日本社会運動史年表  群馬県が廃娼県になるまでの年表

足尾鉱毒事件略年表
 2014(平成26)07/12(土)初回立上
 2015(平成27)12/14(月)最終更新


 1889事象
  年表をご覧になる前にお読みください

 ▼年号帯内の白抜き数字は田中正造の年令です
 ▼1907(明治40)02/☆足尾暴動事件に関しては「日本社会運動史年表」を参照ください
 ▽1891(明治24)12/☆「答弁」の本文【未】
 ▽1901(明治34)12/☆「鉱毒地を訪ふの歌」の歌詞【未】
 ▽1901(明治34)12/10☆直訴状文
 ▽1901(明治34)12/☆直訴【未】
 ▽1902(明治35)01/☆「鉱毒悲歌」の歌詞【未】
 ▽1905(明治38)12/☆「一ツとや節」の歌詞
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前史

  1610(慶長15)足尾に銅山が発見される
     のち江戸幕府直轄のもと開発が進められる
  貞享年間(1684〜1688)年間生産高が1300トン以上を記録する
  1832(天保03)04/16《03/16》古河市兵衛が京都岡崎の造り酒屋の二男として生まれる
  1841(天保12)12/15《11/03》田中正造が下野国安蘇郡小中村の父田中富蔵、母サキとのあいだに生まれる
  1868(明治01)足尾銅山が明治新政府に没収され民営化。真岡県が管轄することに
  1869(明治02)02/15真岡県が日光県と改称し足尾銅山の管轄が日光県に移る
  1871(明治04)12/25《11/14》壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県が統合され栃木県となる
  1871(明治04)栃木県が政府に足尾銅山の資金援助を要請。鉱山寮技師長のゴットフリーが民営移管を示唆する
     のち経営者が岡田平蔵、福田治平にかわる
  1872(明治05)05/04利根川の水位の観測がはじまる
  1872(明治05)足尾銅山が横浜の野田彦蔵に払い下げる
  1873(明治06)06/15宇都宮県と栃木県が合併して今日の栃木県が成立、県庁が栃木町に置かれる
  1873(明治06)07/20太政官布告第259号。日本抗法が公布される
     今般鑛山其他諸坑業ノ規則別册ノ通改定候ニ付テハ凡坑物ニ關係ノ事件ハ
     工部省ニ於テ總管セシメ候條自今金屬其外諸坑物營業ノ儀都テ同省ヘ可申立候此旨布告候事
  1873(明治06)足尾銅山の経営者が副田欣一にかわる
  1874(明治07)01/09土木寮が大蔵省から内務省に移管
  1874(明治07)07/谷中8か村のうち高砂村、西高砂村、篠山村、横堤村、鎌立村、赤渋村が合併し内野村となる
     【合併は1876(明治09)4月?】
     【赤渋村は江戸時代末期に住民がいなくなったため、周囲の村に包含される】
     それまでの下宮村、恵下野村とあわせ谷中3か村になる

1875(明治08) 35

  小野組から独立した43才の古河市兵衛が元相馬藩主を義人として草倉銅山の払い下げを受ける
     下請けとして「古河本店」を掲げ鉱山経営を行なう

1876(明治09) 36

  《内務卿》[第5代]大久保利通
  《大警視》[第1代]川路利良
  《栃木県令》[第1代]鍋島貞幹(1871(明治04)11/13→)
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦(08/21→)
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  12/30足尾銅山の副田欣一と古河市兵衛との間に買収契約が成立。古河が足尾銅山の権利を得る
     経営は古河と相馬家の家令で実質的代表でもある志賀直道の共同とする。志賀を表面上の名義に
     資金、損益とも2人で折半することに。譲渡代金は4万8380円
  渡良瀬川沿岸の群馬県山田郡の鮎の年産額
     大間々町で83万尾、広沢村で3万3千尾、毛里田村で1万3千尾、境野村で12万6千尾、計100万2千尾に

1877(明治10) 37

  《内務卿》[第5代]大久保利通
  《大警視》[第1代]川路利良
  《栃木県令》[第1代]鍋島貞幹
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  02/18古河市兵衛が元相馬藩主を買い取り名義人として足尾銅山を4万8千円で買収
     【4万8330円】
     【1877(明治10)03/足尾銅山の譲渡代金のうちの即金分の支払いと引き継ぎを完了】
     相馬家で家令の志賀直道と共同で操業を開始する
     のち生野鉱山で働く中江種造を起用し廃山同然の銅山に近代的な開発を積極的に行なう
     銅生産量を急増させることに成功。のちの古河グループに至る事業の基盤をつくる
     また銅山は日本の公害の原点となる足尾鉱毒事件を引き起こすことに
     のち数年間はまったく鉱業成果がでず
  大旱魃により起き利根川と渡良瀬川にはさまれた2つの「待堰」「矢場堰」が大規模な水争いを起こす
     のち群馬県が仲介となり2つの管理組合が和解し「待矢場両堰水利土功会」として一元管理体制になる
     【群馬県が待矢場両堰水利土功会をつくったのは1892(明治25)3月?】

1878(明治11) 38

  《内務卿》[第5代]大久保利通(→05/14)、[第6代]伊藤博文(05/15→)
  《大警視》[第1代]川路利良
  《栃木県令》[第1代]鍋島貞幹
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  07/38才の田中正造が栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身を捧げることを誓う
  渡良瀬川の鮎が大量死する。原因は分からず

1879(明治12) 39

  《内務卿》[第6代]伊藤博文
  《大警視》[第1代]川路利良(→10/13・在任中に死去)、[第2代]大山巌(10/16→)
  《栃木県令》[第1代]鍋島貞幹
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  04/14栃木県にて第1回通常県会が開催される
  夏/栃木県の渡良瀬川で数万尾の魚類が浮上する。原因は不明
  10/01政府が足尾銅山の譲り受けを認可する
  下宮村、恵下野村、内野村の谷中3か村の総戸数365戸、人口1926人

1880(明治13) 40

  《内務卿》[第6代]伊藤博文(→02/28)、[第7代]松方正義(02/28→)
  《大警視》[第2代]大山巌(→02/28)、[第3代]樺山資紀(10/23→)
  《栃木県令》[第1代]鍋島貞幹(→10/29)、[第2代]藤川為親(10/29→)
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  01/01渋沢栄一が足尾銅山の共同経営に加わる
  02/40才の田中正造が補欠選挙で栃木県会議員に初当選
     のち以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす
  08/渡良瀬川が大氾濫する。冠水した稲が立ち腐れ、桑木が8〜9割方枯れる被害がでる
     誰の目にも足尾銅山の鉱毒を知らせるものに
  09/足利郡毛野村の早川忠吾らが渡良瀬川の水質検査を宇都宮病院調剤局長の大沢駒之助に依頼
     大沢は飲用不適と認定する
  11/田中正造が東京で開かれた第2回国会期成同盟大会に出席
     全国の民権家と意見を交わし、国会開設のため政党を結成する必要性を痛感する
  栃木県当局が渡良瀬川の魚類は衛生上害があるとして捕獲や売買、食用にすることを禁止に
  足尾銅山の不振が続き4代坑長に古河市兵衛の甥木村長兵衛を起用する
  古河は商標とし鉱業専業を宣言する

1881(明治14) 41

  《内務卿》[第7代]松方正義(→10/21)、[第8代]山田顕義(10/21→)
  《大警視》[第3代]樺山資紀、《警視総監》[第3代]樺山資紀(01/14→)
  《農商務卿》[第1代]河野敏鎌(04/07→10/20)、[第2代]西郷従道(10/20→)
  《栃木県令》[第2代]藤川為親
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助


  04/07日本の中央官庁機関として農商務省が設置される
     明治政府の殖産興業政策の一翼を担うことになる
  05/足尾銅山の鷹之巣坑に待望の有望鉱脈の直利を発見する
     直利は採掘価値の高い品位をもつ鉱石や脈幅をもつ鉱床のこと
     まもなく新しい鉱源が発見され、さらに新たな鉱脈や坑道の掘削が相次ぎ産銅量が急速に増加する
     年末足尾銅山鷹の巣坑で鉱脈を掘りあて収支があう状態になる
     のち単独経営のもと近代的な手法により鉱源開発を行なう
     結果、相次いで豊富な高床の発見に成功し急激に発展
     製錬技術の実用化や高品質の精銅製造が可能となり生産性も向上する
     反して、銅山の発展に伴い排煙で山がはげ山となり、洪水時には水のでが速く、多量の土砂が流れだすようになる
     洪水や灌漑用水により鉱滓などを含んだ土砂が農地に入り農作物への影響が生じはじめる
  渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が目立って増える。有望な銅の鉱脈が発見され産銅量が増加したため
     のち1884(明治17)にも同様の現象が同様の原因で起こる
  栃木県令の藤川為親が渡良瀬川河流の魚類の販売と魚類の食用を厳禁するとの公文を発する
     「渡良瀬川の魚族発売禁止」の訓令をだす
     【1880(明治13)? 訓令現物は不明?】
  栃木県の安蘇郡と足利郡で漁により生活するものは2773人を数える
     のち年を経るごとに人数が減る

1882(明治15) 42

  《内務卿》[第8代]山田顕義
  《警視総監》[第3代]樺山資紀
  《農商務卿》[第2代]西郷従道
  《栃木県令》[第2代]藤川為親
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第2代]白根多助(→03/15)[第3代]吉田清英(03/24→)


  10/01『自由新聞』に渡良瀬川の鮎鮭大漁の記事が載る
  12/18田中正造が立憲改進党に入党する
  この頃より渡良瀬川の鮎、鱒など、それまで多産の魚類が激減する

1883(明治16) 43

  《内務卿》[第8代]山田顕義(→12/12)、[第9代]山縣有朋(12/12→)
  《警視総監》[第3代]樺山資紀、[第4代]大迫貞清(12/13→)
  《農商務卿》[第2代]西郷従道
  《栃木県令》[第2代]藤川為親(→10/30)、[第3代]三島通庸(10/30→)
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦
  《埼玉県令》[第3代]吉田清英


  05/24陸奥宗光の次男潤吉が古河市兵衛の養嗣子となる
     のち政府と企業の関係性に不信感がもたれる原因となる
  07/28日本鉄道が上野と熊谷間を開通させる
     10/21熊谷と本庄間が延伸開業する
     12/27本庄と新町間が延伸開業する
     1884(明治17)05/01新町と高崎間を延伸開業させる
     08/20高崎と前橋間が延伸開業。上野と前橋の間が全通する

1884(明治17) 44

  《内務卿》[第9代]山縣有朋
  《警視総監》[第4代]大迫貞清
  《農商務卿》[第2代]西郷従道
  《栃木県令》[第3代]三島通庸
  《群馬県令》[第1代]楫取素彦(→07/30)、[第2代]佐藤與三(07/31→)
  《埼玉県令》[第3代]吉田清英


  01/21栃木県の県庁所在地を宇都宮に決定する
  01/内務省が江戸川流頭部の棒出しを石張で強化し幅をせばめる
  05/01日本鉄道が新町と高崎間を延伸開業させる
     08/20高崎と前橋間が延伸開業。上野と前橋の間が全通する
  05/足尾銅山が横間歩の大直利(鉱脈)に突きあたり、産銅量が飛躍的にのびる
     【横間歩に大直利が発見されたのは11月?】
     わずか5月の1か月だけで明治15年の年産額を産出するほどに
     のち足尾の産銅量が年間2286トンに達する
  09/27田中正造が三島県令暴政の証拠を収集中、妹リンの逮捕を知り館林に避難する
     09/28加波山事件の勃発と事件連累者にされていることを聞く
     10/03警察の追及を逃れ出京
     10/04自己の立場を釈明しようと警視総監官邸を訪ねるも不在
     島田三郎らに勧められ警視庁に出頭、留置される
     10/05警視庁より宇都宮警察署に送られる
     10/08栃木県監獄宇都宮支署に移される
     10/18加波山事件の連累者として収監状を受ける
     11/17佐野警察署に移される
     12/23佐野警察署より釈放される
     12/31佐野春日岡山惣宗寺で出獄大歓迎会が開かれ出席する
  10/11『下野新聞』が9月の暴風雨による洪水で鮎漁に影響がでたことを伝える
  10/22宇都宮の新栃木県庁舎の開庁式が挙行される
  11/足尾銅山の産銅量が一躍年産2286トンに。全国産銅量の26パーセントを占める優良鉱山となる
     のち明治20年代には日本の銅産出量のうち足尾産の銅が50パーセント近くを占めるまでに
  1881(明治14)に引き続いて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が目立って増える
     有望な銅の鉱脈が発見され産銅量が増加したため
  足尾銅山の鉱毒は着々と深刻化。銅製錬の亜硫酸ガスによる煙害がかなりの規模で顕在化する
  暮/足尾銅山からの煙害により渡良瀬川沿岸や近隣諸山の樹木が立ち枯れはじめる

1885(明治18) 45

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(12/22→)
  《内務卿》[第9代]山縣有朋(→12/22)、《内務大臣》[第1代]山縣有朋(12/22→)
  《警視総監》[第4代]大迫貞清、[第5代]三島通庸(12/22→)
  《農商務卿》[第2代]西郷従道(→12/21)、《農商務大臣》[第1代]谷干城(12/22→)
  《栃木県令》[第3代]三島通庸(→01/22)、[第4代]樺山資雄(01/22→)
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県令》[第3代]吉田清英


  06/26思川、巴波川、渡良瀬川で洪水が起こる。下都賀郡、寒川郡の被害が甚大となる
  06/26〜07/01渡良瀬川が洪水して鉱毒が激しくなる
  渡良瀬川沿岸で足尾銅山より流出する鉱毒のことがささやかれる
  07/16日本鉄道が大宮と栗橋間、中田仮と宇都宮間を開通させる
     橋脚が完成していない利根川は鉄道連絡船で連絡
     1886(明治19)06/17栗橋と中田仮間の利根川橋梁が開通。上野と宇都宮の間が全通する
  07/渡良瀬川で游泳せずに深淵に沈み、浅瀬に浮かぶ大量の鮎が発見される
     人々から足尾銅山より丹礬の流出が原因だろうと噂がたつ
     鮎の大量死は沿岸の漁師にとって初体験。渡良瀬川の鮎の絶滅につながるとは思わず次年の漁に期待をする
  07/渡良瀬川の異変の前兆として大量の鱸(スズキ)が上ってくる
  07/29『下野新聞』が渡良瀬川に大量の鱸の溯上があることを伝える
  08/渡良瀬川に生息する鮎など魚類の大量死がはじまる
  08/12『朝野新聞』が渡良瀬川の魚が少なくなったこと、死んで流れてくる魚が増えたことを報じる
     その原因を足尾銅山の丹礬にあると伝える【足尾銅山が原因かもしれない、と曖昧な表現をする?】
  10/03全国的な不況のもと『下野新聞』が「足尾銅山」の好況を伝えるなかで煙害被害を訴える
  10/31『下野新聞』が足尾の木が枯れはじめていることを報じる
  梁田郡朝倉村が『地誌編輯材料取調書』をまとめる
     渡良瀬川について記す
     「魚は鮎・鮠(はや)多く居りたれども明治十五年頃より足尾銅山工事開設以来右魚類更に相見えざりき」
  足尾官林を管理する栃木県が20年を周期とする輪伐区制を設定する
  足尾銅山周辺の栃木県足尾村、赤倉、高原木、仁田元、久蔵、間藤、松木の農作物に被害
     製錬所排出ガスによる被害が発生する
     6村共同で知事へ請願の準備。赤倉龍蔵寺住職の差金で松木を除外して古河から示談金が支払われる
     【松木を除く5か村が古河と示談?】
  この年より足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川と沿岸に広がる
     渡良瀬川沿岸の農作物が年々目に見えて激減する

1886(明治19) 46

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋
  《警視総監》[第5代]三島通庸
  《農商務大臣》[第1代]谷干城
  《栃木県令》[第4代]樺山資雄
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県令》[第3代]吉田清英、《埼玉県知事》[第3代]吉田清英(07/19→)


  04/01田中正造(46)が第13回臨時県会で議長に選ばれる
  05/13ムルデルが利根川の改修計画を作成する。妻沼から海まで
  05/日本初の民間電話が足尾銅山に誕生、銅山と宇都宮・日光・東京を結ぶ
  06/17日本鉄道の栗橋と中田仮間の利根川橋梁が開通。上野と宇都宮の間が全通する
  11/志賀直道が足尾銅山の共同経営から脱退する【相馬家が脱退?】

1887(明治20) 47

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋
  《警視総監》[第5代]三島通庸
  《農商務大臣》[第1代]谷干城(→07/26)、[第2代]土方久元(07/26→09/17)、[第3代]黒田清隆(09/17→)
  《栃木県令》[第4代]樺山資雄
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県知事》[第3代]吉田清英


  04/足尾銅山の松木地区で野火大火、松木川沿岸の住宅と製錬工場が全焼する
     【火災は松木村?】
  06/渡良瀬川の魚が減り、漁業者がほとんどいなくなる。原因は毒水(丹礬、銅末)の流出による
     渡良瀬川の魚類が絶滅寸前に。それでも近くの枝川などではまだ魚類が豊富にとれる
  06/栃木県梁田郡野田村、梁田宿、福富村が『渡良瀬川筋古今沿革調』を発表する
     【梁田郡の梁田宿外4村用係が渡良瀬川について記録する?】
     足尾銅山が開設して以来の魚類の絶滅を指摘。その原因を断定する
     「鉱穴の毒水(丹礬または銅末なりという)流出して本川に入り、生魚ことごとく他川に逃去せしに因るなり」
     「水源の足尾に銅山が開けてより、鉱毒水が流出し、魚類を減らし、絶滅に近くした」
  08/05『読売新聞』が渡良瀬川に鮎は1尾もいなくなったと記す
  秋/東京専門学校の政治学科学生たちが行政学討論で鉱毒問題を提起する
    栃木県足利町出身の須永金三郎や栃木県梁田郡梁田村出身の長祐之ら
    郷里に帰り鉱毒問題を訴えるも、世論を喚起するまでには至らず
  足尾本山に火力発電所が創設される
  谷中村の内野と恵下野に漁業専業従業者13人、漁業兼業従業者62人。計75人が営業
     のち鉱毒被害の影響で10年後には10人に激減する
  ムルデルの計画に基づく利根川の工事がはじまる。主に低水工事

1888(明治21) 48

  《総理大臣》[第1代]伊藤博文(→04/30)、[第2代]黒田清隆(04/30月→)
  《内務大臣》[第1代]山縣有朋、[第2代]山縣有朋(04/30月→)
  《警視総監》[第5代]三島通庸(→10/23・在任中に死去)、[第6代]折田平内(10/24→)
  《農商務大臣》[第3代]黒田清隆(→04/30)、榎本武揚〈黒田内閣・逓信大臣による臨時兼任〉(04/30月→07/25)
  《農商務大臣》[第4代]井上馨(07/25→)
  《栃木県令》[第4代]樺山資雄
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県知事》[第3代]吉田清英


  05/22両毛鉄道の小山と足利間が開通する
     11/15足利と桐生間が延伸開業する
     1889(明治22)11/20桐生と前橋間が開通。小山と前橋の間が全通する
     12/26日本鉄道の前橋と両毛鉄道の前橋がつながる
     日本鉄道の前橋は廃止に
  06/渋沢栄一が足尾銅山の共同経営から脱退する。古河市兵衛の単独経営となる
  07/05足尾銅山とフランスの銅シンジケート代理店との間に産銅全額買い取りの契約が成立する
     英国商社ジャーディン・マセソン商会を介する
     契約は8月から29か月間、古河の産銅全額1万9千トンを横浜渡し100斤20円75銭で売買するというもの
     (1斤=0.6キログラム)
     【3か年?】
     【同年8月から1890(明治23)年12月まで古河鉱業会社の1.9×1万トンの銅を引き渡す契約が成立?】
     足尾銅山は履行のため大増産に追いこまれる
     のち契約履行のため産銅量をさらに5、6割高めることに
     のち選鉱、製錬のとき生じる鉱さいや廃石などが渡良瀬川に廃棄され汚染が一挙にすすむ
     1889(明治22)シンジケートが瓦解し銅が大暴落するも、古河は契約により巨額の利益を収める
     先の共同経営者相馬家と渋沢栄一は手を引き、銅山の利益は古河が独占。市兵衛は「銅山王」と称されるまでに
  07/25渡良瀬川が大洪水をおこす。農地が荒れる
  08/大洪水で多数の家屋の浸水を含む2県7郡の農地が鉱毒の泥の海となる
     農作物がことごとく腐るという鉱毒被害となってあらわれる
     【大洪水で渡良瀬川、利根川の沿岸一帯を泥土の海に。田圃が鉱毒でおおい尽くされる?】
  10/志賀直道渋沢栄一が銅山組合の持分を古河市兵衛に譲渡する
  鉱毒の被害が栃木県の作物にあらわれる
     栃木県足利郡吾妻村村長の上申書に稲作への被害が本年から出始めたと記される
  渡良瀬川から灌漑する農地で部分的にしても一粒も収獲がない被害があらわれはじめる
  栃木県足尾村の松木地区で亜硫酸ガスの煙害により桑樹が全滅。唐風呂でも被害増となる
  栃木県の安蘇郡と足利郡で漁により生活するものは788人に。専業はその約3分の1
  渡良瀬川のかつての豊かな魚類の面影はなくなる。量的にも物産といえない絶滅寸前の状態に
     すでに高級魚の鮎はなく、わずかに留める鮭で最後となる。生業として漁業は成り立たず
  翌年に実施される市制町村制の諮問案が下都賀郡郡長からだされる
     下宮村、内野村、恵下野村、藤岡町が合併するというもの
     対して谷中3か村の住民から藤岡町との合併に反対する意見がだされる

1888(明治21)・1889(明治22)頃

  政府が足尾銅山付近の官林7600町を古河市兵衛に払い下げる
     また栃木県の官林3700町を下都賀郡郡長の安生順四郎に払い下げる
     合計1万1300町の官林と材木の払い下げ価格はわずか1万1100円に

1889(明治22) 49

  《総理大臣》[第2代]黒田清隆(→10/25・単独辞任)、[黒田内閣]三條実美内大臣が兼任(10/25→12/24)
  《総理大臣》[第3代]山縣有朋(12/24→)
  《内務大臣》[第2代]山縣有朋、[第3代]山縣有朋内閣総理大臣が兼任(12/24→)
  《警視総監》[第6代]折田平内、[第7代]田中光顯(12/24→)
  《農商務大臣》[第4代]井上馨(→12/23)、[第5代]岩村通俊(12/24→)
  《栃木県令》[第4代]樺山資雄(→12/23)、《栃木県知事》[第5代]折田平内(12/24→)
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県知事》[第3代]吉田清英(→12/26)[第4代]小松原英太郎(12/26→)


  04/01足尾村に町制が施行され上都賀郡足尾町となる
  04/01内野村、恵下野村、下宮村の3か村が合併し谷中村が誕生する
     前年、下都賀郡郡長の諮問案にあった藤岡町との合併はされず
     谷中村は周囲を渡良瀬川、思川、巴波川、赤麻沼にかこまれ、地理的にも一体性をもつ地域
     藤岡町と合併せず3か村で谷中村としたのは必然性はある
  04/01市町村制度が改定。内野村、恵下野村、下宮村の3村が合併して谷中村ができる
     面積13平方キロメートル、人口2700人、戸数450戸【全376戸?】
  04/01町村制の施行により栃木県安蘇郡に5町10村が誕生する
     佐野町、植野村、界村、犬伏町、堀米町、田沼町、三好村、葛生町、
     常盤村、氷室村、野上村、飛駒村、新合村、赤見村、旗川村
  04/01町村制の施行により栃木県足利郡に1町8村が誕生する
     足利町、毛野村、富田村、吾妻村、北郷村、坂西村、三和村、小俣村、菱村
  04/01町村制の施行により栃木県梁田郡に5村が誕生する
     梁田村、久野村、御厨村、筑波村、山辺村
     1896(明治29)04/01足利郡と梁田郡の区域に改めて足利郡を設置。梁田郡が廃止となる
  04/01町村制の施行により栃木県下都賀郡に4町31村が誕生する
     栃木町、大宮村、国府村、壬生町、稲葉村、南犬飼村、姿村、国分寺村、桑村、絹村、小山町、大谷村、
     間々田村、野木村、生井村、寒川村、穂積村、豊田村、中村、瑞穂村、水代村、部屋村、藤岡町、谷中村、
     赤麻村、三鴨村、岩舟村、小野寺村、富山村、静和村、皆川村、吹上村、寺尾村、赤津村、家中村
  04/01町村制の施行により群馬県邑楽郡に1町21村が誕生する
     館林町、郷谷村、大島村、西谷田村、海老瀬村、大箇野村、伊奈良村、赤羽村、千江田村、梅島村、佐貫村、
     六郷村、三野谷村、富永村、永楽村、大川村、小泉村、高島村、中野村、長柄村、多々良村、渡瀬村
  04/01町村制の施行により茨城県猿島郡に1町17村が誕生する
     静村、長田村、八俣村、幸島村、猿島村、森戸村、生子菅村、逆井山村、七重村、
     沓掛村、弓馬田村、飯島村、神大実村、岩井村、七郷村、中川村、境町、長須村
  04/01町村制の施行により埼玉県北埼玉郡に4町52村が誕生する
     上中条村、今井村、小曽根村、大塚村、北河原村、南河原村、成田村、須加村、星河村、星宮村、荒木村、
     持田村、太井村、忍町、長野村、下忍村、太田村、真名板村、藤間村、関根村、埼玉村、広田村、屈巣村、
     笠原村、新郷村、川俣村、岩瀬村、羽生町、須影村、井泉村、村君村、北荻島村、中手子林村、手子林村、
     志多見村、共和村、田ヶ谷村、騎西町、種足村、高柳村、礼羽村、不動岡村、三田ヶ谷村、大越村、樋遣川村、
     三俣村、加須町、鴻茎村、水深村、大桑村、豊野村、原道村、元和村、東村、麦倉村、川辺村
  07/30★土地収用法(法律第19号)が公布される   11/20両毛鉄道の桐生と前橋間が開通。小山と前橋の間が全通する
     12/26日本鉄道の前橋と両毛鉄道の前橋がつながる
     日本鉄道の前橋は廃止に
  洪水が起こる
  栃木県の足利郡、安蘇郡、梁田郡、下都賀郡が鉱毒で非常な不作となる
  足尾銅山の煙害により栃木県足尾町松木地区での養蚕が廃止
     現金収入の道が途絶する。農作被害も激増する
  シンジケートが瓦解し銅が大暴落するも、古河は契約により巨額の利益を収める
     先の共同経営者相馬家と渋沢栄一は手を引き、銅山の利益は古河が独占。市兵衛は「銅山王」と称されるまでに

1890(明治23) 50

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋
  《内務大臣》[第3代]山縣有朋内閣総理大臣が兼任、[第4代]西郷従道(05/17→)
  《警視総監》[第7代]田中光顯
  《農商務大臣》[第5代]岩村通俊(→05/17)、[第6代]陸奥宗光(05/17→)
  《帝国議会》[第1回通常会](11/29→)
  《栃木県知事》[第5代]折田平内
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三
  《埼玉県知事》[第4代]小松原英太郎


  01/27『郵便報知新聞』に「渡良瀬川の魚族絶つ」と題した記事が載る
  04/01田中正造が第20回臨時県会にて議長を退任する
  05/17第1次山縣有朋内閣で陸奥宗光が農商務大臣に就任する
  05/谷中村が機械での排水事業を計画する
  06/07田中正造に対抗する木村半兵衛派が田中支持者を襲撃する
     足利の原田●【王偏に進・しん】三郎らが襲われる
  07/01第1回衆議院議員総選挙が行なわれる
     立憲改進党候補で50才の田中正造が栃木第3区より出馬
     対立候補は自由党の足利織物買次の豪商木村半兵衛
     開票の結果、田中797票、木村672票
     のち田中は県会議員を辞任する
     のち以後6回連続して田中が当選。この間改進党、進歩党、憲政党、憲政本党議員として全国各地で演説
     のちその後の選挙でも田中と木村が対抗。回を重ねるごとに田中の得票は増加し、逆に木村の得票は漸減する
  08/07足尾字小滝銅山の薪炭夫300余人が不平をとなえ、銅山会社倉庫に迫り暴行
     会社請願巡査の松本某が主張し説諭中に、さらに暴行に及び巡査の頭部を負傷させる
     原因は薪炭夫に賃金以上の過酷な労働を課したため
  夏/渡良瀬川に魚族絶つとして在京の栃木県足利郡、梁田郡、安蘇郡の出身者と地元民が東京で会合を開く
     08/12『朝野新聞』が報じる
  08/23渡良瀬川が足尾銅山の乱伐と亜硫酸ガスの被害による禿山化が原因で大洪水を起こす
     のち洪水が引いたあと農作物などに異変が生じる。農民の間に「鉱毒だ」との声が高まる
     魚類も死滅し農民漁民の被害が甚大になる
  08/23渡良瀬川沿岸が氾濫し大洪水にみまわれる
     50年ぶりといわれる洪水は足尾銅山の鉱毒を誰の目にも明らかにした最初のもの
     田畑被害はそれ以前の洪水被害とは全く異なった様相に
     稲は冠水しただけで腐り穂がでず、桑木は8、9割方枯れる状態が現出する
     かつての洪水は上流の腐葉土をもたらしかえって農作物は繁茂
     精農は岸辺の沈澱土を田畑に運び肥料としたのに、それが作物の育成を遅らせる結果に
  08/23大洪水で渡良瀬川沿岸一帯の農地を襲いいっきょに鉱毒被害を顕在化させる
     局部的被害は大洪水で多数の家屋の浸水を含む2県7郡の農地を鉱毒の泥の海に
     農作物がことごとく腐る鉱毒被害となる
     栃木県、群馬県の7郡28町村の農地1600ヘクタールに鉱毒被害が発生する
     【栃木県、群馬県の1650町歩に鉱毒被害が発生?】
     【流域約1万ヘクタールの農地に鉱毒水が冠水する大洪水が来襲?】
     のち衝撃的な鉱毒の農地被害は渡良瀬川沿岸農民の間に、さまざまな動きを生起させる
     のち行政府への上申や請願の形で鉱毒反対の運動が繰り広げられるようになる
  08/23大洪水が栃木県、群馬県に被害をもたらす
     特に栃木県谷中村で大きな被害をだし、谷中村が「50年来の大洪水」となる
  08/23大洪水の原因は足尾銅山のエネルギーの頼りになるのは、は付近の森林から作った木炭
     (直利精練所での木炭の年間使用量は約1万2千トン)
     大量の木炭を生産するための乱伐と洗練所の煙突からでる亜硫酸ガスによる枯死が原因となり、
     山の保水能力が衰え、川に流れ込んだ土砂や廃棄された鉱石の滓が川床を埋めることに
     結果、渡良瀬川は以前にも増して洪水が起こりやすい川になる
     のち古河が1千万円の巨費を投じて鉱毒防除設備を整える
  08/大洪水に対して農作物被害の実態、洪水や鉱毒被害に関する調査が行なわれる
  09/渡良瀬川沿岸の農業、漁業に異変が顕著となる
  09/26鉱業条例が公布される
     1892(明治25)06/01施行される
     帝国憲法体制のもと鉱山の保護、育成を法的に裏付ける
  10/栃木県足利郡選出の県会議員早川忠吾らが渡良瀬川の水質試験を県立宇都宮病院の調剤局長大沢駒之助に依頼する
     【栃木県足利郡毛野村の被害農民?】
     10/14宇都宮病院の調剤局は川水が亜硝酸、銅、アンモニアを含有し飲用には適さないと報告する
     10/21分析結果を『下野新聞』に発表する
  秋/渡良瀬川で大洪水があり堤防が決壊し河水が氾濫、災害が甚大になる
  11/25〜12/25田中正造が第1回帝国議会にて陸奥宗光議員の議会欠席などについて意見、質問
  11/26『東京日日新聞』が水害による被害が農作物に及び、原因が足尾銅山の鉱毒にあると伝える
     農民が意識しはじめる
  11/谷中村村会が足尾銅山の古河市兵衛に損害補償と製錬所の移転を求める決議をなす
     「渡良瀬川丹礬水に関する村会の決議」を採択する
     のち周辺町村に対して決議に同盟して共同交渉をするよう求める
     栃木県安蘇郡界村、下都賀郡三鴨村、藤岡町ほか数か村と、群馬県邑楽郡除川村ほか数村
  12/08在京の長祐之が鉱毒に関して『下野新聞』で訴える
     のち長が帰郷。栃木県会議員の早川忠吾、足利郡吾妻村の村長亀田佐平らと鉱毒対策の先頭に立つ
  12/18足利郡吾妻村が臨時村会を開く
     足尾銅山から流出する丹礬毒が農作物に有害であると断定、銅山の調査を求める議決を行なう
     放っておけば渡良瀬川沿岸の村落はまもなく「荒蕪の一原野となり村民ことごとく離散せん」と予見
     村長の亀田佐平が県知事あてに足尾銅山の製銅所採掘停止を求める決議を採択、上申書を提出する
     「一個人営業ノ為メ社会公益ヲ害スル者ニ付其筋ヘ禀請ノ上該製銅所採掘ヲ停止」するよう栃木県知事に上申
     「鉱業停止」要求の上申は鉱毒反対闘争を貫く最初の鉱業停止要求であり運動の先駆となる
     のち足尾銅山と鉱毒被害地の双方が地元という事情から議会が紛糾する
  12/栃木県会で鉱毒問題が論議され、足尾鉱毒事件が大きな社会問題として登場する
     県会の決議により議長の中山丹治郎が知事の折田兵内あてに「丹礬毒ノ義ニ付建議」を提出する
  12/栃木県会が足尾鉱毒除去への処分を求めて県知事あてに建議を提出する
  12/足尾銅山が間藤に日本最初の水力発電所を竣工する
  谷中村で臨時の村会が開かれる
     村債3万円をおこし堤防を修復、新たに500町歩(496ha)を開拓するという決議
     【11月の谷中村村会と同じ?】
  田中正造が、早稲田専門学校の左部彦次郎を渡良瀬川沿岸の被害地へ派遣する
     左部は視察するため、群馬県邑楽郡大島村の小山孝八郎宅に約1年滞在
     孝八郎は栃木県小山町の城主小山義政の後裔
     孝八郎宅は館林街道に面して1千坪余りの大邸宅を構え、母屋は間口15間に奥行5間、
     表は長屋門を建てまわし、一部に私塾を開いて近郷の若い者に漢籍を教える
     【1891(明治24)秋に田中正造が左部彦次郎を派遣?】
  栃木県知事の折田平内が鉱毒試験田を設置する
     下都賀郡谷中村、安蘇郡植野村、足利郡吾妻村、足利郡毛野村、梁田郡川辺村、久野村など
     技師に土壌分析試験を依頼する
     のち正確な結果が得られず帝国大学農科大学に依頼する

1891(明治24) 51

  《総理大臣》[第3代]山縣有朋(→05/06)、[第4代]松方正義(05/06→)
  《内務大臣》[第4代]西郷従道、[第5代]西郷従道(05/06→)、[第6代]品川弥二郎(06/01月→)
  《警視総監》[第7代]田中光顯、[第8代]園田安賢(04/03→)
  《農商務大臣》[第6代]陸奥宗光
  《帝国議会》[第1回通常会](→03/07)、[第2回通常会](11/26→12/25・解散 蛮勇演説)
  《栃木県知事》[第5代]折田平内
  《群馬県令》[第2代]佐藤與三(→04/09)、《群馬県知事》[第3代]中村元雄(04/09→)
  《埼玉県知事》[第4代]小松原英太郎(→04/09)、[第5代]久保田貫一(04/09→)


  02/群馬県会が足尾鉱毒事件を論議する
  03/20群馬県会の議決により議長の宮口二郎が県知事佐藤与三あてに建議書を提出する
     足尾銅山鉱毒への「精密調査」と「鉱毒救済」を遂げるよう要望する
     提案者のひとり武内格太郎は山林伐採を取りあげる
  03/群馬県新田郡の水利管理組合の待矢場両堰水利土功会と古河市兵衛との間に示談契約が交わされる
     水利土功会の管理者は新田郡郡長
     のち多くの示談が成立する
  04/03栃木県足利郡吾妻村が再び被害調査依頼の上申書を知事に提出する
     前年12月提出の上申書に知事からの返答がないため
  04/各地の運動が活発になり栃木県当局も被害状況の調査にのりだす
     県知事が被害町村を巡回、臨時常置委員会を開催して調査費の支出を決定
     帝国大学農科大学の助教授古在由直と助教授長岡宗好に被害地の巡回調査と土壌分析を依頼する
  04/13栃木県知事が安蘇郡、足利郡、梁田郡など渡良瀬川沿岸の実況見まわりをする
     のち鉱毒被害調査費として140余円の支出を決定する
  04/渡良瀬川上流の群馬県待矢場両堰水利土功会が帝国大学医科大学教授の丹波敬三に鉱毒調査を依頼する【土功組合?】
     水利土功会自らも足尾銅山へ現地調査する
     【群馬県新田郡、山田郡、邑楽郡の待矢場両堰水利土功会が帝国大学医科大学教授の丹波敬三に泥砂の分析を依頼?】
  梁田村有志の士族長祐之の名で、農商務省地質局に対する田畑と水質の分析を行なう
     04/22「依頼に応じ難し」と拒否される
     【農商務大臣の陸奥宗光が足尾銅山の経営者と姻籍関係にあるから?】
  04/栃木県足利郡吾妻村、毛野村と梁田郡梁田村の有志が集会をもつ
  05/01栃木県の鉱毒激甚地区のうち吾妻村、毛野村、梁田村の有志が毛野村で集会
     【有志は亀田佐平、長祐之、早川忠吾ら?】
     帝国大学農科大学への土砂分析を依頼、費用の分担方法などを決定する
     のち帝国大学農科大学の助教授古在由直、長岡宗好に被害地の土壌分析を依頼する
  05/初旬梁田村の長祐之が足尾銅山を実地調査する
     【05/01に栃木県足利郡毛野村の早川忠吾や梁田郡の有志らが足尾に出張して鉱毒の起因を実地調査?】
     05/20長祐之が実地調査の結果を報告する
     足尾銅山が下流の被害の原因である確信を深めて大運動をおこす必要ありとする
  渡良瀬川沿岸の被害地各町村の有志が帝国大学農科大学の古在由直へ足尾銅山の現地調査、土壤分析を依頼する
     07/土壤分析結果が発表される
  06/01帝国大学農科大学の助教授古在由直から渡良瀬川沿岸被害民が依頼の土壌分析結果が早くも届く
     被害の原因は銅の化合物とわかる【被害原因は鉱毒にあり?】
     【中間報告が早川のもとに届く。古在が口頭で農地の不作原因が鉱毒にあると回答する?】
  06/群馬県が帝国大学農科大学に耕地被害の除毒法研究を依頼する
  06/栃木県が被害調査のため5か所の鉱毒被害地試験所を渡良瀬川流域に設置する
     【鉱毒被害地試験所鉱毒被害地試験田と同じ?】
     下都賀郡谷中村大字下宮の古澤繁治所有地
     ほかに梁田郡山辺村大字朝倉、足利郡毛野村大字大久保、
     足利郡吾妻村大字下羽田、安蘇郡植野村大字舟津側
  07/07吾妻村民の長祐之ら有志が鉱毒の記録パンフレット『足尾銅山鉱毒 渡良瀬川沿岸被害事情』を発行
     【11月の発行? 『足尾銅山鉱毒、渡良瀬川沿岸被害事情』?】
     被害地町村の有志による帝国大学農科大学古在由直への土壤分析結果と、その他の調査等とあわせて掲載
     足尾鉱毒に関する民間初の出版物
     のち治安妨害を理由に頒布禁止となる【ただちに発売禁止?】
  07/25谷中村他1町4村が古河市兵衛と示談契約を交わす
     県の仲介により委嘱された総代が反別割の示談金査定の仲裁を行なう
     条件は粉鉱採集器を設置するとするも設置後3か年を試用期間とし
      その間の被害に対して一切苦情申し立てをしないとする
     粉鉱採集器が機能した場合は和解、失敗した場合は明治26年7月に起算し再協議を約束するというもの
     のち粉鉱採集器は実効を伴わず示談もその延長線上におかれる
  07/29群馬県邑楽郡渡瀬村、大島村、西谷田村海老瀬村が古河市兵衛と示談の仮契約がされる
     1892(明治25)02/21本契約が結ばれる
  07/群馬県が農商務省に耕地被害の原因調査を依頼する
  行政当局とは別に被害農民と被害町村の連帯的行動が醸成される
     栃木県足利郡、梁田郡の町村は問題を下野西南地方の緊急大問題としてとり組むことに
     結果を満天下に訴えることを定め長祐之、早川忠吾、亀田佐平が積極的にあたる
     活動を通して参加する各町村の有志が「鉱毒被害町村有志会」を結成する
     有志会は鉱業停止を目的として組織される
     目的達成のために群馬県の山田郡、新田郡、邑楽郡は組織的連合をめざす
  08/足尾銅山の鉱毒で農作物の被害が甚大となる
     のち栃木県選出の衆議院議員田中正造らの運動が続くものの解決の糸口は見つからず
  09/16〜09/22田中正造が左部彦次郎とともに栃木県足利郡、群馬県邑楽郡などの鉱毒被害地を調査する
     【田中正造が植野村へ被害の状況確認に向かう。田中が鉱毒問題で動きはじめる?】
  09/16田中正造が佐野の村山半にあてた手紙に初めて「鉱毒」の文字があらわれる
  09/栃木県当局が被害町村に対し古河市兵衛の被害補償について一定の条件を示す
     受諾すれば知事がその仲介にあたる旨を通達する
  秋/田中正造が東京専門学校の法科を7月に卒業したばかりの左部彦次郎を群馬県邑楽郡に派遣
     左部は鉱毒被害を調査しながら邑楽郡渡瀬村、大島村、西谷田村、海老瀬村の農民を援助する
     4村長連名の鉱毒除外と採鉱事業停止の請願書を農商務大臣あてにださせる
      【1890(明治23)に田中正造が左部彦次郎を派遣?】
  梁田郡梁田村の長祐之が足尾銅山の鉱毒問題をいち早く指摘する
     安蘇郡、足利郡、梁田郡の漁民は1881(明治14)年に2773人だったものが
     1888(明治21)年には788人に減少、実際に漁を専業とするものは皆無の状態となる
  11/10栃木県知事の折田平内が鉱毒問題の仲裁を表明する
  11/25河島伊三郎が編集発行人とした雑誌『足尾之鉱毒』が創刊される
     『足尾銅山鉱毒、渡良瀬川沿岸被害事情』の発禁に抗議する寄稿を掲載する
     のちたちまち発禁となる
  12/足利郡6町村と梁田郡3町村長が通達受諾となる【なにを通達?】
  鉱業停止要求を先駆的に掲げた吾妻村村長亀田佐平が被害補償を求める側に転じる
     2つの方向性が対立を生みだすことに
     ▽中下層被害農民による、広い被害地域の連帯のもとに鉱毒被害に鉱業停止を求める動き
     ▽富裕層を代表する足利郡6町村、梁田郡3町村長らの鉱業の継続を前提として補償を求める動き
  12/07群馬県山田郡の広沢村、境野村、相生村が古河市兵衛と示談の契約を交わす
  12/08帝国大学医科大学教授の丹波敬三が群馬県待矢場両堰水利土功会依頼の泥砂の分析結果を報告する
     農地の不作は鉱毒被害によると発表する
  12/18田中正造が第2回帝国議会で初めて質問書「足尾銅山礦【ママ】毒ノ義ニ付質問」を提出する
     国会で足尾鉱毒に関する初めての質問となる
     1、数年間政府の之を緩慢に付し去る理由如何
     2、既往の損害に対する救治の方法如何
     3、将来の損害に対する防遏の手段如何
     のち農商務大臣の陸奥宗光はなかなか答弁書をださず
  12/下旬栃木県足利郡、梁田郡の有志が町村長の損害補償への転換に対抗して農商務大臣に請願書を提出する
     【12/21月?】
     「足尾銅山採掘業ノ停止請願書」
  12/22〜12/23田中正造が第2回帝国議会で質問書を提出する
     「神戸造船所、北海道幌内郁春別鉄道及炭鉱、陸中国釜石鉱山、阿仁及び院内鉱山払下げの件に関する質問書」
     「小阪銀山払下げに関する質問書」
  12/25議会解散の日、田中正造が第2回帝国議会で足尾銅山鉱毒の質問演説をする
     【田中正造が25年度予算案農商務省所管経常部につき質問中、足尾鉱毒問題に言及する?】
     足尾銅山からの鉱毒被害について政府の考え、被害民救済の方法などについて皮肉たっぷりに問いただす
     田中は帝国憲法「日本臣民ハ其所有権ヲ侵サルヽコトナシ」(第27条)を根拠とする
     被害農民の立場から足尾銅山の鉱業停止を要求、あわせて農商務大臣陸奥宗光の責任を鋭く追求
     質問演説なかで農商務大臣陸奥宗光の息子潤吉が古河市兵衛の養子になっていることを指摘
     陸奥宗光は手元に答弁書を持つも提出はせず
     田中正造の質問書に答弁しないまま議会は解散となる
  12/27田中正造の第2回帝国議会での質問に対する農商務大臣の陸奥宗光の答弁書が『読売新聞』に掲載される
  12/28田中正造が農商務大臣あて鉱毒被害解決の請願書提出を照会する
     群馬県邑楽郡西谷田村、海老瀬村、大島村、渡瀬村に対して
  12/29農商務大臣の陸奥宗光が田中正造の質問に対する答弁書を『官報』に発表
      一、群馬栃木両県下渡良瀬沿岸の耕地に被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず
      二、右被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中なり
      三、鉱業人は成し得べき予防を実施し、独米より粉鉱採聚器を購求して、一層鉱物の流出防止の準備をなせり
     特に問題になのは粉鉱採聚器が与える鉱毒予防の幻想。被害農民を示談に動員する強力な武器となる
     鉱毒が被害の一因であると認めたものの、公共の安寧を危うくするものではない
     被害は鉱業を停止させるほどのものではない。既往の損害に対し足尾銅山を処分する考えはない
     のち田中が議会で質問を行なうごとに鉱毒の害は全国に知れるようになる
     【官報は見当たらず?
  12/栃木県知事が中心となり被害民と銅山側の示談契約を進める(第1回示談)
     足利郡、梁田郡の9町村長が示談契約を受け入れる旨を県知事に上申する
     のち微々たる示談金で栃木県、群馬県の43町村が示談契約を結ぶ
          1892(明治25)〜1893(明治26)第1回示談契約が完結する
          示談契約書の趣旨は1893(明治26)6月30日までに粉鉱採集器を設置する
          1896(明治29)6月30日までを実効試験期とする
          期間中、苦情を申し立てないと被害農民に約束させる
          仲裁費用、示談金、水防費(堤防修理費)を支払うというもの
          示談金額は栃木県全体で1反歩あたり平均1円70銭と算定される
          栃木県、群馬県の合計は10万9千円
          群馬県邑楽郡の西谷田村、大島村、渡瀬村、多々良村では総額2万円、1反歩あたり2円
          栃木県の平均を上回るも肥料代の半額にもあらない金額
          群馬県山田郡、新田郡は特に低く1反歩平均8銭に
  12/被害民有志のなかには知事案の示談金の「懇請」に反発するものもあらわれる
     将来の除害方法を古河に確約させること、
     帝国大学農科大学の調査結果を待ち足尾銅山鉱業停止運動を起こすことなどを決議する
  12/栃木県会で被害地の損害を古河に賠償させてほしいとの意見がだされる
  12/被害民一同が連署で1編の請願書を政府に提出する
     (栃木県)安蘇郡植野村、犬伏村、堺町
      足利郡吾妻村、久野村、筑波村、梁田村、御厨村、山辺村、三重村、
       山前村、葉鹿村、小俣村、北郷村、足利町、富田村、毛野村
      下都賀郡三鴨村、藤岡町、谷中村、野木村、生井村、寒川村、部屋村、赤麻村
     (群馬県)邑楽郡谷田村、渡良瀬村、多々良村、海老瀬村、伊奈村、赤羽村、
       千江田村、梅嶋村、佐貫村、三野久村、六郷村、長柄村、高島村、千野村、
       館林町、郷谷村、大ケ野村、韮川村、矢場川村、林泊村、大嶋村
      山田郡桐生町、広沢村、境野村、相生村、毛里田村
     (茨城県)猿島郡古河町、新郷村、香取村、静村、五霞村、猿嶋村、境村、
       森戸村、長須村、岩井村、中川村、長郷村、神大実村、沓掛村、七重村、
       生子菅村、逆井山村、長田村、八俣村、幸島村、岡野村、桜井村、勝鹿村
     (埼玉県)北埼玉郡川辺村、利嶋村
     (千葉県)東葛飾郡関宿町、二川村、木間瀬村、川間村、野田町、旭村、梅郷村など
  農商務大臣陸奥宗光の違法性と責任追求が、鉱業停止要求とからみ当局の禁忌するところになる
  足尾銅山の産銅が全国一の年間5848トンに

1892(明治25) 52

  《総理大臣》[第4代]松方正義(→08/08)、[第5代](第2次)伊藤博文(08/08月→)
  《内務大臣》[第6代]品川弥二郎、[第7代]副島種臣(03/11→)、[第8代]松方正義内閣総理大臣・大蔵大臣が兼任(06/08→)
  《内務大臣》[第9代]河野敏鎌(07/14→)、[第10代]井上馨(08/08月→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《農商務大臣》[第6代]陸奥宗光(→03/14)、[第7代]河野敏鎌(03/14月→07/14、06/23〜07/14・司法大臣を兼任)
  《農商務大臣》[第8代]佐野常民(07/14→08/08)、[第9代]後藤象二郎(08/08月→)
  《東京鉱山監督署長》[第1代]原嘉道(04/01→)
  《帝国議会》[第3回特別会](05/06→06/14)、[第4回通常会](11/29→)
  《栃木県知事》[第5代]折田平内
  《群馬県知事》[第3代]中村元雄
  《埼玉県知事》[第5代]久保田貫一(→12/23)、[第6代]銀林綱男(12/23→)


  01/古河の番頭浅野幸兵衛が群馬県新田郡郡長の高山幸雄に対し進言する
     洪水による田畑の損害には銅山側に非があることを認め粉鉱採集器による除外法を強調する
     のち高山はその設置を条件に示談契約書を交わす
  01/栃木県に派遣された古河の番頭井上公二により示談に入る町村があらわれる
  帝国大学農科大学の助教授古在由直と長岡宗好が栃木県、群馬県の両県知事から委嘱され詳細な報告書を作成
     タイトルは「栃木県下渡良瀬川沿岸耕地不毛ノ原因及ビ除害法ニ関スル研究ノ成績」
     02/02「栃木群馬 渡良瀬川沿岸被害地取調報告書」が『官報』に掲載される
     【実際の『官報』には「渡良瀬川沿岸耕地不毛ノ原因及除害法研究成績」とあり】
     被害の主因が足尾銅山の鉱毒にあることを科学的分析に基づいて詳細に明らかにする
     02/22栃木県が印刷する
  02/15第2回衆議院議員臨時総選挙でが行なわれる
     立憲改進党候補の田中正造が栃木第3区より出馬
     対立候補は自由党の足利織物買次の豪商木村半兵衛
     開票の結果田中733票、木村642票で田中が当選する【木村643票?】
     選挙区3郡のうち足利郡だけでみると田中54票に対して木村441票に
     また梁田郡でも田中85票に対して木村156票に
  02/21群馬県邑楽郡渡瀬村、大島村、西谷田村海老瀬村と古河市兵衛との間に示談の本契約が結ばれる
     仮契約は前年の7月29日
  02/22栃木県内務部が古在由直、長岡宗好の『渡良瀬川沿岸被害原因調査に関する農科大学の報告』を刊行する
     公的機関としては足尾鉱毒事件に関する最初の刊行物
  02/27栃木県知事の折田平内が鉱毒問題の調査委員を県会議員から選出する【仲裁委員を選出?】
  02/県知事主導の示談工作が本格化
     古河市兵衛と被害民の対立を示談により解決しようとする動きがあらわれる
     栃木県は折田知事主導のもと被害補償の仲介機関「鉱毒仲裁委員会」が一部の県会議員により組織
     【栃木県知事が県会決議を受け「仲裁会」を組織する。県会議員などにより構成される】
      中山丹次郎、田村順之助、矢島中、横尾輝吉、久保三八郎、川島治平、塚田峰三郎、
      須田治右衛門、塩谷道博、檜山六三郎、新井保太郎、天海浜吉、清水多一郎、早川忠吾、
      川島長十郎、影山禎太郎、広瀬孝作、大谷龍、山口信治
     県会議員19人からなる仲裁委員会が示談の斡旋にのりだす
     県知事を仲裁委員長とし被害地各郡長が郡委員になる
     各町村長が町村委員となり被害地町村の大字に5人以下の被害者総代を設ける
     のち足利地区は別に「鉱毒査定会」がつくられ「仲裁会」と分裂する
     のち栃木県は主として「仲裁会」と「査定会」の仲介により鉱毒被害地補償の示談契約が結ばる
  03/06、07田中正造が安蘇郡植野村、界村などの鉱毒地を調査する
  03/08農商務省が鉱山監督署の設置を公布する
  03/14農商務大臣の陸奥宗光が薩摩派との衝突で辞任する
     かわって河野敏鎌が就任する
  03/21栃木県庁で足尾鉱毒諮問会が開かれる
     田中正造が傍聴する
  03/鉱毒仲裁委員会が分裂する
     反田中の木村半兵衛派が足利郡、梁田郡に鉱毒査定委員会を設立する
  03/群馬県が待矢場両堰水利土功会をつくる
     水利土功会は1884(明治17)の「区町村会法」改正により設置できるようになった農業用水、井組の組織
     行政区域の枠を越えて水利工事や整備などを行なう
     【2つの管理組合が和解し「待矢場両堰水利土功会」となったのは1877(明治10)?】
  03/25足尾銅山が群馬県の群馬県待矢場用水組合【待矢場両堰水利土功会?】と協議
     のち粉鉱調査費約570円、寄付金6500円を組合に支払うことを決定する
  03/栃木県の足利郡、梁田郡に「鉱毒被害者同盟」が結成される
     仲裁委員の仲裁を拒否して古河市兵衛に対する行政処分の請願を目的としたもの
  春前/試験調査した帝国大学医科大学教授の丹波敬三が報告する
     「田圃被害の原因は、土質中に存する毒にして、その毒は足尾銅山にありとうふを憚からざるなり」
     帝国大学農科大学の●●が報告する【古在由直、長岡宗好助教授?】
     「渡良瀬川の河底に沈澱せる淤泥は、植物に有害なる物質を含有し、
     被害地の有害物を含有する所以は、此の淤泥、洪水氾濫の際田圃に澱渣若しくは流入せしに因ること明らかにして、
     足尾銅山鉱業所排出水の渡良瀬川に入るもの、有害物を含有することまた事実なり」
  04/群馬県、栃木県の先頭をきり待矢場両堰水利土功会が直接、古河側と示談契約を結ぶ【03/21月?】
     のち待矢場両堰水利土功会の示談契約の成立は栃木県、群馬県の示談契約の推進にはずみをつけることに
     古河側の狙いは適中
     示談契約の内容を主に3点に要約すると
     (1)古河市兵衛は、徳義上示談金を支払う
     (2)粉鉱採集器の効果をみる期間を、明治29年6月30日までとし、
       契約人民はそれまで一切苦情をいわず、また行政、司法処分を請うことをしない
     (3)古河市兵衛は、水源涵養に努めること
     調査から示談成立にいたる過程で行政機構は古河側の意図を補完するものとして機能することに
     粉鉱採聚器が被害農民を示談に動員する強力な武器となる
  05/06第3回帝国議会で田中正造が再び足尾鉱毒について質問書を提出する
     大学教授、助教授による分析報告を踏まえ法律に基づく処分を問いただす
     帝国大学医科大学教授の丹波敬三と帝国大学農科大学の古在由直、長岡宗好助教授
     のち陸奥宗光農商務大臣の後任河野敏鎌が答弁書をだす
  05/08東京は神田区の錦輝館で足尾鉱毒演説会が開かれる
     田中正造が演説をする
  05/14田中正造が第3回帝国議会で鉱業条例施行期限法律案につき質問
  05/23田中正造が第3回帝国議会で第2の質問書「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問」を提出する
     05/24質問書が議場に報告されると田中が登壇、質問演説をする
     【05/24に田中正造が鉱毒問題の質問書を提出し説明演説する?】
     【05/24、25と両日に渡り質問したのか、どちらかが違うか?】
     「足尾銅山鉱毒加害の儀につき質問書」他を政府に提出する【2回目の質問書?】
     公表された科学的分析を根拠に鉱害の原因が足尾銅山にあることを指摘
     分析は帝国大学農科大学の古在由直助教授や、帝国大学医科大学の丹波敬三教授らによる
     以下の3点が質問に盛り込まれる
     ▽沿岸7郡28村にまたがること
     ▽不毛になった田畑は1600余町に及ぶこと
     ▽漁夫が皆無になったこと
     日本坑法第10款第3項に基づき足尾銅山の発掘許可を取り消すよう政府に迫る
     のち政府からの答弁がないまま議事が進行する
     のち農商務大臣の河野敏鎌は被害程度が公共の安寧を危うくするものではないと拒否
  05/栃木県安蘇郡役所で足尾鉱毒事件の「仲裁会」と被害民との第1回会合が開かれる
     会合には栃木県知事の折田平内や郡長も出席
     被害地から出席した関係者、総代は安蘇郡、下都賀郡のおおよそ400、500人に
     折田知事は仲裁会組織の趣旨を述べ、次いで横尾輝吉が仲裁会を代表して演説する
     総代委員から種々の質問ののち満場一致で仲裁を委任することに決定する
     のち各地で同様の会合あり被害民代表者らは次々と仲裁の委任を決定する
  05/安蘇郡役所での仲裁会と被害民との第1回会合の翌日
     仲裁会が足利郡役所で足利郡、梁田郡に属する被害地人民と会合する
     折田県知事が仲裁会組織の趣旨を述べ、中山丹次郎が仲裁会を代表し演説する
     会した過半は仲裁会に同意するものの、代議士選出のときの反対者が多数あるため仲裁会での仲裁を断る
     春、田中正造と木村半兵衛が選挙を争ったときの影響
     木村派に属する仲裁委員早川忠吾、広瀬孝作、影山禎太郎が辞すことに
     新たに足利郡、梁田郡に木村派の関係者で鉱毒査定会を設ける
  群馬県が仲裁機関を設ける。はじめは知事が関与
     のち知事は関与せず、主として県会議員の野村藤太が仲介の任にあたることに【県会議長?】
  古河と被害農民の仲裁機関ができたものの、鉱業停止を主張し示談契約に反対する動きも根強く進展は見られず
  06/01鉱業条例が施行される
     公布は1890(明治23)9月26日
     帝国憲法体制のもと鉱山の保護、育成を法的に裏付ける
  06/07田中正造が第3回帝国議会で5月23日の質問に対する答弁がなく催促の演説をする
  06/古河市兵衛による鉱毒被害民との暫定示談契約が広がる(第2回示談)
     1893(明治26)6月から1896(明治29)6月までの3年間、鉱毒をなくす内容で示談を進める
     古河が粉鉱採集器の効力実験として「示談金」を支出、被害民は期間中一切の苦情を申し立てないとする
     のち暫定示談契約が被害地町村に広がる
          1894(明治27)〜1897(明治30)古河側は第2回示談(永久示談)を押しつけてくる
          第2回示談は永久に苦情を申し立てないことを恫喝や恐迫などを手段として強制的に被害農民に約束させる
          示談金額は栃木県全体では第1回よりも低く1反歩あたり平均1円40銭
          栃木県、群馬県の合計は6万4千円
          地方官吏が日清戦争で招集された兵士の家を威嚇して契約書に盲印を押させる
          あるいは郡長代理や郡吏らが被害町村に出向き、威力と金銭によって示談契約をすすめる
          拒む者には夜間、壮士による強要、欧打して負傷せしめるなど、第1回示談より強権的な恫喝や恐迫で押しつける
          個々の示談契約書による調査では群馬県の場合、1反歩あたり1円から25銭、最低はわずかに5銭というもの
          群馬県邑楽郡海老瀬村で最も多い金額が1反歩あたり25銭
  06/10第3回帝国議会で農商務大臣の河野敏鎌が田中正造の質問に対し答弁する
     【06/11政府が書面で田中正造の質問に答弁する?】
     【農商務大臣河野敏謙の名で冷淡極まる答弁書がだされる?】
     足尾銅山は粉鉱採集器の設置、沈澱場の工事準備中につき多量の鉱害流出はないと認めるとする
     1、足尾の鉱毒が渡良瀬河岸被害の一原因たることは、試験の結果に依りて之を認めたりと雖も、
     此の被害たる公共の安寧を危殆ならしむる如き性質を有せず
     2、既往の損害は、行政官たる者、何等の処分をなすべき職権なし
     3、将来予防のため、鉱業人は粉鉱採聚器設置の準備なり
     4、鉱業人は、上野国待矢場両堰水利土功会と契約し、
     自費を以て両堰水門内に沈澱場を設け、時々之を浚渫すべき準備中なり
     のち答弁書掲載の官報や新聞を被害地に無料配布する
          渡良瀬川沿岸被害のひとつの原因が足尾銅山にあることを認める
          被害は「公共の安寧を危殆ならしむるが如き性質」でなく
          損害は「足尾銅山の鉱業を停止せしむべきの程度」ではないとする
          被害防止のために粉鉱採集器があたかも万能の設備であかのような幻想をふりまく
  06/13田中正造が第3回帝国議会で河野農商務大臣の冷淡な態度と不得要領な答弁に憤慨し再質問書を提出する
     06/14前日の田中の質問書が議場に報告される
     田中が質問演説をする【説明演説?】
     この日、議会最終日にて政府からの答弁はなし
     【06/14田中正造が「足尾銅山鉱毒加害に関する農商務大臣の答弁につき質問書」を提出、説明演説を行なう?】
  06/14第3回帝国議会が解散となる
     のち第4議会から第8議会まで田中正造は鉱毒事件に関する質問はせず
     理由のひとつに本年8月以降に進行した示談契約と
     その結果として被害民の鉱毒反対運動の一時的な沈静化がある
     【1894(明治27)からの日清戦争で田中は政府に遠慮したから?】
  06/15古河会社が栃木県安蘇郡、梁田郡、下都賀郡に対し4万円の出金を約束する
  06/群馬県邑楽郡渡良瀬村、大島村、西谷田村、海老瀬村の被害民が大挙上京する
     中村県知事は県会議員の野村某らをもって仲裁させ1万5600円の出金を約束させる【野村藤太?】
  06/古河会社が群馬県待矢場両堰の除害工事新溜渫費に対して寄付の名で6500円の出金を約束する
  06/田中正造は暫定示談契約に応じないよう運動を行なう
     示談契約期限の1896年以降の事態に備え鉱毒被害の事態を踏まえることを被害民に警告する
  07/28古河会社が栃木県梁田郡、足利郡に対し3か年賦3万円の出金を約束する
  仲裁会が下都賀郡役所で郡長以下立ち会いの上、郡南部被害地人民総代と会合する
     仲裁委員から示談は得策と説かれる
     被害地総代一同から仲裁を委託される
     のち仲裁委員が各被害地を巡視、古河と被害民との間に協議を遂げる
     08/23示談がすすみ契約先を作成、両者相互に交換する
     梁田郡久野村の被害町歩は総計517町8反4畝25歩、関係人数は稲村忠蔵外711人
  08/23栃木県側の仲裁会による最初の仲裁契約書ができる
  08/23栃木県梁田郡久野村の稲毛教次郎ら13人が古河市兵衛と示談の契約を交わす
     条件をつけ示談金の支払いを定める
     「1893(明治26)年6月30日を期限とし、古河は精巧な粉鉱採集器をとりつけること」
     「1896(明治29)年6月30日までに同器が効果をあげだとき、契約は終了」
     のちの永久的示談契約とは制約をつけている点で異なる
     第1条 古河市兵衛は、粉鉱の流出を防ぐために明治26年6月30日を期し、
      精巧な紛鉱採集器(公害防止設備)を足尾銅山の工場に設置する
     第2条 古河市兵衛は、徳義上示談金として、左のごとく支出する(以下省略)
     第3条 明治29年6月30日までは、紛鉱採集器の試験中のため、
      契約民は苦情を唱えたり、行政・司法の処分を乞うなどしてはいけない
     第4条 明治29年6月30日以降、紛鉱採集器がその効を奏したときは、この契約は解除される
     第5条 紛鉱採集器が万一効力がないときには、なお将来について臨機の協議を行い、別段の約定をする
     のち翌年にかけて各地で次々と同様の示談契約が成立
  順次、翌年にかけて次々と示談が取り交わされる【仲裁会で扱ったすべて?】
     ▽安蘇郡植野村界村犬伏村に関する分
      示談金総額2万5368円90銭4厘、被害総町歩1163町2反1畝2歩、関係人数1841人数
     ▽下都賀郡藤岡町生井村大字下生井、大字白鳥、
     部屋村大字部屋、大字石川、大字帯刀、大字蛭沼、大字新波、大字四前原【西前原】、野木村大字野木、大字野波に関する分
      示談金額7111円45銭、被害総町歩666町4反5畝7歩、関係人数1112人
     ▽下都賀郡三鴨村大字甲に関する分
      示談金総額600円、被害総町歩23町4反8畝19歩、関係人数104人
     ▽下都賀郡谷中村大字下宮、大字恵下野、大字内野、下都賀郡三鴨村大字都賀に関する分
      示談金総額5500円、被害総町歩231町9反2畝11歩、関係人数535人
     ▽梁田郡筑波村山辺村御厨村梁田村、足利郡吾妻村小俣村に関する分
      示談金総額2887円36銭、被害総町歩353町6反5畝23歩、関係人数679人
     ◇仲裁会がかかわった示談の総計
      示談金総額4万8987円32銭9厘
      被害総町歩2956町5反7畝28歩
      関係人数4978人
  栃木県の時限付き示談(第1回示談)の内容は人員8414人
     被害面積は4360町96畝06歩(1町=99.2アール)に対し示談金額は7万6602円96銭9厘を支払うもの
     反未満、円未満を切り捨てて概算すると1町あたり17円56銭、1反あたり1円75銭に
     (1反=992平方メートル)
  08/翌年にかけて示談契約が栃木県、群馬県の関係43町村にわたり結ばれる
     契約の内容は古河市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ徳義上示談金」の一定額を支払う
     引きかえに被害民は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採集器実効試験中の期限とし、
     契約人民は、何等の苦情を唱うるを得ざるは勿論その他行政及び司法の処分を乞うが如き事は一切為さざるべし」とする
  11/20群馬県山田郡毛里田村、韮川村、新田郡強戸村大字強戸が古河市兵衛と示談の契約を交わす
  11/20群馬県の多くの村が古河市兵衛と示談の契約を交わす
     新田郡島之郷村、宝泉村、九合村、太田村、沢野村、生品村、強戸村大字寺井村
     邑楽郡高島村、小泉村、大川村、長柄村、永楽村、中野村、三野谷村、赤羽村、郷谷村、多々良村
  古河が設置した粉鉱採集器は鉱毒の予防にほとんど役に立たず
     のち日清戦争中の示談契約期限内でも鉱毒被害はますます広がり深まることに
     のち古河は3年間の暫定示談契約の期限が切れる前に被害民と永久示談を結んで沈黙させようと企む
  唐風呂地区で足尾銅山による銅山肯定派住民を使った鉱害反対運動への切崩しが激化する
  足尾銅山周辺山林が驚くべき荒廃する。濫伐、亜硫酸ガス、野火による裸地化
     栃木県の「山林巡回日誌」に記録される
  足尾銅山製錬所の拡張のため周辺の栃木県松木村で樹木、農作物、桑などに大被害が発生する
     農民の生計が成り立たなくなる
     被害農民が足尾銅山に損害金を要求する交渉を開始
  津田仙が編集する『農業雑誌』に「足尾銅山の鉱毒は試験の結果、作物に大害あり」と掲載される

1893(明治26) 53

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第10代]井上馨
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《農商務大臣》[第9代]後藤象二郎
  《東京鉱山監督署長》[第1代]原嘉道、[第2代]大八木喬(04/01→)
  《帝国議会》[第4回通常会](→02/28)、[第5回通常会](11/28→12/30・解散)
  《栃木県知事》[第5代]折田平内
  《群馬県知事》[第3代]中村元雄
  《埼玉県知事》[第6代]銀林綱男


  02/01群馬県側の最初の仲裁示談契約がなる
  02/群馬県の示談(第1回示談)は示談金額が3万0800円、永久示談金が6300円、
     ほかに土砂排除工事、浚渫費1万0500円を7年間に払い
     また300円ずつ永久、20円ずつ永久の各1口もある
  03/06足利町ほか9村の被害民と古河側との間に賠償金にて示談契約が成立する
  05/27埼玉県北埼玉郡麦倉村が利島村に改称する
  足尾銅山が唐風呂地区の反対派被害民の孤立をねらい示談を退け、和解に運ぶ。第1回示談契約締結
     のち年内に唐風呂地区の足尾銅山煙害被害農民28人が銅山に対し煙毒損害賠償の和解請求をする
     のち加害行為を否定して和解を拒絶
  06/30足尾銅山が粉鉱採集器を設置する。1896(明治29)6月30日までの3年間をその試験期間とする
  07/下旬〜08/末田中正造が栃木県、群馬県の渡良瀬川沿岸を巡回、鉱毒事件を調査する
  08/28館林の有志が邑楽郡鉱毒被害調査の慰労会を開く
     田中正造が招かれる
  足尾銅山による官林伐採の過伐が露呈し禁止に。これまでに6760町歩を伐採する
     無立木化地域は官林のほとんど全てに
  足尾銅山はベッセマー式精錬法を採用し生産設備をさらに増強させる

1894(明治27) 54

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第10代]井上馨、[第11代]野村靖(10/15月→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《農商務大臣》[第9代]後藤象二郎(→01/22)、[第10代]榎本武揚(01/22月→)
  《東京鉱山監督署長》[第2代]大八木喬、[第3代]島田剛太郎(12/01→)
  《帝国議会》[第6回特別会](05/15→06/02・解散)、[第7回臨時会](10/18→10/21日 日清戦争による広島召集)
  《帝国議会》[第8回通常会](12/24月→)
  《栃木県知事》[第5代]折田平内(→01/20)、[第6代]佐藤暢(01/20→)
  《群馬県知事》[第3代]中村元雄
  《埼玉県知事》[第6代]銀林綱男(→01/20)、[第7代]千家尊福(01/20→)


  01/22榎本武揚が第10代農商務大臣に就任する
  03/01第3回衆議院議員臨時総選挙が行なわれる
     立憲改進党候補の田中正造が栃木第3区より出馬、当選する
     開票の結果、田中941票、次点は対立候補の木村半兵衛339票
  03/16下都賀郡郡長の安生順四郎が排水機を買い入れ谷中村に設置する
     【このとき安生順四郎は官職を退き谷中村の大地主?】
     安生は陸奥宗光、古河市兵衛と密接な関係をもつ
     谷中村村民は土地1反歩につき毎年玄米1斗1升8合ずつの割賦をもって満5か年間に債務を弁済することに
     遅延のときはさらに米1斗につき1升5合ずつの利米が付加することに
     のち排水器は効力を示さず。400馬力の機械を要するところ安生の機械はわずか70馬力
  谷中村の困窮が進み税金払えず385戸の半数が公民権停止となる
  08/01清国に宣戦布告。日清戦争が始まる
     1895(明治28)04/17日清講和条約(下関条約)が調印
  08/18田中正造が数日間にわたり鉱毒被害地を調査
     粉鉱採聚器の効果につき疑問を提起する
  08/31邑楽郡海老瀬村の被害民が鉱毒事件解決のため古河側と再交渉にいての集会を開く
  09/01第4回衆議院議員臨時総選挙でが行なわれる
     立憲改進党候補の田中正造が栃木第3区より出馬、当選する
     開票の結果、田中906票、次点は対立候補の木村半兵衛225票
  10/15〜10/30田中正造が第7回臨時議会に出席のため広島に滞在する
  10/18〜10/21日清戦争にあたり、大本営を広島城内に置いた特例として第7回臨時議会が広島で開かれる
     広島の西練兵場内に設けられた臨時仮議事堂で戦争関連法案が全会一致で成立する
     日本の憲政史上で唯一、東京以外の場所で開かれた国会となる
  12/05邑楽郡海老瀬村の被害民が鉱毒事件解決のため古河側と再交渉の開始を決定する
  日清戦争時足尾銅山の生産が増大。あわせて鉱毒の排出も激しくなる【27.8〜28.4】

1895(明治28) 55

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文
  《内務大臣》[第11代]野村靖
  《警視総監》[第8代]園田安賢
  《農商務大臣》[第10代]榎本武揚
  《東京鉱山監督署長》[第3代]島田剛太郎
  《帝国議会》[第8回通常会](→03/23)、[第9回通常会](12/28→)
  《栃木県知事》[第6代]佐藤暢
  《群馬県知事》[第3代]中村元雄
  《埼玉県知事》[第7代]千家尊福


  契約書にある明治29年6月30日を待たずして永久示談が行なわれるようになる
  02/03古川市兵衛と鉱毒被害農民が示談の契約書を交わす
  03/16下都賀郡部屋村他4村と足利町他11村の鉱毒被害民が古河市兵衛との間に賠償金をもって永久示談契約が成立する
     【古河が足利町の反田中派勢力グループと永久に苦情申し立てをしない永久示談契約を結ぶ?】
     【初回示談金の半額以下で「今後一切要求をせぬ」と条件。被害民の生活の困窮化を古河側に利用されたもの?】
     のち県知事、県会議員らの強制で永久示談契約が急速に被害地町村に広がる
  03/16古河が2千円で被害民と永久示談契約を結ぶ
     下都賀郡部屋村大字富吉中根、寒川村大字寒川迫間田、
     野木村大字大沼友沼、生井村大字網戸上生井楢木生良、赤麻村大字赤麻
  順次、古河と被害民との間に永久示談契約が結ばれる
     ▽下都賀郡生井村大字下生井、大字白鳥、大字新波、
     部屋村大字部屋、大字西前原、大字石川、大字帯刀、大字蛭沼に関する分
      永久示談金3500円
     ▽下都賀郡藤岡町に関する分
      永久示談金2千円
     ▽下都賀郡三鴨村大字都賀に関する分
      永久示談金2500円
     ▽下都賀郡三鴨村大字甲ノ内旧只木に関する分
      永久示談金400円
     ▽下都賀郡野木村大字野木、大字渡野、大字友沼、
     生井村大字下生井、谷中村大字恵下野、茨城県西葛飾郡古河町に関する分
      永久示談金1300円
     ▽下都賀郡谷中村大字下宮に関する分
      永久示談金3300円
     ▽下都賀郡谷中村大字恵下野に関する分
      永久示談金200円
     ▽下都賀郡谷中村大字内野に関する分
      永久示談金300円
     ▽下都賀郡三鴨村大字甲ノ内旧新井に関する分
      永久示談金200円
     ◇下都賀郡の永久示談金合計金1万5700円
      被害地総町歩921町8反6畝7歩
      関係人総数1957人
     (25年度における下都賀郡全部に対する総計)
      示談金総額金1万3211円45銭
      被害総町歩921町8反6畝7歩
      関係人総数1750人
     ▽足利郡梁田村筑波村御厨村山辺村山前村吾妻村
     富田村毛野村小俣村葉鹿村足利町に関する分
      永久示談金1万3944円57銭
     ▽足利郡富田村大字奥戸に関する分
      永久示談金1509円69銭
     ▽足利郡梁田村大字梁田に関する分
      永久示談金1千円
     ▽足利郡毛野村大字川崎に関する分
      永久示談金1909円97銭2厘
     ◇足利郡の永久示談金合計金1万8419円23銭2厘
      被害町歩合計1285町5反7畝7歩
      関係人総数3170人
     (25年度における足利郡に属する総計)
      示談金合計2万7615円64銭
      被害町歩1404町3反6畝9歩
      関係人総数3436人
     ◇下都賀郡と足利郡の永久示談をなした総計
     永久示談金総額3万4119円23銭2厘
     被害町歩合計2207町4反3畝14歩
     関係人数合計5127人
  03/渡良瀬川下流の地域と同じように松木村でも古河との間に示談交渉が行なわれる
  04/13〜05/01田中正造が「胃カタル」のため本郷区の順天堂病院に入院する
     【帝国議会閉会の前後より70日近く?】
  04/17日清講和条約(下関条約)が調印。日清戦争が終結
     宣戦布告は1894(明治27)8月1日
  04/足利郡の4大字が佐野区裁判所の鉱毒被害の損害額の認定を得て古河側と交渉
     場合によっては地方裁判所に提訴するための準備も進められる
     毛野村大字川崎、富田村大字奥戸、吾妻村大字高橋、吾妻村大字下羽田
     一時期にしても困難な民事訴訟に取り組もうとする
     のち4大字は最終的に永久示談を締結することに
  06/示談契約の不当性をつき補償増額を呼びかけるチラシが巻かれる
     「栃木県郡村/群馬県郡村」を名のる匿名のチラシで県会議員や被害農民に配布される
     のち栃木県知事の佐藤暢は田中正造が印刷配布したものと内務省に報告する
     のち田中の主張と異なる明確な特徴が見いだされる
  06/上旬田中正造が足利郡の鉱毒問題について調査する
  06/10「飯塚亀吉/外有志一同」と名のる偽名のチラシが足尾銅山周辺ほかに密送される
     足尾町唐風呂に住む神山亀吉の偽名で煙害訴訟事件の敗訴を憤り銅山の妨害を試みる
  07/25以来、小堀貞吉と新井保太郎の両県会議員が『下野新聞』『関東新聞』にて呼びかける
     洪水の頻発と被害の増大、水源林の乱伐をあげ植野村法雲庵で有志会の結成する、と
     08/05会合が開かれる
     極めて低調で名称を治水会と決めただけで散会、そのまま立ち消えに
  08/09宇都宮で栃木県改進党の会合がもたれる
     欠席者が多く重要事項の決定は次回もち越しに
     政談集会の開催を決定する
     示談反対派県会議員の台頭を前に横尾輝吉ら改進党の一致した取り組みを狙いとするもの
  08/足尾銅山が1892(明治25)の栃木県松木村の亜硫酸ガス被害農民からの交渉に回答する
     損害金として地価の2倍をだす、とする
     のち被害農民は要求との格差が大きいため示談を拒否し足尾町役場に請願する
  08/栃木県会議員の加藤昇一郎、持田若佐、野島幾太郎らが『足尾銅山に関する調査意見』を刊行する
     足尾銅山の経営姿勢と鉱毒被害の拡大要因その他、徴税(地方税)もれの実態を実証的に明らかにする
  09/01田中正造が『読売新聞』に自己の半生涯をつづる
     『読売新聞』を主宰する高田早苗に求められ「田中正造昔話」を11月24日まで58回にわたり連載する
     肉親の死を契機に自身の内面に熟しつつある半生の総括と鉱毒問題への新たな闘いへの前奏となる
  秋/田中正造が東京早稲田の鶴巻町に学生の寄宿舎を設ける。「平民倶楽部」と称する
     田中自ら合宿し同郷青年の育成につとめる
     のち高田に移し両毛学寮と改称し広く学生を収容する
     のち田中没後もなお継続する
  10/24栃木県松木村村民代表と足尾銅山が示談契約を締結する
     当初被害農民が希望した地価の7倍の金額は大幅に削られる
     地価の3倍半の金額に1戸あたり20円ずつを加えたものに
     契約書には子々孫々に至るまで足尾銅山の鉱烟につき一切請求せずの1項が加わる
     今後一切鉱害で請求、陳情をしないとの条項を含む永久示談契約を取り交わす
  10/24栃木県知事の佐藤暢、群馬県知事の中村元雄が連名で政府に上申書を送る
     あて先は内務大臣の野村靖と農商務大臣の榎本武揚。内容は「予防上至当ノ措置」
     【題目は「渡良瀬川水源に関する儀」?】
  11/01足利の『両毛新報』発刊式が行なわれる。田中正造が出席する
  11/05〜11/25田中正造が本郷区の順天堂病院に入院する
  11/07栃木県会議員の3人が通常県会で『足尾銅山に関する調査意見』を全県会議員の参考に供する
     3人は加藤昇一郎、持田若佐、野島幾太郎
     2つの建議を提案し可決させる
     知事あての「足尾銅山ノ排出物投棄ヲ禁止スルノ建議」と
     内務大臣あての「足尾銅山ノ治水管理二関スル建議」
  11/29栃木県会が議長の横尾輝吉の名で県知事の佐藤暢あてに建議書を提出する
     内容は「足尾銅山坑道ヨリ排出スル土砂及ビ鉱屑ヲ渡良瀬川ニ投棄スルヲ禁止スル事」
     【「足尾銅山抗洞より排出する土砂及銅屑等を渡良瀬川に投棄することを禁止すること」?】
     【「足尾銅山の土砂鉱屑の渡良瀬川への投棄禁止」を建議?】
     渡良瀬川源流は古河の借区外であることを論拠に
  11/29栃木県会が議長の横尾輝吉の名で内務大臣に建議する
     「足尾銅山付近における官有山林採伐跡の土砂崩落禁止、足尾銅山付近官林伐採の跡地へ植樹のこと」
     【「足尾銅山付近の官林伐採禁止の建議」?】
  各所の足尾鉱毒被害民が賠償金をとり永久示談が成立する
  農業全滅状態にて困窮した谷中村が3800円で永久示談とすることに
  谷中村の困窮が進み385戸のうち半数が税を納められず公民権停止となる
  栃木県知事、群馬県知事が農商務省に足尾官林の禁伐林編入などを上申する
  栃木県の第2回示談(永久示談)の人員は5127人
     被害面積は2207町43畝14歩、示談金額は3万0119円23銭2厘【3万4119円3銭?】
     永久示談の面積は明治25年示談の約50パーセント
     明治25年と明治28年の示談金総計は10万0722円20銭1厘となる
     反未満、円未満を切り捨てて概算すると1町あたり15円45銭、1反あたり1円54銭となる
     (1反は992平方メートル)
  足尾唐風呂地区の被害民33人が古河市兵衛を被告とする損害賠償請求訴訟を東京地裁に提訴する
     のち東京地裁は唐風呂地区民の鉱害訴訟を棄却
  日本矯風会が足尾鉱毒事件で被害現地へ救護班を派遣する【矯風会が活動をする時期が早すぎ?】
  足尾の松木地区で農産物が1881(明治14)年頃の半分の減収となる。31人が古河へ示談交渉。足枷条約を結ぶ
  足尾銅山による足尾官林の伐採面積が10年間で7千町歩となる

1896(明治29) 56

  《総理大臣》[第5代](第2次)伊藤博文(→08/31・単独辞任)
  《総理大臣》[第2次伊藤内閣]黒田清隆枢密院議長が臨時兼任(08/31月→09/18)、[第6代](第2次)松方正義(09/18→)
  《内務大臣》[第11代]野村靖、[第12代]芳川顕正司法大臣が兼任(02/03月→)、[第13代]板垣退助(04/14→)
  《内務大臣》[第14代]板垣退助(09/18→)、[第15代]樺山資紀(09/20→)
  《警視総監》[第8代]園田安賢、[第9代]山田為暄(09/27→)
  《農商務大臣》[第10代]榎本武揚
  《東京鉱山監督署長》[第3代]島田剛太郎
  《帝国議会》[第9回通常会](→03/28)、[第10回通常会](12/25→)
  《栃木県知事》[第6代]佐藤暢
  《群馬県知事》[第3代]中村元雄(→01/18)、[第4代]阿部浩(01/18→08/12)、[第5代]石坂昌孝(08/12→)
  《埼玉県知事》[第7代]千家尊福


  01/〜03/田中正造が第9回帝国議会で鉱毒問題、治山対策など政府を追及する
  03/中旬田中正造が10日間ほど本郷区の順天堂病院に入院する
  03/22田中正造が第9回帝国議会で「足尾銅山鉱毒に関する趣意書」を議会に提出する
     【「足尾銅山鉱毒に関する質問書」? 「足尾銅山鉱毒に関する質問趣意書」?】
     03/25田中が説明演説をする
     古河と鉱毒被害民の間で交わされた永久示談の不当性を追求する
     のち政府の答弁書は得られず
  03/25田中正造が第9回帝国議会において12件の質問書を提出する
     「遼東還附の罪責を以て軍隊及衆議院に帰せんとし且つ外に於ては
       更らに三国に請託し内に於ては国民を瞞著したる件に関する質問書」など
  03/28第9回帝国議会が閉会
     第1回から9回までの帝国議会に議員から提出された質問書は全212件。そのうち30件が田中正造からの質問書
  04/01植野村に鉱毒委員会が設立する
  04/01栃木県梁田郡が足利郡と5村があわせて足利郡となる。梁田郡は廃止に
     梁田村、久野村、御厨村、筑波村、山辺村
     【以降、梁田郡はなくなり足利郡のはずなのに梁田郡の表記あり
  04/08河川法(法律第71号)が公布される
     河川管理者を原則として都道府県とし、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定める
     相次いで起こる水害の防止に重点をおき、以後日本の大河川の改修はこの河川法の下で実施される
  04/植野村大字船津川による『鉱毒委員出勤日記』が記される
     示談契約の仲裁依頼と請願方針との間を動揺する被害地人民の動きを細かに伝える
  06/12群馬県新田郡郡長で水利組合の管理者が群馬県知事に対し農商務大臣への申請を依頼した上申書を提出する
     「足尾銅山の除害装置は効を奏さず水田耕作物の被害は年々甚し。技師を調査のため派遣するよう」
     【待矢場両堰水利土功会?】
  06/30示談契約の期日
     25年8月23日の契約書中、粉鉱採聚器が効を奏さない場合は第5条に基づいて臨機の協議をなす期日
     各町村の総代が交代で上都賀郡粟野村の仲裁委員横尾輝吉【旧仲裁委員?】を訪ねる
     過去3年間の鉱毒が増し加わった事実を掲げて申し立て
     「紛鉱採集器は役に立たないから、また仲裁を頼む」と要望する
      足利郡葉鹿村と足利郡筑波村外3村の総代栗原嘉藤次外3人
      足利郡久野村の総代稲村忠蔵、野島幾太郎外2人
      安蘇郡植野村の総代福地政八郎外2人
      安蘇郡界村の総代糸井藤次郎外1人
      安蘇郡犬伏町の総代山崎欣三郎外2人
     横尾輝吉に鉱毒示現の仲裁を依頼、横尾は諒する
     のち旧仲裁委員は古河市兵衛に伝える
     のち古河が旧仲裁委員に示談したいので仲裁を頼むと返事
     8月10日から安蘇郡植野村の法雲院で被害地の総代諸氏と相談をはじめる手筈に
  田中正造が被害地の各所で演説し集会に出席、手紙で請願を訴える
  06/免租運動がおこる
  07/19雨が降りはじめる
  07/21前日の豪雨で渡良瀬川が1丈7尺(約5メートル)増水、氾濫、大洪水となる
     堤防を溢れた鉱毒水は流域一帯の農地に冠水。鉱毒問題が再燃する
  07/21田中正造が渡良瀬川の大洪水以後、栃木県、群馬県に鉱毒の被害調査、運動組織化のため奔走する
     また被害町村の請願運動の組織化に着手する
  07/植野村大字船津川の被害民が鉱業停止運動の意見統一契約書を作成する
  仲裁委員が県庁に会合をもち被害民の依頼に応じることに決する
     その旨古河に照会すると、しかるべく仲裁を頼むと回答を得る
     のち仲裁委員は8月10日を期して植野村法運院にて被害地総代諸氏と会見したい旨を通知する
  08/10示談契約の改更交渉が8月7日からの大洪水による交通途絶で流会となる
     【08/07〜08/16未曾有の大洪水で交通が遮断し仲裁委員と被害地総代諸氏の会見が流会に?】
     横尾輝吉ら仲裁委員と足利郡、旧梁田郡、安蘇郡の8町村の示談交渉が植野村法雲庵で予定された
     永久示談の推進に事実上の終止符が打たれる
  08/17大雨で渡良瀬川が氾濫、洪水となる
  08/18犬伏町の光徳寺で鉱毒談話会が開かれる
  08/30、31渡良瀬川が6尺(約1.8メートル)あまり増水する

     堤防は持ちこたえる
  08/渡良瀬川大洪水での鉱毒水が広がり田中正造が被害民大会を開く
     被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始する
  09/06雨が降りはじめる。12日の午前まで休むまもなく降り続ける
     09/08、09/09大洪水となる。1859(安政06)年以来の大洪水とも
     河底の泥砂を田畝に流して沿岸一帯の地に恐るべき惨害を与える
  09/08利根川、渡良瀬川、合ノ川の堤防が決壊し大洪水が発生。鉱毒の被害が顕著にあらわれる
  09/08大洪水で鉱毒水や斃死魚類が東京にまで流入。南足立郡や南葛飾郡、本所区の一部が浸水する
     のち江戸川の流入口にあたる関宿の「棒出し」を強化
     それまで26間から30間あった川幅を9間強めに狭める工事を行なう
     渡良瀬川からの鉱毒水を江戸川に流れ込みにくくして東京湾への汚染拡大防ぐ
     同時に渡良瀬川の河口を拡幅し洪水時に利根川の逆流が渡良瀬川に入りやすいよう、密かな工事をすすめる

  09/08大洪水で栃木県足利郡富田村大字奥戸のわずか130戸の集落の9個所の堤防が破潰する
  09/08大洪水で群馬県邑楽郡西谷田村の被害が甚大に
     人民死亡4人、家畜斃死1235頭、家屋潰崩150戸、家屋破損350戸、家屋浸水416戸、
     田畑流没21町1反9畝歩、田畑土砂侵入74町3反9畝歩、田畑浸水795町7反2畝歩、
     宅地浸水103町8反4畝歩、山林土砂侵入207町2反9畝歩、堤防決裂5個所、
     道路毀損28個所、堤防破損24個所、用水路破損15個所、橋梁流没16個所に達する
  09/08豪雨が降りしきり渡良瀬川が氾濫する
     補強作業も及ばず各所で堤防が決壊する
     09/09豪雨はやまず水量は2丈4尺(約7.2メートル)に
     のち鉱毒被害農地面積は栃木県、群馬県、茨城県、埼玉県、千葉県の約3万4千ヘクタール、浸水戸数1万8千戸に
     のち被害地域は1府5県12郡136町村、被害農地面積は4万6723ヘクタール、被害総額2782万9856円にのぼる
  09/087月21日、8月17日と3度目の大洪水で渡良瀬川が氾濫
     9月8日の被害区域は栃木、群馬、埼玉、茨木、千葉、東京の渡良瀬川、利根川、江戸川流域
     被害は1府5県の1市20郡2区251町村。11万9331戸、51万7343人。10万0453町2反2畝29歩に及ぶ
     のち洪水以降、足尾鉱毒の反対運動が盛んになる
     のち田中正造が栃木県の安蘇郡と梁田郡、群馬県邑楽郡の住民らと鉱業停止を求める運動をはじめる
  09/大洪水が甚大な被害をもたらす。水嵩は2丈2尺を越える
     利根川、渡良瀬川の各所で堤防が破堤、無数の亀裂が生じる事態に
     渡良瀬川の破堤は群馬県西谷田村離地先で64間、同除川の稲荷穴地先で15間【75間?】、
     同西岡、神明西地先で127間、海老瀬小橋地先で20間など数多く発生する
     また利根川筋の埼玉県川辺村本郷地先で120間、谷田川筋の利島村柳生地先で90間
     渡良瀬川筋の川辺村柏戸から本郷までの3か所が破堤する
     (1間=1.82メートル)
     群馬県の被害は溺死5人、家屋流出16戸、全壊76戸、半壊168戸、床上浸水2959戸、床下浸水809戸に
     群馬県の農地被害は邑楽郡で田4505町歩、畑3593町歩、上流の新田郡で田2336町歩、畑524町歩、
     さらに上流の山田郡で田1600町歩、畑613町歩、合計田8442町歩、畑4731町歩に及ぶ
  07/、08/、09/相次いで渡良瀬川沿岸を大洪水が襲い沿岸の農作物への被害が顕著となる
     被害激甚地の広大な田畑は全面25センチもの厚さの毒土におおわれる
     農作物や桑園は黄色く立ち枯れ荒涼とした風景を呈す
     下流地域は鉱毒の排出だけでなく、薪炭を得るために山林は乱伐され、煙害による樹木の枯死が洪水を激しいものにする
  7、8、9月の渡良瀬川の増水で堤防が決壊。埼玉県北埼玉郡の川辺村と利島村の田畑が鉱毒に侵される
     のち群馬県民、栃木県民らの請願運動に加わり、大挙押出しにも参加するようになる
  7、8、9月の大洪水でさらに鉱毒が拡大、対策がなされていないことが判明する
     農民側は示談契約書を根拠に1893(明治26)に続けて再度交渉を行なう
     古河側は農民に若干の示談金を支払うかわりに、以前、以後の被害の請求権を放棄する永久示談に切り替える
     永久示談の内容は農民5127人の被害地2207町43畝14歩に対し3万0119円23銭2厘を払うというもの
     示談の平均は1反あたり1円54銭
     のち田中正造が第9帝国議会にて永久示談の不当性を追及する
  銅山側は明年に迫る3年間の第2回示談契約が切れる前に再び示談で解決しようと画策
  09/08洪水の日、田中正造は植野村の法雲庵にて洪水を目の当たりに、水防に尽力する
     法雲庵にいたのは2日後に予定された横尾輝吉らの永久示談交渉を監視するため
     のち以後、被害地で請願運動の組織化に着手する
  09/08直後、三度目の大洪水のあと田中正造が請願書を起草する
     足尾銅山の操業停止と人民多数の権利公益の保護を求める
  9月8日の大洪水ののち、田中正造が利島村、川辺村を訪れる
     鉱毒の恐ろしさを力説、両村に鉱毒反対運動がはじまる
  09/15田中正造が1枚の印刷物『足尾銅山鉱業停止請願(草案)』のビラを発行、被害地住民に配る
     【伊藤章一名義の請願書(草案)との違い?】
     田中正造は被害地各町村に向けて永久示談契約を破棄して足尾銅山の鉱業停止請願運動をするように呼びかける
  09/9月の大洪水の直後、協力者伊藤章一名義で農商務大臣榎本武揚あての請願書を被害町村に配布する
     【田中正造が作った1枚ものの請願書(草案)との違い?】
     「足尾銅山鉱業停止請願(草案)」
     草案は被害町村が個別に提出する請願書の雛型となる
     鉱業停止請願の根拠を論理化し請願運動の組織化に向けての教育と宣伝を兼ねたもの
  09/24田中正造が邑楽郡渡瀬村早川田の雲龍寺で鉱毒演説をする
  09/下旬村人が鉱業停止の請願に続々賛同、安蘇郡犬伏町の総代に仲裁を取り消したいと申しでる
     のち犬伏町の川島仁左衛門、山崎欣三郎【2人は総代?】が横尾輝吉【旧仲裁員?】を訪ねる
     2人は今後、鉱業停止の請願をなすべく仲裁は取り消す旨を伝える
  09/27栃木県の旧梁田郡全郡が鉱業停止の請願を行なうことを決定する【鉱毒除去を請願?】
  09/群馬県、栃木県の被害民から当局に対して各種の陳情がされる
     足尾銅山鉱業停止請願、鉱毒地免減の請願、堤防改築の請願など
  09/以降大洪水後の渡良瀬川沿岸で鉱毒被害による地租減免の請願運動が活発化
  秋/政府は渡良瀬川の大洪水で東京府下にまで鉱毒被害をもたらせ東京での鉱毒世論の盛り上がりを警戒する
  10/02植野村を除く栃木県安蘇郡全郡が鉱業停止の請願を行なうことを決定する【鉱毒除去を請願?】
     【10/14安蘇郡植野村が請願の方針を決定する?】
     【11/07植野村が仲裁会との関係を絶ち請願運動に合流する?】
  10/初旬仲裁会はなお示談の可能性があると宇都宮の旭日館で会合を開く
     被害民総代たちは1893(明治26)7月から1896(明治29)6月までの損害金として賠償を要求する
     ▽安蘇郡植野村
      被害町歩596町6反歩余、損害要求金高10万0831円余
     (25年度における総計)
      被害町歩587町8反6畝2歩、示談金高1万0654円94銭
     ▽安蘇郡界村
      被害町歩388町1反歩余、損害要求金高10万8172円
     (25年度における総計)
      被害町歩387町1反8畝15歩、示談金高1万0147円56銭
     ▽足利郡久野村
      被害町歩520町2反歩余、損害要求金高8万5376円
     (25年度における総計)
      被害町歩517町8反4畝15歩、示談金高7519円61銭9厘
     ▽足利郡筑波村梁田村御厨村山辺村葉鹿村
      被害町歩573町3反歩、損害要求金高13万0301円余
     (25年度における総計)
      被害町歩353町6反5畝23歩、示談金高2887円36銭
     10/中旬横尾輝吉が仲裁会を代表して上京、古河市兵衛に金額を告げる
     「前の示談金額に比べて非常に高額で、永久示談地との関係からも
      俄かに決められないので、少し考えさせてくれ」と返答
  10/04田中正造が村山半らに雲龍寺に鉱毒仮事務所を設ける決心を告げる
     「真面目この泥濘に起臥して調査に従事」する
     群馬県邑楽郡渡瀬村早川田の雲龍寺は鉱毒激甚地のほぼ中央にあり、両県の連絡場所として地の利をえる
     寺自体大きな本堂と境内を備える裕福な寺ながら鉱毒で衰微の途にあり、檀家の多くも同じ運命をたどりつつある状態
     住職の黒崎禅翁は田中正造に理解を示す
     のち雲龍寺は足尾鉱毒反対闘争の中央本部の役割を担う
  10/05田中正造の主導のもと雲龍寺に栃木県と群馬県の10町村の代表が集まる
     栃木県、群馬県両県の運動や調査の拠点に鉱毒仮事務所が作られる【鉱業停止請願事務所?】
     【足尾銅山鉱業停止請願事務所? 群馬栃木両県鉱毒事務所? 群馬・栃木両県鉱業停止請願事務所? 違いは?】
     【仮事務所。のちの「鉱毒停止請願事務所」?】
     付近は鉱毒被害の激甚地で、栃木県、群馬県の被害地の中央にあり本堂も広く自然に事務所となる
     雲龍寺の仮事務所に団体規約と両県連合会則が設けられる
     ▽要旨は雲龍寺の事務所を「請願上一切ノ中心」とする
     ▽毎月6日、21日に例会を開き必要なときは臨時会を開く
     ▽各町村委員惣代2人以上出席
     ▽裏切り者は罰則として既往将来の費用一切を負担させる
     ▽日誌、通信のための名誉職(無給)として事務員1人(黒崎禅翁)、会計主任1人(庭田恒吉)を置く
     被害農民の集結所に。田中は足尾銅山鉱業停止請願運動を指導する
        栃木県、群馬県の10町村51人が集まる
        群馬県からはいずれも邑楽郡の4村16人
        渡瀬村の小林偵七郎、小林善吉、家富元吉、原金次郎、木村勇吉、谷津富三郎、
        多々良村の田野入利三郎、亀田明治
        大島村の小山孝八郎、佐山文随、大出喜平、青木金次郎
        西谷田村の荒井嘉平、松本吉蔵、野中彦四郎、永島与八
        栃木県からは足利郡吾妻村、久野村、毛野村の計19人
        安蘇郡植野村、界村、犬伏村の計15人
        【16人、19人、15人を足すと50人となり51人にはならず】
  10/05雲龍寺に「足尾銅山鉱業停止請願事務所」が設立される【11/02月?】
     この時点で谷中村からは参画していない
  10/05田中正造が免訴願いの書き方を指示するはがきを配布する
     栃木県、群馬県の被害地の県会議員の連名で税務署へ提出するもの
     県会議員は新井清兵衛、折原逸太郎、飯塚春太郎、大塚源十郎、荒川高三郎、北山常吉
     荒地となり減免を願いでる者は「足尾鉱毒土砂侵入ノ為メ免訴願」とすること
     鉱毒侵入で収穫を減じて減税を願いでる者は「足尾鉱毒侵入ノ為メ減税願」とすること
  10/05以降、田中正造は連日被害地を巡回する
     仲裁会の切り崩しを警戒しながら、足利郡、邑楽郡などに請願運動を広げていく
     のち各町村に鉱毒事務所が設けられ、被害地各町村が個別に請願運動に立ち上がる
     まもなく被害地全域の統一的請願運動へと高まる
  10/14安蘇郡植野村が請願の方針を決定する
     【植野村が仲裁会との関係を絶ち請願運動に合流するのは11月7日?】
  10/15永島与八らが邑楽郡西谷田村の南光院で鉱毒演説会を開く
     田中正造が演説する
  10/26植野村は請願に傾きつつも示談に執着する。仲裁と請願の両者を方針とする
     示談から請願運動への転換がたやすいものでないことが顕著に
  10/栃木県側の鉱毒停止請願書が続々提出される
  10/栃木県安蘇郡植野村と界村の有志が農商務大臣榎本武揚あてに「鉱業停止」の請願書を提出する
     永島与八によれば足尾鉱毒被害地農民による最初の請願書
     のち被害地の総代、有志が相次いで上京し請願を行なう
  10/栃木県安蘇郡植野村の関口幸八ほかが政府当局に鉱業停止を請願する
  11/初旬植野村、界村、久野村の各総代が旧仲裁委員を訪ねる
     「明治26年7月以降の示談金ももらうが、鉱業停止の請願もさせてもらうので承知して欲しい」と念をおす
  11/02足尾鉱毒被害農民が雲龍寺に鉱毒仮事務所を設立する【鉱業停止請願事務所?】
     【足尾銅山鉱業停止請願事務所? 群馬栃木両県鉱毒事務所? 群馬・栃木両県鉱業停止請願事務所? 違いは?】
  11/02結束を固くすべく協議をねるため雲龍寺に大集会が開かれる
     被害地のたくさんの有志青年が集合する
     (群馬県邑楽郡渡瀬村)小林偵七郎、小林善吉、家富元吉、原金次郎、木村勇吉、谷津保三郎
     (群馬県邑楽郡多々良村)田野入利三郎、亀井朋治
     (群馬県邑楽郡大島村)小山孝八郎、佐山文隨、大出喜平、青木金次郎
     (群馬県邑楽郡西谷田村)荒井嘉平、松本吉蔵、野中彦四郎、永島与八
     (栃木県足利郡吾妻村)庭田恒吉、庭田清四郎、庭田駒吉、桜井与惣治、
      阿部瀧三郎、野村千代蔵、海原忠吉、横塚治三久、佐取安次郎、丸山浪次郎
     (栃木県足利郡久野村)室田忠七、稲村忠蔵、稲村与市、稲毛教次郎、磯直吉、持齋茂吉、持齋一作
     (栃木県足利郡毛野村)岩崎佐十、岩崎弥八、秋山和助
     (栃木県安蘇郡植野村)関口幸八、小野政吉、岡田孝吾、谷元八、栗原宰次郎
     (栃木県安蘇郡界村)糸井藤次郎、糸井弁吉、茂呂宗次郎、茂呂平吉、福地直八、野口春蔵、矢島幸作
     (栃木県安蘇郡犬伏町)山崎●【魚圭】次郎、小林孫平、小関栄吉
     【足すと51人、10/05の人数に合致】
  11/02雲龍寺の門に「足尾銅山鑛業停止請願事務所」の大きな門札が掲げられる
  11/07植野村が仲裁会との関係を絶ち請願運動に合流する
     【安蘇郡植野村が請願の方針を決定するのは10月14日?】
  11/152村につき5人の割合で定めた出京員が上京する
     鉱山局長にあい請願書を提出する。次官には面会できるも大臣には会えず【11/25?】
  11/16植野村と界村が足尾銅山の鉱業停止願を農商務大臣に提出する
  11/18農商務省が農事試験場の技師坂野初次郎を被害地と銅山に派遣、視察させる
     9月の大洪水による鉱毒被害の拡大、激化に対する対応
     栃木県、群馬県当局に鉱毒被害の調査報告の提示を求める
  群馬県会が足尾銅山の操業停止を求める議決「鉱毒ノ儀ニ付建議」を行なう
  11/27群馬県会が内務大臣への足尾銅山鉱業停止処分の建議を採択する【決議する?】
  11/27鉱毒被害の事実が顕著になり群馬県会が満場一致で県会議長高津仲次郎あて建議を提出する
     「足尾銅山鉱毒の義に付き建議」
  11/29栃木県安蘇郡、旧梁田郡を含む足利郡、群馬県邑楽郡の3郡38町村の有志代表52人が雲龍寺に集まる
     「両岸被害村一致の大集会」を開き田中正造が演説する
     田中が起草した「精神的契約之事」に連署。鉱毒被害地域住民が共同して大衆行動に立ち上がる
     栃木、群馬両県の目的とする足尾銅山の鉱業停止とそれに関する請願運動の貫徹に邁進すると誓い合う
     【組織的拡充がすすめられ被害農民は運動方針を始終一貫ともにすることを誓う?】
     のちさらに埼玉、茨木2県の代表を加え、4県連合鉱毒事務所に拡大する
     【4県連合の足尾銅山鉱業停止同盟事務所?】
     雲龍寺は各町村の鉱毒事務所に対する中央事務所としての位置を占め運動の中心機関となる
  11/4県連合鉱毒事務所が初仕事として足尾銅山鉱業停止請願書を提出する
     群馬県、栃木県の3郡9町村の鉱毒被害民名で農商務大臣榎本武揚に対しての請願書
  12/04群馬県会が荒川高三郎の緊急動議で議事日程を変更する
     鉱業条例第19条による鉱業停止処分を求める内務大臣あての「鉱毒ノ儀ニ付建議」を圧倒的多数の賛成で可決する
  12/05雲龍寺で団体規約書草案のため各村1人からなる組織委員会を開く
     12/15規約書を議決する
     12/21各村が調印する
     この間関係各村が仲裁委員に対して正式に仲裁を断る
     のち「鉱業停止請願一致の運動」のため雲龍寺に両県連合の協議会事務所を設ける
  12/07頃田中正造が茨城県、埼玉県の鉱毒被害地を視察する
  12/11栃木県会が鉱毒問題の審議に入る
     持田若佐ら12県会議員による内務大臣あて建議案が提出される
     「鉱業条例第59条ニ拠リ鉱業人ニ予防ノ命令ヲ下」すことを求める
  12/12栃木県会が鉱毒問題で佐藤暢県知事と内務大臣の樺山資紀に対する3つの建議書を可決する
     県知事へは事態放置の怠慢を問い、内務大臣へは堤防の国費による建築と同じく新川開削を要求する
  12/17群馬県会が「水害工事復旧ノ建議」を可決する【「水害工事復旧に就て建議」?】
  12/19群馬県会が足尾銅山の鉱業停止を内務大臣に建議する決議をする
  群馬県会が「渡良瀬川末流新川開墾ノ建議」を可決する
  12/22議会出席のため出京した田中正造は京橋区八官町の宮下栄輔方を定宿とすることに
     被害民に3、4人交替で出京して請願、陳情、新聞社への働きかけなど事務をとるよう要請する
  12/22農商務省に足尾銅山鉱業特別調査委員会が設置される
     【第1回鉱毒予防工事命令にむけて?】
     【農商務省が5人の吏員を「足尾銅山鉱毒特別調査委員」「足尾銅山鉱毒特別委員」に任命する?】
  12/23〜12/28栃木県、群馬県8村の総代が出京する
     農商務省、内務省、東京鉱山監督署などに陳情する
  12/24第2次松方正義内閣の明治政府が足尾銅山に第1次鉱毒予防工事命令を出す
     【12/25? 東京鉱山監督署署長が古河市兵衛に第1回予防命令を下す?】
     (1)選鉱所水中に含有する粉鉱、泥砂の除却を一層有効にする方法をとること
     (2)選鉱所排水、水中に含有する可溶性銅鉄塩類、遊離酸類を除却するために新たな適切な方法を設けること
     (3)●(からみ・鉱石を溶解するときにでるカス)、捨石、先砂は流出の憂いない場所に堆積させること
      【●金偏に媛の旁】
  12/27田中正造が東京築地の柳花荘に毎日新聞ほか5社の記者や出京被害民代表などを集めて鉱毒被害地の視察を協議
  田中正造が渡良瀬川大洪水による鉱毒被害調査を約2か月半にわたり行なう
     足尾銅山鉱業停止請願運動の組織化に着手する
  栃木県足利郡吾妻村の村会は鉱毒に関する議決は行なわず
     1890(明治23)12月に鉱毒調査を求める議決をするも、のちには銅山と被害地が地元ということで紛糾
  この年の洪水で栃木県浸水総面積は1万9082町7反4畝8歩
     うち1万3435町7反16歩は渡良瀬川沿岸の足利郡、安蘇郡、下都賀郡の3郡に属する
     うち619町7反8畝13歩は堤防破壊で新たに生じた荒廃地
  明治政府がが足尾銅山に鉱毒予防工事を命令
     脱硫塔や沈澱池の建設には莫大な費用を要することに
     足尾鉱業所は労働者の就業時間2時間延長、罰金制の強化、公休の廃止など合理化をすすめる
     費用は労働者がかぶさることになる
     のち1895(明治28)以降の「1日50銭」は据え置かれたまま
     のち労働者の不満は急激に高まる
     のち1903(明治36)7月までに5回にわたる「予防工事命令」がだされる

1897(明治30) 57

  《総理大臣》[第6代](第2次)松方正義
  《内務大臣》[第15代]樺山資紀
  《警視総監》[第9代]山田為暄
  《農商務大臣》[第10代]榎本武揚(→03/29)、[第11代]大隈重信(03/29月→11/06・外務大臣による兼任)
  《農商務大臣》[第12代]山田信道(11/08月→)
  《東京鉱山監督署長》[第3代]島田剛太郎、[第4代]南挺三(05/26→)
  《帝国議会》[第10回通常会](→03/24)、[第11回通常会](12/24→12/25・解散)
  《栃木県知事》[第6代]佐藤暢(→04/07)、[第7代]江木千之(04/07→11/13)、[第8代]千頭清臣(11/13→)
  《群馬県知事》[第5代]石坂昌孝(→04/07)、[第6代]古荘嘉門(04/07→)
  《埼玉県知事》[第7代]千家尊福(→04/07)、[第8代]田村政(宗像政、04/07→)


  01/01小山と前橋間の両毛鉄道が日本鉄道に譲渡される
  01/03〜01/06田中正造が鉱毒地視察に毎日新聞記者など8人を案内する
  01/05『毎日新聞』『国民新聞』『読売新聞』の記者が田中正造に案内されて利島村、川辺村を視察する
  01/27雲龍寺の鉱毒事務所での集会で東京事務所の設置を決定
     当面、田中正造の定宿、京橋区八官町の宮下栄輔方に置くことに
     01/28京橋区八官町の宮下栄輔方を鉱毒被害地選出議員集会所となる
     のち東京事務所を芝区芝口3丁目の信濃屋、宮下金次郎方に移る
  01/28渡良瀬川沿岸の被害農民による鉱毒反対組織の4県連合鉱毒事務所が2つの請願書を作る
     大蔵大臣あて「鉱毒荒地無期限免減租請願」
     内務大臣あて「渡良瀬川沿岸堤防改築請願」
  01/田中正造が雑誌『太陽』に論文「議員の質問と政府の答弁」を発表する
  01/以降政府に対し数回にわたり鉱毒荒地の無期限免租や渡良瀬川沿岸の堤防改築の請願書を提出する
     被害の実態を世論に知らせるため檄文をつくり訴える
     のち栃木県当局や県会が政府に被害の救済と将来の予防措置を講ずるよう建議書を提出
     県会では田中正造が質問演説にたち足尾銅山の鉱業停止を要求する
  01/茨城県猿島郡堺町ほか24町村が政府当局に足尾銅山鉱業停止を請願する
  栃木県、群馬県の有志2万2182人が内務大臣、農商務大臣に鉱業存続を請願する
  田中正造が同郷の青山学院学生栗原彦三郎に中央での協力者獲得を要請する
     のち栗原は学院長の本多庸一に相談する
     栗原は足尾銅山と被害地を10数日にわたり視察、詳細な資料を集め本多に報告する
     本多は予想以上の悲惨な被害に驚く
     古河の鼻息をうかがう実業家、政治家でなく、精神家、宗教家の力に限るとキリスト教界の指導者に呼びかける
     のち本多は栗原にメソジスト教会の信徒で西洋農学者の津田仙を紹介する
     のち栗原はカメラ持参の津田と鉱毒被害地に案内、実地調査
     鉱毒被害を田中正造のまやかしと信じていた津田は被害の実情にふれ協力を約する
     のち津田の呼びかけで日本の指導的キリスト教徒が鉱業問題に関心を寄せ運動に賛意を示しはじめる
     のち栗原と津田の2人は協力しあい演説会を組織する
  02/12栃木県会議員の横尾輝吉が鉱業存続の請願書を衆議院に提出する
     【示談派の横尾輝吉らが足尾銅山の鉱業停止の反対運動を起こす?】
     「足尾銅山鉱業非停止陳情書」は38人が陳情する
     宇都宮市8人、足尾町5人、今市町9人、鹿沼町2人、栃木町3人、
     大間々町3人、桐生町2人、黒保根村3人、東村3人
  02/15鉱業停止の請願が大きく占めるなか群馬県待矢場用水組合と古河市兵衛とに示談契約継続の手続きがなされる
     【待矢場両堰水利土功会? 永久示談の仲裁?】
  02/174県連合鉱毒事務所が世論に向けて「公益有害ノ鉱業ヲ停止セサル儀ニ付質問」を作る
  02/204県連合鉱毒事務所が世論に向けて『足尾銅山鉱毒被害種目参考書』を公表する
     【田中正造が『足尾銅山鉱毒被害種目参考書』を作成する?】
  02/鉱業停止の請願が大きく占めるなか永久示談の仲裁は引き続き進められる
     【02/23足尾鉱毒被害地地主28人の地主が示談契約書の継続に調印する?】
     02/25足利郡被害者総代栗原嘉藤次ほか28人との永久示談が成立する
  02/244県連合鉱毒事務所が世論に向けて『栃木・群馬・埼玉3県足尾銅山鉱毒被害概表』を公表する
  02/26無責任な当局の態度に憤慨した田中正造が第10回帝国議会で足尾鉱毒の質問書を提出
     「公益ニ有害ノ鉱業ヲ停止セサル儀ニ付質問書」
     【「公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき質問書」「公益に有害なる鉱業を停止せざる儀に付質問」?】
     質問書提出者は46人、田中は2時間余りにわたり鉱毒問題の趣旨を質問演説する
     進歩党議員37人をはじめ各党の議員を含む47人の共同提案者と賛成者62人の総計109人という超党派の指示を得る
     質問事項は第1から第8まで18か条にわたりこれまでの質問を総括
     洪水による被害拡大について政府の責任を追及、いまも鉱業を停止しない理由を問う
     また鉱害防止を怠ってきた農商務省や永久示談示談契約の欺瞞性など、政府の責任を鋭く追及する
     演説のなかで田中は被害の面積を群馬県、栃木県、埼玉県、茨城県であわせて3万3466町歩と計算する
     のち政府の答弁を促す演説が2回ある
     03/18内務大臣樺山資紀と農商務大臣榎本武揚との連名の答弁書がでる
  02/27田中正造の東京の宿所、京橋区八官町の宮下栄輔方に足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所が設置される
     【足尾鉱業停止東京事務所?】
     地元との連絡場所とする
  02/28田中正造が第10回帝国議会で演説に立つ
     根が枯れて手で抜ける護岸用の竹、毒藁灰、被害大豆、麦、米など実物を示す
     2時間に及ぶ演説は野次もなく議場にしみわたり出席すた議員に深い感銘を与える
     演説は新聞を通じて広く国民の注目を集める
  02/28東京神田区美土代町の基督教青年会館で鉱毒事件演説会が開かれる
     【第1回鉱毒問題演説会? 東京で初めての「鉱毒被害演説会」?】
     有志知識人を組織したのは安蘇郡出身で青山学院に在学する栗原彦三郎
     登壇するのは田中正造をはじめ、津田仙、村松介石、高橋秀臣、島田三郎、山口弾正、
     谷干城、本多庸一、西村玄道、三宅雪嶺ら政治家、知識人、キリスト教信者
     またアメリカ人宣教師で日本の社会問題に理解を示すC・E・ガストルも登壇する
     【弁士は布川孫一、樽井藤吉、稲垣示も?】
     演説会には古河が鉱夫を送りこみ妨害するという噂がたつ
     そこで青山学院の本多庸一は年長の学生40、50人を会場に送り応援させる
     一木斎太郎は門下の壮士50、60人を引き連れ古河側の壮士や鉱夫を動けないよう取りかこむ
     のち3月から4月にかけて本郷区の中央公会堂、神田区の青年会館、川上座、錦輝館と相次いで催される
     観衆は600人から700人、多いときには2千人を超えることも
  津田仙は連日連夜にわたり演説会を開き幻灯を駆使し被害地の実態を説明、聴衆に強い感動を与える
     のち中央の鉱毒世論が津田の先駆により盛り上がる
     のち政界に強い影響力をもつ谷干城を運動の理解者として迎え入れる
  02/下栃木の『両毛新聞』が足尾銅山の鉱毒被害民を支援する論調を展開する
  02/田中正造が第10回帝国議会で魚類の大量死を明治12、13年とする
     裏づけとして渡良瀬川の漁獲、食用、売買を禁じる藤川県令の布達を打ちだす
     【1881(明治14)に栃木県令の藤川為親がだした訓令「渡良瀬川の魚族発売禁止」?】
  02/4県連合鉱毒事務所が樺山資紀内務大臣に「渡良瀬川沿岸堤防改築請願」を提出する
  02/〜03/田中正造が第10回帝国議会で足尾銅山の鉱業停止を要求する
  03/上旬東京府神田区の青年会館で田中正造、津田仙、松村介石らが「協同親和会」を結成する
     目的は鉱毒問題と社会問題解決
     のち著名な社会運動家の参加が続く
  03/02足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため2千人が雲龍寺を出発【数千人】
     のち途中、茨城県古河町で古河、佐野(栃木県)、館林(群馬県)の各警察の阻止行動に遭遇する
     上京者は夜陰に乗じて利根川を渡り鴻巣綾瀬方面、大島方面、賀須方面にわかれ警官隊の警戒網を突破
     なかには埼玉県川辺村の栄や本郷などの利根川の渡し場から船で大挙上京する者も
     のち800余人が米を持参して徒歩で上京。東京大挙押出し(第1回押出し)大衆上京行進?】
  03/03早朝、日比谷公園に集結したのは400人余り【700人?800人?】(第1回押出し)
     夜明けとともに行動を開始する
     近衛篤麿貴族院議長、鳩山和夫衆議院議長、大隈重信外務大臣に面会を求め警官に阻止される
     【貴族院、衆議院の両議長や大隈外相のいる外務省を訪れ鉱毒の惨状を訴える?】
     午後、農商務省におもむき大臣の榎本武揚に面会を求めめ中庭に座り込む
     5日の午前10時に総代との面会をとりつける
     日比谷署は集会及政社法第1条、第3条に規定する屋外の無届集会として解散を命じる
     午後から夜中にかけて押出し勢がさらに入京。総数は1千余人に
     総代には栃木県会議員の関口忠太郎や群馬県会議員の荒川高三郎、大塚源十郎が加わる
     その日は治安上から警察が斡旋した近くの築地本願寺が引きとることに
     本願寺は本堂の畳をとり屋根の下で休む
     【東京築地本願寺の島地黙雷が多数の押出し勢に本堂を解放、宿泊させる?】
     日本橋と芝の旅人宿に分宿、残余は本所、深川辺を彷徨して一夜を過ごす
  03/04押出し勢は田中正造や地元県会議員らと協議(第1回押出し)
     農商務大臣に陳情、請願する45人を選び、ほかは帰国することに
     【前日夜中、警察署長が総代50人を選び、残りは帰るよう促す? 大部分が帰郷する?】
  03/05総代45人に桐生方面からの新たに入京した群馬県委員11人が加わる(第1回押出し)
     午前10時、総代は農商務大臣の榎本武揚に面会
     ▽被害地関係で上京した県会議員5人
     群馬県邑楽郡選出の県会議員荒川高三郎、大塚源十郎、
     群馬県山田郡選出の県会議員飯塚春太郎、栃木県安蘇郡選出の県会議員関口忠太郎、藤沼友次郎
     ▽以下、被害民総代の45人
     庭田恒吉、阿部瀧三郎、桜井与惣治、室田忠七、永島与八、稲村忠蔵、岩崎佐十、亀井朋治、田野入利三郎、
     原代次郎、永沼政吉、小林善吉、木村勇吉、家富元吉、谷津保三郎、原金次郎、小林代次郎、小山孝八郎、
     大出喜平、山本栄四郎、青木金次郎、磯幸次郎、関口芳蔵、須藤与惣治、小野政吉、関口幸八、谷元八、栗原宰次郎、
     野口春蔵、竹澤喜三郎、矢島幸作、茂呂平吉、茂呂宗次郎、糸井作蔵、山崎●【金圭】次郎、小関栄吉、
     浅海泰八、藍原角太郎、高野梅吉、別府松太郎、荒井嘉衛、福田春吉、松本吉蔵、針谷角次、松本英一
     【面会したのは50人?】
     被害の実情を陳情、鉱業停止を請願するも榎本は即答を避ける
  03/07足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所を京橋区八官町の宮下栄輔方から芝区3丁目の信濃屋、宮下金次郎方に移転
     【3月18日との違いは?】
  03/09農商務省鉱山局が被害対象県に農作物被害の実態、出産の死亡数など調査を依頼する
  雲龍寺で精神的契約を結んだ者のなかから反対者がでる
     野島某、稲毛某、磯某
     直談判を是として大挙行動を非とする
  03/13渡良瀬川沿岸4県の被害農民が世論に向けて「鉱業停止、しからずんば死を与えよ」のビラを作成し公表する
  03/14永島与八が家宅侵入の罪で拘引される【03/12?】
     のち安蘇郡植野村大字舟津川の小野政吉、足利郡久野村大字下野田の石川兵衛が捕縛される【のち? 同時?】
     05/18公判が開廷する
  渡瀬村大字下早川田の青木要蔵と原常七が家宅侵入罪で嫌疑を受ける
     のち収監されるも証拠不十分で予審免訴となる
  03/15田中正造が第10回帝国議会で2月26日の質問書への政府の答弁を促して質問する
     03/17重ねて要求する
     03/18樺山資紀内務大臣と榎本武揚農商務大臣が連署で答弁書をだす
  03/16内村鑑三が『万朝報』の英文欄「山について悪聞四題」で初めて足尾銅山の鉱毒を取り上げる
     4つの山は第1が京都の本願寺の大本山、第2が足尾銅山、
     第3が顕彰碑建立をめぐる不正が発覚した上野の擂鉢山、第4が教科書出版社の贈収賄にからむ山賊
  03/18東京府芝区芝口3丁目の田中正造の定宿信濃屋に足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所が開設される
     【3月7日との違いは?】
     【足尾鉱業停止東京事務所? 4県連合足尾銅山鉱業停止請願事務所? 東京事務所?】
     事務所には被害町村から室田忠七ら6人の事務所出張委員(在京委員)が常駐することに
     03/19行動を開始する
     新聞社12社を訪問し鉱毒事件報道について被害民への協力を求める
     のち連日、関係各省庁や政党、貴族院議員、衆議院議員などを訪ねる
     鉱業停止と地租免租を請願、陳情など協力を依頼してまわる
  03/18内務大臣で伯爵の樺山資紀、農商務大臣で子爵の榎本武揚が連署で答弁書をだす
     18項目に及ぶ田中正造が提出した「公益に有害の鉱業を停止せざる義に関し質問に対する答弁書」がだされる
     「栃木県上都賀郡足尾銅山鉱毒事件は明治廿三年以来数回の調査に依り、渡良瀬川沿岸地に鉱毒含有の結果を
     得たり。而して明治廿五年に至り、鉱業人は仲裁人の扱に任じ、正当なる委任を付托せられたる沿岸町村被害
     人民総代との間に熟議契約をなし、其正条に基き、被害者に対して徳義上示談金を支出し、且明治廿六年七月
     より、同廿九年六月卅日迄を以て、粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、その期間は契約人民に於て何等の苦情
     唱ふるを得ざるは勿論、其他行政及び司法の処分を請ふが如きことは、一切為さゞることを鉱業人と契約し、
     其局を結びたり」
     被害人民総代との間にはすでに示談契約が成立し示談金も支出済みであるとの趣旨
     内容は示談契約は古河と被害農民との民事上の問題で政府は関与せず、県吏や郡吏も関与しない、とするもの
     鉱業停止は鉱業条例第19条に適合するか断言できないとし、政府も黙視したわけではないと対策の遅れをごまかす
  03/18田中正造が提出した「公益に有害の鉱業を停止せざる義に関し質問に対する答弁書」がだされる
     被害民は答弁書を鉱業主を擁護し被害民を見殺しにするものと解する
  03/19貴族院議員で陸軍中将の谷干城らが被害地を視察する【03/20?】
     谷は初代の農商務大臣で、政治的影響力があり農本主義的小農保護の思想の持ち主でもある
     噂よりも新聞報道よりも悲惨であると支援を誓う
  03/20内務大臣の樺山資紀、農学者の津田仙、安蘇郡出身の栗原彦三郎らが鉱毒被害地を視察する
  03/20谷干城が吾妻村上高橋で和歌を詠む
      名にしあふ 毛野の沃野の名は失せて 袖に涙を 渡良瀬の川
     途上走り書きをして側にいた桜井与惣治に渡す
  03/大村和吉郎と陸軍中将の三浦梧楼が被害現地を視察する
     大村は静岡県選出で無所属の衆議院議員、農学の知識はないものの自身で鍬を手に農業をした経験をもつ
  03/20第10回帝国議会の田中正造の質問に対して18日に行なわれた政府の答弁が雲龍寺に伝わる
     被害民は政府の対応に激昂。第2回の大挙押出しを決定する
     のち田中正造や上京陳情者は反対するも激論
     陳情者の腰が弱いため願意貫徹しないと決行が再決定する
  03/23農商務大臣の榎本武揚が津田仙や谷干城らの勧めをうけ明治政府の官僚として初めて被害地へ
     津田仙の案内で農事試験場技師の坂野初次郎を従え古河駅から海老瀬村の激甚地へ
     途中、少数の地元案内人を加え海老瀬村から西谷田村大字西岡神明西の破堤した築堤工事現場へ
     切れ先の草1本生えない砂漠と化した田畑や、ことごとく枯れはてた沿岸一帯の桑畑などを案内
     さらに大島村から渡瀬村へかけて道々鉱毒が人畜の衛生に及んでいることを説明
     雲龍寺付近から舟津川、界村の激甚地へともれなく案内
     三鴨村の笹良橋あたりで日が落ちはじめ、榎本の疲れも増し路傍の一茶亭で渋茶を供する
     のち、藤岡までの2里を徒歩で移動し、人力車で3里の夜道を古河町まで走る
     榎本の訪問が先の谷干城の被害地視察行動に強く影響されたことは明らか
     被害地での榎本の発言は被害民の意に反して誠意のないものと映る
     のち榎本は帰京して上野に着くと直ちに迎えの馬車で早稲田の大隈重信を訪ねる
     視察の結果と感想を述べる
  03/23夜9時、榎本の視察がおざなりと感じた足尾鉱毒被害民3600人が渡瀬村雲龍寺に集合
     集まり方も1人2人では警官に捕まりやすいと20人、30人ずつが組んで道を歩く
     【3千余人? 5千人? 7千人?】(第2回押出し)
     農民たちは榎本が鉱毒被災地の惨状に驚き第1次鉱毒調査委員会の設置を即決したことは認識する
  03/24田中正造が第10回帝国議会で鉱毒問題について再質問書が提出される
     再質問書は田中のほか52人が提出者として署名し、ほかに賛成者は52人
     同日、田中の再質問理由に関する大演説が行なわれる
     【「公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき再質問書」を提出、説明演説する?】
     のち田中の演説は新聞を通じ広く国民の注目を集める
  03/田中正造が第10回帝国議会での質問書と演説で数字や統計を駆使し被害の程度を述べる
     【3月24日の質問演説?】
     2月の演説で農地の被害反別は3万3466町余、鉱毒被害は1546万円余とした
     のち新たな調査で千葉県東葛飾郡、埼玉県北葛飾郡、東京府南葛飾郡の被害が判明
     前記数字と総計すると4万3700町歩が鉱毒被害を受けたと報告
  03/24第10回帝国議会の議会最終日、田中正造は5件の質問書を提出、執拗に政府を追及する
  03/農商務省が足尾銅山鉱毒特別委員を任命する
     【第2回鉱毒予防工事命令にむけて?】
     【ここでの事象が3月24日の足尾銅山鉱毒調査委員会設置のなかに含有されている可能性が大】
     05/12東京鉱山監督署長が足尾銅山に対し第2回目の鉱毒予防工事命令をだす【05/13?】
     【明治政府が命令をだす?】
  03/24榎本が視察から帰った翌日、松方内閣は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置する
     【臨時閣議が開かれ農商務大臣の榎本武揚が内閣に足尾銅山鉱毒調査会を設置?】
     【内閣が足尾銅山鉱毒調査委員を任命する(第3回鉱毒予防工事命令にむけて?)】
     法制局長の神鞭知常が委員長に【榎本武揚は会長?】
     ほか内務省土木技監で工学博士の古市公威、内務省衛生局長の後藤新平、
     大蔵省主税局長の目賀田種太郎、農商務大臣秘書官の早川鉄治、農事試験場技師の坂野初太郎、
     農商務省技師の細井岩弥、和田國次郎、小寺房次郎の8人を委員に委嘱する
     03/26さらに7委員を追加する
     理科大学教授で理学博士の小籐文次郎、非職御料局技師で工学博士の渡辺渡、
     医科大学教授で医学博士の坪井次郎、農商務省参事官の織田一、農科大学助教授の長岡宗好、
     農商務省鉱山局長の肥塚龍、医科大学助教授の入沢達吉
     03/下旬各委員が被害地と足尾銅山を視察、調査する
     のち調査会が鉱山側に37項目の予防工事命令をだすことに決定する
     命令書に違反した場合は直ちに鉱業停止させる厳しい条件がつく
     のち鉱毒被害農地には地租条例などを適用し荒地と同様の扱いとして免訴をする案が可決する
     05/27足尾銅山の古河市兵衛に対し第3回目の鉱毒予防工事命令が通達される
  03/24警部警官60人が雲龍寺に集結した被害農民に押出しを阻止しようと説諭にあたる
     被害農民は「東京に向かうのではない。参籠して神力に祈願するのだ」と偽る
  03/24午前2時、雲龍寺の被害民2千人が先発隊として東京を目指して雲龍寺を出発する
     各自弁当をもち綿入れや赤毛布をまとう。第2回目の大挙押出しが行なわれる【第2次大挙上京(行進)?】
     警官が赤い提灯を点し騒ぎだしたとき被害民は隊伍を整え上京の途に
     このとき警官は館林、佐野、足利の3警察署から百数十人を出動させる
     被害民が雲龍寺前の早川田渡しを渡ろうとすると船橋の上に10数人の巡査が立ちふさがる
     しかして5千人が5、6間幅の県道を進行してくるわけで巡査も手の施しようもなく退くしかない有り様に
     深夜佐野、足利、館林警察署の阻止行動を振り切り利根川の川俣の渡し場に到着
     若者が川に飛び込み両岸に係留された渡し船をかき集める
     船頭の細村定吉や藤野重次郎らの協力を得て対岸の埼玉県に到達する
     利根川を渡った被害民は行田市町方面と羽生町方面の二手に別れる
     のち埼玉県に到達すると約30人の警官が待機。解散をうながす
     押出し勢は受諾すると見せかけ三々五々南へ進み、再び集結して3隊に分かれる
     (1)粕壁、越谷、草加と陸羽街道を千住へ
     (2)岩槻、川口と岩槻街道を王子へ
     (3)鴻巣、大宮、戸田と中山道を板橋へ
     【退却するとみせかけ鴻巣、綾瀬、大島、須賀の各方面へと散らばり上京する?】
  03/24埼玉県に到達した第2回目の大挙押出しに対して取り締まり当局は厳重な警戒体制をしく
     千住署は肱岡、長阪両警部の指揮のもと警官隊数10人を南足立郡渕江村、六月村、保木間に配置する
     浅草署の応援警官50人と下谷署の応援警官を水戸街道の金町から荒川筋に配置する
     また浅草署、下谷署は管内の旅人宿の宿泊者を調査
     さらに下谷署は警官10余人で上野駅の警備にあたる
     板橋署は警官16人を戸田町に派遣して荒川に警戒網をしく
     板橋憲兵屯所は憲兵司令部に不穏の情勢を報告し憲兵13人の応援を得て戸田、赤羽、白子の警戒に任じる
     のち憲兵隊は新宿、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草の各屯所から増強される
     埼玉県内の警備の要所岩槻署は板橋署の警官50人のほか浦和、加須、越谷、桶川の各署員
     加えて憲兵隊の応援などで2百数十人を越え署内に入りきれない状態に
  03/24後発隊6千人が雲龍寺を出発する(第2回押出し)
  羽生、加須と進んだ永島与八ら押出し勢200人が栗橋の警戒網を突破し岩槻へ(第2回押出し)
     押出し勢を上回る警戒体制をしく官憲と激しく衝突。憲兵と警官の実力行使にあう
     【永島ら4人が負傷し岩槻の芳林寺に押し込められる?】
     ▽岩槻町にまで進行した被害民の前に埼玉県警部長の五十村良行、保安課長の楢崎次郎八らが馳せ告げる
     「今晩は当町の芳林寺に泊まるがよかろう、そこで相談の結果いずれかの策を講ずるがよかろう」
     一行は従うことに
     一行は芳林寺へ誘導され屋根の下で1泊を過ごす。その日の夕食と翌日の朝食を受ける
     郡長の島崎広太郎をはじめ町長の上村政敏、町会議員の村田雄之助、佐久間範次郎、梁惟親、金子源兵衛、
      上原温重、田中収、内藤兼吉、新井由次郎、山田義智、大野菊五郎、齋藤秀栄、森田利吉、松本三次郎、
      森田惣三郎、齋藤善兵衛、下村吉兵衛、大河内五郎兵衛、原田善左衛門の諸氏と町の有志富岡豊吉、
      鈴木岩吉が同情と厚意をもって接する
     ▽栃木県保安課長の畠山常正が馳せ栃木県の被害民に諭す
     被害民は「貴君は現に我々が鉱毒のために田畑を失ひ衛生を害されて居る惨状を目撃しながら、
     嘗て一回の救済の道を講じた事もなく、我々が窮苦の余り請願上京の途に就けば、
     之を不穏として帰郷せよとは片腹痛い御説諭です」
     逆に被害民からやり込められ返す言葉もなく引き込む
     ▽解散、帰国を説く警官らと請願権の行使を主張する押出し勢が対立
     にらみ合うなか、被害民らが厚遇をうけた郡長、町長から諭される
     「我々は深く皆様に御同情申上ます、けれども警官や憲兵が飽まで上京を沮止する意志で居りますから、
     勢ひ衝突を免れないと思ひます。而して若し怪我人でも多く出ると御困りですから、
     此中から総代を選んで上京して貰ひ、大部分の方々は御帰国なさる方が宜しいと思ひます」
     被害民らは反抗することができず、不本意ながら従い、総代を選び一同帰国することに
     のち総代150人と主張するも半減され女性1人を含む代表75人が上京。残余は帰国することに
     【03/26午後1時?】
  岩槻で憲兵が押出し勢の持ち物検査を行なう(第2回押出し)
     1人の旅費が平均50銭にみたず、入京しても長く滞在できない状態にあり
     憲兵司令部で一切の警戒を解いてその入京に任すべしとの儀あり、と伝えられる
  03/25蓮田方面を進む被害農民350人が警察200人の待つなかへ入り衝突(第2回押出し)
     ほかにも東京の綾瀬村、保木間など随所で警官や憲兵と遭遇、解散、帰国を説得されてもなお東京入りを目指す
     騎馬警官が埼玉県新座郡白子村から成増に向かう押出し勢300人を発見する
     数刻ののちには見失うなど警戒体制の裏をかき入京をはたす
     のち途中、埼玉の警察署や東京の警視庁に阻まれるものの約200人が東京に入る
  03/25、26いつの間にか押出しの被害農民ら100人以上が芝と日本橋の旅人宿に投宿(第2回押出し)
     【この項、日時設定があやふや】
     03/26朝、突如として日比谷が原に大挙押出しの被害民数百人があらわれる
     03/26午後6時、赤羽を経て入京をはたす
     のち船便で日本橋蠣殻町についた別働隊とともに日本橋や神田、下谷の旅人宿に投宿
     その数は300人以上に
  03/26東京事務所の在京委員が内務省の三崎県治局長と原警保局長に対して抗議
     警官が被害農民を負傷させた件について
  03/27栃木県会議員の関口忠四郎、群馬県会議員の荒川高三郎を加えた13人が榎本武揚農商務大臣に面会
     (第2回押出し)
     被害地、被害民の救済と鉱業停止を陳情する
     【惣代らも3人が農商務省にたどりついただけで、大臣には面会できずに帰郷?】
  03/27押出し勢の活動は陳情、請願にとどまるものでなく議員の歳費受け取りの日の機会をとらえ
     東京の足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所が「足尾銅山鉱毒被害地惨状御見分願」を広く配布。支援と理解を求める
  03/27『毎日新聞』が「被害民の上京」を掲載する
     押出し勢の動向と警備体制、「鉱毒調査委員会(第2回)」の模様
     西郷従道海軍大臣が谷干城と田中正造を委員に推薦したこと
     「氷川伯(勝海舟)の鉱毒談」などを掲載する
     第2回押出しの動向による鉱毒世論の盛り上がるなか鉱毒調査委員会に関する報道が新聞に登場する
  03/28押出し勢が赤坂溜池で開催中の蚕糸業大会会場におもむく(第2回押出し)
     鉱毒で萎縮したり腐った桑、檜、杉苗や柳、竹の根などを示し、鉱毒被害の実情を参観者に訴える
  03/28永島与八らが裏切り者を襲う
     04/01永島ら11人が家宅侵入罪で逮捕。永島ほか2人が起訴される
     【5人が家宅侵入罪の容疑で逮捕?】
  03/28、29足尾鉱毒被害の農民数百人が古河の示談に応じた村長や県会議員宅に抗議する
  03/28『東京日日新聞』が鉱業停止の可能性だけでなく、被害農民の承諾なしには鉱業の継続は有り得ないことを示唆する
  03/28『読売新聞』は鉱業停止の見通しが強いことを委員の主張を通して伝える
  03/29押出し勢を加えた総勢200余人が内務省、大蔵省を訪れ請願(第2回押出し)
     内務省では原警保局長に重ねて抗議。警官の暴圧を厳しく責任追求する
     大蔵省の田尻次官に被害地の免租減税を陳情する
     被害民は議会や諸官省に陳情、雨のなか蓑笠で各新聞社を歴訪。新聞社は応えて紙上で鉱毒事件を報じる
     のち刺激された政治家や知識人、キリスト教者らは被害地を視察。鉱毒演説会を開き被害者救済を叫ぶ
  03/29榎本武揚が鉱毒事件の責任をとり農務商大臣を辞任。外務大臣の大隈重信が兼任する
     【03/28に罷免? 03/28に辞職?】
     のち榎本の下した命令が調査会で検討される。操業停止前に除害工事を施工するべきものに
  03/29足尾銅山鉱毒調査委員会委員長の神鞭知常、委員の肥塚龍、
     内務次官の中村元雄、農商務次官の金子堅太郎ら交々が被害地を視察する
  03/30栗原彦三郎らが発起となり神田区美土代町の基督教青年会館で鉱毒事件の演説会が開かれる【鉱毒事件演説会?】
     出席弁士は谷干城、村松介石、津田仙、高橋秀臣、田中正造ら
     谷は演説中「世に田中正造氏を評して狂なりと呼ぶ者あれど、予は同氏は社会の神なりと思ふ云々」と語る
     【谷は「田中を狂なりと呼ぶ者あれど、田中は社会の神だ」と叫ぶ?】
     田中は演説中「余は進歩党員であるが眼中大隈伯なし、只新農商務大臣あるのみ」と語る
     新農商務大臣は外務大臣の大隈重信が兼任
  03/31政府による鉱毒対策の重大な転換が予想されるなか、天皇の意向により宮内省の広幡忠隆侍従が被害地を視察する
     のち明治天皇が足尾銅山の鉱毒を憂慮
  03/末古河が鉱業存続の請願。足尾町の有志が三々五々400人が上京する
  03/田中正造が進歩党の幹部尾崎行雄、犬養毅らに手紙を送り罵倒する
     「犬養馬鹿、尾崎馬鹿、いかなれば〔大隈〕伯を農商の大臣とせしは馬鹿の馬鹿、大馬鹿三太郎よりも大馬鹿なり」
  03/協同親和会が檄文を発表する
  03/毎日新聞社社長の島田三郎が初めて足尾銅山鉱毒演説会に出席する
  04/初内務省衛生局長の後藤新平が被害地を視察する
  04/02〜03協同親和会が神田区錦町の松本亭で臨時会をひらく
     鉱毒問題解決促進のため当局大臣鞭撻する3項目を決議
     一、鉱毒救済事件に付其筋へ建白書を捧呈する事
     一、委員十名を選び各大臣を訪問する事
     一、四月九日午後一時神田錦輝館其他に於て政談演説会を開き与論の喚起に力むる事
     のち委員に稲垣示、樽井藤吉、吉田好静外7人をあげる
  04/07宮中内大臣の徳大寺実則が足尾鉱毒被害の実態の報告を被害県に対して要請する
     【明治天皇が群馬県、栃木県、埼玉県、茨城県の各知事に足尾銅山の鉱毒について詳しい報告を命じる?】
  04/09内務大臣の樺山資紀が足尾鉱毒被害地を視察する
     【04/11〜04/14、内務大臣の樺山資紀が被害地を視察する?】
  04/09協同親和会代表の高橋秀臣、中村楯雄、稲垣示、山口弾正が大隈重信農相【農商務大臣?】を訪問
     3項目の趣旨を建議し実行を迫る
     一、足尾銅山の鉱毒は其及ほす所極めて大にして鉱業停止の外途なき事
     一、被害荒廃地の地租は速かに之を免除する事
     一、大臣は宜しく被害地に出張して其実地を視察され度事
  04/10午後1時、協同親和会が神田区三崎町の川上座で鉱毒事件の演説会を開く【鉱毒演説会?】
     出席弁士は松村介石、高橋秀臣、稲垣示、津田仙、田中正造をはじめ10数人
     すこぶる盛会となり鉱毒問題の注意を世人に惹くことに
  04/11田中正造が京橋区八官町の宮下栄輔方から芝区芝口3丁目の信濃屋、宮下金次郎方に移る
     芝口宮下方に雲龍寺鉱毒事務所の東京鉱毒事務所が確立する
  04/13足尾銅山鉱毒調査委員会が討議に入る
     のち数回の会合を催す
  04/14足尾銅山鉱毒調査委員会が第1回会議を開き異例の速さで審議がすすむ
     あらかじめ神鞭委員長から用意された原案をもとに討議され最終案がだされる
     (イ)一日モ速ニ足尾銅山附近ノ山谷ヲ相当ナル方法ヲ以テ砂防及植樹ヲサシムベキコト
     (ロ)一時足尾銅山鉱業ノ全部若ハ其幾分ヲ停止シ鉱毒ノ防備ヲ完全ニ且永久ニ保持スル方法ヲ講究セシムルコト
     (ハ)相当ナル方法ヲ以テ渡良瀬川ノ鉱毒含有ノ土砂ヲ浚渫若ハ排除セシムルコト
      原案で一時的にも鉱業停止を提案していたことは注目に値する
     鉱山局長の肥塚龍が実行する当局者として反対
      松方、大隈を主にする内閣の鉱業停止に対する消極的な姿勢が垣間見られる
     非職御料局技師、工学博士で古河の技師顧問格の渡辺渡が鉱毒予防の設置を命じる
  04/15足尾銅山鉱毒調査委員会が前日の原案のうち(ロ)に対して主として渡辺渡が修正案を提案する
     設備が期日までに完成しない怠慢ならば鉱業を停止するとする
     期日ヲ指定シテ鉱毒及煙害ノ防備ヲ完全ニ且永久ニ保持スベキ方法ヲ講究実施セシムルコト、
     且必要ナル場合ニ於テハ官ニ於テ直ニ之ヲ実検【ママ】シ其費用ヲ鉱業人ニ負担セシメ若ハ鉱業ヲ停止セシムルコト
     渡辺の提案は鉱業停止を阻止しようとするもの
     渡辺の修正案に古市公威、後藤新平ら委員が賛成し、原案はくつがえされ渡辺の修正案が多数で決定する
     のち農事試験所の技師坂野初次郎、帝国大学農科大学助教授の長岡宗好が鉱毒調査委員会の決定に不満をもつ
     のち坂野と長岡はふたたび足尾銅山を視察
     建議をだし決定の再審議を求める。2人の提案は「完全なる予防の設備竣工迄一時、鉱業の全部もしくは一部の停止」
     のち2人の緊急決議案は反対多数で否決される
  04/15高安岩太郎が『足尾銅山鉱業停止請願ニ対スル告白書』を刊行する
     2月12日に提出した38人の「足尾銅山鉱業非停止陳情書」を一般に宣伝する
  04/22群馬県勢多郡郡長が県の内務部部長あてに足尾銅山鉱毒被害調書を提出する
     銅山製錬より生ずる煙による山林枯死の報告あり
  04/23鉱山局長の肥塚龍が被害地を視察する
  04/24足尾銅山製錬所の排出ガスにより周辺の山々の樹木に影響が生じている
     『東京日日新聞』が記者の取材に基づき報道する
  04/27田中正造が深川区常信寺の鉱毒演説会で演説する
  04/28〜05/27頃田中正造が栃木県、群馬県の鉱毒被害地を視察。各地で演説する
  04/30農商務省鉱山局局長の和田維四郎が鉱毒について企業弁護の文を鉱業雑誌に掲載する
  04/栃木県上都賀郡松木村で畦焼き(畑の枯れ草を燃やす作業)の火が山林に燃え移る
     下流の赤倉、間藤付近までを焼く大規模な山林火災に
     鉱毒ガスにより立ち枯れていた木に火が移り大火事になる。はげた山は足尾銅山が原因という主張も
     のち松木村では産業がたちゆかなくなり村民の多くが村をでる
     この時期、足尾銅山側は精錬に使用する材木を伐採するために松木村に林道をつくる計画をたてる
     予定地を購入しようとするも残留村民は全村譲渡でなければ応じないと主張、裁判になる
     のち残留村民は足尾鉱毒被害救済会に救済を求めて会長の田中正造も村民代表らと面会する
  勝海舟が和歌を唐紙半折に大書、田中正造に贈る
      ふる川の 濁れる水を 真清水に
       誰がかきまぜて 知らず顔なる
  05/01『毎日新聞』が社告「鉱毒問題に関して栃木群馬諸県の有志並関係者諸君に告ぐ」を掲載する
     社長の島田三郎は客観的立場で判断しようとし、鉱山主、停止派、仲裁派の各方面を対象にする
  05/03足尾銅山鉱毒調査委員会による免租処分の集中討議がなされる
     免租処分は鉱毒処分の鉱毒予防工事命令と、もうひとつの柱となる
     予防令は被害民の鉱業停止の要求に応えるものでなく、免租措置は被害民の救済や将来の展望がもてるものでなく
     05/07免租処分が決定される
     税務官吏に対して被害民の免租措置について訓令する
  05/足尾銅山鉱毒調査委員会が鉱毒処分案を答申。足尾銅山に鉱毒予防工事命令を下す
  05/113月28日に永島与八ら11人が裏切り者を襲った事件で永島ほか2人が前橋地方裁判所にて公判
     【5人のうち2人?】
     05/12永島ほか2人に有罪判決が言い渡される。永島ほか1人は確定する
  05/11憲兵30人、警官数百人が群馬県桐生町より茨城県境町まで配置される
     「足尾鉱毒被害地に不穏の動き」との中傷に基づくと指摘あり
  05/12東京鉱山監督署長が足尾銅山に対し第2回目の鉱毒予防工事命令をだす【05/13?】
     【明治政府がだす?】
     (1)諸抗からの一切の捨石を禁じる(2)使用中の石灰自動給装器を改善すること
     (3)箕子橋工場【ママ】に堆積する沈澱物と捨石は平地に移し完全な方法で堆積させること
     (4)小滝の新旧の●は宇都宮に、通洞の捨石は砂形に移し完全な方法で堆積させること
      【●金偏に媛の旁(からみ・鉱石を溶解するときにでるカス)】
     第1回の命令をやや具体化したものに過ぎず。賠償金などは何の方針も立てず
  05/18永島与八、小野政吉、石川兵衛による家宅侵入事件の公判が開廷する
     永島の拘引は3月14日【03/12?】
     沿岸被害民2千余、傍聴に集まる
     永島と小野に重禁錮6か月、石川に重禁錮4か月の有罪判決が下る
  05/20鉱毒被害青年11人が宇都宮地方裁判所栃木支部に拘引される
     群馬県邑楽郡多々良村大字日向の亀井朋治、原代次郎、原清蔵、野村和二郎、桜井仁平、永沼政吉、田野入利三郎
     栃木県足利郡吾妻村大字高橋の亀井虎之丞、阿部栄太郎、久保田勇吉、内藤豊蔵
     11人は足利郡筑波村大字高松筑波村大字小曾根で反対者某々の家宅に侵入
     家人や雇人を殴打した嫌疑をもって捕縛
     もともとは反対者が運動勢力をくじいてやめさせようと企んだ策略
     のち24日ほど入監しているうち予審が終結、予審免訴となる
  05/24古河市兵衛が農商務次官から第3回鉱毒予防工事命令の内示をうける
  05/27東京鉱山監督署長が足尾銅山の古河市兵衛に対し第3回目の鉱毒予防工事命令が通達される
     足尾銅山鉱毒調査委員会の命に基づき明治政府(東京鉱山監督署署長)の南挺三名義による
     【鉱毒除防工事命令? 鉱毒防御命令?】
     工事内容は第1回、第2回の予防工事命令とは比較にならない大規模なものに
     第1回は1896(明治29)12月24日、第2回は1897(明治30)5月12日にだされる
      「亜砒酸及煤煙を凝固沈澱せしめ且硫酸製造又其他脱硫の方法を以て亜硫酸瓦斯を除却」する脱硫塔、
      「沈澱池濾過池」、「泥渣堆積所」、「烟道及大煙突」の建設など37項目からなる
     命令は第1項から第35項まであり、第36項は将来に対するもの、
     最後の第37項は「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停止すべし」と建設期限を義務づける
     第3回の工事命令は大規模な予防策を敷くもので排水の濾過池、沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令
     どれもが30日から20日という期限付きで、ひとつでも遅れた場合には閉山するというもの
     発注者の農商務大臣が足尾銅山の「鉱業を停止する」目的で、竣工不可能な工事期間を決める
     農商務大臣の大隈重信は田中正造の所属する進歩党の党首。田中の希望を入れて足尾銅山の操業を停止しようとする
     のち工事命令は操業停止を狙い古河には苛酷な要求ながら、古河は珍しい電灯などを活用し24時間体制で工事を慣行
     足尾町町民は手弁当で工事に助力する
     古河市兵衛は絶対やり抜くといい期限内に竣工させる
     元技術官僚で工事責任者の近藤陸三郎は無理と判断し市兵衛を説き伏せて当局と交渉
     2か所の製錬所に施すべき脱硫塔、煙道の工事を当局と交渉して1か所に変更する
     監督署長南挺三の目こぼしで期日内に達成、一時停止はまぬがれる
     工事費は賃金47万円、材料費42万円、食糧費15万円、総計104万円
     のち鉱毒予防命令がでたこで知識人や新聞社の被害民支援、鉱毒報道は下火となり被害民の運動も沈静化
  05/27鉱毒予防工事命令の第32項には、それぞれの工事に対する期日が示される
     一、本山沈澱池及濾過池は50日
     一、小瀧沈澱池及濾過池は45日
     一、通洞沈澱池及濾過池の600坪は30日、残余は60日
     一、通洞に於ける泥渣堆積場は30日
     一、従来の廃石及●【金偏に媛の旁】の処理は60日
     一、旧抗抗水の処理は90日
     一、本山製煉場各烟突連絡及別紙図面第1区烟道は100日、第2区烟道及大烟突は150日
     一、小瀧及烟突連絡及別紙図面第1区烟突は80日、第2区烟道及烟突は120日
     一、以上の外各所の工事は120日
  足尾銅山に対する鉱毒予防工事命令のほか政府は税務官吏と大林区署に訓令を下す
     税務官吏に対する訓令
     大林区署に対する訓令
     民林に関する訓令
  05/表面上でも実質的な鉱毒予防工事命令がでたことで鉱毒反対運動は下火になる
     知識人による支援活動は下火になり、鉱毒世論を盛り上げた新聞報道も少なくなる
     知識人も各新聞社も鉱毒予防命令に期待をもつ
  05/文海堂書店が『鉱毒問題秘聞録』を刊行する
     古河会社側の宣伝文書を高橋菊太郎がまとめる。定価15銭
  06/07大蔵当局が地租免除願に「鉱毒のため」と記すことを承認する
  06/18足尾町の営業税問題演説会で田中正造、島田三郎らが演説する
  06/27足尾の鉱毒被害地復旧請願在京委員が当局各大臣、鉱毒調査委員会あてに請願書を提出する
     長文の「鉱毒被害地復旧請願」
  06/以降被害民が政府に対して生活再建を求める請願を相次いで提出する
     鉱業被害地の復旧、財産上の損害補償、渡良瀬川の堤防改築など
     のち被害町村からだされた請願書、陳情書は12月までの間に20件以上に
  06/古河潤吉の強い主張により家業と事業を分離。古河本店を古河鉱業事務所に改称、経営の近代化を進める
     古河本店の事務所を東京に移す
  07/08〜08/06田中正造が雲龍寺から栃木県、群馬県、茨城県の被害地を視察する
  07/09田中正造の妻カツが植野村船津川にある被害地の婦人乳不足者を見舞う
  07/29田中正造が前橋で群馬県知事の古荘嘉門に面会する
  07/31足尾銅山鉱毒事件調査会の長岡宗好委員が渡良瀬川沿岸鉱毒被害地面積調査結果を報告する
     鉱毒被害の面積は渡良瀬川の洪水が及ぶ範囲と予測。土壌採集、分析し土壌中の銅分の存否を判断する
  07/栃木県会議員の関口忠太郎、藤沼友次郎、榊原経武をはじめ大多数の議員が内務大臣あて陳情書を提出する
     榊原経武、高久倉蔵、持田若佐、落合貫一郎、藤沼友次郎、関口忠太郎、湯本荘一郎、新井保太郎、
     木村半兵衛、関田嘉七郎、秋田啓三郎、矢島中、田中敬、大橋正松、小倉常三郎、芝野徳三郎、三浦小平太、
     佐伯有敦、須田亨三、長谷川千次郎、外数人
  08/03田中正造が宇都宮で栃木県知事の江木千之に面会する
  08/03衆議院議員の中嶋祐八、岩崎万次郎、天野為三郎が貴族院議長の近衛篤麿邸を訪ねる
     鉱毒事件の被害補償について名望家の尽力を要する、被害農民と古河側の仲裁をして欲しいと申し入れる
     08/09岩崎が近衛邸を再訪し、さきの返事を求める
     近衛は多忙で手をつけていない、たとえ受けても忙しく満足できない恐れがあり断りたい
     岩崎はなお熟考して欲しいと翻意をうながす
     08/12貴族院議長の近衛篤麿が農商務省に大石正巳次官を訪ねる
     大石は被害農民全員の委任をうけ、仲裁後は一切苦情をいわぬと誓約させる
     適当なところ古河とかけ合うなら農商務省も助力する、決してむずかしいこでないと答える
     じつはこの日、大石が近衛に献策したのは新たな永久示談の策動
     免租処分とその不満を近衛の声望により政府の意図を側面から補完するに留まらず
     将来にわたる生存権をわずかな金で売り渡し、鉱業停止の闘いを放棄すること
     のち近衛は岩崎万次郎に謝絶する旨の書簡をしたためる
  08/06田中正造が雲龍寺鉱毒事務所の大出喜平、野口春蔵ら幹部あてに檄をとばす
     新教育を受けた青年こそあくまで責任をもって鉱毒問題解決に尽力するよう訴える
  08/07田中正造が栃木県被害民代表と大蔵省を訪問する
     大臣、次官ともに不在で面会できず
  08/09田中正造が栃木県被害民代表と内務省に陳情。足尾銅山鉱毒調査委員会の委員長に面会陳情する
  08/14田中正造が貴族院議長の近衛篤麿を訪ねる
     近衛は田中から鉱毒事件や被害地の説明をうけ、とても仲裁などで収まるないことを思い知る
  08/21鉱毒被害地在京委員が当局各大臣あてに陳情書を提出する
     「足尾銅山鉱毒財産上既往の損害及既往の浸毒より現在の損害に対する陳情」
  08/24陸奥宗光が肺結核のため54才で没する
  08/鉱毒被害地在京委員が当局各大臣あてに「鉱毒の個人及公共に及ぼす損害に付陳情」を提出する
  08/山田郡境野村の被害民総代浅海泰八、高野梅吉、別府松太郎が声明書を発行する
     示談派が請願派を中傷せる流言飛語が飛び交い、運動家が誤解され迷惑なため立場を明白にする
  09/07邑楽郡多々良村が大蔵大臣あてに「鉱毒被害地納租延期願」を提出する
  09/09渡良瀬川で洪水が起こる
  09/09栃木県、群馬県の鉱毒被害地在京委員が当局各大臣、足尾銅山鉱毒事件調査委員会あてに陳情書を提出する【請願書?】
     「足尾銅山附近山林伐採中止水源保護ノ儀ニ付至急陳情」
     「足尾銅山鉱毒ノ為桑葉の変象ヨリ蚕繭系ニ至ル被害ノ実況ニ付精密ナル御調査願ノ陳情」
     【足尾銅山伐木中止水源涵養地3件の請願書類?】
  09/10鉱毒被害地在京委員が当局各大臣、鉱毒調査委員会あてに請願書を提出する
     「秣場ヨリ受クル被害地御見【ママ】分願ニ付至急請願」
  09/11鉱毒被害地在京委員が当局各大臣あてに陳情書を提出する
     「足尾銅山鉱毒洪水に乗じて汎濫の実況至急御検分願の陳情」
  09/14加藤兼吉が編集する『足尾銅山鉱毒問題(上編)』が発行。田中正造も携わる
     【『足尾銅山鉱毒問題 前篇』?】
  09/14山田郡境野村が内務大臣、農商務大臣あてに「足尾銅山鉱毒被害地復興請願」を提出する
  09/田中正造が10月にかけて東京で『足尾銅山鉱毒事変請願書並始末略書』などの作成に従事する
     のち年明け早々に発行する
  09/被害地各県民が大蔵大臣あてに「鉱毒荒地無期限減免租請願書」を提出する
  10/01鉱毒被害地人民総代が当局各大臣、鉱毒調査委員会あてに陳情書を提出する
     「足尾銅山鉱毒被害ノ機業・織物及染色ニ関スル陳情」
  10/02農商務省の鉱業条例改正のための全国鉱山監督署署長会議が開かれる
     東京、大阪、札幌、福岡の各鉱山監督署署長が出席し足尾銅山の除害工事の視察に発つ
  10/07足尾銅山の鉱毒防御施設の不備が判明する
  10/07鉱毒被害地人民総代検分委員が農商務大臣、大蔵大臣、内務大臣あてに文書をを提出する
     【足尾鉱毒被害者在京委員が? 12/07事象には鉱毒被害地?】
     「足尾銅山鉱毒除害工事破壊検分之義に付上申」
  10/08栃木、群馬、茨城、千葉、埼玉の5県83町村の首長が請願書を提出する
     「足尾銅山鉱業停止請願書」を内務大臣、貴族院院長、衆議院院長に提出
     【被害各町村長、鉱毒地人民総代が当局各大臣、貴族院・衆議院あてに?】
     首長(町村長)署名のあとに「鉱毒地人民総代」として栃木、群馬の農民22人が連署する
     納税すべき田畑なく義務もない境遇でなお課税の窮状を訴える
     栃木県安蘇郡植野村村長 恩田輪平、犬伏町町長 福島与十郎、界村村長 糸井藤次郎
     群馬県邑楽郡西谷田村村長 荒井嘉平
     茨城県猿島郡古河町町長 潮田資敬、新郷村助役 小森谷弥五郎、香取村村長 齋藤忠次、
      静村村長 田村兼三郎、五霞村村長 栗原僖平、猿島村村長 野村祐七、境村村長 糸井周平、
      森戸村村長 佐怒賀政一、長須村村長 間中柳馬、岩井村村長 中山勘一郎、中川村村長 横島正治、
      七郷村村長 南佐重、神大実村村長 針谷清作、沓掛村村長 木村喜市、七重村村長 木村岩三郎、
      生子菅村村長 根本齊治、逆井山村村長 稲毛田儀蔵、長田村助役 岩崎民三部、八俣村村長 関根亀蔵、
      幸島村助役 石島利右衛門、岡郷村村長 諏訪数馬、桜井村村長 船橋利喜蔵、勝鹿村村長 三田周助
     埼玉県北埼玉郡川辺村村長 渡辺茂助、利島村村長 小室潜之助
     千葉県東葛飾郡関宿町助役 鈴木重郎、二川村村長 鈴木由哲、木間瀬村助役 逆井貞八、
      川間村村長 栗原幸太郎、重田町町長 宮野三五郎、旭村 飯田業助、梅郷村村長 岡田鷹之助
     栃木県足利郡吾妻村村長 亀田佐平、久野村村長 稲村忠蔵、筑波村村長 八木橋与三郎、
      梁田村村長 長純一郎、御厨村助役 室田久四郎、山辺村助役 古山謹三郎、三重村村長 山本文一郎、
      山前村村長 鶴貝幸太郎【鶴見?】、葉鹿村村長 青木五郎衛、小俣村助役 須藤宇三吉、
      北郷村村長 山藤仙之助【他之助?】、足利町助役 福田久三郎、
      富田村村長職務管掌足利郡書記 江副広定【広忠?】、毛野村村長職務管掌 高久与市
     栃木県下都賀郡三鴨村村長 福地新八、藤岡町町長 森宗吉、谷中村村長 宮内長太、野木村助役 岩崎忠蔵、
      生井村村長 須田治右衛門、寒川村助役 橋本盛之助、部屋村村長 田中森之進、赤麻村村長 高際勘次
     群馬県邑楽郡渡瀬村村長 谷津富三郎、多々良村村長 今泉米造、海老瀬村村長 市沢万平、
      伊奈良村助役 山岸淳三郎、赤羽村村長 中里巳喜蔵、千江田村助役 丸山幸七、梅島村村長 瀬下義太郎、
      佐貫村助役 奈良瀬与吉、三野谷村助役 小暮積蔵、六郷村村長 田口紋次郎、長柄村村長 新井佐五郎、
      高島村村長 石井栄八、中野村収入役 松原房次郎、館林町町長 熊谷直方、郷谷村村長 越沢順四郎、
      大箇野村村長 折原逸太郎
     群馬県山田郡韮川村村長 明戸松次郎、矢場川村助役 三田善作、休泊村村長 篠原浦十郎、
     邑楽郡大島村村長 青山嘉一郎、
     山田郡桐生町町長 山下篤愛、広沢村助役 加藤芳造、境野村村長 野辺三左、相生村村長 藍原角太郎、
      毛里田村村長 板橋信次郎
     ▽鉱毒地人民総代
     栃木県安蘇郡植野村 谷元八、関口幸八、落合美之作【落合巳之作?】
      安蘇郡界村 野口春蔵、福地直八
      安蘇郡犬伏町 山崎利平、山崎●【金圭】次郎
      足利郡吾妻村 庭田恒吉、庭田駒吉
      足利郡久野村 設楽常八、石川源蔵
     群馬県邑楽郡渡瀬村 小林偵七郎、家富元吉
      邑楽郡大島村 磯幸次郎、須藤与惣治
      邑楽郡多々良村 福田和寿蔵、原福太郎
      邑楽郡西谷田村 野中源蔵、北山清次郎
      邑楽郡渡瀬村 木村勇吉
      山田郡桐生町 水野茂吉
     栃木県下都賀郡谷中村 茂呂近助
     請願書は当局各大臣と貴族院、衆議院に提出する
     ただ群馬県新田郡の灌漑被害町村と調査未済の下流沿岸被害地は除く
  10/08鉱毒被害地在京委員が当局各大臣あてに「鉱毒の衛生其他に及ぼす被害に付請願」を提出する
  10/19栃木県、群馬県の3郡9村の被害民総代が請願書を内務大臣の樺山資紀あてに提出する
     渡良瀬川沿岸堤防改築請願書
  10/20群馬県、栃木県の2郡7村の被害民が大蔵大臣あてに願い書を提出する
     被害地と無害地を比較し如何に収穫が減殺されているかを立証するため「鉱毒被害地稲作坪苅御検分願」
     群馬県邑楽郡郷谷村 大塚源十郎、伊奈良村 増田甚平、大島村 青山嘉一郎、
      西谷田村 北山常吉、西谷田村 中島甚五郎、多々良村 田野入利三郎
     栃木県安蘇郡犬伏町 末吉彦十郎、田沼町 山田友次郎
  10/22群馬県邑楽郡西谷田村村長の荒井嘉平が村長10人の連署で内務大臣樺山資紀あての請願書を提出する
     【邑楽郡10町村が提出する】
     渡良瀬川堤防改築請願書
  10/下旬田中正造が貴族院議員有志の鉱毒問題研究会に立ち説明する
  10/邑楽郡22町村長が当局各大臣あてに「鉱毒被害処分請願」を提出する
  10/足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所の室田忠七が一時的に帰郷
     被害町村の免租請願の組織化に力をそそぐ
     のち第1次鉱毒調査委員会による免租処分が決定したのち
     室田は被害調査中の納税延期請願、免租処分延期請願など現地の運動の組織化と指導にあたる
     翌年の2月には再び東京事務所へ
  11/04被害民総代が農商務大臣あてに「坪苅御検分願ニ付陳情」を提出する
  11/17家宅侵入罪に問われる永島与八と小野政吉が宇都宮監獄署から出獄する
     控訴した石川兵蔵は在監
  11/22足尾銅山が鉱毒除防工事を完成させる
  11/頃都下在留の代議士や弁護士、新聞記者諸氏が京橋の伊勢勘楼に会し鉱毒問題を協議する
     代議士は中島祐八、荒井啓五郎、木暮武太夫、堀越寛介、藤田吉享、田中正造
     弁護士は天野為之、黒須龍太郎、福田又一
     記者は読売新聞社、毎日新聞社、国民新聞社
     3項目が決議される
      一、議会に於て政府に質問書を提出する事
      一、質問書提出後田中正造氏演説をする事
      一、提出者は被害地関係の議員にして賛成者は可成多数を要する事
     田中正造が宿所にする京橋区八官町26番地の宮下英輔方を鉱毒地関係代議士の仮集会所とすることに
  12/07足尾鉱毒被害地在京委員が農商務大臣あてに「沈澱池無効ニ付請願」を提出する
     【10/07事象には鉱毒被害者?】
  12/14群馬県会が地租減免について群馬県知事に建議する
  12/14栃木、群馬、茨城、埼玉、千葉の5県の鉱毒被害関係町村長83人が政府あてに連署で請願書を提出
     【被害地各町村長、被害地人民総代が当局各大臣、貴族院議長・衆議院議長あてに?】
     これまでの総括として「憲法に依り被害民保護請願書」にまとめられる
     請願書に付けられた「内容説明書」は100ページをこえる詳細なものに
     のち田中正造が『足尾銅山鉱毒事変請願書並始末略書草稿』としてまとめ出版する
     〔請願要旨〕
     (1)鉱毒加害の結果は人生不幸の種類一として之を備ざるはなき事
     (2)被害民の衷情鉱毒地冬作の事
     (3)稀薄被害なる地方損傷の一例の事
     (4)鉱毒煙害に間接に連係する許多の被害は計画し得る処にあらざる事
     (5)沿岸被害地増加の事
     (6)鉱毒洪水合成加害種類の分別し能はざるのある事
     (7)営業人の義務を欠く事
     (8)鉱毒は人智を以て避け得ざる場合ある事
     (9)鉱山の監督を怠り却て加害を助長したる事
     (10)水源山林放火濫伐の事
     (11)政府は従来衆議院の質問及県会の議決を軽視したる事
     (12)地方官職責を尽さざる事並に被害民請願の性質の事
     (13)粉鉱採集器の効能を詐称して◯々被害民をだます瞞着せし事
     (14)衛生上鉱毒加害の事
     (15)由来当局者と鉱業主との結托加害の事
     (16)害土除却及河身破壊の改築に対する諸般の工事をなすべき事
     (17)鉱業を停止せすして却て被害人民の産業を停止し其荒廃を救済せざる事
     (18)被害民は多年憲法の保護を受くる能はざる事
     (19)拓殖勧農の方針何処に存するやを知らざる事
     (20)被害民は鉱業を憎むが如きものにあらざる事
     (21)一般の鉱毒洪水合成被害地免租仮令公権継続せしむるとも
      町村自治実力の破壊と国家基礎の亡滅とを回復する程の功を有せざる事
     (22)国家及社会に大関係を有する事
     (23)憲法の保護を受く能はざる被害民は訴訟を提起するの道なき事
     (24)国家の命脈を維持せんが為めに必要なる法律を制定して行政の処分を為すべき事
     □提出者=町村長(※町村長代理)
     ▽群馬県
      邑楽郡渡瀬村、多々良村、海老瀬村、※伊奈良村、赤羽村、梅島村、佐貫村、三野谷村、
      ※千江田村、六郷村、長柄村、高島村、※中野村、館林町、郷谷村、大箇野村、西谷田村、大島村
      山田郡韮川村、※矢場川村、休泊村、桐生町、※広沢村、境野村、相生村、毛里田村
     ▽栃木県
      安蘇郡植野村、犬伏町、界村
      足利郡吾妻村、久野村、筑波村、梁田村、※御厨村、※山辺村、三重村、
      山前村、葉鹿村、※小俣村、北郷村、※足利町、※富田村、毛野村
      下都賀郡三鴨村、藤岡町、谷中村、※野木村、生井村、※寒川村、部屋村、赤麻村
     ▽茨城県
      猿島郡古河町、※新郷村、香取村、静村、五霞村、猿島村、境町、森戸村、長須村、
      岩井村、中川村、七郷村、神大実村、沓掛村、七重村、生子菅村、逆井山村、※長田村、
      八俣村、※幸島村、岡郷村、桜井村、勝鹿村
     ▽千葉県
      東葛飾郡※関宿町、二川村、※木間瀬村、川間村、野田町、旭村、梅郷村▽埼玉県
      北埼玉郡川辺村、利島村
     □提出者=被害地人民総代
     ▽群馬県
      邑楽郡渡瀬村、大島村、多々良村、西谷田村
      山田郡桐生町
     ▽栃木県
      安蘇郡植野村、界村、犬伏町
      足利郡吾妻村、久野村
      下都賀郡谷中村
  12/28栃木県会が冬期の足尾銅山除害対策や渡良瀬川の築堤について内務大臣に建議する
  群馬県館林町と黒保根村の住民が「渡良瀬川治水ニ付建議」を総理大臣に提出
     渡良瀬川を赤麻沼におとす案を示す
  足尾町の有力者が鉱業非停止団体を結成して上京。停止要求の渡良瀬流域農民との対決をめざす
     古河市兵衛が説得して解散させる。交換条件に工事への無料奉仕参加を要請
  群馬県邑楽郡大島村の全村が免租地となり公民権喪失者が多く郡書記が管掌村長になる
  群馬県邑楽郡の場合、衆議院議員の選挙権喪失の者は80パーセント強、公民権喪失の者は30パーセント強に
  足尾銅山による栃木県松木村への亜硫酸ガス被害がさらに激増する
     政府の命令で製錬所が1か所に集中したためと地元民は判断する
  足尾銅山の脱硫装置が無効で周囲の山林草木樹皮がことごとく枯死する
     「足尾銅山鉱毒被害救済会」が密かに調査した報告でも明らか
     【足尾銅山鉱毒被害救済会は1900(明治33)にも活動? 設置は1901(明治34)?】
  谷中村の漁業従業者が10人に激減する。鉱毒被害の影響
     10年前は漁業専業、兼業従業者あわせて75人が営業
  禿山となった銅山周辺の山で植林がはじまる
  この年、足尾鉱毒問題で被害の実態と救済を訴える演説会が頻繁に開催される
     現地視察も頻繁に行なわれ、被害地よりの請願、陳情は20件余りに
  この年、鉱毒被害地の免租金額17万2670余円
     足尾銅山の鉱業税額はわずかに2万2560余円
  足尾の労働者7281人をかぞえる
     1906(明治39)1万2788人となる

1898(明治31) 58

  《総理大臣》[第6代](第2次)松方正義(→01/12)、[第7代](第3次)伊藤博文(01/12→06/30)
  《総理大臣》[第8代]大隈重信(06/30→11/08)、[第9代](第2次)山縣有朋(11/08→)
  《内務大臣》[第15代]樺山資紀、[第16代]芳川顕正(01/12→)、[第17代]板垣退助(06/30→)
  《内務大臣》[第18代]西郷従道(11/08→)
  《警視総監》[第9代]山田為暄、[第10代]園田安賢/再任(01/14→)
  《警視総監》[第11代]西山志澄/現職衆議院議員(07/16→)、[第12代]大浦兼武(11/09→)
  《農商務大臣》[第12代]山田信道(→01/12)、[第13代]伊東巳代治(01/12→04/26)
  《農商務大臣》[第14代]金子堅太郎(04/26→06/30)、[第15代]大石正巳(06/30→11/08)
  《農商務大臣》[第16代]曾禰荒助(11/08→)
  《東京鉱山監督署長》[第4代]南挺三、[第5代]中島謙造(02/02→)
  《帝国議会》[第12回特別会](05/19→06/10・解散)、[第13回特別・通常会](12/03→)
  《栃木県知事》[第8代]千頭清臣(→08/09)、[第9代]萩野左門(08/09→)
  《群馬県知事》[第6代]古荘嘉門(→07/28)、[第7代]草刈親明(07/28→12/22)、[第8代]古荘嘉門(12/22→)
  《埼玉県知事》[第8代]田村政(宗像政、→01/26)、[第9代]萩原汎愛(01/26→)


  01/02田中正造が大磯の大隈重信を訪ねる
     鉱毒問題について激論を交わす
  01/05群馬県館林町で足尾鉱毒演説会が開かれる
     円城寺清、高橋秀臣の2人が東京から講演にくる。聴衆5千人
  01/05〜01/13田中正造が館林、佐野方面に鉱毒問題の運動を繰り広げる
  01/08田中正造が自ら編集した『足尾銅山鉱毒事変請願書並始末略書草稿』を出版する
     編集が田中正造、発行者は加藤兼吉、住所は東京市芝区芝口3丁目2番地
     住所のあとに2つの事務所が明記。足尾銅山鉱毒事変処分請願事務所、足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所
     もとは前年12月14日に栃木、群馬、茨城、埼玉、千葉の5県の鉱毒被害関係町村83人が政府に連署で提出した請願書
     「憲法に依り被害民保護請願書」
  01/14田中正造が大蔵省の次官に鉱毒被害地特別免訴を請願する
  01/15〜03/23田中正造が鉱毒停止問題と総選挙で栃木第3選挙区内、群馬県の邑楽郡、新田郡に運動する
  01/31栃木県の佐野町で田中正造が医師数十人に対して足尾鉱毒衛生演説をする
  01/弁護士の天野為之、黒須龍太郎、福田又一と読売新聞社、毎日新聞社、国民新聞社の各記者が被害地を視察する
     田中正造が案内する
     被害民は多数で出迎え、一行を歓迎する
  01/埼玉県北埼玉郡の利島村、川辺村にそれぞれ鉱毒委員会が設置される
  02/中旬栃木県、群馬県の鉱毒被害民総代が各県知事あてに鉱毒被害地特別免租処分の請願書を提出する
     群馬県邑楽郡郷谷村村長 越沢順四郎、伊奈良村村長 増田甚平、梅島村村長 瀬下義太郎、
      海老瀬村村長 市沢万平、六郷村村長 田口紋次郎、高島村村長 石井栄八、大川村村長 入谷嶺吉、
      長柄村村長 新井佐五郎、三野谷村村長代助役 小暮積蔵、赤羽村村長助役 田部井重吉、
      大箇野村村長 折原逸太郎、千江田村村長代助役 丸山幸七、佐貫村村長 塩谷予一、中野村村長 川島藤太郎、
      小泉村村長 浜野定次郎、永楽村村長 増田市八、富永村村長 石川理平、館林町町長 熊谷直方、
      渡瀬村村長 谷津富三郎、多々良村村長 今泉米造、大島村村長 青山嘉一郎、西谷田村村長 荒井嘉平
     山田郡休泊村村長 篠原浦次郎、韮川村村長 明戸松次郎、桐生町町長代理助役 沢田荘太郎、
      広沢村村長 菱山徳次郎、矢場川村村長 三田善作、毛里田村村長 板橋信次郎、境野村村長 野辺三左、
      相生村村長代理助役 館内曾一郎
     栃木県足利郡梁田村村長 長純一郎、被害者総代 山岸佐四郎、筑波村村長代理助役 倉上藤七、
      三重村村長代理助役 安部栄次郎、葉鹿村村長 青木五郎衛、足利町町長 新井邦吉享、被害者総代 石川房五郎、
      御厨村村長 秋田啓三郎、山辺村村長代理助役 古山謹三郎、山前村村長 鶴見幸太郎【鶴貝?】、
      小俣村村長代理助役 須藤宇三吉、
      毛野村村長 丸山源右衛門、被害者総代 岩崎佐十、被害者総代 岩崎弥八、被害者総代 秋山和助
      富田村村長職務管掌 江副広忠【広定?】、北郷村村長 山藤他之助【仙之助?】、
      吾妻村村長 亀田佐平、被害者総代 庭田恒吉、被害者総代 小倉連次
     安蘇郡犬伏町町長 福島与十郎、植野村村長 恩田輪平、被害者総代 谷元八、被害者総代 栗原宰次郎、
      界村村長 糸井藤次郎、被害者総代 黒田善平
     茨城県猿島郡古河町被害者総代 土信田助次郎、同 小堀源次郎、同 針谷倉吉、古河町町長 潮田資敬
      新郷村総代 山田熊吉、同 小沼藤五郎、同 小野伊総次 同 並木仙右衛門、同 江田喜代之助、
       新郷村村長 小森谷弥五郎、
      香取村総代 鈴木文蔵、同 直井勇蔵、同 直井吉蔵、同 吉田庄三郎、香取村村長 齋藤忠次、
      静村総代 福島助次郎、同 関竹次、同 柿沼勝蔵、静村村長 田村兼三郎、
      五霞村総代 中山初太郎、同 渡辺勘七、同 内田弥平、同 須釜寅蔵、五霞村村長 栗原僖平、
      境町総代 染谷兵蔵、同 青木七太郎、境町町長 糸井周平、
      桜井村総代 阿久津林七、同 一木文次、同 関口貞三郎、同 梅田弥四郎、同 宇都木政次、
       桜井村村長 船橋利喜蔵、
      岡郷村村長 諏訪数馬、勝鹿村総代 尾花卯平、勝鹿村村長 三田周助、
      幸島村総代 荒井三輪蔵、同 栗田要次、幸島村村長 児矢野荘吉、
      八俣村総代 二宮定次、八俣村村長 関根亀蔵、
      長田村総代 中野●【金彡】之助、長田村村長 須藤弁次郎、
      猿島村総代 齋藤伝十郎、猿島村村長 野村祐七、
      森戸村総代 長野兼七、同 野口万七、森戸村村長 佐怒賀政一、
      長須村総代 齋木源平、長須村村長 間中柳馬、
      岩井村総代 吉原隆一郎、岩井村村長 中山勘一郎、
      中川村総代 滝本清八、中川村村長 横島正治、
      七郷村総代 富永登、七郷村村長 南佐重、
      神大実村総代 倉持豊三郎、神大実村村長 針替高之助、
      沓掛村村長 木村喜市、七重村村長 木村岩三郎、生子菅村村長 根本齊治、逆井山村村長 稲毛田儀蔵
     埼玉県北埼玉郡利島村総代 荻野与吉、同 佐藤右衛門、利島村村長 小室潜之助、
      川辺村総代 松本勝太郎、同 桜井忠蔵、同 桜本要之進、同 小倉理平、川辺村村長 渡辺茂助
     のち群馬県庁は請願書を採納する
     栃木県庁は聞届きがたき趣きとして請願書を却下する
     03/15栃木県庁に再出願するも直ちに却下される
  02/20未明、足尾鉱毒被害民が雲龍寺に集合する
     夜、3千人が徒歩で上京を開始【02/24の押出しと同じ?】
     警官や憲兵は力ずくで阻止し永島与八ら4人の鉱毒被害民に負傷させる
  02/24鉱毒被害地の特別免税を要求して押出しを決行する【02/20の上京と同じ?】
  02/24渡良瀬川支流にある三栗谷用水土地改良区が「鉱毒泥砂除害の沈澱場設置」を建議する
  02/群馬、栃木、茨城、埼玉4県68町村長と鉱毒被害民の総代が「鉱毒被害地特別免訴処分請願書」を関係大臣に提出
     【「鉱毒被害地免租処分請願書」? 「鉱毒地特別免租処分請願書」? 内務省、大蔵省、農商務省の各省に提出?】
  02/室田忠七が再び足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所の在京委員となる
  03/02栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の60才の農民庭田源八が『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』を記す
     渡良瀬川と流域に棲息する鳥類、小動物、昆虫、鮭、鱒、鱸、鯉、鮒、鰻、鯰などの豊かな状況と絶滅の模様を描く
  03/前半群馬県内の各鉱毒被害地で連日のように鉱毒談話会が開かれる
     ときに政談演説会も催される
  03/15第5回衆議院議員臨時総選挙が行なわれる
     進歩党候補の田中正造が栃木第3区より出馬、当選する
     開票の結果、田中1076票、次点は対立候補の木村半兵衛78票という圧倒的大差
  03/26群馬県邑楽郡の22町村が地租条例第20条による免租処分に不都合を生じる
     【03/29?】
     新立法による特別免租にしてもらおうと臨時帝国議会に免租処分を待って欲しいと請願をする
     「鉱毒被害地免訴御処分延期請願」を関係当局に提出する
     のち新立法はならず
  03/29群馬県の被害民総代が足尾銅山鉱毒被害地免租処分延期請願書を提出する
     【03/26?】
     大蔵大臣で伯爵の井上馨、内務大臣で子爵の芳川顕正、農商務大臣で男爵の伊東巳代治あて
     群馬県邑楽郡長柄村村長 新井佐五郎、西谷田村村長 荒井嘉平、大島村村長代理助役 小野栄太郎、
      郷谷村村長代理助役 森田百三郎、佐貫村村長 塩谷予一、中野村村長 川島藤太郎、高島村村長 石井栄八、
      多々良村村長代理助役 林巳三郎、大川村村長代理助役 大澤武平、渡瀬村村長代理助役 鴇崎藤三郎、
      梅島村村長 瀬下義太郎、大箇野村村長代理助役 田部井重吉、富永村村長 石川理平、永楽村村長 増田市八
      三野谷村村長代理助役村村長 須永忠四郎、六郷村村長代理助役 阿部作太郎、海老瀬村村長 市沢万平
      千江田村村長 高橋乾、館林町町長 熊谷直方、伊奈良村村長代理助役 山岸淳三郎
  03/鉱毒被害地の総代が群馬、栃木の両県知事に「県税地租割猶予願」を提出する
  04/01渡良瀬川沿岸被害民総代から「鉱毒被害地至急御巡視願」が提出される
     先の足尾銅山鉱毒被害地免租処分延期請願書の趣旨を徹底するよう実地視察を願いでる
     群馬県邑楽郡大島村総代 須藤与惣治、西谷田村総代 野中源蔵、
      渡瀬村総代 小林偵七郎、多々良村総代 福田和寿蔵
     栃木県足利郡吾妻村総代 佐取安次郎、久野村総代 室田忠七、同 持齊茂吉、
      筑波村総代 寺崎清十郎、同 森戸源七、毛野村総代 岩崎佐十
      安蘇郡犬伏町総代 小林孫七、植野村総代 谷房吉
      下都賀郡谷中村総代 茂呂近助、同 田中与四郎、同 宮内喜平
      安蘇郡植野村総代 落合巳之作【落合美之作?】、犬伏町総代 渡辺充、界村総代 野口吉次郎
      足利郡吾妻村総代 庭田駒吉、梁田村総代 左手虎三、同 小野直四郎
     【群馬県4村、栃木県9村の総代21人が当局各大臣あてに「鉱毒被害地至急御巡視願」を提出する?】
  04/15〜04/20田中正造が藤岡町、雲龍寺、部屋村で運動する
  04/18大蔵大臣の井上馨が内閣総理大臣の伊藤博文に明治29年の大洪水による荒地免租の報告をする
     荒地は2万5千町歩余で、その原因が足尾銅山の鉱毒被害であることを内閣も認める
  04/30鉱毒被害地のうち2万4450町2反余歩に対し29年度より被害の厚薄に準じて2年以上15年の免租処分となる
  04/30大蔵省が足尾銅山鉱毒被害民に対して地租条例による普通荒地免租処分を通達【地租免除処分?】
     のち被害民のなかには国政選挙権、県郡町村議員の選挙、被選挙権など公民権を失う者が続出する
     誰も立候補できずに財政が破綻し自治が事実上崩壊してしまう事態に。郡役所書記が管掌村長となる
  05/02政府が足尾鉱毒被害救済の一策として免租処分を実施する【地租免租が行なわれる?】
     【「税務官吏に対する訓令」がだされる。被害地を地租条例第20条により免租するもの?】
     1年に及ぶ遅延の原因
       被害調査の困難、大蔵省と農商務省の不一致、中央官庁と地方自治体(県)との連絡不十分、
       被害農民と税務所【ママ】側との被害地等級判定についての紛争など
     最大の原因は免租処分にともなう公民権喪失の取り扱い方の問題
     地租の免租処分の内容は被害の濃度により6種の免租年期を定める
     特等(15年間免租)、1等(10年間免租)、2等(8年間免租)、
     3等(6年間免租)、4等(4年間免租)、5等(2年間免租)
     ▽対象は29年の大洪水による渡良瀬川の氾濫地
     ▽逆流による枝流の氾濫地 ▽渡良瀬川の水を引いて田用水とするもの
     のち群馬県の邑楽郡、山田郡、新田郡の総計反別は1万2900町歩余、免訴願いは10万7805円余
     群馬県は平均1町歩8円35銭の免租に
     のち栃木県、茨城県、埼玉県などの被災県にも免租が行なわれる
     国は年間20数万円の減収となる
     地租に相当する足尾銅山の税は明治31年度で鉱業税2万3140円、鉱区税685円
     のち免租処分の対象となった鉱毒被害面積の合計は約2万5千ヘクタール、
     被害農民の最終的な調査による実際の被害面積は4倍の10ヘクタールを超えるものに
     のち措置により鉱毒被害地で公民権を喪失した者が多数に
  05/22田中正造が改訂版となる『足尾銅山鉱毒事変 請願書並始末略書』を発行する
  05/邑楽郡の22町村長が「鉱毒被害免租地公権存続請願書」を関係当局に提出する
  05/足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所の在京委員が6人から16人に増強される
     衆議院に対する被害地救済の各請願の紹介者獲得などを担当する
     現地を集約する雲龍寺との連繋がより強固となる
  06/03渡良瀬川が洪水となる
  06/03加藤兼吉が『足尾銅山鉱毒問題実録(中編)』を発行する
  06/06田中正造が第12回帝国議会免租により自治破壊したことの質問演説を行なう
  06/06田中正造が第12回帝国議会で31項目に及ぶ質問書を連名で提出する
     「邦内の一国に比すべき戸数及人口を有する土地に対し鉱毒除害処分を果たさざる義につき質問」
     【「邦内の一国に比すべき戸数及人口を有する土地に対し鉱毒除害処分を果さゞる義に付質問」?】
     提出者は田中正造、島田三郎、江原素六、大隈英麿、安部井磐根、松島廉作、首藤陸三、
     工藤行幹、河野広中、田口卯吉、奥村亀三郎、浅香克孝、長谷場純孝、大津淳一郎、荒川高三郎
     賛成者は大東義徹、柴四郎、加藤政之助ら80人
     質問書は栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県への多岐にわたる足尾銅山鉱毒被害被害調査をもとに作成
     2時間30分に及ぶ説明演説する
     のち質問に対して政府の答弁はなし
  06/10田中正造が第12回帝国議会で「六月三日渡良瀬川洪水鉱毒大加害の儀につき緊急質問書」を提出する
  06/11神田区の錦輝館で地租増徴案否決同志会が開かれる
     田中正造が演説する
  06/29鉱毒事件を解決しえぬ新内閣の限界に幻滅した田中正造が氷川町の勝海舟を訪ねる
     勝が田中に「お前は何になるのだ」問うと田中が「総理大臣」と答える
     勝が田中に証文を書いて渡す
         田中正造
       百年の後 浄土又は
       地獄に罷り越し候節は
       屹度惣理に申付候也
         半死老翁
         請人 勝 安芳
       阿弥陀 閻魔 両執事御中
  06/栃木県足利郡御厨村村長が内務大臣、大蔵大臣に対して「村歳入減損につき国庫金補助願」を提出する
     免租処分の結果、村の財政に破綻が生じたもの
     他の被害地でも事情は同様に
  06/30田中正造が所属する憲政党の大隈重信内閣が政権をとる。田中は鉱害事件の解決に望みをもつ
     第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備のために総辞職。のち立憲政友会となる
     衆議院第一党の憲政党のうち旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎え隈板内閣とも
  06/この年後半は免租処分に伴う村費補助願と公民権復活要求が足尾鉱毒被害地住民の中心的活動となる
  07/13鉱毒事務所が栃木、県群馬県3郡9村の鉱毒被害民総代の名で請願書を提出する
     大蔵大臣で伯爵の松方正義あて「鉱毒荒地無期限免租減租請願書」
     回復の見込みない荒地に対しての無期限の免租減租を請願
  07/17〜08/08田中正造が鉱毒4県被害地に運動する
  07/18足尾鉱毒被害地のうち5月に2年の負担処分を受けた足利町が請願書を提出する
     「鉱毒被害地免租継年期付与の請願」
  07/31『読売新聞』地租免租による状況を伝える
     栃木県足利郡久野村500戸は地租免租により公民権を持つものがなく、村役場や小学校が維持できず壊滅する
  足尾銅山が脱硫塔を設置する。本山に製錬が集中し松木地区への亜硫酸ガス襲撃がより濃密に
     松木地区民は現金収入の道もなく食物もなく、ガスで身体は壊され乳児のための母乳も出ず悲惨の極へ向かう
  予防工事が万全のものでなく工事後も鉱毒のたれ流しは止まず、被害はいっそう深刻化
     装置は満足に役に立つものではなく対策が不十分で、根本的な解決とはならなかったことを認める
     【除防工事は監督官庁との馴れ合いで手抜き工事と知られることになる?】
  鉱毒予防工事で完成した設備が機能せず
     脱硫塔や濾過池、沈澱池は機能せず煙害や鉱毒の流出は続き、効果は無に等しいもの
       脱硫塔は政府が設計を明らかにせず、古河の建設はきわめて苦慮
       脱硫の技術はなく、命令する側はなんの指示も与えられず、古河側はやむなく適当に設計
       塔中に石灰乳を雨下し硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させるもの
       のち実際、煙害は防げず被害をだす
       被害地の松木村民と示談交渉、全40戸に4万円を支払い立ち退いてもらうことに
  08/10第6回衆議院議員臨時総選挙が行なわれる
     憲政本党候補の田中正造が栃木第3区より出馬
     対立候補は自由党の足利織物買次の豪商木村半兵衛
     開票の結果、田中764票、木村46票の大差がついて田中が当選する
  08/12〜08/28田中正造が鉱毒被害各地に運動する
  08/18栃木県の被害地町村で児童への学校教育ができなくなり、教育費補助願を溝部惟幾県知事あてに提出する
     【溝部が知事になるのは1899(明治32)01/13?】
     栃木県足利郡吾妻村鉱毒被害民総代 庭田恒吉、野村治平、庭田駒吉、山本弘吉、
      佐取安次郎、鈴木兵次郎、和田金次郎、島田春吉、阿部瀧三郎
       吾妻村村長 島田保三郎
      久野村 持齊茂吉、設楽常八、大山庄吉、塩谷善作、阿部源次郎
       久野村村長職務管掌足利郡書記 星野泰二
      安蘇郡植野村鉱毒被害民総代 岡田久蔵、飯塚和市、谷房吉、新星初蔵
       植野村村長 岡田孝吾
      安蘇郡界村 糸井作蔵、野口春蔵、新楽林蔵、矢沢忠蔵、大竹伴次
       界村村長 糸井藤次郎
      安蘇郡犬伏町 山崎●【金圭】次郎、島藤林次、川田茂右衛門
       犬伏町町長 福島与十郎
      足利郡毛野村 秋山和助、岩崎弥八、岩崎佐十
       毛野村助役 上武幸十郎
  08/25栃木県足利郡久野村の人民総代室田忠七が村費補助願を内務大臣、大蔵大臣に提出する
  08/27栃木県足利郡梁田村の村長が「村歳入減損につき、国庫金補助願」を提出する
  08/30田中正造が宇都宮で栃木県知事の萩野左門に面会する
  08/鉱毒予防工事命令をだして以降、この月までにたくさんの請願や陳情がなされる
     2回の大挙押出しをはじめ「鉱毒被害地復旧請願書」「納税延期願」「水源涵養につき至急請願書」
     「桑葉及び蚕糸に及ぼす被害につき陳情書」「秣場肥料に及ぼす被害に付き陳情書」
     「堤防に及ぼす被害に付き陳情書」「染織業に及ぼす被害に付き請願書」「衛生其他に及ぼす被害に付き請願書」
     「堤防改築請願書」「沈澱池無効に付ての請願書」「公権存続請願書」などなど
  09/03〜09/07渡良瀬川が大洪水を起こす
  09/03、07予防工事が全部完成後、最初の大洪水にみまわれる
     鉱毒予防工事命令で造られた小滝の沈澱池のひとつが崩壊する
     【渡良瀬川の洪水により予防工事で新設した沈澱池など、予防施設の一部が破壊される】
     【09/03、09に足尾地方の大雨で足尾銅山沈澱池のひとつが決壊し渡良瀬川が大洪水となる?】
     沈澱池ひとつが崩壊したのではなく足尾銅山全体から流れる鉱毒により
     渡良瀬川沿岸が被害を受けた、予防工事は役に立たない、鉱業停止だとの声が高まる
     被害農民の予防工事に対する疑惑と不信、怒りを駆り立てることに
     のち雲龍寺の足尾銅山鉱業停止事務所では被害民の声に応じ大挙押出しを計画する
  09/06、07大雨の影響で埼玉県の川辺村と利島村にある渡良瀬川の堤防3か所が決壊
     良田数十町歩が流出し人畜の生命や家屋を奪われる。農作物はすべて腐敗し言語に絶する惨状に
     農地の被害反は川辺村7262反424、利島村7330反222
     また川辺村で501戸、利島村で565戸が浸水し、被害漁業者は川辺村38戸、利島村30戸となる
  09/07渡良瀬川が川辺村柏戸で決壊する
  09/09田中正造が内務省、大蔵省、農商務省を訪ねる。大臣らに鉱毒調査報告書、請願書を編纂した冊子を届ける
  09/11田中正造が足利郡山前村大前で江原素六らと演説する
  09/11〜09/18田中正造が出京まで被害地に運動する
  09/19大雨による沈澱池の決壊などの事態に対応して今後の方針を協議するため雲龍寺にて会合が開かれる
     室田忠七ら出京委員も参加する
     堤防増築と窮民救済、自治破壊の3件について大運動をすることを決定する(第3回東京大挙押出し)
  09/21雲龍寺にて大運動について再度の協議を行なう
  09/24田中正造が農商務大臣の大石正巳と鉱業停止の可否について会談する
  09/25雲龍寺の鉱毒事務所に栃木県、群馬県、茨城県、千葉県、埼玉県の被害民代表が集会する
     【鉱毒被害農民約1万人が終結】
     大挙押出しの直接的原因として、予防工事で完成させた沈澱池の崩壊ともうひとつ
     大洪水で大打撃を受けた被害地での免租処分により生じた町村自治破壊の救済を求めること
     大挙上京し直接当局大臣に迫ることを決議する
  09/26田中正造は雲龍寺で大集会の予定は知るも大衆押出しに発展するとは予期せず
     のち田中のもとに続々不穏な電報がとどく
  09/26午前6時、栃木、群馬、茨城、埼玉の4県下の被害農民1万余が雲龍寺に結集
     被害民の怒りは第3回目の大挙押出し(第3回押出し)となる【第3次大挙上京(行進)?】
     午後1時、1万人余りが雲龍寺を出発
     栃木、群馬、茨城、埼玉4県の被害農民が農繁期にもかかわらず堤防増築と窮民救済、自治破壊を訴えるため
     午後2時までに雲龍寺をくりだした請願被害民が館林を通過し川俣へ向かうと警察により船橋は撤去【隠される?】
     被害民はさらに堤防を東に進み川辺村に入ると、ここでも渡し舟は撤去
     利根川の堤防を下り埼玉県北埼玉郡利島村で利島村、川辺村の鉱毒委員片山嘉兵衛や井田兵吉の斡旋と義侠により利根川を渡る
     【利島村の飯積、麦倉の渡し場から利根川を渡る。飯積河岸の船頭平井園蔵が大活躍?】
     【和船数隻を借り往復させて栗橋に運んでもらう?】
  09/26午前10時、海老瀬村から参加する120余人が雲龍寺に着くと7千余人が集まり、午後3時出発
     第3回押出しの別ルート進行
     09/27川辺村で午前3時までに5千人が渡川、夜明けに下栗橋で巡査と争う
     午前11時半に幸手着、飲食店で昼眠し、午後4時半に粕壁着
     大沢村を過ぎてとある農家で夜食と朝食を依頼し厄介となる
     09/28午前3時出発、午前11時に保木間の寺に到着。このコースは平穏裡に進行する
  09/27正午には幸手に着き、草加に着いたのは4千人に(第3回押出し)
     草加に集結した東京各署の警官隊を突き破る
  09/27田中正造が農商務省の水産局次官と秘書官に被害農民が激昂する根本の理由を告げる
     また田中は内務省警保局におもむき被害農民の進行を妨害しないよう申し入れる
     さらに夕刻、文部大臣の尾崎行雄を訪ね鉱毒問題が教育に与える影響について語る
  09/27午後7時、田中正造は左部彦次郎を伴い千住方面へ車を走らせる
     竹の塚で車夫が空腹と疲労を訴え旅館亀屋に投宿
  09/28午前2時半、田中正造と左部彦次郎は竹の塚の旅館亀屋からさらに北進
     午前6時頃、東京府南足立郡淵江村大字保木間の種物商荒井忠之助方前で最初の被害民一群に出会う(第3回押出し)
     東京府南足立郡淵江村大字保木間の氷川神社まで約2500人がたどりつく【2千数百人?】
  09/28大挙押出しに対して警察は被害民を絶対に東京に入れないという態勢で千住大橋をかためる
     また抜け道からの侵入を防ぐため松戸方面、板橋方面を警戒
     日光街道には夜明け前から騎馬の巡査や憲兵が往来し警戒にあたる
     警察から押出し沿道の町村に、宿を貸すな、鍋釜を貸すなという触をだす
     南埼玉郡桜井村では夕暮れ時、村長はかたく門を閉ざし炊飯道具の貸与を拒否する
     越谷の瓦曽根の観音堂境内で休息していると騎馬憲兵が騎馬のまま駆けまわる
     反面、奇特な人々のいる町村も
     渕江村をはじめ埼玉県下の武里村大場、桜井村大里、桜井村下マクリ、大袋村、大里、大袋村大林など
  09/28渕江村村長がきたところで田中正造は氷川神社の境内をかり請願人2500人を集合させる(第3回押出し)
     【田中の口利きで荒井方へ200人、村長坂田庄助方庭と離れた大乗院の境内へ?】
     憲兵隊や警察による説得を受ける。鉱毒事務所で重要な役割を担う田中正造も説得にあたる
     田中は安田憲兵大尉や警視など、憲兵、警察官を立ち会わせ社頭で演説
     田中の演説内容に憲兵や警察官までが涙を流す
     いまの政府は憲政党内閣だから「諸君の政府なり、また我々の政府なり」で請願に応えてくれるはずと見解
     【与党議員の田中は、自身が農商務大臣に直接かけあうことで収拾がつけられると考える?】
     田中正造は2500人に社会秩序の上で不穏だから代表10人を残し帰郷をすすめる
     田中は被害民の上京を含め一緒に行動すると約束
     それでも被害民の野口春蔵は上京決行を主張、憲兵の暴状を訴える者も
     最終的に代表者神社裏庭で相談、田中の申し出を受け代表50人を指名、あとは帰郷する
     代表50人【列記は49人】
     群馬県邑楽郡渡瀬村 小林善吉、家富元吉、原金次郎、原弥太郎、小林代次郎
      多々良村 亀井朋治、田野入利三郎、原代次郎、永沼政吉、川島元次郎
      大島村 大出喜平、山本栄四郎、青木金次郎、関口芳蔵、須藤与惣治
      西谷田村 福田春吉、荒井嘉衛、松本吉蔵、針谷角次、永島与八
      海老瀬村 松本英一、士井亀八
     栃木県安蘇郡犬伏町 山崎●【金圭】次郎、小林孫平、小関栄吉、小曾根次吉
      界村 野口春蔵、竹沢喜三郎、茂呂宗次郎、茂呂平吉、糸井作蔵
      植野村 関口幸八、小野政吉、谷元八、兵藤治三郎、栗原宰次郎
     栃木県足利郡吾妻村 庭田恒吉、庭田清四郎、阿部瀧三郎、野村千代蔵、桜井与惣治
      久野村 室田忠七、稲村与市、塚島友蔵、持齊茂吉
      毛野村 岩崎佐十、秋山弥八
     埼玉県北埼玉郡利島村 片山嘉兵衛
      川辺村 井田兵吉ら
  09/29田中正造が大挙請願の被害民とともに内務省、農商務省、大蔵省、文部省、陸軍省、司法省に陳情(第3回押出し)
     農商務省の大石正巳大臣と内務省の板垣退助大臣をそれぞれに訪ね面会を求めるも拒否される
  09/頃鉱毒被害による母乳欠乏、幼児の死去、大人の衛生状態の悪化など人体への影響が顕著に
  10/01田中正造の口利きで三度目にして農商務大臣の大石正巳との面会に成功する(第3回押出し)
        【農商務大臣とは違約ののち面会する?】
  10/08田中正造が病臥
     10/12〜10/14芝浦塩湯にて静養する
  10/30大隈重信内閣が総辞職する
  10/宮入慶之助が内務省の技師として被害地を調査する
     被害地の出生、死者と土地含有成分の因果関係を調べる
     のち鉱業に付随して起こった結果であることを認める
  秋/谷中村の茂呂近助ら農民が草鞋ばきで足尾銅山視察のため登山
  11/08面会直後に政権は崩壊。田中も野党議員となり面会は実を結ばず(第3回押出し)
     被害民代表の目には政府の対応が冷淡なものと映る
     結局、期待した「我々の政府」憲政党内閣もそれまでの内閣と変わらないことが暴露される
  11/栃木県足利郡久野村大字野田の小作農72人が「鉱毒被害地小作料減額歎願書」を差しだす
     対して地主17人がすぐさま承諾する
     小作料の割引率は約11パーセント、群馬県山田郡、新田郡では13から15パーセント
  11/足尾鉱毒被害地の小作人らが「鉱毒被害地小作料減額歎願書」を各町村の地主に提出する
  11/〜12/医学博士の坪井次郎が医学雑誌に「足尾銅山の鉱毒について」を掲載する
     「現地に出張して調べた結果、坑夫には中毒症を認めず。被害地については魚や下等動物への影響は認めた。
      しかし、高等動物や人には少量の銅分は敢て有害でなし」
  12/10田中正造が第13回帝国議会で2件の質問書を提出。説明演説する
     「邦内の一国に比する土地の被害人民に対し憲法の保護なき儀につき質問書」など
  12/〜次年03/田中正造が第13回帝国議会で数度にわたり鉱毒について質問、政府を追及する
  12/谷中村の茂呂近助がパンフレット「足尾銅山視察報告書」をだす
  12/群馬県会で2件、栃木県会で3件の足尾鉱毒事件の建議が行なわれる
  木下尚江が『足尾鉱毒問題』で免租による衆議院議員選挙権者の減少を伝える
     足利郡 826399、山田郡 688264、新田郡 1075461、邑楽郡 946156、安蘇郡 789763
     (数字は矢印前が免租前有権者、矢印後が免租後有権者)
     『足尾鑛毒問題』は1900(明治33)6月18日に毎日新聞社から発行。定価20銭
  谷中村の茂呂近助が「平民茂呂近助」の名で足尾銅山鉱毒に関する件の意見書を貴族院議長あてに提出する
     採択される
  鉱毒予防命令がだされ群馬県邑楽郡大島村、栃木県足利郡久野村、栃木県下都賀郡谷中村は自治制が廃滅する
  栃木県の安蘇郡と足利郡で漁により生活するものは100人以下に
  谷中村が鉱毒のために困窮化
     また地租免租戸数385戸のうち約半数が公民権停止に
     衆議院議員の選挙権を有する直接国税納入者はわずか1人に
  内務省は関宿の江戸川河口を石材とセメントで埋める
     明治初期に26〜30間あった河口を9間あまりにせばめ
     利根川との合流点となる渡良瀬川の河口を拡幅し利根川の水を渡良瀬川に逆流しやすくする
     【のちの谷中村遊水地化の原因?
     1896(明治29)、東京府下に鉱毒被害をもたらせた渡良瀬川の大洪水で政府が東京での鉱毒世論の盛り上がりを警戒

1899(明治32) 59

  《総理大臣》[第9代](第2次)山縣有朋
  《内務大臣》[第18代]西郷従道
  《警視総監》[第12代]大浦兼武
  《農商務大臣》[第16代]曾禰荒助
  《東京鉱山監督署長》[第5代]中島謙造、[第6代]中村清彦(08/02→)
  《帝国議会》[第13回特別・通常会](→03/09)、[第14回通常会](11/22→)
  《栃木県知事》[第9代]萩野左門(→01/13)、[第10代]溝部惟幾(01/13→)
  《群馬県知事》[第8代]古荘嘉門
  《埼玉県知事》[第9代]萩原汎愛(→02/21)、[第10代]正親町実正(02/21→)


  01/早々大島村の大出喜平と植野村の谷元八が新聞条例違反で巡査に告発される
     宇都宮地方裁判所栃木支部へ収監される
     足利町の『両毛新聞』に寄稿した文章が不穏であったとして
     のち約3か月未決監に置かれ公判となる
     弁護士は永島与八が奔走し栃木町の関口吾一郎と東京の太田資時に依頼
     のち宇都宮地方裁判所栃木支部の公判で2人の無罪判決が下される
     谷は放免になるも、大出は検事に控訴され東京の鍛治橋監獄署へまわされる
     のち約3か月ばかり入監する
  01/06被害民が雲龍寺に臨時委員会を開き協議する
     持久戦の覚悟でできる限り節約し運動を継続しようと9項からなる事務所規定を設ける
     犬伏町 嶋藤林次、山崎●【金圭】次郎
     界村 茂呂平吉、新楽林蔵
     久野村 金子伊三郎、持齊茂吉、磯定吉
     植野村 岡田孝吾、谷房吉、栗原宰次郎、落合美之作
     吾妻村 庭田恒吉、庭田駒吉、亀山重太郎
     大島村 小林猪之丈
     多々良村 福田和寿蔵
     渡瀬村 木村勇吉、小林偵七郎、原弥太郎
     大島村 磯幸次郎
     西谷田村 北山清次郎
  01/23、24栃木県、群馬県の鉱毒被害民総代が内務省、農商務省に陳情書を提出する
  01/邑楽郡、安蘇郡、足利郡の被害農民が檄をとばし約600人が3郡の郡役所に迫る
     警官が警戒するなか職務怠慢を追及し一定の譲歩を引きだす
     とくに安蘇郡役所では構内にかがり火を焚き徹夜で郡長に面会を求めて気勢をあげる
     理のある請願には責任をもって処理する約束をとりつける
  01/群馬県新田郡九合村が鉱毒免租地での小作米割戻しを要求する
     のち新田郡太田町、韮川村などでは地主側が小作農の要求をはねつけて提訴
     小作農100余人は太田町の地主数軒に押しかける事態が発生する
     太田町での小作料の割引率は4パーセントという低率に
     前年11月の足利郡久野村での小作料の割引率は約11パーセント、群馬県山田郡、新田郡では13から15パーセント
  02/18群馬県邑楽郡多々良村が「村費国庫補助願」を大蔵大臣の松方正義に提出する
  02/〜05/足尾鉱毒被害地の町村が内務大臣、大蔵大臣あて頻繁に「村費国庫補助請願」を提出する
  第13回帝国議会で被害民が提出した請願書が貴族院、衆議院で採択される
     「憲法ノ保護ヲ享クル能ハザル義ニ付再三請願書」ほか4件を提出する
     のち政府は請願の趣旨にそう行政上の手配をする気配はみせず
  第13回帝国議会で渡良瀬川沿岸鉱毒被害地の請願書が貴族院、衆議院を通過し政府へまわされる
     のち政府の対応は皆無
  第13回帝国議会で軍備拡張を中心とする戦後経営の財源確保のため地租増徴案を通過させる
     内閣はその見返りとして議員歳費を800円から2千円に値上げする法律案を提出
  03/06田中正造が第13回帝国議会で鉱毒問題に関する質問書5件を提出。説明演説する
     「足尾銅山鉱毒事変再質問書」など
  03/06田中正造が第13回帝国議会『足尾銅山鉱毒被害地出生、死者、調査統計報告書』を引用し質問書を提出する1
     【岩崎佐十が『報告書』をまとめるのは同年10月、12月。それ以前に存在する?】
  03/06田中正造(59)が衆議院本会議で憲政本党を代表し歳費値上げ反対の演説に立つ
     田中は法案を「賄賂的」であり議員を侮辱するものとする
     04/13歳費値上げの法案が議会を通過し田中正造は歳費全額を辞退
     田中は「議員の本領を失うて不義の歳費を受けんよりは、むしろ乞食をなして資格品位体面を傷つける」方が勝ると
  03/09田中正造が第13回帝国議会地租免租により選挙権、公民権が喪失したことの質問書を提出する
     群馬県邑楽郡大島村の例をあげる
     大島村は戸数384戸、人口2438人。被害前の有租地は495町歩余、被害後の有租地は1町5反余
     結果、被害前公民権を有した者は283人、被害後は僅々に
     被害前に県会議員の選挙権を有した者は75人
     被害後は1人もいなくなる村は財源を失い郡役所書記が村長となる
  03/12、13田中正造が三浦梧楼ら貴族院、衆議院の両議院と新聞記者を佐野方面の被害地に案内する
  03/14〜03/17田中正造が農商務大臣の曽弥荒助らと足尾銅山を視察する
     坑夫に不穏な動きがあるのを知る【何に対して?】
  03/15栃木県、群馬県、埼玉県3県5郡18町村の鉱毒被害民3150人が請願書を作成する【請願書を提出する?】
     「鉱毒被害憲法保護の請願書」
     栃木県安蘇郡犬伏町 山崎利兵衛外215名
      界村 糸井誠三外215名
      植野村 谷房吉外219名
     足利郡吾妻村 庭田駒吉外287名
      久野村 古郡熊蔵外232名
      山辺村 早川和三郎、三田作蔵外13名
      御厨村 笠原直次郎、秋田啓三郎外48名
      筑波村 中村庸四郎外150名
     群馬県邑楽郡西谷田村 野中源蔵外223名
      大島村 須藤与惣治外239名
      渡瀬村 原弥太郎外231名
      多々良村 中島藤四郎外95名
     山田郡毛里田村 久保田建次郎外83名
      矢場川村 尾林長次郎外115名
      休泊村 遠藤善次郎外79名
      韮川村 橋壁万作外87名
     埼玉県北埼玉郡利島村 片山嘉兵衛外315名
      川辺村 井田兵吉外281名
     一刻も早く鉱業を停止し鉱毒と烟毒根絶を求める
     急を要したため捺印することができず「総代外何名」という書き方に
     松木村村民の窮状にも触れ、鉱毒と烟毒の根絶を請願する
  04/05被害民総代が水源涵養のため群馬県山田郡沢入山林の濫伐禁止を請願する
  04/12田中正造が花井卓蔵ら代議士を案内し被害地を視察する
  04/15〜04/18田中正造が被害地視察の大村和吉郎に謝意表明のため静岡県へ
  04/19田中正造が議員歳費値上げ案反対演説をし歳費の辞退届を提出する
     04/21地元有志らに、その事情を説明する通知書を発送
  04/谷中村に排水機場が竣工する
  05/02、05/03頃田中正造が本郷区の順天堂病院に入院する
  05/22、23被害民総代が「足尾銅山鉱毒御処分要求の陳情書」を内務大臣、大蔵大臣、農商務大臣に提出する
  05/26左部彦次郎が『歳費辞退田中正造翁』を刊行する
  05/28田中正造が横浜の憲政本党演説会で「政府は何故に被害民を見殺しにする乎」と題して演説する
  05/30栃木県足利郡梁田村の村長が内務大臣と大蔵大臣あてに「村税欠損額国庫補助再願」を提出する
     前年の免租処分決定の結果、村財政の破綻が引き続く
     他の被害村もほぼ同様の状況に
  06/中旬この年1月早々、新聞条例違反に問われ東京の鍛治橋監獄署に入監していた大出喜平が出獄する
     出迎えの旗を永島与八が依頼され書く
  06/田中正造が反対運動指導者に年ごとの老若男女の死亡統計の調査作成を要請する
     のち結果、被害地の出生率の低下、死胎分娩の増加、明らかな死亡率の上昇などの実態が明らかに
  07/14〜08/上旬田中正造が暑気あたりと眼病のため本郷区の順天堂病院に入院する
  07/22〜07/23大雨で渡良瀬川が大洪水となる
  08/03田中正造が入院中の順天堂病院の病床から大出喜平と野口春蔵あてに手紙を送る
     大出と野口は鉱毒運動の地元指導者的存在
     今後は代議士の虚名にとらわれず年の幼長を問わず諸君の驥尾にふして尽力したい
     「今より公議体を組織し、また責任を各部分とし、正造に代ってこもごも正道を守り、
      正義を張り、朋友に厚く、公に義に、必ず救済の方法を講ぜられよ」
  08/13邑楽郡渡瀬村他3村の総代が内務大臣の西郷従道に請願書を提出する
     「渡良瀬川全面大復旧工事施設の儀重ねて請願」
  08/佐藤留吉、見村房吉、大沢新八郎が『鉱毒悲歌』を発行する
     のち館林署署長の告発で出版法により罰金刑に処せられる
  08/30雲龍寺の集会において第4回東京大挙押出しが決定する
     後日、正式に組織決定に持ち込むために指導層が決議。館林警察署の記録に記される
     「鉱毒委員三十余名秘密集会ヲ催シ……第十四議会ノ開会ヲ待チ、被害人民総員ニシテ青年四、五十名ヲ先鋒トシ、
     米麦・薪炭・船等を要意【ママ】シ、途中如何ナル障礙ニ遇ウモ一歩モ退ク事ナク、内務農商務両省ニ逼迫シ、
     素志ヲ貫徹スル事ニ決議シタリ」
  09/01〜10/01田中正造が1日も欠かさず被害各地を巡回する
     「鉱毒非命死者の談話会」を行なう
     田中は11月中頃まで被害地に滞在する
  09/07雲龍寺で「被害民死活一途に関する最後の方針を協議する大集会」がもたれ百数十人が集まる
     栃木県、群馬県の者70余人、茨城県、埼玉県の者も6、7人
     館林警察署、佐野警察署の署員が臨監する
     野口春蔵が報告。各省を訪問するも大臣は面会をさけられ、局長、書記官に会うも調査中で明答はされず、と
     磯幸次郎が報告。群馬県庁を出頭するも冷淡に扱われた、と
     ついで田中正造が演説をする
     田中は政府や帝国議会に対しての不信を表明し、被害民自身が団体行動をすることで自力救済をすべきと説く
     野口春蔵と大出喜平を運動部長に選出
     この日、田中と左部彦次郎は雲龍寺に宿泊
     田中の分身的存在の左部は雲龍寺に常駐するようになる
  09/07被害民の役員が雲龍寺で集会を開き押出しの協議
  09/127日に続いて雲龍寺で集会が開かれる【秘密会?】
     館林警察署署員のほか、佐野警察署の巡査2人、足利警察署から1人、御厩分署から1人が臨監する
     田中正造、左部彦次郎のほか被害民総代60余人が集まる
     左部、野口春蔵、田中が報告的な演説をする
     左部も野口も「近来往々被害民ハ冷淡ニナリ来ル傾ガアル」と述べる
     田中は渡良瀬川の河身改良が予算案にも組み込まれていない理由を演説
     「各村参謀長専任し、二十日迄に死亡調査表及び上京する人名等記し、事務所に集会すること」を決定する
     【第4回東京大挙押出しを正式な組織決定に持ち込む?】
  09/13足尾鉱毒処分請願同盟事務所が内務大臣、大蔵大臣、農商務大臣あてに長文の陳情書を提出する
     「鉱毒被害地自治破壊に付救治陳情書」
     鉱毒免租処分により失われた公民権と村税欠損額の国庫補助を要望、請願する
  09/30被害者農民の動向に官憲側の監視、探索、取締りが厳しさを増す
     栃木県警部長が群馬県警部長の連絡のもと管下該当警察署や駐在所に発する
     「秘第1407号」による「鉱毒被害民多衆運動取締方別紙」
     東京大挙押出しに際しての県警部長への報告、各警察署間の連絡、取り締まり方について指示
     東京見物、年賀、成田山参詣等の偽装計画も察知し対策を指示
  10/08大雨で渡良瀬川が洪水となる
  10/21雲龍寺で集会が開かれ約90人が集まる【被害地鉱毒議会?】
     第1、生命保護、第2、渡良瀬川河身改良復旧工事、
     第3、免訴継続年期の請願について、村会の決議を経て村長、村会議員が郡長に請願することを決議
     田中正造が鉱毒議会の組織に関与する
  10/25邑楽郡の村長、村会議員ら約60人が郡役所に押しかける
     11月1日に郡長に対して一緒に県庁に陳情に行くことを求める
  10/岩崎佐十らが調査した『足尾銅山鉱毒被害地出生死者調査統計報告書第1回』をまとめる
     12/さらに岩崎佐十らが『足尾銅山鉱毒被害地生者死者調査統計報告書第2回』をまとめる
     【「足尾鉱毒被害地出生死者調査統計第1、第2報告書」?】
     【まとめる前の同年03/06に田中正造が『報告書』を引用し質問書を提出する?】
     明治27年から31年にかけて被害地の出生者の減少、死胎分娩、乳幼児死亡者の増加が歴然に
     人口100人に対する割合。(全国平均)対(栃木県内無害地)対(被害地)を比較する
      出生者の割合は3.21対3.44対2.80と被害地が少なく
      死亡者の割合は2.60対1.92対4.12と被害地が圧倒的に高い
     のち統計より被害民は鉱毒犠牲者を1064人とする
  11/田中正造がビラ『足尾銅山鉱毒被害民毎人毎戸の記憶すべき請願の要点』を数万枚印刷する
     渡良瀬川沿岸の被害民にまく
     9か条にわたる要点は右側に漢字ルビをつけ、左側に説明ルビをつける
     田中正造は9項目を「天産と水と人殺しの三条件」と要約する
  11/田中正造が第14回帝国議会で鉱毒による非命死者の問題を重視する【09/?】
     鉱毒に恨みを残して死んだ人々の仇討ちのため、死者1人に1人の請願を呼びかける
     1900(明治33)02/13田中の演説に応える形で第4回大挙押出しが行なわれる
  12/07『鉱毒被害惨状乃悲歌』が発行される
     編集発行人は岩崎佐十、印刷人は浜田伝三郎、非売品
     作者は「悟毒海居士述」【「さとり毒海居士」つまり左部彦次郎?】
     岩崎佐十はこの発行で処罰を受けず
     【川俣事件後、3人が『鉱毒悲歌』を無届け出版?】
  谷中村が大規模な堤防修復工事と排水機の設置工事をはじめる
     谷中村の洪水に対する最善策は堤防の修復工事
     堤内地にたまる水を効率よく排水するための堤防の修復工事が必要となる
     修復前の堤防は堤長7千間(1万2740メートル)、堤高23尺(7メートル)、馬踏2間(3.6メートル)、表裏のり勾配1割
     これは利根川の堤防より小規模で、特に堤防幅がせまく造られる
     谷中村は堤防を強化するため毎年のように借金をし堤防修復工事などを行ない財政難に
     のち堤防修復工事と排水機の設置工事により経済が急速に疲弊
  田中正造が鉱毒反対運動の転換を提案する
     ひとりの指導者でなく被害民が自ら組織した「公儀体」とする
     12/22鉱毒議会が結成される【12/12?】
     去る8月、田中正造が大出喜平、野口春蔵に訴えていた「公議体」の実現となる
     鉱毒議会は明治元年以降に生まれた32才までの青年を鉱毒議員に
     32才以上の者は鉱毒委員、議員が認めた者が議員となる
     栃木県、群馬県の4郡19村1070余人で構成される
     田中は規約草案を起草。冒頭には五箇条誓文の第1条、第2条が引かれる
     議会規約案は「渡良瀬川の流水を清浄ならしむる」ことを唯一の方針に掲げる
     ある意味、第4回大衆押出しに向けての組織づくりとなる
     規約案が決まる
  12/22鉱毒議会の規約案が東京事務所と地方事務所にて案として決定する
     【12/12? 鉱毒議会が結成される?】
  12/22足尾鉱毒被害地に「鉱毒被害組織」が成立する
     青年を中心に議員を選出する
  12/栃木県会が「乙女放水路開鑿工事施工諮問」を可決する
     のち下流部の反対で内務省の認可が得られず
  12/安部磯雄、岸本能武太らが足尾銅山鉱毒事件の現地調査を行なう
  12/谷中村の茂呂近助がパンフレット「被害地調査統計報告書」を出す

1900(明治33) 60

  《総理大臣》[第9代](第2次)山縣有朋(→10/19)、[第10代](第4次)伊藤博文(10/19→)
  《内務大臣》[第18代]西郷従道、[第19代]末松謙澄(10/19→)
  《警視総監》[第12代]大浦兼武、[第13代]安楽兼道(10/19→)
  《農商務大臣》[第16代]曾禰荒助(→10/19)、[第17代]林有造(10/19→)
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦
  《帝国議会》[第14回通常会](→02/23)、[第15回通常会](12/25→)
  《栃木県知事》[第10代]溝部惟幾
  《群馬県知事》[第8代]古荘嘉門(→10/31)、[第9代]小倉信近(10/31→)
  《埼玉県知事》[第10代]正親町実正(→10/25)、[第11代]山田春三(10/25→)


  01/鉱毒議会の結成により運動の指導的役割は急進的な青年層が担うことに
     請願書が作られ、いままで事態を放置してきた政府の責任を鋭く告発する
     02/13第4回大挙押出しに反映し川俣事件を引き起こすひとつの原因となる
  01/18雲龍寺にて鉱毒非命者施餓鬼の供養が行なわれる
     施餓鬼は岩崎佐十の調査報告完成を機に、非命の死者の怨念を被害民の意識に転換させる
     また翌月に予定する最後の大挙押出しの成功を願う
     僧侶18人、鉱毒委員や青年ら280余人が参加【300余人? 各町村鉱毒委員ら3千名が参集?】
     供養が終わると左部彦次郎が音頭をとり「鉱毒悲歌」を唱歌する
     青年決死隊が結成され演説会、宣伝活動に加えて組織的に低調な地区に対するオルグ活動が展開される【01/21?】
     のち第4回大挙東京押出しに向けて盛りあがりをみせる
  01/21素志貫徹を誓い50人の青年決死隊が組織される【01/18?】
     青年によるオルグ活動、演説会、宣伝活動が組織的低調な地域に対して重点的に実施される
     第4回東京大挙押出しに向けて被害地は活発になる
  01/22鉱毒議員や青年委員らが雲龍寺で会合する
  01/茂呂近助が谷中村の第6代村長に就任する
  01/第14回帝国議会のため上京している田中正造が被害町村の指導者幹部あてに手紙を書く【02/03?】
     「死人1人ニツキ1人の仇打請願者ナレバ丁度1064人」が出郷せよと積極的に大挙請願を呼びかける
  01/埼玉県の利島村、川辺村ともに1898(明治31)1月に設置された鉱毒委員会の委員を大幅増員する
  01/30警察が押出しに対する警備を強化
     東京見物、年賀、成田山参詣と偽装し三々五々出発する計画や、
     第1次が人員不足の場合、第2次、第3次と押出すなどの計画を察知する
     「秘第154号」により取り締まりを栃木県下該当警察署に指示する
  02/01鉱毒議員や青年委員らが雲龍寺で会合する
     入獄覚悟で上京する青年決死隊を組織。幹事長に山本栄四郎、副幹事長に荒井嘉衛を選出する
  02/03田中正造が被害各地に鉱毒犠牲者1064人と同数の請願出京を要請する【01/?】
  02/04被害地鉱毒議会で規約、議員録が可決する
  02/04雲龍寺にて最後の大挙押出しを決定する大集会(総決起大会)が開かれる
     14時半から18時まで参加被害民は510人【約1千人?】
     戸井亀吉が海老瀬村の鉱毒被害の状況を述べる
     青年決死隊の幹事長山本栄四郎や青木金次郎、左部彦次郎が演説する
     左部は鉱毒による死者は1064人にのぼったこと、大挙押出しは意志貫徹するため帰宅せざる覚悟で臨むよう伝える
     山本栄四郎の発言で当日の会議の会長(議長)を久野村の稲村与市、副会長(副議長)に界村の助役野口春が選出
     【稲村余市は押出しの会長? 野口春蔵は押出しの副会長?】
     野口が会長にかわり、鉱毒議会の規約案と議員録としての効力を発生させるため承認させる
       議事は第1に、「郡監部」の設置を決議、7人を選任する
       山崎●【金偏に圭】次郎(安蘇郡)、茂呂近助(下都賀郡)、塚原友治(足利郡)、岩崎佐十(足利郡)、
       河野【高野?】梅吉(山田郡)、坂村久次郎(新田郡)、永島与八(邑楽郡)
       【役員の総監督を11人選出? 青木金次郎、坂村久次郎、戸井亀吉、永島与八、越沢丑次郎、亀井朋治、
        高野梅吉(以上群馬県)? 山崎●【金偏に圭】次郎、茂呂近助、塚島友蔵、岩崎佐十(以上栃木県)?】
       第2に、大字各1人の指揮官を今夜中に選定すること
       第3に、評議員は大挙押出しまで全員が雲龍寺につめること
       さらに、請願のため入京する者青年9人と左部彦次郎、小林偵七郎ら鉱毒委員9人を指名
       また郡役所から県庁をへて上京する家富元吉、磯幸次郎ら15人(ほか数人)を指名する
       これは中央官庁へ提出する請願書手続きのため
     足尾銅山鉱業停止の請願書を採択、委員出京を決定する
  02/05群馬県邑楽郡郡長の熊谷彦十郎が前日に採択した足尾銅山鉱業停止の請願書の奥書を却下する
     委細を県に報告する
  02/06鉱毒委員による協議が雲龍寺で行なわれる
     会長(議長)は小林偵七郎、出席者は23人
     両3日中にも「大運動」があることを通告、上京の準備と、ほかの被害地にも上京を勧めるよう決める
     また、注意事項を再確認する
     (1)乱暴をなさざること(2)粗服を着すること(3)寒くならないよう衣服を用意すること
     (4)草鞋1人10足用意のこと(5)1人につき2升の乾飯(ほしめし)を用意携帯すること
     大挙押出しの日は、前もって上京する鉱毒委員代表が帰村した翌日と内定
     鉱毒委員代表は野口春蔵、小野政吉、永島与八、小山孝八郎、山本栄四郎の5人
  02/06雲龍寺での協議内容が館林署の巡査により署長の今鉄平に報告される
  02/06栃木県警保安課長が佐野、足利、御厨、部屋など該当警察署長と大挙押出しについて協議【栃木県警部長?】
  02/06、07被害民代表の出京者45人が貴族院、衆議院、各政党本部などに陳情する
  02/07栃木県警部長は群馬県、茨城県の県警部長と取り締まり分担と方針を協議、決定する
  02/08小磯県警部長のいる館林警察署に水本栃木県警部長が警務課長、保安課長を従え来署。打ち合わせをする
     のち足利警察署署長の山内種樹は巡査10人を伴い、佐野警察署署長の池田重政は巡査4、5人を伴い、
     ともに雲龍寺近くの県境で待機することに
  02/08館林警察署にいた警部、巡査を含めて203人を13日の午前にかけて各所に配置する【185人?】
     栃木県警は警部10人、巡査部長11人、巡査162人を配置
     雲龍寺に警部3人、巡査50人。館林入口に警部1人、巡査10人。川俣に警部7人、巡査72人。
     鐘村渡場(離れ)に警部1人、巡査11人。相の川に警部1人、巡査12人。大久保に警部1人、巡査若干。
     粟田に警部1人、巡査11人。館林署には警部1人、巡査10人を残す
     押出し勢の阻止体制をしく
  02/08群馬県警は雲龍寺に警部3人、巡査50人を配置したほか総員185人を動員し警戒体制をとる
  02/08憲兵隊はすでに佐野で待機中
     【2月12日憲兵の士官1人、下士卒10人が佐野駅に到着、館林につく?】
  02/08足尾鉱毒被害地住民が被害地救済の「請願書」を諸官庁の大臣あてに提出する
     内閣、文部省、内務省、大蔵省、農商務省、陸軍省の各大臣あて
     これまでの請願書と異なり政府を弾劾する文となる
     「流毒の根元を絶つ能はず水を清むる能はず、土地を復する能はず、
     権利を保全する能はず、生命を救ふ能はずば、むしろ、我等臣民を殺害せよ」
  02/09厳戒体制下の夕刻、雲龍寺の梵鐘を合図に植野村、吾妻村、渡瀬村が呼応して梵鐘や警鐘を乱打
     約300人の青年が雲龍寺に集合する
     のち「鉱毒悲歌」をうたいながら翌日、午前4時にかけて青年たちが各町村に示威的勧誘運動を行なう
     被害地町村長を被害農民の側に確保する方策でもある
     この時期、被害地の町村長は田中正造の指示で上京、押出し勢と合流して陳情、請願すべく待機する
  02/09田中正造が第14回帝国議会で「足尾銅山鉱毒問題の請願に関する質問書」を提出、説明演説する
     従来被害民から提出した請願書に対する政府の態度を詰問する
     賛成者は山本幸彦外128人
  02/09田中正造が第14回帝国議会で質問書を提出する
     鉱毒問題で何らの対策をとらない政府を批判する質問演説を行なう
     「行政府ハ上下両院ノ決議ヲ蔑視シテ此非常緊急ノ問題ヲ緩慢ニ付セシ」はなぜか、の質問書を提出
     のち2月23日までの会期中に34通もの質問書を提出する。23日は最多の24通
     被害民の請願の歴史を述べ、無視し続けた政府の責任を問う
     「毒のために死セルもの」1064人の多数に至ったことを強調する
     さらに田中は自身が所属する憲政本党をも批判する
  02/10松井警視庁官房詰警部、池田埼玉県保安課長、埼玉県忍警察署署長の佐藤浩気が来署、打ち合わせをする
     【どこに来署?】
     のち忍警察署署長の佐藤は巡査45人を率いて川俣の対岸別所村で待機することに
  02/10室田忠七が足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所に出向き田中正造や出京中の町村長らと打ち合わせ
     被害地の町村長は田中の指示で出京し押出し勢と合流して陳情、請願するため待機中
     02/11室田が雲龍寺に帰着し報告する
  02/11西谷田村の医師岡研斎が外出中に永島与八と出会う
     岡は永島から大挙押出しにあたり出張して欲しいと頼まれ同意する
     のち岡は押出しの日時を知らされておらず、そのままに
  02/11雲龍寺にて約140人の集会が警察に報告される
     左部彦次郎、小野政吉、野口春蔵らが「煽動的談話ヲ為シタルノミニシテ上京ノ期日ハ口ニセス」
  02/11農民らが秘かに会合を開く。大挙押出しを13日と決定、段取りを決める
     集会には野口春蔵、磯幸次郎、設楽常八、青木金次郎、山本栄四郎、稲村与市、庭田恒吉ら多数が参加
     田中正造は前回のような説得をすることなく、国会での質問の日にあわせて押出しの決行日となる
  02/12この日、前半の情報でも警察はまだ押出し勢の正確な出発日時を把握せず
     後半、警察に「鉱毒被害民明一三日午前三時ヲ期シ雲龍寺ニ集合シ未明ニ出発スルコト確定セリ」と報告される
     各県の警察が被害民大挙請願出京への動きを察知、13日未明出発の情報をつかむ。警戒態勢にはいる
  02/12田中正造が第14回帝国議会で質問書を提出する
     「庚申山の七里四方の立木山林を古河に払い下げたのではないかとの質問書」
     【「山林払下の件につき質問書」を提出する?】
  02/12憲兵の士官1人、下士卒10人が佐野駅に到着、館林につく
     【2月8日の時点で憲兵隊はすでに佐野で待機中?】
  02/12午後7時、押出しの警備が強化されるなか雲龍寺の警鐘、太鼓、法螺貝を鼓吹。境内に篝火が焚かれる
     どこからともなく蓑笠草鞋に身を固めた被害民が「鉱毒悲歌」を高唱、雲龍寺付近に参集してくる
  02/12午後10時頃、館林警察署署長の今鉄平が雲龍寺へ
     5、6人しか集まっおらず、庭田駒吉に鐘をつくことは穏やかでないからやめるよう注意しただけで帰る
  02/12午後11時頃、雲龍寺の鐘が途切れることなく連続して打ち鳴らされる
     梵鐘、太鼓、法螺貝を合図に被害農民が続々と集合する
     被害民3千が各々蓑笠に身をかため、鉱毒歌をうたいながら集まる
     群馬県邑楽郡多々良村、渡良瀬村、大島村、西谷田村、海老瀬村、郷谷村、大毛野村、
     栃木県足利郡毛野村、吾妻村、久野村、栃木県下都賀郡谷中村
     周辺町村の寺も鐘を連続して打ちはじめる。その音を聞いて、さらに遠方の寺も鐘を打ちはじめる
     押出しの合図は20里(約80キロ)に伝わる
  02/13午前1時すぎ、館林警察署署長の今鉄平が再び雲龍寺へ
     800人近くが集まりかがり火をたく。今が解散をすすめるも被害民は応じず
     午前2時、今が集会法及政社法第13条5号により解散を命じる
     さらに本堂に踏みこみ実力行使をに及ぶもたちまちに排除される
     【解散命令を執行することはできず?】
     午前3時頃今鉄平ほか警官は雲龍寺を引き上げる
     このとき雲龍寺には1300人の被害民が集まる
  02/13午前3時、地元紙『下野新聞』の特派員で、東京の『中央新聞』『朝日新聞』の通信員太田昇三郎が雲龍寺へ
     解散命令があったことを知る
     急ぎ徒歩で佐野町へ引き返し電報で各社に通信
     雲龍寺へ戻り請願行進に従う
  02/13館林署残留組を除いてすべての警察官が川俣に集まる
  02/13午前6時、埼玉県北埼玉郡川辺村の遍上寺に近郊の被害民約900人が集まる
     地元川辺村と利島村、群馬県海老瀬村などの被害民。もうひとつの押出しがはじまる
     埼玉県の警部が集会法及政社法違反として解散を命じる
     被害民は応じず、高取の天神方面へ向かう
     のち被害民のうち700人が飯野の渡し場で警察の説得により帰村する
     ほかの200人は対岸に渡る
     のち川辺村、利島村、海老瀬村の被害民に茨城県古河町の者も加わり500を越す人数に【300人? 400人?】
     【その後の足取りは?】
  02/13午前8時頃から雲龍寺の本堂縁側で演説がはじまる
     雲龍寺の31才の住職黒崎禅翁が登壇し、次に左部彦次郎、稲村与市、永島与八、庭田恒吉らが続く
     山本栄四郎が立ったあと、最後に岩崎佐十が音頭をとり「天皇陛下万歳」「鉱毒被害民万歳」を三唱する
     午前9時頃から出発、隊伍を整え東京に向けての大挙押出しの行進がはじまる【午前8時半?】
     大挙被害地34か村、1064字の惨状を訴えるために出発。第4回大挙押出し(川俣事件)第4次大挙上京(行進)?】
     野口春蔵が騎馬で先頭に立ち、左部彦次郎や山本栄四郎その他の指揮役が介在し、大出喜平最後に副う隊伍で進む
     【2千人? 2500人?】
     【出発時の押出し勢の数は被害農民側1万2千?、警察側2500余?、永島与八3千余?、石井清蔵3500余?】
     大挙押出しには舟を積んだ2両の荷車が加わる。川俣の渡し場の舟橋は撤去されているとみての準備
     舟1艘と荷車1両は下早川田の鴇崎藤三郎の所有、もう1両の荷車は家富忠三郎の所有
     押出しによる請願の主旨は「河身改良、堤防増築、貧民救済」の3本立て
     また「これまでの各種請願の総決算を求める請願」という見方も
     途中邑楽郡役所の門前で野口春蔵は請願書の奥印を拒んだ郡長の熊谷彦十郎を訪ねる
     郡長は警察署へでかけ不在。被害民は高らかに郡長の悪口をたたきながら門をでる
     一行は雲龍寺近くの渡良瀬川を渡り館林町へ。館林町入口には群馬県警察部が約50人で監視するも突破
     直後、渡良瀬川右岸の農民らと合流。1万2千人となる【3500人?】
     【館林の「警察署記録」2500余人?、『下野新聞』1万2千人?、被害民の回想3千人?、3500人?】
     のち11時ごろ館林警察署前で小競り合い数人が拘引されそうになり負傷者がでる
     のち正午すぎに農民らは群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村にある浮き船橋に向かう
     利根川を渡ることのできる場所は実質的に川俣のみ
     邑楽用水から利根川までには警官隊が五重の防衛線を張り待つ、農民らは船を運んでいる者たちを先導に進む
     約300人の警官隊は解散命令を発した直後に農民らになぐりかかる
     【被害民は川俣で防御線をしいた警官隊180人、憲兵10人と衝突?】
  02/13川俣の石橋の近くには数人の報道関係者が取材のため待機、事の成り行きを見守る(第4回押出し)
     『下野新聞』の特派員で東京の『中央新聞』『朝日新聞』の通信員でもある太田昇三郎、
     『下野日日新聞』の記者丸山和四郎、『萬朝報』の特派員富田太郎ら
  02/13警察は川俣とその近くで被害民15人を現場逮捕する。川俣事件(第4回大挙押出し)
     永島与八、福地彦蔵、野村千代蔵、茂呂宗次郎、大森留吉、堀口源吉、小山藤八、関口多吉、
     中田善次郎、島田団蔵、田名網忠助、小泉忠三郎、谷熊次郎、大朏善平、黒田茂吉
     負傷した15人は真如院に連行され応急手当てを受け夕食をも施される
     尽力したのは佐貫村村長塩谷豫一をはじめ助役、区長、郡会議員、村会議員ら
     川俣の農民は大多数が請願農民に同情的
     【抜刀した警官180人?】
     【先導で舟を運んでいた農民らを相次いで逮捕、拘束】
     【野口春蔵、大出喜平ら指導者を含む農民約50人が逮捕される】
     【憲兵10人により指導者15人を含む100余人が逮捕される?】
     事件が起きたのは鉱毒議会の結成により運動の指導的役割を急進的な青年層が担ったのもひとつの要因
     のちそれでも東京までたどり着いたものが数10人から数百人、ただ請願は行なわれず
  02/13正午、着京の山崎●【金偏に圭】次郎が出京途中の被害民が警官隊の暴行を受けたことを芝口警察署に出訴する
  02/13川俣事件が起こり川辺村の井田兵吉が東部総督となる。利島村、川辺村を中心に支隊を編成する
  02/13田中正造が第14回帝国議会で2つの質問書を提出する
     「鉱毒は人を殺し当局諸大臣は其請願者に面会を許さざる儀につき質問書」と
     「鉱毒の為め天産を亡滅すべき有形上の価格につき質問書」
     同日に質問理由演説を行なう
     足尾鉱毒被害民の請願運動弾圧につき衆議院で質問を行ない政府を追及する
     13日の第4回大挙押出しは、この質問演説と歩調をあわせたもの
  02/13田中正造は川俣事件を知らずに鉱毒問題に関する質問を行なう。質問終了後に事実を知る
  02/13川俣事件(第4回大挙押出し)で農民15人が現場逮捕
     押出しは第1回から第6回まで、ともに武器を持たず、暴力もふるわない形で行なわれる
     現場にいた新聞記者らも裁判で証人として出廷
     警官隊がサーベルなどの武器を用いたという証言はない、また農民が武器を使用したという証言もない
     警官側が農民に対し砂を投げたという証言と、警官と農民の両者が砂を投げたという証言はある
     現場逮捕された15人
      永島与八(28・群馬県邑楽郡西谷田村)、島田団蔵(42・群馬県邑楽郡西谷田村)、
      大森留吉(29・群馬県邑楽郡西谷田村)、茂呂宗次郎(41・栃木県安蘇郡界村)、
      谷熊次郎(20・栃木県安蘇郡植野村)、関口多吉(40・群馬県邑楽郡西谷田村)、
      大朏善平(26・栃木県安蘇郡植野村)、小山藤八(22・群馬県邑楽郡大島村)、
      黒田茂吉(49・栃木県安蘇郡界村)、野村千代蔵(26・栃木県足利郡吾妻村)、
      中田善次郎(48・群馬県邑楽郡西谷田村)、小泉忠三郎(25・栃木県足利郡久野村)
、       福地彦蔵(24・栃木県安蘇郡界村)、田名網忠助(28・栃木県安蘇郡植野村)、
      堀口源吉(41・群馬県邑楽郡西谷田村)
  02/13館林警察署が前橋地方裁判所の検事正福鎌芳隆あてに3種類の川俣事件告発書を作成する
     【下記項目との違い?】
     ▽第1は雲龍寺事件。今鉄平ら3警部連署による集会及政社法違反と刑法139条(官吏抗拒罪)違反の告発
     被告発人は野口春蔵ら12人
     ▽第2は館林署事件。今鉄平ら4警部の連署による刑法137条(凶徒聚衆罪)と同139条違反の告発
     被告発人は野口春蔵ら31人と氏名不詳数百人
     ▽第3は川俣事件。筧保安課長以下14警部の連署による刑法137条、139条違反の告発
     被告発人は14日付追加(23人)をあわせて49人(うち14人は付和随行)と氏名不詳数百人
  02/13館林警察署が前橋地方裁判所の検事正福鎌芳隆あて押出しをした被害民に対しての告発書を作成する
     【上記項目との違い?】
     被告発人8人
      群馬県邑楽郡西谷田村 永島与八、利根郡池田村 佐部彦次郎、邑楽郡渡瀬村 黒崎禅翁、
      栃木県足利郡吾妻村 庭田駒吉、群馬県邑楽郡大島村 山本栄四郎、
      栃木県安蘇郡界村 野口春蔵、足利郡久野村 稲村与市、足利郡足利町 原田実
     告発した警察は館林警察署署長で群馬県警警部の今鉄平、
      警察部在勤で群馬県警警部の佐竹綱次郎、沼田警察署署長で群馬県警警部の井上喜三
     同日さらに26人が追加告発される
     栃木県安蘇郡界村平民農 野口春蔵
      足利郡吾妻村大字下羽田平民農 庭田恒吉、足利町平民無職 原田英、
      吾妻村大字下羽田平民農 庭田駒吉、吾妻村大字下羽田平民農 横塚治三久、
      安蘇郡犬伏町大字鎧塚平民農 山崎●【金圭】次郎
     群馬県邑楽郡大島村平民農 大出喜平、多々良村大字日向平民農 福田和寿蔵、
      多々良村大字日向平民農 亀井朋治、渡瀬村大字岡野平民農 谷津富三郎、
      大島村平民農 青木金次郎、西谷田村大字西岡新田平民農 永島与八、
      西谷田村大字大曲平民農 堀口源吉、西谷田村大字除川平民農 関口多吉、
      西谷田村大字除川平民農 中田善次郎
     栃木県安蘇郡界村大字高山平民農 福地彦蔵、足利郡吾妻村大字下羽田平民農 野村千代蔵
     群馬県邑楽郡西谷田村大字除川平民農 島田団蔵、大島村平民農 小山藤八
     栃木県安蘇郡植野村大字舟津川平民農 田名網忠助、足利郡久野村大字瑞穂野平民農 小泉忠三郎、
      安蘇郡植野村大字舟津川平民農 谷熊次郎、植野村大字舟津川平民農 大月善平
     群馬県邑楽郡西谷田村大字大曲平民農 大森留吉
     栃木県安蘇郡界村大字高山平民農 茂呂宗三郎、界村大字高山平民農 黒田茂吉
     告発人も増える
      警察部保安課長で警部の筧孝邦、藤岡警察署署長で警部の吉田忠棟、桐生警察署署長で警部の飛沢鉄太、
      警察部保安課在勤で警部の佐竹綱次郎、沼田警察署署長で警部の井上喜三、大胡警察署署長で警部の林崎國次郎、
      渋川警察署署長で警部の成瀬広吉、大間々警察署署長で警部の小林省三、松井田警察署署長で警部の堀太郎作、
      下仁田警察署署長で警部の井上総三、警察部保安課在勤で警部の伊藤積次郎、磯部警察分署署長で警部の加藤景形、
      高崎警察署在勤で警部の郷梢、館林警察署署長で警部の今鉄平
  02/13〜02/14館林警察署の刑事巡査が手分けして川俣事件で現地逮捕した15人の「被告人尋問調書」を作成する
  02/14川俣事件の野口春蔵ほか6、7人が兇徒嘯聚などの罪で予審請求される
     【野口春蔵ほか68人が前橋地裁に予審請求される?】
     なかには大出喜平、原田英三郎らのように未逮捕のまま予審請求される者も
     以後続々逮捕され、逮捕直後から予審取調べが行なわれる
     のち全員逮捕までに約半年かかる
  02/14田中正造が川俣事件を知る
     以降第14回帝国議会で矢継ぎ早に質問書の提出と質問演説を繰り返す
     「院議を無視し被害民を毒殺し其の請願者を撲殺する儀につき質問書」。賛成者117人
     「警吏大勢凶器を以て無罪の被害民を打撲したる儀につき質問書」。賛成者117人
     02/15「政府自ら多年憲法を破毀し曩(さき)には毒を以てし
     今は官吏を以てし以て人民を殺傷せし儀につき質問書」。賛成者32人
     14、15日提出の3つの質問書について質問理由演説
     2日続けて警官、憲兵の暴行を批判
     政府や議会へ依頼する(他力)姿勢から自身で守る(自力)に転換する
  02/15田中正造が第14回帝国議会で質問書を提出する
     「政府自ら多年憲法を破毀し曩には毒を以てし今は官吏を以て人民を殺傷せし儀につき質問書」
     さらにこの日、田中は憲政本党からの脱党を宣言
     田中は鉱毒事件に対する自分の立場が党派拡張や個人的利害のために動いていると解釈されて
     国家的な鉱毒問題が誤解されてはならぬと脱党を宣言する
     のち郷里の支持者、憲政本党の政友の反対で田中の脱党はとりやめ
     田中自身川俣事件の突発により議会で訴えることが山ほど生じる
  02/15〜22鉱毒問題に関心を示す『毎日新聞』の社長島田三郎が木下尚江を渡良瀬川、足尾に派遣する
     02/26木下が『毎日新聞』に「足尾銅毒問題」の連載を開始する。全17回
     のち『毎日新聞』は鉱毒問題で世論をリードすることに
  02/16任意出頭または勾引で一部川俣事件に関与した者が前橋の予審廷で水谷由章判事の取り調べを受けて勾留される
     室田忠七、亀井朋次、福田和寿蔵、設楽常八、荒井嘉衛、
     稲村与市、茂呂近助(谷中村村長)、谷津富三郎(渡瀬村村長)
  02/17東京で大出喜平が坂本三郎予審判事から川俣事件の取り調べを受けて前橋へ送られる
  02/17田中正造が第14回帝国議会で質問書を提出する
     人々の肺腑をつく痛切な演説を行ない政府の責任を追及する
     「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」を演説。賛成者35人
     「民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
     法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑ニスルナリ
     皆自ラ国ヲ毀ツナリ
     財用ヲ濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ亡ビザル国ナシ。之ヲ奈何」
     足尾銅山が渡良瀬川沿岸の人びとを殺すこと。兵隊が請願途上の被害民を銃を向けること
     政府が諸法律を勝手に解釈運用していること。この現状は亡国と同じこと
     同日提出の質問書について質問理由演説に登壇する
     田中正造は日本が滅びた理由を鉱毒の歴史から説きおこす
     各省政府の責任をひとつひとつ問いただす
     農商務省による鉱毒のたれ流し、山林荒廃、魚類の絶滅、田畑の荒廃、
     内務省衛生局の被害地の衛生、地方局の町村自治の破壊、大蔵省の租税減少、
     文部省の小学校生徒の死亡、陸軍省の壮兵減少などの責任を列挙する
     02/21山縣有朋首相が亡国演説に対する答弁書をだす
     「質問の旨趣其要領を得ず、依て答弁せず」と不誠意極まりないもの
     【帝国主義の道をひたすら走り続けてきた藩閥政府に「亡国」ほど理解しにくい言葉はない?】
  02/18磯幸次郎が前橋で川俣事件の取り調べを受ける
  02/19田中正造が第14回帝国議会で「良民の請願を目して凶徒と為すの儀につき質問書」を提出。賛成者31人
     同日提出の質問書について質問理由演説
  02/20田中正造が第14回帝国議会で「内務省は陛下の臣民を虐殺するのかにつき質問書」を提出。賛成者35人
  02/21第14回帝国議会で内閣総理大臣山県有朋が田中正造の数回にわたる長く熱烈な質問に答える
     「質問の趣旨その要領を得ず、以って答弁せず」との答弁書を提出する
  02/23田中正造が第14回帝国議会で1日のうちに24の質問書を提出し質問理由演説
     「答弁書議員法違反の儀につき質問書」。賛成者33人
     「鉱業を停止せざる儀につき質問書」。賛成者33人
     「政府は常に公の責任を有せざる儀につき質問書」。賛成者30人
     「鉱業を停止せず地方制度の破れたるを回復せざる儀につき質問書」。賛成者30人
     「数十万人民の生業を停止して之れに害を加うる鉱業を停止せざる儀につき質問書」。賛成者35人
     「各地森林払下の代金が其の伐木せる跡に苗樹を植える
     経費の半額にも足らざる怪しむべき儀につき質問書」。賛成者35人
     「毒流の根源を止めず伐木を禁ぜず河川を破壊の侭にして改築せざる儀につき質問書」。賛成者30人
     「多大の水産を頽廃せしめ之れを回復せざる儀につき質問書」。賛成者35人
     「鉱業を停止せず且つ免租の継年期を許可せざる儀につき質問書」。賛成者30人
     「足尾銅山付近群馬県サーリ官林不正下戻しの儀につき質問書」。田中外5人が提出、賛成者53人
     「国家歳出の分捕を主義とし人権を無視せんとする儀につき質問書」。賛成者32人
     「財政を紊り及び公私有の財産を減じ而して歳入財源の不足を唱うる儀につき質問書」。賛成者32人
     「政府は多年鉱毒の人命加害の質問に対し詐欺の答弁を為したるの儀につき質問書」。賛成者30人
     「故らに加害者古河市兵衛に縁故あるものを地方官吏に任じて
     被害民を殺し尽くさんとする儀につき質問書」。賛成者30人
     「鉱毒被害民の病躯中にあることを知りつつ之を虐待せし儀につき質問書」。賛成者32人
     「政府は特に関八州の人民が従順なるを侮り各所において無量数十万町の山林を押領し
     之れを愛する所の縁故に与え、一方には己れが私欲のために六万町歩の有租地を挙げて砂漠となすを憚らず、
     終に其の被害民を毒殺し及び殺傷せし儀につき質問書」。賛成者32人
     「海外移住の勧誘を為しつつ却て帝国本土の廃滅を助成する儀につき質問書」。賛成者30人
     「官吏我慾の為めに学理上の思想を失いたる儀につき質問書」。賛成者32人
     「輦轂(れんこく)の下直接鉱毒の侵害あるを知らざるかの儀につき質問書」。賛成者43人
     「政府が皇室の尊栄を冒涜し憲法を無視するの甚だしき儀につき質問書」。賛成者30人
     「我等被害民を救えよ然らざれば之れに死を与えよとの請願に対し、
     之れに暴行を加え殺傷せしめしは何等の理由に出でたるかの儀につき質問書」。賛成者35人
     「其の源を清めず其末を修めんとするの儀につき質問書」。賛成者35人
     「故(ことさ)らに良民を殺傷するを謀りたる儀につき質問書」。賛成者35人
     「鉱毒被害地無政府につきての儀につき質問書」。賛成者35人
  02/23政府からの誠意ある答弁が一切ないままに第14回帝国議会が閉会する
  02/24左部彦次郎、山本栄四郎、青木金次郎、庭田恒吉が揃って前橋の裁判所へ出頭、川俣事件の取り調べを受け勾留される
  02/川俣事件の数日後、木下尚江が栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の庭田源八を訪問し1泊
     夜、ランプの下で庭田が節をつけて『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』を朗読。木下は静かに聞く
  03/04野口春蔵が「帰村届」の書面をもち佐野警察署へ出頭、川俣事件の勾引状が施行される
     「帰村届」には「右ハ本日帰村致候ニ付此段及御届候也」と書かれる
     事件後の順次、逮捕者
      野口春蔵(41・栃木県安蘇郡界村)、庭田恒吉(33・栃木県足利郡吾妻村)、
      庭田駒吉(33・栃木県足利郡吾妻村)、設楽常八(54・栃木県足利郡久野村)、
      稲村与市(49・栃木県足利郡久野村)、室田忠七(31・栃木県足利郡久野村)、
      荒井嘉衛(22・群馬県邑楽郡西谷田村)、大出喜平(37・群馬県邑楽郡大島村)、
      山本栄四郎(31・群馬県邑楽郡大島村)、青木金次郎(27・群馬県邑楽郡大島村)、
      磯幸次郎(51・群馬県邑楽郡大島村)、小林偵七郎(71・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
      黒崎禅翁(31・群馬県邑楽郡渡瀬村)、亀井朋次(24・群馬県邑楽郡多々良村)、
      福田和寿蔵(44・群馬県邑楽郡多々良村)、永沼政吉(25・群馬県邑楽郡多々良村)、
      左部彦次郎(34・群馬県利根郡池田村)、松本盛三郎(22・愛媛県温泉郡雄群村)、
      茂呂近助(49・栃木県下都賀郡谷中村)、山崎●【金偏に圭】次郎(41・栃木県安蘇郡犬伏町)、
      谷津富三郎(48・群馬県邑楽郡渡瀬村)、稲村忠蔵(52・栃木県足利郡久野村)、
      福地小一郎(37・栃木県安蘇郡植田村)、井田兵吉(34・埼玉県北埼玉郡川辺村)、
      家富元吉(57・群馬県邑楽郡渡瀬村)、原金次郎(54・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
      小林善吉(39・群馬県邑楽郡渡瀬村)、麥倉亀太郎(30・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
      原福太郎(41・群馬県邑楽郡多々良村)、井汲幸蔵(44・群馬県邑楽郡多々良村)、
      川島元次郎(44・群馬県邑楽郡多々良村)、越沢丑次郎(44・群馬県邑楽郡郷谷村)、
      原弥太郎(47・群馬県邑楽郡渡瀬村)、栗原宰次郎(47・栃木県安蘇郡植野村)、
      岩崎佐十(36・栃木県足利郡毛野村)、川島民八(23・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
      漆原慶治(26・栃木県足利郡久野村)、小野熊次郎(36・栃木県安蘇郡植野村)、
      落合美之作(32・栃木県安蘇郡植野村)、小野政吉(56・栃木県安蘇郡植野村)、
      原田英三郎(21・栃木県足利郡足利町)、戸井亀吉(50・群馬県邑楽郡海老瀬村)、
      関口三郎次(46・栃木県下都賀郡赤麻村)、横塚治三久(23・栃木県足利郡吾妻村)、
      小曽根信吉(31・栃木県安蘇郡犬伏町)、小野寅吉(55・栃木県安蘇郡植野村)、
      堀越清九郎(43・群馬県邑楽郡多々良村)、落合貞次郎(32・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
      相田貞吉(45・群馬県邑楽郡大島村)、小山孝八郎(52・群馬県邑楽郡大島村)、
      北山清次郎(46・群馬県邑楽郡西谷田村)、持斎茂吉(49・栃木県足利郡久野村)、
      野中源蔵(56・群馬県邑楽郡西谷田村)
  03/06川俣事件で前橋監獄署に呻吟する被告人は24人に
     永島与八、荒井嘉衛、大出喜平、青木金次郎、山本栄四郎、磯幸次郎、室田忠七、稲村与市、設楽常八、谷津富三郎、
     小林偵七郎、小林善吉、福田和寿蔵、亀井朋治、栗原宰次郎、小野寅吉、山崎●【金圭】次郎、茂呂近助、庭田恒吉、
     野口春蔵、井田兵吉、岩崎佐十、左部彦次郎、東條盛三郎
  03/田中正造が初めて毎日新聞社に木下尚江を訪ねる。鉱毒記事連載に謝辞
  03/田中正造が3月前半の約10日間、本郷区の順天堂病院に入院する
  03/10『女学雑誌』に田中正造の「鉱毒地方の吾同胞」が掲載される
  03/11、12田中正造が病をおして佐野、館林での鉱毒大演説会で演説をする
     12日の館林では6、7千人の聴衆を前に1時間半にわたり演説
     演説会は2月13日の請願行動(川俣事件)の正当性を主張するもの
  【03/13『京華日報』が田中正造の精神病快癒して退院と報道する?】
  03/田中正造が3月後半の約10日間、再び順天堂病院に入院する
  03/25田中正造が『女学雑誌』に「鉱毒文学」を寄稿する
     のち本稿により編集人の巌本善治が新聞紙条例違反に問われる
  03/『毎日新聞』の社長で代議士でもある島田三郎が帝国議会で鉱毒問題を取り上げる
     【第14回帝国議会は02/23金に閉会?】
  木下尚江の努力で内村鑑三や安部磯雄らのキリスト教社会主義者が演説会で鉱毒問題について論じる
  04/01佐野町の万座で田中正造、島田三郎、松村介石、蔵原惟郭らが2千人の聴衆を前に演説する
     演説会は2月13日の請願行動(川俣事件)の正当性を主張するもの
  04/06田中正造はほとんど栃木県、群馬県の被害地に滞在する
     川俣事件裁判の準備と被告家族への激励などを行なう
  04/11被害地の残党が集い佐野町の萬座で鉱毒政談大演説会をひらく
     木塚貞治、近藤貞吉、新井太一郎、新里龍三、三田善蔵、大塚麟三らが画策
     出席弁士は島田三郎、松村介石、蔵原惟郭、田中正造
     2千人が集まる
     1人2銭の傍聴料を徴収し24円50銭の剰余金を得る
  04/15『六合雑誌』第232号に元足尾銅山の一事務員某が寄書き
     【「足尾銅山の鉱毒」?】
     内情が暴露、鉱毒が粉鉱のみでないことが記される
  04/18館林町青梅天神の境内で屋外政談演説会が開かれる
     演説会の届け出は木塚貞治、準備を助けたのは三田善蔵、新里龍三、黒田鶴吉ほか2、3の青年
     弁士は島田三郎、松村介石、蔵原惟郭、田中正造、荒川高三郎、塩谷恒太郎、高橋秀臣
     3千人が集まる
     1人2銭の傍聴料を徴収し60余円を得て差し引き2円ばかりの剰余金となる
     4月11日の剰余金とあわせ在監被告らへの差し入れと被害民中の困窮者へ薩摩芋を贈る費用となる
  05/14埼玉県利島村で演説会が開かれる
     演説会は2月13日の請願行動(川俣事件)の正当性を主張するもの
  05/足尾銅山が栃木県上都賀郡松木村に対して林道新設のため敷地の借用を申し入れる
     のち松木村村民は足尾銅山の烟害被害地ゆえ全敷地を地価の10倍値の1万6千円で売ると回答する
     のち足尾銅山は高すぎると拒否
     のち被害民は9月10日に集会し田中正造に相談することを決定する
  06/15以降、川俣事件で免訴の者と付和随行で軽罪公判に付せられた者が順次、責付により釈放される
     のち重罪公判に付せられた者は保釈の請求を繰り返しても許可はされず
  06/木下尚江が『毎日新聞』に「足尾鉱毒問題」を連載する【いつから、いつまで?】
  06/18毎日新聞社が木下尚江の『足尾鑛毒問題』を発行する。定価20銭
     第壹章 足尾銅山
      第一項 除害工事は果して命令書に違背せざるや
      第二項 除害作用は果して命令書に違背せざるや
      第三項 除害作用の成績
      第四項 除害命令の評論
       一 命令書に原由する不正確の工事
       二 命令書に對する概論
       三 命令書の缺點
      第五項 鑛毒豫防の調査
     第貮章 渡良瀬河岸
      第一項 鑛毒問題史第一期
      第二項 鑛毒問題史第二期
      第三項 鑛毒問題史第三期
      第四項 鑛毒問題史第四期
     第參章 鑛毒問題の切迫
      第一項 毒川の浚渫
      第二項 砂防及び造林
      第三項 被害地問題
       一 政府の免租處分を論す
       二 示談契約の無効を論す
       三 鑛毒の責任者は誰そや
       四 被害地善後策
  07/02川俣事件の予審中も群馬県渡瀬村の早川田で被害民の集会が開かれる
     参会者6人に対して警官6人が監視
  07/04東京地方裁判所に巌本善治の女学雑誌事件公判が行なわれる。田中正造が傍聴する
     『女学雑誌』に3月25日号掲載の田中正造の「鉱毒文学」が新聞紙条例違反に問われた事件
     07/09東京地方裁判所が巌本善治の女学雑誌事件に無罪判決。検事が控訴する
  07/09前橋地方裁判所で2月13日の川俣事件の予審が終結する
     凶徒聚集罪、同不和随行罪、治安警察法違反に問われ51人が起訴相当の有罪に。前橋地方裁判所の公判に付される
     農民5人が「暴動首魁ノ所為」、雲龍寺住職1人が「暴動教唆ノ所為」、農民17人が「扇動ノ所為」の重罪で起訴
     残りの28人は軽罪で起訴。16人が不起訴となる。不起訴の者は釈放
     【23人が前橋地方裁判所の重罪公判に、28人が同裁判所の軽罪公判に付され、17人が免訴となる?】
     のち1審の前橋地裁で田中正造は被告51人のために65人の大弁護団を組織する
     今村力三郎、花井卓蔵、鵜澤總明ら日本を代表する法曹人や田中の政友なども含まれる
     弁護士らは無報酬で弁護活動にあたり、被害民救済のために尽力する
  07/11神田区の青年会館で鉱毒調査有志会の準備会が開かれる
     発起は楠本正隆(男爵、元衆議院議長)、富田鉄之助(元日銀総裁、貴族院議員)、
     田口卯吉(衆議院議員、経済学者)三宅雄二郎、江原素六、巌本善治、布川孫市、
     副島八十八、丹羽清二郎、蔵原惟郭、島田三郎、安部磯雄らが集まる
     【鉱毒調査有志会は07/11準備会? 同年07/21発足? 次年05/21結成?】
  07/15〜08/20田中正造が群馬県新田郡九合村をはじめ被害各地で鉱毒政談会を開く
  07/15群馬県新合村はじめ3か所で演説など小演説会が数限りなく行なわれる
     演説会は2月13日の請願行動(川俣事件)の正当性を主張するもの
  07/21東京神田区の青年会館で鉱毒調査有志会の発足会が開かれる【鉱毒死亡調査会?】
     楠本正隆、富田鉄之助、田口卯吉、三宅雄二郎、江原素六、巌本善治、
     布川孫市、副島八十八、丹羽清二郎、蔵原惟郭、島田三郎、安部磯雄のほか、
     谷干城、花井卓蔵、原田赴城、松田順平、小崎弘道、留岡幸助、
     大村和吉郎、西原清東、飯田宏作、山内吉郎兵衛、松村介石ら21人が参集する
     目的は「足尾鉱毒問題の真相を調査し、其救済方法を研究すること」
     【鉱毒調査有志会は同年07/11準備会? 07/21発足? 次年05/21結成?】
  08/19、20関東地方に暴風雨。渡良瀬川が増水する
  08/30足尾銅山での坑夫の虐待が新聞にて指摘される
  09/17東京控訴院に巌本善治の女学雑誌事件公判が開かれる。田中正造が傍聴する
     『女学雑誌』に3月25日号掲載の田中正造の「鉱毒文学」が新聞紙条例違反に問われた事件
  09/10〜09/15田中正造が被害地で川俣事件の裁判を準備するなどの運動をすすめる
  09/10古川市兵衛に従五位が贈られる
     【1901(明治34)年の9月10日?】
  09/中旬〜09/下旬栃木県松木村村民代表の星野嘉市、星野金次郎が敷地売却など5件で田中正造を訪ねて旅立ち
     田中とは会えず予定期日が過ぎる
     島田三郎に面会でき窮状を訴える
  09/20群馬県邑楽郡大島村で沿岸5村の集会が開かれる。田中正造が出席する
  09/25〜10/上旬藤岡で田中正造が化学者の清水謙吉と鉱毒を分析する
  10/09川俣事件の第1審公判がはじまるため田中正造は前橋へ
  10/10川俣事件の第1審第1回公判が前橋地方裁判所で開かれる
     裁判長は部長判事の磯野衡、陪席判事は宮島鈴吉と望月彦吉、補充判事は三井久次
     のち公判は月水金の各曜日に連続して開廷する
     のち判決日までに20回の公判が開かれる
     20回の公判のなかで延べ28人の弁護士が出廷する
     塩谷恒太郎(16回)、花井卓蔵(14回)、飯田宏作(12回)、荒井要太郎(11回)、
     三好退蔵、竹内平吉、高橋秀臣(9回)、小木曽義房、信岡雄四郎、戸口茂里(7回)、
     高橋庄之助、石山弥平(6回)、長島鷲太郎、高野金重、卜部喜太郎(5回)、
     太田資時、今村力三郎、丸山名政(4回)、小川平吉、中鉢美明、天野敬一(3回)、
     鳩山和夫、平岡万次郎、関直彦、牧野賎男(2回)、黒須龍太郎、斎藤二郎(1回)
     ほかに横浜の高橋四郎(4回)
     前橋の弁護士は頻繁に出廷するも、宇都宮の弁護士は出廷率が低く田中正造をいらつかせる
  10/10前橋地方裁判所に川俣事件第1回公判が開かれる。田中正造が傍聴する
     10/11田中は本町油屋に移り公判対策本部を設ける
     田中は12月中旬まで前橋の旅館に滞在し公判を傍聴
     弁護団の連絡にあたり、被害町村からの傍聴人を呼びかける
  10/18栃木県梁田村の被害民146人が連名にて「足尾銅山鉱毒事件につき陳情上申書」を前橋地方裁判所に提出する
     内容は川俣事件被告人の救済
  10/23前橋地方裁判所が被害地臨検のため前橋を出発する
     10/24早朝より5日間にわたり沿岸被害地の農作物を臨検する
     判事の磯野衡、宮島鈴吉、望月彦吉、検事の小林登志吉、書記の中島高則、
     弁護士の塩谷恒太郎、戸口茂里、高橋秀臣、石山弥平、小林茂八
     鑑定人は西谷田村で永島金七、小暮与八、長谷見弥十郎、大島村では飯塚宇十郎、須藤与惣治、
     渡瀬村では小林偵七郎、木村勇吉、多々良村では飯島岩四郎、福田栄太郎、原平次郎、
     犬伏町では佐瀬米吉、小関栄吉、界村では糸井藤次郎、茂呂平吉、永島禮【礼?】七、
     植野村では関口幸八、岡田孝吾、吾妻村では桜井与惣治、野村治平、久野村では宮沢卯之吉、橋本兵吉、
     毛野村では秋山彦八、小貫仁平
     判事、検事、書記、弁護士らは立ち会いの上、犯罪地の雲龍寺、郡役所、警察署、川俣など犯罪地をも臨検する
  10/25松木村村民と田中正造、花井卓蔵らとの面会が実現する
  10/31川俣事件第6回公判で三好弁護士は古河市兵衛と田中正造を証人に申請する。裁判所は採用せず
     ほかに榎本武揚、樺山資紀、曽根荒助、谷干城、肥塚龍、島田三郎、津田仙、
     松村介石、木下尚江、安部磯雄、三浦梧楼などをも証人に申請するが実現せず
     許されたのは大村和吉郎、古在由直、警察関係者、新聞記者2人のほか小さな問題に対する数人のみ
  10/内務省直轄の利根川改修工事がはじまる
     下流の第1期工事に着手する。佐原から河口まで、計画高水流量は13万5千立方尺/秒
     1930(昭和05)利根川改修工事が6324万円の巨費を投じていちおうの完成をみる
  11/05川俣事件の第7回公判で報道関係者2人の証人尋問が行なわれる
     『下野新聞』の特派員で東京の『中央新聞』『朝日新聞』の通信員でもある太田昇三郎、
     『下野日日新聞』の記者丸山和四郎
     太田、丸山ともに巡査は剣を抜刀はせずさやのまま振りあげて、被害民を打っていたと証言
     「被害民一名ニ対シテ八、九人ノ巡査ガ打ツナグル、田ノ中ヘ突ツ込ムト、
     又一名ノ被害民ニ対シテ七、八名ノ巡査ガ掛ツテ打倒シテ暴行ヲ為シ」
     被害民は「警察官ノ制止ニ反抗シテ進マントスル様ノ勇気ハナク、
     引返サントシテモ、大勢故返レヌ、其処デ田や畑ヲ抜ケテ逃ゲントシテ居マシタ」
     巡査は「被害民ヲ追ヒ駈ケテ被害民ヲ捕ヘテハ剣デ打チ、又ハ剣デ以テ突キ、
     土ヲ投ケ付ケル、倒レル、縛ルト云フ有様デアリマシタ」
     第三者の目撃証言として真相に近い可能性も
  11/07大村和吉郎が川俣事件裁判の証人尋問を受ける
     大村は静岡県選出で無所属の衆議院議員、1897(明治30)3月に陸軍中将の三浦梧楼と被害地を視察
     農学の知識はないものの自身で鍬を手に農業をした経験をもつ
  11/09農学博士の古在由直が川俣事件裁判の証人尋問を受ける
  11/09・以降川俣事件の裁判で警察関係者の証人が呼ばれる
     今鉄平、石原勝之進、柳信三郎、庄司源五郎、憲兵少尉の菊池伝三ら
  11/09川俣事件第9回公判で新聞記者の太田昇三郎が証言する【11/05の間違え?】
  11/26川俣事件の第14回公判で被告人と証人の尋問、その他証拠調べが終了する
  11/28川俣事件の第15回公判で立会検事小林登志吉により有罪は立証されたとする論告弁論が行なわれる
  11/28川俣事件の第15回公判から弁護士36人による弁論が行なわれる
     花井卓蔵、卜部喜太郎、荒井要太郎、長島鷲太郎、山田武、小川平吉、竹内平吉、池田光之成烝、戸口茂里、
     高橋秀臣、中村勘蔵、大島染之助、木村嘉吉、林民五郎、伊藤昌春、小林茂八、石山弥平、関口吾一郎、
     太田資時、鳩山和夫、黒羽源治、高橋庄之助、桜井熊太郎、牧野賎男、三好退蔵、徳江亥之助、塩谷恒太郎、
     天野敬一、飯田宏作、中村英嘉、高野金重、上内恒三郎、大野成之、角田真平、岡馨三、中鉢美明
  11/28前橋地方裁判所での川俣事件第1審第15回公判で、立会検事小林登志吉の論告弁論中に60才の田中正造が欠伸
     先行して大きな咳払いがあり、続けて両手をあげて大仰に法廷全体に聞こえるような大欠伸をする
     さらに田中は正午の休憩中、弁護士控え室入口から外方にむかい「検事の馬鹿野郎」と大声を発する
     法廷内と法廷外の2つの事実が官吏侮辱罪に。欠伸事件(第1の官吏侮辱事件・始)
     のち欠伸事件の被告人田中正造が在宅のまま亀山要検事の取り調べを受ける
  11/29川俣事件の公判で花井卓蔵弁護士が弁論を行なう
  11/矯風会の矢島楫子、潮田千勢子、松本英子らが田中正造の案内で現地調査におもむく
  12/03川俣事件の公判で花井卓蔵弁護士が2回目の弁論を行なう
     のち鳩山和夫、三好退蔵、塩谷恒太郎ら弁護士が弁論を行なう
  12/07川俣事件の第1審第20回公判で11月28日からはじまった弁護人の弁論が終わる。結審となる
  12/07前橋地方裁判所で田中正造欠伸事件の予審がはじまる
     12/20予審が終結。前橋地方裁判所の軽罪公判に付されることに
     のち欠伸事件の公判は田中が帝国議会の開会中を理由に延期される
  12/19東京控訴院での巌本善治の女学雑誌事件の公判に田中正造が証人として出廷する
     『女学雑誌』に3月25日号掲載の田中正造の「鉱毒文学」が新聞紙条例違反に問われた事件
     12/24東京控訴院が検事の控訴を棄却、無罪が確定する
  12/19栃木県会議長の木村半兵衛が溝部惟幾県知事に対して「足尾町煙毒救済の儀に付意見書」を提出する
     上都賀郡足尾町大字松木の住民の救済をめぐる建議
  12/22前橋地方裁判所で川俣事件第1審の判決が3人の正判事により判決が宣告される
     被告人は原田英三郎を除く全員が出頭する
     治安警察法で禁固2か月の有罪が2人、官吏抗拒罪で罰金と4か月から2年の禁固が27人、無罪21人
     被告の1人は公判途中で死去。兇徒聚集罪は認められずにすむ
     【被告51人中、有罪29人(治安警察法違反2人、官吏抗拒26人、官吏侮辱1人)、無罪22人?】
     【治安警察法違反6人を含む有罪29人、無罪22人の判決?】
     ▽現場逮捕された15人
     永島与八(28・群馬県邑楽郡西谷田村)、島田団蔵(42・群馬県邑楽郡西谷田村)、
     大森留吉(29・群馬県邑楽郡西谷田村)、茂呂宗次郎(41・栃木県安蘇郡界村)、
     谷熊次郎(20・栃木県安蘇郡植野村)、関口多吉(40・群馬県邑楽郡西谷田村)、
     大朏善平(26・栃木県安蘇郡植野村)、小山藤八(22・群馬県邑楽郡大島村)、
     黒田茂吉(49・栃木県安蘇郡界村)、野村千代蔵(26・栃木県足利郡吾妻村)、
     中田善次郎(48・群馬県邑楽郡西谷田村)、小泉忠三郎(25・栃木県足利郡久野村)、
     福地彦蔵(24・栃木県安蘇郡界村)、田名網忠助(28・栃木県安蘇郡植野村)、
     堀口源吉(41・群馬県邑楽郡西谷田村)
     ▽事件後の順次、逮捕者
     野口春蔵(41・栃木県安蘇郡界村)、庭田恒吉(33・栃木県足利郡吾妻村)、
     庭田駒吉(33・栃木県足利郡吾妻村)、設楽常八(54・栃木県足利郡久野村)、
     ×稲村与市(49・栃木県足利郡久野村)、室田忠七(31・栃木県足利郡久野村)、
     荒井嘉衛(22・群馬県邑楽郡西谷田村)、×大出喜平(37・群馬県邑楽郡大島村)、
     ×山本栄四郎(31・群馬県邑楽郡大島村)、青木金次郎(27・群馬県邑楽郡大島村)、
     磯幸次郎(51・群馬県邑楽郡大島村)、小林偵七郎(71・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
     黒崎禅翁(31・群馬県邑楽郡渡瀬村)、亀井朋次(24・群馬県邑楽郡多々良村)、
     福田和寿蔵(44・群馬県邑楽郡多々良村)、永沼政吉(25・群馬県邑楽郡多々良村)、
     左部彦次郎(34・群馬県利根郡池田村)、松本盛三郎(22・愛媛県温泉郡雄群村)、
     茂呂近助(49・栃木県下都賀郡谷中村)、山崎●【金偏に圭】次郎(41・栃木県安蘇郡犬伏町)、
     ×谷津富三郎(48・群馬県邑楽郡渡瀬村)、稲村忠蔵(52・栃木県足利郡久野村)、
     福地小一郎(37・栃木県安蘇郡植田村)、井田兵吉(34・埼玉県北埼玉郡川辺村)、
     家富元吉(57・群馬県邑楽郡渡瀬村)、原金次郎(54・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
     小林善吉(39・群馬県邑楽郡渡瀬村)、麥倉亀太郎(30・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
     原福太郎(41・群馬県邑楽郡多々良村)、井汲幸蔵(44・群馬県邑楽郡多々良村)、
     川島元次郎(44・群馬県邑楽郡多々良村)、越沢丑次郎(44・群馬県邑楽郡郷谷村)、
     原弥太郎(47・群馬県邑楽郡渡瀬村)、栗原宰次郎(47・栃木県安蘇郡植野村)、
     岩崎佐十(36・栃木県足利郡毛野村)、川島民八(23・群馬県邑楽郡渡瀬村)、
     漆原慶治(26・栃木県足利郡久野村)、小野熊次郎(36・栃木県安蘇郡植野村)、
     落合美之作(32・栃木県安蘇郡植野村)、小野政吉(56・栃木県安蘇郡植野村)、
     原田英三郎(21・栃木県足利郡足利町、控訴審第1回公判の当日に死去)、
     戸井亀吉(50・群馬県邑楽郡海老瀬村)、関口三郎次(46・栃木県下都賀郡赤麻村)、
     横塚治三久(23・栃木県足利郡吾妻村)、小曽根信吉(31・栃木県安蘇郡犬伏町)、
     小野寅吉(55・栃木県安蘇郡植野村)、堀越清九郎(43・群馬県邑楽郡多々良村)、
     落合貞次郎(32・群馬県邑楽郡渡瀬村)、相田貞吉(45・群馬県邑楽郡大島村)、
     小山孝八郎(52・群馬県邑楽郡大島村)、北山清次郎(46・群馬県邑楽郡西谷田村)、
     持斎茂吉(49・栃木県足利郡久野村)、野中源蔵(56・群馬県邑楽郡西谷田村)
     【記号は12月22日の第1審判決】
     =官吏抗拒、治警法重禁2年、罰金20円 =官吏抗拒、治警法重禁1年、罰金10円
     ×=官吏抗拒、重禁1年、罰金10円 =官吏抗拒、治警法重禁4月、罰金4円
     =官吏抗拒、重禁4月、罰金4円 =凶徒無罪、治警法軽禁2月
     =凶徒無罪、官吏侮辱、重禁1月、罰金5円 =無罪 =予審で免訴
     [1審判決]=官吏抗拒、治警法重禁2年、罰金20円
     =官吏抗拒、治警法重禁1年、罰金10円 ×=官吏抗拒、重禁1年、罰金10円
     =官吏抗拒、治警法重禁4月、罰金4円 =官吏抗拒、重禁4月、罰金4円
     =凶徒無罪、治警法軽禁2月 =凶徒無罪、官吏侮辱、重禁1月、罰金5円
     =無罪 =予審で免訴
     のち☆判決に対し検察側は控訴。被告側も無罪者を含め50人全員が控訴
  12/末鉱毒地視察が行なわれ1100余人もの学生が参加する【1901(明治34)の間違い?】
  足尾の松木村民足尾銅山鉱毒被害救済会の示唆で人命救助嘆願書を作成
     内閣、各大臣、島田三郎、田中正造、栃木県会などを歴訪する
     栃木県会がこれを受けて松木の実態調査を行なう。この先、免租申請をだすも却下される
     【足尾銅山鉱毒被害救済会は1897(明治30)にも活動? 設置は1901(明治34)?】
  足尾銅山鉱毒被害救済会松木地内の水桶取払訴訟をおこす。棄却される
     次に松木村民の願いを入れて損害賠償金(他地区へ移転のための費用を含め)を銅山に請求する仲介を開始
     【足尾銅山鉱毒被害救済会は1897(明治30)にも活動? 設置は1901(明治34)?】
  足尾銅山鉱毒被害救済会松木村民の願いを入れて損害賠償金を銅山に請求する仲介を開始
     損害賠償金には他地区へ移転のための費用も含まれる
     【足尾銅山鉱毒被害救済会は1897(明治30)にも活動? 設置は1901(明治34)?】
  谷中村下宮地区で養蚕の生産量が急増する
  東京鉱山監督署長の南挺三が官吏を辞し古河鉱業事務所に入社する。完全な天下り
     南は3年前の鉱毒予防工事を監督し、工事完了まもなくの入社
     1903(明治36)南が足尾鉱業所所長に就任する

1900(明治33)頃

  谷中村周辺にて飼養戸数と繭の生産高、出荷高が急増する
     生糸は重要な貿易品で国策として奨励され下宮、生井地域では蚕種の製造、販売を行なう
     養蚕は谷中村をはじめ周辺の村々の確実な収入源に

1901(明治34) 直訴 61

  《総理大臣》[第10代](第4次)伊藤博文(→05/10・単独辞任)
  《総理大臣》[第4次伊藤内閣]西園寺公望枢密院議長が臨時兼任(05/10→06/02)、[第11代]桂太郎(06/02→)
  《内務大臣》[第19代]末松謙澄、[第20代]内海忠勝(06/02→)
  《警視総監》[第13代]安楽兼道、[第14代]大浦兼武/再任(06/02→)
  《農商務大臣》[第17代]林有造(→06/02)、[第18代]平田東助(06/02→)
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦
  《帝国議会》[第15回通常会](→03/24)、[第16回通常会](12/10→)
  《栃木県知事》[第10代]溝部惟幾
  《群馬県知事》[第9代]小倉信近(→04/02)、[第10代]関清英(04/02→)
  《埼玉県知事》[第11代]山田春三


  01/20過ぎ、川俣事件の裁判に先立ち収監されていた22人が東京に移される
     【02/22に田中正造が上京を呼びかける?】
  01/26栃木県松木村村民が「足尾銅山の亜硫酸ガスのため生命の危険あり」と全村あげて他地への移住を企図する
     「人命救助請願」を行なう
  01/製錬所上流の栃木県足尾町字松木(旧松木村)の鉱毒被害民が「煙害救助請願書」を衆議院議長の片岡健吉に提出する
     のち解決されないまま同年暮れには廃村することに
  01/28栃木県梁田村被害民236人が農商務大臣と貴族院議長、衆議院議長あてに銅鉱製錬所禁止の請願書を提出する
     1897(明治30)の鉱毒予防工事の無効性を訴えたもので松木村の亜硫酸ガスの被害も指摘する
  01/田中正造が今回限りで衆議院議員の辞職を決意する
  01/〜03/田中正造が第15回帝国議会で足尾鉱毒に関して15の質問書を提出、2回の質問演説をする
  02/07第15回帝国議会で】大村和吉郎ほか3人が「足尾銅山鉱毒調査会設置に関する質問書」を提出する
     第14回帝国議会で足尾銅山鉱毒調査会を組織し実地被害を調べ救済法の設置を建議。政府の対応がないことをただす
  02/22川俣事件の被告野口春蔵ら2人が保釈となる
     のち2月28日までに川俣事件の被告全員が保釈、出獄する
     【3月1日頃までに全員が保釈?】
     【02/22〜03/03に主な被告人が保釈される?】
     【02/223月1日までの間に全員釈放される?】
     田中正造はすぐに出獄者に上京を呼びかける【01/20に過ぎ東京に移される?】
  02/26〜03/09頃田中正造が本郷区の順天堂病院に入院する
  03/14田中正造が第15回帝国議会で質問書を提出する【島田三郎ほか5人が提出する?】
     「足尾銅山鉱毒の件に関し院議を空しくせし処置に対する質問書」
     2月7日の質問へ追いかけての質問をする
  03/15島田三郎が第15回帝国議会での質問書中、明治32年12月調査で沿岸6郡2町12村の5か年統計が明らかになる
     人口1万8473人中、出生2191人、死亡3255人、死亡増加1064人
     【14に提出した質問の内容?日付違い?】
  03/16田中正造が第15回帝国議会で「憲法無視に関する質問書」など2件の質問書を提出する
  03/18第15回帝国議会で政府が2月7日、3月14日の質問へ答弁書を提出する
     「現在調査中であり、また調査委員会を設ける必要は認めず」
  03/19田中正造が第15回帝国議会で「鉱毒につき無責任の答弁に対する質問書」など7件の質問書を提出する
  03/22田中正造が第15回帝国議会で2件の質問書を提出、説明演説する
     「無実の悪名を負わする儀につき質問書」
     「大村島田両代議士への答弁要領を得ざる儀に付質問」を提出、長い演説を行なう
     03/23政府が「質問と認めず、故に答弁せず」との答弁書を提出する
  03/23田中正造が第15回帝国議会で2件の質問書を提出、説明演説する
     「亡国に至るを知らざる儀につき再質問書」など
  03/24田中正造が第15回帝国議会で質問書を提出、質問の理由に関して演説を要求【される?】
     「鉱毒を以て多大の国土及び人民を害し兵役壮丁を減損せし古河市兵衛を遇するに位階を以てせし儀につき質問書」
  03/24第15回帝国議会の議会最終日、田中正造が議員最後の演説を行なう
  03/青年同志鉱毒調査会が松本隆海の編集で『足尾鉱毒惨状画報』を刊行する
     農学者津田仙の写真が収録される
  04/01〜23『毎日新聞』が「足尾銅山鉱毒事件」を連載する【05/01〜23?】
     04/13第13回「鉱毒事件の真相」で、足尾の鉱毒問題を政府の怠慢、社会の腐敗が醸し出したものと考える【05/13月?】
  04/03神田区の基督教青年会館で公徳養成風俗改良演説会が開かれる
     田中正造が「誠を推す」と題して演説する
  04/21栃木県足利の友愛義団が内村鑑三、木下尚江、巌本善治を招き講演会を催す
  04/22内村鑑三が初めて鉱毒地を訪れる
     木下尚江も同行する
  04/25〜04/30内村鑑三が『万朝報』に「鉱毒地巡遊記」を書く
     内村は鉱毒の原因は天災ではなく、経営者古河市兵衛が起こした人災と断じる
     また鉱毒問題がいち地方の問題でなく国家問題で人類の問題と訴える
     【鉱毒調査有志会の被害地視察調査を終えて以降に発表?】
  04/26東京鉱山監督署長が第4回予防命令を古河市兵衛に発する
  05/21東京神田区美土代町の基督教青年会館で足尾鉱毒問題に関する有志の会合が開かれる。田中正造が演説する
     「鉱毒調査有志会」を結成する【鉱毒死亡調査会?】
     三好退蔵、富田鉄之助、田口卯吉3人の発起により「鉱毒のため死者の有無調査」を目的に51人が集まる
     三宅雪嶺、陸羯南、徳富蘇峰、秋山定輔、黒岩周六ら有力新聞社主、記者
     島田三郎、高田早苗、谷干城、三浦梧楼ら貴族院、衆議院議員
     内村鑑三、松村介石らキリスト者
     潮田千勢子、三輪田真佐子、矢島楫子、山脇房子ら日本基督教婦人矯風会幹部
     島地黙雷、田中弘之ら仏教徒など幅広く集結する
     足尾鉱毒被害地の死亡者調査実施の旨を決定する
     決定に基づき内村鑑三ら4人の委員が7月、9月、10月に被害現地を調査する
     【5月21日は足尾鉱毒問題につき「同情者」の会が開かれる。のち、鉱毒調査有志会が結成する?】
     【鉱毒調査有志会は前年07/11準備会? 前年07/21発足? 05/21結成?】
  鉱毒調査有志会結成まもなく有志会の内村鑑三らが10日余にわたり被害地を調査
     【被害地の視察調査は06/20〜06/28?】
  05/24田中正造の欠伸事件第1審公判が前橋地方裁判所で開かれる
     裁判長は西川荘六、陪席判事は秋山愛造と西郷陽、立会検事は馬場義輔と山口長信
     弁護士は今村力三郎、戸口茂里、竹内平吉、高野金重、信岡雄四郎、牧野賎男、新井要太郎、塩谷恒太郎が出廷
     05/29第1審判決が言い渡され無罪となる
     06/03検事は無罪判決に対して控訴する
     のち川俣事件の控訴審審理、現地検証、鑑定、大部分の無罪、田中の衆議院議員の辞任、直訴とめまぐるしく続く
  06/08『毎日新聞』の主筆石川安次郎(半山)が自宅で田中正造と面談する
     石川は「今は唯一策あるのみ」と直訴策を授ける
     のち石川はもと『中央新聞』の同僚で朝報社の幸徳伝次郎を直訴文の執筆者として勧める
     12/09幸徳が足尾鉱毒事件についての直訴文を起草
     3人の謀議で大事件が起きることに
  06/20〜06/28鉱毒調査有志会の委員、内村鑑三らが栃木県、群馬県、埼玉県の被害地を視察調査する
     【鉱毒調査有志会結成まもなく? 06/21〜?】
     現地では田中正造が案内役をはたす
  07/10『風俗画報』234号が「足尾銅山圖會」を特集した臨時増刊号となる
     「明治21年の〈日本鉱業会誌・第38号〉には、帝大助教授の的場中が、
     〈足尾の町の谷間には白色の煙霧が充満し、目に触れるものは皆赤黒い塵埃を帯び、
     谷底を流れる汚水は、鉱石の粉末と丹ばん液で、坑内にもこの液体が流れている。
     屋根の亜鉛鉄板も坑内の線路もいずれ腐食するに違いない〉と報告していた。
     しかし、記者が実際に見た所では、今は硫酸の臭いも塵埃も汚水も一つも見当たらない。
     すなわち、予防工事によってこれらが蕩尽したことがわかる」【実際は改行なし】
     栃木県松木村の煙害についての記述もあり
     「足尾銅山名所絵葉書」20枚1組を発売
  07/13足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所(東京鉱業停止事務所)が芝区芝口2丁目の越中屋に移転する
     芝区3丁目の信濃屋、宮下金次郎方から
  07/14〜09/02田中正造が被害地に運動をする
  08/04川俣事件の被告人のひとり原田英三郎が死去【09/20?】
  08/頃田中正造がキリスト教思想者の新井奥邃に出会う【09/頃?】
  09/10古河市兵衛が従五位に叙せられる
     【1900(明治33)年の9月10日?】
  09/20川俣事件の第2審(控訴審)の第1回公判が東京控訴院で開かれる
     裁判長は磯谷幸次郎、陪席判事は山本錚之助、普賢寺轍吉【徹吉?】、柳川勝二、林金次郎。ほか補充判事に安田繁太郎
     立会検事は平沼騏一郎と平山銓太郎。弁護人は第1審とほぼ同じ
     田中正造が傍聴する
     平山検事が事実関係について、平沼検事が法律関係について控訴の趣旨を述べる
     ついで野口春蔵から被告人尋問に入る
     弁護団が被害地の臨検を申請する
     09/22野口の被告人尋問が続き、稲村与市、大出喜平の尋問が行なわれる
     09/25左部彦次郎の尋問がはじまる
     のち9月27日、10月2日、4日と山本栄四郎、永島与八、庭田恒吉など主な尋問が終わる
     のち現地検証が行なわれる
  09/25雑誌『警世第22号』に田中正造が「足尾鉱毒問題」を発表する
  09/『毎日新聞』が女性記者の松本英子を被害現地に派遣する【10/?】
     11/22ルポルタージュ「鉱毒地の惨状」の連載がはじまり人の目を引きつける
  松木村の煙害問題で田中正造が会長を務める足尾鉱毒被害救済会が仲介に入る
     救済会の指示で松木村住民の代表が弁護士に会う
     衆議院議員の花井卓蔵、関直彦、貴族院議員の三好退蔵、
     ほかにも飯田宏作、塩谷恒太郎、戸口茂里や宇都宮の関口五一郎ら
  古河は松木村の売買代金を3万円といい、村住民は7万5千円という
     古河が松木村を村ごと買うとするも折り合いがつかず
  10/足尾銅山と松木村民の間に土地売買金が授受される。村民が鉱毒救済会へ感謝状【足尾鉱毒被害救済会?】
     のちほとんど全員が他地へ移転し松木は廃墟となる
  10/02朝報社の堺利彦が『萬朝報』川俣事件の「公判所感」を記す
     足尾銅山の鉱毒被害民による第4回大挙押出し「川俣事件」控訴審公判の傍聴記録
  10/05田中正造の妻カツが群馬県邑楽郡海老瀬村字間田耕地にある染宮又市方の蚕室を借りる
     鉱毒地救済運動に従事する
     【1902(明治35)7月頃まで?】
  10/06〜10/13川俣事件の東京控訴院公判で裁判官が鑑定人を同行
     6日間にわたり鉱毒被害地の現地検証(臨検)を行なう
     鉱毒被害の状態、程度が被告人の主張する通りか否かを証拠決定するため
     【10/05〜10/13? 10/06〜10/13?】
     東京控訴院判事、弁護士など50余人を被告人50余人が案内する
     被告と有志総代を案内人に裁判長、陪席判事、検事、立会弁護人、鑑定人とが参加
     東京控訴院刑事第4部裁判長 磯谷幸次郎、陪席判事 山本錚之助、普賢寺徹吉【轍吉?】、柳川勝二、林金次郎、
     補助判事 安田繁太郎、検事 平山銓太郎、書記 小坂善三、
     鑑定資料を採集するために選任された鑑定人が第5日まで裁判官の検証に随行する
      農科大学教授農学博士 横井時敬(収穫)、
      農科大学教授農学士 長岡宗好(土壌)、
      農科大学教授農学士 豊永真里(植物)
     助手 横田正之助、鈴木重助
     第1 渡良瀬川沿岸被害地中被害居村の臨検及び其収穫高の鑑定、土壌の分析、土質と作物との関係の鑑定
     第2 本件犯罪地即ち雲龍寺より館林、川俣地方の臨検
     臨検立会弁護士 三好退蔵、飯田宏作、塩谷恒太郎、竹内平吉、太田資時、丸山名政、今村力三郎、紀志嘉実、
     高橋四郎、松井親民、卜部喜太郎、木村嘉吉、高橋秀臣、戸口茂里、新井要太郎、高木政勝、牧野充安、
     伊東昌春、信岡雄四郎、黒羽源治、小林茂八、桜井熊太郎
     同行した在京新聞記者 毎日新聞の大庭善治、日本新聞の寒川光陽、時事新報の木内端、
     東京朝日新聞の溝淵正気、萬朝報の堺利彦、二六新報の川島正次郎【清次郎?】、
     報知新聞の矢野政二、日の出新聞の柳内義之進ら新聞記者が同行【日ノ出国新聞】
     田中正造はもちろん、鉱毒調査有志会の巌本善治、田中弘之らも同道
     裁判官らは威厳を保つため山高帽、外套、脚半、草鞋の姿
     新聞記者らは桧笠に筵をつける農民姿
     地獄の体ともいうべき凄惨な被害地を目の当たりに衝撃を受ける
     臨検日程(予定)
      第1日 東京出発、佐野着
      第2日 佐野発、犬伏、界を経て佐野帰着(案内者、山崎●【金圭】次郎、野口春蔵)
      第3日 佐野発、植野、吾妻、毛野を経て佐野帰着(案内者、栗原宰次郎、庭田恒吉、岩崎佐十)
      第4日 佐野発、久野、多々良、渡瀬を経て佐野帰着(案内者、稲村与市、亀井朋治、小林善吉)
      第5日 佐野発、大島、西谷田を経て佐野帰着(案内者、大出喜平、永島与八)
       5日目まで総案内者は左部彦次郎
      第6日 佐野発、雲龍寺、館林、川俣を経て東京帰着
     検証結果はそれぞれその現場現場で調書に作成される
     のち8社8人の記者がそれまでの公判報道から鉱毒事件報道に転換する
     のち新聞報道により鉱毒被害の世論が高まる
  10/06東京控訴院刑事第4部裁判長で判事の磯谷幸次郎らが各村の鑑定に指定した田畑宅地山林池沼などを検証する
     磯谷ほか判事の山本錚之助、普賢寺轍吉【徹吉?】、柳川勝二、林金次郎、補充判事の安田繁太郎、
     検事の平山銓太郎、裁判所書記の小坂善三
     農科大学教授で農学博士の横井時敬、農科大学教授で農学士の長岡宗好、農科大学教授で農学士なの豊永眞理
     立会弁護人は卜部喜太郎、信岡雄四郎、高木政勝、桜井熊太郎、
     今村力三郎、竹内平吉、伊藤昌春、丸山名政、高橋秀臣ら
     初日は雨
     ▽まず栃木県安蘇郡犬伏町大字鎧塚と大字西浦から着手する
     指定地は免租2年より8年までの被害地
     検証には町長の川島仁左衛門が立ち会い、案内人は山崎●【金圭】次郎
     ▽次に安蘇郡界村大字越名で検証
     検証を終えると夕景となり終了
     この日の検証は午前9時10分に着手し午後5時40分に至る
  10/07判事、検事、書記、弁護人立ち会いのもと検証が行なわれる
     立会弁護人は6日参加のほか高橋四郎、木村嘉吉、岸嘉実、塩谷恒太郎ら
     雨▽栃木県安蘇郡界村大字高山にて検証を行なう
     指定地は越名、高山とも免租2年より10年までの被害地
     検証には村長の糸井藤次郎が立ち会い、案内人は野口春蔵
     ▽次に栃木県安蘇郡植野村大字舟津川に行なう
     指定地は免租4年より10年までの被害地
     検証には助役の齋藤貞吉が立ち会い、案内人は栗原宰次郎
     ▽次に足利郡吾妻村大字下羽田に行なう
     指定地は免租8年より15年までの被害地
     検証には村長の島田保三郎が立ち会い、案内人は庭田恒吉
     この日の検証は午前8時30分半に着手し、午後4時15分に至る
  10/08雨。立会弁護人は塩谷らのほか飯田宏作、戸口茂里、新井要太郎ら
     ▽栃木県足利郡毛野村大字川崎に行なう
     指定地は免租2年より10年までの被害地
     検証には村長の長純一郎が立ち会い、案内人は岩崎佐十
     ▽次に足利郡久野村大字久保田と大字野田に行なう
     指定地は免租2年より10年までの被害地
     検証には村長の稲村忠蔵が立ち会い、案内人は稲村与市
     この日の検証は午前10時30分に着手し、午後4時に終わる
     10/09休止
  10/09弁護士で衆議院議員の関直彦が松木村を視察した上で斡旋、4万円で示談が成立する
     12/足尾銅山側と交渉が行われ残留村民24戸25人全員が全村を銅山側に4万円で売却【40戸?】
     松木村では移転費として25人に500円ずつを分配
     残りは宅地坪17銭3厘、畑坪13銭、雑地坪3銭、家屋坪13円の割合で分配する
     1年以内に移転することで合意が成立する
     足尾鉱毒被害救済会が仲介をしたのは、事実上、松木村の荒廃が鉱毒被害であると銅山側が認めたため
  10/10晴天。立会弁護人は今村、塩谷、飯田らのほか三好退蔵、松井親民、牧野充安ら
     ▽群馬県邑楽郡多々良村大字日向と大字木戸に行なう
     指定地は免租2年より8年までの被害地
     検証には村長の熊倉評三郎が立ち会い、案内人は亀井朋治
     ▽次に邑楽郡渡瀬村大字上早川田に行なう
     指定地は免租4年より10年までの被害地
     検証には助役の鴇崎藤三郎が立ち会い、案内人は小林善吉
     この日の検証は午前9時30分に着手し午後5時5分に終わる
  10/11晴天。立会弁護人は新手はなく今村、塩谷、新井、飯田、松井、高橋秀臣ら
     ▽群馬県邑楽郡渡瀬村大字下早川田に行なう。前日と同様の検証
     ▽次に邑楽郡大島村に行なう
     指定地は免租4年より15年までの被害地
     検証には村長の飯塚宇十郎が立ち会い、案内人は大出喜平
     ▽終わりに邑楽郡西谷田村大字西岡新田と大字除川に行なう
     指定地は免租2年より15年までの被害地
     検証には村長の荒井嘉平が立ち会い、案内人は永島与八
     この日の検証は午前9時に着手し午後7時50分に終わる
     被害地の検証はこの日を以て終了する
  10/12晴天。立会弁護人は塩谷、新井、高橋秀臣ら
     ▽犯罪地の検証する
     群馬県邑楽郡渡瀬村大字下早川田の雲龍寺、邑楽郡館林町所在の郡役所と警察署、
     邑楽郡佐貫村大字川俣などをめぐり立ち会い検証を行なう
     検事の平山銓太郎、裁判所書記の小坂善三
     被告人の左部彦次郎、野口春蔵、永島与八、山崎●【金圭】次郎、大出喜平、堀口源吉
     弁護人の塩谷恒太郎、新井要太郎、高橋秀臣
  10/16〜25川俣事件の第2審(控訴審)の6回にわたり残りの被告人尋問が行なわれる
     被告たちは積極的に被害の実情を訴え自らの正当性を主張し法廷闘争を展開する
     裁判が東京に移り事件が東京のマスコミに注目されることになる
  10/16大蔵省●●局局長若槻礼次郎が忍税務署長の案内で利島村、川辺村を視察する
  10/23田中正造が任期満了を待たないで正式に衆議院議員を辞職する
     初当選は1890(明治23)7月1日、以来6期11年にわたり務めたことに
  10/26、27田中正造が弁護士の小川平吉らを海老瀬村に案内する
  10/29栃木県松木村の村民25人が新移住地の買受代金など4万円で土地売却契約を古河との間に締結する
  10/翌35年にかけて鉱毒地の視察、救済旅行が盛んに行なわれる
  秋/鉱毒予防工事の効果があらわれはじめ、新聞も農地がかなり回復していると報道する
     『東京朝日新聞』の10月6日、『万朝報』の10月12日の記事、
     10月の川俣事件の2審に提出された『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』など
     なかには報道について一部地域のみの情報を元にしたものという指摘も
  11/01午後5時、神田区の青年会館で社会問題足尾鉱毒演説会が開かれる
     【足尾鉱毒演説会?】
     鉱毒調査有志会の名で、主唱は毎日新聞社【主催は鉱毒有志調査会?】
     司会は矢島楫子、弁士は潮田千勢子、巌本善治、安部磯雄、木下尚江、三輪田真佐子、島田三郎、田村直臣、内村鑑三ら
     当時としては巨額の100円以上の義援金が集まる
  11/03毎日新聞社が鉱毒演説会を開く
  11/05石川安次郎が立教中学校校長の元田作之進を訪ねる
     演説を協議する
  11/頃田中正造が『鉱毒被害地見分旅行案内記』を作成する
  11/08田中正造が島田三郎、高野孟矩、相馬愛蔵らを海老瀬村に案内する
  11/14田中正造の衆議院議員辞職に伴う補欠選挙に蓼沼丈吉が当選する
  11/16、17島田三郎が11月1日の演説会に感動した日本基督教婦人矯風会の有志婦人数人を引率
     鉱毒被害地を視察する
     田中正造が被害激甚地の栃木県谷中村と群馬県海老瀬村を案内する
     同行者は矢島楫子、潮田千勢子のほか男爵夫人朽木よし子、島田三郎夫人信子、毎日新聞記者の松本英子ら
     夜は海老瀬村の松本英一宅に泊まる
     土地の荒廃、人民の窮苦は到底筆舌の尽くし得られない惨状を目の当たりにしたメンバーは救済の必要を知る
     のち帰途、汽車中、鉱毒地救済婦人会を設立すべしとの議が起こる。組織化を協議
     のち三輪田真佐子、山脇房子を加えて「鉱毒地救済婦人会」を組織する
  11/20鉱毒調査有志会『足尾銅山鉱毒地調査報告書 第1回』をまとめ刊行する
     【「足尾銅山鉱毒調査報告第1回」?】
  11/22川俣事件の控訴審で現地検証(臨検)に随行した3人の鑑定人がそれぞれの事項の成績をまとめる
     鑑定書は東京控訴院刑事第4部裁判長判事の磯谷幸次郎あてに提出される
     横井時敬の収穫に関する「坪苅鑑定書」は被害地に労力を加えても地力を回復することはできない、とする
     長岡宗好の土壌に関する「土壌鑑定書」は被害地の多くは土壌中の銅分が沃野を痩地にした、とする
     豊永真里の植物に関する「植物鑑定書」は被害地での収穫が少なくなったのは毒土含有する銅分の害にあり、とする
     3人の鑑定は一致し、事実上、被害は足尾銅山の鉱毒の影響によるものと証明される
  11/22『毎日新聞』の記者松本英子(35)がみどり子の筆名で「鉱毒地の惨状」の連載をはじめる
     のち翌年3月21日まで58回にわたる連載される
     足尾鉱毒被害地を訪問した「救済婦人会」の婦人の筆とし、被害民と被害地の疲弊した実情を絵入りで詳細に描写する
  11/22、23『万朝報』の社長黒岩涙香、記者の幸徳秋水らが海老瀬村を視察。田中正造が案内する
     海老瀬村の松本英一宅に立ち寄る
  11/鉱毒調査有志会の第1回調査報告が内村鑑三、巌本善治、田中弘之、高木政勝らの連名で提出される
  栃木県安蘇郡の医会長清水武文ほか安蘇の郡医師42人が連署して貴族院、衆議院あて請願書を提出する
     【清水外安蘇郡医士41人が署名捺印?】
  11/29婦人矯風会の有志発起人婦人が神田区美土代町の青年会館で救済演説会を開く
     【窮民救済演説会? 窮民救助演説会?】
     【あわせて鉱毒地救済婦人会を発会←まだ正式ではない。正式には12月6日?】
     【演説会が鉱毒地救済婦人会の発会式となる?】
     鉱毒地救済婦人会の趣意と会則が発表される
     司会は矢島楫子
     弁士は巌本善治、潮田千勢子、矢島楫子、安部磯雄、木下尚江、三輪田真佐子、島田三郎
     【潮田、矢島、山脇房子、巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎らが演説する?】
     鉱毒地救済婦人会の発起人は会長の潮田千勢子のほか朽木よし子、山脇房子、矢島楫子、
     松本英子(毎日新聞記者)、木脇その子、木下操子、三輪田真佐子、島田信子(島田三郎婦人)
     帝大生の河上肇が傍聴。感激して着ているオーバーや羽織りを脱いで寄付する【12/20?】
     義援金の募集や被害地病人の上京治療、貧困少女の教育など被害民救済運動を推し進める
     聴衆の圧倒的な支持を得て100円の義援金を得る
  11/29古河市兵衛の妻ため子の指示で女中が鉱毒地救済婦人会の演説会を傍聴【妻タメ?】
     ため子は女中から詳細を聞く
     11/30朝、午前9時5分、東京の神田橋下で電信地下線の工事をする工夫が婦人の水死体を発見する
     死体が古河の妻ため子と確認される
     投身自殺といわれる
  11/29川俣事件の控訴審で現地検証(臨検)を行なった鑑定人横井時敬に対する証人尋問が行なわれる
  11/29内村鑑三が桐生教会訪問の帰途、佐野駅で下車、被害地に立ち寄る
  11/30河上肇が下宿にある、着ている服以外の衣類すべてを匿名で車夫に持たせ鉱毒地救済婦人会に届けさせる
     【河上が初めて演説会を傍聴したのは11/29と12/20あり、後者としたら、この日の行動は不自然?】
  11/翌年3月までの間に70回近い数の被害民救済の講演会が行なわれる
  潮田千勢子ら鉱毒地救済婦人会は演説会で義援金品を募り、被害地に送る
  浄土真宗本願寺派の東京別院(築地本願寺)を中心とする青年仏教徒が鉱毒被害地救済仏教者同盟を結成する
     義援金や物資を被害地に送る
  12/鉱毒地救済婦人会が経営する東京西大久保の慈愛会に被害地貧窮家庭の子女16人を収容、養育する【慈愛館?】
  12/02川俣事件の控訴審で現地検証(臨検)を行なった鑑定人長岡宗好と豊永真里に対する証人尋問が行なわれる
  12/04川俣事件の控訴審第16回公判で被告人側から申請されていた医学者の証人尋問が行なわれる
     宮入慶之助、三宅秀、入沢達吉らはいずれも鉱毒の人体への害について極めてあいまいな証言をする
  12/05子爵朽木綱鑑の娘芳子らが鉱毒被害地を視察する
  12/05〜12/30『毎日新聞』が「咄々怪事とは鉱毒問題の顛末なり。無政府的日本帝国」を18回にわたり連載する
     政府と栃木県、群馬県を激しく糺弾する問題提起の論説
  12/06以降、日本橋教会青年会鉱毒地救済婦人会東京講談師有志などが演説会を続けて開催する
  12/06日本橋教育青年会主催の救済演説会が開かれる
  12/06午後6時、日本橋区本銀町1丁目の日本橋教会にて日本橋教会青年会主催の救済演説会が開かれる
     【婦人矯風会を中心とする鉱毒地救済婦人会が正式に発足する?】
     弁士は木下尚江、田村直臣、島田三郎
     田村の集金演説に本多嘉右衛門が10円を寄付【本多って誰?】
  12/06鉱毒地救済婦人会は連日のように演説会を開き鉱毒問題の実情を訴える
     のち演説会、救援物資の収集、医療救護から少女の教育などの活動をする
     のち田中正造の直訴後、運動はさらに盛んになる
     のち千葉や横浜に支部が生まれる
     のち演説会は関西の各地でも催され全国的な広がりをみせる
     「婦人会」の活動は被害地には物足りなさがあるものの著名な婦人の集まりで世論形成には役立つ
  12/08以前、田中正造が幸徳秋水を訪問し直訴状の執筆を依頼する
  12/09【田中正造が直訴状の作成を幸徳秋水に依頼してから受け取るまでの別の流れ?】
     夜更け、田中正造が麻布区宮村町の幸徳伝次郎寓居を訪ねる
     粗漏失態のないよう直訴状の起草を依頼する
     のち幸徳は夜を徹して起草する
     翌朝幸徳が芝口の鉱毒事務所に田中を訪ねる
     密かに起草文を手渡す
  12/09田中正造は終日書き物をし、午後5時呉服橋外の柳屋での鉱毒事件弁護人の打ち合わせ会に出席する
     午後7時頃帰宅し、9時半頃、子どもを背負った25才くらいの婦人鈴木阿源と20分ほど話し、10時に就寝
  12/09〜12/12『日本新聞』が帝国大学農科大学助教授の長岡宗好の鉱毒鑑定談を連載する
     「土壌被害の原因物質は渡良瀬川からきた銅」と断言する
  12/10朝7時半頃、田中正造が芝区芝口2丁目の常宿越中屋を発つ
     麻布宮村町の幸徳秋水宅を訪ね直訴状を受け取り、そのまま車で衆議院議長官舎へ
     誰もいない応接室で幸徳が半紙6枚に記した直訴状を田中が添削
     訂正個所側に小さく書き添え加筆し、削除個所は文字の上縦に線を引く
     添削をした個所には、それぞれ捺印する
     第16回帝国議会の開院式に臨席する明治天皇の行幸を一般参観人にまじり沿道で待つ
     天皇の馬車はあっという間に通り過ぎ直訴の機会を失う
     そこで帰途まで衆議院議長官舎前の最前列で待つことに
  12/10午前11時15分、天皇の行列が衆議院正門をでて貴族院正門前を通り、衆議院議長官舎前を左折【11時45分?】
     頃合いをみた田中正造が外套や帽子を投げ、白足袋だけになる
     「お願いでございます」と声をあげ直訴状を掲げ行列へ【「おねがいがございます」?】
     馬車は通り過ぎ、後衛の騎兵曹長伊地知季盛が抜刀し田中へ向かう【槍?】
     刀を振るった瞬間、馬が驚き跳ね上がり伊地知は落馬する
     そこへ警視庁の巡査2人がかけつけ、つまずいた田中を捕りおさえる
     警察署の人力車2台が田中の乗る車をはさむ。麹町警察署へ連行する
     のち東京市中は大騒ぎになり全国各新聞が号外で報じる
     【直訴状】(別ページリンク)
  12/10田中正造が麹町署で署長などから取り調べを受ける
     東京地検からきた検事正の川淵龍起、検事の羽佐間栄次郎らに取り調べを受ける
     奥貫医師により身体検査が行なわれる
     途中、鉱毒事件の弁護人塩谷恒太郎が面会にくるも許されず
     左部彦次郎の5円の差し入れは許される
     田中は丁重に扱われ警察署は上等の弁当を給し応接間で食事をさせる
     精神錯乱と認める点はなく、身体に異常のないことが認められる
     謀議の秘匿により不敬罪の成立する余地もなく逃走の恐れもなく
     また老人であるところから当日の午後7時30分、待っていた左部に引き取らせる
     【午後8時20分、釈放される。左部彦次郎に付き添われて芝区芝口2丁目の越中屋に帰る?】
     【夜、田中正造は警察署で明かし、翌日放免されて、無事宿所に帰る?】
  12/10直訴などは予想できるものでなく規定はない。法律的には無罪放免にするほかない
     政府が鉱毒問題をそらすために政治的に無罪放免にしたのではないということ
     のち警視総監の大浦兼武と麹町署長の村島は官邸の桂太郎首相を訪ね上申
     さらに貴族院へ出向き先駆警部に現場を取り調べさせ、処分の方針を麹町署に訓示
     内務大臣の内海忠勝は午後0時10分に参内し報告する
     「田中正造の性行、経歴とともに、当日珍事の其顛末を詳細に上奏して同5時10分退出した」
     内海は田中を奇人としてのみ上奏、政府の鉱毒責任には触れず
  田中正造の直訴を知った足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所が被害地12町村に打電する
     のち釈放を打電する
  直訴直後各新聞がこぞって直訴を取り上げ大きな反響を呼ぶことに
     各地で被害民救済講演会が70回以上開かれる
  被害地の町村長や有志らが続々と田中のもとへ駆けつける
     島地黙雷、内村鑑三、門馬尚経、肥塚竜、角田真平、安藤太郎、大村和吉、来栖壮太郎らも見舞いに訪れる
     田中は下座敷にこもり毎日新聞の石川半山に会う以外は誰にも会わず
     深夜風邪の養生を理由に密かに内幸町の植木屋に転宿する
  12/10夜、危篤の中江兆民の家にいた幸徳秋水が麹町署に呼ばれて取り調べを受ける
  12/10『救済新報』の記者赤羽一ほか3人が海老瀬村の松本英一宅に宿泊する
  12/11検事正の川淵龍起と控訴院検事長の横田国臣が大審院検事総長の野崎啓造と直訴事件を協議する
     司法大臣の清浦奎吾に上申する
     12/13午前11時、司法大臣から指令がだされる。不起訴と決定
     午後1時田中正造を地検検事正室に呼び不起訴を言い渡す。直訴状が返される
  12/11午後6時、麹町区有楽町の数寄屋橋教会にて鉱毒地救済婦人会発起の救済演説会が開かれる
     弁士は田村直臣、木下尚江、島田三郎のほか、立教中学校校長の元田作之進が登壇する
     鵜飼夫人の弾琴にて浅野夫人の「鉱毒地のうた」の独吟が行なわれる
  12/12『毎日新聞』が1ページ1段目で講演会の開催を報じる
     「足尾鉱毒地救済演説会」
       日時/12月13日午後6時 場所/横浜市尾上町指路教会
       弁士/木下尚江、田村直臣、島田三郎 主催/鉱毒地救済婦人会
     「足尾鉱毒演説会」
       日時/12月12日午後5時 場所/神田区美土代町青年会館
       弁士(イロハ順)/巌本善治、加藤熊一郎、高木政勝、中井喜太郎、内村鑑三、黒岩周六、
       矢野政二、幸徳伝次郎、佐治実然、三宅雄次郎、十文字信介、梅原喜太郎 主催/発起人
     「鉱毒問題学術演説会」
       日時/12月15日午後1時 場所/芝公園弥生館
       弁士(イロハ順)/大庭善治、高橋秀臣、野田市郎兵衛、松本隆海、佐治実然、木下尚江、鈴木喜太
       主催/青年同志鉱毒調査会
  12/12新聞に田中正造が訂正をする前の直訴全文が掲載される
     幸徳秋水が自身の直訴文の下書きを新聞各社に提供
  12/12幸徳秋水が『萬朝報』に「臣民の請願 田中正造の直訴に就て」を発表、田中正造の直訴を弁護する
  12/12午後5時、神田区の青年会館にて鉱毒地救済婦人会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は巌本善治、加藤熊一郎、高木政勝、中井喜太郎、内村鑑三、
     黒岩周六、矢野政二、幸徳伝次郎、佐治実然、三宅雄次郎、十文字信介
     この日の寄付金は半分を鉱毒事務所に、半分を婦人会救済費へ
  直訴直後『毎日新聞』が「(謹奏状を)投げ入れることも出来ず、殺されもせざりしは遺憾なり」と書く
  直訴後木下尚江が田中正造の直訴状を書いた幸徳秋水を非難する
     幸徳は「僕だって厭だ。然かし、あの疲れた老人の姿を見ては、振り切る事ができないじゃないか」と弁明
  12/13午後6時、横浜市尾上町の指路教会にて鉱毒地救済婦人会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は木下尚江、矢野政二、田村直臣、元田作之進、島田三郎
  12/15午後1時、芝公園の弥生館にて青年同志鉱毒調査会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は大庭善治、高橋秀臣、野田市郎兵衛、松本隆海、佐治実然、木下尚江、鈴木喜太郎
  12/中旬16才の黒沢酉蔵が芝区芝口2丁目の越中屋の田中正造を訪問する
  12/16午後6時、神田区の青年会館にて鉱毒地救済慈善講談大会が開かれる【救済演説会?】
     主催は東京講談師の有志者神田伯山、桃川実ほか数十人の講談師
     読物は赤穂義士伝、松の間刀傷より義士討入りまで交々出席し立読み
  12/16立教中学校の生徒前田多門ら学生が鉱毒被害地大視察団の編成を呼びかける
     12/17立教中学校の校長元田作之進は視察団の編成を教室よりも適切な修学旅行であるとする
     力ある教訓を与えるだろうとする
  鉱毒地救済婦人会が冬休みを利用して学生が鉱毒地を視察することは大きな意義があると提起する
     学生も賛成して鉱毒視察修学旅行が毎日新聞により広く呼びかけられる
     呼びかけ人は田村直臣(委員長)、安部磯雄(監督委員)、和田剣之助(衛生委員)、小林大治郎(会計委員)
     立教中学校校長の元田作之進の支持表明と同校生徒の前田多門らによる歓迎の言葉が毎日新聞に広く報じられる
  12/17荻野万太郎らが栃木県足利町に足尾鉱毒救済会を結成する
     被害地の視察、義援金品の募集、鉱毒演説会、各地救済会との連絡など多様な運動にかかわる
     のち数年にわたり続けられる
  12/17午後6時、芝区田村町の芝教会堂にて救済演説会が開かれる
     弁士は木下尚江、石原保太郎、田村直臣、島田三郎
     石原の尽力で濃飛音楽隊による市中、場内の奏楽あり
     石原の「鉱毒地のうた」の吟唱あり
  12/17神田区美土代町の神田教会にて高橋、川上、島貫、矢野らの鉱毒処分期成同盟会演説会が開かれる
     【救済演説会?】
  12/19松木村住民と古河市兵衛との間に土地等売買契約が成立する。全村が買収される
     星野金次郎は松木に踏み留まる
  松木村に隣接する久蔵村、仁田元村も前後して同様に廃村となる
  12/内村鑑三が志賀直哉を学生鉱毒被害地視察に誘う
     直哉は参加するつもりながら父の強硬な反対にあう
     足尾銅山は直哉の祖父直道が旧藩の財政再建のためにはじめた事業古河市兵衛はそれを引き継いだもの
  12/20田中正造が雑誌『滑稽新聞』第20号に「狂痴委他呼(きょうかちかたのよぶにまかす)」を発表
     「当代の佐倉宗五をもって自己の分なりとせんや」と自身を佐倉宗吾なぞらえる
     「言論も運動も訴訟も請願も遂に被害地救済の為めに充全の目的」に達することができず最後の手段に訴える
  12/20午後2時、本郷区春木町の中央会堂にて鉱毒地救済婦人会主催の足尾鉱毒地救助演説会が開かれる
     【救済演説会?】
     木下尚江、田村直臣、島田三郎の演説、3人の婦人会員による唱歌がある
     満堂感に打たれた大学生が外套、羽織、襟巻などを即座に脱ぎ捨て寄付する【河上肇のこと? 11/29?】
  12/23午後5時、四谷停車場前の大泉亭にて鉱毒地救済婦人会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は加藤熊一郎、高木政勝、梅原薫山、矢島楫子、安部磯雄、佐治実然
  12/24午後6時、芝園橋のユニテリアン教会にて鉱毒地救済婦人会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は木下尚江、安部磯雄、佐治実然、島田三郎
  12/26栃木県会議長が内務大臣と県知事に「鉱毒被害地救済に関する意見書」を提出する
  12/27午前5時、上野駅には鉱毒被害地大視察団の予定300人を超える800余人の学生が集まる
     【700人? 1100余人?】
     【東都学生被害地大視察団? 大挙鉱毒視察? 鉱毒視察修学旅行?】
     早稲田専門学校生徒285人、同中学生52人、大学生98人、高等中学生110人、尋常中学生56人
     小石川白山道場の天地古鑑一隊30人、毎日新聞社の木下尚江ら一隊418人
     他に有志新聞記者58人、僧侶22人、毎日新聞社婦人記者松本ゑい子と1人の女学生を合して1100有余に
     【帝国大学をはじめ府下30余校の学生による? 約40の大学や専門学校、中学の学生、生徒?】
     数寄屋橋教会の田村直臣牧師をはじめ、安部磯雄、木下尚江らが監督者となる
     委員は田村直臣、木下尚江、安部磯雄、和田剣之助、小林大治郎
     【田村直臣、安部磯雄、木下尚江、内村鑑三、巌本善治、加藤弘之らが引率?】
     一行は田村、安部、和田、小林、木下、松本ら監督者の斡旋でようやく乗車
     5室の客車を買い切り、6時35分に上野駅を発車
     古河駅に到着すると500余人の被害民が「迎東都学生諸君」と大書きする20余の旗を押し立て出迎える
     「学生鉱毒地大挙視察」の旗を先頭にハーモニカの音と『鉱毒地を訪ふの歌』を朗吟し渡良瀬沿岸へ向かう
     谷中村、海老瀬村など鉱毒被害地の惨状を視察する
     視察の途次、古沢繁治宅前で木下尚江が演説
     一行は群馬県邑楽郡海老瀬村の総被害692町歩余を視察して村の小学校へ
     近隣農民あわせて2千余人が集まる
     昼飯を喫し小憩ののち奏楽唱歌、そして田村直臣、安部磯雄、木下尚江、途中参加の内村鑑三、加藤咄堂らが熱弁
     帰途、古河停車場前の大八車上にて内村、田中弘之、安部、木下、田村が演説【海老瀬小と同じ者が演説?】
     午後3時半頃、帰途につき、古河駅発6時35分の列車で無事帰京する
  12/27全部の学生が東京へ引きあげるなか、17才の黒澤酉蔵はひとり現地に残る
     のち5日間被害地に残り古河から渡良瀬川沿岸の各地の惨状を視察する
  12/28〜翌01/01菊地茂が川辺村、利島村の鉱毒地を訪ねる
     田中正造と行動をともにする
  鉱毒視察修学旅行に同行した外国人新聞記者が『国民新聞』の英文寄書欄に「外人の眼に映る鉱毒地」を掲載
     のち毎日新聞に訳出される
     「茫漠たる原野荒廃せる村舎一の魚も存せぬ毒流及塗炭の苦に陥れる人民の惨状
     何れも深く余の頭脳に印されて苦悶の念去る能はず、又禁ずる能はざるなり」
  12/28鉱毒被害地救済仏教者同盟会が鉱毒激甚地に医師、看護婦、薬局員など7人を派遣【12/29?】
     鉱毒被害地救済仏教者同盟会は浄土真宗本願寺派の東京別院(築地本願寺)を中心とする青年仏教徒の集まり
     3か所に鉱毒地施療院を設置、それぞれ施療地区を決めて巡回診療を開始する【施療所?】
      ▽第1施療所
      (位置)群馬県邑楽郡海老瀬村大字頼母子隔離病舎及松本英一方
      (区域)茨城県猿島郡新郷村。栃木県下都賀郡谷中村、藤岡町。埼玉県北埼玉郡川辺村、利島村。群馬県邑楽郡海老瀬村。
      ▽第2施療所
      (位置)栃木県安蘇郡界村大字馬門永島礼七方
      (区域)栃木県安蘇郡界村、犬伏町、植野村。下都賀郡三鴨村。群馬県邑楽郡西谷田村、大島村。
      ▽第3施療所
      (位置)群馬県邑楽郡渡瀬村大字下早川雲龍寺
      (区域)栃木県足利郡毛野村、久野村、吾妻村、富田村。群馬県邑楽郡郷谷村、多々良村。
     のち開所1か月(12月29日〜1月30日)の受診患者は内科2325人、眼科3272人の計5697人【足すと5597人?】
     のち拠点となった第1施療所の松本英一方と隔離病舎が海老瀬村の松安寺に移される
     のち1902(明治35)5月31日まで続けられる
     施療活動に要した費用1136円11銭9厘は全額一般募金でまかなわれる
     のち仏教徒による施療院閉鎖のあと、鉱毒地救済婦人会が引き継ぐ
  12/30神田区美土代町の基督教青年会館で被害地を視察した学生らによる「視察報告演説会」が開かれる
     【鉱毒被害地学生大挙視察報告演説会? 救済演説会?】
     田村直臣の開会の辞についで、帝国大学学生の布施源之助、早稲田専門学校学生の内田益三、
     慶応義塾学生の竹内恒吉、明治法律学校学生の大亦楠太郎、立教中学学生の前田多門などの学生や生徒が演壇に立つ
     毎日新聞記者の木下尚江、早稲田専門学校教師の安部磯雄
     ほか和田剣之助、田中弘之、加藤咄堂、巌本善治、内村鑑三らが演説する
     【田村直臣、安部磯雄、木下尚江、内村鑑三、加藤咄堂の演説にはじまり、各学校の学生も演説?】
     学生大亦楠太郎の発起により学生による鉱毒被害民救済のための3項が提出される
     第1、路傍演説 第2、被害地での病院設立 第3、議員歴訪
     特に救済募金を呼びかける学生路傍演説隊が圧倒的な賛成を得て組織、翌年元旦より行なうことに
     学生鉱毒救援会が結成される
     演説会終了後、組織と運動の統一を図るため会長に加藤咄堂(仏教)、幹事に木下尚江(キリスト教)が選出
     2大宗教の連合による協力と支援のもと路傍演説会、救済演説会などが展開される
     演説会は日没まで続けられる
  12/支援活動の一環として谷干城ら有志60余人による在京鉱毒死亡調査会が発足する
     これまでの協力者のほか高田早苗、楠木正隆、田口卯吉、陸実(陸羯南)、三浦悟楼、秋山定輔、
     山脇房子、曽我祐準、新井奥邃に加えて花井卓蔵、今村力三郎など川俣事件の著名な弁護士たちも加わる
  12/足尾鉱毒をめぐる演説会が頻繁に行なわれる
  12/鉱毒地視察慰問の婦人や学生が足尾の鉱毒被害地をしばしば訪問する
  年末鉱毒調査有志会のメンバーが60人を超える
     なかには矢島楫子、潮田千勢子、三輪田真佐子、山脇房子ら名流婦人や新井奥邃、幸徳伝次郎のほか、
     弁護士の三好退蔵、花井卓蔵、飯田宏作、塩谷恒太郎、今村力三郎の名も連ねる
  キリスト教徒、仏教徒による施療院の現地開設、被害民への治療が行なわれる
  安蘇郡佐野町に足尾銅山鉱毒被害救済会が設置される
     松木村民代表が田中正造の助言を得るため同会を訪れ山田友次郎に会う、山田が救援を約す
     【足尾銅山鉱毒被害救済会は設置される以前1897(明治30)、1900(明治33)にも活動?】
  谷中村下宮地区62戸の養蚕農家が778石の繭を生産し下都賀郡第1の成績をおさめる

1902(明治35) 62

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第20代]内海忠勝
  《警視総監》[第14代]大浦兼武/再任
  《農商務大臣》[第18代]平田東助
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦
  《帝国議会》[第16回通常会](→03/09)、[第17回通常会](12/09→12/28・解散)
  《栃木県知事》[第10代]溝部惟幾(→12/29)、[第11代]菅井誠美(12/30→)
  《群馬県知事》[第10代]関清英(→02/08)、[第11代]鈴木定直(02/08→10/04)、[第12代]吉見輝(10/04→)
  《埼玉県知事》[第11代]山田春三(→02/08)、[第12代]木下周一(02/08→)


  01/前年暮れからこの年の初めに足尾鉱毒に関する演説会が30回にのぼる
  01/01元日から約20校の生徒が東京市内を7組にわかれる学生路傍演説隊が組織される
     毎日のように鉱毒問題、義援金募集の街頭演説をして歩く
     路傍コースが神田組、京橋組、麹町に分けられ、さらに本郷組、小石川組、牛込組、芝組が加わる
     参加した学生は祥雲確悟(帝国大学)、布施源之助(帝国大学)、岩倉具美(学習院)、大亦楠太郎(明治法律学校)、
     中西堅助(明法律学校)、堂柿正一(明治法律学校)、岡本金太郎(明治法律学校)、千坂雄右衛門(明治法律学校)、
     山田健助(明治法律学校)、高木来喜(早稲田専門学校)、内田益三(早稲田専門学校)、山崎峰与(早稲田専門学校)、
     加賀美治平(早稲田専門学校)、高崎順一郎(早稲田専門学校)、佐藤千纒(早稲田専門学校)、菊地茂(早稲田専門学校)、
     竹内恒吉(慶応義塾)、中田直芳(法学院)、北原亀太郎(法学院)、神林秀太郎(早稲田専門学校)、
     尾池義幹(東京法学院)、植木菊太郎(東京法学院)、金色太造(明治法律学校)、下津卯一郎(明治学院)、
     木村鐵岫(哲学館)、宮川泰詮(哲学館)、光山百川(曹洞宗大学林)、土田得雲(曹洞宗大学林)、
     東則正(早稲田実業学校)、清水匡輔(正則英語学校)、山上智海(国民英学会)、中山法城(開成中学校)、
     村上孝俊(日蓮宗大学林)、堀智珠(日蓮宗大学林)、上田尚温(日蓮宗大学林)、齋藤浄造(京北中学校)、
     黒澤酉造(京北中学校)、奥谷文智(麻布中学校)ら学生生徒
     【東京15区を各大学など20〜30人で分担?】
        01/01学生鉱毒救援会による路傍演説が実施され市民の大きな関心を呼び起こす
     義援金取扱い事務は京橋区尾張町の毎日新聞社に託される
  01/01新井奥邃が田中正造の直訴を聞き『日本人』に「過を観て其の仁を知る」を寄稿する
  01/02文部省から学生鉱毒運動の停止の訓令がだされる
  01/03鳴皐書院から正岡藝陽の『人類の戦士・田中正造』が発行される
     定価25銭、郵税4銭
     正岡は田中を全面的に支持、称揚する。また田中を予言者とし救世主であるとする
  01/04〜01/24『毎日新聞』が「足尾銅山処分論」を連載する
  01/05以降、東京府が文部省の圧力で各学校の代表を呼びつける
     学生がみだりに社会問題に口出しするは不可なり、と警告する
     さらに路傍演説厳禁の旨を校内に掲示させ取り締まりを強化する
  01/07政府が足尾鉱毒問題への世論の高まりに直面する
     文部大臣と官学の校長、東京府知事が学生の被害地視察や義援金の募集、街頭演説を政治にかかわるものとして禁止に
     東京法学院と明治法律学校は。学生の運動が禁止となる
     のち学生鉱毒救援会は屋外政治集会を禁止する治安警察法を考慮
     屋外から寺院など屋内での演説会に移行
  01/07東京法学院学内に学校名で貼りだされる。学生の運動が禁止となる
     「本院生徒にして足尾銅山鑛毒事件に就き公道に於て演説をなし
     又は同事件に就き學生として穏かならざる行爲無之樣注意相成べく候事」
  01/07明治専門学校学内に校長の名で貼りだされる。学生の運動が禁止となる
     「足尾鑛毒問題に關し近來學生にして之が視察に從事し
     或は義損金募集路傍演説を爲す者有之候處右は政治に關係し學生にして甚だ穏ならざる義に付
     可差止旨東京府知事より嚴達有之候條爾今右等の行爲一切無之樣注意可有之此旨特に掲示候也」
  01/07政府が第2次鉱毒調査会の設置を閣議決定する
     内務省、農商務省、大蔵省に通牒し公布時期をさぐる
  01/08路傍演説の発起人大亦楠太郎が当局に抗議する
     遊里や寄席に出入りする学生には注意せず、なぜ窮民の救助活動を禁止するか
  01/09午後1時、神田区の青年会館にて救済演説会が開かれる
     弁士は巌本善治、加藤咄堂、田村直臣、田中弘之、内村鑑三、安部磯雄、木下尚江、島田三郎
     【鉱毒地救済婦人会主催?】
  明治女学校の校長代理福迫亀太郎は、学生の自主的な動きを法律や警察の力で干渉するのは甚だ不可と主張
  被害地を見ていない帝大生が要望し第2回の被害地視察を企てる【第2回学生被害地視察団?】
     帝大総長の山川健次郎が大いに勧める
     帝国大学の総長が東京府知事の禁令を盲従し私学の校長の顔をつぶしたことに
     文部大臣の菊池大麓が山川総長に禁止させるよう言い渡す
     第2回は学生が個人として参加することに
  01/内務省が第2次足尾銅山鉱毒調査委員会発足以前から秘密裡に栃木県、埼玉県と遊水池計画を推しすすめる
     栃木県の谷中村と埼玉県の利島、川辺両村をつぶして3300町を遊水池化(瀦水池)
     渡良瀬川の逆流を防ぐため

  01/10・頃利島、川辺両村の代表が鉱毒被害地の租税減免措置の陳情のため埼玉県庁を訪ねる
     内務省が秘密裡に推しすすめる栃木県谷中村と埼玉県利島村、川辺村の遊水池計画を聞きこむ
  01/11政府は学生ばかりでなく仏教界の運動参加にも神経をとがらす
     仏教界の言論の高揚、指仏教導者の救済演説会への参加、仏教系私学学生の路傍演説への参加
     禁忌、弾圧の措置をとる
  01/12佐野の万座で田中正造、木下尚江、幸徳秋水らが演説する
  01/13『毎日新聞社』が社説に「社会の怪象」の大論文を掲げ文部大臣と警視総監に猛省を求める
  01/14『毎日新聞』『鉱毒被害惨状乃悲歌』を掲載する
     発禁にはならず
  01/14田中正造が足利の有志懇親会に出席する
  01/15前年12月の田中正造の直訴に触発され埼玉県利島村に相愛会が結成される【利島村相愛会?】
     「渡良瀬川の流水を清浄ならしむる唯一の方針を変することなく、此の目的を達するに非んば其組織を解かず」
  01/15真宗大谷派の大日本仏教同盟会の安藤正純らが『正教時報』に論文「鉱毒地救済法」を発表する
     【鉱毒被害民救済法?】
     (1)被害民の医療のため病院を建てること(2)養育院を設け貧困老人を収容すること
     (3)移住の奨励(4)渡良瀬川の堤防改修(5)教育の振興(6)足尾製錬所の海岸移転など
     具体策をあげ費用を国庫と企業主の負担に求めるなど被害者保護と鉱毒発生源に対する注目な論文
  01/15午後5時、神田区錦町の錦輝館にて仏教有志会主催の救済演説会が開かれる
     【鉱毒被害民救済仏教有志会が開く?】
     弁士は島地黙雷、大山青巒、南条文雄、村上専精、和田鼎、浜野哲、加藤咄堂、
     田中弘之、安藤鉄腸、高木政勝、梅原薫山、安藤嶺丸、脇田堯淳、道重信教
  01/17第2次調査会の設置が閣議決定される。内務、農商務、大蔵の3省には通牒ずみ
  01/17鉱毒地救済婦人会が足尾鉱毒問題で貴族院、衆議院に対して檄をとばす
  01/18埼玉県川辺村の村長に職務管掌の山岸平作が就任する
  01/19午後1時、横浜本町1丁目の横浜会館にて鉱毒地救済婦人会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は潮田千勢子、梅原薫山、島田三郎、平田平三、田中正造
  01/鉱毒問題学生演説会が東京の路傍に連日開催される
  01/22古河出身の真言宗豊山派の僧侶で『加持世界』の編集人小林正盛が岩佐大道と被害地を視察する
  01/23早稲田専門学校教授の安部磯雄が『毎日新聞社』に「帝国大学生諸君に一言す」を寄せる
  01/23浄土真宗本願寺の島地黙雷が『三宝叢誌』に観察記「虎の話に因んで遂に鉱毒の惨状に及ぶ」を発表する
  01/25古河から栃木県松木村住民に対して土地売却の現金が支払われる
  01/25文部大臣の菊池大麓が大学総長らに学生による政治運動としての鉱毒被害地大挙視察の禁止を通告する
     【帝国大学の総長に対して?】
  01/25夜、帝国大学総長の山川健次郎が鉱毒委員を招集する
     勝目良二(法科)、●【木偏に汚の旁】木十吉(理科)、小山秀次郎(理科)、堀田巳之助(農科)、
     芝田徹心(文科)、伊藤孝次(工科)、岡田恵一(文科)、北浦重之(工科)、植村卯三郎(医科)、
     長橋五郎(医科)、布施源之助(医科)、和田丈夫(医科)
     山川は言葉少なめに文部大臣の命令書を示す
     「誠に諸君には気の毒なれ共幸に之を諒せられよ」
     命令書には
     「學生が鑛毒地を視察し研究の資となすは防なしと雖も鑛毒問題は目下一の政治問題として喧論する所なり
     此際學生多數隊をなし該地へ旅行するは一の政治上の運動たる嫌あり大學生たるもの宜しく避くべき所なり」
  01/26上野駅に250人の学生が集まる。第2回鉱毒被害地大視察団は学生が個人として参加することに
     【帝国大学の法、文、理、工、農、医の有志学生250人余?】
     【200人以上? 第2回大挙鉱毒視察修学旅行?】
     前日の命令を無視して強行する
     木下尚江らが付き添い古河駅で下車、谷中村、海老瀬村の惨状を視察する
     帰京後「鉱害被害民救済義援金募集」の檄をとばす
  01/27第16回帝国議会、貴族院の予算委員会で谷干城が政府を追及する
  01/28年明け最初の川俣事件の控訴審がはじまる。第19回公判
     立会検事の論告、弁護人の弁論にはいる
  01/29文部省は団体であれ個人であれ、被害地の視察を全面的に禁止する
  01/29〜02/19『毎日新聞』が「鉱毒問題弁疑」を連載する【01/30〜?】
     政府の失政を追及し被害民移住説に反対。足尾の製錬、選鉱所の移転を主張する
  01/田口掬汀が被害地を視察。ルポルタージュ「毒原跋渉記」を発表する
     被害激甚地の出入口には関所のような警官の詰め所でかためられると伝える
  01/高須梅渓が被害地を視察。ルポルタージュ「嗚呼蕭条の砂漠」を発表する
     被害激甚地の出入口には関所のような警官の詰め所でかためられると伝える
  01/登記上の処理がすべて終了、足尾町に隣接する栃木県上都賀郡松木村が消える
  01/30午後1時、神田区の青年会館にて正教青年会主催の救済演説会が開かれる
     弁士は島田三郎、三輪田元道、鈴木万次郎、元田作之進、巌本善治、田村直臣、
     木下尚江、瀬沼恪三郎、潮田千勢子、山田蔵太郎、石川喜三郎、田中正造
  01/31田中正造が『万朝報』に「鉱毒地視察人心得」を寄稿する
  01/31被害民が押出しを計画し雲龍寺に集まるも解散させられる(第5回押出し)
  01/栃木県会に谷中村の買収案があらわれると噂がたつ
  02/上旬『横浜新報』が3回にわたり「鉱毒問題の解決」を連載する
     「慈善救済は永続せず、解決の根底は移住」と植民地への移住を提案し鉱山の開発禁止には反対する
  02/01川俣事件第20回控訴審が行なわれる
     弁護人の花井卓蔵が1人で7時間の弁論をする
  02/04川俣事件第21回控訴審で弁護人の弁論が行なわれる。29日の第30回まで続く
     【この年の2月は28日まで】
  02/07、08『横浜新報』が「鉱毒問題に対する政府の責任」を2回にわたり連載する
     被害民の移住説をくり返す
  02/11利島村柳生の養性寺にて被害民大会が行なわれる【拠点は川辺村の養性寺?】
     埼玉県の利島村、川辺村、栃木県の海老瀬村、谷中村の渡良瀬川下流域を中心とした押出しが組まれる
     東京へ押出そうとして警官隊と衝突
     川俣事件の被告を多く抱える中流域では大きな運動にならず
     03/ふたたび運動が組まれる
  02/14『野州日報』が1900(明治33)の栃木県上都賀郡字松木の住民による議会や政府に対する働きかけにふれる
     「聞くもまた是れ疳癪の種、書くも勿論嘔吐の源」と論評する
     同紙は他にも田中正造、島田三郎や足尾鉱毒被害民に対する同様な論法の記事を一貫して掲載する
  02/15第16回帝国議会、衆議院で大滝伝十郎が調査促進を求める
  02/17小手川豊次郎他が著した『足尾鉱毒問題解決処分』が刊行する
  02/17〜03/24『大阪朝日新聞』が「哀れ斯民」を連載する
     足尾鉱毒被害地と被害民についての報道や論評を繰り広げる
  02/19第5回目の大挙押出しが行なわれる
     雲龍寺に農民が1100人程度集結。警官の監視が厳しく栗橋や千住などでさえぎられ東京には向かえず
  02/19第5回目の大挙押出しが行なわれる
     雲龍寺とは別に、もうひとつの起点となる埼玉県利島村の養性寺に集まった700人が東京へ
     女性5人が貴族院議長の近衛篤麿との面談に成功する
     女性2人を含む代表は平田農商務大臣と面会、足尾銅山の鉱業停止を要請する
     養性寺からの請願は利島村、川辺村を中心とした女性が多く女押出しとも
     【植野村、久野村、渡瀬村から17人の婦人請願隊が上京?】
     02/21海老瀬村、川辺村、利島村、界村から10人の婦人請願隊が上京【第2陣?】
     02/22女性請願団の代表が近衛篤麿貴族院議長と会見、請願する
     02/23衆議院議長の片岡健吉と会見、請願する
  02/19邑楽郡の鉱毒被害地人民総代が東京税務管理局長あてに「鉱毒被害免租地継続年期願」を提出する
     主目的は免租継続
     のち却下される
  02/20足尾鉱毒地の婦人17人が貴族院前で座りこみを実施する【女押出しの一環?】
  02/23島田三郎らが東京の富士見軒に「田中正造慰労会」を開く。田中が招待される
  02/25川俣事件控訴審で鉱毒被害地の現地検証(臨検)を行なった鑑定人が追加鑑定書を提出する
     土壌が専門の長岡宗好と植物が専門の豊永真里の鑑定人から
     被害地の土壌に100万分の7の砒素(毒物)が存在するとのこと
  02/塩谷恒太郎ら弁護士有志57人が貴衆両院議長に対して請願をする
     57人は主に鉱毒事件弁護人から両院議員を除いた者
     請願の要旨は被害地の復旧と被害民の生命救助。鉱業停止の請願ではない
  03/01真宗豊山派の宗務所派遣現地慰問使の小林正盛が『加持世界』に論文「鉱毒被害地跋渉記」を発表する
  03/02第6回目の大挙押出しが行なわれる
     養性寺を起点として行なわれ、農民2千人が東京に向かう
  03/06被害民代表7人が農商務大臣の平田東助と面会。大臣は第2次鉱毒調査委員会の設置を確約
     第2次鉱毒調査委員会の設置は既に閣議決定されて公布されていないだけ(第6回押出し)
     委員会は3月15日に設置
     のち別の日に内務省に150人がなだれこむも大臣は面会を拒否
  03/07蓼沼丈吉が『足尾銅山鉱毒被害救済私見』を刊行する。鉱業停止論から立場をかえる
     発行者は山田友治郎
  03/15新声社から『亡国之縮図』が発行される。定価25銭【03/21?】
     田口掬汀、高須梅渓の鉱毒視察記、金子薫園の短歌「鑛毒地の慘状をおもひやりて」
     児玉星人の長詩「嗚呼冥府の日本國」を収める
     田口の「毒原跋渉記」によると谷中村の入口となる渡良瀬川と思川が合する三国橋には警官が5、6人いる
     海老瀬村には警官の詰め所があり通行人に名刺を要求する。まるで「戒厳令が布かれてある」と驚く
     高須の「嗚呼蕭條の沙漠」は数十で請願のため上京した際、上野駅で捕らえられる
     警官から「無暗に帝都をさわがしたりなどすることは、国賊とも云うべきものだ」といわれる
  03/15東京控訴院にて川俣事件の控訴審(第2審)判決が言い渡される
     大法廷は被害地から出京した老若男女ほか傍聴700人であふれる
     30余人の警官は物々しく法廷内外を警戒する
     午前9時に宣告あるところ、にわかに午後ということに
     午後0時20分、磯谷幸次郎裁判長以下、陪席判事が出席する
     平沼検事の姿はなく平山検事が着席
     うしろには春木控訴院長はじめ数十人の判事、検事が着席する
     裁判長が判決主文の朗読をはじめる
     判決は治安警察法等の有罪3人(重禁錮15日1、罰金2)、無罪47人(死亡1)となる
     野口春蔵と永島与八は治安警察法8条、23条により各罰金5円
     小野寅吉は刑法141条(官吏侮辱罪)により重禁錮15日と罰金2円50銭
     他の被告人はすべて無罪、または控訴棄却に
     のち判決言い渡しに対して被告、原告双方が不服を申し立て大審院に上告する
     被告と弁護人は治安警察法違犯と官吏侮辱の部分につき
     農民らは全員無罪を勝ち取るため無罪の47人を含む全被告が上告
     原告横田控訴院検事長は各被告を無罪となした点につき
     のち東京大審院にもちこまれ書類のみの審査が行なわれる
  03/15勅令45号をもって「鉱毒調査委員会官制」(第2次調査会)を裁可公布
     東京控訴院での川俣事件の2審判決にあわせて世論の鎮静化の操作の狙いのもとに公布される
     メンバーには鉱業停止派の坂野初次郎や農民側の被害調査に協力した古在由直も加わる
     それでも中心は法制局長官の奥田義人、調査委員会発足以前から鉱業停止はないと放言する鉱山局長の田中隆三、
     内務書記官の井上友一、大蔵書記官の若槻礼次郎ら新進官僚、古河に近い学者渡辺渡や御用学者の河喜田能達
     委員16人中7人が帝国大学の教授、助教授が占め、どこまで正当性が保つことができるか疑問視の向きも
  03/15『国家医学会雑誌』が足尾銅山の鉱毒問題を特集、相反する内容の文書も収録する
     医学博士の入沢達吉、坪井次郎らによる人体への影響否定の論文を再録
     農学博士横井時敬らの農作物への鉱害を明らかにした鑑定書、
     薬学博士丹波敬三の土砂分析、
     安西茂太郎の足尾地区の住民の貧しさと空気の汚染状況報告、
     医学士林春雄の被害地に銅中毒は無しとする論文など
  03/16東京神田区の錦輝館で東亜仏教会により鉱害被害死者のための大施餓鬼が行なわれる
  03/17第1次桂太郎内閣が第2次足尾銅山鉱毒調査委員会を設置する。被害地の調査を進める【03/15?】
     川俣事件控訴審での検証や鑑定、田中正造の直訴から鉱毒反対運動など世論の盛り上がりに対する措置
     堆積場からの鉱石くずの流出が指摘されるも委員会では特に問題視せず
     渡良瀬川の鉱毒問題から利根川の治水問題へのすり替えがはじまる
     委員長は法制局長官の奥田義人、委員は渡辺渡(前委員)、坂野初太郎(同)、田中隆三(鉱山局長)、
     村田重治(営林技師)、野田忠広(内務技師)、河喜多能達(工学博士、帝大教授)、
     神保小虎(地質学、帝大教授)、井上友一(内務書記官)、日下部弁次郎(土木技師)、
     若槻礼次郎(大蔵書記官)、古在由重、松本節斎、本多静六(林学博士、帝大教授)、
     田原良純、中山秀三郎(工学博士、帝大教授)の15人
     委員構成は鉱毒の人体への影響にくわしい医学、衛生関連メンバー、
     農作物や林野への影響に詳しいメンバー、治水・土木工事の専門家、予算関係者など
     銅山に肩入れしてきた田中鉱山局長、東京帝大工科大学教授で銅山側立場を代弁する者
     8月から11月に調査完了の予定
     のち法制局長官が奥田から一木喜徳郎にかわり、調査委員会の委員長も一木に
     鉱業停止、改善については腰砕けながら農民の救済策議論はきめ細やかな議論がされる
  03/18午後3時、第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の第1回委員会が内閣で開かれる
     初会合にあたり桂太郎首相が趣旨説明の演説、調査結果の採否はあくまで政府の手中にあることを明言する
     「政府ニ於テモ諸君ノ調査ノ結果ハ審議ノ末採用スベキモノハ実行ス考テアリマス」
     のち工科大学の委員や鉱山局長の田中隆三らは近年の被害の直接の原因を発表
     主として江戸時代からの鉱山の堆積物によるもので、現在の操業に責任はないと強硬に主張する
     のち議論は足尾銅山の責任追及や鉱山の防止から、洪水の対策や被害民への対策などに移る
     のち翌年の1月29日まで現地調査をはさんで18回の委員会が開かれる
  03/20邑楽郡大島村地主総代の小倉伝兵衛外39人が「鉱毒荒地免租年期明ノ土地ニ対スル継続年期請願」を提出する
     大蔵大臣あて。主目的は免租継続
     のち却下される
  03/21『毎日新聞』の記者松本英子(35)がみどり子の筆名で連載していた「鉱毒地の惨状」が58回で終了となる
     連載開始は前年の11月22日
  03/22松本隆海編の『足尾鉱毒惨状画報』が刊行する
  03/24明治法律学校の学生中西堅助が鉱毒救済運動で疲労、18才で病死する
  04/02「鉱毒地救済婦人会松本英子」が教文館から『鉱毒地の惨状 第1篇』を発行する
     【奥付では4月11日発行】
     全231ページ、定価15銭の軽装
     『毎日新聞』に明治34年11月から翌年3月まで連載していた記事をまとめる
     序文に変わるものとして15ページにわたり「何ぞ速に渡良瀬河畔無告の同胞を救はざる」を加える
     付録に画家井上与十庵の「涙の旅」、島田三郎夫人信子の「袖の時雨」ほか2篇、
     潮田千勢子の「鉱毒地救済婦人会の来歴」などがつく
     第2の付録として同情者名簿、被害地病者入院施療表、被害地少女教育表、
     鉱毒地救済婦人会救助表があり婦人会の全活動が網羅される
  04/02鉱毒調査有志会が神田区の基督教青年会館で鉱毒問題解決演説会を開催する
     鉱毒調査有志会を足尾鉱毒問題解決期成同志会に改組する
  04/03第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が足尾銅山と被害地の2隊に分れて現地を視察する
     【足尾銅山と被害地の2隊なのか、2隊にわかれ足尾銅山と被害地なのか?】
     「本件ノ終局ヲ期ス」目的として開始される
     04/1510項目にわたる調査事項の要綱を桂首相に報告する
     各調査項目は大学助手、各省の技師等21人に委嘱して調査に当てらせる
     のち3回目の会合が開かれる
     10項にわたる調査事項の要領と委員の分担を決定する
     調査事項は担当委員の指示の求める大学助手と関係各省の技師21人に委嘱して調査にあたる
     のち次の会合は9月の台風による洪水の影響で遅れ各委員の報告が提出されたのは10月29日に
  04/上旬田中正造が京橋区の和田病院に入院する。院長は和田剣之助。4月15日頃退院する
  04/06午後1時から神田区南乗物町16番地の田中弘之宅で中西堅助の追弔会が催される
     田中正造、木下尚江、島田三郎夫人信子らも出席、田中が弔辞を読む
  和田病院に入院中の田中正造が中西の死を悼み某氏に手簡を送る
     「學生中西死去に付、來る六日田中弘之大亦氏小生發起、追弔會を開き候。
     此學生の死去をもしらずして慚愧と可申か、造憾と可申か、死を以て謝するも足らざるの感あり」
  04/08山田郡毛里田村外3村、野村直治郎外141人が「足尾銅山鉱業停止請願書」を提出する
     鉱毒調査委員長、内務大臣、大蔵大臣、農商務大臣あて。主目的は鉱業停止
     のち受理・却下は不明
  04/17『下野日々新聞』が下都賀郡一農民と称する者の投稿を掲載する
     「憂ひなき予防工事の完備し居るに拘はらず漫りに鉱害甚大なり人命危険なりと誇張の暴論を逞ふする」
  04/26、04/29『下野新聞』が「鉱害問題の解決に就て」を連載する
     被害民の行動を激しくしたのは政府が姑息な処置をしてきたためと論評する
  04/29栃木県下都賀郡の鉱毒地の各町村は、この年免租満期になるも地力依然回復せず
     谷中村、寒川村、部屋村、生井村、藤岡町
     納租猶予の請願を大蔵省に提出することに
     下都賀郡役所の添え書を得て県庁に依頼する
     のち知事の添え書を請う
     溝部惟幾知事は当方より本省へ申達すると被害民の請願書を預かる
     05/18県庁は願い届かずと請願書を却下、請願被害民の驚きはひとかたならず
     05/21請願被害民は上京。大蔵省へ出頭し却下の理由を質問する
     大蔵省は池田敬八が応対する
     「栃木県知事より請願書の申達はなし、従って本省で却下にすることもなく」
     被害民は意外さに喫驚する
     被害民は改めて請願書を提出する旨、事情を事細かに述べ退出する
     栃木県知事溝部が政府の命と詐称し不法の行為に及んだのは明白に
  04/田中正造が「請願の標準書」を作成する
  04/東京鉱業停止事務所が愛宕下に移転する
  足尾鉱毒の問題で各新聞が県知事や農商務省鉱山局長に対して攻撃を加える
     のち政府は新聞紙条例違反や官吏侮辱などで抑制する
  足利郡、梁田郡、安蘇郡、下都賀郡、邑楽郡の鉱毒被害地が豊作になる。反対運動は弱体化
  谷中村問題が浮上。渡良瀬川中流域を中心とした鉱毒反対運動は停滞する
     後半鉱毒事務所の雲龍寺は空寺同様となり集会の活発さがなくなる
  05/04政府による学生運動への弾圧が強化され学生鉱毒救済会が解散
     各自の品性を修養し正義人道を以て進路とする青年修養会が結成される
     創立時の委員は祥雲確悟(帝国大学)、岩倉具美(学習院)、高木来喜(早稲田専門学校)、菊地茂(早稲田専門学校)、
     大亦楠太郎(明治法律学校)、竹内恒吉(慶応義塾)、中田直芳(法学院)、木村鐵岫(哲学館)、宮川泰詮(哲学館)、
     光山百川(曹洞宗大学林)、土田得雲(曹洞宗大学林)、東則正(早稲田実業学校)、清水匡輔(正則英語学校)、
     山上智海(国民英学会)、中山法城(開成中学)、齋藤浄造(京北中学)、奥谷文智(麻布中学)
  05/05田中正造の欠伸事件控訴審(控訴公判)が東京控訴院で開かれる
     裁判長は遠藤忠次、立会検事は堤定次郎
     弁護人は第1審の今村力三郎、戸口茂里、信岡雄四郎、牧野賎男、新井要太郎、塩谷恒太郎のほか
     石山弥平、卜部喜太郎、太田資時、播摩辰次郎、丸山名政、天野敬一、三好退蔵ら川俣事件の弁護人がつく
  05/08川俣事件の上告審が東京大審院第2刑事部の担当で行なわれる
     裁判長は長谷川喬、陪席判事は小松弘隆、岸田武儀、木下哲三郎、鶴丈一郎、鶴見守義、横田秀雄の6人
     弁護人は第1審、第2審のうちの18人
     検事の弁論が終わったあとで弁護人らの反駁弁論が行なわれる
  05/091900(明治33)11月28日に田中正造が起こした官吏侮辱事件(欠伸事件)の控訴審が東京控訴院で開かれる
     重禁錮1か月10日、罰金5円の逆転有罪判決が言い渡される
     田中と弁護人の塩谷恒太郎は上告する
     のち欠伸事件の上告審が大審院第2刑事部の担当となる。裁判長は長谷川喬。立会検事は奥宮正治
     弁護人は控訴審の今村力三郎、高野金重、信岡雄四郎、天野敬一、塩谷恒太郎、
     卜部喜太郎、丸山名政、牧野賎男、新井要太郎、三好退蔵のほか鳩山和夫が加わる
  欠伸事件を上告してすぐ、田中正造は長野県鉱毒演説会に演説のため出発する
     05/13帰京する
  05/10邑楽郡海老瀬村の鉱毒被害民総代、戸井亀吉他が県庁あてに「足尾銅山鉱業請願書」を提出する
     のち却下される
  05/12川俣事件の裁判で弁論開始から4日目、大審院での判決が言い渡される
     大審院は検事長の上告趣意【論旨?】を全面的に認めて2審判決を棄却
     「原判決中被告野口春蔵外三十八名ニ対スル部分ヲ破毀シ更ニ判決ヲ為サシムル為メ本件ヲ宮城控訴院ニ移送ス」
     大部分の被告を無罪とするのは不当として宮城控訴院に差し戻される
     無罪となった者のうち11人の上告は認められず無罪が確定
      裁判長判事 長谷川喬
      判事 小松弘隆
      判事 岩田武儀
      判事 木下哲三郎
      判事 鶴丈一郎
      判事 鶴見守義
      判事 横田秀雄
      裁判所書記 川辺紀和蔵
  05/25邑楽郡海老瀬村にある鉱毒地施療院の閉院式が開かれる
     田中正造が出席する
     はじまりは前年の12月28日【12/29?】
  05/25〜06/03頃田中正造が藤岡町や雲龍寺などで鉱毒講話を行なう
  05/末田中正造の申し出により集会がもたれる
     仙台行きのこと、調査会のこと、衆議院議員総選挙のことなどを協議する
  05/31邑楽郡西谷田村大字細谷の三田善蔵外96人が「鉱業被害地調査結了迄納租猶予之儀請願書」を提出する
     大蔵大臣あて。主目的は納租猶予
     のち受理・却下は不明
  05/31鉱毒被害地救済仏教者同盟会による鉱毒激甚地3か所に設けた鉱毒地施療院での巡回診療が終わる
     はじまりは前年の12月28日【12/29?】
     施療活動に要した費用1136円11銭9厘は全額一般募金でまかなわれる
     のち仏教徒による施療院閉鎖のあと、鉱毒地救済婦人会が引き継ぐ
  06/鉱毒地救済婦人会救済施療院を設けて患者を収容することを決定する
  06/06邑楽郡大箇野村の北村定吉外7人が大蔵大臣あてに「鉱業被害地納税猶予願」を提出する
     主目的は納税猶予
     のち却下される
  06/09田中正造の欠伸事件が大審院で弁論を行なう
     06/12大審院が「欠伸事件(官吏侮辱罪)」の上告を棄却。控訴審判決の有罪を是認する形に
  06/13欠伸事件(終)で判決確定の田中正造が40日間、東京の巣鴨監獄で服役することに
     【06/16服役07/26出獄? 41日間服役?】
     鉱毒被害地であわてて田中の特赦請願書を集めて請願、効果はなく
     07/05頃田中正造が病監に移される
     田中入獄中塩谷恒太郎、今村力三郎、高野金重の3弁護士が見舞う
     のち田中が入獄中、新井奥邃が新約聖書を差し入れる
     聖書を読み影響を受ける。田中の言葉に「悔い改めよ」など聖書からの引用が多くなる
     田中はキリスト教への改宗はせず
  06/16田中正造による足尾銅山鉱業停止請願書案の作成が終了【欠伸事件での服役中?】
  06/17邑楽郡赤羽村の松本角太郎外21人が大蔵大臣あてに「鉱業被害地納租猶予願」を提出する
     主目的は納租猶予
     のち却下される
  07/01鉱毒地救済婦人会救済施療院を設け施療を開始する
     東京芝口から芝区愛宕下町に移転した足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所を半分に仕切り設置
     施療にあたる医師はキリスト教徒でもある和田剣之助
     貧窮の重症患者を被害各町村から均等に選び収容する
     1903(明治36)08/東京鉱毒事務所が閉鎖となり救済施療院も閉まる
     収容した患者数は結核患者11人、痙攣性脊髄麻痺2人を含む延べ304人に
     入院施療に費用がかさみ総額1982円16銭4厘【費用は募金でまかなわれる?】
  07/05栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の9040人が欠伸事件で服役中の田中正造特赦願に署名、司法省に提出する
  07/10反対派の黒沢酉蔵ほか2人による説得行為が家宅侵入罪として起訴される
  07/23新田郡九合村の人民総代3人が「足尾銅山鉱業停止請願並ニ被害地免租アケ複【ママ】旧登録税延期請願」を提出
     主目的は鉱業停止と登録税の延期
     のち受理・却下は不明
  07/24新田郡、山田郡、邑楽郡の境野村鉱毒被害民外が「足尾銅山鉱毒ニ関スル請願」を提出する
     主目的は鉱業停止と地租免除
     のち受理・却下は不明
  07/25山田郡、新田郡、邑楽郡の3郡合同被害地境野村高野梅吉外が「足尾銅山鉱毒ニ関スル請願」を提出する
     内務大臣、大蔵大臣、農商務大臣あて
     のち受理される
  07/25新田郡強戸村の坂口広吉外が大蔵大臣あてに「鉱毒荒地復旧登録税延期請願」を提出する
     主目的は登録税延期
     のち受理・却下は不明
  07/28邑楽郡渡瀬村大字早川田村の青木多吉外267人が農商務大臣あてに「足尾銅山鉱毒被害ニ関スル請願」を提出する
     のち受理・却下は不明
  07/29田中正造が欠伸事件の出獄後、病躯をおして広島へ
     第7回衆議院議員総選挙に立候補する花井卓蔵の選挙応援のため
     投票日は8月10日。広島滞在は8月16日まで
  07/29野口春蔵ら被害民代表が「足尾銅山鉱業停止請願書」を足尾鉱毒問題解決期成同盟会に提出する
     「足尾銅山鉱業停止請願書」は田中正造が作成した案を浄書したもの
  08/内務省や第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の意を受けた埼玉県当局による利島村、川辺村の買収、廃村計画案が表面化
     のち両村は利島村相愛会が中心となり計画案に対して激しい反対運動を展開する
  08/04邑楽郡海老瀬村の増田亀八外18人が大蔵大臣あてに「鉱毒被害地登録税猶予願」を提出する
     主目的は登録税猶予
     のち却下される
  08/08足尾地方が豪雨に見舞われ栃木県谷中村で破堤が起き村は湖水と化す【08/09?】
     のち9月8日、28日と、一時期に3度の洪水にみまわれる
  08/09渡良瀬川大洪水が起こる
     谷中村と周辺の堤防が決壊、特に北の赤麻沼に接する85間の堤防が決壊し水浸しに【08/08?】
     のち栃木県は大洪水で破堤した堤防を修築せず村を放置
     元下都賀郡郡長の安生順四郎のように他村の地主が増え県知事も買収が容易とみる
  08/10第7回衆議院議員総選挙が行なわれる。田中正造は出馬せず
     これまで田中の対立候補だった木村半兵衛が初当選する
  08/19〜08/28田中正造が谷中などの被災地を視察する
  08/29〜09/13田中正造が仙台、盛岡、青森など1か所に2日ずつ鉱毒被害救済講演を行なう
  08/3062才の田中正造が単身佐野を出発、川俣事件控訴審公判準備と演説のため仙台へ
     東北人の鉱毒事件の無関心さを知り、政治家や宗教家による大演説会開催の必要性を痛感する
  09/08台風が関東地方を来襲
     1か月前に水穴ができていた川辺村栄西の火打沼先の利根川堤防が360メートルに渡って決壊
     全村が濁流の湖となるも県当局は急水留工事を行わず。利島、川辺両村を遊水池化する方針を固めていたため
     茨城県新郷村の伊賀袋にある渡良瀬川の堤防も決壊する
  09/〜11/田中正造が東北での講演後、群馬県、栃木県、埼玉県などの被害地に運動する
  09/26法制局長官が奥田義人の病気により一木喜徳郎に交代する
     【第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の委員長交代は10/29】
  09/28台風が関東、東北地方に降雨量315ミリの暴風雨をもたらす
     渡良瀬川が大洪水をおこす。関東大洪水
     行方不明125人、流失家屋386など被害が大となる
     銅山周辺の山々が禿山であることが大被害の原因と指摘【誰が指摘?】
     谷中村だけでなく隣接する埼玉県北埼玉郡川辺村と利島村も波浪のなかに没する水害に
     足尾を直撃し銅山の山崩れ、簀子橋壊滅、本山も被害は甚大に
  09/谷中村村民が復旧工事中の谷中堤防が洪水のため流失する
  09/大雨で谷中村北方の赤麻沼が大いに氾濫する【08/09?】
  09/侍従の片岡利和が足尾の鉱毒被害地を巡視する
  09/大洪水がおき、埼玉県の利島村、川辺村に買収計画が真実みを帯びる
  10/第2次足尾銅山鉱毒調査委員会は県からの報告で水害状況を把握
     11/委員会で谷中村、利島村、川辺村地域を遊水池化にしようとする計画があらわれる
  10/埼玉県が9月の大水害で起きた利根川火打沼の決壊堤防を放置し川辺、利島両村の買収を計画
  10/02豪雨で足尾銅山の48戸が流出。死者300人に【09/28と同じ?】
  10/03利島村、川辺村の廃村計画の対応策を協議するため両村の連絡会議が開催される
     破壊堤防の応急工事を放棄している国と県に抗議する
  10/03〜10/11田中正造が埼玉県北埼玉郡川辺村、利島村に滞在する
     川辺村、利島村村民に対して県の買収に反対を説く
  10/第2次足尾銅山鉱毒調査委員会での計画よりも早く埼玉県、栃木県が計画の具体化に動きだす
     利島村、川辺村の遊水池計画の噂が流れる

     のち相愛会に結集した鉱毒反対派の農民が察知
  10/10山田郡毛里田村の鉱毒被害人民総代、板橋信次郎外48人が「請願書」を提出する
     内務大臣、農商務大臣、法制局長官あて。主目的は実地調査
     のち受理・却下は不明
  10/16埼玉県の川辺村と利島村村民が洪水で決壊した堤防を自力で修復させる
  10/16川辺村、利島村が利根川堤防の決壊現場で合同村民大会を開く
     利島村相愛会長の片山嘉平が主唱。村民2千人が集まる
     両村を買収廃村し遊水池にする意図で破壊堤防を放置し修復工事に着手しない政府や県に抗議するするため
     洪水による決壊に対して県が堤防を築かなければ自分たちの手で行なうことに
     満場一致で決死の村民決議を採択。国賊も辞さずの決死の覚悟を示した決議をなす
     一、国・県にて堤防を築かずんば、我等村民の手にてこれを築かん
     一、従ってその際、国家に対して断然、納税・兵役の二大義務を負わず
     【県庁にして堤防を築かずば我等村民の手に依て築かん。従って国家に対し、断然納税兵役の二大義務を負はず】
     【一、県庁若し此両村の堤防を築かざれば村民自ら之を築くべし 一、従って国家に対し断然納税兵役の二大義務を負わず】
     のち決議文は埼玉県庁や関係官庁に提出される
     のち村民のねばり強い運動で県は堤防修築に着手
  10/17利島、川辺の両村民有志が決議文を持ち関係筋への請願に出発
     埼玉県庁では県会の有力議員綾部惣兵衛の仲介で木下周一知事に接見。知事が決議文の内容を知る
  10/29第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の委員長奥田義人が病気により辞任する
     後任に一木喜徳郎が就任する
     【法制局長官の交代は9月26日】
  10/30勢多郡の中沢音二郎外117人が内務大臣、農商務大臣あてに「足尾銅山鉱毒予防ノ儀ニ付請願」を提出する
     主目的は選鉱所、製煉所移転他
     のち受理・却下は不明
  10/田中正造が谷中村の演説会場で初めて島田宗三(14)に会う
  10/栃木県は政府の動向をうかがいながら谷中村の土地買収、遊水池化の計画をすすめる
  11/06片岡侍従が栃木県の鉱毒被害地を視察する
     朝、栃木町から汽車で足利町に着、足利鉄橋を渡り山辺村に
     御厨村から猿田を渡り字常見の毒泥毒砂侵入地には入らず
     ただちに安藤政之輔宅の裏通りより勧農にでて足利駅に着。足利郡の視察を終了
     鉱毒激甚地の川崎、下羽田、下野田は一切案内せず
     安蘇郡は佐野町より人力車で庚申塚晒屋前から舟津川沼畑小暮水車の前へ
     県道を佐野に引き上げる。安蘇郡の視察を終了
     舟津川の激甚地を避け、椿田堤上に登れば荒廃の光景を見得るのに強いて県道を通過する
     巡視行程は故意に激甚地を避け被害民を失望させることに
     のち足利郡5村は村長会議を開き、案内の不当を郡長に迫る
  11/15医学士の今村保が医学雑誌に足尾銅山への出張報告を発表。坑夫に呼吸病多しと記述する
  11/17足利の古春館で演説会が開かれる。田中正造、新井奥邃、花井卓蔵らが演説する
  11/18前日の演者ら一行が山辺村、御厨村など被害地を視察する
  11/第2次足尾銅山鉱毒調査委員会は栃木県の谷中村と埼玉県の2村の地域を遊水池にする計画を立てる
     渡良瀬川下流部谷中村周辺地帯に貯水池約3千町歩をつくることを提案

  11/〜12/第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が瀦水池案、土地収用法、賠償問題などを検討する
  11/埼玉県が決壊口急水溜工事を開始、利島・川辺廃村計画は粉砕される
     【2村被害民の反対運動が活発化したため?】
  11/25法制局にて第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の第8回会議が開かれる
     委員会の冒頭、土木監督署技師の日下部弁二郎から治水対策として渡良瀬川の洪水対策に2案が提案される
     「何分出水ノ時ハ破堤ノ為メ平水ノ時ハ減水ノ為メ必要量ヲ推定スルニ由ナク
     要スルニ基本タル最多大ノ水量ヲ知ル能ハサルニ困難シタルナリ、
     而シテ其第一ノ方法ハ渡良瀬川ノ氾濫個所ニ堤防ヲ作リ其水ヲ利根川ニ疎通スルコト
     即チ新川ヲ開鑿シテ利根ニ水ヲ落スコトナリ、
     其第二ノ方法ハ渡良瀬川ノ沿岸ニ水溜ヲ作リ以テ之ヲ利根川ニ流出スルコト之レナリ、
     第一法ヲ仮ニ実行セムトセハ目下為シツツアル利根川ノ経営ヲ変更セサルヘカラサル大事業ヲ惹起スルノ困難ヲ免レス、
     然ラハ不得止第二方法ヲ実行スルノ外ナカルヘシ」
     第1案として、新川を拓いて利根川に分流する工事をすること
     これは明治33年から進めてきた利根川全体の改修計画を変更する大事業となる
     第2案として、沿岸に「水溜め(遊水池)」を儲けること
     また中山委員から思川、渡良瀬川を併合して遊水池を作る計画が報告される
     鉱毒調査会が谷中村遊水池計画を前提として議論をはじめる
     規模などについては日下部のほか帝国大学工科大学教授で工学博士の中山秀三郎に加えて古在由直も参画
     のち水溜(遊水池)化計画は第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の重要な柱のひとつとして推進されることに
     打開策のひとつとして利根川と渡良瀬川の合流点をもとの形に戻すということ
     ただ合流点の拡幅化は少数の官僚委員しか知らず
     全面的な復元でなく、土地回復の見込みない場所を治水のため政府が買収して天然の遊水池とするよう主張
     古在由直や坂野初次郎らも遊水池化計画に誘導されることに
     のち1反歩当たりの買収額を古在由直は60円くらいを主張、坂野初次郎は平均80円を主張
     対して若槻や井上友一らは猛然と反駁
     賠償問題は法律上、政府や鉱業人に責任はなく政府が買収する責任もない
     治水の必要性からならば遊水池として土地収用法を適用し強制買収する意外にない旨を主張する
     のち遊水池計画は全委員により承認される
     あとは買収に関する問題が残される
  11/25田中正造が宮城控訴院での川俣事件の再審理公判のため仙台着
  宮城控訴院での川俣事件の公判にむけて地元仙台の弁護士24人と青森の弁護士1人が協力することに
  川俣事件の被告人らの宿所は弓ノ町の曹洞宗大安寺に
     住職白鳥励芳が進んで同じ宗派の雲龍寺へ申し入れたことによる
  11/27川俣事件の宮城控訴院第1刑事部による第1回公判が開かれる
     裁判長は松浦亀蔵、陪席判事は斎藤宇一、大橋鉄之助、奈良猶与、萩原義三郎、補充判事として鷹野鋭太郎が付く
     弁護人は仙台の20人と東京から花井卓蔵、卜部喜太郎、塩谷恒太郎と特別弁護人の許可をえた高橋秀臣らが出廷する
     被告人は病気の大森留吉、堀口源吉を除く37人が出頭する
     公判では立会検事が第1審の判決に兇徒聚衆罪を適用しなかったのは誤りと控訴の趣旨を述べる
     対して仙台の青山幾之輔弁護人は前橋の検事福鎌芳隆の控訴申立書は福鎌の自署でない
     本件控訴は無効だから控訴棄却をせられたいと述べる
     裁判所は合議のうえ福鎌に照会するとして次回を12月25日とする
  11/27田中正造は公判中控え室に待機
  11/27田中正造が仙台の陸奥園にて被告団より慰労を受ける
  11/27川俣事件の仙台の浜崎弁護士らの発起で森徳座にて慈善演説会が開かれる
     田中正造のほか花井卓蔵、卜部喜太郎、塩谷恒太郎、高橋秀臣ら弁護士と地元の代議士沢来太郎ら
     1千人の聴衆を前に演説し気勢をあげる
  12/川俣事件の裁判で宮城控訴院が前橋地方裁判所に控訴申立書が自署によるものか照会。回答を得る
     明治33年12月22日付の福鎌芳隆の控訴申立書は自署にあらず
     該事件の各予審請求書も当該検事松本光明、小林登志吉の自署にあらず
  12/04足尾鉱毒問題解決期成同志会が足尾銅山の改善を主体とした「鉱毒解決意見書」を発表する【11/04?】
  12/12東京の鉱業停止期成同盟会(足尾)が5県53町村長の連署のもと貴族院、衆議院に鉱業停止請願書を提出する
  12/19第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の第10回会議が開かれるが開かれる
     洪水、治水の問題が中心に審議される。帝国大学工科大学の中山が提案する【中山秀三郎?】
     中山委員は9月の関東大洪水の出水の様子や利根川との関係を調べ説明する
     貯水池は谷中村と周辺地域をあて、藤岡台地を開削して渡良瀬川の洪水を引水、面積はおおよそ3千町歩とする
     渡良瀬川の洪水を赤麻沼に引き入れ、谷中村に溜める場合の具体的5工事案と約400万円の費用の検討を行なう
     全員一致で遊水池化を決定する
     「先ツ藤岡ノ決壊点ヨリ赤麻沼ヘ引水シ之レヨリ谷中村ヘ流入スルノ計画ニテ設計スルニ、
     平均十尺ノ深サトシ三千町歩ノ遊水池アレハ或ハ可ナリ奏効セムト思料ス、之レ素ヨリ大体ノ見込ナリ、
     而シテ此範囲ハ一個所ノ遊水池トナル訳ニテ藤岡ノ部分ニハ其堤防ヲ低ク作ルノ考ナリ」
     洪水の対策として遊水池の設置計画がいっそう具体化する
     のちこの日欠席の帝国大学農科大学の本多から意見が書面で郵送される【本多静六?】
     被害民を北海道へ移住させるという案がなされる。北海道への移住案は初
     のち1904(明治37)年末の帝国議会で実際に決定された額は国費、県費あわせての48万円にすぎず
  12/21この頃、川俣事件の被告人のうち左部彦次郎、大出喜平らが逃亡のおそれありと保釈を取り消される
     保釈取り消しは、公訴不受理の判決を見通した検事が再起訴しようと主な被告人の身柄を押さえるため
  12/23群馬県会が内務大臣に鉱毒救済を建議する
     この年、群馬県会が行なった唯一の対鉱害策
  12/23川俣事件の複数の被告が再収監される【再起訴の準備?】
  12/23第2次足尾銅山鉱毒調査委員会で遊水池の土地買収に関して討議される
     古在由直と坂野初次郎はあくまで救済の意味を含めての買収を主張
     若槻礼次郎と井上友一の反対にあうも他の委員も賛成し土地を買収することにまとまる
     のち調査委員会は全般の審議を終え官僚による報告書の作成にうつる
  12/25川俣事件の宮城控訴院第2回公判が開かれる
     仙台の弁護士20人のほか東京の三好退蔵、信岡雄四郎、高野金重、高橋秀臣らが出廷する
     裁判長は控訴申立書が自署でないとする福鎌検事正の回答書を朗読させる
     武田検事は自署でない以上、本件の控訴は棄却せよと弁護人のように述べる
     小林登志吉、松本光明両検事の予審請求書も自署でないのは明らか
     被告人の控訴申立分について控訴不受理の判決をと述べる
     弁護人は軽罪の時効成立を狙い公判の引きのばしをはかる
      前橋地方裁判所検事局の書記を証人として喚問したいと述べる
     合議した裁判所は予審請求書が自署でないことは明らかとして弁護人の証人喚問請求を却下する
     休憩後、判決宣言のため再開
     福鎌、小林、松本各検事の控訴申立書、予審請求書はすべて自署でなく刑訴20条1項に反し無効
     検事の控訴はすべて棄却
     第1審判決で有罪となり控訴した野口らの控訴は取り消す
     被告人らに対する公訴はすべて受理せず
     差押え物件は差出人に還付するとの判決がだされる
       判決は福鎌検事の控訴申立書と、松木検事と小林検事の各予審請求書は署名が検事の自署でなく、
       刑事訴訟法第20条第1項の規定に違背する無効の書類であり、したがって公訴は適法に成立しない、
       右の理由によって本件検事の控訴はすべて理由がなく、刑事訴訟法第261条第1項に従って棄却する。
       また被告の控訴にかかわる原判決(有罪判決)は不法であって、その控訴は理由がある。
       よって同条第2項に従いこれを取り消す
        宮城控訴院第1刑事部裁判長判事 松浦亀蔵
        判事 齋藤宇一
        判事 大橋鉄之助
        判事 奈良猶与
        判事 荻原義三郎
     12/27護送の関係で不出頭の左部に同旨判決。大出、左部らは宮城監獄から釈放される
     のち以降、再起訴はされず
     のち仙台での控訴審が終了した時点で、旧谷中村とその他の村々(埼玉県川辺村、利島村を除く)は事実上の分裂となる
     運動が二分する
  12/27埼玉県の臨時県会で木下周一知事が川辺村と利島村の土地買収計画と遊水池化計画を断念すると表明
     【買収案を破棄?】
     【1903(明治36)02/17に埼玉県知事が川辺村、利島村を遊水地にすることを断念する】
  12/30埼玉県の臨時県会で夏の風水害復旧工事費について予算審議が行なわれる
     知事の木下周一が川辺村と利島村の水害対策のひとつとして遊水池化を検討した表明する
  栃木県知事の溝部惟幾が秘密裏に谷中村買収案を作成する
     災害土木費の名義で108万円の県債を起こす案を立て臨時県会を開く準備を整える
     12/30溝部惟幾が教科書収賄事件で入獄する
     菅井誠美が知事に就任する
  政府や県当局は足尾鉱毒被害民に対し本格的な被害地回復政策をとることをせず
     他土地への移住推奨を推し進めることに
  第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の報告書へ向けて内閣書記官の井上友一が15項目からなる「貧民救済の試案」を示す
     (1)〜(3)鉱毒に侵された土地改良、種子や苗、窮民の就業などへの国庫補助の制度
     (4)(5)北海道移住とそのための特典
     (6)就学、実業講習への公費支出
     (7)水源地植林事業の拡大と窮民の優先的な雇用
     (8)養蚕、梨、煉瓦、染色などの殖産の援助
     (9)窮民の共同事業、産業組合への補助 
     (10)治水、排水、水利組合の事業への窮民の優先雇用
     (11)耕地整理と増反部分の窮民への付与
     (12)窮民の実態調査
     (13)林業、植林への窮民の優先雇用、官有地の下付
     (14)別記する各種計画で民業改善
     (15)一般の民業改善の振興による貧困状態の改善
     のち(1)から(3)までの補償問題は保留に
     (4)から(10)までは採択
     (11)(13)は修正して採択
     (12)(14)(15)は削除される
     のち概ね被害の激しい土地は買収し移住させる方向で議論がまとまる
  足尾銅山、黒髪山、甲申山など南北10里、東西3里余りが山林濫伐のため崩壊する
     善良な肥土は渡良瀬川沿岸一帯の地にあふれる
  この年の谷中村の総耕地面積は551町歩
     その3分の1が田で残りが畑。自作地は388町歩、小作地が163町歩に

1903(明治36) 63

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第20代]内海忠勝、[第21代]児玉源太郎文部大臣が兼任(07/15→)、
  《内務大臣》[第22代]桂太郎内閣総理大臣が兼任(10/12月→)
  《警視総監》[第14代]大浦兼武/再任、[第15代]安立綱之(09/22→)
  《農商務大臣》[第18代]平田東助(→07/17)、[第19代]清浦奎吾(07/17→09/22・司法大臣による兼任)
  《農商務大臣》[第20代]清浦奎吾(09/22→)
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦
  《帝国議会》[第18回特別会](05/12→06/04)、[第19回通常会](12/10→12/11・解散)
  《栃木県知事》[第11代]菅井誠美
  《群馬県知事》[第12代]吉見輝
  《埼玉県知事》[第12代]木下周一


  栃木県の水害復旧工事費に関して政府に国庫補助を要求する
     そのとき谷中村を買収して瀦水池とする計画が台頭する
     大久保源吉、鯉沼九八郎、清水千勝、上野大太郎らが知事官邸に招かれる
     谷中村を買収しなくては補助費の下付は不可能であるから買収案を成立させよと懇請を受ける
     諸氏等は不当に対して反論しその場を去る
  01/01〜02/05田中正造が栃木県足利郡、群馬県邑楽郡、埼玉県北埼玉郡などの被害地に運動する
  01/遊水池にする計画に対して埼玉県の川辺村と利島村から激しい反対が起こる
     【前年12月27日に埼玉県は土地買収計画と遊水池化計画を断念すると表明?】
  瀦水地の予定地が埼玉県の川辺村、利島村から栃木県の谷中村に変更となる
  01/栃木県が谷中村の土地買収、遊水池化の計画を進める
     谷中村は政府と栃木県による遊水池化計画に抵抗できず
     原因は不在地主が多くまとまりに欠けたこと
     排水機の設置や村の責務をめぐり起きた村民どうしの反目に県の介入を許したため
     加えて利島村や川辺村が埼玉県なのに対して、谷中村は足尾銅山を抱える栃木県にあるということ
  01/県会開会の直前、田中正造が赤麻にて演説
     「谷中村の村債を引証して、同村は買収の不幸に遭遇するの日は巳に近らん」
  01/10栃木県臨時県会がはじまる
     そのなかで菅井誠美知事は思川流域の堤防修築費の名目で48万余円を予算案に計上する
     実質は谷中村買収費
     谷中村買収案は溝部惟幾前知事が前年に作成
     日露開戦論が沸騰する頃、その隙をねらっての提案
  01/15第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の調査の結果が医学雑誌に掲載される【委員会の調査結果?】
     「銅害の実害はほとんど発見されず、ただ鉱毒地の人民に十二指腸虫患者が夥し」
  01/16栃木県第5回臨時県会でかつて溝部知事が計画していた谷中村買収の審議がされる
     【「土木費治水堤防費修築費思川流域の部」の予算案を審議?】
     間近い調査委員会の結論を待って、買収の結論をだしたらよかろうと買収案は未採決に否決?
     この時点でも遊水池の予定地や規模、工事概要などの具体的内容や遊水池設置計画自体さえ、まだ公表されず
     谷中村遊水池化計画の買収費計上分は政府の第2次鉱毒調査会の様子をみてからとの理由で削除し採決
     【菅井清美が臨時県会を開き、前知事の溝部惟幾が計画した谷中村買収の議案を可決させる?】
     溝部の108万円より41万円を別途として銀行に預け入れる
     のち6万円以上の利子がつく
  01/16前年7月10日の黒沢酉蔵らによる家宅侵入事件が東京控訴院での控訴審で第1審同様の無罪判決に
  対露問題が浮上し主戦論が世論を圧倒すると足尾の鉱毒問題は後景に退く
     一部の知識人、キリスト教者、社会主義者を除いて、世論は日露問題へ移り、有力な支援者は対露強硬論者に
  埼玉県の川辺村、利島村村民が一致して谷中村の遊水地化の反対運動に立ち上がる
  02/01田中正造が谷中村に栃木県の買収計画を調査する
  02/07第8回衆議院議員総選挙に島田三郎が出馬する。田中正造が横浜に応援する
     投票日は3月1日。滞在は3月2日まで
  02/08利島村相愛会が渡良瀬川下流の各町村で遊水池反対の巡回談話会と幻燈会の実行を決定する
     のち2月11日から4月8日までに約40回開催する
  02/12鉱毒問題に同情を寄せる河井重蔵が第8回衆議院議員総選挙に立候補する
     田中正造が応援演説に静岡県の掛川へ
     田中は「海陸軍全廃」の「無戦論」を説く
     【日本で初めての日露非戦論演説?】
  02/17埼玉県知事が川辺村、利島村を遊水地にすることを断念する
     【前年12/27に埼玉県知事が川辺村と利島村の土地買収計画と遊水池化計画を断念すると表明】
  委員会の報告書提出前埼玉県の議会と栃木県の議会が埼玉の川辺村と利島村、栃木の谷中村の買収案をかける
     この時点で栃木県は、すでに谷中村土地買い上げの国庫補助を得ている
     【まだ埼玉県の川辺村、利島村の買収案が動いているとき?】
  03/02第2次足尾銅山鉱毒調査委員会「足尾銅山ニ関スル鉱毒調査委員会報告書」を政府に提出
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
     提出したのは調査委員会の新委員長一木喜徳郎
     足尾周辺の山林回復の措置と渡良瀬川の治水事業の必要性を強調する
     遊水池化計画、地価減額修正、北海道移住などを盛った鉱毒処分を打ちだす
     第4章第3節「治水事業」によると
     利根川と渡良瀬川の合流地点付近は川の勾配も異なり洪水時、河水が停滞する
     結果、渡良瀬川、思川などに逆流し氾濫を招く
     そこで渡良瀬川流量の一部を遊水させて利根川の減水を待ち、おもむろに排水させる
     「遊水池の深さ平均10尺とするときは、之に要する全面積二千八百町乃至三千町歩」と記載
     利根川の洪水を防止するため渡良瀬川流域に遊水池を設置するよう提案
  03/03第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が『報告書』を総理大臣に提出する【『鉱毒調査委員会調査報告書』?】
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
     『報告書』は第1章「被害の状況」、第2章「被害の原因」、第3章「鉱毒の根源」、
     第4章「鉱毒被害救治の方法」と鉱毒問題全般にわたり詳細に述べる
     ただ足尾鉱毒の根絶、農地回復のための根本的な対策については言及されず
     足尾銅山の鉱業問題にはふれず、対策は渡良瀬川の洪水問題に限られる
     効果の見込める最大の対策として「谷中村の遊水池化」が提起される
     基本的な問題ののすり替えが行なわれる
  03/03第2次鉱毒調査委員が桂太郎首相に報告書を提出したとき同時に意見書が提出される【06/03水に提出?】
     「鉱毒調査会被害民生業及衛生状況ニ関スル意見書」
     【『別冊・被害民生業及び衛生状況に関する意見書』「被害民生業及衛生状況ノ改善ニ関スル意見書」?】
     生業善後処分が記される
     (1)農民に鉱毒被害を軽減する方法を講習すること
     (2)農事や諸般の生産事業を振興させるよう努力し、善後基金として国庫から補助金をだすこと
     (3)被害民の北海道移住を図ること
     様々な救済策のひとつとして被害民の北海道移住の奨励が提案される
     意見書は委員の希望で当局施政の参考に資すもので拘束力はもたず
     ただ意見書は被害農民の生活やその後の運動をより直接的に左右するものとなる
     また遊水池設置計画が正式に発表され谷中村遊水池案が浮上
     谷中村の買収計画がいっそう露骨に進められる
  03/03第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の報告書は渡良瀬川の治水は堤防修築だけでの氾濫防止は不可能とし
     渡良瀬川、思川、利根川が合流する地域に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を設けることが必要とする
     谷中村を中心とする3千町歩がその地域として示唆
     のち調査会の報告書を受け栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られる
     はじめ埼玉県側に作られる予定が激しい反対のため農業を主な産業とる栃木県下都賀郡谷中村に変更
     日清戦争、日露戦争のさなかの政府は鉱山の操業を止めるわけにはいかず
     反対運動を食い止めるため田中正造が住み運動の盛んな谷中村の廃村を決定
  03/04第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の結果報告が内閣総理大臣に提出される
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
     のち公表はされず
     のち帝国議会で島田三郎などから公表を求める質問により提起される
  03/18栃木県が放置する前年に決壊した破堤所を谷中村村民が自費で急水留工事に着手する【村民主導?】
     【復旧工事?】
  03/栃木県庁が、ようやく前年の洪水による谷中村の破堤所復旧工事に着手する【県主導?】
  03/〜04/田中正造が主に足利郡、山田郡にて待矢場両堰水利組合と古河側との寄附示談契約の撤回、鉱業停止のため運動する
  04/05古河市兵衛が71才で病没、古河潤吉が足尾銅山の2代目当主となり経営を担う【72才?】
  05/09足尾鉱毒問題解決期成同志会が組織される
     委員は巌本善治、今村力三郎、花井卓蔵、飯田宏作、本多庸一、布川孫市、和田剣之助、高橋秀臣、
     高木政勝、田中弘之、卜部喜太郎、潮田千勢陸実、矢島楫子、幸徳伝次郎、安部磯雄、佐治実然、
     佐藤良太郎、木下尚江、塩谷恒太郎、島田三郎、門鳥尚経、鈴木重遠、鈴木万次郎
  05/09足尾鉱毒問題解決期成同志会が「足尾銅山鉱業停止建議書」を総理大臣の桂太郎に提出する
  05/11田中正造が三好退蔵、島田三郎に貴族院、衆議院への請願書の提出を依頼する
     のち東京に滞在する
  05/12相愛会の有志が第2次足尾銅山鉱毒調査委員会委員長一木喜徳郎と総理大臣の桂太郎に請願書を奉呈するため上京
     05/13首相官邸を訪問する
  05/16〜06/17足尾銅山鉱毒問題解決期成同志会が意見発表演説会を4回開く
     神田区錦輝館、本郷区中央会堂、芝区ユニテリアン会堂、両国江東伊勢平楼
  05/26巌本善治、本多庸一、田中弘之、島田三郎の4人が委員総代として桂太郎首相に面談
     「鉱毒問題解決意見」を提出する
  05/28島田三郎が第18回特別議会で足尾銅山鉱毒に関する質問演説する
  05/第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の報告書が第18回帝国議会に「足尾銅山ニ関スル鉱毒調査会報告書」として提出
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
     報告書による処分案は基本的な足尾銅山の鉱毒規制をなおざりに
     洪水の原因が製錬に伴う煙害と山林乱伐による水源地帯の荒廃にあることを無視
     もっぱら土木工事を中心とする洪水対策が中心となる
     鉱毒問題の治水問題へのすり替えとなる
     被害農民に直接影響する鉱毒処分の方法は限定された6項目
     (1)足尾銅山ニ於ケル除害
      1897(明治30)の予防工事の不十分な部分の補修が主に
     (2)林野ノ経営
     (3)治水事業
      渡良瀬川沿岸の治水は利根川との関係から堤防の修築だけでは氾濫を防止することは不可能
      そこで渡良瀬川、利根川、思川の3川が合流する付近に渡良瀬川の流量の一部を遊水させる
      本川の減水を待ち排水させる、いわゆる遊水池を設けることが必要であるとする
     (4)灌漑水ノ除害
     (5)被害農地ノ改良
     (6)渡良瀬川沿岸被害地地価修正
     1902(明治35)年12月27日に埼玉県が、1903(明治36)1月16日栃木県が放棄した
     遊水池化計画が第2次足尾銅山鉱毒調査委員会により権威づけられ国家の計画として正当化され再登場したもの

  06/035月28日の島田三郎質問演説に対する答弁に代えて第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の調査報告書を発表
     第18回帝国議会に「足尾銅山ニ関スル鉱毒調査委員会報告書」が提出される
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
  第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の「足尾銅山に関する調査報告書」では遊水池の位置地名は明記されず
     調査委員会の審議では地名、工事費、土地買収費などは計算される
     「藤岡の決潰点より赤麻沼へ引水し、これより谷中村へ流入するの計画にて設計するに、
     平均十尺の深さとし三千町歩の遊水池あれば或はかなり奏効せん」
  谷中村問題が浮上し渡良瀬川沿岸全域の鉱毒被害民による運動が停滞、多くの農民が運動から離れる
     のち鉱毒反対運動衰退の原因は川俣事件の弾圧と裁判の長期化、鉱毒、洪水による運動家の経済的困窮など
  06/14第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が『鉱毒調査委員会調査報告書』を第18回帝国議会に提出する
     【03/02政府に 03/03総理大臣に 03/04総理大臣に 05/議会に 06/03議会に 06/14議会に
  06/29片山潜が『社会主義』の編集発行人として東京地裁で罰金刑の有罪判決を受ける
     記事は第7年第13号に掲載した西川生(西川光次郎)の「噫鉱毒被害民!」と小塚空谷の「労働軍歌」
  07/01青年修養会が連日7回に渡り鉱毒問題に関する熱弁をふるう
     鉱害問題に限らず幅広く演じられる
     下谷区二長町の足立屋にて第1回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、開会の辞 山口勉
     一、露国は吾国の勁敵に非ず 大亦楠太郎
     一、民は国の本、吏は民の雇 高木来喜
     一、噫爆烈弾の時か 菊地茂
     一、敢て毒薬販売を禁ずる勿れ 佐藤千纒
     一、人命問題 西川光次郎
     一、経緯済度 田中弘之
     一、国家問題としての鉱毒事件 高橋秀臣
  07/02神田区の今金にて青年修養会の第2回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、大塩平八郎先生を憶ふ 菊地茂
     一、不作為犯を論じて鉱毒問題に及ぶ 大亦楠太郎
     一、毒流一洗 加藤咄堂
     一、黄金と人命との軽重如何 高木政勝
     一、経世済民 田中弘之
     一、国家としての鉱毒事件 高橋秀臣
  07/03麹町区富士見町の遠州屋にて青年修養会の第3回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、国民と鉱業 北原亀太郎
     一、調査と解決 佐藤千纒
     一、鉱毒問題と人世観 鈴木錬栄
     一、相馬大作を憶ふの 大亦楠太郎
     一、今日ある所以 加納豊
     一、国家問題としての鉱毒事件 高橋秀臣
  07/04「鉱毒地救済婦人会」の会長をした35才の潮田千勢子が死去
  07/04芝区兼房町の玉翁亭にて青年修養会の第4回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、同情なき社会 藤島源蔵
     一、社会の木鐸 佐藤千纒
     一、藤村操君と中西堅助君との死に就て 大亦楠太郎
     一、与論の勢力 高木来喜
     一、病みたる馬は鞭を恐れず 川島仟司
     一、国家問題としての鉱毒事件 高橋秀臣
     一、鉱毒政策 島田三郎
  07/05日本橋区本町の亀の屋にて青年修養会の第5回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、人道のあらん限り 東則正
     一、大塩平八郎の進退如何 奥谷文智
     一、黄金の磁力 小串信太郎
     一、現行刑法の価値幾千ぞ 大亦楠太郎
     一、百年の憂を残す勿れ勿高木政勝
     一、仁道と政道と 新井要太郎
     一、経緯済度 田中弘之
  07/06浅草区蔵前の植木屋にて青年修養会の第6回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、民を重となし社稷之に次ぐ 菊地茂
     一、陳腐なる問題 藤島源蔵
     一、不清源泉難清末流 佐藤千纒
     一、青年の責務 加納豊
     一、本末論 北川筌固
     一、鉱毒問題は国家問題也 高橋秀臣
     一、鉱業政策 島田三郎
  07/07下谷区上野山下の鴈鍋にて青年修養会の第7回鉱毒問題演説会が開かれる
     一、藤村操君と中西堅助君の死に就て 大亦楠太郎
     一、犯罪行為は果して悪なりや 菊地茂
     一、立憲政治と鉱毒問題 遠藤敏
     一、憲政の真価果して幾千ぞ 高木来喜
     一、噫鉱毒被害民 加納豊
     一、失望は痴人の断案なり 高野金重
     一、鉱毒病 田中治六
     一、国民の責任 高木政勝
     一、第五回博覧会の行賞と鉱毒問題 佐治実然
     一、鉱毒問題の解決 安部磯雄
  07/21東京鉱山監督署が第2次足尾銅山鉱毒調査委員会の報告を受けて古河潤吉に鉱毒除害命令を古河鉱業にだす
     【除害工事命令(通算5回目)?】
     【07/22? 東京鉱山監督署長が古河潤吉に第5回予防命令を発する?】
     調査委員会の調査ののちにだされた15項目からなる命令
     古河にとっては1897(明治30)の命令に比して極めて容易な内容となる
  07/25田中正造による潮田千勢子への弔辞が『婦人新報』に掲載される
  07/頃田中正造が嘆く
     「地方数回の集会不活発、不寄(よらず)不寄にて延会し、終に結局は出来ぬ出来ぬで畢(おわ)る」と
  08/東京府下芝区芝口2丁目の越中屋東京鉱毒事務所が閉鎖となる
     【08/22〜08/25に東京鉱業停止事務所を神田区小川町の内田方に移転する?】
  08/鉱毒地救済婦人会が芝区愛宕下町の足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所に設けた救済施療院が閉じる
     開院は前年の7月1日
     収容した患者数は結核患者11人、痙攣性脊髄麻痺2人を含む延べ304人に
     入院施療に費用がかさみ総額1982円16銭4厘【費用は募金でまかなわれる?】
  08/谷中村はじめ下流域の栃木、群馬、埼玉、茨城の4県8村が洪水の被害を受ける
     田中正造は大洪水直後から「鉱毒〈新〉被害地」と捉えるようになる
  09/23谷中村村民が自力で復旧した堤防が洪水で崩壊する【工事中の堤防?】
  09/28田中正造が内務大臣の児玉源太郎に面会。鉱毒事件を説明する
  10/07第2次足尾銅山鉱毒調査委員会にて古在委員が渡良瀬川沿岸耕地の今年の農作物が予想外に豊作であると報告する
     第20回にして最終回の会合となる
     12/04第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が解散する
  10/10神田区の基督教青年会館で東京各学校新入生招待演説会が開かれる。田中正造が演説する
  10/14青年修養会の第1回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が本郷区の中央会堂に開かれる
     一、奮て問題の解決を促せ 島田三郎
     一、健忘的社会の流毒 高野孟矩
     一、人生の悲観 加藤咄堂
     一、殺人論 西川光治郎【ママ】
     一、鉱毒問題に関し対演を田川氏に挑む 佐藤千纒
     一、局面一変 大亦楠太郎
     一、被害地豊作の理由 田中正造
  10/16青年修養会の第2回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が芝区兼房町の玉翁亭に開かれる
     一、鉱毒問題の解決 信岡雄四郎
     一、最後の手段 加納豊
     一、田川大吉郎氏の「嗚呼鉱毒論」を評す 菊地茂
     一、潮田夫人と中西堅助君を想ふ 大亦楠太郎
     一、鉱毒地豊作問題に就て 原輝之助
     一、禿頭にも毛の生すへき乎 上杉純雄
     一、問題解決の手段 北原亀太郎
     一、政府当局は被害窮民なり 田中正造
  10/18青年修養会の第3回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が本所区江東の伊勢平楼に開かれる
     一、亡国に至るを知らざれば亡国也 田中正造
     一、鉱毒観 川島仟司
     一、革命時代 北原亀太郎
     一、病的道徳 加納豊
     一、鉱毒地豊作に関する誤解を論ず 田中弘之
     一、鉱業停止と豊作 高野金重
     一、嗚呼郷里の義人 岩田唯雄
     一、唯断の一字ある耳 信岡雄四郎
  10/22青年修養会の第4回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が麻布区今井町の法音寺に開かれる
     一、富の目的 木下尚江
     一、今日ある所以 加納豊
     一、如何にせば問題を解決し得る乎 鈴木錬栄
     一、被害地豊作問題に関し我同胞に促す 川名文治
     一、人間本位 光山百川
     一、弁妄 新井要太郎
     一、黄金中毒論 加藤咄堂
  10/25青年修養会の第5回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が浅草区蔵前の植木屋に開かれる
     一、亡国に至るを知らざれば亡国也 田中正造
     一、人命問題 上杉純雄
     一、一言を呈す 田中健男
     一、十九議会と鉱毒問題 北原亀太郎
     一、戦争と鉱毒問題 祥雲碓悟
     一、鉱業停止論 黒澤酉造
  10/26青年修養会の第6回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が駒込の真浄寺に開かれる
     一、所謂愛国者に問ふ 関透
     一、嗚呼鉱毒乎公毒乎 永井柳太郎
     一、天然力 佐藤千纒
     一、鉱毒問題と宗教 境野哲
     一、鉱毒問題とは何ぞや 高嶋圓
     一、今後の覚悟 加納豊
     一、鉱毒地に就て 丸山虎之助
     一、鉱毒問題は国家問題也 高橋秀臣
  10/27青年修養会の第7回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が神田区鍛治町の今金に開かれる
     一、公平なる解決断案 安部磯雄
     一、噫鉱毒問題 信岡雄四郎
     一、噴火山上の舞踏 竹内恒吉
     一、嗚呼鉱毒論の著者に問ふ 菊地茂
     一、現代文明の真相 岩田唯雄
     一、刺客感 大亦楠太郎
     一、国家経済と鉱毒問題 永井柳太郎
     一、除害命令論 高野金重
     一、除害地豊作の実況 田中正造
  10/27田中正造が青年修養会の演説会で抗弁する
     「豊作の原因は工事の効果ではなく、大洪水による山崩れで新しい土が被害農地にかぶさったため」
  11/01青年修養会の第8回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が下谷区二長町の足立屋に開かれる
     一、娼妓と衆議院議員 田中弘之
     一、文明論 伊藤謙治郎
     一、鉱業停止論 黒澤酉蔵
     一、豊作祝すべき乎 平山慎一
     一、公平なる書に接す 東則正
     一、経済上より見たる鉱毒問題 竹内恒吉
     一、根本的解決 北川筌固
     一、亡国に至るを知らざれば是即ち亡国也 田中正造
  11/11神田区の錦輝館で普選問題演説会が開かれる。田中正造が演説する
  11/11青年修養会の第9回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が南品川町の海徳寺に開かれる
     一、鉱毒問題に就て 高木正年
     一、革命以外に手段なき乎 加納豊
     一、敵は本能寺にあり 北原亀太郎
     一、予の解決意見 鈴木錬栄
     一、内憂外患孰れが重き乎 菊地茂
     一、鉱毒被害民の惨状 信岡雄四郎
     一、国家問題としての鉱毒事件 高橋秀臣
     一、是れ亡国問題也 田中正造
  11/14青年修養会の第10回足尾銅山鉱業停止意見発表演説会が神田区三崎町の吉田屋に開かれる
     一、人間本位論 田中弘之
     一、殺人論 西川光治郎
     一、公徳の欠乏せる社会 伊藤謙治郎
     一、開戦の動機と暗殺の動機 大亦楠太郎
     一、貴賎の別を論す 関透
     一、根本的解決 北川筌固
     一、是れ亡国問題也 田中正造
  11/15〜11/19頃田中正造が京橋区の和田病院に入院する
  12/02神田区の錦輝館で足尾銅山鉱業停止演説会が開かれる。田中正造が演説する
  12/04第2次足尾銅山鉱毒調査委員会が解散する
  12/06、07田中正造、木下尚江らが佐野、足利で演説する
  12/08田中正造が石川半山と雲龍寺方面の被害地視察ののち出京する
  12/08夜、田中正造が神田区の錦輝館で演説する
  12/田中正造が衆議院議員を辞任し第19回帝国議会からは他の者が鉱毒問題の質問に立つ
     大村和吉郎、鈴木万次郎、蓼沼丈吉、箕浦勝人、島田三郎、安川繁茂ら
  12/谷中村の戸数370戸、人口2585人(男1309、女2276)【計算があわず?】
  明治36年度渡良瀬川沿岸一帯が豊作になる
  明治36年頃の谷中村の地勢栃木県下都賀郡谷中村は栃木の南端、渡良瀬川の北岸に位置する
     東南は茨城県古河町に、南は渡良瀬川を隔て埼玉県利島村、川辺村に、
     西は群馬県海老瀬村に、西北は下都賀郡藤岡町に接する
     北に赤麻沼があり、谷中村の東端で巴波川が思川に合流し渡良瀬川に注がれる
     三方が3里半の堤防にかこまれる
     谷中村は明治元年から34年までの間に堤防決壊が13回、典型的な水害常襲地域
     鉱毒事件が起こる前までは洪水で沃土が流入し豊作に恵まれる村でもある
  谷中村の人口がピークに。下都賀郡統計書によると戸数377戸、人口2527人
  1900(明治33)に古河鉱業事務所に入社した南挺三が足尾鉱業所所長に就任する
     南は古河鉱業事務所に入社する前は東京鉱山監督署長。完全な天下り

1904(明治37) 64

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第22代]桂太郎内閣総理大臣が兼任、[第23代]芳川顕正(02/20→)
  《警視総監》[第15代]安立綱之
  《農商務大臣》[第20代]清浦奎吾
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦
  《帝国議会》[第20回臨時会](03/20→03/29)、[第21回通常会](11/30→)
  《栃木県知事》[第11代]菅井誠美(→01/25)、[第12代]白仁武(01/25月→)
  《群馬県知事》[第12代]吉見輝
  《埼玉県知事》[第12代]木下周一


  01/14〜02/20田中正造が鉱毒被害地に運動する
     第9回衆議院議員総選挙に栃木県の森鴎村、群馬県の武藤金吉らを推薦する
  01/26群馬県新田郡郡長が古河潤吉に対して待矢場用水組合との契約の期限切れについて通知する
     【待矢場両堰水利土功会?】
     今後の方針を打診する
     02/03古河潤吉が返答する
     「本件ニ関スル内外全体ノ形勢ハ勿論小家ノ之ニ対スル位置責任等ニ至ル迄
     該契約締結ノ当時即チ30年2月ト今日トハ全ク変化致シ居候」
     鉱毒交渉を拒否する内容に
     日露開戦に際し銅の最大供給源としての地位の誇示と、それに伴う被害農民の敗退の一断面が露呈する
  02/06日本がロシアに宣戦布告。連合艦隊が佐世保港より出撃。日露戦争が始まる
     1905(明治38)09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
  02/23〜02/26田中正造が河井重蔵の総選挙応援のため静岡県掛川町などで演説する
  02/28頃〜03/09田中正造が被害地に運動する
  03/01第9回衆議院議員総選挙が行なわれる。群馬県の武藤金吉は当選、栃木県の森鴎村は落選する
  03/13〜04/10田中正造はおもに在京する
     第20回帝国議会に向けての檄文を作成、運動をする
     「名を軍国に藉りて社会を蹂躙し私慾を逞うせんとする悪魔を撲滅し国民は国民の権利人道を保全することを勤めよ」
  03/15村山半が死去する
  03/栃木県会が前年の1月16日に続いて谷中村買収案を再び否決する
  03/栃木県の土木吏が谷中村堤防工事の名目で形式的復旧に着手【じつは堤防破壊の内命も】
     前年9月の谷中村の再破堤の復旧工事に着手する
     築堤工事は数十人の官吏と11万円を以て2年間にわたり行なわれる
     労働者の賃金は極めて低く設定される
     100間余の切れ口を220間に切り広げ、徳川時代からの堤防の太い個所を左右にわたり1千間以上切り細める
     高い個所を低く積み替える名目で250間余の石垣を取り崩し赤麻村の石材譜請場に売り払う
     【破堤所付近1千間余にわたり堤防の皮土がはぎ取られ、波除けの柳を伐られ護岸用の石が持ち去られる】
  04/01渡良瀬川沿岸被害地地価修正法が施行される【渡良瀬川沿岸地方特別地価修正法?】
     被害農民の要求のひとつ地価減額要求に立法措置により応じたもの
     地価修正の内容は被害程度に応じて田畑を1等(地価8割減)から10等(地価1割5分減)に分類
     免訴の年期明けの土地に対して適用される
  04/11田中正造が桐生で「精神的改造、戦時の内治」を演説する
  04/13田中正造が梁田へ
  04/29御厨村宝福寺で時局政談演説会が開かれる。田中正造が演説する
  05/04栃木県が進める谷中村の破堤復旧工事が少しの出水で破堤する
     【谷中堤防が洪水により流失する? 復旧工事中の堤防が再度流失?】
  05/05栃木県の土木吏が復旧工事に名を借りての護岸取り崩し工事に着手する
  05/09田中正造が佐野に島田三郎を招く。日露戦時国民の人道と鉱毒問題政談演説会を開催する
  05/11、21田中正造が谷中村を視察する
  05/18田中正造が古河町に西川光次郎らを弁士として招く。戦時鉱毒演説会を開催
     弁士を谷中に三度案内する
  06/中旬田中正造が病気に
     06/185年ぶりに生まれ故郷の小中に帰り療養する
  06/栃木県が谷中堤防の復旧工事に着手する
     風波除けに植えられていた柳の樹を伐採するなど実質的には堤防の脆弱化を促進させるもの
  07/11栃木県が進める谷中村の破堤復旧工事中にまた破堤が起こる【07/13?】【堤防が流失する?】
     のち県は復旧工事を放棄する【工事が中止となる?】
  07/13谷中村の堤防修築工事という名の破壊工事中、またもや渡良瀬川が洪水、氾濫し谷中村が浸水する【07/11月?】
     工事を指揮する官吏は作業を打ち捨て逃げ去る
     堤防の破れ口をいっときに決壊しすさまじい勢いで谷中村全村を横流しに、村民は悲惨な生活を強いられる
  07/3064才の田中正造が谷中村下宮の川鍋岩五郎方を寄留先として移り住む
     谷中村の将来に危機を抱き問題に専念するため
  07/31〜08/12田中正造、黒沢酉蔵らが谷中村の各大字と部屋村、寒川村にて演説する
  07、08/頃茂呂近助が「鉱毒救済金費消罪」の疑いで投獄される【茂呂は(元?)谷中村村長?】
  谷中村入りした田中正造が青年に呼びかけ字下宮に「悪弊一洗土地復活青年事務所」を組織する
     【谷中村悪弊一洗土地復活青年会を組織する?】
     谷中村の破堤修築や買収案反対の請願運動、演説会に奔走する
  谷中村入りした田中正造ははじめ50日ほどは1か所にとどまる
     のち以後、村中を巡回、病気のとき以外は同じ家に2泊することのない生活を送る
  08/20栃木県知事白仁武が内務大臣の芳川顕正に対し「稟請(申請)」を提出する
     タイトルは「谷中村民有地ヲ買収シテ瀦水池ヲ設クル件」
     【「谷中村民有地ヲ買収シテ瀦水池ヲ設ケル稟請」を内務大臣に提出する?】
  08/谷中村村内の対立から村長の大野東一が辞職に追い込まれる
     正義派が村債問題で辞職を迫る
     栃木県は民選による村長を認めず大野は最後の民選村長となる
     08/末谷中村役場職員総辞職となる
  09/01栃木県谷中村の管掌村長に下都賀郡書記官の猿山定次郎が任命される
     【このときに鈴木豊三が任命される?】
     【疲弊のあまり村長のなりてがない谷中村に県当局は鈴木を送り込む?】
  09/28栃木県谷中村管掌村長の猿山定次郎が収入役も兼任となる
  09/19洪水で谷中村が浸水。村民らは自力で急水留工事を行なう【10/19との違い?】
  09/谷中村の堤防普請中、出水の際、部屋分署の巡査10余人が水防に尽力する
     のち巡査10余人が関係当局から大いなる叱責を受ける
  10/02新田郡強戸村で鉱毒政談演説会が開かれる。田中正造が演説する
  10/19谷中村村民が自力での破堤所の急水留工事に着手する【09/19との違い?】
  10/23谷中村亡国民2千有余人の総代5人の名で「志士仁人」あてに請願書を提出する
     「亡国水毒村谷中村築堤工事緊急請願書」
  11/10田中正造が谷中村問題について栃木県知事の白仁武に面会する
     のち以後、宇都宮に滞在し谷中村問題に関して県会に運動する
  11/13谷中村村民が村長職務管掌の猿山定次郎に対して辞職を勧告する
     11/15却下される
  11/24相愛会の石井清蔵、野中清八ら4人が宇都宮の県庁で白仁武知事に面会する
     谷中村廃村の反対を陳情する【谷中村の破堤復旧を知事に請願?】
     石井が言葉のはずみで叫び知事の胸ぐらをつかむ
     「谷中村を三年間も水浸して、これが救済の道をなさず、これ天皇陛下の赤子を虐待するもの、すなわち国賊だ」
     4人とも逮捕される
     のち石井の胸に短刀があったことが発覚、石井と野中は殺人未遂と官吏侮辱で予審に付される
  谷中村村民の川島平四郎が陸軍歩兵上等兵として軍に従い満州へ
     11/26清国盛京省三里橋にて戦死
     遺族には一時金400円を下付されることに
     平四郎の母と兄は300円ほどの負債があり下付金で弁償しようと、しばしば村役場に問い合わせ
     のち役場はいつも「達しが来ない」とか「金が下らぬ」といい抜け
     のち村役場は買収に応じ立ち退けば、直ちに金を下付するという
     同時県庁から日毎夜毎、家を売れ、早く立ち退けと責め立てられることに
     のち遺族は根負けして買収に応じることに
     ようやくわずか400円の金が下付されることに
  政府が県会に災害土木補助費の名目で谷中村買収費の補助を与える
  前栃木県知事の菅井清美が銀行に預け入れた41万円を白仁武新栃木県知事が引き出す
     新たに収入金に計算、災害土木費若干万円と算出
     のち帝国議会の協賛を経て県の災害土木補助費として22万円を国庫より得る
     このうち県費36万円、国費12万円の計48万円を谷中村補償処分費として谷中村買収を企てる
  栃木県知事の白仁武が上京、芳川顕正内務大臣に面会する
     白仁知事は堤防の修築修繕費の必要性を説く
     芳川は外は露国との仲たがい、内は財源乏しく、1県1村の堤防にかまっていられず、よきに取り計らえと伝える
     のち白仁武知事は帰県して買収の準備に取りかかる
  12/陸軍大臣の寺内正毅が銅山業者と交渉、軍需銅供給の契約成立にこぎつける
     戦争で銅は黄銅製の弾薬類の原料として必要不可欠な軍需品
     でも、貴重な銅を握っている古河、三菱など4大銅山業者は外国との輸出契約をたてに軍需に応じようとせず
     銅が入手できなければ戦争継続は不可能
  12/06宇都宮の寿座で谷中村買収反対演説会が開かれる。田中正造が演説する
  12/07田中正造が6日の谷中村買収反対演説会の模様を『週刊平民新聞』に報告する
     【12月の「平民新聞」発行日は毎日曜日の4日(56号)、11日(57号)、18日(58号)、25日(59号)の4回】
  12/09栃木県会閉会の前日の夜、知事の白仁武が突如1904年度の土木治水費の追加予算78万5390円を提案
  12/10栃木県会が開かれ9日の白仁武栃木県知事の提案に関する審議が行なわれる
     追加予算額は当時の年間の経常予算に匹敵するほどのあまりに多額
     心ある議員は臨時議会を開いて充分な審議を尽すよう要求するも、賛成少数で否決される
     少数派議員の質問により治水堤防費のうち48万5千円が下都賀郡谷中村の堤防修築費
     すなわち谷中村買収費であることが明らかになる
     大久保源吾や鯉沼九八郎などが次々に反対演説に立つ
     船田三四郎は「谷中村の買収ではなく、堤防の修復こそ先決問題である」と県当局の遊水池設置案を難じる
      県当局の方針は第2次鉱毒調査会と政府当局の方針
      谷中村の買収、廃村の理由は利根川の逆流洪水により谷中村の堤防が頻繁に破れ、
      その度に多額の堤防修築費を県費で支出することになり、これを避けるために谷中村を遊水池にするというもの
      県当局は堤防を破れたままにしておくことで、農民の生活を奪い農民たちが村を捨てて出ていくことを期待する
  12/10深夜、警官が守るなか栃木県会(秘密会)が開かれ審議が行なわれる
     谷中村買収案を議した議員33人に対して警備した警官は76人
     白仁武栃木県知事が1904年度の土木治水費追加予算案78万5390円を県会に提出
     このうち12万円は国庫からの補助で、のち会計検査院が不当支出と認定したもの
     【谷中村買収費48万5398円を含む堤防修築費名目の55万1256円余りを提案?】
     有志議員は臨時県会を招集するよにう主張するも否決
     夜の審議で臨時土木費(谷中村堤防修築費)の48万5398円が谷中村買収費であることが判明する
     買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円。近隣町村の約5分の1
     鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準に
     1日のみの審議で下都賀郡選出の大久保源吾、鯉沼九八郎、船田三四郎らの反対意見は無視される
     反対意見を述べた碓井要作は「堤防修築費と云ふ立派な名義の下に毒を盛つて谷中に飲ました」と批判
      予算案のなかには48万5398円の谷中村買収費が含まれる
      実質的に谷中村の藤岡町への合併へと向かう分岐点に
      ここでいう買収は谷中村全体でなく堤防で囲まれた堤地内(約1千町歩、992ヘクタール)
     のち深夜になって採決。賛成18、反対12で谷中村買収案が可決される
     【栃木県会で追加予算案が可決される?】
     谷中村の買収に反対したのは下都賀郡選出の議員のみ
     前夜までに県当局による議員に対する買収工作は完了する
     1903(明治36)1月の臨時議会で反対した議員の多くも賛成票を投じる
     鉱毒被害地の足利郡、安蘇郡選出の議員は足利の荻野万太郎を除いて発言せず
     最後まで反対したのは大久保源吾【源吉?】、船田定四郎、塚原保吉、鯉沼九八郎、高橋元四郎、鬼平伊勢松外5人のみ
     鉱毒問題が治水問題にすり替えられ、一般世論も谷中村切り捨てにより問題解決をのぞむ方向に傾く
     県は500万から600万円の価値のある村をわずか48万円で買収、強奪しようと企む
     このとき人口2500人、戸数387戸。面積1千町歩
     のち谷中村買収費48万円のうち12万円は災害土木費国庫補助金で36万円は県費でまかなわれる
     谷中村の買収費を治水堤防費から支出することは予算執行の目的や手続きからも法律を無視したもの
     48万円がすべて谷中村の買収費として村民に渡ったわけではなく
     5万円は元下都賀郡郡長安生順四郎が村債を発行させ私服をこやしたとき銀行から借り入れた資金の返済にあてられる
     2万5千円は告訴問題に発展した県会議員の賄賂に使われるも使途不明金として処理される
     残り約40万円が谷中村の買収費に
     さらにそのうち3〜4割が遊水池の設置に反対する村民の切り崩し工作に使われる
     よって実際に谷中村村民が手にしたのは20数万円ということに。ただ、実際の買収総額ははっきりせず
     一部の富裕層を除き村民の大部分の土地は買収以前に借金の抵当に入り、わずかな移転料を受けとっただけ
     買収価格はいずれも10アールあたり畑30円、田20円、宅地100円、家屋1坪移転料共8円、墓地1円
     多くの国民が日露戦争に目を奪われているすきに谷中村買収と瀦水池の設置を決定する
     のち田中正造は「ゆうに400万円以上するものを48万円余りでしようとする」と怒り心頭
  12/10軍需銅供給の契約成立の直前、栃木県臨時議会の秘密会にて谷中村買収案が可決
     【栃木県第8回通常県会にて谷中村買収費を含む「土木費治水堤防費」の予算案を可決する】
     のち【谷中村買収予算の成立を見届けた翌日】公式の軍需銅供給契約締結の通牒が発せられる
     数日後買収の国庫支出金(22万円)が第21回帝国議会で可決される
     政府は軍需銅供給契約の見返りに、遊水池化案が進んでいた栃木県下都賀郡谷中村の買収計画が急速に進展する
     政府は銅山業者に「借り」ができた形になる
     日露戦争を機に、それまでの銅山業者と政界、官界の癒着に軍も加わる
  谷中村買収案可決直後谷中村の島田宗三が自宅に東京の「青年修養会」、黒沢酉蔵、地元県会議員などを迎え村民大会を開く
     谷中村破堤箇所の復旧を自費で行なうと決定する
  12/11神田区の錦輝館で鉱毒問題政談演説会が開かれる
     田中正造が「大国民か亡国民か」と題して演説する
  暮/谷中村村民が村債と排水機に関しての答えを村役場に促す
     対して村長、村会議員ら誰一人として明答はなく、助役、収入役、書記らを除いて他はことごとく辞職する
  12/12谷中村で選挙が行なわれ、助役の田中芳郎を村長にあげる
     県知事の白仁武は田中を郡吏に任命し、郡吏の猿山定次郎を村長代理に差し遣える
     猿山は安生順四郎らが借り受けた負債を村債のようにごまかす
  12/19白仁武栃木県知事が県会議員を一堂に集め酒、芸妓などを馳走する
     32人の議員に76人の巡査が付きまとうようになる
     12/208人ほどの土木委員の肩書きを以て買収する
     夜8時、秘密会議を開く
     12時、谷中村買収の件と爾後、堤防は修築しない件などを議決する
     決議の項目はあくまでも堤防建築費48万円と記される
  12/24第21回帝国議会にて「災害土木補助費」の名目で「谷中村買収費」が可決される
     【12/23?】
  12/24神田区の基督教青年会館で足尾鉱毒問題解決期成同志会の会合が開かれる
     田中正造が出席する
  12/谷中村の活動家川鍋岩五郎が予戒令による予戒命令を受ける
     川鍋は田中正造を寄宿させているため。間接的に田中をねらう目的
     のち間接では田中に対して効力がなくなにもできず
     1906(明治39)06/08田中正造が予戒令による予戒命令が下される
  日露戦争時谷中村450戸から50余人の若者が召集される
     【谷中村から日露戦争に48人が従軍する?】

1905(明治38) 65

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《内務大臣》[第23代]芳川顕正、[第24代]清浦奎吾農商務大臣が兼任(09/16→)
  《警視総監》[第15代]安立綱之、[第16代]関清英(09/10→)
  《農商務大臣》[第20代]清浦奎吾(09/16→内務大臣を兼任)
  《東京鉱山監督署長》[第6代]中村清彦、[第7代]野田勇(04/01→)
  《帝国議会》[第21回通常会](→02/27)、[第22回通常会](12/28→)
  《栃木県知事》[第12代]白仁武
  《群馬県知事》[第12代]吉見輝
  《埼玉県知事》[第12代]木下周一(→09/04)、[第13代]大久保利武(09/04→)


  年明け直ちに栃木県当局が谷中村買収の準備作業を開始する
     谷中村は戸数約450戸(堤内が約390戸)、人口約2700人(堤内約2千人)、
     面積約1200ヘクタール(堤内約1千ヘクタール)
  01/07白仁武栃木県知事殺人未遂事件の予審決定が行なわれる
     事件は前年11月24日、相愛会の石井ら4人が谷中村廃村の反対を陳情に赴いた宇都宮の県庁にて起きる
     野中清八は免訴に、石井清蔵は公判に付され官吏侮辱罪で有罪判決に。殺人未遂は外される
  01/16埼玉県北埼玉郡利島村、川辺村の村民が貴族院議長の徳川家達、衆議院議長の杉田定一あてに請願書を提出する
     「谷中村買収禁止請願書」を提出し谷中村廃村反対派の支援を行なう
     【利島村、川辺村両村長による「谷中村買収廃止請願書」?】
     【利島村村長と川辺村村長が「谷中村買収禁止請願書」を貴族院議長と衆議院議長に提出?】
  01/30田中正造が谷中村の強制買収について内村鑑三らに陳情する
  01/30『毎日新聞』が菊地茂の「谷中村買収断じて不可也」「鉱毒問題の余殃、全国の義人に告ぐ」を掲げる
     谷中村買収の条件が村民の権利や利益を度外視して移住の場所と費用を与えず、
     村民以外の不在地主に有利であることを非難世人に注意を喚起したもの
  02/03〜02/20田中正造が『毎日新聞』に「谷中短信」を寄稿する
  02/17県が放置したままの堤防を谷中村村民が自主築堤。工事を開始【破堤所の急水留工事に着手?】
  02/田中正造が谷中村の買収反対を決意。運動を開始する【この年初め〜春?】
     谷中村の婦人に呼びかけ「谷中村を潰さぬ決心仲間」を組織する
     【谷中村が買収反対を決意する?】
  02/25貴族院が利島村、川辺村両村長による「谷中村買収廃止請願書」を採択する
  03/栃木県当局が谷中村の買収に着手する
  03/11谷中村村民による破堤所の急水留工事に利島村、川辺村の両村民が応援する
     【03/15に利島村相愛会と川辺村青年有志の合同会議で谷中村村民の自主築堤工事支援を決定する?】
  03/17栃木県知事の白仁武が遊水池の設置を機に谷中村村民に移住を勧める告諭第2号をだす
     土地被買収者には補償金と代替地の貸与(将来は移譲)を約束。また非土地所有者には別途救済を約束する
     遊水池造成のための作業がはじまる
     渡良瀬川は国の直轄河川ではなく遊水池予定地の買収は栃木県が担当、国が補助をだす形
     のち谷中村村民は親類縁者を頼り周辺の町村へ、また団体で栃木県那須郡の国有林などへ移住しはじめる
  03/栃木県が谷中村人民総代あてに布告を発する
     「安寧を保ち福祉を進むるの途は今回の瀦水池設置を機とし唯適当な土地を選び其の居を移すのみ」
  03/19利島村、川辺村が谷中村民の自主築堤工事に隣村義援人夫隊を派遣する
     川辺村、利島村の村民が長旗を押し立て、連日工事の応援にかけつける
  03/24古河会社の副社長に政治家の原敬が就任する【原の副社長は古川潤吉社長就任の4月と同時期?】
  03/古河鉱業事務所が富井政章を法律顧問として個人事業から会社組織に改組【合名会社組織に改組?】
     古河鉱業会社を創設する
     【商号に合名会社の表示がなくても設立登記はできる?】
     合名会社の資本金は500万円。古河潤吉480万円、古河虎之助10万円、木村長七5万円、原敬5万円
  03/白仁武栃木県知事が政府から200円の賞与金を受けとる
     谷中村買収費を提案し議員を買収して強行採決を行なった「功績」による
  03/田中正造が内務大臣の芳川顕正あての上申書などを起草する
  04/古河潤吉が社長に就任、副社長には政治家の原敬を迎える【原敬の副社長就任は03/24?】
  春/栃木県が谷中村村民に堤防を修築せざるべしと言い伝える
     村民はやむを得ず各自拠金して2750円を得て、さらに寄付金150円を得る
  05/29新聞に日露戦役の記事が満載されるなか『毎日新聞』が「聖代の暴事 鉱毒地谷中村買収」の論説を掲げる
  05/29〜06/08田中正造をはじめ谷中村村会議員らが内務大臣に陳情のため出京する
  05/県会議員、警察官、土木吏ら40余人が谷中村に入る
     田畑を踏み荒らし、村民宅内の価格などを取り調べる
     「明日にも買収するぞ」と脅す
  06/谷中村のこわれた堤防を谷中村村民が自ら自費で修築をはじめる
     【2月17日からはじまった谷中村村民による自主築堤とは別?】
     【利島村、川辺村の義援人夫700余人をもって破堤212間余りを修築する?】
     06/26谷中村村民が自費で村を守るため破堤所の復旧をすすめていた工事が完成する
     【破堤所の急水留工事が完成? 上の事象はじまりからの完成?】
  06/26谷中村村民が自費で村を守るため破堤所の復旧をすすめていた工事が完成する
     堤防竣工式が堤上で挙げられる
     【破堤所の急水留工事が完成? 上の事象はじまりからの完成?】
  07/10栃木県が谷中村に対して瀦水池用測量のため土木吏の村内立ち入りを通告してくる
  07/21田中正造、左部彦次郎や川辺村の増田清三郎が谷中村幹部派の古沢繁治に暴行する
     部屋分署で取り調べを受ける。古沢繁治殴打事件
     07/24不起訴となる
  田中正造が谷中村村民10人を引き連れ上京。上野駅で下谷警察署の警官に拘引される
     1晩拘留所で過ごす
     翌日追い返される【08/02、03との違い?】
  08/02田中正造が谷中村村民と出京する
     【どこで夜を明かしたのか?】
     08/03破堤復旧工事を内務省に請願。下谷警察署などの妨害を受ける。夜、帰村する
  田中正造が10人ばかりで改めて上京【改めて?】
     【8月4日に田中正造がふたたび出京する?】
     元谷中村村民で本所区に住む北村某宅に宿る
     本所警察署により引致させられ、北村政治ほか1人が拘留、ほかは追い出される
     さらに一同は谷中村村民茂呂近助の縁者で小石川区の某方にいたる
     小石川警察署の干渉により追い出される
     一行は路頭に迷うも深川区の某氏により救われる
     警察の干渉はやまず、なかなか内務省にたどり着けず
     08/198月16日の洪水で村民が修築した堤防が破られたことを知る
  08/14、16田中正造が「谷中堤防請願陳述遷延の理由書」などを起草する
  08/18『毎日新聞』が「谷中村買収事件、不法残忍の極」を掲げる
     村民の努力により4万円の収穫を得た事実をあげ買収の非なることを力説する
  08/19谷中村村民が2か月前に自力で完成させた谷中堤防の急水留工事が出水のため崩壊する
  夏/谷中村の堤防が竣工し夏期作7万円という大収穫を得る
  09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     宣戦布告は1904(明治37)2月6日
  09/06田中正造が谷中村の価値を広く知らせるための「谷中村民研究材料書草案」を作成する
  10/27谷中村内野の18戸の総代と移転先の那須郡下江川村の総代との間に契約書が成立する
  10/30栃木県から谷中村買収にかかわる「谷中堤内土地物件補償に関する告示」がだされる
     のち買収を承諾した村民が移住しはじめる
  10/鉱毒反対運動を続けてきた左部彦次郎が栃木県の土木吏員となり買収側にまわる
     左部は田中正造の信頼を得て鉱毒問題に奔走し川俣事件の被告のひとりでもある
     のち『新紀元』で田中の官吏侮辱事件第1審公判の模様を詳細した加藤安世も買収側にまわる
  秋/谷中村の土地買収がはじまる
  11/06谷中村村長職務管掌の鈴木豊三谷中村堤防は復旧しない旨を通知する
  11/17田中正造と加藤安世が「非常歎願書」を作成する
     10月30日の栃木県から告示、11月6日の鈴木豊三村長職務管掌の通知を受けて
  11/買収に受諾した谷中村村民の集団移住がはじまる
     第1次集団移住18戸は栃木県塩谷郡、那須郡南那須町、下都賀郡国谷に送られる
     田中正造は下宮の堤上で谷中にとどまるよう説得するも、どうすることもできず去る
     移住先は近隣の古河町、野木町、藤岡町や那須郡から北海道。さらにはアメリカのテキサス州も候補に
     のち村民の主な移転先は大字ごとに分かれる傾向に
     谷中村字下宮から茨城県古河町、内野から藤岡町、恵下野から野木町への移転数が最多
     茨城県古河町120戸、栃木県藤岡町90戸、栃木県野木町66戸、栃木県那須郡、塩谷郡46戸、
     群馬県板倉町(海老瀬)33戸、埼玉県北川辺町18戸、栃木県小山町(生井)13戸
     そのほかに東京の深川、壬生町(国谷)、北海道など、それぞれ数戸から十数戸が移転
  11/谷中村の数戸の村民が栃木県那須郡那須野村に移住する
     県庁は移転料1人につき3円ずつを与える
  11/谷中村村民9人が栃木県塩谷郡に移住する
     県庁は「開墾地、及び開墾に要する農具、肥料、苗種、また建築費、食料1年間等は、無代にて与ふべし」と
     でも、県は約束ごとを履行せず
     地代も建築費も肥料も、ことごとく村民が県庁に売った土地、家屋などの代金から差し引いて引き渡される
  11/谷中村買収に関する県会議員の汚職が栃木県会で問題となる。贈収賄調査委員長に荻野万太郎が任命される
  12/05田中正造が『鉱毒問題の変態、空前無二の怪事、谷中村買収事件』を作成、印刷配布する
  12/07田中正造が口述し23項目追加3点からなる『日本の谷中村の記』を作成、印刷配布する
     追加三点に記される
      一、日本の谷中村をして私欲者の専有に帰す可らざる事
      二、四隣郡村の反対を無視して強いて公益なりと致すべからざる事
      三、人類の居住せる自治の村落に対し故らに堤防無用なりなどゝ悪言流言及び残忍なる公文を
        放ち人心を恟々たらしめ以て買収の便宜を謀り法律経済を蹂躙し及び人道を破壊す可らず
        【恟々は恐れおののく、おどおど、びくびくの意】
  12/谷中村村会が村民の田中与四郎を村長に選出する
  12/12栃木県が谷中村村会の田中与四郎村長選定の認可を保留とする
     のち県は承認せず郡官吏の鈴木豊三を引き続き管掌村長に任命する
  12/12古河潤吉が36才で死去。他の社員は古河虎之助、吉村萬治郎、原敬、木村長七
     市兵衛の実子虎之助が18才の若さで3代目当主となる
  12/13田中正造が『谷中村堤防の記』を作成、印刷配布する
  12/17田中正造が谷中村買収に関し貴族院議員、衆議院議員、府会議員、県会議員あてに質問書を送付する
     「敢て明答を乞う」
  12/田中正造が権利の重要さを徹底させようと『谷中村一ツとや節』をつくる
     『谷中村一ツとや節』(別ページリンク)
  12/左部彦次郎が熱心な非買収派の川鍋岩五郎の長男某を買収
     次いで父岩五郎をも買収する      川鍋父子はいずれも日給40〜50銭で県庁の土木課に雇われる
     川鍋岩五郎は田中正造が寄留するほど信頼した人物
  郡吏で谷中村村長代理の鈴木豊三は島田栄造、小川長三郎、河嶋次郎吉らの墓地を公売にかける
     のちさらに字高砂の共有地を公売にかけようとして、村民の異議があるのに取り消そうとせず
     のち村民が裁判所に訴えると、鈴木は下都賀郡郡長の吉屋雄一ととともに土下座して謝る
     のち弁護士がなかに入り村民も了承して公売処分は取り消される
     次年6月の田中正造の第2の官吏侮辱事件の発端となる
  栃木県が谷中村買収費48万円のうち7万5千円を支出
     安生順四郎から排水機を買い上げる
     のち安生はその金で村から預かる金を返却
     村は銀行に村債で借りた金を返し決着する
  谷中村村民が各自大挙して県庁や内務省におもむき請願する
     村民が修築した仮堤防では田畑の畦畔のごと脆弱で洪水を防ぎきれず
  谷中村田地350町歩のうち、植え付けは100余町歩のみ
     畑地270余町歩のうち麦をまいたのはわずか120町歩に
  この年、田中正造は谷中村問題の周知、解決のための文書を多数作成する

1905(明治38)頃

  谷中村堤内の反別面積は970町、堤外地をあわせると1200町歩に
     人口2700、戸数450を数える

1906(明治39) 66

  《総理大臣》[第11代]桂太郎(→01/07)、[第12代]西園寺公望(01/07→)
  《内務大臣》[第24代]清浦奎吾農商務大臣が兼任、[第25代]原敬逓信大臣が兼任(01/07→)
  《警視総監》[第16代]関清英、[第17代]安楽兼道/再任(01/17→)
  《農商務大臣》[第20代]清浦奎吾(→01/07、→01/07・内務大臣を兼任)、[第21代]松岡康毅(01/07→)
  《東京鉱山監督署長》[第7代]野田勇
  《帝国議会》[第22回通常会](→03/27)、[第23回通常会](12/28→)
  《栃木県知事》[第12代]白仁武(→08/10)、[第13代]久保田政周(08/10→12/07)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵(12/07→)
  《群馬県知事》[第12代]吉見輝(→07/28)、[第13代]有田義資(07/28→)
  《埼玉県知事》[第13代]大久保利武


  初め頃下都賀郡書記で谷中村村長職務管掌の猿山定次郎が辞する
     代わって郡書記の鈴木豊三が村長職務管掌となる【鈴木豊蔵?】
     【鈴木は引き続き? 鈴木に交代?】
  01/07第1次西園寺公望内閣が成立。内務大臣に原敬が就任する
  01/病床の潤吉を支えた原敬が内務大臣就任のため副社長の座を辞任する
     【原は顧問となる?】
     古河市兵衛の片腕だった木村長七が虎之助の後見人となり、経営を取り仕切ることに
  02/18田中正造が高橋秀臣に谷中村村長の就任要請する
  03/04谷中村村民が再び破堤所の急水留工事に着手する
  03/22田中正造が谷中村村民より貴族院議長、衆議院議長にあてた請願書を作成する
     「谷中村堤内地買収に関する追加補償実行請願書」
  03/24田中正造が川鍋岩五郎より貴族院議長、衆議院議長にあてた請願書を作成する
     「谷中村自治団体に対する行政権暴用に関する緊急請願書」
     【川鍋は前年12月に買収葉にまわる?】
  03/27栃木県が谷中村村内官有地の借用者に対して4月17日までの退去を通告する
  03/30石川三四郎が逸見斧吉と初めて栃木県谷中村を訪れる。田中正造らに会い深く感激
     仮堤防上で一場の演説を試みる
  03/31栃木県が谷中村村会の議決なく村内の小学校3校のうち2校を強制的に廃校とする
     内野の第2尋常小学校と恵下野の第3尋常小学校
     【谷中村第1、第2尋常小学校を廃止?】
     残りの1つは藤岡町立となり1913(大正02)3月末まで存続
     【この時点での藤岡町立か、藤岡町に合併されてからの藤岡町立か?】
  03/谷中村にとどまるものは約半数の200戸程度に
  04/谷中村管掌村長が村の債務6万6900円を村の財産と整理相殺した不足額2300円を税金に上乗せして村民に請求
     【管掌村長は鈴木豊三?】
     払えない場合は立ち退くよう村民を追い立てる
     のち谷中村廃村に反対の村民も抗しきれず廃村に追い込まれる
  04/14白仁武栃木県知事が谷中村村会に藤岡町との合併諮問案を提出する
     「町村合併の件に付き諮問」
     この諮問案は2日後の16日までに意見答申を求めるもの
  04/15午前9時、鈴木豊三郡書記が村長職務執行として村会招集状を発する
     午後、鈴木は再び招集状を発して再招集の村会に
     議案は白仁武の諮問案
     「町村合併の件に付諮問
               下都賀郡谷中村
      下都賀郡谷中村は瀦水池計画の必要上其土地家屋等大半を買収し、村民を他に移住せしめたるため、将来独立して
      法律上の義務を負担するの資格無きに至れるものと認むるにより、谷中村を廃して其区域を藤岡町に合併せんとす。
       但本月十六日迄に意見答申すべし。
        明治三十九年四月十四日
               栃木県知事 白仁武」
     その猶予は2日間のみ
     【栃木県谷中村が管掌村長の独断で廃村決定となる?】
  04/15再召集した谷中村村会で鈴木は少数出席議員をもって諮問案を可決しようとする
     先の栃木県知事の廃村諮問案(藤岡町への編入合併案)は出席議員の反対で否決となる
     【谷中村村会が村長職務管掌の鈴木豊三提案の藤岡町合併案を否決?】
  04/17白仁武栃木県知事が谷中村民による谷中堤防の急水留工事を河川法違反として原形回復を命令する
     【赤麻沼急水予防工事破壊の命令書を発する?】
     【諮問案が否決された腹いせ?
  04/17白仁武栃木県知事が官有地借用の人民にむかい4月25日までに家屋破壊、立ち退きの厳命を伝える
     3月27日に一度、栃木県が4月17日までの退去を通告する。その再度通告
     1907(明治40)06/29立ち退きに応じない3戸が土地収用法の適用による30日からの強制破壊に先立ち壊される
  04/17栃木県が谷中村北側の赤麻沼急水予防工事破毀の命令書を発する
     該命令に記される
     「二十七日迄に堤防を破毀せよ、然らざれば官自からこれを破毀し、且つその費用を村民より徴収すべし」
        急水工事は、村民が2900円の私費で築いた仮堤防が、明治38(1905)8月18日の洪水で破れ
        復旧しようと県庁に修復届を出すも願書にせよと戻され、願書を出すと様式が違うと突き返される
        村民は仕方なく600円を支出し寄付金150円を加え修復工事に従事
        ほとんど完成させる
     のち村民らは断固として破毀を拒否する
  04/21村長代理の鈴木豊三が残留村民140戸のうち堤内の住民76戸に対して、前年に比し38倍強の苛税を賦課する
     栃木県知事白仁武の命を受けてのこと
     のち村民は断乎として収税を断る
  04/22新紀元の例会に田中正造が招かれ「土地兼併の悪罪」を2時間にわたり演説する
     席上、石川三四郎、小野吉勝が4月28日の谷中村支援を呼びかける
  04/27佐野の万座にて社会主義演説会が開かれる。田中正造、木下尚江らが演説する
  04/28木下尚江、福田英子、石川三四郎、小野吉勝、荒畑寒村らが谷中村に支援に赴く
     田中正造が新紀元社同人や大学生一行の谷中村視察を案内する
     予想された官憲との衝突は起こらず平穏に終わるおわる
  04/30栃木県が多数の官吏と人夫を谷中村に派遣。村民が自費で築いた破堤個所の急水留工事をことごとく破壊する
     河川法に違反と称するも、この時点ではまだ河川法への違反の事実はなし
  04/谷中村残留民はこの時期140戸に。うち堤内は76戸
  鈴木豊三管掌村長が行政権を乱用。谷中村村民6人に金銭を与え雇員にして勧誘し買収にあたらせる
  04/〜07/買収勧誘員による農耕の妨害、漁具の掠奪、用水路の破壊、
     警官による婦女子拘引のいやがらせ、不当逮捕等の職権の濫用、買収強要、醜官俗吏などが日夜暗躍する
  05/07新紀元社主催の「谷中村問題大演説会」が本郷区の中央会堂で開かれる
     石川三四郎が開会の辞を述べる
  05/11白仁栃木県知事が「告示第176号」をだす
     7月1日をもって谷中村を廃村、藤岡町に合併すると発表
  05/22木下尚江、逸見斧吉、伊藤証信、石川三四郎らが三度谷中村を訪れる
     のち茨城県古河町の正定寺での講演会に臨む
  05/22茨城県古河町の正定寺で1府5県治水大会が開かれる。田中正造が演説する
  06/08田中正造に予戒令が適用される
     予戒令は「一定の生業を有せず平常粗暴の言動行為を事とする者」に適用
     田中の言論、行動の自由を束縛し、つねに2人の巡査が尾行することに
     住所変更、止宿、同居させた者に届け出を義務づける
     のち不自由極まりないなかでも、田中はへこたれず
     ただ予戒令第4条の科料、拘留、重禁錮6月以下など罪則までは適用されず
     田中が用心したのか、巡査が見逃したのか
  06/27谷中村事務管掌村長の鈴木豊三が村税未納付の各戸に対して財産差し押さえの執行をはじめる
     この際、ほかに転住する者は財産差し押さえ免除に
     村民は競って買収に応じ、遠く他郷に移る
  06/28谷中村事務管掌村長の鈴木豊三が巡査2人を帯同し村税未納付の各戸を差し押さえにまわる
     鈴木は4月21日に谷中村残留民に対して不当な高額の村税やを賦課、でも村民は納付することができず
     午後5時頃、村長は大字内野の落合幸蔵宅で差し押さえ【谷中村字下宮の落合幸造宅?】
     田中正造は予戒令の巡査2人と庭先で見守る
     村長が差し押さえを終え帰ろうとしたとき、田中が前を立ちふさがり両手を広げ怒鳴る
     「この者は高砂部落の共有地を盗もうとして奪い返された盗人だ」
     田中は村長が帯同する巡査部長の清野立吉に「取り調べたい」という
     村長は「あれは取り消して済んだことだ」と
     ふり切って帰ろうとする村長を、田中はさらに巡査に「取り調べてくれ」とつめ寄る
     これが官吏侮辱罪となる。第2の官吏侮辱事件(始)
          [高砂部落問題]
          前年、鈴木村長が字高砂の共有地を売ろうとして、村民の異議があるのに取り消そうとせず
          村民は裁判所に訴えると、鈴木は下都賀郡郡長の吉屋雄一とともに土下座して謝る
          弁護士がなかに入り村民も了承して公売処分は取り消される。それを田中正造がむし返す
  06/月末までに谷中村の約300戸が移住する
     主な移転先は古河町、藤岡町、野木町、海老瀬村、川辺村などの近隣町村
     なかには同じ谷中村の堤内地から堤外地へ移転する家々も
  谷中村廃村決定直前の戸数450戸、人口2700人
     堤内農地970町、堤外地を加えて1200町、原野320町の豊かな中くらいの村
     【7月1日の廃村合併時との数字の違い?】
  07/01下都賀郡の書記官で管掌谷中村村長の鈴木豊三が谷中村を藤岡町に合併させる
     4月15日の村会決議は無視
     鈴木は栃木県に谷中村が藤岡町に編入したと報告、谷中村は強制廃村となる
     人口は推計で1千人、戸数140戸。一部村民は住み続ける
     【廃村合併直前時との数字の違い?】
  07/03田中正造が第2の官吏侮辱事件で栃木警察署に勾留される【栃木未決監に?】
     07/04予審の調べを受ける
     07/07栃木警察署に勾留されていた田中正造が保釈される【栃木未決監に?】
     07/12宇都宮地裁栃木支部の予審判事内藤磯吉が再度、田中を取り調べ
  07/07田中正造の拘引の報に木下尚江、石川三四郎が栃木町の監獄に赴く【07/06?】
     07/08谷中村残留村民の集会に参加する
  07/16渡良瀬川が川辺村の柏戸で決壊する
  07/16渡良瀬川が大洪水をおこす【川辺村柏戸の決壊が起因?】
     県が4月30日に破壊したあと、谷中村村民が小規模の急水留工事で施工した麦取畦畔が流失する
  07/田中正造が不当な廃村措置に対して抵抗意志のかたい村民38人を説く
     「共同行為公正契約」を結ばせる
  07/19栃木県谷中村村民が管掌村長による村税賦課を不当として取り消しを訴え許願を提出する
     【訴願書を提出する?】
     田中正造が勧めての提出
     訴願人は栃木県下都賀郡谷中村大字内野144番地平民農島田政五郎外37人
  07/25栃木県谷中村の一部村民が大洪水ののちに行なわれた県の買収に応じる
     下都賀郡南犬飼村の国有地への移転を承諾する
  08/01石川三四郎が洪水後の谷中村を訪れ残留村民を激励する
     08/02栃木県藤岡町での演説会で講演する
     08/03群馬県海老瀬村で集会を開く
  08/2166才となる田中正造が郷里有志からの退隠勧告を固辞する
  08/23田中正造が第2の官吏侮辱事件が予審終結する。宇都宮地方裁判所の軽罪公判に付される
  08/26谷中村同志からの要請で木下尚江と石川三四郎が茨城県古河町の政談演説会で講演する
     08/27田中正造とともに谷中村問題調査のため栃木県下都賀郡卒島村に船田三四郎を訪ねる
  08/渡良瀬川沿岸に大洪水が起きたとき、田中正造は舟で残留民を訪問、激励する
     このときの大洪水で残留民が自主的に造った堤防も崩壊し、谷中村はすでに貯水池と化す【07/16月?】
     【渡良瀬川沿岸の堤防が決潰し氾濫することは前と同じ、田中は谷中村を貯水池にする無意味さを痛感する】
  08/谷中村の落合熊吉ほか6人が春の堤防修復のため多大な負債を負う
     県が4月30日に破壊したあと、谷中村村民が小規模の麦取畦畔を施工した急水留工事
     のち負債を弁済するため県庁の買収に応じることに
  09/02田中正造が栃木県知事の久保田政周を谷中村に案内する
  09/08田中正造、安部磯雄、石川三四郎らが名義上の谷中土地所有者となる手続きを開始する
  09/09木下尚江と石川三四郎が栃木県佐野町の社会主義演説会で講演する
     09/10田中正造の生地栃木県小中村に赴く
  秋頃/田中正造が残留村民の協力により谷中村に12筆9反224の土地を所有することに
     単なる寄留者としてでなく土地所有者になり谷中村廃村反対の運動を続ける
     のち安部磯雄、石川三四郎をはじめ、逸見斧吉、福田英(英子)、宮崎ツチ(滔天妻)、幸徳千代(秋水妻)、
     小野吉勝(新紀元社)、石川ゆき(横浜)らも谷中村に少しばかりの土地を所有し、田中に協力する
     「一坪地主」運動を実行する
  10/02宇都宮の寿座に演説会が開かれる。田中正造や石川三四郎らが演説
     田中は「治水と人権」と題して演説する
  10/03宇都宮地方裁判所で田中正造の第2の官吏侮辱事件の第1審公判が開かれる
     裁判所は宮本力之助、陪席判事は高木安太郎ほか1人、立会検事は志水高次郎
     弁護人は今村力三郎、桜井熊太郎、高野金重、新井要太郎、
     塩谷恒太郎、信岡雄四郎ら川俣事件以来のメンバーに
     地元宇都宮弁護士会の石田仁太郎、花崎三省、原邦太郎、茂木清らが加わる
     午前中は被告人尋問で終わり
     午後1時から証人として管掌村長鈴木豊三の尋問、検事の論告から各弁護人の弁論、最終陳述と続く
     10/05有罪で重禁錮40日と罰金7円の判決が言い渡される。田中は控訴する
     10/官吏侮辱罪で栃木刑務所に留置される
  10/11谷中村での麦まき時、栃木県が谷中村字下宮の樋門を閉じかたく釘付ける
     のち村内の田畑は水に侵され、まいた麦は腐って流失
     村民はかなりの損害をこうむることに
     のち県知事の久保田政周は土木課長を甚だしく叱責、事態が公になる
     のち久保田は満鉄の理事に追いやられる
  10/31田中正造が栃木県知事の久保田政周あてに緊急請願書「谷中村治水惨状之一部」を提出する
  11/01鉄道国有法により日本鉄道が国有化
  11/13谷中村在住の県の手先、宮内某、内田某らが夜陰に乗じて簾や網、●【竹冠に奴】など漁具を盗みさる
     のち他の村の数百人を村へ呼び、魚を漁らせる
     のち告訴により漁具が返却される。よい漁具は返却されず
  11/13栃木県吏が一部谷中村村民と通謀して村内排水用の樋門を閉鎖する
  11/田中正造が栃木県会に向けての治水問題に関する意見書作成に関与する
  11/28田中正造が県会議長の関田嘉七郎名にて「治水問題に関する意見書」を内務大臣原敬あてに提出する
  12/21田中正造が谷中村の樋門閉鎖に関する栃木県知事中山巳代蔵あての上申書を作成する
  12/川鍋岩五郎が失踪する
     のち栃木県土木吏となる
  足尾の労働者1万2788人をかぞえる
     1897(明治30)年の時点では7281人

1907(明治40) 強制破壊 67

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望
  《内務大臣》[第25代]原敬逓信大臣が兼任
  《警視総監》[第17代]安楽兼道/再任
  《農商務大臣》[第21代]松岡康毅
  《東京鉱山監督署長》[第7代]野田勇
  《帝国議会》[第23回通常会](→03/27)、[第24回通常会](12/28→)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵
  《群馬県知事》[第13代]有田義資(→11/06)、[第14代]南部光臣(11/06→)
  《埼玉県知事》[第13代]大久保利武(→12/27)、[第14代]島田剛太郎(12/27→)


  01/01田中正造が『世界婦人』の創刊に祝辞を寄稿する
  01/05谷中村残留民が前年流出の麦取畦畔に対して自力復旧工事に着手する
  01/26内閣総理大臣西園寺公望の名で旧谷中村に土地収用法の適用認定を公告する
     土地収用法の適用は瀦水池を設置するため、谷中村を強制買収するための手段で強制立ち退きの公告
     収用法を所管する内務大臣は原敬
     原は1905(明治38)4月に古河鉱業の副社長になり、内務大臣就任と同時に顧問となる
          土地収用公告
          左ノ事業ハ土地収用法ニヨリ土地ヲ収用スルコトヲ得ルモノト認定ス
          一 起業者 栃木県
          一 事業ノ種類 瀦水池設置
          一 起業地 栃木県下都賀郡藤岡町野木村地内
          右公告ス
           明治四十年一月二十六日
            内閣総理大臣侯爵 西園寺公望
     公告後起業者の栃木県が土地に立ち入り調査、事業計画、図面その他細目を公告する
     土地所有者への通知と公衆の縦覧に供する
  01/26政府が谷中村残留民に対して土地収用法の適用の認定公告をだす
     谷中村の土地所有者となる準備を進めていた島田三郎、三宅雪嶺、大竹貫一らは地権者になることができなくなる
  01/26下都賀郡郡長が谷中村村民を藤岡町役場に召喚、暴言を放つ
     「もういくら騒いだとて駄目だから、この際従順に買収ゆ応じたが宜かろう、
     いつ迄も愚図々々していると土地収用法を適用するぞ」
     村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村をでることに
     多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町などの親類宅に身を寄せる
     この年、人口400人、戸数70戸
  01/頃加藤安世が谷中支援運動から離脱する
  02/04〜02/07足尾銅山暴動事件が起こる
     賃金の引き上げ交渉が行き詰まった足尾銅山の坑内労働者900余人がダイナマイトを使用するなど実力行使に
     【詳しくは日本社会運動史年表を参照
  02/08田中正造と谷中村残留民22人、遠藤友四郎が出京する
     02/12、13総理大臣、大蔵大臣、農商務大臣に土地収用法適用認定公告の取り消しを請願する
  02/14谷中村残留民が栃木県知事に土地収用法の適用不当の意見書を提出する
     02/27却下される
  02/17遠藤友四郎が浮浪罪容疑で拘留される
     のち谷中を退去する
  02/17東京府神田区錦町の錦輝館で日本社会党第2回党大会が開かれる
     幸徳秋水を中心とする「直接行動派」、田添鉄二らの「議会政策派」、堺利彦らの「折衷案」が三つ巴の論戦
     幸徳は足尾暴動により信念を強めたのか、演説で触れる
     「田中正造翁が、廿年間議会に於て叫んだ結果は、何れ丈の反響があつたが、
     諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつではないか。
     然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやつた、のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか」
  02/19渡良瀬川沿岸の村民が総代に挙げた大塚源十郎、大出喜平らが上京
     河川修復の請願に尽力する
  02/23会計検査院が谷中買収費を不当支出したと『朝日新聞』が報道する
  02/24土地収用法適用認定の公告に対し谷中村残留民の代表島田栄蔵が古河町長あて請願書を提出
     請願書の題目は「旧谷中村を藤岡町より割き古河町に合併する請願書」
     群馬県から茨城県への所属替えを要求する
     【谷中村残留民22人が茨城県古河町に旧谷中村の合併を請願?】
  02/26田中正造が2月23日の『朝日新聞』の報道に対して『日刊平民新聞』に意見を寄せる
  02/田中正造が谷中村残留民より貴族院、衆議院にあてた請願書を作成する
     「谷中村復活を期する請願書(土地収用法に瀦水池の正文なきことを指摘)」
     のち田中正造が第23回帝国議会2月の会期中に請願書を貴族院議長、衆議院議長に提出する
     「谷中村復活を期する請願書」
  02/この時点で谷中村の堤内に20戸、堤外に50余戸の村民が残留する
  03/田中正造が「谷中村土地収用の憲法に関する質問書」を作成する
  03/21第23回帝国議会で島田三郎が谷中村問題につき政府と県当局を激しく追及する質問を行なう
     「谷中村枉法破壊に関する質問書」を提出、説明演説する【島田の説明演説は後日?】
     質問書の元は田中正造が作成した「谷中村土地収用の憲法に関する質問書」
     期待にそう結論は得られず
  03/26衆議院が谷中排水機の7万5千円は不当支払いと決議する
  03/27中山栃木県知事が土地収用法による谷中村遊水池化の治水事業計画書を藤岡町町長に下付し住民への縦覧を求める
  03/28静岡県選出の代議士河合重蔵が有志のため谷中村瀦水池問題を精細に調査した結果を発表する
  03/30土地収用計画の縦覧が供される
     責任者となる内務大臣は古河鉱業の副社長を務めた原敬
     村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外にでる
     多くは近隣の藤岡町や群馬県板倉町にあたる地域、下都賀郡の他の町村、茨城県猿島郡古河町などに移る
     土地所有者は縦覧初日から2週間以内に意見書をだすことができる
  04/03石川三四郎が谷中村を訪れる。『世界婦人』を通じて救援活動をはじめる
  04/11田中正造の第2の官吏侮辱事件の第1回控訴審の公判が東京控訴院で開かれる
     裁判所は相原祐弥、立会検事は青木幹造、
     弁護人は花井卓蔵、卜部喜太郎、塩谷恒太郎、桜井熊太郎、
     小川平吉、加瀬禧造、新井要太郎、高野金重、川島仟司ら12人
     田中は鈴木を侮辱したことなしと起訴事実を否認する
     「予は断言す、谷中村には白昼泥棒の官吏が横行しつつあり」と大声をだす
     裁判所は花井弁護人の谷中村検証申請や他弁護人の各種証拠申請を退かせる
     榊原経武弁護士と現場にいた榊巡査の証人調べを決定する
  04/16谷中村残留民が栃木県知事の中山巳代蔵あてに土地収用法適用不当の意見書を提出する
  04/17田中正造、福田英子らが栃木県知事の中山巳代蔵あてに意見書を提出する
     「旧谷中村の土地収用に対する意見書」
     意見書の作成には『上州新報』記者の遠藤友四郎が関与する
     知事は意見書提出期間の2週間を過ぎてから収用審査会に採決するよう求める
     のち意見書は却下
     のち再度意見書を提出する
  04/22救世軍のブース大将が来日。田中正造が東京座でブースに面会、周旋を依頼する
     「我国が万国平和会議に世界陸海軍全廃の提案をさせるよう努力するから、英国も賛成するように」
     陸海軍全廃を訴える
  04/24谷中村残留民が麦取畦畔の拡築工事に着手する
  04/24栃木県収用審査会が開かれる
     会長は県知事、県参事会員の互選によるものなど6人が委員に
     審査会は知事の提案にオウム返しの裁決をする進行となる
     谷中村を遊水池にするための収用が裁決される
  04/25谷中畦畔拡築工事費の義援金募集を三宅雪嶺、島田三郎の署名で『毎日新聞』に広告する
     谷中村村民が雪除けの浸水を除くための畦畔をつくる費用2万円を募るもので田中正造の依頼による
  04/27栃木県収用審査会が5月30日をもって若干の補償で収用をするとの裁決をする
     裁決に不服あるものは裁決書謄本の交付を受けて2週間以内に内務大臣に訴願できる
     また裁決を違法とするものは2週間以内に行政訴訟が提起できる
  04/田中正造や福田英子ら5人が栃木県収用審査会に意見書を提出する
  05/10栃木県による収用裁決に対しての「土地収用法適用につき訴願書」を内務大臣原敬あて提出する
     【05/12の請願書との違い?】
     安部磯雄、田中正造、福田英、石川ゆき、宮崎ツチ(滔天妻)、小野吉勝(新紀元社)、逸見斧吉
     【安部のほか福田英子、石川雪、宮崎槌(滔天妻)、小野吉勝(新紀元社)、逸見斧吉、田中正造?】
  05/12村民が栃木県による収用裁決に対しての請願書を内務大臣原敬に提出する【残留民? 訴願書?】
     「土地収用法第81条により裁決取り消し」を訴える
     【05/10の「土地収用法適用につき訴願書」との違い?】
     訴願書の作成には『上州新報』記者の遠藤友四郎が関与する
  05/12谷中の麦取畦畔が雪解け水により流失する
  05/23田中正造の第2の官吏侮辱事件の控訴審公判が東京控訴院で開かれる
     榊原弁護士と榊巡査の証人尋問が行なわれる
  05/28栃木県による収用裁決に対しての訴願が収用審査会を経ていないという手続き面の理由で却下される
  05/28田中正造の提案により東京の神田区にある錦輝館で谷中村買収事件大演説会が開かれる【谷中村事件演説会?】
     聴衆1600人が集まる
     田中正造が「組織的罪悪」と題して演説する
  05/29栃木県は谷中村残留民が受領を拒絶した買収金を宇都宮本金庫に供託する
     事実上、買収が成立したことになる
  06/01東京の神田区にある錦輝館で第2回谷中村事件大演説会が開かれる
  06/02田中正造が逸見斧吉、菊地茂ら23人を案内して谷中村を視察する
  06/12栃木県が旧谷中村の残留民に対して強制退去命令をだす
     堤内、堤上の居住16戸に対し6月22日までに立ち退かなければ強制執行とする戒告書を交わす
     のち警察は22日直前までの間、残留民に対して買収に応じるよう威嚇的な説得を繰り返す
     県第4警察部長の植松金章は吉屋雄一郡長や警察署長、ほか多数の警察官を連れてくる
     堤内地の16戸は頑として応じず
  田中正造が県庁に知事を訪ねる
     目下、麦の収穫中なればしばらく延期してはいかがと忠告する
     のち強制破壊の執行が6月29日に決定する
  06/13田中正造の第2の官吏侮辱事件(終)に東京控訴院での控訴審は証拠不十分で無罪の判決を言い渡す
  06/14谷中残留民が村税不当賦課に関する栃木県参事会の裁決を不服として行政訴訟を提起する
  06/19午後2時、谷中村字北古川の間明田粂次郎方に栃木県警務部長の植松金章が田中正造を訪ねる
     【谷中村大字下宮の間明田粂次郎方】
     【植松は栃木県4部長?】
     植松は栃木警察署長の藤堂、部屋分署長の前田ほか巡査10数人を引率する【栃木警察署長は藤岡?】
     植松は田中に立ち退くよう最後の交渉を試みる
     植松警務長がいう
     「既に戒告書を発してある如く本月二十三日を以て強制執行を為さねばならぬ。
     其前に何れかの穏やかな方法はないか」
     田中がこたえる
     その内容は寸分違わず、植松は返す言葉もないながら問う
     「それならば、今後如何なるお考えですか」
     田中がこたえる
     「買収に応じて村を去った村民も今や困窮して乞食同様になっている。
     買収に応ずるも乞食、応ぜざるも乞食、僕も亦乞食となって食を天下に乞うのみである」
       植松金章は1907(明治40)2月の足尾暴動事件の際、現地に派遣される
       警察による鎮圧は不可能と判断し、栃木県知事に至急出兵を要請した
  06/21田中正造が栃木県庁で知事の中山巳代蔵に面会する
     立ち退き強制執行の延期を勧告する
     06/22藤岡にてふたたび面会する
  県庁が古河町に破壊に使役する人夫を募集
     「谷中村ブチコワシの人夫に雇わるるナとは云わず、されどこれが募集に応ずる人には立退き料を与うる故、
     古河町より他へ移転して貰わん、しかしてこの古河町へは、再び足踏みする事をお断わり申す」
     応募はひとりとしてなく、県庁は他地に求める
  06/22夜、谷中村残留16戸、村民116人が間明田粂次郎方に会し最後の酒宴をなす
     谷中村の強制破壊の決行前日の夜、夜、木下尚江、柴田三郎、菊池博らが加わり歌い舞う
     のち夜、宴半ばにして栃木県が残留民に対し28日までに移転するよう、立ち退きの再戒告書がくる
     6月23日に予定していた家屋破壊の強制執行が延期となる
     【内務大臣の原敬の注意により対世間策としての延期?】
  06/25夜、谷中村村民が某宅に会し決議
     「吾等は谷中村に対し、土地収用法を適用し、土地物件の買収強制執行をなすを、
     あくまで県庁の不当残酷の処置なりと信ず。官吏が凶暴の所為を以て臨まざる限り、
     断じて腕力に訴え抵抗せざる事を約す」
  06/26谷中村村民が万一の用意にと郵便預金を引き出そうと藤岡郵便局へ
     局は不法にも払い渡すことをせず
  06/29栃木県当局が旧谷中村残留村民宅に対して強制立ち退きを執行、破壊を開始する
     強制撤収第1日
     この日現在、谷中村残留民は堤内に16戸116人、堤外に3戸15人が残るのみに
     田中正造や有志の木下尚江、菊地茂、星野孝四郎、柴田三郎ら
     都下の各新聞が記者を派遣し毎日の凄惨な破壊の情況を報道する
     植松警察部長の立ち退き説得に対して田中正造が答える
     「今後は乞食となって天下に食を乞うのみ」
     田中はあくまで非暴力を貫く決意で社会に訴える
     のち破壊されたのは堤内13戸、堤上3戸の16戸。田中正造宅を含む16戸はその後も村に残る
     破壊された用材は雷電神社跡の敷地に野ざらしのまま積みあげられる
     破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)【全15軒?】
     強制破壊に取りかかり7日。全部の破壊を終了する
     強制破壊をまぬがれたのは堤外地に居住する下宮の高田仙治郎宅と鶴見平五郎宅、恵下野島田栄蔵宅の3戸
     のちこの16戸(田中正造含む)はその後も仮小屋を建て強固に住み続ける
     のちのちに1戸減
   06/29午前8時、栃木県第4警察部長の植松金章は100人を超える警察官と数10人の人夫を動員する
     【警察官200余人と人夫数10人?】
     まずは旧谷中村恵毛野の佐山梅吉方より破壊に着手
     家財道具は雷電神社跡に運搬し、家屋を破壊する
     梅吉は中津川保安課長に問いて動かず
     「官吏は人民の家屋を破壊し土地物件を没収するが常務なりや」
     梅吉は田中正造、木下尚江の説諭で承諾。妻子と壊されていく我家を堤上から見守るのみ
     木下は梅吉の長男千代次の頭をなで「六月二十九日を忘るな」と涙する
     佐山方の破壊が終了すると、さらに小川長三郎川島伊勢五郎の居宅を破壊する
     佐山の宅は間口3間、奥行き2間半の小屋。小川、川島宅もほぼ同じ
     小川長三郎は60位の老人で若い嫁と3才の孫娘があるのみ。妻は先年に死去し子息も本年3月1日に死去
     午後5時、跡形もなくなり破壊隊が藤岡町に引きあげる
     3戸15人が家をなくす
  06/29来村した貴族院議員の松平直敬は強制破壊が立ち退き先も仮小屋も用意されず行なわれたことを不当と批判
     法律にはないという執行官に対し「生きている人間を雨ざらしにしてよい法律があるか」と追及、執行官をだまらせる
     強制執行は無補償で破壊され、用材、家財道具は洪水に流され、強制破壊の費用までも村民に支払わされる
  06/29初日執行の3戸は官有地の堤防を借り居住し前年4月17日の家屋の取り払い命令にも従わず強制破壊となる
  06/30この日以降は土地収用法の適用により強制立ち退きを執行、強制破壊となる
  06/30午前8時、破壊本隊が旧谷中村内野字高砂の茂呂松右衛門方へ。強制撤収第2日
     茂呂宅には60才の松右衛門、子息の吉松(33)、嫁で妊娠中のキヤ、4才の女子、ほかに3人の小児があり
     同家は最旧家で父祖伝来480年の歴史を有し、現今の建物は121年前の建築
     松右衛門は保安課長に家の歴史を語り、妻しまは号泣、松右衛門の息子吉松の長男留吉は祖母しまの袖を控えて涕泣
     吉松は発狂し赤裸となり荒れ狂う
     中津川保安課長、植松第4部長は抜刀もできず辟易して退却する
     田中正造と木下尚江が説くも吉松の耳に入らず
     これから破壊される他の村民が泣きながら吉松を押さえ説く
     「苦しからんが服従せよ、初めより泣かぬ手向かわぬと約束せしにあらずや」
     吉松は30余人の人夫にむかい絶叫
     「官の命なればとてもし承諾せぬに破壊せばそのままには置かず」
     田中正造は泣きながら吉松を諭し、辛うじて事なきを得る
  06/30次に破壊する渡辺長輔(45)方には妻タヘ(42)と長男長太(16)、幼い長女、次女があり
     さらに71才の老母セイと41才の妹ツヤ。次男彦宗(14)は東京へ奉公
     ツヤは若い頃、容色あり姿優しく村一の評判娘なるも嫁ぎ先の姑の虐待により精神錯乱に
     11年来可憐の狂女として長輔の厄介になる
     老母セイが涙のうちから嗚咽
     「コレサへなければ早く立ち退いたのですけれど馬鹿でも気がふれているので」
     「気がふれているのですから縊り殺すこともならず」
     長輔は地に座す
     「この家は妹と2人で働いて拵えたのだ、妹はここで飼い殺しにするつもりでいたのだ」
     長輔は怒号号泣、精神錯乱状態に
     「壊すなら俺を殺してから壊せ」
     警官人夫はうつむくまま一語もなく静まり返る
     破壊隊は木下尚江の口添えで執行は中止、引き上げる
     30日の破壊は茂呂宅のみにとどまる
  06/下〜07/『時事新聞』『東京日日新聞』『国民新聞』などが栃木県谷中村の強制破壊をこぞって報道する
     【『時事新報』?】
  07/01島田熊吉宅が破壊される。強制撤収第3日
     島田宅は8間7尺に4間の母屋1棟に2間に4間ほどの物置、2間半に3間の肥料小屋1棟
     家族は年若い主人の熊吉(23)に妻ナカ(26)、弟宗三(16)、高蔵(9)、妹キク(12)に
     長男清(3)と母サク、叔母(70)のあわせて8人が居住
     田中正造は数日来の疲労から横臥
  07/02破壊隊の人夫が数10人増員される。強制撤収第4日
     嶋田政五郎水野彦一染宮与三郎らの居宅が破壊される【水野彦市?】
     ▽島田政五郎は島田熊吉の叔父にあたり妻テツ(33)と娘イワ(11)、ハル(8)、ロク(3)の5人
     母屋と物置の2棟のみで正午ごろにはほぼ破壊終了
     ▽水野彦一の女リウは破壊行為を拒絶する
     「父上在さざれば、一指たりとも触れしむべからず」
     ▽染宮与三郎の老母は「殺せ殺せ」と泣き叫ぶ
     【島田政五郎宅、水野彦市宅、島田熊吉宅が破壊される?】
     【第4日目は島田政五郎宅と水野彦一宅を破壊?】
  07/03水野常三郎間明田粂次郎間明田千弥らの家が破壊される。強制撤収第5日
     ▽間明田粂次郎方は村民進退の策源地で参謀本部。田中正造の根拠地で木下尚江も宿泊する
     粂次郎(51)の家族は妻キイ(51)のほか男与四郎(29)、林吉(24)、藤四郎(14)、女ナミ(19)
     粂次郎は穏やかに執行を受ける。粂次郎宅は母屋を残して他2棟を破壊する
     田中正造は人夫の乱暴な壊し方をみて保安課長につめ入る一幕も
     母屋の破壊は翌日にまわされる
     ▽水野方も無事に終了する
     ▽間明田千弥(47)と妻タキ(36)は座敷を離れず、保安課長にくってかかる
     「六月十五日植松第4部長は我等を藤岡町役場に召喚して、汝等を抛り出してもブチ壊すといえり。
     面白し、余は抛り出さるるまで立ち退かざるべし」
     栃木県第4警察部長の植松金章は巡査に千弥夫婦の抛り出しを命じる
     【染宮与三郎宅、水野常三郎宅、間明田千弥宅が破壊される?】
     【染宮与三郎、水野常三郎、間明田粂次郎、間明田千彌の4戸を破壊? 午前中に染宮、水野宅をほぼ破壊】
  07/04竹沢勇吉竹沢駒造竹沢房造方が破壊される。強制撤収第6日
     なんの騒ぎもなく破壊は進み無事に終了する
     ただ田中正造は房造方破壊の際、怒号する
     「かかる無情なる事をなす者は、必ずや村民の怨恨の祟る時あらん」
     田中は人夫らを呪詛すると。人夫らは恐れ手がとまる
     【間明田粂次郎宅、竹沢釣蔵宅、竹沢勇吉宅、竹沢房蔵宅が破壊される?】
     【第6日目は間明田粂次郎、竹沢釣蔵(鉤蔵?)、竹沢房蔵、竹沢庄蔵宅が破壊される?】
  07/05狂女があり延期となっていた渡辺長輔宮内勇次方が破壊される
     強制撤収第7日目にして強制破壊終了となる
     【宮内勇次宅、渡辺長輔宅、竹沢房蔵宅が破壊される?】
  強制破壊中三宅雪嶺、花圃夫妻、逸見斧吉、島田三郎信子夫妻、貴族院議員の松平直敬、
     矢島楫子、弁護士の今村力三郎、花井卓蔵、卜部喜太郎などが残留民を慰問する
  07/07小雨のなか今村力三郎、花井卓蔵、卜部喜太郎、石山弥平など弁護士が訪れる
  07/08雨。以降、9日、10日と雨、11日風雨、12日雨と続く
     谷中村は貯水池のようになる
     被害民は周囲より高い屋敷跡に粗末な仮小屋を造る。高くしても雨で水浸しに
     病人の老人がいるのに屋敷跡から離れようとせず谷中に住み続ける者も
     田中正造は舟を頼み各仮小屋をまわる
  07/田中正造が旧谷中村の残留民仮小屋強制破壊執行のあと谷中村復活運動に奔走する
  07/谷中村の強制破壊後、東京の有志が谷中村救済会(東京救済会)を結成する
     メンバーは旧『新紀元』派のキリスト教社会主義者、政界革新同志会の衆議院議員、川俣事件以来の弁護団有志
     島田三郎、三宅雪嶺、大竹貫一、高木正年、高橋秀臣、田中弘之、今村力三郎、花井卓蔵、卜部喜太郎、
     桜井熊太郎、塩谷恒太郎、川島仟司、信岡雄四郎、新井要太郎、安部磯雄、逸見斧吉、柴田三郎、菊地茂ら
     演説会を開き、残留民の麦取り畦畔修築の義援金を送るなど援助する
  07/11栃木県が県事務官で執行官の植松金章の名で告知書を発行する
     内容は強制破壊終了後も旧家屋近隣に仮小屋を立て住む残留民に対しての告知
  07/21東京救済会の石山弥平、信岡雄四郎ら弁護士が谷中村を訪問する
     谷中村残留民に不当買収価格に関する民事訴訟を起こすよう提案する
     このときは訴願も行政訴訟も期限切れで不服訴訟ができるのみ
     土地収用法の適用による土地買収金額に不服の場合は民事訴訟を起こせるというもの
     費用は救済会でもつ、被害民には迷惑をかけないからさせてくれと頼む
     残留民は困ると賛成せず。不服訴訟は谷中村に土地収用法を適用させたことを認めることが大前提
     田中正造も同様。田中正造はいまさら補償金額裁決不服訴訟を起こして法律にしばられることは同意できず
     のち弁護士は再三、谷中村を訪れ説得を繰り返す
     残留被害民は川俣事件以来、無報酬で尽くしてきた弁護士の申し出を断りきれず受け入れる
  谷中村残留民が谷中村破壊の不法不当性を26か条にわたり列挙【07/21?】
     田中正造が東京救済会にあてて請願書を作成、提出する
     「憲法および国民の生活権利にたいし安全保証を与えられまた人道のために
     臨時救済の方法を立てられ併せて谷中村の土地復活を期せられたき請願書」
  07/29残留被害民らが栃木県を被告として宇都宮地方裁判所栃木支部に不当廉価買収に関する訴訟を提起する
     【不当買収価格訴訟? 不当廉価買収訴訟? 以降、土地収用補償金額裁決不服訴訟で統一】
     残留民の支援組織、東京の谷中村救済会(東京救済会)の弁護士の勧めで提起
     残留被害民の間明田粂次郎ら20人と田中正造、安部磯雄や福田英子ら1坪地主7人
     原告村民代表は安部磯雄
     原告の代理人(訴訟代理人)は石山弥平、今村力三郎、花井卓蔵、小川平吉、川島仟司、
     卜部喜太郎、信岡雄四郎、近藤定吉、新井要太郎、桜井熊太郎、塩谷恒太郎、茂木清の12人
     田中正造の代理人は石沼佐一、石田仁太郎、花崎三省、岡磬三、塚原辰彌、鯉沼平四郎の6人
     栃木の弁護士茂木清が裁判所と東京の弁護士間の連絡係として代理人となる
     必要な印紙代は田中正造が宇都宮の裁判所に供託するものを払い戻しあてる
     裁決額は取り下げの2人を除いて土地及び物件移転料として、計9904円99銭9厘【9914円8銭5厘?】
     さらに総計で不足6万3534円58銭2厘を要求する
     【以下、1912(明治45)4月の土裁決不服訴訟裁判での判決が下されるまでの、どの行間に入るか不明】
     のち宇都宮地方裁判所栃木支部での最初の裁判長の住谷毅は被害民にいくぶん同情的
     のち次の裁判長の生駒八十弥、陪席判事の古市哲、飯田益雄は被害民を叱りつけるような審理をする
     のち東京の弁護士は金の工面をせず裁判に対して協力的でなくなる
     のち東京の弁護士らは立ち退きを条件とする和解策を持ちかける。これは近く河川法の準用があることを前提とした話
     【1908(明治41)2月、東京救済会が谷中村の残留民に移住を要請するころ?】
     のち田中正造ら谷中村残留被害民の間に東京の弁護士に対する不信不満がでるようになる
     のち東京の弁護士では間に合わなくなり宇都宮の石田仁太郎、花崎三省にも代理人を依頼する
  07/田中正造は内心土地収用補償金額裁決不服訴訟に反対の立場をとる
     ふつう1反100円前後の田畑を、公用地として買い上げるなら1反400円から500円となる土地を
     補償金というこで畑1反40円、田1反30円の価格で買収するのは、買収でなく土地の奪取である
  善意の東京救済会と田中正造を含めた谷中村残留民との間に、早くも意見の相違が生じはじめる
     栃木県当局が谷中永住を認めない場合
      ▽東京救済会は残留民を付近の適当な場所に移住させるよう県と交渉することが活動の主目標
      ▽田中正造は残留民が谷中村復活まで村内の所有地を耕作しながら長期間住める場所を求める
     不当買収価格に関する民事訴訟に関して
      ▽東京救済会は訴訟を起こすようすすめる
      ▽田中と残留民は土地収用法の適用自体を不法とし、買収価格の高安を争うことに疑問
     のち時間がたつにつれ、いっそう溝が深くなる
  08/24、25田中正造が古河町にて渡良瀬川の大洪水にあう
  08/25渡良瀬川沿岸が大洪水に。谷中村、利島村、川辺村、海老瀬村ら周辺の諸村を襲う
  08/25川辺村栄の堤防が決壊して大洪水が発生する
  08/25渡良瀬川などが大洪水を起こす。残留民の仮小屋が流失する
     田中正造は二百石船で仮小屋の残留民を1軒ずつ見舞い船への収容を試みる
     残留民は病人でさえ収容には応じず
     【残留民は船で夜を明かす?】
  08/大洪水が起こる
     結果、谷中村を遊水池に整備しても、利根川からの逆流で氾濫は防げないことが証明される
     田中正造が主張していた関宿の石堤をせまくしたところが根本的な原因

     田中は谷中周辺の有志に呼びかけ利根川逆流阻止のため関宿石堤取り払い運動を起こし谷中村復活に結びつける
     【茨城県に大洪水が起き谷中村貯水池の無効が判明。隣接町村ではいずれも破堤する?】
  08/25荒畑寒村の『谷中村滅亡史』が平民書房より発行される
     荒畑20才のときの処女出版。四六判・並製、本文174ページ(口絵写真1葉、序文9ページ、目次3ページ)。定価35銭
     発行を急ぎすぎ章立てや誤字脱字、同音異字など編集がずさんで校正のないままの発行となる
     谷中村事件は「資本家と、政府と、県庁と、結托共謀せる組織的罪悪」と断言する
     08/25同日発行禁止に。発禁になった原因と思われる個所は「結論」の最後の1行
     「平民の膏血を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭(こうべ)を飾らしめよ」
     荒畑は初版の自著を手元に置くこともできず
     のち秋頃、「結論」の最後の1行のページを切り取った異本が発行される
     前ページの「あゝ悪虐なる政府と、暴戻なる資本家階級とを絶滅せ」のあとに「よ。」を手押しして加える
  08/下旬『谷中村滅亡史』の発禁を知った田中正造は「少し芥子がきき過ぎましたね」と感想をもらす
  08/下旬渡良瀬川の堤防の上に避難していた谷中村の島田宗三宅に発禁になった『谷中村滅亡史』の1冊が届く
     無事、田中正造の手に渡される
  08/東武鉄道の浅草〜足利間が開通する
  10/07宇都宮地方裁判所栃木支部で土地収用補償金額裁決不服訴訟の第1回公判が開かれる
     のち訴訟を提唱した東京救済会が内部の方針の相違から消滅する
     田中正造以下32人の原告と地元栃木の弁護士だけで裁判をすることに
  10/土地収用補償金額裁決不服訴訟の第1回公判後、東京救済会の弁護士が谷中村残留民に示談での解決を勧告する
     残留民を驚かす
  10/18日本基督教婦人矯風会が神田区の基督教青年会館で演説会を開く
     田中正造が演説する
  10/下旬谷中村より移住した村民のなかから復帰する者があらわれる
  11/05谷中の残留民が麦取畦畔修築工事に着手する
  12/19茨城県古河町の宝輪寺で利根逆流問題演説会が開かれる
     田中正造が「水害・地勢・水勢・風波論」と題して演説
  12/19田中正造が4県治水有志交換仮事務所の設置を決定する
  12/26田中正造の提案で茨城県古河町にて利根川逆流問題政談演説会が開かれる
  この年推計で谷中村の人口400人、戸数70戸

1908(明治41) 68

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望(→07/14)、[第13代](第2次)桂太郎(07/14→)
  《内務大臣》[第25代]原敬逓信大臣が兼任、[第26代]平田東助(07/14→)
  《警視総監》[第17代]安楽兼道/再任、[第18代]亀井英三郎(07/20月→)
  《農商務大臣》[第21代]松岡康毅(→07/14)、[第22代]大浦兼武(07/14→)
  《東京鉱山監督署長》[第7代]野田勇
  《帝国議会》[第24回通常会](→03/26)、[第25回通常会](12/25→)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵
  《群馬県知事》[第14代]南部光臣(→08/29)、[第15代]神山閏次(08/29→)
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎


  01/田中正造が「渡良瀬川水害救治請願書」を作成し、総理大臣、内務大臣、貴族院、衆議院に提出する
  02/13谷中残留民の竹沢友弥が死去する
  02/25東京救済会が谷中村の残留民に対して暫定的に谷中村恵下野の堤外地に移住するよう要請
     完全な意見の不一致状態、残留民と救済会の間に疎隔が生じる
     のち東京救済会が訴訟から手を引く
     のち救済会自体が解消する
  02/田中正造が請願書を作成し貴族院、衆議院に提出する
     「自治の破滅の復活を期すべき請願書」
     「利根川流域の治水の統一を期し流水の沮害を取り去り逆流を除くべき請願書」など
  02/利島村、川辺村両村民の有志1221人が貴族院院長、衆議院院長に対し「利根川流域治水統一請願」を提出する
  03/03栃木県谷中村の残留民が数日にわたり、再び予防の畦を修築する【麦取畦畔の復旧工事に再着手?】
     半農半漁の自活の努力を継続する
  03/田中正造が「利根川流域の被害に関する質問趣意書」を起草する
  03/22田中正造が起草した質問趣意書を花井卓蔵らが第24回帝国議会に提出する
  03/田中正造が請願書を作成し貴族院、衆議院に提出する
     「旧谷中村復活請願書」
     「旧谷中村土地人民復活請願書」
     「谷中村を復活して古河町繁栄に関する請願書」など
  04/05田中正造の「海陸軍全廃」の談話が『新生活』に掲載される
  04/05田中正造が第10回衆議院議員総選挙に出馬する高木正年、卜部喜太郎、津久居彦七らを応援する
     投票は5月15日
  04/11谷中の麦取畦畔が雪解け水により決壊する
  05/02早大雄弁会が神田区基督教青年会館で演説会を開く
     田中正造が「谷中及び軍備停止論」を演説する
  05/03〜05/05土地収用補償金額裁決不服訴訟公判での実施検証が行なわれる
  06/〜08/田中正造が渡良瀬川と思川の河川調査をはじめる
  07/14西園寺内閣が総辞職したことで原も内務大臣の座を退く
  07/21栃木県告示288号をもって旧谷中村全域の堤内ほかに河川法の準用を告示。残留民の追いだしをはかる
     一、思川 藤岡町恵下野地先巴波川合流以下
     二、巴波川 藤岡町恵下野地先須戸川合流以下
     三、須戸川 水源赤麻沼より赤麻沼合流まで
     四、赤麻沼
     五、瀦水池 藤岡町及び野木村の一部(旧谷中提内)
     【栃木県が谷中村残留民追い出しの最後の手段として?】
  07/25栃木県により旧谷中村全域の堤内ほかに河川法準用が施行される
     【河川法の規定準用認定が施行される?】
  07/28県令58号で旧谷中村残留民に対し河川法準用区域内の使用法が告示される
     敷地に固着して工作物を施設し、また敷地を占有するものは9月10日までに県の許可が必要となる
     許可のない場合10円以内の罰金もしくは拘留となる
     逆に残留民や旧谷中村民が耕作や漁業のために旧谷中村跡へ立ち入ることを認める結果に
  07/下〜09/初田中正造が約40日間にわたり各洪水水害地と旧鉱毒激甚地一帯の実態調査を行なう
  08/利島村の麦倉にある合ノ川の堤防が決壊する
  09/谷中堤内への河川法準用反対運動が展開される
     田中正造と残留民は栃木県当局や県会に対して河川法適用を取消すよう要請
  09/10田中正造が残留民の名義で御届書を栃木県知事に提出する
     「栃木県第288号の告示および県令第58号につき御届書」
  09/19田中正造が谷中残留民の名義の訴願書を藤岡町役場を経て内務大臣に提出する
     「瀦水池認定河川法準用不当処分取消の訴願書」
     町役場助役の田名網の機転と好意で期限内に提出可【提出可?】
     1909(明治42)03/05却下となる
  09/26栃木県が谷中堤内の土層を下野煉瓦会社に払い下げることを許可する
     のち取り消しとなる
  10/13田中正造が谷中残留民名義の「秋麦蒔付の陳情書」を作成する
     農商務大臣、大蔵大臣、内務大臣に提出するように指示する
  10/25谷中村残留民が4月11日に流失した麦取畦畔の復旧工事に着手する
  10/31栃木県知事の中山巳代蔵が旧谷中村下宮の茂呂多重所有地を瀦水池の敷地とする土地収用を公告する
  11/04栃木県藤岡町の谷中村旧地主と谷中村移住民らが県に願書を提出する
     元谷中村堤内の土地を元の所有者である自分達に払い戻すよう
  11/12田中正造が茂呂多重名義の訴願を作成、内務大臣に提出する
     「土地収用法および堤内地に河川法施行の不当取消訴願」
  11/13田中正造が取消訴願を作成し内務大臣に提出する
     「土地収用公告の事業計画は不当につき取消訴願」
  11/18萬秀堂から王孫子の『足尾案内銅山大観』が発行される【横田八百吉の?】
     定価は上製60銭、並製40銭、萬秀堂は栃木県上都賀郡足尾町字間藤439番地
     古河市兵衛の偉業と予防工事の成功を讃え謳歌する
  11/19田中正造が『国民新聞』所載の記事を抜粋印刷する
     出版法違反により宇都宮地方裁判所栃木支部の検事に召喚される
     のち不起訴となる
  11/20古河市兵衛の実子で3代目社長の古河虎之助が侯爵西郷従道の次女不二子と結婚する
  11/下旬〜12/上旬田中正造が宇都宮で県会に向けて運動をする
  11/田中正造が谷中村復活に理解を示す碓井要作、白石荘蔵、木塚貞治ら県会議員に働きかける
     栃木県会で河川法準用の県告示を取り消すよう強く求める
     のち碓井が田中の意見にもとづき県会に意見書を提出する
  12/02田中正造が「渡良瀬川本流妨害問題」を作成し、県会議員などに印刷配布する
  12/02田中正造が「利根川治水の統一に関する意見書」を県会議員の碓井要作らに託す
     12/14県会で採択される
  12/09栃木県会議員初選出の碓井要作が通常県会で谷中村問題について大質問をする
  12/14碓井要作ら5県会議員が栃木県会に河川法の準用告示取消の意見書を提出する
     「河川法の準用告示を取消すべし」との意見書を採択
     同時に田中正造の草案になる利根川、渡良瀬川の治水に関する意見書を全会一致で決議
     12/15県知事に提出する
     のち県会の決議にもかかわらず栃木県当局と官憲による残留民の追い出し方針は変わらず
  12/15田中正造が関宿を視察する
  栃木県当局は県会の決議にもかかわらず残留民の追いだしを迫る
     残留民が耕作のため仮堤防を作ろうとすると妨害する
     仮小屋の建て替えをした残留民を河川法違反で起訴、20円の罰金を課す

1909(明治42) 69

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎
  《内務大臣》[第26代]平田東助
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎
  《農商務大臣》[第22代]大浦兼武
  《東京鉱山監督署長》[第7代]野田勇
  《帝国議会》[第25回通常会](→03/24)、[第26回通常会](12/24→)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵
  《群馬県知事》[第15代]神山閏次
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎


  01/16谷中残留民の鶴見平五郎が死去する
  02/04田中正造が栃木県知事あての「元谷中村堤内地農耕許可請願書」を作成する
  02/12田中正造が谷中残留民名義の「憲法擁護の請願書」を作成、貴族院、衆議院に提出する
  02/21石川三四郎が久しぶりに谷中村を訪ねる
  02/下田中正造、松村介石、津田仙、島田三郎らが東京の各所で足尾の鉱毒事件についての公開演説会を開く
  02/田中正造が「渡良瀬川流域復旧請願書」を作成、貴族院、衆議院に提出する
  02/〜03/田中正造と被害民が次々と請願書などを栃木県や貴族院、衆議院に提出する
     「元谷中村堤内農耕許可請願の事実及理由書」など
  03/05田中正造が前年9月19日に残留民の名義の訴願書を藤岡町を経て内務大臣に提出した訴願書が却下となる
     「瀦水池認定河川法準用不当処分取消の訴願書」
  03/11第25回帝国議会で高木正年、花井卓蔵ら3人が「栃木県谷中村民の居住に関する質問書」を提出する
     高木正年が質問演説をする
  03/13谷中残留民の島田熊吉が「谷中堤内収用土地採掘不当の訴願書」を内務大臣の平田東助に提出する
  03/20田中正造が「破憲破道に関する請願書」を作成、第25回帝国議会の会期末に貴族院、衆議院に提出する
     同じ内容の「質問主意書」を政府に提出してもらうよう島田三郎、大竹貫一、花井卓蔵、卜部喜太郎に依頼する
  03/20第25回帝国議会で渡良瀬川改修案が可決される
  03/23第25回帝国議会で島田三郎ら4代議士が衆議院に「破憲破道に関する質問書」を提出する
     【「破憲破道に関する質問主意書」?】
     島田三郎、花井卓蔵、大竹貫一、卜部喜太郎の4代議士
     内容は田中正造が作成し議会会期末に貴族院、衆議院に提出した「破憲破道に関する請願書」
  04/08谷中麦取畦畔が雪解け水により決壊し堤内に浸水する
  04/「谷中村民移住表」が作られる
     旧谷中村の下宮、内野、恵下野の代表者3人が役場にて戸籍調査をした結果をまとめる
     谷中村での住所と氏名、移転先の住所、移転年月日などが記載される
     内務省が渡良瀬川改修事業として用地買収を行なう前のもの
     1909(明治42)年の調査では367戸の移転先が示される
     1903(明治36)年の戸数377戸と10戸の差が生じている
     ▽堤内地に残り買収反対をつづけた16戸
     ▽堤内地から堤外地への移住
     ▽買収対象外の堤外地から他地区への移住
     ▽移住届のない者
     ▽分家し隣に移住した者
     377戸以上の戸数が移住していることになる
  05/16藤岡町の慈福院で治水演説会が開かれる
     田中正造が「演説は見るものなり」と題して演説する
  05/26谷中残留民の水野彦市が死去する
     05/27堤内の共同墓地に埋葬される
  06/26谷中残留民の茂呂松右衛門が買収に応じる
     07/松右衛門一家が茨城県の古河町に移転。谷中村残留民は18戸に
  07/24東京の弁護士信岡雄四郎が死去する
  07/田中正造が木下尚江らに『聖人論』を送る
  政府内務省が利根川の第2期、第3期の改修工事とあわせて渡良瀬川改修工事計画を発表する
     栃木、群馬、埼玉、茨城の4県に渡良瀬川等の河身変更と谷中村堤内外の遊水化を諮問
     工事計画が実施されると谷中村復活の望みは完全に絶たれることに
     のち計画が発表されると田中正造はただちに反対運動をはじめる
     関係の栃木県、埼玉県、群馬県、茨城県の4県会に陳情、議会に請願する
     09/まず群馬県会、そして栃木県会が改修案を可決する
     茨城県会と埼玉県会はいったん否決する
  09/政府が栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県に内務省起業の渡良瀬川改修工事費の分担を諮問する
     【9月以前に内務省が渡良瀬川改修案を作成し関係の県に通知する?】
     渡良瀬川などの河身変更、谷中村堤内外を中心に遊水地化の工事
     田中正造は本案中、関係村民とともに反対運動を起こす
     藤岡町の高台を開削して新川を赤麻沼に導き、もって下都賀南部を鉱毒沈澱池とするのを失当とする
     のち上流地方被害民が却って政府案を歓迎する矛盾が生じるという
     改修工事の益害を焦点に関連地域の住民は、それぞれに賛成運動、反対運動を展開する
  09/10栃木県第9回臨時県会が開会する
     渡良瀬川改修工事案を付議
     09/15調査ののち改めて討議することを答申して閉会となる
  09/10群馬県会が渡良瀬川改修工事案を可決する
  09/12田中正造が渡良瀬川改修工事案に対する長文の請願書を提出する。はねつけられる
     【帝国議会へでなく、どこかの県に提出?】
     のち田中は何度はねつけられても合法的な請願を繰り返す
     13日、15日の午前、15日の午後、16日、24日と13日間に6回提出
  09/18栃木県知事と県会議員が渡良瀬川改修工事の対象地を視察する
  09/23栃木県第10回臨時県会が開会する
     09/27渡良瀬川改修工事案を可決して閉会する【渡良瀬川改修・遊水池設置案?】
  09/24谷中残留民の間明田仙弥の妻たきが死去する
  09/25茨城県会が渡良瀬川改修工事案を否決する
  09/田中正造が谷中残留民とともに内務省起業渡良瀬川改修工事案に関しての陳情書を作成する
     のち栃木県会への提出など反対運動を続ける
  10/03埼玉県会が渡良瀬川改修工事案を否決する【渡良瀬川改修・遊水池設置案?】
  10/03田中正造が埼玉県会に渡良瀬川改修案反対の陳情する
  10/08田中正造が改修案に反対した碓井要作ら6県会議員に贈る「公敬書」を作成する
  10/13谷中残留民の島田栄蔵らが恐喝容疑で部屋分署に拘留される
  10/15田中正造が谷中残留民の恐喝事件のため東京から帰村する
  10/17谷中残留民が4月8日に決壊した麦取畦畔の仮修繕に着手する
  11/13神田区の基督教青年会館で日本基督教婦人矯風会が演説会を開く
     田中正造が渡良瀬川改修案反対演説をする
  11/16田中正造が茨城県会、埼玉県会の改修案再付議の動きに対して帰村、反対運動をする
  11/28茨城県会が再付議の渡良瀬川改修の工事案を可決へと急変させる
  12/09部屋小学校で下都賀南部有志対策協議会が開かれる
     田中正造が渡良瀬川改修案などにつき演説する
  12/10〜12/13田中正造が埼玉県会に渡良瀬川改修案の反対運動をする
  12/29原田●【王偏に進・しん】三郎が死去する

1910(明治43) 70

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎
  《内務大臣》[第26代]平田東助
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎
  《農商務大臣》[第22代]大浦兼武
  《東京鉱山監督署長》[第7代]野田勇、[第8代]中村清彦(04/01→)
  《帝国議会》[第26回通常会](→03/23)、[第27回通常会](12/23→)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵
  《群馬県知事》[第15代]神山閏次
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎


  01/09谷中残留民死没者4人の追悼会が開かれる。田中正造が出席する
     【谷中村問題殉難者の追悼会?】
     【4人とは前年に死去した者?】
      01/16鶴見平五郎、05/26水野彦市、
      09/24間明田仙弥の妻たき、12/29原田●【王偏に進・しん】三郎
  01/09谷中残留民死没者4人の追悼会で村の有志が田中正造に再び政界にでて最後の救済主となるよう請う
     田中は一喝する「余政界を去りて既に十年、貴下等余を〇〇の仲間に押込まんとするか」【伏せ字処理】
  01/田中正造が栃木県下都賀郡野木村の村会議員、村長、助役、収入役など有志名義の長文の陳情書を作成する
     01/19内務大臣の平田東助に提出する
     「足尾銅山鉱業停止憲法擁護栃木群馬茨城三県県会決議に関する陳情書」
     【「鉱業停止憲法擁護3県県会の決議に対する陳情書」?】
  01/251月19日に田中正造が提出した陳情書を印刷して貴族院議員、衆議院議員などに配布する
  01/25埼玉県利島村の飯塚伊平ら4人が請願書を貴族院に提出する
     「憲法擁護栃木群馬茨木三県県会の決議に対する請願書」
  02/09埼玉県会が渡良瀬川改修工事の諮問案を可決する
     前年9月10日の群馬県、9月23日の栃木県、11月28日の茨城県と4県すべてが可決したことに
  02/12埼玉県利島村の飯塚伊平ら4人が1月25日に提出した請願書が却下される
  02/15谷中残留民が雪解け水に備える掻上土手の麦取畦畔改修工事に着手する
  02/26群馬県邑楽郡海老瀬村村民が請願書を議会に提出する
     「憲法制度法律の破壊せる海老瀬村自治の回復請願書」
  02/28田中正造が谷中残留民名義の請願書を作成し、貴族院、衆議院に提出する【貴族院議長、衆議院議長あて?】
     「足尾銅山鉱業停止関宿石堤取払憲法擁護元谷中村回復請願書」
  03/02政府が第26回帝国議会に渡良瀬川改修案を提出する【改修費予算案? 改修工事費予算案?】
     のち田中正造をはじめ旧谷中村残留民や周辺町村農民が各県会に渡良瀬川改修反対運動を起こす
     のち反対派による世論対策や議会への対応として島田三郎などを通して質問、追及を行なう
     のち反対運動は効を奏さず議会は総工費750万円、14か年継続事業による渡良瀬川改修案を可決成立させる
     改修計画は渡良瀬川に注ぐ思川など各支川も対象とする
     全流域面積は合計約3700平方キロメートル、流路延長約830キロメートル、
     航路延長約140キロメートル、灌漑反別は約1万9600ヘクタール
     また渡良瀬川の水域区域は沿岸4県6郡にわたり面積は約4万5900ヘクタールと想定する
     改修計画で重要なのは旧谷中村の西側を流れる渡良瀬川の河道(海老瀬の七曲がり)を廃し埋め立て、
     藤岡町の高台を開削して新川を疎通させ渡良瀬川を旧谷中村のなかに導く工事
     工事は旧谷中村を中心に周辺の土地と赤麻沼とをあわせ広大な遊水池を造るための一環
     (周囲約27キロメートル、面積約3千ヘクタールの)
     遊水池の周囲は堤塘が築かれることになる
     また渡良瀬川とその支川の堤防工事、付帯工事として多くの水門、水路工事が計画される
  03/08栃木県谷中村の残留民島田宗三が請願書を内務大臣の平田東助に提出する
     「憲法制度法律の破壊せる海老瀬村自治の回復請願書」
      2月26日、海老瀬村村民が議会に提出済み
     「足尾銅山鉱業停止関宿石堤取払憲法擁護元谷中村回復請願書」
      2月28日、元谷中村住民が貴族院議長、衆議院議長に提出済み
  03/18政府が3月2日、第26回帝国議会に提出した渡良瀬川改修費の43年度追加予算案が衆議院を通過する
     【改修案? 改修工事費予算案?】
     03/23予算案が貴族院を通過、可決する【03/22?】
  03/田中正造が東京に滞在して運動する
     第26回帝国議会に向けて「渡良瀬川改修中遊水地の儀につき質問書」を起草するなど
  03/この頃から田中正造への原田定助の経済援助がとまる
  04/02田中正造が内務大臣の平田東助に面会する
  04/16不朽青年会が神田区の和強楽堂で演説会を開く
     田中正造が大隈重信、松村介石らと演説する
  05/12渡良瀬川が増水、谷中堤内の掻上土手が破壊する
  05/26田中正造の指導により谷中村現地で元谷中村同志青年会を結成する
     谷中村残留の青年の精神修養と谷中問題研究のため
  06/23谷中残留民の川島伊勢五郎が死去する
  07/03栃木県谷中村で谷中村強制破壊3周年記念集会が開かれる。田中正造が参加する
     木下尚江が東京から参加する
  明治43年度国の直轄事業として渡良瀬川改修工事がはじまる【渡良瀬川の付け替え?】
     主要には藤岡町の西を流れる渡良瀬川の河道を付け替えて
     藤岡町の北方の台地を切り開き赤麻沼から旧谷中村を流れるように変更
     あわせて3千町歩以上に及ぶ広大な遊水池を設置する計画する
     下流域の犠牲の上に中上流域を洪水の被害から守る渡良瀬川改修工事計画となる
     08/大水害が起こる
     1896(明治29)の洪水を基準に策定された計画が大幅な変更を余儀なくされる
     1925(大正14) 国の直轄事業となる渡良瀬川の改修工事が完成する【1927(昭和02)03/?】
     1927(昭和02)03/渡良瀬川改修工事が予定より4年遅れて竣工する【1925(大正14)?】
  08/05停滞していた梅雨前線と11日、14日に通過した2つの台風により豪雨が発生する
     谷中村廃村後、まもなく利根川で最大の被害をもたらす洪水が発生する
     8月7日から11日までに773ミリの豪雨となる
     13日から14日にかけて2つをの台風が441ミリの豪雨をもたらす群馬県の草津で901ミリ、高崎市倉渕町の三の倉で569ミリに
     利根川は洪水防御の要となる施設の中条堤が決壊し、左右岸のいたるところで破堤する
     利根川、江戸川、荒川に囲まれた地域や関東平野の過半が泥水化
     関東地方の被害は死者739人、行方不明78人、負傷者16人。家屋の全壊2121戸、家屋の流出2769戸
     他地方を含めた全体被害のうち過半数に及ぶ
     特に群馬県、埼玉県の被害が大きく群馬県の死者83人、行方不明27人。埼玉県の死者202人、行方不明39人
     全壊家屋、流出家屋は群馬県、埼玉県あわせて2853戸と是sんたいの6割近くに
     【利根川、渡良瀬川周辺の群馬県邑楽郡では1万2019町歩(1万1920ヘクタール)の8割弱が浸水】
     館林町では全域が水没し往来は舟を頼ることに
  08/10、11田中正造が足利から間々田にでて出水による思川の破堤状況や利根川逆流の影響を視察する
  08/11関東大洪水が起き利根川が逆流する
     東海、関東、東北にかけて明治期最大級の被害をもたらす【8月10日?】
     谷中村が利根川の大洪水で水没、1906(明治39)に起きた空前の大洪水より約1メートルも高い水面となる
     渡良瀬川は平均の水位より水面が8メートル高くなり暮らしは極度に切迫する
     のちこの洪水が北海道移住の決定的な引き金になる
  08/11利根川、渡良瀬川、合ノ川の堤防がそれぞれに決壊し大洪水を蒙る
     利根川の利島村飯積、川辺村栄、渡良瀬川の川辺村駒場、合ノ川の利島村柳生、川辺村小野袋の堤防
  08/12田中正造が「天災にあらず」と題した印刷物をつくり各方面に発送する
  08/14田中正造が谷中残留民に救援米を贈る
  08/15田中正造が谷中残留民を見舞う
  08/21田中正造が谷中残留民と海老瀬村、利島村などの水害を視察する
  08/22田中正造が藤岡町で栃木県の参事会員に水害状況を説明する
  08/23、24田中正造が出京する。逸見、木下方の水害を見舞う【逸見斧吉? 木下尚江?】
  08/25田中正造が初めて岡田虎二郎と会う。静座法を教わる
  08/関東大洪水を機に被災地域の罹災者を対象に北海道への移住が進められる
       のち罹災者が北海道常呂郡佐呂間町の国有林開拓を目的に入植
  09/04田中正造が谷中残留民と関宿、境町付近の被害地を視察する
  09/06田中正造が利根川、渡良瀬川、江戸川沿岸の被害を視察する
  09/25、26日根野侍従が水害地を視察する
  09/26藤岡町の宝光寺で治水問題及人心回復政談演説会が開かれる
     田中正造が「利根川妨害工事取払の先決」などと題して演説する。10月15日にも
  10/07藤岡町の戸叶久衛らが町政に疑義ありとして町長に関係書類の閲覧を請求する
     のち町長の告訴により名誉棄損、公務執行妨害事件となる
  10/18政府が臨時治水調査会を設置する
  11/各村役場が遊水地の敷地内村民に北海道への移住を勧告する
  11/70才の田中正造が8月の関東大水害のあと栃木県、群馬県、茨城県、埼玉県を見舞う
     12月にかけて渡良瀬川、利根川、鬼怒川、思川などの関係河川を調査する
     のち次年も継続して調査
  12/16田中正造が邑楽郡千江田村で演説をする
  12/21水★総理大臣の桂太郎が渡良瀬川改修工事の地域内に土地収用法の適用を公告する
     改修工事費予算案が衆議院(03/18)、貴族院(03/22)の議会を通過したことによる
  明治43年度渡良瀬川改修事業が用地調査を開始
     1911(明治44)05/内務省(国)が買収業務を開始
     買収は区域が広大なため3区に分け、第1次、第2次、第3次買収として順次買収にはいる
     ▽利根川合流部から渡良瀬遊水池までの渡良瀬川本川
     ▽渡良瀬遊水池、思川、巴波川
     ▽藤岡新川と藤岡新川上流の足利郡毛野村までの旗川を含む本川と秋山川
  利根川改修計画が改訂される。取手より上流の利根川の整備がはじまる
     渡良瀬遊水池は渡良瀬川、思川からの流出が利根川に影響しないよう計画される
     栗橋の計画高水流量20万立方尺/秒:5.570平方メートル/秒

1911(明治44) 71

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎(→08/30)、[第14代](第2次)西園寺公望(08/30→)
  《内務大臣》[第26代]平田東助、[第27代]原敬(08/30→)
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎、[第19代]安楽兼道/再任(09/04月→)
  《農商務大臣》[第22代]大浦兼武(→08/30)、[第23代]牧野伸顕(08/30→)
  《東京鉱山監督署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第27回通常会](→03/22)、[第28回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第14代]中山巳代蔵(→08/11)、[第15代]岡田文次(08/11→)
  《群馬県知事》[第15代]神山閏次
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎


  この年、田中正造は1年を通して、さまざまな河川の実地調査に明け暮れる
     前年8月に起きた関東大洪水の原因調査、また政府の治水政策を正すため
  01/01田中正造が谷中に戻り四方拝に参加する
  01/13〜01/31田中正造が栃木県、群馬県の飛駒川、永野川、大谷川、思川、鳥川などの諸河川を調査する
  02/09谷中残留民の水野常三郎が死去する
  02/11田中正造が谷中の青年会に出席する
     のち18日まで古河町の宗願寺で島田宗三と請願書を起草する
     「千葉県関宿において江戸川入口の石堤取払先決の請願書」など
  03/01東京の弁護士桜井熊太郎が死去する
  03/22〜03/26田中正造が東京麹町区の旭屋方などで「河川巡視日記」を整理
     「元谷中村急水留の要求および耕作回復の陳情書」
     「治水工費少く成績多き先決問題請願の陳情書」の請願書などの起草に着手する
  03/23田中正造が巡査尾行中止の通知を受ける【予戒令が解除?】
  04/12、13田中正造が3月22日から起草していた2つの請願書を治水調査会に提出する
  04/部屋警察分署員が谷中残留民に北海道への移住を勧告する
     谷中周辺村民の一部は移住を承諾する
     04/07移住を開始する
  04/07下都賀郡民66戸210人が北海道常呂郡鐺沸村サロマベツ原野に第1次移住する【入植?】
     谷中村村民16戸137人を含む渡良瀬川沿岸鉱毒被害民66戸が北海道へ【谷中村から17戸】
     谷中村の茂呂近助は副団長格として妻、養女とともにおもむく
     入植地は南に開けた土地と聞かされるものの、実は三方山にかこまれオホーツク海にむけ北に開けている土地
     のち下都賀郡郡長吉屋雄一による「移住地は現地調査済み」の報告書が偽りと明らかになる
     のち地名が常呂郡佐呂間町栃木となる
     のち冷害と凶作で入植1年にして20戸が去る
     のち移住民のほとんどが定着に至らず帰県活動へと変遷する
  05/01内務省が渡良瀬川の改修工事、施工準備に着手する
  05/18田中正造が新田郡九合村で「賤が家の月」と題して演説する
  05/23〜05/26田中正造が利根川上流地方を視察する
  05/渡良瀬川改修工事に伴う第1次用地買収が1912(大正01)10月まで行なわれる
     区域は茨城県新郷村、古河町、埼玉県川辺村、利島村、
     栃木県藤岡町の旧谷中村堤外地、群馬県海老瀬村
     面積約5638反歩(559ヘクタール)
     反対する農民が多く、なかなか進展せず
     1912(明治45)05/第2次用地買収が1913(大正02)5月まで行なわれる
     区域は栃木県野木村、間々田村、穂積村、生井村、部屋村、赤麻村、
     藤岡町(の旧谷中村堤外地を含む)、三鴨村、藤岡町、群馬県西谷田村
     面積約1万6780反歩(1664ヘクタール)
     旧谷中村の堤外地が含まれ残留民は用地買収を拒否、そのは買収されず
     1913(大正02)05/第3次用地買収が1914(大正03)6月まで行なわれる
     区域は栃木県三鴨村、界村、植野村、吾妻村、富田村、
     毛野村、梁田村、久野村、群馬県西谷田村、大島村、渡瀬村
     面積約4049反歩(401.5ヘクタール)
     1911(明治44)から延べ3次にわたり行なわれた用地買収の面積は2627ヘクタールに
     それでも住み続ける旧谷中村残留民に対して内務省は繰り返し立ち退きを強要する
     のち追加買収とあわせた内務省の買収面積は約2万6670反歩(2644ヘクタール)に
     うち渡良瀬遊水池にかかる面積は第1次買収区域の
     約6割と第2次買収区域の大部分を含む約2千ヘクタール
     他に栃木県が1905(明治38)、1907(明治40)に行なった
     谷中村買収面積約900ヘクタールと河川、湖沼などの水域が含まれる
      渡良瀬遊水池は周囲の延長約27キロのうち堤防を築く部分は12キロ
      残り約15キロは自然の高台
      渡良瀬遊水池の予定地には堤防がほとんど築かれず
      わずか埼玉県利島村、栃木県部屋村の一部、赤麻、筌場、篠山の谷間に小堤防があるだけ
      遊水池周りの堤防(周囲堤)の大部分は新しく築造することに
      遊水池周囲堤のうち右岸堤は埼玉県川辺村字向古河地先から藤岡地先までの間
      左岸堤は遊水池北方の栃木県部屋村から栃木県生井村東生井地先までを計画
      計画の堤防は天端(てんば)幅4間(7.2メートル)で築堤予定線上には渡良瀬川3か所のほか、
      谷田川、巴波川、与良川、思川などの諸川の河道を横断する部分があり締め切る必要があり
  06/05田中正造の妻カツが静脈瘤手術のため東京築地の林外科病院に入院する
  06/05、30田中正造が内務大臣の林田東助に面会。関宿堰堤拡築の約束を得る
  06/12〜06/15田中正造が那珂川、箒川などの河川を視察する
  06/21渡良瀬川が洪水となる
  06/28土地収用補償金額裁決不服訴訟の第9回公判が開かれる
     原告、被告(栃木県当局)双方の代理人の和解申し立てにより裁判長が和解を勧告する
     【原告、被告双方の弁護士が裁判長に、残留民の原告へ和解を勧告したい旨を申し立てる?】
     田中正造や残留民は和解を拒否
     弁護団を立て直して訴訟を続行することに
  07/07宇都宮地方裁判所が土地収用補償金額裁決不服訴訟で一方的に7月12日を和解期日と定める
     谷中村村民に通知する
  07/18谷中村残留民は宇都宮地方裁判所が定めた土地収用補償金額裁決不服訴訟の和解勧告を退ける
     訴訟継続を決定する
  この頃、土地収用補償金額裁決不服訴訟の原告代理人のうち在京者はほとんど手を引きく
     栃木町の弁護士茂木清のみ
     無報酬の弁護となる
  07/22古河虎之助が育英上の功労の故として勲三等瑞宝章を授与される
  08/02〜08/06田中正造が行徳、船橋から千葉、安食、布川、土浦方面の中利根川と印旛沼を視察する
  09/18宇都宮地方裁判所で土地収用補償金額裁決不服訴訟の第12回公判が開かれる
     田中正造が出廷し原告として意見陳述をする【大弁論を展開する?】
     「本訴訟の目的は多くの金をとるということではなく、なされた乱暴の事実を明らかにすること。
     そして解決はただひとつ土地の回復にあり」
     弁論調書には記載はなし
  09/19〜09/25田中正造が那珂川、箒川、蛇尾川などの調査のため那須郡、芳賀郡方面を視察する
  09/21田中正造が那須郡湯津上村佐良土の私塾聚星館にて生徒に講演をする
  09/24田中正造が芳賀郡茂木町で講演をする
  10/02田中正造が栃木県知事の岡田文次に面会する
  10/05〜10/07田中正造が鬼怒川、那珂川、小貝川などの調査のため水戸方面を視察する
  10/16土地収用補償金額裁決不服訴訟の第13回公判が開かれる。田中正造が出廷する
     原告側弁護士欠席のため田中正造以外の29人に分離判決となる
  10/30田中正造が土地収用補償金額裁決不服訴訟の第14回公判に欠席、欠席裁判を受ける
     のち異議申し立てをする
  10/商法改正に伴い古河合名会社に改称。以後、急速な多角経営化を進まる
  10/田中正造が谷中問題につき「建白書の1」を栃木県知事に提出する
  11/19田中正造が多年の研究に基づいて下野治水要道会を起こす
     【10/19田中正造が下野治水要道会の組織化に着手する?】
     11/21趣意書を発表する
     田中が理想とする一大治水論
  11/29土地収用補償金額裁決不服訴訟の第15、16回公判が開かれる。田中正造が出廷する
     前2回の判決は無効となり先に分離した訴訟を再び併合する
  12/16赤見村の須永丑造追悼会が開かれる。田中正造が追悼演説する
  12/23、24田中正造が谷中に熊倉鑑定人を案内する
  渡良瀬川改修事業により谷中村堤外地を買収する
     堤外地に約50戸が残り、堤内地には強制執行された住民が仮小屋にすむ
  渡良瀬川改修事業に伴い谷中村の下宮など堤外地に居住する者の移住が行なわれる
     のち大部分が古河町に移転する

1912(明治45・大正01 07/30〜 72

  《総理大臣》[第14代](第2次)西園寺公望(→12/21)、[第15代](第3次)桂太郎(12/21→)
  《内務大臣》[第27代]原敬、[第28代]大浦兼武(12/21→)
  《警視総監》[第19代]安楽兼道/再任、[第20代]川上親晴(12/21→)
  《農商務大臣》[第23代]牧野伸顕(→12/21)、[第24代]仲小路廉(12/21→)
  《東京鉱山監督署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第28回通常会](→03/25)、[第29回臨時会](08/23→08/25)、[第30回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第15代]岡田文次
  《群馬県知事》[第15代]神山閏次(→03/28)、[第16代]依田C次郎(03/28→12/30)、[第17代]黒金泰義(12/30月→)
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎


  01/01田中正造が谷中の新年会に参加する
  02/05土地収用補償金額裁決不服訴訟第19回公判が開かれる。田中正造が出廷する
     原告弁護士が延期を申し立てるも被告の同意を得られたいために退廷する。欠席裁判を受ける
     のち異議申し立てをする
  02/10渡良瀬川改修工事出張事務所が土地物件所有者に対して買収協議書を交付する
     価格は先の栃木県強制買収価格の約4倍に
  02/24谷中残留民が麦取畦畔の改修工事に着手する
  03/01栃木県が谷中村残留民による自費、自力による畦畔の修築に中止命令をだす
  03/08思川が出水する
     工事中止命令で滞っていた谷中麦取畦畔が流失する
  04/03芳賀郡真岡町で鬼怒川治水組合演説会が開かれる。田中正造が演説する
  04/20土地収用補償金額裁決不服訴訟の裁判で第1審の判決が下される。田中正造も出廷する
     【主張金額6万8千余円に対して1万2千円足らずを県に補償させるというもの?】
     栃木県強制買収価格の約1割増
     申し訳け1割増し程度では実質的には何の得るところもなく勝訴とはいえず
     のち残留民と田中正造は控訴するかどうかについて控訴期限のぎりぎりまで検討する
  04/遊水池となる旧谷中村やその堤外地などへの土地収用調査が開始、用地買収がはじまる
     買収に着手したとき、移住先から戻った旧村民を含め堤内には34戸が居住
     堤外居住者とあわせると100戸以上となり田中正造は復活の兆しを感じとる
     のち渡良瀬川改修工事に伴う買収価格は谷中村からの移住者に支払われた補償金の4倍以上
     それを知った移住者たちの間に動揺が走る
  04/28谷中残留民が「元谷中村畦畔修築工事中止に対する不服御届書」を栃木県知事に提出する
  05/05谷中残留民の間明田粂次郎、染宮与三郎の仮小屋の雨漏りがひどくなり改築する
     河川法違反の容疑にて召喚される。河川法違反事件
  05/07田中正造が谷中で河川法違反とされた残留民の生活を述べる栃木県知事あての陳情書を起草する
  05/渡良瀬川改修工事に伴う第2次用地買収が始まる。1913(大正02)5月まで行なわれる
     区域は栃木県野木村、間々田村、穂積村、生井村、部屋村、赤麻村、
     藤岡町(の旧谷中村堤外地を含む)、三鴨村、藤岡町、群馬県西谷田村
     面積約1万6780反歩(1664ヘクタール)
     旧谷中村の堤外地が含まれ残留民は用地買収を拒否、そのは買収されず
     第1次用地買収は1911(明治44)5月から1912(大正01)10月まで
     第3次用地買収は1913(大正02)5月から1914(大正03)6月まで
  06/谷中村の土地収用補償金額裁決不服訴訟中に東京救済会が解散
     田中正造や残留民が新たに弁護士を雇う資金に窮す
  06/01田中正造が土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴のため出京する
     のち田中が新井奥邃に控訴審のため弁護士はいないかたずねる
  06/03田中正造が新井奥邃から自身の私塾謙和舎にくる弁護士の中村秋三郎を紹介される
     【06/04、田中が中村秋三郎を訪ねると新井奥邃を紹介される?】
  06/09田中正造が駒込神明町の中村秋三郎弁護士を訪ねる
     田中が土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴審の弁護を懇請
     のち中村は原告に安部磯や幸徳秋水の妻、師岡千代子など数人の社会主義者を発見
     外すよう提案、田中正造は承諾する
     大逆事件後の冬の時代のはじまりの頃、裁判官は温和な社会主義者までもを幸徳秋水と同一視するのを避ける
     のち中村は弟で弁護士の久須美幸松の応援を求める
     兄弟弁護士により狩野山義一、宮島次郎(俳人五丈原)、横山勝太郎らが代理人として加わる
     主として事件にあたるのは中村、久須美兄弟
     谷中村救済会の高名な弁護士とは違い、残留民のさまざまな法的問題にも助力を惜しまず
     のち中村は裁判が終わるまで無報酬で尽力することに
  06/12土地収用補償金額裁決不服訴訟の第1審判決に対して弁護士の中村秋三郎が東京控訴院に控訴する
     判決の送達を受けて1か月の控訴期間猶予ぎりぎりの日
     第2審の控訴人は安部磯雄、田中正造夫人カツ、間明田粂次郎、間明田千彌、高田仙次郎、竹沢房蔵、
     水野官次、水野定吉、竹沢釣蔵、竹沢勇吉、竹沢庄蔵、鶴見定吉、宮与三郎、宮内勇次、島田熊吉、
     島田宗三、島田高蔵、木村キク、渡辺長輔、島田政五郎、島田平次、佐山梅吉、近藤政平の23人
     控訴代理人は中村秋三郎、狩野山義一、久須美幸松、横山勝太郎、宮島次郎の5人
     のち東京控訴院の最初の裁判長は岩田一郎(5人構成)
     のち控訴審ではあらたに営業損失金8574円27銭7厘を加えて総計で6万1174円28銭5厘を請求する【いつの控訴審?】
     のち7年間に22回の控訴審公判が開かれる
     公判で田中正造がどんなに長広舌をするも、手続き的には無用の弁論に終わる
  06/25旧谷中村残留民に対して許可なく地形を変更した者は200円以下の罰金または1年以下の禁固に
     河川法施行区域取締示達が行なわれ旧谷中村残留民を圧迫する
  07/13、14田中正造が栃木県参事会の谷中視察を案内する
  07/21田中正造が栃木県知事岡田文次に緊急御届書を提出する
     「緊急御届書 天然の要害地破壊日本憲法破壊箇条の一つ」
  07/30谷中残留民の間明田粂次郎、染宮与三郎が河川法違反で起訴される。河川法違反事件
     2人は5月5日に河川法違反の容疑にて召喚される
  07/30明治天皇が崩御。元号が大正に改まる
  08/増水で谷中村の畦畔が流出する
     谷中村残留民の自費、自力による畦畔の修築に中止命令が3月1日に栃木県よりだされたため
  09/09田中正造が出京して中村秋三郎弁護士と土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審について打ち合わせ
     のち9月27、28日にも
  10/01栃木県谷中村残留民による土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審の第1回公判が開かれる
     原告が欠席して事実上の延期となる
  10/05栃木県谷中村で谷中村縁故民大会が開催される
     200人余が参加する
  10/124月28日に谷中残留民が提出した「元谷中村畦畔修築工事中止に対する不服御届書」を栃木県知事に再提出する
     のち許可にならず
  10/22栃木区裁判所で谷中残留民河川法違反事件の公判が開かれる。田中正造が傍聴する
  10/25栃木区裁判所が間明田粂次郎、染宮与三郎の河川法違反事件に対して罰金20円の判決
     2人は7月30日に河川法違反で起訴される
     のち2人の被告は直ちに宇都宮地方裁判所に控訴する
     のち茂木清、花崎三省、石田仁太郎、山田鶴三らが弁護につく
     許可を得ていないと形式を重視する裁判所を動かすことはできず
  10/1911(明治44)5月から始めていた渡良瀬川改修工事に伴う第1次用地買収が終わる
     区域は茨城県新郷村、古河町、埼玉県川辺村、利島村、
     栃木県藤岡町の旧谷中村堤外地、群馬県海老瀬村
     面積約5638反歩(559ヘクタール)
     反対する農民が多く、なかなか進展せず
     第2次用地買収は1912(明治45)5月から1913(大正02)5月まで
     第3次用地買収は1913(大正02)5月から1914(大正03)6月まで
  11/01東京控訴院において土地収用補償金額裁決不服訴訟の第1回口頭弁論が開廷する
  11/05田中正造が藤岡町北部掘割工事反対の陳情書を栃木県知事に提出する
  11/20宇都宮地方裁判所で河川法違反事件の控訴審公判が開かれる。田中正造が傍聴する
  11/22間明田粂次郎、染宮与三郎の河川法違反事件の控訴審で宇都宮地方裁判所は控訴棄却の判決
     2人は10月25日に河川法違反で20円の判決が言い渡される
     のち2人の被告は直ちに東京控訴院に上告する
  11/22川俣事件の被告のひとり大出喜平が没する
  11/26東京控訴院で土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審の第2回公判が開かれる
     田中正造が出廷、陳述する
  11/28田中正造が東京から邑楽郡大島村に22日に没した大出喜平を弔問する
  12/24土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審の第3回公判が東京控訴院で開かれる
     田中正造が出廷、陳述する。石川三四郎、福田英子が傍聴する
  12/31足尾鉄道の桐生〜足尾間が全線開通する
  12/31田中正造が一緒に正月を祝おうと横浜根岸の石川三四郎、福田英子を訪ねる
     懐から10円札を1枚とりだす「これで皆さんと一緒にお正月をさせて、おくんなんしょ」
     田中は屠蘇に酔う気分のなか唐紙に「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしろの轍のあとかたもなし」となぐり書き
  田中正造が関東各河川の上流下流域を踏査して渡良瀬川の洪水の原因を明らかにする
     渡良瀬川の洪水は水源の濫伐と相まって利根川の逆流に原因し
     利根川の逆流は関宿に於ける江戸川河口の挟窄に基因する

1913(大正02) 田中正造死去 73

  《総理大臣》[第15代](第3次)桂太郎(→02/20)、[第16代]山本権兵衛(02/20→)
  《内務大臣》[第28代]大浦兼武、[第29代]原敬(02/20→)
  《警視総監》[第20代]川上親晴、[第21代]安楽兼道/再任(02/21→)
  《農商務大臣》[第24代]仲小路廉(→02/20)、[第25代]山本達雄(02/20→)
  《東京鉱山監督署長》《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第30回通常会](→03/26)、[第31回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第15代]岡田文次
  《群馬県知事》[第17代]黒金泰義(→06/01)、[第18代]大芝惣吉(06/01→)
  《埼玉県知事》[第14代]島田剛太郎(→06/01)、[第15代]添田敬一郎(06/01→)


  01/11宇都宮で鬼怒川治水問題演説会が開かれる。田中正造が演説する
  01/22田中正造が自己所有の不動産を旗川村小中農教会に寄付申し込み。小中農教会は仮称、のち農教倶楽部
  01/24河川法違反事件の上告審判決で上告棄却となる
     被告、間明田粂次郎、染宮与三郎への罰金刑が確定する
  01/29〜02/16田中正造が土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴審打ち合わせのため出京する
  02/17、02/18田中正造と土地収用補償金額裁決不服訴訟の弁護士中村秋三郎が谷中村を視察する
     中村は第1回谷中村巡視のため出張
  02/25土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審の第4回公判が開かれる
     田中正造が出廷し谷中村の魚類の現物を提示する
     【控訴代理人が谷中村に産する鯉鮒鯰などの魚類を訟廷に提出する?】
  02/25土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審の第4回公判で実地臨検の必要を申請し聞き入れられる
  02/茂呂多重ほか270人が栃木県知事の岡田文次に対して請願書を提出する
     渡良瀬川改修工事に伴う土地物件買収額にあわせて補償金の増額を求める請願をする
     先立って茂呂多重ら31人は岡田知事に補償金を返却するから谷中村土地所有権を回復して欲しいと請願する
  03/08〜03/17田中正造が出京中、過労にて臥床する
  03/16〜03/18土地収用補償金額裁決不服訴訟で控訴審の控訴院判事、弁護士、鑑定人が現地を視察。実地臨検を行なう
     【渡辺鑑定人?】
     陪席判事松山久太郎が受命判事となり検証
     弁護士の中村秋三郎、久須美幸松が立ち会う
  03/18〜03/21田中正造が古河に移り田中屋に滞在する
  04/13栃木県赤麻村で「下都賀南部危急存亡遊水池設置反対演説会」が開かれる
     【下都賀南部危急存亡問題政談大演説会?】
     田中正造は関東の治水に関する研究を発表し当局の失策を縦横に論断する
     田中最後の大演説となる
  04/23〜04/25田中正造が桐生川水源地などを視察する
  05/03田中正造が「御答及御届書」の草稿を作成する
     谷中残留民の立ち退きを迫る部屋分署長の金田徳次郎に対する御届書
  05/08田中正造が谷中青年と渡良瀬川上流の高津戸橋を視察する
  05/09〜05/25田中正造が単独で足利郡、安蘇郡、下都賀郡の水源を調査する
  05/田中正造が自身で衰弱を自覚する
  05/1912(明治45)5月から始めていた渡良瀬川改修工事に伴う第2次用地買収が終わる
     区域は栃木県野木村、間々田村、穂積村、生井村、部屋村、赤麻村、
     藤岡町(の旧谷中村堤外地を含む)、三鴨村、藤岡町、群馬県西谷田村
     面積約1万6780反歩(1664ヘクタール)
     旧谷中村の堤外地が含まれ残留民は用地買収を拒否、そのは買収されず
     第1次用地買収は1911(明治44)5月から1912(大正01)10月まで
     第3次用地買収は1913(大正02)5月から1914(大正03)6月まで
  05/渡良瀬川改修工事に伴う第3次用地買収が始まる。1914(大正03)6月まで行なわれる
     区域は栃木県三鴨村、界村、植野村、吾妻村、富田村、
     毛野村、梁田村、久野村、群馬県西谷田村、大島村、渡瀬村
     面積約4049反歩(401.5ヘクタール)
     1911(明治44)から延べ3次にわたり行なわれた用地買収の面積は2627ヘクタールに
     それでも住み続ける旧谷中村残留民に対して内務省は繰り返し立ち退きを強要する
     第1次用地買収は1911(明治44)5月から1912(大正01)10月まで
     第2次用地買収は1912(明治45)5月から1913(大正02)5月まで
  05/〜06/田中正造が谷中村残留民を伴い渡良瀬川、思川、巴波川などの上流を視察調査する
  06/02、03田中正造が谷中残留民と思川、巴波川上流を視察する
  06/13田中正造が赤麻村の針谷粂之進名義の陳情書を作成、部屋分署長に提出する
     「緊急権利財産の保護を請う御届及び陳情書」
  06/17田中正造が文書を作成する
     「苗代水欠乏農民寝食せずして苦心せるの時安蘇郡および西方近隣の川々細流巡視の実況
      および其途次に面会せし同情者の人名略記 内報其一号書」
  06/20田中正造が古河町の田中屋で文書を起草する
     「谷中村瀦水池敷地買収問題」
  06/20島田宗三が「部屋警察分署長の谷中残留民立退き説諭に対する回答書」を作成する
     5月3日に田中正造が起草した御届書に基づく
     未提出におわる
  06/27田中正造が谷中再視察にきた渡辺鑑定人と面会する
  06/28〜06/30土地収用補償金額裁決不服訴訟の渡辺鑑定人が再び実地を踏査する
  06/田中正造が毛野村の岩崎佐十を仲介に渡良瀬川上流沿岸被害民と下流沿岸被害民との融和を図る
     のち果たさず
  07/02田中正造が古河町の田中屋で病に臥す
     のち島田宗三は「胃腸障害とわかりはじめたのはこの日からである」と述べる
     のち病床にある田中はそれでも覚え書や檄文を執筆する
  07/07〜07/12田中正造が利島村、川辺村に滞在する
  07/11、13田中正造が文書を起草する
     「利島川辺村水害問題覚書」「藤岡古河両町保護に関する檄文」
  07/15田中正造が印刷資金調達のため藤岡町早乙女文吉方から佐野、足利方面に出発する
     【田中は島田宗三に「不肖弁当欠乏につき、たくはつに出ます」と書き残す】
  08/01朝、田中正造が車ででかけ佐野町の津久居家に1泊
     08/02松本なを子の家に立ち寄り、植野村の金子亭に小憩し雲龍寺へ
     住職が不在のため庭田源八の家に向かうと、これまた父子ともに不在
     そこで午後4寺頃、栃木県足利郡吾妻村大字下羽田字小羽田にある庭田の分家清四郎宅へ
     田中は外縁に腰を下ろすも身動きできず、その場に倒れ込む
     【佐野から谷中への帰途? 河川調査からの帰途? 資金調達の行脚中? 托鉢中?】
     庭田夫人のセト子、老母テイ子、息子令助と車夫の4人で田中をのせた布団を持ち奥座敷中央へ
  08/02田中正造が庭田清四郎宅で病床の人となる
     のち桐生の姉妹宅に身を寄せる田中の妻カツがかけつける
     のち萩原源次郎は主治医として茂居政治に田中の診療を依嘱する
     主任看護人には岩崎佐十があたり、看護婦の川田増子、山岸照子、尾林竹子があたる
     病室一切の指揮役に木下尚江が、その補佐に島田宗三がつく
     田中夫人勝子は昼夜間断なく看護し大澤文子もともに病床に仕える
     主治医茂居のほか齋藤常五郎、新楽郡次、武藤隆秋、吉岡参次郎らも毎日のように往診する
     また東京の和田剣之助もしばしば来診する
     のち田中の病状が伝わり渡良瀬川沿岸の農民、遠近の有志らがたちまちに馳せ参じ見舞う者はあとを絶たず
     毎日の来訪者と接する事務所を設け近藤貞吉が主任となる
     のち佐野、富田、館林の3駅で下車する人々は、ほとんど田中の見舞い人という有り様
     多い日には70台もの人力車が庭田方の庭に集まるほどに
  08/11〜09/08木下尚江が田中正造を看病するため佐野に滞在する
  08/15若松区裁判所の監督判事となった林豊太郎が田中正造を見舞う
  08/19土地収用補償金額裁決不服訴訟の弁護をつとめる中村秋三郎弁護士が田中正造を見舞う
  08/24東京の花井卓蔵、卜部喜太郎、塩谷恒太郎の3弁護士が田中正造を見舞う
  08/島田宗三、野口春蔵、岩崎佐十ら沿岸農民が田中正造を見舞う
  08/土地収用補償金額裁決不服訴訟の渡辺鑑定人が死去する
  09/03かつて鉱毒被害地で診療所の看板を掲げていた和田剣之助が東京から2度目の来村。田中正造を診る
     胃ガンによる幽門狭窄と診断する
  09/04田中正造が看護主任の岩崎佐十に叱咤する
     「大勢来て居るさうだが俺は嬉しくも何ともない、みんな正造に同情するだけで、
     正造の事業に同情して来ている者は一人もない。行ってみんなに然う云え」
     その後、まもなく田中は木下尚江に背後から支えられ床の上に端座
     午後0時50分、全身に力をこめて息をはくとそのまま呼吸がとまる
     田中正造が妻カツ、木下尚江らに看取られながら庭田清四郎宅で死去
     死因は胃癌。享年73才[1841(天保12)12/15《11/03》生]【享年満71才?】
     財産は鉱毒反対運動などに使いはたし無一文。死亡時の全財産は信玄袋1つ
     中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけ
  田中正造の死後訴訟は控訴人田中正造の地位を妻カツが引き継ぐ
     島田宗三が田中のあとを継いで取り仕切る
  田中正造の死後谷中の島田宗三は谷中村復活の兆しが見えはじめたと関係者に打診する
     木下尚江は「田中正造ができなかったことをするのは、村人に不可能を可能のように迷わせ気の毒」と反対
  09/04田中正造が没したことで鉱毒反対運動がほぼ消滅する
     のち群馬県山田郡の鉱毒被害は止まず、この後も鉱毒反対運動が続く
  09/06群馬県渡瀬村早川田の4県連合鉱毒事務所雲龍寺で密葬が営まれる【仮葬儀?】
     夕刻、栃木県犬伏町富岡の安蘇郡連合火葬場にて荼毘にふされる
     09/田中正造の死後、残留民は島田熊吉の邸内に田中の遺骨を安置し祀る
  10/12田中正造の本葬儀が佐野町春日岡山の惣宗寺で執行される
     民衆葬として盛大な葬儀となる。参列者は数万人に【5万人?】
     10/14利島村麦倉の小学校前で田中正造の分骨式が行なわれる
     のち遺骨は5か所に分骨される
     佐野町の惣宗寺、渡瀬村の雲龍寺、旗川村の浄蓮寺
     藤岡町の田中霊祠、利島村の利島小学校
     1989(昭和64・平成01)6番目の分骨地として久野村の寿徳寺が公表される
  11/01土地収用補償金額裁決不服訴訟の訴訟代理人が東京控訴院に訴訟費用の救助申請を提出する
  11/19田中正造の死後も土地収用補償金額裁決不服訴訟は訴訟救助を受けて続けることに
  11/渡良瀬川改修事業の進捗にあわせ渡良瀬川の河道工事に着手する
     藤岡台地に当たり南に流れていた渡良瀬川の河道を藤岡の東側の遊水池内に導く
     1918(大正07)08/25通水する。台地を開削し赤麻沼に流す新河道を藤岡新川と呼ぶようになる
     従来、洪水の際に常に破堤を繰り返していた海老瀬の七曲がりは廃川に
  12/05島田熊吉ら7人の旧谷中村残留民が部屋警察分署に呼びだされる
     今後、水害に対する苦情をいわない、他日必ず退去するという約束をさせられる
  12/渡良瀬川改修事業の進捗にあわせ湾曲著しい思川下流部の改修に着手する
     1916(大正05)改修工事が既成する

1914(大正03)

  《総理大臣》[第16代]山本権兵衛(→04/16)、[第17代](第2次)大隈重信(04/16→)
  《内務大臣》[第29代]原敬、[第30代]大隈重信内閣総理大臣が兼任(04/16→)
  《警視総監》[第21代]安楽兼道/再任、[第22代]伊沢多喜男(04/16→)
  《農商務大臣》[第25代]山本達雄(→04/16)、[第26代]大浦兼武(04/16→)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第31回通常会](→03/25)、[第32回臨時会](05/05→05/07)、[第33回臨時会](06/22月→06/28)
  《帝国議会》[第34回臨時会](09/04→09/09)、[第35回通常会](12/07→12/25)
  《栃木県知事》[第15代]岡田文次(→06/05)、[第16代]北川信従(06/05→)
  《群馬県知事》[第18代]大芝惣吉(→04/28)、[第19代]三宅源之助(04/28→)
  《埼玉県知事》[第15代]添田敬一郎(→06/09)、[第16代]昌谷彰(06/09→)


  01/土地収用補償金額裁決不服訴訟の訴訟人島田栄蔵が死去する
  01/巴波川下流部の改修工事に着手する
     1918(大正07)改修工事が既成する
  03/田中正造の分骨を受けた残留村民の島田熊吉、島田宗三、碓井要作が仮小屋の敷地内に小さな田中霊祠をたてる
     【1916(大正05)3月と同じ、別々? どちらか間違え?】
     03/09河川法違反で連行され罰金刑に処せられる
  04/07土地収用補償金額裁決不服事件の亀山鑑定人が実地踏査する
     04/18亀山鑑定人が再び実地踏査する
     のち亀山鑑定人は取り消しとなる
  06/1913(大正02)5月から始めていた渡良瀬川改修工事に伴う第3次用地買収が終わる
     区域は栃木県三鴨村、界村、植野村、吾妻村、富田村、
     毛野村、梁田村、久野村、群馬県西谷田村、大島村、渡瀬村
     面積約4049反歩(401.5ヘクタール)
     1911(明治44)から延べ3次にわたり行なわれた用地買収の面積は2627ヘクタールに
     それでも住み続ける旧谷中村残留民に対して内務省は繰り返し立ち退きを強要する
     第1次用地買収は1911(明治44)5月から1912(大正01)10月まで
     第2次用地買収は1912(明治45)5月から1913(大正02)5月まで
  09/11渡良瀬川が氾濫する
     渡良瀬川は群馬県の海老瀬村、西谷田村と栃木県の旧谷中村の間を屈折、彎曲
     ひとたび洪水になると右岸(南岸)の海老瀬村、西谷田村の堤防が決壊
     利根川からの逆流も加わり2村のほか大島村、伊奈良村、大箇野村まで一面に氾濫
     村々では1日も早く渡良瀬川を直線に旧谷中村の遊水池に放流することを待望する
     【谷中村が孤立する原因になる
     海老瀬村などが当局に陳情
     のち当局は翌年には旧谷中村へ放流すると答える
  09/11午後10時過ぎ、海老瀬村の水防組長の木村金作ほか4人が伝馬船に乗り対岸に渡る
     木村金作、関口彦一郎、戸井吉之輔、小林広吉、関根文弥の5人
     堤防が切れるのを恐れ渡良瀬川対岸で谷中村上流にあたる金塚堤防を鋤や鍬で破壊する
     結果、渡良瀬川は減水、南岸の氾濫は減少するも谷中村は大損害をこうむる。堤防かっ切り事件
     木村らの自発的なものか、誰かの指示によるものかは不明
     ただ、どちらにしても海老瀬村など南岸農民の期待に応える行為であることには変わりなし
     【上流8村にとって木村金作ら5人は義民となる?】
     (8村は海老瀬村、西谷田村、伊奈良村、大島村、大ケ野村、赤羽根村、千江田村、郷谷村)
     堤防かっ切り事件のとき旧谷中村には13人が残る
     【田中正造が前年に死去し、谷中村に留まる者は偏屈者に思われる?
     のち木村ら5人は宇都宮地方裁判所で裁判長宮内喜之助、立会検事緒方省一郎に起訴される
  秋/栃木県谷中村の残留民が谷中村復活運動を断念する
     【1919(大正08)に土地収用補償金額裁決不服訴訟の判決がでるずっと以前に?】

1915(大正04)

  《総理大臣》[第17代](第2次)大隈重信
  《内務大臣》[第30代]大隈重信内閣総理大臣が兼任、[第31代]大浦兼武(01/07→)
  《内務大臣》[第32代]大隈重信内閣総理大臣が兼任(07/30→)、[第33代]一木喜徳郎(08/10→)
  《警視総監》[第22代]伊沢多喜男、[第23代]西久保弘道(08/12→)
  《農商務大臣》[第26代]大浦兼武(→01/07)、[第27代]河野広中(01/07→)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第36回特別会](05/20→06/09)、[第37回通常会](12/01→)
  《栃木県知事》[第16代]北川信従
  《群馬県知事》[第19代]三宅源之助
  《埼玉県知事》[第16代]昌谷彰


  03/04土地収用補償金額裁決不服訴訟の主任弁護士が再度臨検を請う上申書を提出する
  10/渡良瀬川改修事業の進捗にあわせて谷田川新河道の一部開削工事に着手する
     1917(大正06)07/完成する
  10/渡良瀬川の締切堤の工事に着手する
     1917(大正06)08/渡良瀬川の締切堤の工事が完成する
     渡良瀬川改修事業の一環として渡良瀬遊水池工事が完成する
     赤麻沼などを含めた遊水池は面積約3千町歩(2975ヘクタール)
     渡良瀬川の洪水や利根川の逆流など約1億7千万立方メートルを遊水
     洪水を調節緩和させるものとする
  11/30内務省が渡良瀬川改修工事のため旧谷中村残留民が所有する堤外の買収拒絶地に土地収用法を適用する
  12/01古河虎之助が男爵となる
  年末/政府と栃木県が旧谷中村残留民に立ち退きを圧迫する
     渡良瀬川改修工事のために、いまにも仮小屋を撤去するぞ

1916(大正05)

  《総理大臣》[第17代](第2次)大隈重信(→10/09)、[第18代]寺内正毅(10/09→)
  《内務大臣》[第33代]一木喜徳郎、[第34代]後藤新平(10/09月→)
  《警視総監》[第23代]西久保弘道、[第24代]岡田文次(10/09月→)
  《農商務大臣》[第27代]河野広中(→10/09)、[第28代]仲小路廉(10/09→)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第37回通常会](→02/28)、[第38回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第16代]北川信従(→06/02)、[第17代]平塚広義(06/02→)
  《群馬県知事》[第19代]三宅源之助
  《埼玉県知事》[第16代]昌谷彰(→10/13)、[第17代]岡田忠彦(10/13→)


  03/旧谷中村残留民が田中霊祠を安置する
     【1914(大正03)3月と同じ、別々? どちらか間違え?】
     のち安置した者が罰金刑に処せられる
  05/10田中正造支持者のひとりと目されていた高橋秀臣が宮城県下の官林を代替地として谷中村立ち退きを勧める
     【06/10?】
     残留民は応じず
  05/29堤防かっ切り事件の木村金作ら5人が宇都宮地方裁判所にて有罪に
     刑法123条の水利妨害罪により各懲役4月、4年間執行猶予の判決を受ける
     のち控訴する
  05/31栃木県下都賀郡選出の県会議員2人が谷中村残留民に対して立ち退きの斡旋をはかる
     田中正造翁谷中分葬儀委員長碓井要作の紹介で県会議員森田利一郎、高山林蔵が斡旋
  05/旧谷中村残留民はまだ立ち退かず。県は県会議員から立ち退きをすすめさせる
     残留民は中村秋三郎弁護士と相談、譲歩の姿勢をみせる【下記「05/以降」の内務省の勧告には拒否?】
  05/以降内務省は残留民の支援者を通して立ち退き問題の解決を求めて接触する
     それでも残留民は拒否【上記「05/」の県会議員の勧告には譲歩?】
  堤防かっ切り事件の被害を受けた栃木県が私訴により木村金作ら5人に対して8664円余りの支払いを求める
     06/26第1審判決が言い渡される
     決壊個所の堤防上の道路は仮定県道で藤岡から古河にいたる唯一の道路で県はやむなく橋を架けたもの
     架橋費2600円を支払うよう命じる
     のち控訴審では3957円余の支払いを命じる
     被告人の弁護人は塩谷恒太郎と新人弁護士の福井盛太、宇都宮弁護士会の新江寅
     公判に要する弁護士費、差入れ費、保釈金、損害賠償金などは8村に割り当て集める
     海老瀬村、西谷田村、伊奈良村、大島村、大ケ野村、赤羽根村、千江田村、郷谷村の8村
  08/運動の支持者高橋秀臣、栗原彦三郎らから宮城県下への移住がすすめられる
     残留民は田中正造の意志として谷中村復活に固執する
  09/21東京控訴院が土地収用補償金額裁決不服訴訟の当事者双方に対して勧告する
     谷中付近の内務省買収価格(県庁の4倍額)を標準とした和解
     のち県庁が応じず不調に終わる
  11/県当局が最後の強制執行の命令を発するに際し田中正造の甥原田定助を参加させる
     識者と多数有志とともに最善の交渉を進める
     のち県当局は移住に伴う村民の保護を誓う
  11/22栃木県知事の平塚広義が谷中堤内居住の残留民に対して立ち退きを命令する
     河川法違反により12月20日までを期限とする
     文書では強制執行や厳しい処罰についても言及する。残留民は応じず
  11/移住しなければ強制執行、居宅は破壊、樹木は伐採、宅地は地形を変えて住めなくする
     残留民1人に警官1人をつけて二度と故郷の土を踏めなくすると脅す
  渡良瀬川改修事業の進捗にあわせ行なわれた湾曲著しい思川下流部の改修工事が既成する
     工事の着手は1913(大正02)12月
  鉱山の最好期、足尾町の人口が栃木県下第2位の3万8428人に

1917(大正06)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅
  《内務大臣》[第34代]後藤新平
  《警視総監》[第24代]岡田文次
  《農商務大臣》[第28代]仲小路廉
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第38回通常会](→01/25・解散)、[第39回特別会](06/23→07/14)、[第40回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義
  《群馬県知事》[第19代]三宅源之助(→09/26)、[第20代]中川友次郎(09/26→)
  《埼玉県知事》[第17代]岡田忠彦


  田中正造の甥の原田定助県会議員の斡旋で新任の平塚知事が内意を表示
     「これまでのように被害村民を困窮するような酷い処置はしない」と
     残留民は斡旋を受け入れて県の執行に応じる決意をする
  01/09土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴人が弁論開廷の陳情書を提出する
  01/19栃木県の旧谷中村残留民が地元選出の県会議員、県土木課長、中村秋三郎弁護士と会合する
     旧谷中村残留民と栃木県当局との間に移住覚え書きが交わされる
     栃木県が用意した谷中村に近い下都賀郡三鴨村高取の内務省埋立地への2月末日までの立ち退きをと移住を承知する
     移転の条件として耕作地と不用堤を貸し付けること
     【谷中村の耕地の使用は従来通りとの趣旨覚書きを交換する?】
     就業費、物件取り払い費などとして1戸あたり60円から120円を支給することを認めさせる
  01/27堤防かっ切り事件の控訴審判決が東京控訴院で言い渡される
     裁判長の西川一男は前年5月29日の判決と同様とする
       木村金作ら5人は有罪判決
       刑法123条の水利妨害罪により各懲役4月、4年間執行猶予の判決
  02/25旧谷中村の立ち退き期限の3日前、田中霊祠前に集まり奉告祭を行なう【3日前が02/25?】
     【田中正造の墓前で決別式を行なう?】
     島田宗三は田中の霊にあやまる
  02/25旧谷中村跡に仮小屋6戸を建て住んでいた島田宗三ら16戸18人が移住。ほぼ無人状態となる
     【田中の遺骨とともに島田熊吉、渡辺長輔ら6戸の最後の残留民が移住?】
     【移住日が02/25? 末日限りで立ち退き】
     栃木県下都賀郡三鴨村高取や藤岡町の渡良瀬川改修工事に伴う埋立地に移る【藤岡町源五郎地内?】
  03/18土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴院判事が再び実地臨検を行なう
     受命判事三橋久美(裁判長須賀喜三郎)による
     畑中宗清に鑑定を命じる
     1913(大正02)3月16日〜3月18日に次ぐ2回目の臨検
  03/26堤防かっ切り事件の上告判決が言い渡される
     裁判長の鶴丈一郎は前年5月29日の判決と同様とする
     刑法123条の水利妨害罪により各懲役4月、4年間執行猶予
  03/田中霊祀が藤岡町に移転する
  06/12土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴審で原告被告の双方とも第1審鑑定を援用する
  06/18〜21土地収用補償金額裁決不服訴訟の畑中鑑定人が再び実地に踏査する
  07/渡良瀬川改修事業の進捗にあわせた谷田川新河道の一部開削工事が完成する
     工事の着工は1915(大正04)10月
  08/渡良瀬川の締切堤の工事が完成する
     渡良瀬川改修事業の一環として渡良瀬遊水池工事が完成する
     赤麻沼などを含めた遊水池は面積約3千町歩(2975ヘクタール)
     渡良瀬川の洪水や利根川の逆流など約1億7千万立方メートルを遊水
     洪水を調節緩和させるものとする
     工事の着工は1915(大正04)10月
  11/元谷中村村民を下妻や栃木の裁判所で証人尋問する。地目や堀のことについて
     【1918(大正07)11月?】
  12/18土地収用補償金額裁決不服訴訟の畑中鑑定人が土地価格鑑定書を提出する
     価格は田1反につき180円、畑1反につき150円、原野及び山林1反につき75円、
     堀1反につき225円、宅地1反につき450円、墓地1坪50銭など
     内務省の買収価格に近似する
  古河合名会社が3社に分立する。古河合名会社、合名会社古河鉱業会社、古河商事株式会社
  足尾銅山の生産量のピーク年間粗銅生産量が1万5735トンとなる

1918(大正07)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅(→09/29)、[第19代]原敬(09/29→)
  《内務大臣》[第34代]後藤新平、[第35代]水野錬太郎(04/23→)、[第36代]床次竹二郎(09/29→)
  《警視総監》[第24代]岡田文次、[第25代]岡喜七郎(09/30月→)
  《農商務大臣》[第28代]仲小路廉(→09/29)、[第29代]山本達雄(09/29→)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第40回通常会](→03/26)、[第41回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義
  《群馬県知事》[第20代]中川友次郎
  《埼玉県知事》[第17代]岡田忠彦


  08/渡良瀬川改修工事の最難関、藤岡町の高台を開削する新川築造工事が完成する
     【1920(大正09)の樋門、樋管の設置との違いは?】
     上流農民による万歳の声のうちに疎水式が催される
  08/25藤岡台地手前で南に流れていた渡良瀬川を藤岡の東側の遊水池内に導く河道に変更
     渡良瀬川の水を赤麻沼に流し込み旧谷中村への通水がはじまる
     台地を開削し赤麻沼に流す新河道を藤岡新川と呼ぶようになる
     従来、洪水の際に常に破堤を繰り返していた海老瀬の七曲がりは廃川に
     渡良瀬川改修工事の一環で着手は1913(大正02)11月
  09/29もと古河鉱業の副社長原敬が総理大臣に就任する
  11/12嘱託下妻区裁判所で土地収用補償金額裁決不服訴訟の訊問が行なわれる
     【1917(大正06)11月?】
     地目と堀に関して証人佐々木喜蔵ほか4人に
  11/26嘱託栃木区裁判所で土地収用補償金額裁決不服訴訟の訊問が行なわれる
     【1917(大正06)11月?】
     地目と堀に関して証人茂呂多重ほか11人に
  11/29東京控訴院で大野三郎ほか1人を土地収用補償金額裁決不服訴訟の地目に関する在廷証人に
     【1917(大正06)11月?】
     熊倉幸太郎を物件に関する在廷鑑定人として各訊問が行なわれる
  巴波川下流部の改修工事が既成する。工事の着手は1914(大正03)1月
  主要鉱山、工場を分離し古河鉱業株式会社を設立する

1919(大正08)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《農商務大臣》[第29代]山本達雄
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第41回通常会](→03/26)、[第42回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義
  《群馬県知事》[第20代]中川友次郎(→06/28)、[第21代]大芝惣吉(06/28→)
  《埼玉県知事》[第17代]岡田忠彦(→06/28)、[第18代]西村保吉(06/28→08/20)、[第19代]堀内秀太郎(08/20→)


  03/26土地収用補償金額裁決不服訴訟の控訴審が、21回の弁論を重ねる
     控訴代理人が甲第1号乃至第9号証の各証拠書類と参考書類を提出する
     また証人の陳述、鑑定書、検証調書、その他乙号証の利益になる点を引用し結審する
  06/12谷中村の残留民が起こしていた不当買収価格の控訴審(土地収用補償金額裁決不服訴訟)で判決が言い渡される
     【06/12、08/16、08/18違い?】
     【閉じていた裁判を再開し今回の22回弁論をもって終結となる?】
     県の買収価格の5割増しを控訴人に支払うよう命じたもので原告の勝訴となる
     元残留民はすでに谷中村を追われ、弁護士は8年間の無報酬活動
     弁護士にも元残留民にも不満な判決内容ではあるものの上告はあきらめ判決が確定する
  08/16東京控訴院で判決が言い渡される
     【06/12、08/16、08/18違い?】
  08/18土地収用補償金額裁決不服訴訟控訴審で裁判長神谷健夫(陪席判事長谷川道也、渡辺久)が判決を言い渡す
     【06/12、08/16、08/18違い?】
     県の買収価格(裁決額)の約5割増の価格が示される。判決は第1審判決より少しは多くなる
     強制収用時の県の買収価格の約1.5倍を公正な価格と認定、県にその差額と利子分を支払うよう判決をくだす
     【1907(明治40)5月31日からの遅延利息年5分も認められる】
     残留民も弁護士も不満ながら、第1審から13年が過ぎ残留民は居村を追われ、訴訟の続行は無理と判断し裁判は結審
     裁判をやめる(勝訴)とすると買収を認めたことになる。谷中村復活の目的とは矛盾する
     控訴審裁判の結審は同時に足尾鉱毒反対運動の終了を意味する
     1891(明治24)の第2回帝国議会で田中正造が政府に質問書を提出して28年後のこと
  足尾鉱毒反対運動が終わっても、足尾銅山は鉱毒を流し続ける

1920(大正09)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《農商務大臣》[第29代]山本達雄
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第42回通常会](→02/26・解散)、[第43回特別会](07/01→07/28)、[第44回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義
  《群馬県知事》[第21代]大芝惣吉
  《埼玉県知事》[第19代]堀内秀太郎


  04/01谷中村残留民が土地収用補償金額裁決不服訴訟の判決金額を被控訴人の栃木県庁から受け取る
     控訴以来、じつに7年11か月、事件が解決する
  09/10田中正造伝記資料収集事務所が設けられる
  10/16栃木県藤岡町にある旧谷中村村民移転地の田中翁霊祠前で厳粛な谷中村問題解決奉告会が挙行される
     東京から島田三郎をはじめ弁護士中村秋三郎、狩野山義一、横山勝太郎、久須美幸松の4人
     福田英子、高橋秀臣、栗原彦三郎、菊地茂が参列する
     奉告祭は谷中村残留民のひとり島田宗三が祭文を朗読し参列者の参拝、のち島田三郎と菊地茂の演説で式を閉じる
     のち翌日は栃木県佐野町の正雲寺の田中翁墓碑前で同じく奉告祭が行なわれる
  11/15旗川の尾名川水門、出流川水門の工事が完了。樋門を設置して逆流氾濫を防止する
  12/16栃木県谷中村の元残留民が藤岡町で縁故民大会を開く
     谷中村に対する権利を宣言し、県が進めている藤岡町への谷中地貸付に反対を決議する
  渡良瀬川改修工事の一環で渡良瀬川支流や低湿地に新堤を築き22の樋門、樋管を設置する
      谷田川樋門、与良川樋門、矢場川水門、新久田樋管、本郷樋管、東生井樋管、赤津川樋管、
      前原圦樋、新川樋門、部屋鑚井、海老瀬第1樋管、海老瀬第2樋管、荒川樋管、塩澤樋管、
      越名水門、菊澤川樋管、才川樋管、野堀樋管、尾名樋管、出流川樋管、袋川樋門、梁田樋管
     渡良瀬川を逆流させず、やがて洪水の減退を待ち、樋門、樋管を開放する設計に
     【1918(大正07)の新川築造工事との違いは?】
     のち一時、渡良瀬川の洪水は谷中村の遊水池に停滞させ利根本流の洪水の減退を待つという計画
  田中正造の妹の嫁ぎ先原田家にて子孫に伝えるため直訴状を表装にする

1921(大正10)

  《総理大臣》[第19代]原敬(→11/04・在任中に暗殺)、[原内閣]内田康哉外務大臣が臨時兼任(11/04→11/13)
  《総理大臣》[第20代]高橋是清(11/13→)
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎、[第37代]床次竹二郎(11/13→)
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《農商務大臣》[第29代]山本達雄
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第44回通常会](→03/26)、[第45回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義
  《群馬県知事》[第21代]大芝惣吉
  《埼玉県知事》[第19代]堀内秀太郎


  01/19栃木県の藤岡町当局が消防組約200人、警官40人出動を求め、元谷中村の萱刈取りを実施する
     元谷中村村民200人も同様に刈取りに出向く
     物々しい警戒に驚き、怒り、異変なく出動した消防組の責任を追及する
     のち調べが進むにつれ異常事態の背景が判明する
     のち県下の大問題となる
  07/31矢場川水門の工事が完了。樋門を設置して逆流氾濫を防止する
  新潮社が木下尚江の『田中正造翁』を発行する
     なかには庭田源八の『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』を多少省略、「渡良瀬川の詩」と改題して収録
     『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』は1898(明治31)3月2日に栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の農民庭田源八が記す

1922(大正11)

  《総理大臣》[第20代]高橋是清(→06/12)、[第21代]加藤友三郎(06/12→)
  《内務大臣》[第37代]床次竹二郎、[第38代]水野錬太郎(06/12→)
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎、[第26代]堀田貢(06/12月→)、[第27代]赤池濃(10/24→)
  《農商務大臣》[第29代]山本達雄(→06/12)、[第30代]荒井賢太郎(06/12→)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦
  《帝国議会》[第45回通常会](→03/25)、[第46回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第17代]平塚広義(→10/16)、[第18代]山脇春樹(10/16→)
  《群馬県知事》[第21代]大芝惣吉(→10/16)、[第22代]山岡国利(10/16→)
  《埼玉県知事》[第19代]堀内秀太郎


  渡良瀬遊水地化工事が完了する

1923(大正12)

  《総理大臣》[第21代]加藤友三郎(→08/24・在任中に病死)、[加藤友三郎内閣]内田康哉外務大臣が臨時兼任(08/24→09/02)
  《総理大臣》[第22代](第2次)山本権兵衛(09/02→)
  《内務大臣》[第38代]水野錬太郎、[第39代]後藤新平(09/02→)
  《警視総監》[第27代]赤池濃、[第28代]湯淺倉平(09/05→)
  《農商務大臣》[第30代]荒井賢太郎(→09/02)、[第31代]田健治郎(09/02日→12/24、09/02→09/06・司法大臣を兼任)
  《農商務大臣》[第32代]岡野敬次郎(12/24→・文部大臣による兼任)
  《東京鉱務署長》[第8代]中村清彦、[第9代]三井米松(01/25→)
  《帝国議会》[第46回通常会](→03/26、[第47回臨時会](12/11→12/23)、[第48回通常会](12/27→)
  《栃木県知事》[第18代]山脇春樹
  《群馬県知事》[第22代]山岡国利
  《埼玉県知事》[第19代]堀内秀太郎(→10/25)、[第20代]元田敏夫(10/25→)


  04/栃木県●町【現佐野市】にある渡良瀬川の越名沼が越名水門で締切られる
     約3万町歩(2万9751ヘクタール)の水害が防がれることに
  09/01関東大震災が発生。多くの個所で被災
     のち復旧工事が実施される
  11/14島田三郎が死去

1924(大正13)

  《総理大臣》[第22代](第2次)山本権兵衛(→01/07)、[第23代]清浦奎吾(01/07→06/11)、[第24代]加藤高明(06/11→)
  《内務大臣》[第39代]後藤新平、[第40代]水野錬太郎(01/07→)、[第41代]若槻禮次郎(06/11→)
  《警視総監》[第28代]湯淺倉平、[第29代]赤池濃/再任(01/07→)、[第30代]太田政弘(06/11→)
  《農商務大臣》[第32代]岡野敬次郎〈第2次山本内閣〉、[第33代]前田利定(01/07→06/11)、[第34代]高橋是清(06/11→)
  《東京鉱務署長》[第9代]三井米松
  《東京鉱山監督局長》[第10代]立石信郎(12/20→)
  《帝国議会》[第48回通常会](→01/31・解散)、[第49回特別会](06/28→07/18)、[第50回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第18代]山脇春樹(→06/13)、[第19代]大塚惟精(06/13→)
  《群馬県知事》[第22代]山岡国利(→07/23)、[第23代]牛塚虎太郎(07/23→)
  《埼玉県知事》[第20代]元田敏夫(→06/24)、[第21代]斎藤守圀(06/24→)


  10/15田中正造遺蹟保存会が設立される

1925(大正14)

  《総理大臣》[第24代]加藤高明
  《内務大臣》[第41代]若槻禮次郎
  《警視総監》[第30代]太田政弘
  《農商務大臣》[第34代]高橋是清(→04/01・農商務省廃止、02/05→02/09・司法大臣を臨時兼任)
  《商工大臣》[第1代]高橋是清(04/01→農林大臣兼任)、[第2代]野田卯太郎(04/17→)、[第3代]片岡直温(08/02→)
  《東京鉱山監督局長》[第10代]立石信郎、[第11代]田島勝太郎(12/09→)
  《農林大臣》[第1代]高橋是清(04/01→商工大臣兼任)、[第2代]岡崎邦輔(04/17→)、[第3代]早速整爾(08/02→)
  《帝国議会》[第50回通常会](→03/30)、[第51回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第19代]大塚惟精
  《群馬県知事》[第23代]牛塚虎太郎
  《埼玉県知事》[第21代]斎藤守圀


  01/13袋川水門の工事が完了。樋門を設置して逆流氾濫を防止する
  06/田中正造の『義人全集』が中外新論社から発刊される
     責任編集は田中翁遺蹟保存会編纂部
     編纂委員長は栗原彦三郎、副委員長は菊地茂
     第1編「演説集上巻」(大正14)、第2編「演説集下巻」(大正14)、第3編「鉱毒事件上巻」(大正15)、
     第4編「鉱毒事件下巻」(昭和02.04)、第5巻「自叙伝書簡遺稿集」(大正14)
     第1巻の題辞執筆者57人、序文執筆者28人
     【編者による大幅な改ざんの跡がみられる?】
  11/05内務省東京土木出張所が『渡良瀬川改修工事概要』を発行
     改修工事の目的について内務省東京土木出張所編「渡良瀬川工事概要」が伝える
     渡良瀬川中下流部の氾濫防止のための渡良瀬川改修が計画されたが、当時すでに利根川の改修工事が施工中で、
     利根川の計画高水量量に影響を与えることなく、渡良瀬川を改修するために遊水池が必要
     また一説には、銅分を含んだ土砂、泥土を遊水池の限られた区域に沈澱させるために計画されたとも
     改修区間は渡良瀬川筋の栃木県足利郡毛野村岩井地先から利根川合流口まで
     支川秋山川の下流付け替えと思川、巴波川の流末にある旧堤を撤去し海老瀬村付近の堤外地を含め
     新たに堤防を築くなど3千ヘクタールの面積を遊水池として整備する
     容量な約1億7千万平方メートル
     毛野村2藤岡町までの延長は約20キロで河道は迂曲し堤外地は河道内に土砂が堆積、川幅がせまく堤防は薄弱
     対して計画では川幅を上流の毛野村で100間(182メートル)と漸次下流に拡幅、
     利根川との合流口では230間(418メートル)に
     無堤部は新堤を築造し氾濫を防止、河道の掘削と両岸堤防の拡築が行なわれる
     藤岡町から下流の渡良瀬川は紆余曲折する河道を広げて
     藤岡町高台間に敷き幅90間(164メートル)の新川を開削し赤麻沼を中心とする遊水池に導くことに
  11/08渡良瀬川改修工事の竣工式を挙行する
     内務省東京土木出張所の主催で、安蘇郡植野村にて
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?
  国の直轄事業となる渡良瀬川の改修工事が完成する
     渡良瀬川は海老瀬村の東北部の本郷から遊水池にはいり、遊水池堤内で巴波川、思川と合流
     平時は古河町悪戸の水門から流れ、埼玉県川辺村の東北端をかすめて直線で利根川にむかい合流する
     改修工事の完成により洪水で堤防が決壊することはなくなる
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?

1926(大正15・昭和0112/25〜

  《総理大臣》[第24代]加藤高明(→01/28・在任中に病死)、[加藤高明内閣]若槻禮次郎内務大臣が臨時兼任(01/28→01/30)
  《総理大臣》[第25代]若槻禮次郎(01/30→)
  《内務大臣》[第41代]若槻禮次郎、[第42代]若槻禮次郎内閣総理大臣が兼任(01/30→)、[第43代]濱口雄幸(06/03→)
  《警視総監》[第30代]太田政弘
  《商工大臣》[第3代]片岡直温、[第4代]藤沢幾之輔(09/14→)
  《東京鉱山監督局長》[第11代]田島勝太郎
  《農林大臣》[第4代]早速整爾(01/30→)、[第5代]町田忠治(06/03→)
  《帝国議会》[第51回通常会](→03/25)、[第52回通常会](12/26→)
  《栃木県知事》[第19代]大塚惟精(→09/28)、[第20代]藤岡兵一(09/28→)
  《群馬県知事》[第23代]牛塚虎太郎(→12/18)、[第24代]百済文輔(12/18→)
  《埼玉県知事》[第21代]斎藤守圀


  03/末渡良瀬川改修工事の総工費は当初の予算より増加1140万円に達する
     内訳は国庫支出金が793万5千円、関係4県負担金は合計346万5千円
     栃木県192万6千円、群馬県54万円、埼玉県46万8千円、茨城県53万1千円
  渡良瀬川改修工事の竣工を記念し関係者有志により渡良瀬川治水紀功碑が建てられる
     碑文には渡良瀬川の沿革、足尾鉱毒事件、谷中村事件で全国に渡良瀬の名が知れたことなど、
     1910(明治43)の渡良瀬川改修工事の着手に至る経緯と工事の概要が記される
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?
  渡良瀬川の改修工事が竣工する
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?
  この年以降、渡良瀬川、思川、巴波川と遊水池の改修整備により水害が免れるようになる
     各所の不毛の土地の多くが耕地として開発される地域の農産物は大いに増収となる
     浸水の減少により、ほかの産業も目覚ましい発展をとげる

1927(昭和02)

  03/31渡良瀬川河身改良工事が竣工する
     工費は1140万円、工事延長14里20町、堤防延長(両岸)21里、
     築堤土量176万7900立坪、浚渫土量260万9200立坪
     渡良瀬川流域の屈曲を直ぐし、浅瀬を深くし、狭隘を広くし河水の流下を容易にする
     渡良瀬川の南岸となる群馬の堤防を旧堤の2倍以上に増築し水害の心配がなくなる
     のち排水器を設置しての湛水の心配ははなくなる
     埼玉県の利島村、川辺村、群馬県の海老瀬村、伊奈良村、西谷田村、大島村、
     郷谷村、赤羽村、大箇野村、栃木県の植野村、界村、三鴨村、犬伏町など
     のち湿地低地まで開墾して作付けできるようになり、約4万俵の米の増収を見るようになる
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?
  03/予定より4年遅れて渡良瀬川改修工事が竣工する。着工は1910(明治43)
     この年までの間に旧谷中村が遊水地となる
     渡良瀬川の流れの向きを変えるなど、大規模な河川工事が行なわれ洪水は減少する
     それでも足尾の山から流出する土砂が下流で堆積するのは止まらず
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?

1930(昭和05)

  利根川改修工事が6324万円の巨費を投じていちおうの完成をみる。着工は1900(明治33)
     ▽渡良瀬川改修工事の竣工の記事が7種類あり
      1925(大正14)11/08? 1925(大正14)? 1926(大正15)? 1926(大正15)? 
      1927(昭和02)03/31? 1927(昭和02)03/? 1930(昭和05)?

1936(昭和11)

  07/15前年、北海道から古河に戻ってきていた茂呂近助が85才で死去する
     古河町の徳星寺で告別式が行なわれる
     08/18北海道の佐呂間にて茂呂近助の追悼会が開かれる

1937(昭和12)

  04/北海道に移住した旧谷中村民が帰郷請願書を栃木県知事に提出する。帰郷請願の運動がはじまる
     川島平助を中心に「渡良瀬川遊水池敷地貸下願」が栃木県知事あてに提出される
     1938(昭和13)北海道入植者による第2次帰郷請願が行なわれる
     のち県からの返事はなく
     1944(昭和19)北海道入植者による第3次帰郷請願が行なわれる
     のち県から非公式の回答を得る。ただ意に添えるものでなく
     1971(昭和46)北海道入植者による第4次帰郷請願が行なわれる
     請願の中心は川島平助の息子川島清と幼少時に寒川村から入植した今泉米次郎
     帰郷請願に対して過疎化に悩む佐呂間町の人たちからの批判は強く
     栃木県は土地貸し下げでなく就職斡旋という集団離農と同じ対応に
     1972(昭和47)03/09旧谷中村民ら6世帯20人が佐呂間町から栃木県に戻る

1938(昭和13)

  05/25永島与八が『鉱毒事件の真相と田中正造翁』を発行する
     巻末の田中正造年譜の明治36年の項、2月
     河井茂蔵が第8回衆議院議員総選挙に立候補し、田中が静岡県の掛川で応援演説に立つ記述あり
     「靜岡県掛川町に於て〇〇全廢論を發表す」と伏せ字の表現となる
  北海道入植者による栃木県への第2次帰郷請願が行なわれる
     帰郷請願の運動は1937(昭和12)4月からはじまる。第4次まで
     のち県からの返事はなく
     1944(昭和19)北海道入植者による第3次帰郷請願が行なわれる

1944(昭和19)

  北海道入植者による栃木県への第3次帰郷請願が行なわれる
     帰郷請願の運動は1937(昭和12)4月からはじまる
     のち県から非公式の回答を得る。ただ意に添えるものでなく
     1971(昭和46)北海道入植者による第4次帰郷請願が行なわれる

1966(昭和41)

  03/足尾銅山の月産銅量が55トンとなり戦後月産最高を記録する

1971(昭和46)

  北海道入植者による栃木県への第4次帰郷請願が行なわれる
     帰郷請願の運動は1937(昭和12)4月からはじまる
     請願の中心は川島平助の息子川島清と幼少時に寒川村から入植した今泉米次郎
     帰郷請願に対して過疎化に悩む佐呂間町の人たちからの批判は強く
     栃木県は土地貸し下げでなく就職斡旋という集団離農と同じ対応に
     1972(昭和47)03/09旧谷中村民ら6世帯20人が佐呂間町から栃木県に戻る

1972(昭和47)

  03/09旧谷中村民ら6世帯20人が北海道佐呂間町から栃木県に戻る
     帰郷請願の運動は1937(昭和12)4月からはじまる。前年の第4次まで
  12/18古河鉱業が翌年2月末の足尾銅山閉山を労働組合に正式提案する
  12/足尾銅山閉山対策町民大会を開催し、銅山閉山阻止の対策を協議する

1973(昭和48)

  02/24古河鉱業足尾銅山が操業を停止し閉山となる。製錬事業は継続する【操業停止は2月28?】

1982(昭和57)

  06/01北海道の佐呂間町が「栃木のあゆみ」を発行する
     入植は1911(明治44)4月と1913(大正02)の2回に分けられ、
     その数91戸、うち旧谷中村出身は17戸と記される
     発行者は栃木開基開校70周年記念協賛会
     編集者は栃木部落史編集委員会
     発行所は常呂郡佐呂間町字栃木

1989(昭和64・平成0101/08〜

  田中正造の6番目の遺骨分骨地として久野村の寿徳寺が公表される
     佐野町の惣宗寺、渡瀬村の雲龍寺、旗川村の浄蓮寺
     藤岡町の田中霊祠、利島村の利島小学校、久野村の寿徳寺となる


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