体「社会主義研究会」が創立される
     社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究するを目的とする会
     1897(明治30)4月3日に発会し、のち1年有余にして自然消滅した「社会問題研究会」のあとを受けて成立
     『六合雑誌』の関係者がその中心となる
     東京芝区四国町の惟一館(ユニテリアン)の会堂を借り会を開くことに
     会長は村井知至、会員は片山潜、佐治實然、中村大八郎、幸徳傳次郎、高木正蔵、河上清、豊崎善之助、岸本能武太、新原俊秀、
     神田佐一郎、金子喜一、安部磯雄、村井知至、北川筌因、櫻井一義、綾部竹次郎、木下尚江、杉村廣太郎(杉村楚人冠)、平井金三
     1900(明治33)01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を芝ユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
  10/18「社会主義研究会」主催の第1回例会が開かれる
     研究課題は社会主義綱要。講師は村井知至
     11/20第2回例会が開かれる。研究課題は英国の地主制度。講師は村上清
     1899(明治32)01/15第3回例会が開かれる。研究課題はサン・シモンの社会主義。講師は岸本能武太
     02/19第4回例会が開かれる。研究課題はフーリエの社会主義
     講師は河上清。研究課題はルイ・ブラン及びプルードンの社会主義
     03/19第5回例会が開かれる。研究課題はフェルジナンド・ラサールの社会主義。講師は片山潜
     04/16第6回例会が開かれる。研究課題はカール・マルクスの社会主義。講師は村井知至
     05/28第7回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの社会主義。講師は安部磯雄
     06/25第8回例会が開かれる。研究課題は現今の政治社会と社会主義。講師は幸徳秋水
     10/22第9回例会が開かれる。研究課題は実際的研究方法について。講師は安部磯雄
     研究課題は市街鉄道問題について。河上清
     11/26第10回例会が開かれる。研究課題はニュージーランドの土地制度。講師は安部磯雄
     1900(明治33)01/28第11回例会が開かれる。研究課題は普通選挙。講師は北川筌因
     「社会主義研究会」が「社会主義協会」に改組されるも例会は続く
     02/25第12回例会が開かれる。研究課題は都市問題について。講師は片山潜
     研究課題は都市問題について。講師は杉山重義
     03/24第13回例会が開かれる。研究課題は三級選挙法について。講師は杉山重義
     04/28第14回例会が開かれる。研究課題はビスマルクの強制保険法について。講師は安部磯雄
     05/27第15回例会が開かれる。研究課題は工場法制定について。講師は河上清
     1901(明治34)01/27第16回例会が開かれる。研究課題は社会主義の心理学。講師は安部磯雄
     03/24第17回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの立場を支持する講演。講師は田口卯吉
     (以下は単独で記載)
  10/18キリスト教主義の月刊誌『六合雑誌』第215号から「社会主義研究会」の記事を連載する
  10/神田区の青年会館で日本社会政策学会が第1回講演会を開く
     日本社会政策学会は、もともと1896(明治29)4月2日に創立した無名研究会が1897(明治30)に改革した組織
     のち社会政策に関する研究や講演を重ねる
     のち昭和時代に及ぶ
  11/01留岡幸助が警醒社書店から『慈善問題』を発行する。定価25銭
  11/18、19幸徳秋水が『万朝報』の論説に「社會腐敗の原因と其救治 上・下」を発表
     村井知至と片山潜が即日連名のハガキで社会主義研究会設立の旨を報じ、幸徳へ入会を勧誘
     11/20幸徳秋水が芝ユニテリアン惟一館の図書室で開かれた社会主義研究会主催の第2回例会に出席
     幸徳秋水が入会する
  11/20「社会主義研究会」主催の第2回例会が開かれる。研究課題は英国の地主制度。講師は村上清
  11/20「矯正会」の機関誌『矯正会々報』第1号が発行する
     以降、名称や体裁は幾度となく変わるも、記事は一貫して変わらず
     学理的と事務的なことのみとし、紙上に気焔をはくことはなし
     1899(明治32)05/『鉄道世界』と改称
     12/矯正会誌』と再び改称する
     1900(明治33)06/名称がもとの『矯正会々誌』に復する
  11/高野房太郎は期成会の常任幹事、鉄工組合の常任委員を辞任
     生活協同組合運動の重要性を説き、横浜に共働店(生活協同組合)横浜鉄工共営合資会社を設立
     みずから経営にあたる
     のち東京、横浜、横須賀、大宮など関東を中心に、東北、北海道にも組織を拡大
     横浜鉄工共営合資会社設立から半年余高野房太郎は辞任
     1899(明治32)06/高野房太郎は期成会、鉄工組合の常任役員に復帰する
     鉄工組合から20円、期成会から5円の月給を受ける。有給役員に
     1900(明治33)01/鉄工組合の財政情況が急速に悪化、常任委員としての給与を辞退
     のち常任委員を辞任する
  11/大阪で「日本平民協会」が設立される
  11/和歌山市で『日本平民新聞』が創刊する
  12/07木下尚江が無罪判決で出獄し降旗元太郎邸へ
     木下は前年8月10日に中村太八郎と官憲の圧迫と県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で逮捕される
     今年1月24日に禁錮8か月の判決を受けて控訴、2月9日には東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容
     降旗は木下と同郷の信濃国筑摩郡本郷村生まれ
     1898(明治31)3月15日の第5回衆議院議員総選挙で当選する
     【降旗邸は東京か?松本か?】
  12/18東京の上野公園に西郷隆盛の像が建ち除幕式が行なわれる
     西郷像は高村光雲の作。かたわらの犬は後藤貞行の作。鋳造は岡崎雪聲
     発起人は吉井友美、宮内省より500円を下賜され、全国2万5千人余の有志の寄付金で建立
     身長370.1糎、胸囲256.7糎、足55.1糎
  12/社会学研究会が創立
     「社会学の原理、社会問題及び社会改善策の研究」を目的とする
     会長は加藤弘之。評議員は元良勇次郎、有賀長雄、小河滋次郎、戸水寛人、呉文聡、高木正義
     委員は武井悌四郎、岡百世、富尾木知佳、布川孫市、木時彌、高桑駒吉、五来欣造ら
     東京帝国大学の文科大学が中心となる
     研究方法は談話会、研究会、講演会の開催と雑誌の発行
     1899(明治32)01/01社会学研究会の機関誌『社会』が創刊される
     機関誌『社会』を発行
     1902(明治35)第4巻から『社会学』に改称する
  12/城泉太郎が神戸で労働組合研究会を起こす
  年末/「矯正会」の石田六次郎がほかの矯正会員とともに禁酒会を設立、一般社会への働きかけを行なう
  年末/労働組合期成会の会員数が3千人に
     1899(明治32)年末/会員数が5700人に
     のち明治33年に入って次第に衰退することに
  年末/松村介石を会長として青年独立会が設立される
     1899(明治32)夏/「社会教育」を重きに進めることに

  年末日本の芸妓2万4261人、娼妓4万9208人、酌婦3万4015人、計10万7484人
     日本の貸座敷1万0172軒、待合茶屋0軒、計1万0172軒
     のち1909(明治42)、1910(明治43)、1911(明治44)、1912(大正01)にも同様の比較統計あり

  鉄工組合の城北支部付属として徒弟夜学会が起きる
     片山潜、村松民太郎、高橋定吉、飯田鎮三郎、飯塚収、竹林正太郎らが発起
  鉄工組合が急速な発展を示す
     芝浦工場、石川島造船所、横須賀造船所、甲武鉄道、砲兵工廠精密工場、
     赤羽海軍工場、東京湾内汽船会社所属工場などに支部が設立する
     地方では福島、仙台、黒磯、青森、盛岡、北海道滝川などに支部が生まれる
     鉄工組合は1897(明治30)12月1日に創立
     年末/組合員数が2717人にのぼる
     1899(明治32)王子、北海道旭川、札幌、大宮工場木工部、水戸などに支部が設立
  この年に起こった同盟罷工は42件に及ぶ。日本鉄道機関手、東京王子製糸会社職工、
     新潟沖合船大工、富岡製糸工場女工、白河製糸工場女工、九州鉄道電信係員、東京府下形付職工、
     鶉浦セメント会社人夫、東京深川活版工、佐賀煙草刻職工、岡山煙草刻職工など

  熊本二本木町の遊廓東雲楼にまだ東雲太夫がいない頃、東雲楼に馬で通う美女があらわれる
     のち馬上美人はたちまち評判となり熊本名物のひとつに
     のち東雲楼楼主の中島茂七が馬上美人を1千円で買い入れる
     娼妓の身売り金20、30円から50円が相場で100円はめったになかった時代
     のち馬上美人は中島の期待通りの大評判に
     1千円の元金たちどころに取り返す


1898(明治31)頃

  「南葵文庫の会」の会員が麻布区飯倉片町に集いはじめる
     会員は権藤成卿、飯塚納、小沢打魚、川崎紫山、内田良平(黒龍会主宰)、大江卓、樽井藤吉、山口弾正、
     大井憲太郎、小島文六、三浦伴八、兼松義整、綱島正興ら『南葵文庫の会』の会員と会を母体として
     南葵文庫は紀州徳川家の当主で日本図書館協会総裁の徳川頼倫が設立した私設図書館
     1918(大正07)10/07老壮会に発展する

  熊本二本木町の東雲楼が東雲町新牙山口に支店を建てる
     本店を日本亭、支店を東雲支店と呼ぶようになる
     絶頂期抱え娼妓70余人、芸妓20人近くに
     娼妓の源氏名は、はじめの53人に品川、川崎から草津、大津に至る東海道五十三次の宿場名をあてる
     その上に今紫、雲井、小桜などきれいな名の妓を置き、最高位に東雲太夫、小紫太夫をすえる
     全九州を睥睨することに


1899(明治32)

  《総理大臣》[第9代](第2次)山縣有朋
  《内務大臣》[第18代]西郷従道
  《警視総監》[第12代]大浦兼武
  《内務省警保局局長》小倉久(→04/07)、安楽兼道(04/07→)


  初め/日本鉄道会社の「矯正会」が1千人の会員と1万円の積立金を有するまでに
     同年末には2万円の積立金を持つまでにいたる
     1901(明治34)03/日本鉄道労働組合の年次大会が大宮で開かれる
     社会主義が労働組合の唯一の根本的解決であると宣言した決議が可決される
  01/01前年に福田家をでていた石川三四郎が下宿の親戚筋にあたる実業家石川家のカルタ会いく
     のち石川三四郎は石川家の長女との養子縁組が持ち上がり、正式に婚約
     1900(明治33)石川三四郎が某娘との不始末、生きることへの懐疑から石川家長女との養子縁組を解消する
  01/01『労働世界』に社会主義欄が常設され、毎号積極的に宣伝をはじめる
  01/01社会学研究会の機関誌『社会』が創刊される
     社会学研究会は1897(明治30)12月に創立した東京帝国大学の文科大学が中心となる組織
     1902(明治35)第4巻から『社会学』に改称する
  01/08鉄工組合が1周年祭を上野公園の竹の台にて計画する
     準備を終え開会しようとしたとき、突然下谷警察署長がきて治安を害するものと解散を命じる
     皇室の管理下にある公園当局の許可を得ていたにもかかわらず、政府は解散を命じる
     組合員は憤慨するも争わず退散
     「労働運動が盛んになれば、こんな目にもあうまい」と不忍池畔の家屋を借り紀念祭を催す
  01/13幸徳秋水が『万朝報』に「非政治論」を発表
  01/15「社会主義研究会」主催の第3回例会が開かれる。研究課題はサン・シモンの社会主義。講師は岸本能武太
  01/牧師坂本直寛の提唱により「日本坑夫同盟」結成大会が札幌市の豊平館で催されることになる
     坑夫の精神的、経済的向上と共済制度の強化をはかることが目的
     夕張からは渡り坑夫の代表として南助松ほか2人、自坑夫代表として永岡鶴蔵ほか1人の5人が出席
     永岡と南の2人が初めて出会う
     北海道庁の弾圧で会場貸与が不許可となり結成大会は延期に
     06/01日本坑夫同盟を共済を主体とした帝国鉱夫共済会と改めて設立大会が札幌の豊平館開かれる
     創立員として永岡と南が参加
  01/日本鉄道大宮工場の鍛工8人が不当解雇される
     鉄工組合本部から片山、高野、澤田の3人が出張し日鉄社長を訪ね詰問する
     別働体が大宮町で演説会を開き組合の主張を宣明する
     のち会社は組合の実力を感じ解雇条件を幾分譲歩することに
  石川三四郎は養父の事業の要件で豊多摩郡淀橋町角筈738番地の福田家をしばしば訪れるようになる
     のち石川三四郎は福田家が預かっていた某娘と懇意となり情交を結ぶ
     1900(明治33)福田家で預かる妊娠した某娘が行方不明に
     某娘は前年に石川三四郎と情交を結ぶ
     のち石川三四郎を頼りに姿をあらわす
     石川は景山英子と相談のうえ東京慈恵病院に入院させる
     05/10女児が誕生する。まもなく某娘が失踪する
     残された赤ん坊は幸子と名づけられ石川三四郎の次兄犬三が引き取る
  02/11木下尚江が生まれ故郷の長野県松本を離れ上京
     02/13毎日新聞社に入社する
     1906(明治39)07/31東京毎日新聞社を退社
  02/13ベンヂャミン・キット著、角田柳作訳の『社会之進化』が開拓社から定価35銭で刊行する
  02/19「社会主義研究会」主催の第4回例会が開かれる。研究課題はフーリエの社会主義
     講師は河上清。研究課題はルイ・ブラン及びプルードンの社会主義
  02/頃活版工同志懇話会の会報が岸上克己を主筆としての発刊となる
     創刊は1898(明治31)9月28日
     11/活版工組合の設立とともに『活版界』と改称
     1900(明治33)05/活版工組合の規約の運用を停止するとともに『誠友』と改称
     名士の名論なくも活版工らによる愛あり敬する文に満ちる

  03/01北海道函館の坂井フタは第2審でも敗訴になる
      坂井は1897(明治30)8月に前借200円で身売り、1年が過ぎても返済できず
      弁護士を介し函館地方裁判所へ廃業届書に調印請求の訴訟を起こすも1審、2審とも境は敗訴
      大審院に上告すると理由あるものとして原判決を破棄、事件を函館控訴院に差し戻す
     のち大審院に上告する
     のち大審院は上告を理由あるものとして原判決を破棄、事件を函館控訴院に差し戻す
     上告人坂井フタの控訴代理人は橋本好正、被上告人の楼主山田精一の訴訟代理人は石尾一郎助と斎藤孝治
     1900(明治33)02/23第4審の判決が言い渡される【控訴審で判決?】

  03/19「社会主義研究会」主催の第5回例会が開かれる。研究課題はフェルジナンド・ラサールの社会主義。講師は片山潜
  03/左官たちが古いギルドを新しい組合に改組する。左官組合は2600人もの組合員を有する
  春/国木田独歩が報知社の『報知新聞』に政治記者として入社する
     のち1年後には退社
  活版工同志懇話会の会員が益々増加。資本家は圧迫をやめ援助の態度をとるようになる
     03/05委員評議員連合会にて会員名簿を発表することに
     05/17毎日新聞社社長の島田三郎が会頭に就任【6月?会長?】
     11/03活版工同志懇話会が解散し活版工組合の発会式が挙げられる
  04/03神田区の錦輝館にて活版工同志懇話会が春季大会を開催。片山潜、松村介石、宮川鉄次郎の3人が演説
     片山潜が名誉員に推されるが懇話会が調和論をとり片山との間に意見対立が生じる
  04/03日刊4ページ建ての『千代田日報』が発刊する
     本社は京橋区築地3丁目11番地、発行兼印刷人は正福巳之助、編輯人は多喜豊次郎、社長は加藤時次郎
     記者は社会部に岡鬼太郎、硬派主筆に熊田葦城、外交に工藤鉄男
     のち経営が思わしくなくなる
     1900(明治33)06/11『毎夕新聞』と合併し『千代田毎夕新聞』となる
  04/15高野房太郎が『労働世界』第34号に「労働世界に警告す」を発表
     期成会傘下の鉄工組合が社会主義化することへの批判
  04/16「社会主義研究会」主催の第6回例会が開かれる。研究課題はカール・マルクスの社会主義。講師は村井知至
  04/28豊原又男が魁真楼ほかから『資本と労働の調和』を刊行する。定価30銭
  04/30横山源之助が教文館から『日本之下層社会』を刊行。定価60銭
  04/片山潜が社会政策学会の宣言起草委員の1人になる
     「我々は極端なる社会主義に反対する」の点に片山が異議をとなえる
     学会は片山の退会勧告を議す
  04/神田の人力車夫が信用組合を組織しようと運動をするも成功せず
  05/03横山源之助が『内地雑居後之日本』を刊行
     縦18.7センチ、横12.7センチのB6版。発行者は片山潜、発行所は労働新聞社。印刷者は吉岡厳八、印刷所は秀英舎工場
     例言2ページ、目録2ページ、本文142ページ、著者断り書1ページ、広告8ページ、奥付1ページ。定価20銭
  05/28「社会主義研究会」主催の第7回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの社会主義。講師は安部磯雄
  05/安部磯雄が東京専門学校の講師となる
     1907(明治40)05/早稲田大学教授に嘱任される
     1927(昭和02)01/教授を退職
  05/「矯正会」の機関誌『矯正会々報』の名称が『鉄道世界』と改称
     1898(明治31)11月20日に『矯正会々報』で創刊
     12/『矯正会誌』と再び改称する
     1900(明治33)06/名称がもとの『矯正会々誌』に復する
  06/01日本坑夫同盟帝国鉱夫共済会と改めて設立大会が札幌の豊平館開かれる
     創立員として永岡鶴蔵と南助松が参加
  06/01東京市神田区錦町3丁目の錦輝館が前年の米西戦争についてのアメリカのニュース映画「米西戦争活動大写真」を上映
     日本初のニュース映画上映とされる
     1908(明治41)06/22赤旗事件が起きる【項目なし】
     1908(明治41)08/01イタリアの映画会社と契約を結び活動写真会を開く
     のち洋画の専門館となる
     1918(大正07)08/19火災により焼失する
  06/14九州の豊国炭坑で207人の坑夫が生き埋めにされる。炭坑施設を守るために放置され焼死
  06/15福沢諭吉が時事新報社から『福翁自伝』を刊行。定価40銭
     福沢諭吉述、矢野由次郎記
  06/19品川馬車鉄道会社が東京馬車鉄道会社に合併
     品川馬車鉄道会社は1889(明治22)11月、新橋〜品川間に無軌道式の乗合馬車として品川乗合馬車鉄道の名で開業
     1897(明治30)12月には鉄道軌道式となり品川馬車鉄道会社に改称する
  06/25「社会主義研究会」主催の第8回例会が開かれる
     研究課題は「現今の政治社会と社会主義」。講師は幸徳秋水
  06/26堺利彦が末松謙澄子の『防長回天史』の編纂を手伝い予想外の1千円を受け取る
  06/高野房太郎が期成会鉄工組合の常任役員に復帰する
     鉄工組合から20円、期成会から5円の月給を受ける。有給役員に
     高野は1898(明治31)11月に期成会常任幹事、鉄工組合常任委員を辞任
     1900(明治33)01/鉄工組合の財政情況が急速に悪化、常任委員としての給与を辞退
     のち常任委員を辞任する
  06/大井憲太郎一派が大阪に大日本労働協会を設立する
     協会の意図は労働組合の組織を奨励し労働者の授産場、出獄人保護の授産場、
      労働者の夜学校、労働者の寄宿舎、無銭入浴場など社会事業の実行
     10/機関誌『大阪週報』を創刊。主筆は柳内義之進
     1901(明治34)05/大井の労働運動、農民運動は実を結ぶことができずに消滅
  06/大井憲太郎一派が大阪に大日本労働協会の別働隊として小作条例期成同盟会を設立
     メンバーは大井憲太郎、柳内義之進、城水兼太郎、宮崎虎之助、森田喜之助ら
     西日本を中心に小作米軽減運動、法廷闘争の支援活動などを行なう
     のち奈良、石川、岡山、山口、福岡、長崎、広島、熊本などに支部をつくる
     1901(明治34)05/大井の労働運動、農民運動は実を結ぶことができずに消滅
  06/大日本労働協会が起こってまもなく神戸に清国労働者非雑居期成同盟会が設立する
     神戸海陸両仲仕3万余人からなる沖仲仕と陸仲仕両組合が中堅となる
     目的は支那人雑居制限勅令の不備を説き絶対的に雑居を禁止させないため
     のち神戸の大黒座にて第1回演説会を開く
     全国に向けて運動し全国労働者の一致により目的を達する意気込みに
     08/26第3回演説会を岩井座で開く
     のちなにごともすることなく、いつの間にか消える
  06/長野県の軽井沢で外国人に雇われている料理人らが日本人会を開く
     組合が必要との話が起こる
     10/料理人組合の進徳会を組織する
     目的は「技術の進歩を図ると同時に同業者間の利福を増進し美風を養成、萬弊を除去し会員間の緩急相助け疾病相救う」とする
     ただ発起人にキリスト教徒が多く、主となる目的は「美風の養成、萬弊の除去」にあり労働条件の改善を志すものになく
     会長に片山潜が推される
     1901(明治34)04/本進徳会を改称し料理人組合
     本部を京橋区入舟町から神田区三崎三丁目1番地のキングスレー館に移す
     料理人養成所と料理人紹介所を設立
  07/01堺利彦が朝報社に入社。記者になる。月給40円
  07/08島田三郎が『毎日新聞』紙上に「対外思想の変化」を連載、日露の非戦論を展開する
     のち11月16日まで51回にわたり連載
     1900(明治33)09/11『日本と露西亜』と題して警醒社書店から単行本化。定価30銭
  07/09神田区の青年会館で活版工同志懇話会主催の演説会が開かれる【07/02?】
     桑田熊蔵、高野房太郎、片山潜、金井延、島田三郎、神保院長などが演説
     労資協調論と社会主義とが対立することに
     社会政策学会会長で東京帝国大学法科大学教授の金井延や桑田熊蔵などは高野房太郎とともに社会主義の排撃を主張
     労資協調、社会主義反対が活版工組合の立場で、また社会政策学会の立場でも
     桑田の「改良主義」、金井の「社会主義を駁す」、高野の「日本の労働運動の方針」
     対して片山潜の「調和主義と社会主義」は主張において正面から対立
     金井が片山の社会主義観を批判する
     活版工同志懇話会と期成会の関係が疎遠になる
  07/10労働組合期成会が労働組合を宣伝するための第2回東北遊説が、東京を出発
     片山潜1人で黒磯、福島、仙台、一の関、盛岡、尻内、青森などを歴訪
     矯正会員と懇談し期成会と矯正会と合同する必要を説く
     のち北海道に渡り札幌、旭川に演説会を開く
     帰途、青森、尻内、仙台、原町、平、水戸などで労働問題について懇談する
  07/12労働新聞社が村井知至の『社会主義』を発行する
     第1章 欧州現時の社会問題 第2章 社会主義の定義 第3章 社会主義の本領 第4章 社会主義と道徳
     第5章 社会主義と教育 第6章 社会主義と美術 第7章 社会主義と婦人 第8章 社会主義と労働組合
     第9章 社会主義とキリスト教 第10章 理想の社会
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/16福井準造が有斐閣出版から『近世社会主義』を刊行。定価1円30銭
  07/20高野房太郎が清国労働者非雑居期成同盟会に神戸に出張する
     同盟会は神戸の海陸両仲仕3万人からなる沖仲仕組合、陸仲仕組合が中堅となり作る
     目的は清国人雑居制限勅令の不備を説き雑居禁止を実現せんとするもの
  07/30高野房太郎が神戸を遊説する
  07/幸徳秋水(28)と師岡千代子が結婚。媒酌は中江兆民の門下生南波登発。幸徳は2度目の結婚
     千代子は足利尊氏の木像梟首事件で有名な伊予宇和島藩士国学者師岡正胤の末女
     新居を麻布区南佐久間町に構え、幸徳の母多治と3人暮らし【佐久間町?】
     11/08婚姻届を提出
  夏/1898(明治31)末に設立した青年独立会が「社会教育」を重きに進めることに
  08/28愛媛の別子鉱山で暴風雨による山津波が起きる。死者513人、負傷者26人
  08/28堺利彦、美知子との間の長男不二彦が脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去[1897(明治30)10/生]【12/23?】
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
  08/東京馬車鉄道会社の馭車車掌の有志が社則の改訂と給料支払い方法の改正に乗りだす
     請願しようとするも会社は首謀者を営業妨害者として解雇
     労働組合期成会は解雇者保護のため会員に寄付金を募る
     のち解雇者らが中心となり東京馬車鉄道会社馭車車掌同盟期成会を起こす
     会社は無理やり組合期成会を壊そうとし、期成会は両者のあいだに立ち調停を試みる
     運動を開始する直前、会社の狡猾手段と会員の弱腰のため運動は立ち消えに
     1900(明治33)10/再び組合組織の運動をはじめるも発達を見ることはなく
  08/中村太八郎、木下尚江らの普通選挙期成同盟会がふたたび普選請願書を提出
     1897(明治30)5月、10月に次いでの提出となる
  08/小笠原誉至夫が和歌山市に実業会館を起こし演説、講談、冊子の頒布などをはじめる
     慈善事業を奨励し貧民教育の普及を計り社会的教育の発達を計るを目的として
  09/25幸徳秋水が村井知至に社会主義研究会の再開を促す手紙を送る
     社会主義研究会は幸徳の公演以来3か月ほど休止
     09/26村井が来月より再開すると返信
  10/021897(明治30)に木下尚江、中村太八郎らにより松本に組織された普通選挙期成同盟会が東京に進出
     普通選挙期成同盟会を結成し議会請願や啓蒙活動を行なう。当初は旧民権運動家と言論人が中心
     のち幸徳秋水や片山潜などの初期社会主義者らが会員となり『万朝報』『二六新報』などの有力紙が後援
     新聞記者や政治家をはじめ労働組合の幹部、理髪業者などが入会する
     神奈川、群馬、香川、大分などの各県に支部を設立
     11/総会が開かれる
     河野広中、福本誠が総務委員に。片山潜、中村太八郎、小野瀬不二人、山口弾正、菊池武徳の5人を幹事に選ぶ
     会名を「普通選挙同盟会」と改める
     のち1902(明治35)から1903(明治36)にかけて東京周辺で盛んに演説活動を繰り広げる
  10/20救世軍本部が山室軍平の『平民之福音』を発行する
     妻機恵子の助けが大きく夫婦合作にふさわしい作品。山室の処女作で代表作となる
     四六判約170ページ、1部二十銭、送料4銭
     第1章「天の父上」、第2章「人の罪悪」、第3章「基督の救」、第4章「信仰の生涯」、第5章「職分の道」
     のち中村京太郎により点字訳がされる
     1925(大正14)裴緯良(はいいりょう)の訳で朝鮮語版が発行される
  10/22「社会主義研究会」主催の第9回例会が開かれる
     研究課題は実際的研究方法について。講師は安部磯雄
     研究課題は市街鉄道問題について。河上清
  10/大阪の大日本労働協会が日本最初の労働週刊雑誌『大阪週報』を創刊
     主筆は柳内義之進。編集は大井憲太郎
     社会主義を鼓舞し、社会主義は労働問題の唯一の解決法であると、はっきりと主張する
     1900(明治33)春/発行回数を月2回に変更
     のち月刊となる
     のち資金不足と労働者の支持不足で間もなく失敗
  11/03東京神田錦町の錦輝館で印刷工組合の発会式が行なわれる
     労資の利害の同一性を唱え、会長は代議士島田三郎を選出する
  11/03活版工同志懇話会が解散し活版工組合の発会式が挙げられる
     会長に島田三郎、幹事長に岸山芳太郎、常任幹事に岡村鐘太郎、会計部長に長谷川清、
     編纂部長に佐々木粂次郎、救済部長に中村八十吉、庶務部長に吉田三郎、会報主任に岸山克己が決定
     石黒忠悳、加藤弘之、金井延、片山潜、高野房太郎、村井知至、桑田熊蔵、
     松村介石、手島精一、宮川鉄次郎、日野資秀が名誉会員に推される。会員は2千余人に
     島田三郎は「組合員諸氏に告ぐ」を演説。職工に対して「修養」の必要を説く
     のち労資協調主義に立つ活版工組合は活版印刷業組合の賛成を得る
     規約に2割の夜業割増賃金等を記すことに
     のち横浜、京都、名古屋、大阪、奈良などに支部が設立される
     1900(明治33)01/形勢が逆転し組合が衰退
     退会者や会費滞納者が続出し資本家も態度を一変し強硬に
     01/27総会において組合方針についての秘密会を開き挽回に努める
     05/勢いの衰えはどうすることもできず解散を余儀なくされる
     まもなく2つの団体が発足
     京橋方面ほか職工のみの印刷工組織による「誠友会」
     牛込の印刷工組織で誠友会に比し協調的な「厚信会」
     1907(明治40)頃「誠友会」はこの頃まで続く
  11/07日本鉄道大宮工場鍛冶工場技手の不当な支配を糾そうとした組合員8人が解雇される【11/08?】
     労働組合期成会鉄工組合が紛議仲裁を行なうも拒否され成果はあげられず。世論に訴える
     のち会社は事態収拾のため親方職工的技手を追放。さらに労務者管理の改善、強化を行なう
     1900(明治33)春/日鉄機械工待遇改善運動へと発展する
  11/07難波大助が山口県熊毛郡周防村立野宮河内の名家に生まれる。山口県の衆議院議員難波作之進の四男
     1923(大正12)12/2710時50分、虎の門の路上で摂政宮裕仁が乗る自動車にステッキ銃の銃弾が発射される
     摂政宮裕仁はのちの昭和天皇。虎の門事件
     失敗し「革命万歳」と叫び逃走をはかる。周囲の群衆の暴行を受けるなか警備の警官に現行犯逮捕される
     犯人は23才の難波大助。山口県の衆議院議員難波作之進の四男
     難波の犯行はギロチン社とも労働運動社とも関係ない単独犯
     犯行に使ったステッキ銃は、大審院長の横田秀雄は林文太郎が満州でステッキかわりに使っていたもの
     【伊藤博文がロンドンで購入し難波の祖父が伊藤からもらったもの】
     1924(大正13)11/13虎の門事件の判決が言い渡され聞いていた犯人の難波大助が突然大声で叫ぶ
     「日本無産労働者、日本共産党万歳、露西亜社会主義ソビエット万歳、共産インターナショナル万歳」
     難波は1923(大正12)12月27日に摂政の皇太子裕仁親王を近接狙撃するも失敗、警官に現行犯逮捕される
     11/14怒った司法大臣の横田千之助が死刑執行命令をだす
     11/15市ケ谷刑務所にて大逆罪で処刑される
  11/08幸徳秋水(28)と師岡千代子が婚姻届を提出。幸徳は2度目の結婚
     千代子は足利尊氏の木像梟首事件で有名な伊予宇和島藩士国学者師岡正胤の末女
     新居を麻布区南佐久間町に構え、幸徳の母多治と3人暮らし【佐久間町?】
     1909(明治42)03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳秋水は正式に協議離婚をする【03/04?】

  11/名古屋の宣教師U・G・モルフィが牧師の大儀見元一郎、平田平三らと上京する
     内務省、司法省を赴き運動する
     毎日新聞社社長の島田三郎を訪ね協力を求める

  11/18幸徳秋水が「四国非増租同盟会」に参加
  11/26「社会主義研究会」主催の第10回例会が開かれる。研究課題はニュージーランドの土地制度。講師は安部磯雄
  11/30労働問題学術演説会が開催。高野房太郎、片山潜らが講演する

  11/30『毎日新聞』がモルフィの協力に応じ廃娼問題を取り上げる
     「人身自由問題(娼婦の勝訴、司法・行政の衝突)」を連載
     一般新聞が廃娼問題を大々的に取り上げる最初となる
     同時に矯風会も活躍し、救世軍も活動を始める
  12/04『毎日新聞』が埼玉の廃娼運動を取り上げ援助する

  12/22堺利彦、美知子との間の長男不二彦が脳膜炎を起こし死去[1897(明治30)10/生]
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
     1903(明治36)01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から

  12/とある娼妓が吉原の野村楼に前借金600円で6か月身を沈めることに
     のち娼妓は救世軍に依頼し自由廃業の手続きをとる
     のち1900(明治33)9月5日の新万楼の中村八重事件に怖じ気づいた楼主は策を講じる
     娼妓に対し6か年の契約を、9月9日から向こう6か月に縮めるから、穏やかに廃業するよう内密に懇談
     娼妓は断りかねて承諾、救世軍には廃業依頼の取り消しを申し送る

  12/景山英子の夫福田友作の病状が悪化する
     1900(明治33)04/23福田友作が36才で死去する
  年末/労働組合期成会の会員数が5700人に
     のち明治33年に入って次第に衰退することに
  19才の管野すがが父の懇望で東京市深川区深川東六間堀2番地の小宮福太郎と結婚する
     1902(明治35)08/19すがの父が中風に倒れたのを看護する理由で小宮家をでる。大阪に帰る
     のち小宮と離婚する
  管野すがが大阪の宇田川文海に師事
     のち『大阪朝報』の婦人記者として小説、雑報などの原稿を書く
  鉄工組合の支部が各地に設立
     王子、北海道旭川、札幌、大宮工場木工部、水戸など
     鉄工組合は1897(明治30)12月1日に創立
     1900(明治33)横浜浦賀などに支部が組織される
     一方、退会する者、会費滞納する者が続出
     04/組合員数5400に対し会費納入者はわずか1千人に
     06/09本部委員総会で「死亡に対する救済金15円を10円に
     疾病火災、負傷に対する救済金を当分停止」を決議
     のち財政悪化をきっかけに衰退
  山口県で3千人の農民が小作人農事会を組織。小作米軽減運動を起こす
  齋藤房次郎が再び東京船大工組合を起こし熱心に奔走。会員は300余人に
     1896(明治29)5月に一度起こすも会社側の悪だくみにより消滅する
     のち次第に振るわなくなる
  『労働世界』とその主筆の直接の援助のもとに東京でコックの組合が、横浜で家具工の組合が結成される
  板垣退助が社会主義の原理に基づく改革クラブ「同気倶楽部」を創立
     和歌山市と大宮市に労働者の教育と娯楽のために労働者クラブが設立される
  愛媛の別子鉱山で初めて負夫に女子労働者が採用される
  加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
     1915(大正04)11/加藤病院を改組して平民病院を開設する

  根津遊廓の有志が芸妓、娼妓に読み書き裁縫を指導する「女学校」を設立する
     大見世の大松葉楼(楼主渡坂清吉)と大八幡楼(名義人岡村きん)が発起人となり三島教部大丞に申請、許可を得る
     遊廓では客の増加にともないインテリ層も増え廓芸者や娼妓に習字から裁縫などひと通りの教養を身につけさせる
  この年、全国の娼妓数は5万2274人に及ぶ。うち東京は6871人
     1900(明治33)全国で自由廃業がなされる
     1901(明治34)娼妓の数が4万0195人となる。うち東京は5158人
     全国で1万2千人余りの減少となる
     救世軍の活動は世間で喧伝され、流行歌となり、講談、演劇になる
  翌年にかけてモルフィが演説会を開き、パンフレットを配りの活動する
     のち娼妓の親が訪ね救助を求め、本人が廓を抜けだし逃げ込んでくるようになる
     条約改正実施前で外国人のモルフィに警察の手は及ばない
     でも、モルフィが警察へ廃業届をだしても楼主と取締役の連署捺印がなく受理されず
     のちモルフィが警察に呼び出され説諭される
     「あなたは基督教の伝道者だから基督教の伝道だけして下さい。
     遊廓の問題の問題は外国人が言うべき筋ではない」


1900(明治33)

  《総理大臣》[第9代](第2次)山縣有朋(→10/19)、[第10代](第4次)伊藤博文(10/19→)
  《内務大臣》[第18代]西郷従道、[第19代]末松謙澄(10/19→)
  《警視総監》[第12代]大浦兼武、[第13代]安楽兼道(10/19→)
  《内務省警保局局長》安楽兼道(→10/19)、田中貴道(10/25→)


  この時期、廃娼運動を積極的に応援したのは『毎日新聞』『二六新報』
     反して廃娼運動を一言も言及しなかったのは伊藤博文と関係のある『東京日日新聞』
  01/01『毎日新聞』が約半年にわたり「社会外之社会」を連載
     常に社会の底辺への眼差しを持ち、社長の島田三郎を中心に娼妓、貸座敷を特集するなか
     娼妓の悲惨な生活の実情を紹介し世人の注目を喚起、救世軍の廃娼運動を支援する
     1、乞食の種々なる習慣。1、芸娼妓売買の事情。1、芸娼妓の生活。1、貸座敷営業者の内幕。
     1、芸娼妓抱主の暴状。1、盗賊の社会。1、博徒の社会。1、其他一切貧民の社会。

  01/04島田三郎がユニテリアン教会に加入。植村正久の教会から除名される
  01/05内村鑑三の東京独立雑誌社に西川光次郎が入社
     07/05内紛により東京独立雑誌社が解散する
     10/05西川が旧東京独立雑誌社の社員、坂井義三郎、安孫子貞治郎らと『東京評論』を創刊する

  01/13名古屋市吾妻町金華楼の鶴松こと松井きぬ(26)が脱出
     東芳野町大用寺方に潜伏する
     01/31科料50銭に処せられる
  01/21『毎日新聞』が「埼玉県の公娼否認」を掲載する
  01/21埼玉県大宮町の大宮労働倶楽部の主催で公娼反対演説会が開催、聴衆数百人
     1899(明治32)12月に可決した埼玉県会の公娼増置建議に反対し、安部磯雄、木下尚江、島田三郎ら演説
     『毎日新聞』が廃娼キャンペーンで支援
  01/21埼玉県の大宮町にて催された公娼反対演説会で安部磯雄と木下尚江が出会う
  01/23『毎日新聞』が「埼玉の公娼問題 社会の新運動者」の連載を開始
     のち01/24に第2回、01/26に第3回、01/28に第4回、01/29に第5回、01/30に第6回、02/01に第7回(終)と続く
  01/28名古屋市常盤町山花楼の娼妓三輪かね(19)が免許地外の丹羽郡大田村へ無届け外出をする
     科料50銭に処せられる

  01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     「社会主義研究会」は1898(明治31)10月18日に社会主義理論の研究を目的として創立
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を東京芝区四国町のユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
     1903(明治36)10/片山が幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方の「社会主義協会」本部が平民社に移される
  01/28「社会主義協会」主催の第11回例会が開かれる。研究課題は普通選挙。講師は北川筌因
     それまでの主催「社会主義研究会」が「社会主義協会」に改組されるも例会は続く
  01/活版工組合の労資形勢が逆転し組合が衰退
     退会者や会費滞納者が続出し資本家も態度を一変し強硬に
     01/27総会において組合方針についての秘密会を開き挽回に努める
     05/勢いの衰えはどうすることもできず解散を余儀なくされる
     まもなく2つの団体が発足
     京橋方面ほか職工のみの印刷工組織による「誠友会」
     牛込の印刷工組織で誠友会に比し協調的な「厚信会」
     1907(明治40)頃「誠友会」はこの頃まで続く
  01/鉄工組合の財政情況が急速に悪化。高野房太郎が常任委員としての給与を辞退
     のち常任委員を辞任する

  01/初夢楼の楼主が大橋ひさを名古屋市花園町の蓬莱屋に住み替えさせる
     大橋は1895(明治28)3月、名古屋市東角町の初夢楼に65円の前借金でつとめる
     5年間稼ぎ通したのに前借金が返済できず。反対に借金が250円にふえたと楼主からいわれ住み替えに
     のち大橋はこの先、借金が何倍に増えるか分からず、稼げば稼ぐだけ損になると気づく
     04/大橋はモルフィに相談する

  01/頃高野房太郎が東京京橋区八丁堀に「共働店・共営社」を設立
     石川島造船所、沖電気の労働者などを組合員とする。共営社の2階には石川島造船所の労働者クラブが設けられる
  02/09幸徳秋水が『万朝報』に「金銭廃止の理想」を発表
  02/13足尾鉱毒被害民1万2千人が、鉱毒の惨害を議会に陳情し救済を請願しようと出発。川俣事件(第4回押出し)
     途中、館林から群馬郡川俣の利根川渡船場にさしかかったところで、行動阻止をたくらむ警官隊、憲兵190人と衝突
     安蘇郡堺村助役で被害民青年隊長の野口春蔵ら2500人は突破をはかるも、警官、憲兵の陣になす術もなく
     結果、指導部が総検挙、逮捕者100人余に達す。【検挙68人?】
     【第4回押出し(川俣事件)】「足尾鉱毒事件略年表」へ
  02/17、18幸徳秋水が『万朝報』紙上に「治安警察法案」を草し治安警察法に反対する

  02/23控訴審の判決により、娼妓営業において慣例の債務弁済のための債務者(貸座敷主)方での営業は無効となる
      北海道函館の坂井フタは1897(明治30)8月に前借200円で身売り、1年が過ぎても返済できず
      弁護士を介し函館地方裁判所へ廃業届書に調印請求の訴訟を起こすも1審、2審とも境は敗訴
      大審院に上告すると理由あるものとして原判決を破棄、事件を函館控訴院に差し戻される
     一貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ
     各自独立ニシテ身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ
     貸座敷業者と娼妓との金銭貸借上の契約と身体を拘束することを目的とする契約は
     それぞれ独立した契約で、後者の契約は自由の範囲外で法律上契約の目的物とはなしえず
     娼妓は貸座敷主に対する借金の有無とは関係なく、いつでも廃業できることに
     坂井フタの判決が、全国的に拡大しつつあった自由廃業・廃娼運動への大きな布石に
     1900(明治33)10/内務省令による全国統一の「娼妓取締規則」が出される
     「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ爲スコトヲ得ス」と自由廃業が明文化

  02/24労働組合期成会が治安警察法制定後の対応を協議しるため月次会を開く
  02/25「社会主義協会」主催の第12回例会が開かれる。研究課題は都市問題について。講師は片山潜
     研究課題は都市問題について。講師は杉山重義
  02/秋山定輔の日刊『二六新報』が同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
     『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1895(明治28)5月に資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     のち三井財閥攻撃、吉原娼妓の自由廃業実践運動、天狗煙草の岩谷松平キャンペーンなどを次々と打ちだす
     1902(明治35)08/10東京5区から無所属で出馬した秋山が第7回総選挙で当選
     代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
  02/造船工組合が賃上げ要求。業者と紛争

  02/九州熊本の東雲楼から太夫格の遊女薄紫が逃亡する
     薄紫は2600円もの大金を買い入れ楼主中島茂七は大慌てにあわてる

  03/01山川均、守田有秋らが月刊『青年の福音』を創刊
     新聞紙8つ折り6〜8ページものを毎月1千部ずつ刷ることに
     のちほとんど全部が売れる
     04/第2号を発行。売りつくす
  03/02「社会主義協会」主催の社会主義学術大演説会が神田区の青年会館で開かれる
     初めて社会主義を一般社会に訴えるもので、演題や弁士は十分に選択
     演説会は聴衆が会場にあふれ、すこぶる盛会に
      社会主義の本領 河上清
      社会主義と現社会制度 安部磯雄
      社会主義の実行 木下尚江
      社会主義と都市問題 杉山重義
      社会主義の大勢 片山潜

  03/02毎日新聞記者の木下尚江が吉原遊廓からのがれてきた津田きみを保護。7日より新聞に報道し廃業に成功
     【10/毎日新聞社が吉原宝米楼を脱出した13才の津田きみを保護する?】

  03/10集会条例を受け継ぐ集会及び政社法が廃止。治安警察法が公布される。全33条からなる(法律第36号)
     03/30施行される
     日清戦争後に高まり先鋭化しつつあった労働運動を取り締まるため、第2次山県有朋内閣時に制定した法律
     自由民権運動を念頭に置いた政治活動の規制が主な目的の集会及政社法に、労働運動の規制を付加した形で制定
     法律の範囲内で言論、著作、印行、集会および結社の自由を有する大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限
     1945(昭和20)11/21GHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により廃止となる
  03/11幸徳秋水が母多治とともに帰省
  03/15〜31佐渡の鉱山でストライキが起こる

  03/16静岡県江尻町の貸座敷三浦ふさに抱えられていた松本げん女が江尻警察署に廃業届を差しだす
     松本は1897(明治30)6月に前借金150円で住み込む。のち3年間稼いだものの借金が2倍になる
     のち楼主と取締役との連署捺印がなく返却される
     03/22娼妓稼業と席貸業はそれぞれ独立の営業という意味で、さらに廃業届をだす
     のち江尻警察署では書式不備の理由でまた返される
     のち静岡市外大岩の宣教師バンダイクからモルフィに照会。モルフィは名古屋市の弁護士木庭利器三に依託する
     木庭は裁判所に訴えず静岡県知事を相手に訴願を提起する
     裁判所に訴え司法処分を仰げば勝つ
     司法で勝利を得ても行政権が強く警察署が願書を受け付けないと娼妓は遊廓を出られず
     そこで内務省へ攻め省令で公娼制度を改正させるほかないと考える
     松本げんの代理人木庭利器三は静岡県知事の小野田元熈宛訴願書を提出する
     06/18「訴願人の申立相立たず」と裁決される
     のちさらに内務大臣西郷従道宛てに控訴的訴願をする
     07/21補正の要ありとて返却される
     07/27静岡県知事の裁決書、江尻警察署長の指令書など一切の書類を添付して内務大臣に提出する
     のち結末は分からず

  03/24「社会主義協会」主催の第13回例会が開かれる。研究課題は三級選挙法について。講師は杉山重義
  03/24木下尚江が社会主義協会に加入する

  03/26モルフィが「娼妓廃業届に連署捺印請求の訴訟」を名古屋地方裁判所民事部に提起する
     原告は名古屋市若松町金水楼の娼妓愛之助こと藤原さと。訴訟代理人は弁護士の岩崎義憲
     愛之助は明治30年4月に金360円の前借で金水楼の抱え娼妓になる
     満3年間稼いでも借金返済の見込みが立たず廃業を希望する
     対して楼主近藤ていと取締役が連署捺印を承諾せず
     速やかに原告の廃業届に連署させて欲しい旨の判決を要求する
     04/23被告の楼主近藤ていの訴訟代理人、弁護士の藍川清成が弁論
     05/07名古屋地方裁判所民事第2部の裁判長判事山田豊策、
     陪審判事の飯田平助、同小林明の3人の名で判決
       被告ハ原告ノ娼妓廃業ニ連署捺印ス可シ訴訟費用ハ被告ノ負担トス
     愛之助こと藤原さとは自由の身となり横浜市の平田平三方に身を寄せる
     函館の坂井フタに次ぐ日本の第2回目の自由廃業に関する勝訴例となる
     06/20金水楼の楼主近藤ていが藍川弁護士を代理人として名古屋控訴院院長の藤田隆三郎宛てに控訴を提出
     「借用金を皆済せざる間は廃業をなす能わざるものなり」
     09/13藤原さとの代理人岩崎弁護士から答弁書を提出
     10/13口頭弁論のはずが藤原さとが名古屋になく、楼主側は控訴取り下げの意を示しそのままに
     訴訟は第1審のみで勝訴
     12/22岩崎弁護士から訴訟費用確定決定申請をし金5円50銭を請求する
     計算書内訳は
      一金 三円也  訴状印紙料
      一金 二十五銭 訴状五枚認め料
      一金 五銭也  証拠調写一枚認め料
      一金 五銭也  送達料
      一金 五十銭也 判決正本申請印紙料
      一金 五銭也  右認め料
      一金 十銭也  判決正本送達料
      一金 一円五十銭也 日当三日分
        内訳
       明治三十三年三月二十六日起訴
       同年四月二十三日弁論
       同年五月二日弁論
      合計金五円五十銭也
  楼主側は起訴提起から公判日までの娼妓の身柄処分に困惑する
     新聞報道がされあちこちで自廃娼妓が輩出するため当人と外部との連絡を断たせることに
     楼主側は悪弊を防ぐための手段を講じる

  03/29衆議院議員選挙法が改正。選挙権が直接国税15円以上から10円以上に引き下げられる
     満25才以上の男子による無記名投票に改める(秘密選挙の確立)
     1919(大正08)05/23衆議院議員選挙法が改正。直接国税3円以上の満25才以上の男子による無記名投票に改める
  03/30治安警察法が施行される
     公布は3月10日
     5条1項で女性の結社権(政党加入の権利)、2項で集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)が禁止
     1890(明治23)7月25日に公布された集会及政社法を引き継ぐもの
     のち婦人団体や女性運動家により改正を求める請願が多くだされる
     1922(大正11)03/25第45帝国議会の貴族院本会議において治安警察法5条改正案がようやく可決。成立する
     04/02治安警察法第5条改正が公布
     05/10施行される
     のち女性の結社権を禁じた5条1項は残る。婦人団体を中心に治安警察法5条全廃を求める運動は続く
     治安警察法
     第五条 左ニ掲クル者ハ政事上ノ結社ニ加入スルコトヲ得ス
      一、現役及召集中ノ予備後備ノ陸海軍軍人
      二、警察官
      三、神官神職僧侶其ノ他諸宗教師
      四、官立公立私立学校ノ教員学生生徒
      五、女子
      六、未成年者
      七、公権剥奪及停止中ノ者
     2.女子及未成年者ハ公衆ヲ会同スル政談集会ニ会同シ若ハ其ノ発起人タルコトヲ得ス
     ※条文は1922(大正11)4月20日改正前のもの
     ※「治安警察法」1900(明治33)3月10日公布、同年3月30日施行
     1925(大正15)最終改正
     1945(昭和20)11月21日「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により廃止
  03/30治安警察法が施行される
     公布は3月10日
     第17条では同盟罷業や団体交渉などのため「他人に対して暴行、脅迫」したり、
      「他人を誘惑もしくは煽動」することを禁止
     第30条では同盟罷業を「誘惑もしくは煽動」すれば
      「1月以上6月以下の重禁錮に処し3円以上30円以下の罰金を付加」すると規定
     のち鉄工組合から退会する者が続出し期成会は縮小する
  03/30「労働者保護」の工場法案が見送られているなか、労働者の団結や同盟罷業を弾圧する治安警察法が1か月の審議で制定される
  03/『国民の友』が「社会問題の気運」を発表する
     日清戦争後の経済的変化で貧富の懸隔が漸く甚だしくなる。社会問題が発生する気運に
  03/樽井藤吉が雑誌『太陽』に「銀行国有論」を発表
  03/足尾銅山の鉱毒事件を機に協同親和会が設立される
     樽井藤吉、稲垣示、山口弾正、一木齋太郎らが組織。松村介石、幸徳伝次郎も出入りする
     研究会というよりも慷慨志士の討論会という様相
  春/大阪の大日本労働協会の労働週刊雑誌『大阪週報』が発行回数を月2回に変更
     創刊は1899(明治32)10月
     のち月刊となる
     のち資金不足と労働者の支持不足で間もなく失敗
  春/日本鉄道機械工による待遇改善の運動が起こる
     発端は前年11月7日の不当支配を糾そうとした組合員8人が解雇された事件から

  04/03モルフィが日本の同志の応援を求めて「大日本矯風会」を設立する【名古屋で?】
     のち「廃娼同盟会」と密接な関係をもつことになる

  04/04日本鉄道会社の鉄工組合が待遇改善を要求

  04/11毎日新聞社社長の島田三郎が村松介石、佐治実然らと「廃娼同盟会」を組織する
     新仏教運動の指導者高島米峰の参加を得る。ほかに平井金三、丹羽清次郎ら
     島田三郎ら20余人が神田区の基督教青年会館に集合、規約7条を決定する
     青年会館に本部をおき活動をはじめる

  04/紀伊田辺町の岡本庄太郎、小切間権右衛門ら政友会有志の後援で牟婁新報社が創立
     04/14『牟婁新報』が創刊される。月3回の発行【04/04創刊?】
     毛利清雅(柴庵)が主幹と主筆を兼ねる【社長兼主筆?】
     1925(大正14)休刊となる
     【1926(大正15・昭和01)頃に廃刊となる?】

  04/名古屋市花園町の貸席業蓬莱屋の抱え娼妓大橋ひさがモルフィに救助を訴える
      大橋は1895(明治28)3月、名古屋市東角町の初夢楼に65円の前借金でつとめる
      5年間稼ぎ通したのに前借金が返済できず。反対に借金が250円にふえたと楼主からいわれ
      1900(明治33)1月、蓬莱屋に住み替えさせられる
      大橋はこの先、借金が何倍に増えるか分からず、稼げば稼ぐだけ損になると気づく
     モルフィは弁護士の岩崎義憲に一任する
     04/24岩崎は名古屋地方裁判所にの訴訟を提起する
     「大橋ひさの娼妓廃業届に楼主及び取締役をして連署捺印せしめられたし」
     同時に廃業出願者の差し押さえを訴える「仮処分申請」をする
     04/25名古屋地方裁判所民事第2部の3人の名で「仮処分申請」は直ちに理由あるものと認められる
     3人は裁判長山田豊策、判事飯田平助、馬場茂馬
     04/27岩崎弁護士の代理として小方仙之助が蓬莱屋を訪ねる
     本人に面会を求めるも病気を理由に謝絶する
     04/28重ねて小方と本人の実母が訪ねるも、面会できず
     05/01岩崎弁護士自身で蓬莱屋を訪問。大橋ひさに面会を求めるも楼主は面会を拒むばかり
     じつは大橋ひさは以前の抱主初夢楼の主人に預けられる
     蓬莱屋がいやなら初夢楼でと稼業継続を勧められていた
     岩崎弁護士は執達吏の鈴木重固の役場にて仮処分の執行委任を願う
     鈴木は仮処分命令書に執達吏の執行行為を要する命令が記されてなく、手続きはできないと謝絶
     05/02楼主が藍川弁護士を代理人に仮処分に対する異議を申し立てる
     05/18双方の口頭弁論を終えた翌日、初めて楼主が本人に裁判の成り行きを告げる
     この日まで25日間は初夢楼に監禁され、天王崎町の娼妓学校女紅場(にょこうば)裏の博徒の家に抑留される
     のち岩崎弁護士は本人が行方不明として警察署へ捜索願を提出する
     警察は民事に関する事件は関係できないと謝絶する
      もともと娼妓廃業の事件は警察署の行政権に専属するもので、
      司法裁判所といえど法律による特別な委任がなければ行政処分はできず。
      なのに名古屋地方裁判所は警察権を無視した判決をしたという確執が生じる
     05/23名古屋地方裁判所が楼主側の異議申し立てに対し
     4月25日に決定した仮処分命令は全部認可するという判決を下す
     再び大橋ひさの勝訴となり、大橋はようやく自由の身となり郷里の岐阜へ帰る
     06/08口頭弁論にて楼主側から強硬な妨訴抗弁が起こる
     06/28名古屋地方裁判所は妨訴抗弁を却下
     「被告は原告の娼妓廃業届に連署捺印すべし」の判決をする
     07/09楼主が控訴院民事部へ控訴状を提出する
     楼主側は「廃業出願者差し押さえの仮処分執行」と「廃業届連署捺印請求」の2つを控訴したこに
     藍川清成弁護士の他に長島鷲太郎弁護士を加える
     09/27口頭弁論で楼主方弁護士が準備申立書を提出する
     娼妓は国家が公許した営業で司法裁判所が横から口をだすものでないい、と強調
     10/022つの控訴が同時に判決が下される
     「仮処分執行」の訴訟は大橋ひさの敗訴となり第1審判決は破棄
       でも遊廓をでて廃業したあとで、控訴の敗訴でも本人はなんの差し障りなく
     「連署捺印」の訴訟は楼主側の敗訴となる
       理由は函館控訴院とは正反対に「楼主と娼妓との契約を無効とするを得ず」としながらも
       初夢楼から蓬莱屋に転籍する際、契約した約定証文に契約年限内の「結婚を許さない」と
       書かせたため社会の秩序に関する大事を禁ずるのは公の秩序に反するとして
       契約全部を無効と認め大橋ひさの勝訴に
     この訴訟は日本の最も重大な判決例を残したことになる
     「連署捺印請求」の訴訟は地方裁判所の第1審、第2審とも勝訴という2度の例を開く
     「仮処分の申請をして身柄を預かる方」も可能であるという実例を開く
  天下の注目を浴びていた蓬莱屋事件は娼妓の勝訴で終わり、全国の遊廓に及ぼした影響ははかり知れず
     のち日本基督教婦人矯風会は大橋ひさの件でモルフィのほか
     キリスト教信徒の弁護士岩崎義憲、名古屋の矯風会幹事でモルフィの通訳を務める山崎友吉に感謝状をおくる
     また事件に要した一切の費用を引き受け支弁することに

  04/23景山英子の夫福田友作が36才で死去する
  04/28「社会主義協会」主催の第14回例会が開かれる。研究課題はビスマルクの強制保険法について。講師は安部磯雄
  04/29『二六新報』が三井財閥攻撃の特集記事の連載をはじめる
     のち日清戦争の戦時利権で膨大な利益を得ながら国家や社会に還元せず、企業に溜め込んでいると攻撃
     さらに三井一族の乱行が暴露攻撃
     のち音を上げた三井財閥は政府に泣きつく
     05/18内務省は強権を発してキャンペーンの連載禁止を命令
     大衆の支持が厚く売り上げトップを独走する『二六新報』は連載と銘打つことを取りやめる
     『二六新報』日々14万2千部と、第2位の朝日新聞10万4千部を大きく引き離し売り上げトップを独走
     のちそれでも連日のように三井財閥攻撃の単発記事を続け攻撃
     のち批判に耐えかねた三井財閥は社主で主筆の秋山定輔と会談
     06/30以後は行動を慎むことを約束し攻撃キャンペーンは終わりを告げる

  04/『中央公論』4月号が社論「廃娼運動の復活」で論じる
     「わが国にはいわゆる奴隷制度なるものはない。しかも奴隷の名を有せざる奴隷がある、娼妓それである」
     モルフィの運動に火を焚きつける

  04/久津見蕨村が毎週土曜日発行の週刊雑誌『国力』を創刊する
     のち月2回発行に変更
     08/第18号まで発行し終刊【16号?】
  05/09刷り上がった『青年の福音』第3号700部を守田有秋が受け取り山川均と配布にまわる
     05/11残り300部を神田区猿楽町の古書店中庸堂の主人若林が受け取り11、12日には店頭で売り書店に配布
     05/122、3の新聞に不敬記事云々との報道
     制服警官が中庸堂に残る『青年の福音』押収。守田と山川が神田署に拘引、留置取り調べを受ける
     守田の「人生の大慘劇」と山川の短評「苦笑談」が不敬罪に問われる。不敬罪適用第1号
     筆禍事件が起こる
     「人生の大慘劇」皇太子と九条節子(大正天皇皇后)の結婚問題を論じる
     「苦笑談」キリスト教徒が皇室に忠誠を誓って世俗に迎合する様子を嘲笑
     05/12発売頒布を禁止する処分を受ける
     数日後牛込富久町の東京監獄に移される
     のち秘密の公判が2回開かれる。1審、2審とも有罪
     05/313回目の公判で判決の言い渡しを受ける
     守田と山川は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に
     中庸堂の主人若林は重禁錮8か月、罰金50円、監視6か月に処せられる
     のち3人はただちに控訴
     1901(明治34)07/10控訴判決で1審に同じ【07/05?】
     07/14服罪し巣鴨監獄に入る
     1904(明治37)06/初山川が仮出獄する
  05/10「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり……」ではじまる『鉄道唱歌』の第1集「東海道編」(66)が発行
     作詞は大和田建樹。じつは無名作家の詞を大阪の三木書店が買い取り、大和田が集成したもの
     09/03第2集の「山陽・九州編」(68)が発行
     10/13第3集の「奥州・磐城編」(64)が発行
     10/15第4集の「北陸編」(72)が発行
     11/03第5集の「関西・参宮・南海編」(64)が発行
     1906(明治39)08/第6集の「北海道編」(南の巻20、北の巻20)が発行
     1909(明治42)01/第7集の「伊予鉄道唱歌」(25)が発行
     【明治39、42年の項に記述はなし】
     『鉄道唱歌』は書籍の形で販売。作曲はそれぞれ異なる
     第1集と第2集が多梅稚と上真行。第3集が多梅稚と田村虎蔵。第4集が納所辨次郎と吉田信太。第5集は多梅雅が2種
     それぞれの詞に2つずつの曲がつけられる。作曲には、ほかに奧好義、目賀田萬世吉が加わる
     のち多梅雅の曲でうたわれるようになる
     多梅雅の曲は、抒情的な上眞行の曲よりも覚えやすいメロディ。テンポもよく旅情がそそられる
  05/10皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子の成婚式が行なわれる
     天皇家史上初の「神前結婚式」

  05/17神戸福原の娼妓有原こと長浜サダが前借残金300円を証文として廃業届をだすため調印要求の訴訟を起こす
     のち勝訴となる
     福原遊廓ではにわかに楼主の会合がもたれ自廃防止策を講じはじめる

  05/22木下尚江が『毎日新聞』に「『忠君愛国』の疑問」を発表する

  05/24これまでの形勢をみた政府当局は黙視できない状況に
     内務省訓令第17号を以て娼妓の年令16才以上を18才以上に繰り下げる
     また別に人身保護、伝染病予防、1日に2人以上の客に接せない、
     1日の3時間を裁縫その他の実務をせしむることの方針をたてる
     のち大阪の松島遊廓だけで480人の18才未満者が稼業禁止を命じられる
     京都では155人が名簿から削除される

  05/27「社会主義協会」主催の第15回例会が開かれる。研究課題は工場法制定について。講師は河上清
  05/活版工同志懇話会の会報が版工組合の規約の運用を停止するとともに『活版界』から『誠友』と改称
     創刊は1898(明治31)9月28日
     名士の名論なくも活版工らによる愛あり敬する文に満ちる
  05/田岡嶺雲が北清事変に従軍。反戦的なルポルタージュを『九州日報』発表する

  06/06神戸の多聞新報社が倉川鉄次郎(倉川鉄洲居士)の『町芸妓放逐論 一名無鑑札ノ娼妓』を発行。定価20銭
     序文を尾形白斎坊が記す
     芸妓が娼妓につながること、教育、性病の害になる理由、業者の厳罰と営業停止をのべる

  06/11『千代田日報』『毎夕新聞』と合併し『千代田毎夕新聞』となる
     『千代田日報』は1899(明治32)4月3日創刊の日刊4ページ建て新聞。社長は加藤時次郎
  06/18毎日新聞社が木下尚江の『足尾鑛毒問題』を発行する。定価20銭
  06/「矯正会」の機関誌の名称が創刊時の『矯正会々誌』に復する
     1898(明治31)11月20日に『矯正会々報』で創刊し
     1899(明治32)5月『鉄道世界』と、12月『矯正会誌』と改称
  06/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第62号から装いを新たに月刊として発行
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     09/労働運動が行き詰まり『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる

  06/熊本二本木町の日本亭の娼妓府中と小桜が逃亡、捕らえられる
     この頃から逃亡する娼妓の新聞記事が増える
     そのほとんどが捕らえられ引き戻される
     08/末新聞が騒ぎたて逃亡を企てる娼妓がさらに増える
     08/28日本亭の娼妓小桜と辰次が熊本12時26分発の汽車で長崎あたりの男と八代へ遊びにいく
     のち無届けのため派出所に呼ばれる
     小桜は6月にも逃亡した常習犯。東雲楼ではかなり上位にランクされる格式の高い娼妓

  06/〜07/朝報社の堺利彦が北清事変の従軍記者として派遣される
     07/05天津に到着、下旬まで滞在。『万朝報』に「天津通信」を発表する
     のち約1か月半で帰国
     08/11堺は日記に「従軍は愚かなる事なり」と記す

  07/04モルフィが三重県神戸町の十日市油楼の娼妓綾衣こと佐久間ふみの救助の求めに、山崎友吉とともに急行する
     のち手続きが進み、廃業届は警察署署長が受理し、無事目的を達成し門外へ
     待ち受けていた暴漢らが襲撃してくる
     モルフィと山崎は綾衣を庇護防衛しながら停車場へ
     警察は危険を恐れて巡査を派遣し保護にあたらせる
     10数人の暴漢は綾衣をつかまえ連れ戻そうとして大混乱に
     モルフィと山崎は鮮血にまみれ、綾衣は気絶
     さらに土地の博奕打ら100人が加わり弥次馬が応援
     警察は四日市の警察へ急報し30人の警官が来援する騒ぎに発展する
     この事態のなか署長ね態度が一変し、許可した綾衣の廃業を、連署捺印がないことを理由に却下
     綾衣を楼主側に引き渡す
     モルフィは三重県知事に訴願書を差し出すことにして山崎友吉といったん名古屋へ戻ることに
     07/10綾衣から山崎あてに書留郵便が届く
     そこには廃業を取り消す旨が記され、名の下には指の朱肉印が捺される
     警察署署長と楼主の訓戒によりつづった醜業復帰の文と思われる
     のちこの件を機に婦人矯風会救世軍は廃業希望者を保護する婦人ホームをつくることになる

  07/05東京独立雑誌社が解散。『東京独立雑誌』が第72号で廃刊に
     『東京独立雑誌』は内村鑑三らが1898(明治31)6月10日に創刊
  07/21片山潜が北海道を遊説。8月21日まで
  07/海老名弾正が雑誌『新人』を創刊する

  07/名古屋市南久屋町のモルフィの自宅に救世軍の3人が訪ねる
     冊子「ときのこゑ」記者の山室軍平、日本司令官のブラード大佐、書記官のデュース少佐【書記長?】
     2人の外国人は日本の着物をまとう
     モルフィ夫妻は3人の珍客を待遇。話は始終、娼妓の自由廃業について
     モルフィは方法や手続きを3人に詳しく語る。ブラード大佐は熱心に耳を傾ける
     「救世軍で婦人ホームを設けて、廃業した娼妓の後始末をしましょう」
     廃業後の娼妓の処分はモルフィがいちばんに悩んでいた問題。モルフィには心強い言葉
     「東京でも旗揚げをして、自由廃業運動をはじめましょう」
     山室軍平がいう
     のち救世軍本営に戻ったブラード大佐はデュース少佐、山室大校、矢吹大尉らと相談
     08/01京橋区築地の本願寺前に1軒の家を借り「婦人ホーム」と命名
  熊本二本木町の遊廓で金に糸目をつけず美女を買い入れる競争が激化
     東雲楼の馬上美人の評判から
     08/末広亭で馬関から美女を1500円で買い入れる
     馬にて重尾の名で芸妓にでていた本名瀧みと(23)は末広亭では花絹に
     たちまちに売れっ妓となる
     すぐ東雲楼では花紫、薄紫、今紫の3人を買い入れ、東雲太夫、小紫太夫の次の地位にすえる
     このときの薄紫の値段は2600円
     名古屋ではモルフィが手がける裁判が娼妓側の勝利となり、東京では救世軍が吉原などに進出した直後のこと
     全国で自由廃業の嵐が吹き荒れそうな時期に、熊本二本木は平和そのもの
  08/01救世軍山室軍平の妻機恵子が醜業婦救済所長になる
     救済所は京橋区築地3丁目11番地の本願寺裏門の民家を借り受けて開設
     山室夫妻が住むことになる
     1907(明治40)買い入れた麻布区広尾町35の元天理教会所あとに移る
     「東京婦人ホーム」とする
  08/01救世軍の機関誌『ときのこゑ』第112号が「醜業婦救済号」の特別号として発行
     娼妓の自由廃業が認められ具体的行動にのりだす
     東京の各小隊の士官、兵士は手分けして帝都を包囲する4宿2廓へ進撃する
     品川、新宿、洲崎、新吉原、板橋、千住を売りさばき野戦を試みる
     【東京第1小隊長高城牛五郎大尉の1隊は新吉原へ、第4小隊長矢吹幸太郎大尉の1隊は内藤新宿へ】
     それぞれ軍旗を先頭に太鼓をたたき、喇叭を吹き、タンバリンを鳴らして進撃する
      こは、はらからをほろびより
      すくわんための、いくさなり
      ひくなすすめよ、救世軍
      すすめ、すすめハレルヤ
     隊員は濃朱リボンで巻いたような目立つ制帽を頭に和服下駄ばきの様相で演説する
     のち発行した8500部はたちまちに売り尽くし、あとから数百部単位の注文が殺到する
     新宿では楼主側の使用人が妨害。握り拳を鼻先に突きつけ救世軍人を悩ます
     新吉原、洲崎では楼主側が『ときのこゑ』を買い占め、娼妓らに渡らないよう妨害する
  08/01救世軍の矢吹幸太郎率いる1隊が内藤新宿へ
     内藤新宿へ向かった矢吹大尉は遊廓の使用人らに罵詈され拳を鼻先に突きつけられる
     『ときのこゑ』はあまり売れず、対して新吉原と洲崎ではよく売れる
     それは『ときのこゑ』が娼妓の手に渡らぬよう遊廓の者が多く買い占めたため
     でも反響はあり、神奈川県川崎遊廓の娼妓2人が婦人ホームに駆け込んでくる
     また新吉原中米楼の娼妓霜降お雪が自由廃業を企てていると知り、山室機恵子夫人は単身新吉原へ
     機恵子はお雪に面会し、手続き方法を教える
     このとき高木大尉と遊廓側とに小競り合いが起こるも騒動にはならず
  08/05午後、救世軍の矢吹大尉が神田小隊、本郷小隊の11人が連合軍を組織
     第4小隊神田分営の士官候補生岡田誠一、大島三郎、軍曹の冷水太郎、田辺正一、兵士の中田美次、中学生の吉沢某、
     第3小隊本郷分営の中尉森雄吉、士官候補生の森田年蔵、軍曹の野津寿重、吉沢久重、兵士の滝内秀綱の諸氏
     大旗を立て太鼓を鳴らし新吉原の大門へ
     一行は病院前の巡査交番所付近で第一声をあげるとたちまちに群集が築かれる
     矢吹大尉は熱心な口調で約30分の演説をする
     前には貸座敷の金満楼があり、娼妓たちは格子戸から顔をだし熱心に聞き入る
     一行は『ときのこゑ』を売り、さらに揚屋町の角へ
     玉宝楼の近くで2回目の路傍説教をしようとしたとき
     遊廓使用人の暴力団数十人がいっときに襲いかかり、撲つ蹴る殴るの大騒ぎを演じる
     さらに救世軍一同に企みを実行すべく暴漢の家に引きずり込みもうと
     義勇兵で中学生の吉村が交番に急報。警官が駆けつけ双方を取り鎮め浅草警察署に同行を命じる
     矢吹大尉らは交番前で勢揃い。破られた太鼓曲がった喇叭を携え、血傷のまま警察署へ
     署長は矢吹大尉に「被害者として傷害の告訴をするか」聞かれる
     矢吹大尉は「この人達は単なる野次馬。我々の相手はこの人達でないから告訴する理由はない」と言い切る
     矢吹大尉以下の隊員は浅草雷門まで10数人の警官に保護され電車に乗り、本営に引き揚げる
     事の善後策を講じる
     事件は各新聞を賑わし世の評判となる
  08/06『時事新報』が5日に新吉原で繰り広げられた救世軍と暴力団の攻防を伝える
     08/07『東京朝日新聞』が「吉原の大格闘・救世軍と妓夫」を掲載。東京市内の各新聞が事件の詳細を報道
     『東京毎日新聞』はほとんど全紙を事件の報道にさく。社説では救世軍の行動を激賞する
  08/06『毎日新聞』が自由廃業の欄を設ける
     のち34年に入っても継続し援助する
  8月5日、新吉原にて救世軍の11人に暴力をふるったとして、稲弁楼の妓夫岡田源二郎ほか6人は拘留処分に
     08/14拘留されていても遊廓側にとって7人は功労者
     拘留1日につき金3円ずつを慰労金として贈ることに
     また揚屋町の各楼主からは3円のほかに各拘留1日につき1円を、
     妓夫の親分からは単衣1枚と縮緬の兵児帯1筋ずつを贈ることに
     一方、救世軍の直接行動は全国に飛び火、諸所に自由廃業運動が起こる
     内務省はモルフィからの訴願もあり処置を施す

  08/07幸徳秋水が『万朝報』紙上に「非戦争主義」を発表する

  娼妓の自由廃業運動は東京に限らず全国的に広がり、ときに救世軍が手を差しのべることも
     千葉県の銚子では1枚の『ときのこゑ』で、たちまち19人の娼妓が醜業をやめる
     茨城県の福島街道にある小妻村に親の承諾証書のない娘が酌婦に売られ救いを求める
      山室軍平は草鞋がけで2回出張。無事、娘を救いだす
     新吉原の娼妓霜降お雪が自由廃業を願いでる
      醜業婦救済所所長の山室機恵子は妊娠の身で単身乗り込もうとするも警察官が危ぶみ許さず
      身辺を保護し上野公園まで送り帰す
     神奈川県川崎遊廓の娼妓2人が醜業婦救済所へ逃げてくる
  08/15救世軍の矢吹大尉が神戸市橘通り6丁目の福原遊廓へ
     じつは8月1日に救世軍が運動を起こした最初に手紙で救助を申し入れる者があった
     手紙の主は福原遊廓で貸座敷業益谷せつ方の抱娼妓小桜こと東れん。ただ手紙は男子の代筆による
     矢吹大尉は早速、小桜に面会を求めるも、親の委任状がなければ会えないという
     矢吹大尉は大阪市三軒屋下ノ町の小桜の母東ひでを訪ねる
     自由廃業をするから委任状を書くよう願う。母はなかなか承知しない
     矢吹大尉は公娼の不理屈や人権問題、前借金の話などを説き、早い廃業を勧める
     母親は「いまどき他人にお世話なさる方があるもんですか」と、矢吹を新手の詐欺師と取り合わず
     矢吹はさらに説明するも、母親の疑いはよけい増すばかり
     のち思案に暮れた矢吹大尉は神戸教会の牧師西尾幸太郎方に落ち着く
     小桜から送られてきた手紙の代筆者の捜索に取りかかる
     調べていくうち代筆者は妻子のある散髪屋の主人と知れる
     小桜が廃業できたならば主人は妻君と離縁し小桜と同棲する計画だったとか
     のち矢吹は小桜と面会し廃業手続きをすませたら東京の婦人ホームに引き取る手はずに
     のち矢吹大尉は大阪に下り小桜の母に散髪屋の不埒な計画や娘の苦労を詳細に説く
     母親は矢吹のことを、ますますの詐欺師扱いし矢吹を追い払う
  08/19『毎日新聞』が第1ページに「公娼否認論」の連載をはじめる
     のち10月19日まで18回にわたり連載する

  08/23毎日新聞社社長の島田三郎が伊藤博文の立憲政友会の設立に参加を求められるも断る
  08/30幸徳秋水が『万朝報』紙上に「自由党を祭る文」を発表する
  08/31午前10時、内務省で密かに自由廃業問題の処置について講究するため参事官室で会議を開く
     出席者は内務省総務長官の小松原英太郎、内務省書記官の有松義英、
     参事官の水野錬太郎、窪田静太郎、警視庁第2部長で内務省書記官の松井茂
     09/04『東京朝日新聞』に記事がのる
     会議での相談内容は不明ながら自由廃業運動に有利な転向がなされる

  08/31救世軍本営にて新吉原大籬野村楼の娼妓金州こと山田きんの廃業運動に掛け合う

  08/北海道の夕張炭鉱がそれまでの坑夫世話役制度に代わり巡視長および巡視制度を布く
     納屋頭制度から坑夫世話役制度に代わったのは1894(明治27)4月
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる

  08〜09/廃娼運動の昂揚で『毎日新聞』が紙面を大幅に提供し貢献する
  吉原新万楼の娼妓中村八重が二六新報社に自由廃業の援助をもとめる
     社は幹部会を開き救世軍に託すか自ら援助するかをはかる
     全力をあげて問題に取り組むことに
     09/03午後、二六新報社の社員3人と社友弁護士桜井熊太郎を新吉原の新万楼におくる
     新万楼抱え娼妓の綾衣こと京都市生まれの中村八重に面会
     廃業の意志が確実か否か確かめると、ぜひ廃業したいとのこと
     09/05浅草署に廃業届を提出させると楼主の連署がなく受理できないという
     午後、二六新報社社長の秋山定輔らが危険を冒して新吉原へ
     秋山の他に弁護士の桜井熊太郎、福田和五郎、安達喜三郎、伊藤筆五郎、中村新次郎ら
     一行は引手茶屋初子屋を本陣として新万楼への交渉を開始
     はじめ、いち社員を送り綾衣に面会を求めるも楼主は拒否
     二度目に別の社員を送ると数十人の用心棒が飛びだし、口々にののしる
     それを知った本陣の猛者はここぞと新万楼に駆けつける
     遊廓側は「ひとりも活かすな」と二六新報社の社員を包囲
     やりやられ打ち打たれの大活劇となり、ほとんどの社員が負傷
     浅草警察署は数日前から騒動を予知
     内務省参事で警視庁第2部長の松井茂は、橋爪第1課長を先に浅草警察署へ
     松井は浅草消防署で待機していると、先行の橋爪から電話があり浅草警察署へ急行
     浅草警察署は双方の関係者でごった返しているなか、松井が主任となり取り調べをはじめる
     二六新報社側の弁護士桜井熊太郎が綾衣に面会したいと申しでる、松井は綾衣に出頭するよう命じる
     綾衣は浴衣1枚に紫メリンスの扱帯(しごき)1筋を巻き、素足に草履でやってくる
     新万楼楼主は綾衣の衣類を前借金の抵当に差し押さえ放り出す
     警視庁第2部長の松井茂が綾衣に「娼妓廃業の意志があるか」たずねる
     綾衣は「断然廃業するつもり」と言い切る
     松井は中村に申し渡す
     「3日以内に廃業の手続きをせよ、手続きをするため廓外にでたければ、
      正当な引受人を以て願え、いまから直ちにそこに行ってよい」
     二六新報社側は社員の木村信行を引受人として、綾衣こと中村八重を預かることに
     綾衣を中心に人力車を連ね取りかこみ60人の警官に護衛され神田区新石町の二六新報社本社に引き上げる
     綾衣は3階の1室に保護される
     室田浅草警察署署長は60人の警官に一場の注意を与える
      「諸君はこれより、娼妓綾衣及び二六新報社員諸君を保護して送り届けなければならない。
       これらの人々は当今の一大問題を荷(にな)い居るのであるから、
       万一途中において暴漢に襲われるようなことがあったら、諸君は臨機抜剣するも差支えない」
      前日の9月4日に洲崎遊廓で山室軍平とデュース少佐が頭部ほか数か所に負傷した事件が起きる
      日清戦争に勝ったこの先、ロシアと戦うようになれば、世界一の海軍力を誇る英国の力を借りなければならない
      もし日英同盟がなれば早急にロシアに挑もうとしているとき、英国人の救世軍士官デュース少佐を負傷させた
      もし英国本土に聞こえたら外交上どんな影響がでるか知れない
      日本の一大事と警察が強硬にでた(日英同盟が発効されるのは明治35年1月30日)
     09/07午後、綾衣は無事廃業して横浜へ
     しばらく某方に潜伏することに
  09/04救世軍のヂウス少佐と山室軍平大校が洲崎遊廓へ【09/05?】
     開明楼の抱え娼妓操こと安藤琴からの救助申し込みに応じる
     訪ねるも会えず、その帰途、1人の暴漢があらわれ乱暴をする
     警官2人が出張してヂウス、山室を保護しながら大門派出所へ
     途中、先まわりして梅川楼の前で待ち伏せる暴漢が罵詈するのを打ち捨て
     派出所詰めの巡査部長と巡査2人が救世軍の2人を保護されながら木場町へ
     こんどは暴漢14〜15人が喚声をあげながら突進してくる
     3人の警官が取り鎮めようとするも、あちこちの横丁や長屋から暴漢があらわれる
     棍棒や石ころを手に2人を取りかこみ殴りつけ重傷を負わせる
     急報により警部2人と巡査15人が駆けつける
     首謀者牧野徳太郎以下5人を引致。山室大校らは40余人の警官隊に護られ深川警察署に引き揚げる
     首魁牧野某以下5人を引致、山室らは40余人の警官隊に護られ深川署まで引き揚げる
     のち山室が前頭部に受けた骨に達する傷痕は生涯消えず
     のち少将に昇進したヂウス少佐が、このときの重傷がもとで失明
  09/06警視庁令第37号が発令。警視総監の大浦兼武が娼妓取締規則を改正する
     娼妓は廃業後3日以内に届けでればよいとし、
     また楼主取締役の捺印は必要なものの拒む場合は本人だけの印でよいことに
     二六新報社は警視庁令を喜ぶ
     遊廓側は納まらず、自由廃業が横行すると全国の遊廓は立ち行かなくり全滅すると5段構えの戦術を考案する
      第一、官憲と有力者に泣きつく
      第二、自由廃業反対大演説会をおこし遊廓のため気炎をあげる
      第三、全国同業者大会を東京に開催
      第四、市会議員、府会議員、代議士を買収し法令改正を食い止む
      第五、暴力団を傭い入れ、新聞記者、救世軍士官を征伐する
     09/07新吉原の楼主らが内務省に出頭
     でも、すでに省議が決定しており、どうすることもできず
     09/08新吉原の者たちは業務を投げ打っても防ぐの決心を定める
     救世軍、二六新報社員はもちろん、これに似る輩は容赦なく殺してしまえの方針をとる
     09/09午前9時、楼主125人が三業取締所にて集会を催し決議
      第一、救世軍並に新聞社員に対する防備として、傭無頼漢を増し、且暴行線を拡大すること
      第二、二六新報社へ暴行隊を差向けること
      第三、娼妓は張店、又は格子先にて客に対し談話するのを厳禁のこと
      第四、初会客は一切謝絶すること
      第五、焚出しのこと
     09/18夜、四谷見附の大泉亭で「娼妓存廃演説会」を開く
     3人の弁士が「廃娼の結果如何」を演説するも、聴衆はわずか10人、あっは警官ばかり
     09/19早稲田の大隈伯を訪ね、なんとか骨を折っていただきたいと頼み込む
     じつは大隈は維新当時、佐賀藩の芸娼妓解放の急先鋒
     自由廃業は法律上徳義上やむを得ざるものなれば、この際無用の運動は見合わすべし、とやり込められる
     のち新吉原の梅川楼に2廓4宿の有志50余人が集まり懇親会名義の下に相談会を開く
     09/25洲崎にて全国楼主大会を開くも相談が一致せず流会に終わる
     発起者委員は全国460余の貸座敷設置所から100人と予期した出席者はわずか26、27人
     また電報や郵便で欠席、不賛成を通じ、出席のため上京した地方連も議題に反対を唱えようとする模様
     強いて大会を開くと不利益になると大会を延期に
  09/06突如として警視総監大浦兼武の名で警視庁令第37号を発令。娼妓取締規則を改正する
     それまでは楼主と取締役の連署捺印がない限り廃業はできず
     改正後、娼妓は廃業後3日以内に届けでればよいことになる
      楼主と取締役の加判は必要なものの加判を拒むときは本人だけの印でよいことになる
  吉原野村楼のとある娼妓が救世軍に依頼し自由廃業の手続きをとる
     対して楼主は9月5日の新万楼の中村八重事件に怖じ気づいき策を講じる
      娼妓は前年の12月に前借金600円で6か月身を沈めることに
     娼妓に対し6か年の契約を、9月9日から向こう6か月に縮めるから、穏やかに廃業するよう内密に懇談
     娼妓は断りかねて承諾、救世軍には廃業依頼の取り消しを申し送る
  09/07午後、救世軍本郷の林中尉が下谷のあたりに求道者を訪問する途中、暴漢に襲われる。顔や頭を負傷する
  09/08新吉原の楼主が9日に決議した5項目のうちの第1の暴行線に救世軍第3小隊長で大尉の林又八郎がかかる
     林は所用で下谷区竜泉寺町に行ったところ暴力団員30人に包囲される
     林は前頭部に長さ1寸5分、ほか3か所に裂傷を負わされる
     駆けつけた警官は抜剣し暴徒を追い払う
     廓楼主が反対すればするほど、暴力をふるえばふるうほど、社会は救世軍や新聞社に同情を示すようになる
  09/自由廃業問題に関し遊廓側は狂暴を増し救世軍本営を焼き打ちするという噂がとぶ
     毎夜、警官が詰め切りで警戒する
  09/10東京訴訟代弁社が『芸妓娼妓廃業手続独案内 附届書并訴状書式雛形』を発行する
     編集は中央法律研究会。江本法学博士編纂の判決彙報新判決例説明が付く
     法的手続きの解説、キリスト教を中心とした廃娼運動の全国的情勢をのべる
     折からの名古屋地方裁判所の廃業自由の判例が業者や運動に及ぼした影響を簡記
     法律学からみた整理として簡要な位置づけに

  09/11島田三郎が警醒社書店から『日本と露西亜』を発行。定価30銭
     前年の7月8日から11月16日まで『毎日新聞』に51回にわたり連載したものを単行本化

  09/13山梨県の「甲斐民報」「峡中新聞」が発起となり決議文を各紙上に発表することを決議する
     一、娼妓自由廃業には満腔の同情を表する事
     一、貸座敷取締規則の改正を速ならしむる事
     一、貸座敷営業者の営業上に大革新を行わしむる事
     一、娼妓の債務の完済方法を簡易ならしむる事
     此目的を達するため、貸座敷業者と娼妓との貸借関係及び娼妓の待遇法等を取調ぶる事
     名士たちは陣頭に立ち運動を賛助條例する
  09/19大阪日本救世軍難波南出張所の名で「娼妓自由廃業媾和談判申込書」が松島の各遊廓に送られてくる
     救世軍は送ったものではないという
          娼妓自由廃業講和談判申込書
      一、娼妓一日にても稼ぐに於ては、解放又は他に住替の節は必ず証書面に対する借用金内よ
        り差し引精算する事。
      一、始めて娼妓をなしたる際、定約貸金に対する金額を断然無利子にする事。
      一、髪結賃、風呂、用紙、下駄、総て業務の為に使用する道具、又は盆正月、客人又は引子、
        下女下男等に贈物一切、抱主負担する事。
      一、自今入院者、茶引娼妓に対する甚しき愛憎心を用いて依估に依り虐待せざる事。
      一、日々三食は必ず支給し、従前之如く粥を啜り粗食を与え、二食にして放心するの苛酷な
        る虐待をせざる事。
      一、藪入又は月休と唱え、一年二度又は毎月、新参者、醜面者の別なく、前日より客に花代
        を強請せしめ、新参者醜面者をして毎度金調に苦しましめ、反って楼主得策を謀る虐待
        心を断然止むる事。
      一、客人を待遇する茶炭、又は自己用の茶炭等は、是まで娼妓自弁するの圧制極まる苛酷な
        所置を断然止る事。
      一、娼妓をして、炊事洗濯、掃除等をなさしめて奴婢同様虐待せざる事。
      一、古参引子に於て、娼妓古新老少の別なく、抱主に代り漫に私の権威を振い、常に贈金
        の厚薄により目前に娼妓を軽蔑し、剰さえ客人に対して強いてポチを乞わしめ、自己の
        得分となし是が為娼妓の信用を陥さぬ様、客人に、揚切の約を極め、都合にて半途に客
        帰宅の後に二度客を取らせる事を止むる事。
      一、自今廓内に娼妓娯楽法を設け娼妓を待遇する事。
      一、自分抱家に於て、約束通り満期継続者は幾分か正業資本金として褒美を与える事。
      右記載之条目至急廓内営業者に示し、速に事務所へ会合せしめ協議を纏め、向う一週間の内
      各新聞紙上に広告し我救世軍に満足を与えん事を待望す。但し一ケ条にても自分勝手に偏頗
      の処置あるときは我軍一命を投じて後日必ず為す事あらん。
         十七日認め十八日午後投入す
           日本救世軍 浪花南出張所
  09/20『時事新報』が各地の娼婦の自由廃業運動を伝える
     (大阪府)
     南地川駒席の娼妓若石こと関谷タキ(22)と、南地高中席の君香(18)が南署に廃業届けをだす
     難波新地長谷川楼の娼妓2人が検梅の途中、姿をくらます
     松島花園町の山本久次郎抱庄戸スガ(25)は、兵庫御影の実家に逃げ帰るも、実父は叱りつけ送り届ける
     (福岡県)
     博多柳町の貸座敷花屋出稼娼妓玉橋こと児玉キクと、花扇こと松岡トクは廃業が受理される
     貸借金がでるまて取締所にいると楼主が店にでてくれるよう懇願
     2人は機嫌をとられながら暫時、楼に滞在する
     博多柳町新金波楼の娼妓成田こと野木タツ(21)が妊娠のため営業できずと廃業届けをだす
     (北海道)
     札幌区南四条の北海楼娼妓金田ノブ(26)が廃業届に鑑札をそえ札幌署へ届け出
     正業につきながら働き、借金は少しずつ返済すると書面を提出する
     (静岡県)
     森町遊廓の某が申し渡す
     「もし前借金を踏み倒してまで廃業するのなら、あらかじめ警察にも提出するので相当の処分があるはず」
     警察署長からも懇々と説諭
     (石川県)
     金沢市で正義倶楽部が組織される
     虐待をうける娼妓を救うため、申し出あれば手続きの代行を呼びかける
     (愛媛県)
     道後の遊廓では8人が廃業届けを提出
     その後も続々とだされ吉原、洲崎の比ではない深刻な事態に
     (富山県)
     射水郡新湊町では警戒中の遊廓から自由廃業第1号がでる
     娼妓ミサキこと金フユ(23)は楼主の虐待にたえかね届けをだし、首尾よく聞き届けられる
  09/22夜、島田三郎が銀座会館で廃娼大演説会を開く
     自由廃業の当然起るべき運動であることを約2時間にわたり演説するも1人の妨害者もださず
     『毎日新聞』に広告を掲げ救世軍を支援する
     のち島田はさらに芝区白金の明治学院に開いたミッショナリー大会に臨む
     「基督教の社会廓清に対する貢献」と題し演説
  09/25開拓社が和田●【金偏に發】司の『娼妓と人権』を発行。定価18銭、郵税金2銭
     法的な解説とあわせて諸家の意見を収録する
     貸借金の有効をめぐる東京控訴院判決(有効)と名古屋地方裁判所(無効)が
      廃娼運動、存娼運動に与えた大きな影響をみる

  09/高野房太郎は『労働世界』の誌上で労働運動からの引退を伝える
     「高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして
     今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ。」
     労働運動の前途に失望した高野房太郎は親友の城常太郎とともに中国に渡る
     天津で商店をひらく
     のち山東省の青島で貿易業などに従事
  09/労働運動が行き詰まり労働組合期成会の機関紙『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる
     1901(明治34)01/第69号から再び月2回刊として発行
  09/国際社会党(第二インターナショナル)第5回大会がパリで開かれる

  09/内務省の通牒がだされ、東京では救世軍の吉原進軍や二六新報社の綾衣事件が起きる
     熊本二本木の遊廓でも楼主が秘密裏に集まり自由廃業への防御策を講じる
     廓の出入口に兄貴株を張番させ娼妓の脱走を防ぎ、勧誘者や運動者が来たときは暴力を加えるものとする
     のちそれでも9月中は表面上は平和に過ぎる
     10/02内務省令第44号「娼妓取締規則」が発令される
     10/18二本木遊廓にて自由廃業の第1号がでる
     二本木寿亭の娼妓光花こと本名雑賀まつ(19)が入院中の病院から脱走
     春日警察署に出頭し口頭で廃業届を提出する
     のち10月18日から11月12日までに娼妓41人の自由廃業が成功する
     以降も、自由廃業者はうなぎ登りに増える
  09/各方面から救世軍に寄せられた感謝と激励の手紙が『ときのこゑ』113号に載る
     伯爵板垣退助は「ああでなくては社会を改革することは出来ない」と救世軍を激賞
     女学雑誌の主筆厳本善治は「このたびのことは、博浪沙の鉄槌に比すべき壮挙で、暴秦の覆滅はこれより始まるであろう」と
  09/『東京毎日新聞』が連日に渡り救世軍のための義援金募集の広告を載せる
     発起人は江原素六、島田三郎、根本正、安藤太郎ら
     「一点の詭謀(きぼう)なく、一毫の表裏なく、ただ憐むべき女奴を救済するの目的をもって、
     険を踏み、難を冒して尽力やまざるは、救世軍娼妓救助の運動」
  09/安藤太郎が主幹する雑誌『光の国』が広告文を掲げ、救世軍の廃娼運動のための義金を募集する
  09/救世軍や新聞社、雑誌社の一連の運動に対し、貸座敷業者は戦術を一変
     娼妓優遇、娼妓の品性向上を訴える
     ▽洲崎では登楼客が救世軍軍人か新聞記者と知って密告したら、1円以上10円以下の賞金を与えることに
     ▽神奈川の遊廓では前借金を無利子にして揚代金は楼主と娼妓の折半に
     ▽「娼妓の身付物品は、価格を明瞭にする事。
       炭代、盆暮の出費、遊客の遊興費の不足額弁償、入浴料、検黴費、を娼妓より徴収しないこと」
      言い渡しで、逆にこれまでの娼妓がいかに楼主から財政的に虐められているかが明白に
     ▽新吉原の大文字楼は玉代1本中から金2銭ずつを娼妓に与え貯金させる
      毎月、娼妓の勤惰を調査し1等8円から5等1円までの賞金を与える
     ▽横浜永楽町、真金町の貸座敷業者は相談の結果、毎月2回、有徳者に道徳上の講話をしてもらうことに
  09/『東京朝日新聞』が新吉原の実情を報じる
     廓内には数大小を合して168楼あり、各楼出稼ぎ中の娼妓は2935人
     もしこれらが自由廃業するに及ぶと貸座敷業者はもちろん、
      妓夫、新造、台屋、出入り諸商人はじめ引手茶屋98戸の家族らは直接に影響を被ることになる
     娼妓の前借金はおよそ60〜70万円
     貸座敷業者の多くは他より金円を借り入れて娼妓を抱える
     自力で抱えるのは中米、河内、松大黒、平大黒、宝屋、宝来など数楼に過ぎず
  09/中央公論社の記者桃華が新吉原の実態を調査する
     妓楼総数166戸、娼妓2922人
     遊廓に衣食する者は、傭人男女1582人、妓夫1323人、台屋者228人、
     引手茶屋男女雇人366人、女髪結102人、朦朧車夫1千人
     ほかに芸妓、幇間、飲食店、洗濯屋、按摩をあわせておよそ5千人以上に

  秋/高野房太郎が中国の青島にわたる
     のち消息が不明に
     1904(明治37)03/12日本に戻ることなく青島のドイツ病院で肝臓の膿瘍で客死。36才
  秋/板垣退助らが機関として『社会新報』を発刊。主筆は織田純一郎
  秋/片山潜が国際社会党本部員の1人に選ばれる

  10/01島田三郎が日本廃娼会の廃娼演説会に出場
     のち常に演説会に出場する
  10/02内務省が内務大臣西郷従道の名のもと省令第44号「娼妓取締規則」が施行される
     それまでの各府県まちまちの遊廓取り締まりにかえて全国共通の規則にする
     廃業を思い立った娼妓は楼主の調印、取締役の加判がなくても、
     また届書がなくても、口頭で届ければ直ちに名簿削除が出来るようになる
     18才未満の者を娼妓としてはいけないと規定し、娼妓届出は警察が監督する旨をうたう
     法律が廃業を保障するも、楼主と警察の関係が、より娼妓の圧迫を苛酷なもにしていくことになる
     実際は法律自体を知らない娼妓もおり、娼妓廃業の自由は前借金を盾に阻害されることに
     【娼妓取締規則】(別ページリンク)
  10/02娼妓取締規則の公布により救世軍の廃娼運動に対する主張の正しさが法的に承認されることになる
  「娼妓取締規則」が改正されると同時に、先を争い廃業するものが続出
     規則施行前後では自由廃業を認めない楼主を相手取り各地で訴訟が発生、娼妓の勝訴が相次ぐ
     のち月末までに新吉原、洲崎、品川、新宿、板橋、千住、八王子、府中、調府なとわあわせて464人が廃業
     10月22日から25日までの4日間に新吉原と洲崎の両廓だけで48人の廃業者がでる騒ぎに
     なかでも新吉原京町2丁目の松大黒楼では10人の抱娼妓中、8人が同時に廃業する
     左近、東雲、誰が袖、色香、薄雲、東、花紫、小桜
     残るは2人だけとなり楼主は逆上し耳が聞こえなくなる
     10月27日までの東京府の統計をみる
     総計429人の自由廃業者内訳は新吉原194人、洲崎123人、品川33人、
     新宿24人、板橋14人、千住30人、八王子7人、府中と調布4人
     【規則施行後の年内に自由廃業した娼妓は429人に】
     10月30日には東京市12人、31日には6人の廃業者をだす
     10月31日、南千住辰巳楼の娼妓17人が同盟して廃業を企てる
     同盟を解いて各自が自由に時期をみて廃業することに
     のち娼妓の廃業は地方にも及び、大阪の松島遊廓から熊本の二本木へと拡大する
     九州随一を誇った東雲楼1千余人の娼妓がたちまちに340人に減る
  娼妓取締規則施行後世論が起こり政府が動いたら当事者の娼妓にも自覚者がでるはず
     それでも楼主と取締役の許可がなければ廓外にでられず
     どうすることもできない籠の鳥は苦しみ、逃亡、自殺、殺傷事が毎日のように新聞を賑わす

  10/03内村鑑三が日本で最初の聖書雑誌『聖書之研究』を創刊
     創刊号では「感話」「説教」、聖書の「講話」と「研究」などを内村が執筆
     のち初号の3千部は完売し再版を出すことになる
     1930(昭和05)04/内村が3月28日に没した後、遺言により357号にて終刊となる
  10/05西川光次郎が旧東京独立雑誌社の社員、坂井義三郎、安孫子貞治郎らと『東京評論』を創刊する
  10/06久松義典が文学同志会から『近世社会主義評論』を刊行。定価1円

  10/11救世軍日本本営がユー・ジー・モルフの『娼妓(おひらん)に与ふる文(ふみ)』を発行する
     通称モルフィが全4篇の短文ながら平易な文章で娼妓に訴える
     広く配布をはかったもの

  10/12夜、「社会主義協会」主催の第2回社会主義学術大演説会が神田区の青年会館で開かれる
     西川光次郎、木下尚江、幸徳伝次郎、片山潜、安部磯雄の5人が演説
     聴衆は800人を越え、大部分を占める学生は熱心に演説を聞き開会後入会を申し込む者が多数に

  10/12博文館が島田三郎と木下尚江の共著『廃娼之急務』を発行、定価15銭
     明治5年の芸娼妓解放の偉業が空文化したこと、楼主の不法性、存娼論の不当性、政府の迷誤と偽善を厳しく批判する
     第1章 明治の文明と公娼問題、第2章 日本の国法と公娼制度、第3章 存娼論は無根の空言なり、
     第4章 存娼論の根本的崩潰、第5章 政府の迷誤(上)、第6章 政府の迷誤(下)、第7章 廃娼と貞潔
     付録 公娼問題愈々政治壇頭に上ぼれり
  10/13キリスト教青年会が大阪土佐堀青年会館で廃娼演説会。木下尚江らが演説。松下遊廓楼主がなぐりこみ大乱闘に
  10/18熊本二本木にて雑賀まつが自由廃業の第1号となる【10/19頃?】
     のち11月12日までに二本木遊廓の自由廃業娼妓は41人を数える
     以降も、自由廃業者はうなぎ登りに増える
  10/27神田区美土代町の基督教青年会館で日本救世軍5周年の「第5年大会」が開かれる
     世人の関心が高まり、会場はたくさんの人でうまる
     司令ブラード大佐が世界の救世軍を語る
     書記長デュース少佐が婦人救済活動を報告
     この日まで救世軍の手で廃業した者27人、婦人救済所に引き取った者14人
     大会では嬰児の献児式が行なわれる
     そのなかには生後40日の山室軍平の娘たみの姿も
     来賓としてモルフィ、原胤昭が記念講演
     醜業婦救済所の創立満3年にあたり所長の山室機恵子が報告する
      婦人救済所に収容した者(87)
        娼妓たりし者(53)、芸妓たりし者(7)、
        酌婦たりし者(11)、淫売婦たりし者(5)、その他(11)
      親兄弟に渡しまたは就職させたもの(34)、結婚したもの(29)、
      不結果のもの(5)、不明のもの(9)、被保護の者の数(10)
  10/末少数ながら救世軍が熊本に派遣される
     春日新橋に事務所が置かれる
     【11/12救世軍が二本木町に事務所を設けようと毎夜5、6人が準備にやって来る?】
  10/毎日新聞社が吉原宝米楼を脱出した13才の津田きみを保護する
     岐阜生まれの津田は父の病中、継母のため10円で6年の年季として売られる
     毎日新聞社は津田の前借金10円を楼主に返済し自由の身とさせる
     日本基督教婦人矯風会が経営する慈愛館に保護を託す
     【03/02毎日新聞の木下尚江が吉原遊廓からのがれてきた津田きみを保護。7日から新聞に報道し廃業に成功?】

  10/東京馬車鉄道会社の馭車車掌の有志が、再び組合組織の運動をはじめるも発達を見ることはなく
     1899(明治32)8月に東京馬車鉄道会社馭車車掌同盟期成会を起こすも運動は立ち消えに
  10/内村鑑三が生活のため朝報社の客員として復帰
     1903(明治36)10/12開戦論に転じた朝報社を幸徳秋水、堺利彦とともに退社

  10/社会研究会から坂常三郎編集で『娼妓存廃の断案』を刊行する

  11/0111月3日発行の富沢喜八郎の『富国の礎』が発売頒布禁止の処分を受ける
  11/14幸徳秋水が『千代田毎夕新聞』に40回にわたり3つの論文「大逆無道録」「刀尋段段録」「帝国主義」を掲げる
     「大逆無道録」11月24日号から12月15日号まで15回
     「刀尋段段録」12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで16回
     「帝国主義」1901(明治34)1月19日号から2月14日まで号9回
     1901(明治34)02/14まで
     のち内容の一部は4月20日発行の『廿世紀之怪物 帝国主義』にそれぞれ対応
     「大逆無道録」は『帝国主義』の第2章「愛国心を論ず」
     「刀尋段段録」は『帝国主義』の第3章「軍国主義を論ず」
     「帝国主義」は『帝国主義』の第4章「帝国主義を論ず」「その4」まで
  11/17幸徳秋水が『万朝報』紙上に「排帝国主義論」を発表する

  11/熊本二本木町の遊廓では時候遅れの救世軍なしでも自由廃業はできるという風潮に
     内務省令にて自由に廃業ができるならば救世軍はいらない
     救世軍にかかわって手数料が取られると娼妓にとって不利益となる
     のち自由廃業がますます盛んになるも救世軍に頼む娼妓はなし
     二本木で救世軍はよく理解されておらず評判は最低
     楼主側の悪宣伝と救世軍の名を騙り悪事を働く輩がいたため

  12/01ジュネーブ亡命中のレーニンらがロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』をシュトゥットガルトで創刊する
     のちミュンヘン、ロンドン、ジュネーブで発行される
     1903(明治36)07/ロシア社会民主労働党代位1回党大会(ブリュッセル大会)のあと党が分裂
     レーニンのボリシェビキ派とユーリー・マルトフのメンシェビキ派に分かれる
     レーニンらは脱退。『イスクラ』の編集部からも離れる
     のちメンシェビキの手により編集される。責任者はゲオルギー・プレハーノフが勤める
     1905(明治38)廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から

  12/02愛知の朝倉幾太郎が『廃娼唱歌(一名自由廃業娼妓之灯)』を発行する

  12/31経済雑誌社出版がガルスト単税太郎遺著の『単税経済学』を刊行

  12/モルフィが名古屋市で自由廃業をして財産を差し押さえられた大熊きんとその父卯三郎のためひと肌脱ぐ
     弁護士の岩崎義憲に訴訟手続きを一任する
     モルフィの最後の争いとなるからと岩崎も最大の努力を尽くす
     1901(明治34)03/13公判にて岩崎の敗訴となる
     03/19名古屋控訴院に控訴の手続きをする
     06/13再び岩崎の敗訴となる。岩崎は直ちに大審院へ上告する
     のち楼主側は敗訴になっては大変と第1審、2審の弁護士長島鷲太郎、藍川清成のほか原嘉道を加える
     そこでモルフィは岩崎義憲のほかに山田喜之助、鵜沢総明に依頼する
     1902(明治35)03/21ときの大審院第1民事部7人の名で破棄される
     7人は裁判長判事で法学博士の井上正一、判事の岡村為蔵、今村信行、
     馬場愿治、志方鍛、法学博士の富谷●【金偏に圭】太郎、田代律雄
     これで廃業は自由にできるものの、借金は返済しなければならないことに決まる
  12/東京の下谷区竜泉寺町に「自由廃業娼妓貸金請求会社」が設立する
     背中に吉原自由廃業と赤文字、襟に前借督促人と染めぬいた半纏をまとう12人の男が待機する
     いずれもごろつきのやくざで者手分けをして廃業した娼妓の家に押しかけ脅迫
     「直ちに借金を払わなければ家をこわす」「差し押さえて競売にする」
     もともと娘を売るような貧困家庭に返すことはできず、なかなか前借金回収の成績はあがらず

  冬頃/山口義三(孤剣)が松原岩五郎の『最暗黒之東京』を読む。社会主義者となる契機となる

  九州熊本の二本木遊廓にて娼妓自由廃業の声があがる
     救娼軍や救娼団なる団体が娼妓に廃業を煽動する者がふえる
     のち貸席営業者に不安が生じるなか、二本木の宮川俊蔵は救娼民権拡張義団を組織する
     宮川は無頼漢を集め廃業の続出する楼の楼主の弱点に乗じ金員をだまし取る計画をねる
     救娼民権拡張義団は一方で娼妓に廃業する旨を流布する
     一方で貸席業者に出入りし娼妓廃業に運動する旨を伝えては金借を申し込む
     要求を入れ出金する楼には保護し、金員のない場合は娼妓に廃業するよう恐喝する
     12/緒方改平から金10円、樺島伊徳から金7円、雨森コトから金15円、東雲町の組合から金60円を騙取
     1901(明治34)02/14〜28雨森から金40円、林カメから金2円を、名を貸借りてだまし取る
     04/28二本木の有山伊平方で雇人来ヨシの箪笥から肩掛け1枚を窃取
     この頃いずれも発覚する
     06/04熊本地方裁判所にて重禁錮1か年、罰金10円、監視6か月に処せられる

  福田家で預かる妊娠した某娘が行方不明に
     某娘は前年に石川三四郎と情交を結ぶ
     のち石川三四郎を頼りに姿をあらわす
     石川は景山英子と相談のうえ東京慈恵病院に入院させる
     05/10女児が誕生する。まもなく某娘が失踪する
     残された赤ん坊は幸子と名づけられ石川三四郎の次兄犬三が引き取る
  石川三四郎が某娘との不始末、生きることへの懐疑から石川家長女との養子縁組を解消する
  石川三四郎が女性問題の悩みから本郷区弓町壱岐坂の本郷教会で海老名弾正の説教を聞く
     石川がキリスト教に近づく
     景山英子も教会へ通うようになる
  14才の平塚明がお茶の水高等女学校の良妻賢母主義教育に反発
     級友3人と「海賊組」をつくる
  鉄工組合の支部が横浜浦賀などに組織される
     一方、退会する者、会費滞納する者が続出
     鉄工組合は1897(明治30)12月1日に創立
     04/組合員数5400に対し会費納入者はわずか1千人に
     06/09本部委員総会で「死亡に対する救済金15円を10円に
     疾病火災、負傷に対する救済金を当分停止」を決議
     のち財政悪化をきっかけに衰退
  帝国教育会内に言文一致会が成立する

  内務省令公布1か月未満で須崎の自由廃業娼妓が123人に
  『婦人新報』第79号で自由廃業した娼妓の総数を報告する
     9月中に吉原の綾衣が廃業をして以来、11月中旬まで府下9遊廓の娼妓中自由廃業をした者は2545人
     内訳は吉原763人、洲崎445人、新宿105人、品川101人、
     千住74人、板橋27人、八王子13人、調布12人、川越3人、府中3人
     1人の前借金を50円ずつにして換算すると、総額12万7250円となる


1901(明治34)

  《総理大臣》[第10代](第4次)伊藤博文(→05/10単独辞任)
  《総理大臣》[第4次伊藤内閣]西園寺公望枢密院議長が臨時兼任(05/10→06/02)、[第11代]桂太郎(06/02→)
  《内務大臣》[第19代]末松謙澄、[第20代]内海忠勝(06/02→)
  《警視総監》[第13代]安楽兼道、[第14代]大浦兼武/再任(06/02→)
  《内務省警保局局長》田中貴道(→06/05)、鈴木定直(06/05→)


  九州熊本の二本木遊廓での自由廃業運動が急速に衰える
     のち明治33年の秋には衰微したかに見えた遊廓の規模、娼妓の数が2、3年のうちに元に戻る

  01/05敬業社が磯部久作の『地主ハ盗賊』を発行する
     1911(明治44)01/25発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/25宮武外骨(35)が印刷業を営む福田友吉とともに『滑稽新聞』を創刊する
     A4判、通常20ページ、月2回刊
     1908(明治41)10/20第173号を「自殺号」と銘うち、「本誌受罰史」を4ページ掲載して廃刊に
     10/24「自殺号」が発売停止処分を受ける
     11/03天長節のこの日、新たに『大阪滑稽新聞』を創刊する
  01/27「社会主義協会」主催の第16回例会が開かれる。研究課題は社会主義の心理学。講師は安部磯雄
     安部磯雄は社会主義演説会の開催を提案する
  01/毎日新聞演説会が毎月1回開かれる。社長の島田三郎は毎回講演する
  01/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第69号から月刊を再び月2回刊として発行
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     06/第80号から1日、11日、21日の月3回刊となる
  02/06婦人運動家の奥村五百子が、陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により「愛国婦人会」を創立
     当初の目的は戦没将士の遺族および廃兵の救護
     初代会長は宮内大臣岩倉具定の妻岩倉久子が務める
     初期の会員は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占める
     のち奥村は全国遊説にあたり会員を増やす
     1905(明治38)会員数が一般婦人にも拡張、46万人に達する。日本最大規模の婦人団体に成長する
     1917(大正06)欽定を改正。他の救護事業にもあたるようになる
     婦人職業紹介、花嫁紹介や農村託児所の社会事業など幅広い活動を行なう
     1931(昭和06)満州事変後、ファッショ体制作りに協力し婦人報国運動を起こす
     未成年の女子を集めて愛国子女団(愛国女子団とも)を結成
     1932(昭和07)陸軍省が「大日本国防婦人会」を結成。「愛国婦人会」は激しく対立
     1937(昭和12)末会員数が338万人に達する
     1941(昭和16)06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」の結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」とともに統一され、発展的解消をとげる
  02/14幸徳秋水が『千代田毎夕新聞』に1900(明治33)11月14日からはじめた全40回にわたる3つの論文掲載が終わる
     「大逆無道録」11月24日号から12月15日号まで15回
     「刀尋段段録」12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで16回
     「帝国主義」1901(明治34)1月19日号から2月14日まで号9回
     のち内容の一部は4月20日発行の『廿世紀之怪物 帝国主義』にそれぞれ対応
     「大逆無道録」は『帝国主義』の第2章「愛国心を論ず」
     「刀尋段段録」は『帝国主義』の第3章「軍国主義を論ず」
     「帝国主義」は『帝国主義』の第4章「帝国主義を論ず」「その4」まで

  02/14〜28九州熊本の二本木遊廓の宮川俊蔵は前年から自由廃業が続出する楼の楼主の弱点に乗じ金員をだまし取る
     宮川が自身で組織した救娼民権拡張義団は一方で娼妓に廃業する旨を流布する
     一方で貸席業者に出入りし娼妓廃業に運動する旨を伝えては金借を申し込む
     要求を入れ出金する楼には保護し、金員のない場合は娼妓に廃業するよう恐喝する
     雨森から金40円、林カメから金2円を、名を貸借りてだまし取る
     04/28二本木の有山伊平方で雇人来ヨシの箪笥から肩掛け1枚を窃取
     この頃いずれも発覚する
     06/04熊本地方裁判所にて重禁錮1か年、罰金10円、監視6か月に処せられる

  02/救世軍『救世軍戦争記』を発行する
     四六判、100ページ、定価10銭
     のち毎年発行するようになる。年度報告書の先鞭をなす
  03/02社会主義協会が神田区の青年会館で社会主義学術大演説会を開催。河上清、安部磯雄、木下尚江、片山潜らが講演
     満員の聴衆を集めて開催された日本初の演説会となる
     木下は「社会主義の実行」を演説
  03/24「社会主義協会」主催の第17回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの立場を支持する講演。講師は田口卯吉

  03/30名古屋市音羽町東雲楼の抱娼妓夕秀こと西山ちよが自由廃業となる

  03/日本鉄道労働組合「矯正会」の年次大会が大宮で開かれる
     社会主義が労働組合の唯一の根本的解決であると宣言した決議が可決される
     04/18「矯正会」大会が開かれ「社会主義を標榜して労働問題を解決すべし」と決議。社会主義を表明
     11/警察が宮廷列車の事故を機に解散を迫る
     11/25矯正会は孤立無縁のまま解散届を提出
  03/「普通選挙同盟会」が方針を変更。従来の請願書提出から、選挙法改正案を議会に提出することに
     のち河野広中と降旗元太郎議員の手を通じて提出しようとするも、規定賛成議員の頭数を得ることができず中止に
  春/救世軍が日本で初めて感謝祭を実施する
     救世軍はもちろん広く社会に訴え募金をする
  04/02安部磯雄が処女作となる『社会問題解釈法』を刊行
     発行は東京専門学校出版部。菊判450ページ。定価は1円20銭
     社会主義理論の最高水準を極める。社会福祉を研究する者には重要な書物となる
  04/初砲兵工廠が労働者に対し4月3日に予定する日本労働者懇親会への参加を禁止する
     「四月三日向島に於ける労働者懇親会に出席することを禁ず、違犯する者は相当の処分を為すべし」と掲示
  04/03労働組合期成会鉄工組合の旗の下、労働者大懇親会が向島白鬚前の広場で開かる
     工場法、普通選挙権などの要求を決議。主催は二六新報
      開催を新聞発表すると20銭の入場料を払い約5万人の労働者が応募する
      そのなかには6千人の鉄工組合員があり、集会に対して政府は禁止を通告
      主催者側と折衝の結果、政府は5千人を越えない集会の許可を認める
      二六新報は許可人員は5千人に限られる、早いもの勝ちと通知
      結果、前日からの徹夜組を含めて3万人が集まる
     【1万人? 5万人? 5千人(警察発表)? 2万人(『二六新報』発表)?】
     7時に開会、8時に天皇陛下万歳をもって平穏に終了
     幹事総代の福田和五郎、労働者総代の片山潜、高知県労働者総代の門脇宗光、靴工同盟会名誉幹事の小川平吉らが演説
     片山の演説中、労働者の希望として述べた5か条が会の決議として社会に公表
     (1)政府に保護を要求(2)普通選挙権の要求(3)幼年婦女子の労働保護を要求
     (4)労働者教育の普及(5)毎年4月3日の大懇親会開催
     1902(明治35)03/13二六新報主催の第2回労働者懇親会が禁止となる

  04/03懇親会終了後。会場を公開すると、入れなかった数万の群衆がなだれ込む
     吉原遊廓の妓夫50余人が煽動し野次馬連が呼応。建物は滅茶苦茶に破壊され大混乱に
     主催者の『二六新報』による娼妓の自由廃業運動に反感を持つ吉原の暴力団の挑発で大混乱に

  04/09幸徳秋水が『万朝報』に「我は社会主義者也」を発表、宣言する
  04/18柳瀬勁介が大学館から『穢多非人・社会外の社会』を発行する
     編集者は権藤震二、発行者は岩崎鉄次郎。定価25銭
  04/20幸徳秋水が最初の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』を警醒社書店から刊行【04/21?】
     四六版、本文134頁
     巻頭には4月11日付の内村鑑三の序文「『帝国主義』に序す」が3ページ、
     秋水の「例言三則」が2ページ、目次が6ページ
     巻末には奥付けが1ページ、警醒社書店の広告3ページがつく
     第1章・諸言 第2章・愛国心を論ず 第3章・軍国主義を論ず 第4章・帝国主義を論ず
     内容の一部は1900(明治33)11月24日号から1901(明治34)2月14日号まで『千代田毎夕新聞』に連載
     第2章「愛国心を論ず」は1900(明治33)11月24日号から12月15日号まで「大逆無道録」のタイトルで連載。15回
     第3章「軍国主義を論ず」は12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで「刀尋段段録」のタイトルで連載。16回
     第4章「帝国主義を論ず」その4までは1月19日号から2月14日号まで「帝国主義」のタイトルで連載。9回
     05/10再版される
     1903(明治36)10/10第3版が発行される
     16本の書評と紹介記事が「本書に対する批判」と題し16ページにわたり追加される
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/21日本橋本石町1丁目の労働組合期成会事務所に6人が集まる
     東京専門学校講師の安部磯雄(37)、『労働世界』主筆の片山潜(42)、『万朝報』記者の幸徳秋水(30)、
     『毎日新聞』編集長の木下尚江(32)、『万朝報』記者の河上清(28)、『東京評論』記者の西川光次郎(25)
     創立者6人のうち幸徳を除いてすべてがキリスト教徒
     片山が呼びかけ幸徳が世話人となる。社会主義政党を結成することについて何人も異議なく
     党名を「社会民主党」とすることを片山が提議
     04/28第2回準備会が開かれる。綱領について協議。理想的綱領8か条と実行的綱領28か条が決定
     宣言書の起草は安部が筆をとることに
     05/05第3回準備会が開かれる。社会民主党発表についての準備が協議される
     05/15第4回準備会が開かれる。宣言書が承認、決定される
     幹事に片山と木下を選出。18日の結成、19日の神田警察署への結社届提出、20日の結成発表を決議
     19日中に全国の各新聞社に宣言書が届くよう郵便もしくは配布するよう決めて準備会は散会
     05/18日本最初の社会主義政党「社会民主党」が結成【05/20?】
  04/29明治天皇の皇太子嘉仁親王と節子妃の第1皇子として迪宮裕仁(みちのみやひろひと)が生まれる
     東京府東京市赤坂区青山の青山御所(東宮御所)にて
     のち昭和天皇となる
     1989(昭和64)01/07崩御
  04/幸徳秋水がいろは庵のペンネームではじめた『団団珍聞』の茶説(社説)の連載を終える
     【最終回は4月20日の「繰延の説」?】
     はじまりは1897(明治30)4月から
  04/料理人組合の進徳会を改称し料理人組合
     進徳会の設立は1899(明治32)10月。親切の話は6月から
     本部を京橋区入舟町から神田区三崎三丁目1番地のキングスレー館に移す
     料理人養成所と料理人紹介所を設立
  04/林甕臣、山川直信らが言文一致の実行と普及を目的にはじめた言文一致会幸徳秋水が参加する
  04/社会民主党結成の第1回準備会が開かれる
     参加者は安部磯雄、片山潜、木下尚江、幸徳秋水、川上清、西川光二郎の6人。幸徳以外は全員クリスチャン
  05/18日本最初の社会主義政党「社会民主党」が結成される
     【05/20結成、即日禁止?】【05/18結成、即日禁止?】
     行き詰まった労働運動の打開策を政治運動に求める
     安部磯雄、河上清、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎による
     幸徳以外は全てキリスト教徒。党幹事は片山と木下
     党則の第1条に「我党は社会主義を実行するを以て目的とす」の一文を掲げる
     同時に人類同胞主義、軍備全廃、階級制度全廃、土地・資本の公有、交通機関の公有、
     公平な財富の分配、参政権の平等、教育の公費負担の8項目からなる党の理想と、
     28項目からなる綱領を含んだ「社会民主党宣言書」を発表
     東京では『労働世界』をはじめ『毎日新聞』『万朝報』『報知新聞』の3つの日刊紙
     京都の『日出国(やまと)新聞』、ほか『新総房』『東海新聞』に掲載
     05/19幹事の木下が結成の届出を提出
     05/20木下が神田警察署に呼びだされる。警視総監安楽兼道の命令書を手渡される
     「社会民主党は安寧秩序に妨害ありと認むるを以て治安警察法
     第八条二項に依り其結社を禁止する旨内務大臣より達せられたり。右伝達す」
     結社禁止と同時に宣言書を掲載した新聞等が発売頒布を禁止、新聞紙条例第33条違反で告発、罰金刑を課す
     社会民主党は結成2日後にして禁止される
  05/18片山潜と西川光次郎の共著『日本の労働運動』が労働新聞社から刊行
     定価40銭、郵税4銭
  05/19結党前日、神楽坂警察署の署長の某警部が惟一館に安部磯雄を訪ねる
     某警部は熱心なクリスチャン。日頃から安部を尊敬し社会運動に対しても内心敬意を払う
     某警部は演説を終えた安部に会い密告
      内務省の高等官会議が社会民主党を禁止する方針であること
      綱領中、最も政府の忌諱に触れるのは軍備の撤廃(縮小)、貴族院の廃止、一般人民の投票の3項目
     宣言書の内容は数日前に官憲が安部から入手。内務省に報告済み
     安部は某警部に謝し、すぐさま片山潜、木下尚江を訪ね相談する
     宣言書の押収をまぬがれるため始末する【『労働世界』は発行せず?】
  05/20『労働世界』の臨時号が発行。党則、党の理想、綱領を含んだ「社会民主党宣言書」を掲げる
  社会民主党禁止直後社会政策学会が世間の誤解を心配する
     同学会は社会主義を奉ずるものではないとする弁明書を『毎日新聞』に発表する
     直ちに社会民主党の安部磯雄は不快な感情を抱き『毎日新聞』に「社会政策学会員に質す」を発表
     理論闘争を繰り広げる
  05/31久松義典が文学同志会から『東洋社会党』を刊行。定価50銭
  05/矢野文雄(龍渓)が社会問題講究会を結成する
     幹事に田川大吉郎。会員に安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、国木田独歩、小栗貞雄、加藤時次郎ら
     1904(明治37)03/日露開戦まもなく消滅
  05/大井憲太郎一派が大阪で活動した労働運動、農民運動は実を結ぶことができずに消滅
     大井は1899(明治32)6月に大日本労働協会小作条例期成同盟会を設立
  06/01久松義典が文学同志会から『最近国家社会主義』を刊行。定価60銭
  06/01社会民主党の禁止を受けて幸徳秋水、西川光次郎らが会合をもち、再度社会主義政党の結成を企てる
     党名は「社会平民党」に、綱領から政治的事項を一切省く
     06/03社会民主党創設メンバーらは直後に綱領を変更して「社会平民党」を結成
     事務所を麻布宮村町71番地に移す
     幹事の幸徳秋水、西川光次郎が届出。ふたたび安寧秩序を妨害するとして禁止命令が伝達。結成即日禁止に
     のち宣言文を掲載した新聞編集者の裁判が行なわれる
     社会民主党禁止事件が大きくクローズアップ、社会主義が宣伝されることになる
  06/21東京市会議長の星亨が心形刀流剣術第10代宗家の伊庭想太郎に市庁参事会室内で刺殺される
     満51歳で死去[1850(嘉永03)05/19《04/08》生]
     09/02星亨刺殺事件の裁判がはじまる
     犯人の伊庭想太郎の弁護を花井卓蔵、三好退蔵、飯田宏作、桜井熊太郎らが刑事弁護人となる
  06/21少年結社が松田純三の『少年之思想 第4号』を発行する
     07/04発売頒布を禁止する処分を受ける

  06/25熊本の二本木遊廓にて東雲楼の中島茂七が「女紅場」を設立する
     【熊本警察署署長が中島に提案?】
     校長には中島が就任する

  06/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第80号から月2回刊を1日、11日、21日の月3回刊となる
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     12/21第100号で発行を終了
  07/上堺利彦が内外出版協会から『言文一致普通文』を刊行
  07/02朝報社社長の黒岩涙香が社会救済の第1歩として呼びかける「理想団」が結成される
     黒岩の「団員の誓約に基づき、身を正しくして人に及ぼし、以て我が社会全体を理想に近づける」社会改良思想に基づく
     黒岩、内村鑑三、山県五十雄、幸徳秋水、円城寺清、天城安政、堺利彦、斯波貞吉の8人が発起
     07/20社会改良団体「理想団」の発会式がもたれる
     たちまち会員が北は栃木県から西は静岡県まで広がる
     年末2058人の入会者をみる。社会問題解決に心をつくす広範な人々が参加する
     佐治実然、竹内余所次郎、竹内きみ、安部磯雄、木下尚江、小泉策太郎、片山潜
     久津見蕨村、吉田●【王偏に幾】、今村力三郎、牧野充安、井上伸、高橋秀臣ら
     1903(明治36)01/3166人が加入する
  07/05社会主義の政治運動は当分見込めず「教育的伝道」の方針をとり「社会主義協会」が復活
     片山潜の自宅を事務所に、安部磯雄が会長に、運動の中心は片山と西川光次郎がとる
     木下尚江、河上清、幸徳伝次郎が援助。新たに『万朝報』の記者堺利彦と斯波貞吉が加わる
     運動は既存の「社会主義協会」と1903(明治36)10月27日結成の「平民社」に受け継がれる
  07/10前年5月1日発行の月刊『青年の福音』第3号掲載記事の筆禍事件での控訴判決で1審に同じ【07/05?】
     守田有秋の「人生の大慘劇」と山川均の「苦笑談」が不敬罪に問われる。不敬罪適用第1号に
     守田と山川は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に処せられる
     『青年の福音』を印刷販売した神田区猿楽町の古書店中庸堂の主人若林は重禁錮8か月、罰金50円、監視6か月に
     07/14服罪し巣鴨監獄に入る
     1904(明治37)06/初山川が仮出獄する
  07/12島田三郎が『毎日新聞』紙上に「社会主義及社会党」を連載。社会民主党のために弁じる
     のち9月3日まで36回にわたり連載する
     10/16単行本『社会主義概評世界之大問題』として出版する
  07/普選要望の声が高まる。『二六新報』『万朝報』などが盛んに普選論を高調する
     『万朝報』は普選運動の機関紙の様相を呈す
  08/02幸徳秋水が中江兆民の病気見舞いに大阪の堺へ
     08/08帰京
  08/11堺利彦が『万朝報』に「予は理想団員として何を為さんとするか」を記す
     「社会主義」という言葉はでてこない
  08/30幸徳秋水が片山潜の要請で初めて演壇に立つ
     日本鉄道大宮工場で「労働問題について」を講演
  08/下内外出版協会、言文社から『家庭の新風味』シリーズ第1冊「家庭の組織」を刊行
     編者は堺枯川。各定価20銭
     11/01第2冊「家庭の事務」
     12/27第3冊「家庭の文学」
     1902(明治35)03/18第4冊「家庭の新愛」
     06/09第5冊「家庭の和楽」
     09/03第6冊「家庭の教育」の発行で完結となる
  08/富沢喜八郎が『済世乃礎』を発行する。発行所は不明
     10/08発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/01関西労働組合期成会が結成される
  09/05幸徳秋水と小山久之助が中江兆民の『一年有半』を博文館から刊行【09/03?】
     菊版 本文154ページ、付録92ページ、定価35銭
     付録は「百零一」所載の論文4篇と『毎夕新聞』所載の論文約20篇を収める
     のち初版1万部は3日にして売り切れ
     のちたちまちのうちに22版をかぞえる
  09/28横浜での普通選挙演説会に幸徳秋水、片山潜、木下尚江が登壇する
  10/16内外出版協会が西川光次郎の『社会党』を発行する。定価20銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/16島田三郎が警醒社書店から『社会主義概評世界之大問題』を刊行する。定価30銭
     7月12日から9月3日まで島田が『毎日新聞』に連載した「社会主義及社会党」を改題、単行本か

  10/16新声社が正岡芸陽(正岡猶一)の『嗚呼売淫国』を発行する。定価25銭
     売淫と梅毒の化身として芸妓、歌舞伎界、伊藤博文をあげて「三大醜也」とする
     日本の歴史、文学、社会、政界に及ぶ売淫の伝統を痛罵する

  10/21堺利彦が『万朝報』に「士族と紳士」を発表
  10/28信州普通撰挙同盟会が片山潜の『社会改良手段 普通撰挙』を発行する
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/中江兆民が余力をふりしぼり『続一年有半』を書きあげ出版する
     10/12博文館から刊行。菊版 本文116ページ、付録232ページ。定価35銭
     付録は1886(明治19)6月初版の『理学鉤玄』を収める
  10/東北地方での陸軍大演習の予定を政府が発表する
     まもなく『福島民報』が「矯正会が大演習を機にストライキを計画」しているとデマの記事を掲げる
     大演習には天皇の視察があり、矯正会を不穏な組織と印象づけるため会社側が警察を通じて流す
     矯正会本部は各支部に厳重な注意書を配布、会社側の悪だくみにのらないよう警戒を促す
     11/06陸軍大演習がはじまり天皇の宮廷列車が上野駅を出発
     その前には1駅区間の距離を先行して統監列車が走る
     11/10宮廷列車は瀬峰駅へ向けて仙台駅を出発、小牛田駅に停車
     先行の統監列車は機関車に不具合が生じ瀬峰駅の手前で停車
     定刻を過ぎても瀬峰駅から統監列車が到着した旨の連絡が小牛田駅に入らず、宮廷列車は停車したまま
     小牛田の運輸課長久保扶桑は運転取扱規定を無視し強引に宮廷列車に出発を指示
     進行する宮廷列車の運転士は瀬峰駅手前、目前の統監列車に気づきあわやのところで急停車
     のち事故の責任の所在が問われる
     矯正会が大演習にストライキを計画というデマが流布しており、機関車の不具合も矯正会の工作関与が疑われる
     事故の前日に矯正会員で機関手の鬼島某が機関車の故障を会社当局に申し出
     会社側は点検をせず運用を続ける。機械の粗悪は会社側の責任にありながら完全否定
     原因は矯正会員が計画的に企んだ陰謀と言明。官憲と結託した会社は責任のなすりつけに成功
     11/25「矯正会」は孤立無縁のまま解散届を提出することに
     「矯正会」は1898(明治31)4月5日に機関手のストライキが成功したことで結成される
  11/08新声社が佐藤儀助の『弱者の声』を発行する。定価20銭
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/09朝報社の幸徳伝次郎が田中正造が行なう足尾鉱毒事件についての直訴文を起草
     半紙6枚に書かれた訴状を田中が加筆修正する
     12/10午前11時45分、第16帝国議会の開院式をすませた天皇が馬車で貴族院をでる
     貴族院脇の大路を左に進むとき直訴状を手にした田中正造が「おねがいがございます」と叫び馬車に迫る
     警衛の騎兵曹長が鎗を振った瞬間、馬が暴れ出して落馬、田中もまたつまづいて転び警戒中の警官に押さえられる
     捕えられた田中は_町警察署長や川渕検事正らの取調べのほか、奥貫医師により身体検査も行なわれる
     結果、精神錯乱と認むる点なきほか身体に異常のないことが認められる。謀議の秘匿により不敬罪の成立する余地もなく
     田中は逃走の恐れもなく、また老人であるところから当日の午後7時30分に釈放される
     【政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけと不問に?】
     のち東京市中は大騒ぎになり全国各新聞が号外で報じる
     【田中正造の直訴】「足尾鉱毒事件略年表」へ
     【直訴状】(別ページリンク)
  12/13中江兆民が大阪で病床に臥せ55才で死去。死因は食道癌
     【東京小石川区武島町の自邸】【満54才?】[1847(弘化04)12/08《11/01》生]
     12/14幸徳秋水、小島龍太郎ら門人に見守られ棺に入る
     12/17青山斎葬場で告別式が行なわれる【12/16月?】
     中江兆民は自分の葬儀にあたって一切の宗教色を排するように遺言
     葬儀に宗教上の儀式を持ち込まないで故人に別れを告げる兆民を送る会「告別式」が催される
     板垣退助の弔辞にはじまり、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、1千人を数える参列者の列
  12/21労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第100号で発行を終了
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     1902(明治35)01/01日刊『内外新報』に改題、拡張される
     日本最初の社会主義日刊新聞に
  年末「理想団」が2058人の入会者をみる。社会問題解決に心をつくす広範な人々が参加する
     佐治実然、竹内余所次郎、竹内きみ、安部磯雄、木下尚江、小泉策太郎、片山潜
     久津見蕨村、吉田●【王偏に幾】、今村力三郎、牧野充安、井上伸、高橋秀臣ら
     発会は同年7月20日。呼びかけは朝報社社長の黒岩涙香
     1903(明治36)01/会員数が3166人となる
  農商務省商工局工務課工場調査掛が労働事情を調査する
     工場法立案の基礎資料にしようと各種工業部門の労働事情を調査
     1903(明治36)04/28調査記録を菊判5号活字(44字15行)で1100ページの膨大な資料にまとめる
     5分冊にして堀田印刷所にて印刷
     04/30『職工事情』全5巻が発行される
     第1冊「綿糸紡績職工事情」197ページ
     第2冊「生糸職工事情」66ページ、「織物職工事情」127ページ
     第3冊「鉄工、硝子、セメント、燐寸、煙草、印刷、製綿、組物、電球、
         燐寸軸木、刷子、花筵、麦稈真田などの職工事情」185ページ
     第4冊「付録一」女工募集、誘拐、虐待等について農商務省から各府県に照会した解答を記録 160ページ
     第5冊「付録二」さまざまな女工、事務員、工場主、口入業者等に面接、談話を収録した記録 229ページ
  石川三四郎が下宿の次女で女子高等師範学校に通う清水しげと恋愛する【澄子?】
     のちしげの希望で弁護士試験を受けるも不合格
     のち司法試験は試験日に発病し受験できず
     1902(明治35)恋仲の清水しげが石川三四郎に失望、別れる
     石川は失恋の痛手に苦しむ

  九州熊本の遊廓の楼主らは娼妓が廃業しないよう優遇改善をはかる。それでも効果なく
     熊本警察署署長の永松になきつく
     のち永松署長は東雲楼楼主の中島茂七を招き娼妓の優遇法を講ずる
     東雲楼は熊本二本木第1の妓楼、抱え娼妓70余人のうち53人には東海道の宿場名を娼妓の名に付し世襲にする
     ほかに小紫大夫、東雲大夫と花魁の名がある
     二本木全廓1千人に余る娼妓のうち、小紫大夫と東雲大夫は最高の地位を保つもの
     のち中島は遊廓の楼主と相談。伝染病患者の隔離室を設ける
     06/25娼妓学校の女紅場を創立する
  この年、全国の娼妓の数が1899(明治32)の5万2274人から4万0195人となる
     前年、全国で娼妓の自由廃業がなされ1万2千人余りの減少となる
     東京の娼妓数は1899(明治32)の6871人から5158人に減少する
     救世軍の活動は世間で喧伝され、流行歌となり、講談、演劇になる


1902(明治35)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第20代]内海忠勝
  《警視総監》[第14代]大浦兼武/再任
  《内務省警保局局長》鈴木定直(→02/08)、安立綱之(02/08→)


  01/01労働組合期成会の機関紙『労働世界』が日刊『内外新報』に改題、拡張される
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     日本最初の社会主義日刊新聞に
     のち2か月間発行される【約3週間で廃刊?】
     04/03『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
  01/02大杉栄が語学校へ進むという父との妥協案を得て新潟の新発田から上京
  01/20弘前歩兵第31連隊の37人と従軍記者1人が冬季訓練のため弘前連隊駐屯地を出発
     案内人7人をたてる
     コースは弘前〜十和田湖畔〜三本木〜田代〜青森〜浪岡〜弘前
     目的は雪中行軍に関する服装、行軍方法等の全般研究
     途中足を痛めた1人を三本木から帰還させる
     01/29途中帰還者以外、福島泰蔵大尉ら全員が無事青森に到着。地元の歓迎を受ける
     青森連隊の遭難の知る
     01/31予定より1泊多い11泊12日の行程で弘前に到着
  01/23青森歩兵第5連隊の210人が冬季訓練のため青森連隊駐屯地を出発
     天候の悪化に地元民が行軍中止を進言、連隊は案内役を断り、地図とコンパスのみで進むことに
     青森〜田代〜三本木〜八戸を2泊3日で行軍する計画
     目的は雪中における軍の展開、物資の輸送の可否
     01/24悪天候のなか凍傷者が続出する恐れありと帰営を決定する
     01/25道に迷い遭難。この時点で死者、行方不明あわせて70人を超す
     01/27部隊の指揮をとった神成文吉大尉の遺体を発見する。収容は29日
     のち最終的に訓練参加者210人中199人が死亡する大惨事に
     05/28最後の遺体を収容
  01/26夜、幸徳秋水が惟一館で「予が見たる兆民先生」(第1)を講演
     のち幸徳は翌年にかけて7回にわたり惟一館似て夜の講演を行なう
     02/09「予が見たる兆民先生」(第2)を講演
     04/09「我国民の対外思想」を講演
     04/13「社会主義と個人の自由」を講演
     06/08「文学的●【火偏に鳥】毒」を講演
     07/06「トルストイの害悪論」を講演
     10/26「商業広告と社会」を講演
     1903(明治36)02/15「社会主義と宗教」を講演
  01/30日英同盟が調印され、即時に発効する
     02/12日本政府から日英同盟の締結が公表される
  02/14日英同盟の締結祝賀会が東京で開かれる。のち、1か月半にわたり各地で開かれる
     02/16東京と和歌山で開かれる02/17東京で開かれる
     02/18直江津で開かれる02/19豊橋と高崎で開かれる
     02/20東京で開かれる02/22岩代若松、福岡、甲府、富山、大阪で開かれる
     02/23大阪、高知、徳島、大津、鹿児島、鳥取、秋田、川越、常磐で開かれる
     02/24仙台で開かれる02/25京都、伊勢崎で開かれる
     03/01東京、神戸、青森、前橋、宇都宮、静岡、熊本で開かれる
     03/02武生、岐阜、長岡、水戸、岡山、奈良、金沢、門司、広島で開かれる
     03/03札幌で開かれる03/04奈良で開かれる03/08東京、函館、長崎で開かれる
     03/09名古屋、大分、龍ケ崎、小樽で開かれる03/15佐賀で開かれる
     03/16道後、福井、浜松で開かれる03/21佐世保で開かれる03/23盛岡で開かれる
     03/26山田で開かれる03/29青森で開かれる04/03沼津で開かれる
  02/15衆議院の議会に初めて普通選挙法案が提出される【02/16?】
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら6人。説明演説には中村があたる
     「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや……」との理由を付す
     本会議で審議の結果、少数否決に
     以後1903(明治36)、1908(明治41)、1909(明治42)、1910(明治43)、1911(明治44)と国会に提出【単体で記載】
  02/18人文社から幸徳秋水の『長広舌』を発行する【02/20?】
     それまで幸徳が各新聞や諸雑誌に発表した作品を理論的に選択、整理してまとめる
     人文社は東京市神田区西小川町。体裁は四六版紙装、本文1ページ37字詰め13行組み、全141ページ。定価金28銭
     1897(明治30)から1901(明治34)にかけて発表した論説34編を集めて出版
     「萬朝報」「中央新聞」「千代田毎夕」「日本人」などに発表されたのも
     03/15たいへん好評で再版する
     1910(明治43)09/062月18日発行【02/20?】と3月15日発行の版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/19足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第5回目の押出しが行なわれる
     【第5回押出し】「足尾鉱毒事件略年表」へ
     03/02最後となる。第6回目の押出しが行なわれる
     【第6回押出し】「足尾鉱毒事件略年表」へ
  03/05尾去沢鉱山の坑道で崩壊事故が起きる。死者16人
  03/13二六新報主催の第2回労働者懇親会が前年4月の大会の大混乱を受けて禁止となる
  03/18内外出版協会、言文社から『家庭の新風味』シリーズ第4冊「家庭の新愛」を刊行
     編者は堺利彦。各定価20銭
      第1冊「家庭の組織」は前年8月下旬、第2冊「家庭の事務」11月1日に、
      第3冊「家庭の文学」12月27日にそれぞれ発行
     06/09第5冊「家庭の和楽」
     09/03第6冊「家庭の教育」の発行で完結となる
  03/22労働者大懇親会の禁止に抗議する労働問題政談大演説会が神田区の錦輝館で開かれる
     幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江らが演説する
  03/30石川三四郎が本郷教会で海老名弾正により洗礼を受ける
  04/03『内外新報』『労働世界』に改題
     『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。1902(明治35)1月1日に『内外新報』に改題された
     1903(明治36)03/03『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
  04/03宮崎滔天が桃中軒雲右衛門に入門
     07/25浪花節の営業鑑札が交付される。芸名は桃中軒牛右衛門
  04/10中庸堂書店から西川光次郎著の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が刊行【04/18?】
     日本初のマルクス伝。定価15銭
     リーブクネヒト「マルクス伝」、ゾンバアト「社会主義及社会運動」、ブリス「社会改良百科全書」を参考とする
     1904(明治37)09/平民社が版権と残本300部を中庸堂書店から引き受け定価10銭で販売
     1905(明治38)02/西川の2月の新聞紙条例違反での入獄を記念し平民文庫の1冊に加えられる
     四六半截版104ページ、定価10銭
     1910(明治43)09/03中庸堂書店版と平民社平民文庫版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/13『労働世界』第6年第2号から幸徳秋水による「社会民主党建設者血性男児」の連載が開始される
     09/13第6年第15号で連載終了
     1904(明治37)09/01幸徳秋水著の『社会民主党建設者ラサール』が平民文庫から刊行
     四六半截版137ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は幸徳伝次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/労働問題大演説会が契機となり「労働同盟会」が成立する。事務所は片山潜方に
  05/12労働者団体の「大日本労働至誠会」が夕張市一丁目の万行寺で結成される。南助松、永岡鶴蔵は創立員として参加
     会長に坂本直寛、副会長に小山恒次郎
     坂本直寛は坂本龍馬の甥にあたる人物。北海道に理想郷を作ろうと移住していた
     至誠会は、1、労働者の品位を高むること。2、独立自営の精神を涵養(かんよう)すること。
     3、勤倹貯蓄を実行すること。4、会員互いに相親しみ相助くること。の4か条を制定
     会の主旨を宣伝するために路傍で演説をし、また労働学術講演会を催す
     1903(明治36)06/01永岡らと会長、副会長との間に意見の違いが生じ会長、副会長が辞任
     のち労働者のみでなくキリスト教徒が中心の会員のため、次第に減少することに
  05/28博文館が幸徳伝次郎の『兆民先生』を発行する。定価20銭
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/海員共同救済会が設立される
  06/13救世軍日本本営から山室軍平が『戦争的基督教』を発行する。定価25銭
  06/21『仙台毎日新聞』『夕刊平民』と改題。自ら社会主義を標榜する
  06/博文館が内田魯庵の『社会百面相』を発行する
  07/05矢野龍渓(文雄)が大日本図書から『新社会』を刊行。定価45銭
  07/15〜18呉の海軍造兵廠で3千人がストライキを決行
  07/17労働新聞社から西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が刊行
     四六版47ページ、定価12銭
     1904(明治37)10/品切れ絶版状態に
     1905(明治38)03/24西川の2月の新聞紙条例違反での入獄記念として平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     菊版20ページ、定価5銭
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03労働新聞社版と平民社平民文庫版ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/19幸徳秋水が芝浦鉱泉の芝浜館での納涼親睦会に出席
  07/『大阪朝報』が創刊する
  07/木下尚江、安部磯雄、松村介石らが前橋市の市民教育の演説会に出席
     腐敗選挙の弊の改めを熱心に訴える
     席にいたキリスト教徒数人が訴えに動かされ、みずから候補者をたて理想選挙を行なうことに
     08/10木下尚江が総選挙に出馬するも落選。29票を得る、得票率は5%
  08/06〜09幸徳秋水が衆議院議員に立候補の木下尚江を応援のため群馬県前橋市におもむく
  08/07岡山で三好伊平次が「備作平民会」を結成する
     部落改善の先駆的運動
  08/10東京5区から無所属で出馬した『二六新報』の秋山定輔が第7回衆議院議員総選挙で当選
     代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
     1904(明治37)03/代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
  08/11片山潜、西川光二郎、宮本勘二郎の3人が東北遊説を行なう
     高崎、黒磯、白河、福島、仙台、一の関、盛岡、青森、弘前、黒石、佐沼、米沢の12市町村を遊説
     13回の演説を行ない、聴衆は約3千人以上の参加
     盛岡では機関庫青年有志の尽力で1200人の聴衆を集める
     各地の地方新聞記者の好意的な協力が目立つ
     08/26この日まで
  08/14〜21東京小石川の砲兵工廠で120人が賃上げストライキを決行
  08/19管野すがの父が中風に倒れたのを看護する理由で小宮家を離れる。大阪に帰る
     管野は1899(明治32)に父の懇望で東京市深川区深川東六間堀2番地の小宮福太郎と結婚する
     のち小宮と離婚する
  08/21宮崎寅蔵が国光書房から『三十三年の夢』を発行する。定価33銭
  08/23文学同志会が久松義典の『社会学講義』を発行する。定価50銭
     1910(明治43)09/13発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/31鳴皐書院が赤羽一の『嗚呼祖国』を発行する
     1904(明治37)01/25一二三館が赤羽一の号、赤羽厳穴の名で『嗚呼祖国』を発行する
     1910(明治43)09/20鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/02東京専門学校が大学に昇格し早稲田大学となる
  09/08朝報社の有志が社会主義的洋行綱領の大部分をとりいれた一種の自由主義的改良クラブ「理想国」を結成する
  09/24社会主義学術講演会が神田区の青年館で開かれる
     8人の巡査と7人の探偵が会場にのりこみ監視。無事に話し終えたのは木下尚江と安部磯雄のみ
     幸徳秋水が社会主義協会主催の学術演説会で「生物と社会主義の関係」を講じる
  秋/石川三四郎が堺と弁護士の花井卓蔵の紹介で朝報社に入社する
     黒岩周六の秘書となり理想団の事務に携わる。木下尚江らを知る
     1903(明治36)11/29石川三四郎が朝報社を退社し平民社への入社を発表する
  10/11大杉栄が本郷会堂で海老名弾正の影響から洗礼を受ける
  10/18社会主義協会が万国社会党大会に人種的差別反対の提案を決議
  11/01幸徳秋水が『萬朝報』に論説「鳥語傳(公冶長物語)」を発表する
  11/02大原祥一が秀英舎から『社会問題』を刊行。定価40銭
  11/09管野すがが軽症の赤痢にかかり桃山療病院に入院する。16日までの1週間
  11/15幸徳秋水が『六合雑誌』263号に「社会主義と国体」を発表
  11/23片山潜が『社会講演』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/02国勢調査を実施するための「国勢調査ニ関スル法律」(法律第49号)が成立、公布される
     のち第1回国勢調査は1905(明治38)に行われることに日露戦争のため、実施は見送り
     のち1915(大正04)の予定も、第1次世界大戦の影響で実施が見送られる
     1920(大正09)10/01第1回国勢調査が実施される
     結果、内地の人口は、5596万3053人(うち男2804万4185人、女2791万8868人)
     外地も含めた人口は、7698万8379人(うち男3890万3195人、女3808万5184人)
     東京府の人口は369万9428人(うち男195万2989人、女174万6439)
  12/04堺利彦が『家庭夜話』の第1冊としてエミール・ゾラの「子孫繁昌の話」を訳出する
     発行は内外出版協会。定価は各巻35銭
     「子孫繁昌の話」は堺がゾラの「多産」を英訳本から日本語に抄訳。人物の名前を日本語に置き換える
     1903(明治36)01/第2冊としてゴールドスミスの「質素倹約の話」を刊行。訳は加藤眠柳
     03/30第3冊として堺利彦がビーチャー・ストーの「仁慈博愛の話」を刊行【志津野又郎?】
  12/27学生鉱毒地大挙視察大演説会が開催される
  12/救世軍が「救世軍愛隣隊」を編成する
     女士官、女兵士をもって編成し毎週3時間以上、主として労働者の家庭を訪問。相談相手になる
  宮崎滔天の兄、宮崎民蔵が「土地復権同志会」を結成する
  石川三四郎が前年の弁護士試験、司法試験に続けて高等文官試験にも失敗する
     のち景山英子のとなりに移った堺利彦の忠告で受験を諦める
  恋仲の清水しげが石川三四郎に失望、別れる
     石川は失恋の痛手に苦しむ
  社会学研究会の機関誌『社会』が第4巻から『社会学』に改称する
     社会学研究会は1897(明治30)12月に創立した東京帝国大学の文科大学が中心となる組織
     機関紙の創刊は1899(明治32)1月1日
  東京大学在学中の煙山専太郎が『近世無政府主義』を発行する
     早大の外交史の講座を担当していた有賀長雄博士が校閲し東京専門学校の「早稲田叢書」の1冊に加える
  J・A・ホブスンが『帝国主義論』を刊行
     前年4月には幸徳秋水が最初の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』を刊行
  小坂鉱山からの亜硫酸ガスが問題となる


1903(明治36)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第20代]内海忠勝、[第21代]児玉源太郎文部大臣が兼任(07/15→)、[第22代]桂太郎内閣総理大臣が兼任(10/12→)
  《警視総監》[第14代]大浦兼武/再任、[第15代]安立綱之(09/22→)
  《内務省警保局局長》安立綱之(→09/22)、有松英義(09/22→)


  01/01山路愛山が『独立評論』を創刊
     1904(明治37)02/第2巻第2号で休刊となる
  01/04社会主義協会の片山潜、西川光二郎の2人が関西遊説を行なう
     京都、大阪、神戸、岡山、広島、呉での演説会を開く。聴衆は2600余人に
     京都、大阪、神戸の演説会には矢野文雄が弁士として参加
     01/23この日まで
  01/15神田区の青年会館で「印半纏会」が開かれる
     津田仙、留岡幸助の講演などが催される
  01/24社会主義協会大演説会が開催。幸徳秋水、安部磯雄らが演説、聴衆300余人。この年ほぼ月1回の演説会を開催
  01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から
     1983(昭和58)03/1880才で死去
  01/石川三四郎が理想団の演説会で最初の公開演説をする
  01/堺利彦が内外出版協会から『家庭夜話』の第2冊としてゴールドスミスの「質素倹約の話」を刊行
     訳は加藤眠柳。定価は各巻35銭
     第1冊は前年12月4日に堺がエミール・ゾラの「子孫繁昌の話」を訳出
     03/30第3冊として堺利彦がビーチャー・ストーの「仁慈博愛の話」を刊行【志津野又郎?】
  01/「理想団」の会員数が3166人となる
     発会は1901(明治34)7月20日。呼びかけは朝報社社長の黒岩涙香
  02/01安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦らが講師をつとめるユニテリアン協会の惟一館日曜演説会に加藤時次郎が参加
     「外科皮膚病の社会に及ぼす関係」を報告する
  02/01幸徳秋水が社会主義演説会で「資本家の味方」を講演。会場は神田区三崎町の吉田屋
  02/15夜、幸徳秋水が惟一館で「社会主義と宗教」を講演
  02/25『読売新聞』が小杉天外の「魔風恋風」を連載。9月3日まで12回を除いて毎日全190回
  02/下谷区萬年町2丁目54番地に東京市直営の萬年特殊尋常小学校が開校する
     坂本龍之輔が校長になる。坂本は労働教育、生活改善に力を注ぎ、貧民学校を必要としない状態をめざす
     1921(大正10)坂本が病気のため退職。萬年小は廃校となり生徒は山伏小学校に転入
     のち卒業生がその徳をしのんで竜生会をつくる
  02/島田三郎が『太陽』に「政局概評」を発表する
     軍拡廃止、地租据え置き、行政整理を主張する
  02/岡倉天心が英国のLondon, : John Murrayから『The Ideals of the East』を刊行
  03/01第5回内国勧業博覧会が大阪市天王寺今宮にて開かれる。7月31日まで。入場者数は435万0693人
     日清戦争の勝利や鉄道網の発達から博覧会への期待は大きく、敷地は2倍余、会期も最長の153日間に
     会場には農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館のほか台湾館、参考館が建設
     それまでは不認可の諸外国の製品を陳列。イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど10数か国が出品
     のち1907(明治40)に予定された第6回を万国博覧会は延期、ついには中止に
     のち府県による博覧会は開かれるものの、国レベルの博覧会は1970(昭和45)の大阪万国博覧会に
  03/03『労働世界』『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題ののち
     1904(明治37)01/片山潜の渡米後、『渡米雑誌』に改題
  03/深川区霊岸町167番地に東京市直営の霊岸特殊尋常小学校が開校する
  03/大杉栄が壱岐坂の本郷教会に通いだす
  03/小塚空谷が『社会主義』に「社会主義勃興の歌」を発表する
     09/小塚空谷が『社会主義』に「社会主義歓迎の歌」を発表する
  日本矯風会が大阪での勧業博覧会会場にて我会禁酒休憩所を設置する
     矯風主義の宣伝につとめる
  社会主義協会の会計に余裕が生じ大阪での社会主義大会の開催を決定
     大阪では勧業博覧会が開かれており三宅磐、小笠原誉志夫らが尽力
     のち博覧会用に建築された中之島公園の公会堂を2回借り受け社会主義宣伝演説会を開くことに
     社会主義大阪大会をは土佐堀の青年会館で開くことに
     のち期日が4月5日、6日に決まる
     東京から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、片山潜の5人が大挙することに
  春/朝報社の石川三四郎が編集局に移動となり編集長松井柏軒の助手となる
     かたわら黒岩周六の著作『天人論』を手伝う
  04/03朝報社在社中の堺利彦が由分社を設立
  04/03朝報社在社中の堺利彦が由分社から月刊『家庭雑誌』を創刊
     一貫して家庭の中から社会主義を発展させ、かつ家庭の近代化をはかることを目的とした啓蒙雑誌
     内村鑑三が創刊号に祝辞を寄せる
     誌上では新しい家庭のあり方、夫婦のあり方、戦争の問題等がユーモアを交え、温かくかつ鋭く論じられる
     本誌の特色として6つの綱領をかかげる
     1、健全な思想 2、改革の気象 3、清新の趣味 4、親切の教訓 5、平易の文章 6、通俗の説明
     のち週刊『平民新聞』を起こすにあたり編集事務を西村渚山に託す
     1906(明治39)03/15堺利彦が麹町元園町で、再び堺が「家庭雑誌」の出版経営にあたる
     10/由分社を解散するとともに、「家庭雑誌」を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
     08/第5巻10号の全54冊で廃刊になる
     1909(明治42)04/大杉の妻堀保子が「家庭雑誌」を復刊する
     07/01第4号で発行停止、その幕を閉じる
  04/03『家庭雑誌』創刊号にエドワード・ベラミーの社会主義理想小説『回顧』の抄訳の一部が掲載される
     タイトルは「ユトピアの話」。抄訳は堺枯川。原題は「Looking backward」(1887)
     09/『家庭雑誌』第1巻第6号に全体を抄訳し『百年後の世界』のタイトルで掲載される
     1904(明治37)03/09平民文庫5銭本の第1巻として『百年後の世界』刊行
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  04/04矯風会大阪支部が土佐堀の青年会館で演説会を開く
     弁士は島田三郎と安藤太郎
     島田の演題は遊廓移転論、安藤の演題は禁酒について
  04/05安部磯雄、西川光次郎、木下尚江、片山潜が社会主義協会の代表として大阪へ
     中之島公会堂での社会主義演説会で演説
     04/06土佐堀青年会館で日本社会主義者大会が開かれる
     大会では満場一致で決議を通す
     一、吾人は社会主義を以て人類社会の改善を計るものなり
     一、吾人は日本に社会主義の実行を努めざるべからず
     一、社会主義の成功を期するには万国同主義者の一致協力を要す
     大会出席者は鳥取や愛知などから数百人が集まる
  04/05午後6時半から大阪中之島公園の公会堂で「社会主義演説会」をが開かれる
     幸徳秋水が「余の社会主義」、安部磯雄が「経済上の不安と社会主義」、
     小笠原誉志夫が「戦争廃止論」、西川光二郎が「惰怠の福音」、
     木下尚江が「日本に於ける社会的思想の歴史」、片山潜が「将に来らんとする新政党」を演説
     また世界漫遊の途次、日本にきあわせていたウィーンの社会主義者エックシュタインが「万国の労働者は同盟せよ」と訴える
     雨にもかかわらず聴衆700〜800人がつめかける
  04/06午後1時から大阪の土佐堀青年会館で社会主義大阪大会をが開かれる
     【日本社会主義者大会をが開かれる?】
     安部磯雄が「社会主義協会の過去及将来の方針に就て」、幸徳秋水が「新聞紙及文学上に於ける社会主義」、
     木下尚江が「政治法律社会に於ける社会主義」、西川光二郎が「我国に於ける社会主義者の運動」、
     片山潜が「万国社会主義者と我国の社会主義者」、三宅磐が「都市と社会主義」、
     小笠原誉志夫が「万国平和と社会主義」を演説する
     大会では満場一致で決議を通す
     一、吾人は社会主義を以て人類社会の改善を計るものなり
     一、吾人は日本に社会主義の実行を努めざるべからず
     一、社会主義の成功を期するには万国同主義者の一致協力を要す
     大会出席者は鳥取や愛知などから数百人が集まる【聴衆は約500人に?】
  04/06社会主義大阪大会をに樽井藤吉が来会
     樽井は往年九州島原で東洋社会党を創立
     社会主義運動の発展進歩に向かい賛意と同情をあらわす
  04/06午後6時半から中之島公会堂で前日に続いて社会主義演説会をが開かれる
     木下尚江が「芸者踊問題」、西川光二郎が「中産者と社会主義」、三宅磐が「天保の惨劇とその教訓」、
     児玉花外が「新体詩朗吟大塩中斎先生に告ぐる歌」、幸徳秋水が「社会主義と資本家」、
     片山潜が「社会主義の経済」、安部磯雄が「社会主義は人生保険なり」をそれぞれ演説する
  04/06管野すがが昼の社会主義大阪大会をに出席する【夜の社会主義演説会に出席?】
     【大阪中之島公会堂で開かれた社会主義演説会をで木下尚江の演説を聞き感激?】
     この日の演説会は管野の世界観の形成に大きな影響を与えることに
  管野すがが『大阪朝報』第186号に木下尚江の演説について書く
  04/16管野すがが『基督教世界』第1025号に「基督教世界愛読者諸君に告ぐ」を寄稿、掲載される
     管野は醜業婦の舞踏会に反対し木下尚江の演説に言及する
  04/19社会主義図書部が片山潜の『都市社会主義』を発行する
  04/25幸徳秋水が朝報社有志の第2回講演会で「社会主義の根底」を発表する
     05/23幸徳秋水が朝報社第4回講演会で「同盟罷工の話」を発表
     06/27幸徳秋水が朝報社第6回講演会で「サン・シモンの伝」を発表。会場は東京京橋の数寄屋橋教会
  04/27社会主義図書部から西川光次郎著の『富の圧制』が刊行。定価12銭【04/30?】
     社会主義の実践活動に入っての4年間の演説を筋書きとして成り立たせる。社会主義の啓蒙書的な役割
     1905(明治38)01/23平民文庫の1冊に加えられる【01/25?】
     西川の2月の新聞紙条例違反での入獄を記念して
     四六半截版102ページ、定価10銭
     著作兼発行人は西川光次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03社会主義図書部版と平民社版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/281901(明治34)から農商務省商工局工務課工場調査掛が調査していた労働事情を記録としてまとめる
     菊判5号活字(44字15行)で1100ページの膨大な資料を5分冊にして堀田印刷所にて印刷
     04/30『職工事情』全5巻が発行される
     第1冊「綿糸紡績職工事情」197ページ
     第2冊「生糸職工事情」66ページ、「織物職工事情」127ページ
     第3冊「鉄工、硝子、セメント、燐寸、煙草、印刷、製綿、組物、電球、
         燐寸軸木、刷子、花筵、麦稈真田などの職工事情」185ページ
     第4冊「付録一」女工募集、誘拐、虐待等について農商務省から各府県に照会した解答を記録 160ページ
     第5冊「付録二」さまざまな女工、事務員、工場主、口入業者等に面接、談話を収録した記録 229ページ
  04/朝報社講演会が開催される
  04/中正独立を持していた『大阪朝日』『大阪毎日』がロシアの第2期撤兵期日をめぐり「対露強硬論」を唱える
  04/大阪で内国勧業博覧会が開かれ、救世軍の伊藤富士雄が難波に救世軍第2小隊を設ける
     盛んに伝道を行なう
     のち淫売窟へ押しかけ有益な働きをする
     1904(明治37)気に食わないことがあると救世軍を飛びだす
     のち関西鉄道、大阪砲兵工廠に勤める
     のち上京し築地の海軍省工場で工場長を勤める
     1910(明治43)長女が死去
     のち心機一転して再び救世軍士官となる
     1913(大正02)04/社会事業部に転じ婦人救済係に
     のち専心、娼妓の自由廃業に努力する
     1923(大正12)06/02伊藤富士雄が下谷救世軍病院で死去
     伊藤は死去するまでの満11年3か月の間に1200人もの芸娼妓の面倒ををて、987人の娼妓に自由を与える
  05/01幸徳秋水の「非開戦論」が『万朝報』に掲載される
  05/14〜19長崎三菱造船所の鉄工部900人により賃金要求ストライキが起こる
  05/20民雄社が石巻良夫の『労働運動の変遷』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/22藤村操が第1高等学校文科1年在学中に日光の華厳の滝で投身自殺[1886(明治19)07/20・生]
     数えで18才の16才10か月。自殺現場のかたわらの木に「巌頭之感」を書き残す
     のちあとを追う者が続出。藤村の死後4年間で華厳の滝で自殺を図った者は185人に
  05/木下尚江が残陽生のペンネームで『毎日新聞』に「戦争人種」を掲載
     主戦論に動員される日本国民の好戦主義に対し批判をあびせる
  06/01日本初のドイツ式洋風近代式公園として日比谷公園が開園する
     ドイツで林学を学んだ本多静六や、本多の助手でのち造園を志す本郷高徳により「都市の公園」として設計
      日比谷公園のまわりに広がっていた入江が埋め立てられたのは、江戸時代初期のこと
      幕末の頃には御用屋敷や松平大膳大夫(毛利)、松平肥前守(鍋島)、丹波若狭守、
      有馬備後守、朽木近江守、南部信濃守、小笠原佐渡守、北条相模守のの上屋敷が置かれた
      明治維新直後には亀岡松平藩、唐津藩、有馬藩邸や、鍋島藩の上地、政府御用地の他に、桑畑や茶畑ができる
      屋敷跡を畑にしたのは、旧江戸周辺の荒廃地の開拓手段として農村化しようとした政策
      1871(明治04)年頃には、のち日比谷練兵場の前身、日比谷操練所が置かれる
      明治時代に入って、陸軍近衛師団の練兵場に
      1889(明治22)には練兵場を青山に移して、跡地を公園にする計画が決定する
  06/01夕張の「大日本労働至誠会」の永岡鶴蔵らと会長坂本直寛、副会長小山恒次郎との間に意見の違いが生じる
     会長、副会長が辞任
     「大日本労働至誠会」は1902(明治35)5月12日に夕張市一丁目の万行寺で結成される
     のち労働者のみでなくキリスト教徒が中心の会員のため、次第に減少することに
  06/03『社会主義』第7巻13号が発売禁止に
     06/29片山潜が東京地裁にて新聞紙条例違反で罰金刑の有罪判決を受ける
  06/06博文館がドン・ネリー著、磯野徳三郎訳の『社会主義新小説 文明の大破壊』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/10内閣総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎らに大学7博士の「対露硬意見書」が提出される【「七博士意見書」?】
     七博士とは東京帝国大学教授の戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨と学習院教授の中村進午
     内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾
     「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」「バイカル湖まで侵攻しろ」と主戦論を唱え、
     ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫る
     06/11『東京日日新聞』に一部が掲載される
     06/24『東京朝日新聞』4面に全文掲載される
     のち伊藤博文は「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べる
     桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑
  06/17前川文栄閣が正岡芸陽の『新時代の道徳』を発行する。定価25銭
     1911(明治44)04/04発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/18黒岩涙香が『万朝報』に「藤村操の死に就いて」を発表
  06/19幸徳秋水が『万朝報』に「開戦論の流行」を発表する
  06/19内村鑑三が『萬朝報』に「戦争廃止論」を発表する
  06/19加藤時次郎が「今後お互いに一層交情を深くしたい」と自宅で晩餐会を開く
     堺利彦、幸徳秋水、佐治実然、山県五十雄、黒岩涙香、田川大吉郎、斯波貞吉、片山潜を招待
     内村鑑三、安部磯雄も招かれるが欠席する
  06/22電車賃率引上反対運動で加藤時次郎が演説をする
     06/26同じく電車賃率引上反対運動で加藤時次郎が演説をする
  06/30内村鑑三の「戦争廃止論」が『万朝報』に掲載される【06/10?】
  06/片山潜が編集発行する『社会主義』7年13号掲載の2作品が新聞紙報告違反に問われ発禁、刑事訴追される
     西川生(西川光次郎)の「噫鉱毒被害民!」と小塚空谷の「労働軍歌」
     06/24東京地方裁判所にて裁判長島田鉄吉、立会検事溝淵孝雄のもと公判が開かれる
     卜部喜太郎、花井卓蔵、今村力三郎、蔵園三四郎、塩谷恒太郎、川島仟司らが弁護
     06/29判決が言い渡される
     片山は編集人として罰金20円、発行人として罰金20円、計40円に
  06/本所区三笠町5番地に東京市直営の三笠特殊尋常小学校が開校する
  07/05朝報社が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する。定価30銭
     著作者は東京市本郷区根津西須賀町8番地の幸徳伝次郎。表紙の著者名は幸徳秋水
     発行所は東京市京橋区弓町21番地の朝報社。定価金30銭
     菊判、紙装で本文と附録とをあわせて148ページ
     本文は4号活字で114ページ、附録5篇は9ポ活字で34ページに組まれる
     07/25再版される
     09/第3版が発行
     のち11月までのあいだに6版を重ねる
     11/15博文館、東京堂が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する
     1905(明治38)11/17朝報社から続く第7版は由分社からの発行となる
     1910(明治43)09/03朝報社版と博文館、東京堂版の『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     1910(明治43)09/13由分社版が発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/05安部磯雄が『社会主義論』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/07幸徳秋水の「戦争論者に告ぐ」が『万朝報』に掲載される
  07/08社会主義図書部が片山潜の『我社会主義』を発行する
     例言 第1章 社会主義とは何ぞや 第2章 資本家とは何ぞや 第3章 富、財産及び資本の関係
     第4章 資本家の歴史 第5章 初期の資本家時代 第6章 資本家の第二期時代 第7章 自由競争と労働者
     第8章 労働者間の強制的競争 第9章 資本家制度と婦女及幼年労働者 第10章 資本家の生活(対貧民の家庭)
     第11章 自由競争の終局点 第12章 ツラスト 第13章 資本家の最後(上) 第14章 資本家の最後(中)
     第15章 資本家の最後(下) 第16章 資本家の死物狂 第17章 社会主義の発達 第18章 社会主義の産業
     第19章 社会主義の生産 第20章 社会主義の恐慌 第21章 社会的製産の利益 第22章 産業の分配
     第23章 社会主義と価格 第24章 社会主義と政事及法律 第25章 社会主義と道徳及宗教
     第26章 社会主義と知能、発明、美術、文学及科学 第27章 社会主義と私有財産 第28章 社会的革命
     第29章 資本家制度の跡始末 第30章 社会主義の理想 結論
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/09片山潜、西川光二郎、松崎源吉、吉野省一の4人が四国、中国、九州地方の遊説を行なう【07/06?】
     香川、愛媛、広島、山口、福岡、大分、佐賀、熊本、鹿児島、宮崎の10県にわたる
     演説会は21市町村で26回にわたり行ない約7500人以上の聴衆を集める
     遊説から警察の弾圧が介入するようになる
     09/05この日まで
  07/26近衛篤麿、頭山満らが対外硬同志会を組織する
  07/ロシア社会民主労働党代位1回党大会(ブリュッセル大会)のあと党が分裂
     レーニンのボリシェビキ派とユーリー・マルトフのメンシェビキ派に分かれる
     レーニンらは脱退。『イスクラ』の編集部からも離れる
     のちメンシェビキの手により編集される。責任者はゲオルギー・プレハーノフが勤める
     1905(明治38)廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から
  07/長崎の『鎮西日報』の改善拡張の機に主筆として田添鉄二が招かれる
     08/社会主義遊説のため長崎を訪れた西川光二郎が田添鉄二と会談
     1904(明治37)02/社主との主義上の衝突で『鎮西日報』を退社
     1904(明治37)03/社会主義のため一身を犠牲にする覚悟で上京、平民社に参加する
  夏過ぎジャーナリズムのなかで非戦、反戦の論調が孤立するようになる
  08/09対露硬同志会が神田区の錦輝館で大会を開く
     対露硬同志会は近衛篤麿、神鞭知常、頭山満ら国家主義者100余人をもって組織される
     ロシアの不撤兵に対し「日本は勇往邁進せざるべからず」の「大会決議案」を満場一致で可決
     政府に「ロシア打つべし」と「対外硬」を迫り桂首相に「警告書」をおくる
  08/18『社会主義』第7巻18号が発売禁止に。新聞紙条例違反で有罪判決
  08/22幸徳秋水が神田区キングスレー館での社会主義演説会で講演
  08/22東京電車鉄道会社(東電)が新橋〜品川八ツ山間に40人乗り市内電車の運転を開始
     1904(明治37)03/総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  08/23幸徳秋水の「二者一を取れ」が『万朝報』に掲載される
  08/25奥宮健之の『北米移民論』が明義舎出版部から刊行する
  世の風潮が主戦に傾くなか「非戦論」の立場にあるのは黒岩周六の『万朝報』、島田三郎の『東京毎日新聞』など
     地方では『滋賀日報』『牟婁新報』などが良心的な主張を展開する
     雑誌では社会主義協会の機関誌『社会主義』『労働世界』の後継誌として非戦論を展開
     『六合雑誌』がキリスト教的立場から非戦論を主張する
  08/『時事新報』が「竜岩浦租借事件」を契機として連日のように朝鮮問題を取り上げる
  09/10福島の入山炭鉱でストライキが起こる
  09/129月15日発行の児玉伝八(花外)の『社会主義詩集』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行所は金尾文淵堂、社会主義図書部、文淵堂代理店
  09/13幸徳秋水の「好戦心の挑発」が『万朝報』に掲載される
  09/15『毎日新聞』でトルストイの小説「復活」の連載がはじまる
     挿し絵は在社している平福百穗
     年末「復活」が不評となり編集会議で次回作を模索
     12/31「復活」は終了
     1904(明治37)01/01木下尚江による反戦社会小説「火の柱」の連載がはじまる
  09/15東京市街鉄道会社(街鉄)が数寄屋橋〜日比谷〜大手町〜神田橋に路面電車を走らせる
     1904(明治37)05/頃日比谷〜小川町〜万世橋〜両国〜茅場町〜日比谷の循環運転を開始
     のち3社合併までの間に総延長36.5キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  09/23社会主義協会大演説会が開催される。安部、片山、幸徳ら演説。聴衆650余人
  09/23社会主義協会が非戦論の発表を提唱
  09/四谷区鮫河橋谷町1丁目42番地に東京市直営の鮫橋特殊尋常小学校が開校する
  09/『家庭雑誌』第1巻第6号にエドワード・ベラミー社会主義理想小説『百年後の世界』が掲載される
     抄訳は堺枯川。原題は「Looking backward」(1887)
     同年4月3日発行の『家庭雑誌』創刊号には一部抄訳した「ユトピアの話」が掲載
     1904(明治37)03/09平民文庫5銭本の第1巻として『百年後の世界』刊行
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)02/08『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  09/大杉栄が東京外国語学校の仏語科に入学する
     1905(明治38)07/外国語学校を卒業する
  10/08管野すがが『基督教世界』第1050号に反戦小説「絶交」を発表する
  10/08ロシア第3期撤兵期限を転機に政府の御用新聞『東京日日新聞』を除き諸新聞の論調がいっせいに主戦論に傾く
     政府当局に最後の決断を迫る
  10/08開戦はさけられない形勢となり朝報社の『万朝報』が夕刊で従来の態度を急変
     開戦論の主張を明白にする【極端に主戦論的な立場をとる?】
     社中の開戦論者は進歩党系の円城寺天山が先鋒、社主の黒岩涙香が営業政策の上から引きずられる形に
     黒岩の心境の変化により主戦論を唱える。国民は開戦へ向けて政府に協力すべきとの宣言
  10/08夜、社会主義協会主催の「第1回非戦論大演説会」が開かれる
     【「社会主義者非戦論大演説会」「社会主義者反戦大会」?】
     場所は神田区美土代町のキリスト教青年会館(YMCA)
     弁士は安部磯雄、片山潜、木下尚江、堺利彦、西川光二郎、斯波貞吉。300人が集まる
     主戦論を唱える諸政党の強い反対にもかかわらず集会は大成功に
     集会は来るべき戦争に反対する日本の社会主義者による最初の宣言となる
     10/20「第2回非戦論大演説会」が開かれる
  10/08「第1回非戦論大演説会」に幸徳秋水と堺利彦が出席
     ほかにも安部磯雄、木下尚江、西川光二郎らが主義主張を掲げて熱弁をふるう
     席上、幸徳と堺は朝報社を退社する決意を表明する
     幸徳は「非戦論の立場を強調し主戦論に走った『万朝報』に留まることはできない」と決意を述べる
     10/09クリスチャンの立場から非戦を訴える内村鑑三も退社を決意
  10/08夕食会の席上、非戦派急尖鋒の幸徳秋水は非戦主義の立場を主張。朝報社社長の黒岩涙香と対立
  10/10堺利彦、幸徳秋水、内村鑑三が朝報社に辞表を提出する
  10/10京橋区木挽町の加藤時次郎宅で「直行団」が結成される
     「吾人は決して現在の社会を以て満足する事は出来ぬ」として結成。直行団の命名は加藤
     大沢興国(天仙)、島本清隠、村山漂浪、榊原常吉(松籟)、小倉秀峯、原霞外が集まる
     事務所となる直行社を京橋区築地2丁目20番地におき先の発起人7人を理事として活動を開始。会費は5銭
     12/15第1回団員会が開かれる。事実上の「直行団」の発会式となる
     1904(明治37)02/21事務所を京橋区木挽町6丁目10番地の加藤病院内に移転
     04/事務所がいったん日本橋区牡蠣殻町の磯部検三宅に移される
     08/ふたたび加藤病院内に戻される
  10/10幸徳秋の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』の第3版が警醒社書店から発行される
     第3版は16本の書評と紹介記事が「本書に対する批判」と題し16ページにわたり追加される
     初版は1901(明治34)4月20日
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/11大杉栄が本郷教会の海老名弾正の説教に感銘をうけ洗礼を受け教会員となる
  10/12幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が『萬朝報』に退社する旨の記事を掲載。開戦論に転じた朝報社を退社
     『萬朝報』第1ページに幸徳と堺が連名で「退社の辞」。内村も「退社に際し涙香兄に贈りし覚書」
     また3人の退社に対する朝報社社長黒岩周六の「内村、幸徳、堺、三君の退社に就て」を掲載する
  10/13朝報社を退社した幸徳秋水と堺利彦が今後のことに関して話し合う
     幸徳は新しい雑誌の創刊を考え、堺は『家庭雑誌』を拡張する計画
     別々に活動をするのも面白くないと共同事業をするという結論に達する
  10/13小林多喜二が秋田県の貧農の長男として生まれる
     1933(昭和08)02/20築地署の特別高等警察に検挙された小林多喜二が3時間にわたる拷問を受け息絶える
     指と前歯が折られ蹴り上げられた睾丸と陰茎は通常の3倍にまで膨れ上がる
     こめかみや二の腕には焼け火鉢を突き刺した跡。太股には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6か所も残る
     凄惨なリンチが死をもたらしたのは誰に目にも明らか。でも警察は死因を心臓麻痺と発表
     多喜二の関係者が望んだ遺体解剖については、どの医療機関もかかわりを恐れて引き受けず
  10/15夜、社会主義協会が幸徳秋水、堺利彦の同情会を開き激励。幹事は西川光二郎、斎藤兼次郎
     幸徳と堺は週刊『平民新聞』刊行の計画を発表し協力を要請する
     加藤時次郎が幸徳、堺らが発刊する週刊新聞に「創業費として差当り必要なだけを貸す」と申しでる
     小島龍太郎も出資を申しでる
  秋/古河力作が園芸見習いのため上京する
     東京府下滝野川の康楽円印東熊児方にあり草花栽培に従事する
  10/20社会主義協会が本郷区の中央会堂にて「第2回非戦論大演説会」を開く
     【「社会主義者非戦論大演説会」「社会主義者反戦大会」?】
     600人の聴衆を前に幸徳秋水、堺利彦、西川光次郎、安部磯雄、木下尚江が非戦論の立場で熱弁をふるう
     社会主義協が演説会の収益金32円95銭を『平民新聞』の基金に寄付する【32円92銭?】
  10/20片山潜が健康恢復をかねて北海道旅行に出発
     のち福島で演説会を開催
     のち北海道へ渡る
     11/05〜07夕張の永岡鶴蔵宅に3泊する
     11/14帰京
  10/23幸徳秋水、堺利彦が麹町区有楽町3丁目1番地(朝日新聞社に近接した日劇の裏)に1戸を借り受ける
     2階建てで2階に10畳、7畳半の2室、1階に9畳、4畳半、3畳、2畳の5室
     1階の5室に幸徳秋水一家が住みこみ、2階の2室が事務室に
     警察に届ける保証金は元貴族院の書記官で中江兆民の友人だった小島龍太郎が政府に納める1千円余りを援助
     創業資金は京橋区出雲橋際の加藤医院の院長で民衆を相手にする実費診療所運動をする加藤時次郎が750円を貸与
     小島、加藤のほか岩崎革也も創業費を援助する
     事務所には懸崖形菊1鉢、杉の木立1鉢、マルクスとエンゲルスの肖像をならべた額、
     ドイツ社会民主党の指導者ベーベルの額、英国の社会主義者ウィリアム・モリスの肖像画と額、
     ゾラとトルストイの額、ランプ2個、茶道具1揃い、電話などが揃う
     編集局には中江兆民の書「文章経国大業不朽盛事」を掲げる
     10/27警視庁に届け出をすませ東京平民社が設立される
     年末/幸徳が平民社との同居を不便と感じ、一家は淀橋に引っ越しをする
     清田伝右衛門老夫婦が住みこむ。清田老人は小泉三申の小学校時代の恩師
     1904(明治37)暮/老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     1905(明治38)01/01文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集する
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
     10/09政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  10/27幸徳秋水と堺利彦が警視庁に『平民新聞』発行を届けでる【結社届けも?】
  10/末『平民新聞』の新聞広告をだす
  10/片山潜が「社会主義協会」の幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
  10/荒畑寒村が「社会主義協会」に加わる
  10/北一輝が論文を連載している『佐渡新聞』に「吾人は社会主義者なり」と述べる
  10/島田三郎が『太陽』掲載の「行政整理問題」で依然として日露非戦論を主張する
  11/01『読売新聞』6ページに『平民新聞』の広告がでる
     平民新聞 毎週日曜発刊 一部定價三錢五厘(郵税不要) 二十部前金六十五錢(仝上) 五十部前金一圓六十錢(仝上)
     麹町區有樂町三丁目一番地 平民社内は幸徳秋水、堺枯川専ら編輯を
  11/01週刊『平民新聞』の編集作業に取りかかる
  11/01安部磯雄が本郷教会で説教をする
  11/01内村鑑三が『聖書之研究』に「平和の福音」を発表する
  11/05〜07片山潜が北海道旅行の途中、夕張の永岡鶴蔵宅に3泊する
     昼間は坑口でオルグ、夜は講演会を開く
     全国的な社会主義運動や労働組合運動の現状と将来について深夜まで語る
     鉱山労働運動の組織化を方針として定め、永岡は内地に移り、南助松は夕張に残り、それぞれ組織することに
  11/07木下尚江が神田区の錦輝館で行なわれた明道会講演会で演説する
  11/0911月10日に分録堂書店が発行する尾池義雄の『人道論』が発売頒布禁止の処分を受ける
  11/10毎日新聞社社長の島田三郎が帝国ホテルでの懇親会で従来の平和論をすて、日露開戦論の支持を表明する
  11/15『平民新聞』が創刊される。平民社が有楽町3丁目に創立。運動の拠点となる
     編集室の壁にはマルクス、エンゲルス、ベーベル、ウィリアム・モリス、ゾラ、トルストイの6人の肖像写真がならぶ
     非戦論、社会主義的社会革命を主張する目的で創刊
     発行所/平民社、印刷所/国光社、発行/週刊・毎週月曜日発行
     発行兼編集人/堺利彦、印刷人/幸徳伝次郎、24号〜西川光次郎
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭
     体裁/四六倍判、紙幅/縦=約39糎、横=27糎、頁建/8頁(創刊号12頁)
     英文欄/斯波貞吉、11号〜安部磯雄
     文体は文語体と言文一致体が使い分けられる
     創刊号は5千部が売り切れ3千部を増刷。のち発行部数は3千5百から4千を維持
     創刊当時の社員は幸徳秋水、堺利彦のほか山根吾一、柿内竹次郎
     相談役には小島竜太郎、加藤時次郎、佐藤実然、安部磯雄、木下尚江があたる
     執筆者には伊藤銀月、細野猪太郎、片山潜、金子喜一、田岡嶺雲、村井知至、野上啓之助、
     小泉策太郎(三申)、斯波貞吉、杉村廉太郎(縦横・楚人冠)、斎藤緑雨、田添鉄二、
     原霞外、山口義三、小田頼造、白柳秀湖、中里介山、荒畑寒村、小野吉勝(有香)ら
     自由民権運動の婦人志士景山英子(福田)も参加。平福百穂、小川芋銭が挿絵を描く
     1905(明治38)01/29第64号(最終号)で発行禁止は避けられないとして刑の執行を待たず自発的廃刊を決意
     マルクス、エンゲレスらの『新ライン新聞』の終刊にならい全紙面を赤刷り
     巻頭には幸徳秋水の「吾人は涙をふるうて、ここに平民新聞の廃刊を宣言す」と冒頭する「終刊の辞」を掲げる
     第2面には「露国革命の火」と題したロシア革命の状況が詳しく報道される
  11/15『平民新聞』創刊号に平民社同人の「宣言」、堺利彦、幸徳秋水の「発刊の辞」、
     木下尚江の「永世の新倫理」、安部磯雄の「社会主義の運命を決すべき問題」8号まで連載、
     9ページに伊藤銀月の「枯川と秋水」、斯波貞吉の英文欄「宣言と英文欄」ほか
  11/15『平民新聞』創刊号2ページに「独逸社会民主党首領ベベル」の肖像画が載る
     画の執筆は平福百穂の厚意
     11/22第2号5ページに「近世社会主義の師カルルマルクス」の肖像画が載る
     11/29第3号3ページに「仏国社会党首領ジヤン、ジョーン」の肖像画が載る
     12/06第4号3ページに「社会主義の詩人ウヰリアム、モリス」の肖像画が載る
  11/22片山潜が『平民新聞』第2号6ページに「労働問題の将来」を発表
     ほか「同志の面影」が6号まで連載される
  11/22『平民新聞』第2号8ページに懸賞小説募集の記事が載る
     「そこにもこゝにも懸賞募集のあるが中に吾人も亦其眞似をして剽窃や出來合の
     輕薄文字を求めんとするにはあらず、吾人の求むる所は、よし拙にもせよ、
     眞摯の氣と熱烈の情とに在り、若し社會主義的趣味を帶ぶるあらば更に妙と爲す」
     懸賞金/10円、字数制限/18字詰めの41行で5段以内、締切期限/12月15日、発表/明治37年初刊の紙上
     12/27第7号7ページの紙上に結果が発表される
     「微々たる本紙の募集に對して四十幾通の原稿が續々として到着したのは、吾人の窃に喜んだ所である、
     然るに其四十幾通を讀終つて吾人は大いに失望した、是れぞと云ふほど吾人の心を動かした者は一つも無い、
     吾人は止むを得ず一先づ左の諸篇を選抜した」
     「三弦の命」土屋窓外、「何の罪」中里介山、「片庇」本山二牛、「車夫の辰」吉田笠雨、「玉の夢」大石大夢
     5篇とも選外佳作で作品の紙上発表はされず
     19才の中里介山は赤羽岩淵小学校で月給10円の代用教師
  11/22早稲田社会学会の発会式兼演説会が行なわれる。矢野文雄、片山潜、西川光次郎、堺利彦らが出席
     社会主義協会加盟の早大学生、白柳秀湖、永井柳太郎、山田滴海らが組織する。発起人総代は松岡荒村
  11/22対露強硬策を主張する東西連合記者大演説会が開かれる
  11/22木下尚江が本郷教会で説教をする
  11/25社会主義協会茶話会で斎藤兼次郎と西川光次郎が新任幹事に選ばれる

  11/28夜、大阪の土佐堀青年会館にて婦人矯風会「遊廓移転論大演説会」が開かれる
     管野すがが司会、林歌子が聖書朗読祈祷
     本多雪堂が「遊廓移転論」を、原田助が「恐る可きは内憂なり」を演説する

  11/29『平民新聞』第3号から「予は如何にして社会主義者となりし乎」の連載がはじまる
     1・西川光次郎氏 2・吉田●【王偏に幾】氏(早稲田大学) 3・斎藤金造氏(牛込) 4・緑川幸左右氏(神田)
     12/06第4号に5・小林富貴太郎氏(品川) 6・野上啓之助氏(本郷) 7・佐藤一水氏(磐城)
     8・大脇直寿氏(前橋) 9・北沢生(芝区) 10・寒(下谷) 11・清水谷善照氏(谷中)
     12/13第5号に12・林謙堂氏(名古屋) 13・天井(井口)天外氏(大津) 14・斎藤兼次郎氏(下谷)
     15・近藤平一郎氏(名古屋) 16・宇都野水氏 17・山田浅蔵氏(信濃) 18・小林血涙氏
     12/20第6号に19・西村今朝善氏(長野県) 20・宙華氏(岡山市) 21・土井昇氏(備後)
     22・瀬戸忠太郎氏(神田) 23・斎藤利四郎氏(牛込) 24・和田英吉氏(栃木県) 25・小泉新五郎氏(浅草)
     12/27第7号に26・深津駿堂氏(静岡) 27・黒川幸兵衛氏(常陸竹島) 28・石野準介氏(周防八坂)
     29・荻田汀瀾氏(岩手県岩釜) 30・南助松氏(北海道夕張炭山) 31・栗山信夫氏(信濃)
     32・朝比奈武夫氏(本郷) 33・荒岡岸郎氏(足利)
     1904(明治37)01/03第8号に34・吉田秋汀氏 35・天眼子 36・半田一郎氏(長野県) 37・堺利彦(本社)
     01/10第9号に38・木下尚江氏 39・志賀三行氏(長野) 40・伊藤潮風氏(下総)
     41・山中謂哉氏(伊予) 42・小滝淳氏(水戸) 43・森江覚平氏(富山県)
     01/17第10号に44・一牧師氏(遠州見付町) 45・内山愚童氏(相州箱根) 46・池田氏(京都)
     47・岡村百幸氏(備前) 48・稲生誠吉氏(下谷) 49・久田二葉氏(加賀) 50・一読者(横浜) 51・幸徳伝次郎(本社)
     01/31第12号に52・杉村縦横氏 53・牧野充安氏 54・小田頼造氏
     02/07第13号に55・竹内余所次郎氏(札幌) 56・幸内久太郎氏(麹町区)
     57・小森治助氏(盛岡) 58・吉田笠雨氏(和歌山) 59・青山慶次郎氏(浅草区)
     02/21第15号に60・秋峰生(横須賀) 61・中里介山氏(王子) 62・佐々木万太郎氏(陸前佐沼町)
     63・藤咲芳雄氏(牛込区) 64・天随生(東京) 65・鷲尾生(岡山)
     03/20第19号に66・安部磯雄氏 67・磯部久作氏 68・宮本氏 69・宮城喜代三氏
     09/11第44号に70・山口義三氏(神田) 71・松川竹之助氏(宮城県若柳町)
     72・中村直行氏(小石川) 73・増原長治氏(岡山)
     09/18第45号に74・岡野辰之介氏(府下池袋) 75・米田涙月氏(富山県)
     76・石渡五六氏(下総) 77・簗田右一氏(神田区) 78・大亦楠太郎氏(本郷)
     1905(明治38)04/23『直言』第2巻第12号の「婦人号」に
     79・菅谷伊和子氏 80・延岡為子氏 81・松岡文子氏 82・神川文子氏
  11/29木下尚江が『平民新聞』第3号2ページに「君主観」を発表
  11/29非戦論に共鳴した石川三四郎が朝報社を退社し平民社への入社を発表する
     石川はこの頃から旭山を号する
  11/福田英子がしばしば平民社に出入りするようになる
  11/『毎日新聞』の社長島田三郎が時局問題懇談会で日露開戦を主張する
     それまでは『万朝報』とともに非戦論を唱えるも朝報社は10月8日に非戦論に衣替え
  11/『毎日新聞』の社員木下尚江は会社が主戦論に転じたことで苦悩する
     自身の意に反すると社長島田三郎に談判するも認められず
     木下は退社の意向を示すも社長からは却下
     「毎日新聞」の社員と、新しく起こされた「平民新聞」の同人として二足の草鞋をはくことに
     木下は自身の信念を会社に迷惑をかけないで表現する方法を模索
  11/東京での新聞の発行部数
     『萬朝報』8万7千
     『二六新報』14万2340
     『時事新報』4万1500
     『東京日日新聞』1万1700
     『東京朝日新聞』7万3800
     『国民新聞』1万8千
     『報知新聞』8万3395
     『都新聞』4万5千
     『日本』1万
     『毎日新聞』1万4千
  12/上日本坑夫組合結成のため南助松が幌内方面に遊説
  12/05午前10時から大阪の江戸堀和倫館で婦人矯風会大阪支部の年会が開かれる
     議事進行は会計の報告、役員の改選、新設の6課長を推選、会頭ほかの感話など
     会頭に林歌子。会計及書記に清水、高木、伊藤、馬場
     花の課に吉岡、母の課に古木、少年課に山田、伝道課に宮川、風俗課に長田、文書課に管野
     40余人が集まり午後4時散会
  12/0520才で東京政治学校在学中の山口孤剣(義三)が『破帝国主義論』を発行する
     定価25銭、郵税4銭。発行は鉄鞭社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/06『平民新聞』第4号が発行される
     幸徳秋水の社説「自覚せよ車夫諸君」ほか、「もゝはがき」8号まで連載
     埼玉県熊谷町の林組製糸工場での虐待事件が報じられる
  12/06理想団が愛宕館で随意談話会を開く
  12/07片山の影響をうけた永岡は鉱夫の全国的な組織を結成する使命感にもえた永岡鶴蔵が北海道から上京
     神田三崎町キングスレー館の片山を訪ねる
     12/27片山より社会主義の書籍80余冊と幻燈を借りうけ足尾に移る。辻占売りをし伝道行脚を開始
     1904(明治37)02/01足尾銅山本山坑採坑夫となる
     04/末坑夫をやめて雑貨商になり共済事業をはじめる
     (月5銭の会費で傷害で休んだときは1日6銭の保証)
     小新聞『坑夫の友』『歌』を発行し、いっしょに『平民新聞』や社会主義関係の新聞、書籍を行商
  12/10衆議院議長の河野広中が第19回帝国議会の開院勅語に対する奉答文で桂太郎内閣弾劾の文を朗読
     12/11衆議院解散となる
  12/13『平民新聞』第5号が発行される
     幸徳秋水の「兆民先生三週年」ほか
  12/15加藤時次郎らが10月10日に結成した「直行団」の第1回団員会が開かれる。事実上の「直行団」の発会式
     田川大吉郎、幸徳秋水、堺利彦、石川三四郎、山根吾一、岸市五郎、中島藤吉、川畑秀太郎、保坂彦蔵、
     鎌田市太郎、渡辺真吉、沢田宗四郎、伊達琢之、磐井彦太郎、柳沢保太郎、高木唯雄、加藤良勘郎、杉島末吉、
     棚橋雅治、岡本近造、重荘正位ら30余人が参加
     加藤の開会の辞につづき田川、幸徳、堺、原、石川、山根が講演
     1904(明治37)02/26第2回団員会が加藤病院で開かれる
     03/23第3回団員会が直行社の事務所で開かれる
     05/06第4回団員会が山城屋で開かれる
     06/14第5回団員会が加藤病院で開かれる
     08/05第6回団員会が加藤病院で開かれる
     09/07第7回団員会が加藤病院で開かれる
     10/06第8回団員会が加藤病院で開かれる
     11/09加藤病院で開かれるも来会者が少なく四方山話をして散会
     11/19初期の理事島本清隠の送別会を兼ねた臨時団員会が開かれる。場所は不明
     12/12消費組合員総会をかねる。場所は加藤病院
     1905(明治38)01/21直行団1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
  12/18『社会主義』第26号に永岡鶴蔵が「日本坑夫組合の遊説者(永岡鶴蔵氏の奮起)」を発表する
  12/19京橋区因幡町の市川亭で車夫問題演説会が開かれる
  12/20『平民新聞』第6号が発行される
     幸徳秋水の「奮起せよ巡査諸君」ほか
  12/20片山潜の壮行会の前日、社会主義協会が京橋区の市川亭で片山の送別会を開く
     木下尚江、幸徳秋水が演説する。片山に対する情熱あふれる送別の言葉があり
  12/22片山潜の渡米送別会が富士見町の富士見軒で開かれる。幸徳秋水、堺利彦は出席せず【12/21?】
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
  12/27『平民新聞』第7号が発行される
     「読者と記者」の欄を設置する、回答記者は幸徳秋水
  12/29片山潜が横浜からアメリカに向けて旅立つ。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
     1904(明治37)01/17アメリカのシアトルにつく
     1904(明治37)08/14片山潜が第二インターナショナル万国社会党第6回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山はロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
  12/31警醒社書店がエドワード・ベラミーの社会主義理想小説『社会小説 百年後之社会』を平井広五郎の全訳で発行する
     原名ルツキング、バツクワード。定価60銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/外国語学校仏語科学生の大杉栄が平民社に出入り、手伝いをはじめる【11/?】
  12/頃大杉栄がはじめて平民社を訪ねる【1904(明治37)3月?】
     以後毎週の社会主義研究会に出席する
  12/末西川光二郎が二六新報社を辞め平民社に入る
     01/03西川の平民社入社の辞が『平民新聞』第8号1ページに掲載される
  年末/幸徳秋水が平民社との同居を不便と感じ、幸徳一家は淀橋に引っ越しをする
     清田伝右衛門老夫婦が住みこむ。清田老人は小泉三申の小学校時代の恩師
     1904(明治37)暮/老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
  年末/『毎日新聞』で連載していたトルストイの小説「復活」が不評に
     のち編集会議で先々小説を連載するかどうかの問題。木下尚江は小説の連載を主張
     一同は木下案に賛成。誰に書かせるか、稿料はどうするかで論議
     硬派記者「稿料をだすくらいなら編集取材費にまわして欲しい」
     社会部長「ならば誰に書かせるか」
     木下「ぼくが書きましょう」
     木下は自身の信念を会社に迷惑をかけないで表現する方法を模索
     『毎日新聞』は社説で主戦を唱え、小説で反戦を論じることに
     言い換えれば『平民新聞』の論説が小説の形になり『毎日新聞』に連載されることに
     12/31トルストイの小説「復活」を終了させる
     1904(明治37)01/01木下による反戦社会小説「火の柱」の連載がはじまる
  全国慈善大会が大阪で開催される。慈善事業家約200人が参加
     わが国初の全国的連絡組織「日本慈善同盟会」の設立が決定される
     のち設立準備は公私関係者の慈善救済事業の研究会となる庚子会に委託
     会の名称を「中央慈善協会」に改める
  衆議院の議会に普通選挙法案を国会に提出するも審議の結果、否決される
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら
     1908(明治41)提出するも否決される
  「第2次報效義会」の千島拓殖で占守島の定住者は170人(男100、女70)となる
     出港は1896(明治29)9月
     のち日露開戦を知った郡司らはカムチャッカへ進撃するもコサック兵に襲われる
     のち報效義会は引き揚げを決定、第2次報效義会は事実上解散する
  足尾銅山の赤澤地区に金田座が建つ。定員階下800人、階上400人
     設請負者は仁平長吉。座主は今市市相之道油屋、金田徳松・金田祐の金田興業部にて営業
     のち工藤常之助の工藤興業部から1931(昭和06)頃には片山興業部へと移る
     さらに戦後、青木ムメの青木興業部に移り足尾劇場と改称
     1993(平成05)04/01解体される


1904(明治37)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第22代]桂太郎内閣総理大臣が兼任、[第23代]芳川顕正(02/20→)
  《警視総監》[第15代]安立綱之
  《内務省警保局局長》有松英義(→11/17)、仲小路廉(11/17→)


  01/01木下尚江が在籍する『毎日新聞』で反戦社会小説「火の柱」の連載を開始
     『毎日新聞』は社説で主戦を唱え、小説で反戦を論じることに
     言い換えれば『平民新聞』の論説が小説の形になり『毎日新聞』に連載されることに
     03/20社会小説「火の柱」の連載が終了
  01/03『平民新聞』第8号が発行される
     幸徳秋水の論説「新年の観」、石川三四郎の「基督教界の二大人物」
     1ページに二六新報を退いた西川光次郎の平民社入社の辞が掲載される
     英文欄「昨年中の日本社会主義運動」、懸賞小説当選作「富士川」丸茂天霊を掲載
  01/03かつて『万朝報』に載せた「歌牌(カルタ)の娯楽」が『平民新聞』第8号1ページに再録される
  01/03『平民新聞』第8号からヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』の連載が開始
     原題は「News from Nowhere」(1892)。3月6日発行の第17号をのぞく毎号で15回連載
     04/17第23号で連載終了
     12/25原稿を訂正添削し平民文庫5銭本として『理想郷』が刊行
     菊版38ページ、定価5銭。初版2千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)02/08『百年後の世界』と合綴してアルス社より出版
  01/05加藤時次郎が雑誌『直言』を創刊する
     消費組合運動の啓蒙推進のために組織した「直行団」の機関紙
     編集室は加藤病院の2階。発行兼編集人は原霞外、印刷人は大沢興国。編集は村山漂浪(白柳秀湖)
     月1回発行(2月のみ第2号が5日、第3号が20日に発行され月2回)
     全38ページ(第2号以降は菊2倍版8ページで発行)定価は1部5銭(3銭5厘3銭)
     執筆者には原霞外、白柳秀湖、山田道兄、小野有香などの青年社會主義者
     のち社会主義者の執筆をめぐる問題で発起人中の主だった人物が離反することに
     1905(明治38)01/05第14号を発行し終刊となる
     02/05『直言』が平民社の機関紙に。第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となる
  01/05丘浅次郎が開成館から『進化論講話』を刊行。定価2円50銭
  01/05陸軍省、海軍省が軍機、軍略事項の掲載中止を新聞、雑誌に伝える
  01/09文部省が徴兵猶予を利用する学生の徴兵忌避に対して厳重警告
  01/10『平民新聞』第9号が発行される
     幸徳秋水の「浅薄なる救済法」、小泉三申「病床●【澹のシが口偏】話」ほか
  01/14神田区の青年会館にて社会主義協会が「社会主義大演説会」を開く。200余人が集まる
  01/16『読売新聞』6ページに『平民新聞』の広告がでる
     平民新聞 毎週日曜發行
     △定價一部金三錢五厘、二十部六十五錢、郵税を要せず
     △購讀の申込は總て前金之事
     東京市麹町區有樂町三丁目 平民社 社会主義 唯一の機關新聞也
     第十號(十七日發)は全紙面を擧げて非戰論の爲めに萬丈の氣焔を吐く
  01/17『平民新聞』第10号が発行される
     幸徳秋水が1ページの紙上に「吾人は飽くまで戦争を非認す」を発表。日露戦争に反対の立場を明らかにする
     安部磯雄の「ブロツホの戦争論」、英文欄「戦争と兵士の家族」ほか
  01/171903(明治36)12月29日に横浜を出港した片山潜がアメリカのシアトルにつく。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
     1904(明治37)08/14片山潜が第二インターナショナル万国社会党第6回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山はロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
  01/21韓国政府が日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言。清、イギリス、フランス、ドイツなどが承認する
  01/23社会主義協会が神田区美土代町の神田教会で第1回社会主義婦人講演を開く
     午後1時開会。開会時の聴衆は1人。閉会までには8人に
     弁士は木下尚江、堺枯川、西川光二郎の3人
     02/13第2回社会主義婦人講演が開かれる
     堺利彦「家庭に於ける階級制度」、西川光二郎「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水「婦人と戦争」、村井知至「日本婦人に対する二大迷想」
     03/12第3回社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時、神田区美土代町の神田教会で開会。聴衆は16人
     村井知至「日本婦人に関する二大迷想」、石川三四郎「婦人の天職」、堺利彦「親子の関係」
     04/10本社で社会主義婦人講演が開かれる
     聴衆は婦人8人、男子7人
     木下尚江「理想の婦人」
     以下、幸徳秋水、堺利彦の講話は都合により中止
     05/08平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は20余人
     万朝報の斯波貞吉「将来の理想的婦人」と幸徳秋水
     06/12平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人14、5人、男子14、5人、計30人ばかり
     はじめに来遊中のハンガリー社会党員のポラチエクが挨拶
     安部磯雄「革命運動と婦人」。村井知至は病気のため登壇できず
     4時半閉会
     のち7月、8月は暑中につき休止
     09/11平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は女11人、男15人
     堺利彦「身上話」
     4時半散会
     10/09本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。婦人の来会者おおよそ10人
     第1席に安藤兎毛喜、第2席は幸徳伝次郎の「娼妓と社会制度」
     珍客に政治家の立川雲平、自由民権運動の闘士・安芸喜代香
     立川は島崎藤村の「破壊」の市村代議士のモデル
     11/06本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人だけでも30余人に
     第1席に菅谷いわ子、第2席に寺本みち子、最後に松岡ふみ子
     散会前に神川松子の挨拶、吉川吉子の話など弁士はすべて女性
     12/11午後、平民社にて社会主義婦人講演が開かれる。平民社主催となる
     第1席に石川三四郎「春日局の話」
     第2席に山路愛山「予は婦人諸君が善く自己の力を考へんことを望む」
     最後に松岡文子「静御前の話」
     1905(明治38)02/05平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後1時半開会
     松岡文子、木下尚江「貞操に対する迷信及疑問」、今井歌子は自己の経験談を語る
     男子の入場を無制限にし会場は男子ばかりで、婦人は片隅に追いやられることに
     4時半頃閉会
     03/05平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。前回の入場をふまえ男子は必ず婦人に同伴のことに
     来聴者は婦人18人、男子もほぼ同数
     第1席は急きょの堺利彦、第2席に菅谷岩子「源氏物語に於ける女性」、
     第3席に木下尚江「解放時代の女子の危機」
     04/09平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人16、7人、男子10余人
     第1席は石川旭山「独逸軍人の結婚」、第2席に神川松子「独身に対する我見解」、
     第3席に堺利彦「女らしきとは何ぞや」、第4席に木下尚江「良人の自白の苦心談」
     最後に吉崎吉子が「社会主義取締の訓令」を提言
     05/07平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人20人、男子ほぼ同数
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第1回)」、第2席に白柳武司「婦人犯罪の二方面」
     堺がふたたび立ち「衆議院議員補充選挙に木下尚江を推薦する議」
     休憩ののち松岡ふみ子の「現今社会主義婦人の使命」
     主義の歌をうたい5時過ぎに閉会
     06/04平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人14、5人、男子20人ばかり。初めて警部巡査の臨監にあう
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第2回)」、第2席に菅谷いわ子が立つ
     のち、2、3の感話がありヴァイオリンの奏楽、5時頃散会
  01/24『平民新聞』第11号が発行される
     1ページに幸徳秋水が社説「戦争と道徳」を発表する
     英文欄「東京市長」ほか。英文欄担当が安部磯雄になる
  01/24平民社が『平民新聞』宣伝用のチラシを作成、配布する
  01/24片山潜方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される。前年12月29日に片山が渡米したため
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
     「社会主義協会」は1900(明治33)1月28日に旧社会主義研究会[1898(明治31)10月18日創立]が改組して結成
  01/25一二三館が赤羽一の号、赤羽厳穴の名で『嗚呼祖国』を発行する
     もとは1902(明治35)8月31日に鳴皐書院が本名の赤羽一の名で発行
     1910(明治43)09/20鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/31『平民新聞』第12号が発行される
     堺利彦の「社会主義協会茶話会の記」ほか
  01/片山潜の渡米後、『社会主義』『渡米雑誌』に改題
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題、1903(明治36)3月3日『社会主義』に改題ののち
     11/社会主義協会の解散と同時に発行禁止
  02/01永岡鶴蔵が足尾銅山本山坑採坑夫となる
     04/末坑夫をやめて雑貨商になり共済事業をはじめる
     (月5銭の会費で傷害で休んだときは1日6銭の保証)
     小新聞『坑夫の友』『歌』を発行し、いっしょに『平民新聞』や社会主義関係の新聞、書籍を行商
  02/04午後、御前会議でロシアとの国交断絶。開戦が決定される
     02/05御前会議で開戦が決定。連合艦隊司令長官に出撃命令が手交
     02/06ロシアに宣戦布告。連合艦隊が佐世保港より出撃。日露戦争が始まる
     02/10日本、露ともに宣戦布告
     1905(明治38)01/01旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     01/02旅順開城規約が調印される
     09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     北緯50度以南の樺太(サハリン)が日本領となるが、第九条によって樺太や宗谷海峡に要塞を築いてはならないことに
     そのため、宗谷海峡は軍事上重要な海峡にもかかわらず、太平洋戦争直前まで要塞建設がためらわれる
     11/25批准書が交換され終戦を迎える
     日本側損害は戦没8万8429人うち戦死戦傷死5万5655人、病死2万7192人、負傷者15万3584人、捕虜1800人
     ロシア側損害は戦死2万5331人、戦傷死6127人、病死1万1170人、負傷14万6032人、捕虜7万9千人
  02/05樋口勘次郎が同文館から『国家社会主義新教育学』を刊行。定価1円20銭
  02/07幸徳秋水が『平民新聞』第13号1ページの社説に「和戦を決する者」を発表する
  02/10西川光二郎と野上啓之助の2人が伊豆遊説を試みる
     熱海、多賀、伊東、下田、沼津、三島などで演説を行ない、約370人以上の聴衆が参加する
     平民文庫、平民新聞や社会主義の檄などを販売、配布しながらの遊説となる
     02/30この日まで
  02/11宣戦布告の翌日、日露戦争における大本営が設置される
     1905(明治38)12/20日露戦争の大本営が解散
  02/13第2回社会主義婦人講演が開かれる
     堺利彦「家庭に於ける階級制度」、西川光二郎「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水「婦人と戦争」、村井知至「日本婦人に対する二大迷想」
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  02/14『平民新聞』第14号「非戦特集号」が発行される
     宣戦布告後、最初の『平民新聞』掲載記事となる
     幸徳秋水が1ページに「戦争来」「兵士を送る」「戦争の結果」を発表する
     桜井鴎村の「友徒(フレンド)の非戦主義」ほか
  02/144つの勅令をもって要塞地帯が「臨戦地境」と定められる。「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」される
     勅令第36号▽臨戦地境の区画は長崎要塞地帯、戒厳司令官は長崎要塞司令官
     勅令第37号▽臨戦地境の区画は佐世保要塞地帯、戒厳司令官は佐世保鎮守府司令長官
     勅令第38号▽臨戦地境の区画は対馬及びその沿海、戒厳司令官は竹敷要港部司令官
     勅令第39号▽臨戦地境の区画は函館要塞地帯、戒厳司令官は函館要塞司令官
     明治38(1905)10/16勅令第219号により、それぞれの戒厳が解止となる
  02/14吉野作造が本郷教会へ転入会する
  02/151885(明治18)7月20日に万春堂が創刊した女性雑誌『女学雑誌』が526号で終刊となる
  02/19社会主義協会が神田区の青年会館で「社会主義大演説会」を開く。300余人が集まる
  02/21『平民新聞』第15号に幸徳秋水が論説「兵士の謬想」「戦死者の遺族」を発表
  02/21「直行団」の事務所「直行社」が京橋区築地2丁目20番地から京橋区木挽町6丁目10番地の加藤病院内に移転
     「直行団」は1903(明治36)10月10日に加藤時次郎により結成される
     04/事務所がいったん日本橋区牡蠣殻町の磯部検三宅に移される
     08/ふたたび加藤病院内に戻される
  02/26「直行団」の第2回団員会が加藤病院で開かれる
     第1回は1903(明治36)12月15日に加藤病院で開かれる。事実上の「直行団」の発会式
     加藤の開会の辞につづき田川、幸徳、堺、原、石川、山根が講演
     03/23第3回団員会が直行社の事務所で開かれる
     05/06第4回団員会が山城屋で開かれる
     06/14第5回団員会が加藤病院で開かれる
     08/05第6回団員会が加藤病院で開かれる
     09/07第7回団員会が加藤病院で開かれる
     10/06第8回団員会が加藤病院で開かれる
     11/09加藤病院で開かれるも来会者が少なく四方山話をして散会
     11/19初期の理事島本清隠の送別会を兼ねた臨時団員会が開かれる。場所は不明
     12/12消費組合員総会をかねる。場所は加藤病院
     1905(明治38)01/21直行団1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
  02/28『平民新聞』第16号が発行される
     木下尚江の社説「戦争の影」、「社会主義演説会の記」、英文欄「戦争に対するわれわれの態度」ほか
  02/28海老名弾正が本郷教会にて「聖書の戦争主義」を説教する
  02/28安部磯雄が『六合雑誌』に「基督教と非戦論」を発表する
  02/山路愛山が1903(明治36)1月1日に創刊した『独立評論』が第2巻第2号で休刊となる
  02/小川芋銭が『いばらき新聞』の主筆佐藤秋蘋のあっ旋で『平民新聞』に寄稿するようになる
  02/田添鉄二が社主との主義上の衝突で『鎮西日報』を退社
     1904(明治37)03/社会主義のため一身を犠牲にする覚悟で上京、平民社に参加する
     田添鉄二は前年の8月に社会主義遊説のため長崎を訪れた西川光二郎と会談
  02/大杉栄が主戦論を唱える海老名弾正の説教に疑問を抱くようになる
  03/初社会主義協会が「社会主義の檄」を作成、配布する
  03/01小山東助が『新人』に「超戦争観」を発表する
  03/03朝7時、小田頼造が平民文庫第1段『社会主義入門』を赤塗りの平民車に積み千葉県の伝道行商に出発する
     社会主義の拡張と財政難を救うため
     のち3月10日頃まで。失敗に終わる
  03/05平民社同人の編集による『社会主義入門』が平民文庫の第1巻として刊行。実際は3月1日発行
     ファザー・マックグラヂー著、西川光二郎訳「共同生産」、ジョン・スパルゴ著、堺枯川訳「階級戦争」
     チャールス・ヴェイン著、幸徳秋水訳「社会党の運動」、ハーモン・チタス著、石川三四郎訳「社会主義のイロハ」
     堺枯川の「社会主義と中等社会」、安部磯雄の「社会主義論」の6編を収録
     四六半截版76ページ、定価10銭。初版は2千部
     編集兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  03/06平民社が毎週1回社会主義研究会をはじめる。会場は平民社屋、講師は平民社同人
     03/13社会主義研究会が開かれる
     出席者は幸徳秋水、堺利彦、久津見蕨村、山口孤剣、逸見斧吉、20余人
     なかには初めて平民社の集会に参加する大杉栄の姿も
     03/20社会主義研究会が開かれる
     03/27社会主義研究会が開かれる
     04/02社会主義研究会が開かれる
     04/10社会主義研究会が開かれる
     平民社楼上で幸徳秋水が「バベフ伝」を講演
     04/17社会主義研究会が開かれる
     05/01社会主義研究会が開かれる
     05/08社会主義研究会が開かれる
     05/15社会主義研究会が開かれる
     05/22社会主義研究会が開かれる
     05/29社会主義研究会が開かれる
     06/05社会主義研究会が開かれる
     06/12社会主義研究会が開かれる
     09/11社会主義研究会が開かれる
     09/18社会主義研究会が開かれる
     幸徳秋水が「ダーヰンとマルクスの事業及び人物」を講演
     09/25社会主義研究会が開かれる
     10/05社会主義研究会が開かれる
     10/09社会主義研究会が開かれる
     10/16社会主義研究会が開かれる
     10/23社会主義研究会が開かれる
     10/30社会主義研究会が開かれる
     11/27社会主義研究会が開かれる
     12/04社会主義研究会が開かれる
     12/11社会主義研究会が開かれる。平民社主催となる
     12/18社会主義研究会が開かれる
     1905(明治38)01/29社会主義研究会が開かれる
     02/12社会主義研究会が開かれる
     02/26社会主義研究会が開かれる
     03/12社会主義研究会が開かれる
     03/26社会主義研究会が開かれる
     04/16社会主義研究会が開かれる
     04/30社会主義研究会が開かれる
     05/28社会主義研究会が開かれ60人が集まる
     06/11社会主義研究会が開かれる
     09/10社会主義研究会が開かれる
  03/06『平民新聞』第17号が発行される。4500部
     幸徳秋水が1ページに「戦争と新聞紙」を発表する
     堺利彦が6ページに「平民社籠城の記」を発表する
  03/09エドワード・ベラミー原著の社会主義理想小説『百年後の世界』が平民文庫5銭本の第1巻として刊行
     堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1903(明治36)9月発行の『家庭雑誌』第1巻第6号に掲載
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
  03/10野上啓之助、西川光二郎が伊豆遊説を行なう30日まで
  03/11「直行団」が民衆に直接訴え社会問題に対処するため芝区兼房町玉翁亭で公開演説会を開く
     原霞外が開会主旨を述べ、山口孤剣「資本家の犬と戦争狂」、白柳秀湖「争童の悪口に似たり」、石川三四郎「兵士の家族」、
     山根吾一「兵士と細君」、岡千代彦「戦争労働者」、磯部検三「文明と人種」、加藤時次郎「戦時貧民救済法」のほか
     吉田●【王偏に幾】、松崎源吉が飛び入りで参加する
  03/12第3回社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時、神田区美土代町の神田教会で開会。聴衆は16人【日本基督教会で?】
     村井知至「日本婦人に関する二大迷想」、石川三四郎「婦人の天職」、堺利彦「親子の関係」
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  03/12高野房太郎が日本に戻ることなく青島のドイツ病院で客死。35才と2か月の生涯。病名は肝臓膿腫
     [1969・01/06《明治01・11/24》生]
  03/13社会主義研究会が開かれる
     出席者は幸徳秋水、堺利彦、久津見蕨村、山口孤剣、逸見斧吉、20余人
     なかには初めて平民社の集会に参加する大杉栄の姿も
     03/20社会主義研究会が開かれる
     03/27社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  03/13『平民新聞』第18号1ページの社説に幸徳秋水の「与露国社会党書(露国社会党に与うるの書)」が掲載される
     のち感銘を受けた欧米各国の社会党がそれぞれの機関紙に訳載
     ニューヨークのドイツ語新聞『フォルクス・ツァイトゥング』は1面全面を写真版にして掲載【英国で発行?】
     07/24回答の「露国社会党より」全文が『平民新聞』第37号5ページに訳載される
     在ジュネーブの露国社会民主党機関紙『イスクラ』が応答。アメリカの新聞に英訳されたものを邦訳
  03/16『二六新報』が国債批判を掲載し起訴される
  03/20『平民新聞』第19号の英文欄に「ロシアの社会主義者たちへ」を発表する
     世界各国の社会主義団体の機関誌にこぞって転載される
  03/20日本の社会主義者たちが東京で開かれた会合でロシアの同志たちに同志的交情の挨拶を送ることを決議する
  03/20木下尚江が在籍する『毎日新聞』に連載していた社会小説「火の柱」が終了
     第1回スタートは1月1日
  03/25木下尚江が『毎日新聞』に「軍国時代の言論」を発表。発売禁止の処分を受ける
     新聞発行人と筆者の木下尚江が起訴される
     のち裁判が30日にあるとの通知が届く
     弁護士でもある木下は最高6か月の禁固を予想
     04/01木下は罰金20円の判決に
     04/20堺利彦が『平民新聞』第20号掲載の「嗚呼増税!」の筆禍を受け軽禁錮2カ月の入獄
     以降、木下は堺のかわりに『平民新聞』の論説書き、編集、事務などを一手に引き受ける
     木下は「『毎日社』に衣食して『平民社』に勤務するの怪物と化了」したと自嘲
  03/27幸徳秋水の「嗚呼増税!」が『平民新聞』第20号1ページに掲載
     のち新聞紙条例違反で発売を禁止。発行兼編集人の堺利彦が告発される
     03/28午後9時、木下尚江が平民社をあとにした数分後
     入れ替わりに令状をもった警官が『平民新聞』第20号を押収しにやってくる
     04/05東京地方裁判所第1刑事部の今村恭太郎裁判長は堺を軽禁錮3か月、『平民新聞』の発行を禁止に【04/02?】
     弁護人は今村力三郎、花井卓蔵、木下尚江ら
     木下は不快でやめた弁護士を同志のために再び弁護をすることに
     未決囚のあいだは牛込区市谷富久町の東京監獄に拘禁される
     のち堺が控訴
     04/12午前10時、控訴審は東京控訴院第2号法廷で常松英吉裁判長、小畔検事係りで開廷
     第1審では弁護人なし、第2審では今村力三郎、木下尚江、花井卓蔵、高木金之助らの弁護が行なわれる
     04/16判決が言い渡される。『平民新聞』の発行禁止は棄却、軽禁錮は2か月に
     04/20堺利彦が「嗚呼増税!」の筆禍を受け入獄【04/21?】
  03/27木下尚江が本郷教会で開かれた明道会講演会で「海老名弾正の立脚地及び将来」を発表
  03/27安部磯雄が『六合雑誌』に「平和を来す一手段」を発表する
  03/27第2回旅順港口閉塞作戦が行なわれる
     日露戦争時に日本海軍が旅順港口にて挙行した海上封鎖作戦(閉塞作戦)
     千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻を閉塞船に投入。ロシア軍に察知され失敗
     福井丸を指揮した広瀬武夫海軍少佐が行方不明の部下杉野孫七を探し退避が遅れる
     ロシア海軍による砲弾の直撃を受け戦死。中佐に昇進
     戦後、軍神となる
  03/28木下尚江が平民社の幸徳秋水と堺利彦を訪ねる
     これまでは断ってきた「火の柱」の単行本化を勧められる
     主人公の入獄と自身の入獄(判決は罰金刑)の重なりを同志2人に指摘され思うところあり出版を依頼
     午後9時、木下尚江が平民社をあとにした数分後
     入れ替わりに令状をもった警官が「嗚呼増税!」掲載の『平民新聞』第20号を押収しにやってくる
     05/10平民社が平民文庫から『火の柱』を発行する。定価35銭
  03/『二六新報』の秋山定輔が代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
     04/15『東京二六新聞』と改題
     のち『二六新報』『二六新聞』『世界新聞』『二六新報』と改題をかさねる
     1940(昭和15)09/新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
  03/小田頼造(野声)が『牟婁新報』の記者になる
     のち8月まで在籍
  03/社会問題講究会が日露開戦まもなく消滅
     社会問題講究会は1901(明治34)5月、矢野文雄、田川大吉郎、加藤時次郎、国木田独歩らが組織
     安部磯雄、片山潜、幸徳伝次郎らも支援する
  03/東京電車鉄道会社(東電)が総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  春/早稲田大学野球部の集会が開かれる大学講師で野球部部長の安部磯雄が檄を飛ばす
     「もし一高、慶応、学習院の3大強豪を破り、対抗試合に全勝したら、アメリカに連れて行きましょう」
     のち秋の大会で、創部4年目の早稲田大学が強豪たちをなぎ倒して全勝
     のち安部が直接大隈総長に会い野球部のアメリカ遠征をかけ合う。「いいだろう」と大隈はこたえる
     のち1905年の理事会で臨時予算が5500円組まれる
  04/01永岡鶴蔵が足尾銅山で日本労働同志会を組織【大日本労働同志会?】
     のち演説会などをもって活動。飯場頭役らの妨害があるも会員が1400人に達する
     1906(明治39)01/01日本労働同志会が飯場頭主導の共和会【協和会?】と合同して日本鉱山労働会を結成
     共闘方針を打ち出す
     日本労働同志会は会社や警察、頭役らの圧力により会員が減少していた
  04/01海老名弾正が『新人』に「聖書の戦争主義」を発表する
  04/02社会主義協会が神田区の錦輝館で「社会主義大演説会」を開催。450余人が集まる
  04/02社会主義研究会が開かれる
     04/10社会主義研究会が開かれる
     平民社楼上で幸徳秋水が「バベフ伝」を講演
     04/17社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  04/03幸徳秋水が『平民新聞』第21号に「列国紛争の真相」を発表する
  04/03社会主義協会の青年有志数10人が上野公園で労働者観桜会を開く
     「社会主義の檄」を配布し警察官により解散させられる。数人が夕刻まで警察署に留置される
  04/03森近運平と岡山監獄の教誨師鷲尾敬導が中心となり岡山いろは倶楽部を結成する
     のち第1次平民社時代、各地で社会主義研究会、読書会など海外の3団体を含め85団体が結成する
  04/09平民新聞主催の「平民新聞大演説会」が神田区の錦輝館で開かれる。200余人が集まる
     弁士は西川光二郎、堺利彦、木下尚江、安部磯雄
  04/10『平民新聞』第22号が発行される
     幸徳秋水の論説「戦争と非戦論」ほか
  04/10本社で社会主義婦人講演が開かれる
     聴衆は婦人8人、男子7人
     木下尚江「理想の婦人」
     以下、幸徳秋水、堺利彦の講話は都合により中止
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  04/114月12日に横浜労働者同盟会が発行する伊藤友次郎(呑舟)の『救世之教義 第1篇』が発売頒布禁止の処分を受ける
  04/13小説家で評論家でもある斎藤緑雨が死去
     幸田露伴がつけた戒名は「春暁院緑雨醒客」
  04/14小野丑郎が群馬県、長野県へ伝道行商の旅に出発する
     上州の前橋、磯部、安中、簗瀬、原市、信州の小諸、上田とまわる
     途中簗瀬の機業家吉川清十郎宅で講演会を開き「競争の弊害」の演題で資本家を攻撃、吉川と口論となり追い出される
     のち4月19日まで
  04/16ゾラの『労働問題』を堺枯川が抄訳。春陽堂が発行する。定価35銭
     堺は仏語が読み得ずヴイゼトリーの英訳による
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/17幸徳秋水が『平民新聞』第23号1ページに「社会党の将来」を発表する
     本篇は9日に錦輝館で催された平民新聞演説会の幸徳秋水の演説の大意
  04/20堺利彦が『平民新聞』第20号に掲載の幸徳秋水の「嗚呼増税!」の筆禍を受け入獄【04/21?】
     判決がおり巣鴨監獄へ移され囚人番号は「一九九〇号」
     社会主義運動史上、初の犠牲となる。社会主義者と当局との闘いのはじまり
     06/20午前5時、出獄する
     6時出獄の予定が典獄殿の思し召しで1時間早めての釈放に。混乱を回避するための処置
     杉村縦横、木下尚江、斎藤兼次郎ら20人ばかりが集まる
     なかには堺宅のとなりに住む福田英子の手にひかれた1才5か月になる堺の娘、真柄の姿も
     堺の妻、美知は病気のため迎えにはでられず、夫のため好物の豆飯を炊いて待つ
  04/24『平民新聞』第24号が発行される
     堺利彦の「告別の辞」ほか、発行兼編集人が西川光二郎となる
  04/24幸徳秋水が週刊『平民新聞』24号から「革命奇談神愁鬼哭」の連載をはじめる
     「革命奇談神愁鬼哭」はレオ・ドウヰッチの「シベリアの16年」の抄訳
     09/04週刊『平民新聞』43号まで16回にわたり連載
     05/0125号(2)、05/0826号(3)、05/1527号(4)、05/2228号(5)、05/2929号(6)、
     06/0530号(7)、06/1231号(8)、06/1932号(9)、07/1035号(10)、07/1736号(11)、
     07/2437号(12)、07/3138号(13)、08/2141号(14)、08/2842号(15)、09/0443号(16)
     1907(明治40)08/05隆文館が『革命奇談 神愁鬼哭』(露國革命奇談神愁鬼哭)を発行する。定価40銭
     幸徳秋水の訳。定価40銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/24社会主義協会の茶話会が開かれる【04/27と同じ?違う?】
     協会の会則を改正し、会員は「社会主義を信ずる者に限る」となる
  04/27社会主義協会が社会主義茶話会を開く【04/24と同じ?違う?】
     「地方遊説を盛んにする事、殊に会員中の学生諸君は夏期休業を遊説に利用する事」を決議する
  04/平民社が経営難から無給となり社屋に西川光二郎、石川三四郎らが籠城する
  04/片山潜派の伊藤友治郎が横浜に労働者同盟会を組織する
  05/初ニッケル製でマルクスの肖像をかたどったの社会主義協会の会員徽章を作製する。15銭
  05/01『平民新聞』第25号が発行される
     幸徳秋水の社説「富者と社会主義」、木下尚江の「火の柱の後に書す」ほか
  05/01社会主義研究会が開かれる
     05/08社会主義研究会が開かれる
     05/15社会主義研究会が開かれる
     05/22社会主義研究会が開かれる
     05/29社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  05/01石川三四郎が本郷教会での明道会例会で社会主義を論じる
  05/01内村鑑三が『聖書之研究』に「無抵抗主義の教訓」を発表する
  05/08『平民新聞』第26号が発行される
     木下尚江の「監獄内より観たる社会」ほか
  05/08平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は20余人
     万朝報の斯波貞吉「将来の理想的婦人」と幸徳秋水
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  05/08東京で開かれた市民大祝捷会の提灯行列に10万人が参集する
  05/10平民社が平民文庫から木下尚江の『火の柱』を発行する。定価35銭。2千部発行
     1906(明治39)07/20金尾文淵堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     1908(明治41)10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     1910(明治43)09/03平民社平民文庫と金尾文淵堂と栄江堂の『火の柱』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/15『平民新聞』第27号が発行される
     1ページに木下尚江が「五月廿日を迎ふ」を発表する
     副題には「社会民主党禁止の第四周年」
     3ページ世界之新聞欄に「露国社会民主党の檄文」が掲載
     ウラジミル・イリッチ・レーニンが起草したアピール文を訳載。万国労働者の国際的連帯を強調する
     3ページに幸徳秋水が一記者の筆名で「筆のしづく」を発表する
  05/16東京で大日本宗教家大会が開かれる。諸宗教の協力、国策支持を決議する
  05/20神田区の青年会館で平民社主催の社会主義大演説会を開催【社会主義協会主催?】
     平民社は経営困難のため維持金の寄付募集が目的
     社会主義運動の気運が急速な盛り上がりを示す
     05/28下谷でも同様の演説会を開くも警察の弾圧が強硬に行なわれる
  05/20夜、社会主義協会に荒畑寒村ら35人が入会する
  05/20石川旭山著の『消費組合(一名購買組合)之話』が平民文庫から刊行
     四六半截版130ページ、定価12銭。初版は1千部
     著作兼発行人は石川三四郎、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  05/22『平民新聞』第28号が発行される
     幸徳秋水の社説「婦人と政治」、石川三四郎の「最末の兆」ほか
  05/22『平民新聞』第28号4ページに「一看守」による「獄裡の枯川先生」が掲載される。看守は岡野辰之助
     のち岡野は看守をやめて社会主義運動に加わる
  05/26石川三四郎と景山英子が堺利彦に面会のため巣鴨監獄へ
     石川は平民社中、最も監獄通とされる
  05/27警視庁が記者会見を開き「社会主義者の行動に就て」の新方針を決定する
     政府は社会主義者の運動に対する取り締まりを積極的に打ち出すことに
     各新聞社に記事掲載を求め弾圧の強化を宣言
  05/28安部磯雄著の『地上の理想国 瑞西』が平民文庫から刊行
     ヴヰンセントの「瑞西の政治」とドウソンの「社会的瑞西」から抜粋して著わす
     四六半截版152ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は安部磯雄、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1947(昭和22)05/大原社会問題研究所から「社会問題名著選」の1冊として再版。解説は権田保之助
  05/29『平民新聞』第29号が発行される
     幸徳秋水の社説「戦場の大洗礼」、英文欄「日本宗教家大会」ほか
  05/29、30木下尚江が『毎日新聞』に「社会主義者の取締りに就て政府に問ふ」を発表
  05/30佃島の延寿亭で社会主義演説会が開かれる
     石川三四郎が自己紹介をした途端に中止、解散となる
  05/末平民社が財政難となり、岩崎革也から200円の援助をうけ乗り切る
  05/豊田孤寒が『牟婁新報』の記者になる
     のち1905(明治38)10月まで在籍
  05/頃東京市街鉄道会社(街鉄)が日比谷〜小川町〜万世橋〜両国〜茅場町〜日比谷の循環運転を開始
     のち3社合併までの間に総延長36.5キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  06/初山川均が仮出獄する
     1900(明治33)5月初旬発行の月刊『青年の福音』第3号掲載記事による筆禍事件
     山川と守田有秋は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に処せられる
     1901(明治34)7月10日の控訴判決も1審に同じ、7月14日に巣鴨監獄に入る
  06/01内村鑑三が『聖書之研究』に「負けるは勝つの記」を発表する
  06/05『平民新聞』第30号が発行される。3700部
     1ページに幸徳秋水の社説「政府に忠告す・社会主義者と新方針取締策」、
     英文欄「欧米の親愛なる同志に」、幸徳秋水の「籠城後の平民社」ほか
  06/05社会主義研究会が開かれる
     06/12社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  06/05大日本労働至誠会の南助松が北海道内遊説のため夕張を離れる
  06/05平民社の相談役に安部磯雄、木下尚江、佐治実然、小島龍太郎、加藤時次郎がなる
  06/仮出獄した山川均が数寄屋橋の平民社を訪ねる。幸徳秋水とあう
     06/11東京を離れ生まれ故郷の倉敷にもどる
     1906(明治39)10/『平民新聞』の創刊に編集部員として参加するよう幸徳秋水に招かれる
     12/中任されていた義兄林源十郎の薬店岡山支店を辞し上京
     錦町に下宿し新富町の平民社で初めて堺利彦に会う
  06/12『平民新聞』第31号が発行される
     安部磯雄の社説「欧米の同志に告ぐ」
     英文欄「わが政府の過当な社会主義恐怖」
     石川三四郎の「愛国心と愛他国心」ほか
  06/12社会主義協会が万国社会主義大会へむけての「社会主義協会の決議」を決定する
  06/12平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人14、5人、男子14、5人、計30人ばかり
     はじめに来遊中のハンガリー社会党員のポラチエクが挨拶
     安部磯雄「革命運動と婦人」。村井知至は病気のため登壇できず
     4時半閉会
     のち7月、8月は暑中につき休止
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  06/19『平民新聞』第32号が発行される
     1ページに幸徳秋水が社説「敬愛なる朝鮮」を掲載。朝鮮をするどく批判する
     石川三四郎の「所謂犠牲の精神」、西川光二郎の「病気製造の公認」
     英文欄「社会主義協会の決議」ほか
  06/19木下尚江が本郷教会の婦人会講演で演説する
  06/19安部磯雄が本郷教会で説教する
  06/20午前5時、堺利彦が出獄する
     6時出獄の予定が典獄殿の思し召しで1時間早めての釈放に。混乱を回避するための処置
     杉村縦横、木下尚江、斎藤兼次郎ら20人ばかりが集まる
     なかには堺宅のとなりに住む福田英子の手にひかれた1才5か月になる堺の娘、真柄の姿も
     堺の妻、美知は病気のため迎えにはでられず、夫のため好物の豆飯を炊いて待つ
     3月27日発行の『平民新聞』第20号1ページに掲載された幸徳秋水の「嗚呼増税!」が筆禍を受け4月20日に入獄
     堺の入獄は社会主義運動史上、初の犠牲となる
  06/20出獄後の堺利彦は自分の家へ戻るより先に病気で寝ている幸徳秋水を訪ねる
  06/22西村伊作が和歌山県へ伝道行商の旅に出発する
     平民社とは連絡をとらず独自で自転車に乗り新宮から和歌山まで熊野の沿岸を走る。西村の叔父は大石誠之助
     和歌山から京都までは汽車のなかで売りさばく
     06/29同志社大学生の弟大石真子の下宿に到着
  06/26『平民新聞』第33号が発行される
     堺利彦の「帰社の御披露」「出獄雑記」
     西川光二郎の「窮民の眼に映する政府」ほか
  06/26淀橋浄水工場の後方、角筈十二社、梅林亭で堺利彦の出獄歓迎会をかねた園遊会が催される
     【06/27? 06/29?】
     くもり空ながら男女あわせて150人が集まる大宴会に
     発起人総代の安部磯雄は「若し吾党の士の中に出獄者ある毎に歓迎会を開くことゝすれば、
     今後何百回こゝで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ」と述べる
     友人の寄付によるおでん屋。加藤時次郎寄付の団子屋
     花井、卜部、今村、高木らと朝報社の斯波、徳永の寄付によるビアホールなどが開店
     岡、原、加藤、清田、山田が余興をし、最後に加藤時次郎の浄瑠璃のあと4時に散会
     足尾鉱毒事件に奔走する田中正造も出席する
  06/末ロンドンで第3回救世軍万国大会が約1か月にわたり開かれる
     司令ブラード大佐以下、山室軍平大校、矢吹幸太郎中校、高橋勇吉中校が出席
     3人は日本人士官として初めて国際的大舞台に立つことに
     山室は渡欧の心境を機関誌『ときのこゑ』に長文で記す
      第1に、実地に見て考えたい
      第2に、日本の戦術展開の卑見を開陳したい
      第3に、決めかねている一切の問題を解決したい
     11/山室がドイツ郵船で神戸に帰国
  救世軍の山室軍平が帰国後まもなく小冊子6巻からなる『救世叢書』を発行する
     のち聖書や福音書、『ときのこゑ』と一緒に陸、海軍病院に持参し傷病軍人への慰問をはじめる
  07/01海老名弾正が『新人』に「朝鮮民族の運命を観じて日韓合同説を奨励す」を発表する
  07/03『平民新聞』第34号が発行される
     石川三四郎の「万国幸福の秘機」、西川光二郎の「仏蘭西労働者の女神」
     平民社同人により「平民日記」の連載がはじまる
  07/03『平民新聞』第34号から堺利彦が「一空々零生」の筆名で獄中体験記の「獄中生活」の連載を始める
     初回掲載は6ページ。「一空々零生」は自身の囚人番号「一九九〇号」から
     07/10第2回は第35号7ページに
     07/17第3回は第36号7ページに
     07/24第4回は第37号7ページに
     07/31第5回は第38号7ページに
     08/07第39号は休載
     08/14第40号の6ページまで6回にわたり連載
  07/03牧師の海老名弾正が本郷教会で「戦争美」を演説する
     堺利彦と石川三四郎が聞きにいく
  07/08社会主義協会の「社会主義演説大会」が神田区の今金で開かれる
     協会入会者が13人
  07/10『平民新聞』第35号が発行される。4200部
     堺利彦の「戦争美(海老名弾正氏演説)」、西村伊作「平民文庫行商の消息」ほか
     西川生が7ページに「戦勝は何を持来すべき乎」を発表する
  07/10『平民新聞』第35号1ページに「平民新聞直接読者統計表」が載る
.      直接購読者は全1376人【下の数字を足すと1376。実際の紙面では合計を1403】
     内訳は東京が453。北海道97、群馬55、長野44、高知37、新潟35、千葉34、静岡34、兵庫34、
     茨城29、福岡28、神奈川27、秋田26、京都25、長崎24、福島22、岐阜22、岡山21、和歌山20
     埼玉18、青森17、栃木16、島根16、大阪15、山口14、愛知12、石川10、熊本10、
     山梨9、岩手9、広島9、佐賀9、宮城8、富山8、三重8、奈良8、愛媛8、宮崎8、
     鳥取6、鹿児島6、大分5、山形4、滋賀4、福井3、徳島3
     海外では欧米40、台湾14、清国5、韓国4。他に在外軍隊3
     地方の社会主義団体として札幌平民倶楽部、下野同胞会、両毛同志会、北総平民倶楽部、横浜曙会、
     名古屋社会主義研究会、大阪平民社、神戸平民倶楽部、岡山いろは倶楽部、熊本評論社など
  07/13婦人矯風会が神田区の青年会館で大会を開く【矯風会大会?】
     司会は本多貞子。東郷昌武、平岩●【立心偏に宜】保、島田三郎らが演説する
     ほか木下尚江が「男女幸福比較論」を演説
     木下は最後に「婦人問題の根本的解決を望むものはこれによるほかない」と『平民新聞』を聴衆に示して降壇する
     管野すがが大阪支部代表として参加する
  07/16木下尚江、西川光二郎、石川三四郎、幸徳秋水、山口義三、斎藤兼次郎が夏期遊説を行なう
     茨城県、横浜市、群馬県、長野県、埼玉県など16か所で演説会や談話会を開催。7月31日まで
     水戸で800人、長野で600人の聴衆を動員する
     08/さらに同じメンバーで岐阜、愛知、静岡、神奈川を遊説する
  07/17『平民新聞』第36号が発行される
     2ページに無著名の記事「朝鮮併呑論を評す」が発表される【幸徳秋水の記事】
     大杉栄の活動報告となる「名古屋より」が掲載される。大杉の文章が初めて活字になる
  07/18管野すがが有楽町の平民社に堺利彦を訪ね指導を受ける
  07/18直行団が神田区鍛冶町の今金で消費組合演説会を開催
     加藤時次郎、原霞外、堺利彦、石川三四郎ほかが参加【消費組合奨励演説会?】
     11/28直行団による消費組合の設立総会が開かれる
  07/19石川三四郎が夏期遊説で埼玉県、群馬県をまわる。31日に帰社
  07/232人の学生、野村生と阿南生が夏期休暇を利用し茨城県、栃木県へ伝道行商の旅に出発する
     07/25土浦で3円73銭の売り上げ
     07/26・27・28水戸で4円2銭5厘の売り上げ
     07/30・31下館で1円97銭5厘の売り上げ
     08/01結城で1円53銭5厘の売り上げ
     08/02小山で1円42銭の売り上げ
     08/04・05・06栃木で1円9銭5厘の売り上げ
     伝道行商の旅は終わりに。総計14円28銭に
  07/23早稲田大学社会学会発起人総代の松岡荒村が死去
  07/24『平民新聞』第37号で「平民社維持金寄附広告」を開始
     「平民社維持の方策」「平民社相談会」「維持金募集の議」「維持金二千円募集」の記事が載る
  07/24「与露国社会党書」に対する在ジュネーブの露国社会民主党機関紙『イスクラ』が応答
     回答の「露国社会党より」全文が『平民新聞』第37号5ページに訳載される
     「与露国社会党書」は3月13日発行の『平民新聞』第18号1ページの社説に掲載
  07/31『平民新聞』第38号が発行される
     英文欄「ロシアの同志からの応答」としてロシア社会民主党の返書の英訳を転載
  07/大杉栄が夏期休暇で名古屋市中区飴屋町の伯父大杉一昌宅へ向かう
     車中『平民新聞』のチラシなどをまく。大杉最初の実践活動
     07/19石巻良夫宅で社会主義者茶話会が開かれる
     出席者13人。大杉も出席
     08/07名古屋市馬喰町89番地の矢木健次郎宅にて社会主義研究会が催される。聴衆は70余人
     大杉栄が開会の辞を述べる
     08/17西川光次郎が東海道遊説の途中、名古屋に立ち寄る
     西川を迎え一旗亭で晩餐会が開かれる、大杉も出席
     09/大杉が帰京する
  08/01海老名弾正が『新人』に「戦争美」を発表する
  08/022人の学生、西島生と権田生が夏期休暇を利用して神奈川県へ伝道行商の旅に出発する
     国分寺から府中、本宿、保谷、立川【日野?】、八王子、厚木、平塚、茅ケ崎、藤沢まで
     のち8月4日まで
     3日間の売りさばきは平民文庫『火の柱』5冊1円75銭、『地上の理想国瑞西』7冊1円5銭、
     『社会主義入門』9冊90銭、『消費組合の話』4冊48銭、『百年後の新社会』9冊45銭
     『平民新聞』25部87銭5厘。総額5円50銭5厘に
  08/06社会主義協会が平民社で故松岡悟君追悼会を開く
  08/07『平民新聞』第39号に「トルストイ翁の日露戦争論〈爾曹(なんじ)ら悔い改めよ〉」の論文を掲載
     「トルストイ翁の日露戦争論」は6月27日付『ロンドンタイムス』の論文
     幸徳秋水、堺利彦が8ページにわたり全文を訳載する。8千部発行する
  08/07中里介山が『平民新聞』第39号7ページに詩「乱調激韵」を発表する
  08/12西川光二郎が警察の尾行つきで東海道遊説を行なう
     岐阜、愛知、静岡、神奈川の4県9か所で演説会を開く。約1760余人の聴衆を集める
     8月31日まで
  08/14『平民新聞』第40号が発行される
     1ページの社説に幸徳秋水が「トルストイ翁の非戦論を評す」を掲載する
     幸徳は唯物論者の立場、社会主義者の立場からトルストイを批判
     松岡文子の「松岡悟氏の最後」、白柳秀湖の「松岡悟君を憶ふ」
     英文欄「日本におけるトルストイの感化」
  08/14安部磯雄がトルストイ氏へ手紙を送る
  08/14アムステルダムで第二インターナショナル万国社会党第6回大会が開催。各国代表500余人が集まる
     日本からは代表として片山潜が出席
     議会長にオランダ代表のバン・コール、副議長にロシア代表のプレハノフと日本代表の片山潜が選ばれる
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     大会幹事のツルーストラが報告演説を行なったあと、プレハノフと片山が議長の前に進みでて握手をかわす
     1千人にのぼる各国出席者の嵐のような拍手が数分間続く。2人は着席するも拍手は鳴りやまず
     ふたたび起ち握手をかわす
     20日まで
  08/第二インターナショナル万国社会党第6回大会が開かれる
     日本の片山潜と露国社会民主党の代表プレハーノフが演説する
     片山「私はここでロシア代表と相見ることを得たことをよろこぶ。
     わが日本は、ロシアにたいして四海同胞の義をそこなう惨禍の戦争をなしつつあるではないか。
     日本の社会党は、一八六九年以来、つねに日本における社会主義革命を期待している」
     プレハーノフ「ロシア人民は戦争はのぞまなかった。しかし、人民の敵たる政府は、その冒険的、
     専制的政策をもって日本に挑戦した。いまやロシアが大きな困難におちいったのは当然である。
     かりにロシアが勝利しても、ロシア人民が犠牲に供せられることはおなじである。
     日本はわれわれのために、専制主義の巨像の一脚を除去しつつあるのではないだろうか」
  08/15欧州各国の新聞は、日露の敵国どうしが公衆の面前で握手したことを驚異の印象として報道
  08/15木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」の連載を開始。〜11月10日
     1905(明治38)04/01「良人の自白」続篇の連載を開始。〜6月3日
     07/01「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日
     1906(明治39)01/01「良人の自白」の続篇「新曙光」の連載を開始。〜6月9日
  08/16警視庁に検閲係が設置。桂内閣による戦争遂行のための弾圧体制が強化される
  08/病弱の堺利彦の妻・美知子の持病の肺患が急激に悪化。加藤病院神奈川分院に入院加療
     のち堺が活動しやすいように真柄を加藤病院小田原分院がひきとる
     08/18美知子が入院先の加藤病院神奈川分院で肺患のため死去。享年35才
     美和子は1906(明治39)9月に大杉栄(21)と結婚する堀保子の姉
     08/20堺が妻の遺骨を携え帰社
     08/21葬儀が白金三光町の重秀寺で営まれ葬られる
     安部磯雄が社会主義協会を代表し悲壮な弔辞を述べる
     1905(明治38)08/18「故堺みち子氏追悼会」が芝浦の大光館で開かれる
     発起人は女性ばかり逸見菊枝、福田英、延岡ため、幸徳千代、熊谷かつ、木下操ら。のち堺の妻となる延岡為子も名を連ねる
     加藤時次郎、安部磯雄、木下尚江、久津見蕨村が演説。加藤は公席を賑わそうと義太夫を披露する
  08/18荒畑寒村が横浜平民結社の茶話会を開催
  08/21甲武鉄道が飯田町〜中野間に電車の運転を開始する
  08/21『平民新聞』第41号が発行される
     1ページに幸徳秋水の社説「社会党の戦争観」
     英文欄に「朝鮮経営の最良策」ほか
  08/21故堺美知子の葬儀が行なわれる。安部磯雄が社会主義協会を代表して弔辞
  08/24日露戦争時、遼寧省遼陽付近で日本軍とロシア軍の主力が初めて衝突。遼陽会戦が起きる
     ロシア軍15万8千の兵と日本軍と12万5千の兵が衝突。戦いでの死傷者は両軍あわせ4万人以上に
     08/31橘周太陸軍少佐が首山堡の攻撃中に最前線で指揮。敵の逆襲の中、銃弾にたおれ戦死。中佐に特進
     戦後、軍神となる
  08/26千葉県東金町の八鶴館で演説会が開かれる
     幸徳秋水、石川三四郎が臨む
     石川は「社会主義の本義」と題して講演する
  08/28『平民新聞』第42号が発行される
     堺利彦が5ページに「晩夏初秋の感」を発表。妻美知子の死に対して心境を語る
     英文欄「『平民新聞』はいかに維持されるべきか」「われわれの遊説」
  08/29横浜電鉄の車掌運転手がストライキを起こす
  08/頃石川三四郎に失恋の痛手が再発、ノイローゼが続く
     幸徳秋水や山路愛山から「犬王(狂)」と冷やかされる
  09/01平民文庫が幸徳秋水著の『社会民主党建設者ラサール』を発行する
     四六半截版137ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は幸徳伝次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1902(明治35)4月13日の『労働世界』第6年第2号から9月13日の第6年第15号まで連載
     タイトルは「社会民主党建設者血性男児」
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  09/01『明星』9月号に与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」を発表する【09/09?】
  09/01海老名弾正が『新人』に「トルストイの日露戦争論を読む」を発表する
  09/01内村鑑三が『聖書之研究』に「余が非戦論者なりし由来」を発表する
  09/02石川三四郎が神奈川県小田原海岸の加藤病院分院に入院する
     加藤時次郎の夫人咲子の看護を受ける
     09/10石川が箱根大平台林泉寺に内山愚堂を訪ね小集を開く
     09/12石川が帰京する
  09/03小田頼造が3月3日に続いて再度、千葉県へ伝道行商の旅に出発する
     コースは東京から佐久良、八街、成東、松尾、横芝、八日市、旭、銚子、佐原、成田、松戸、東京まで
     のち9月21日まで。18日間に1回の演説会、8回の談話会、102冊の本の売り上げ【09/18まで?】
  09/04『平民新聞』第43号が発行される
     英文欄「軍国主義反対の理由」ほか
  09/05加藤時次郎が『直言』第1巻第10号に堺利彦の妻・美知子の死を悼み「嗚呼堺夫人」を寄せる
  09/08社会主義協会茶話会が開かれる。48人が参加。普通選挙請願運動を決定する
  09/10平民社訳の『トルストイ翁の日露戦争論』が文明堂より出版。8銭
  09/10西川光二郎著の『土地国有論』が平民文庫から刊行
     四六半截版94ページ、定価10銭。初版は1500部
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/11『平民新聞』第44号が発行される
     堺利彦の「『ラサール』を読む」、「杜翁非戦論に対する反響」ほか
  09/11社会主義研究会が開かれる
     09/18社会主義研究会が開かれる
     幸徳秋水が「ダーヰンとマルクスの事業及び人物」を講演
     09/25社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  09/11平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は女11人、男15人
     堺利彦「身上話」
     4時半散会
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  09/16社会主義協会が神田区の青年会館にて「社会主義大演説会」を催す【夜、YMCAで開催?】
  09/18『平民新聞』第45号が発行される
     旭山生が1ページに「自由恋愛私見」を発表する
     幸徳秋水が1ページの社説「日露社会党の握手」で第二インターナショナル万国社会党第6回大会の模様を報告
     「社会主義に対する世論」ほか
  09/18浮田和民が「日露戦争と教育」の講演で「自決より生きて捕虜になれ」と説き議論を呼ぶ
  09/25『平民新聞』第46号が発行される
     「万国社会党大会記事」、英文欄「遼陽における勝利」ほか
  09/西川光次郎著『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』を平民社が定価10銭で販売
     もとは中庸堂書店が1902(明治35)4月10日に定価15銭で発行【04/18?】。平民社が版権と残本300部を引き受ける
     日本初のマルクス伝
     1905(明治38)02/西川の2月の新聞紙条例違反での入獄を記念し平民文庫の1冊に加えられる
     四六半截版104ページ、定価10銭
  09/16才の神近市子が長崎市内の活水女学校に入学。初等科3年に編入される
  09/日露戦争中、日刊の新聞紙上で写真が採用される
     軍に所属する写真家の作品が写真集や画報集などに掲載され人気を博す
  10/01田添鉄二著の『経済進化論』が平民文庫から刊行
     四六半截版154ページ、定価15銭。初版は1500部
     著者は田添鉄二、発行者は堺利彦、印刷者は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/01内ケ崎作三郎、吉野作造、小山東助が『新人』の編集記者となる
  10/02『平民新聞』第47号が発行される
     2ページに「電車開通と車夫」が掲載される
     4ページに山口義三、小田頼造の檄文「伝道行商の為めに京を発するに臨みて」が発表される
     ほかに「社会主義の下に於ては」、英文欄「人民の話題社会主義」
  10/05朝7時、小田頼造、山口義三が赤塗の箱車に社会主義の出版物を満載し「伝道行商」に出発
     東海道から山陽道を下る
     のち途中の小田原では加藤病院小田原分院に宿泊する
     1905(明治38)01/正月を岡山の同志森近運平宅で迎える
     01/26114日かけて下関に到着。行程は約300里に
     談話会13回、演説会5回の計18回を開く。会場は談話・演説会の会場は同志宅6回、貸席6回、寺院4回、教会2回
     社会主義協会員25人、社会主義者40人の計65人の同志を獲得する
     113日の宿泊状況は同志関係者宅が60回、宿屋42回、木賃宿8回、不明3回
     平民文庫858冊で売上高137円46銭
      木下尚江著「火の柱」(定価35銭)127冊、安部磯雄著「地上の理想国瑞西」(定価15銭)119冊、
      田添鉄二著「経済進化論」(定価15銭)97冊、平民社同人編「社会主義入門」(定価10銭)92冊、
      堺枯川抄訳「百年後の新社会」(定価5銭)73冊、幸徳秋水著「社会民主党建設者ラサール」(定価15銭)68冊、
      西川光次郎著「土地国有論」(定価10銭)66冊、西川光次郎著「富の圧制」(定価12銭)49冊、
      西川光次郎著「カール・マルクス」(定価10銭)46冊、堺枯川抄訳「理想郷」(定価5銭)43冊、
      木下尚江著「良人の自白」(定価35銭)39冊、石川三四郎著「消費組合の話」(定価12銭)39冊
     平民社取次書類239冊で売上高43円85銭
      村井知至著「社会主義」(定価15銭)138冊、片山潜著「我社会主義」(定価25銭)85冊
      安部磯雄著「社会主義論」(定価10銭)10冊、西川光次郎「社会党」(定価15銭)6冊
     合計1097冊を売りさばき181円31銭を得る。半分の90円66銭を平民社に納入し、残り半分が山口、小田の経費となる
  10/05社会主義研究会が開かれる
     10/09社会主義研究会が開かれる
     10/16社会主義研究会が開かれる
     10/23社会主義研究会が開かれる
     10/30社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  10/06石川三四郎が平民社相談会でしばらく静養をすることになる
     10/30病気療養のため帰郷する
     11/12頃上京する
  10/09『平民新聞』第48号が発行される
     6ページに堺利彦が「共産党宣言に就いて」を発表
     片山潜「万国社会党大会」、臨風「谷中村」
     英文欄「軍人遺族援助基金」「徴兵令の改正」ほか
  10/09『平民新聞』第48号付載の維持金寄付広告のなかに「金一円也 大阪府堺市管野須賀子」とのる
  10/09社会主義協会が「普通選挙請願運動の檄」を7千枚、請願用紙3千枚配布して請願運動を開始する
  10/09石川三四郎が本郷教会で行われた明道会例会で発言をする
  10/09本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。婦人の来会者おおよそ10人
     第1席に安藤兎毛喜、第2席は幸徳伝次郎の「娼妓と社会制度」
     珍客に政治家の立川雲平、自由民権運動の闘士・安芸喜代香
     立川は島崎藤村の「破壊」の市村代議士のモデル
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  10/10内村鑑三、幸徳秋水、石川三四郎、堺利彦が清新軒で会食。朝報社退社1周年を記念
  10/16『平民新聞』第49号7ページの「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商日記」が掲載
     連載がはじまる。第1報は相州鎌倉より
     10/23第50号7ページ「同志の運動」欄に第2報。箱根大平台より
     10/30第51号5ページ「同志の運動」欄に第3報。駿河岩淵より
     11/06第52号7ページ「同志の運動」欄に第4報。静岡市より
     11/13第53号は休載
     11/20第54号6ページ「同志の運動」欄に第5報。天龍川畔より
     11/27第55号7ページ「同志の運動」欄に第6報。三河岡崎より。名古屋市より
     12/04第56号7ページ「同志の運動」欄に第8報。美濃関ケ原より
     12/11第57号7ページ「同志の運動」欄に第7報。京都より
     【実際の『平民新聞』で第7報と第8報の順番が逆】
     12/18第58号7ページ「同志の運動」欄に第10報。大阪より
     【実際の『平民新聞』で第9報が欠番】
     12/25第59号7ページ「同志の運動」欄に第11報。神戸より
     1905(明治38)01/01第60号7ページに第12報。備前和気より
     01/08第61号7ページ「同志の運動」欄に第13報。岡山より
     01/15第62号7ページ「同志の運動」欄に第14報。備中笠岡より
     01/22第63号7ページ「同志の運動」欄に第15報。広島より
     01/29第64号(『平民新聞』最終号)7ページに第16報。周防富海より
     02/05引き続き「伝道行商の記」の第17報が『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に掲載される
     最終回は下関より
  10/16『平民新聞』第49号1ページに論説「先づ政権を取れ」が掲載される
     副題には「社会運動の第一着手」「普通選挙の請願」。普通選挙制に対する期待を持つ
  10/20松岡荒村の未亡人松岡文子が平民社に入る
  10/23『平民新聞』第50号が発行される
     石川三四郎の「基督教徒に告ぐ」、英文欄「満州問題に関する戸水教授の見解」ほか
  10/23安部磯雄が本郷教会で説教をする
  10/25福田英子が『妾の半生涯』を出版する。版形は菊版で定価35銭
     著作兼発行者は東京府豊多摩郡淀橋町字角筈738番地の福田英
     印刷者は福田花。印刷所は東京府京橋区日吉町4番地の民友社
     大売捌所は東京市の東京堂と大阪市の吉岡書店
     内容は「最近の撮影」と題する英子の肖像が1葉、「はしがき」4頁、目次9頁、本文が14章159頁で全文にふり仮名付
  10/30『平民新聞』第51号が発行される
     幸徳秋水が1ページの社説に「危険なる法律」を発表
     西川光二郎の「世界各国普通選挙獲得運動史一班」、
     英文欄「万国社会党アムステルダム大会」、堺利彦「『妾の半生涯』を読む」ほか
  10/30管野すがが三宅、杉山らとともに大阪平民新聞読者会をを開く
  10/労働新聞社から刊行した西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が品切れ絶版状態に
     もともとは1902(明治35)7月17日、四六版47ページ、定価12銭で刊行
     1905(明治38)03/24西川の2月の新聞紙条例違反での入獄記念として平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     菊版20ページ、定価5銭
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  10/群馬県の高崎に小杉実然、内田豊、築比地仲助らが中心となり週刊『平民新聞』の読書会が組織される
     12/栃木県の佐野町に近藤政平、遠藤友四郎らが「同胞会」を組織する
     のち両者は相呼応して活動することに
     のち増田惣八、戸恒保三、久保田種太郎らが集まり、さらに前橋から高畠素之が参加し社会主義研究会がもたれる
  10/新宮の大石誠之助が医業のかたわら「太平洋食堂」を経営
     「平民倶楽部」を設けて熊野地方の文化運動の中心となる
  10/東京での新聞の発行部数
     『萬朝報』16万
     『二六新報』3万2千
     『時事新報』5万5千
     『東京日日新聞』3万5千
     『東京朝日新聞』9万
     『国民新聞』2万
     『報知新聞』14万
     『都新聞』6万
     『日本』1万2千
     『毎日新聞』8千
     『平民新聞』4千200
  秋/出征軍人の武運を祈る千人針や慰問袋の製作がはじまる
  11/02夜、「社会主義協会」が神田区美土代町の青年会館で社会主義大演説会を開く
     1千人の会衆が集まる
     田添鉄二が起って中止、次に佐治実然が起って中止、3番目に幸徳秋水が起って中止となる
     幸徳中止のあと臨検の警部が会主を呼び解散を命じる。納得しない聴衆は騒ぎ大混乱に
     続く演説者の西川光二郎、堺利彦、木下尚江、安部磯雄は登壇できず
     大拍手と「社会党万歳」の唱和が30分ほど続くも警察はなにもできず
     巡査は聴衆のなかに割って入り押し出そうとする。振り放ち、突き飛ばし、押し合い、もみ合い
     収拾がつかなくなるも聴衆は凱歌をあげて解散に
     11/06『平民新聞』第52号に「社会主義大演説会の記」を掲載
  11/03普選同盟提唱の平民親睦会が開かれる
  11/06『平民新聞』第52号「教育特集号」が教育を批判する形をとる
     1ページに石川三四郎他の「小学教師に告ぐ」、4ページに西川光次郎の「社会主義者の教育観」、
     5ページに堺枯川の「小学修身漫評」、6ページに無価珍子の「戦争に対する教育者の態度」
     ほかに「社会主義大演説会の記」、「所謂愛国者の狼狽」などを掲載
  11/06『平民新聞』第52号2ページに11月2日に開かれた「社会主義大演説会に就いて」を掲載
     「社会主義協会」が神田区の青年会館で開いた大演説会を描く。演説会には1千人の会衆が集まる
     まず田添鉄二が起って中止、次に佐治実然が起って中止、3番目に幸徳秋水が起って中止となる
  11/06本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人だけでも30余人に
     第1席に菅谷いわ子、第2席に寺本みち子、最後に松岡ふみ子
     散会前に神川松子の挨拶、吉川吉子の話など弁士はすべて女性
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  11/09『平民新聞』第52号「教育特集号」が内務大臣の命令で発売が禁止となる
     編集発行人の西川光二郎、印刷人の幸徳秋水は新聞紙条例の朝憲紊乱の罪名で起訴される
     弁護人は花井卓蔵、今村力三郎、木下尚江、卜部喜太郎
     11/10木下尚江が堺利彦、幸徳秋水らと公判対策について協議
     11/19第1審で西川と幸徳はそれぞれ禁錮5か月、罰金50円に
     さらに西川は評論が社会の秩序を乱したという理由で、別に禁錮2か月の刑に
     『平民新聞』の発行禁止と印刷機械没収の判決
     1905(明治38)01/11幸徳、西川らに対する新聞紙条例違反事件の第2審が控訴院にて判決
     禁錮、罰金、『平民新聞』の発行停止など第1審と同じ
     02/23印刷業者国光社所有の印刷機械が犯罪用具として没収される
     02/23大審院に上告するも破却される
     西川の軽禁錮7か月と罰金50円、幸徳の軽禁錮5か月と罰金50円の原判決が確定する
     02/28幸徳と西川は日比谷公園で見送りの人々と記念撮影
     12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     04/中幸徳が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
     09/26西川が出獄
  11/10木下尚江が平民社での協議から麻布の寓居へ戻ると、父親代わりだった「伯父死去」の電報が届く
     11/11信州に帰り13日に葬式をすませる
     木下は郷里のニュースで知ることになる
     14日、平民社1周年記念の園遊会禁止。16日、社会主義協会の結社禁止
     11/18木下が帰京
     『平民新聞』第52号の起訴に対しての弁護に合流する
  11/13『平民新聞』第53号「創刊1周年記念号」が発行される。8千部発行
     幸徳秋水と堺利彦が共訳した「共産党宣言」が7ページにわたり訳載
     ほか英文欄に「YMCAホールにおける社会主義大演説会の解散」など
     「共産党宣言」はドイツ語からの翻訳ではなく、小島龍太郎が提供したサミュエル・ムーアの英語訳から重訳
     発行即日、発売禁止に【発売前に発行停止?】
     正午、麹町署の警部が2人の部下を連れ平民社へ。第53号が発禁になったことを告げ、残部40部を押収
     のち西川、幸徳、堺の3人が起訴される
     12/13東京地方裁判所で公判が開かれる。西川、幸徳、堺におのおの罰金80円に処せられる【12/20?】
     裁判所は「歴史的文書として研究に供するのは差支えないが、宣伝の具に供したから有罪だ」と判断
     判決文には「たんに歴史上の事実とし、また学問研究の資料として新聞雑誌に掲載するは単純に歴史的文書たるに止まり、
     社会の秩序を壊乱する記事というあたわざるのみならず、むしろ正当なる行為というべし」という文章が含まれる
     1906(明治39)03/15『社会主義研究』の創刊号に「共産党宣言」の全文を改訳掲載
     裁判での判決を逆手にとっての掲載。ときの政府は黙認せざるを得ず
  11/13平民社が『平民新聞』創立1周年記念を記念して絵はがきを発行する
     マルクス、エンゲルス、ラサール、ベーベル、クロポトキン、トルストイの6枚1組の肖像入り絵はがき
     肖像は平福百穂の筆による。「粗野な平民社の製作品としては存外の好評」をはくす
     6人の選び方に平民社の思想的内容が示される
     マルクス派の正統社会主義、ドイツ派の社会民主主義、トルストイの人道主義、クロポトキンの無政府共産主義
     のち6人の配合が種々な対立となり発展とつながることに
  11/14『平民新聞』創立1周年記念を記念する東京市外瀧の川の紅葉寺での大園遊会が半ばにして解散に
     【園遊会は当日の朝に禁止となる?】
     大園遊会は団子屋、おでん屋、甘酒屋などを設け記念撮影を行なう。解散がなければ500余人の大会に
     「人形ポンポコ踊り」「仮装行列」などの余興を弁当を食べながら楽しむもの
     堺利彦と石川三四郎はヒゲをそりめかしこむ。仮装行列で女学生役で登場する予定
     解散後100数十人が平民社に引き返し小集会を催しす。また解散命令
     飯を食べるあいだだけと猶予を乞い、直時中に余興をはじめる
     余興の途中で三度目の解散命令がでて役者も見物人も総立ち
     のち日比谷公園の北隅の小丘で記念写真を撮ろうと集合。そこでまた大騒動に
  11/16第1次桂内閣により結社が禁止され「社会主義協会」が解散に
     治安警察法第8条により「安寧秩序に妨害あり」として解散が命じられる
     『平民新聞』は「明治31年以来、今に至るまで6年、常に日本社会主義の急先鋒として、多大に貢献する所ありし
     同会は、斯くして空しく歴史の物となりぬ、嗚呼、噫嗟、事茲に至る、吾人また何をか言はん」と慨嘆する
     「社会主義協会」は1900(明治33)1月28日に旧社会主義研究会[1898(明治31)10月18日創立]が改組して結成される
  11/社会主義協会が解散したころから、安部磯雄が「資本論」翻訳に従事
  11/20『平民新聞』第54号が発行される
     「本社被告事件公判記」、「園遊会禁止の記」、「社会主義協会結社を禁止される」、英文欄「弾圧」ほか
  11/22横浜伊勢崎町の相生座で社会主義演説会が開かれる。幸徳秋水が「家庭と社会主義」を講演
  11/25石川三四郎、斎藤兼次郎が警視庁に『日本平民新聞』の発行届を提出するが受理を拒まれる
     12/01学術雑誌『平和』の発行届をだすが再び差し戻される
     1905(明治38)01/18さらに『曙新聞』の発行届をだすが同じ結果に
  11/25平民社主催の「社会主義大演説会」が神田区の錦輝館で開かれる。約1千人が集まる
     弁士の西川光二郎、堺利彦、幸徳秋水とも中止になり解散命令
  11/27『平民新聞』第55号が発行される
     1ページに幸徳秋水の社説「社会党の弾圧」が載る
     英文欄「たび重なる弾圧」ほか
  11/27社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  11/28直行団消費組合の創立総会が開かれる
     石川三四郎が監事となる
  11/28〜30永岡鶴蔵が平民社から西川光次郎、松崎源吉を足尾銅山に招き演説会を開催
     1905(明治38)01/20〜28平民社からふたたび松崎源吉を招き演説会を開催する
  11/石川三四郎らが再び平民社に籠城する
  11/『渡米雑誌』「社会主義協会」の解散と同時に発行禁止
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題、1903(明治36)3月3日『社会主義』に改題、
     1904(明治37)1月『渡米雑誌』に改題ののち
  11/大杉栄が麹町区五番町6番地に移りフランス語教授の看板をだす
  11/頃大杉栄が「二十歳ばかり上のある女性」と同棲する【11/頃?】
     1906(明治39)03/大杉栄が由分社で堺利彦宅の麹町区元園町2丁目5番地に移る
     【年上の女と縁を切るため?】
  12/01吉野作造が『新人』に「普通選挙請願運動の檄を読む」を発表する
  12/02河上肇が読売新聞日就社から『日本尊農論』を刊行。定価60銭
  12/04『平民新聞』第56号が発行される
     西川光二郎の「吾人今後の態度」、幸徳秋水の「ビスマルクの社会党弾圧」ほか
     英文欄「普通選挙権」は安部磯雄最後の担当
  12/04『平民新聞』第56号1ページに無名氏による「社会主義の歌」が発表される
     歌詞に「ソシアリズム」という名詞が盛り込まれた、まさしく日本社会主義運動が生んだ初めての歌
     軍歌「日本海軍」の替え歌として、演説会場や行進の途中など、各所で盛んにうたい継がれる
     一般にはうたい出しの歌詞から「富の鎖り」というタイトルもつけられる
     1908(明治41)築比地仲助による『革命歌』ができると、さっぱりうたわれなくなる
  12/04社会主義研究会が開かれる
     12/11社会主義研究会が開かれる。平民社主催となる
     12/18社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  12/08東京電気鉄道会社(外濠線)が路面電車の土橋〜お茶の水を開業
     1905(明治38)10/11循環線が開通、いわゆる外濠線の運転がはじまる
     土橋〜呉服橋〜駿河台下〜お茶の水〜飯田橋〜四谷見付〜赤坂見付〜虎ノ門〜土橋
     のち3社合併までの間に総延長16.8キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京市街鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  12/11『平民新聞』第57号が発行される
     堺利彦の「新聞紙と紳士」、西川光二郎の「足尾銅山遊説」、
     「社会主義の歌」を楽譜付きで発表、英文欄「たび重なる弾圧」担当が堺利彦にかわる
  12/11午後、平民社にて社会主義婦人講演が開かれる
     第1席に石川三四郎「春日局の話」
     第2席に山路愛山「予は婦人諸君が善く自己の力を考へんことを望む」
     最後に松岡文子「静御前の話」
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  12/11社会主義婦人講演社会主義研究会が平民社主催にかわる
  12/11木下尚江が本郷教会で説教をする
  12/15普通選挙請願署名が2240人に達する。第1回締め切り
  12/18『平民新聞』第58号が発行される
     1ページに幸徳秋水が「非戦論は止めず」「非戦論の目的」を発表。社会に声明して政府の横暴を世論に訴える
     「共産党宣言公判記」、英文欄「戦争議会」「鉱毒事件」
  12/20木下尚江の『良人の自白』上篇が平民社より刊行
     4千部が発行される
     1905(明治38)07/02『良人の自白』中篇が平民社より刊行
     11/12『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  12/24平民社で『良人の自白』の批評会が行なわれる【12/29?】
  12/25『平民新聞』第59号4ページに日本に亡命していた支那の孫逸仙が「革命潮」を寄せる
     ほかに木下尚江の「良人の自白刊行日記」、英文欄「一九〇四年のわか運動の総括」
  12/25『平民新聞』第59号1ページに西川光次郎が「日本社会主義1ケ年間の発達」を発表
     活動実績として社会主義運動の足跡を記す
     同志の舌をもって
     △集会数―総数120回。うち演説会・地方17回、東京44回。茶話会その他・地方4回、東京16回
     社会主義研究会30回、社会主義婦人講演会13回
     △地方遊説―遊説の任は木下尚江、野上啓之助、松崎源吉、山口義三らと本社の堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光次郎
     遊説の地方は伊豆、茨城、群馬、埼玉、東海道、千葉、神奈川と府下。遊説中の演説会は40余回
     △伝道行商―この任は小田頼三、山口義三、小野五郎、権田生ら
     まわった地方は千葉、信州、越後、近畿、関東、武州、相州、東海道、山陽道
     同志の筆をもって
     △社会主義拡張の檄―配布総数3万2千枚
     △普通選挙の檄―配布総数7千枚
     △普通選挙請願用紙―配布総数3千枚
     △平民文庫の販売冊数―8種総計1万5270冊。うち社会主義入門2301冊、百年後の新社会2598冊、火の柱3469冊、
     消費組合1410冊、瑞西1932冊、ラサール1613冊、土地国有論1116冊、経済進化論831冊。ほかに平民社絵ハガキ650組
     △社会主義書類取次販売―総数19種998冊
     △平民新聞―1か年の販売紙数は約20万部
     △各地方にできた社会主義の団体―岡山市、札幌、佐賀市、信州上田、信州神川村、名古屋市、水戸市、駿州吉原町、
     丹後峯山、紀州田辺町、夕張炭鉱、長野市、下関、横浜市、函館、上州名和村、宇都宮市、足尾銅山、飛騨高山、
     信州諏訪、越後長岡、出雲安来町、大阪市、高知市、米国桑港
     △社会党の裁判事件―総数9件。平民新聞3回(発行人堺利彦1回、裁判進行中2回)、
     社会主義雑誌1回(裁判進行中)、木下尚江1回(毎日新聞)、佐渡新聞1回、函館朝日1回、京都朝報1回
  12/25ヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』が原稿を訂正添削し平民文庫5銭本として刊行
     菊版38ページ、定価5銭。初版2千部【1千部?】
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは『平民新聞』の1904(明治37)1月3日の第8号から4月17日の第23号まで
     3月6日発行の第17号をのぞく毎号で15回連載
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  12/25平民社忘年会が開かれる
  12/28西川光次郎と松崎源吉が足尾銅山遊説を行なう
     大日本労働同志会足尾支部の応援のため
     12/30この日まで。成果を収める
  12/末岩崎革也が額面1千円の公債を寄附。平民社ぶじに年をこす
  暮/平民社のまかないを務めていた清田伝右衛門老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     1905(明治38)01/01文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集する
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
  松尾卯一太が月刊『九州家禽雑誌』を発刊する
  ベーベルの「婦人問題の解決」を堺利彦と幸徳秋水が抄訳する
  樋口勘次郎が『教育者と国家社会主義』を刊行


日露戦争時

  YMCA(キリスト教青年会)が朝鮮、満州の11か所に天幕を設営し「軍隊慰労事業」を実施する
     【YMCAの軍隊慰問部主事として中国東北部に滞在する益富政助らが日本からのからゆきさんの救済活動にのりだす】
     慰問部主事の益富政助が日本内地から誘惑されて満州にきた婦人たちを東京の救世軍に送りかえす
     1906(明治39)04/大連市浪花町に「満州婦人救済会」が開設される
     09/救世軍に移管され「救世軍大連婦人ホーム」となる
     ロンドンの救世軍万国士官学校に留学し社会事業を研究していた山田弥十郎中校が赴任
     1907(明治40)大連市飛騨町の新築施設に移転、救世軍大連婦人ホームとなる
     ホームは1911(明治44)6月末までに644人の女性を救済収容する
     のち日本軍の中国侵略が活発になり、中国に送られるからゆきさんは増加するばかりに
     【どこかに/のち播磨町の「大連婦人及育児ホーム」となる?】


1905(明治38)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第23代]芳川顕正、[第24代]清浦奎吾農商務大臣が兼任(09/16→)
  《警視総監》[第15代]安立綱之、[第16代]関清英(09/10→)
  《内務省警保局局長》仲小路廉


  01/小田頼造、山口義三の東海道から山陽道を下る「伝道行商」の旅が正月を岡山の同志森近運平宅で迎える
     前年の10月5日、赤塗の箱車に社会主義の出版物を満載し出発
     01/26114日かけて下関に到着。行程は約300里に
     談話会13回、演説会5回の計18回を開く。会場は談話・演説会の会場は同志宅6回、貸席6回、寺院4回、教会2回
     社会主義協会員25人、社会主義者40人の計65人の同志を獲得する
     113日の宿泊状況は同志関係者宅が60回、宿屋42回、木賃宿8回、不明3回
     平民文庫858冊で売上高137円46銭
      木下尚江著「火の柱」(定価35銭)127冊、安部磯雄著「地上の理想国瑞西」(定価15銭)119冊、
      田添鉄二著「経済進化論」(定価15銭)97冊、平民社同人編「社会主義入門」(定価10銭)92冊、
      堺枯川抄訳「百年後の新社会」(定価5銭)73冊、幸徳秋水著「社会民主党建設者ラサール」(定価15銭)68冊、
      西川光次郎著「土地国有論」(定価10銭)66冊、西川光次郎著「富の圧制」(定価12銭)49冊、
      西川光次郎著「カール・マルクス」(定価10銭)46冊、堺枯川抄訳「理想郷」(定価5銭)43冊、
      木下尚江著「良人の自白」(定価35銭)39冊、石川三四郎著「消費組合の話」(定価12銭)39冊
     平民社取次書類239冊で売上高43円85銭
      村井知至著「社会主義」(定価15銭)138冊、片山潜著「我社会主義」(定価25銭)85冊
      安部磯雄著「社会主義論」(定価10銭)10冊、西川光次郎「社会党」(定価15銭)6冊
     合計1097冊を売りさばき181円31銭を得る。半分の90円66銭を平民社に納入し、残り半分が山口、小田の経費となる
  01/01日露戦争において旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     宣戦布告は1904(明治37)2月10日
     01/02旅順開城規約が調印される
     09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
  01/01『平民新聞』第60号が発行される
     香音児が3ページに詩「戦争讃美の歌」を発表する
     幸徳秋水の「新年偶話」、「平民社の家庭」ほか
     「平民社維持金寄附広告」に「金七百円也 丹波 岩崎革也氏」と載る
  01/01平民社の勝手方が松岡文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
  01/01『平民新聞』第60号7ページの「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商日記」第12報が掲載
     第12報は備前和気より
     第1報は前年10月16日発行の第49号。以降、引き続き連載
     01/08第61号7ページ「同志の運動」欄に第13報。岡山より
     01/15第62号7ページ「同志の運動」欄に第14報。備中笠岡より
     01/22第63号7ページ「同志の運動」欄に第15報。広島より
     01/29第64号(『平民新聞』最終号)7ページに第16報。周防富海より
     02/05引き続き「伝道行商の記」の第17報が『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に掲載される
     最終回は下関より
  01/01大塚楠緒子が『太陽』1月号に「お百度詣で」を発表する
  01/01海老名弾正が『新人』に「日本魂の新意識を想ふ」を発表する
  01/01与謝野晶子、山川登美子、増田雅子が共著で詩歌集『恋衣』を出版する。発行元は本郷書院。本文152頁
     歌=登美子「白百合」131首、雅子「みをつくし」114首、晶子「曙染(あけぼのぞめ)」148首。詩=晶子6編
     登美子の「白百合」、雅子の「みをつくし」は1900年から1904年まで、晶子「曙染」と詩は1904年から1905年までの作品
     与謝野は「君死にたまふことなかれ」を再録する
     刊行時生田長江により高く評価される
     のち山川が在籍する日本女子大は「恋衣」の出版を時局にそぐわないと謹慎処分にする
     のち山川は処分に抵抗して歌を詠む
      歌よみて罪きせられきと光ある今の世を見よ後の千とせに
  01/05加藤時次郎が「直行団」から発行した雑誌『直言』が第14号を発行し終刊となる
     02/05『直言』が平民社の機関紙に。第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となる
  01/08『平民新聞』第61号が発行される
     山口孤剣が5ページに詩「マザージョーンズ」を発表する
     石川三四郎の「革命の斧 再び基督教徒に告ぐ」、
     幸徳秋水が『新人』に載った海老名弾正の論文「日本魂の新意識を想ふ」を批判
  01/08開花亭で「平民社新年会」が開かれる。100余人が集まる
  01/09ロシアのサンクトペテルブルクでガポン神父が労働者を率い皇宮への平和的な請願行進を行なう
     請願の内容は労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立など
     搾取や貧困、戦争に喘いでいたロシア民衆の素朴な要求を代弁したもの
     行進に対して政府当局に動員された軍隊が発砲、多数の死傷者をだす。「血の日曜日事件」
     サンクトペテルブルクの全労働者18万人のうち行進に先立つストライキの参加者11万人、行進参加者6万人
     軍隊の発砲による死者数は不明。反政府運動側によると4千人以上、慎重に概算した報告で千人以上に
  01/11『平民新聞』の幸徳秋水、西川光二郎に対する新聞紙条例違反事件の第2審が控訴院にて判決
     幸徳秋水は禁錮5か月、罰金50円。西川が禁錮7か月、罰金50円
     『平民新聞』の発行停止など1904(明治37)11月19日の第1審と同じ
     02/23印刷業者国光社所有の印刷機械が犯罪用具として没収される
     02/23大審院に上告するも破却される
     西川の軽禁錮7か月と罰金50円、幸徳の軽禁錮5か月と罰金50円の原判決が確定する
     02/28幸徳と西川は日比谷公園で見送りの人々と記念撮影
     12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     04/中幸徳が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
     09/26西川が出獄
  01/13平民社主催の「社会主義大演説会」が神田区の青年会館で開かれる。700余人が集まる
     中止解散命令がでる
  01/15『平民新聞』第62号が発行される
     1ページの社説に「朝憲紊乱とは何ぞ(1月6日東京控訴院に於ける木下尚江弁論)」
     幸徳秋水の「金井延氏の社会主義論」、英文欄「旅順港の陥落」ほか
  01/18石川三四郎、斎藤兼次郎が警視庁に『曙新聞』の発行届をだすが受理を拒まれる
  01/20〜28永岡鶴蔵が平民社からふたたび松崎源吉を足尾銅山に招き演説会を開催する
     『鉱夫の友』を作成し配布
     松崎は前年11月28日から30日まで西川光次郎とともに招かれ演説会をする
  01/21「直行団」の1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
     結成は1903(明治36)10月10日に京橋区木挽町の加藤時次郎宅で
     第1回団員会は1903(明治36)12月15日に行なわれ、事実上の「直行団」の発会式となる
  01/22『平民新聞』第63号が発行される
     1ページに幸徳秋水の「社会主義に対する迫害と其効果」を掲載
     副タイトルに「1月13日神田青年会館に於ける幸徳生演説の大要」。政府に真正面から抗議をする
     「社会主義運動基金募集」ほか
  01/22ロシアで「血の日曜日」事件が起こる。1905年革命
     ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進が行なわれる
     対して政府当局に動員された軍隊が発砲し多数の死傷者をだす
  01/23西川光次郎の『富の圧制』が平民文庫の1冊に加えられる【01/25?】
     西川の2月の新聞紙条例違反での入獄を記念して
     四六半截版102ページ、定価10銭
     著作兼発行人は西川光次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1903(明治36)4月27日に社会主義図書部から定価12銭で刊行【04/30?】
     1910(明治43)09/03社会主義図書部版と平民社版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/23夜、早稲田社会学会の有志による「幸徳・西川入獄送別会」が開かれる。出席者は25人
     安部磯雄が「西川や浜の真砂はつきるとも世に幸徳の種はつきまじ」と吟じて励ます
  01/24志知ふみ子(のちの西川光次郎の妻)と神崎順一の連名で雑誌『新社会』の発行届をだすが受理されず
  01/24治安警察法第5条改正の第1回「婦人の政治運動に関する請願」誓願がを提出する
     今井歌子、川村春子、松岡文子ら459人の署名を携える
  01/29『平民新聞』が第64号で発行禁止は避けられないとして刑の執行を待たず自発的廃刊を決意
     第64号を最終号としてマルクス、エンゲレスらの『新ライン新聞』の終刊にならい全紙面を赤刷り
     『新ライン新聞』廃刊号に掲載されたフライヒラートの詩を訳載
     巻頭は幸徳秋水の「吾人は涙をふるうて、ここに平民新聞の廃刊を宣言す」と冒頭する「終刊の辞」を掲げる
     西川光二郎の「改革者の感慨」、堺利彦の「漫吟」、石川三四郎の「平民の心情」、
     木下尚江の「平民新聞を弔ふ」、英文欄「『平民新聞』告別の辞」
     第2面には「露国革命の火」と題したロシア革命の状況が詳しく報道される
     白柳秀湖が7ページに「革命時代と文学」を発表する
     6ページには「本紙廃刊に就ての注意」として『直言』に引き継がれることが明記される
     『平民新聞』の創刊は1903(明治36)11月15日
  01/29社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  01/29安部磯雄が本郷教会で説教をする
  01/堺利彦の企画で「第1回社会主義婦人問題講演会」を開催
     主な講演は堺利彦の「家庭における階級制度」、西川光次郎の「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水の「婦人と戦争」、村井知至の「日本婦人に対する二大迷想」など
     のち講演会は毎月公演される
  01/遠藤清子をはじめとする平民社に集う女性たちにより治安警察法5条改正を求める請願だされる
     出願は延岡ため、福田英子、松岡文子、管野すが、遠藤清子ら
     のち1909(明治42)まで連年繰り返し議会に提出される法改正には至らず
  01/大阪同志会が設立される
  02/01吉野作造が『新人』に「国家魂とは何ぞや」を発表する
  02/03函館平民倶楽部の渡邊佐吉らが『新福音』を発行する
  02/05加藤時次郎の雑誌『直言』が平民社の機関紙に
     もともとは1904(明治37)1月5日に発行された消費組合運動の啓蒙推進のために組織した直行団の機関紙
     第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となり「本紙は日本社会主義の中央機関紙也!」を掲げる。月刊が週刊に
     『直言』の発行は1月29日『平民新聞』終刊したわずか1週間後。題号をかえてあらわれたに過ぎず
     発行所/京橋区木挽町6の11の直行社、発売所/平民社、印刷所/国光社、発行/毎週日曜日
     主宰/平民病院長加藤時次郎、発行兼編集人/原真一郎(霞外)、印刷人/山田金市郎、30号〜斎藤兼次郎
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭、2(1)の発行部数は4500
     体裁/四六倍判、紙幅/縦=約37.6糎、横=26.6糎、頁建/8頁(創刊号12頁)
     「本紙の責任及覚悟」、原真一郎の「『直言』活動の時」、木下尚江の「愛国心欠乏の原因」、
     山田金市郎の「大家先生の戦後経営」、「社会主義運動基金寄附広告」、
     英文欄「本紙の英文欄」「平民社の存在」担当は堺利彦となる
     堺利彦が「平民社より」の連載を開始、第2巻第24号まで
     09/10第2巻第32号の社説「政府の猛省を促す」が筆禍をこうむり新聞紙発行停止条項にふれ発行停止に
     のち発行停止命令が解除されないまま廃刊となる
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
  02/05『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商の記」の第17報が掲載される
     最終回は下関より
     第1報は前年10月16日発行の『平民新聞』第49号。以降、引き続き連載
  02/05平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後1時半開会
     松岡文子、木下尚江「貞操に対する迷信及疑問」、今井歌子は自己の経験談を語る
     男子の入場を無制限にし会場は男子ばかりで、婦人は片隅に追いやられることに
     4時半頃閉会
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
     裏方募集の広告は平民社勝手方の松岡文子が『平民新聞』第60号に掲載する
  02/12『直言』第2巻第2号が発行される
     木下尚江の「『新人』の国家宗教」、幸徳秋水の「露国革命の祖母」、松崎源吉の「足尾銅山遊説」
     プラチフオード原著、堺利彦抄訳「通俗社会主義」の連載を開始。1〜13、第16号まで
  02/12社会主義研究会が開かれる
     02/26社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  02/13平民社主催の「社会主義大演説会」が神田区の青年会館で開かれる。700余人が集まる
  02/19『直言』第2巻第3号が発行される
     幸徳秋水の「露国革命が与ふる教訓」、石川三四郎の「矛盾の世の中」、英文欄「キリスト教と国家」ほか
  02/19山口孤剣の『社会主義の歌』が刊行
  02/20石川三四郎が千葉県行徳町で「社会主義の本義」と題して講演する
  02/26『直言』第2巻第4号が発行される
     木下尚江の「遺族扶助料の争議」、「大審院の判決」ほか
  02/28幸徳秋水と西川光次郎は日比谷公園で入獄見送りの人々と記念撮影
     2人は12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     ○体重12貫の幸徳は『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍事件で禁錮5か月と罰金50円の刑をうける
     入獄の朝、木下尚江は幸徳が携えた風呂敷の山のような書物のなかに新旧約全書を見いだす
     ほかにレインの『The Level of Social Motion』、ドレイパアの『宗教学術の衝突』
     ヘッケルの『宇宙の謎』(英訳)、ルナンの『耶蘇伝』、ラッドの『猶太人及基督教徒の神話』
     クロポトキンの『田園工場及製造所』、エンゲレスの『フォイエルバッハ論』などを持ち込む
     読み解き無政府主義に関心をいだく
     07/28午前5時30分、満5か月の刑期を終え、大勢の同志に迎えられ出獄。体重10貫300目に
     ○西川は『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍事件のため。禁錮7か月と罰金50円の刑をうける
     09/26出獄
  02/幸徳秋水と西川光次郎の入獄記念に寄せ書きをしあう
     堺枯川、幸徳秋水、山口孤剣らのなかに大杉栄が書幅の余白に小さく認める
     「春三月 縊(くび)り残され 花に舞ふ」
     1911(明治44)03/24幸徳らが死刑になったのちの合同茶話会で同じ句を詠む
  02/西川光次郎の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が平民文庫の1冊に加えられる
     西川の2月の新聞紙条例違反での入獄を記念して
     四六半截版104ページ、定価10銭
     もともとは中庸堂書店が1902(明治35)4月10日に定価15銭で発行【04/18?】
     1904(明治37)9月には平民社が版権と残本300部を中庸堂書店から引き受け定価10銭で販売
     日本初のマルクス伝
     1910(明治43)09/03中庸堂書店版と平民社平民文庫版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/森近運平が上京。麹町区有楽町の平民社で堺利彦、幸徳秋水らと協議
     関西地方に社会主義の伝導機関を設けて東西相応し主義の運動に努めるを約する
     03/20森近は早速大阪市内に至り北区中ノ島宗是町に大阪平民社を創立【03/末?】
     東京平民社発行の新聞書籍の販売や社会主義研究会の開催など運動に専念
     大阪同志会を併合し研究会や茶話会などを開くことに
     10/東京平民社が解散すると大阪平民社も崩壊
     森近は一家をあげて上京。原霞外、山口孤剣が経営する神田区三崎町の平民舎ミルクホールを譲り受け、生活の根城に
     1906(明治39)02/24「日本社会党」が結成される。森近が幹事になり、社会党本部が置かれる
  02/夕張炭鉱でストライキが起きる
  02/頃加藤時次郎の誕生祝いの余興に社会劇会のメンバーが「良人の自白」2幕を上演する
     社会劇会のメンバーは原霞外、加藤龍彦、大亦墨水、岩本真吾ら
  03/01吉野作造が『新人』に「木下尚江君に答ふ」を発表する
  03/05『直言』第2巻第5号が発行される
     1ページに木下尚江の「明治時代の政教史」、幸徳秋水の「兄弟姉妹よ」、
     西川光二郎の「社会主義の伝道者」、英文欄「議会は何をしたか」ほか
  03/05平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。前回の入場をふまえ男子は必ず婦人に同伴のことに
     来聴者は婦人18人、男子もほぼ同数
     第1席は急きょの堺利彦、第2席に菅谷岩子「源氏物語に於ける女性」、
     第3席に木下尚江「解放時代の女子の危機」
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  03/06平民社主催の「社会主義大演説会」が浅草区の植木屋で開かれる。40余人が集まる
  03/12『直言』第2巻第6号が発行される
     5ページに片山潜の「労働者諸君に告ぐ」が『渡米雑誌』から転載される
     「露国革命の淵源」、「大審院判決書」ほか
  03/12社会主義研究会が開かれる
     03/26社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  03/12平民社の研究会で石川三四郎が「社会主義伝道隊」の組織を提唱
     発議は同志の賛成を得て即座に加盟者20人に達する
     伝導隊は約40人の社会主義研究会会員で組織される
     03/19同じ研究会で「伝道隊」のために西洋音楽隊用の大太鼓購入を発議。資金はただちに集まる
     赤旗を立てることを提唱。長さ6尺の赤布を求め石川が「社会主義伝道隊」と書きいれる
     03/26午後、大赤旗を掲げ芝、新網の貧民窟に宣伝にでかける。太鼓は誰もたたかず
     夜の研究会は石川が太鼓をたたいて開会を宣する
  03/19『直言』第2巻第7号が発行される
     5ページに石川生の「社会主義者の愛国心」が発表される
     5ページに小田頼造の論壇「思想の革命」を発表される
  03/19チラシ「『直言』の広告・社会主義の檄」を作成、配布する
  03/20森近運平が早速大阪市内に至り北区中ノ島宗是町に大阪平民社を創立【03/末?】
     東京平民社発行の新聞書籍の販売や社会主義研究会の開催など運動に専念
     大阪同志会を併合し研究会や茶話会などを開くことに
     10/東京平民社が解散すると大阪平民社も崩壊
     森近は一家をあげて上京。原霞外、山口孤剣が経営する神田区三崎町の平民舎ミルクホールを譲り受け、生活の根城に
  03/24西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     西川の2月の新聞紙条例違反での入獄記念として。菊版20ページ、定価5銭。1500部を発行
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もともとは1902(明治35)7月17日に発行。1904(明治37)10月には品切れ絶版状態に
     1910(明治43)09/03労働新聞社版と平民社平民文庫版ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/24島田三郎が『毎日新聞』紙上に選挙権拡張論への転向を発表する
  03/26『直言』第2巻第8号1ページに「日本紳士閥の解剖」が発表される
  03/26白柳秀湖が『直言』第2巻第8号5ページに小説「畜生恋(上)」を発表する
     04/02『直言』第9号5ページに小説「畜生恋(下)」を発表する
  03/26社会主義伝道隊の最初の運動として芝区新網町の貧民窟に赴き集会を開く
  春/救世軍軍人による「克己週間」の献金は日露戦争の陸海軍軍人の家族、ことに寡婦や孤児の救済に充てられる
     克己とは「意志の力でおのれの欲望、邪念に打ち勝つこと」
     ある士官は朝食を断ち、また粥と塩だけで過ごし、週間中、人力車の利用を控える
     各人が克己して得た金を献金にする
  04/01『直言』第2巻第9号が発行される
     木下尚江の「島田先生に呈す」、幸徳秋水の「巣鴨消息」ほか
  04/01吉野作造が『新人』に「平民社の国家観」を発表する
  04/01木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」続篇の連載を開始。〜6月3日
     正篇の連載は1904(明治37)8月15日〜11月10日
     07/01「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日
  04/02労働者懇桜会を上野公園の竹の台で開こうと準備がはじまる【労働者観桜会?】
     社会主義伝道隊の30数人が有楽町の平民社から銀座、京橋、今川橋を経て上野公園へ
     「社会主義万歳」「社会主義伝道隊」と記した赤旗を立て、大太鼓を打ち鳴らし、社会主義の檄を撒布する
     上野公園竹の台で開かれる労働者懇桜会の会場へ
     懇桜会で先頭に立ち大太鼓をたたいたのは桜井松太郎
     公園で待ち構えていた警官隊と衝突。その場で31人が逮捕され下谷警察署に拘引される
     【街頭デモで約50人の参加者のうち32人が検挙される。32人には2人の女性も】
  04/03上野の労働者懇親会が解散され、平民社は神田区の青年会館で社会主義大演説会を挙行する
     600余人が集まるも中止・解散命令がだされる
  04/03小田頼造が門司を皮切りに九州一帯の社会主義伝道行商に出発
     のち小倉、福岡、久留米、佐賀、熊本、宮崎、大分、宇佐、小倉とまわる
     07/0594日間の九州伝道行商を果たし下関の山口義三宅につく
     談話会6回(同志宅4回、神社1回、貸席1回)。社会主義書籍1,266冊【1254冊?】をさばき売上高179円95銭に
  04/04安部磯雄が早稲田大学の野球部選手13人を引率してアメリカへ遠征
     日本野球チーム初の海外遠征
     のちかけ合い2等船室の値段で1等船室に泊まった。サンフランシスコで野球道具を買ったが
     のちアメリカ対戦相手との成績は26戦7勝19敗
     06/29安部磯雄と早稲田の野球遣米使節の一行がアメリカから帰国する
  04/0517才の荒畑寒村が東北地方へ社会主義伝道行商に東京を出発
     のち千葉、茨城、栃木、福島、山形、宮城、岩手、青森、秋田、新潟、長野、群馬の12県をめぐる
     05/13水戸で車のバネが故障し汽車に巡査2人が同乗し上野に戻り、夜平民社に帰る
     07/10ふたたび旅立つ
     07/14谷中村を訪ねて2泊。田中正造に近く接する
     07/19足尾銅山で労働至誠会の永岡鶴蔵を相知る
     07/29横浜の知人鈴木秀男の戦死を知る
     08/06鈴木の葬儀には間に合わずも追悼会に参列
     秋/『直言』の廃刊、平民社の解散で伝道行商が中止に。東京に戻る
     60日間の伝道行商のなかで330冊の書を売る。2回の演説会と5回の談話会を開く(同志宅で5回、教会で2回)
     全59泊のうち同志宅、同情者宅で29泊、宿屋で20泊、木賃宿で10泊
  04/09『直言』第2巻第10号が発行される
     1ページに「労働運動の復活期」、石川三四郎の「労働者観桜会の記」ほか
  04/09平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人16、7人、男子10余人
     第1席は石川旭山「独逸軍人の結婚」、第2席に神川松子「独身に対する我見解」、
     第3席に堺利彦「女らしきとは何ぞや」、第4席に木下尚江「良人の自白の苦心談」
     最後に吉崎吉子が「社会主義取締の訓令」を提言
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  04/10午後1時半、原子基、深尾韶が甲信地方へ社会主義伝道行商に平民社を出発
     04/13府中町に至った2人に府中警察署は検来を命じる。1夜警察署に留置
     箱車1台、幻燈器械1個、書籍372冊、社会主義の歌880枚、社会主義の檄1911枚を差押え
     30日間これを領置する胸を申し渡し。2人は行商を中止
     04/14警官2人に送られ平民社に戻る
     戦績としては幻燈会2回、社会主義書類の販売25冊のみ
     05/162人は府中警察署に領置された箱車をとりにいく
  04/13経済学者で衆議院議員も歴任した田口卯吉が死去する
  04/15第1次『東京パック』が創刊される
     初代編集長は北沢楽天。当初の仕様は月刊でB4変型判、12ページの4色刷りカラー印刷
     定価は12銭。発行所は東京パック社、発売所は有楽社
     1912(明治45)05/01第1次『東京パック』最終号が発行。第8巻13号、全222巻となる
     05/北沢は有楽社を退社
     06/01第2次『東京パック』創刊
     月刊でB4変型判、12ページの4色刷りカラー印刷。定価は13銭
     1915(大正04)12/20第2次最後の発行、以降休刊となる
     1919(大正08)08/01第3次『東京パック』復刊
     月刊で判型はA4変形、24ページの表紙を含め4ページがカラー。定価は30銭
     1923(大正12)02/01第3次最後の発行、以降の刊行は不明
     1928(昭和03)07/01第4次『東京パック』創刊
     月刊でA4判、28ページ。定価は30銭
     1941(昭和16)終刊となる。詳細は不明
  04/中巣鴨監獄に入獄中の幸徳秋水が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
  04/16『直言』第2巻第11号が発行される
     石川三四郎の「借地人諸君に告ぐ」ほか
  04/16社会主義研究会が開かれる
     04/30社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  04/20牛込の清風亭で火鞭会創立第1回の会が開かれる
     牛込署の警部が巡査2人を連れ臨監にくるが聴衆のほとんどは社会主義とは無縁の者で呆れる
     白柳秀湖が「火鞭会の告白」を説明、児玉花外と山口孤剣が詩を吟詠、
     堺利彦が「ゾラの晩年」について述べ、久津見蕨村がニーチェについて概観
     聴衆60人
  04/23『直言』第2巻第12号を全ページ緑色で印刷した「婦人号」を発行
     1ページ左上欄外の「本紙は日本社会主義の中央機関紙なり!!」が「社会主義の理想は婦人のやさしき心の発展なり!!!」に
     1ページの社説には木下尚江が「醒めよ婦人」を発表。英文欄には「婦人の状態」「女性の地位」が掲載
     堺利彦は2面にわたり「婦人問題概説」を掲載
     1、生物界の男女両性 2、結婚制度の歴史 3、現在社会の男女関係
     4、婦人解放、社会主義 5、自由恋愛の説 6 、将来社会の男女関係、7、結論
     与謝野晶子の詩「君死に給ふことなかれ」が9ページに転載される
     堺利彦と結婚する前の延岡為子が7ページに「探偵さんとお花見」を書く
     ほかに木下尚江の「社会主義の理想は婦人のやさしき心也!」石川三四郎の「独逸軍人の結婚」、
     菅谷伊和子、延岡為子、松岡文子、神川文子の「予は如何にして社会主義者となりし乎」
  04/26平民社主催の「社会主義大演説会」が神田区の今金て開かれる
  04/274月28日に嵩山房が発行する田岡佐代治(嶺雲)の『壺中観』が発売頒布禁止の処分を受ける
  04/30『直言』第2巻第13号が発行される
     木下尚江の「恋愛中心の社会問題」、英文欄「再三の弾圧」
  04/浅草区浅草町84、85、90〜96番地に東京市直営の玉姫特殊尋常小学校が開校する
  05/01東京の平民社でメーデーの茶話会が開かれる【五月一日茶話会?】
     石川三四郎が開会の辞を述べる。石川、堺利彦、木下尚江らが記念講演を行なう
     日本最初のメーデーの催し
  05/05入獄中の幸徳秋水、西川光次郎あてに万国社会党幹事ユイスマンからの慰問状がブラッセルより発せられる
  05/07『直言』第2巻第14号が発行される
     6ページにメーデーの紹介記事が掲載される
     石川旭山(三四郎)の署名記事で「万国労働者記念日五月一日(メーデー)」
     山口孤剣の詩「労働の赤旗」、「日本政府、対、社会党」ほか
  05/07平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人20人、男子ほぼ同数
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第1回)」、第2席に白柳武司「婦人犯罪の二方面」
     堺がふたたび立ち「衆議院議員補充選挙に木下尚江を推薦する議」
     休憩ののち松岡ふみ子の「現今社会主義婦人の使命」
     主義の歌をうたい5時過ぎに閉会
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  05/07平民社婦人講演が開かれる
     席上で同志から東京市の衆議院議員補欠選挙の候補者をだすことに
     木下尚江を推す事に決定する。選挙委員長は堺利彦。日本社会主義同志の推薦を得る
     社会主義者による初の国会選挙運動となる
     候補者の主張は「普通選挙の実行」。社会主義者が議会に進出するには普通選挙が第1歩と考える
  05/07衆議院議員補欠選挙へむけて社会主義者木下尚江の選挙運動がはじまる
     以下、木下の政見発表演説会はことごとく中止、解散させられ、会場は断られることに
     同日夜ただちに神田区三崎町の吉田屋で木下尚江立候補推薦の選挙演説会が開かれる
     石川三四郎が開会を告げようとすると、直ちに解散を命じられる
     05/08芝兼房町の玉翁亭の演説会も解散
     05/11夜、神田区今金での演説会も解散させられる
     05/16選挙が施行される
     人口180万の東京市に16万の有権者のうち32票を獲得
  05/07吉崎吉子が本郷教会で洗礼を受ける
  05/13平民社同人の編集による『革命婦人』が平民文庫から刊行【05/14?】
     四六半截版105ページ、定価12銭
     著作兼発行人は志津野又郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     志津野は堺利彦の従弟で早稲田出身の同志。奈良の新聞社をやめて平民社にくる
     第壱章 プレシコウスキイ
     (一)活ける革命史 (二)革命運動の起因 (三)『人民の中に行け』 (四)良人を棄てて革命運動に加はる
     (五)一千余名の大捕縛 (六)西比利亜女囚の十余年 (七)『革命社会党』の創立 (八)『革命の祖母』万歳
     第弐章 ルイズミツシエル
     (一)小学教師より革命党員 (二)『我を死刑に処せよ』 (三)『善良なるルイズ』
     第参章
     (一)嬋娟花の如き少女(ウエラ、フイグネル) (二)西比利亜獄中の烈婦 (三)カラの女囚の飢餓同盟
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/13勅令第160号をもって下記の要塞地帯が「臨戦地境」と定められる。「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」される
     臨戦地境の区画は澎湖列島を除く台湾全島、戒厳司令官は台湾総督または台湾守備軍司令官
     バルチック艦隊来航にともなう戒厳宣告
     07/07勅令第193号により、戒厳が解止となる
  05/14『直言』第2巻第15号が発行される
     1ページに東京市の衆議院議員補欠選挙に立候補した木下尚江が「宣言書」を発表
     「吾党の候補者」、英文欄「社会党候補者」ほか
  05/14石川三四郎が本郷教会で「クリスチャン活動の新方面」の説教をする
  05/16社会主義者の木下尚江が東京市で衆議院議員補欠選挙に立候補
     人口180万の東京市に16万の有権者
     トップ当選者は5303票、次点者は3765票。対して木下は32票、得票率は0.2%に
  05/16平民社加納豊のスパイ嫌疑査問会が開かれる
  05/18大杉栄が仏語学校の安藤忠義あてに就職相談の手紙を送る
     安藤は陸軍大学校でフランス語を教え仏語学校の創設者
  05/21『直言』第2巻第16号が発行される
     2ページに「秘密探偵嫌疑者処分(加納豊氏、吾党の運動より退隠す)」が掲載される
     平民社内部で起きた加納豊によるスパイ事件の顛末記事
     木下尚江の「禁党の紀念」、「社会党の樹立 東京市補欠選挙の結果」、
     石川三四郎の「クリスチアン活動の新方面」
  05/22平民社主催の「社会主義学術演説会」が神田区の青年会館で開かれる
     純然たる学術演説として会場を獲得し解散のない演説会となる
  05/23伝道行商は困難と悟った原子基、深尾韶が自活のため北海道に平民農場を拓こうと出発
     北海道虻田郡真狩村に入植。同年越冬者は8人
  05/27日露戦争で日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊が日本海の対馬海峡で海戦を行なう
     東郷平八郎率いる日本海軍は戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、海防艦4、
     通報艦3、巡洋艦12、駆逐艦21、水雷艇42、砲艦5、付属特務艦24、計124隻からなる
     対してロジェンストゥエンスキー提督率いるロシア海軍は
     戦艦8、巡洋艦9、海防艦3、駆逐艦9、仮装巡洋艦1、特務艦6、病院船2、計38隻
     なかの4隻は世界の最新鋭を誇る強力戦艦を含む
     旗艦スウォーロフ、アレクサンドル3世、ボロジノ、アリヨール
     05/28日本連合艦隊の司令長官東郷平八郎の指揮下でロシア海軍両艦隊を撃滅、戦力の大半を失わせる
     日本連合艦隊の損失は軽微という一方的勝利に
     撃沈=19(戦艦6、巡洋艦4、海防艦1、駆逐艦4、仮装巡洋艦1、特務艦3)
     捕獲=5(戦艦2、海防艦2、駆逐艦1)
     逃亡中に沈没=2(巡洋艦1、駆逐艦1)
     中立国で武装解除=7(巡洋艦3、駆逐艦1、特務艦3)
     ウラジオストクへ入港=3(巡洋艦1、駆逐艦2)
     のち日本海での海戦で両国間のポーツマス講和会議への道を開くことに
  05/28『直言』第2巻第17号が発行される
     「探偵論」、白柳秀湖の「火鞭の記」ほか
  05/28社会主義研究会が開かれ60人が集まる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  05/下東京市街鉄道の雇人100人が上野公園でストライキを協議。電車の運転が一時中止され会社は180人を解雇。沈静化
  06/04『直言』第2巻第18号が発行される
     「大軍備の児戯」、堺利彦の「マルクスの学説」、石川三四郎の「天才主義」ほか
  06/04木下尚江が本郷教会での東京婦人会講演に登壇。弁士中止となる
  06/04吉野作造が『新人』7月号に「社会主義と警視庁」を発表する
  06/04平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人14、5人、男子20人ばかり。初めて警部巡査の臨監にあう
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第2回)」、第2席に菅谷いわ子が立つ
     のち、2、3の感話がありヴァイオリンの奏楽、5時頃散会
     【全講演の通しは1904(明治37)01/23に】
  06/10伊藤証信が『無我の愛』を創刊
  06/11『直言』第2巻第19号が発行される
     「不品行概論」ほか
  06/11社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  06/11石川三四郎が本郷教会で「人情の独立」を説教する
  06/14社会主義演説会が神田区の吉田屋で開かれる
  06/18『直言』第2巻第20号が発行される
     「『平和』に急げ」、英文欄「平和の曙光」ほか
  06/18荒畑寒村の紹介で竹久夢二(21)のコマ絵が平民社発行『直言』第20号に掲載される
     赤十字のマークのついた白衣の骸骨とならんで丸髷の若い女が泣いている挿絵
     最初に印刷に附された夢二の絵となる
     のち『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載。社会主義者らとの親交も深める
  06/25『直言』第2巻第21号が発行される
     「慈善主義の弾効」、石川三四郎の「人情の独立」ほか
  06/25京橋区の開花亭で社会主義茶話会が開かれる。70余人が集まる
     夏期休暇で帰省する学生の激励を兼ねる
     「社会主義の檄」、「社会主義とはドンなもの」「社会主義と女子」のチラシ1万枚を作る
  06/救世軍が名古屋に小規模の「臨時軍人ホーム」を設ける
     戦地から凱旋する軍人を慰問
     捕虜のロシア兵を慰めるため習志野、名古屋、金沢、仙台の捕虜収容所を近くの士官に訪問させる
     ロシア語の福音書500〜600冊を持参する
  07/01木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日
     正篇の連載は1904(明治37)8月15日〜11月10日
     続篇の連載は1905(明治38)4月1日〜6月3日
  07/01『毎日新聞』『東京毎日新聞』と改題、『大阪毎日新聞』の東京進出に先手を打つ
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     1909(明治42)経営が芳しくなく報知新聞社に身売り。報知の傍系紙として存続する
  07/02『直言』第2巻第22号が発行される
     「帰省学生に勧む」、幸徳秋水、西川光二郎の「巣鴨より」ほか
  07/02木下尚江の『良人の自白』中篇が平民社より刊行。2千部発行
     上篇は1904(明治37)12月20日に平民社より刊行
     11/12『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  07/02白柳武司が『荒村遺稿』を発行する。発行所は不明
     07/10発売頒布を禁止する処分を受ける【07/16?】
  07/02本郷教会での海老名弾正の説教「社会主義と基督教」が石川三四郎らと論争となる
  07/02活版工組合誠友会の創立5周年大会が開かれる
  07/07勅令第219号により、それぞれの軍事戒厳が解止となる
     澎湖島馬公要港境域内及びその沿海、澎湖列島を除く台湾全島
     澎湖島馬公要港境域内及びその沿海への戒厳の設置は、4月14日の勅令第133号による
     澎湖列島を除く台湾全島への戒厳の設置は、5月13日の勅令第160号による
  07/09『直言』第2巻第23号が発行される
     石川三四郎の「七月二日の本郷教会」ほか
  07/09『直言』第2巻第23号5ページの「平民社より」で堺利彦が「枯川」の雅号を廃すると宣言
  07/14荒畑寒村が東北伝道行商の途次、谷中村を訪ねて2泊。田中正造に近く接する
     07/19〜23足尾銅山に入り各坑や街頭で宣伝、行商
     07/28『直言』第26号6ページに荒畑寒村の「忘れられたる谷中村」が掲載される
     1906(明治39)04/28紀伊田辺から帰って早々に谷中村を再訪
     05/05『光』第12号2ページに「棄てられたる谷中村」が掲載される
     1907(明治40)03/26〜31『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」が連載される
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
     06/10『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23『社会新聞』第4号5ページに「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  07/15山口弧剣著の『社会主義と婦人』が平民文庫から刊行
     四六版140ページ、定価20銭。1500部発行
     著作権発行人は山口義三、印刷人は原真一郎、印刷所は日本印刷株式会社、発行所は平民社
     07/18安寧秩序を妨害するとの理由で発売禁止の処分を受ける
     平民社出版の平民文庫のなかで平民社時代に発禁になった唯一の著書
  07/16『直言』第2巻第24号が発行される
     「新神聖同盟」ほか
  07/19講和問題同志会が結成される
  07/23『直言』第2巻第25号が発行される
     4ページに堺利彦の「社会主義と海老名君」
     「来るべき専制力」、平民社同人の「幸徳君の出獄歓迎」ほか
  07/27堺利彦と石川三四郎が幸徳秋水をで迎えるため、前の晩から巣鴨監獄前の茶店に泊まり込む
     07/28午前4時頃には70人余の同志が集まる
  07/28午前5時30分、幸徳秋水が満5か月の刑期を終え、およそ70人の同志に迎えられ巣鴨監獄を出獄
     幸徳はイガグリ頭で羽織袴姿。体重は10貫300目に
     迎えた妻千代子と人力車に乗り柏木の居へ、20余人の同志が車の前後につき添う
     家では幸徳の周囲から茶の間、縁側までならび赤飯の接待を受け、記念撮影をし散会
     『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍を受ける。入獄は同年2月28日、体重12貫
     「新旧約全書」のほかにレインの『The Level of Social Motion』、ドレイパアの『宗教学術の衝突』
     ヘッケルの『宇宙の謎』(英訳)、ルナンの『耶蘇伝』、ラッドの『猶太人及基督教徒の神話』
     クロポトキンの『田園工場及製造所』、エンゲレスの『フォイエルバッハ論』などを持ち込む
     読み解き無政府主義に関心をいだく
     しばらく加藤時次郎の小田原の別荘で療養することに
  07/287月30日発行の『直言』第2巻第26号を2日繰り上げて「幸徳君出獄歓迎号」として発行
     堺利彦は「幾ら痩せて居ても善い、病うて居ても善い、君が出て着て呉れさへすれば、それで僕は千人力だ」
     堺利彦の「僕の表情」、木下尚江の「幸徳君を迎へて我希望を語る」、
     石川三四郎「秋水兄を迎ふ」、山田金市郎「迎秋水君」、英文欄「幸徳同志、出獄し家に帰る」
     荒畑寒村「忘れられたる谷中村」ほか
  幸徳出獄(07/28)後堺利彦が幸徳秋水、西川光次郎の入獄の責任者として責任の地位をおりると提案
     08/29石川三四郎、木下尚江、堺利彦、幸徳秋水が平民社で相談会を開く【09/03?】
     4人の合議制と連帯責任制で平民社を経営することに、具体的には西川光次郎出獄後に
  07/30埼玉県の本庄町で社会主義演説会が開かれる
     幸徳秋水、木下尚江、石川三四郎らが講演する
  07/外大杉栄が東京外国語学校の仏語科を卒業する。入学は1903(明治36)9月
  夏/幸徳秋水、堺利彦ら平民社の後援で、北海道の真狩八ノ原に平民社農場が開場する
     明治40(1907)年末/開場3年たらずで廃止に
  08/01木下尚江と山田滴海が東北遊説を行なう
     郡山、山形、楯岡、鶴岡、福島、宇都宮などを遊説
     官憲の弾圧は苛烈をきわめ、なかなか会場を借りることもできず。キリスト教会の牧師の協力を得て借りる
     社会主義演説会の名をさけ、宗教演説、文学演説、婦人演説など苦肉の策で遊説を続けることに
     08/14この日まで
  08/06幸徳秋水が保養のため小田原にある医師加藤時次郎の別荘におもむく
  08/06『直言』第2巻第27号が発行される
     1ページに堺利彦の「難者に答ふ」、木下尚江・山田滴海「東北遊説日記」29号まで連載
  08/10幸徳秋水が出獄後、アルバート・ジョンソン宛に書簡を送る
     マルクス派の社会主義者として入獄し、無政府主義者となって出獄したとの趣旨を記す
  08/13『直言』第2巻第28号が発行される
     「日本人排斥と社会主義」、海老名弾正「『社会主義と基督教』に就いて」ほか
  08/14桂首相と内相原敬が会談。政友会の講和条約賛成と西園寺を後継首相に推薦することをそれぞれ確約
     1906(明治39)01/07第1次西園寺公望内閣が成立する
  08/15山路愛山、斯波貞吉、中村太八郎、山口弾正、山根吾一らが「国家社会党」を設立【08/18?08/25?】
     国家社会党は、終局の目標を資本主義の変革としておらず、社会主義の政党でない
     国家の力により社会政策の徹底化を期した社会改良主義の政党
     綱領は「吾人は富豪の専制を抑圧せんとする目的をもって国家社会党を組織す」というもの
     「大日本の国家は家人父子の情を以て君臣団結し国家の権力に依りて共同生活の大義を遂行するに在り」と主張
     のち板垣退助、松平正直、桑田熊蔵らが入党を申し込む
     山路は「君らのような微温的改良主義者はまっぴらお断りだ」と断乎として拒絶
  08/18堺美知子1周忌の志としてチラシ「社会主義の大意」1万枚を作成
     『直言』第2巻第29号の付録として全国に配布
  08/18「故堺みち子氏追悼会」が芝浦の大光館で開かれる
     発起人は女性ばかり逸見菊枝、福田英、延岡ため、幸徳千代、熊谷かつ、木下操ら。のち堺の妻となる延岡為子も名を連ねる
     加藤時次郎、安部磯雄、木下尚江、久津見蕨村が演説。加藤は公席を賑わそうと義太夫を披露する
  08/20堺利彦が妻美知子の一周忌を追悼して平民書房から『半生の墓』を刊行する。定価35銭【08/18?】
     堺は巻頭に記す
     「亡妻美知子一週忌の紀念として此の書を發行す。
     此の書は予の反省の幕にして又美知子の墓なり。
     予は石の墓を作らずして、茲に此の紙の墓を作る。
  08/20『直言』第2巻第29号が発行される
     堺利彦の「平民社の改革に就て」、「平民社財政の現状」ほか
     チラシ「『直言』の広告・社会主義とはドンナもの」を作成し配布する
  08/20外国語学校を卒業した20才の大杉栄が『直言』に欧州社会党指導者の反戦論稿を翻訳、連載
     「社会主義と愛国心」。9月10日まで
  08/20孫文らが東京で中国革命同盟会を結成する
  08/27『直言』第2巻第30号が発行される
     幸徳秋水の「同志諸君に諮る 平民社の改革に就て」、「国家社会党創立」
     英文欄「トルストイ翁の返書」。印刷人が斎藤兼次郎となる
  08/27神田区の吉田屋にて「社会主義学術演説会」が開かれる
     中止ののち解散となる
  08/29石川三四郎、木下尚江、堺利彦、幸徳秋水が平民社で相談会を開く【09/03?】
     4人の合議制と連帯責任制で平民社を経営することに、具体的には西川光次郎出獄後に
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     経済的行き詰まりと人間関係の不調和は平民社の継続を不可能にしていると判断
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
     10/09夜、政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  08/木下尚江、山田滴海が福島、山形、栃木に遊説する
  09/01吉野作造が『新人』に「社会主義と基督教」を発表する
  09/01『国民新聞』を除く有力各紙がごぞって条約反対の論説を展開する
  09/03『直言』第2巻31号が発行される
     6ページに石川三四郎、幸徳秋水、木下尚江、堺利彦が連名で「今後の平民社」について報告
     6ページに堺利彦と延岡為子の結婚の報告記事が掲載される
     友人として幸徳伝次郎、幸徳千代子、山路彌吉、山路多年子、永島今四郎、永島千代子、木下尚江、木下操子の名が連なる
  09/03大阪市公会堂で「平民大会」が開かれる。戦争継続、講和条約破棄を決議する
  09/05日露戦争講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     宣戦布告は1904(明治37)2月10日
     北緯50度以南の樺太(サハリン)が日本領となるが、第九条によって樺太や宗谷海峡に要塞を築いてはならないことに
     そのため、宗谷海峡は軍事上重要な海峡にもかかわらず、太平洋戦争直前まで要塞建設がためらわれる
     11/25批准書が交換され終戦を迎える
     日本側損害は戦没8万8429人うち戦死戦傷死5万5655人、病死2万7192人、負傷者15万3584人、捕虜1800人
     ロシア側損害は戦死2万5331人、戦傷死6127人、病死1万1170人、負傷14万6032人、捕虜7万9千人
  09/05講和の内容に憤慨した国民は、全国で反対ののろしをあげる
     各地で講和反対の市民大会が開かれる
     東京の日比谷公園で予定していた、講和問題同志連合会主催の講和条約反対国民大会は、治安警察法により禁止
     怒った群衆は、会場となった公園になだれ込み、大会を強行
     午後1時35分、閉会ののち、群衆は演説会場となる八丁堀の新富座へむかう
     その途中、ついに暴徒化
     政府の御用新聞といわれた徳富蘇峰の『国民新聞』をや警察署、交番、電車などを襲撃する。日比谷焼き打ち事件
  09/05堺利彦(36)と延岡為子(34)の結婚の宴が催される
     媒酌人は前婚と同じ水島今四郎夫妻。列席者は木下尚江、同操子、山路彌吉、福田英子、幸徳伝次郎、
     加藤時次郎、同さき子、堀成之(前妻の兄)、志津野又郎(堺の従弟)ら10数人の親戚友人を得る
     09/10『直言』第2巻第32号3ページで堺利彦は「破鍋綴蓋(われなべとじぶた)の記」を記す
     延岡為子と結婚したことを報告
  09/06夜11時、事態は収まらず政府は官報号外をもって2つの緊急勅令を発する
     ひとつは戒厳令
     勅令205号「東京府内一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」と、
     207号「勅令第二百五号ノ施行ニ関スル件」を同日に公布、即日施行
     東京市と府下の荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡に戒厳令を施行
     行政戒厳は明治政府初の試みとなる
     09/07東京は近衛、第1師団の軍事支配となり、検問体制が実施される
     夕方、事態は沈静化に向かう
     11/29戒厳令が解除される
     近代日本史上、行政戒厳が発動されたのは3回
     2回目は、1923(大正12)年の関東大震災のときで、地震翌日の9月2日〜11月15日
     3回目は、1936(昭和11)年の二・二六事件のときで、事件翌日の2月27日〜7月16日
  09/06夜11時、事態は収まらず政府は官報号外をもって2つの緊急勅令を発する
     もうひとつは新聞雑誌取締令
     勅令206号「新聞紙雑誌ノ取締ニ関スル件」は、戒厳令と同じ9月6日に公布、即日施行
     講和に反対し政府を非難し、さらに「暴動ヲ教唆シ犯罪ヲ煽動スルノ虞(おそれ)アル」
     記事を掲載した新聞や雑誌は、相次いで発行停止の処分を受けることに
     内務大臣と警視総監による新聞雑誌の規制で、発行停止の行政処分は、2人の名のもとに下される
     11/29新聞雑誌取締令が解除される
  09/07講和に反対し政府を非難した新聞『萬朝報』『都新聞』『二六新報』がそれぞれ処分を受ける
     警視総監の行政処分として2日間の発行停止
     以降、11月20日まで延べ39の新聞雑誌が相次いで発行停止の処分を受けることに
     萬朝報、都新聞(1)、東京二六新聞(1)、日本、人民(1)、東京朝日新聞、京都朝報(1)、大阪日報(1)、
     関門毎日新聞、大阪朝日新聞(1)、直言、対馬時報、東京二六新聞(2)、小樽朝報、東京新聞、東北評論、山梨民報、
     滑稽新聞(1)、丹州時報(1)、京都朝報(2)、大阪日報(2)、実業法律新聞、大阪朝日新聞(2)、丹州時報(2)、
     伊勢朝報、北辰日報、東京電報新聞、下野新聞、誠友、大阪日報(3)、新総房、都新聞(2)、丹州時報(3)、芝公報、
     大阪朝日新聞(3)、滑稽新聞(2)、読売新聞、帝国文学、人民新聞(2)
     【発行停止をうけた新聞・雑誌】(別ページリンク)
     (注)12月1日付け「東京朝日新聞」3ページ一覧ママ
  09/10『直言』第2巻32号が発行される
     2ページに幸徳秋水が「書空語」を発表する
     政府が官報の号外で緊急勅令を発し東京に戒厳令を施行した事態に対し鋭くつく。一部には伏せ字もあり
     木下尚江の社説「政府の猛省を促す」、堺利彦の「破鍋綴蓋の記」、「人民の大示威運動」ほか
  09/10社会主義研究会が開かれる
     【全研究会の通しは1904(明治37)03/06に】
  09/10『直言』第2巻第32号1ページの社説「政府の猛省を促す」が新聞紙発行停止条項にふれ発行停止に
     のち発行停止命令が解除されないまま廃刊となる
     『直言』は消費組合運動の啓蒙推進のために組織した直行団の機関紙として1904(明治37)1月5日に創刊
     1905(明治38)2月5日に平民社の機関紙として『平民新聞』の後継紙となる
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
  09/10平民社を中心に集まる社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌『火鞭』が創刊される
     主宰は白柳秀湖。安成貞雄、山口孤剣、宮田暢、中里介山らが同人。小川芋銭画
     1906(明治39)05/第9号で廃刊に
     1906(明治39)07/01継続誌として『ヒラメキ』が創刊。編集兼発行人は島中雄三(翠湖)
  09/12九州長崎で日露講和条約反対市民大会が開かれ、約5千人が参集する
  09/23、24木下尚江と安部磯雄が本郷教会で行なわれた明道会講演で演説する
  09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄。午後、歓迎会が開かれる
     歓迎会ののち、麹町区元園町の堺利彦宅で相談会が開かれる
     堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     経済的行き詰まりと人間関係の不調和は平民社の継続を不可能にしていると判断
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
     席上、石川三四郎は木下尚江に勧められキリスト教社会主義の雑誌刊行を決意する
     10/09夜、政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  09/26堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の会合は新しい運動の発展となる
     幸徳は獄中で損なった体を癒すため渡米を計画。堺は由分社の事業に復帰
     木下の思いつきから石川とともに、キリスト教社会主義の雑誌の発行を計画
     西川は木下らの新雑誌創刊に刺激を受ける。のちに山口孤剣と『直言』の後継紙を発行することになる
  09/26西川光次郎は出獄すると松岡文子と結婚
     松岡文子は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     松岡文子は岐阜県安八郡南杭瀬村外野の旧姓志知文子
     本郷は駒込動坂の新居で新生活がはじまる
     09/28木下尚江や斎藤兼次郎夫妻の世話で堺利彦夫妻や加藤時次郎をまねき正式の披露をすませる
  09/9月3日の堺利彦と延岡為子の結婚、9月26日の西川光次郎と松岡文子の結婚と続く
     キリスト教的教養をもつ木下尚江や石川三四郎は不快に感じ非難を加える
     マルクス主義を信奉する堺は幸徳秋水と同じ唯物論者で自由恋愛論者
     それまで社会主義の旗のもと一致協力陣営にキリスト教派と唯物論者との対立を生むことに
  秋/牟婁新報社の毛利柴庵が堺利彦に婦人記者の紹介を相談する
     退社した者の後任を迎えたく、また新しく家庭欄を設けるため
     さらに毛利が筆禍事件にかかり入獄が予想されたため
     のち堺は働き場所のなかった荒畑寒村と、働き場所を探していた管野すがを紹介する
     のち管野の入社が次年の2月となる【妹の病気の都合?】
  10/01吉野作造が『新人』に「再び社会主義と基督教に就きて」を発表する
  10/07・08山口義三と西川光二郎が北総平民倶楽部の招きで北総遊説を行なう
  10/09政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     夜、平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  10/09荒畑寒村が堺利彦の紹介で和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』に入社
     『牟婁新報』社長の毛利柴庵が官吏侮辱事件で入獄するため
     1906(明治39)04/上『牟婁新報』を退社して上京
     兇徒聚衆の突発で結成後まもない社会党の同志が多数検挙されたため堺に呼び戻される
     堺家に寄宿、党の機関紙『光』の編集を手伝い『家庭雑誌』『社会主義研究』の事務に従う
  10/11東京電気鉄道会社(外濠線)の循環線が開通、いわゆる外濠線の運転がはじまる
     土橋〜呉服橋〜駿河台下〜お茶の水〜飯田橋〜四谷見付〜赤坂見付〜虎ノ門〜土橋
     のち3社合併までの間に総延長16.8キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京市街鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  10/129月5日の暴動を煽動した疑いで平民社をはじめ東京市内の社会主義者宅をいっせいに家宅捜査
     早朝に幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、西川光二郎、石川三四郎ら10数人の家が踏みこまれる
     しかし証拠はあがらず、まったくの言いがかり
  10/15吉川守邦が本郷教会で洗礼を受ける
  10/16勅令第219号により、それぞれの軍事戒厳が解止となる
     戒厳の設置は1904(明治37)2月14日の勅令
     第36号による長崎要塞地帯、第37号による佐世保要塞地帯、
     第38号による対馬及びその沿海、第39号による函館要塞地帯
  10/17日本キリスト教女子青年会(日本YWCA)が結成される
     YWCA=The Young Women's Christian Association of Japan
  10/山口義三、西川光次郎が千葉に遊説する
  10/藤岡勝二、前島密、田丸卓郎、田中館愛橘らが「ローマ字ひろめ会」(RHK)をつくる
  10/10月9日の東京平民社解散を受け森近運平が設けた大阪平民社も崩壊
     大阪平民社では東京平民社発行の新聞書籍の販売社会主義研究会の開催など運動に専念
     森近は一家をあげて上京。原霞外、山口孤剣が経営する神田区三崎町の平民舎ミルクホールを譲り受け、生活の根城に
     1906(明治39)02/24「日本社会党」が結成される。森近が幹事になり、社会党本部が置かれる
  11/05幸徳秋水が自身に宛てられたら斉藤緑雨の書簡を『読売新聞』に連載する。以降11月12日、12月3日、4日の計4回
  11/06管野すがが『牟婁新報』第529号から半自伝小説「露子」の連載をはじめる
     のち連載は24回にわたる
  11/10安部磯雄、石川三四郎、木下尚江らが新紀元社よりキリスト教社会主義の機関誌として『新紀元』を創刊
     『新紀元(ニュー・エラ)』の名付け親は安部磯雄
     11月20日創刊の『光』とは異なる精神主義的色彩が濃厚な機関紙
     発行所/淀橋町角筈762番地(石川三四郎自宅)の新紀元社、印刷所/国光社
     発行/月刊、発行兼編集人/石川三四郎、印刷人/神崎順一
     定価/1部12銭、6部前金70銭、12部前金1円35銭
     紙幅/縦=27糎強、横=19糎弱、頁建/48頁
     徳富蘆花、田添鉄二が計画に賛同し執筆にも携わる、内村鑑三は創刊号に祝辞を送る
     1906(明治39)11/10第13号を最後に廃刊
  11/12木下尚江の『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     上篇は1904(明治37)12月20日に平民社より刊行
     中篇は1905(明治38)7月2日に平民社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  11/14午後2時、幸徳秋水が戒厳令下の東京を離れ横浜から伊予丸で渡米【10/28?、11/04?】
     赤旗を押し立てた一団の「幸徳君万歳」「社会党万歳」の声に送られる
     2人の少年、アメリカへ留学する加藤時次郎の長男時也、画家を志望する幸徳の実兄亀治の長男幸衛が同行
     渡米費として加藤時次郎が船賃170円と渡米中毎月50円を送ることを約束
     幸徳駒太郎が260円、細野次郎200円、竹内虎治200円、福田和五郎100円、小島竜太郎50円、大石誠之助30円が餞別に拠出
     病気治癒のため、アメリカにいる日本人社会主義者を組織するため
     11/29シアトル着
     12/01シアトル市の日本人会堂で「戦後の日本」と題して第一声をあげる
     12/05サンフランシスコに着き桑港平民社支部の岡繁樹と妻敏子、岩佐作太郎、市川、中村、倉持らに迎えられる
     アナーキストのアルバート・ジョンソン翁や露国社会革命党のフリッチ夫人らを紹介される
     幸徳は活動の拠点にフリッチ夫人の寓居の一室を借り受ける
     12/06夜、サター街のゴールデンゲートホールで演説をする
     「戦後に於ける日本国民について」
     12/10幸徳秋水が社会党員のジョージ・ウィリアムスに会う
     12/14幸徳秋水がアメリカ社会党に入党する
     12/16幸徳秋水がサター街のゴールデンゲート・ホールで「戦後における日本国民について」演説
     12/26在米中の片山潜が幸徳秋水を訪ねる
     (年内印の事象は以降の記述なし)
     1906(明治39)01/06オークランドの白人社会党本部で幸徳秋水歓迎の演説会が開かれる
     幸徳は「社会主義の要領について」演説
     01/19福音会で第1回日本人社会主義研究会が開かれる
     01/21夜、オークランドのメールホールでロシア革命の同情集会が開かれる
     幸徳秋水が日本人同志代表として演説する
     I・W・W(世界産業労働組合)代表アンソニー・オリーブ・ジョンソン夫人、アメリカ社会党のアウスチン・ルイスに交じり
     01/22サンフランシスコでもロシアの「血の日曜日」記念集会が開かれる
     04/18サンフランシスコ大地震で下町の数か所に火災が発生。桑港平民社付近にまでおよぶ
     幸徳は見聞を「無政府共産制の実現」と題し『光』に寄稿する
     05/02サンフランシスコからオークランドに移る
     (印の事象は以降の記述なし)
     06/01夜、テレグラフ街の白人社会党本部で在米日本人同志50余人が集まり「社会革命党」の結党式が行なわれる
     幸徳も参加。重要メンバーは倉持善三郎、岩佐作太郎、竹内鉄太郎、岡繁樹ら
     06/05幸徳が香港丸に乗船。サンフランシスコを出港
     印刷機を仕入れに日本に帰る桑港平民社の岡繁樹も同船
     06/23午前8時頃、横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
  11/14幸徳秋水の実兄亀治の長男幸衛が秋水に伴われ渡米。絵画を学ぶ
     のちイタリア、フランスに留学
     1928(昭和03)帰国するも病魔に侵される
     1933(昭和08)02/18大阪の西成区で没
  11/17朝報社から続く幸徳伝次郎の『社会主義神髄』第7版が由分社からの発行となる
     もとは1903(明治36)7月5日に朝報社が発行、11月15日に博文館、東京堂が発行する
     1910(明治43)09/03朝報社版と博文館、東京堂版の『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/20西川光次郎、山口義三、森近運平らが凡人社より『直言』の後継紙として『光』を創刊
     旧平民社同人のうち科学的社会主義を奉ずる者たちで発行
     アメリカへ渡った幸徳秋水や由分社をおこした堺利彦は外部から応援する
     発行所/荏原郡品川町南品川5の171の光雑誌社、申込所/本郷区駒込動坂町544西川方の凡人社、
     印刷所/国光社、発行/月2回(30号〜月3回)、発行兼編集人/荒木脩精、3号〜山口義三
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭
     体裁/タブロイド版(四六倍判)、頁建/8頁
     1906(明治39)02/24日本社会党の結成後は、その機関紙に
     12/25日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
  11/20幸徳秋水が『光』第1号5ページに「予の感懐―平民社解散に就いて」を発表する
  11/25日本とロシアの間に批准書が交換され終戦を迎える
  11/299月6日に発せられた、戒厳令新聞雑誌取締令の2つの緊急勅令が解除される
  11/30『牟婁新報』に「家庭欄」が新設される
     管野すがが主任記者として京都から寄稿する
  12/03石川三四郎が神田区美土代町の日本基督教会会堂を借りて新紀元説教をはじめる
     毎日曜日に催す
  12/05山口孤剣が『光』第2号1ページに論説「凡人主義とは何ぞや」を発表する
  12/06社会党主催の「普通選挙連合会」が8団体の代表により創立する【12/16?普選同盟会が開催?】
     社会主義運動の当面の目標、普通選挙の獲得を有効に展開するため各派の団体が共同戦線をはる
     再び社会主義者と自由主義者が連携をはじめることに
     代表メンバーは斯波貞吉(理想団)、加藤時次郎(直行団)、木下尚江(新紀元社)、
     中村大八郎、青地晁太郎(普通選挙同盟会)、馬場力、山根吾一(国家社会党)、
     岡千代彦(印刷工組合誠友会)、藤原謙兄、服部豊吉(青年同志会)、西川光次郎、森近運平(光社)
     1906(明治39)初/各所で宣伝演説会を開く
     02/11東京両国の伊勢平楼で普通選挙全国同志大会を開催
     加藤時次郎が座長をつとめる。決議を可決
     「吾人は日本人民にして成年に達したるものは、すべて衆議院議員の
     選挙権を有するを以て、合理的にして且つ急務なりと信ず、仍てこれを決議す」
     決議文を首相と各政党の首領に手交することに
     ▽山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、
     松田源治、堺利彦、馬場力、加藤時次郎の9人が代表委員に
     ▽委員は加藤のほか、山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、
     松田源治、堺利彦、馬場力青池晁太郎、田中弘之、高橋秀臣が決議朗読、動議提出
     ▽西川光二郎、楠目玄、田川大吉郎、山路愛山、松田源治、小手川豊次郎、
     江良直三郎、牧内元太郎、高橋秀臣、木下尚江、山口弾正が演説をする
     折からの降雪にもかかわらず300余人が集まり盛会裡に閉会する
     02/152月11日の継続大会が松本楼で開かれる
     02/20午後1時、中村太八郎、西川光二郎、堺利彦ら同志60余人が日比谷公園音楽堂付近に集合
     衆議院議会へ押しかける。初の普選デモ
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士に面会、紹介者になってもらい2400余人分の請願書を提出
  12/10木下尚江が『新紀元』第2号8ページに社説「新国民の熱望の声を聴け」を発表する
  12/10加藤一骨が『新紀元』第2号21ページに「鉱毒問題の悲劇」を発表。田中正造の鉱毒反対に全力を挙げて支援
     1906(明治39)02/10第4号12ページの時事評論欄に「ああ、義人の声」が掲載
     03/10第5号29ページに加藤一骨が戦争文学「革命の洗礼」を発表
     05/10第7号10ページには田中正造の新紀元説教会での演説が「土地兼併の罪悪」と題し全19ページにわたり掲載
     田中の演説の姿が絵入りで載る
  12/1512月17日に由分社が発行する深尾韶の『社会主義の話』が発売頒布禁止の処分を受ける
  12/15由分社が堺利彦の『通俗社会主義』を発行する【12/17?】
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/20日露戦争大本営が解散
     設置は1904(明治37)2月11日の宣戦布告の翌日
  12/20西川生が『光』第3号1ページに「失業者問題」を発表する
  12/20堺利彦が『光』第1巻第3号2ページに「『国家社会主義梗概』を読む」を発表する
     山路愛山の国家社会主義に対する批判を記す
  12/24〜26サンフランシスコで片山潜と幸徳秋水が会談する
  12/25福田英が小説『わらはの思出』を定価40銭、郵税4銭で刊行
     発行は福田英子。発売は平民書房、上田屋書店、中庸堂書店
  足尾銅山にて日露戦争後のインフレが坑夫らの生活を直撃
     前年に、たとえば1俵4円36銭で買えた白米が5円28銭へ急激に値上げ
     労働者の賃金は日給50銭は据え置かれたまま
  ロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』が廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から
  「愛国婦人会」の会員数が一般婦人にも拡張、46万人に達する。日本最大規模の婦人団体に成長する
     1917(大正06)欽定を改正。他の救護事業にもあたるようになる
     婦人職業紹介、花嫁紹介や農村託児所の社会事業など幅広い活動を行なう

明治39
1906(明治39)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎(→01/07)、[第12代]西園寺公望(01/07→)
  《内務大臣》[第24代]清浦奎吾農商務大臣が兼任、[第25代]原敬逓信大臣が兼任(01/07→)
  《警視総監》[第16代]関清英、[第17代]安楽兼道/再任(01/17→)
  《内務省警保局局長》仲小路廉(→01/08)、久保田政周(心得)(01/09→01/17)、古賀廉造(01/17→)


  初/「普通選挙連合会」が各所で宣伝演説会を開く
     02/11東京両国の伊勢平楼で普通選挙全国同志大会を開催
     02/152月11日の継続大会が松本楼で開かれる
     02/20代表委員ら60余人が日比谷公園に集合。衆議院に向かう
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士を通じて2400余人が署名した普通選挙請願書を提出する
  01/01木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」の続篇「新曙光」の連載を開始。〜6月9日
     正篇の連載は1904(明治37)8月15日〜11月10日
     続篇の連載は1905(明治38)4月1日〜6月3日
     後篇の連載は1905(明治38)7月1日〜10月16日
  01/01足尾銅山の日本労働同志会が飯場頭主導の共和会【協和会?】と合同して日本鉱山労働会を結成
     共闘方針を打ち出す
     日本労働同志会は会社や警察、頭役らの圧力により会員が減少していた
     日本労働同志会は1904(明治37)4月1日に設立
  01/01児玉花外が隆文館から『ゆく雲』を刊行。定価45銭
  01/01堺利彦が『家庭雑誌』第4巻第1号から「ローマ字欄」を設ける
  01/01堺利彦が『光』第4号6ページに「平民社解散の原因」を発表する
  01/04秋田県の院内銀山で坑内火災が発生。死者103人に
  01/06アメリカオークランドの白人社会党本部で幸徳秋水歓迎の演説会が開かれる
     幸徳は「社会主義の要領について」演説
     01/19福音会で第1回日本人社会主義研究会が開かれる
     01/21夜、オークランドのメールホールでロシア革命の同情集会が開かれる
     幸徳秋水が日本人同志代表として演説する
     I・W・W(世界産業労働組合)代表アンソニー・オリーブ・ジョンソン夫人、アメリカ社会党のアウスチン・ルイスに交じり
     01/22サンフランシスコでもロシアの「血の日曜日」記念集会が開かれる
     04/18サンフランシスコ大地震で下町の数か所に火災が発生。桑港平民社付近にまでおよぶ
     幸徳は見聞を「無政府共産制の実現」と題し『光』に寄稿する
     05/02サンフランシスコからオークランドに移る
     (印の事象は以降の記述なし)
     06/01夜、テレグラフ街の白人社会党本部で在米日本人同志50余人が集まり「社会革命党」の結党式が行なわれる
     幸徳も参加。重要メンバーは倉持善三郎、岩佐作太郎、竹内鉄太郎、岡繁樹ら
     06/05幸徳が香港丸に乗船。サンフランシスコを出港
     印刷機を仕入れに日本に帰る桑港平民社の岡繁樹も同船
     06/23午前8時頃、横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
  01/07第1次西園寺公望内閣が成立する
     発足当時の第1次西園寺内閣の顔ぶれは内閣総理大臣の西園寺公望のほか
     外務大臣に加藤高明、内務大臣に原敬、大蔵大臣に阪谷芳郎、陸軍大臣に寺内正毅、
     海軍大臣に齋藤實、司法大臣に松田正久、文部大臣に西園寺公望 (臨時兼務)、
     農商務大臣に松岡康毅、逓信大臣に山縣伊三郎、内閣書記官長に石渡敏一、法制局長官に一木喜_郎
     それまでの官僚桂内閣にかわる政友会内閣の政策として穏健進歩的な社会主義政党が公認される
     社会主義の取締りに関して、みだりに警察力で弾圧すべきでなく穏健なものは善導するとの新方針を発表
     1908(明治41)07/14第1次西園寺公望内閣が赤旗事件をきっかけに総辞職する
     07/14第2次桂太郎内閣が成立する
     社会主義に対する弾圧が極めて厳しくなる
     演説に対しては中止、解散、会場謝絶を強化。出版物は発売禁止にするなど裁判、罰金責めに
     のち社会主義運動は非合法活動になる
  01/14西川光次郎、堺利彦が「日本平民党」の結社届を本郷署に提出。受理される
     綱領は「普通選挙の期成を図るを以て目的」とする。党の責任者は樋口伝と西川
  01/17西川光次郎、山口義三らが普通選挙演説会を開催する19日、27日にも開かれる
  01/18野声社の吉田敬次が『野乃声 第1巻第1号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/181903(明治36)12月29日にアメリカに旅立った片山潜が横浜に帰着。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
  01/23凡人社が西川光次郎の『普通撰挙の話』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/28「日本平民党」の受理をうけて堺利彦、深尾韶が「日本社会党」の結社届を麹町署に提出。受理される
     綱領は「吾人は国法の範囲内において社会主義を主張す」とするもの
  01/30河上肇が読売新聞社から『社会主義評論』を刊行。定価25銭
  01/救世軍が芝口2丁目の本営内に「労働紹介所」を開設する
     日露戦争の100万の兵士が帰国後、就職に当惑しないようにするため
     あわせて子女救護運動の職業紹介の斡旋を、いずれも無料で取り扱う
     日本の職業紹介事業の嚆矢となる
  01/救世軍が神田区一ツ橋通町に「学生寄宿舎」を開設する
     1907(明治40)11/神田区三崎町2丁目11に移り「大学植民館」に改造される
  02/05管野すがが京都から妹ひでを連れて和歌山県田辺町に移る
     【妹ひでを呼び寄せるのは3月初旬?】
     堺利彦の紹介で地方新聞『牟婁新報』に入社し留守編集主任に
     堺と管野は2回会ったきり、堺と『牟婁新報』の社長毛利柴庵は一度も会ったことない間柄
     毛利が官吏侮辱事件で入獄するため
     05/29退社し京都に戻る
  02/07・08山口義三と西川光二郎が足尾遊説を行なう
     日本鉱山労働会の支援をかねて
  02/10『新紀元』第4号12ページの時事評論欄に「ああ、義人の声」が掲載
     田中正造の鉱毒反対に全力を挙げて支援
     前年の12月10日発行『新紀元』第2号21ページの加藤一骨の「鉱毒問題の悲劇」に引き続き
     03/10第5号29ページに加藤一骨が戦争文学「革命の洗礼」を発表
     05/10第7号10ページには田中正造の新紀元説教会での演説が「土地兼併の罪悪」と題し全19ページにわたり掲載
     田中の演説の姿が絵入りで載る
  02/11社会党主催の「普通選挙連合会」が8団体の代表により創立する【12/16?普選同盟会が開催?】
     社会主義運動の当面の目標、普通選挙の獲得を有効に展開するため各派の団体が共同戦線をはる
     代表メンバーは斯波貞吉(理想団)、加藤時次郎(直行団)、木下尚江(新紀元社)、
     中村大八郎、青地晁太郎(普通選挙同盟会)、馬場力、山根吾一(国家社会党)、
     岡千代彦(印刷工組合誠友会)、藤原謙兄、服部豊吉(青年同志会)、西川光次郎、森近運平(光社)など
     1906(明治39)初/各所で宣伝演説会を開く
     02/11東京両国の伊勢平楼で普通選挙全国同志大会を開催
     加藤時次郎が座長をつとめる。決議を可決
     「吾人は日本人民にして成年に達したるものは、すべて衆議院議員の
     選挙権を有するを以て、合理的にして且つ急務なりと信ず、仍てこれを決議す」
     決議文を首相と各政党の首領に手交することに
     ▽山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、
     松田源治、堺利彦、馬場力、加藤時次郎の9人が代表委員に
     ▽委員は加藤のほか、山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、
     松田源治、堺利彦、馬場力青池晁太郎、田中弘之、高橋秀臣が決議朗読、動議提出
     ▽西川光二郎、楠目玄、田川大吉郎、山路愛山、松田源治、小手川豊次郎、
     江良直三郎、牧内元太郎、高橋秀臣、木下尚江、山口弾正が演説をする
     折からの降雪にもかかわらず300余人が集まり盛会裡に閉会する
     02/152月11日の継続大会が松本楼で開かれる
     02/20午後1時、中村太八郎、西川光二郎、堺利彦ら同志60余人が日比谷公園音楽堂付近に集合
     衆議院議会へ押しかける。初の普選デモ
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士に面会、紹介者になってもらい2400余人分の請願書を提出
  02/21森近運平と山口義三が北総遊説を行なう。日本社会党として遊説
  02/24「日本平民党」「日本社会党」が35人の社会主義者を集めて京橋区木挽町の加藤病院で合同大会を開催
     合法政党の「日本社会党」が結成。結党式と第1回大会をが開かれる
     竹内余所次郎が議長席につき綱領政策運動方法を討議、党則の起草は評議員の一任に
     【加藤病院で日本平民党と日本社会党の合同大会をが開かれる。代表35人が集い13人の評議員を選ぶ?】
     02/27森近運平が経営する神田区三崎町の平民社ミルク・ホールで日本社会党評議員会が開かれ党則と幹事を決める
     片山潜、堺利彦、西川光次郎、加藤時次郎、竹内余所次郎、斎藤兼次郎、樋口伝、岡千代彦、
     森近運平、深尾韶、山口義三、田添鉄二、幸内久太郎の13人を評議員(中執委)に選出
     堺、西川、森近が常任幹事に互選される
     1907(明治40)02/17日本社会党第2回大会(分派論争)をが神田区錦町の錦輝館で開かれる
     02/22西園寺内閣による「安寧秩序妨害」を理由とした結社禁止命令に伴い解散となる
  02/24光雑誌社発行の『光』が日本社会党の機関紙となる
     11/29日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
  02/27加藤時次郎が普通選挙運動の院内協力者への感謝祭に参加
     出席代議士は奥野市次郎、上埜安太郎、板倉中。ほかに片山潜、斯波貞吉、山口孤剣、中村太太郎、田川大吉郎
  02/足尾銅山鉱夫のあいだで社会主義研究会が開かれる。20人ほどで毎月2回開催
  救世軍が京橋区築地2丁目に山室機恵子を主任として臨時の「女中寄宿舎」を開設する
     就職確定までの収容所をかね行儀作法、家事見習いの一端を教える
     のち日本鉄道会社は収容者の乗車賃を3割引にする便宜をはかる
     また内務省達をもって地方官庁にも大いに協力させることに
     のち機恵子の許に収容したのは明治39年の上半期だけで女子123人、男児27人に及ぶ
     のち「女中寄宿舎」が「労働寄宿舎」になる
  03/初旬田辺に移り住んだ管野すがが京都から妹ひでを呼び寄せ石田庄七宅に同居する
     【妹ひでは2月5日にすがといっしょに田辺に移る?】
     石田庄七は和歌山紡績の社長に就任のため和歌山に出ることになり留守番をかねる
  03/02東京ある3つの電車会社がともに乗車賃の値上げを府知事、警視総監に出願
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     3社各別3銭均一制を改め3社共通5銭均一とする旨
     03/17内務大臣の原敬は電車賃値上げ出願に関して、警視総監、東京府知事、内務次官、警保土木両局長らと協議する
     03/23ことの事態を重くみた内相原敬の命令を受け、警視総監は3電車会社の重役を集める
     街鉄の吉田幸作、東電の牟田口元学、外濠線の浜政弘に対して「値上げ理由を是認せず」を申し渡す
     値上げの申請が却下される
     06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
     08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  03/03由分社が堺利彦の1枚ものの『社会主義』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/033電車会社時代最後の路線延伸となる東京電気鉄道会社の信濃町と天現寺橋のあいだが開業
     04/13同じく東京市街鉄道会社の三原橋と蓬莱橋のあいだが開業【04/14?】
     08/02東京電車鉄道会社の路線延伸はなく上野と雷門のあいだが複線化
     上野と雷門のあいだの複線化に伴い下車坂町→合羽橋→田原町が廃止
     09/273社合併後、東京鉄道会社となり初めての路線延伸となる飯田橋と大曲のあいだが開業する
  03/05堺利彦が『光』第8号3ページに「同志諸君に訴う」を発表。日本社会党結成にあたり感慨を述べる
  03/05『光』第8号6ページに「日本社会党生る」が掲載される
  03/06嵩山房が田岡嶺雲の『壺中我観』を発行する【同年発行の再版の発行所は博信堂?】
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/06日本社会党臨時評議員会が開かれる。東京市内電車値上げ反対運動への取り組み、演説会の開催を決定
     3月8日に玉翁亭で独自の演説会を開くことを決定
  03/08昼間、社会党同志10数人で演説会のチラシを配る
     夜、社会党主催の電車賃値上げ反対演説会が芝区兼房町の玉翁亭で開かれる
     山口義三、岡千代彦、斎藤兼次郎、堺利彦、西川光二郎、加藤時次郎、木下尚江らが弁士をつとめ市民の奮起を促す
     演説会は「新紀元」の木下尚江や、国家社会党の山路愛山、自由主義政治家の田川大吉郎らなど、べつ組織からの参加も
  03/08社会党員有志が「電車午前均一反対運動の記念」として自筆で寄書き
     署名は深尾韶、森近運平、斎藤兼次郎、岡千代彦、竹内余所次郎、
     幸内純一、西川光次郎、樋口伝、堺利彦、加藤時次郎、加藤さき
  03/09社会党主催の電車賃値上げ反対演説会が神田区美土代町のYMCA基督教青年会館で開かれる
     田川大吉郎、堺利彦、山路愛山、木下尚江、加藤時次郎らが出席
     国家社会党などとの共闘により、11日に日比谷公園で山路を会主として市民大会の開催を決議する
     演説会は「新紀元」の木下尚江や、国家社会党の山路愛山、自由主義政治家の田川大吉郎らなど、べつ組織からの参加も
  03/09管野すがと妹ひで、荒畑寒村の3人で扇が浜に遊ぶ
     日の入りと月の出と地引き網を眺める
  03/10安部磯雄が『新紀元』第5号1ページに社説「社会主義と基督教」を発表。一派の共通認識が示される
  03/10新進書局が宮崎民蔵の『土地均享 人類乃大権』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/10翌11日に日比谷公園で開催する予定の市民大会の宣伝用チラシ5万枚を党員総出で東京市内に配付
     市民に参加を呼びかける
  03/10夜、神田区三崎町の吉田屋で第2回演説会が開かれる
     森近運平、山口義三、斎藤兼次郎、竹内余所次郎、深尾韶、西川光二郎、片山潜らが出席して熱弁をふるい反対の気勢は上昇
  03/11電車運賃値上げ反対の第1回市民大会が午後1時から、雨のなか日比谷公園の芝山で開催される。会主は山路愛山
     日本社会党を中心に山路愛山一派の国家社会党と田川大吉郎、細野次郎らの小ブルジョア自由主義者と共同戦線を張る
     大会は運賃値上反対の決議をなし内務大臣に警告を発する
     散会後に残った会衆150〜160人が社会党員を先頭に東京市街鉄道会社や人民、朝日、時事、万朝、読売などの新聞社へ
     社会党員は森近運平、深尾韶、堺利彦、山口義三、大杉栄、樋口伝、西川光二郎ら
     猛烈な罵声を浴びせるものの雨のために大きな問題も起きず、銀座通りにでて京橋際の凱旋門下に至り解散
  03/11夜、社会党員たちは、なおも浅草蔵前の植木屋で第3回反対演説会を催す
     山口義三、堺利彦、岡千代彦、岩本新吾、森近運平、西川光二郎が壇上にのぼる
  03/12夜、日本社会党を除く3者による反対演説会が本郷の中央会堂開かれる
     山路愛山らの国家社会党、木下尚江らの新紀元社、田川大吉郎ら自由主義政治家の組織
     山路、田川、山根吾一、中村太八郎、木下が演説を行なう
     木下尚江を会主とする上野公園から日比谷公園までの「電車賃銭値上反対東京市民大運動会」を18日に開く決定をする
     03/14夜にも、3者による反対演説会が神田区の錦輝館で開かれ、世論を盛りあげる
  03/14堺利彦が森近運平あてにハガキを送る
     「明日は多少荒れるかも知れん。そこで自分は病気になるつもり、貴公も病気になってはいかが」
  03/15電車運賃値上げ反対の第2回市民大会が日比谷公園で開催される。参加者数千人
     芝山で西川光次郎、山口孤剣、岡千代彦、大杉栄、吉川守圀らが会主の堺利彦と待つ
     午後1時頃、芝山の向かいの藤棚のある丘で加藤時次郎、田川大吉郎が社会党と対峙した集会を開会
     「我々は市会の決議を無視す」「我々は飽く迄電車値上に反対す」
     「当局者若し値上を許可すれば我々は当局者を目して会社を重んじ市民を軽んずるものと認む」などを大書し掲揚
     藤棚側の集会が解散すると西川光次郎が立ちあがり参加者に示威行動をうながす
     群衆は電車会社から山下門をでて電車線路を占領、くる電車の運転手は、みな一目散に逃げ去る
     数寄屋橋にでると2組にわかれ、1組は鍛冶橋を左に折れ市会に殺到、1組は東京日日新聞と報知新聞の前へ
     2組は市会前で合流、数名が構内へ。馬場先門の線路工事夫が合流。警官隊と騎馬巡査があらわれ追い散らす
     散会後の示威運動が激化。警視庁は社会党党員と一般参会者あわせて18人を検挙し、兇徒嘯集罪で起訴
     社会党党員は西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝の7人
     一般参会者は松永敏太郎、鈴木高次、羽鳥瀧三、千葉操、饗庭久七、山本不美男、
     望月徳次郎、富澤巍一、中村治太郎、増山傳吉、藤井瀧次郎の11人
  03/15東京市街鉄道会社が市内全線にわたり午後5時以降の運転をとりやめ
     東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社はふだん通り運転を継続。外濠線は夜間、満員札を掲げるほどの盛況に
  03/15堺利彦が麹町元園町に由分社を起こす。平民社時代の出版活動を引き継ぐ
  03/15堺利彦が麹町元園町で、再び堺が『家庭雑誌』の出版経営にあたる
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     のち、週刊『平民新聞』を起こすにあたり編集事務を西村渚山に託していた
     10/由分社を解散するとともに、「家庭雑誌」を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
  03/15堺利彦が麹町元園町に由分社を起こし深尾韶とともに『社会主義研究』を創刊する。月刊、体裁は菊判、定価15銭
     運動機関としては『光』があり、「社会主義の理論、歴史、運動等につき、稍々精細深遠なる知識を供給せんとする」が目的
     第1号巻頭には「共産党宣言」の全文を改訳掲載する
     1904(明治37)11月13日発行の週刊『平民新聞』1周年記念号の第53号に「共産党宣言」を掲載するも発禁に
     12月13日の裁判では「歴史的文書として研究に供するのは差支えないが、宣伝の具に供したから有罪だ」と判断
     裁判での判決を逆手にとっての掲載。ときの政府は黙認せざるを得ず
     08/01第5号で発行を停止。その3つの原因は
     堺が日本社会党の評議員幹事として党の実務に当たるため
     堺が電車賃値上反対運動で西川光二郎らが検束され機関紙『光』の編集作業を行なうため
     『社会主義研究』そのものの財政難
  03/15『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」を捕捉する形で3つの文章が掲載される
     36ページにリープクネヒトの「マルクス伝」。訳は志津野又郎
     47ページにカール・カウツキーの「エンゲレス伝」。訳は堺利彦
     58ページに大杉栄の「万国社会党大会略史」
  03/15夜、樋口伝宅に刑事が踏み込み拘引。樋口の妻は先年に死別、ひとり6人の子供を育てる
     子供たちは父の拘引を知らず、樋口は子供たちの枕元にミカンを1個ずつならべる
     03/16子供たち6人は松崎源吉、福田保太郎、加藤時次郎、堺利彦の家に1人ずつ
     森近運平のミルクホールに1人、孤児院に1人と、それぞれ預けられることに
  03/15ミス・レビット宅で田辺婦人矯風会の例会が開かれる
     管野すがが例会に出席する
     レビットや伊藤牧師をはじめ20数人が集まる。大半が中年以上の婦人
     レビットは田辺在住の婦人宣教師で1899(明治32)、田辺に居をかまえ28年にわたり伝道に身をささげる
  03/16電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回の予審が行なわれる。尋問は71項目に及ぶ
     03/18社会党党員の大杉栄を拘引。書類の名前違いで遅れる
     03/18午後3時頃、警視庁から東京監獄に移される
     03/20社会党党員の竹内余所次郎、半田一郎を拘引
     のち竹内と半田は附和随行罪とみなされ罰金刑に
     03/31第2回の予審が開かれる
     04/09竹内が責附となり出獄
     04/13予審終結の決定が下されました。被告21人全員が有罪となる
     社会党党員は西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、吉川守圀、
     斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎の10人
     一般参会者は松永敏太郎、鈴木高次、羽鳥瀧三、千葉操、饗庭久七、山本不美男、
     望月徳次郎、富澤巍一、中村治太郎、増山傳吉、藤井瀧次郎の11人
     06/04第1回公判。午前9時、傍聴者多数を見越して特に広い控訴院第1部第3号法廷に開かれる。傍聴人は200人ほど
     裁判長は伊藤判事、陪席は須田、三浦の両判事、検事は青木某
     弁護人は今村力三郎、花井卓藏、卜部喜太郎、鹽谷恒太郎、鵜澤聰明、新井要太郎、牧野充安、小川平吉、櫻井熊太郎、
     平松市藏、宮島次郎、船曳濱二郎、石山彌平、信岡雄四郎、高木益太郎、布施辰治らの諸士と特別弁護人の田川大吉郎が揃う
     06/06第2回公判
     06/15第3回公判。第1回市民大会の会主でもある国家社会党の山路愛山や、同志の堺利彦らが証人に立つ
     06/20第4回公判
     06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     06/22第5回公判
     06/25第6回公判
     06/26電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
     06/29第7回公判で結審
     07/09東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
     藤沼裁判長に係り金子検事立ち会いで開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
     10/11第2回控訴公判
     10/18第3回控訴公判。裁判長が転任のため開廷せず
     10/21第4回控訴公判
     10/30第5回控訴公判。傍聴席には足尾銅山の鉱毒事件を告発した田中正造の姿も
     11/13第6回控訴公判
     11/25東京控訴院の2審裁判が再び無罪判決を言い渡す
     のち検事局河村善益検事長は控訴院での無罪判決を不当としてさらに上告。大審院は検事局の不当請求を認め受理
     1908(明治41)01/28大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
     02/07大審院の第1刑事部裁判長鶴丈一郎は検事局の不当を是として上告を受理し前判決を破棄
     宮城控訴院に移し再審とすることに
     03/25被告党員のうち、山口義三が巣鴨監獄を出立。上野駅をでる。26日には小山警察署に1泊
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の3つの筆禍事件で巣鴨の獄に
     03/27山口義三が宮城監獄分監に収監される
     03/31宮城控訴院での裁判が開廷の予定なるも、書類調査などの都合上、間に合わず延期に
     04/28開廷も延期となる
     05/18党員8人と松永敏太郎、鈴木高次ら党外の被告が、たくさんの同志に見送られ夜行列車で上野を発つ
     早朝仙台に到着し南町の堺屋に投宿
     西川光次郎、岡千代彦、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎
     深尾韶は宮城控訴院での裁判前に病気を理由に退党。分離裁判で「今後社会主義運動と絶縁する」と誓い無罪に。郷里静岡へ
     05/19宮城控訴院での裁判がはじまる
     05/21第2回公判
     結審時間間際、弁護士鵜澤聰明が入廷。事件当時の被告の意志を、明確に確認するように求める
     さらに1891(明治24)年に起きた、大津事件での裁判所のまれにみる対応など、3時間にわたる大弁論を展開
     裁判長や判検事一同は首をたれ謹聴し、被告らに深い感銘を与える
     06/06予告していた判決の言い渡しが引き延ばされる。延期の原因は判事の意見の対立とうわさされる
     06/13宮城控訴院はついに最終判決をくだす
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
     それまでの無罪判決が一転し、それぞれに有罪の判決が言い渡される
     06/15『東京社会新聞』第15号が第1ページ目に有罪判決の記事を置く
     07/046月22日の「赤旗事件」を理由に兇徒聚衆事件の保釈が取り消され拘引される
     07/14宮城控訴院の有罪判決を不当として上告裁判が行なわれる
     花井、鵜沢、今村、高木、新井、久保田、信岡、渡邊、井本の9弁護士が立ち宮城控訴院判決文の不備不当を弁駁
     07/17大審院は上告を却下しそれぞれに判決が確定、刑に服することになる
     07/26東京監獄の都合で西川光次郎、松永敏太郎、岡千代彦、山口義三、樋口伝が千葉監獄に移される
  03/16管野すがが毛利柴庵の留守宅に病夫人のツネ子を見舞う
     夜、管野は妹ひでと荒畑寒村と3人で稲荷座に琵琶歌を聞きにいく
     途中、引きあげ帰宿、夜更けまで3人で社会主義論をする
  03/17内務大臣の原敬は電車賃値上げ出願に関して、警視総監、東京府知事、内務次官、警保土木両局長らと協議する
     03/23ことの事態を重くみた内相原敬の命令を受け、警視総監は3電車会社の重役を集める
     街鉄の吉田幸作、東電の牟田口元学、外濠線の浜政弘に対して「値上げ理由を是認せず」を申し渡す
     値上げの申請が却下される
     06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
  03/17電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の善後策を講じる社会党臨時評議会が加藤病院で開かれる
  03/17午後3時過ぎ木下尚江が18日に予定の第3回市民大会を下谷警察署に届け出
     第3回市民大会は上野公園から日比谷公園までの「電車賃銭値上反対東京市民大運動会」
     待ち受けていた署長からは禁止命令が交付
     「静粛なる威厳」を示そうとした「運動会」は15日の騒擾により禁止に
  03/大杉栄が由分社で堺利彦宅の麹町区元園町2丁目5番地に移る
     【年上の女と縁を切るため?】
     由分社には深尾韶や堀保子の姿も
  03/18大杉栄が兇徒聚集罪で牛込区富久町の東京監獄(拘置監)へ送られる
     大杉の襟番号は977。獄中生活がはじまる
     06/21父がだした保釈金100円で出獄する
  03/18午前、管野すが、妹ひで、荒畑寒村は清滝智竜(芙峯)を高山寺に訪ねる
     話は宗教談から社会主義談に及ぶ
     ついで内科医で俳人の羽山ドクトルの家に寄る
     さらに足を延ばして奇絶峡の勝を探る
     奇絶峡は上秋津村会津川の上流、奇岩怪石の妙景に名づけられる
  03/20大杉栄が電車事件で拘引された巣鴨監獄でエスペラント語の独習をはじめる
     のち保釈で出所するまでの3か月にほぼマスターする
     「一犯一語」の最初の実践がエスペラント。大杉の国際意識がより敏感に
  03/20幸徳秋水が『光』第9号1ページに「一波萬波」を発表する。原稿は2月12日にサンフランシスコで記す
  03/20北上屋書店が田岡佐代治の『天鼓 第20号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22東亜堂書房が加藤熊一郎の『瞑想雑感 朝思』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22東亜堂書房が加藤熊一郎の『瞑想雑感 朝思暮想』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/25島崎藤村が緑蔭叢書第1篇として書き下ろし長編の『破戒』を自費出版する
     定価70銭。小包料は市内5銭、市街10銭、郵税12銭。発売元は上田屋
  03/28長崎の離島高島の蠣瀬炭坑でとてつもない大爆発事故が起きる。死者307人、重軽傷者数10人に及ぶ
     三菱高島坑業所はじまって以来の大惨事に
     04/20事故の模様が日本社会党の機関紙『光』第11号2ページで報じられる
     タイトルは「高島炭坑の大惨事」
     同じ4月20日発行の「光」第11号5ページに「高島炭坑の内面」と題する記事が組まれる
     副タイトルは「三菱会社の亡状」
     「坑夫の語る處によれば、一日二名の死者は會社の豫期する所なりと云ふ、嗚呼恐るべき資本家、
     彼は勞働者の生命の殞すことを以て、一塊の石炭を棄つるよりも輕しと思へるなり」
     人の命よりも石炭の方が大事と内情を伝える。檄文でもって三菱会社を糾弾し資本主義に対して批判
  03/31全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた鉄道国有法が施行される
     順次、私営17社が国有化となる
     10/01北海道炭礦鉄道(室蘭〜手宮、岩見沢〜歌志内、砂川〜空知太、他)、甲武鉄道(お茶の水〜八王子)
     11/01日本鉄道(秋葉原〜青森、日暮里〜岩沼、品川〜田端、他)、岩越鉄道(郡山〜喜多方)
     12/01山陽鉄道(神戸〜下関)、西成鉄道(大阪〜安治河口)
     1907(明治40)07/01九州鉄道(門司〜八代、鳥栖〜長崎、他)、北海道鉄道(函館〜小樽)
     08/01京都鉄道(京都〜園部)、阪鶴鉄道(尼崎〜福知山)、北越鉄道(直江津〜新潟)
     09/01総武鉄道(両国橋〜銚子)、房総鉄道(千葉〜大原)、七尾鉄道(津幡〜矢田新)、徳島鉄道(徳島〜船戸)
     10/01関西鉄道(名古屋〜湊町、加茂〜大阪、王寺〜和歌山、他)、参宮鉄道(津〜山田)
  春/救世軍が本所区花町に1軒の家を借り簡易宿所提供施設の「箱船屋」を開く
     のち1910(明治43)までに宿泊したのは2万7330人と記録される
  春/新村忠雄がクロポトキンの『無政府主義の哲学』を読む
  04/上荒畑寒村が和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』を退社して上京
     兇徒聚衆の突発で結成後まもない社会党の同志が多数検挙されたため堺利彦に呼び戻される
     堺の家に寄宿、党の機関紙『光』の編集を手伝い『家庭雑誌』『社会主義研究』の事務に従う
     入社は前年の10月9日、堺の紹介による
  04/01愛媛の別子鉱山で坑内火災が発生。坑口閉鎖。2人が窒息死、5人惨死
  04/02、03博愛社の慈善音楽会が田辺の稲荷座で催される
     管野すがが妹ひでと2人で列席する【どちらか? 2日とも?】
  04/05兇徒嘯聚罪で入獄中の大杉栄に陸軍軍人の父東が面会にくる
     社会党に加盟したことを叱責
  04/09荒畑寒村が牟婁新報社からの退社を決意する
     04/12『牟婁新報』1面トップに荒畑の「退社の辞」が大々的に掲載される
     2面トップには退社の理由をなす「新聞紙罪悪論」が大々的に載る
     04/15荒畑寒村、管野すが、伊藤牧師夫妻が記念撮影
     管野の家で会食、夜は伊藤牧師の宅で会食をする
     04/16荒畑が田辺を去る
     夜、管野は羽山ドクトル宅を訪ねる
  04/10『新紀元』第6号11ページの時事評論欄に「日本社会党の組織」が掲載。社会党成立までの経緯が記される
  04/11由分社が『社会主義の詩』を発行する
     編集兼発行人は堺利彦。価格5銭。15編が収録
     堺利彦の「別荘と公園」、原霞外の「血祭」、木下尚江の「ポンポコの歌」、木下尚江の「戰爭の歌」、
     読者の「富の鎖」、中里介山の「亂調激韵」、無名氏の「我が行く道」、武蔵野守の「ラサール」、
     某氏作の「血染の赤旗」、堺利彦の「獄中の音樂」、幸徳秋水の「赤色旗」、西川光次郎の「巣鴨の歌」、
     山口孤剣の「秋水兄を迎ふる歌」、無名氏の「自然の潮流」、一讀者の「我等が世界」
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/14由分社が堺利彦の『社会主義問答』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/15管野すがが『牟婁新報』に第580号に「肱鉄砲」を発表する
  04/15『社会主義研究』第2号が「無政府主義」の特集を組む
     白柳秀湖がクロポトキンの「無政府主義の哲学」を訳す。久津見蕨村が「無政府主義の二派」「クロポトキンの特色」を著す
  04/16川口清栄が相隣社から『革新之一鞭』を発行する。定価15銭
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/18アメリカのカリフォルニア州で大地震がおこる
     幸徳秋水が滞在するサンフランシスコも多大な災害をこうむる
     サンフランシスコ下町の数か所に火災が発生。桑港平民社付近にまでおよぶ
     幸徳は対岸のオークランドに移る
     幸徳は見聞を「無政府共産制の実現」と題し『光』に寄稿する
  04/20一同志が『光』第11号1ページに「日本社会党に餞す」を発表する
  04/27午前0時、筆禍事件で1か月半の刑に処せられていた牟婁新報社社長毛利柴庵が出獄
  04/27『牟婁新報』が毛利柴庵出獄記念号を発行する
     「発刊の辞」のほか、清滝芙峯の「柴庵兄の出獄を迎ふ」、境野黄洋の「柴庵出獄頌」、
     高島米峰の「前科者毛利柴庵」、禄亭の「法律何物ぞ」、杉村縦横の「出獄乎入獄乎」が載る
     さらに幽月の「籠城記」がほとんど1ページを独占し載る
     管野は留守を預かった45日のあいだの諸問題を詫びる
  04/27夜、神田区三崎町の平民舎ミルクホールの屋上にある社会党事務所で初の評議員会を開く
     「本党は国法の範囲内において社会主義を主張す」云々の党則をつくる
     日本初の合法的な社会主義の政党が公然と許されることに
  04/28紀伊田辺から帰った荒畑寒村が早々に谷中村を再訪
     05/05『光』第12号2ページに荒畑寒村の「棄てられたる谷中村」が掲載される
     1907(明治40)03/26〜31『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」が連載される
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
  04/警視庁総監官房に高等科が設置。その下に高等、検閲、外事の3係が置かれる
  04/YMCAが大連市浪花町に「満州婦人救済会」を開設する
     09/救世軍に移管され「救世軍大連婦人ホーム」となる
     ロンドンの救世軍万国士官学校に留学し社会事業を研究していた山田弥十郎中校が赴任
  04/春陽堂がエミール・ゾラ著、堺枯川訳の『労働問題』を発行する
     【1904(明治37)4月16日に春陽堂が発行した『労働問題』の改版?】
  04/青森県の弘前で竹内兼七、笹森修一らが渋茶会を組織する
     のち社会主義研究会となる
     のち弘前労働協会へと発展する
  04/新紀元社の例会で田中正造が「土地兼併の悪罪」を2時間にわたり演説
  05/06木下尚江の母くみが死去。木下の心に動揺が生じる
     のち『新紀元』が計画していた北海道遊説が中止に
     また『新紀元』の編集に支障がきたすようになる
     09/11木下尚江が幸徳秋水、堺利彦と会談、社会主義運動から分離する
     10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページから4ページにわたり「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
  05/09北輝次郎(一輝・23)が自費で『国体論及び純正社会主義』を発行する
     定価2円85銭。大売捌所は有斐閣、同文館、東京堂
     東京日々新聞が攻撃。かき立て政府の厳重な処分を要求する
     「国体を知らず、国性を弁えず、詭言怪説、人心を惑わすもの」として「朝憲紊乱の出版物」と
     また識者の注目をひき福田徳三、田島錦治、田川大吉郎らは北に讃辞の手紙を送る
     『読売新聞』に社会主義評論を書いていた河上肇は狂喜して北を訪問
     木下尚江は『新紀元』の誌上で評する
     「年少博学の俊才に相違ない、彼にして努力さるならば、他日一大思想家になるだろう」
     05/14発売頒布を禁止する処分を受ける
     07/01『社会主義研究』第4号79ページの新刊所見の書評欄で論じられる
  05/10石川三四郎が『新紀元』第7号1ページに社説「階級戦争論」を発表
     副タイトルに「マルクスの主張マツジニーの批判」とつく
     『新紀元』の石川と『光』の堺利彦とのあいだで論争が交わされる
     06/05対して『光』第14号1ページで堺が「階級戦争論に就いて」で批判を加える
     副タイトルに「山路愛山君と石川三四郎君とに質す」がつく
     06/202人の論争に紀州新宮の医者大石誠之助(禄亭)が加わる
     『光』第15号4ページに「階級闘争非乎」を書き石川を批判
     08/10石川は『新紀元』第10号18ページに「堺兄に与えて政党を論ず」で反論を加える
     09/05堺は『光』第20号6ページに「石川三四郎君に告ぐ」を発表し論争を打ち切る
  05/10『新紀元』第7号10ページに田中正造の新紀元説教会での演説が全19ページにわたり掲載
     タイトルは「土地兼併の罪悪」。田中の演説の姿が絵入りで載る
  05/10流行していた添田唖蝉坊の「ラッパ節」の替え歌を同志から募集
     たくさんの投稿作品が集まり原霞外、岩本無縫、堺利彦、森近運平らが選考会を開く
     05/20『光』第13号5ページに25節からなる「社会党ラッパ節」が掲載される
  05/11永岡鶴蔵が1枚ものの『稼ぎ人目ざまし数へ歌』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/11永岡鶴蔵が1枚ものの『稼ぎ人目ざまし軍歌』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/14箱根の大平台林泉寺に内山愚堂を訪ねる
     5日座禅し精神の窓を開く
  05/15『社会主義研究』第3号に著名な社会主義者の略伝がカーカップの『社会主義史』から紹介される
     サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、ロバート・オーエン、ラサール、ロドベルツス、マルクスら
  05/20片山潜が『光』第13号1ページに「労働者の地位」を発表する
  05/23平民舎が森近運平の『社会主義小話』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/29管野すがが田辺を去り京都に帰る。室町上長者町下ルの川端方に仮寓する
  05/横浜曙会の吉田只次、村木源次郎、金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説する
  05/前年9月10日に創刊した社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌『火鞭』が第9号で廃刊に
     主宰は白柳秀湖。安成貞雄、山口孤剣、宮田暢、中里介山らが同人。小川芋銭画
     07/01継続誌として『ヒラメキ』が創刊。編集兼発行人は島中雄三(翠湖)
  05/二葉亭四迷が雑誌『文章世界』5月号に「余が言文一致の由来」を発表する
     二葉亭が「文章が書けないから」と坪内逍遥に相談するというエピソードを記す
     坪内から「円朝の落語(はなし)通りに書いて見たら何うか」と提案される
     言文一致の母体が「円朝の落語」をあるという神話が誕生
  06/01夜、サンフランシスコのテレグラフ街の白人社会党本部で「社会革命党」の結党式が行なわれる
     在米日本人同志50余人が集まる
     幸徳秋水も参加。重要メンバーは倉持善三郎、岩佐作太郎、竹内鉄太郎、岡繁樹ら
  06/04電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回公判
     午前9時、傍聴者多数を見越して特に広い控訴院第1部第3号法廷に開かれる。傍聴人は200人ほど
     裁判長は伊藤判事、陪席は須田、三浦の両判事、検事は青木某
     弁護人は今村力三郎、花井卓藏、卜部喜太郎、鹽谷恒太郎、鵜澤聰明、新井要太郎、牧野充安、小川平吉、櫻井熊太郎、
     平松市藏、宮島次郎、船曳濱二郎、石山彌平、信岡雄四郎、高木益太郎、布施辰治らの諸士と特別弁護人の田川大吉郎が揃う
     06/06第2回公判
     06/15第3回公判。第1回市民大会の会主でもある国家社会党の山路愛山や、同志の堺利彦らが証人に立つ
     06/20第4回公判
     06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     06/22第5回公判
     06/25第6回公判
     06/26電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
     06/29第7回公判で結審
     07/09東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
  06/04日本社会党大演説会が神田区の錦輝館で開かれる
     荒畑寒村、吉瀬才市郎、森近運平、片山潜、加藤時次郎が登壇する
     加藤は「生理と道徳の関係」を語る
  06/05渡米していた幸徳秋水が帰国のため香港丸に乗船。サンフランシスコを出港
     渡米の理由は病気治癒のため、アメリカにいる日本人社会主義者を組織するため
     日本に印刷機を仕入れに帰る桑港平民社の岡繁樹も同船
     06/23午前8時頃、横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
  06/05金尾文淵堂が山路弥吉の『社会主義管見』を発行する。定価30銭
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/07本郷で『新紀元』の大演説会が開かれる。田中正造が谷中村問題を演説。聴衆400人
  06/08社会主義研究所東海矯風団が添田平吉の『社会党喇叭節』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/08東海矯風団が添田平吉の『社会燈』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/09文部大臣牧野伸顕が教育当局者、各学校長、教員に対して訓令
     極端な社会主義を鼓吹する者に教員生徒は惑わされてはならぬ
  06/10木下尚江が『新紀元』第8号4ページの時事評論欄に「軍隊主義教育とは何ぞ」を発表する
     木下は教育についても発言する
  06/10赤羽巌穴が『新紀元』第8号9ページに時事評論「谷中の廃村を訪ふ記」を発表する
  06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  06/18鉄道会社3社による合併と再度の運賃値上げの申請を受けて日本社会党が評議員会を開く
     再び電車賃値上げ反対運動を起こす決定をする
  06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、竹内余所次郎
     06/26保証金の工面ができずにいた吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
  06/23午前8時頃、6月5日に香港丸でサンフランシスコを発った幸徳秋水が横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
     出港は1905(明治38)11月14日【10/28?、11/04?】
  06/25片山潜宅で同志茶話会が開かれる。安部磯雄、石川三四郎を除く旧平民社の主だった人物が顔をそろえる
     幸徳秋水と木下尚江が日本社会党に入党
     09/25『光』第22号7ページ記載の社会党公報で木下の脱党を伝える
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
  06/27築地メトロポールにて幸徳秋水の歓迎会が開かれる
  06/28日本社会党主催の大演説会が幸徳秋水の歓迎演説会として神田区の錦輝館で開かれる
     聴衆は700人以上、会場は超満員に
     幸徳は森近運平、堺利彦、木下尚江、加藤時次郎とともに久しぶりに壇上へ立つ
     森近「牧野文相の訓練を評す」、堺「模範的奴隷」、木下「思想界の中心点」、
     加藤「幼時町人の家に生れて武士に侮辱されしより大に発憤して遂に今日の如き社会主義者となれるに至れる経歴」
     幸徳秋水が「世界革命運動の潮流」を演説する。幸徳帰国後の第一声
  06/電車事件の被告が保釈出所後、京都へ引き上げた管野すがから荒畑寒村あてに手紙が届く
     しきりに京都へ来いと誘う手紙
     荒畑は英語の夏季講習会にでるつもりで堺利彦から教科書などを買ってもらう
     のち荒畑は口実を設け堺家を抜けだし京都へ。8月いっぱい荒神口河原町の管野の家で過ごす
  救世軍の山室軍平が渡欧の際にブース大将の郷里など史跡を調査、1か月で書き上げる
     08/13救世軍本営が『ブース大将伝』を発行
     菊判560ページ、定価1円30銭
  07/01『毎日新聞』『東京毎日新聞』と改題
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     1909(明治42)経営が芳しくなく報知新聞社に身売り。報知の傍系紙として存続する
  07/01堺利彦が『社会主義研究』第4号の巻頭でエンゲレスの「空想から科学への社会主義の発展」を訳出する
     タイトルは「科学的社会主義」
  07/01『社会主義研究』第4号79ページの新刊所見の書評欄で北輝次郎の「国体論及純正社会主義」が論じられる
  07/011905(明治38)9月10日に創刊した『火鞭』の継続誌として『ヒラメキ』が創刊
     編集兼発行人は島中雄三(翠湖)、下中弥三郎との共同経営
     『火鞭』は平民社を中心に集まる社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌
     09/第2号を発行。「本邦唯一の革命的文学雑誌」とうたい発行禁止に
  07/04国家社会党、新紀元社共催の電車賃値上反対講演会が200人の聴衆を集め神田区の錦輝館で開かれる
     山根吾一、山路愛山、中村太八郎、山口弾正、田中弘之、木下尚江らのほか、日本社会党の片山潜も壇上へ
  07/046月23日にアメリカから帰国した幸徳秋水が、静養のため郷里の高知中村へ妻千代子とともに帰省
     07/07宿毛に着
     08/03幸徳が中村町で演説会
     08/07幸徳が入野村で演説会
     08/31幸徳が帰京の途につく
     09/07帰京
  07/05幸徳秋水が『光』第1巻第16号1ページに論説「世界革命運動の潮流」を発表
     副タイトルに「錦輝館に於ける演説の大要」とつく
  07/05横浜曙会の1枚ものの『起てよ我友』が発売頒布禁止の処分を受ける。発行日は不明
  07/05夜、日本社会党が片山潜宅で電車賃問題に関する評議員例会を開催
     保釈で出獄した田添を除く全員が出席
  07/09国家社会党、新紀元社、日本社会党共催の連合演説会が日本橋常盤木倶楽部で150人の聴衆を集め開かれる
     山根吾一、木下尚江、石川三四郎、堺利彦、森近運平が演説
  07/09電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する判決。東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     4月13日の予審終結ののち6月4日の第1回公判から、6日の第2回公判、15日の第3回公判、
     20日の第4回公判、22日の第5回公判、25日の第6回公判、29日の第7回公判の結審と続いた末
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
  07/12大杉栄が日本エスペラント協会第2回例会に参加する
  07/13北輝次郎(一輝)が自費で『純正社会主義の哲学(生物進化論より説明せる社会進化の理法及び理想)』を発行
     著者兼発行者/北輝次郎。印刷者/山田英二。印刷所/博文館印刷所。発売所/由分社
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/13今年1月18日にアメリカから帰ったばかりの片山潜が3度目の渡米
     岩崎清七らの出資で大日本興農株式会社が設立され、その事業監督のため
     1907(明治40)02/19テキサスの農場経営が中止となり帰国
  07/20片山潜が『光』第17号4ページに「日本に社会主義を行ふは安し」を発表する
  07/20パンフレット『電車値上反対意見』が出版される
     森近運平の「市内鉄道の性質」、片山潜の「電車値上反対意見」、堺利彦の「反対運動の方法」を収める
     発行所は日本社会党本部。発行兼編輯人は森近運平、印刷人は堺利彦。大きさは菊半截判で本文15ページ、定価1銭
     片山潜「電車値上反対意見」2〜9ページ、堺利彦「反対運動の方法」9〜13ページ、森近運平「市内鉄道の性質」13〜16ページ
     新運動の一方法として此小冊子を数万部印刷
  07/20金尾文淵堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     もとは1904(明治37)5月10日に平民社が平民文庫から発行
     1908(明治41)10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
  07/25木下尚江の『良人の自白』続篇が金尾文淵堂より刊行
     07/30上巻、中巻が刊行
     09/30下巻が刊行
     1910(明治43)09/13発禁処分となる
  07/31木下尚江が東京毎日新聞社を退社
     入社は1899(明治32)2月11日
  07/永岡鶴蔵が夕張から同志の南助松を足尾に呼び寄せる。足尾労働者の状況を視察
  07/山路愛山が警醒社書店から『基督教評論』を刊行
  08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
  08/01堺利彦が同年3月15日に由分社より創刊した『社会主義研究』が創刊第5号で発行を停止
     その3つの原因は
     堺が日本社会党の評議員幹事として党の実務に当たるため
     堺が電車賃値上反対運動で西川光二郎らが検束され機関紙『光』の編集作業を行なうため
     『社会主義研究』そのものの財政難
  08/01『社会主義研究』第5号で国際社会主義運動の理論的問題点を展開
     1ページにM・ビーアの「総同盟罷工の歴史的意義」。白柳秀湖訳
     11ページにオーグズト・ベーベルの「政治的総同盟罷工論」。堺利彦訳
     25ページに志津野又郎によるジョーレ、ベーベルらの「社会党硬軟二派の主張」などを掲載
  08/01東京小石川の砲兵工廠でストライキが起きる
  08/02麹町区会協議会が東京市電の運賃値上げ反対を決議
  08/05社会党は3社合併と運賃値上げの報を受けて評議員会を開く
     堺利彦の発意により新たに電車に「乗らぬ同盟」のボイコット運動を計画
     運動として電車ボイコット運動、電車に乗らぬ運動を進めることに
  08/07午後4時より皇室社会主義を唱える松本道別らの発起で電車賃値上反対市民大会が日比谷公園で開かれる
     来集者には電車のため職業を奪われた人力車夫も少なからず
     社会党員は一部保釈されるも関係なく催される
  08/10日本社会党の同志14人が神田区三崎町の党本部を出発、数万枚のボイコット運動のチラシを配布する
     ボイコット運動は堺利彦の発意による
     森近運平、野澤重吉、添田平吉、村田四郎、堺利彦、菊江正義、幸内順一、坪井降吉、藤田四郎、堺ため子、添田たけ子ら
     午前9時、本部を出発、九段坂、麹町富士見町、市ケ谷見付、市ケ谷堀側、四谷見付、麹町通り、元園町由分社にて昼食、半蔵門、
     三宅坂、日比谷公園、内幸町、烏森、新橋、銀座、京橋、日本橋、須田町、万世橋、下谷五軒町、上野、本郷切通し、本郷通り
     午後5時頃、本郷3丁目で解散
  08/10夜、社会党同志15人が『日本社会党』と銘打つ赤提燈を手に持ち、5隊に分れそれぞれが日比谷公園に向けて出発
     ボイコット運動のチラシをまきながら各々電車線路に沿い行進
      本郷方面から原霞外、谷村釣雪、宇都宮卓爾
      両国方面から藤田四郎、荒畑勝三、安成貞雄
      下谷方面から添田平吉、座間鍋司、菊江正義
      品川方面から坪井次郎、安仲一平、野澤重吉
      新宿方面から森近運平、竹内善作、堺ため子
     5隊は日比谷公園で落ちあい1隊となる。さらに銀座通りにでてチラシを配布
     雨がふり人手も少なく野次馬騒ぎもなく無事に運動を終える
  08/18呉の海軍工廠のストライキで暴動化
  08/20社会党同志が数万枚のチラシを配布。市民は同情を寄せ、『二六』『都』など諸新聞も賛意を表わすことに
  08/26『新紀元』の石川三四郎と木下尚江が谷中村の同志からの依頼で地方遊説を行なう
     『新紀元』派唯一の遊説となる
  08/29社会党員の菊江正義が、単独で日本橋で電車値上げ反対の小冊子をくばり演説
     群衆1千人が集まり、電車をおそい警官と衝突する
  08/大杉栄が深尾韶の婚約者堀保子に体当たりでアタック。結婚を迫る
     08/堀と結婚。牛込区市ケ谷田町に新居を構える
     堺利彦から『家庭雑誌』の編集と発行を任される
  08/堺利彦が由分社より1903(明治36)4月に創刊した『家庭雑誌』が第5巻10号で廃刊に
  08/頃管野すがが住居を京都市荒神口河原町に移る
     荒畑寒村が京都に移り同棲する
  09/03大和田忠太郎が1枚ものの『社会主義ヲ記述セル一枚摺印刷物』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/05宮崎滔天(寅蔵)らが『革命評論』を創刊。毎月2回、5、20日の発行
     中国とロシアの革命の元朝を紹介し革命を鼓吹。中国同盟会の機関誌『民報』を側面から援助するもの
     発行所/東京府下豊多摩郡内藤新宿番集町34番地の革命評論社。印刷所/東京市神田区中猿楽町4番地の秀光社
     べつに神田区美土代町3丁目1番地に、革命評論社事務所をおく。新聞紙条例が規定する保証金の問題によるもの
     発行兼印刷人は青梅敏雄、編輯人は宮崎寅蔵(滔天)。体裁は縦39センチ、ヨコ27センチ
     同人は宮崎滔天、池亨吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎、北輝次郎(一輝)ら
     のち11月10日発行の第5号より10日、25日の発行に変更。12月には1回の刊行もなく
     のち明治40年1月は1日と25日の2回。2月、3月はいずれも25日に1回ずつ発行
     1907(明治40)03/25第10号で廃刊に
  09/0511日の電車運賃値上げを前に、値上反対市民大会が日比谷公園で開催される。主催は皇室社会主義を唱える松本道別
     16時50分頃に散会。のち会衆は松本の制止を聞き入れず暴動化。事実上の焼打煽動を行って公園外へ繰り出す
     数千の群衆は激怒し警官隊と各所で衝突。一部は東京市街鉄道会社を襲い、付近に停車中の電車に投石破壊する
     9月5日の拘引者は160余人。8日までに器物破毀や電車妨害で検挙された者は94人にのぼる
     7日までに電車54台が騒擾により破損、10数両もの電車が焼打ちにあう。8日には市街電車の夜間運転が中止に
     9月5日の騒擾行動は明治38(1905)年9月5日のポーツマス講和条約締結のときに起きた日比谷焼き打ち事件の1周年記念
     集まる市民の高揚も加わってのことが最大の要因に
     のちことの事態を重くみた原敬内相は、寺内陸相に軍隊出動を要請200人が出動して鎮圧するという事態に
     のち松本は兇徒聚衆罪で捕えられ、西川光二郎より重い2年半の刑が言い渡される
  09/05本郷座で社会党を除外した諸団体連合の電車値上げ反対市民大会が開かれる
     市民として出席していた党員のひとり森近運平が「乗らぬ同盟」の緊急動議を提出
     無理矢理な形で大会の可決を得ることになる。多数のチラシが配布される
  09/05堺利彦が『光』第20号6ページに「基督教に対する予の態度」を発表する
  09/077月4日に静養のため郷里の高知中村へ妻千代子と帰省していた幸徳秋水が帰京
  09/08奥宮健之、石井保男らが「労働党」を結成する
     岩本新吾、吉瀬才一郎、桜井松太郎は社会党を脱党。ほか小林樟雄、土肥新、池田秀ら党員11人を擁す
     事務所は下谷区上野広小路11番地の石井保男宅におく
     主義としては「天賦人権ヲ全スルヲ以テ主義トス」ように自由党左派の系譜に立つもの
     09/09午後6時半より両国館で「労働党創立会兼電車値上反対演説会」が開かれる
     入場料8銭、傍聴者約400人
  09/1015人の党員が「日本社会党」と書かれた紅提灯を持ち、本郷、両国、下谷、品川、新橋の各方面から5隊に分かれて出発
     電車線路に沿って行進。ボイコットのチラシをまく
  09/11社会党による「電車に乗らぬ同盟」が組織される。独自の不乗電車同盟大会を日比谷公園で予定
     雨がひどく警察の威圧が激しく、開会できず不成功に終わる
     党員たちは、神田区の錦輝館で開かれている諸団体連合の第2回市民大会に、市民として出席
  09/11神田区の錦輝館で第2回市民大会が開かれる
     党員たちは前回の大会で可決を得た「電車に乗らぬ同盟」の発言を求めるが、許されず退場させられる
     社会党以外の団体は社会党を敬遠するようになる
  09/11木下尚江が幸徳秋水、堺利彦と会談。木下は社会主義運動から分離する
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
     10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページから4ページにわたり「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
  09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  09/15座間止水(鍋司)が東海道、山陽地方への日本全国遊説の旅にでる
     のち神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、岡山、広島の8府県に及ぶ
     演説会を13回。聴衆は約3860余人を集める。遊説の旅は警察の干渉や圧迫にあいながらも75日間に及ぶ
     警察の干渉により演説の開催が困難となり、広島を最後にひとまず切り上げ
     11/26帰京
  09/16大杉栄が日本エスペラント協会付属エスペラント学校を開く【09/18?】
     生徒は45人を数える。場所は本郷区壱岐坂の私立習性小学校
     12/16エスペラント学校第1期卒業式に臨み「卒業生諸君に告ぐ」をエスペラント語で訓示
  09/189月20日にヒラメキ会の島中雄三が発行する『ヒラメキ 第2号』が発売頒布禁止の処分を受ける
  09/20幸徳秋水が大久保百人町84番地に住む
  09/24電車ボイコット運動で『光』の号外「貧富の戦争」を配布。朝憲紊乱となる
     09/28『光』号外「貧富の戦争」が新聞紙条例違犯に問われる
     山口孤剣が『光』の発行編輯人として発売頒布の禁止命令を受ける
     10/11東京地方裁判所で無罪の言い渡しを受ける
     12/18東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     1審の高木益太郎をはじめ鵜沢総明、桜井熊太郎、今村力三郎が弁護に
     1907(明治40)02/05大審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  09/25荒畑寒村が『光』第22号6ページに論壇「インバネス物語」を発表する
  09/26広小路両国館で社会党の演説会が開かれる
  09/27芝区兼房町の玉翁亭で社会党の演説会が開かれる
     加藤時次郎が「人口問題」、森近運平が「非軍縮論」、荒畑寒村が「電車事件の教訓」、原霞外が「電車事件の説明」、
     堺利彦が「貧富の戦争」、谷村釣雪が「彼岸の感」、原子基が「社会主義と殖民問題」、山本利一が「足尾坑夫の状態」を演説
     26、27日の演説会で電車運賃値上げ反対運動のホコを納めることに
  09/273社合併後、東京鉄道会社となり初めての路線延伸となる飯田橋と大曲のあいだが開通する
  09/279月28日にうしほ会が発行する添田平吉(不知山人)の『寸鉄』が発売頒布禁止の処分を受ける
  09/28神田区美土代町の基督教青年会館で日本エスペラント協会第1回大会が開かれる
     大杉栄が出席。会員番号は201
     大杉が余興に巌谷小波の「桃太郎」をエスペラントに翻訳し朗読する
  09/28凡人社が西川光次郎の『改革者の心情』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける【09/30?】
  09/28凡人社が山口義三の『革命家の面影』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/保釈後の大杉栄(21)が堀保子と結婚。市谷田町に住む【夫婦別姓とし入籍はせず?】
     兄の堀紫山は尾崎紅葉の「硯友社」の同人で『大阪朝日新聞』『読売新聞』の記者
     姉の堀美知子は堺利彦の前妻[1904(明治37)9月18日死去。享年35才【08/18?】]
  09/小松丑治、岡林寅松らが神戸平民倶楽部を結成。非戦運動、社会主義の研究をすすめる【1905(明治38)?】
  09/YMCAが大連市浪花町に開設した「満州婦人救済会」が救世軍に移管
     「救世軍大連婦人ホーム」となる
     ロンドンの救世軍万国士官学校に留学し社会事業を研究していた山田弥十郎中校が赴任
     1907(明治40)大連市飛騨町の新築施設に移転、救世軍大連婦人ホームとなる
     ホームは1911(明治44)6月末までに644人の女性を救済収容する
  10/初石川三四郎が幸徳秋水、堺利彦から日刊『平民新聞』の創立人となることを懇請される
     協議の末、受諾する
  10/10安部磯雄が『新紀元』第12号1ページに「東京市電市有論」を発表する
  10/10木下尚江が『新紀元』第12号7ページの時事評論に「日本国民の大誘惑」を発表する
     天皇制を批判しながら家族主義と国家を結びつける
  10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページに「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
  10/18神田区の錦輝館で社会党の演説会が開かれる。弁士9人のうち7人が中止をさせられるという事態に
     弁士は菊江正義、森近運平、矢木健次郎、松崎源吉、堺利彦、加藤時次郎、荒畑寒村、幸徳秋水、田添鉄二
  10/19日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第1回』を発行する
     1907(明治40)01/21日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第2回』を発行する
     1910(明治43)09/03『第1回』『第2回』ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/20足尾の日本鉱山労働会が機関紙『労働者の友』を発行する
  10/24岡山いろは倶楽部員の『私製葉書(社会主義ヲ記述セルモノ)』1枚が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日は不明
  10/25『光』第25号1ページに『平民新聞』発行の予告記事が掲載される
     「同志諸君に告ぐ(日刊平民新聞の発刊に就て)」「日刊平民新聞出んとす」
     同時に新たな平民社の組織化を予告し社員を募集
     以降第31号まで毎号に予告記事「日刊平民新聞彙報」が掲載される
     11/15第27号5ページ、11/25第28号5ページに(3)、
     12/05第29号5ページ、12/15第30号5ページに(5)、12/25第31号5ページに「発刊予告」
     のち発刊までに社員24人、印刷部員30人、寄稿家60余人に達する
  10/25『光』第25号5ページに永岡鶴蔵の『足尾銅山労働歌』が掲載される
  10/27永岡鶴蔵が南助松を足尾に呼び労働者組織の再建策をはかる
     南は夕張の至誠会を高橋信二らに任せ、18才の白井操を伴い足尾へ
  10/3111月1日に孔孟社が発行する北輝次郎(一輝)の『純正社会主義の経済学』が発売頒布禁止の処分を受ける
     副タイトルに(旁「社会経済学」と「最近経済論」に対する弁妄)がつく
  10/堺利彦が由分社を解散するとともに、『家庭雑誌』を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
  10/山川均が『平民新聞』の創刊に編集部員として参加するよう幸徳秋水に招かれる
     山川は1904(明治37)6月、『青年の福音』筆禍事件で服役ののち仮出所
     6月11日には東京を離れ生まれ故郷の倉敷に戻る
     12/中任されていた義兄林源十郎の薬店岡山支店を辞し上京
     錦町に下宿し新富町の平民社で初めて堺利彦に会う
  秋/添田平吉の発案で運動会が開かれる。場所は戸山が原
     写真には戸恒保三、渡辺政太郎、岩崎吉勝、南操子、吉川操、師岡千代子、安成貞雄、中里介山、柴田三郎、
     堺利彦、堺ため子、福田英子と千秋、西川文子と満児、添田唖蝉坊、添田ため子、添田知道、ほかに竹久夢二、竹久彦乃の姿も
  11/05西川生が『光』第26号1ページに「社会主義と農民」を発表
  11/05『光』第26号4ページに講演「社会主義と無政府主義」の大要を掲げる
     内容は10月13日に開かれた茶話会講演の大要
     堺利彦はディツゲンの立場で社会主義と共産主義の差異をなるべく少なくしようと折衷的態度をとる
  11/101905(明治38)11月10日に創刊したキリスト教社会主義の機関誌『新紀元』が第13号を最後に廃刊
  11/10『新紀元』終刊号が刊行される
     石川三四郎は前後して福田英子の主宰で『世界婦人』創刊の準備に取りかかる
  11/13前川文栄閣が笹島天空の『唯神論』を発行する
     11/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/16平民書房が久津見蕨村【息忠?】の『無政府主義』を発行する。定価50銭
     発行人は熊谷千代三郎、印刷人は岡千代彦、印刷所は自由活版所
     第1章 緒言、第2章 ブルードンの無政府主義、第3章 スチルネルの無政府主義、
     第4章 バークニンの無政府主義、第5章 クロパトキンの無政府主義 第6章 独英諸国の無政府主義
     2種類あり。もうひとつの著者は久津見忠息
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/24宮武外骨が吉岡哲夫、中井隼太、乾吉次郎、日野国明とともに「社会主義研究会」の設立をはかる
     宮武外骨は大阪で『滑稽新聞』を発行
     「平民社一派の極端なる社会主義を採らず穏健で実行のできる社会主義を主張」する
     1907(明治40)04/12宮武外骨が「社会主義研究会」を設立
     研究会の顧問、『活殺』の編集人として東京から社会主義者の森近運平を招く
     05/15大阪の「社会主義研究会」が機関誌『活殺』を創刊
     編集は森近運平、発行資金は宮武外骨がだす
     執筆は森近、宮武のほか安部磯雄、島田三郎、大谷誠夫、河野広中、村松恒一郎などが寄稿
     発行後森近の「宗教の堕落」が会の綱領に反すると日野国明が強硬に異議
     研究会で内部分裂、社会主義研究会は解散し『活殺』は創刊号のみで廃刊に
     06/01組織をかえて新たに『大阪平民新聞』を創刊
  11/25『光』第1巻第28号4ページに掲載の大杉栄訳「新兵諸君に与ふ」が朝憲紊乱に
     「新兵諸君に与ふ」はフランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     発売を停止、秩序壊乱の告発をうける
     11/28「新兵諸君に与ふ」が新聞紙条例違反に問われる
     山口孤剣が『光』の発行編輯人として発売頒布の禁止命令を受ける
     1907(明治40)02/05「新兵諸君に与ふ」筆禍事件は東京地方裁判所で軽禁錮2か月の判決を受ける
     04/06東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
     04/10倉富検事長が上告する
     05/31大審院で軽禁錮8か月、罰金100円を言い渡される
     山口は「父母を蹴れ」筆禍事件で入獄中。そのまま引き続きの在獄となる
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  11/25『革命評論』第6号付録1ページの土地復権会記事の内に桃中軒牛右衛門(宮崎滔天)の「落花の歌」が掲載される
  11/26座間止水が東海道、山陽地方の75日間に及ぶ遊説の旅から帰京
     神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、岡山、広島の8府県に及び演説会を13回。聴衆はおよそ4千人を集める
  11/28日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『坑夫に与ふるの書』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/30小木曾助次郎が1枚ものの『社会主義とはドンナもの』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/救世軍日本本営が京橋区銀座2丁目11番地に移る
     岸田吟香の店を譲り受ける
  12/02大阪の砲兵工廠で賃上げのストライキが起きる
  12/05永岡鶴蔵、南助松らにより大日本労働至誠会足尾支部が結成する
     夜、足尾の通洞金田座で坑夫500人を組織し結成大会兼演説会が盛大に開かれる
     運動の本拠が夕張から足尾に移る
  12/07大日本労働至誠会足尾支部がいろは座で演説会を開く
     12/24金田座で演説会を開く
     1907(明治40)01/08金田座で演説会を開く
     のち1月9日にはいろは座で、11日には花柄平で演説会を開く
     01/26金田座での演説会で南は千人を超える聴衆を前に資本家などの不正を糾弾
     01/29いろは座での労働問題演説会は600余人の聴衆を集め、足尾銅山所長南挺三に対する弾劾演説会に
     02/01古足尾の鶴屋では足尾全山の山中当番総代会が開かれる
     待遇改善など請願24か条を決め、6日の午前9時から至誠会の総会にて坑夫一同で請願することになる
  12/15労働紹介所や簡易宿泊所などの社会事業活動をしていた救世軍が貧民窟への慰問籠配布を開始
     密柑籠のなかには手拭い、足袋、パン菓子、密柑、玩具、絵本。あるいは餅、米、麦や機関紙『ときのこゑ』などが入る
     東京市内の3大貧民窟、下谷区万年町、芝区新網町、四谷区鮫ケ橋の1千戸へ配布する
     毎年つづけられる。東京毎日新間社の応援も得られる
     のち慈善鍋となる
     のち社会鍋へと変化、発展する
  12/18「貧富の戦争」筆禍事件の被告山口孤剣が東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     1審の高木益太郎をはじめ鵜沢総明、桜井熊太郎、今村力三郎が弁護に
     「貧富の戦争」は1906(明治39)9月24日に『光』の号外として発行。28日に新聞紙条例違犯に問われる
     1907(明治40)02/05「貧富の戦争」筆禍事件は大審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
  12/20アメリカ、オークランドの「社会革命党」の機関紙として日英両語の新聞『革命』が発刊される【12/01?】
     1907(明治40)02/10第2号が発行される
     04/01第3号が発行される。廃刊となる
     11/03『暗殺主義』が発行される
  12/25日本社会党の機関紙『光』が日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
     創刊は1905(明治38)11月20日
  12/29うしほ会が添田平吉の『新俗躰詩 嗚呼金の世』を発行する
     1910(明治43)08/10発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/29うしほ会が添田平吉の『新俗体詩 あゝ金の世』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/管野すがが妹ひでを伴い上京する。牛込区市ケ谷に仮寓
     管野すがは丸の内の毎日電報の社会部記者として就職する
  12/管野すがが堺利彦に会う。管野は過去の生活一切を告白、更生を誓う
     堺に荒畑寒村との結婚の諒解を得る。堺の仲介で結婚
     1908(明治41)05/管野と荒畑の仲が冷え、一時別居
  12/加藤時次郎が妻さきとヨーロッパの医療事情視察を名目に日本を離れる
     1907(明治40)08/18シュトゥットガルトで開催中の第二インターナショナルに日本代表として参加。〜8月24日
     現実的な社会改良主義の必要性を痛感して帰国
  年末/救世軍が神田区三河町3丁目1番地に「労働寄宿舎」を開設する
  救世軍が「労働寄宿舎」と同時に本所区花町に簡易食堂の「禁酒一膳飯屋」を開店させる
     のち労働者のための「安心にして信用すべき料理店」と称し、毎日100人ほどの利用者となる
  東京毎日新聞社が救世軍の貧民窟へ慰問籠の配布計画に賛同
     金品の届け先を東京京橋区尾張町の東京毎日新聞社と、東京銀座2丁目の救世軍本営に
     寄付者の氏名と金品の目録を『東京毎日新聞』にのせ領収書にかえることに
     慰問籠の配布状況は『東京毎日新聞』と救世軍の『ときのこゑ』紙上に報告することに

  明治39年から40年にかけて日露戦争ね賞金で遊廓がうるおう。花柳界が好景気に

  神近市子が活水女学校の中等科に進む
  神近市子が自作の小説「ローラ・イイ」を雑誌『少女世界』に投稿、掲載される
  足尾銅山、岩鼻火薬製造所の国産ダイナマイトの試験を行ない成功し使用を開始する




1907(明治40)〜

  トップページ
  「日本社会運動史年表」は編集著作権で保護されます
   (c) 2011-2015 makuramoto all right reserved.