2011(平成23)03/30(水)初回立上
 2015(平成27)10/12(月)最終更新

 4278事象(前2029、後2249)
 ▽「日本社会運動史年表」は編集著作権で保護されます  (c) 2011-2015 makuramoto all right reserved.
 ▽大正12年09月16日☆憲兵隊での事象(別ページリンク)
 ▽大正12年10月13日☆「読売新聞」の記事事象(別ページリンク)
 文字◆書籍  ◆雑誌、新聞  ●協会、学会、党  ●大会、集会、遊説、伝道行商  ●法令、条例、内閣  ●ストライキ、暴動、紛争、罷業、争議  
 下地(薄桃)=娼妓・遊廓関連の事象

1841(天保12)〜

1906(明治39)〜

1907(明治40)

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望
  《内務大臣》[第25代]原敬逓信大臣が兼任
  《警視総監》[第17代]安楽兼道/再任
  《内務省警保局局長》古賀廉造


  01/01横田兵馬、岩崎吉勝、遠藤無水らが福田英子を助け半月刊の日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』を創刊
     寄稿者は石川三四郎、安部磯雄らを中心とした『新紀元』のメンバー
     キリスト教社会主義の立場から家族制度を批判し、婦人に自我の確立を呼びかける
     また堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、小野吉勝(有香)、遠藤友四郎、神川松子、長加部寅吉、
     高畠素之、深尾韶、赤羽一(巌穴)、白柳秀湖、内山愚童、大石誠之助(禄亭)、久津見蕨村、
     西川文子など様々な傾向の社会主義者、無政府主義者が寄稿する
     1908(明治41)01/月刊となる
     1909(明治42)01/05経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
     07/05第38号掲載の石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が筆禍発禁に
     新聞紙法違反で編集兼発行人の石川が裁判に問われ終刊に
     1910(明治43)01/22東京控訴院で石川に禁錮4か月、罰金60円『世界婦人』の発行禁止が言い渡される
     03/28筆禍事件の判決が確定し石川が入獄する
     07/28石川が出獄。福田英子の家に帰る。まもなく家宅捜索を受ける
  01/01国粋主義系の政治評論団体「政教社」発行の雑誌『日本人(第3次)』『日本及日本人』に改題
     1945(昭和20)02/廃刊となる
     創刊は1888(明治21)4月3日発行の『日本人』
  01/01管野すがが『牟婁新報』第664号に「としのはじめ」を発表
     荒畑寒村との結婚を公表する
  01/石川三四郎は『世界婦人』、日刊『平民新聞』と2紙の創刊にかかわり多忙を極める
  01/08大日本労働至誠会足尾支部が金田座で演説会を開く
     のち1月9日にはいろは座で、11日には花柄平で演説会を開く
     01/26金田座での演説会で南は千人を超える聴衆を前に資本家などの不正を糾弾
     01/29いろは座での労働問題演説会は600余人の聴衆を集め、足尾銅山所長南挺三に対する弾劾演説会に
     02/01古足尾の鶴屋では足尾全山の山中当番総代会が開かれる
     待遇改善など請願24か条を決め、2月6日の午前9時を期して至誠会の総会にて坑夫一同で請願することを決定
     「賃金値上げ、間代(能率給)の適正化、安全および衛生管理」など
  01/木下尚江が人はキリスト教と社会主義と「二人の主に仕ふる能はず」と伊香保山中の小天地に引き込む
     【日刊『平民新聞』創刊前? 後?】
  01/15平民新聞社より『平民新聞』が創刊される
     『光』を刊行していた西川光次郎らと、『新紀元』を刊行していた石川三四郎らを幸徳秋水と堺利彦が説得して合同
     発行所/東京市京橋区新富町6丁目7番地平民社、発行/日刊。月曜休刊
     発行兼編集人/石川三四郎、印刷人/深尾韶
     定価/1部1銭、1か月25銭、地方直送郵税共1か月32銭、半年1円85銭、1年3円30銭
     体裁/新聞紙大、紙幅/縦=約52糎、横=約37糎、頁建/4頁
     事務所は築地新富座の北隣の元芝居茶屋の1戸
     創立者は幸徳秋水、堺利彦、西川光次郎、石川三四郎、竹内兼七
     社員24人の部署
     ○庶務会計部 幸徳伝次郎[主任]、村田四郎[会計]、森近運平[売捌]、椎橋重吉[広告主任]、
     斎藤兼次郎[発送]、神崎順一[同]、宇都宮卓爾[同]、矢木健次郎[発送集金]、吉川守圀[広告]
     ○編集部 赤羽巌穴、石川三四郎、西川光次郎、岡千代彦、原霞外(真一郎)、幸徳秋水、山川均、荒畑寒村、
     堺利彦、深尾韶、山口孤剣(義三)、小川芋銭、岡野辰之介[校正]、徳永保之助[同]、百瀬晋[給仕]
     04/13東京裁判所が発行禁止を宣言
     『平民新聞』は平民新聞社が同年1月15日に創刊
     04/14第75号を全紙赤版にして廃刊に
  01/15木下尚江が『平民新聞』創刊号4ページに「山居雑感」を寄稿
  01/15荒畑寒村が『平民新聞』創刊号7ページに「舞ひ姫」を発表
  01/15原霞外が『平民新聞』創刊号から小説「新派講談・舶来乞食」の連載を開始する【原真一郎?】
     03/26第58号まで全54回にわたり連載される
  01/15牛込区市谷の管野すがの寓居に同志が集会し気勢をあげる
     荒畑寒村、山口孤剣、早稲田の文科に通う白柳秀湖、安成貞雄、土岐哀果(善麿)、佐藤緑葉など
     『平民新聞』に載った荒畑の「舞ひ姫」を山口が樋口一葉の『たけくらべ』を読むようだとほめる
  01/19岩手の鉱山でストライキが起こる
  01/20石川三四郎と幸徳秋水が『平民新聞』第2号から「日本社会主義史」の連載を開始する
     03/24第57号まで全33回の連載となる
  01/21日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第2回』を発行する
     『足尾銅山ラッパ節 第1回』は1906(明治39)10月19日に発行
     1910(明治43)09/03『第1回』『第2回』ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/26山川均が『平民新聞』第8号1ページに論評「男女関係の解放」を発表する
  01/27『毎日電報』に粛親王の家庭教師「成田よし子」を訪問した管野すがの記事が載る
  01/平民書房が児玉花外の『天風魔帆』を発行する
  02/01幸徳秋水が『平民新聞』第13号1ページに「独逸総選挙と欧州社会党」を発表する
  02/02日刊『平民新聞』第14号の掲載記事「郡制廃止の決議」が官吏侮辱罪です告発される
     04/19「郡制廃止の決議」事件は無罪となる
  02/03奥宮健之が『平民新聞』に通俗講話「治国平天下はパン問題の解決にあり」を発表する
     02/03第15号1ページに(上)、02/06第17号1ページに(下)

    【↓以下、足尾銅山暴動事件の動向↓】
  02/04通洞坑にて坑夫と職員が間代(能率給)のことで言い争い
     怒った坑夫が坑内見張所を破壊し暴動化。足尾銅山暴動事件が起きる
     暴動は警察から依頼を受けた至誠会の南助松、永岡鶴蔵が説得にあたり事なきを得る
     【飯場頭により挑発、煽動される?】
     【危機感を強めた飯場頭が新興の至誠会潰しのために暴動のきっかけ作る?】
     以降足尾に警官が増派、それでもその数80人に満たず
     のちの暴動を予測し栃木県第4部(警察部)部長、第4部警務課長、
     また宇都宮地方裁判所から検事、予審判事、書記が足尾に派遣される
  02/05簀子橋坑と本山坑にて暴動が起こる。不満が爆発。見張所の破壊暴動がおこる
     前日の小暴動の際、通洞坑では坑夫は休業なのに賃金が支払われるも、他の部署では就業させられる
     簀子橋坑での騒ぎは永岡と南が説得、坑夫らはハチマキをはずし一礼して鎮まる
     本山での騒ぎは永岡らがむかう前に収まる
     至誠会の説得で坑夫らの怒りはひとまず収まることに
     それでも、請願書の提出を目前に控えた足尾銅山は一触即発の危機の状態
     足尾銅山では坑夫たちの友子組合(技術指導と相互扶助を目的とする組織)と、
     会社と坑夫の間に立つ飯場頭との間で、飯場割(飯場経費や友子の交際費)のピンはねを巡り緊張関係が続く
     両者間の亀裂に乗じ、至誠会は友子組合と密接な関係を築きはじめる
     平民社の特派員として西川光次郎が足尾に入る
  02/06午前9時、全鉱夫3600余人の名で、賃銀増加など全24か条の請願書は平静な小滝坑場のみで提出
     本山と通洞では、頭役により簡略化した請願書が提出される
     ▽午前9時、本山坑の坑夫約1千人が暴徒化
     4か所の見張所を襲撃し、ダイナマイトの爆発を合図に坑外でも破壊活動がはじまる
     原因は休業中の通洞坑で、いまだに賃金が払われていることへの不満
     ▽午前10時、警察は暴動を社会主義者が中心の至誠会幹部が起こしたものと判断
     林屋にて西川と会談していた永岡鶴蔵、南助松ら至誠会の主要メンバー8人を兇徒嘯集罪で拘束
     ▽足尾に坑夫たちを説得できる者は誰1人もいなくなる
     坑夫たちは永岡鶴蔵や南助松の検挙を知って激高し、暴動はさらにエスカレート。本山坑では暴動が本格化
     知事から「いかなる場合にも抜剣を禁じ」られていた80人足らずで鎮圧できる規模の暴動ではなくなる
     ▽午前11時過ぎ、栃木県第4部(警察部)部長の植松金章は鎮圧が不可能と判断
     栃木県知事の中山巳代蔵あてに至急出兵を要請する電報をうつ
      のち、植松金章は1907(明治40)6月に谷中村残留民の家屋を強制破壊させる
     ▽午後2時、永岡鶴蔵、南助松ら至誠会の主要メンバー8人が日光に送られる
     ▽突如として起こった暴動は本山全体に波及し1200余人が大活動をはじめる。足尾は無警察状態に
     事務所、役宅、倉庫などに火がつけられる。電線を切断し、書類を焼き、建物を打ち壊しに
     鉱山内の48棟が焼き払われ、倉庫から酒を盗んだ鉱夫らは所長の南挺三宅に押し寄せ瀕死の重傷を負わせる
     鉱山本事務所を襲い、金庫をあけて日露戦争の公債や重要書類を引きさく
     建物を打ちこわす前、明治天皇の肖像と古川市兵衛の肖像だけは、大切にはずし警察に渡す
     ▽午後5時半、選鉱場を焼き、石油庫、火薬庫にダイナマイトが投げ込まれる
     ▽午後8時頃、役宅放火される
     足尾全山はパニック状態に陥る
     激高した坑夫は消火をしようとする消防組の行動を妨害
     「もし消すならお前らを殺し、町にも火をつける」と大騒ぎ
  02/06出兵の要請を受けた中山知事は原敬内務大臣に連絡
     原内相は寺内正毅陸軍大臣に相談し足尾への出兵が決定する
     【午後1時すぎ、寺内陸相に軍隊の出動を要請(誰が、かは不明)】
     のち出兵命令は寺内陸相から第1師団(東京、師団長は閑院宮載仁親王)へだされる
     ▽午後3時半、第1師団参謀長の星野金吾大佐から歩兵第15連隊の連隊長渡辺湊大佐あてに電報が発せられる
     「警戒ノ為大隊長ノ指揮スル三中隊(一中隊百名)ヲ足尾ニ出ス筈 直ク準備シ置ケ」
     渡辺大佐は部隊編成に取りかかる
     ▽午後7時20分、派遣大隊の指揮をとる第2大隊長の吉野有武少佐は
     栃木県知事と交渉をするため副官の高野中尉と高崎発の列車で宇都宮にむけ出発
     ▽午後8時過ぎ、派遣大隊が編成を終える
     下士卒は各自爆薬10発、空砲30発、携帯口糧2日分と毛布1枚を装備
     ▽午後9時、連隊本部の西側に整列した派遣大隊を前に渡辺大佐が述べる
     「今后暴徒ハ如何ナル事ヲ為スモ軍隊ニ対スル敵ニアラザルヲ以テ残酷ノ処置アルベカラズ」と告諭
     「暴徒鎮定圧ノ為メニハ先ヅ口頭ヲ以テ説諭シ之ニ服セザレバ銃剣ヲ擬シテ威圧シ已ムヲ得ザレバ
     空砲ヲ以テ先ヅ鎮圧ヲ計ルベシ 万已ムヲ得ザルニ非ザレバ実弾ヲ使用スベカラズ」と訓示
     日露戦争に出征した士官、下士官、三年兵はロシア兵にむけた剣や銃口を、
     こんどは同胞にむけなければならなくなる。彼らの胸中は複雑に
     ▽午後10時、派遣大隊が高崎停車場に集合、将兵約300人が1時間後の出発を待つ
     ▽午後11時05分、派遣大隊は客車9両、有蓋貨車2両編成の臨時列車で高崎を出発
     大宮、宇都宮経由で日光へ。足尾への出兵要請からちょうど12時間後のこと
     日本近代史上初めて労資の紛争に軍隊が介入する
  02/07午前2時、吉野少佐が宇都宮に到着、師団司令部から派遣された小泉六一参謀とあい、師団長からの訓令を受領
     また栃木県の中山巳代蔵知事と面会し足尾の状況を聞く
     本山は暴徒のため焼失し、通洞や小滝も襲撃されたとの情報もあるものの、交通が遮断し詳細は不明。足尾は無事
     ▽もともと計画的組織されたわけではなかった暴動は7日に入り、軍隊の到着前に終息に近づく
     ▽午前3時、日本社会党の機関紙「平民新聞」の特派員として派遣された西川光二郎が逮捕される
     ▽午前8時半、大隊が日光に到着。細尾の銅山出張所へ
     ▽午後0時30分、栃木平から鉄道馬車にのり足尾へ向かう
  02/07午後1時過ぎ、開会中の第23回帝国議会(衆議院)にて山田郡休泊村出身の代議士武藤金吉が提出する
     「足尾銅山ノ暴動取締リニ関スル質問書」
     古河と陸奥宗光や原敬との関係、東京鉱山監督署長から足尾銅山鉱業所署長に天下った南挺三について鋭く指摘
     さらに警察力だけで取り締まれず軍隊を出兵させた件に関し原敬【首相】の責任を追及する
     対して原【内相】が回答する
     「今回の暴動は、南何某というものが至誠会なるものを組織し、坑夫たちを教唆、煽動したことにある。
     ただ暴徒の数が多いので警察力だけでは手が足りず、知事から第1師団に出兵要請があったのでこれに応じた。
     これは今日の法律的の仕事である」
     至誠会が暴動の中心であると断定した上で政府の対応を正当化
     「如何ナル人ヲシテ局ニ當ラシメテモ(略)兵ヲ出ス外ニ方法ハナイノデアリマス」
  02/07午後3時過ぎ、派遣大隊が足尾に到着する
     【午後1時15分、軍隊が足尾に到着】
     大隊到着直後の様子は「同地ノ情況平穏ナリ」。事件はおおむね沈静化
     派遣大隊は各地に部隊を分散させる
     小滝に1個小隊、本山に20人、赤倉精練所に1個小隊、小学校に5人、細尾に1個分隊
     【本山方面に2個小隊、小瀧方面に1個小隊、細尾に1個分隊、通洞に1個小隊とわかれる】
     大隊本部は足尾町にあり付近の警備にあたる
     【本部が松原町の泉屋旅館に置かれる】
  02/07午後3時、西川光二郎に代わり「二六新報」の名刺を携えた平民新聞の第2特派員の荒畑寒村が上野を出発
     02/07夜8時、日光に到着。1泊する
     02/08朝、荒畑が足尾に到着
     02/08夜、荒畑が同志早瀬健次郎宅に泊まる。11時頃、警官4、5人が同宅へ踏み込み早瀬を拘引
     荒畑は奥の1室で布団をかぶり潜伏、難を逃れる
     02/09午後10時、荒畑が足尾をはなれ無事に帰社
  02/07午後3時15分、『万朝報』は足尾全山に「戒厳令」が発令されたと伝える
     【午後4時、戒厳令がしかれ警察官、軍隊、憲兵隊により騒ぎが鎮静化】
     のち、『万朝報』と同様、戒厳令の発令があったと記す資料が多くでてくる
     平民新聞の第2特派員、荒畑寒村が自伝のなかで「戒厳令下の足尾に入ると」と記す
     ただ、現地に派遣された部隊の『派遣大隊詳報』にも、原敬の『原敬日記』にも戒厳令に関する記述はない
     02/09『万朝報』に、足尾にいた植松警察部長の談話がのる
     「既に軍隊も到着し、我が勢力も三百六十名となり且つ戒厳令と同一の効力のある保安警察条例第十八条を執行したれば」
     記者が談話を聞いたのは派遣大隊到着後で、植松部長の話が誤って伝わり「戒厳令」かひとり歩きしたのか
  02/07午後4時から9時までのあいだ、各地から平穏無事な様子が伝わる
     「本山古河橋ニ到着ス当方面目下平穏ナリ」
     「小滝村ノ情況ハ目下平穏ナリ」
     「暴徒ハ目下鎮静ニ帰シアルモノト忍ム」
     ▽午後9時20分の大隊命令
     「本日中ニ警察官ニ於テ逮捕シタル暴徒嫌疑者実ニ百五十名に達ス」
  02/07暴動は社会主義者と関係があるとにらむ
     午後4時半頃、東京府京橋区新富町の平民社に家宅捜査に
     裁判所判事の小林義夫、検事の金子富次郎、警視庁警部巡査ら10余人
     足尾の騒擾事件の余波によるもの
     堺利彦らは関係書類のほか、南助松や西川光二郎からの手紙、はがき、電報を提出、押収される
     のち堺利彦、幸徳秋水、西川光二郎、斎藤兼次郎、石川三四郎、竹内余所次郎らの自宅をも捜索される
  02/08未明、足尾町の宿屋は軍隊の司令部、裁判官、警察官、新聞記者であふれる
     ダイナマイトを抱え坑内にひそむ坑夫の逮捕にむかう決死隊の警官、
     検挙された坑夫と護送の巡査、新聞記者がせまい街路を右往左往する
     ▽午前10時、吉野少佐が警官から通報を受ける
     「坑夫数百名ハ坑内ニ潜入シアルモノノ如シ 目下坑口及ビ山上ニ於テ続々警察官ノ手ニ依リテ逮捕セラレツツアリ」
     ▽午前11時、吉野少佐が渡辺連隊長あてに電報を打つ
     「坑夫数百名坑内ニ入リタル如シ 目下漸次警察官ノ手ニ捕ヘラレツツアリ 人民行衛不明約百名ナルモ全般ニ静ナリ」
     ▽吉野少佐は半小隊を率いて小泉参謀と本山方面を視察
     半小隊を率いる副官に小滝方面の巡察を命じる
     02/09午前8時、土橋大尉から報告。朝には暴動は沈静化
     一、昨日午后七時ヨリ同九時迄ニ本口ニ出シタル独立下士哨ヨリ坑夫七名ヲ捕獲シ来リ警察官ニ引渡タリ
     二、昨日午后八時五十分細尾下士哨ヨリ左ノ報告ニ接ス 土民ノ言ニ依レバ細尾峠ヲ上ルコト
     約二千五百米突ノ地点ニ於テ逃亡セル坑夫通行人ノ提灯ヲ奪ヒ之ヲ破棄シテ遁走セリ 但シ其坑夫ノ人員不明
     三、午前七時細尾ノ下士哨ヨリ左ノ報告ニ接ス 昨夜哨所附近ノ
     土民大ニ喧噪ナリシガ為辺ニ注意シアリシモ異常ヲ認メズ
  02/10暴動は完全に終焉を迎え、鉱業所が関係者の処分を発表する
     暴動を起こした本山坑と通洞坑の坑夫を全員解雇。再雇用を望む者は11日の正午までに採用願を提出せよとする
     結果、再雇用を拒否されたのは通洞坑では1062人中91人、本山坑では1158人中1人(拘留中の坑夫は含まず)
     【これは至誠会の活動が活発だった通洞坑への報復措置?】
     ▽暴動で倉庫、役宅、精練所など65棟が破壊、うち48棟が焼失。付近の民家3棟も被害を受ける
     負傷者は鉱業所が南挺三所長以下11人、警官3人、坑夫20数人、酒に酔い焼死した坑夫1人
     のち容疑者の検挙は9日まで行なわれる。最終的には628人が検挙され182人が起訴
     ▽暴動が激化したことで生じた政府のメリット
     (1)日本一の鉱山足尾から社会主義者とシンパを一掃したこと
     (2)新聞等を通じて事件の狂暴性を知らせることで、社会主義に対する嫌悪感を植え付けたこと
     (3)労働争議の鎮圧には出兵も辞さないという政府の強行姿勢を示したこと
  02/12午後3時30分、大隊命令がだされる
     「(一)暴動事件平定ス (二)大隊ハ任務ヲ了ヘ明日午前五時三十分当地ヲ出発
      日光ヲ経テ帰還セントス 各中隊ノ為馬車十六臺準備ス(以下略)」
     事件そのものが完全に収束したことが兵士にも伝えられる
     02/13午前5時30分、吉野少佐率いる派遣大隊は足尾を出発、帰路につく
     のち日光で1泊(大隊本部は小西別館)
     02/14午前9時、日光を発ち、午後4時15分高崎停車場に帰還する
     足尾滞在の7日間、23年前の秩父事件と違い、1発の銃弾を撃つことなく無事役目を終えることに
     派遣大隊出張中の患者は皮膚病(以前疾患の再発)2人
     帰路の細尾峠で転倒し打撲症(軽傷)を負った1人
    【↑以上、足尾銅山暴動事件の動向↑】

  02/05幸徳秋水が『平民新聞』第16号1ページに論評「余が思想の変化(普通選挙に就いて)」を掲載
     日本社会党の方針であった普通選挙権獲得を目的とする議会主義を否定
     世界革命運動の潮流となりつつある全労働者のゼネラル・ストライキによる直接行動を主唱する
     日本社会主義運動の方向転換を強く同志に訴える
     02/10堺利彦が「社会党運動の方針」を『平民新聞』第21号1ページに掲載。幸徳に対し反論
     02/14田添鉄二が「議会政策論(上)」を『平民新聞』第24号1ページに掲載。堺と同意見を発表
     02/15「議会政策論(下)」を『平民新聞』第25号2ページに掲載
     社会党内部で「直接行動」論争がはじまる。軟派(議会政策派)と硬派(直接行動派)の分派抗争が激化する
     官憲は「直接行動」の語を「暴力革命」と同義と歪曲され理解される
  02/05「貧富の戦争」筆禍事件の被告山口孤剣が審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
     「貧富の戦争」は1906(明治39)9月24日に『光』の号外として発行。28日に新聞紙条例違犯に問われる
     1906(明治39)12月18日には東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     「新兵諸君に与ふ」筆禍事件と同日裁判
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  02/05「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の被告山口孤剣が東京地方裁判所で軽禁錮2か月の判決を受ける
     「新兵諸君に与ふ」は大杉栄の訳で1906(明治39)11月25日発行『光』第28号4ページに掲載
     フランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     「貧富の戦争」筆禍事件と同日裁判
     04/06東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
  02/06足尾暴動事件で拘引された当日、早くも取り調べがはじまり調書がつくられる
     被告は暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバー
     蒔沢秀判事により第1回の予審調書がつくられる
     03/04望月判事により第2回の予審調書がつくられる
     第3回、第4回は不明
     05/21望月判事により第5回の予審調書がつくられる
     05/22第6回の予審で審理調書がつくられる
     05/23引き続いて予審がある
     06/05予審が終結。永岡らは兇徒聚衆罪で起訴され公判を受けることに
     08/01宇都宮地裁で足尾暴動事件の公判はじまる。南助松に対して審問が行なわれる
     08/02公判で永岡鶴蔵に対する審問が行なわれる
     09/07宇都宮地方裁判所休暇部裁判長判事の宮本力之助が判決を言い渡す
     足尾騒擾事件の第1審判決。南、永岡以下8人は無罪に。他22被告に1〜12年の有期刑の判決が下る
     8人は井守伸午、林小太郎、山本利一郎、國本浅五郎、大谷由太郎、山中金五郎、山本久吉、山口榮太郎
     裁判では至誠会が暴動を示唆したとする検察の主張は認められず
     暴動が発展した直接のきっかけは、飯場頭による労働者側への挑発
     のち検事が控訴する。永岡、南、井守、林、山本など首魁、教唆者の身柄が東京に移される
     12/14控訴院公判がはじまる
     12/16控訴院公判で永岡に対する尋問が行なわれる
     1908(明治41)02/08控訴院が控訴破棄の判決。控訴公判で無罪判決。永岡は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
     04/大審院は無罪を判決
  02/07九州社会主義協会が野波鎮人の『社会主義とは何ぞ』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/09荒畑寒村が足尾から柏木の自宅に戻る
     管野すがの妹ひでの病状が悪化
  02/09『平民新聞』第20号1ページに論評「労働者と軍隊」が発表される
  02/10堺利彦が『平民新聞』第21号1ページに論評「社会党運動の方針」を発表する
  02/10アメリカ、オークランドの「社会革命党」の機関紙で日英両語の新聞『革命』の第2号が発行
     創刊は1906(明治39)12月20日【12/01?】
     04/01第3号が発行される。廃刊となる
     11/03『暗殺主義』が発行される
  02/11福田英子の大阪事件出獄19年記念の夕食会が開かれる
     『平民新聞』編集者一同が招かれる
     山口弧剣は筆禍事件に対する心労から茶碗酒をあおり酔いつぶれる
     介抱役にまわった山川均は山口を下宿先まで送り届ける
  02/19才の南操子と加藤藤子が宇都宮監獄に収監された操子の夫南助松、藤子の夫加藤栄松ら至誠会メンバーを見舞う
     差し入れはすますが、面会は許されず。その足で上京、平民社を訪ねる
     南操子は足尾暴動事件で起訴された南助松の妻、加藤藤子は同じく加藤栄松の妻
     02/12『平民新聞』第22号3ページに南操子のことを書いた記事「革命婦人と語る」が掲載
     02/13『平民新聞』第23号3ページには南操子、加藤藤子の写真が大きく掲げられる
  02/12福田英子、管野すが、堺為子らが治安警察法第5条改正請願を議会提出する
     03/16衆議院で可決する
     03/27貴族院で否決される
  02/12『毎日電報』管野すがの小品小説「お縫さん」が載る
  02/12東京青年倶楽部が添田平吉の1枚ものの『警世諷俗わからない 附あきらめ賦詩』を発行する
     1908(明治41)08/10発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/14田添鉄二が『平民新聞』第24号1ページに論評「議会政策論(上)」を発表する
     02/15『平民新聞』第25号2ページに「議会政策論(下)」を発表する
  02/15『毎日電報』に管野すがによる記事、片腕を切りとられた芸妓「妻吉の今日此頃」が載る
     署名は須賀子
  02/15石川の遊泉寺銅山でストライキが起きる
  02/16石川三四郎が『平民新聞』第26号1ページに論評「社会党員諸君に告ぐ」を発表する
  02/16竹内余所次郎が『平民新聞』第26号2ページに「運動方針に就いて」を発表する
  02/16〜19長崎三菱造船所の職工数百人に待遇改善の不穏な形勢からストライキが発生する
     大事には至らず
  02/17神田区錦町3丁目の錦輝館で日本社会党第2回大会が開催される
     無政府主義と社会民主主義との間に鋭い対立が示される。分派論争
     午後1時50分、堺利彦の開会の辞にはじまり、竹内が座長となり議事が進められる
     出席の党員は地方支部代表者をあわせて60余人、来賓数十人。なかには徳富健次郎(蘆花)、奥宮健之の姿も
     1、党務報告 森近運平
     1、緊急動議 石川三四郎
     足尾事件のため獄中にある西川光次郎、南助松、永岡鶴蔵に慰問電報を打つことを満場一致で可決
     1、党則改正
     党則を「国法の範囲内に於て社会主義を実行する」から「社会主義の実行を目的とする」に改める
     1、役員選出
     新評議員20人は堺利彦(平民記者・38)、幸徳伝次郎(同・37)、西川光次郎(同・32)、斎藤兼次郎(毛筆用金櫛職・46)、
     野沢重吉(人力車夫・50前後)、藤田四郎(牛乳店主・44)、田添鉄二(英語塾経営・33)、松崎源吉(売薬業・35)、
     椎橋重吉(平民社員・31)、森近運平(同、元岡山県属官・28)、深尾韶(平民記者、元小学校教員・28)、
     岡千代彦(印刷工、労働組合運動先達・35)、竹内余所次郎(薬剤師・43)、幸内久太郎(親方金物職・44)、
     石川三四郎(平民記者・32)、山口義三(同・25)、樋口伝(書画販売・35)、安井有恒(青山学院事務員・44)、
     安中逸平(葉茶屋・44)、添田平吉(唖蝉坊、流行歌呼売・30)
     堺利彦、石川三四郎が幹事に互選
     1、萬国社会党大会に関する件 堺利彦
     8月にドイツのスツットガルトで開かれる大会に出席する日本代表代議員は
     欧州漫遊中の途にある加藤時次郎とする案を提議、可決
     1、「宣言及決議」
     堺は評議員提出の決議案を説明。決議案は議会行動論者と直接行動論者を対立させないための意図をもつ妥協案
     審議で堺利彦提出の評議員案をめぐり幸徳秋水と田添鉄二が論争。両派は満足せず互いに自説に立ち修正案を提出する
     田添は「我党は普通選挙を以て有力なる運動方法のひとつなりと認む」の1項目を加えることを主張
     幸徳は「我党は議会政策の無能を認めもっぱら労働者の階級的自覚を喚起」との修正を主張する
     幸徳は田添の議会政策論に反対し直接行動論を唱え激しい論戦を展開する
     大会は幸徳、田添の討論のほか、赤羽一、石川三四郎、松崎源吉、金子新太郎、竹内善朔らが発言、賛否の意見を述べる
     3時間の大討論のあと、採決では田添案2票、幸徳案22票、堺(評議員原案)案28票で原案を可決し解散
     日本社会党第2回大会で田添鉄二、片山潜らの議会政策に反対した幸徳秋水らが直接行動論を主唱し論争となる
     袂を分けることに
  02/17第2回社会党大会での幸徳秋水の激烈な熱弁を、堺利彦は「眼は電光を放ち舌は火炎を吐き」と表する
  02/17『平民新聞』第27号2ページに「社会党大会」が掲載される
     02/19続けて『平民新聞』第28号3ページにも「社会党大会」が掲載される
  02/19『平民新聞』第28号に日本社会党第2回大会の決議、田添鉄二と幸徳秋水の演説を掲載
     「田添鉄二氏の演説要領(一昨日社会党大会に於ける)」1ページ
     「幸徳秋水氏の演説(一昨日社会党大会に於ける)」2ページ
     社会の秩序を乱すものとして発売禁止を命じ、編集発行人の石川三四郎を起訴
     03/26石川三四郎が「日本社会党大会」事件で発行人として軽禁錮2か月、編集人として軽禁錮2か月の判決を受ける
     03/28検事が判決を不服として控訴したため入獄は延期に
  02/19前年7月13日に3度目の渡米をした片山潜がアメリカから帰国
     岩崎清七らの出資で大日本興農株式会社が設立され事業監督のため向かうが、テキサスの農場経営が中止となったため
  02/20山川均が『平民新聞』第29号1ページに論評「社会党大会の成蹟」を発表する
  02/22堺利彦と石川三四郎が本郷署から呼び出される。堺は都合がつかず石川のみが出頭
     話の内容は社会党則改正届け出の遅延に対するお叱り
     石川が退出しようとすると警部が呼び止め「是は少し御迷惑かも知れぬが」と1枚の用紙をさし出す
     「日本社会党主幹者  堺利彦 石川三四郎
      日本社会黨ハ安寧秩序ニ妨害アリト認ムルヲ以テ治安警察法第八條第二項
      ニヨリ其結社ヲ禁スル旨内務大臣ヨリ達セラレタリ 右傳達ス
       明治四十年二月二十二日 警視總監 安樂兼道 印」
     「日本社会党」が結社禁止を命じられる【内務大臣による通達?】
     「日本社会党」は1906(明治39)2月24日に「日本平民党」「日本社会党」が合併し合法政党として結成
  02/22管野すがの妹で21才になったばかりのひでが肺結核で死去
     02/23管野すがはひでの遺骸を落合村の火葬場で荼毘に付し代々木の正春寺に葬る
  02/22・23岐阜の高根山鉱山でストライキが起きる
  02/23赤羽厳穴が『平民新聞』第32号1ページに「現社会の三奴隷」を発表する
  02/23『平民新聞』第32号1ページに「欧洲の直接行動」が掲載される
  02/23管野すがが妹ひでの看病の疲れから寝込む
     診察の結果、肺結核と診断される
     病状ははかばかしくなく毎日電報より休暇をとり伊豆の初島に転地、療養につとめる
     08/頃伊豆初島での療養より帰る
     月給の艶が切れない程度に毎日電報に出社する
  管野すがの転地後荒畑寒村は京橋区檜物町の出版店金尾文淵堂に雇われ原稿とりや校正を手伝う
  02/24『平民新聞』第33号1ページに論評「治安警察法(上)」が発表される
     02/26『平民新聞』第34号1ページに論評「治安警察法(下)」が発表される
  02/24社会主義演説会で病欠の幸徳秋水からのメッセージを石川三四郎が代読する
  02/252月27日に平民社が発行する鈴木楯夫の『社会主義の話』が発売頒布禁止の処分を受ける
  02/25〜28宮崎の槇峯鉱山で紛争が起こる。警官と衝突
  02/『世界婦人』の同人が治安警察法の一部改正請願書を提出する
  02/日本社会党第2回大会を前に、大杉栄が日刊『平民新聞』に「欧州社会党運動の大勢」を発表
     直接行動派の名乗りをあげ幸徳秋水に同調する
  02/『家庭雑誌』の不振や語学教授の不振が重なり大杉栄、堀保子の生活が窮する
     東京府豊多摩郡淀橋町柏木に移る
     柏木界隈にはすでに堺利彦、幸徳秋水、山川均、森近運平、荒畑寒村らが住み、「柏木団」と呼ばれるまでに
  02/毛利柴庵の妻で数年病床にいたツネ子が24才で死去
  03/02『平民新聞』第38号1ページに無署名の論評「人民の中に」が発表される。じつは幸徳秋水の作
  03/04山崎今朝弥が平民社の幸徳秋水を訪ねる。幸徳おらず名刺を渡す
     「法学博士 医学博士 哲学博士 其の他種々 英米伊拉典に通ず 米国伯爵 山崎今朝弥 未婚者 財産合計百万弗」
  03/05片山潜が『平民新聞』第40号1ページに論評「労働者諸君に告ぐ」を発表
     03/07『平民新聞』第42号2ページに一労働者の筆名で「片山先生に告ぐ」が掲載される
     03/08『平民新聞』第43号2ページに片山潜が「一労働者に答ふ」を発表
     03/10『平民新聞』第45号2ページに一労働者の「再び片山先生に」が掲載される
  03/07北海道石狩国旭川町の日本陸軍の兵卒がストライキをおこす
     所属は日本陸軍第7師団野戦砲兵第9連隊第4中隊
     夜、8時半に37人が同盟して脱営
     理由は給養が不良で到底健康が保たないこと、所属士官三浦中尉の酷遇に堪えかねて
     旭川町千歳旅館にて酒を酌み痛飲快語に一夜を徹し示威運動の目的をはたす
     03/08午前5時、37人は悠々凱歌を謳い隊伍堂々と帰営する
  03/08栃木の大谷石山で賃上げのストライキが起きる
  03/10片山潜が『平民新聞』第45号1ページに論評「労働問題の前途」を発表する
  03/13『平民新聞』第47号1ページに論評「警官と同盟罷工」が発表される
  03/15『平民新聞』第49号から原子基の「北海道移民の悲惨」の連載がはじまる。初回は49号3ページ
     03/16第50号3ページ、03/19第52号3ページ、03/21第54号3ページの4回にわたり掲載
  03/15山口孤剣が『平民新聞』第49号3ページに「噫三月十五日」を発表する
  03/16治安警察法第5条改正請願が衆議院で可決する
     03/27貴族院で否決される
  03/20東京の上野公園で東京勧業博覧会がはじまる
     07/31最終日。680万人の見物客で賑わう
  03/21『二六新報』が「社会主義撲滅策」を報道。社会主義運動に対する政府や軍隊の強固な取り締まりを伝える
  03/21『平民新聞』第54号1ページに論評「日本の基督教(上)」が発表される
     03/22『平民新聞』第55号1ページに論評「日本の基督教(下)」が発表される
  03/23秀湖生が『平民新聞』第56号1ページに「直接行動の意義」を発表する
  03/23ロシアの無政府主義者クロポトキンが幸徳秋水に書簡を送る
  03/24白柳秀湖が『平民新聞』第57号1ページに「総同盟罷工の倫理」を発表する
  03/25宮崎滔天(寅蔵)らが1906(明治39)9月5日に創刊した『革命評論』が第10号で廃刊に
     中国とロシアの革命の元朝を紹介し革命を鼓吹。中国同盟会の機関誌『民報』を側面から援助するもの
  03/26石川三四郎が「日本社会党大会」事件で発行人として軽禁錮2か月、編集人として軽禁錮2か月の判決を受ける
     「日本社会党大会」は2月19日付日刊『平民新聞』第28号に掲載される
     03/28検事が判決を不服として控訴したため入獄は延期に
  03/26〜31荒畑寒村が『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」を連載する
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
     06/10『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23週刊『社会新聞』第4号5ページに「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  03/27山口孤剣が『平民新聞』第59号1ページに論評「父母を蹴れ」を発表する
     秩序壊乱の罪に問われる
     家族制度を批判したとして起訴、発売頒布の禁止命令を受ける
     04/06東京地方裁判所で第1審がはじまる
     「新兵諸君に与ふ」筆禍事件と同日裁判
     04/13「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の4月10日の上告により「父母を蹴れ」筆禍事件の裁判が先となる
     山口は軽禁錮3か月の判決を受ける
     石川三四郎は編輯人として軽禁錮3か月、発行人として同じく3か月の計6か月
     山口と石川は控訴を断念する
     04/25東京監獄に入獄する
     執筆者の山口弧剣と編輯兼発行者の石川三四郎
     1908(明治41)05/15石川三四郎が出獄。福田英子の家に同居する
     06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
  03/31大杉栄が日刊『平民新聞』第63号にピーター・クロポトキンの「青年に訴う」を訳載する
     04/01新聞紙条例に違反する朝憲紊乱として告発される
     『平民新聞』は発売禁止となる
     04/末訳者の大杉と発行兼編集人の石川三四郎に判決が下される
  04/01アメリカ、オークランドの「社会革命党」の機関紙で日英両語の新聞『革命』の第3号が発行。廃刊となる
     創刊は1906(明治39)12月20日【12/01?】
     11/03『暗殺主義』が発行される
  04/04片山潜が『平民新聞』第66号1ページに「社会雑感」を発表する
  04/05昭文堂が木下尚江の『飢渇』を発行する。定価45銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/05うしほ会が添田平吉の『平民あきらめ賦詩』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/06堺利彦、幸徳秋水が平民社財政難のため同社を退く
  04/06「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の被告山口孤剣が東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
     「新兵諸君に与ふ」は大杉栄の訳で1906(明治39)11月25日発行『光』第28号4ページに掲載
     フランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     山口は『光』第28号の編輯発行人。「父母を蹴れ」筆禍事件と同日裁判
     04/10倉富検事長が上告する
     05/31大審院で軽禁錮8か月、罰金100円を言い渡される
     山口は「父母を蹴れ」筆禍事件で入獄中。そのまま引き続きの在獄となる
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  04/07山口弧剣、大杉栄の送別会が平民社主催で開かれる
     前日の「新兵諸君に与ふ」の裁判で実刑判決が下り大審院で争うことなく入獄するため
     山口は「父母を蹴れ」の告発もあり上告を断念
  04/08山口孤剣が足尾事件で宇都宮の獄中にある西川光次郎を見舞う
  04/11堺利彦が自宅の小宴で山口と大杉夫妻の慰労につとめる
  04/12宮武外骨が吉岡哲夫、中井隼太、乾吉次郎、日野国明とともに「社会主義研究会」の設立
     宮武外骨は大阪で『滑稽新聞』を発行
     「平民社一派の極端なる社会主義を採らず穏健で実行のできる社会主義を主張」する
     研究会の顧問、『活殺』の編集人として東京から社会主義者の森近運平を招く
     05/15大阪の「社会主義研究会」が機関誌『活殺』を創刊
     編集は森近運平、発行資金は宮武外骨がだす
     執筆は森近、宮武のほか安部磯雄、島田三郎、大谷誠夫、河野広中、村松恒一郎などが寄稿
     発行後森近の「宗教の堕落」が会の綱領に反すると日野国明が強硬に異議
     研究会で内部分裂、社会主義研究会は解散し『活殺』は創刊号のみで廃刊に
     06/01組織をかえて新たに『大阪平民新聞』を創刊
  04/13東京裁判所が日刊『平民新聞』の発行禁止を宣告
    『平民新聞』は平民新聞社が同年1月15日に創刊
     04/14第75号を全紙赤版にして廃刊を宣言
  04/13片山潜が自派の同志と相談しキングスレー館に「労働奨励会」をつくる
     労働者の啓蒙と結束に役立て会員相互の親睦、扶助、修養をはかる目的
     05/01第1回演芸会が開かれる
  04/14山口孤剣が『平民新聞』第75号(最終号)1ページ「廃刊の辞」の下段に論説「君よ泣くこと勿れ」を発表する
  04/15午前10時、平民社社員が総出社。日刊平民新聞社の解散式が行なわれる
     社屋前には「暴横なる政府、遂に本紙の発行を禁止したり」と大書した真紅の大看板2枚がでる
     正午を期して悲壮な「埋棺式」が挙行される
  04/15救世軍の山室軍平が留岡幸助監修の雑誌『人道』に寄稿
     タイトルは「社会改良家としてのブース大将」
  04/15午後、救世軍のウイリアム・ブース大将がミネソタ号で横浜につく
     新橋停車場に特別の歓迎アーチが造られる
     駅前広場には2万人が集まり、日比谷公園では花火が打ち上げられる
     江原素六、島田三郎、尾崎行雄、大隈重信、徳富蘇峰、徳富健次郎ら朝野名士は礼を厚く迎える
     04/18東京市会議事堂にて歓迎会、尾崎行雄東京市長による歓迎レセプションが催される
     市長の歓迎の辞、東京市商工業有志を代表する渋沢栄一男爵、大隈重信伯爵と続く
     救世軍の山室軍平の通訳でブース大将が挨拶。山室は戦場書記官としてブースに付き添う
     夜、神田区三崎町の東京座で大演説会「救世軍の過去・現在及未来」が行なわれる。3千人の聴衆が集まる
     04/19西園寺公望首相を訪い、大隈の早稲田の私邸を訪問する
     04/20朝、イギリス代理大使に伴われ皇居の明治天皇に拝謁
     ブース大将は礼服でなく救世軍の制服のまま明治天皇にあう
     日本開闢以来、初めて基督教の伝道者が天皇にあう
     午後、小石川区大塚町の市立養育院を見舞い、王子飛鳥山の渋沢邸へ
     渋沢、清浦奎吾の発起による警察、監獄、慈善等関係者の歓迎会
     夜、神田区の日本基督教青年会館で救世軍人と軍友会で語る
     04/21日曜日の午後、2回にわたり救霊の大集会が催される
     04/22夕方、東京座で学生大会が開かれる
     大会が終わり、でてきたブース大将は会場に入れず立ち去りかねている学生を見つける
     大将は馬車から挨拶を数分する
     感激のあまり「ブース大将万歳」と叫ぶ者。人々が和す
     04/23大山巌元帥宅を訪問。東京市主催の歓迎会に元帥が出席した答礼
     海軍省に東郷平八郎を訪ねる
     夜、基督教青年会館での集会に出席する
     04/24朝、早稲田大学の校庭で1万人の学生に約1時間「生甲斐ある殉愛の生活」について語る
     夜、安部磯雄の発案で提灯行列が日比谷公園の音楽堂前で行なわれる
     04/25前橋へ。上毛孤児院に立ち寄る
     上毛孤児院は濃尾大地震の孤児救済のためキリスト教徒により創設される
     04/26宇都宮へ
     04/27仙台駅前広場には2万5千人。各地で昼夜の集会に語り歓迎をうける
     05/01横浜05/03名古屋へ
     05/04大阪府知事、市長ら数百人がプラットホームに出迎え
     駅前には1万5千人の群衆
     夜、商業会議所にて大阪市主催の歓迎会が行なわれる
     05/08午後、京都へ。各種集会の合間に同志社の原田学長を訪ね学生にも語る
     のち神戸へ。各種歓迎会が催される
     三ノ宮の救世軍水夫館で記者会見が行なわれる
     ブース大将が「私の生涯の事業は人を造ることである」と語る
     05/15岡山へ。駅前には1万人の群衆が到着を待つ
     地元紙はブースとともに、郷土の誇り山室軍平を誇らかに報じる
     05/16岡山孤児院で1千人の孤児に語る
     05/18岡山を発ち東京へ戻る
     05/23夜、東京神田区三崎町の東京座で送別の集会がもたれる
     明治学院総理の井深梶之助や基督教婦人矯風会会頭の矢島楫子らが送別の辞を述べる
     05/24ブースが横浜からミネソタ号で日本を去る
  04/25「父母を蹴れ」筆禍事件で執筆者の山口弧剣と編集兼発行者の石川三四郎が東京監獄に入獄する
     「父母を蹴れ」は1907(明治40)3月27日発行『平民新聞』第59号1ページに掲載
     家族制度を批判したとして起訴、発売頒布の禁止命令を受ける
     山口と石川は控訴を断念し福田英子らに見送られ入獄
     1908(明治41)05/15石川三四郎が出獄。福田英子の家に同居する
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  04/25隆文館が幸徳秋水の『平民主義』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/25関西教育新聞社の加藤虎雄が『関西教育新聞 第12号』を発行する
     04/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/28幸徳秋水が湯河原の天野屋で病気療養
  04/28、29北海道の幌内炭山で抗夫1200人が賃銀値上げを要求。争議が起こりストライキから暴動に発展
     放火、破壊の暴行を企てる。軍隊が出動し直ちに鎮圧される
  04/結成されたばかりのアジア諸国の亡命者組織「亜洲和親会」の会合に大杉栄が出席、演説をする
  04/末「青年に訴う」事件で起訴された大杉栄が軽禁錮1か月半の判決をうける
     05/29東京府北豊島郡巣鴨村の巣鴨監獄に入る。襟番号は1098
     06/08大杉栄が大審院で「新兵諸君に与ふ」に軽禁錮4か月、罰金50円の重刑を言い渡される
     前刑から引き続き服役
     11/11巣鴨監獄から出獄する
  04/末「青年に訴ふ」事件で発行人として軽禁錮1か月半、編集人として軽禁錮1か月半の判決を受ける
     石川は判決を不服として控訴する
  04/芝区新網町北18番地に東京市直営の芝浦特殊尋常小学校が開校する
  04/欧文工の蜂岸正次郎、古川常次郎、野本正吉らの提唱で欧文植字工組合「欧友会」が生まれる
     のち1年もたたないうちに東京の欧文工のほとんど全部が加入
     のち横浜、神戸、長崎などにわたり、会員350人に
     「欧友会」は労資協調主義をとり、学者や名士と交渉をもたない労働者だけの組合
     1910(明治43)07/各印刷会社との間にクローズドショップの契約を結ぶ
     秀英舎、築地活版所、国文社、東京印刷株式会社、三秀社、一色印刷
     1911(明治44)07/築地活版所のストライキで組合の金子清一郎が治安警察法第17条で起訴
     さらに罷業資金の件で紛争を重ねることに
     のち波瀾があるもかろうじて勢力は維持する
     1914(大正03)09/頃第1次世界大戦のあおりをうけ横浜の外字新聞が廃刊に。外国人は帰国し商店が閉鎖となる
     欧文印刷は閑散となり欧友会は致命傷を負うことに
     1915(大正04)10/欧友会の第9回総会が開かれ、機関誌の発行停止を決議し会務の執行を中止することに
     1916(大正05)10/31欧友会最後の大会が開かれる
     参会者50人は会の活性化を意図して欧友会を解散し、直ちに欧文植字工組合「信友会」の創立について協議
     11/03新たに欧文植字工組合「信友会」が組織される
     1917(大正06)04/欧文植字工の組合「信友会」の発会式が盛大に行なわれる
  04/〜05/片山潜がキングスレー館の仕事として労働奨励会や奮学会(新聞売子や苦学生)を組織する
  05/05足尾銅山で拘束され宇都宮監獄で未決監生活を3か月送った西川光次郎が出獄する
  05/08幸徳秋水が「Social General Strike」を完訳する
  05/10幸徳秋水と堺利彦が西川光次郎と片山潜に対して「一緒に提携して新聞をだしたらどうか」と勧める
     のち18日までに3回の会見がもたれる
     片山、西川の共同事業で週刊『社会新聞』が発行されることに
     のち吉川守圀が書肆隆文館を辞め、仲間に加わることに
     同人は片山、西川のほか神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、吉川の6人に
  05/20京華堂書店が原真一郎の『舶来乞食』を発行する【原霞外?】
     1910(明治43)12/23発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/22也奈義書房が岩本無縫篇の『煩悶記』を発行する
     内容は藤村操が生き延びて書いたとする偽書
     藤村は自殺未遂ののち下山、海賊船で世界をめぐりパリで悟りを開く。それまでのことを原稿にまとめて知人に託す
     05/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/24来日していた救世軍のウイリアム・ブース大将が横浜からミネソタ号で日本を去る
     日本上陸は4月15日。全国をまわり講演する
  05/25石川三四郎が牛込区富久町の東京監獄から北豊島郡巣鴨村の巣鴨監獄に移される
     まもなく別棟第11監の独房に入れられる
     左隣に山口孤剣が、右隣に大杉栄が入獄
     石川の襟番号判決773
  05/28平民書房が金子喜一の『海外より見たる社会問題』を発行する
     編集は熊谷千代三郎。定価40銭、郵税4銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/30幸徳秋水宛にピーター・クロポトキンから『麺麭の略取』の翻訳を許諾する旨の親書が届く【07/初?】
     すぐ訳に取りかかり30枚ほど書く
     08/社会主義夏期講習会の準備や開催で多忙に
     09/社会主義金曜講演の発起で落ち着かない状況
     10/病気療養を理由に東京を引き払い故郷の高知中村の親戚へ寄食する
     1908(明治41)01/中本格的に訳稿に取りかかる
     07/中すべての訳が完成する
  05/森田草平と生田長江が「金葉会(閨秀文学会)」を設立する
     通俗平易に内外の文芸を講述して一般の婦女子に文学趣味を鼓吹し、兼て女流文学者を養成する目的
     夏/九段中坂下のユニヴァーサリスト教会で女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開く
     与謝野晶子、馬場孤蝶、森田草平、生田長江、赤司繁太郎らが講義
     聴講生には大貫かの子、青山菊栄、平塚明らの姿も
     【7月に打ち切られる? 年内に閉講?】
  05/安部磯雄が早稲田大学教授に嘱任される
     1927(昭和02)01/教授を退職
  05/和歌山の麻生津鉱山で労働者が暴動を起こす
  06/01大阪平民社より『大阪平民新聞』が創刊される
     森近運平が大阪で『滑稽新聞』を発行していた宮武外骨から5千円の資金の提供を得て創刊。直接行動派の社会主義新聞
     宮武は「自分は社会主義者という訳ではないが、極端なる社会主義は政府を恐喝(きょうかつ)するの用に適す」と称し援助
     発行所/上福島町3の185の大阪平民社、印刷所/岩城印刷所、発行/月2回
     発行兼編集人/森近運平、印刷人/南不●【穴の下に瓜が2つ】夫
     定価/1部5銭、12部前金・半年55銭、24部前金・1年1円5銭
     体裁/菊倍判、紙幅/縦=約31糎弱、横=約22糎強、頁建/原則16頁
     11/05第11号で『日本平民新聞』と改題
     1908(明治41)05/05第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
     05/07夜、森近が曽根崎署に拘引
     05/08森近が堀川監獄に送られる
     05/14午前9時、大阪地方裁判所刑事第2部で公判が開廷。検事は禁錮と発行停止処分を申請
     05/19発行並びに編集人として森近に合計60円の罰金の判決が下る。体刑と発行禁止は免れることに
     05/202ページの「休刊の号外」を発行し暫時休刊の旨を発表
     大阪平民社を閉じ本社を東京府下淀橋町柏木926番地の山川均宅に移す
     のち森近は病気で紀伊国新宮町の大石誠之助方へ転地保養することに
     のち同志の経済的ひっ迫により同紙の再起はならず
  06/02片山潜、西川光次郎のほか神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、吉川守圀が社会新聞社より『社会新聞』を創刊
     議会政策派の機関紙で社会政策主義の傾向。社会主義の中央機関として
     発行所/神田区三崎町3の1日本大学裏の片山潜宅 社会新聞社、発行/週刊
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭(税共)
     体裁/四六倍判、頁建/8頁
     のち断続的に発行
     のち「愛国的平民主義」の名に隠れて命脈を維持
     1908(明治41)04/25田添鉄二の死により第43号より月刊となる
     1911(明治44)08/03第80号で廃刊となる
  06/02『大阪平民新聞』『社会新聞』の発行で軟派と硬派の分別が顕著にあらわれる
     軟派…(社会新聞)片山潜、西川光次郎、神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、田添鉄二ほか
     硬派…(大阪平民新聞)幸徳秋水、堺利彦、森近運平、山川均、大杉栄、荒畑寒村ほか
  06/02『社会新聞』が主催の「社会主義研究会」が毎週開かれることに
  06/04〜09四国の別子銅山の全抗夫約200人が待遇問題に対する不平から大挙、暴動を起こす
     凶器を携え鉱業所、社宅、消防屯所などを襲撃。火を放ち鎮撫につとめた警察官を殺傷
     のち事態が重大化。丸亀の歩兵第43連隊から1個中隊を派兵して鎮定する
  06/05『滑稽新聞』第140号から森近運平の論説が掲載される
  06/05金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     1908(明治41)01/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行する
     1908(明治41)05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     1910(明治43)09/14金尾文淵堂版の上篇、梁江堂版の下篇と上篇が発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/10荒畑寒村が『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23『社会新聞』第4号5ページに荒畑寒村の「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  06/15山川均が『大阪平民新聞』第2号12〜13ページに「別子銅山騒擾事件の教訓」を発表する
  06/16『社会新聞』第3号1ページに「暴動の原因」が掲載される
  06/16片山潜が『社会新聞』第3号4ページに「団結と罷業の自由」を発表する
  06/20松尾卯一太、新見卯一郎が中心となり『熊本評論』が創刊される
     タブロイド8ページで月2回刊の新聞。発行所は熊本評論社。発行兼編集人は新見卯一郎、資金担当は松尾卯一太
     松尾卯一太、新見卯一郎のほかには田村次夫、松岡貞三などがいた
     のち東京の直接行動論者が盛んに寄稿するようになる
     1908(明治41)09/20赤旗事件の報道などで筆禍を受け赤刷りの第31号をもって終刊に
     【1908(明治41)07/20第27号に赤旗事件の14人を救援する寄付金募集のアピールが新聞紙条例に問われる
      08/17被告の松尾に罰金80円、『熊本批評』は発行禁止に】
  06/23片山潜が『社会新聞』第4号1ページに「労働者向上の途」を発表する
  06/25片山潜、田添鉄二の2人名義で「日本社会平民党」を届出る
     幸徳秋水になんら相談することもなく届出る
     憲法の範囲内に於て社会主義を主張し、労働者の当然享受すべき権利の拡張を図る穏健なもの
     06/27禁止となる
  06/25西川光次郎らが「日本社会党」を届出るが禁止となる
  06/25うしほ会が添田武子(唖蝉坊)の『魔風』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/29木下尚江が栃木県の旧谷中村を訪れる
     遊水池を建設する名目で強制立ち退きを執行、強制破壊を開始する初日
  06/『家庭雑誌』の発行人が、大杉栄、堀保子夫妻から平民書房の熊谷千代三郎にかわる
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     08/第5巻10号の全54冊で廃刊になる
     1909(明治42)04/大杉の妻堀保子が「家庭雑誌」を復刊する
  07/01『大阪平民新聞』第3号1ページ掲載の「更に一歩を進めよ」が筆禍に
  07/011906(明治39)3月31日の鉄道国有法の施行をうけて、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため私鉄を国有化
     九州鉄道(門司〜八代、鳥栖〜長崎、他)、北海道鉄道(函館〜小樽)
     08/01京都鉄道(京都〜園部)、阪鶴鉄道(尼崎〜福知山)、北越鉄道(直江津〜新潟)
     09/01総武鉄道(両国橋〜銚子)、房総鉄道(千葉〜大原)、七尾鉄道(津幡〜矢田新)、徳島鉄道(徳島〜船戸)
     10/01関西鉄道(名古屋〜湊町、加茂〜大阪、王寺〜和歌山、他)、参宮鉄道(津〜山田)
  07/07田添生が『社会新聞』第6号1ページに「第二平和会」を発表する
  07/11岡山の吹屋銅山、愛媛の西ノ川銅山でストライキが起きる
  07/11〜13岡山の吉岡鉱山で賃上げストライキが起きる
  07/15『大阪平民新聞』第4号1ページに「憲法遵守の拒絶」が掲載される
  07/15森近運平が『大阪平民新聞』第4号4〜5ページに「大阪巡航会社の亡状」を発表
     08/01第5号4ページ、08/20第6号4ページにも続けて掲載
     のち大阪平民社の森近と小野木守一、百瀬晋が治安警察法違反で拘引、起訴される
     10/21大阪地裁で森近に重禁錮1か月、罰金3円の判決
     のちただちに控訴
     1908(明治41)02/17大阪控訴院で重禁錮15日、罰金2円に減刑
     のち大阪監獄に下獄
     入獄に際し発行人変更の手続きをとらず10円の罰金刑を受けることに
  07/18夕張炭鉱で紛議とストライキが起きる。26人が解雇に
  07/21長岡の新聞記者が発起人となり片山潜が越後長岡遊説を行なう
  07/27時局諷刺週刊誌『団団珍聞』がこの日発売の号で一時休刊に
     「団団珍聞」は1877(明治10)2月25日に創刊
     のち月刊誌として復活する
     1908(明治41)1月号で終刊となる
  07/28平民書房が持原皿山の『弱者』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/28片山潜が『社会新聞』第9号4ページに「職工の待遇問題」を発表する
  07/30石川三四郎が日刊『平民新聞』掲載の「日本社会党大会」事件と「青年に訴ふ」事件でいずれも控訴棄却の判決を受ける
     検事は「日本社会党大会」事件に関し、なおも不服として上告する
  08/01山川均が『大阪平民新聞』第5号1ページに「社会政策と社会主義鎮圧(上)」を発表する
     08/20『大阪平民新聞』第6号11ページに「社会政策と社会主義鎮圧(下)」を発表する
  08/01宇都宮地方裁判所で足尾暴動事件の公判はじまる。南助松に対して審問が行なわれる
     被告は暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバー
     08/02公判で永岡鶴蔵に対する審問が行なわれる
     09/07宇都宮地方裁判所休暇部裁判長判事の宮本力之助が判決を言い渡す
     足尾騒擾事件の第1審判決。南、永岡以下8人は無罪に。他22被告に1〜12年の有期刑の判決が下る
     8人は井守伸午、林小太郎、山本利一郎、國本浅五郎、大谷由太郎、山中金五郎、山本久吉、山口榮太郎
     裁判では至誠会が暴動を示唆したとする検察の主張は認められず
     暴動が発展した直接のきっかけは、飯場頭による労働者側への挑発
     のち検事が控訴する。永岡、南、井守、林、山本など首魁、教唆者の身柄が東京に移される
     12/14控訴院公判がはじまる
  08/01〜10東京九段下のユニテリアン教会で議会政策派と直接行動派が連合で社会主義に関する夏期講習会をを開く
     【九段下のユニヴァサリスト教会の講堂をかりて】
     毎晩7時からの3時間。発起人は片山潜。聴講料は1回10銭、10回分80銭
     「社会主義倫理学」幸徳秋水【「道徳論(法律道徳論)」? 「法律論、道徳論」?】
     「社会主義の歴史」田添鉄二【「社会主義史」?】
     「社会の起源」堺利彦
     「社会主義の経済学」山川均
     「ストライキの話」西川光次郎【「同盟罷工の話」?】
     「労働組合運動の歴史」片山潜【「労働組合論」?】
     聴講者は毎夜80余人、東京の同志のほか千葉、茨城、秋田、長野、新潟などからきた者も少なくなく
     議会政策派、直接行動派が協同で開催するも都合よく会合を利用しようと競い合い、両派の離間を広げるだけに
     議会政策派と直接行動派の2派が協力した最後の機会となる
  「社会主義夏期講習会」の懇親会が『大阪平民新聞』の森近運平の来京を機に角筈十二社の梅林亭に開催される
     来会者40余人、山川均、田添鉄二、森近運平と幸徳秋水の演説、福田英子の二弦琴の弾奏がありすこぶる盛会に
  「社会主義夏期講習会」中、議会政策派と直接行動派の主張が尖鋭化
     山川均は労働組合絶対非認説を主張、対して片山潜や西川光二郎は労働組合鼓吹論で対抗する
     幸徳秋水はクロポトキンの無政府主義道徳を講義
     田添鉄二は近世社会主義史を講義、無政府主義と社会主義との分裂が必然的であることを論じる
     のち分派の対立は多くの誠実な同志を思想的に混乱させ運動を遠ざかる者も
  08/05隆文館がレオ・ドウヰツチ著の『革命奇談 神愁鬼哭』(露國革命奇談神愁鬼哭)を発行する
     幸徳秋水の訳。定価40銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/06森近運平が大阪の堀川監獄を出獄し上京。森近の歓迎会をかねた懇親会が淀橋十二社の梅林亭で開かれる
     午後1時開会、田添鉄二、幸徳秋水、森近が廊下の手すりにもたれ挨拶
     参集の同志は庭で会費7銭の折詰弁当を食べる。弁天池で泳いだり滝に打たれたり、辺りを散歩したり
     吉見写真店主の厚意で一同の記念撮影をして散会に
  08/11金尾文淵堂が堺利彦の『婦人問題』を発行する。定価40銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/11片山潜が『社会新聞』第11号6ページに「労働問題の発達」を発表する
  08/頃管野すがが伊豆初島での療養より帰る
     妹ひでの看病の疲れから寝込み診察の結果、肺結核と診断される
     2月、病状ははかばかしくなく毎日電報より休暇をとり伊豆の初島に転地、療養につとめる
     月給の艶が切れない程度に毎日電報に出社する
  08/18加藤時次郎がシュトゥットガルトで開催中の第二インターナショナルに日本代表として参加。〜8月24日
     加藤時次郎はヨーロッパの医療事情の視察中
     現実的な社会改良主義の必要性を痛感して帰国
  08/19英国独立労働党の党首ケアー・ハーディ(51)が世界漫遊の途上に来朝
     【07/18? 08/21? 08/22? 来朝日? 講演日? 歓迎会日? 大病後の療養旅行の道すがら?】
     旧知の片山潜の案内で新聞社などを訪ねる
     08/22日本の社会主義者100余人集まり、午後2時から神田区の錦輝館で両派合同の歓迎会を開く【150人?】
     田添鉄二が歓迎のあいさつを述べ、席上1時間半に及ぶ演説を行なう
     ハーディはで議会行動の必要を力説する。通訳は片山潜
     独立労働党ができたとき、エンゲレスが「これこそマルクスや自分が考えていた社会主義の政党だ」と賞賛した話をする
     幸徳秋水、山川均、幸徳千代子、堺真柄、深尾韶、野沢重吉、荒畑寒村、守田有秋、渡辺政太郎、椎橋重吉、
     藤田貞治、堀保子、堺為子、福田英子、管野すが、岡千代彦、幸内久太郎、逸見斧吉、安中逸平、堺利彦、
     宇都宮卓爾、片山潜、富藤某、添田平吉、築比地仲助、西川光次郎、柴田三郎、田添鉄二ら
     のちハーディは野沢重吉の俥で鮫ケ橋の貧民窟や鐘ケ淵の工場などを観察。堺と片山宅でそれぞれ1泊
     のち議会行動派と直接行動派の論争の火種となる
     09/05幸徳秋水は『大阪平民新聞』第7号8ページの「東京の社会運動(第1信)」のなかで反対意見を述べる
     「ハーディの演説に賛成したわけではない」と反論
  08/20議会政策派(軟派)の片山潜、田添鉄二、西川光次郎らが相談
     「社会主義同志会」を結成、組織することに【08/28?、08/31?】
     「我々は萬国社会党の主義綱領に則って進ものなる事」をあらためて宣言
     硬派直接行動派と事実上の分裂、別行動の意志を明らかにする
     毎週日曜日に研究会を開き、出版や全国遊説のプランを立てる
     メンバーは赤羽、渡邊、幸内、野沢、神崎、西川、片山、藤田(四郎)、田添、座間、斎藤、松崎、吉川ら
     のち「金曜会」とのあいだに絶えず分派争いが繰り返される
     のち西川が本郷に住み新聞社から本郷団と呼ばれるようになる
     対して硬派の「金曜会」は堺利彦が淀橋柏木に住み柏木団と呼ばれる
  08/20『大阪平民新聞』が第6号13ページの紙上で「唱歌を募る」を掲載
     「富の鎖」では歌詞が温和すぎ直接行動論とは釣り合わず、もっと威勢のいいものが欲しくなる
     選者は幸徳秋水、堺利彦、深尾韶の3人、懸賞はなし
     09/05第7号1ページに「唱歌募集」
     のち締め切りの9月末が過ぎても発表はなく
     1908(明治41)01/01『日本平民新聞(旧大阪平民新聞)』第15号11ページに入選作3編を発表
     応募は10数作。選者は幸徳、深尾が病のため故郷に帰り堺のみ
     入賞は城山の「白雨下る」、岳南生の「赤旗」、築比地仲助の「革命の歌」
     築比地は革田命作の名で応募。選者の堺利彦が築比地仲助の名で発表
     「革命の歌」には一部伏せ字あり
     のち「革命の歌」を掲載した理由で発売禁止に
     のち添田唖蝉坊が「革命の歌」の歌詞を組み替えうたい広める
     メロディは第一高等学校、第12回記念祭寮東寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」
     のち禁止になったことで逆に、こぞってうたわれるようになる
     それまでうたわれていた「社会主義の歌」は、さっぱり影をひそめる
  08/25荒畑寒村の『谷中村滅亡史』が平民書房より発行される
     荒畑20才のときの処女出版。四六判・並製、本文174ページ(口絵写真1葉、序文9ページ、目次3ページ)。定価35銭
     発行を急ぎすぎ章立てや誤字脱字、同音異字など編集がずさんで校正のないままの発行となる
     谷中村事件は「資本家と、政府と、県庁と、結托共謀せる組織的罪悪」と断言する
     08/25同日に発行禁止に。発禁になった原因と思われる個所は「結論」の最後の1行
     「平民の膏血を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭(こうべ)を飾らしめよ」
     荒畑は初版の自著を手元に置くこともできず
     のち秋頃、「結論」の最後の1行のページ切り取った異本が発行される
     前ページの「あゝ悪虐なる政府と、暴戻なる資本家階級とを絶滅せ」のあとに「よ。」を手押しして加える
  08/288月29日に同志出版会が発行する深尾韶の『車夫諸君に申す』が発売頒布禁止の処分を受ける
  08/30〜09/10兵庫の生野銀山でストライキが起きる
  08/31第1回社会主義講習会が開かれる。幸徳秋水が講演
     牛込区清風亭にての在京支那学生社会主義の講習会
     09/15第2回社会主義講習会が開かれる。堺利彦が講演
     09/22第3回社会主義講習会が開かれる
     10/06第4回社会主義講習会が開かれる。山川均が講演
     11/10第5回社会主義講習会が開かれる。大杉栄が講演
     11/24第6回社会主義講習会が開かれる。大杉栄が講演
     12/08第7回社会主義講習会が開かれる。山川均が講演
     12/22第8回社会主義講習会が開かれる。大杉栄が講演
  08/下旬『谷中村滅亡史』の発禁を知った田中正造は「少し芥子がきき過ぎましたね」と感想をもらす
  08/下旬渡良瀬川の堤防の上に避難していた谷中村の島田宗三宅に発禁になった『谷中村滅亡史』の1冊が届く
     無事、田中正造の手に渡される
  08/野沢、片山、西川の3人が発起人となり老俥夫救済会を組織、反対運動をはじめる
     55才以上の老俥夫の鑑札を警視庁が取り上げるのに反対するもの
     老人が牛馬のように働いている姿は見るに堪えないとして営業禁止令を10月15日から実施するもの
     吉川守圀の宿所を事務所としてチラシを作成
     08/30第1回老車夫問題演説会が開催される
     野沢重吉、西川光次郎らが演説
     のち警視庁はその非を悟り庁令を撤回。老俥夫の勝利となる
  09/01長岡遊説の成功に気をよくした『社会新聞』が第14号2ページで全国遊説の計画を発表
     「吾等は全国各地に向って社会主義遊説の必要を感じ、明年より向ふ二三年間吾等の主力を遊説に注がんと決心した」
     1908(明治41)06/15『社会新聞』第45号5ページに片山潜が「全国の同志に訴ふ」を書く
     「遊説にては到底主義伝道の望み」はないとの結論に達し「貴重なる時間と多大なる運動費を要する遊説」は一時中止と訴える
  09/05幸徳秋水が『大阪平民新聞』第7号8ページに「東京の社会運動(第1信)」(8月23日記)を発表する
     「ハーディの演説に賛成したわけではない」と反対意見を述べる
     09/20『大阪平民新聞』第8号2ページに「東京の社会運動(第2信)」(9月12日記)を発表する
     10/05『大阪平民新聞』第9号1ページに「東京評論(第3信)」(9月25日記)を発表する
     10/20『大阪平民新聞』第10号9ページに「東京評論(第4信)」(10月13日記)を発表する
     11/05『大阪平民新聞』第11号5ページに「東京評論(第5信)」(10月22日記)を発表する
  09/06直接行動派(硬派)の幸徳秋水、山川均、堺利彦らにより「金曜会」が組織
     (第1回)金曜演説会を開き社会主義同志会とは別の会合をもつことに
     メンバーは堺、幸徳、山川、守田、宇都宮、佐藤、戸恒、森岡、坂本、荒畑、竹内(善)、大杉、管野ら
     のち「社会主義同志会」とのあいだに絶えず分派争いが繰り返される
     のち堺利彦が淀橋柏木に住み新聞社から柏木団と呼ばれるようになる
     対して軟派の「社会主義同志会」は西川光次郎が本郷に住み本郷団と呼ばれる
     09/13第2回金曜演説会が開かれる
     09/20第3回金曜演説会が開かれる
     10/04第4回金曜演説会が開かれる
     10/11第5回金曜演説会が開かれる
     10/18第6回金曜演説会が開かれる。幸徳秋水の送別会
     10/25第7回金曜演説会が開かれる
     11/01第8回金曜演説会が開かれる
     11/08第9回金曜演説会が開かれる
     11/15第10回金曜演説会が開かれる。大杉栄の出獄歓迎
     11/22第11回金曜演説会が開かれる
     11/29第12回金曜演説会が開かれる。荒畑寒村、白柳秀湖の入営送別
     12/06第13回金曜演説会が開かれる
     12/13第14回金曜演説会が開かれる
     12/20第15回金曜演説会が開かれる。中止解散
     12/27第16回金曜演説会が開かれる
     1908(明治41)01/03第17回金曜演説会が開かれる。新年会
     01/10第18回金曜演説会が開かれる
     01/17第19回金曜演説会が開かれる。中止解散。金曜会屋上演説事件
     03/13第20回金曜演説会が開かれる。竹内善朔、森岡永治、坂本清馬出獄。中止解散
  09/08『社会新聞』第15号1ページに無政府主義を批判する片山潜の「社会主義鄙見る(上)」が発表される
     09/15続けて第16号4ページに「社会主義鄙見る(下)」が発表される
  秋/荒畑寒村が堺利彦の斡旋で堺の旧友吉弘白眼が社長をつとめる『大阪日報』に入社
     第1面の編集を手伝う
     かたわら森近運平の『大阪平民新聞【日本平民新聞?】』の事務を手伝う
     1908(明治41)春/大阪日報を退社、帰京する
  秋/「金葉会(閨秀文学会)」の生田長江の勧めで平塚明が編集する回覧雑誌が完成
     【1908(明治41)01/?】
     平塚が初めての小説「愛の末日」を発表する
     回覧雑誌は1回きりで立ち消えとなる
     1908(明治41)01/平塚明が森田草平から「愛の末日」の批判の手紙を受ける
     きっかけとして平塚と森田の交際が急速に深まる
  10/01隆文館が白柳秀湖の『離愁』を発行する。定価38銭
  10/02〜12片山潜が「脳を使うな」との医師のすすめで伊豆の温泉に静養する
  10/03片山潜が渡米協会と出版協会から『万国社会党』を刊行
     渡米協会は神田区三崎町3の1、出版協会は神田区五軒町20
  10/04第4回金曜演説会が開かれる
     第1回は1907(明治40)9月6日
     10/11第5回金曜演説会が開かれる
     10/18第6回金曜演説会が開かれる。幸徳秋水の送別会
     10/25第7回金曜演説会が開かれる
     11/01第8回金曜演説会が開かれる
  10/09電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
     藤沼裁判長に係り金子検事立ち会いで開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
     10/11第2回控訴公判
     10/18第3回控訴公判。裁判長が転任のため開廷せず
     10/21第4回控訴公判
     10/30第5回控訴公判。傍聴席には足尾銅山の鉱毒事件を告発した田中正造の姿も
     11/13第6回控訴公判
     11/25東京控訴院の2審裁判が再び無罪判決を言い渡す
  10/18金曜講演会第6回の例会が病気静養のため帰郷する幸徳秋水の送別会に。90人が集まる盛大な別れの会に
     硬派の同志はもとより軟派の片山潜、田添鉄二も顔を見せる
     また中国の革命家の張継、インドのス・ホーレスなども出席
          ↓同じ? べつ?↓
     10/20病気静養のため帰郷する幸徳秋水の送別会が神田区の吉田屋で開催
      片山潜が私情を離れ出席、送別の辞を述べる
  10/20森近運平が『大阪平民新聞』第10号4ページに「通俗講話 労働者の誤解」を発表する
  10/25共同出版組合が西川光次郎の『ケヤ、ハーデーの演説』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/27病気療養を理由に幸徳秋水が母多治、妻千代子を連れ故郷の高知中村に帰省。東京を発つ
     幸徳の持病の慢性腸加答児(カタル)と妻の瘻麻質斯(リウマチス)の病状が悪く、療養も生活もできなくなる
     のち富山、大阪、別府に立ち寄り中村に着いたのは11月24日
     のち赤旗事件や内閣の総辞職から新内閣成立にいたる状況下、次々に上京を促す手紙が舞い込む
     1908(明治41)07/21単身、中村を発つ
  10/28日高有倫堂が田岡嶺雲の『霹靂鞭』を発行する
     10/30発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/救世軍の出獄人救済所が牛込区赤城下町87に移り「救世軍労作所」となる
     出獄人救済所は1896(明治29)10月26日に小石川区音羽町に開設
  10/堺利彦が有楽社と『平民科学』6冊の叢書の発行を取りつける
     全巻翻訳もの。麹町有楽町3の1の有楽社を同叢書の発行所に
     四六版200ページほど。定価は1冊30銭、全6冊前金1円60銭
     有楽社は北沢楽天の漫画雑誌東京パックの発行所
     1、3編は堺の編集。2、4、5、6編はそれぞれの著述に堺が編集
     11/17第1編は堺利彦の「人間発生の歴史」
     12/01第2編は山川均の「植物の精神」
     1908(明治41)06/05第3編は堺利彦の「男女関係の進化」
     あわせて第4編は山川均の「動植物の道徳」を発行
     08/06第5編は志津野又郎の「地球の生滅」
     あわせて第6編は大杉栄の「万物の同根一族」を発行
     1910(明治43)09/03堺利彦の第3編「男女関係の進化」が発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/01第8回金曜演説会が開かれる
     第1回は1907(明治40)9月6日
     11/08第9回金曜演説会が開かれる
     11/15第10回金曜演説会が開かれる。大杉栄の出獄歓迎
     11/22第11回金曜演説会が開かれる
     11/29第12回金曜演説会が開かれる。荒畑寒村、白柳秀湖の入営送別
     12/06第13回金曜演説会が開かれる
  11/03桑港の邦人社会主義者により組織する「社会革命党」『暗殺主義』第1巻第1号を発行
     「暗殺主義」と題する長文の「明治天皇への公開状」を公表
     ビラはタブロイド版ミネオクラフ印刷
     内容は「日本皇帝睦仁君足下に与う」と題した明治天皇への公開質問状
     天皇は神ではないサルの子孫であると説き起こす
     檄文の起草は社会革命党員竹内鉄五郎で小成田恒郎が教唆、岩佐作太郎や倉持善三郎も関係
     印刷物は桑港の主要な建物などに貼りだされる
     日本領事館の正面玄関のポーチや周辺のオークランド、バークレーの日本人街の学校、銀行、集会所など
     のちアメリカ社会党の機関紙『コール』が全文を掲載する
     のちビラはさまざまなルートから日本内地の社会主義者らにも密送される
  11/03社会主義同志会大会で「従来より執り来りたる万国社会党の主義綱領を以て進むものなること」を宣言
     あわせて「あらゆる無政府主義的傾向」に反対する
  11/03幸徳秋水が東京から郷里の高知中村に帰る途中、大阪の同志と茶話会をもつ
  11/03平民書房が相沢●【熈の左上がノでなくン】の『ガボン長老自叙伝』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/05森近運平が大阪で1907(明治40)6月1日に創刊した『大阪平民新聞』が第11号で『日本平民新聞』と改題
     1908(明治41)05/05第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
  11/05堺利彦と幸徳秋水が連名で『日本平民新聞』第11号10〜11ページに「社会新聞と小生等との関係」を発表
  桑港の日本領事館が『暗殺主義』の印刷物の作成もとを調査する
     幸徳秋水が訪米の際に結成された社会革命党の竹内鉄五郎が起草し小成田恒郎が教唆したもの
     【岩佐作太郎や倉持善三郎も関与?】
     のち報告を受けた日本の外務省や内閣警保局があわてる
  11/08大騒動のさなか、カーン資金による米英外遊中の帝国大学教授で国際法学者の高橋作衛が桑港へ
     邦人の新聞記者や領事館のスパイ川崎巳之太郎や巽鉄男から不敬事件の全貌を聞く
     のち高橋は情報を帝国大学教授の穂積陳重を経て元老山県有朋にやや誇大に報告する
  大杉栄が出獄する以前山口孤剣が病監に移され孤独で厳寒を迎える
  11/10出獄してすぐの大杉栄が牛込区赤城元町の清風亭での第5回社会主義講習会に招かれ講演
     【大杉の出獄は11月11日?】
     講習会は劉師培、張継ら在日中国人による
     バクーニンの連邦主義によりつつ欧州連邦、米国連邦、東洋連邦の結成による世界の平和を提起する
  11/11「新兵諸君に与ふ」と「青年に訴う」の筆禍事件で入獄していた大杉栄が巣鴨監獄から出獄する
     【大杉は11月10日の第5回社会主義講習会で講演?】
  11/11由分社が堺利彦の『社会主義大意 附社会主義書類一覧』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/12片山潜が主筆となる『渡米』が創刊される
  11/17『社会新聞』第25号の発行で社会主義運動の軟派硬派の分裂が決定的なものになる
     田添鉄二が2ページに「社会党・無政府党 分裂の経過」を発表する
     片山潜が3ページに「自然の結果(幸徳 堺両君と予の立場)」を発表する【本紙では5ページ(まちがい)】
     西川光次郎が4ページに「幸徳、堺両氏に答え、併せて其の弁明を求む(上)」を発表する
     5ページに「幸徳、堺両氏に答え、併せて其の弁明を求む(下)」が載る
  11/20禄亭生が『日本平民新聞』第12号5ページに「ストライキ論」を発表する
  11/20山川均が『日本平民新聞』第12号から「通俗講話 同盟罷工の話」の連載を開始
     11/20第12号4ページ(1)、12/05第13号4ページ(2)、12/20第14号4ページ(3)
     1908(明治41)01/01第15号4ページ(4)、01/20第16号4ページ(5)
     1908(明治41)01/20『日本平民新聞』第16号まで5回にわたり連載
  11/20鶏声堂が堺利彦と森近運平の共著『社会主義綱要』を発行する。定価40銭
     序 第1章 社会の経済的基礎 第2章 生産方法の変遷 第3章 現代経済論 第4章 社会主義の主張
     第5章 社会主義と農業 第6章 社会主義と婦人 第7章 社会主義富者(付・中等社会)
     第8章 社会主義と国際戦争 第9章 社会主義の反対論 第10章 社会主義略史 第11章 社会主義運動の現状
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/22在京社会主義者有志の協議会が分派問題に関して片山、西川派と幸徳、堺派の感情的な対立反対を決議する
  11/25電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する東京控訴院の2審裁判が、再び無罪判決を言い渡す
     のち検事局河村善益検事長は控訴院での無罪判決を不当としてさらに上告。大審院は検事局の不当請求を認め受理
     1908(明治41)01/28大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
  11/28原霞外と信州傍陽村出身の半田一郎が長野遊説を行なう
     11/30この日まで
  11/救世軍の「学生寄宿舎」が神田区三崎町2丁目11に移り「大学植民館」に改造される
     「学生寄宿舎」は1906(明治39)1月、神田区一ツ橋通りに開設
  12/05西川光二郎、添田唖蝉坊の2人が東北、北海道の遊説へ。午後7時35分の汽車で上野を出発
     各所で演説会を催す
     12/11夜6時半開会。会場は青森青港館、来会者100余人
     添田「何故に困るものが殖へる乎」、西川「國力の發展と平民階級」
     12/12夜開会。会場は青森青港館、来会者90余人
     添田「社會雜感」、西川「成功主義を評す」「東北振興策に就て」
     12/17夜6時開会。会場は函館弁天町弁天亭、来会者100余人
     添田「國民の生活状態」「凾館の物價騰貴に就て」、西川「國力の發展と平民階級」「凾館の社會問題」
     12/18夜9時半閉会。会場は函館新蔵前勉強亭、来会者120余人
     添田「金の世か人の世か」、西川「社會腐敗の原因」を2回
     12/19夜2時間半にわたり開会。会場は函館鶴岡町錦亭、来会者不明
     添田「遊説所感」「アキラメ道徳」、西川「何故に困るものが殖へる乎」「社會主義は何人にも必要なり」
     12/24倶知安では警察が干渉し会場を得ることができず
     12/29夜6時開会。会場は札幌亭、来会者300余人うち50人くらいは農学校の学生
     貴志忠憲の開会の辞、添田が進歩と貧困を演じ、碧川朝日は八錢になつたを談り、
     ふたたび貴志が高利貸しと社會主義に就ての辨、西川が社會腐敗の原因を論じて小休止
     竹内余所次郎の演説奇なるかな現社會、西川による引き続いての演説を終え、10時に閉会
     1908(明治41)01/04夜6時開会。会場は小樽壽亭、吹雪のなか来会者150人
     碧川、添田、西川が演説。添田は演歌「わからない節」をうたう。客のなかには石川啄木の姿も
     01/08夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者350余人
     吉田●【王偏に幾】の開会の辞、中島包州、添田、馬塲奏次郎、廣瀬無端、石井武峰、西川の順に各1席ずつ演説、閉会は10時半に
     01/09夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者200余人
     吉田●【王偏に幾】、杉本沖濤、中島包州、添田、石井武峰、西川の順に演説、10時に閉会
     のち遊説の途中、東京での急用のため予定を変更し急きょ帰京する。理由は東京で起きた片山潜の暴挙
     幾春別、幌内、夕張、室蘭、弘前、盛岡、佐沼、仙台ほかの開催をとりやめ
     01/13午後7時、上野に着く
  12/06第13回金曜演説会が開かれる
     第1回は1907(明治40)9月6日
     12/13第14回金曜演説会が開かれる
     12/20第15回金曜演説会が開かれる。中止解散
     12/27第16回金曜演説会が開かれる
     1908(明治41)01/03第17回金曜演説会が開かれる。新年会
  12/13芳賀矢一が冨山房から『国民性十論』を刊行。定価70銭
  12/13愛知県の亀崎工場に勤める宮下太吉が大阪への出張を命じられる
     宮下は北区福島3丁目185番地に住む大阪平民社の森近運平を訪ねる
     日本の歴史のなかの皇室について質問をする
     社会主義文献を読みはじめていた宮下が日本の天皇制に疑問を感じ反逆を志すきっかけに
  12/14足尾暴動事件で煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバーの控訴院公判が東京はじまる
     12/16控訴院公判で永岡に対する尋問が行なわれる
     1908(明治41)02/08控訴院が控訴破棄の判決。控訴公判で無罪判決。永岡鶴蔵は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
  12/22片山潜、鈴木楯夫らが「平民協会」の届を提出する
     労働者をして労働組合を組織せしめ、以てその経済的独立を図り、国家産業の基礎を強固にすることを努める
     12/25禁止となる
  12/22第1回「日本社会政策学会」大会が開催される
  12/25救世軍の山室軍平がブース大将の日本での記録を『日本に於けるブース大将』にまとめる
     四六判、500ページにわたり詳細な記録を残す。定価1円、郵税12銭
  12/27金曜講演で大杉栄が「現代社会の二大傾向」を話す
     クロポトキンの「麺麭の略取」第3章「無政府共産制」を紹介する
  12/幸徳秋水がアーノルド・ロラーの『経済組織の未来(社会的総同盟罷工論)』を秘密出版する
     森岡永治、戸垣保三、神川松子らが協力し、アナキズム関係の日本初の秘密出版物となる
     謄写印刷の半紙四半切判の袋とじで105ページ。当局の目を逃れるため標題は「経済組織の未来」に
     まもなく官憲の目にふれ発禁となる
     1908(明治41)04/05『熊本評論』第20号に4章のみを「総同盟罷工の論理」として公然と紹介する
  年末イギリス東洋艦隊の寄港がなくなり救世軍が開いた「水夫館」が閉鎖となる
     「水夫館」は1897(明治30)にイギリス船を中心とした外国人水夫のための施設
     60人の宿泊、食堂、読書室、風呂などを設備
     1908(明治41)01/地域住民の強い要望で山下町85に「救世軍外人ホテル」が開設される
  年末/北海道真狩八ノ原の平民社農場が3年たらずで廃止に。開場は明治38(1905)年の夏
  宮下太吉、高木伴助ら名古屋亀崎鉄工場職工100人が友愛義団を結成する

  救世軍が麻布区広尾町35の元天理教会所あとを買い入れ醜業婦救済所を移す
     「東京婦人ホーム」とする
     醜業婦救済所は1900(明治33)8月1日に京橋区築地3丁目11番地の本願寺裏門に開設
  大連市浪花町の救世軍の「満州婦人救済会」が大連市飛騨町に新築移転、救世軍大連婦人ホームとなる
     ホームは1911(明治44)6月末までに644人の女性を救済収容する
     のち日本軍の中国侵略が活発になり、中国に送られるからゆきさんは増加するばかりに

  内村鑑三が『基督教と社会主義』を刊行
  日立鉱山からの亜硫酸ガスが問題となる
  東京深川の浅野セメントからの粉塵が問題となる
  この1年間に240件の争議が行なわれる。うち同盟罷工は57件
     第1次世界大戦以前の最高記録


1907(明治40)頃

  1900(明治33)5月に活版工組合から分裂した一方の「誠友会」はこの頃まで続く


1908(明治41)

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望(→07/14)、[第13代](第2次)桂太郎(07/14→)
  《内務大臣》[第25代]原敬逓信大臣が兼任、[第26代]平田東助(07/14→)
  《警視総監》[第17代]安楽兼道/再任、[第18代]亀井英三郎(07/20→)
  《内務省警保局局長》古賀廉造(→07/20)、有松英義(07/20→)


  西川光次郎の留守中。赤羽一が片山潜の論文にケチをつけ添削、激論となる
     01/片山はにわかに赤羽に退社を命じる
     01/13東北、北海道遊説の途にある西川光次郎が急きょ帰京
     のち片山は小石川久堅町の光円寺に病臥中の田添鉄二と密議
     01/30片山宅に西川を招き「赤羽と手を切り片山、西川、田添の三頭政治で雑誌をやろう」と提議
     のち西川は条理を尽くして片山に反省を促すも頑として聞かず
     02/16社会主義同志会会合が開かれ、会合の席上、全員一致で会長格の片山潜の除名を可決
  01/01鶏声社が杉村広太郎(杉浦縦横)の『七花八裂』を発行する。定価60銭
     結城素明画、河合英忠画
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/01、20大杉栄が『麺麭の略取』第11章「自由合意」の一部(約3分の1)を『日本平民新聞』第15号、第16号に訳載
     『麺麭の略取』の作者はクロポトキン
     のち『日本平民新聞』に続きが予告される
     01/17金曜講演で治安警察法違犯事件がおきる。検挙者に堺利彦ほか大杉もおり「麺麭の略取」訳載が中絶
     大杉にかわり幸徳秋水が反訳することに
     03/05〜04/05幸徳秋水が第2章「万人の安楽」を『日本平民新聞』第19号〜第21号に訳載する
     04/20続けて第3章「無政府共産」の前半を『日本平民新聞』第22号に訳載
     04/『日本平民新聞』の消息欄に「幸徳秋水君、パンの略取の反訳着々進行せる由、多分六月には上京せらるるならん」
     05/『日本平民新聞』の森近運平が秩序紊乱事件で検挙され、新聞が休刊に
     「麺麭の略取」第3章の後半は発表されず
     05/20幸徳秋水が第8章「財源」の後半を『熊本評論』第23号に訳載する
     06/20〜08/05さらに「食物」の大部分を『熊本評論』第25号〜第28号に第5章訳載【大部分?全文?】
  01/01『日本平民新聞(旧大阪平民新聞)』第15号11ページに「唱歌」入選作3編を発表
     募集は前年8月20日発行の第6号13ページ、9月5日発行の第7号1ページ
     応募は10数作。選者は幸徳、深尾が病のため故郷に帰り堺のみ
     入賞は城山の「白雨下る」、岳南生の「赤旗」、築比地仲助の「革命の歌」
     築比地は革田命作の名で応募。選者の堺利彦が築比地仲助の名で発表
     「革命の歌」には一部伏せ字あり
     のち「革命の歌」を掲載した理由で発売禁止に
     のち添田唖蝉坊が「革命の歌」の歌詞を組み替えうたい広める
     メロディは第一高等学校、第12回記念祭寮東寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」
     のち禁止になったことで逆に、こぞってうたわれるようになる
     それまでうたわれていた「社会主義の歌」は、さっぱり影をひそめる
  01/01片山潜が『社会新聞』第31号1ページに「天下の労働者諸君に告白す」を発表する
  01/01石井研堂の『明治事物起原』が橋南堂より刊行
     本文は522ページで定価1円20銭
     石井は奥州二本松藩領郡山村生まれの文明史家。明治時代に起原する開化の事物の由来を克明に記録、考察する
     1926(大正15)10/18第2版となる増訂版を発行。発行所は春陽堂、本文は842ページとなり定価8円50銭
     1943(昭和18)12/06石井が死去
     1944(昭和19)11/18太平洋戦争まっただなかに第3版となる増補改訂版が発行される
     発行所は第2版と同じ春陽堂。上下巻で1538ページという膨大な量にふくれあがる
  01/上旬山県有朋は桑港で起きた不敬事件の高橋作衛の情報を複写
     政界と山県系勢力の要所に配布。西園寺内閣をゆさぶる謀略手段に利用しようと企む
  01/03大杉栄が豊多摩郡淀橋町柏木318番地に移る
  01/03第17回金曜演説会が開かれる。新年会
     第1回は1907(明治40)9月6日
     01/10第18回金曜演説会が開かれる
     01/17第19回金曜演説会が開かれる。中止解散。金曜会屋上演説事件
     03/13第20回金曜演説会が開かれる。竹内善朔、森岡永治、坂本清馬出獄。中止解散
  01/04昨年12月5日からはじまった西川光二郎、添田唖蝉坊の2人が東北、北海道の遊説の続き
     夜6時開会。会場は小樽壽亭、吹雪のなか来会者150人
     碧川、添田、西川が演説。添田は演歌「わからない節」をうたう。客のなかには石川啄木の姿も
     1908(明治41)01/08夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者350余人
     吉田●【王偏に幾】の開会の辞、中島包州、添田、馬塲奏次郎、廣瀬無端、石井武峰、西川の順に各1席ずつ演説、閉会は10時半に
     1908(明治41)01/09夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者200余人
     吉田●【王偏に幾】、杉本沖濤、中島包州、添田、石井武峰、西川の順に演説、10時に閉会
     のち遊説の途中、東京での急用のため予定を変更し急きょ帰京する。理由は東京で起きた片山潜の暴挙
     幾春別、幌内、夕張、室蘭、弘前、盛岡、佐沼、仙台ほかの開催をとりやめ
     1908(明治41)01/13午後7時、上野に着く
  01/04片山潜と鈴木楯夫が東海道遊説を行なう
     竜王、飯野、甲府、日下部、鰍沢、静岡、江尻、明島、亀崎、半田、名古屋、岐阜、田原、三倉の14市町村
     16回の演説を開き聴衆約3200人を集める
     01/25この日まで
  01/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行する
     もとは1907(明治40)6月5日に金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行
     1908(明治41)05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
  01/10木下尚江の『良人の自白』上巻、中巻、下巻が梁江堂より刊行
     1909(明治42)06/01続巻が刊行
     1910(明治43)09/13発禁処分となる
  01/12添田竹子、西川文子、久島勝子らが社会主義婦人講演会を開催する
  01/中病気療養で故郷の高知中村に帰省中の幸徳秋水が、本格的にクロポトキンの「麺麭の略取」の訳稿に取りかかる
     07/中すべての訳が完成する
  01/17夜、本郷区元町【弓町?】の平民書房で第20回金曜会演説会が開かれる
     堺利彦が2階の窓から顔をだし演説、次いで山川均、大杉栄が演説
     演説を終えると階上で「富の鎖」をうたいだす。平民書房の前は黒山の人だかりに
     屋上からこもごも街上の群衆に演説。これが無届屋外集会となり、解散の命令も応じず
     定例のような臨監の警官から解散を命じられ憤慨し応じず。警察側は警官を動員、野次馬も集まる
     多勢の警官隊が群衆を追い散らしながらやってくる
     窓から首をだして演説をするのは屋外集会として、中止解放を命じられる
     路上に飛び出した堺利彦らはいっせいに検挙。屋上演説会事件
     堺利彦、山川均、大杉栄、森岡栄治、竹内善作、坂本清馬の6人が検挙される
     同夜、本郷警察署へ拘引
     01/20治安警察法違反の罪に問われ、警視庁を経て東京監獄に押送
     のちそれぞれが1か月ないし1か月半の禁錮に処せられる
  01/18友愛義団が片山潜、鈴木楯夫を招いて亀崎町や半田町で演説会を開催。来会者350人
     友愛義団は宮下太吉、高木伴助らの勤める亀崎工場の職工が組織する社会主義者のサークル
     宮下は片山に向かって天皇制とその変革について質問をする
  01/20『日本平民新聞』に連載していた山川均の「通俗講話 同盟罷工の話」が第16号で最終回に
     1907(明治40)11月20日発行の第12号4ページ(1)、12月5日発行の第13号4ページ(2)、
     12月20日発行の第14号4ページ(3)、1908(明治41)1月1日発行の第15号4ページ(4)、
     1月20日発行の第16号4ページ(5)で最終回
  01/23藤田四郎が『社会主義一名くらしを楽にする法』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/28電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の裁判が大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
     02/07大審院の第1刑事部裁判長鶴丈一郎は検事局の不当を是として上告を受理し前判決を破棄
     宮城控訴院に移し再審とすることに
     03/25被告党員のうち、山口義三が巣鴨監獄を出立。上野駅をでる。26日には小山警察署に1泊
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の3つの筆禍事件で巣鴨の獄に
     03/27山口義三が宮城監獄分監に収監される
     03/31宮城控訴院での裁判が開廷の予定なるも、書類調査などの都合上、間に合わず延期に
     04/28開廷も延期となる
     05/18党員8人と松永敏太郎、鈴木高次ら党外の被告が、たくさんの同志に見送られ夜行列車で上野を発つ
     早朝仙台に到着し南町の堺屋に投宿
     西川光次郎、岡千代彦、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎
     深尾韶は宮城控訴院での裁判前に病気を理由に退党。分離裁判で「今後社会主義運動と絶縁する」と誓い無罪に。郷里静岡へ
     05/19宮城控訴院での裁判がはじまる
  01/地域住民の強い要望で山下町85に「救世軍外人ホテル」が開設される
     前年年末に救世軍の「水夫館」が閉鎖になったため
  01/福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』が月刊となる
     1909(明治42)01/05経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
  01/「金葉会(閨秀文学会)」の生田長江の勧めで平塚明が編集する回覧雑誌が完成
     【1907(明治40)秋?】
     平塚が初めての小説「愛の末日」を発表する
     回覧雑誌は1回きりで立ち消えとなる
     のち1月中、平塚明が森田草平から「愛の末日」の批判の手紙を受ける
     きっかけとして平塚と森田の交際が急速に深まる
  02/05森近運平が『日本平民新聞』第17号4〜5ページに「通俗講話 ストライキと法律と警察」を発表する
  02/05守田有秋が『日本平民新聞』第17号8、14ページに「金曜講演迫害記」を発表する
     屋上演説事件の模様を堺利彦の演説とあわせて掲載
  02/05山川均が『日本平民新聞』第17号11ページに「平民協会の綱領を読む」を発表する
  02/05、20『日本平民新聞』17号、18号に「無政府主義と新労働組合」を掲載する
     タイトルの「無政府主義」には「アナキズム」と、「新労働組合」には「シンジカリズム」とルビがふられる
     作はエンリコ・マラテスク、訳は幸徳秋水
  02/08控訴院が足尾暴動事件の控訴を破棄する判決
     控訴公判で暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会メンバーに無罪の判決。永岡鶴蔵は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
     04/大審院は無罪を判決
  02/10大杉栄が1月17日の金曜会屋上演説事件で治安警察法違反に問われ軽禁錮1か月半の判決を受ける
     02/22東京監獄から巣鴨監獄へ送られる。襟番号は1200
     堺利彦、山川均らも巣鴨監獄に移る
     在監の石川三四郎を中心に大杉が左隣り、堺が右隣りに入れられ賑やかになる
     石川は山口孤剣の「父母を蹴れ」を掲載した『平民新聞』第59号の編輯兼発行者
     03/26堺、大杉らが出獄する
     残った石川に鬼界が島の俊寛の思いが重なる
  02/10校友会が宮本慶一郎の『校友会雑誌 第4号』を発行する
     03/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/11社会主義同志会が日比谷公園で国民大会を開く。悪税反対、普選を主張。数千人の民衆が集まる
     【増税反対国民大会?】
  02/12潮会が添田平吉の『警世諷俗わからない』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/16本郷金助町31番地の西川光次郎宅で社会主義同志会会合が開かれる。同志30人のうち25人が出席【02/06?】
     斎藤兼次郎、幸内久太郎、櫻井松太郎、野沢重吉、藤田四郎、添田平吉、渡邊政太郎、牧野新一、松崎源吉、
     西川光二郎、岡千代彦、大脇直寿、赤羽一、村田四郎、西村久蔵、高木平蔵、吉川守圀、樋口伝、加山助男、
     坪井隆吉、堀尾友治、渋井福太郎、谷田徳蔵、藤田貞二、神崎順一
     会合の席上、全員一致で会長格の片山潜の除名を可決
     「片山潜氏の性格は社会主義者として有るまじき点少なからず、氏の行動は将来吾党の運動に
     多大の妨害を与うるものを認め茲に氏を社会主義同志会より除名する事を決議す」
     のち『社会新聞』は片山、田添鉄二、白鳥健らが続刊する
     03/15片山潜と別れた西川光次郎、赤羽一、斎藤兼次郎らは『東京社会新聞』を創刊
  02/17大阪平民社の森近運平が大阪控訴院で重禁錮15日、罰金2円に減刑される
     『大阪平民新聞』掲載の「大阪巡航会社の亡状」が治安警察法違反で起訴
     1907(明治40)7月15日発売の第4号4〜5ページ、
     8月1日発売の第5号4ページ、8月20日発売の第6号4ページに掲載
     大阪地裁では重禁錮1か月、罰金3円の判決を受けるも控訴し減刑される
     のち大阪監獄に下獄
     入獄に際し発行人変更の手続きをとらず10円の罰金刑を受けることに
  02/20大杉栄が『日本平民新聞』第18号1ページに「非軍備主義運動」を発表
     「非軍備主義運動」は『熊本評論』第15号より転載
  03/01田添鉄二が『社会新聞』第37号1ページに「全国の同志諸君へ」を発表する
  03/01片山潜が『社会新聞』第37号2ページに「自然の結果のみ」を発表する
  03/07普選国民大会が禁止される
  03/09東京小石川で借家同盟演説会が開かれる。片山潜、鈴木楯夫らが演説し80余人参加
  03/12藤田貞二が東部遊説を行なう
     03/15田添鉄二の死によりいったん帰京
     03/22鈴木楯夫が加わり再び千葉県下に東部遊説
     03/25この日まで
  03/15永岡鶴蔵が鉱夫組合を結成する
  03/15『社会新聞』第39号1ページに「吾徒今後の方針」が掲載される
     片山潜、田添鉄二、白鳥健の連名で3月14日の記
  03/13第20回金曜演説会が開かれる。竹内善朔、森岡永治、坂本清馬出獄。中止解散
     第1回は1907(明治40)9月6日
  03/15『社会新聞』第39号7ページに「鉱夫組合の趣旨」が掲載される
  03/15東京社会新聞社より『東京社会新聞』が創刊される
     片山潜と別れ再分裂した西川光次郎、赤羽一、斎藤兼次郎らが発行
     発行所/東京社会新聞社、印刷所/浩文社、発行/月3回(5の日)
     発行兼編集人/松崎源吉、14号〜赤羽一、印刷人/赤羽一、14号〜渡辺政太郎
     体裁=四六倍判、紙幅=週刊『平民新聞』などとほぼ同様、頁建/8頁
     定価/1部3銭5厘、20部前金60銭、50部前金1円60銭
     社員は他に松崎源吉、渡辺政太郎、添田平吉、岡千代彦、大脇直寿、吉川守圀ら20余人
     07/0315、6人ほどが編集部に集まり今後の方針を決定
     『東京社会新聞』を月1回5の日に発行にする。運動方針をなるべく着実穏健にするなど
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
     09/15第15号に終刊の辞を掲げ自ら廃刊に
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  03/15『東京社会新聞』創刊号に赤羽の筆による長文「片山潜氏除名の顛末」が載る
     4ページに(上)、5ページに(下)
  03/19田添鉄二[1875(明治08)07/24・生]が肺患で32年8か月のみじかい生涯をとじる
     小石川久堅町の光円寺の一室にて
     7才年上の妻幸枝と満5才にみたない長男一、1才9か月の次男明が残される
     04/05論敵となる幸徳秋水が『日本平民新聞』第21号2ページに「田添鉄二君を悼む」を発表
     その死を愛惜する
  03/20森近運平が『日本平民新聞』第20号1ページに「社会新聞派の分裂を評す」を発表
     社会主義軟派内での片山派と西川派の分裂を批判
     「日本社会主義運動に一大汚点を記したる者なりと言うに躊躇せざるなり」と述べる
     社会主義同志会からの片山潜の除名、『社会新聞』から『東京社会新聞』の分立
  03/21夜、「金葉会(閨秀文学会)」の講師森田草平と平塚明が田端から北を目指す終列車にのる
     03/23早朝、2人は奥塩原から尾頭峠に分け入る。夜、幻想的な風景に魅了する
     03/242人が警官に保護される。2人による心中未遂事件
     森田草平には妻子があり夏目漱石の愛弟子
     のち新聞記事は行方不明事件から情死未遂と書き、「塩原事件」とも「煤煙事件」とも呼ばれる
     のち森田は中学の英語教師の職を失う
     1909(明治42)01/01森田は事件を小説「煤煙」にして連載を開始
     『朝日新聞』文芸欄を担当する夏目漱石の推薦で
     のち5月16日にまで127回にわたり連載。森田の文壇デビューとなる
  03/31好文館が好文館編輯所、池亨吉のトルストイ伯著『露西亜革命ノ意義』を発行する
     04/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/大杉栄がエスペラント語で1月17日の屋上演説事件の概要を書き外国の同志に送る
     オランダで発行された『国際社会評論』に掲載される
  平塚が帰宅後10日ほどのち、日本女子大の同窓会桜楓会から除名を告げる使者が曙町の家にやってくる
  04/03両毛同志大会第2回大会が栃木県佐野町の大雲寺で開催。田中正造ら35人が出席
     中央から山川均、大杉栄、守田有秋、佐藤悟らが参加。大杉は「同盟罷工と非軍備運動」を講演
     「直接行動派」の影響が濃くなる
     のち群馬県下を遊説する
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第1集 嗚呼金の世』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第2集 嗚呼わからない』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第3集 平民ラッパ節』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/05『熊本評論』20号に「総同盟罷工の論理」が掲載される
     「総同盟罷工の論理」はアーノルド・ロラーの『経済組織の未来(社会的総同盟罷工論)』の4章のみ
     『経済組織の未來』は前年12月に幸徳秋水が秘密出版
     でも、まもなく官憲の目にふれ発禁となる
  04/06麹町区飯田町6丁目2番地の劉師培宅で在日中国人のエスペラント講習会がはじまる
     大杉栄が講師となり開会の辞を述べる
     講習会には劉師培、何震夫妻、張継、蘇曼珠、景梅九ら20人前後が参加
  04/10好文館が和田三郎、池亨吉のトルストイ伯著『民権之帰趣』を発行する
     04/21発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/13大杉栄が早稲田大学高等予科に在籍する。6月13日まで
  04/15『教育時評』が日本女子大学卒の平塚明子と帝国大学卒の森田某の活劇を激しい口調で記す
  04/25週刊の『社会新聞』が田添鉄二の死により第43号より月刊となる
     『社会新聞』は社会新聞社より1907(明治40)6月2日に創刊される
     1911(明治44)08/03第80号で廃刊となる
  04/25西川生が『東京社会新聞』第5号4ページに「土地の公有(上)」を発表する
     05/05『東京社会新聞』第6号4ページに「土地の公有(下)」を発表する
  04/28相愛社が田添鉄二の『近世社会主義史』を発行する
     1910(明治43)09/13発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/上野沢らが東京老車夫救済会を結成
  04/13才の伊藤野枝が福岡の周船寺高等小学校3年終了後、長崎へ
     口減らしのため長崎に住む叔母キチのもとへ。西山女児高等小学校に転校
     11/26叔父の代準介が事業をはじめるため上京
     伊藤野枝は今宿の実家に戻り周船寺高等小学校に転校する
  春/荒畑寒村が『大阪日報』を退社、帰京する
     荒畑は堺利彦の紹介で前年の秋から大阪の『大阪日報』に勤める
     電車運賃値上げ反対運動から保釈出獄した同志が集う柏木村の住人となる
  05/02片山潜らが浦賀でメーデー演説をする。聴衆は浦賀船渠職工ら600人
  05/03山川均が1枚ものの『社会主義とは何でしやう乎』を発行する。発行所は不明
     05/04発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     もとは1907(明治40)6月5日に金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行
     1908(明治41)1月4日に梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行
     1910(明治43)09/14金尾文淵堂版の上篇、梁江堂版の下篇と上篇が発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/05中央新声会が添田平吉の『社会の燈』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/05山川均が『日本平民新聞』第23号1ページに「農村と革命(両毛大会に於ける講演)」を発表する
  05/05『日本平民新聞』第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
     森近運平が大阪で1907(明治40)6月1『大阪平民新聞』を創刊、同年11月5日に第11号で『日本平民新聞』と改題
     05/07夜、森近が曽根崎署に拘引
     05/08森近が堀川監獄に送られる
     05/14午前9時、大阪地方裁判所刑事第2部で公判が開廷。検事は禁錮と発行停止処分を申請
     05/19発行並びに編集人として森近に合計60円の罰金の判決が下る。体刑と発行禁止は免れることに
     05/202ページの「休刊の号外」を発行し暫時休刊の旨を発表
     大阪平民社を閉じ本社を東京府下淀橋町柏木926番地の山川均宅に移す
     のち森近は病気で紀伊国新宮町の大石誠之助方へ転地保養することに
     のち同志の経済的ひっ迫により同紙の再起はならず
  05/09片山潜、鈴木楯夫、藤田貞二の3人が全国遊説を試みる
     三重、奈良、大阪、京都、石川をすすむが、警察の干渉、弾圧により演説会を開いたのは最初の四日市のみ
     05/20資金がつき帰京
  05/15高畠素之が中心となり群馬県を本拠地に『東北評論』を創刊【08/?】
    「上州新報」記者の遠藤友四郎の他、築比地仲助、茂木一次、阿部米太郎の群馬県人に長野県から新村忠雄が参加
     のち第3号まで発行
  05/15『平民新聞』の編集兼発行人として入獄していた石川三四郎が出獄【05/19?】
     石川は1907(明治40)3月27日発行の『平民新聞』第59号1ページ掲載の「父母を蹴れ」で筆禍事件。4月25日に入獄
     のちいったん帰郷する
     のち淀橋町角筈738番地の福田英子方に落ち着く
     『世界婦人』を手伝う
  05/19電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対し、宮城控訴院での裁判がはじまる
     05/21第2回公判
     結審時間間際、弁護士鵜澤聰明が入廷。事件当時の被告の意志を、明確に確認するように求める
     さらに1891(明治24)年に起きた、大津事件での裁判所のまれにみる対応など、3時間にわたる大弁論を展開
     裁判長や判検事一同は首をたれ謹聴し、被告らに深い感銘を与える
     06/06予告していた判決の言い渡しが引き延ばされる。延期の原因は判事の意見の対立とうわさされる
     06/13宮城控訴院が最終判決をくだす。それまでの無罪判決が一転し、それぞれに有罪の判決が言い渡される
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
     06/15『東京社会新聞』第15号が第1ページ目に有罪判決の記事を置く
     07/046月22日の「赤旗事件」を理由に兇徒聚衆事件の保釈が取り消され拘引される
     07/14宮城控訴院の有罪判決を不当として上告裁判が行なわれる
     花井、鵜沢、今村、高木、新井、久保田、信岡、渡邊、井本の9弁護士が立ち宮城控訴院判決文の不備不当を弁駁
     07/17大審院は上告を却下しそれぞれに判決が確定、刑に服することになる
     07/26東京監獄の都合で西川光次郎、松永敏太郎、岡千代彦、山口義三、樋口伝が千葉監獄に移される
  05/20幸徳秋水が第8章「財源」の後半を『熊本評論』第23号に訳載する
     それまで幸徳がクロポトキンの『麺麭の略取』を訳載していた『日本平民新聞』が休刊となったため
     06/20〜08/05さらに「食物」の大部分を『熊本評論』第25号〜第28号に第5章訳載【大部分?全文?】
  05/24うしほ会が添田平吉の1枚もの『社会主義早わかり 平民の目さまし』を発行する
     08/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/25鈴木楯夫が『社会新聞』第44号7ページに「五月一日」を発表する
  05/26森近運平が病気療養で故郷の高知中村に帰省中の幸徳秋水
     05/29夜、公会堂で社会主義演説会を開く。入場料は2銭。1千人入る会場は満員に【会衆数百人?】
     のち森近は2日ほど裏2階に滞在し幸徳と語り合う
  05/30石川三四郎出獄歓迎会が開かれる。西川光次郎一派が主催し上野の三宜亭で開催
     西川をはじめ赤羽厳穴、片山潜、田添鉄二、高島米峰、永岡鶴蔵、南助松ら40余人が出席
     堺利彦一派の幸徳秋水、大杉栄、荒畑寒村、山川均らは出席せず
     高島は「石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列らないのは甚だ淋しい。
     議論は議論として、このような場合には皆な一同に会して共同の友を迎えたらどうだ」
     06/20斎藤兼次郎、石川三四郎が吉川守圀を訪ねる
     「山口君の歓迎会は両派合同で開いたらどうか。両方別々に開くのも費用損だし、
     山口は分派以前から入獄しているのだから、別々に歓迎会を開かれても当人も疲れていることだし迷惑だろう」
     06/22同罪で入獄していた山口孤剣の出獄歓迎会が石川三四郎を中心に
     中立系の斎藤兼次郎、幸内久太郎、野沢重吉らにより開かれる
     硬軟両派の融和を企てるも事志に反し赤旗事件に発展する
  05/末山川均が大須賀里子と結婚する
     1913(大正02)05/大須賀里子と死別する
  05/『女学世界』が特集「平塚明子の心理解剖」を組む
  05/荒畑寒村が『日本平民新聞』の廃刊で上京した百瀬晋と共同で室を借りることに
     荒畑は昼間は早稲田大学の英文科予科の聴講に通う
  05/金曜会の同志坂本清馬が『熊本評論』に入社
  05/新村忠雄が社会主義文学雑誌『東北評論』に関係する
     のち編集の高畠素之のあとを受けて署名人となる
  05/管野すがと荒畑寒村の仲が冷え結婚生活は破綻寸前の状態に、一時別居することに
     2人は1906(明治39)12月に堺利彦の仲介で結婚
  06/05巌子が『東京社会新聞』第9号1ページに「女子諸君に告ぐ」を発表する
  06/05有楽社が『平民科学』6冊の叢書のうち堺利彦の第3編「男女関係の進化」を発行する
     あわせて第4編は山川均の「動植物の道徳」を発行
     全巻翻訳もの。麹町有楽町3の1の有楽社を同叢書の発行所に
     四六版200ページほど。定価は1冊30銭、全6冊前金1円60銭
     有楽社は北沢楽天の漫画雑誌東京パックの発行所
     1、3編は堺の編集。2、4、5、6編はそれぞれの著述に堺が編集
     第1編は堺利彦の「人間発生の歴史」を1907(明治40)11月17日に発行
     第2編は山川均の「植物の精神」を1907(明治40)12月1日に発行
     08/06第5編は志津野又郎の「地球の生滅」
     あわせて第6編は大杉栄の「万物の同根一族」を発行
     1910(明治43)09/03堺利彦の第3編「男女関係の進化」が発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/05新思潮社が石巻良夫の『経済史論第1編 原始的共産制』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/08添田平吉が『社会党喇叭節』を発行する。発行所は不明
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/15『社会新聞』第45号5ページに片山潜が「全国の同志に訴ふ」を書く
     「遊説にては到底主義伝道の望み」はないとの結論に達し「貴重なる時間と多大なる運動費を要する遊説」は一時中止と訴える
     1907(明治40)9月1日の『社会新聞』第14号2ページでは全国遊説の計画を発表
  06/15『東京社会新聞』第10号3ページに「社会主義と職業」が発表される
  06/15新社会発行所の島中雄三が『新社会 第1号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/15欧友会が峯岸正夫の『欧友 第10号』を発行する
     06/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/18山口義三(孤剣)が筆禍事件のすべての刑期を終え宮城監獄を放免となる
     山口は自身が1907(明治40)3月27日の『平民新聞』に書いた「父母を蹴れ」の筆禍で3か月、
     『光』号外「貧盲の戦争」の発行責任者として1か月半、
     大杉栄の「新兵諸君に与ふ」での8か月加算されての1年2か月を獄に送ることに
  06/19午前9時半、夜汽車にゆられた山口義三が上野駅に到着。硬軟両派の同志70余人が集まる【30余人?】
     大書した赤旗を打ち振り出迎え、一同万歳を絶叫。出迎えのなかには管野すがの姿も
     旗には「山口君歓迎」「社会主義」「革命」などと書かれる
     西川光二郎は山口義三を人力車に乗せ東京社会新聞社に引き揚げる
     上野駅に残った出迎え同志は4本の赤旗を先頭に「革命歌」を高唱、デモをしながら上野山下へ
     下谷署の警官との間にこぜりあいが生じ、広小路では大衝突に
     一同は捕らわれた同志と旗を奪い返し金助町の東京社会新聞社に到着
     山口孤剣の出獄万歳を叫び無事解散する
  06/22山口孤剣の両派合同の出獄歓迎会が神田区錦町3丁目の錦輝館2階広間で開催。赤旗事件が起こる
     歓迎会の発起人は同罪で入獄し5月30日に出獄していた石川三四郎
     ほか中立系の野沢重吉、斎藤兼次郎、幸内久太郎ら
     会場は上野公園内の三宜亭が下谷署に邪魔され、付近の東花亭にかえるが駄目。そこで神田区の錦輝館に
     管野すが、神川マツ子、大須賀さと子、小暮れい子などの婦人連や子供たちを交え70余人の盛況に【50〜60人?】
     午後1時、開会。発起人代表として石川が開会の辞。次いで西川光二郎と堺利彦が双方を代表し歓迎の辞
     ついで山口が来会の同志に沈痛な一場の謝辞を述べ、有志者寄付の余興に
     伊藤痴遊の講談「来島恒喜談」、寺尾彭の薩摩琵琶「大塔ノ宮吉野落」、端山静得の薩摩琵琶「川中島」と続き
     木島正道の剣舞「棄児行」から「本能寺」へと移った午後4時頃、「敵在備中汝能備」の句に入るとき
     ▽大杉栄、荒畑勝三、宇都宮卓爾、村木源次郎、百瀬晋、佐藤悟らが起立
     赤布に「無政府」「無政府共産」「革命」と白書きした3本の旗を打ちふる
     「無政、無政、無政府万歳!」「アナ、アナ、アナーキイ」と高唱
     『革命歌』をうたいながら場内をねり歩きはじめる
     直接行動派の柏木団による議会政策派の本郷団に対する威嚇のあらわれ
     勢い大杉の赤旗が吉川守圀の鼻先にかかる
     吉川は敵意むき出しの行為に反撃の隙を狙う
     同派の西川光次郎や赤羽一の静粛した姿勢に吉川も相手せず
     赤旗をもった大杉ら一団は階段をおり戸外へ
     ▽大杉栄ら直接行動派の柏木団連が前庭を横切り錦輝館の門をでようとする
     神田警察署の巡査部長大森袈裟太郎や瀬戸佐太郎、石丸次郎ら数人の警官が待ちかまえる
     「旗をもって歩いてはいかん」大森巡査部長が声をかけるも大杉栄の耳には入らず
     旗をかざした荒畑寒村があらわれる
     警官隊のうち杉浦孝八、溝口永之助、小林三郎ら数人の巡査が荒畑を取りかこむ
     小さい旗を持った百瀬晋と宇都宮卓爾が荒畑と警官の間に入る
     「無政府」「無政府共産」「革命」と大小3本の赤旗が錦輝館前の街上にひるがえる
     村木源次郎、森岡栄治、佐藤悟、徳永保之助ら同志や
     管野、神川、小暮、大須賀、堀ら婦人同志が会場からでる
     遅れて堺利彦と山川均が錦輝館からでると、黒山のような人だかり
     同志と警官隊による3流の旗の争奪戦が演じられている
     堺は双方になかに分け入り警官をなだめ「旗を巻いていけばよろしい」となり休戦状態に
     ▽堺利彦と山川均は同志を説得、「無政府」の赤旗を巻かせ神川マツ子に持たせる
     管野すがは捕らえられた荒畑が心配で面会へ。神川は旗を堀保子に預けて管野に同伴する
     堺と山川も大杉栄をもらい受けに神田警察署へ
     「無政府」の赤旗は堀保子から大須賀さと子の手にわたり、帰途、巻いた旗がほどける
     横山玉三郎巡査がとがめると、ただひとりの男性の同志徳永保之助が巡査の接近をさえぎる
     その間に大須賀は逃げようとするも最後の赤旗を警官にとられる
     ▽神田署へのりこんだ管野と神川は捕まった荒畑寒村に面会を申し込む
     「とんでもないことだ」とはねつけられる
     2人は帰り際、警察署の玄関で巡査の横山玉三郎と滝沢豊治が赤旗を担いでくるのを目にとめる
     巡査の押し問答の末、2人は建物のなかに引きずりこまれる
     堺と山川は神田署に向かう途中、釈放は難しかろうと毛布を差し入れようと、家に戻ることに
     その道で堀保子、大須賀さと子、小暮れい子、徳永保之助らに出会う
     神保町の停留所に急いでいると、一ツ橋通りの交番で呼びとめられる
     堀保子以外の5人が神田警察署に引っぱられる
     荒畑寒村(22)、宇都宮卓爾(26)、大杉栄(24)、村木源次郎(20)、佐藤悟(26)、
     徳永保之助(20)、森岡栄治(24)、百瀬晋(19)、山川均(29)、堺利彦(39)
     ほか女性4人。大須賀里子(27)、管野すが(28)、小暮礼子(19)、神川松子(23)
     官吏抗拒罪と治安警察法違反で起訴される
     のち神田署内留置場の板壁に「一刀両断天王首 落日光寒巴黎城」の落書きが発見される
     佐藤悟が嫌疑を受け不敬罪に。冤罪の可能性
     06/23東京監獄へ送られる
     08/15上京翌日の幸徳秋水が公判廷を訪ねる
     08/29午前11時、東京控訴院で官吏抗拒罪の罪名で赤旗事件の判決が言い渡される
     【東京地方裁判所で第3回公判?】
  06/24赤旗事件で神田警察署に拘束された14人に対する検事局の取り調べがひと通りすむ
     2台の護送馬車で東京監獄の門内へ
     車内、同志らは革命の歌をうたい、無政府党万歳を叫ぶ
  06/24うしほ会が添田平吉の『我利我利盲者』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/25山口孤剣が『東京社会新聞』第11号5ページに獄中作の「病囚苦語」を発表する
  土佐中村の幸徳秋水が勤務先の『二六新報』にいて難を逃れた守田有秋から電報を受け取る
     「サカイヤラレタスグカエレ」
  06/30千家尊福法務大臣、田中光顕宮内大臣、原敬内務大臣の3者会談が開かれる
     赤旗事件拘留者のうち神田署内留置場の板壁に不敬の文字を記した者を厳罰にするよう決定する
     原は日記に「最高5年の禁錮にすべきである」と記す
  06/神近市子が長崎の活水女学校2年のとき敬愛する物理の河井先生が退職勧告をうけ辞職することに
     問題は神による人間創造説と一般常識化している進化論との矛盾について
     神近ら寄宿生10人は飯田マサの部屋に集まり人事を決定した校長代理のミス・ヤングに抗議
     校長のラッセルは渡米中で不在
     ミス・ヤングはすでに決定したことで河井先生も了承済み、抗議は取り上げられず
     そこで10人は翌日から授業を放棄することに。飯田マサの部屋で自主的な勉強をはじめる
     飯田は日本初の女性閣僚として第1次池田内閣時の厚生大臣となる中山マサのこと
     生徒による初めてのストライキに学校側は大慌て。高等科生を使い、1人1人説得をはじめる
     クラスの半数が給費生で、勧告を受けいれ教室にもどる
     2、3日後神近1人がミス・ヤングに呼ばれる
     ストライキ学生は全員退学の規定のはずが、今回は無処分だからそのつもりで勉強に励め、と諭される
     神近1人が首謀者とみられる
  07/02福田武三郎が1枚ものの『社会主義』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/03東京社会新聞社より創刊された『東京社会新聞』の15、6人ほどが編集部に集まり今後の方針を決定
     『東京社会新聞』を月1回5の日に発行にする。運動方針をなるべく着実穏健にするなど
     07/25赤羽一が『東京社会新聞』第13号(入獄記念号)1ページに「社会党入獄史」を発表する
     のち新聞紙条例にふれ赤羽が軽禁錮2か月、発行人の松崎源吉が軽禁錮4か月の判決を受ける
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
     09/15第15号に終刊の辞を掲げ自ら廃刊に
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  07/05石川三四郎が健康すぐれず郷里の埼玉県本庄町に帰る
     この頃高崎市柳川町の東北評論社を訪ねる
     遠藤友四郎らと再会する
     08/下旬淀橋町の福田英子方に戻る
  07/06山口孤剣が電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する上告を取り下げ東京監獄に入獄する
     07/26千葉監獄に押送される
     1909(明治42)年中、山口孤剣は千葉監獄において刑に服する
     1910(明治43)01/03山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  07/09堺タメ子が1枚ものの『社会主義 女の身の上』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/09堺タメ子が1枚ものの『社会主義』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/10照文堂が木下尚江の『小説 乞食』を発行する。定価35銭
     1910(明治43)09/14発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 あきらめ 続篇壱号』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/14第1次西園寺公望内閣が赤旗事件をきっかけに総辞職する
     第1次西園寺公望内閣は1906(明治39)1月7日に成立
     それまでの官僚桂内閣にかわる政友会内閣の政策として穏健進歩的な社会主義政党が公認される
     西園寺内閣の総辞職により第2次桂太郎内閣が成立する
     社会主義に対する弾圧が極めて厳しくなる
     演説に対しては中止、解散、会場謝絶を強化。出版物は発売禁止にするなど裁判、罰金責めに
     新たに第2次桂太郎内閣が成立する
     のち社会主義運動は非合法活動になる
  07/中病気療養で故郷の高知中村に帰省中の幸徳秋水がクロポトキンの「麺麭の略取」の訳を完成させる
  07/17電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対し、大審院は上告を却下
     それぞれに判決が確定、刑に服することになる
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
  07/20土佐中村で静養中の幸徳秋水が赤旗事件を知り『熊本評論』第27号に論評「南海評論」を発表
  07/20『熊本評論』第27号に赤旗事件に連坐した4人の婦人による異口同音の訴えが載る
     管野すが、神川マツ子、大須賀さと子、小暮れい子
     「着物や、金子の差入れは何うでも好い、入監以来受けし圧虐に対して何うか復讐して戴きたい」
  07/21病気療養で故郷の高知中村に帰省していた幸徳秋水が単身、中村を発つ
     たくさんの近親に見送られ幡多郡下田港から乗船
     赤旗事件や内閣の総辞職から新内閣成立にいたる状況下、次々に上京を促す手紙が舞い込んだため
     07/23高知へ。同郷の知己で壮士芝居の横田金馬、高知新聞の重役で俳人の杉指月と会う
     07/24海路大阪へ、森近運平と会う。さらに海路で勝浦に上陸。陸路25日に新宮へ
     和歌山県新宮町の大石誠之助(禄亭)を訪ね大石医院で静養。2週間ばかり寄宿
     高木顕明、峯尾節堂、成石平四郎、崎久保誓一等の訪問をうける
     浄泉寺で社会主義公演を行なう
     8月1日には送別会をかね熊野川で舟遊びをし、エビすくいに興じる
     集まったのは大石のほか、成石平四郎、沖野岩三郎、中口光次郎、井出義行、大石の長男舒太郎ら
     官憲によって「大逆陰謀の発端」とされる
     08/08幸徳は三輪崎港から出港
     08/09朝、鳥羽に上陸し二見が浦で1泊
     08/10伊勢神宮に参拝、その日のうちに伊勢湾を北上し名古屋に上陸
     妻千代子の姉須賀子の夫松本安蔵の家に宿泊する
     08/11名古屋からは東海道線を乗り継ぐ
     08/12朝、国府津駅に下車。箱根、大平台の林泉寺に内山愚童を訪ね2泊すし東上
     08/14新橋駅に到着、芝浦の竹芝館に投宿
     岡野辰之助の名を借り守田有秋の旧宅、豊多摩郡淀橋町柏木926番地に住み平民社とする
  07/23隆文館が白柳秀湖の『鉄火石火』を発行する。定価75銭
     編集兼発行者は伊藤元治郎
     1910(明治43)12/11発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/25赤羽一が『東京社会新聞』第13号(入獄記念号)1ページに「社会党入獄史」を発表する
     のち新聞紙条例にふれ赤羽が軽禁錮2か月、発行人の松崎源吉が軽禁錮4か月の判決を受ける
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
  07/『熊本評論』の坂本清馬が上京し赤旗事件関係者を慰問する
     以後幸徳秋水の家に寄食する
  07/頃古河力作が平民社に出入りするようになる
     新村忠雄や管野すがと知り合う
  08/01東京市神田区錦町3丁目の錦輝館がイタリアの映画会社と契約を結び活動写真会を開く
     のち洋画の専門館となる
     1918(大正07)08/19火災により焼失する
  08/01真人界発行所の井伏太郎が『真人道 第63号』を発行する
     08/05発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/初旬熊本から新美卯一郎が上京
     のち1か月ほど滞在し赤旗事件の公判を傍聴し帰郷
  08/10東京青年倶楽部の添田平吉の1枚もの『警世諷俗わからない 附あきらめ賦詩』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1907(明治40)02/12刊]
  08/14幸徳秋水が高知中村から東京着。夜は芝浦の竹芝館に泊まる
     08/15以降、岡野辰之助の名を借り守田有秋の旧宅(金曜社)、豊多摩郡淀橋町柏木926番地に居を定める
     炊事などは岡野の妹が世話、一応落ち着き居を平民社とする
     まもなく坂本清馬が同居する
     09/30平民社が豊多摩郡巣鴨村大字巣鴨2040番地へ移転【09/31?10/01?】
     1909(明治42)03/18平民社が豊多摩郡千駄ケ谷町903番地へ移転、管野すが、新村忠雄が平民社に住み込む
     官憲が幸徳宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに
     1910(明治43)03/22平民社が解散。幸徳と管野が湯河原へ向かう
  08/15午前9時、赤旗事件(治安警察法違反、官吏抗拒事件)の公判が東京地方裁判所第1号法廷で開廷する
     満田検事立ち会い、島田裁判長による
     堺利彦、山川均、大杉栄、荒畑勝三、宇都宮卓爾、森岡栄治、徳永保之助、佐藤悟、
     百瀬晋、村木源次郎、管野すが、大須賀さと子、神川マツ子、小暮れい子
     この日、土佐中村から上京した幸徳秋水が傍聴席に姿をあらわす
     ほかに坂本清馬、新美卯一郎、や清国の同志、在京の同志など100余人がつめる
     当日、男子の被告に対して卜部喜太郎弁護士が弁論
     4人の婦人に対しては井本常昨弁護士が弁論することに
     裁判長による訊問がすすみ午後5時に閉廷する
  赤旗事件公判直後から幸徳秋水と管野すがとの間に恋愛関係が生じる
  08/22午前9時、赤旗事件の第2回公判が東京地方裁判所で開かれる
     古賀検事干与、島田裁判長による
  08/26愛媛の別子鉱山付近の住民煙害問題で鉱山事務所へおしかける
  08/29東京地方裁判所で赤旗事件の判決が言い渡される【東京控訴院で第3回公判?】
     午前9時開廷の予定が遅れて午前11時過ぎに
     傍聴席は超満員に
     島田裁判長が判決文を読み上げる。罪名は官吏抗拒罪および治安警察法違反
      大杉栄 重禁錮2年6か月(前科電車事件の1年6か月加算)、罰金25円
      堺利彦 重禁錮2年、罰金20円
      山川均 重禁錮2年、罰金20円
      森岡栄治 重禁錮2年、罰金20円
      荒畑勝三 重禁錮1年6か月、罰金15円
      宇都宮卓爾 重禁錮1年6か月、罰金15円
      佐藤悟 重禁錮6か月【重禁錮1年、罰金10円】
      村木源次郎 重禁錮1年【重禁錮1年、罰金10円】
      百瀬晋 重禁錮1年【重禁錮1年、罰金10円】
      徳永保之助 重禁錮1年(但5年間執行猶予)【重禁錮1年、罰金10円】
      小暮レイ子 重禁錮1年、罰金10円(但5年間執行猶予)
      大須賀里子 懲役1年(但5年間執行猶予)【重禁錮1年、罰金10円】
      管野須賀子 無罪
      神川松子 無罪
     禁錮刑の被告は東京監獄に逮捕入獄。
     のち佐藤は落書事件の冤罪で不敬罪にかかり重禁錮3年9か月、罰金150円の宣告を受ける
     09/05東京監獄に収監されていた被告が千葉監獄に移される
     1910(明治43)02/上荒畑が宇都宮とともに出獄
     08/29赤旗事件の被告山川均が出獄、倉敷に帰郷【09/27?】
     09/22堺が出獄
     09/09大杉が東京監獄から千葉県千葉郡都村字貝塚の千葉監獄に移される
     獄中でアナキズム文書を清書して思想の自立に努める
     1910(明治43)09/22大杉が千葉監獄から物々しい警戒のなか東京監獄に移送
     大逆事件に関連性を追求した取り調べを受ける。獄中で幸徳秋水ら大逆事件の被告を見かける
     弾圧は免れることに
     のち大杉が東京監獄から千葉監獄へ戻される
     11/29千葉監獄を出獄する
     幸徳らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるものの弾圧は免れることに
  08/29赤旗事件の判決言い渡しを終えた島田裁判長が書類を抱え逃げるように席を立つ
     21才の荒畑寒村が立ち「裁判長!」と叫ぶ
     「裁判長! 神聖なる当法廷において、弱者が強者のために圧迫せられた
     事実の明瞭となったこと感謝します。いずれ出獄のうえ御礼します」
     荒畑は昂然と腰をおろす
     大杉栄が立つ「裁判長!」と叫ぶ
     言いかけると裁判長は「今日は言い渡しをしたまでだ。不服があれば控訴するがよい」
     裁判長は立ち去る
     突然大杉が「無政府党万歳!」と叫ぶ
     「無政府党万歳!」「万歳!」被告席からいっせいに起こる
  08/29赤旗事件の判決言い渡しの日。60余人ほどが見守る傍聴席には幸徳秋水の姿があり
     山川均にとって幸徳秋水の姿をみる最後となる
  08/29赤旗事件で無罪となった管野すがが執拗に警察の尾行にあう
     のち「毎日電報」を馘となる
     1909(明治42)02頃/持病の肺結核がすすみ幸徳秋水の経済的援助に頼り鎌倉の寺に転地療養する
  08/末神川マツ子が無罪放免となる
     のち社会主義をすてて台湾にわたり人妻になる
     のち大須賀サト子は内縁の夫山川均の出獄を待ち医学の道をすて写真術に没頭する
  08/『東北批評』が創刊する
  09/05嵩山房が田岡嶺雲、小川芋銭の『有声無声』を発行する。定価35銭
  09/05『熊本評論』第30号に8月17日出の幸徳秋水あて荒畑寒村の書翰が載る
     幸徳が法廷にあらわれたことに驚き、幸徳の体を気遣う
  09/079月5日発行『世界婦人』第28号4ページに掲載の革田命作の「最初の敵」が新聞紙条例第33号違反に
     社会秩序の紊乱を理由に発売禁止、告発される
     1909(明治42)05/11編集兼発行人の神崎順一に罰金100円の判決
  09/13夜、夏目漱石の「吾輩は猫である」のモデルの三毛猫が死ぬ
     モデルになった猫は漱石37才の年に夏目家に迷い込んで住みつく
     猫の墓をたて一句を添える。親しい人達に猫の死亡通知をだす
  09/15東京社会新聞社より創刊された『東京社会新聞』が第15号1ページに「終刊之辞」を掲げ自ら廃刊に
     創刊は1908(明治41)3月15日
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  09/15木下尚江が『東京社会新聞』第15号3ページに「廃刊を祝す」を発表する
  09/159月20日に世界婦人社が発行する石川三四郎の『虚無の霊光』が発売頒布禁止の処分を受ける
     製本中に押収される【製本中に差し押さえられ没収処分となる?】
     『虚無の霊光』は石川が獄中で著述
  09/中内山愚童が印刷機械購入の目的で上京、本堂地下で秘密出版をはじめる
  09/20『熊本評論』赤旗事件の報道などで筆禍を受け赤刷りの第31号をもって終刊に
     『熊本評論』は1907(明治40)6月20日に松尾卯一太、新見卯一郎が中心となり創刊される
     【1908(明治41)07/20第27号に赤旗事件の14人を救援する寄付金募集のアピールが新聞紙条例に問われる
      08/17被告の松尾に罰金80円、『熊本批評』は発行禁止に】
  09/23出獄した森近運平が上京し平民社の同居する
     11/26平民社をでて1戸を構える
  09/30平民社が豊多摩郡巣鴨村大字巣鴨2040番地へ移転【09/31?】
     1909(明治42)03/18平民社が豊多摩郡千駄ケ谷町903番地へ移転、管野すが、新村忠雄が平民社に住み込む
     官憲が幸徳宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに
  09/管野すがは無罪となったものの警察の執拗な尾行に勤め先の毎日電報をくびになる
  10/05『世界婦人』第29号から石川三四郎が発行兼編集人となる
     9月7日に『世界婦人』第28号の記事で告発された神崎順一に代わって
  10/07中央慈善協会が創立される
     東京麹町の国学院講堂において、中央慈善協会の発会式が行なわれる
     発会式では初代会長の渋沢栄一から協会設立趣意書が発表される
  10/13戊申詔勅(戊申詔書)が発せられる
     日露戦争後の国民に勤倹節約と国体尊重を徹底する目的で発布
     第2次桂太郎内閣の内務大臣平田東助の要請によるものといわれる
     教育勅語とともに明治期に渙発された国民教化の2大詔勅
  10/20『滑稽新聞』第173号が「自殺号」と銘うち、「本誌受罰史」を4ページ掲載して廃刊に
     『滑稽新聞』は1901(明治34)1月25日に宮武外骨(35)が印刷業を営む福田友吉とともにを創刊
     10/24「自殺号」が発売停止処分を受ける
     11/03天長節のこの日、新たに『大阪滑稽新聞』を創刊する
  10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     これまでに1904(明治37)5月10日に平民社が平民文庫を、1906(明治39)7月20日に金尾文淵堂が発行する
     1910(明治43)09/03平民社平民文庫と金尾文淵堂と栄江堂の『火の柱』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/23北海道の幌別鉱山で坑夫の暴動がおきる
  10/新村忠雄が『東北評論』の署名人を引き受ける
     のち新村が2か月の軽禁錮をうけ入獄
     1909(明治42)02/05前橋刑務所を出獄後、上京し平民社に同居する
  11/03赤旗事件記念として『入獄記念 無政府共産 小作人はなぜ苦しいか』が出版される
     箱根太平台林泉寺の内山愚童が2千部ばかり秘密出版する
     内山は森近運平から借りうけた『日本平民新聞』の読者名簿をもとに全国の同志に発送する
     のち内山は『道徳否認論』『帝国軍人座右之銘』などを秘密出版する
  11/03亀崎町の宮下太吉の家に、どこからともなく小包が送り届けられる
     なかには赤旗事件記念出版のパンフレット『入獄記念 無政府共産』が50部ばかり
     印刷物は箱根太平台林泉寺の内山愚童が秘密裏に刷ったもの
     11/10大府駅で配布
     のち元首暗殺を決意する
  11/10片山潜が『社会新聞』第49号8ページに「日本の社会主義者は何を要求すべきか」を発表する
  11/11大杉栄が妻堀保子を通じて、獄中での研究費用300円の借金を父大杉東に申し入れてもらう
     のち断られる
  11/13宮下太吉が森近運平あて手紙をだす
     国民の迷信を醒ますためにら天子を斃す必要のあることを詳しく記す
     東京で事があれば直ちに出京し実行に加わると書き送る
     のち森近が宮下から手紙を幸徳秋水に見せる
     幸徳は初めて宮下の存在を知る
  11/15幸徳秋水ら同志が滝野川紅葉見会を開く。参会者30〜40人
  11/19〜26新宮の大石誠之助が所用で上京。そのうちの3日間、平民社に泊まり幸徳を診察する
  11/20国民後援会が加藤清(内山愚童)の『帝国軍人 座右之銘』を発行する
     1909(明治42)07/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/22週刊『サンデー』が創刊される
     四六4倍判の大きさ。表紙つき20数ページの中綴じ、カラーページや写真や絵画を中心とするページもある
  11/25熊本から松尾卯一太が上京。平民社を訪ね『熊本評論』廃刊後の運動を相談する
  11/石川三四郎、福田英子が中国革命派の機関紙『民報』裁判の支援に尽力する
  11〜12/幸徳秋水の自費によりクロポトキンの『麺麭の略取』の翻訳本が数百部秘密出版される
     ことの漏洩を恐れ女中を解雇。幸徳と同郷で20才そこそこの同志坂本清馬が住み込み秘密出版を手伝う
     全国の有志に予約出版の案内状を発送
     定価1円、予約者は80銭の前払い。予約の締切は1909(明治42)1月15日
     その筋の注意を引かないため、少しずつ地方の同志に郵送
     1909(明治42)01/29大部分の秘密発送を終えたのち、内務省に届け出をだす
     01/29「出版法第19条による発売頒布禁止及刻版並印本差押処分」に
  12/02内山愚童の『入獄記念無政府共産』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者ともに不明
  12/04佐久良書房から『国民新聞』の記者国木田哲夫が『愛弟通信』を発行。定価95銭、送費10銭
     1894(明治27)10月21日から翌年3月12日まで『国民新聞』に連載した国木田独歩の処女作
  12/13木下尚江が昭文堂から『墓場』を刊行。定価35銭
  12/17新世紀8年2月15日に発行する(した?)秀湖原のマラテスタ著『無政府主義』が発売頒布禁止の処分を受ける
  12/24東京市会が1銭の電車賃値上げ案を可決
  12/26片山潜、石川三四郎らが電車賃値上げ反対第1回演説会を開催
     12/27、29同様に演説会を開催
  12/31島田三郎が『東京毎日新聞』紙上に「愛読者諸君に告ぐ」を掲げ、社より一切手をひくことを言明する
     あとのことは報知新聞社社主の三木善八が継承する
     入社は1890(明治23)、当時は毎日新聞社
  12/石川三四郎、渡辺政太郎、幸内久太郎、野沢重吉、桜井松太郎らが東京市電電車賃値上げ反対運動に奔走する
  12/管野すがが幸徳秋水に心のうちを明かす「爆裂弾をつくって大逆罪を犯し大仕掛けの革命を起こしたい」
     幸徳は同意するも、同志のいない寂しさに大きな行き詰まりを背負う
  田中弘之らにより憂国の志士、国士、壮士を自任する結社浪人会が結成される
     主要な構成員に玄洋社の三浦梧楼、頭山満、佐々木安五郎、古島一雄、小川運平ら
     玄洋社以外では尾崎行雄、宮崎龍介、内田良平らが主要メンバーに
     国家主義的世論を喚起し、反デモクラシー運動を展開する
     1918(大正07)11/吉野作造が『中央公論』11月号の論文で浪人会を攻撃、批判
     11/23浪人会と吉野の立会演説会が開かれるも、聴衆は浪人会よりも吉野を支持
     のち浪人会は衰退する
  衆議院の議会に普通選挙法案を国会に提出するも審議の結果、否決される
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら
     1909(明治42)提出するも否決
  内村鑑三が警醒社から英文で『Representative Men of Japan(代表的日本人)』を刊行
     もとは1894(明治27)11月に民友社から刊行した『Japan and Japanese(日本及び日本人)』を改題
  『東北評論』第3号が新聞法第41条にふれ署名人の新村忠雄が禁錮2か月の刑に処せられる
     前橋監獄に入獄する
  時局諷刺週刊誌『団団珍聞』が1月号で終刊となる
     「団団珍聞」は1877(明治10)2月25日に創刊
  神奈川県逗子の鈴木製薬所から塩酸ガスや汚水害が問題となる
     鈴木製薬所はのちの味の素

  米人メソジスト宣教師のユリシーズ・グランド・マーフィ、通称モルフィが帰国する
     【ユー・ジー・モルフイでユー・エス・モルフイではない?】
     モルフィは1893(明治26)に来日
     明治32年ごろから帰国するまでの約10年間を廃娼運動に活躍、廃娼運動の父とよばれる

  この頃、救世軍に協力、参加した者に浮田和民、内ケ崎作三郎
     学生の前田多門、倉橋惣三、荒川文六、畔上賢造、小泉丹らがいる
  この年の小作組合数は41


1908(明治41)頃

  島田三郎と安部磯雄がともに大連を訪ねる
     日露戦争直後から中国に大量進出している、からゆきさんの実状を視察する


1909(明治42)

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎
  《内務大臣》[第26代]平田東助
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎
  《内務省警保局局長》有松英義


  年中、西川光次郎、堺利彦、山川均、荒畑寒村、大杉栄らは獄中にあり
  年中、山口孤剣は千葉監獄において電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の刑に服する
     1910(明治43)01/03山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  01/01東京市内各所に電車賃値上げ反対市民大会開催のビラが配られる
     ビラの編集発行人は渡辺政太郎、印刷人は石川三四郎
  01/01中学の英語教師の職を失った妻子ある森田草平が『東京朝日新聞』に小説「煤煙」の連載を開始する
     内容は前年3月に平塚明子と起こした塩原での心中未遂事件
     新聞連載は森田の師匠となる「朝日新聞」の文芸欄を担当する夏目漱石の推薦による
     のち5月16日まで連載する
     のち平塚明のスキャンダル事件として新聞に書き立てられる
  01/02日本社会党同志の名で電車賃値上げ反対の市民大会が開かれる。数百人集まるが弾圧で流会に
  01/05日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』が経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     1908(明治41)1月には月刊となる
     07/05第38号掲載の石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が筆禍発禁に
     新聞紙法違反で編集兼発行人の石川が裁判に問われ終刊に
  01/05『世界婦人』第32号が新聞紙条例に違反するとして石川三四郎が告発される
     03/04罰金5円の判決を受ける
  01/05本郷区金助町の「社会主義青年団」で同志新年会が開かれる
     石川三四郎が出席する
  01/12東京明治座で高木益太郎、蔵原惟郭らの電車値上げ反対市民大会が開かれる。続いて値上げ反対大演説会が開催
     値上反対が決議される
  01/14内山愚童が上京し幸徳秋水を訪ねる
  01/18土佐中村に残っていた幸徳秋水の妻千代子が上京。平民社に落ち着く【01/10ごろ? 01/15?】
     03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳は千代子と協議離婚
  01/231月25日に社会主義青年団が発行する臼倉甲子造の『平民の友くらしを楽にする法』が発売頒布禁止の処分を受ける
  01/29幸徳秋水がピーター・クロポトキンの『麺麭の略取』を翻訳し出版の届け出を提出【01/30?】
     菊版本文366ページ、前書18ページ。【序文・例言17ページ、本文365ページ?】
     訳者兼発行人は平民社、代表者は坂本清馬、印刷人は戸垣保三、印刷所は秀英社
     01/29出版法第19条による発売頒布禁止及刻版並印本差押処分を以て警視庁が発売直前の巣鴨平民社で20部を差押え
     01/30秘密発行
     03/09東京地裁で署名人の坂本清馬が起訴され30円の罰金刑に処せられる
  01/幸徳秋水周辺で岡野、守田有秋、堀、福田、坂本らが「秋水と幽月があやしい」とさわぎはじめる
     のち山手青年倶楽部の戸恒保三、竹内善朔らは噂をデマとして幸徳を守る
     07/頃幸徳と管野の関係は深まる一方、山手青年倶楽部の青年同志も離れる
  01/平民社に同居していた坂本清馬が管野すがと街へでる
     2人で帰ってきたところを、焼き餅をやいた幸徳秋水がとがめる
     幸徳と坂本の衝突のきっかけとなる
     02/坂本は「貴様とおれとどちらが革命をやるか競争しよう」と宣言
     坂本が平民社をとびだす
     のち坂本は全国漂浪の旅にでる
  02/05新村忠雄が前橋刑務所を出獄して上京、平民社に同居する
     新村は前年の10月に『東北評論』の署名人を引き受け、のちに2か月の軽禁錮をうけ入獄
     巣鴨の平民社に病身の幸徳秋水、管野すがを助けながら滞在する
     03/29新村が新宮の大石誠之助方に行き薬局生となる
  02/11救世軍が内務大臣から選奨を受け500円が下付される
  02/13宮下太吉が東京の武市製材所に機械すえ付けのため亀先から上京する
     午後、巣鴨の平民社に幸徳秋水を訪ねる
     宮下は幸徳に天子に爆裂弾を投げつける決心を告げる
     「さような方法も必要であろう。今後はさようなことをやる人間も出なければならぬ」
     幸徳は意見するも積極的に計画に参加する旨は答えず
     03/04宮下が東京を発つ
  02/15片山潜が『社会新聞』第52号1ページに「議会と労働者」を発表する
  宮下太吉が旧知の森近運平にも元首暗殺の決意を打ち明け相談する
     森近は「自分には妻子があることだから」と計画への参加を断る
  02/坂本清馬が幸徳秋水と衝突し平民社を去る
     原因は1月に坂本と管野すがが2人で街から帰ったところ幸徳秋水がとがめたのがきっかけ
     同居をはじめたのは1908(明治41)8月14日まもなく
  02/管野すがは持病の肺結核がすすみ幸徳秋水の経済的援助に頼り鎌倉の寺に転地療養する
  02/石川三四郎が獄中での労作『西洋社会運動史』の清書を完成させる
     出版するべく努力するも不調に終わる
  03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳秋水は妻千代子と協議離婚【03/04?】
     結婚は1899(明治32)7月、婚姻届は11月8日に提出
     千代子を名古屋の姉須賀子のもとに送りだす
     姉須賀子の夫松本安蔵は名古屋控訴院の判事
     その方面から幸徳の社会運動には反対で干渉的にやかましく、妻千代子は夫と姉の間で困惑する
  03/04宮下太吉が東京を発つ
     途中、甲府に墓参に立ち寄り姉の嫁ぎ先山本久七方に1泊する
     03/05亀崎に帰る
  03/10松尾卯一太と新美卯一郎が飛松与次郎を発行人として『平民評論』の発行を計画
     【松尾卯一太を編集人、飛松与次郎を印刷人として?】
     警察に押収され出版による啓もう活動は不可能になる
     【月2回刊。発禁の連続に幾号も出ず倒れる? 創刊号のみ?】
     07/03判決が言い渡される
     松尾卯一太が禁錮10か月、飛松与次郎が禁錮8か月、罰金100円に
  03/10森近運平が運動から身をひき郷里岡山に帰る。園芸を営む
  03/18幸徳秋水が巣鴨から新宿駅に近い千駄ケ谷二子新町うらの新居に引っ越す
     平民社も豊多摩郡巣鴨村大字巣鴨2040番地から豊多摩郡千駄ケ谷町903番地(二子新町裏)へ移転
     鎌倉の転地先を払い東京に戻った管野すがが柏木の神谷別荘をたたみ千駄ケ谷へ
     管野は幸徳の平民社へ住み込み幸徳秋水の秘書となる。幸徳との同棲生活がはじまる
      管野すがが離れたのは、竹内善朔によると神谷別荘に下宿していた
      清国留学生の馬宗予に付きまとわれるのを避けるため、とも
     平屋建ての住まいには奥の8畳間が幸徳秋水の書斎、6畳間が同志の談話室、
     玄関わきの4畳半が管野すがの居間にm玄関と反対の4畳半に築比地仲助と新村忠雄が寝起き
     門前の小さな八百屋は警察が借り切り警官の屯所となる
     【宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに?】
     1910(明治43)03/22平民社が解散。幸徳と管野は千駄ケ谷を払い湯河原へ向かう
  03/18平民社が巣鴨から千駄ケ谷に移り、手伝いとして新村忠雄が滞在する。3月29日まで
     04/01新村忠雄が紀州新宮の大石誠之助のもと薬局の書生となり住み込む
  03/18群馬の築比地仲助が上京、千駄ケ谷の平民社に身を寄せる
     愛人社の古河力作とほか2人ほどの人夫が手伝う。荷物はごくわずかで軽く大八車1台にのるほど
  荒畑寒村のもとに管野すがから書信が届く
     幸徳の援助で転地療養したこと、幸徳が妻千代子と離別したことなどがつづられる
     荒畑は漠然としない不安を感じる
  救世軍の山室軍平がウイリアム・ブース80才祝賀会出席のため5回目の渡英
     大隈重信からの書状と、国民新聞社社長の徳富蘇峯からの2尺8寸の古刀ひと振りを携える
     04/10祝賀会が催される
     帰途山室はアメリカを通過する

  04/11前橋にて公娼新設反対演説会が行なわれる。田中正造が演説する

  04/15ほのほ会が勝屋英造の『火柱 第2巻第4号』を発行する
     04/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/23幸徳秋水が管野すがを連れ神田の丸利印刷へ
     『自由思想』初号の校正をすませ製版が終わり印刷を残すのみに
     日曜日にもかかわらず警視総監、署長が出動し印刷所の前後5か所の出入り口に巡査を配置する
     神田警察署長が印刷会社の社員を呼びだし『自由思想』を差し押さえようとする
     ただ、印刷者からは取り上げるわけにいかず
     発行所へ引き渡すと同時に差し押さえる手はずと伝える
     幸徳らは名義だけの署名人の中島寿馬に迷惑をかけることを恐れ印刷を見合わせる
     『自由思想』初号 4月25日発行予定 6ページ建て
     発行人編集人は中島寿馬、印刷所は丸利印刷、印刷人は印刷会社社員の鵜沢幸三郎
     1ページに発行の序と評論、英文
     2ページに内外の社会党無政府党に関する時事の報道、編集室だより
     3ページに小剣の芝居見物の話、龍子女史の短歌、幽月の日記
     4ページに同人の小説「檻車」
     5ページに須賀子の囚われの記、社会運動記事、個人の消息
     6ページに獄中同志の消息
     幻の『自由思想』となる
  04/28クロポトキン著『法律と強権』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  04/大杉栄の妻堀保子が『家庭雑誌』を復刊する
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     1907(明治40)8月に第5巻10号の全54冊で廃刊になっていた
     07/01第4号で発行停止、その幕を閉じる
  05/03丸利印刷にある『自由思想』初号の紙型を戸恒保三と竹内善朔がこっそり持ち出す
     のち佐野町高砂の増田惣八の家に預ける
  『自由思想』の体制を改める
     発行人編集人を中島寿馬から管野すがに、印刷人を丸利印刷の鵜沢幸三郎から古河力作になる
  05/04東京フレンド倶楽部が渋井福太郎の1枚ものの『破棄余勢』を発行する
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される
     新聞紙条例の成立は1875(明治08)6月28日
  05/07林泉寺住職の内山愚童が発行した『無政府主義 道徳非認論』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
  05/09谷田徳三が発行した1枚ものの『真に人類の幸福を計るものは何乎』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
  05/11『世界婦人』編集兼発行人の神崎順一に罰金100円の判決
     1908(明治41)9月5日発行『世界婦人』第28号掲載の革田命作の「最初の敵」が新聞紙条例第33号違反に
  05/21内山愚童が大阪で武田九平、三浦安太郎に会い革命談をする
     05/22内山が神戸で岡林寅松、小松丑治と革命談をする
  05/22幸徳秋水らは早めに刷り上がった『自由思想』第1号を国文社から引きとる
  05/25幸徳秋水が管野すがらと警視庁の警戒網を潜り『自由思想』を創刊する
     古河力作、村田四郎、戸恒保三、竹内善朔らの協力を得る
     発行は東京府下千駄ケ谷903の幸徳方、印刷所は東京国文社
     新聞半切判4ページ、定価4銭、月2回刊。発行兼編集人は管野すが、印刷人は古河力作
     警察は政府の高圧的な社会主義取締方針に従い「幸徳などの書いたものは絶対に禁止する方針」
     発禁の連続に幾号も出ず倒れる
     06/10『自由思想』第2号が発行。即日差し押さえられる。廃刊となる
     発禁の理由のひとつに掲載された大石誠之助が無門庵主人の筆名で書いた「家庭破壊論」
     07/10第1号が新聞紙法違反で東京地裁から発行人兼編輯人の管野に各50円、計100円の罰金が言い渡される【07/12?】
     発行禁止に
     07/13『自由思想』の廃刊届を提出
     07/15平民社を家宅捜索、諸帳簿を押収し、病床の管野が拘引される
     08/10第2号の出版法違反で幸徳秋水に70円、管野に140円の罰金刑の判決が下る
     09/01東京地裁が『自由思想』を発禁後に頒布した罪で管野に罰金400円の判決。管野は保釈され平民社にもどる
     罰金は総計710円に
     09/06管野が控訴を申し立てる
     1910(明治43)04/15幸徳、管野が『自由思想』の件について控訴を取り下げる
     05/18管野が『自由思想』発禁の罰金が払えず換金刑に服するために入獄
  05/25幸徳秋水が『自由思想』第1号の「編輯室より」に記す
     本紙は平民社に住居する、若くは出入りする二三の人々の思ひ立ちで発行するのです、
     此平民社は前に平民新聞を発行した平民社とは全く別物で、精神的には或は其継承者と
     いつても良いでせうが、事務的には何等の関係もありません、趣味思想の相近き数名の
     カムレードの倶楽部といへば倶楽部、商号といへば商号に過ぎないのです
  05/25午後6時頃、新宿署の高等刑事が平民社に『自由思想』第1号の差し押さえにやってくる
     【創刊号も発行当日に差し押さえ?】
     2千部ほどは発送し終え、残りわずか86部のみ
  05/25宮下太吉が幸徳秋水に手紙を書く
     爆裂弾の薬品の調合がわかり実験にかかると報告。主義のため斃れると記される
     05/28幸徳秋水が管野すがに代筆させ「爆裂弾ができることは大いに喜ばしい」と返辞をする
     管野すがが主義のため働きたい面談を望む書き添える
     【05/28宮下太吉が幸徳秋水に手紙を送る、すると幸徳が返信したのは?】
     06/06、07宮下が上京し平民社を訪ね、管野すがと幸徳秋水に元首暗殺計画を語る
     管野は新村忠雄、古河力作を推薦する【推薦したのは幸徳?】
  05/29林泉寺住職の内山愚童が発行した『来るべき革命ハ無政府共産』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
     国府津で拘禁される
     05/30出版法違反、爆発物取締法違犯で起訴される
     11/05内山は出版法違反並爆発物取締法違犯で禁錮2年、懲役10年の判決を受ける
  06/初宮下太吉が亀崎の工場から信州明科の製材所に職工長として赴任する
  06/05『貧乏人の福音』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  06/07、08杉村楚人冠が『東京朝日新聞』に「幸徳秋水を襲う」を書く
  06/06、07宮下太吉が東京千駄が谷の平民社に立ち寄る
     幸徳秋水や管野すがに天皇暗殺の相談を持ちかける。2人は賛成とも反対とも言わず
     新村忠雄と古河力作は思想堅固で信頼できる人物、幸徳が宮下に推薦する【推薦したのは管野?】
  『自由思想』第1号が新聞紙条例違反で告発される【5月25日発行当日に差し押さえたのとの違い?】
     「梟と蝙蝠」「倶楽部と賭博」「日糖事件」「緑陰漫語」などが忌諱にふれる
  06/10『自由思想』第2号が発行される
     印刷所は浅草区黒船町28番地の東京並木活版所
     即日差し押さえられ直ちに発売が禁止となる。廃刊となる
     発禁の理由のひとつに掲載された大石誠之助が無門庵主人の筆名で書いた「家庭破壊論」
     07/10第1号が新聞紙法違反で東京地裁から発行人兼編輯人の管野に各50円、計100円の罰金が言い渡される【07/12?】
  06/18元新潟県知事の柏田盛文が外濠線の電車内で金時計を盗まれる
     金時計は伊藤博文から贈られた記念品。柏田は赤坂警察署に被害を報告、捜査を依頼しする
     赤坂警察署長の本堂平四郎警視はスリの二大勢力・銀次と湯島の吉に出頭を命じる
     仕立屋銀次こと富田銀次郎側は誰も出頭せず
     のちスリ一掃の好機として銀次宅と関係先の質屋に踏み込む
     盗品と思われる品々と質屋の通い帳を押収する
     銀次は手持ちの金時計数個を手下に隠すよう渡す。手下は一部を売り払い持ち逃げ
     のち警察は銀次の確たる証拠がつかめず
     のち警視庁でも武東刑事課長、島谷掏摸主任らは湯島の吉、鼈甲勝などに内偵を進める
     証拠かためのため検挙し取り調べ
     11/05銀次を含め東京で親分株として子分を集めていたものを掃蕩
     従来の刑事とスリとの関係を断絶し取締を厳にすることに
     のちスリ仲間の統一、連絡がなくなり被害件数は激減する
  06/22赤旗事件1周年記念日にて幸徳秋水が竹内善朔、谷田徳三、原田新太郎、戸恒保三を招く
     赤旗事件の記念と『自由思想』の休刊式をかねた饗宴をひらく
  06/23午前10時、日暮里の妾宅にいたスリの親分仕立屋銀次と子分8人が逮捕される
     子分が前新潟県知事の持つ伊藤博文から贈られた銀時計を電車内で盗んだことから発覚
  06/25赤旗事件の特集が組まれるはずの『自由思想』第3号は陽の目をみず
  06/28東京フレンド倶楽部が岩田専助の1枚ものの『うき世』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/麻布区本村町203番地に東京市直営の絶江特殊尋常小学校が開校する
  06/上司小剣が『早稲田文学』6月号にゴシップ小説「閑文字」を発表する
     「君、東はM女史と怪しいぞ。君も知つてゐるだらう。M女史は愛人田原の後……」のような書き出しで始まる
     東が幸徳秋水、M女史が管野すが、愛人田原が荒畑寒村の仮名
     守田有秋から聞いた話を上司小剣がそのまま材料に使う
     のち小説と事実が混同されスキャンダルが広まり、幸徳秋水を傷つけることに
     1934(昭和09)03/『中央公論』3月号掲載の上司小剣の「U新聞年代記」に幸徳秋水の長い手紙が載る
  幸徳秋水は周囲の離反を承知の上で管野すが1人を守る、はっきりした態度をとる
  宮下太吉が爆裂弾の製法を研究、辞典を調べでも分からず
     花火が盛んな亀崎地方にある亀崎工場の職工で花火に精通する松原徳重に事情を明かさず尋ねる
     教えてもらえず
     のち爆裂弾の薬が塩酸加里10に対して鶏冠石5の割合でできることを知る
     07/04甲府前柳町3丁目の百瀬康吉薬店から塩酸加里2ポンドを買う
     明科で爆弾の製造に着手するも役に立たず犀川に捨てる
     07/10宮下が三河国碧海郡高浜村の機械製造業内藤与一郎に鶏冠石が必要だから買ってくれと手紙で1円を送る
     のち鶏冠石2ポンドを得る
  07/01家庭雑誌社の中原幸吉が『家庭雑誌 第6巻第4号』を発行する
     07/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/05『世界婦人』第38号掲載の3つの文章が筆禍発禁に
     石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が
     08/10「墓場」ほかの事件で編集兼発行人の石川が罰金100円の判決を受ける
     検事が不服として直ちに控訴する
     1910(明治43)01/22控訴審判決で禁錮4か月、罰金60円と言い渡される
  07/10『自由思想』第1号の新聞紙条例違反事件で東京地方裁判所は有罪の判決を言い渡す【07/12?】
     発行兼編集人の管野すがは各罰金50円、計100円に処せられる
     『自由思想』は発行禁止を命じられる
     07/13平民社が『自由思想』の廃刊届を提出する
     07/15平民社が警察の臨検捜査をうける【家宅捜索?】
     編集簿、会計簿、著者名簿、社友名簿など諸帳簿が押収される
     同時に府下の5、6の同志の家宅捜査が行なわれる
     07/15病床の管野すががその場で拘引される
     発禁後の『自由思想』第1号、第2号を頒布した嫌疑により新聞紙法違反として刑事訴追をうける
     このとき第1号72部、第2号211部が差し押さえられる
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 四季の歌 壱号』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 浮世』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/16国民後援会の加藤清(内山愚童)著『帝国軍人 座右之銘』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1908(明治41)11/20刊]
  07/17『赤旗記念 暴力と無政府主義』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  07/19幸徳秋水が検事局の取り調べをうける
  07/19宮下太吉が新宮の大石誠之助の薬局を手伝う新村忠雄に手紙で大逆計画を告げる
     塩酸加里の送付を依頼する
     08/06新村は大石の取引店畑林薬店から1ポンドを求め小包で宮下あて送る
     08/10宮下が受け取る
  07/20黒白社がゴルキー著、田岡嶺雲訳の『三人』を発行する
     発行者は田岡。定価40銭
  07/20学友会の杉山伊三郎が『学友会雑誌 第26号』を発行する
     07/27発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/31午前4時20分、大阪の北区空心町2丁目のメリヤス業宅から出火
     08/01午前4時ごろまで一昼夜にわたって燃え続ける。「北の大火」
     東北からの疾風にあおられた火は福島地区まで到達
     上下水道は普及していたものの水圧が低く消火活動はままならず
     火の進行方向の建物をあらかじめ破壊・倒壊させておくも延焼は止められず
     堂島大橋北詰付近でようやく鎮火
     罹災面積36万9438坪、焼失戸数1万1365戸ほか多くの公共施設が消失、罹災者約4万5千人

  07/31〜08/01大阪の曽根崎が大火に見舞われているなか、大阪婦人矯風会の会頭林歌子が立ちあがる
     林は東京の矢島楫子と島田三郎に電報を打ち、曽根崎遊廓の再興反対運動をおこす旨を告げ協力を求める
     08/05林歌子は有志者の連名を集め内務大臣あて陳情書を提出する
     大阪全市の婦人に協力を求め演説会を展開する
     08/09大阪市内の基督教徒が集会を開き廃娼に立ちあがる
     矯風会のみに一任せず協力運動をすべしと決議
     直ちに加藤直士に執筆を乞い平田内務大臣と首相や文相に4人連名の陳情書を提出する
      大阪市内牧師総代 長田時行
      大阪市内基督教信徒総代 石橋為之助
      大阪市基督教青年会主事 佐島啓助
      大阪婦人矯風会会員総代 林歌子
     のち林歌子ら婦人矯風会と基督教徒らがたがいに協力運動をしようと協議、
     大阪市内の牧師会、基督教徒、基督青年会、大阪婦人矯風会が連名で総理大臣、文部大臣、内務大臣に陳情書を提出する
     のち在留宣教師24人の連署をもって英文の建白書2通を草する
     1通を大阪府知事の高崎親章に
     1通は8月14日にグリーソンが携行出京し内務大臣に手交する
     08/14大火から2週間後、土佐堀青年会館で第1回演説会を開く【第1回曽根崎遊廓廃止市民大会?】
     弁士は東京からメソジスト教会監督のハリス博士、婦人矯風会会頭の矢島楫子が応援する
      司会は長田時行、名出牧師の祈祷、林歌子の開会の辞
      矢島楫子の「教育上より観たる遊廓移転」
      英国宣教師ワーレンの「遊廓移転に対する同盟国民としての意見」
      加藤直士の「廃娼論者高橋知事に問う」
      石橋為之助「遊廓移転問題に関する予の管見」
      ハリスの「遊廓移転に対し親善国民としての意見」、などを演説
     林歌子が約千人の聴衆の前で売春の非人間性と遊廓業者の非道ぶりを訴え共鳴を得る
     演説会の席上、満場の賛成を得て「遊廓移転青年期成同盟会」を組織することに
     08/16遊廓移転青年期成同盟会が決議
      本会は高崎府知事が若し此千載一遇の好機に際し、北廓移転問題に対する健全なる市民の与論を無視して、
      依然大阪市の玄関に遊廓を存置せしむるに於ては是れ市の体面を汚し風教上百年の体計を誤るものなりと認め、
      茲に其猛省を促す者也
      右決議す
     のち林歌子が上京委員として出張
     内務大臣大隈伯ほか朝野の諸名士に運動して尽力を乞う
     のち青年期成同盟会が500人の会員を得て10数万枚の印刷物を配布
     大阪全市を35区にわけ各分担区域を定めて戸毎に賛成を勧誘
     加藤直士、永江為政、田口タケらは日夜東奔西走し代議士や府市会議員ほかの有力者を訪ね遊廓の移転を訴える
     08/22日曜日、市内の各教会が遊廓に関する説教を一斉に行なう
     08/22病のため第1回演説会に来援できなかった島田三郎が意見書を寄稿
     『大阪毎日新聞』が紙上に発表する
     08/25青年期成同盟会が中之島中央公会堂で第2回大演説会を開く
     5千人をかぞえるこの大会を「市民大会」を位置づけることに【約2千人を集める?】
     今回は島田三郎が来援、異常な緊張を示し聴衆5千満堂の盛況に
     司会は加藤直士、弁士は長田時行の「開会の辞」、大阪時事記者山田芳彦の「娼妓と便所」、
     弁護士松岡帰之の「遊廓移転問題の解決」、府議清水常次郎の「高崎知事の誤解」、
     府議松木武兵衛の「吾人の大覚悟」、牧師柳原浪夫の「正義の勝利」、府議西海作次郎の「移転に就きて」、
     牧師名出保太郎の「市民の良心は覚醒せり」、弁護士善積順蔵の「市民の反省を望む」、
     島田三郎の「市民大会を祝す」など
     08/26前日に引き続き第3回大演説会が中の島公会堂で開かれる
     定刻前に早くも4千人の来場者があり、満員の札を貼るも無理に押し入るほどの盛会に
     日野原善輔の司会で、加藤直士、代議士の武内貞之助、市議の石井鈎三郎、
     弁護士の善積順蔵、弁護士の河谷正蔵ら諸氏が熱弁をふるう
     また東京から来援の山室軍平、島田三郎の演説があり多大の感動を与えることに
     のち市民大会は決議案実行のため40人の実行委員を推挙
     08/28遊廓移転期成会を組織し遊廓移転青年期成同盟会とは別働隊として活動することに
     遊廓移転期成会は、婦人矯風会や宗教家の手を離れ純市民の団体に
     訪問委員、陳情委員、勧誘委員など各委員を設け活動を開始
     のち青年期成同盟会と遊廓移転期成会が集めた1万9500人記名調印の陳情書を平田内務大臣に提出する
     【遊廓再興反対の陳情書? 遊廓移転の陳情書?】
     09/04青年期成同盟会主催で第4回大演説会が青年会館に開かれる
     弁士は牧師の馬場●【金偏に生】作、ドクトル緒方●【金偏に圭】次郎、
     市議の石井鈎三郎、京都同志社社長の原田助、成器商業学校校長の遠藤三吉、渡瀬常吉ら
     会場は満員の盛況
     のち大阪府知事高崎親章が述べる
     「人間の性欲上、醜業婦の生ずるのを目下防止することは出来ぬが、
      しかしこれは公許すべきものでなく、隠密に附すべきである」
     09/10活発化した遊廓移転運動に高崎大阪府知事は大阪府告示第315号を発する
     大阪市北区曽根崎新地貸座敷免許地は明治43年3月末限り之を廃止す
     反対派は遊廓移転で満足するつもりの運動が廃止の決定に驚き
     09/23中の島公会堂にて2つの期成会の盛大な解散式が行なわれる
     「遊廓移転青年期成同盟会」と「遊廓移転期成会」

  07/入獄中の荒畑寒村と内縁関係にあった管野すがと、幸徳秋水との恋愛問題が同志のあいだで物議をかもすことに
     在京の青年主義者のうち幸徳から離反する者が多くなる
     幸徳と管野は孤立状態に立つ
  夏/片山潜が東洋経済新報に入社。働きながら運動を続ける
  08/01良友会が田島竜夫の『良友 第95号』を発行する
     10/05『良友 第96号』『良友 第97号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/06新村忠雄が大石誠之助の取引店畑林薬店から塩酸加里1ポンドを求め小包で宮下太吉あて送る
     宮下が新村に薬品の送付を依頼したのは7月19日
     08/10宮下が受け取る
  08/07『自由思想』第2号事件の公判が開かれる
     08/10発行兼編集人の管野すがに140円、筆者の幸徳秋水に70円、計210円の罰金刑が言い渡される
     刑が軽いと検事控訴をうける
     【第2号掲載の大石誠之助筆「家庭破壊論」の件で東京地裁にて公判?】
     【幸徳秋水が罰金70円、管野すがが編集発行人として70円の判決?】
  管野すがが公判廷で幸徳秋水と顔を合わせる
     管野が幸徳から青年同志の戸垣や竹内らが離反した経緯を聞く
     管野は問題の紛糾化に驚き幸徳との結婚を荒畑寒村に知らせ確認させる必要を認める
  08/11岐阜の神岡鉱山で暴動が起きる
  08/14獄中の管野すがが千葉監獄の荒畑寒村に書信を送る
     幸徳秋水との結婚を知らせ、離婚の確認をさせるため内容
     荒畑は怒る気も起こらず、救われた解き放たれたように軽くさえなる
     09/06荒畑が管野に返事をだす
     荒畑は「僕はここで謹んで秋水兄とアナタとの新家庭の円満、幸福ならんことを祈るのみです」と返事
  08/29『東京朝日新聞』がインタビュー記事「東京の女」の連載をはじめる
     筆者は松崎天民、10月22日まで50回にわたる。第1回は原胤昭
     08/302・森律子08/313・娼妓09/014・紅葉館の女中09/025・島貫09/036・長谷川時雨
     09/047・流行美顔09/058・女役者09/069・与謝野晶子09/0710・吉原病院内の娼妓
     09/0811・伊井芙蓉の夫人09/0912・新橋の花売娘09/1013・鷲山弥生子09/1114・女義太夫
     09/1215・女罪囚09/1316・菅野須賀子09/1517・女髪結09/1618・鉄道出札係09/1719・催眠術中の女
     09/1820・新舞踊の師匠09/1921・売春婦09/2022・常陸山の夫人09/2123・国木田治子
     09/2224・四竈蘭子09/2325・当世女店員09/2426・岡田八千代09/2627・電話交換手
     09/2728・青山善光寺の尼僧09/2829・雛妓栄竜09/2930・下田歌子09/3031・中村芝翫の夫人
     10/0132・日本女子大学寄宿寮10/0233・下山京子・磯村春子10/0334・哥沢土佐・哥沢芝金
     10/0435・嘉悦孝子10/0536・御料莨の女工10/0637・河村家妻次10/0838・後藤逓相の夫人
     10/0939・遊女屋老女将10/1040・小崎牧師の夫人10/1141・新橋金寺島の千代子10/1242・鈴木徳子
     10/1343・当世女判任官10/1544・吉田竹子10/1645・西尾鏡子・西尾さち子10/1746・市川翠扇・市川旭梅
     10/1946・大山元帥の夫人10/2048・歓喜楽の女将おきん10/2149・錦織梅子10/2250・出歯亀の女房
  08/頃入獄中の管野すがが紀州新宮の大石誠之助方で薬局生をする新村忠雄へ手紙を送る
     幸徳秋水が病気をして困っているから、帰って世話をして欲しいと記される
     08/20新村が新宮を発し上京して平民社に同居する
     新村忠雄は2月の前橋監獄出獄後、巣鴨平民社、千駄が谷平民社、紀州新宮、千駄が谷平民社へ
     一度も郷里の信州に帰っておらず、管野すがの出獄を機に郷里に帰ろうとしたとき管野から手紙
     管野から宮下太吉が爆裂弾を作り天子を斃そうとしていると打ち明けられる
     09/15新村忠雄が長野に帰る【09/10新村忠雄が郷里の信州に帰る?】
     09/22新村が宮下太吉を訪ね計画を伝える【09/28?】
  09/01東京地裁が『自由思想』発禁後頒布の件で管野すがに罰金400円の判決を下す。罰金は総計710円に
     管野は判決後身柄釈放され平民社に帰る
     09/06管野が控訴を申し立てる
     1910(明治43)04/15幸徳、管野が『自由思想』の件について控訴を取り下げる
  09/01保釈された管野すがは幸徳秋水、新村忠雄と天皇暗殺、20、30人の同志による暴動などを協議する
     管野すがが天皇暗殺を決意。新村忠雄も管野より宮下太吉の計画を聞き同意する
  09/01良友会が田島竜夫の『良友 第96号』を発行する
     10/05『良友 第95号』『良友 第97号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/04ドイツの新聞記者ウエルト・ハイメルが千駄ケ谷の幸徳秋水を訪問
     ハイメルは幸徳と管野すがとの関係について質問すると、幸徳は管野はわが妻で、恋愛は自由であると答える
     日本の結婚制度の弊害について、また無政府主義運動と日本の現状について論じる
     09/05ハイメルからお礼の意味で菓子折が送られる。また写真が欲しいとの手紙がそえられる
     09/08幸徳秋水は管野すが、新村忠雄、福田武三郎、百瀬晋、村木源次郎を連れ小石川区大和町の吉見写真館へ
     記念撮影をする

  09/10活発化した曽根崎遊廓の移転運動に高崎大阪府知事は大阪府告示第315号を発する
     大阪市北区曽根崎新地貸座敷免許地は明治43年3月末限り之を廃止す
     反対派は遊廓移転で満足するつもりの運動が廃止の決定に驚き
     09/23中の島公会堂にて2つの期成会の盛大な解散式が行なわれる
     「遊廓移転青年期成同盟会」「遊廓移転期成会」

  09/中旬幸徳秋水が来訪中の奥宮健之に皇帝暗殺の効果を問う。奥宮は否定する
  09/28新村忠雄が長野県筑摩郡東川手村字潮の藤原三津蔵方に宮下太吉を訪ねる【09/22?】
     新村は管野すがらと相談したことを詳しく宮下に話す
     宮下は爆裂弾の製造が上手くいかないと話す
     宮下は新村に薬を砕くために薬研がいるから買ってほしいと頼む
     新村は買うのは危険と有賀信義の妻西村八重治から借りうけて、兄の新村善兵衛に届けさせる
     のち新村善兵衛はこれだけの行為で懲役8年に処せられる
  09/30新村忠雄が出京し平民社へ。幸徳秋水、管野すがに伝える
     宮下太吉と打ち合わせたこと、薬研を借りたこと、
     宮下が爆薬の処方を経験者きに聞きたがっていることなど
  09/金尾文淵堂が白柳秀湖の『新秋』を発行する
  10/01良友会が田島竜夫の『良友 第97号』を発行する
     10/05『良友 第95号』『良友 第96号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/08夜、用事で外出した管野すがが1町ばかり行ったところで突然、脳充血をおこし道端に倒れる
     尾行の巡査が意識不明の管野を背中におぶり千駄が谷の平民社に連れもどる
     幸徳秋水の8畳の書斎に臥かせる
     医師の診断によると「神経衰弱からきた激烈なヒステリー」とのこと
     本人の子宮がわるく婦人科疾患もからみ『自由思想』の悪戦苦闘、入獄の苦痛、
     罰金の重荷、警視庁の同志離間策など刺激材料が重なっての発病となる
     発熱甚だしくうわごとで武富検事のことをしきりと口走る
     10/30加藤病院に入院する
     11/30管野の病状が快方にむかい退院する
  10/上管野すがの病気見舞いに奥宮健之が平民社を訪ねる
     たまたま幸徳秋水が爆裂弾の製法を奥宮に聞く
     奥宮は用途について知らないままに爆弾の製法を幸徳に伝える
     塩酸加里6分に金硫黄4分の割合で調合し鋼鉄片を加え金属性円筒形の小缶に装填し外部を針金で巻くというもの
     【のち奥宮は友人の西内正基から聞きだし幸徳に伝える?】
     のち製法が幸徳から新村忠雄をへて宮下太吉に伝えられる
  10/上旬古河力作が平民社を訪問
     管野すが、新村忠雄と3人で語り合う。日本の迷信を覚ますため元首をやらねばならぬという話がでる
     古河は宮下太吉が爆弾製造の研究をしていると聞かされる。計画を聞いた古河は反対できずに同意する
  宮下太吉の下宿に薬品材料や薬研が揃う。野寺巡査が同居し薬研を使うのに不便を感じる
     宮下は同僚の新田融に事情を打ち明け新田の家で鶏冠石を粉末にする
  10/228月29日からはじまった『東京朝日新聞』連載の「東京の女」が第50回の「出歯亀の女房」で終了となる
  10/26枢密院議長の伊藤博文がハルビン駅に降り立つ
     ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れる
     黒服にハンチング帽の安重根が4、5メートルの距離から、伊藤に向かって銃弾を浴びせる
     安重根は韓国の民族運動家
     3発が伊藤に命中。うち、2発が両肺と胸膜を貫通。致命傷となり午前10時に絶命
     [1841(天保12)10/16《09/02》生]
     11/04日比谷公園で国葬が営まれ、関係者5千人が参列
     1910(明治43)03/26安は旅順の監獄で絞首刑に処せられる
  10/下旬宮下太吉が製材所に出入りするブリキ屋臼田鍋吉に長さ2寸位、直径1寸位の亜鉛引缶5個を作らせる
  10/30管野すがが重態で加藤病院に入院する
     幸徳秋水は郷里の家屋敷を手放し療養費を作る
     11/30病状が快方にむかい退院する
     以後通院するようになる
  10/諏訪郡堺村の小池伊一郎が共産主義から農民労働者を目覚めさせようと農民喚醒会をつくる
     1910(明治43)06/大逆事件と相前後して発覚し14人が検挙
     のち検挙から3か月経たずに治安警察法違反で最高禁錮刑8か月の判決を受ける
     会は「共産主義ノ見地ヨリ農民労働者ノ覚醒ヲ促カシ該主義ノ研究及ヒ伝播ヲ以テ目的トス」の規則をもつものの
     実質的活動はほとんどなく、秘密結社としての断罪は大逆事件の検挙、裁判と意図を同じくする弾圧第一主義に
  11/02大杉栄が入獄中、陸軍予備少佐の父東が東京丸の内の胃腸病院で死去。49才
     死後の整理は、獄中からの大杉栄の指示で堀保子があたる
  11/02室蘭の日本製鋼で暴動が起きる
  11/03午後7時から8時の間、宮下太吉が1個の缶を明科の裏山にあたる大足山の山中で岩になげつる
     缶のなかは爆薬と数個の小石を混ざり詰まる
     【11/10? 明科の山奥、会田川沿いの通称継子落しで爆発の実験に成功する?】
     耳をつんざく爆音と激しい爆風で5、6間離れた宮下は危うく吹き飛ばされそうになる
     ちょうどその頃、松本市内で天長節を祝う打ち上げ花火の音が明科の町にも聞こえ爆音を疑う者もなく
     のち宮下は残り4個の缶は万一を慮り工場の汽缶に入れ焼き捨てる
     のち宮下は興奮を抑えながら新村忠雄と管野すがに手紙をかき報告する
  11/05内山愚童が出版法違反並爆発物取締法違犯で禁錮2年、懲役10年の判決を受ける
  11/05銀次を含め東京で親分株として子分を集めていたものを掃蕩
     従来の刑事とスリとの関係を断絶し取締を厳にすることに
     のちスリ仲間の統一、連絡がなくなり被害件数は激減する
  11/30加藤病院に入院していた管野すがの病状が快方にむかい退院
     以後通院するようになる
  11/新村忠雄や管野すがらは幸徳秋水を文筆の人であるとして意識的に宮下の計画から遠ざけるようにする
     幸徳秋水自身も心境の変化をきたし、ひそかに前線的な直接行動より身を引き、著述に専念する意を抱く
  12/01至人利真人道発行所の井伏太郎が『至人道 真人道 第95号』を発行する
     1910(明治43)01/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  幸徳秋水が、宮下の計画に加わって倒れるのは主義のためにも利益でないと考えるようになる
     「先制のみような人は知識上の伝導をやる方が主義のためにもよいから、今回の計画から退いた方がよかろう」
     新村忠雄からも同じように言われる
  12/10遊星社が堀江(閑山)定四郎の『小説 嗚呼九年 上』を発行する
     定価1円。郵送料8銭
     1911(明治44)01/14発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/15文光堂の野口安治が『秀才文壇 第9巻第27号』を発行する
     12/17発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/2421才の賀川豊彦が神戸の葺合新川の貧民窟に入る
     1914(大正03)08/アメリカ留学のため4年8か月続いた貧民窟での生活から離れる
  12/31爆裂弾の製造に自信を得た宮下太吉は新田融に拵えさせた2個の缶と薬品を携え上京する
  12/救世軍の大学植民館に「貧民医療部」が設けられる
     のち救世軍病院への動機となる
  年末日本の芸妓3万5702人、娼妓4万7541人、酌婦3万2694人、計11万5937人
     日本の貸座敷1万0831軒、待合茶屋1693軒、計1万2524軒
     1898(明治31)、1910(明治43)、1911(明治44)、1912(大正01)にも同様の比較統計あり
  『東京毎日新聞』の経営が芳しくなく報知新聞社に身売り。報知の傍系紙として存続する
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     のち報知でも持て余す存在に
     1914(大正03)ジャーナリストの山本実彦に譲渡
  神近市子が北九州の八幡にいる姉夫婦を訪ねる
     日曜礼拝に出かけると教会の牧師夫人が活水のクラスメイトの姉とわかる
     また竹久夢二や環らに出会い、活水を卒業してアメリカに渡る夢をすて、東京にでて勉強に励むことに
     神近は姉夫婦に故郷へ帰ると嘘をつき、上り列車で門司から関門海峡をこえる
     のち京都で途中下車して退職した河井先生を訪ねる
     2泊して東京行きの列車に乗り込む
     活水女学校は中等科3年で退学。上京して受験勉強をはじめる【中退?】
  衆議院の議会に普通選挙法案を国会に提出するも審議の結果、否決される
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら
     1910(明治43)提出するも否決
  道府県別の娼妓の数と貸座敷の数
     北海道2271/362、東京6834/564、京都2461/1812、大阪6280/1783、神奈川2684/166、
     兵庫1742/226、長崎2185/243、新潟1509/409、埼玉150/22、群馬−/−、千葉274/37、
     茨城264/44、栃木681/96、奈良385/50、三重1621/380、愛知2137/364、静岡612/125、
     山梨187/25、滋賀319/321、岐阜687/84、長野999/152、宮城432/60、福島649/119、
     巌手351/85、青森622/157、山形809/171、秋田344/84、福井454/208、石川425/454、
     富山453/287、鳥取130/48、島根70/35、岡山514/169、広島1647/339、山口833/171、
     和歌山171/17、徳島123/79、香川451/119、愛媛184/41、高知304/45、福岡1372/145、
     大分253/58、佐賀323/68、熊本1215/96、宮崎110/20、鹿児島317/21、沖縄763/470
     合計4万7541/1万0831
     【滋賀、石川は娼妓の数より貸座敷数の方が多い?】
     1912(大正01)同様の比較統計あり
  この年の小作組合数は41


1910(明治43)

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎
  《内務大臣》[第26代]平田東助
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎
  《内務省警保局局長》有松英義


  01/01信州の宮下太吉が2つの空罐を持参し千駄が谷の平民社を訪ねる
     宮下は平民社の座敷で持参した空き缶を畳に投げる
     幸徳秋水、管野すが、新村忠雄は空罐の投てきをかわるがわる試み実験
     宮下は実行方法について詳しく相談するつもりが元旦のことで、まとまった話もできず
     01/01午後、宮下は新宿から汽車で甲府へ。山本久七方に2泊する
     01/03夜6時30分に明科に帰る
     01/23管野すが、新村忠雄、古河力作の3人が天皇暗殺計画の実行方法を協議
     天皇の馬車に対して誰がどう投げるかなど
     幸徳秋水は乗り気がせず不参加。暗殺計画から除外することに
  01/01井伏太郎真人道発行所の井伏太郎が『井伏太郎 真人道 第96号』を発行する
     01/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/02夜、古河力作は宮下太吉が上京することを知り平民社を訪ねる
     宮下は帰郷したあとで会うことはできず、疑問を抱く
  01/03電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の被告山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  01/03救世軍の特別集会が神田橋詰めの和強楽堂で開かれる
     集会が終了するまぎわ、ホッダー少将がひとりの入隊員の村松愛蔵を紹介する
     村松は1884(明治17)4月に自由民権を鼓吹し11月には飯田事件の中心的人物になり軽禁錮7年に
     のち、代議士になるも1909(明治42)の日糖事件に連座し
     その年の12月に出獄すると、直ちに救世軍本営の山室軍平を訪ね入隊
     のち村松は救世軍の諸々を転任
     1913(大正02)12/本営の身の上相談部の主任になる
     1929(昭和04)06/72才で隠退するまで2万8600余件の相談事件を扱う
  01/05、06頃北豊島郡滝野川村の読書クラブ「愛人社」で川田倉吉が新年宴会を催す
     「愛人社」は小野木守一が設立した社会主義者の読書クラブ
     幸徳秋水は招かれるも出席はせず
     川田の頼みに応えて勅題に因み一首を唐紙箋に書いて贈る
  01/13明け方近く、吉川守圀が千葉監獄を満期出獄する
     門外には父と千葉警察署から差し向けの刑事が2人
     両国駅には同志数人が出迎える
     吉川が幸徳秋水と管野すがが同棲しているという話を聞く
     吉川守圀が平民社を訪れ、幸徳と管野すがに同棲問題を詰問する
     【吉川守圀が平民社を訪れるのは1月22日?】
  01/19片山潜、中村太八郎らが普通選挙協議会の開催を決定
     02/03片山ら12人が築地精養軒にて協議会を開催
  01/19至人利真人道発行所の井伏太郎の『至人道 真人道 第95号』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1909(明治42)12/01刊]
  01/203日出獄の山口孤剣と13日出獄の岡千代彦、吉川守圀、樋口伝とともに出獄者歓迎新年宴会が開かれる
     みな電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の被告として入獄
  01/22吉川守圀が詰問のため千駄が谷の平民社を訪ねる
     幸徳の家の向かいの空き地には1間に1間半ほどの白と赤のテントが張られる
     2台の縁台をならべ毛布にくるまった5、6人ね男性のうち2人が吉川の前に立ちふさがる
     吉川は住所、氏名、来意をたずねられ、帯を解かれ身体検査をうける
     吉川が座につくと同棲問題をつっこむ。幸徳秋水は困ったように答える
     「山口孤剣も赤羽一も出獄するとすぐやってきて詰問した
      赤羽はさんざん僕を罵り席を蹴って帰りざま「男なら恥を知れ」といった
      僕は謹んで承った。君の言も謹んで承る。僕は悪魔のごとく言われている」
     幸徳は消沈の面持ちで吉川に語る
     ランプが点ると吉川はあわてて辞去し戸外へ飛びだす
     吉川は再び刑事に囲まれ厳重な身体検査を受け足袋まで脱がされる
  01/22東京控訴院で石川三四郎に禁錮4か月、罰金60円、『世界婦人』の発行禁止が言い渡される
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     03/28筆禍事件の判決が確定し石川が入獄する
     07/28石川が出獄。福田英子の家に戻る。まもなく家宅捜索を受ける
  01/23午後。神奈川県の七里ケ浜沖の相模湾で、ボートが突然の北風にあおられ転覆
     乗っていた12人全員が遭難する事故が起きる
     転覆したボートには逗子開成中学校の生徒11人と、逗子小学校の生徒1人が乗船
     02/06学校と増上寺の共同による追悼大法会が学校校庭で開かれる
     鎌倉女子校の生徒らは、鎮魂歌として『真白き富士の根』をうたう
     作詞は逗子に住む鎌倉女子校の教諭三角錫子。タイトルは『真白き富士の嶺』とも、『七里ケ浜の哀歌』とも
  01/25古河力作が平民社を訪ねる
     幸徳秋水は病気で8畳間に臥し、管野すがは銭湯にいき不在
     古河は新村忠雄と茶の間で実行方法について相談する
     【古河は新村忠雄、管野すがらと暗殺計画の実行方法について協議する? 管野はいたの?】
     幸徳を計画から外す話となる
  01/末頃幸徳秋水が管野すがに、しばらく土佐に帰り著述をしようと語る
     幸徳秋水が宮下太吉や古河力作の計画より遠のく
  01/救世軍本営に「身の上相談」の窓口が設けられる
     忠告や保護を求める者が1年半で600件を越えることに
     相談者は、夫にすてられた妻、家出人、失業者、病苦に悩む者、
     泊まる宿なく事業に失敗し自殺を企てる者、罪禍に苦しむ者、
     醜業婦、囚人、賭博者など
  02/上赤旗事件で千葉監獄に収監されていた荒畑寒村と宇都宮卓爾が満期出獄する
     入獄は1908(明治41)8月29日
     荒畑は入獄中に幾千足もの横鼻緒をつくるが監獄からの工賃は大枚1円数10銭に過ぎず
     のち荒畑はしばらく放浪する。大阪でピストルを入手する
  02/05明道会の植松直信が『明道 第47号』を発行する
     02/25発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/06新村忠雄が宮下太吉を訪ね、秋季の決行について相談する
     03/25新村が宮下を訪ね決行期日を秋の陸軍大演習の日と提案する【2月6日との違いは?】
     05/17管野、新村、古河が暗殺実行の順番をくじ引き
  02/11京都電気鉄道会社の車掌、運転士が長時間労働の反対ストライキを起こす
  02/28片山潜らが田川大吉郎らの普選法案を議会に提出
     03/06呼応して上野精養軒で普通選挙大会を開催。300人
  02/幸徳秋水が友人の小泉三申より『通俗日本戦国史』の執筆を依頼され承諾する
     【幸徳秋水が小泉策太郎の勧めで『通俗日本戦国史』の編纂に従うこととなる?】
  松井伯軒、細野次郎、石川半山、小泉策太郎ら幸徳秋水の友人らが幸徳の健康を案じる
     幸徳の身辺が低迷し、いやでも革命運動から離脱させねばと考えるようになる
     のち幸徳の気持ちの動作を知った細野と松井は山県と親交ののある内務大臣の平田東助を訪ねる
     幸徳が過激な雰囲気の運動から離れており、政府としても取り締まりを寛大にしてくれるよう申し入れる
     のち警視総督の亀井英三郎と親しい細野は、小泉と同道し亀井の私邸を訪ね幸徳の救出を求める
     亀井は自身の力の及ぶ限り、幸徳の身辺監視に手心を加えるよう約する
     のち湯河原に閉居する幸徳が1人の尾行もつかずゆうゆうと過ごせたのは、それがため
  03/07総人の至利真人道発行所の井伏太郎が『総人の至利 真人道 第121号』を発行する
     03/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/13黒瀬春吉が『長編小説 沙漠(分本第1(前付))』を発行する。発行所は不明
     03/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22幸徳秋水が家財を処分し東京千駄が谷の平民社を引き払う。平民社は解散
     新村忠雄が信州から上京し引き上げを手伝う
     新村が管野に報告する
     宮下太吉といろいろ相談したこと、爆裂弾の試験をすると非常に効力があったことなど
     新村は決行の時期について、宮下は天長節にというが警戒が厳重だから前後の日を選ぶ方がよい
     実行のとき管野は合図役になってもらったらよいとすすめる
  03/22幸徳秋水と管野すがが同伴し伊豆湯河原に向かう
     伊豆湯河原温泉旅館天野屋に逗留する
     友人小泉三申の勧めで『通俗日本戦国史』の執筆をはじめる
     歴史書『通俗日本戦国史』は全10巻、各巻1千ページ、編集経費約6千円という構想
     のち『通俗日本戦国史』の出版が頓挫。小島が出版資金をだせなくなる
     05/01管野が著作作業に従事しはじめた幸徳のもとを去る
     のち幸徳が拘引されることに
     『通俗日本戦国史』は「通俗日本戦国史編集趣意書」「編集の方法計画」を記したのみ
  03/26安重根が旅順の監獄で絞首刑に処せられる
     安は前年10月26日にハルビン駅にて、枢密院議長の伊藤博文を射殺
  03/28石川三四郎が編輯兼発行人を務める『世界婦人』の筆禍により入獄【新聞紙法違反?】
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     のち石川が獄中で内山愚堂に会う
     04/26石川が千葉県千葉町貝塚の千葉監獄に移される
     のち堺利彦、西川光二郎、大杉栄、山川均らに会う
     07/28石川が千葉監獄を出獄する
     渡辺政太郎、斎藤兼次郎、吉川守圀、添田平吉、原子基らが両国駅に出迎える
     福田英子の家に戻る。まもなく家宅捜索を受ける
  03/坂本清馬が佐藤庄太郎に爆弾の製法をきく
  03/幸徳秋水が伊豆湯河原の天野屋旅館で高島米峰主宰の『新仏教』から依頼の「基督抹殺論」の執筆をはじめる
     06/01幸徳が湯河原の天野屋旅館を出立した直後、東京の判検事一行に拘引
    「基督抹殺論」の原稿は当局に押収される
     11/09大逆事件の予審終了後、幸徳秋水が押収された『基督抹殺論』の草稿の返還を請う
     幸徳は当局の許可を得て獄中で稿を続ける
     11/20予審終結と公判開始の中間に獄中で「基督抹殺論」を脱稿
     すぐ幸徳は出版方法を堺利彦に依頼。意中の出版人に高島米峰をあげる
     のち当局の担当課員が個人として諸家数編の序跋類の不掲載を高島に申しでる
     1911(明治44)02/01高島米峰主宰の丙午出版社より『基督殺論』が刊行する。定価70銭
     幸徳の刑死後9日
     菊版、本文148ページ。巻頭に著者の「序」、巻尾に高島米峰の跋文がつく。初版は1千部
      雪嶺迂人(三宅雪嶺)の「序」、堺利彦編の「獄中消息」、堺の「基督抹殺論の後に記す」
      田岡嶺雲の「最後の別れを懐ふ」、高島米峰の「幸徳秋水と僕」の5編が省かれる
     発行所は東京市小石川区原町6番地の丙午出版社、発行者は高島大圓
     印刷所は東京市京橋区西紺屋町27番地の秀英舎、印刷者は佐久間衡治
     02/08初版1週間で再版となる
     のち重版は7、8千部に達しベストセラーに
     のち続く1か月で7版を重ねる
     1954(昭和29)09/05林茂、隅谷三喜男編で岩波文庫の1冊として刊行
     初版本に収録できなかった諸家の序跋、付録などが発見され、すべて収録される
     『基督抹殺論』の定本となる
  管野すがの心が揺れ動き神経が苛立つようになる
     小泉三申に口説かれ幸徳の著述を手伝うつもりが、歴史編修事業が資金難におちいる
     収入の見込みないなか投宿代は小泉が負担し、罰金を支払うあてもない
     幸徳との平和な生活のなかで、宮下太吉や新村忠雄と死を覚悟した計画の実行となる
     幸徳に迷惑がかかることにになり、幸徳とは、はっきり別れておかなければならない
  04/08獄中の大杉栄の父親の相続手続きが遅れ戸籍法違反で裁判所に呼び出される。科料20銭
  04/15幸徳秋水、管野すがが『自由思想』の件について控訴を取り下げる
     05/01管野は入獄準備のため上京する。増田方に下宿
     のち管野が『自由思想』の罰金400円が支払えず、労役100日の換金刑として服役の覚悟を決める
     05/18管野が換金刑に服するために入獄
  04/27片山潜らが1907(明治40)設立の労働奨励会の後身として「労働倶楽部」をつくる
     【11/片山潜、藤田貞二、池田平右衛門らが「労働倶楽部」をつくる?】
     下谷の竜和泉寺で第1回演芸会を開く
     05/15倶楽部茶話会が開催
     06/18第2回茶話会が開催
  04/千葉監獄に収監中の大杉栄が腸を病み体重が48キロに減る。入獄前は55キロくらい
  04/22才の神近市子が津田英学塾に合格
     神近は麹町に新居をかまえたばかりの竹下夢二と妻環の厚意で階下に住む
  05/01管野すがが著作作業に従事しはじめた幸徳秋水のもとを去る
     2人は東京を引きあげ伊豆湯河原温泉天城屋旅館に逗留中
  05/09荒畑寒村が懐中に拳銃を忍ばせ、幸徳秋水、管野すがのいる伊豆湯河原温泉の天野屋旅館に向かう
     国府津館に1泊した翌日、天城屋を訪ねるも、2人はたまたま数日前に前後して帰京、実行を思いとどまる
     荒畑は管野を愛しており、一時的にしても憎しみが激しく募っての行動
  05/11管野すがが幸徳秋水と離婚し、入獄準備のため1人上京する
     千駄が谷の旧平民社の筋向かい、増田謹三郎方の離れ座敷に落ち着く
  05/17増田方にて管野すが、新村忠雄、古河力作が暗殺実行最後の打ち合わせに集まる
     秋季の計画実行、投弾者の順番を決めるくじを引くことに
     管野が後ろ向きにくじを作り、4本のくじを差し出す
     新村が自分のくじを引き、次に宮下の代理の分を引く、そして古河が引き、残りが管野となる
     開けてみると1が管野、2が古河、3が新村、4が宮下という順番に決まる
     以上にして明治天皇暗殺計画の最後の謀議が終了
     具体的な決定は8月末に予定された管野の出獄待ちということに
  05/17明科駐在所の小野寺巡査が警邏の際に得た情報を松本警察署署長の小西警視に報告する
     工事スパイの結城三郎から「汽缶職工の新田融が宮下太吉に頼まれ用途不明の小さなブリキ缶を制作する」
  05/18管野が『自由思想』発禁の罰金が払えず換金刑に服するために入獄
     正午近い頃、管野は新村、渡邊、吉川とともに検事局へ
     管野はいつになく血色もよく極めて元気で銀杏返しに黒斜子の被布をつける
     午後4時半頃、裁判所の裏庭から監獄行きの馬車にのる管野を物陰から3人が見送る
     管野は「やあ今頃までここにいらして下さったのですか」
     400円と140円の刑のうち400円が払えず換刑のため労役場へ
     05/31管野はそのまま出獄することなく大逆事件で起訴
  05/19旅先から帰着した新田融をスパイの結城三郎が連れ出し料理の埴科屋へ
     結城は酒肴を供して宮下太吉との件を聞き出そうとする
     新田は口を緘して事実を語らず
     のち新田融が語りはじめる
     4月25、26日頃、宮下に頼まれ長さ2寸、径1寸位のブリキ缶25個を製造したこと
     1個は不充分で廃棄24個を渡したこと
     昨年10月の下旬頃、薬研を持ってきて赤色の薬品を粉末にしていたこと
     宮下が新田にこれは大変危険なものであると告げたことなど
  05/20信濃明科の宮下太吉の部屋を2人の警官が捜索。ブリキ罐2個が押収される
     勤め先の製機所からも薬品や罐が発見される
     宮下が陳述する
     「缶は鋲や釘類を入れるため10個作らせたが薬研や薬品のことは一向に知らぬ
     新田は最近製材所を解雇され、自分に何か含むところがあり不実の申告をしたのだろう」
     05/25告訴状がだされ、宮下が大逆事件最初の検挙者となり拘引される
     同日、新村忠雄、新村善兵衛も検挙される
  中村、小野寺巡査が熱心に捜査を続け情報を得る
     宮下太吉が新田融のほか製材所の汽缶取扱職工清水太市郎と親しいこと
     宮下が清水の妻と姦通しているのではないかという噂があること
  05/225月25日発行の赤羽一の『農民の福音』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     菊半截判、仮装、共表紙、86ページ
     のち朝憲紊乱罪で著者の赤羽一が入獄
     1912(明治45)03/01千葉監獄で獄中死
  05/25午前6時、松本警察が清水太市郎の住所へ赴き問いただす
     清水が答える
      5月7、8日頃、宮下太吉が長さ1尺位、幅5寸位の白木造りの箱2個を持参してくる
      「預けるからどこかへ置いてくれ」と言ってくる
      これは何かとたずねると「君とは親しくしているから話すが、火薬を入れてあるのだ」という
      火薬をどうするのかと聞くと「これで爆薬を作るのだ」と答える
      人は天皇陛下を神様だと思っている者が多い、
       そんな迷信を醒ますために11月3日の観兵式のときに陛下に投げつける
      「どうせ一度は死ぬ身なのだから君も仲間になったらどうか」と誘われる
      この爆発物のことは管野と新村と3人で相談の上決行する
      いずれ管野が放免になってからのことで11月の天長節のとき決行する
  05/25宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛が逮捕される
     いわゆる大逆事件の検挙がはじまる
    松本警察署署員が清水太市郎の手引きで宮下太吉の勤務先の明科製材所を臨検する
      機械据付の下部から鶏冠石を粉末にしたもの15分、紙袋入塩酸加里95分、
      茶筒様のものを紙に包み厳封し260分と記した爆発物合剤と推測する物1個
      清水太市郎方でブリキ缶1個、蓋付缶19個
      鍛冶工場と鉄工場との境界の天井裏から爆発物合剤とみられる物約27分を発見する
    午後4時、新村忠雄が自宅を捜索される
      拘引状により屋代署へ同行を求められ松本警察署に送られる
      古河力作から新村にあてた手紙、幸徳秋水の葉書などが押収される
    新村忠雄の兄善兵衛が弟の拘引を湯河原の幸徳秋水、新宮の大石誠之助に連絡しようと葉書を記す
      葉書を投函しようとしたところを検挙され屋代署に留置される
      翌日早朝、松本警察署に護送される
  05/26田岡嶺雲が留まる湯河原中西屋の座敷が騒々しく天野屋へ転宿する
     06/01幸徳が朝7時頃、天野屋をあとにする
     10時頃、田岡は宿の主人から、幸徳が東京の判検事の一行に湯河原へ連れ戻されたことを聞く
     まもなく県警の警部と駐在巡査が田岡に駐在所まで同行を求める
     駐在所につくと部屋の奥に幸徳の姿をを見つける
     1時近く、判検事が田岡に2、3の質問のあと、帰宿が許される
     田岡が駐在所にいる間、判検事は田岡の宿部屋を捜索
     駐在所から帰り際、田岡は幸徳から「左様なら」と声をかけられる
     田岡にとって永遠の「左様なら」となる
  05/27長野地方裁判所三家検事正が上京する
     清水太市郎の陳述による宮下太吉が新村忠雄、古河力作、管野すがらの謀議が明らかになってきたため
     清水の供述通りならば爆発物の材料あり、爆裂弾あり
     刑法73条の犯罪の可能性があり松室検事総長の指揮を仰ぐ
     検事総長は爆発物取締罰則違反としていちおう捜査すべしとする
     即日東京地方裁判所の検事小原直に長野地方裁判所検事事務取扱の辞令を交付する
     小原を長野に出張させ長野地裁の次席検事和田良平と被告人の取り調べにあたらせる
  05/27宮下太吉と新村善兵衛、忠雄兄弟が長野地方裁判所松本支部に送られる
     東京からの小原直検事、長野地方裁判所の次席検事和田良平の取り調べを受ける
     宮下、新村忠雄は秋に天皇を暗殺しようと考えていたことをほぼ自白する
  宮下の家宅捜索の際、押収した書き置きの紙片を発見する
     東京府下滝野川の古河力作の名が記され怪しいとにらみ電報で警視庁に嘱託する
     長野から警察官が東京に出張し古河を取り調べ、共犯が発覚する
  05/28古河力作が東京から長野へ連行される
     05/31新田融が秋田から長野へ連行される
     幸徳伝次郎新村忠雄古河力作管野すが(入獄中)宮下太吉新村善兵衛新田融が予審請求される
     06/01幸徳伝次郎が逮捕される
  05/28吉川守圀のもとに幸徳秋水から手紙がとどく
     「運動をはじめたいと思うから適当の家を探してくれ。6月1日には上京する」意味のことが書かれる
  05/29東京の万世橋駅前の須田町交差点にて、広瀬武夫と杉野孫七の銅像の除幕式が行なわれる
     銅像の台座の高さは2丈4尺(約7・3米)で、身長1丈2尺(約3・6米)。総資金は2万6450円
     のち広瀬と杉野の銅像は東京市民に親しまれ名物となる
     太平洋戦争時銅像は金属供出をまぬがれる
     1947(昭和22)07/21東京都により撤去される
  05/31三家検事正は宮下太吉らの行動を刑法第73条に該当するものとして松室検事総長に送致する
     刑法第73条(旧刑法第2篇第1章「皇室ニ対スル罪」)
     「天皇、大皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加エ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
     刑法第73条に触れる事件を裁判できるのは大審院(のちの最高裁判所)のみ
     大審院の裁判は上告ない「第1審ニシテ終審」となる
     宮下太吉、新村忠雄、管野すが、古河力作と新村の兄善兵衛、新田融、幸徳伝次郎の7人が被告人として送致される
     幸徳は、この件に関係のないはずはないと関係官吏一同の見解
     管野は内縁の妻で、宮下も新村忠雄も幸徳の弟子同様の関係で、証拠は薄弱ながら関係ありと断定される
     【松室検事総長が幸徳、管野、宮下、新村兄弟、古河、新田の起訴を決定。大審院院長に予審の開始を請求する?】
  05/31管野すがが入獄したまま出獄することなく大逆罪で起訴される
     管野は5月18日に『自由思想』発禁の罰金が払えず換金刑に服するために入獄
  事件の捜査の指揮は司法省民刑局長平沼騏一郎が大審院検事を兼任することに
     検事総長松室致、東京控訴院検事河村善益、
      大審院検事板倉松太郎、東京地方裁判所検事正小林芳郎らが極秘裏に指揮する
     東京地方裁判所検事の小原直、●の武富済や
      神戸地方裁判所検事正の小山松吉ら多数の検事が全国の捜査の網を広げる
  06/01幸徳秋水が湯河原温泉の入り口にある軽便鉄道の門川駅前の茶屋で、神奈川県警などの一行に拘引
     【東京の判検事一行】
     上京するため天野屋旅館から出立、人力車で着いたばかり
     東京監獄に収容される。刑法第73条の罪として検挙、起訴される
     のち事件は拡大され26人が起訴される
     【補足】軽便鉄道はもともと明治33(1900)6月に小田原、熱海間に豆相人者鉄道が全通
      1906(明治39)06/社名を熱海鉄道と改称
      1908(明治41)07/熱海鉄道が雨宮敬次郎の経営する大日本軌道に合併
      1908(明治41)08/蒸気機関車が牽引する軽便鉄道に切り替えられる
      1920(大正09)07/鉄道省熱海線の国府津、小田原間が開通
       大日本軌道は小田原熱海線を国に売却し新設された熱海軌道組合に借入
      1922(大正11)12/熱海線が小田原、真鶴間を開業し、熱海軌道組合線は小田原、真鶴間が廃止に
      1923(大正12)09/関東大震災で全線が不通に
      1924(大正13)03/全線を廃止に
  06/02『夕刊やまと』が幸徳秋水の逮捕を伝える。逮捕後最初の報道
     「社会主義者の主領幸徳伝次郎一日正午相州湯ケ原天野屋において捕縛されたり。本事件の内容に至りてはもとより知るに
     由なしといえどもある種の社会主義的一大陰謀が発見せられたる結果なるがごとし。その策源地は遠く東京を距る数十里の
     山谷に在りといい、その関係範囲に至りてはすこぶる広大なるものありと伝う、はたして信か、事もし明らかなるの日に達
     せばおそらく現在の社会主義者は一網にして打尽せらるるに至らんか。吾人は今この警報を諸子に致すの義務なるを信ず。」
  06/02管野すがが武富済の最初の取り調べに対して断固として抵抗する
     これまで管野が関係した裁判に武富検事がかかわるところ武富に対する憎悪の念から
     管野は調所の卓上にある鉄製の灰落しを引き寄せ武富検事に投げつけようとする
  06/02東亜堂書房が山路弥吉の『長思短言』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/03『牟婁新報』の毛利柴庵宅が大逆事件容疑で大石誠之助らの逮捕に関連して家宅捜査を受ける
     06/29ふたたび家宅捜査を受ける
  06/04東京地方裁判所の小林検事正が記者会見で談話を発表する
     「今回の陰謀は実に恐るべきものるが、関係者は只前記七名のみの間に限られたるものにして
     他に一切の連累者なき事件なるは余の確信する所なり」
     犯人は宮下太吉、管野すが、新村忠雄、古河力作、新村善兵衛、新田融、幸徳伝次郎の7人に限られる
     のちこの機会に日本中の無政府主義者、社会主義者を一網打にする拡大方針にかわる
     宮下中心の明科爆弾事件が幸徳秋水を首領とする全国一大陰謀事件にすり替えられ、拡大される
     その理由とされたのは
      ▽1908(明治41)11月19日に紀州の大石誠之助が上京した際、平民社で幸徳と取り交わした革命雑談
      ▽大石の離京と前後して上京した九州の松尾卯一太が平民社で幸徳と取り交わした革命雑談など
     宮下の明科事件と強いて結びつけ、調書には革命の決死隊員募集の謀議とでっち上げる
     のち大石や松尾が帰郷し持ち帰った東京の土産話を聞いた者たちは、みな決死隊の応募者とされる
  調査の進行に伴い拡大解釈したことで19人が起訴される
     06/03新宮の大石誠之助らの家宅捜査
     06/05和歌山県在住の大石誠之助が予審請求される
     06/11岡山県在住の森近運平が予審請求、逮捕される【06/21?】
     06/26成石平四郎が爆発物取締罰則で起訴される
     06/27成石平四郎が逮捕される
     06/27東京府在住の奥宮健之が予審請求される
     07/07和歌山県在住の高木顕明が予審請求される
     07/07三重県在住の峰尾節堂が予審請求される
     07/07三重県在住の崎久保誓一が予審請求される
     07/10和歌山県在住の成石勘三郎が予審請求される
     07/14和歌山県在住の成石平四郎が改めて大逆罪で予審請求される
     07/26坂本清馬が浮浪罪で拘留される
     08/03新聞紙条例違反罪ニ依リ熊本監獄在監の松尾卯一太が予審請求される
     08/03新聞紙条例違反罪ニ依リ熊本監獄在監の飛松与次郎が予審請求される
     08/03熊本県在住の新美卯一郎が予審請求される
     08/03熊本県在住の佐々木道元が予審請求される
     08/09東京府在住の坂本清馬が予審請求される
     08/28大阪府在住の武田九平が予審請求される
     08/28大阪府在住の岡本頴一郎が予審請求される
     08/28大阪府在住の三浦安太郎が予審請求される
     09/28兵庫県在住の岡林寅松が予審請求される
     09/28兵庫県在住の小松丑治が予審請求される
     10/18出版法違反及爆発物取締罰則違反罪ニ依リ東京監獄在監の内山愚堂が予審請求される
  元老の山県有朋が憲法学者の穂積八束に「社会破壊主義論」「取締法案」を起草させる
     山県は明治天皇に奉呈する
     一方、政治当局者にも提示し総合的な対策を検討するよう要請する
     のち元老某が小山を呼びだす
     取り調べは大急ぎで行ない、関係者は1人残らず死刑にしてしまえと圧力をかける
     のち平沼騏一郎が『回顧録』で被告人のうち3人だけは有罪の確信がないまま死刑を宣告
  06/05『信濃毎日新聞』が地方新聞で最初に大逆事件を伝える
  06/09『牟婁新報』に毛利柴庵の「家宅捜査大賛成論」が掲載される
     のち6月12日号、15日号、21日号と4回連載される
  06/14弘学館書店が木下尚江の『小説 火宅』を発行する
     09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/16大杉栄が幸徳秋水の逮捕を知り幸徳から借りた30円をすぐ返す
     幸徳の母多治を東京に呼ぶときは、面倒をみるよう妻堀保子に指示する【多治は上京せず?】
  06/22麹町区一番町の横山勝太郎弁護士のもと針文字の手紙が届く
          管野須賀子
     爆弾事件ニテ私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クヘシ
     幸徳ノ為メニ何卒御弁ゴヲ願フ切ニ切ニ
        六月九日
     彼ハ何ニモ知ラヌノテス
  06/27片山潜らが南千住で社会主義政談演説会を開催【05/27?】
  06/前年10月に成立した諏訪郡堺村の農民喚醒会が大逆事件と相前後して発覚。14人が検挙される
     のち検挙から3か月経たずに治安警察法違反で最高禁錮刑8か月の判決を受ける
     会は「共産主義ノ見地ヨリ農民労働者ノ覚醒ヲ促カシ該主義ノ研究及ヒ伝播ヲ以テ目的トス」の規則をもつものの
     実質的活動はほとんどなく、秘密結社としての断罪は大逆事件の検挙、裁判と意図を同じくする弾圧第一主義に
  07/01精美堂の大橋光吉が『ハガキ文学 第7巻第8号』を発行する
     07/05発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/10広文堂書店が赤司繁太郎の『心霊私語』を発行する
     07/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/15欧文植字工組合「欧友会」が各印刷会社との間にクローズドショップの契約を結ぶ
     秀英舎、築地活版所、国文社、東京印刷株式会社、三秀社、一色印刷
     1911(明治44)07/築地活版所のストライキで組合の金子清一郎が治安警察法第17条で起訴
     さらに罷業資金の件で紛争を重ねることに
  07/15北上屋書店の太田貞吉が『中学文壇 第294号』を発行する
     07/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/17西川光次郎が出獄
     電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で重禁錮2年の判決
     社会主義運動離脱を宣言し過去の仕事を完全に否定する。宗教、修養方面へ転向
     「心懐語」の執筆に入る。8月31日脱稿
     10/15新渡戸稲造の序文を得て警醒社書店が『心懐語』を発行【10/16?】
  07/20玄黄社が田岡佐代治の『病中放浪』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/22春陽堂が小山内薫の『笛』を発行する
     07/26発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/23前内閣の内務大臣原敬が日記(のち『原敬日記』にまとめる)を記す
     「今回の大不敬罪のごときもとより天地に容るべからざるも、
      実は官僚が之を算出せりと云ふも弁解の辞なかるべしと思ふ」
     事件被告の管野すがと前内務大臣の原敬が、ともに事件は天皇制官僚の陰謀と結論づけることに
  07/28『世界婦人』の筆禍事件で3月28日に入獄した石川三四郎が出獄。入獄は同年3月28日
     福田英子の家に戻る。まもなく家宅捜索を受ける
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
  石川三四郎出獄後まもなく大逆事件の容疑者として警視庁に連行、取り調べを受ける
     翌日釈放される
  夏/『新潮』8月号が「小説に描かれたるモデルの感想」を企画
     「『煤煙』の主人公平塚朋子【ママ】」が『新潮』の記者に答える
     「まるッきり他人のことでも見るような気で読みました。
      (略)もう少し遠慮なく、大胆に書かれた方が、かえって面白かったではないでしょうか」
     「本当の私とは違っています。書く人に私という人間がよく分っていなかったのでしょう」
  夏/2人の新聞記者兼作家の菊池幽芳と長谷川如是閑が、婦人運動にかかわるニュースをロンドンから送る
     07/04、05菊池が『大阪朝日新聞』に「家庭思想の復活」上下を報じる
     08/01〜03長谷川が『東京朝日新聞』に「女権拡張示威運動」上中下を報じる
  夏/全国各地で大洪水がおき、救世軍は各機関を総動員し救助にあたる
     850人の罹災者を施設に収容し約1万7千人に給食、1千戸に生業扶助を行なう
  08/02最高無上善真人道発行所の井伏太郎が『最高無上善 真人道 第136号』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/04西川光二郎夫妻が岐阜に帰郷する
     岡千代彦、幸内久太郎、野沢重吉、石川三四郎らが新橋駅に見送る
  08/10うしほ会の添田平吉著『新俗躰詩 嗚呼金の世』[1906(明治39)12/29刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/11日本列島に接近した台風が、房総半島をかすめ太平洋上へ抜けるとき各地に集中豪雨をもたらす
     利根川、荒川水系の各河川が氾濫、各地で堤防が決壊。関東平野一面が水浸しに。関東大水害
     死者、行方不明者数1379人、全壊、流出家屋約5千戸、床上、床下浸水約51万8千戸、堤防決壊7266か所
     東京でも下町一帯がしばらくの間冠水し、浅草寺に救護所が設けられる
  08/17横須賀の海軍工廠で工員紛争が起きる
  08/22日韓併合に関する条約が調印、朝鮮が日本領となる。朝鮮総督府を設置
  08/29赤旗事件の被告山川均が出獄、生まれ故郷の倉敷に帰る【09/27?】
  08/29韓国併合に関する宣言を発表する。朝鮮総督府が設置される
     寺内統監が朝鮮総督に任命される
  09/01ほとゝぎす発行所の高浜清が『ホトヽギス 第13巻第14号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/03社会主義のたくさんの文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     出版法第19条「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ
     内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻印及印本ヲ差押フルコトヲ得」が適用される(以降の発禁も同じ)
     以下の一連の発禁は大逆事件に連動しての取り締まり
     幸徳秋水の『廿世紀之怪物 帝国主義』[1901(明治34)04/20刊]
     内外出版協会の西川光次郎著『社会党』[1901(明治34)10/16刊]
     西川光次郎の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』
      中庸堂書店版[1902(明治35)04/10【04/18?】刊]
      平民社版[1904(明治37)09/刊]
      平民文庫版[1905(明治38)02/刊]
     平民社平民文庫の田添鉄二著『経済進化論』[1904(明治37)10/01刊]
     西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』
      労働新聞社版[1902(明治35)07/17刊]
      平民社平民文庫版[1905(明治38)03/24刊]
     片山潜の『社会講演』[1902(明治35)11/23刊]。発行所は不明
     西川光次郎の『富の圧制』
      社会主義図書部版[1903(明治36)04/27【04/30?】刊]
      平民社平民文庫版[1905(明治38)01/23【01/25?】刊]
     博文館のドン・ネリー著、磯野徳三郎訳『社会主義新小説 文明の大破壊』[1903(明治36)06/06刊]
     安部磯雄の『社会主義論』[1903(明治36)07/05刊]。発行所は不明
     社会主義図書部の片山潜著『我社会主義』[1903(明治36)07/08刊]
     鉄鞭社の山口孤剣(義三)著『破帝国主義論』[1903(明治36)12/05刊]
     警醒社書店の社会主義理想小説『社会小説 百年後之社会』[1903(明治36)12/31刊]
      著者はエドワード・ベラミー、平井広五郎の全訳。原名ルツキング、バツクワード
     平民社同人の編集による『社会主義入門』[1904(明治37)03/05刊]
     春陽堂のゾラ著、堺枯川抄訳の『労働問題』[1904(明治37)04/16刊]
     木下尚江の『火の柱』
      平民社平民文庫[1904(明治37)05/10刊]
      金尾文淵堂[1906(明治39)07/20刊]
      栄江堂[1908(明治41)10/20刊]
     平民文庫の幸徳秋水著『社会民主党建設者ラサール』[1904(明治37)09/01刊]
     平民社平民文庫の西川光二郎著『土地国有論』[1904(明治37)09/10刊]
     平民社同人の編集による『革命婦人』[1905(明治38)05/13【05/14?】刊]
     由分社の堺利彦著『通俗社会主義』[1905(明治38)12/15【12/17?】刊]
     由分社の堺利彦の1枚もの『社会主義』[1906(明治39)03/03刊]
     由分社の『社会主義の詩』[1906(明治39)04/11刊]。編集兼発行人は堺利彦
     由分社の堺利彦著『社会主義問答』[1906(明治39)04/14刊]
     平民舎の森近運平著『社会主義小話』[1906(明治39)05/23刊]
     社会主義研究所東海矯風団の添田平吉著『社会党喇叭節』[1906(明治39)06/08刊]
     東海矯風団の添田平吉著『社会燈』[1906(明治39)06/08刊]
     凡人社の山口義三著『革命家の面影』[1906(明治39)09/28刊]
     日本鉱山労働会の永岡鶴蔵著『足尾銅山ラッパ節』
      『足尾銅山ラッパ節 第1回』[1906(明治39)10/19刊]
      『足尾銅山ラッパ節 第2回』[1907(明治40)01/21刊]
     平民書房の久津見息忠【蕨村?】著『無政府主義』[1906(明治39)11/16刊]
     日本鉱山労働会の永岡鶴蔵著『坑夫に与ふるの書』[1906(明治39)11/28刊]
     小木曾助次郎の1枚もの『社会主義とはドンナもの』[1906(明治39)11/30刊]
     うしほ会の添田平吉著『新俗体詩 あゝ金の世』[1906(明治39)12/29刊]
     九州社会主義協会の野波鎮人著『社会主義とは何ぞ』[1907(明治40)02/07刊]
     昭文堂の木下尚江著『飢渇』[1907(明治40)04/05刊]
     うしほ会の添田平吉著『平民あきらめ賦詩』[1907(明治40)04/05刊]
     平民書房の熊谷千代三郎著『海外より見たる社会問題』[1907(明治40)05/28刊]
     隆文館の幸徳秋水訳のレオ・ドウヰッチ著『革命奇談 神愁鬼哭』[1907(明治40)08/05刊]
     金尾文淵堂の堺利彦著『婦人問題』[1907(明治40)08/11刊]
     共同出版組合の西川光次郎著『ケヤ、ハーデーの演説』[1907(明治40)10/25刊]
     由分社の堺利彦著『社会主義大意 附社会主義書類一覧』[1907(明治40)11/11刊]
     鶏声堂の堺利彦、森近運平著『社会主義綱要』[1907(明治40)11/20刊]
     藤田四郎の『社会主義一名くらしを楽にする法』[1908(明治41)01/23刊]
     有楽社の堺利彦著『平民科学題3編 男女関係の進化』[1908(明治41)06/05刊]
     福田武三郎の1枚もの『社会主義』[1908(明治41)07/02刊]
     堺タメ子の1枚もの『社会主義 女の身の上』[1908(明治41)07/09刊]
     堺タメ子の1枚もの『社会主義』[1908(明治41)07/09刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 あきらめ 続篇壱号』[1908(明治41)07/11刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 四季の歌 壱号』[1909(明治42)07/11刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 浮世』[1909(明治42)07/11刊]
  09/03朝報社版と博文館、東京堂版の幸徳伝次郎著『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     もとは1903(明治36)7月5日に朝報社が発行、11月15日に博文館、東京堂が発行する
     1910(明治43)09/13由分社版が発売頒布を禁止する処分を受ける
     由分社版は1905(明治38)11月17日に朝報社の第7版として発行
  09/03平民文庫の1冊、ヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』が発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)02/08『百年後の世界』と合綴してアルス社より出版
  09/03木下尚江の『良人の自白』の平民社版(上、中)と由分社版(下)が発禁処分となる
  09/06社会主義のたくさんの文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     人文社の幸徳秋水著『長広舌』
      [1902(明治35)02/18【02/20?】刊]
      [1902(明治35)03/15刊]
     博文館の幸徳伝次郎著『兆民先生』[1902(明治35)05/28刊]
     東亜堂書房の加藤熊一郎著『瞑想雑感 朝思』[1906(明治39)03/22刊]
     東亜堂書房の加藤熊一郎著『瞑想雑感 朝思暮想』[1906(明治39)03/22刊]
     金尾文淵堂の山路弥吉著『社会主義管見』[1906(明治39)06/05刊]
     北輝次郎(一輝)の『純正社会主義の哲学(生物進化論より説明せる社会進化の理法及び理想)』[1906(明治39)07/13刊]
     平民書房の相沢●【熈の左上がノでなくン】著『ガボン長老自叙伝』[1907(明治40)11/03刊]
     鶏声社の杉村広太郎著『七花八裂』[1908(明治41)01/01刊]
     新思潮社の石巻良夫著『経済史論第1編 原始的共産制』[1908(明治41)06/05刊]
     東京フレンド倶楽部の岩田専助の1枚ものの『うき世』[1909(明治42)06/28刊]
     『将来の経済組織』。発行日、発行者、著者すべて不明
  09/06新思潮社の小山内薫が『新思潮 第1号』を発行する
     09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/09社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     民雄社の石巻良夫著『労働運動の変遷』[1903(明治36)05/20刊]
     凡人社の西川光次郎著『普通撰挙の話』[1906(明治39)09/09刊]
     嵩山房の田岡佐代治著『壺中我観』[1906(明治39)03/06刊]
     新進書局の宮崎民蔵著『土地均享 人類乃大権』[1906(明治39)03/10刊]
     相隣社の川口清栄著『革新之一鞭』[1906(明治39)04/16刊]
     平民書房の持原皿山著『弱者』[1907(明治40)07/28刊]
  09/13木下尚江の『良人の自白』の金尾文淵堂版(上、中、下、続)と梁江堂版(上、中、下、続)が発禁処分となる
  09/13社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     文学同志会の久松義典著『社会学講義』[1902(明治35)08/23刊]
     由分社の幸徳伝次郎著『社会主義神髄』[1905(明治38)11/17刊(朝報社の第7版として発行)]
      1903(明治36)7月5日発行の朝報社版、11月15日発行の博文館、東京堂版は1910(明治43)9月3日に処分済
     相愛社の田添鉄二著『近世社会主義史』[1908(明治41)04/28刊]
  09/14社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     木下尚江の『霊か肉か』
      金尾文淵堂版の上篇[1907(明治40)06/05刊]
      梁江堂版の下篇[1908(明治41)01/04刊]
      梁江堂版の上篇[1908(明治41)05/04刊]
     照文堂の木下尚江著『小説 乞食』[1908(明治41)07/10刊]
  09/15加藤時次郎が内山愚童の『入獄記念無政府共産』の郵送をうけたとして捜索を受ける
  09/16社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     永岡鶴蔵の1枚もの『稼ぎ人目ざまし数へ歌』[1906(明治39)05/11刊]
     永岡鶴蔵の1枚もの『稼ぎ人目ざまし軍歌』[1906(明治39)05/11刊]
     東京フレンド倶楽部の渋井福太郎の1枚もの『破棄余勢』[1909(明治42)05/04刊]
  09/19社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     横浜曙会が発行した1枚ものの印刷物が発売頒布禁止の処分を受ける。発行日、著者ともに不明
      タイトルは『「社会主義」と標目シテ社会主義ヲ記述セル印刷物(封筒裏面ニ印刷セルモノ)』
     大和田忠太郎の1枚もの『社会主義ヲ記述セル一枚摺印刷物』[1906(明治39)09/03刊]
  09/20『嗚呼祖国』が鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
     鳴皐書院版は本名の赤羽一名義[1902(明治35)08/31刊]
     一二三館版は号の赤羽厳穴名義[1904(明治37)01/25刊]
  09/22赤旗事件の被告堺利彦が出獄
     四谷第1小学校1年生になる堺の娘、真柄は学校を欠席し母為子と迎えにいく
     服役中の工賃1円30銭は全額をはたいて子供用の傘を真柄に買い与える
  09/221908(明治41)6月22日の赤旗事件で収監中の大杉栄が物々しい警戒のなか東京監獄に移送
     大逆事件に関連性を追求した取り調べを受ける。獄中で幸徳秋水ら大逆事件の被告を見かける
     弾圧は免れることに
     のち大杉が東京監獄から千葉監獄へ戻される
     11/29千葉監獄を出獄する
  09/木内錠が一宮瀧子の名で『ホトトギス』に家否定の思想をもつ小説「をんな」を掲載
          のち発売禁止の処分をうける
  10/15警醒社書店が西川光次郎の『心懐語』を発行【10/16?】
       7月17日、出獄と同時に書きはじめ、8月31日に脱稿
  10/16週刊『サンデー』第98号から馬岳隠士の訳による「探偵奇談 予告の大盗」の連載がはじまる
     原作はモーリス・ルブランの「アルセン、ルーピン」。馬岳隠士は堺利彦のこと
     1911(明治44)04/02第222号で連載が終了
  10/小石川区林町44番地に東京市直営の林町特殊尋常小学校が開校する
  10/救世軍が横須賀市深田に「海陸軍人ホーム」を開設する
     外出時に立ち寄り休息、宿泊する軍人に解放する
  11/01大審院長に対して東京地裁の3予審判事が大逆事件の「意見書」を提出する
     11/09予審が終結。10日後接見の禁止が解除される
     12/10幸徳秋水ほか起訴された26人に関する大逆事件の大審院第1回公判が非公開で開廷される
  11/01東京帝国大学法科大学の助教授上杉慎吉が『婦人問題』を出版する
     発行所は三書楼、発売所は巌松堂書店。定価1円
  11/06岡千代彦の入獄送別茶話会が松崎源吉宅で開かれる
     渡辺政太郎、斎藤兼次郎、野沢重吉、石川三四郎らが出席する
  11/11幸徳秋水から堺利彦のもとに手紙が届く
     11/12堺が東京監獄へ行き幸徳と面会
     堺の赤旗事件出獄後、幸徳の大逆事件入獄後はじめて。2年ぶりとなる
  11/12アナキストのエマ・ゴールドマンら5人が連名で駐米全権大使の内田康哉宛に大逆事件の不当逮捕への抗議文を送付
     11/22エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会をひらく
     12/12エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
  11/20幸徳秋水が予審終結と公判開始の中間に獄中で「基督抹殺論」を脱稿
     11/21幸徳は出版方法を堺利彦に依頼。意中の出版人に高島米峰をあげる
     のち当局の担当課員が個人として諸家数編の序跋類の不掲載を高島に申しでる
     1911(明治44)02/01高島米峰主宰の丙午出版社より『基督殺論』が刊行する。定価70銭
     幸徳の刑死後9日
     菊版、本文148ページ。巻頭に著者の「序」、巻尾に高島米峰の跋文がつく。初版は1千部
     当局の担当課員が個人として諸家数編の序跋類の不掲載を高島に申しでる
      雪嶺迂人(三宅雪嶺)の「序」、堺利彦編の「獄中消息」、堺の「基督抹殺論の後に記す」
      田岡嶺雲の「最後の別れを懐ふ」、高島米峰の「幸徳秋水と僕」の5編が省かれる
     発行所は東京市小石川区原町6番地の丙午出版社、発行者は高島大圓
     印刷所は東京市京橋区西紺屋町27番地の秀英舎、印刷者は佐久間衡治
  11/26幸徳秋水の母多治が養子駒太郎にともなわれ高知より上京。四谷永住町の旅館に泊まる
     11/28堺利彦の案内で市谷監獄にて秋水と面会【11/27?】
     のち小泉三申を訪ねるが不在で小泉の妻が応対
     のち母多治は思い残すことはないと帰郷
     12/2772才の多治が高知で病没【12/28?】
  11/29赤旗事件とそれまでの量刑も含み収監された被告大杉栄が千葉監獄を出獄
     監獄のなかではほとんど口をきかず2年余りを無言で行をしたため、もともとの吃りがよりひどくなる
     1か月くらいは、喋ることなくほとんど筆談で通す。どこへ出かけるにもノートと鉛筆は離さず
     大久保百人町212番地の自宅に戻る
  11/30岐阜の高根山鉱山で暴動が起きる
  11/幸徳秋水らの死刑を予想して石川三四郎が死刑廃止の運動を起こそうとする
     徳富蘆花、花井卓蔵、木下尚江らに働きかけるも、賛同を得られず不発に終わる
  11/雑誌『三田文学』11月号に陸軍軍医総監で陸軍省医務局長の森鴎外が「沈黙の塔」を発表する
     「新しい道」をいくものと、それに「迫害を加える者」を対置し強権に批判する
  11/片山潜、藤田貞二、池田平右衛門らが庶民協会を設立
  12/01管野すがが獄中から小泉三申にあてた書信の末尾に記す
     くろがねの窓にさしいる日の影の
     移るを守り今日も暮しぬ
  12/06フランスの社会主義者らが大逆事件の不当逮捕に抗議してパリの日本大使館に大デモを行なう
  12/10大逆事件の大審院第1回公判が非公開で開廷される
     100余人の傍聴人に数10人の警官がつき厳重な身体検査が行なわれる
     9時40分、幸徳秋水以下26人の被告が着席する
     幸徳は黒ななこ、タチバナの五つ紋の羽織に茶ねずみの大名縞めいせんの綿入れ、茶色五泉平の袴という正装
     管野すがは銀杏がえしに納戸色紋羽二重三つ紋の羽織、琉球がすりの綿入れ
     内山愚堂は在監中にあり赤の囚衣が、古河力作は4尺にたらない小男でともに人目をひくことに
     幸徳秋水、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新田融、新村善兵衛、奥宮健之、新見卯一郎、
     佐々木道元、飛松与次郎、内山愚堂、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、坂本清馬、大石誠之助、
     成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、小松丑治の26人
     正面に並ぶのは裁判長鶴丈一郎、陪席判事志方鍛、鶴見守義、末弘厳石、大倉鈕蔵、常松英吉、遠藤忠次
     検察側は検事総長松室致、大審院検事板倉松太郎、平沼騏一郎以下、武富済、小原直まで着席する
     弁護人席には鵜沢総明、花井卓蔵、磯部四郎、今村力三郎、平出修、川島任司、
     宮島次郎、吉田参市郎、尾越辰雄、安村竹松、半田幸助の11人が着席する
     鶴丈一郎裁判長は氏名点呼をしたのみで検事の起訴内容の陳述さえも聞かせず
     「本事件審理の公開は、安寧秩序に害があるから、公開を停止する。今後の続行裁判も公開しない」と宣言
     傍聴人全員を廷外に追いだす
     第1日は検事の公訴事実の陳述についで宮下太吉、新村忠雄への訊問が行なわれる
     弁護人は11人の担当。1人の被告に3人の弁護士がつく場合もあり
      花井卓蔵……幸徳秋水、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新村善兵衛、高木顕明、峰尾節堂、
       松尾卯一太、新見卯一郎、佐々木道元(官選)、内山愚堂、武田九平、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治
      鵜沢総明……新田融(官選)、奥宮健之(官選)、大石誠之助、岡本頴一郎(官選)
      今村力三郎…幸徳秋水、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新村善兵衛、大石誠之助、
       峰尾節堂、松尾卯一太、新見卯一郎、飛松与次郎(官選)、内山愚堂、武田九平、岡林寅松、小松丑治
      平出修………高木顕明、崎久保誓一
      宮島次郎……坂本清馬
      磯部四郎……幸徳秋水、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新村善兵衛、
       峰尾節堂、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚堂、武田九平、岡林寅松、小松丑治
      吉田三市郎…坂本清馬
      川島仟司……大石誠之助
      尾越辰雄……松尾卯一太、新見卯一郎
      半田幸助……成石平四郎、成石勘三郎
      安村竹松……坂本清馬
     のち12月12日、13日、14日、15日、16日と進行
     2日休んで19日、20日、21日、22日、23日、24日と連日公判廷を開く
     被告人26人の事実審理を片づける
     すべての取り調べ終了後、訴訟法上の形式として裁判長が被告らに最後の陳述を許す
     許しに応じて陳述したのは管野すがと●の2人
  12/11隆文館の白柳秀湖著、伊藤元治郎編の『鉄火石火』[1908(明治41)07/23刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/15大逆事件の大審院公判で検事が全員に死刑を求刑する
  12/17関谷竜十郎の『社会主義とは果して如何なる性質の者なる乎』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     1枚もので発行日、発行所は不明
  12/18幸徳秋水が獄中から今村力三郎、磯部四郎、花井卓蔵の3弁護士宛に無政府主義についての陳弁書を送る
     一部内容にはクロポトキンの『麺麭の略取』の話も
     「私の訳した『麺麭の略取』の如きも、仏語の原書で英、独、露、伊、西等の諸国語に翻訳され、
     世界的名著として重んぜられ居るので、これを乱暴に禁止したのは文明国中日本と露国のみなのです」
  12/23京華堂書店の原真一郎著『舶来乞食』[1907(明治40)05/20刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける【原霞外?】
  12/24赤旗事件の刑期を終えて9月22日に出獄した堺利彦が自宅の門柱に「売文社」の看板を掲げる
     「売文社」の事務所は自宅と兼用で四谷南寺町6番地
  12/25日曜日。大逆事件の大審院公判で終日にわたり検事の論告が行なわれる
     平沼騏一郎が総論を述べ、板倉松太郎、平沼の各論がある
     最後に松室致が立ち、26人全員に死刑を求刑する
  12/27、28、29大逆事件の大審院公判が開かれる
     花井卓蔵を先頭に磯部四郎をしんがりとする弁護人11人の弁論と検事の再論告が行なわれる
     12/29最終となる第16回目の公判で裁判長が結審を宣言し閉廷に
  12/30堺利彦が師岡千代子とともに幸徳秋水に面会
     1911(明治44)01/22堺が幸徳に面会。幸徳の生前最後となる【01/21?】
  12/大杉栄が幸徳秋水と最後の面会をする
     英国のアナキズム紙『フリーダム』へ「僕の事情を話し通信して呉れよ」と頼まれる
  12/31『東京朝日新聞』の1面に初めて売文社の広告が掲載される
  12/31堺利彦が四谷区南寺町6番地の自宅に「売文社」を創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     社長は堺利彦、理事に高畠素之と山川均。社員をおかず、特約補助とした社外ライターに依頼
     堀紫山、山崎今朝弥、大杉栄、荒畑寒村、百瀬晋、馬場孤蝶、白柳秀湖、安成貞雄、
     安成二郎、生田長江、杉村楚人冠、山口孤剣、宮嶋資夫、山川菊枝、生田春月ら
     日本文は400字詰め1枚につき50銭、英文も同じく、仏独文その他は60銭
     大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、山川均、橋浦時雄、和田久太郎などが参加
     1917(大正06)01/「売文社」を社会主義運動から分離、堺の自宅に再興した由分社で引き継ぐ
     1918(大正07)06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に
     同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
     1919(大正08)03/07高畠らが国家社会主義を唱えたことで内部分裂がおこり「売文社」が解散する事態に
  12/『中央公論』12月号が「女流作家小説拾篇」を特集する
     水野仙、小金井喜美、森しげ、国木田治、長谷川時雨、岡田八千代、尾島菊、野上弥生、小栗籌、永代美知代の10人が登場する
  12/大連市奥町に「救世軍大連勤勉ホーム」を設ける
     寄宿舎と就職斡旋の両面から、満州方面へ職を求めにきた日本人を収容する
  年末日本の芸妓3万7038人、娼妓4万8769人、酌婦3万3956人、計11万9763人
     日本の貸座敷1万0793軒、待合茶屋1701軒、計1万2494軒
     1898(明治31)、1909(明治42)、1911(明治44)、1912(大正01)にも同様の比較統計あり
  衆議院の議会に普通選挙法案を国会に提出するも審議の結果、否決される
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら
     1911(明治44)提出するも否決
  日本橋区の鎧橋小網町側橋詰付近に東京で最初のカフェ「メイゾン鴻の巣」が開店
     本格的なフランス料理と洋酒を飲ませ、本格的なフランス式の深煎りコーヒーをだす
     のち文士の社交場となる
     与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎、吉井勇、岡本一平、谷崎潤一郎らが利用
     1920(大正09)京橋に移転
  京橋区新富町6丁目36、37番地の新富座を松竹が買収、松竹の経営下に移る
     1923(大正12)09/01関東大震災で被災。再建されず廃座となる
  この年の小作組合数は41
  救世軍の簡易宿所提供施設「箱船屋」がこの年までに宿泊した人数を2万7330人と記録する
     「箱船屋」は1906(明治39)春、救世軍が本所区花町に1軒の家を借り開かれる


1911(明治44)

  《総理大臣》[第13代](第2次)桂太郎(→08/30)、[第14代](第2次)西園寺公望(08/30→)
  《内務大臣》[第26代]平田東助、[第27代]原敬(08/30→)
  《警視総監》[第18代]亀井英三郎、[第19代]安楽兼道/再任(09/04→)
  《内務省警保局局長》有松英義(→09/04)、古賀廉造(09/04→)


  01/01幸徳秋水が獄中で母多治の訃報に接する
  01/01田村としの小説「あきらめ」が『大阪朝日新聞』で連載をはじめる
     「あきらめ」は前年の『大阪朝日新聞』「1万号記念文芸募集」で1等に当選した作品
     のち3月21日まで連載
  01/03石川啄木が弁護士の平出修から大逆事件の話を聞き、知ることになる
  01/09入監中の管野すがが事件弁護人の平出修あて礼状を記す
     平出は与謝野鉄幹の門弟で晶子とは同門の明星派の歌人。また石川啄木の友人でも
  01/14遊星社の堀江定四郎著『小説 嗚呼九年 上』[1909(明治42)12/10刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/14堺利彦が大阪から上京した宮武外骨にあう
  01/15社会主義各派合同の茶話会が神田で開かれる。片山潜、吉川守圀、渡辺政太郎らが出席
     02/13ふたたび合同茶話会を開く。片山、藤田貞二、堺利彦らが出席
  01/15大審院での大逆事件特別裁判の判事7人が判決文に署名
     01/18大逆事件で判決が下る。26人のうち24人が死刑に
  01/16大逆事件の被告に対する特赦減刑の打ち合わせが行なわれる
     山県有朋、渡辺千秋宮内大臣、桂太郎首相、天皇の間になされる
     政府干渉の外で独立すべき裁判長の判決内容が山県以下の取り決めにすり替えられる
  01/18午前11時過ぎ、8台の囚人馬車が市谷富久町の東京監獄をでる
     谷町の通りから士官学校の坂をのぼり濠ばたにでて四谷見付を左折、麹町6丁目を右に折れ
     大横町、紀尾井町、三年町、霞が関をへて東京地方裁判所の不浄門に入る
     行程、馬車で約45分の道のり
  01/18大審院の特別法廷にあてられた第1号大法廷は超満員の盛況ぶり
     傍聴人は厳重な身体検査をうけ正午ごろから入廷が許される
      傍聴席に入りきれず扉の外から廊下にまであふれる
      1段高い裁判官席の背後に高等官傍聴席が設けられる
      内務省警保局局長の有松英義ら政府要人や司法関係者にまじり
      イギリス、アメリカ、オランダの大使館員が列席する
      被告席すぐ後ろの弁護人席には川島任司、今村力三郎、磯部四郎、
      平出修、宮島次郎、花井卓蔵、吉田参市郎、半田幸助の各弁護人が着席
      【鵜沢総明、安村竹松は不参。尾越辰雄は遅参?】
      区切りをおいた弁護人傍聴席には特別許可を得た少壮弁護士がつめる
     午後1時5分頃、幸徳伝次郎以下26人の被告が厳重な警戒ののもと入廷する
      木名瀬典獄と佐藤第1課長、辺見第2課長以下、被告1人に看守1人ずつが付き添う
      第1列は左端が幸徳伝次郎から森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新田融、新村善兵衛
      第2列は左端が奥宮健之から坂本清馬、大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一
      第3列は左端が成石勘三郎から松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎、内山愚堂
      第4列は左端が武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治、管野すがの順で着席する
      被告は幸徳以下、紋付き羽織袴姿が多く、なかには縞の羽織もあり
      内山の赤い囚衣と、管野の銀杏がえしに紋羽二重納戸色の羽織が視線をひく
      裁判長鶴丈一郎以下、陪審判事の志方鍛、鶴見守義、末石厳石、大倉鈕蔵、常松英吉、遠藤忠次
      ほかに立会検事として大審院検事総長の松室致、検事の板倉松太郎が入廷する
      次席検事の平沼騏一郎は欠席
      被告一同が起立。望月書記長が幸徳以下順次被告の姓名を読み上げる
      続けて鶴裁判長が荘重低音に口を切る
      進行上の注意を与える
  01/18午後1時10分、大審院第1号大法廷にて100数十枚にわたる判決書の朗読がはじまる
      いくたびかコップの水に喉をうるおす
      1時57分、47分間に及ぶ読み下しを終了する
      理由書を読み終えた裁判長は咳払いをして「起立」と叫。判決言い渡しをはじめる
      ▽幸徳秋水ら24人に死刑判決
       幸徳伝次郎、新見卯一郎、奥宮健之、成石平四郎、内山愚堂、宮下太吉、森近運平、大石誠之助、
       新村忠雄、松尾卯一太、古河力作、管野すが、高木顕明、三浦安太郎、佐々木道元、岡本頴一郎、
       峰尾節堂、飛松与次郎、成石勘三郎、武田九平、崎久保誓一、岡林寅松、小松丑治、坂本清馬
       大逆罪適用のため有罪判決は未遂、準備のみでも死刑のみ。1審限りで控訴は行なえず
      ▽新田融に懲役11年、新村善兵衛に懲役8年の判決。2人は大逆罪でなく爆発物取締罰則違反
       1915(大正04)07/24新村善兵衛が千葉監獄を仮出獄する
       1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
       1916(大正05)10/10新田融が千葉監獄を仮出獄する
       1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
      裁判長は宣告を終えると椅子を立ち逃げるように法廷から消える
      一瞬、法廷内が静まり返る
      看守が管野すがの頭に編笠をのせる。被告は入廷と逆順に退廷する
      管野は弁護人に黙礼、椅子を離れると手錠をはめられ腰縄がつけられる
      手が使えない管野がかがんで編笠をはずす。背伸びをして仲間をみる
      「皆さん左様なら」管野が叫ぶ。被告の視線が管野に集まる
      「ご機嫌よう」内山愚堂が応える。管野が小走りに廷外へでる
      「無政府党万歳」大阪の三浦安太郎が叫ぶ
      幸徳伝次郎以下の被告が和す
  01/18死刑の宣告を受けた管野すが東京監獄の女監で獄中手記「死出の道艸」を綴りはじめる
     処刑前日の1月24日まで青線の日本けい紙61枚に毛筆で墨書きする
  01/18桂総理が裁判の結果を明治天皇に奏上【18日の24人の死刑判決から19日の12人が無期懲役となるまで】
     天皇は「この中で1人も助かる者はないのか」と
     桂総理はたいへん恐縮して司法の方に調査を命じ12人が死一等を減じ無期となり、残る12人が原判決通り死刑に
     【18日の24人の死刑判決から19日の12人が無期懲役となるまでのあいだ】
  01/19大逆事件で明治天皇の特赦減刑の恩命が発表される
     24人のうち12人は特に死一等を減ぜられ無期懲役の減刑に
     高木顕明、三浦安太郎、佐々木道元、岡本頴一郎、峰尾節堂、飛松与次郎、
     成石勘三郎、武田九平、崎久保誓一、岡林寅松、小松丑治、坂本清馬
     01/2112人が千葉監獄、秋田監獄、長崎諫早監獄に分かれあわただしく送監
     仲間が監獄を襲い囚人を奪い返そうとするのを恐れたため
     ○特赦無期刑で獄死したのは5人
     1914(大正03)06/24高木顕明は僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で服役中に自殺
     1916(大正05)05/18三浦安太郎は29才のとき諫早監獄で服役中に自殺
     1916(大正05)07/15佐々木道元は28才のとき千葉監獄で服役中に病死
     1917(大正06)07/27岡本頴一郎は諫早監獄で服役中に病死
     1919(大正08)03/06峰尾節堂は35才のとき千葉監獄で服役中に病死
     ○仮出獄できたのは7人
     1925(大正14)05/10飛松与次郎が秋田刑務所を仮出獄
      1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
     1929(昭和04)04/29成石勘三郎が武田とともに長崎刑務所を仮出獄
      1931(昭和06)01/0352才で病死する
     1929(昭和04)04/29武田九平が成石とともに長崎刑務所を仮出獄
      1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡
     1929(昭和04)04/29崎久保誓一が秋田刑務所を仮出獄
      1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
     1931(昭和06)04/29岡林寅松が小松とともに長崎刑務所を仮出獄
      1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
     1931(昭和06)04/29小松丑治が岡林とともに長崎刑務所を仮出獄
      1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
     1934(昭和09)11/03坂本清馬が高知刑務所を仮出獄
      1931(昭和06)10/01秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
      1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  01/19幸徳秋水が堺利彦にあてた手紙に『基督抹殺論』の贈呈先が記される
     加藤時次郎、小泉策太郎、安藤某、細野次郎、伊藤痴遊、木下尚江、田岡嶺雲ら先輩知友
     磯部四郎、今村力三郎、花井卓蔵、鵜沢総明、平出修の事件担当5弁護士
     国許の親戚へ10部。市ケ谷監獄の事務所と教務所。大杉栄。石川三四郎ら
  19日判決のあと減刑にされた12人の救出について徳富蘆花が実兄を通じ桂に手紙を書く
     蘆花の兄は桂首相の秘書官を務めたことのある徳富蘇峰
  19日判決のあと徳富蘆花が天皇あての上奏文を書き『東京朝日新聞』の主筆池辺三山に送る
  徳富蘆花が兄蘇峰に幸徳秋水らの減刑助命の忠告をするよう求める
     処刑の執行は速やかに行なわれ間に合わず
  01/22堺利彦は大杉栄夫妻、石川三四郎、吉川守圀の5人で幸徳秋水ほか数人と面会する【01/21?】
     【小島龍太郎、石川三四郎、ほか数人のうち、最後の面会に師岡千代子のみ許される?】
     【堺利彦、大杉栄、堀保子、石川三四郎、吉川守圀の5人が市が谷で落ち合う?】
     【堀保子と管野すがが別れ際、握手をかわす2人同時に泣き伏す?】
     典獄から「あとは明日にしたまえ」といわれ、あきらめて帰るも23日は日曜日で面会できず
     01/24朝10時頃、ふたたび行くと面会はできないとのこと
     面会できない理由をたずねても返事がなく、堺はただならない様子を察する
     吉川は看守から「じつは執行命令がきて今頃はもう四人目あたりをやってゐると思います」と聞く
  01/23司法大臣が死刑執行の指令を東京監獄に伝える【年齢の違いは満年令と数え年令の違い?】
     01/24朝から死刑が執行される
     午前08時06分、幸徳伝次郎(高知41[1871(明治04)11/05《09/23》生])【39才?】
     午前08時55分、新見卯一郎(熊本33[1880(明治13)01/12・生])【32才?】
     午前09時42分、奥宮健之(東京55[1857(安政04)12/27《11/12》生])【53才?】
     午前10時34分、成石平四郎(和歌山30[1882(明治15)08/12・生])【28才?】
     午前11時23分、内山愚堂(神奈川38[1874(明治07)05/17・生])【36才?】
     午後00時16分、宮下太吉(山梨37[1875(明治08)09/30・生])【35才?】
     午後01時45分、森近運平(岡山31[1881(明治14)01/20・生])【30才?】
     午後02時23分、大石誠之助(和歌山45[1867(慶応03)11/29《11/04》生])【43才?】
     午後02時50分、新村忠雄(長野25[1887(明治20)04/26・生])【27才?】
     午後03時28分、松尾卯一太(熊本33[1879(明治12)01/27・生])【31才?】
     午後03時58分、古河力作(福井28[1884(明治17)06/14・生])【26才?】
  01/大逆事件の死刑執行に対し各国の社会主義者より抗議が集中する
  01/23頃徳富蘆花が第一高等学校の河上丈太郎など弁論部の生徒から講演を頼まれる
     徳富は死刑中止の世論喚起をしようと講演を引き受ける。演題はずばり「謀叛論」
     02/01徳富蘆花が第一高等学校の演壇に立つ
  01/24死刑の前日、獄中の管野すがが堺利彦の娘で7才の真柄あてに惜別の手紙をしたためる
     「まあさん、うつくしいえはがきをありがとう、よくごべんきょうができるとみえて大そ
     う字がうまくなりましたね、かんしんしましたよ。まあさんに上げるハオリはねお母さん
     に、ヒフにでもしてもらってきて下さい。それからね、おばさんのにもつの中にあるにん
     ぎょーやきれーなハコや、かわいいヒキダシのハコをみな まあさんにあげます。お父さ
     んかお母さんに出してもらって下さい。
      一どまあさんのかあいいかおがみたいことね。さよなら
           一月二十四日」
  01/24死刑執行の夜、堺利彦、石川三四郎、大杉栄の3人は悲痛を紛らわすために酒を飲み泥酔【01/25?】
     堺は信濃町停車場に近い交番横の暗がりでつばをはく。立ち小便をして足元から白い煙が漂う
     交番の巡査が気づき目を光らす。尾行していた3人の刑事が巡査に耳打ちすると知らぬ顔に
     堺は手にもつステッキで往来のガス灯のガラスを叩きこわす。誰も何もいわず
     尾行の刑事は恐怖を感じ同行の石川三四郎に「どうか堺さんを家に送ってください」と頼む
  01/25午前8時、管野すがが絞首台にのぼる
     前日に幸徳以下11人の同志が縊られたことは知らされず
     教誨師沼波政憲と看守菅野丈右衛門が執行に立ち会う【菅野であたり】
     のち午前8時28分、管野すが絶命する(京都31[1881(明治14)06/07・生])【29才?】
  01/25午前11時、堺利彦ら数人の同志が処刑者の一部の親族と遺体を引き取る
     堺のほかには堺為子、石川三四郎、大杉栄、堀保子、吉川守圀、渡辺政太郎、福田英子、加藤時次郎ら
     第1回死体搬出。夕刻6時、東京監獄の裏門(不浄門)から6人の白い棺が引き渡される
     幸大石誠之助、内山愚童、奥宮健之、幸徳秋水、森近運平、古河力作の順
     毛布に包まれ荷車にのせられ、荒縄で縛られて丸太を通された棺桶
     長い葬列となり新宿の先、落合火葬場に向かう
     棺桶に付き添う長い葬列を警察は「大勢が行列を作り示威行動をしてはいかん」と注意する
     堺利彦が怒鳴る
     「多くの死骸を作ったのはお前達じゃないか。それを送るのが悪ければ、俺たちはここら帰る」
     さらに同志に向かって「諸君、見送っては悪いそうですから、ここから帰りましょう」
     あわてた運搬の指揮をする警部は態度を改め折れてでる
     「イヤ、どうぞ御自由にして棺だけは運んで下さい」
     01/26夕方、堺、大杉らが東京監獄で管野すがら4人の棺が引き渡される。落合火葬場へ
     のち引き取りてのない遺骨をしばらく売文社で預かることに
     のち引き取りてのない宮下太吉と新村忠雄の遺体は雑司ケ谷監獄墓地へ
     新村はまもなく染井霊園へ、宮下は遺族のもとへ
     売文社の最初の機会が大逆事件で処刑された人々の遺体引き取りと葬儀ということに
  01/25敬業社の磯部久作著『地主ハ盗賊』[1901(明治34)01/05刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/25在米日本人社会主義者・無政府主義者の19人がサン・フランシスコ朝日印刷所で幸徳事件死刑者等追悼会をひらく
     「在米日本革命党」の名をもって声明を公開。1月24日を革命記念日とすることを宣言する
  01/27房州から上京した荒畑寒村が安成貞雄と千駄が谷の増田謹三郎方を訪ねる
     増田は管野に間貸ししていた縁故から管野の遺骸を引き取る
     安成は棺の蓋を払い「頸筋に幅広い暗紫色が絞首の索のあとが残る」管野の顔をみる
     荒畑は見ることができず
  01/28管野すがの屍体が東京府豊多摩郡代々幡村代々木16番地の正春寺の墓地に埋められる【屍体? 遺骨?】
     のち過去帳に「釈淳然一月廿五日 菅野すが【ママ】 三十歳」と記される
  01/30堺利彦が大逆事件刑死者の遺体引き取りなどに協力した同志たちを自宅に招待して慰労する
     大杉栄、堀保子、岡野辰之助、半田一郎、斎藤兼次郎、吉川守圀、渡辺政太郎、石川三四郎、福田英子、熊谷千代三郎
  01/刑の執行を聞いて上京した義兄駒太郎が幸徳の遺骨を持ち帰る
     のち幸徳の生まれ故郷の土佐中村の幸徳家の墓地に埋葬される
  02/01和服、羽織袴に黒眼鏡をかけた徳富蘆花が第一高等学校の大教室に登壇
     教室は立錐の余地なく、満場は水を打ったように静まり返る
     弁論部主催の特別講演会で、演題は「謀叛論」
     大逆事件という厳しい状況の中、講演で「新しいものは常に謀叛である」と言い切る
     講演を依頼するのは、のち社会党委員長となる河上丈太郎や、文部大臣となる森戸辰男
  02/01高島米峰主宰の丙午出版社より『基督殺論』が刊行する。定価70銭
     幸徳の刑死後9日
     菊版、本文148ページ。巻頭に著者の「序」、巻尾に高島米峰の跋文がつく。初版は1千部
     当局の担当課員が個人として諸家数編の序跋類の不掲載を高島に申しでる
      雪嶺迂人(三宅雪嶺)の「序」、堺利彦編の「獄中消息」、堺の「基督抹殺論の後に記す」
      田岡嶺雲の「最後の別れを懐ふ」、高島米峰の「幸徳秋水と僕」の5編が省かれる
     発行所は東京市小石川区原町6番地の丙午出版社、発行者は高島大圓
     印刷所は東京市京橋区西紺屋町27番地の秀英舎、印刷者は佐久間衡治
     02/08初版1週間で再版となる
     のち重版は7、8千部に達しベストセラーに
     のち続く1か月で7版を重ねる
     1954(昭和29)09/05林茂、隅谷三喜男編で岩波文庫の1冊として刊行
     初版本に収録できなかった諸家の序跋、付録などが発見され、すべて収録される
     『基督抹殺論』の定本となる
  02/05石川三四郎と渡辺政太郎が麻布区霞町の渡辺方に近所の子供を集め日曜学校をはじめる
  02/05國學院にて大逆事件に関する「立国大本講演会」が開かれる
  02/07幸徳秋水の遺骨が中村町の正福寺墓地に埋葬される
  02/10縦横社の戸谷一郎が『縦横 第3巻第2号』を発行する
     02/22発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/11明治天皇の「貧民済生の勅語」により大逆事件に対処すべく施薬救療費として内帑金150万円を桂内閣に下賜
     済生会の計画がなる
     05/30恩賜財団済生会の設立が認可される
     08/21財団発足。初代総裁に伏見宮貞愛親王、初代会長に桂太郎(総理大臣)
     組織の運営は内務省が管理し具体的な事業計画は地方自治体に委託する形式をとる
  02/21堺利彦と藤田四郎が発起人となり社会主義各派の「合同茶話会」が開かれる
     場所は牛込区の神楽坂倶楽部
     堺為子、堺真柄、大杉栄、堀保子、石川三四郎、吉川守圀、片山潜のほか木下尚江、添田唖蝉坊など22人が出席
     03/24同じ神楽坂倶楽部で社会主義各派の合同茶話会が開かれる
     大杉栄が大阪の受刑者家族に対する当局の圧迫の様子などを報告する
     出席者が記念の寄せ書きをする。大杉が「春三月 縊(くび)り残され 花に舞ふ」を詠む
     1905(明治38)2月、筆禍事件で入獄する幸徳秋水と西川光次郎の入獄記念の寄せ書きに認めた句と同じ
     04/26同じ神楽坂倶楽部で社会主義各派の合同茶話会が開かれる
  02/23衆議院本会議秘密会で立憲国民党の犬養毅議員が指摘。場内の拍手を浴びる
     「この事件は『赤旗事件』によって、社会主義者が警察から非常な圧迫を蒙ったための復讐である」
     また「之ニ至ル迄ニ激成シタ責任ハ何処(いずこ)ニアルカト云エバ確ニ此行政ノ失策デアル」と述べる
     桂内閣による強権、弾圧の責任を追及する
  02/25第27回帝国議会に普通選舉法案が提出される
     提出議員22人、賛成者77人
     03/07趣旨説明が行なわれる
     03/09委員会で可決される
     03/11衆議院を通過する
     03/15貴族院の本会議では満場一致で否決される
  03/05我生活社の伊藤證信が『無我の愛 第28号』を発行する
     03/08発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/05新思潮社の小山内薫が『新思潮 3月号』を発行する
     03/17発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/12神田区三崎町3丁目の吉田屋で片山潜主催の労働倶楽部茶話会が開かれる
  03/17大杉栄が大阪へ。大逆事件の受刑者三浦安太郎の実父徳蔵と武田九平の実弟伝次郎と、その留守宅を訪問
     百瀬晋に会う。帰途、三重県月ケ瀬に1泊して帰京
  03/22普選同盟会が演説会を開催。片山潜らが大衆活動の強化をめざす
  03/22堺利彦の自宅に突然、山口孤剣から白米3俵が届く
     堺は同志たちに米を配る
  03/22尾島菊の小説「父の罪」が『大阪朝日新聞』で連載をはじめる
     「父の罪」は前年の『大阪朝日新聞』「1万号記念文芸募集」で2等に当選した作品
     のち6月10日まで
  03/24石川三四郎、渡辺政太郎が横浜市根岸町で日曜学校を開いている大和田忠太郎を訪ねる
  03/24牛込区の神楽坂倶楽部で社会主義各派の合同茶話会が開かれる
     大杉栄が大阪の受刑者家族に対する当局の圧迫の様子などを報告
     大杉栄が句を詠む「春三月 縊(くび)り残され 花に舞ふ」
     1905(明治38)2月、筆禍事件で入獄する幸徳秋水と西川光次郎の入獄記念の寄せ書きに認めた句と同じ
  03/31堺利彦が大逆事件の遺家族慰問の旅をする。旅行費用は岩崎革也が用立てる
     のちまず、京都にむかい岩崎を訪ねる
     のち岡山に行き森近運平の遺族に会う
     のち九州まで足をのばし熊本で松尾卯一太、新見卯一郎の遺族、佐々木道元の家族を見舞う
     のち途中、福岡の豊津に立ち寄る
     のち四国へわたり高知で幸徳秋水の遺族、岡林寅松の家族に会う
     のち本州にもどり兵庫で小松丑治の家族、大阪で武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎の家族、
     和歌山で大石誠之助の遺族、高木顕明、峯尾節堂の家族、三重では崎久保誓一の家族を慰問
     都合がつかない成石勘三郎、平四郎兄弟の家族に詫び状を送る
     05/08帰京
     東京以北の各地、新潟の内山愚童、長野の新村忠雄、山梨の宮下太吉の遺族ものとへは訪問せず
  04/02週刊『サンデー』で連載していた「探偵奇談 予告の大盗」が第222号で終了
     「探偵奇談 予告の大盗」は堺利彦が馬岳隠士の筆名で訳
     原作はモーリス・ルブランの「アルセン、ルーピン」
     1910(明治43)10月16日発行の第98号から連載開始
  04/03日本橋区の神田川に架かる日本橋が、石造り二連アーチ橋に架け替えられる
     総工費は52万円。その雄姿は100年を過ぎた、いまに受け継がれる
  04/04平民文庫の社会主義理想小説『百年後の世界』が発売禁止の処分を受ける
     エドワード・ベラミー原著、堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
     1920(大正09)02/08『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  04/04前川文栄閣の正岡芸陽著『新時代の道徳』[1903(明治36)06/17刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける

  04/09午前11時35分、吉原で大火が起こる【午前11時20分?】
     吉原江戸町2の20貸席美華登楼より出火、南の強風により火は燃え広がる【南西の風?】
     廓内は全滅、廓外にも延焼する大火事となり午後8時に鎮火
     全焼家屋6550戸、焼死者4人【6573戸、8人?】、負傷者131人
     原因は美華登楼の娼妓が長襦袢の衿を揮発油でふき、その濡れた衿を火で乾かしていて引火
     今回の大火で吉原遊廓は明暦以来22回目の全焼となる
  04/09東京吉原の遊廓で大火
     全焼壊滅し焼け跡から逃げ場を失い焼死した娼妓の遺体が続々と発見される
     負傷者73人が吉原病院に収容される
  日本基督教婦人矯風会が吉原の大火直後から公娼全廃論が勃興
     のち吉原全廃運動に決起、「吉原遊廓再興反対」の運動がおこる
     婦人矯風会会頭の矢島楫子が内務大臣の平田東助に再興反対陳情書を提出する
     東京市長の尾崎行雄にも同様の陳情を行なう。高名な尾崎は矯風会の陳情に冷淡に応接する
     のちさらに警視総監と第2部長を訪ね陳情する
  大火後すぐ吉原遊廓の仮営業が許可されるようになる
     なかには本建築に取りかかる業者も
  吉原の大火の報がイギリスへとぶ
     のちイギリス廃娼同盟会から幹事が来日。日本の廃娼運動に協力することに
     のちロンドンの婦人団体ゼーン・コブテン・ユニオンが東京市長あてに吉原の廃娼を促す一文を送る
     団体代表メリー・パンチングの名で

  04/20板垣退助が月刊『社会政策』を創刊する

  04/21第1回廃娼演説会が神田区の青年会館にて開かれる
     司会矢島楫子、弁士山本邦之助、島田三郎、田川大吉郎、山室軍平
     04/29第2回廃娼演説会が本郷区の中央公会堂で開かれる
     弁士は山室軍平、林歌子
     05/06第3回廃娼演説会が神田区の青年会館で開かれる
     弁士は林歌子、益富政助、木下尚江、安部磯雄
     05/11神田区の青年会館にて婦人大会が開かれる
     弁士は林歌子、山室軍平、山脇房子、大隈重信ら
     05/22浅草区の植木茶屋にて開かれる
     弁士は安部磯雄、山室軍平、本多庸一
     06/03芝区のユニテリアン協会にて開かれる
     弁士は三並良、三輪田元道、島地大らや島田三郎諸氏が出演、
     演説会ではいずれも熱心に吉原の廃止を主張
     いずれも満員の盛況で与論はことごとくに是認する

  04/23堺利彦が亡き友幸徳秋水の墓を詣でたとき「行春の若葉の底に生残る」を詠む

  04/吉原の大火の事実をみてキリスト教徒の有志が人道上より奴隷解放のために結束
     「吉原遊郭再興反対」のために奮闘する
     のち吉原は灰燼に帰し多くの娼妓が焼死したにもかかわらず、まもなく復活、再興を許可される
  04/警醒社書店が救世軍の山室軍平の『公娼全廃論附吉原善後策』を発行する【05/16発行との違い?】
     四六判、定価10銭

  05/02頃石川三四郎が横浜市根岸町芝生2194番地に移る
     宿痾の気管支炎治療に専念するかたわら著述、翻訳に従事する
     08/末福田英子が淀橋町角筈にいられなくなり横浜の石川の家に転居する

  05/03日本基督教婦人矯風会が矢島楫の『公娼廃止陳情書』を発行する
     内容は4月17日付で内務大臣男爵の平田東助にあてた「公娼廃止に関する陳情書」

  05/08堺利彦が大逆事件の犠牲者遺家族慰問の旅からもどる。出発は3月31日
     その日のうちに旅の報告会が堺宅で開かれる
     集まったのは大杉栄、堀保子、岡野辰之助、田島梅子、斎藤兼次郎、吉川守圀、藤田の7人

  05/09日本基督教婦人矯風会は麹町区の津田梅子が経営する女子英学塾で吉原廃止を訴える
     「時事」「東京朝日」「国民」「報知」「萬朝報」「東京日日」「中央」「読売」「婦女新聞」
     「新世界」「福音新報」、東京市教育会、婦人教育会などの代表者10余人や津田梅子ら有識者を招く

  05/11千葉監獄に収監中の岡千代彦を出迎えるため、堺利彦と大杉栄が監獄前の旅館に泊まる
     05/12岡が出獄

  05/16警醒社が山室軍平の『公娼全廃論』を発行。定価10銭【04/発行との違い?】
     内容は(上)公娼全廃を主張する理由、(下)吉原遊廓を如何にすべき乎
  05/24廃娼運動の全国組織をつくるため第1回準備会が開かれる
     江原素六を発起人代表として島田三郎、安部磯雄、山室軍平、島貫兵太夫、
     山本邦之助、鈴木文治、矢吹幸太郎、山田弥十郎、横倉秀子、益富政助らが参集する
     のち意書の起草、会則の編成などのため、幾度かの会合を重ねる
     07/08「廓清会」が結成される
  05/24日本基督教婦人矯風会が神田区の青年会館で牧師招待会を開く【教役者招待会?】
     牧師54余人が集まる。江原素六、小崎弘道は参会者に吉原廃止運動に参加するよう訴える
  日本基督教婦人矯風会の運動に刺激され婦女新聞社、理想団、メソジスト教会主催の「廃娼大演説会」が開かれる
     市内各所で数回にわたる

  05/29社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     労働新聞社の村井知至著『社会主義』[1899(明治32)07/12刊]
     信州普通撰挙同盟会の片山潜著『社会改良手段 普通撰挙』[1901(明治34)10/28刊]
     新声社の佐藤儀助著『弱者の声』[1901(明治34)11/08刊]
  05/普選同盟会への圧迫が強まるなか警視庁が同盟会へ「政社」の届け出を命じる
     政社になると同盟会有力メンバーの代議士が脱会もしくは脱党の選択をせまられることに
     05/29同盟会が総会を開く。解散し各政党員、個人としての助力に依存して普選をめざすとの態度を決定
     05/30警視庁へ届け出、解散する

  05/救世軍の山室軍平が『娼妓自由廃業の勧め』を発行する

  06/01『青鞜』の発起人会が物集和の部屋で開かれる
     平塚明、中野初、保持研(白雨)、木内錠、物集和が集まる
     『青鞜』の基本方針の大方が決定する
     事務所は物集方、編集兼発行人は中野初、代表は平塚明
     広告1ページ15円、半ページ8円
     09/01月刊『青鞜』が創刊する
  07/07東京市有反対市民大会が開かれる
     07/09東京市会が電車市有案を可決

  07/07積玉堂書店が安藤陽洲(安藤虎男)の『青年必読 公娼退治』を発行。定価15銭
     序文は島田三郎が記す
  07/08島田三郎や矢島楫子らが公娼廃止運動の全国化のため「廓清会」を結成
     強固な廃娼団体の組織と統制をつくることに
     売春業者は日露戦争以後、経済の発展につれ莫大な資本を吸収し慈善事業的な反対運動では太刀打ちできなくなる
     醜業者は政治界も手中に収め、対抗策として反対派も政治力を集めることに
     4月の吉原大火で灰燼に帰した吉原遊廓が再興反対の世論をよそに営業を再開したことを受けて
     男女道徳を改善して健全なる思想を培養し根本より売淫制度を否認する社会的良心を発達させる目的
     発会式が神田区美土代町の青年会館で開催
     正面には2旒の国旗を交叉させ、2階欄干の周囲に紅白の幔幕をめぐらせ清楚な装飾が施される
     聴衆の波は開会の午後6時になっても絶えることなく、6時半には立錐の余地なく
     座席のない者は窓の周囲や階段の上にあふれ、その数1千数百人に
     会場には千数百人が集結し「公娼廃止」「男女間の貞潔の徳操」普及の決意が示される
     司会の矢島楫子は貸座敷業者ね暴力行使に備え白無垢を着用
     はじめに江原素六が簡単に開会の趣意「発起人総代の挨拶」を述べる
     会長に島田三郎を推薦、その他役員を紹介する
     益富政助がこれまでの会の経過を報告し、島貫兵太夫が挨拶
     安部磯雄が拍手に迎えられ登壇「人道問題としての公娼制度」を説く
     山室軍平が「不朽の事業」と題し、過日吉原の代表者から妥協の交渉を受ける顛末を述べる
     折柄居合わせた田中正造の快弁が花を添える
     大隈重信は咽喉病にて出席できず長編の論文「公人と公徳」を益富政助が代読する
     最後に島田三郎が迎えられ「廓清会組織の趣意」。政治法律教育風教の各方面から現行の公娼制度を論評する
     午後9時半、無事閉会となる【午後9時?】
     顧問・伯爵大隈重信、会長・島田三郎、副会長・矢島楫子、安部磯雄、会計・山本邦之助、
     理事・江原素六、矢吹幸太郎、山田弥十郎、益富政助、小崎千代、島貫兵太夫
     【理事には山室軍平、久布白落実、高島米峰、三輪田元道ら、常務理事に伊藤秀吉が選ばれる?】
     【理事・島貫兵太夫、益富政助、矢吹幸太郎、小田弥十郎、小崎千代、会計・山本邦之助?】
     評議員・加藤弘之、浮田和民ら
     【評議員には小崎弘道、植村正久、井深梶之助、元田作之進、山室軍平らキリスト教会各派を代表する指導者が連ねる?】
     のち貞潔な家庭と社会の上に実現しようとする統制ある運動が生まれる
     禁酒問題、国際道徳の問題、芸妓問題、婦人参政権問題、海外醜業婦問題を講演や文章で社会に訴える
     のち大阪の遊郭を廃止させ、いくつかの遊郭の新設を不成功に終わらせる
     1926(大正15・昭和01)06/07「廓清会」「婦人矯風会」の連合組織「廓清会婦人矯風会連合」が成立
     廃娼運動を全国的に盛りあげる
     のち「廓清会婦人矯風会廃娼連盟」となる
  07/08「廓清会」結成と同時に機関誌の『廓清』が創刊する
     発行所は廓清発行所、発売元は警醒社書店。編集人は益富政助、発行兼印刷人は伊庭孝
     定価1冊(1月分)10銭(郵税5厘)、6冊(半年分)60銭(郵税3銭)、12冊(1年分)1円10銭(郵税6銭)
     「廓清」は廓清会が推進する多彩な廃娼運動の記録だけでなく、
      娼妓の生活、検梅制の内幕、官憲と業者の癒着、非人道的な張り店、悲惨な朝鮮人娼妓の実態など、真実の記録が収録される
     1945(昭和20)01/10第35巻第1号が発行される
     のち続刊はなく第35巻第1号が終刊号となる
  07/08『廓清』創刊号のうしろ色付き1ページに警醒社書店発行の山室軍平著『公娼全廃論』の広告が載る
     存娼か廢娼かの問題を嘗て考へた事のない人
     どふ云ふ譯で公娼が有害か理由が分らぬと云ふ人
     たゞ單に公娼は全廢した方が宜い位に思ふ人
     公娼がどんな弊害を社會國家に與へるかを知らぬ人
     公娼がなければ社會全般の風紀が亂れると思ふ人
     公娼などと野暮を云ふなと通がつてゐる人
     遊廓を詩的に解釋して其社會的害毒を知らぬ人 は本書を讀め!!!

  07/25夜半、接近する台風による大暴風雨で東京に海嘯が起きる

  07/26午前2時半頃、関東地方を襲った台風が大津波となって洲崎遊廓の海岸堤防300間を破壊する【午前1時?】
     8尺(24、25メートル)ほどの高潮が人家を襲撃。新遠江楼など5軒の妓楼が倒壊する
     堤防際の1丁目16番地、新遠江楼の家屋が倒壊する
     主人夫婦、小児1人、遊客3人、娼妓16人が家の下敷きとなり圧死または溺死する
     また海東側の2丁目15番地でも妓楼の倒壊が4戸、計16人が圧死、溺死し、11人が行方不明に
     堤防沿いの病院、三業事務所は半壊
     嵐の最中に2丁目6番地から出火するも大事にはいたらず
  7月25日の台風による東京深川の洲崎遊廓の倒壊を機会に救世軍の廃娼運動が一段と活発化に

  07/築地活版所のストライキで欧文植字工組合「欧友会」の金子清一郎が治安警察法第17条で起訴
     さらに罷業資金の件で紛争を重ねることに
     のち波瀾があるもかろうじて勢力は維持する
     1914(大正03)09/頃第1次世界大戦のあおりをうけ横浜の外字新聞が廃刊に。外国人は帰国し商店が閉鎖となる
     欧文印刷は閑散となり欧友会は致命傷を負うことに
  夏/平塚明が『青鞜』の創刊の辞を執筆
     一夜を徹して「元始女性は太陽であった」を書き上げ「らいてう」と署名する
     女性解放運動のシンボル「らいてう」が誕生する
  08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  08/03社会新聞社より1907(明治40)6月2日に創刊された月刊の『社会新聞』が第80号で廃刊となる

  08/12東京市日本堤署所属の浅草町交番詰め巡査山田三治が突然馘首される
     原因は廓清会の機関誌「廓清」8月1日号に「公娼廃止論を読む」を寄稿したため

  08/21警保局保安課の下の警視庁に特別高等課が設置される。主要府県に限られていた高等警察課が全国に設置
     思想取り締まりで悪名高い特高の誕生
     従来の高等警察は政党対策を担当し、新たな特別高等警察は、社会主義関係を専門に担当する部署となる
     のち標的には社会主義者や無政府主義者はもとより、自由主義者、宗教者、学者へと広がる
     1945(昭和20)10/13日本の敗戦後、GHQの命により廃止となる
  08/31在米日本人会の招聘に応じて島田三郎と新渡戸稲造が渡米する
     1912(明治45)01/05帰国する
  09/01平塚明(25)らが女性による月刊誌『青鞜』を創刊
     1千部を全国にはける
     1912(明治45・大正01)01/青鞜社社員として尾竹一枝(尾竹紅吉・19)が入社
     7月に神近市子(24)が、10月に伊藤野枝(17)が入社
     のち尾竹は酒盛りをした、吉原に登楼した、相愛の平塚に男友達ができたなど誌上で吹聴
     青鞜社内で批判され表向き退社
     1914(大正03)09/世帯を持った平塚の多用で『青鞜』9月号未刊
     10/3周年記念号には警保局長の警告を転載する
     11/11月号は平塚に頼まれた伊藤が薄い『青鞜』を発行
     「全部委せるならやるが、忙しい時だけのピンチヒッターは断る」と野枝
     以降、平塚は手をひき編集は伊藤に委ねることに
     伊藤は青鞜社を無規則、無方針とする
     伊藤のもと生田、原田、伊藤、山田わか、平塚、岩野、青山菊栄らが貞操問題、堕胎問題、売娼制度なを論争
     1916(大正05)02/伊藤野枝が大杉栄に走り2月号で無期休刊に。創刊より52冊発行される
  09/01女性のみによる文芸誌『青鞜』が創刊される
     134ページ、定価25銭、郵税1銭5厘、発行部数1千部。全面的にルビを排する
     表紙絵 長沼智恵子
     001 詩「そぞろごと」与謝野晶子
     010 小説「死の家」森しげ女
     020 俳句「百日紅」白雨
     022 小説「生血」田村とし子
     037 感想「元始女性は太陽であった」らいてう
     053 小品「猫の蚤」国木田治子
     057 散文詩・翻訳「影」ポオ
     062 戯曲「陽神の戯れ」荒木郁子
     090 短歌「磯のひる」淑子
     092 小説「七夕の夜」物集和子
     110 翻訳「ヘッダガブラ論」メレジユウスキー【ママ】 らいてう訳
     巻末に「青鞜社概則」が記される
      第1条には「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」
     発足時の陣容
      発起人=中野初子(25)、保持研子(白雨・26)、木内錠子(24)、平塚明子、物集和子(23)
      賛助員=長谷川時雨、岡田八千代、加藤籌子、与謝野晶子、国木田治子、小金井喜美子、森しげ子
      社員=岩野清子、戸沢はつ子、茅野雅子、尾島菊子、大村かよ子、大竹雅子、加藤みどり、神崎恒子、田原祐子、
      田村とし子、上田君子、野上八重子、山本龍子、阿久根俊子、荒木郁子、佐久間時子、水野仙子、杉本正生
     社員は会費を納め平塚の母が資金を援助
     「青鞜」の名は18世紀半ばのロンドンで芸術や文学を論じた女たちへの嘲笑的な「ブルー・ストッキング」から
     生田長江の意見により先取りする
     出発時の目標は「女流文学」。小説や短歌、詩など文学作品を巻頭に組み、評論など特集は巻末にまとめ「付録」とする形式
  09/03『東京朝日新聞』『青鞜』の広告が載る
  09/11堀保子が肺を病み神奈川県三浦郡腰越村七里ケ浜の恵風園
     医院に入院する
     のち大杉栄は看護のため、ときどき医院へ
  09/22〜24坪内逍遥率いる文芸協会が坪内邸内に新築された私演場で舞台開き、公演を行なう
     イプセンの「人形の家」(第2幕を省略した形で上演)他を演じる
     11/28〜12/05帝国劇場にて再演する
     劇は広く社会的反響を巻き起こしヒロイン・ノラに扮した松井須磨子の人気は昇天の勢に
  09/29藤田四郎、堺利彦主催の茶話会が牛込区の神楽坂倶楽部で開かれる
  09/歌人で岡野辰之助の妻田島梅子が23才で病没する
     田島は売文社に入り大杉栄、荒畑寒村らと活動をともにする

  10/08吉原遊廓の全焼を知った万国廃娼同盟会英国支部幹事のモーリス・グレゴリーが来日
     のちグレゴリーの送別会が東京で開かれる。主催は廓清会。島田三郎会長ほかの送別の辞を述べる
     加藤直士が大阪を代表し大阪でのグレゴリーの努力に対し謝辞を述べ、ニュースを報じる
     「過般難波新地遊廓廢止運動の際グレゴリー氏が大阪の演説を終へて歸京の途次、食堂車に食卓を同うしたる一紳士を捕へ、
     熱心に廢娼の必要を説いた。グ氏は元より其何人なるかを今に知らないが何ぞ計らん其紳士は大阪府知事犬塚勝太郎氏であつた。
     而も其後幾何もなく例の二月五日の難波新地廢止の府令は發せられたのである「余はグ氏の熱心に少からず感動した」とは
     同知事が余に語られたる直話であるが、難波新地遊廓廢止布告の裡面には、こんな逸話が潜んでゐるのである」
     1912(明治45)03/08グレゴリーが日本を去る

  10/18日比谷公園松本楼で行なわれた浪人会の集会で頭山満は東京市の市会議員の補欠選挙の候補者に古島一雄を推す
     小島は三浦梧楼、犬養毅、黒岩涙香、杉浦重剛ら浪人会メンバーの応援も受けて当選する
  10/29堺利彦宅で茶話会が開かれる
     のちこの茶話会は、ほぼ毎月開かれ、大杉栄は1913(大正02)1月頃までだいだい出席する
  10/堺利彦が幸徳秋水、大石誠之助、管野すがらの書籍をもとに大逆文庫を作る

  11/04廓清会の理事山室軍平と益富政助がグレゴリーを伴って内務省へ
     モーリス・グレゴリーは万国廃娼同盟会英国支部幹事で運動応援のため来朝中
     床次内務次官、古賀警保局長、小橋衛生局長、小濱警視庁第2部長らと会見する
     長時間にわたり有益な懇談となる
     11/14山室、益富、グレゴリーの3人が陸軍省医務局にて軍医総監の森林太郎(鴎外)と意見交換
     陸軍主計監の日疋信亮の紹介による
     また陸軍省医務局衛生課課長の山田弘倫とも懇談
     11/16青年会館にて演説報告会が行なわれる
     矢島楫子副会長が司会にたちグレゴリー、山室軍平、益富政助らが報告
      会には青山学院院長の本多庸一、明治学院の総理井深梶之助、
      中央公会堂の牧師平岩愃保らをはじめ都下の教役者数10人を招く
     前群馬県医師会会長の齋藤壽雄が衛生上から廃娼後の群馬県の成績優良を説く
     教役者に後援を望む
     11/18神田区三崎町にてグレゴリーと益富政助の演説が行なわれる【三崎町の中央浸礼会館?】
     11/19青年会館に市内の学生青年会役員を招待し、グレゴリーと益富政助の講話が行なわれる
     高等工業、高等師範、慈恵医専、東京学院、明治学院など学生主催の廓清演説会開催の件を議決する
     11/24神田区の青年会館にて青年学生の特別集会が開かれる
     益富政助、グレゴリー、山室軍平の演説が行なわれる
     11/25東京学院の講堂にて同校青年会主催の廃娼講演会が開かれる
     高井文学士が司会で益富政助、グレゴリー、千葉神学博士の講演が行なわれる
     11/26小石川区の教会にて山室軍平の廃娼講演会が行なわれる【小石川力行教会?】
     11/26益富政助とグレゴリーの廃娼講演会が芝区のフレンド教会にて行なわれる
     主催はフレンド教会と明治学院青年会

  11/07幸内久太郎らが「独立労働党」を結成。すぐ禁止となる
  11/11川上音二郎が舞台で倒れ死去[1864(文久04)02/08《01/01》生]
     「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言で、博多駅近くの承天寺に葬られる
  11/21伊藤野枝が叔父の独断でアメリカ移民の青年末松福太郎と無理に入籍、結婚させられる
     1913(大正02)02/11協議離婚が届け出される
  11/25救世軍が東京月島に100人を収容する「月島労働寄宿舎」を開設、落成式が行なわれる
     中央衛生会長の石黒忠悳、中央慈善協会会長の渋沢栄一、内務次官の床次竹次郎らの祝辞がある
     1924(大正13)12/月島労働寄宿舎が月島東仲通3丁目に移転
     東京府の委託経営として「自助館」と改称、労働寄宿と職業紹介を行なうことに

  11/25廓清会本部が廓清叢書を2冊発行する
     廓清叢書第1巻は大隈重信の『公娼廃止論 附公人と公徳』
     著者の大隈は法の執行を行なわない政府を批判
     「廃娼令」「五箇条の御誓文」(赤子の平等)の執行を求める
     廓清叢書第2巻は益富政助の『此罹災者を救へ』
     親や社会の犠牲者、世の「罹災者」として娼妓をとらえ、解放後の事例をあげ人格的復活をのべる

  12/05片山潜、藤田四郎らが「政社・社会党」を結成。すぐ禁止となる【10/25?】
     社会の革新を期し普選の実行を計る
     12/27禁止となる【10/27?】
  12/15堀保子が病気療養のため腰越村日坂789番地9号の1へ移る
  12/24大逆事件の容疑で幸徳秋水ら12人の命が奪われた年の年末。堺利彦宅で同志の忘年会が催される
     出席者は堺利彦、為子、真柄、大杉栄、堀保子、師岡千代子、片山潜、荒畑寒村、渡辺政太郎、
     吉川守圀、岡野辰之助、斎藤兼次郎、あまり、添田唖蝉坊、松崎源吉(ロース)、幸内久太郎、
     原子基、江渡狄嶺、高畠素之、久坂卯之助、安成貞雄、安成二郎、本田勝作、平間某の24人
     記念写真が撮られる。
  12/26神田区一ツ橋通一ツ橋町で同志の忘年会が開かれる
     堺利彦、石川三四郎、渡辺政太郎、斎藤兼次郎、幸内久太郎、吉川守圀、藤田四郎らが出席する
  12/30三田の寄席大黒亭で「政談演説」を開く。片山潜が市電の車掌、運転手に対し演説
  12/31〜翌年01/02旧東京鉄道株式会社の市へ移管の際の解散手当分配金をめぐり労働争議が勃発
     従業員が総罷業(ストライキ)を決行する。片山潜指導のもとに運転手や車掌など従業員6千余人参加
     大晦日の夜、市内電車の全線が運転不能に陥る。人口200万の東京市民が迷惑をこうむることに
     1912(明治45・大正01)01/01罷業が解決する。結果、従業員らはボーナスとして27万円を獲得

  年末日本の芸妓3万8850人、娼妓4万8412人、酌婦3万6712人、計12万3974人
     日本の貸座敷1万0973軒、待合茶屋1689軒、計1万2662軒
     1898(明治31)、1909(明治42)、1910(明治43)、1912(大正01)にも同様の比較統計あり

  衆議院の議会に普通選挙法案を国会に提出するも審議の結果、否決される
     提出者は中村弥六、河野広中、降旗元太郎、花井卓蔵ら
  この年の小作組合数は41


1912(明治45・大正01 07/30〜

  《総理大臣》[第14代](第2次)西園寺公望(→12/21)、[第15代](第3次)桂太郎(12/21→)
  《内務大臣》[第27代]原敬、[第28代]大浦兼武(12/21→)
  《警視総監》[第19代]安楽兼道/再任、[第20代]川上親晴(12/21→)
  《内務省警保局局長》古賀廉造(→12/22)、太田政弘(12/22→)


  幸徳秋水刑死後大正期のアナーキズム運動の渦中、『麺麭の略取』訳本が経典視され相当な影響力をもつようになる
  01/01前年12月31日から続いた東京鉄道株式会社の罷業が解決する
     結果、従業員らはボーナスとして27万円を獲得
  01/05在米日本人会の招聘に応じて渡米していた島田三郎と新渡戸稲造が帰国する
     日本を発ったのは前年の8月31日
  01/15片山潜が東京市電ストライキの指導を行なったとして早朝検挙、家宅捜索され即日起訴
     03/01市が谷未決監で毎日2枚「自伝」を書きはじめる
     05/07巣鴨監獄に入る
     05/21千葉監獄に移る
     08/28大正天皇即位の大赦によって出獄。大杉栄が両国停車場にて出迎える【09/27?】

  01/16午前1時、大阪難波の新地で火災が発生する。「南の大火」
     難波新地四番町の貸座敷「遊楽館」に隣接する風呂屋百草湯の煙突から出た火の粉が屋根に燃え移り出火
     【大阪市南区難波新地百草湯から出火百草湯は貸座敷か、風呂屋か?】
     南西の強風にあおられ火は東北方面を延焼。約10時間に渡り街は燃え続ける
     【午前10時に鎮火】
     【9時間のあいだに18か町4880戸を焼き払う?】
     東西1.4キロ、南北400メートルを焼失。罹災面積8万2611坪、全半焼戸数4070戸、罹災者1万7939人
     【難波新地から18か町約4900戸を焼き尽くす? 18か町、4885戸を焼き払う?】
     3年前のキタほどの被害規模ではないものの、明治時代最後の大火として記憶される
  01/16大阪の南の大火で南区難波新地の乙部遊廓142戸が全焼する
     【火事で124軒の娼妓居稼店(てらしみせ)が壊滅する?】
     【難波新地の貸座敷は142戸を焼失し23戸を残すのみに?】
     大火のさなか罹災した居稼業者が難波の鉄眼寺に集まり復興策を協議
     結果、居稼業者の代表は7千坪の焼け跡に難波新地の再建許可を得ようと嘆願書を大阪府に提出する
  01/163年前の廃娼運動に成功した婦人矯風会と基督教徒の有志が難波新地火災の報を受け運動の準備に入る
     罹災民救護を第一に廃娼運動に着手する
     大阪婦人矯風会会長の林歌子、書記の清水たね子は廓清会本部に電報をうつ
     「難波新地遊廓は今盛んに燃えつゝあるから すぐ廃娼運動の応援弁士を寄越せ」
     廓清会の本部で伊藤秀吉が電報を受けとる
     大火のさなか林は市長を訪問、この機会に難波新地の廃止を申し入れる
  01/17午前10時から土佐堀青年会館に婦人矯風会役員、各教会牧師、青年会理事ら有志35人が参集する
     【午前9時?】
     即時、罹災民救護と焼失遊廓再興反対運動を決議、それぞれ部署を定め活動を開始する
     林歌子は東京から駆けつけた救世軍の山室軍平と大阪キリスト教信徒総代の加藤直士と3人で相談
     1月20日に大阪で難波焼失遊廓再興反対大演説会を開くことに
     のち反対運動委員長に加藤直士を推し、知事、警察部長などへの訪問委員を選出する
     のち内務大臣あて建白書を起草、署名運動をはじめる
  01/18焼けだされた貸座敷業者が連署で仮宅内営業許可の儀を願いでる
     のち犬塚知事、池上警務長、平田内務部長ほか関係当局者が集合、人目をさけて秘密に協議
  01/19『大阪朝日新聞』が旧難波新地の廃止を訴える当局者談を報道する
     01/20難波焼失遊廓再興反対大演説会が中之島公会堂で開催される
     東京廓清会と婦人矯風会本部から矢島楫子、山室軍平、グレゴリーらを迎える【矢島は01/23?】
     弁士は石橋為之助、加藤直士、山室軍平、グレゴリーら
     来朝中の万国廃娼同盟会英国支部幹事のモーリス・グレゴリーや山室軍平を迎える
     大演説会には3500人が来場、この日だけで110人の廓清会への入会者を得る
     01/21委員会が開かれる
     グレゴリーがチャプマンと犬塚大阪府知事を訪問
     01/21『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』が社説や雑報に応援記事を掲載。世論の喚起に努める
     01/23『大阪毎日新聞』は府庁が旧難波新地遊廓の免許を取り消す決定をしたとすっぱ抜く
     01/23東京の矢島楫子が来阪【01/20?】
     救世軍の山室軍平や来日中のモーリス・グレゴリーらと協議し知事、警察部長を訪問し意見を陳述
     矢島は知事夫人、市長夫人を訪ね来阪の趣旨を述べる
     01/23内務大臣あての建白書を起草し署名運動をはじめる
     01/23廃娼パンフレットを各方面に配布する
     01/24加藤直士がグレゴリーを伴い各新聞社を歴訪する
     01/253人の名による建白書を内務大臣あて発送する
     大阪婦人矯風会会長の林歌子、大阪基教青年会理事総代の緒方●【金偏に圭】次郎、大阪基教会信徒総代の加藤直士
     【01/26内務大臣あての建白書に朝日新聞、毎日新聞の記事を添え発信?】
     01/27東京廓清会から江原素六と益富政助が朝8時6分着の列車で来阪
     益富は婦人ホームの藪入り会に望む。一場の講話のあと池上警務長とグレゴリーを訪問する
     【益富は直ちに池上警察部長を訪問し廃止を陳情する?】
     01/27夕方6時、青年会館にて廃娼大演説会が開かれる
     かねてからの念願、廓清会大阪支部の発会式が行なわれる
     林歌子が司会、緒方●【金偏に圭】次郎、長田時行、益富政助、江原素六が演説する
     また大隈伯の祝電、島田三郎の祝文を朗読する
     01/28夕方5時より委員会が開かれ大阪支部の委員を決める
     01/28夕方6時、グレゴリーが神戸で廃娼演説会をなし、ただちに帰京する
     のちグレゴリーに代わって益富政助が滞在、連日連夜、同志と運動をともにする
     01/29午後5時、委員会を催し会員募集の協議をする
     01/31益富政助が和歌山に向かう。和歌山廓清会支部の設立準備にはいる
     02/01有志の者が新入会員を募る
     02/02益富が帰京する

  01/『青鞜』第2巻1号でノラの企画が実現する
     「附録ノラ」は「社員の批判及び感想」と銘打ち「人形の家より女性問題へ」(葉)、
     「人形の家」(みどり)、「人形の家を読む」(君)、「ノラさんに」(H)、「人形の家に就て」(y)など
     ほかにバーナード・ショーの評論「人形の家」の訳、松井すま子談などをならべる
     さらに早稲田の演劇研究所から国内外の舞台写真を借り掲げる
     葉=上野葉、みどり=加藤みどり、君=上田君、H=、y=保持研
  01/21青鞜社が大森海岸森ケ崎の料亭富士川で在京社員の新年会を開く
     出席者は平塚らいてう、保持研、松村とし、武市綾、小磯とし、河野(林)千歳、宮城ふさ、長沼智恵
     世話人は荒木郁

  01/23資力薄弱な焼失遊廓当業者が内部からぐずれはじめる
     愛知楼ほか小貸座敷連13楼の抱娼妓の2、3人から10余人が他の遊廓に転籍。その数142人に
     01/24なお鞍替え娼妓が続出、午後までに304人を数える
     娼妓全1300余人の4分の1が松島ほかへ転籍する
     のち幅を利かす役員で萬安楼楼主の中島直義は貸座敷を廃業する旨の意見、
     事務所会計主任で徳栄楼楼主の木村綱次郎は抱娼妓20余人を引き連れ妻の郷里の岐阜市に移る
  01/27廓清会大阪支部が設立する

  01/青鞜社社員として尾竹一枝(尾竹紅吉・19)が入社
     7月に神近市子(24)が、10月に伊藤野枝(17)が入社
     のち尾竹は酒盛りをした、吉原に登楼した、相愛の平塚に男友達ができたなど誌上で吹聴
     青鞜社内で批判され表向き退社
     1914(大正03)09/世帯を持った平塚の多用で『青鞜』9月号未刊
  01/丙午出版社が堺利彦の訳で『ルソー自伝 赤裸乃人』を発行する

  02/05大阪府知事の犬塚勝太郎は府告第35号で難波新地の廃止を宣告
     「難波新地三番町、四番町、貸座敷免許の中、難波新地遊廓に属する免許地は之を廃止す、
      但し現存せる営業者は本年四月三十日迄営業することを得」
     「現存せる営業者」は類焼を免れた銀水楼と阪町に孤立したベイ亭の2軒
     難波新地の復活を望んだ楼主は惨憺な敗北を被る
     大阪の廃娼運動が勝利となった原因のひとつに、林歌子を中心とする女性40人の連帯
     林たちは運動をはじめた頃、2日間で400余円の軍資金を集める
     400余円は良質1カラットのダイヤモンドに相当

  02/19石川三四郎と福田英子が本郷区弓町の逸見斧吉宅を訪ねる
  03/01赤羽巌穴が千葉監獄でハンガーストライキを決行。獄中死する[1875(明治08)04/05・生]
     1910(明治43)5月25日発行の赤羽一の『農民の福音』が発売頒布を禁止する処分を受け朝憲紊乱罪で入獄
     「いぢめ殺されたのだ」と書かれた色紙が、渡辺政太郎を通じて遺族に送られる
     03/05千葉監獄で自ら命を絶った赤羽巌穴の通夜が逸見斧吉宅で開かれる
     寄せ書きがまわされ石川三四郎は「無々」と認める

  モーリス・グレゴリーの送別会が東京で開かれる。主催は廓清会。島田三郎会長ほかの送別の辞を述べる
     グレゴリーは万国廃娼同盟会英国支部幹事で吉原遊廓の全焼を知り1911(明治44)10月8日に来日
     加藤直士が大阪を代表し大阪でのグレゴリーの努力に対し謝辞を述べ、ニュースを報じる
     「過般難波新地遊廓廢止運動の際グレゴリー氏が大阪の演説を終へて歸京の途次、食堂車に食卓を同うしたる一紳士を捕へ、
     熱心に廢娼の必要を説いた。グ氏は元より其何人なるかを今に知らないが何ぞ計らん其紳士は大阪府知事犬塚勝太郎氏であつた。
     而も其後幾何もなく例の二月五日の難波新地廢止の府令は發せられたのである「余はグ氏の熱心に少からず感動した」とは
     同知事が余に語られたる直話であるが、難波新地遊廓廢止布告の裡面には、こんな逸話が潜んでゐるのである」
     03/08グレゴリーが日本を去る
  03/21午後0時50分頃、亀江楼の湯殿の煙突の火がとなりの中村楼に飛び火
     強風のなか火は燃え広がり2時頃には洲崎弁天町1丁目すべての146戸を焼き尽くす
     妓楼は都合63軒が類焼
     概算で廓内の被害は30〜40万円を下らず
     廓外への類焼被害額を合算すると100万円前後の高額に

  03/29大杉栄が大久保町百人町352番地へ移る
  03/29呉の海軍工廠でストライキが起きる。参加した職工は2500人に
  03/深川区猿江町12番地に東京市直営の猿江特殊尋常小学校が開校する

  03/救世軍の山室軍平が『貸座敷業者への忠告』を発行する

  04/10イギリスのタイタニック号 (Titanic)がイギリスのサザンプトンを出港
     アメリカのニューヨークに向けて処女航海にでる
     世界最大級の豪華客船で全長268米、幅27.7米、総トン数は4万6328瓲。母港はリヴァプール
     04/14真夜中、北大西洋のニューファウンドランド沖で氷山に衝突し、2時間40分で沈没
     乗船2208人の中、1517人が死亡する世界最大の海難事故に
  04/13石川啄木(本名石川一)が東京は小石川区久堅町にて肺結核のため死去。享年27[1886(明治19)02/20・生]
  04/18夜10時頃、巡査と私服が青鞜社の物集邸を訪ねる←←←(変)
     事務所となる和の部屋を案内させ、1冊だけ残る『青鞜』第2巻第4号「小説号」を押収する
     姦通を扱った荒木郁の小説「手紙」が出版法第19条違反により発売を禁止される
     『青鞜』初めての発禁処分
  04/29北海道の夕張炭坑で爆発事故が起こる276人死亡【278人?】
  04/本所区菊川町1丁目26番地に東京市直営の菊川特殊尋常小学校が開校する
  05/01第1次『東京パック』最終号が発行。第8巻13号、全222巻となる
     創刊は1905(明治38)4月15日
     05/北沢は有楽社を退社
     06/01第2次『東京パック』が創刊
     月刊でB4変型判、12ページの4色刷りカラー印刷。定価は13銭
     1915(大正04)12/20第2次『東京パック』最後の発行、以降休刊となる
     1919(大正08)08/01第3次『東京パック』が復刊
  05/05『読売新聞』で「新しい女」全25回の連載がはじまる。第1回は与謝野晶子
     05/062・田村とし子05/073・中村屋の主婦05/084・ドンブラコ婦人05/095・女性医師05/106・瀬沼夏菜
     05/117・河村菊枝05/138・三谷民子05/149・神崎恒子05/1710・畠千代子05/2911・尾島菊子
     05/3012・松井須磨子05/3113・林千歳子06/0114・宮崎光子06/0215・寺本みち子06/0316・国木田治子
     06/0517・長沼知恵子06/0618・山浦路子06/0719・長谷川時雨06/0820・森律子06/0921・尾崎恒子
     06/1022・柴田環06/1123・中野初子06/1224・北原末子06/1325・酒井よね子
  05/05丙午出版社が堺利彦の『売文集』を発行する
     四六版箱入、定価1円
     写真1枚、地図1ページ、序14ページ、目次10ページ、本文562ページ、奥付1ページ、広告13ページ
     「巻頭の飾」には62人の寄稿で154ページを飾る
     ルソー誕生二百年記念式(三宅雪嶺)、識らざる神(福田徳三)、べろ煎餅の春(小川芋銭)、旅人の心(上司小剣)、
     明暗二つの影法師(小泉策太郎)、売文社御中(秋田清)、北京より(石川半山)、梁塵飛ぶ光景(逸見斧吉)、
     ヒヨツト何かの掛合(安岡秀夫)、過褒(花井卓蔵)、堺利彦君(伊藤證信)、特別大割引の大奮発(山口孤剣)、
     提灯(松本道別)、人の書ける文字(中里介山)、鰯の卵(若宮夘之助)、三才子の末路(白河鯉洋)、
     わからずや(安藤保太郎)、圓(石川三四郎)、一ツ橋の寄宿舎(菊池忠三郎)、売りことば(杉村楚人冠)、
     ヂツケンス趣味(坂口二郎)、運命の奇(島村抱月)、一月廿二日の因縁(平出修)、憐殺長安軽薄子(広岡宇一郎)、
     笑売文(堀紫山)、公娼と売文(加藤時次郎)、云つて置きたい事が二つ(岩野泡鳴)、京城より(山縣五十雄)、
     ムザと死ぬもので無い(伊藤痴遊)、懐かしい伯父さん(安藤現慶)、病後乱筆(黒坂勝美)、獄中より(片山潜)、
     本を買ふが大分別(相島勘二郎)、富士の初日影(安部磯雄)、なまけるの致す所(徳富健次郎)、米国伯爵(山崎今朝弥)、
     超善悪、超人間(久津見蕨村)、売文社長足下(木下尚江)、一筆啓上(西川光次郎)、堺利彦論(守田有秋)、
     人間の生活を呪う(田岡嶺雲)、白米一斗、味噌五百目(佐治実然)、無政府主義者天下に充満す(野依秀一)、
     簡明叙述の特技(松井柏軒)、売文集に題す(伊藤銀月)、諛辞(清水友次郎)、僕は神樣仏様(伊井蓉峰)、
     融通の利かぬ男(今村力三郎)、著作の人(斯波貞吉)、常夏の花(笹川臨風)、売文の弁(田中治六)、
     拈華微笑(境野黄洋)、鼻哲学(松居松葉)、恬淡と剛情(島中翠湖)、小肥りにして丈低く色浅黒き人(白柳秀湖)、
     捨て身の生活(加藤咄堂)、石が飛ぶ時代(千葉秀甫)、社会党の亡者(高島米峰)、北海道より(加藤眠柳)、
     友情より物好(暁島敏)、追憶(土肥春曙)、売文の自負を破す(江渡狄嶺)
     本文は第1篇 剣と針 第2篇 露と雫 第3篇 谷川の水 第4篇 未来と過去
  05/頃翌年にかけて。多くの新聞や雑誌が、からかいを込めた「新しい女」特集を組む。順調の『青鞜』に影が落ちる
     女子英語塾の津田梅子は塾生が青鞜にかかわることを禁じる。日本女子大学の成瀬仁蔵が「新しい女」を批判
     1913(大正02)『青鞜』1月号と2月号の附録「新しい女、其他婦人問題に就て」で反撃
     岩野泡鳴、阿部次郎、馬場孤蝶、杉村楚人冠らが青鞜の味方となる

  06/19救世軍病院設立のための慈善観劇会が帝国劇場で開かれる日
     新吉原の座敷業者代表が銀座の救世軍本営に山室軍平を訪ねる
     「観劇会に協力するので娼妓廃業の勧めに手加減してほしい」と申し入れる
     山室は「催しと娼妓救済は別問題だ」として『公娼全廃論』5冊を贈る

  06/28三宅雪嶺の発案で堺利彦、高嶋米峯発起のルソー誕生二百年記念晩餐会が神田区淡路町の多賀羅亭で開かれる
     出席者は堺利彦、高嶋米峯、三宅雪嶺、伊藤痴遊、福本日南、内田魯庵、上司小剣、片上伸、野依秀一、生田長江、
     西川光次郎、山口孤剣、樋口伝、白柳秀湖、守田有秋、山本飼山、荒畑寒村、大杉栄、吉川守圀、岡野辰之助、
     渡辺政太郎、斎藤兼次郎、幸内久太郎、添田唖蝉坊、高畠素之、福田英子、安成【兄弟で? 貞雄、二郎のどちらか?】
     のち夜、神田区美土代町の基督教青年会館で記念講演会が開かれる
     【晩餐会か講演会、どちらかが40数人で、どちらかが200人?】
  06/下谷区仲御徒町3丁目45に救世軍病院が設立される
     ウイリアム・ブース大将の来日記念事業で明治40年の来日の際、
     病院設立の趣旨でイギリスのいち婦人から5千ポンド(約4万9千円)が寄託される
     あわせて政財界の有力者が慈善観劇会を帝国劇場で催た益金8千円と、
     ライオン歯磨の小林富次郎からの1千円が基金となる
     院長の松田三弥は東洋内科病院の副院長を勤めた結核専門医
     ほかに副院長、女医3、看護婦4、調剤員1、雇2で総括の士官1
     約200坪の敷地に病院、裏に院長宅、看護婦室を設ける
     病院は昼夜外来の診察のほか診察の前に毎朝礼拝があり近隣の貧民地区の巡回救療を行なう
     日本の訪問保健婦制度の先駆となる
     1か月分の薬価わずかに1銭ないし5銭のほか貧困者には施療を行なう
     のち1年間の外来新患は2623人
  07/初大杉栄が荒畑寒村に雑誌発行の相談をする
     のち9月創刊を目指すも天皇の葬儀にぶつかり10月に延期
     10/01大杉と荒畑が雑誌『近代思想』を発行
  07/初尾竹紅吉の叔父竹坡の発案で平塚らいてう、中野初を誘い吉原を見学
     大文字楼の別室に1泊し花魁の栄山に話を聞く
     のち吉原登楼が『青鞜』に対する悪評の決定打に
     07/新聞の語調ががぜん暴露的攻撃と中傷に転じる
  07/21プロテスタント各派が「陛下御病気平癒」の各派合同祈祷会を開催する
     神田区基督教青年会館にて400余人の会衆者をえる
     メソジストの江原素六が司会。讃美歌と聖書朗読に続いて井深梶之助の奨励が行なわれる
     いち青年が我が身をもって陛下の「御悩に代らん」と語り参加者に深い感銘をあたえる
     会は終わりに君が代の斉唱と平岩愃保牧師の閉会祈祷で閉じられる
     小崎弘道、井深梶之助が基督教会同盟の代表として宮内省へ見舞いとして派遣される
  07/30明治天皇が持病の糖尿病を悪化、尿毒症を併発し崩御[1852(嘉永05)11/03《09/22》生]
     元号が大正に改まる
     09/13青山の帝国陸軍練兵場にて大喪の礼が執り行なわれる
  07/神近市子が「青鞜」の尾竹一枝あてに、入社申し込みと作品「手紙の一つ」を郵送する
     09/『青鞜』1周年記念号の第2巻9月号に、神近市子が本名で書いた小説「手紙の一つ」が掲載される
  07/救世軍の山室軍平が『禁酒のすゝめ』を発行する
     四六判、定価20銭
     のち『道楽者への強異見』『酒屋の主人及び奉公人に転業を勧むる書』
     『自由廃業案内』『廃業娼妓に告ぐ』など次々と刊行する
  夏/平塚らいてうが茅ケ崎で画学生の奥村博と運命的な出会いをする
  夏/米価が暴騰し貧困者はより生活困難となる
     救世軍は上等外国米1升23銭を1升16銭で小学校の一部を借り受け廉売する
     浅草区の玉姫小学校、本所区の三笠小学校、芝区の新網小学校、
     下谷区の万年小学校で合計1万3165人に1人平均4合の慈善販売
  08/01大正に改元した翌日、鈴木文治が15人の同志と労働者団体の「友愛会」を結成する
     労働組合というよりは労働者同士の相互扶助が目的。性格は共済組合
     友愛会はフレンドリー・ソサエティの訳語
     27才の鈴木は統一基督教弘道会の幹事を務める青年クリスチャン
     会は統一基督教弘道会会長の安倍磯雄のほか
     ユニテリアン教会の牧師マッコーレイ、クリスチャンで同郷の吉野作造東大教授らが運動を支える
     会長に鈴木文治、幹事に岡村寅次郎(畳職)、高橋秀雄(機械工)、伊藤伝蔵(牛乳配達夫)
     顧問に桑田熊蔵、小河滋次郎評議員に堀江帰一、高野岩三郎、武田芳三郎、内藤濯、
     内ケ崎作三郎、松尾清次郎、五島盛光、安達憲忠、三並良、関一らが推される
     1919(大正08)08/31友愛会第7周年大会で組織改革が行なわれる
     労働組合の性格を硬化させ、会の性格を著しく変化させることに
     運動は社会主義運動と混同されないよう努めるも政府は労働者の団体を嫌う
     政府官僚は労働運動を危険視する傾向にあり、会員の活動を監視し脱会を勧告
     そこで鈴木会長の独裁制を理事の議会制とし会の構成を地方別から職業別に改めることに
     「友愛会」を大日本労働総同盟友愛会(友愛会)に改称。労働運動の中核体としての組織を確立する
     20項目に及ぶ主張は賀川豊彦による
     友愛会は改良的な協調主義を捨て社会主義的な闘争主義をとった印象が色濃くなる
     1921(大正10)10/01友愛会第10周年全国大会が開かれる
     急進派は「主張」のなかから普通選挙を削除すること、総同盟罷業の承認、団体交渉権の反対などを主張
     現実派は急進派の主張を反対し、多数をもって急進派を抑えることに
     さらに大会は軍備全廃案を可決する
     軍備全敗案の議決により労働運動犠牲者に感謝状を呈したことで、当局は鈴木文治と松岡駒吉を起訴
     「大日本労働総同盟友愛会(友愛会)」は大会を機に名称を変更し日本労働総同盟(総同盟)と名乗ることに
     反社会主義的な態度から社会主義の立場に変化していく
     名実共に中央労働団体としての体制を確立する
     1936(昭和11)01/05全日本労働総同盟(全総)と改称する
     1939(昭和14)11/03日本労働総同盟(総同盟)と改称する
     1940(昭和15)07/21解体に抵抗していた日本労働総同盟(総同盟)が政府の圧力により自主解散する
  08/18堺利彦が石川三四郎宅を訪問
     石川は堺に横浜駐在のベルギー副領事F・ゴベールを紹介する
  08/20明治天皇崩御の3週間後、初代ウイリアム・ブース大将が83才で死去
     08/29ロンドンで葬儀が行なわれる
     同じ日、神田区美土代町の基督教青年会館でブース追悼の会が催される
     同じことが58か国で行われる
  08/28片山潜が大正天皇即位の大赦によって千葉監獄を出獄【09/27?】
     片山は東京市電ストライキの指導を行なったとして逮捕、投獄される
     大杉栄が両国停車場にて出迎える
  08/大杉栄ら関係者が新雑誌『近代思想』の創刊準備で大忙しとなる
  09/01「青鞜」創刊1周年記念号が発行される。第2巻第9号。227ページ
     野上弥生、水野仙、田村俊と実力派を揃えた文学一辺倒の編集に
     前号で入社が報じられた神近市子の小説「手紙の一ツ」もまざる
  09/13東京青山の帝国陸軍練兵場にて大喪の礼が執り行なわれる
     のち大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車で東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれる
     09/14伏見桃山陵に埋葬される
  09/13午後7時40分ごろ、乃木希典(62)が東京市赤坂区新坂町の自邸居室にて御真影の下に正座
     日本軍刀により割腹、うつ伏せになり即時に絶命[1849(嘉永02)12/25《11/11》生]
     夫人は乃木の割腹とほとんど同時に護身用の懐剣により胸を突く、うつ伏せとなり絶命
     乃木は辞世を残す
      神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
      うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
  09/13警衛第3大隊第13中隊の坂本警部補が赤坂区新坂町55番地先の道路交通遮断地点を警戒中
     午後7時50分ごろ、乃木邸内に只ならない物音を聞き駆けつける
     坂本警部補は狼狽する女中お金(18)から子細を聞きだす
     女中は怪しい物音がした主人の居間に行くも堅く錠がされ開かない
     警部補は女中の案内に部屋に赴き無理に押し開く
     乃木将軍と夫人は短刀にて鮮血に染まり絶命のあと
     遺書は2通。石黒男爵に宛てたものと今上陛下に宛てたものがのこされる
     のち乃木の自殺が警察や陸軍により処理される前、近所の町医者や親戚に通報され噂となって広まる
  09/16午後4時、小笠原長生子爵が、乃木邸ととなり合う木戸侯爵邸にて乃木夫妻の自殺と遺書を公表する
     乃木夫妻の自殺と遺書の公式発表と同時に『国民新聞』が遺書の全文をスクープ、号外がでる
  09/18乃木夫妻の葬儀が行なわれ10数万の民衆が自発的に参列する。多数の外国人も列に加わる
     その様子は「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現される
  09/大杉栄が某役人の依嘱でジュール・モールの仏語『法華経』の重訳をはじめる
     のち途中でやめる
  10/01大杉栄、荒畑寒村らが月刊『近代思想』を発刊
     大杉や荒畑らの「時機は待つべきではなく作るべきだ」という主張により計画、刊行
     発行所は近代思想社、発行兼編集人/大杉栄、印刷人/荒畑寒村、広告担当/堀保子
     定価/金10銭、頁建/32頁。近代思想社は大久保百人町352番地の大杉栄の自宅におく
     保証金を入れない非時事雑誌として発行
     クライアント/雑誌『実業之世界』の野依秀市、丸善の顧問内田魯庵、
     出版店文淵堂の金尾種次郎、三越デパートの松宮三郎、ライオン歯磨の中尾傘瀬
     常連寄稿者/堺利彦、安成貞雄、安成二郎、高畠素之、小原慎三、伊庭孝、上山草人、土岐哀果、佐藤緑葉、若山牧水、
     山本飼山、和気律次郎、上司小剣、久津見蕨村、相馬御風、仲木貞一、生方敏郎、小山内薫、岩野泡鳴など
     のちアナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や古くからの同志が反発
     1914(大正03)09/01第23号で自発的に廃刊にする
     1915(大正04)09/28『近代思想』が復刊する【10/07?】
     1916(大正05)01/復活させた『近代思想』が第4号を発行して廃刊に
  10/01『近代思想』創刊号に堺利彦が人物批評「大杉と荒畑」を掲載する
  10/01『近代思想』創刊号に大杉栄が「本能と創造」を発表する
  10/01雑誌『近代思想』の巻末に「消息」欄が設けられる
     各地に散った同志に対するメッセージ的な意味が込められる
     大杉栄は自身を「或るお役人の委嘱を受けて法華経の翻訳に取りかかっている」と報じる
     フランス語の仏典から日本語への重訳という内務省警保局の懐柔策を金をもらいながら暴露する
  10/01雑誌『近代思想』の発行資金は大杉栄の父東の「扶助料(遺族年金)」を抵当にいれ堺利彦が融資先を探す
     陸軍の金が主義者の運動資金になる
  10/17神近市子が代々木の原での日曜学校の秋の運動会の帰り
     鶯谷の料亭「伊香保」で開かれた雑誌『青鞜』発刊1周年の祝いに参加する
     「青鞜」に加盟、平塚らいてうら同人から暖かい歓迎をうける
  10/末大杉栄と荒畑寒村が横浜へ出かけベルギー副領事F・ゴベールと中国の女性革命家鄭毓秀に会う
  10/年末にかけて「東京日日新聞」「大阪朝日新聞」「青鞜」を囃す記事を書き立てる
     「東京日日」
      10/25〜10/31「新らしがる女」6回、無署名
      11/01〜11/02「紅吉より記事へ」上・下
      11/29〜12/09「妙な恋/雷鳥と紅吉と草平」10回、O生
      11/30「読書会/大阪毎日の『謎の少女』」1回、純
     「大阪毎日」
      11/17〜11/27「謎の少女」11回、せみ郎
      11/29〜12/09「続謎の少女」11回、撫子
  11/03「友愛会」が機関誌の『友愛新報』を発行する【機関紙?】
     1914(大正03)11/題号を『友愛新報』から『労働と産業』に改題
  11/20大杉栄が柏木停車場近くで天皇の行幸にあい、半日検束され風邪をひく
  11/荒畑寒村が『近代思想』に「鑑底」を発表する
  11/伊藤野枝が雑誌『青鞜』11月号(第2巻第11号)にケエツブロウ(海鳥カイツブリ)と自己を同化させた詩「東の渚」を発表
  12/30頃石川三四郎が獄中で書いた『西洋社会運動史』を自費出版
     ほとんど全部を同志の渡辺政太郎と大雪のなか荷車で築地活版所から日本橋の友人宅3階に運搬
     【差し押さえられる前に送付、一部を逸見山陽堂の倉庫に隠匿する?】
     奥付では大正1年12月25日印刷、大正2年1月1日発行
     内務省検閲課には大晦日に届くよう発送
     発禁は免れないものと官僚たちの年末の多忙と年始の屠蘇酔いを逆手にとる
     1913(大正02)01/06安寧秩序を妨げるとして差し押さえ
     石川は横浜の山下警察署に引致される【横浜警察署?】
  12/靖国神社の遊就館にて乃木遺品展が開催される

  年末日本の芸妓4万1604人、娼妓5万0410人、酌婦3万4093人、計12万6107人
     日本の貸座敷1万0855軒、待合茶屋1739軒、計1万2594軒
     1898(明治31)、1909(明治42)、1910(明治43)、1911(明治44)にも同様の比較統計あり
     【道府県別の娼妓数・貸座敷数では貸座敷数は1万0895】

  津田英学塾に在学中の神近市子が『万朝報』の懸賞小説に応募し「平戸島」が当選、賞金の10円を得る
  博文館がノルマン・エンセルの『現代戦争論』を安部磯雄の翻訳で発行する

  安部磯雄が廓清会本部から『風紀問題としての公娼制度』を刊行する
  道府県別の娼妓の数と貸座敷の数
     北海道2209/352、東京6411/484、京都3341/2003、大阪6039/1593、神奈川2565/177、
     兵庫1994/221、長崎2201/277、新潟1649/422、埼玉129/21、群馬−/−、千葉291/33、
     茨城229/44、栃木744/98、奈良533/58、三重1882/379、愛知2328/342、静岡663/113、
     山梨209/24、滋賀390/285、岐阜753/97、長野1001/149、宮城480/60、福島631/119、
     巌手392/95、青森549/147、山形913/176、秋田297/78、福井597/212、石川466/474、
     富山521/272、鳥取143/62、島根44/32、岡山597/174、広島1910/358、山口1092/206、
     和歌山169/20、徳島162/75、香川543/139、愛媛164/48、高知411/58、福岡1407/146、
     大分270/74、佐賀344/80、熊本1228/102、宮崎190/27、鹿児島342/22、沖縄987/467
     合計5万0410/1万0895
     【石川は娼妓の数より貸座敷数の方が多い?】
     【日本の芸妓・娼妓・酌婦・貸座敷・待合茶屋では貸座敷数は1万0855】
     1909(明治42)に同様の比較統計あり

  この年49件の同盟罷工があり参加人員は5736。組合の数は5
  この年の小作組合数は41


1913(大正02)

  《総理大臣》[第15代](第3次)桂太郎(→02/20)、[第16代]山本権兵衛(02/20→)
  《内務大臣》[第28代]大浦兼武、[第29代]原敬(02/20→)
  《警視総監》[第20代]川上親晴、[第21代]安楽兼道/再任(02/21→)
  《内務省警保局局長》太田政弘(→02/26)、岡喜七郎(02/26→)


  01/平塚らいてうが『中央公論』1月号に「新しい女」を発表する
  01、02/『青鞜』第3巻1号と2号で附録に「新しい女、其他婦人問題に就て」の特集を組む
     前年の多くの新聞や雑誌、女子校などから青鞜社への卑俗な批判攻撃に対して真っ向から立ち向かう
     岩野泡鳴、阿部次郎、馬場孤蝶、杉村楚人冠らが青鞜の味方となる
     伊藤野枝が1月号に3ページほどの評論「新らしき女の道」を発表する
     02/続く第3巻2号に福田英子が「婦人問題の解決」を発表
     2回目の発禁処分をうける。社会主義者の経歴をもつ福田がいたためとされる
  01/04日本橋区の鎧橋小網町側橋詰付近にある洋食店メイゾン鴻の巣で第1回近代思想社小集を開く
     馬場孤蝶、生田長江を招き出席者は17人
     【寄稿家13人(土岐哀果、安成貞雄、和気律次郎、伊庭孝、上司小剣、荒畑寒村、大杉栄ら)、馬場孤蝶、生田長江?】
     02/09メイゾン鴻の巣にて第2回近代思想社小集を開く
     寄書家5人、社員2人に内田魯庵、岩野泡鳴を招く
     03/22メイゾン鴻の巣で第3回近代思想社小集を開く。相馬御風、島村抱月を招く
     04/19メイゾン鴻の巣で第4回近代思想社小集を開く。平出修、久津見蕨村、片山潜が出席
     ほかに和気律次郎、安成貞雄、安成二郎、堺利彦、佐藤緑葉、仲木貞一、荒畑寒村、小原慎三、大杉栄が出席する
     06/08メイゾン鴻の巣で第5回近代思想社小集が開かれる
     馬場孤蝶、久津見蕨村、江渡狄嶺【幸三郎?】、土岐哀果、伊庭孝らが出席
     ほかに片山潜、上山草人、堺利彦、安成貞雄、安成二郎、和気律次郎、
     上司小剣、高畠素之、小原慎三、久板卯之助、荒畑寒村、大杉栄が出席する
     07/12麹町区隼町に移ったメイゾン鴻の巣で第6回近代思想社小集が開かれる。長谷川天渓を招く
     ほかに片山潜、伊庭孝、久津見蕨村、堺利彦、安成貞雄、安成二郎、和気律次郎、
     土岐哀果、高畠素之、小原慎三、島田一郎、横田淙次郎、荒畑寒村、大杉栄が出席する
     10/11京橋区元数寄屋町の富嘉川で、最後となる近代思想社小集を開く
     安成兄弟、佐藤緑葉、和気律次郎、堺利彦、片山潜、久津見蕨村、小原慎三原、
     徳永保之助、荒畑寒村、大杉栄、原田譲二、柴田柴庵、赤堀建吉、鈴木長次郎が出席する
  01/06石川三四郎の『西洋社会運動史』が安寧秩序を妨げるとして差し押さえ処分を受ける
     石川は横浜の山下警察署に引致される【横浜警察署?】
  01/12横浜の偕楽園で開かれた同志新年会に堺利彦、荒畑寒村、大杉栄らが参加する
  01/26大杉栄が同行10人ばかりで大逆事件で刑死となった者の墓碑を訪ねる
     まず市ケ谷の道林寺に古河力作の墓を訪ねるも、中野の奥に引っ越したとのこと
     続いて淀橋の正春寺に管野すがの墓を訪ねる。頬杖をついた観音様が釈渟然信女之墓と書かれた卒塔婆に寄りかかる
     そして染井の墓地に新村忠雄と奥宮健之を訪問
     新村の墓は墓地の入り口にある
     古河力作の墓は見舞うことなく仕舞う
  『西洋社会運動史』事件を伝え聞いた横浜駐在のベルギー副領事F・ゴベールの友人鄭毓秀が石川三四郎を訪ねる
     亡命を勧める
     01/15石川三四郎はF・ゴベールとベルギーへ行くべく旅券下付申請
     01/27不許可となり非合法出国を決意する
  02/02大杉栄が崎久保静江と秋田行きを決行。大逆事件で無期懲役の判決を受け秋田の監獄にいる同志を見舞う
    秋田監獄には坂本清馬と崎久保誓一が入獄。誓一は同行する静江の兄
  02/10石川三四郎が堺利彦の招待で有楽座で上演中の「アルト・ハイデルベルヒ」を観劇する
  02/11伊藤野枝とアメリカ移民の青年末松福太郎との協議離婚が届け出される
     結婚は1911(明治44)11/21
  02/14石川三四郎が帝国ホテルに孫文を訪ねる
  02/15青鞜社が神田区美土代町ののキリスト教青年会館で「青鞜社第1回講演会」を開催する【第1回公開講演会】
     保持研の「本社の精神とその事業及び将来の目的」から
     伊藤野枝「最近の感想」
     生田長江「新しい女を論ず」
     岩野泡鳴「男のする要求」
     馬場弧蝶「婦人のために」
     岩野清「思想上の独立と経済上の独立」
     沢田柳吉の音楽、らいてうの閉会の辞とつづく
     観衆は千人を数える。うち男性はおよそ3分の2。成功を収める
     講演会で18才の伊藤野枝が登壇。「この頃の感想」を話す
     音楽家の沢田柳吉の来るのが遅く、プログラムを変更して中最年少の伊藤が登場
     辻潤が教え子で恋人の伊藤の演説を見守る
  02/20東京の神田に大火が起こる
     神田区三崎町から火を発し猛風により神田の目抜き通り2千数百戸が灰燼に帰す
     火元が救世軍大学植民館からとの風評がたつ
     のちロンドンの救世軍万国本営から直ちに英貨400ポンドの救援費が送られてくる
     のち救世軍大学植民館は再建されず、事業はわずか5年で終わる
  02/25青鞜社編集の『青鞜小説集 第1』が東雲堂から発行される
     18人の「青鞜」掲載作品がならぶ
     野上弥生、小笠原さだ、水野仙、小金井きみ、荒木郁、尾島菊、加藤籌、人見直、岩野清、
     岡田八千代、神崎恒、神近市、森しげ、林千歳、加藤みどり、茅野雅、藤岡一枝、木内錠
  03/01西川文子、吉岡弥生、奥むめお宮崎光子(虎之助夫人)、木村駒子らが新真婦人会を結成する【02/下? 03/?】
     のち河合道子、日向きむ、堺為子(堺利彦夫人)、堀保子(大杉栄夫人)らも会員となる
     03/16第1回婦人雄弁会を開催
     05/01『新真婦人』を創刊
  石川三四郎が福田英子の希望で福田友作との二男千秋と養子縁組みを約す
     【二男は侠太、千秋は三男?】
     1914(大正03)02/千秋が養子縁組の届けを提出する
  03/01石川三四郎がフランス船ポール・ルカ号で横浜から日本を脱出、亡命する
     内情を打ち明けた14、5人という極めて少数の友人親戚に送られる
     03/05上海に到着
     04/07マルセイユに到着する
     04/08夜、ブリュッセルにつく
     11/02日本人船員某の好意でアントワープから無料でロンドンに渡航する
     11/11ブリュッセルに戻る
     12/15ロンドン郊外のミドルセックス州に寄宿
     1914(大正03)04/15ブリュッセルに戻る
     08/19第1次世界大戦でドイツ軍進入間近しの報にブリュッセル残留を決意する
     08/20ドイツ軍がブリュッセルを占領、籠城をはじめる
     10/10脱出を目指し旅券を獲得しようとするも失敗、脱出をあきらめる
     1915(大正04)01/23旅券が交付される
     01/24日本人宮代四之介、田中某とブリュッセルを出立する
     のちアントワープを経由して26日にロンドンにつく
     02/03ロンドンを離れパリに移る
     02/08パリ近郊のワーズ県リアンクール町に落ち着く
     1916(大正05)06/10ドルドーニュ県ドム町のルクリュ家に移る
     病気療養中のルクリュ夫人を助け農業に従事
     まもなく椎名其二も迎えられる
     1918(大正07)01/片山潜からロシア革命への参加要請を受ける
     病床の夫人を残しておけないと謝絶
     1919(大正08)01/18パリに黒岩周六を迎え案内役をつとめる
     02/初椎名其二に案内役を交替、ドムに戻る
     07/頃パリ、ブリュッセルを訪れ帰国の準備にかかる
     11/30夫人の病気療養のためボルドーから船でアフリカへ
     12/06マラケシ(モロッコ)に到着
     1920(大正09)06/マラケシを去りカサブランカから船でジブラルタルへ渡りドムに戻る
     07/20頃ドムに別れを告げる
     のちパリ、ブリュッセルをまわる
     08/29ロンドンへ
     09/10日本郵船の因幡丸に乗船、帰国の途につく
     10/30神戸に上陸する
  03/10三宅雄二郎が丙午出版社から『明治思想小史』を刊行する。128ページ、定価50銭
  03/16新真婦人会が神田の和強楽堂で婦人雄弁会をひらく
     「新しい女は善良な国民性を刺殺する毒蜂です」など青鞜社総攻撃の火蓋をきる
     聴衆のなかには平塚明子の姿も
  03/23堺利彦と大杉栄が横浜山下町のゴベールを訪ねる
  03/31永岡鶴蔵が「貨幣偽造行使」の容疑で懲役3年6か月、罰金20円の判決があり千葉監獄に収監される
  03/大杉栄が雑誌『近代思想』3月号に評論「青鞜社講演会」を発表
     生田長江、馬場孤蝶、岩野泡鳴、妻岩野清子の講演内容にふれる
     テーマが文芸偏重ばかりで自然科学や経済学がなく「社会の実相」を理解できるか、と疑問を投げかける
  神近市子が俗世間で「新しい女」として非難の的の『青鞜』にかかわっていると津田塾の校長に知られる
     のち神近が「青鞜」を脱退する
  神近市子が津田塾を卒業する条件として弘前の青森県立弘前高等女学校に2年間赴任することに
     04/05頃神近は大勢の見送りをうけ上野駅を出発。なかには平塚らいてうや尾竹一枝の姿も
     08/1学期の終了式の日、神近は校長の自宅に呼ばれる
     校長が『新しい女の裏面』という本のなかにある1枚の写真を指し示す
     写真の説明には「右端に立っているきれいな人が神近市子さん」
     写真は神近が加盟する前の撮影で、説明は間違え
     校長はそれでも「青鞜」の同人であったことには変わりなく、学校に置くわけにはいかないと主張
     1学期限りで免職となる
     のち25才の神近市子が東京に戻る
  04/16日比谷公園内の器械体操場の霞亭で野沢重吉発起の平民会を堺利彦が開く
     堺利彦、大杉栄、片山潜ら40人が出席する。会費5銭。蜜柑と煎餅と寿司を食す
     斎藤兼次郎の尺八、添田唖蝉坊の読み売り歌、蓄音機の余興で半日過ごす
  04/20基督教青年会館で開催予定していた近代思想社講演会が警察の干渉で中止を余儀なくされる
  04/大杉栄の肺に異常が発見される

  04/救世軍婦人ホームで伊藤富士雄が社会事業部に転じ婦人救済係を担当する
     のち専心、娼妓の自由廃業に努力する
     1923(大正12)06/02下谷救世軍病院で死去
     伊藤は死去するまでの満11年3か月の間に1200人もの芸娼妓の面倒ををて、987人の娼妓に自由を与える

  04/平塚らいてうが『青鞜』第3巻4号に「世の婦人たち」を発表する【「世の婦人たちに」?】
     女性一般に覚醒を呼びかけ「結婚ということは一生涯に亘る権力服従の関係」と結婚制度否定の理念を打ち出す
     当局から注意処分をうける
  04/青鞜社が文芸研究会を計画、講演録を発行する予定に
     のち青鞜社への悪評のため会場が借りられず
     のち保持研(白雨)の献身的努力で会場が決まるも受講者が足りず、中止となる
  春以降警察による地方読者への干渉が激しくなり『近代思想』の売れ行きが落ちはじめる
     09/頃見本誌の配布で挽回をはかる
  05/27長崎三菱造船所立神工場の労働者500人が賃金算定法に反対しストライキを起こす
  05/東京電気株式会社の職工により「友愛会」川崎支部が作られる
  05/山川均が妻大須賀里子と死別する
     1916(大正05)11/03青山菊枝(満26)と結婚
  05/平塚らいてうが東雲堂から第1評論集『円窓より』を発行する←←←(変)
     のち発売禁止の処分を受ける
     06/10「世の婦人たちに」を外し『●(とざし)ある窓にて』と改題し再発行する
  家制度に反抗する女性の動きに権力側の警戒が本腰を入れる
     のち各新聞に婦人雑誌「取締」の記事が載る
  06/01大杉栄が『近代思想』第1巻第9号に「征服の事実」を発表する
  06/01『中央公論』が「婦人界の新思潮に対する官憲の取り締」の特集をする
  06/『青鞜』第3巻6号に『●(とざし)ある窓にて』の評論が載る
     政府、新聞、民衆、識者に宣戦布告する
     【平塚らいてうが『●(とざし)ある窓にて』『青鞜』第3巻6号に掲載する】
  06/28〜30神奈川県川崎町の日本蓄音器商会に労働争議が起こる
     「友愛会」がはじめて争議にかかわり鈴木文治が初調停。職工側に有利な解決をみる
  07/06神田区仲猿楽町のミルクホール豊生軒で荒畑寒村と大杉栄がセンヂカリスム研究会をはじめる
     【「サンジカリズム研究会?サンディカリスム研究会?】
     豊生軒は藤田四郎が経営。出席者15人
  07/大杉栄が雑誌『近代思想』7月号に青鞜社批判として「新しい女」論を展開する
  婦人問題など潮流と呼応するように、青鞜社の事務所に脅迫状が舞い込む
  夏/『太陽』『中央公論』『六合雑誌』が「婦人問題」を特集する
     論壇をあげての議論が頂点に達する
  08/03センヂカリスム研究会が大久保百人町の大杉栄の自宅で開かれる
     豊生軒が警察の干渉で借りられなくなったため。出席者18人が参加する
     のち研究会はだいたい月2回、大杉の自宅か、同じ大久保百人町の荒畑寒村宅で開催する
     出席者は20人前後
  09/04午後0時50分、田中正造が庭田清四郎宅で永眠
     死因は胃癌。享年73才[1841(天保12)12/15《11/03》生]【享年満71才?】
     財産は鉱毒反対運動などに使いはたし無一文。死亡時の全財産は信玄袋1つ
     中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけ
     09/06雲龍寺で密葬が行なわれる
     09/田中正造の死後、谷中村残留民は島田熊吉の邸内に田中の遺骨を安置し祀る
     10/12本葬が佐野町春日岡の惣宗寺で行なわれる。参列者は数万人に【5万人?】
     10/14利島村麦倉の小学校前で田中正造の分骨式が行なわれる
     【のち遺骨は6か所に分骨される?】
     佐野町の惣宗寺、渡瀬村の雲龍寺、旗川村の浄蓮寺
     藤岡町の田中霊祠、利島村の利島小学校、久野村の寿徳寺
  09/20神田区仲猿楽町のミルクホール豊生軒で茶話会が開かれる。出席者は30人
  09/吉田三市郎、田坂貞雄、山崎今朝弥、阿保浅次郎、佐々木藤市郎の5人の弁護士が東京法律事務所を創設する
     東京法律事務所は日本初の弁護士の合同事務所
  10/10桂太郎が胃がんで死去[1848・01/04《弘化04・11/28》生]
     日露戦争を勝利に導いた総理大臣にもかかわらず国葬はなし
     のち増上寺で行なわれた葬儀の会葬者は数千人にのぼる。8か月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せる
  10/31「友愛会」の創立1周年記念大会が芝区四国町の惟一館(ユニテリアン)で開かれる
     夜は神田区の青年会館で労働問題大講演会が開かれ、鈴木文治、堀江帰一、高野岩三郎、安部磯雄らが講演
     「友愛会」は創立1周年にして会員数が1326を算するまでに
  10/頃大杉栄が体調をくずす。寝たり起きたりの日が続く
  11/07堺利彦、荒畑寒村、大杉栄、橋浦時雄、安成二郎らが自死した山本飼山の遺体を落合火葬場におくる
  12/04丙午出版社がバーナード・ショウの『人と超人』を堺利彦の翻訳で発行する。定価90銭
  12/大杉栄がマカオの師復(劉紹彬)からエスペラント文の手紙を受けとる

  12/救世軍の村松愛蔵が本営の身の上相談部の主任になる
     村松は1884(明治17)4月に自由民権を鼓吹し11月には飯田事件の中心的人物になり軽禁錮7年に
     のち、代議士になるも1909(明治42)の日糖事件に連座し
     その年の12月に出獄すると、直ちに救世軍本営の山室軍平を訪ね入隊
     1929(昭和04)06/72才で隠退するまで2万8600余件の相談事件を扱う

  丙午出版社がカルル・カウツキーの『社会主義倫理学』を堺利彦の翻訳で発行する
  山崎今朝弥が日本社会党の結社を届けでる。1人の政党
     党則は「第一条 名称を日本社会党とす。
     第二条 目的は憲政を促進し普通選挙の実行を期するにあり。
     第三条 以上」のみ
     党員は山崎1人
  洲崎遊廓の弁天町1丁目六間通りから出火。隣接する西平井町が類焼する

  この年47件の同盟罷工があり参加人員は2242。組合の数は6
  この年の小作組合数は88


1914(大正03)

  《総理大臣》[第16代]山本権兵衛(→04/16)、[第17代](第2次)大隈重信(04/16→)
  《内務大臣》[第29代]原敬、[第30代]大隈重信内閣総理大臣が兼任(04/16→)
  《警視総監》[第21代]安楽兼道/再任、[第22代]伊沢多喜男(04/16→)
  《内務省警保局局長》岡喜七郎(→04/18)、安河内麻吉(04/18→)


  01/10鹿児島の桜島で噴火の予兆ともいえる有感地震がおきる
     01/12噴火がはじまりまる
     のち噴火と地震、津波が頻発し交通や通信網が破壊される。溶岩が流出し集落を埋没させる
     01/29溶岩流が瀬戸海峡を閉鎖。桜島が大隅半島と陸続きになる
     火山灰の総量は約6億2千万トン、噴出した溶岩の量は約15億6千万トン。死者35人、行方不明23人の災害に
  01/20予戒令が「予戒令廃止ノ件」(勅令第4号)によって廃止となる
     公布は1892(明治25)1月28日
     予戒令は間断なく適用され、被適用者は全国で2041人に
  01/27堺利彦が「売文社」の機関誌として文学雑誌『へちまの花』を刊行
     主筆は堺利彦、編集長は貝塚渋六
     小型新聞版4ページ、定価1部3銭、1年分30銭。広告料1行(5号18字詰)20銭、1段(60行)7円
     社員(現役社員、予備社員、後備社員)…高畠素之、小原慎三、相坂佶、百瀬晋、橋浦時雄、
     幸内秀夫、大杉栄、荒畑寒村、佐藤悟、岡野辰之助、徳永保之助、荒川義英、堺利彦
     特約寄書家、社友諸名家…土岐哀果、和気律次郎、安成二郎、安成貞雄、久津見蕨村、寒川鼠骨、
     白柳秀湖、上司小剣、杉村楚人冠、高島米峰、伊庭孝、山田枯柳、寺田よし子、誉田よし子、劉朗山、
     鮑愛公、池田永治、石川半山、石川旭山、堀紫山、寺内純一、片山潜、その他かずかず
     1915(大正04)09/01機関誌『へちまの花』を改題して社会主義を標榜する新雑誌の月刊『新社会』を発行
     定価/1部5銭、創刊号の印刷部数/1500部
     体裁/薄黄色のザラ紙の菊判、頁建/32頁
     創刊号に堺利彦「小さき旗上げ」を掲載
     1916(大正05)07/『新社会』の組織を改編
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
     1917(大正06)01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に
     08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
     1918(大正07)06/『新社会』の発行を世民社から売文社に戻す
  01/平塚明が両親の家をでる。巣鴨で奥村博との共同生活に入る
     平塚は法律外の結婚を実行する
     子供を「私生児」とされても怯まず
     1915(大正04)12/09平塚が奥村との長女曙生(あけみ)を生む
     1917(大正06)09/24平塚が奥村との長男敦史を生む
     1941(昭和16)平塚明が入籍、本名奥村明となる
     長男の兵役を前に私生児が軍隊内で不利益にないように

  01/洲崎遊廓開明楼の娼妓一二三が廃業をしようと、ひとりで警察に出頭
     名簿の削除を申請する
     警察は規則通り直に名簿の削除はしないで「楼主と示談しろ」と追い返される
     08/17一二三は楼を飛びだし救世軍に救いを求める
     のち一二三は士官に伴われて警察署へ
     警察署は一二三に無許可外出のゆえ1円の科料を申し渡す
     09/02区裁判所にて正式裁判が行なわれる。弁護士の西村勘之助が熱心有力に弁論
     09/03無罪を宣告され、警察署の無理な申し渡しが明白になる

  02/06大杉栄が転地療養のため三浦郡鎌倉町坂ノ下22番地に移る
     安成貞雄、二郎兄弟が近代思想社の責任者に加わることに
  02/10永岡鶴蔵が急なゼンソクで千葉監獄にて52才で死去する[1864・01/17《文久03・12/09》生]
     前年1913(大正02)3月31日「貨幣偽造行使」の容疑で収監、服役中
  02/10加藤時次郎が月刊『生活(くらし)の力』を創刊する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部5厘(1銭)。B5判、原則8ページ。4万部発行(5万部)
     発行兼編輯人は渡辺估三郎(梶文五郎)、印刷人は岩本菊雄(畑中為之助渡辺素一)
     堺利彦、岡鬼太郎、白柳秀湖、所金蔵が相談役に。編集は白柳(堺)
     1915(大正04)02/20第14号から第74号までは月2回の発行となる
     のち第75号、第76号は月刊に
     1917(大正06)10/10『生活の力』第77号を『平民』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
     1925(大正14)04/10『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
     1930(昭和05)05/10加藤が関与するのは第283号まで
     05/30加藤が死去するも『凡人の力』は刊行される
     1943(昭和18)09/10第441号で廃刊となる
  02/19荒畑寒村が警視庁に呼び出される
     高等課課長から『近代思想』を文芸雑誌に戻すよう警告される
  02/22築地精養軒で開かれた近代思想社、生活と芸術社合同の晩餐会が開かれる
     のち大杉の腸の病が悪化する
  03/21神田区美土代町の基督教青年会館で故平出修氏永訣式が催される
     荒畑寒村、安成二郎、大杉栄が出席する
  04/11明治天皇の皇后、昭憲皇太后が崩御
  04/30大杉栄が三浦郡鎌倉町長谷87番地に移る
  05/16京橋区銀座のカフェ・ヨーロッパで安成貞雄、土岐哀果発起の与太の会が開かれる
     大杉栄が出席する
  05/『近代思想』5月号の「智識的手淫」で「僕等の自然事に帰らねばならぬ」と告白し廃刊を宣言
     同じ号で19才の伊藤野枝の『婦人解放の悲劇』の書評を発表する
     エマ・ゴールドマンとエレン・ケイの女性論と小伝を集めたもの
     伊藤の名前で書かれるも、平塚らいてうによると翻訳は辻潤とする
  05/末大杉栄が腸の治療の都合もあり大久保百人町の旧宅へ戻る
     英、独、仏語教授の看板をだす
  06/20〜21東京モスリン紡績株式会社に男女職工1千人の不当解雇問題が起こる
     職工側は工友会をつくり対抗、ストライキとなるも職工側の敗北に
     のち工友会の幹部が友愛会本部を訪ね事情を訴え助力を願い出る
     鈴木文治会長は会社に対し熱心な運動を試み、職工側に有利な解決をみることに
  06/24高木顕明が僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で自殺[1864(文久04・元治01)06/24《05/21》生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  06/片山潜が8月23日にウィーンで開催される国際社会党大会の通知を受け渡航を決意する
     08/第1次世界大戦の勃発での社会党大会の延期と糖尿病のため渡航は延期に
     09/東京築地の青柳亭で堺利彦、荒畑寒村ら同志24人が片山潜の送別会を開催
     09/09片山潜が佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
  07/28オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦がはじまる
     大戦中戦闘機、戦車、潜水艦、毒ガスが戦場に初めて登場する
     1918(大正07)11/11ドイツが休戦協定に調印し第1次大戦が終結
  07/28『東京朝日新聞』に安河内警保局長の談話「困った女の問題」が載る
     記事中には「青鞜社とかいう連中」「色欲の餓鬼」などの表現がみられる
     08/01平塚明子と岩野清が内務省を訪ねる
     安河内局長は多忙のため図書課長の後藤が代理に会見するも明快な回答は得られず
     10/『青鞜』3周年記念号に警保局長の警告を転載する
  07/昭憲皇太后の死去により葬場殿の一棟が救世軍に下付される
     これを療養所の本館にといっそう奮起
     鳩山春子、新渡戸マリ子、矢島楫子ら27人が発起
     麹町区五番町の津田梅子方に救世軍療養所婦人後援会事務所をおく
     1口5円とし11月には50人の収容でもと第1期工事にかかりたいと努力する
  07/頃大杉栄が渡辺政太郎の案内で小石川区竹早町82番地の辻潤宅を訪れる
     伊藤野枝に会う

  夏/救世軍の山室軍平は2週間の休暇を放り「社会廓清論」の原稿を執筆
     10/19警醒社書店が『社会廓清論』を発行する
     四六判480ページ、定価1円。山室の廃娼論が凝縮しているといわれる

  08/23日本が日英同盟を名目としてドイツに宣戦布告。第1次世界大戦に参戦
  欧州戦乱の勃発で日本救世軍が財政的に困難となる
     12/21宮内省を通じて天皇皇后両陛下から3千円の下賜を受ける

  救世軍は洲崎遊廓の娼妓が自由廃業のため、銀座本営まで来なくてもすむ計画をたてる
     洲崎遊廓の近くに救世軍は出張所を設ける計画を進める
     のち遊廓側は遊廓廃止の陰謀と判断し対策をねる
     洲崎遊廓は貸座敷業、料理屋業、引手茶屋の三者が許可を得て営業する三業地
     三業地で組織された三業組合が救世軍に対する対策本部となる
     09/01洲崎遊廓で廓内三業組合事務所にて臨時総会が開かれ81人が集まる
     中梅川楼こと宮田濱太郎の発議で「此際吾人同業は飽迄協同一致して営業の発展を計るべし」と決議
     「警察署は厳重なる取調を経るに非ざれば娼妓の出願を受付けざるに、
      自由廃業の申請に対しては直に之れを許可するは、不公平なり」
     「救世軍に家屋を貸与せぬやう、各家主を強制せん」
     「如何なる暴力を敢てするも、救世軍に反抗せざる可からず」など不穏な申し合わせで合意する
  08/31洲崎病院に入院中の娼妓2人が救世軍本営に手紙を送り救済を懇願する
     洲崎弁天町の米河内楼こと黒坂鶴四郎方の娼妓歌之助(生島イマ・22)と、
     同じく洲崎弁天町の中野楼こと酒井ワカ方の娼妓信子(大塚ハル・21)【しのぶ?】
     09/02開明楼の娼妓一二三の裁判をすませ西村勘之助弁護士と記者と別れた伊藤富士雄は洲崎病院へ
     午後3時、救世軍婦人救済係の伊藤富士雄が洲崎病院へ【午後4時?】
     三業組合に娼妓2人を連れて警察署へ自由廃業の申請へむかうことが知れ、男子全員集合の命令が下る
     各妓楼から楼主を先頭に地廻り、妓夫、中働き、下足番ら200人が組合に集まる
     男たちが病院の前で示威運動をはじめ伊藤を威嚇する
     応接室には娼妓に関係の楼主2人のはずが、関係のない数十人の楼主が伊藤を取りかこむ
     多くの者は酒気を帯びる
     伊藤は楼主らのすごみにもひるまず、2人の娼妓の引き渡しを迫る
     男たちは要領を得ずけんけんごうごうに騒ぐばかり
     病院の書記が注意を促すも男たちは聞く耳をもたず
     いち楼主が伊藤に向かう
     「きょうは、いつもと違う。外には多人数いて形勢不穏だ。出直したらどうだ」
     楼主は時間をかせぎ、日没後にようやく引き渡しをする
     伊藤は2人の病気の娼妓を両脇に抱え保護しながら群集を押し分け病院の門外へ
     面前に待ち構える鳥海楼、松野楼、中梅川楼平野楼などの楼主が声をかけあう
     同時に両娼妓を打ち倒し暴行がはじまる
     両娼妓は「人殺し」と絶叫し伊藤にかじりつく
     伊藤は身をもって保護しながら殴打から逃れようとする
     誰もが鉄拳または石をくるんだ手拭いをふるい伊藤と2人の娼妓に対して乱打
      第2平野楼の楼主早稲田勝平、平野楼の楼主平野幸三郎をはじめ
      中野楼や米河内楼の楼主ら50余人と口入れ業鈴木佐吉ら
     伊藤は2町半ばかりを転がされ起きては叩かれる
     中通り花咲楼前に来た頃には、ことごとく取り巻かれ身動きもならぬほどに
     いつの間にか伊藤と2人の娼妓は離ればなれに
     伊藤は力尽き根続かず倒れるなか、なおも下駄で踏み蹴りの暴行を尽くされ引きずられる
     伊藤の袴は裂け、時計は7時27分でとまり、所持していた鞄は奪われる
     ついに伊藤は人事不省におちいる
     数日来、伊藤は腸カタルを患い、病後の衰弱の上に迫害を受ける
     離ればなれになった2人の娼妓は逃げ惑い「人殺し人殺し」と悲鳴をあげ泣き叫ぶ
     交番へ向かおうとするも暴漢に捕まり打たれ叩かれる
     「楼へ連れて行って縛っておけ」と、ひとりは無理に車に乗せられるも車の輪をにぎり大声で叫ぶ
     声を聞いた巡査が2人の娼妓を男たちから引き離し交番へ連れて行く
     2人は交番から警察署に伴われ「たぶん救世軍の士官はたたき殺されたでしょう」と説明
     「しっかりしろ」
     急を聞いたカーキ色の制服の憲兵山田が伊藤の上に馬乗りになり抱き起こす
     別に2人の巡査が人力車に乗せる
     意識を失った伊藤は廓内の上田病院に担ぎ込まれる
     また洲崎警察署から富島部長が馳せ両娼妓を救いだす
     09/03朝、2人の娼妓、米河内楼の歌之助こと生島イマと中野楼の信子こと大塚ハルは名簿から削除
     救世軍に引き渡され、廃業を成し遂げる
     上田病院で手当てを受けた伊藤富士雄は釣り台にて下谷区仲徒町の救世軍病院に移される
     医学士で病院院長の松田三弥が診断書を作成
      病名打撲傷
      1頭部四箇所 左耳後右顱頂部。後頭部及び右顱頂後頭接合部の腫脹、及び高度の皮下溢血
      2上肢二箇所 左側手腕関節背面擦過傷、及び皮下溢血、右肘関節部、中等度腫脹皮下溢血
      3腰部一箇所 腫脹、劇甚の圧痛尚当時脈搏百至性強大、体温三十八度、精神状態中等度亢奮、衰弱を認む
      右大正三年九月三日午前零時三十分、検疹に依りて予後を卜定するに、
      目下全身状態の全き恢復は併発病なき限りに於て、約一ケ月を要するものと認む
     また2人の娼妓は予後全治まで1週間を要するくらいの障害を受ける
     のち伊藤の手により救われたたくさんの娼妓が新聞で事件を知り病床を見舞う
     のち救世軍の山室軍平は今回の件に関して告訴する
     「十数年前救世軍が始めて婦人救済の事業に着手して以来、其士官が遊廓側の者共より暴行を受けた事は、
      決して一再に止まらない、併し我等として固より其れ位は覚悟の前とて、曾て一度も之を法律に訴へた事は
      ないのであるが、今回の事件は、我等自らの為に云へば遊廓側の人に対して憤怒又は怨恨の情を有たない、
      只々之れを気の毒に思ふのみである、此度は従来の方針を変じ告訴をする事になった」
     また生島イマと大塚ハルの2人も傷害罪で告訴することに
     娼妓の件は2人が告訴しなくても娼妓取締規則に規定あり、初めて適用されることに
     「娼妓名簿削除申請を妨害する者は、三月以下の懲役又は百円以下の罰金に処す」
  牧師作家の沖野岩三郎が病院で療養中の救世軍の伊藤富士雄を見舞う
     頭に包帯をしていた伊藤は算盤をはじいていた
     伊藤が言う
     ▽伊藤はこれまで廃業救済を申し出た158人の娼妓に楼主との貸借関係をたずねていた
     すると、自身の借金がいくらか正確に答えたのはわずか70人
     その70人を廃業させた際の貸借関係として、1人の前借金は平均337円74銭で総計2万3641円80銭に
     前借金2万3641円80銭に対して、70人の娼妓が働いた歳月は合計186年10か月
     1人平均2年8か月稼いだのに楼主の帳面では186年10か月働いて
     やっと328円55銭しか前借金の償却ができない計算となる
     つまり平均2年8か月ずつ働いて1人前4円69銭3厘の借金払いしかできず
     死ぬ思いで稼いで1年わずか1円75銭9厘、1か月にすると14銭6厘6毛、
     1日平均4厘9毛ずつしか借金が返せない仕組みに
     もし70人の娼妓が廃業せず正直に働き、前借金がなくなる日を待つとしたら、
     1日平均4厘9毛では188年10か月と6日かかることに
     ▽伊藤はいまの時点で娼妓自身に「自分たちは金銭で買われた身ではない」自覚を与えたいと
     ▽廃業後の300人が、どのようなところに縁づいたかをまとめる
     工場職工(37)、会社員(16)、人力車夫(11)、日傭労働(10)、大工職(10)、印刷職工(9)、
     船頭(6)、官吏(5)、染物工(5)、靴工(5)、新聞社員(5)、洋食店員(3)、理髪師(3)、
     法学生(3)、洗濯屋(2)、革屋(2)、医師(2)、運送店(2)、鍛冶屋(2)、鳶職(2)、
     洋服屋(2)、湯屋三助(2)、魚屋(2)、銀行員(2)、農夫(2)、豆腐屋売子(1)、馬丁(1)、
     帽子商(1)、砂糖屋(1)、小学教員(1)、印刷屋(1)、製飴屋(1)、薪炭商(1)、薬種商(1)、
     自転車屋(1)、箸職(1)、洋傘屋(1)、蓄音器商(1)、劇場道具方(1)、眼鏡職(1)、
     蕎麦屋(1)、材木商(1)、役場書記(1)、旅館ボーイ(1)、剣舞師(1)、牛肉屋(1)、
     活動弁士(1)、瀬戸物商(1)、ブリキ屋(1)、玩具屋(1)、古物商(1)、桶屋(1)、
     箪笥屋(1)、指物屋(1)、僧侶(1)、小間物商(1)、ハコヤ(1)、妓夫(1)、
     看護婦の手伝いとなりし者(2)、
     楼主に引き戻されし者(8)、
     救済後料理屋の酌婦に売られし者(3)、
     犯罪入獄せし者(1)、
     行方不明のもの(13)、
     親元に引き渡したるもの(87)、
     【足すと297人となる?】

  08/賀川豊彦がアメリカ留学のため4年8か月続いた神戸の葺合新川の貧民窟での生活から離れる
     はじまりは1909(明治42)12月24日、賀川21才のとき
  09/01大杉栄、荒畑寒村らが発行する『近代思想』を第23号で自発的に廃刊にする
     発刊は1912(大正01)10月1日
     1915(大正04)09/28『近代思想』が復刊する【10/07?】
  09/01『近代思想』廃刊号に堺利彦が短いエッセイ「大杉君と僕」を掲載
  09/01世帯を持った平塚の多用で『青鞜』9月号が初の欠号となる
     11/11月号は平塚に頼まれた伊藤が薄い『青鞜』を発行
     「全部委せるならやるが、忙しい時だけのピンチヒッターは断る」と野枝
     以降、平塚は手をひき編集は伊藤に委ねることに
     伊藤は青鞜社を無規則、無方針とする
     伊藤のもと生田、原田、伊藤、山田わか、平塚、岩野、青山菊栄らが貞操問題、堕胎問題、売娼制度などを論争
     1916(大正05)02/伊藤野枝が大杉栄に走り2月号で無期休刊に。創刊より52冊発行される
  09/06野沢重吉、幸内久太郎が発起人となり片山潜の送別会が開かれる
     京橋区築地2丁目30番地(築地本願寺裏備前橋通り)の貸席青柳亭にて午後6時から。会費20銭
     参会者は片山潜をはじめ堺利彦、堺タメ、大杉栄、荒畑勝三、吉川守国、添田平吉、藤田四郎、藤田貞二、
     福田狂二、池田兵右衛門、山口義三、斎藤兼次郎、原子基、岡千代彦、野沢重吉、幸内久太郎、西川光次郎、
     武田貞吉、高畑巳三郎、小林源十郎、江渡幸三郎、千賀俊蔵、市毛善右衛門、野沢もと(野沢の妻)
  09/09片山潜が佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる。最後の渡米で、事実上の亡命
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
     09/24シアトル着
     09/28サンフランシスコに上陸
     1916(大正05)12/ロスアンゼルスへ
     1917(大正06)09/アメリカ政府が反戦運動に対する弾圧を開始
     片山らも機関誌郵送停止の圧迫を受ける
     1920(大正09)04/末ニューヨークへ
     1921(大正10)03/下メキシコに移る
     11/メキシコを発ち、アメリカ、フランス、ドイツを経てソビエトに向かう
     12/14大歓迎を受けソビエトに入る
     12/23第9回ソビエト全ロシア大会にて初めてレーニンと会う
     1922(大正11)01/21第1回極東諸民族大会がモスクワ、ペトログラートで開かれる。2月2日まで
     日本からは片山潜ら13人が参加
     1925(大正14)01/〜03/ウラジオストックから日本海を経て上海へ
     04/北京からモンゴルのウランバートルへ
     1926(大正15・昭和01)08/モスクワへ戻る
     1933(昭和08)11/05片山潜(74)が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去
     (印の事象は以降の記述なし)
  09/20〜25平塚らいてうと生活をともにする奥付博が、日比谷美術館で初めて個展をひらく

  09/廓清会の機関誌『廓清』第4巻第9号に東京市洲崎遊廓の娼妓を救出した伊藤富士雄の奮闘記が載る

  09/頃第1次世界大戦のあおりをうけ横浜の外字新聞が廃刊に。外国人は帰国し商店が閉鎖となる
     欧文印刷は閑散となり「欧友会」は致命傷を負うことに
     1915(大正04)10/欧友会の第9回総会が開かれ、機関誌の発行停止を決議し会務の執行を中止することに
  10/01『青鞜』第4巻第9号の「3周年紀念号」が1か月遅れで発行される
     警保局長の警告を転載する
     以降平塚らいてうは11月号、12月号と編集を伊藤野枝に委ねる
     平塚の本意は『青鞜』の廃刊。伊藤は継続にへ積極的取り組む
     1915(大正04)01/第5巻1号から正式に伊藤が引き継ぐことに
     伊藤と平塚がそれぞれに経過を述べる
  10/12平塚は奥付博とともに上総の御宿へ静養の旅にでる
  10/15大杉栄が荒畑寒村とともに月刊『平民新聞』を発刊。『大杉版平民新聞』とも呼ばれる
     定価/1部3銭5厘、体裁/四六倍判、頁建/10頁
     保証金を納め時事問題を論じる資格を備える
     見出しの下には大杉の信念「労働者の解放は労働者自らの仕事でなくてはならぬ」のスローガンがならぶ
     幸徳秋水の墓の写真を大きく第1面中央に掲げる
     発行と同時に「全篇不穏ノ記事ヲ以テ充タサレ公安ヲ害スルコト甚ダシキ」を理由に即日発売禁止処分に
     発禁の理由は部分的なものではなく、全紙を通じて安寧秩序に有害で如何とも策の施しようがないため
     11/20第2号発行10/22発禁処分に
     12/18第3号発行12/19発禁処分に
     1915(大正04)01/15第4号発行
     司法大臣の尾崎行雄、安部磯雄、川合貞一教授らの時局評論を転載8頁の紙面を埋めることに
     02/16第5号は検閲もしていない印刷中に発禁処分となり押収される。権力むき出しの暴挙となる
     のち4頁建の第6号も発禁に
     03/20頃15日発行の第6号が4、5日遅れて発行
     大杉は正妻堀保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  10/15月刊『平民新聞』の創刊号の8ページ3段を使い「国際無政府党大会」が掲載される
     記事の末尾にエスペラントの役割が言及される
     各国無政府党についての博識、文体から大杉栄によるとされる

  10/16午前5時、娼妓常盤木(20)がいち遊客と情死を遂げる
     常盤木は新吉原江戸町2丁目19番地の中村楼こと齋藤松治郎方の出稼ぎ娼妓
     1通の手紙を残す
      (前略)うつの、おかあさんも、四日から、とこに、
      ちいて、をりましたが、さて、いまと、なりましと、
      いまにも、しれない、おかあさんの、いのづなのでし
      それでしから、いきたい、くとも、いくことわ、でき
      ませんので、じぶんも、からだが、よわいのでしから
      いくたいとわ、をもへません、からだがよわくて、一
      日みせを、でると、三日も、四日も、やしみましよ、
      でしから、わたしも、いまゝでわ、どうしよかと、い
      ろいろ、かんがいましたが、つよと、よその、人に、
      きゝましたので、それお、おねがい、しまし、どーか
      ふびんと、おぼしめしが、ありましたならば、おねが
      い、もしまし、くれぐれも、おたのみ、もしまし、ね
      て、をれば、ほうばいの、人にわ、みじめにしられ、
      うつの、しじんに、わ、いろいろの、こごとお、いわ
      れまして、じじに、わたしが、つらいのでしよねてお
      れば、じぶんで、つこう、こじかいにも、まごじくよ
      な、ありさまでしそれでしから、じぶんわ、人りで、
      いくら、かんがいても、かんがいよが、ありませんで
      しから一そしんで、しまうかと、おもうたことが、い
      くら、ありましか、しれませんでし、それお、またか
      んがい、なおして、よその、人に(下略)
     常盤木は大正元年の春、東北の寒村から周旋屋のくち車にのせられ新吉原へ
     のち、丈夫な体も廓稼業の日々の不摂生から病魔に襲われることに
     あるとき、いち遊客から自由廃業をすすめられ、覚束ない筆をはこび救世軍に手紙を送る
     救世軍の伊藤富士雄が訪ね手続きは進むものの、肝心な最後のひと言を言い切らず
     「自分はいかにしても廃業をする」がないため廃業にはならず
     常盤木は煩悶するも解決する道が得られずに情死を企てる
     剃刀でたがいに咽喉部の動脈を切断し絶命
     1917(大正06)04/『廓清』第7巻第4号28ページに伊藤富士雄が記事を書く
     手紙の一部が掲載される

  10/20アナキズムの雑誌『微光』が創刊される
     小石川区指ケ谷町3番地 、印刷人が渡辺政太郎 編集発行人が臼倉甲子造
     1915(大正04)06/終刊となる
  11/20月刊『平民新聞』第2号が発売禁止となる
     500部は刷了と同時に持ちだし発送するも郵便局で差し止められる
     伊藤野枝は渡辺政太郎の依頼で数十部を自宅に隠匿する
     第2号の巻頭論文のタイトルは「秩序紊乱」
  11/27平塚明が日月社から反響叢書の第2巻として『現代と婦人の生活』を刊行。定価85銭
  11/28新夕張若鶴炭坑で爆発。死者437人
  11/伊藤野枝が『青鞜』11月号誌上で『平民新聞』の発禁に抗議をする
     12/伊藤野枝が『青鞜』12月号紙上でふたたび抗議の文書を発表する
  11/「友愛会」の機関誌が題号を『友愛新報』から『労働と産業』に改題【機関紙?】
     『友愛新報』の創刊は1912(大正01)11月3日
  12/15午前9時40分、福岡の三菱方城炭鉱で炭塵大爆発が発生
     ガス爆発で死者671人という数をだし、日本の近代史上最悪の事故になる
  12/18月刊『平民新聞』第3号が発売禁止に
     約100部を横浜の中村勇次郎、板谷治平に配布を託す
  12/18東京駅が完成。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計
     駅本屋は辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り
     3階建てで総建坪9545平方メートル、長さ330メートルの豪壮華麗な洋式建築
     野原が広がる丸の内側となる皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口が造られる
  26才の神近市子が尾竹紅吉の紹介で『東京日日新聞』に入社。珍しい婦人記者となる
     のち神近は記者時代に宮嶋資夫を仲介に山川均、辻隆、安成兄弟、大杉栄らと知り合い社会主義思想に共鳴する
  冬/『東京日日新聞』の記者神近市子が大久保百人町の大杉栄宅を訪ねる
     大杉は3間ほどの借家で、堀保子と炬燵にはいり書きものをしているところ
     神近は大杉に談話をとる。神近と大杉の初めての出会い
     神近による大杉の第一印象は「坊やくさい感じで、保子夫人の弟のように見えた」
  関東都督府から救世軍大連育児婦人救済事業に1千円、司法省より免囚保護労作館に300円の援助がある
  『東京毎日新聞』が身売り先の報知新聞社からジャーナリストの山本実彦に譲渡
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     1915(大正04)山本実彦が社長に就任
  帝大生相手の下宿屋菊富士楼が3階建ての瀟洒な洋館「菊富士ホテル」となる
     下宿菊富士楼の開業は1897(明治30)
     菊富士ホテルは木造瓦葺きで外装白モルタルの3階建て高級下宿、長期滞在型のホテル
     はじめは上野で開かれる「大正博覧会」にむけて開業
     のち多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在、ホテルを舞台に数々のエピソードを残す
     1945(昭和20)03/菊富士ホテルが東京大空襲で消失する
  この年50件の同盟罷工があり参加人員は7904。組合の数は6
  この年の小作組合数は88


1915(大正04)

  《総理大臣》[第17代](第2次)大隈重信
  《内務大臣》[第30代]大隈重信内閣総理大臣が兼任、[第31代]大浦兼武(01/07→)
  《内務大臣》[第32代]大隈重信内閣総理大臣が兼任(07/30→)、[第33代]一木喜徳郎(08/10→)
  《警視総監》[第22代]伊沢多喜男、[第23代]西久保弘道(08/12→)
  《内務省警保局局長》安河内麻吉(→08/12)、湯浅倉平(08/12→)


  01/15大杉栄、荒畑寒村らが月刊『平民新聞』第4号を発行する
     定価/1部3銭5厘、体裁/四六倍判、頁建/10頁
     創刊は前年10月15日
     司法大臣の尾崎行雄、安部磯雄、川合貞一教授らの時局評論を転載8頁の紙面を埋めることに
     02/16第5号が印刷中に発禁処分となり押収される
     のち4頁建の第6号も発禁に
     03/20頃15日発行の第6号が4、5日遅れて発行
     大杉は正妻堀保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  01/23馬場孤蝶が第12回総選挙に東京より立候補
     東京社会主義者有志の堺利彦、高畠素之、山崎今朝弥が『万朝報』に推薦広告をだす
  01/24日本橋区新常盤町の堺井証券会社2階の日本間で山崎今朝弥らが主催の社会講演会が開かれる
     大杉栄が出席する
  01/大杉栄が伊藤野枝に協力のお礼に本を送る
     幸徳秋水訳『パンの略取』、新著『生の闘争』、ローザ・ルクセンブルグ
  01/『青鞜』1月号に平塚らいてうの「青鞜と私」と、伊藤野枝の「青鞜を引き継ぐに就て」が掲載される

  02/13救世軍婦人救済係の山田彌十郎と伊藤富士雄とが娼妓3人の救済に川崎へ向かう
     2人ともに暴徒に重傷を負わされる
     救世軍病院院長で医学博士の松田三彌の診断書がだされる
     山田は「左上膊打撲傷及血腫、左身示指第三関節の後方脱臼、左膝関節外側の打撲傷、
      左鼻翼裂創、後頭部、右上唇、左中指打撲傷。右は治療日数三週間を要す」
     伊藤は「右下腿下端外側の打撲傷及該部に於ける腓骨単純骨折、左上眼瞼打撲傷及左眼球結膜溢血、
      顱頂部、右〔顳●【需偏に頁】しょうじゅ・こめかみ〕部の打撲傷、右上膊外側、
      左手背部、左下腿中央部内側の打撲傷、右肘関節部擦過傷、右は治療日数四週間を要す」
     伊藤は前年8月31日に洲崎遊廓にて暴徒に襲われ重傷を負ったばかり

  02/15センジカリスム研究会を平民講演会と改称。第1回を堺井証券で開く出席者32人
     のち警察の干渉などで講演会の会場は転々と変わる
     のち1916(大正05)4月16日までほぼ月2回開催される
     新旧両世代の交差点の場となる。出席者はだいたい20人前後
  02/16月刊『平民新聞』第5号が発売禁止に【02/17?】
     印刷所で刷り上がった新聞を押収の上に解版が命じられる【印刷中?】
  02/17月刊『平民新聞』の処分に抗議し示威行動、サンドイッチ行列を行なう【02/18?】
     銀座〜日比谷〜小川町〜神保町〜水道橋〜壱岐殿坂〜本郷3丁目〜湯島切通〜上野広小路〜須田町と練り歩く
     「平民新聞123号発売禁止、5号印刷中全部没収」と大書した大判の板紙を首から胸と背にかける
     全ページ転載の奇策で発禁を免れた本紙第4号を道々約1千枚撒く
     参加者は大杉栄、荒畑寒村、野沢重吉、宮嶋資夫、麗子夫妻、山鹿泰治、有吉三吉、岩崎善右衛門、市毛の9人【8人?】
  02/20加藤時次郎の『生活(くらし)の力』が第14号から第74号までは月2回の発行となる
     『生活の力』の創刊は1914(大正03)2月10日
     のち第75号、第76号は月刊に
     1917(大正06)10/10『生活の力』第77号を『平民』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
  02/パリで石川三四郎と島崎藤村が会う
  02/伊藤野枝の『貞操に就ての雑感』が発売禁止となる
  03/15大杉栄が荒畑寒村と1914(大正03)10月に発刊した月刊『平民新聞』が第6号をもって廃刊に【03/20?】
     第6号は伊藤野枝の協力を得て『青鞜』の印刷所で印刷、発行する
     大杉版『平民新聞』とも呼ばれる。第4号を除いて第1、2、3、5、6号が発禁に
     大杉は正妻堀保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  03/20横浜市青木町の貸席宮の舘で歌会の名目で集会が開かれる
     荒畑寒村と大杉栄が出席する
  03/「友愛会」江東支部の幹事河野芳太郎が大阪市天満のロイヤル刷子株式会社に入り支部を作る
     大阪での友愛会最初の基礎を作る

  04/10午前中、銀座の救世軍本営に1人の婦人が自動車を乗りつける
     婦人救済係を訪ねた婦人に伊藤富士雄が応対する
     婦人は新吉原京町1丁目の大まがき角海老楼の娼妓白縫という
     白縫は楼主に虐待され神経衰弱になり、今日限りに廃業したいから力を借りたいと
     伊藤は白縫を自動車とともに返し、電車に乗って日本堤署に出頭する
     警察署から角海老の楼主に電話がいき、まもなく楼主がやってくる
     楼主は花魁白縫の我がまま勝手に閉口している、と逆に警部補と伊藤の同情を願いでる
     楼主の態度や物言は丁寧で反感を連想させない吉原一流の楼主と思わせる
     伊藤が白縫に具体的な虐待の例を示すよう促しても言い淀み、はぐらかす
     花魁白縫は警部補に「昭憲皇太后陛下の御諒闇中に仲之町だけが治外法権じゃありますまい」と
     警部補は微笑をもらしながら伊藤に「どうすればよいかね」と問う
     伊藤は笑いをかみ殺し「とにかく名簿削除のお取り計らいを願います」と楼主にむかう
     老酒は「あなたは平生我がままいっぱいで、その上自由廃業とは、つけ込み過ぎています。
     でも、御規則には逆らえませんから、廃業なさるがよいでしょう。そこで前借金はどうなさいますか」
     「働いてお返しします」
     「リュウマチウスで神経衰弱で脚気なのに、働いて1300円を返せる道理はありませんよ。そこで」
     白縫の馴染み客、蠣殻町の吉木宅へ外泊休業として前借金を吉木から月賦償還にしてもらうことに
     白縫は娼妓の月賦落籍、娼妓の損料貸というこで吉木宅に外泊休業の身となる
     のち吉木から1円の月賦償還もなく
     「ぜひ、というから預かったのだから、室料、賄い料を1か月50円ずつ持ってきてくれ」と
     楼主はあきれはて見放すことに
     08/29白縫はめでたく自由廃業をして郷里の広島に帰る

  04/16平民講演会で3月27日に死去した師復(劉紹彬)を追悼する
  06/01それまで大杉栄らが使っていた日本橋区新常盤町堺井証券が警察の干渉で借りられなくなる
     平民講演会を大久保百人町の大杉の自宅で開く
  06/03横山源之助が小石川白山御殿御前町にて死去する。享年45才[1871(明治04)04/10《02/02》生]
  06/15大杉栄が小石川区水道町2丁目16番地の旧水彩画研究所を借り受ける
     仏語教授の仏蘭西文学研究会をはじめる
     「水彩画研究所」は宮島資夫の義兄大下藤次郎が小石川区水道町にもっていた研究所
     生徒には宮嶋資夫、麗子夫妻、青山菊枝、山田吉彦(きだみのる)ら20人前後
     のち平民講演会も同所で開くことに
  06/19「友愛会」の鈴木文治と吉松貞弥が渡米しアメリカの労働運動の実情を調査
     1916(大正05)01/04帰国する
     後進日本の労働運動に参考となる資料をたくさん持ち帰る
     各種労働組合の規約、綱領や歴史資料、組合経営の教育事業や調査事業、協同組合、
     労働銀行などの報告書、組合機関紙、リーフレット、トラクト、パンフレット、
     ストライキやボイコットの闘争記録、組合運動と政治運動の交渉記録など
     1916(大正05)09/09日米問題が再び紛糾し鈴木文治が渡米するため横浜を出港
     のちアメリカでは加州労働大会、全米労働大会、国際海員同盟大会などに出席する
     1917(大正06)01/前回の渡米よりも一層の効果をあげて帰国
  06/『青鞜』第5巻6号に原田皐月の小説「獄中の女より男に」が掲載される
     親として責任がもてない場合の堕胎を正当、法律の性支配を否定し、裁判官を嘲笑する
     「風俗壊乱」により『青鞜』3回目の発売禁止処分となる
  06/渡辺政太郎、臼倉甲子造ら1914(大正03)10月20日に創刊した『微光』が終刊となる
  06/神近市子が大杉栄の「仏蘭西文学研究会」に参加する
     神近が参加するようになったのは『萬朝報』の記者で友人の八木麗子が懇意の宮島資夫の妻だから
  07/01平民講演会でエロシェンコがクロポトキン訪問の話をエスペラント語で行なう
  07/24新村善兵衛が千葉監獄を仮出獄
     大逆事件での判決で懲役8年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
  09/01堺利彦が「売文社」の機関誌『へちまの花』を改題、社会主義を標榜する新雑誌の月刊『新社会』を発行
     『へちまの花』は1914(大正03)1月27日に創刊
     定価/1部5銭、創刊号の印刷部数/1500部
     体裁/薄黄色のザラ紙の菊判、頁建/32頁
     1916(大正05)07/『新社会』の組織を改編
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
  09/281914(大正03)9月に第23号で自発的に廃刊した『近代思想』を大杉栄が復刊する【10/07?】
     もともとは大杉栄、荒畑寒村らが1912(大正01)10月1日に発刊
     1916(大正05)01/復活させた『近代思想』が第4号で廃刊に
  09/30大杉栄が住み慣れた大久保百人町から小石川区武嶋町24番地に移る
     仏文研究会平民講演会も武嶋の自宅に移る
  09/平塚明と共同生活を営む奥村博が肺結核を発病、茅ケ崎の南湖院に入院
     1916(大正05)平塚が奥村が入院する南湖院近くの借家に移転する
     1917(大正06)夏/平塚が茅ケ崎を引きあげ東京の滝野川に1戸をかまえる
  10/「欧友会」の第9回総会が開かれ、機関誌の発行停止を決議し会務の執行を中止することに
     1916(大正05)10/31欧友会最後の大会が開かれる
     参会者50人は会の活性化を意図して欧友会を解散し、直ちに欧文植字工組合「信友会」の創立について協議

  秋/日本基督教婦人矯風会廓清会が決議
     大正天皇即位の「御大典」を機会に公開の席で「醜業婦」と同席しないこと、今後6年間に公娼を全廃すること

  11/01『近代思想』第2号の発売禁止で大打撃を受ける
     11/26大杉栄宅の近代思想社で立て直しを協議する
     当日の出席者が発起人となり近代思想社同人を募り経営の基礎をかためる
     発起人の責任分担制により同志全体の仕事になることを目指す
     発起人は大杉栄、堀保子、荒畑寒村、吉川守圀、有吉三吉、宮嶋資夫、麗子夫妻、
     百瀬晋、山鹿泰治、相坂佶、荒川義英、吉川啓一郎、川上真行の13人
     責任者は会計/吉川、川上、庶務/有吉、編集/大杉、荒畑、百瀬、広告/堀、吉川
     12/01第3号も発売禁止になる
     12/15『近代思想』の保証金の都合で、大杉栄が三浦郡田越村大字逗子桜山に移る
     仏文研究会は牛込区横寺町の芸術倶楽部で続けることに
     1916(大正05)01/01第4号も発売禁止になる
     01/24下谷区上野不忍池の観月亭で近代思想社臨時相談会を開く
     意見がまとまらず廃刊と決定する
  11/02渡辺政太郎、久板卯之助らが『労働青年』を発刊
  11/05『新社会』への改題を機に第1回「社会主義座談」が売文社で開催される
     それまでの「座談会」を発展、毎月1回の開催に
     出席者は堺利彦、伊庭孝、百瀬晋、斎藤兼次郎、添田唖蝉坊、吉川守圀、西村陽吉、
     和気律次郎、宮島資夫、高畠素之、米倉松太郎、山鹿泰治、原子基などが参加
  11/10神近市子が東京日日新聞の記者として大正天皇即位礼の取材のため京都に出張する
     このころから神近市子に尾行がつくようになる
  11/25賀川豊彦が警醒社より『貧民心理の研究』を発行。定価1円80銭
  11/『青鞜』第5巻10号に雑賀琴の「戦禍」が掲載される
     「戦禍」は『青鞜』唯一の反戦作品
  11/神近市子が麻布区霞町に転居
     大杉栄が逗子桜山に移ってから上京の都度、麻布区霞町の神近の下宿に泊まるようになる
     神近市子と大杉栄との恋愛関係がはじまる
     1916(大正05)02/神近市子が大杉栄から伊藤野枝との恋愛関係を告白される
  11/加藤時次郎が加藤病院を改組して平民病院を開設する
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
  12/09木平塚らいてうが奥村博との長女曙生(あけみ)を生む
     1917(大正06)09/24平塚が奥村との長男敦史を生む
  12/15堺利彦、山川均、高畠素之らを講師とする労働青年講演会を開始。毎月1回、10数人出席
  12/15『近代思想』の保証金の都合で、大杉栄が三浦郡田越村大字逗子桜山に移る
     12/大杉栄が逗子桜山に移ってから上京の都度、麻布区霞町の神近市子の下宿に泊まるようになる
  12/伊藤野枝が『青鞜』第5巻第11号に「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」を掲載
     「賤業婦」という呼称への怒りなど、庶民の側へ身をおいた伊藤野枝ならではの美質を示す
     論調が売春肯定論のように受け取られ「売春論争」が起こる【廃娼論争? 貞操論争?】
     1916(大正05)01/『青鞜』1月号に青山菊栄の反論「日本婦人の社会事業にについて伊藤野枝に与う」を掲載
     さらに伊藤の再反論「青山菊栄様へ」がのる
     伊藤は自信がないと発言する
     02/『青鞜』2月号ぬ青山が「更に論旨を明らかにす」を寄せ追い討ちをかける
     対して伊藤は「再び青山氏へ」でおしまいにすると悲鳴をあげる
  大杉栄がチャールズ・ダーウィンの『The Origin of Species』を『種の起原』のタイトルで翻訳出版
  山本実彦が『東京毎日新聞』の社長に就任する
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     のち経営者は転々とする。頼母木桂吉が社長を務めたことも
     1940(昭和15)11/30野依秀市が経営する「帝都日日新聞」に吸収合併される
     日本語による本邦初の日刊紙は消滅する
  この年64件の同盟罷工があり参加人員は7852。組合の数は4
  この年の小作組合数は88


1916(大正05)

  《総理大臣》[第17代](第2次)大隈重信(→10/09)、[第18代]寺内正毅(10/09→)
  《内務大臣》[第33代]一木喜徳郎、[第34代]後藤新平(10/09→)
  《警視総監》[第23代]西久保弘道、[第24代]岡田文次(10/09→)
  《内務省警保局局長》湯浅倉平(→10/09)、永田秀次郎(10/11→)


  01/04アメリカの労働運動の実情を調査していた「友愛会」の鈴木文治と吉松貞弥が帰国
     後進日本の労働運動に参考となる資料をたくさん持ち帰る
     各種労働組合の規約、綱領や歴史資料、組合経営の教育事業や調査事業、協同組合、
     労働銀行などの報告書、組合機関紙、リーフレット、トラクト、パンフレット、
     ストライキやボイコットの闘争記録、組合運動と政治運動の交渉記録など
     出発は1915(大正04)6月19日
     1916(大正05)09/09日米問題が再び紛糾し鈴木文治が渡米するため横浜を出港
     のちアメリカでは加州労働大会、全米労働大会、国際海員同盟大会などに出席する
     1917(大正06)01/前回の渡米よりも一層の効果をあげて帰国
  01/25山川均が足かけ6年ぶりに上京。売文社に入社
  01/『青鞜』1月号に青山菊栄の反論「日本婦人の社会事業に就て/伊藤野枝に与う」を掲載
     前年12月発行の『青鞜』に掲載した伊藤野枝の「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」への反論
     論調が売春肯定論のように受け取られ「売春論争」が起こる【廃娼論争? 貞操論争?】
     さらに伊藤の再反論「青山菊栄様へ」がのる
     伊藤は自信がないと発言する
     02/『青鞜』2月号ぬ青山が「更に論旨を明らかにす」を寄せ追い討ちをかける
     対して伊藤は「再び青山氏へ」でおしまいにすると悲鳴をあげる
  01/吉野作造が『中央公論』1月号に長論文「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」を発表する
     いわゆる「民本主義」の宣言ともいうべき論文で思想界に一大衝動を与える
  01/大杉栄が1915(大正04)10月に復活させた『近代思想』が第4号で廃刊となる
     もともとは大杉栄、荒畑寒村らが1912(大正01)10月1日に発刊し、1914(大正03)9月に自発的に廃刊
  01/近代思想社が宮嶋資夫の『坑夫』を発行する。大杉栄、堺利彦が序を記す
  01/山川菊栄が神近市子に誘われ歌舞伎をみにいく
     そこに伊藤野枝が来あわせる。山川と伊藤は初対面
  01/神近市子が大杉栄との恋愛を理由に東京日日新聞社を退社させられる
  02/01大杉栄が下谷区上野不忍池の観月亭で平民講演会を開催。出席者は14人
     全員が上野署に検束される
     02/02釈放される
  02/20牛込区横寺町の芸術倶楽部で平民講演会が開かれる。出席者は27人
     大杉栄と堺利彦が衝突
  02/雑誌『青鞜』2月号の内容は斎賀琴訳のスコット・ニーアリング「生物学より見たる婦人の能力」を巻頭に
     山田わか、野上弥生、吉屋信子らの名がならぶ
     伊藤野枝が大杉栄の『社会的個人主義』の書評を掲載。最大限の賛辞を贈る
  02/女性による月刊誌『青鞜』の編集長伊藤野枝が大杉栄に走り以降は発光されず
     04/伊藤野枝が大杉栄のもとに走ったため
     2月号で無期休刊に【第6巻第2号が最終巻に】1911(明治44)9月1日の創刊より52冊発行される
  02/大杉栄が伊藤野枝との恋愛関係を神近市子に告白する。神近は多角恋愛になやむ
  02/大杉栄と伊藤野枝が初めてのキスをする
     数日後大杉栄が麹町区三番町64番地の第一福四萬館で伊藤野枝、神近市子と話し合う
     【経済的独立、別居、自由(性的を含む)の尊重な3条件を提示?】
  03/はじめ堀保子が四谷南伊賀町の山田夫婦の裏となりへ。大杉栄と別居する
     【大杉栄が四谷区南伊賀町41番地に移る?】
     以前、平塚らいてうが住んだ家
  03/03大杉栄が四谷区南伊賀町41番地に移る
     のち山崎今朝弥、堺利彦、馬場孤蝶が間に入り堀保子とは別居することに
     03/09大杉が麹町区三番町64番地の第一福四萬館に移る
  03/15大杉栄が東雲堂から「生活と藝術叢書」の第4編として『労働運動の哲学』を刊行するも発禁となる
  04/05日本著作家協会創立総会が牛込区横寺町の芸術倶楽部で開催される
     大杉栄が発起人のひとりとして出席する

  04/15大阪府知事の大久保利武が大阪府告示第107号をもって府下天王寺付近の飛田の地を遊廓地として許可する
     大久保利武は大久保利通の三男
     【04/16? 府下阿倍野?】
     指定地は府下東成郡天王寺村大字天王寺東松田、西松田、稲谷、堺田の各一部からなる2万坪
     明治末の火災で焼失した「曽根崎新地」(明治42)と「難波新地」(明治45)の貸座敷業者を救済する遊郭整理
     曽根崎と難波新地は焼失後免許地廃止となる名目の元に許可される
     難波新地の焼失地域は7千坪、飛田新指定地2万坪のうち、残り1万3千坪は他遊廓から移転を出願するもの
     明治45年に焼けだされた難波新地の現状は123軒中所在不明者を除いての79軒より
     うち54軒は京阪神の遊廓に移って営業を継続中、25軒は廃止を転機に生業につき5年前の失業状態の者は1軒もなく
     よって5年前からの失業者はいっさいなく「失業救済」名ばかりのこと
     難波新地を廃した当時の犬塚勝太郎府知事は、5年後の再興のを約束を後任に引き継いだおぼえはないと明言
     実際には救済が必要な業者はいなかったとされ、一部の権利者が利益をむさぼるためとも
     建設を許可したのは「失業者は代地を与へらるべしとの警察部長の口約」を実行しただけ、と
     設置派は、曽根崎や難波新地の大火で失業した同業者の救済、「私娼」の取り締まりなどを挙げる
     大阪府庁が府下天王寺付近の飛田を遊廓地として許可したのは、
     在地ブローカーと協力した大実業家や政治家が、廓建設の決定権をもつ府知事に圧力をかけ、内務省方面にも働きかけた結果
     また許可したのは「失業者は代地を与へらるべしとの警察部長との口約」を実行さたまで
     飛田の地価は大火前が坪5.7円。大火後遊廓の移転がにわかに伝えられると10円、20円、25円と暴騰
     さらに今回、建設許可が報じられると30円から50円、70円とはねあがる
     飛田は麦、野菜の畑地で未耕地の2万坪は草地、また墓地もあるつまらない土地
     そんな土地を坪5円前後で買い占めた土地が30円から70円に上昇するとなると土地業者や政治家は濡れ手に粟状態
     新廓となる周囲には高等商業、甲種商業、天王寺師範、女子師範、今宮中学、
     成器商業、職工学校、桃山中学、済義館の9校からなる文教地区がある
     徒歩10分には動物園、美術館、公会堂など大阪市民の憩いの場天王寺公園がひかえる
     1917(大正06)10/大阪府知事の大久保利武が突然辞職。置土産として飛田遊廓指定地への建築を許可する
     のち大久保は栄子夫人と3人の愛児と東京に立ち去る
     【12/17大久保俊武府知事が辞職、置き土産として飛田遊廓の建設を許可する?】
     10/30飛田での遊廓建設工事がはじまる
  04/大阪府が廃止した難波新地遊廓の代地として新たに飛田の地に2万坪の大遊廓地を指定した設置理由
     第一、飛田は難波新地遊廓の代地であって当時他に適地を指定すべき
      口約を与え警察部長更迭毎に此事の引継ぎをなし来りしものである
     第二、貸座敷失業者は此口約を信じ、種々の苦痛を忍び来れる者少からず、此等失業者救済の意味をも含む
     第三、大阪の遊廓は市内に散在して適地でないから、将来機会を待って漸次市外に移転の方針である、
      難波新地の焼失地域は七千坪であるから、飛田新指定地二万坪の内残り一万三千坪は他の遊廓より
      移転を出願するもの又は或機会に移転を命ずる為め
     第四、天王寺付近の新世界なる地は、東京に於ける浅草の如き大魔窟なる故、寧ろ公娼を置きて私娼を制圧す
     第五、突然指定したのは、当時より政党者、土地投機者運動者の纏綿せる情弊の消え去る機会を待ちたる為め
     実はことごとく土地業者の運動に乗ぜられたもの
     畑地にして坪1円くらいの地価が一躍30円と称し2万坪にして60万円
     周囲の地価の騰貴を見込めば100万円以下の利得になる
     そのため政党の有力者が加わり大久保利武を圧迫
     内務省方面の了解のもと決定されたものであることが明らかになる
  04/17三重県下を旅行中の林歌子が津から四日市に向かう汽車のなかで『大阪新聞』の「飛田遊廓設置指定」の記事をみる
     林歌子は大阪婦人矯風会会長で廓清会評議員
     驚いたのは林や取り巻く婦人矯風会や廓清会、基督教徒だけでなく大阪市民も同じで報道に愕然とする
     大阪の婦人矯風会や廓清会、基督教徒たちは明治42年の曽根崎新地、45年の難波新地と身を粉に廃娼運動につとめた
     04/18急きょ旅先から戻った林歌子は、休むまもなく動きまわる
     04/19林は大久保大阪府知事、新妻大阪府警察部長を訪ね責任を糾弾する
     その足で林は各新聞社を歴訪し援助を乞う。夕刻、青年会理事らと相談会を設ける
     林がさらに本部の応援を得るべく上京

  04/18荒畑寒村が近藤憲二の熱心な援助でタブロイド版4頁のリーフレット『労働組合』を発行
     労働組合の組織を鼓吹するささやかな運動を開始
     初号は『新社会』の臨時増刊号として発行
     のち本誌の附録として10枚10銭で配付用に頒布
     のち6号くらいで潰れる
     1918(大正07)03/15荒畑寒村が山川均と協力し近藤憲二の援助を得てリーフレット『青服』『新社会』の附録として発行
     『青服』は作業服を意味する
     のち毎号連続して発禁に
     07/18第4号で廃刊となる

  04/20伊藤秀吉が矯風会本部に招かれ林歌子から説明を聞く
     矢島楫子は病床にあり久布白落実、守屋東らと対策を協議
     伊藤らは自動車で島田三郎会長邸へ、さらに伊藤と林は副会長の安部磯雄、理事の内ケ崎らを訪ねる
     午後8時廓清会が会長邸にて臨時理事会を開く【対策協議会?】
     島田三郎、安部磯雄、山室軍平、松宮彌平、油谷治郎七、伊藤富士雄、伊藤秀吉ら正副会長に各理事、
     また婦人矯風会の林歌子、守屋東、渡辺つね(神戸)ら10人が参集し連合決議をなす
      大阪府庁が、数年前廃絶せし難波新地遊廓の代地なりと附会し、名を貸座敷失業者の救済に藉りて、
      新に飛田の遊廓地を許可せしは是れ公娼設置の地域を拡めたるものにして、吾人の絶対に反対する所なり、
      吾人其背理を声明して当局の反省を促し、断然之を中止せられんことを望み、此に之を議決す。
       日付は4月10日。廓清会本部、婦人矯風会本部の連名による
     協議会の結果、24日に大演説会を開くこととし、大阪に島田三郎、山室軍平が、
     神戸に内ケ崎作三郎が、東京本部にて安部磯雄、油谷治郎七らが出演の手筈を決定
  04/21矯風会の林、久布白、守屋、渡辺が決議文を携え内務大臣を訪ねる
     内務大臣は不在のため警保局長に面会する
     事情を具陳し声涙ともに下る
     04/22首相官邸に大隈伯を訪ねる【04/26?】
     廓清会の顧問でもある大隈は「それは大変な油断をしましたね」と同情をあらわす
     内務大臣が帰り次第取り調べを命じると答える
     続いて文部大臣官邸に高田早苗を訪ね、飛田が学校地であることを告げ取り消しの尽力を乞う
     04/22夜、芝区の統一教会で廓清青年演説会が開かれる
     伊藤秀吉、油谷治郎七、林歌子が飛田問題の第1声をあげる
     04/24東京、大阪、神戸の3大都市にていっせいに飛田遊廓設置反対運動の火蓋をきる
     廓清会と日本婦人矯風会主催の飛田遊廓設置反対の大演説会が開かれる【第1回反対大演説会?】
     ▽大阪市天王寺公会堂で島田三郎、山室軍平が特別演説会を開く
     ▽神戸にて内ケ崎作三郎が特別演説会を開く
     ▽東京にて特別演説会を開く
     矢島楫子の司会で、伊藤秀吉が開会の辞を述べ、高島米峰の「男女関係論」、
     油谷治郎七の「松村介石氏の在娼論を評す」、根本正の「婦人の力」、江原素六の「娼妓論」、
     安部磯雄は谷本博士の「公娼論を評す」と題して、それぞれ熱弁。伊藤秀吉は決議文を朗読し
     満場の聴衆を前に熱弁をふるい世論を喚起。新聞はこぞって反対運動を報じる
     04/26林歌子、矢島楫子、久布白落実、守屋東ら矯風会代表が決議文を手に一木喜徳郎内務大臣を訪ねる
     【04/22?】
     一木は台湾旅行中で不在のため、かねて廃娼の味方で廓清会の顧問でもある大隈重信総理大臣を訪問
     矯風会の面々に囲まれた大隈は「それは大変油断をしましたね」と同情をあらわす
     大隈は一木が帰り次第取り調べを命じると答える
     のち大隈は設置の取り消しを断行せず廓清会は大隈の顧問を解く
     さらに文部大臣の高田早苗を訪問、地図を広げ飛田の付近は学校地区であることを告げ、許可取り消しの尽力を乞う
     のち林は大阪に舞い戻る
     04/27林歌子が岡山に急行、台湾から帰京の途にある内務大臣の一木喜徳郎をつかまえる
     林は属官を従え1等車にくつろぐ一木に歩み寄る
     属官を尻目に一木の近くに腰かけ、大阪飛田遊廓新設の非を説き取り消しをつめよる
     一木は軽率には答えず黙々と聴取を受ける
  04/21大阪府政に関連する府政研究会が飛田遊廓の指定に反対を決議
     一、理由の乏しきに関らず今日に至り突如飛田新遊廓を指定せる当局の処置を失当と認む
     一、新遊廓指定公示前之を知りたるもの有るの跡あるは当局に於いて其責を負ふべきものと認む
     04/24反対陳情書を提出する

  04/24午後、伊藤野枝が生後8か月の流二を連れて辻潤の家をでる
     2才7か月の一(はじめ)は辻のもとに残す
     すぐ辻はすぐ家をたたむ
     【『青鞜』の資料はすべて廃棄される?】

  04/27大阪教会にて廓清会婦人矯風会、基督教会有志の幹部会を開く
     【大阪教会で市内キリスト教3派の幹部会とキリスト教徒協議会が開かれる?】
     飛田遊廓設置反対同盟会組織化の件を可決。同志を広く糾合することに
     役員を選挙する
     委員長 宮川経輝。副委員長 釘宮辰生。常務委員 林歌子、名出保太郎、グリソン、エルスキン、湯浅豊太郎、
     清水芳吉、佐島啓助。会計 高木貞衛、青木庄造蔵。事務委員 一宮仲校、藤本壽作、中村久榮、加藤昌夫。
     実行委員 深田直太郎、青木律彦、松岡歸之、吉津度、谷口幸子、渡邊一、赤澤元造、馬場●【金偏に生】作、
     ウイツクリー、深澤鑒十郎、小泉澄、荒井安衛、清水種子、二宮平茨郎、武田亀吉
  04/28矯風会が文部大臣の高田早苗を訪ね尽力を乞う
  04/28大阪から外人団代表としてフルトン、エルスキンの2人が上京、廓清会本部
     直ちに外人2人は伊藤秀吉に連れられ島田三郎邸にて相談
     伊藤はさらに2人を案内し首相官邸と内相邸を訪ね大隈伯と一木内務大臣と会見
     「大阪市名誉のために且日本民族将来の肉体的及精神的鞏固及発達のために、一般に公娼制度は
     廃棄さるべきものなるを確信し、閣下が飛田遊廓の許可を即時撤回するに十分の御尽力あらん事を陳情す」
     大隈は答弁を一木に譲っていて伊藤と一木が激論を戦わせることに
     大阪居住の外人26人署名の請願書を手交
     帰途、再び高田文部大臣を訪ねる
     のち政府首脳部は具体的な確答を示さず
  【以下2事象は5月1日までの出来事】
  キリスト教3派の幹部会に前後して大阪府会の正義派議員が府市部議長の湯浅豊太郎を中心に府会16人組を結成
     府知事に激しく肉迫し飛田遊廓の取り消しを要請、取消請求書を提出する
     05/09大湯浅豊太郎らの府政、市政関係議員有志により飛田遊廓取消期成会が組織される
     政談演説会が開かれる
     05/12政談演説会が開かれる
  「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」は連日朝夕の紙面の半ページ以上をさいて飛田遊廓問題を取り上げる
     連日とりあげ裏面を暴露、府知事の責任を追及し市民の奮起をうながす
     のち2紙は大阪府当局に飛田遊廓の設置を許可した指令の取り消しを強く要求する
  04、05/頃曽根崎、難波を経た遊廓建設反対の世論は大阪府をこえ天下の問題に
     全国新聞紙は国家風教の危機として非難、国家も持て余し気味になる
     のち各政党は委員会を設けて調査、結果は当局糾弾の報告に
     立憲同志会は報告したのに対して政友会は政治問題として反対。決議を発表する
     「囂々たる世論に対し当局者は従来の行懸りに拘泥せず、
      断然指定地の取消を命じ、世人の疑惑を解くに努むるに如かず」
     当局者が多数教育機関の所在地に近接せる飛田に新遊廓を指定せるは、風教を破壊し自ら訓令して
     蹂躙するの処置にして、失当の甚しきものと認む、政府は遂に之が是正の途を講ずべし
     のち立憲同志会は居直り醜関係の代議士を馘り黙殺する
     風教問題は党争の犠牲になる

  04/29大杉栄が千葉県夷隅郡御宿町の上野屋旅館に行く伊藤野枝を送る
     大杉と伊藤の恋文往復がはじまる
     05/04大杉栄が上野屋旅館へ行き3日滞在する
     06/中旬大杉が三度、上野屋旅館へ
     大杉は帰りの旅費に窮し神近市子に送金を頼む
  05/01片山潜がサンフランシスコで『平民』を発行
     1919(大正08)07/22号をもって終刊

  05/01飛田遊廓設置反対同盟会大演説会を開催、気勢を高める【下の大演説会と同じ?】
     のち4日、18日、27日にも大演説会が催される
     さらに同盟会は連日連夜、猛然と反対運動を展開する
     路傍演説を怠らず、大隈重信首相、一木喜徳郎内務大臣などへ陳情や関係各方面への陳情書を発送する
  05/01大阪で第2回反対大演説会が開かれる【上の大演説会と同じ?】
     一宮仲校、小泉澄、石原善三郎、フルトン、森下定太郎らが出演する
  飛田遊廓設置反対同盟会が数日にわたり各方面の代表者に設置反対陳情書への署名捺印を乞う
     陳情書をまとめ総理大臣、内務大臣、文部大臣に提出する
  05/04名出保太郎、湯浅豊太郎が上京し内務大臣、文部大臣に取り消しを請願する
     また矯風会本部に赴き鉄道ホテルにおける廓清会理事会に出席対策を協議する
     05/02名出保太郎、湯浅豊太郎が伊藤秀吉と早稲田の私邸に大隈伯を訪ね反対の陳情をする
     議長官舎に島田三郎を訪ねる
     【5月4日と2日の順序?日付の誤記?】
  05/02飛田遊廓設置反対同盟会が各方面から927人に対し運動の賛成を求める
     大阪倶楽部部員、弁護士、医師会会員、市会議員、各学校長、隣接の今宮中学と桃山中学の職員と同窓会会員ら
  05/03飛田遊廓設置反対同盟会の釘宮、清水、青木、名出の4委員が陳情書を携え府知事を訪問
     また飛田遊廓地付近の200戸に手紙を発送し賛否を問う
  05/04天王寺公会堂にて第3回大演会が開かれる。グリーソン、湯浅豊太郎、名出保太郎、原田助らが出演する
  05/05東京廓清会にて『飛田反対公娼問題号』が作られる
  05/06今宮中学と桃山中学の生徒父兄1420人の同意を求める書簡を発送する
  05/07400余人の市民による賛成の返信全文を掲げ、3大臣と府知事他へ発送する
  05/06、07夜、10隊にわかれ市内10か所に路傍演説を試みる
  05/06〜08東京にて飛田遊廓設置反対の陳情書に調印を求めてまわる
  05/08大阪倶楽部部員が商工会議所所員に書面を発送して同意を求める
  05/09湯浅豊太郎らの府政と市政に関係ある者や、その他代議士らにより飛田遊廓取消期成会が組織される
     第1回政談演説会が開かれる
  05/10午後6時、立憲国民党大阪支部が中の島銀水楼にて幹事評議員連合会を開く
     来阪中の浜田国松代議士が列席し尾形日野前代議士ほか50余人が出席する
     板野幹事が飛田問題の経過を報告し支部として問題に関係するか否かをはかる
     もし関係するとするなら方法をどうするかを提議
     日野、渡辺、森下は国の風教上の大問題なれば支部として処置を講ずべしと主張
     座長指名の7人の調査委員をあげ急速調査の上支部の態度を決することとして散会に
  05/10太平洋を越えて『シカゴ・デリー・ニュース』が飛田遊廓問題を論じる
  05/11飛田遊廓取消期成会が衆議院議員ほかの有力者千数百人に反対陳情書を発送する
  05/12飛田遊廓取消期成会主催の第2回反対演説会が開かれる
  05/13東京にて伊藤秀吉が各方面有力者の調印を得た反対陳情書を総理、内務、文部の3大臣に提出
  05/14学生演説会開催のはずが、その筋の圧迫により中止となる
  05/15東京にて廓清会本部が「飛田遊廓設置に就て天下に檄す」「警視庁の暴策」を2万部印刷
     【「飛田遊廓反対東京同盟会」が作成?】
     全国の高等官、市町長、学校長、警察署長、各教会など数日にわたって発送する
  05/16ポールスが開催する社会問題研究会が飛田問題を主題として開会
     江原素六、矢島楫子、久布白落実、伊藤秀吉らが出席
     「飛田遊廓反対東京同盟会」をつくり江原を委員長に、矢島を副委員長とする
     全国の各教会その他の公共各団体より電報攻めをもって内務大臣と大阪府知事に取消方の電請につき協議
     また反対演説会開会の決議をする
  05/17飛田遊廓設置反対同盟会が神田区の青年会館で飛田問題反対大演説会を催す
     雨にもかかわらず定刻前に1千人に達し満員の盛況で立錐の余地なくなる
     弁士は伊藤秀吉、内ケ崎作三郎、安部磯雄、油谷治郎七、山室軍平ら
     会費5銭ずつを徴収し43円、雑誌の売り上げ13円、新入会員30人を得る

  05/18三浦安太郎が29才のとき諫早監獄で自殺[1888(明治21)02/10・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中

  05/18天王寺公会堂にて大演説会が開かれる
     弁士は石橋為之助、エルスキン、藤本壽作、和田右膳、湯浅豊太郎、億川攝三ら
  05/19、20島田三郎が起草の陳情書3千部を各方面に郵送する
  05/23飛田遊廓取消期成会の委員5人が東京に出張、3大臣に陳情する
  05/25飛田遊廓設置反対同盟会が今宮中学と桃山中学の生徒保護者の反対意見を3大臣、知事、警察署長、市長に送る
  05/27飛田遊廓設置反対同盟会主催の大演説会及学生保護者大会が天王寺公会堂にて開かれる
     反対決議文を可決
     弁士は原田助、江原素六らが来援する
  05/30林歌子が保護者大会決議書を府知事に進達する
  05/警視総監の西久保弘道が庁令を発し、浅草千束町の魔窟掃蕩を行なう
     吉原遊廓付近に私娼が幅をきかせて遊廓への客を食い止めるるため、遊廓からの陳情も少なからず考慮
     庁令がでると同時に遊廓への規則取締が寛大になる
     日夜、数十人の警官が小路に見張りをして盛んに私娼退治をする
     官許のない娼妓は見捨てられ官許のある娼妓のところへ行くべし、と公娼の宣伝になる
  06/廓清会『廓清』6月号の冠を飛田遊廓建設に対する「警視庁並に大阪府庁教育号」として発行
     6千部を印刷し各方面に配付する
  06/08飛田遊廓設置反対同盟会が東京の本郷座にて大演説会を開く。1千人の来会者を得る
     06/17京都支部演説会が開かれ、800人の聴衆を得る
     06/24東京市神田区の青年会館にて大演説会が開かれる。1千人の来会者を得る

  06/「友愛会」が婦人部を設ける
     08/友愛会婦人部の機関誌『友愛婦人』を創刊する
  06/「女の世界」が大杉栄、神近市子、伊藤野枝の恋愛事件を特集
     3人の意見をのせる
     のち発売禁止となる
     のち転載した「婦女新聞」が発売禁止となる
  06/『中央公論』6月号が高島米峰の「新しい女の末路を弔す」を掲載する
  06/頃大杉栄が神近市子と伊藤野枝との関係を認めてくれるよう堀保子に願いでる
     堀は反対する
  07/15佐々木道元が28才のとき千葉監獄で病死[1889(明治22)02/10・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  07/25大杉栄と伊藤野枝が横浜へ行き中村勇次郎、伊藤公敬、小池潔らに会う【新雑誌の相談?】
     08/23大杉が横浜へ行き小池に会う
  07/月刊『新社会』が組織を改編
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
     1917(大正06)01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に

  07〜09/飛田遊廓設置反対同盟会が各地で大演説会を開催する

  08/26西尾末広、堂前孫三郎、坂本孝三郎の3人が意見の一致を見て職工組合期成同志会の発会式を開く
     知識階級を指導者としない純然たる職工組合の設置,労働組合本部を経済都市大阪に置くべきことの2点
     機械工と電気工が中心で、ほかに横田千代吉、平井栄蔵、堤豹三ら
     機関誌『工場生活』を発行する
     のち汽車製造会社・住友鋳鋼所など大阪の鉄工を中心に増える
     会は労資協調を基調としており思想的立場は極めて穏健
     演説会の開催、工場法などに関する法律相談、労働争議の調停、消費組合、医療費補助、就職案内、貯金、共済など
     10/会員が1千人を越える
     勢力は久保田鉄工所、大阪電燈株式会社、大阪砲兵工廠、大阪鉄工所、安治川鉄工所などに伸びる
     1917(大正06)01/会員数が1500人に達する
     中頃/財政が行き詰まり機関誌を休刊に
     年末/種々な事情のため解散することに【自然消滅?】
     のち堂前孫三郎、坂本孝三郎らは解散後も汽車製造会社内に労働問題研究会を組織し初心を貫き活動を続ける
     1919(大正08)阪鉄工組合として復活する

  08/伊藤秀吉が飛田遊廓反対同盟会の依嘱に応じ150ページの『飛田遊廓反対意見』を執筆する
     10/01同盟会が出版、3千部を各方面に配布する
     貴族院議員、衆議院議員、各当局者ほか各方面の協力者に配付する
  08〜09/飛田遊廓設置反対同盟会がおよそ10回の大演説会を開く【大阪支部が催す?】
     弁士30人、聴衆は3千人をこえる

  09/01工場労働者の保護を目的とした工場法が施行される
     12才未満者の就業禁止、15才未満者と女子の12時間労働制を定める
  09/08金策のため九州へ言っていた伊藤野枝が帰京、第一福四萬館に転がり込む
  09/09日米問題が再び紛糾。鈴木文治「友愛会」会長が渡米するため横浜を出港
     1回目の渡米は1915(大正04)6月19日から1916(大正05)1月4日まで
     のちアメリカでは加州労働大会、全米労働大会、国際海員同盟大会などに出席する
     1917(大正06)01/前回の渡米よりも一層の効果をあげて帰国

  10/09遊廓設置の認可を与えた大隈内閣が倒れる
     かわって寺内正毅内閣が成立、後藤新平が内務大臣に就任する
     のち寺内内閣の成立で新内閣に対する新運動を猛然と起こす
     飛田遊廓設置運動はいっそいに奮い立つことに

  10/10新田融が千葉監獄を仮出獄
     大逆事件での判決で懲役11年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
  10/15大杉栄が大石七分の紹介で住まいを本郷区菊坂町82番地にある菊富士ホテルに移す
     伊藤野枝と2人で住んだのは新館2階の34番。手前に後楽園の森、遠くに富士山が見渡せる6畳間
     大石は大逆事件で処刑された新宮の大石誠之助の甥で、文化学院を創設した西村伊作の実弟にあたる
     のち管轄する本富士署の刑事がくる
     大杉監視のため、となりの部屋を貸すよう要請するも経営者に断られる
     刑事は毎日出勤し応接間に張り込むことに

  10/松浦医学博士が小冊子『花柳病より観たる公娼制度』を作成
     故加藤弘之男爵が小冊子『教育家に与ふる書』を作成
     2冊を8千部印刷。全国中学校以上の学校に配付する
  10/21矢島楫子が1121人の母の署名捺印した願書綴りを手に大阪へ【1200人?】
     「母の叫びの日」として朝10時から矯風会大阪支部を本陣として母たちの飛田遊廓反対祈祷会を催す
     のち200余人が矢島楫子、林歌子を先頭に2列になり、静かに祈りながら大阪府庁へ【300余人?母親デモ?】
     府知事に面会を求めるも不在と称して会わず
     のち矢島と林は直ちに上京し、総理大臣、内務大臣に願書綴りを提出する
     【デモ隊は1121人の署名捺印した請願書を新妻内務部長に手渡し引き上げる?】
     1917(大正06)10/30建設開始の報が大阪矯風会支部事務所に届く
     林歌子と応援に来阪中の久布白落実は声もでず

  10/31「欧友会」最後の大会が開かれる
     参会者50人は会の活性化を意図して欧友会を解散し、直ちに欧文植字工組合「信友会」の創立について協議
     11/03新たに欧文植字工組合「信友会」が組織される
     1917(大正06)04/欧文植字工の組合「信友会」の発会式が盛大に行なわれる
  10/久坂卯之助らが『労働青年』を創刊
     1917(大正06)11/終刊となる
  11/初大杉栄が内務大臣の後藤新平と会い300円を引き出す
     50円を堀保子に、30円を伊藤野枝に、1円を神近市子に渡す
     残金に50円余を足して新雑誌の保証金にあてる目算をたてる
  11/03山川均と青山菊枝(満26)が結婚
     仲人は馬場孤蝶。馬場は山川夫妻の終生の師
  11/初山川が結婚した数日後、夜分に大杉栄と伊藤野枝が山川の新居を訪れる
     さらに数日後大杉は葉山に向かい日蔭茶屋の事件となる
  11/06神近市子が大杉栄から『種の起源』の原稿料が入ると知らされる
     11/07午前中、神近は大杉と伊藤野枝が同棲する麹町区三番町の下宿「福四万館」に電話をかける。2人は留守
     大杉が大金を手に葉山へ行ったという話を聞く
     神近は悩んだ末の午後、3人で話をつけようと葉山に向かう。短刀を鞘におさめて手提げのなかに入れる
  11/06大杉栄(32)が伊藤野枝と一緒に茅ケ崎の平塚らいてうを訪ねる
     午後2時頃、2人はその足で相州三浦郡葉山村字堀ノ内の日蔭茶屋へ。投宿する
     葉山の日蔭茶屋は大杉の定宿の仕事場
     11/07午後4時頃、神近市子(26)が茶屋を訪ねる
     神近は女中より大杉に婦人の同伴者があると聞く。不快な面持ちながら案内される
     伊藤は神近の存在を知るとその場をはずす
     午後9時、伊藤は逗子発の汽車で東京へ帰ると装い、途中、鎌倉で引き返す
     その夜は、3人枕をならべて寝る
     11/08伊藤は午前7時逗子発の汽車で帰京
     のち大杉と神近は変わった様子もなく過ごす
     11/09午前2時3分頃、神近が大杉を刺傷
     長さ8寸あまりの短刀をもって左頸部にひと突きついてえぐる【右下顎骨隅の下を刺す】
     長さ1.8センチ、深さ2.5センチの傷を負わせる【深さ2寸の重傷をおわせる】
     神近は雨中をはだしで葉山派出所に自首【葉山署?】日蔭茶屋事件
      1906(明治39)大杉が堀保子と結婚
      1915(大正04)11/大杉と神近の恋愛がはじまる
      1916(大正05)02/辻潤の妻伊藤野枝と恋愛関係に
      1916(大正05)02/大杉が神近に伊藤との関係を告白する
      1916(大正05)04/伊藤が辻の家をでる
      1916(大正05)06/頃大杉が堀保子に神近と伊藤との関係を認めてくれるよう願いでる。堀は反対する
      その複雑な女性関係を新聞でなじられ騒がれることに
      事件の発端は堀保子、伊藤野枝、神近市子の大杉に対する多角的恋愛のもつれ
  11/09神近市子に刺された大杉がリヤカーで逗子の千葉病院に運ばれる【逗子の千葉病院までは自動車で運ばれる?】
  11/09大杉栄を刺した神近市子が雨中をはだしで葉山派出所に自首【葉山署】
     1917(大正06)02/19第1回公判が横浜地方裁判所で開かれ取り調べが進む
     03/02第2回公判が開かれる。検事による論告がある
     03/054年の刑を宣告される。主任弁護士鈴木富士弥のすすめで控訴する
     03/07保釈をうけて宮島資夫夫妻宅に引き取られる
     06/17控訴公判の結果、刑期は2か年に。刑に服することに
     のち横浜に収監される
     10/八王子女監獄に服役する
     1919(大正08)10/0231才の神近が2年の刑期を終え出獄する
  11/09堀保子が「オホスギビヨウキ、オイデマツ、キトクノオソレナシ」の電報を受け取る
     堀が堺利彦と売文社へ行くと山川均が電話で事の次第を聞いているところ
     堀は大杉からの電報で売文社に来あわせた宮島資夫と逗子へ急行
     病院には大杉に付き添う伊藤野枝の姿を発見
     そこへ馬場弧蝶と荒畑寒村がくる
     堀と宮島はいったん日蔭茶屋へ引き上げ、そのまま1泊する
     11/10夕方、山川が日蔭茶屋にやってくる
     横浜に住む大杉の弟勇が日蔭茶屋にやってくる
     山川と遅れて勇が病院へ向かう
     2、3時間後、山川、村木源次郎、勇らが日蔭茶屋に戻ってくる
     その夜、堀は山川らと逗子をあとに東京に帰る
     大杉の弟勇も横浜で降りず東京へ
  11/10『都新聞』に葉山分署で尋問された神近市子の犯行動機が載る
     「大杉が、二、三ケ月前から特に野枝を愛し、自分を疎んずるようになったので、
     嫉妬のあまり殺意を起こし、七日に葉山に来たのも、大杉を殺す積りでした」
  日蔭茶屋事件後事件はジャーナリズムの好餌となり、大杉栄が集中攻撃を浴びる
  11/15堺利彦宅に山崎今朝弥、馬場弧蝶、荒畑寒村、山川均らが集まり、堀保子のための善後策を講じる
     のち引き続き2、3回の相談の場が設けられる。堀保子の離別する意志はかわらず
     のち大杉栄が東京に帰ってくる
     山崎今朝弥が間に入り交渉
     連帯の責務やその他金銭上の問題に関して多少の条件を約定
     12/19大杉栄と堀保子が正式に別れる【1917(大正06)1月?】
  11/21大杉栄が逗子の千葉病院を退院。伊藤野枝とともに菊富士ホテルへ帰る
     どん底の生活がはじまる

  11/『廓清』第6巻第11号に写真が載る
     10月21日、矢島楫子を先頭にした婦人200余人のデモ行進の模様が写る

  11/事件のあと日蔭茶屋に勤める女中のあいだで噂が流れる
     「大杉が病院で『神近が自殺するのではないか』と心配している」
  11/入院中の大杉は日蔭茶屋の主人に「獄に入っては市子も寒かろうから蒲団と毛布の差し入れをたのむ」と気を使う
  12/10大杉栄が伊藤野枝とともに栃木県下都賀郡藤岡町(旧谷中村)に谷中村遺民を名乗る嶋田宗三を訪ねる
     宗三は留守。兄熊三に会い、田中正造霊祠に詣でる
     のち古河町に1泊して帰京
  12/13名古屋に住む大杉栄の末妹で18才の秋が自死
     結納が取り交わされるなど結婚話が進行していたものの日蔭茶屋事件により破談となる
     大杉は葬儀のため名古屋へ。横田淙次郎に会う。12月17日に帰京
  12/19大杉栄と堀保子の離婚が成立する
     【大杉は堀へ向こう2年間、月20円の生活費の負担を約する? 支払いは滞る】
  平塚らいてうが奥村博が入院する南湖院近くの借家に移転する
     奥村博が肺結核のため入院したのは1915(大正04)9月
     1917(大正06)夏/平塚が茅ケ崎を引きあげ東京の滝野川に1戸をかまえる
  平塚明と共同生活を営む奥村博が姓名学により博史と改名する
  12/平塚らいてうが『中央公論』12月号に小説「厄年」を発表する
  日本救世軍がウイリアム・ブース昇天記念事業として結核療養所を設立する計画をたてる
     結核は「世界民衆の病患で人生最大の強敵」といわれる病
     日本でもその死者1時間毎に12人、5分に1人の割りと恐れられる
     東京府豊多摩郡中野和田堀村に結核病棟150人の療養所の計画をたてる
     イギリスの婦人ミス・エミリーから3万円の寄付があり、別に7万円を国内募金とする
     大隈重信、渋沢栄一、石黒忠悳、森村市左衛門、島田三郎らが発起して募金にあたる
     のち第1次世界大戦が起こりイギリスからの補助金や寄付金が減額される

  東京市深川区、洲崎遊廓の火災で八間通りが焼かれケコロ一帯が全滅する
     大八幡楼はまぬがれる
     まもなく大八幡楼の2代目娘婿にくびにされた風呂番の男の怨みかい、放火され全焼する
     のち大八幡楼の跡地に30以上の妓楼が建つ
     大八幡楼がいかに巨大な見世か、その規模が知れる
  各政党が飛田遊廓問題調査委員を設け調査にのりだす
     立憲政友会が反対決議を発表、政府を糾弾する
     「当局者が多数教育機関の所在地に近接する飛田に新遊廓地を指定せるは、風教を破壊し自ら訓令して
     蹂躙するの処置にして、失当の甚だしきものと認む。政府は速に之が是正の途を薨ずべし」
     明治32年内務省訓令第32号、明治32年文部省訓令第4号、明治33年内務文部大臣内訓に違背したとつめよる

  この年108件の同盟罷工があり参加人員は8413。組合の数は13
  この年の小作組合数は88


1917(大正06)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅
  《内務大臣》[第34代]後藤新平
  《警視総監》[第24代]岡田文次
  《内務省警保局局長》永田秀次郎


  01/26堺利彦が東京市から総選挙に東京市選出議員として立候補
     山崎今朝弥、吉川守圀、高畠素之が選挙委員に。日本社会党有志の名で各紙に推薦広告が載る
     のち8回の演説会は大入り満員【演説会はすべて中止?】
     04/20投票が行なわれ、翌日開票
     東京市人口、約230万人のうち有権者数は3万7203人。定数は11
     東京市でのトップ当選は2676票を獲得した鳩山一郎
  01/「売文社」を社会主義運動から分離、堺の自宅に再興した由分社で引き継ぐ
     「売文社」は堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     1918(大正07)06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に
     同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
  01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
  01/『新社会』第3巻第5号で日蔭茶屋事件の原因となる大杉栄の女性問題を特集する
  01/前年12月に東京法律事務所を脱退した山崎今朝弥が平民法律所を開設する
     法律所は加藤時次郎の平民病院に付設する弁護士事務所
     社会主義弁護士事務所のはじまりとなる
     のち年内に山崎の個人誌で平民法律所の機関誌『平民法律』を創刊する
  01/堀保子が雑誌『新社会』に大杉栄との別離を公告する
  01/渡米していた「友愛会」の鈴木文治が前回よりも一層の効果をあげて帰国
     1回目の渡米は1915(大正04)6月19日から1916(大正05)1月4日まで
     アメリカでは加州労働大会、全米労働大会、国際海員同盟大会などに出席する
  01/「友愛会」の会員数が3万を突破する盛況に
  01/1916(大正05)8月26日に発会した職工組合期成同志会の会員数が1500人に達する
     中頃/財政が行き詰まり機関誌を休刊に
     年末/種々な事情のため解散することに【自然消滅?】
     のち堂前孫三郎、坂本孝三郎らは解散後も汽車製造会社内に労働問題研究会を組織し初心を貫き活動を続ける
     1919(大正08)05/日本職工総同盟大阪鉄工組合として復活する。幹部は横田允隆、坂本孝三郎ら

  02/上旬土佐で材木商を営む中川藤太郎が廓清会本部に来訪、伊藤秀吉が応対する
     中川は飛田問題の事情を熱心に聞く
     のち中川は実地踏査のため大阪に二度赴く
     03/07中川が三度目の大阪来訪
     現場で小刀にて左の小指を切ろうとしたところ、骨がかたくて切れず
     石を拾い小刀をたたいても及ばず、付近の民家にて包丁やわ借り受け切断
     指定地を縦横に歩き滴る血汐にて「祝融來」の3文字を2万坪いっぱいに記す
     中川は声高らかに叫ぶ「速やかに廃止しなければふたたび火災が大阪市を灰燼にするだろう」
     のち中川は故郷の山に籠もり精神を傾倒。『志士の重来を望む』と題する一文を草する
     04/20頃中川が廓清会本部へ。伊藤秀吉に会えず、伊藤の私宅を訪ねるも不在で矯風会に赴く
     中川は久布白落実と居合わせた伊藤との会見を得る
     中川は『志士の重来を望む』を携え上京

  02/11日本救世軍が機関誌『ときのこゑ』禁酒号を発行する

  02/14洲崎遊廓の弁天町1丁目14番地、並八幡楼の湯殿から出火
     折からの西風に火は勢いをまし廓外へも類焼し全焼が90戸、半焼3戸、約100万円の被害額に
     並八幡楼に隣接する沢梅川楼、杉戸楼、柏楼、明石楼と燃え移り同番地の11戸を焼く
     1間幅の道を飛び火し15番地の倉萩原楼に続く10戸をひとなめ16番地の32戸と17番地の新八幡楼を類焼
     16番地には有名な甲子楼、平野楼の大見世があり、西側の海岸に面したケコロ見世32軒も焼失する
     幸いなことに娼妓から番頭、下新にいたるまで怪我人は1人もでず、各妓楼の娼妓は全員洲崎病院に避難する

  02/17明治大学生の佐々木味津三らが主催する文芸講演会に大杉栄が招かれる
     講師は馬場孤蝶、生田長江、有島生馬、紀平正美
  02/19大杉栄を刺した日蔭茶屋事件で犯人神近市子に対する第1回公判が横浜地方裁判所で開かれる
     03/02第2回公判が開かれる。検事による論告がある
     03/054年の刑を宣告される。主任弁護士鈴木富士弥のすすめで控訴する
     03/07保釈をうけ保護者の役を引き受けた宮嶋資夫方に同居する
     06/17控訴公判の結果、刑期は2か年に。控訴を取り下げ刑を受けることに
     のち横浜の根岸監獄に収監される
     【06/18神近が東京控訴院の判決に上告のち取り下げる?】
     10/03東京監獄八王子分監女監獄に服役する
     1919(大正08)10/0231才の神近が2年の刑期を終え出獄する
  春浅い頃/近藤憲二と久坂卯之助が本郷帝大前の銀杏並木で大杉栄に出会う【2月末? 3/中頃?】
     大杉は古ぼけた筒袖のドテラを着て散歩
     2人は大杉にうながされて菊坂町の菊富士ホテルへいく。近藤が初めて伊藤野枝に会う
     この頃、大杉は完全に孤立状態。訪ねるのは村木源次郎と荒川義英くらい
  03/08ロシアの首都ペトログラードで約8万人の労働者がストライキを行なう
     「パンをよこせ」「戦争反対」を掲げ大規模なデモが行なわれる
     03/09ストライキに参加する労働者の数は約15万人に。デモのスローガンには「専制打倒」も現われる
     03/10ストライキは全市をおおい、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超える
     03/12首都の軍隊の多くが革命側につき政治犯を釈放、政府の要人が続々と逮捕
     わずか1週間で首都は完全に労働者と反乱軍によって占拠される
     労働者、兵士は1905年の第一革命の例にならいソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成
     ときに皇帝ニコライ2世は革命勃発時、前線の大本営に
     03/12事態の深刻さを認識したニコライ2世は軍に首都進撃の命令を下したが遅く
     03/15ニコライ2世は退位勧告を受け入れて弟のミハイルに譲位。翌日、ミハイルは辞退
     300年続いたロマノフ朝は崩壊。三月革命
     三月革命後旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦に
     十一月革命後ニコライ2世は監禁、内戦中に家族とともに革命派によって処刑される
     10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
  03/14室蘭日本製鋼所3千人賃上げ要求ストライキ「友愛会」が計画した最初のストライキとなる
  03/15山路愛山[1865・01/23《元治01・12/26》生]が54才で病死
  03/24大杉栄が菊富士ホテルをでて、本郷区菊坂町94番地の颯【ママ?】左トヨ方へ移る
     ここも留まることなく転々とすら
  03/雑誌『中央公論』3月号に大杉栄の前妻堀保子の「大杉と別れるまで」が掲載される
  04/12アメリカのオレゴン州ポトランドで橘惣三郎とアヤメの間に宗一が生まれる
     アヤメは大杉栄の末妹
     1923(大正12)09/16関東大震災の混乱に乗じて、甘粕正彦憲兵大尉により大杉栄、伊藤野枝とともに虐殺される

  04/25『大阪毎日新聞』に「飛田遊廓を呪カ咀す、指定地に祝融來と血書」と2段抜きの記事が載る

  04/救世軍の山室軍平がシベリア経由で3回目の渡欧
     このころ03/ロシア皇帝が退位、ロマノフ王朝が断絶、
     04/アメリカがドイツに宣戦、レーニンが亡命地スイスから祖国へ帰国、など慌ただしい動乱が続く
     のち山室はロンドン滞在中に空襲を経験する
     07/アメリカへ
     山室は至るところで邦人から大歓迎を受ける
     約2週間に3700マイルを旅行し17都市42回の説教を行なう
     09/5か月ぶりに帰国
  04/欧文植字工の組合「信友会」の発会式が盛大に行なわれる
     幹事長に杉崎国太郎、副幹事長に水沼辰吉、編集長に伊藤兼次郎、
     会計に永井●【金偏に圭】造、庶務に立田泰が選ばれる
     のち勧誘の檄文をまき組合員が650人を越すことに
     1918(大正07)01/神田区の南溟倶楽部で「信友会」の大会が開かれる。会の勢いはますます盛んに
     組織を全印刷工に広げるため日本印刷工組合信友会と改称。会員数約650
     03/機関誌『信友』が創刊される
     08/米騒動が起き、関係ない信友会員が拘引、留置される
     多数の会員が恐怖と誤解から脱会者が続出
     のちもとの欧文工だけが残ることになり、幹部は総辞職
     会務は常務員として立田泰と永井●【金偏に圭】造がみることに
     1919(大正08)「信友会」が再び運動に活気を取り戻す
     10〜11/8時間制要求で長期一斉ストを打つまでに回復する

  04/廓清会の機関誌『廓清』第7巻第4号28ページに1通の手紙の一部が掲載される
     書いたのは新吉原江戸町2丁目19番地の中村楼こと齋藤松治郎方の出稼ぎ娼妓常盤木
     常盤木は1914(大正03)10月16日の午前5時、自由廃業を求めて果たせず、いち遊客と情死する
      (前略)うつの、おかあさんも、四日から、とこに、
      ちいて、をりましたが、さて、いまと、なりましと、
      いまにも、しれない、おかあさんの、いのづなのでし
      それでしから、いきたい、くとも、いくことわ、でき
      ませんので、じぶんも、からだが、よわいのでしから
      いくたいとわ、をもへません、からだがよわくて、一
      日みせを、でると、三日も、四日も、やしみましよ、
      でしから、わたしも、いまゝでわ、どうしよかと、い
      ろいろ、かんがいましたが、つよと、よその、人に、
      きゝましたので、それお、おねがい、しまし、どーか
      ふびんと、おぼしめしが、ありましたならば、おねが
      い、もしまし、くれぐれも、おたのみ、もしまし、ね
      て、をれば、ほうばいの、人にわ、みじめにしられ、
      うつの、しじんに、わ、いろいろの、こごとお、いわ
      れまして、じじに、わたしが、つらいのでしよねてお
      れば、じぶんで、つこう、こじかいにも、まごじくよ
      な、ありさまでしそれでしから、じぶんわ、人りで、
      いくら、かんがいても、かんがいよが、ありませんで
      しから一そしんで、しまうかと、おもうたことが、い
      くら、ありましか、しれませんでし、それお、またか
      んがい、なおして、よその、人に(下略)
     常盤木は大正元年の春、東北の寒村から周旋屋のくち車にのせられ新吉原へ
     のち、丈夫な体も廓稼業の日々の不摂生から病魔に襲われることに
     あるとき、いち遊客から自由廃業をすすめられ、覚束ない筆をはこび救世軍に手紙を送る
     救世軍の伊藤富士雄が訪ね手続きは進むものの、肝心な最後のひと言を言い切らず
     「自分はいかにしても廃業をする」がないため廃業にはならず
     常盤木は煩悶するも解決する道が得られずに情死を企てる
     剃刀でたがいに咽喉部の動脈を切断し絶命
  05/01米国曲芸飛行家のアート・スミスが大阪から郊外にむけ上空を飛行する
     スミスは反対運動に助力し空中曲芸を披露しながら「飛田遊廓反対」のビラをまく

  05/07在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催する
  06/八幡製鉄所に最初の組合となる友愛会八幡支部が結成される
     支部長は元八幡村長の芳賀種義
  06/神近市子が日蔭茶屋事件で2年の刑を受けてから10月3日に下獄するまでの間に「引かれものの唄」を書き上げる
     事件についての赤裸々な告白取り下げ反省が綴られる
     10/30法木書店から『引かれものの唄』が発行される。定価95銭

  07/廓清会の機関誌『廓清』第7巻7号が飛田遊廓設置反対同盟会の演説会の動向を伝える
     大正5年4月から6月年3月まで大演説会144回、弁士466人、聴衆は5万4400人を数える
     新聞も『大阪朝日』『大阪毎日』のみならず『読売』『中外商業新新報』『土陽』『福井』などの新聞も報道し世論を高める

  07/05大杉栄が北豊島郡巣鴨村大字宮仲2582番地に移る

  07/05飛田遊廓設置反対同盟会が取消請願書を第39回帝国議会会期中の貴族院と衆議院に提出する
     取消請願書には府民3千余人の連署が記される
     江原素六の紹介により貴族院へ、島田三郎の紹介により衆議院へ
     のち衆議院では天下の問題となった事件として請願委員会の採択するところに
     のち衆議院は高松正道他議員35人の賛成を得て質問書が提出される
     のち3回にわたり政府委員問答が行なわれる
     「天王寺村貸座敷免許地の指定は既定の事実なるを以て更に、之を廃止するは考慮を要すべきものと認む」
     政府の答弁は世論をおそれ「廃止の必要を認ず」とはいわないまでも「考慮を要す」では結論はつかず

  07/27岡本頴一郎が諫早監獄で病死[1880(明治13)09/12・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  07/29〜08/02富士瓦斯紡績でストライキが起きる
  夏/平塚らいてうが茅ケ崎の借家を引きあげ東京の滝野川に1戸をかまえる
     平塚が茅ケ崎に移ったのは奥村博史が肺結核を発病し南湖院に入院したため
     1916(大正05)に移転
  08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     1918(大正07)06/『新社会』の発行を世民社から売文社に戻す
  09/02東京印刷工同盟大講演会が開かれる
     09/10印刷工組合設立協議会を経て創立委員会が開かれる
     10/15友愛会最初の職業別組合東京印刷工組合が創立
     理事長の鈴木文治ほか本部員が多く役員に加わる
     職業別組合組織の方針にもとづいた本部主導の共済組合的色彩が濃い
     会員は約300人で友愛会機関誌印刷版も発行される
     1918(大正07)01/大阪に関西出張所が設けられ関西と九州方面の運動を統括する
     02/本部に人事相談部が設けられる
     ほかに労働紛議、身上相談、求人求職、法律相談、技術相談、工場管理などの諸事業を開始する
     03/東京府下の紡績職工により友愛会紡績労働組合が生まれる
     06/6月以降活動の記録はなく自然消滅
  09/18辻潤と伊藤野枝の協議離婚が成立する
  09/24平塚らいてうが奥村博史との長男敦史を生む
     1941(昭和16)平塚明が入籍、本名奥村明となる
     長男の兵役を前に私生児が軍隊内で不利益にないように
  09/25大杉栄と伊藤野枝のあいだに長女魔子が生まれる[1968(昭和43)09/28没]
     1919(大正08)12/24次女エマが生まれる
     エマの名は伊藤が心酔していたロシア出身でアメリカ在住のアナキスト、エマ・ゴールドマンによる
     のち大杉の妹牧野田松枝の養女となり幸子と改名
     1921(大正10)03/11三女エマが生まれる
     1922(大正11)06/07四女ルイズが生まれる[1996(平成08)06/28没]
     ルイズはパリ・コンミューンで名を馳せたアナキスト、ルイズ・ミシェルにちなむ
     1923(大正12)08/09長男ネストルが生まれる[1924(大正13)08/15没]
  09/30静岡県の沼津付近に台風が上陸。関東地方から仙台方面へ移動する中で各地に集中豪雨をもたらす
     東京湾接近時には満潮と重なり深川や品川で高潮が住宅地に押し寄せ500人以上が溺死
     横浜港でも3100隻以上の船舶や艀が風浪により転覆、多数の沖仲仕や水上生活者が犠牲となる
     千葉県浦安町は全町が水没
     江戸時代から東京湾で数百年と続く行徳塩田は、堤防が破壊され製塩業の歴史に幕をおろす
     死者、行方不明者数1324人、全壊、流出家屋約3万6500戸、床上、床下浸水約30万3千戸
     明治43年大洪水とは違い沿岸部での高波による被害が目立つ水害に

  09/30夜半、東京を直撃した大暴風雨で洲崎遊廓が大被害を被る
     発生した大津浪によりで洲崎遊廓では死者数十人をだす
     大津浪が襲来し深川区内が浸水。畳50万枚が浸る
     災害後の東京15区内の塵芥は東京市1年分をはるかに上回る量に

  09/末大杉栄の窮状を見かねて村木源次郎が同居する

  10/以降飛田遊廓設置反対同盟会の首脳部はもはやこれまでと悲壮な決心をする
     それは最終手段として天皇陛下に上奏文を奉ること【10/以降?】
     矯風会の林歌子は一大長文をしたため廓清会の島田三郎が上奏文を草することに
     のち島田三郎が9月1日の日付で「飛田貸座敷指定地取消に関する上奏文」をまとめる【09/01?】
     署名は宮川経輝、島田三郎、矢島楫子、安部磯雄、林歌子、山室軍平(外略)
     のち宮中への伝達方法を尽くすも無効になる

  10/01東京付近に瞬間風速40メートルを越す台風により大災害を被る
     救世軍は直ちに罹災者2万戸に救援物資を配る
  10/10加藤時次郎の『生活(くらし)の力』第77号を『平民』と改題する
     『生活の力』の創刊は1914(大正03)2月10日
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
     1925(大正14)04/10『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
  10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
     10/23党中央委員会でレーニンの主張する武装蜂起の方針が決定される
     10/26ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11/06に決行
     11/06早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じる
     蜂起を煽動したとしてボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃
     対してボリシェヴィキはレーニン・トロッキー指導のもとで武装蜂起
     夜半までに駅、郵便局、電信局、国立銀行など首都の主要な拠点をほとんど抵抗を受けることなく占拠
     11/07午前10時、臨時政府が打倒したことでペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は権力を掌握したと宣言する
     11/07午後9時、臨時政府の閣僚たちがこもる冬宮への攻撃が始まる
     11/08午前2時、冬宮を占領し全閣僚が逮捕される。ケレンスキー首相は脱出
     冬宮を攻撃する砲声がとどろく中、第2回全ロシア=ソヴィエト大会が開かれる
     大会の代議員650人のうちボリシェヴィキは390人を占める
     メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難し退場、新政権の成立が宣言され「平和に関する布告」「土地に関する布告」が採択
     人民委員会議(ソヴィエト政府)の議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出される
     1922(大正11)12/30ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
     世界初の社会主義国となる
  10/24春陽堂がクロポトキンの『相互扶助論』を大杉栄が訳して刊行。定価2円

  10/大阪府知事の大久保利武が突然辞職。置土産として飛田遊廓指定地への建築を許可する
     のち大久保は栄子夫人と3人の愛児と東京に立ち去る
     【辞職は12/17?】
  10/30飛田での遊廓建設工事がはじまる
     【12/17大久保俊武府知事が辞職、置き土産として飛田遊廓の建設を許可する?】
     飛田の大地主連中で組織した阪南土地株式会社は貸座敷業者に1軒につき2500円の資金を供給する
     のちまず106戸の妓楼が完成する
     のち順次、工事が進む
     1918(大正07)12/27飛田の広大な土地にコンクリート塀がめぐる2万2600坪の飛田遊廓が完成
     100軒あまりの妓楼がならぶ
     昭和初期大阪飛田遊廓の妓楼の数が200軒を超える。「日本最大級の遊廓」といわれるようになる
  10/30飛田遊廓建設工事開始の報が大阪矯風会支部事務所に届く
     【12/17大久保俊武府知事が辞職、置き土産として飛田遊廓の建設を許可する?】
     報に接した林歌子と応援に来阪中の久布白落実は声もでず
     遊廓建設許可の指令を取り消すことはできず

  11/1916(大正05)10月に久坂卯之助らが創刊した『労働青年』が終刊となる

  12/17進退きわまった大阪府知事の大久保利武が突然の辞職
     置き土産として飛田遊廓指定地の建設を許可する
     【辞職は10/?】
     【飛田の遊廓建設工事がはじまるのは10/30?】
     のち大久保は栄子夫人と3人の愛児をつれ東京に立ち去る

  12/29大杉栄が南葛飾郡亀戸町2400番地に移る
  大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞の全村が3年かけて平野部に移転
     洞部落は神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を眼下にみる位置にあり陵の拡張を目指す政府の意向によるもの
     畝傍、久米、大久保の一般村の民家194戸と拡張区域外の46戸の240戸、あわせて田畑、山林、墓地なども移転
     のち他地域住民の所有地を含めた洞の全域が宮内省からの下賜金26万5千円で買い取られる。のち5万円追加
     のち住民には代替地が与えられることに。原則的に小作人、借地人を含めた全住民に土地と瓦葺の住宅が支給
     1968(昭和43)02/雑誌『部落』2月号に部落問題研究所の鈴木良が「天皇制と部落差別」を発表
     洞部落移転問題は国家権力による強制的な執行が通説となる
     部落問題の原因が天皇制にあるとするときの重要な議題として知られることに
     のち奈良県部落解放研究所紀要に部落移転問題の根底をくつがえす反証論文が発表される
     2号[1980(昭和55)10/]、5号[1983(昭和58)12/]、6号[1988(昭和63)5/]
     発表したのは移転後の村に生まれ、鈴木の説に疑問をもった辻本正教
     強制執行ではなく陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めたとの事実が明らかにする
     1990(平成02)11/23解放出版社が論文をまとめ『洞村の強制移転』を発行
  雑誌『中外』の創刊にかかわった堺利彦が、第1号から第8号までジャック・ロンドンの「野性の呼び声」を訳載
     1919(大正08)05/叢文閣より単行本が刊行。あとがきは作家の有島武郎
  大逆事件をモデルとした沖野岩三郎の小説『宿命』が大阪朝日新聞の懸賞に当選
     1920(大正09)12/30小説『宿命』が福永書店より発行する
  「愛国婦人会」が欽定を改正。他の救護事業にもあたるようになる
     婦人職業紹介、花嫁紹介や農村託児所の社会事業など幅広い活動を行なう
     1931(昭和06)満州事変後、ファッショ体制作りに協力し婦人報国運動を起こす
     未成年の女子を集めて愛国子女団(愛国女子団とも)を結成
  この年398件の同盟罷工があり参加人員は5万7309。組合の数は14
  この年の小作組合数は88


1918(大正07)

  《総理大臣》[第18代]寺内正毅(→09/29)、[第19代]原敬(09/29→)
  《内務大臣》[第34代]後藤新平、[第35代]水野錬太郎(04/23→)、[第36代]床次竹二郎(09/29→)
  《警視総監》[第24代]岡田文次、[第25代]岡喜七郎(09/30→)
  《内務省警保局局長》永田秀次郎(→10/03)、川村竹治(10/03→)


  01/01大杉栄と伊藤野枝が雑誌『文明批評』を創刊。A5判で62ページ
     編集兼発行人は大杉栄、印刷人は伊藤野枝
     ▽表紙裏 三越呉服店
     ▽前カラー1ページ 岩波書店「夏目漱石の本」
     ▽前カラー2ページ 書店アルス 高浜虚子「漱石氏と私」
     01》僕等の自負(巻頭語)栄 01》死の床の上のプルウドン(挿絵)クウルベ筆
     02》正義を求める心(評論)大杉栄 06》おれはあいつを憎む(詩)林倭衛
     07》彼女の真実−中条百合子氏を論ず(評論)伊藤野枝 15》はあ真当な事だ(感想)栄
     16》社会問題か芸術問題か(批評)大杉栄 18》悪魔の幻影(散文詩)荒畑寒村
     20》転機(小説)伊藤野枝 39》社会主義を退治せよ(雑録)栄 40》妙なお客様(雑録)野枝
     42》飛行術的言論家(批評)大杉栄 43》大杉栄著訳目録 44》最近思想界の傾向(評論)栄
     51》巣鴨から(上)(雑録)栄 52》現代文明の経済的基礎(解説)山川均
     61》巣鴨から(下)(雑録)栄 62》発行兼編輯人から
     ▽後カラー1ページ 春陽堂 大杉栄訳、クロポトキン原著「相互扶助論」
     ▽後カラー2ページ 阿蘭陀書房 大杉栄訳、ロメン・オラン著「民衆芸術論」
     ▽裏表紙裏 法木書店 神近市子「引かれものの唄」
     ▽裏表紙 ライオン歯磨 
     裏表紙裏は大杉と伊藤が発刊した雑誌に大杉自身が主人公のスキャンダラスな本の広告
  01/パリ郊外に寄宿する石川三四郎のもとに片山潜からロシア革命への参加要請を受ける
     寄宿先の病床の夫人を残しておけないと謝絶する
  01/神田区の南溟倶楽部で欧文植字工組合「信友会」の大会が開かれる。会の勢いはますます盛んに
     組織を全印刷工に広げるため日本印刷工組合信友会と改称。会員数約650
     03/機関誌『信友』が創刊される
     08/米騒動が起き、関係ない信友会員が拘引、留置される
  01/友愛会東京印刷工組合が大阪に関西出張所を設け関西と九州方面の運動を統括する
     02/本部に人事相談部が設けられる
     ほかに労働紛議、身上相談、求人求職、法律相談、技術相談、工場管理などの諸事業を開始する
     03/東京府下の紡績職工により友愛会紡績労働組合が生まれる
     06/6月以降活動の記録はなく自然消滅
  02/01『文明批評』第2号が発行される
     ▽表紙裏 東雲堂書店「縮刷啄木歌集」
     ▽前カラー1ページ 春陽堂 大杉栄訳、クロポトキン原著「相互扶助論」
     ▽前カラー2ページ 阿蘭陀書房 大杉栄訳、ロメン・オラン著「民衆芸術論」
     01》僕は精神が好きだ(感想)栄 02》雇人の盗み(翻訳)アナトル・フランス、山川菊栄訳
     07》盲の手引きする盲−吉野博士の民主主義堕落論(評論)大杉栄
     14》わが生よ・嵐・魂の爆発(詩)林倭衛 16》間抜けな比喩(評論)野枝
     18》国家学者R(梗概)栄 20》転機(小説)伊藤野枝 38》亀戸から(雑録)栄
     39》大杉栄著訳目録 40》階級的反感(感想)野枝 42》小紳士的感情(評論)大杉栄
     48》新刊紹介 50》資本制度の解剖(解説)山川均 59》取次販売 60》発行兼編輯人から
     ▽後カラー1ページ 春陽堂 ドクトル・メヂチーネ「変態性慾論」
     ▽後カラー2ページ 書店アルス 高浜虚子「漱石氏と私」
     ▽裏表紙裏 法木書店 神近市子「引かれものの唄」
     ▽裏表紙ライオン歯磨
     創刊号に続けて裏表紙裏の広告に法木書店発行の神近市子「引かれものゝ唄」が入る
     第3号編集され印刷されて製本所までいって押収される。廃刊に
  02/15下谷区上野桜木町の有吉三吉方で労働問題座談会が開かれる
     大杉栄、和田久太郎が出席する
     のち座談会はほぼ月2回開催され、労働運動へ進出する拠点となる
  02/21以降久坂卯之助と和田久太郎が亀戸町の大杉栄宅に同居する
  02/堺利彦が『新社会』2月号の誌上に論文「政治運動と経済運動」を書く
     従来の政治行動派と経済行動派との理論的対立の誤謬を正しボルシェビーキの政治行動について正しい見解を示す
  02/月2回の無政府主義に関する研究会を開始。20人内外が参加
  03/01労働問題座談会からの帰途、大杉栄、久坂卯之助、和田久太郎、大須賀健治が泪橋の木賃宿へ
     途中、吉原大門の前に人だかりがあり、のぞいて見るとひとり酔っ払う労働者が警官に責められている
     飲み屋のガラスを割るも弁償する金がないよう
     大杉が群衆をさとす
     「ぼくが代わりに弁償する、こんなことでいちいち巡査を呼んできてはいけない」
     横合いから巡査がくってかかる「きさまは社会主義者だな」
     「そうだ、それがどうしたんだ」大杉が開き直る
     「社会主義か、よし、それじゃ、拘引する。いっしょにこい」
     大杉は公務執行妨害の名目で連れの和田、久坂ともども日本堤署に拘留2泊
     警視庁に1泊、東京監獄に5泊することになる
     【03/04東京監獄へ移される03/09釈放される?】
  03/15荒畑寒村が山川均と協力し近藤憲二の援助を得てリーフレット『青服』を『新社会』の附録として発行
     『青服』は作業服を意味する
     のち毎号連続して発禁に
     07/18第4号で廃刊となる
  03/20赤坂区一ツ木町55番地の新日本評論社(福田狂二宅)で文明批評講演会を開く
     警察の干渉により座談会に切り替える
  03/渡辺政太郎らのアナキズム研究会と大杉栄らの労働問題座談会が合同して「北風会」を結成
     【「北風会」の名称は6月15日から?】

  04/02〜05大阪市内東区玉造のウヰルミナ女学校の講堂で第26回矯風会全国大会が開かれる
     04/03参加者一同が林歌子の案内で飛田遊廓地の塀外をめぐる
     飛田を見下ろす阿倍野の丘にのぼり外人墓地に集合
     工事が進む妓楼を眼下に飛田遊廓建設阻止記念祈祷会を催す【飛田遊廓建設阻止記念祈祷会?】
     眼下に妓楼の工事がすすむ。婦人は泣きながら肩を寄せあい神に祈る
     久布白落実が立ち上がる
     「私共は法治国の民です。法治国にあって参政の権利をもたないのは、兵器なしでの戦争でしょう。
     勝利はまことに得がたいことです。今後私共も、この参政権を獲得することを我らの目標の一つに加えましょう」
     みな賛成し、以降婦人参政権獲得は公娼廃止とともに婦人矯風会の主要目標のひとつになる
     飛田遊廓設置反対運動に幕がおりる

  04/07赤坂区台町にある福田狂二が借りていた邸宅で「露国革命記念会」が開かれる【新日本評論社で?】
     堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、斎藤兼次郎、吉川守圀、橋浦時雄、久坂卯之助、和田久太郎、
     村木源次郎、近藤憲二、小池潔、中村勇次郎、服部浜次、馬場孤蝶、北原龍雄、尾崎士郎ら
     大杉栄を事実上の発起人として服部浜次が司会、総勢28人が集う【約40人が出席?】
     堺利彦と高畠素之は観桜会の帰りにお付き合い程度に会合する
     大杉栄と高畠素之が論争をかわす。アナ・ポル論争のはしりとなる
  04/09雑誌『文明批評』第3号が発売禁止となる
     製本所で押収され廃刊となる
  05/01大杉栄、和田久太郎、久坂卯之助が月刊『労働新聞』を創刊
     発行人/久板卯之助、編集兼印刷人/和田久太郎、大杉栄が協力
     労働新聞社は南葛飾郡亀戸町2400
     のち米騒動のあおりを受け停刊したままに
     のち2、3号と立て続けに発禁処分をうける
     のち警察と「ジゴマごっこ」が続く
     08/014号が発刊。発禁処分となり廃刊に
     新聞紙法違反で久板が禁錮5か月、和田が禁錮10か月に
  05/17渡辺政太郎が乾酪性肺炎で死去
  05/救世軍が大阪市西区泉尾に免囚及び微罪不起訴者救護施設「希望館」を落成させる
  06/15渡辺政太郎宅で開かれていた研究会は村木源次郎、近藤憲二、石井鉄治が主催となり引き継がれる
     渡辺の号から北風会と称し、小石川区指ケ谷町93番地の若林やよ宅(旧渡辺宅)で月2回続けることに
  06/29伊藤野枝が大杉栄との長女魔子を連れ郷里へ
     福岡県糸島郡今宿村大字谷1147番地へ避暑と金策に向かう
     07/11大杉栄は遅れて福岡へ
  06/本所区太平町1丁目50番地に東京市直営の太平特殊尋常小学校が開校する
  06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に。同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
     「売文社」は堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     1919(大正08)03/07高畠らが国家社会主義を唱えたことで内部分裂がおこり、売文社が解散する事態に
  06/『新社会』の発行を吉川守圀の世民社から売文社に戻す
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
  06/関東方面の労働団体と思想団体の有志により対露非干渉同志会が発会する
     各所で演説会を開く
     09/関西方面の労働団体や思想団体の有志により対露非干渉関西同志会が発会し、各所で演説会が開かれる
  06/1917(大正06)10月15日に創立した友愛会東京印刷工組合が自然消滅
  07/08大杉栄が北豊島郡滝野川町大字田端237番地へ移る
  07/11大杉栄が林倭衛と福岡の今宿へ向かう
     08/06大杉、伊藤、魔子の親子3人で今宿を発ち門司から海路神戸へ。大阪に宿泊
     08/11伊藤と魔子が帰京
     大阪の天王寺公会堂で犬養木堂(毅)の国民党が主催の「米価問題大演説会」が開かれる
     聴衆なかには大杉栄の姿も
     のち大杉は京都で山鹿泰治らに、大阪で岩出金次郎、逸見直造らに会う
     のち大杉が大阪での米騒動に遭遇、目撃する
     08/15大杉が帰京
  07/22夜、富山県下新川郡魚津町の漁民女房ら10数人が、北海道への米の輸送を中止し、住民に販売するよう嘆願
     巡回中の警官の説諭により解散となる
     のち住民らは集会をはじめる。米の販売を要望する人数はさらにふえる
     08/03中新川郡西水橋町で200人弱の町民が集結。米問屋や資産家に対して米の移出を停止し、販売するよう嘆願
     08/04『高岡新報』に「女軍、米屋にせまる」の記事が掲載される
     『高岡新報』は県外への情報発信で大きな役割をはたす
     08/06運動がさらに激しくなる。東水橋町、滑川町の住民も巻き込み1千人を超える事態に
     住民らは米の移出を実力行使で阻止し、1升40銭から50銭相場の米を35銭で販売させる
     08/07『高岡新報』を発売禁止処分に
     のち全国の新聞に「越中女一揆」として報道されることに。米価格の急騰に伴う暴動事件の発端となる
     石川県の『北陸毎日』『北国新聞』、大阪の『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』、東京の『東京朝日新聞』『東京日日新聞』など
     08/08滑川町の漁師の妻は直接行動に。米船三徳丸を襲い米を掠奪
     08/09『高岡新報』が社説「われらは信ず」発売禁止処分に対し抗議
     08/14深夜、米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達する
  魚津での騒動以降米騒動という名の暴動が全国に波及、大混乱になる
     08/09愛知、広島、和歌山
        ▽08/09名古屋で不穏な形勢が見えはじめる
        のち数日のうちに暴動化。群衆の示威行動は戸毎に投石し、交番や取引所を襲撃、暴行を極める
        のち警官に70余人の負傷者をだすも、軍隊の出動によりようやく鎮まる
     08/10京都、和歌山、岡山
     夜、名古屋鶴舞公園で米価問題の市民大会が開かれると噂が広まり約2万人の群集が集結
     京都では柳原町で騒動がはじまり米問屋を打ちこわすなどして1升30銭での販売を強要
     08/11大阪、広島、岡山
     08/12京都、東京、和歌山、愛知、広島、岡山、兵庫、奈良、三重、静岡、石川
        ▽08/12神戸の湊川公園に5万の群衆が集まるなか、社会主義者の藤田浪人らが指揮
        大阪朝日新聞社、神戸新聞社が鈴木商店を米の買い占めを行なう悪徳業者と捏造記事を書き焼き打ちに
        鈴木商店、神戸兵神館などを焼き打ち、1千人の警官が出動するも効果があがらず軍隊が出動
        08/13未明、なお終息せず
        08/14数万の群衆は湯浅商店を襲撃
     08/13京都、大阪、東京、和歌山、岡山、滋賀、岐阜、福島、福井、山口
     08/14大阪、東京、和歌山、愛知、広島、岡山、兵庫、奈良、三重、静岡、岐阜、福島、愛媛、香川
     08/15京都、和歌山、三重、静岡、岐阜、福島、大分、愛媛、山梨、宮城、高知、神奈川
     08/16福島、山口、福岡、神奈川
        ▽広島県三次町では群衆が電気会社を襲撃、器物を破壊し電線を切断
        町内は真っ暗に。さらに群衆は富豪や米屋を襲撃
        ▽富山市では群衆が蓮沼家を襲い米の廉売を迫る
        ▽岡山市では澤田家を焼き打ち、岡崎家の倉庫を破壊
        ▽和歌山市では宇治田家を襲い2万5千円の金をださせ、宮本家には2万円をださせる
     08/17東京、和歌山、福島、山口、福岡、新潟、長野、宮崎
     米騒動が炭坑の騒動へと飛び火。山口や福岡の炭坑で炭坑夫の賃上げ要求の暴動に転化
        ▽08/17福岡県の峰地炭礦をはじめ、糸田炭礦、八幡製鉄所、管牟田炭礦、方城炭鉱に暴動的同盟罷業がおこる
        のち付近数十の炭坑にも伝播する
        多くの暴動は軍隊の鎮圧によるも、賃金値上げの要求はほとんどが貫徹する
        ▽08/17山口県の沖山炭鉱の騒動は付近住民を加え数千人規模の騒動に発展
        群衆は米問屋、警察署を襲撃し、鉱主の家に放火。遊廓をすべて焼き払い、商店の商品を掠奪
        のち暴動は1か月続き軍隊の発砲にダイナマイトで対抗するも鎮圧する
        鉱夫に12人の死者と多数の負傷者をだす【13人?】
     08/18大阪、岐阜、福島
     08/19京都
     09/12三池炭鉱の騒動で全国50日間にわたる米騒動が終息
     米騒動は1道3府37県にわたり38市153町178村、計369か所にのぼる。参加者の規模は数百万人に
     軍隊が出動した市町村は3府23県、100以上に。出兵ピークの総数は2万2千人以上、出動総人数は延べ5万7千人以上
     検挙された人員は2万5千人を超え、8253人が検事処分を受ける。7786人が起訴され、うち700余人が騒乱罪により起訴
     【騒擾、殺傷、強盗、脅喝、放火、建造物破壊、脅迫などの罪状で検挙された者は7813人】
     第1審での無期懲役が12人、10年以上の有期刑が59人
     放火犯141人のうち第1審で死刑の宣告をうけた者は相当に
     米騒動に統一的な指導者はないものの一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2人が死刑の判決を受ける
     ▽全国の検事処分者8185人のうち、検挙、送検された部落民は887人で、全体の1割をこえる
      女性の検挙者35人のうち34人が部落出身者で、死刑判決を受けた2人はいずれも和歌山県の部落民
  07/文学、芸術運動の雑誌『民衆の芸術』が創刊される
     編集、発行人は大石誠之助の甥西村伊作の弟大石七分
     10/084号が発行される
     4回発行のうち2回が発禁となり廃刊に追い込まれる
  夏/第1次世界大戦の影響で米価が高騰
     中堅サラリーマンの月給が30〜40円、学生の下宿代3食つき10円前後の頃、4人家族の米代が15〜16円に
  救世軍は東京府と連絡をとり米廉売所9か所を設け約1580石を扱う
     木炭その他も取り扱う。あわせて大阪や千葉でも廉売を実施する
  08/02寺内正毅内閣がシベリア出兵を宣言する
     ロシア革命に干渉するため連合国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送る
     のちアメリカ、イギリス、フランスが撤兵したのちも日本軍は駐留を続ける
     1922(大正11)10/国内外からの非難に依り撤兵
     日本は兵力総数7万3千人、4億3859万円から約9億円の巨額の戦費を投入。5千人に近い死者をだす
  08/02シベリア出兵に対して進歩的与論は大義名分の立たない火事場泥棒的出兵として強く反対
     労働総同盟本部は中央委員会を開きシベリア出兵に対する2か条を決議する
  08/16大杉栄が板橋署に保護検束される
     08/21釈放される
  08/19東京市神田区錦町3丁目の錦輝館が火災により焼失する
     錦輝館は1891(明治24)10月9日に開業
  08/24有吉三吉宅で米騒動記念茶話会が開かれる
     大杉栄が出席し大阪での目撃談を語る
  08/米騒動が起き、関係ない日本印刷工組合信友会の会員が拘引、留置される
     多数の会員が恐怖と誤解から脱会者が続出
     のちもとの欧文工だけが残ることになり、幹部は総辞職
     会務は常務員として立田泰と永井●【金偏に圭】造がみることに
     1919(大正08)「信友会」が再び運動に活気を取り戻す
  08/労働総同盟や関東方面の各代表者が会し労働者飢饉救済委員会を作る。救済活動が熱心に行なわれる
  08/『大阪朝日新聞』に掲載された記事に対し政府当局が言論統制、筆禍事件が起こる。白虹事件
     浪人会と黒竜会が大阪朝日新聞を批判、社長の村山龍平社長に白昼暴行
  09/21第18代内閣総理大臣の寺内正毅が米騒動の責任をとり総辞職
  10/09吉野作造、福田徳三らの黎明会に対抗する老壮会が結成される
     母体は明治31年(1898年)頃に集いはじめた「南葵文庫の会」
     事務所は牛込区南町1番地に置かれる。世話人は満川亀太郎がつとめる
     左翼思想家、国家主義者、社会主義者、国粋主義者など、思想や職業を問わず一定の目的も定めずに在京者が一堂に会す
     主なメンバー
     左翼派 無政府主義者の高尾平兵衛ほか、堺利彦、高畠素之、大杉栄、島中雄三、下中弥三郎、大竹博吉、中村高一ら
     右翼派 陸軍中将佐藤鋼次郎ほか、北一輝、大川周明、権藤成卿、満川亀太郎、沼波瓊音、渥美勝、鹿子木員信ら
     1921(大正10)頃主に左翼派の脱会者が数多くなるに従いのちに分裂
     急進的な右翼的な思想を持つ満川亀太郎、大川周明、北一輝らは猶存社
     高畠素之らは大衆社へとそれぞれの思想系統へと分岐する
  11/01労働問題座談会にて和田久太郎、久坂卯之助が入獄のため大杉栄が報告する
     8月1日に月刊『労働新聞』が新聞紙法違反で発行人の久板が禁錮5か月、編集兼印刷人の和田が禁錮10か月に
  11/11ドイツが休戦協定に調印し第1次大戦が終結
     はじまりは1914(大正03)7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告
  11/吉野作造が『中央公論』11月号に論文「言論自由の社会的圧迫を排す」を発表
     8月の「白虹事件」への浪人会の関与を攻撃、批判する
     「浪人会は国体擁護の美名に隠れて、その所為の大半は国家に有害なる運動を試みる団体」と
     11/24吉野と浪人会の立会演説が東京神田区の南溟倶楽部で行なわれる【11/23?】【南明倶楽部?】
     会場は満員となり、場外には数千の群衆があふれ警官隊が非常警戒を行なう殺気みなぎる演説会に
     立会演説は内田良平。田中舎身、佐々木照山、屑生能久らの浪人会と吉野作造が交互に討論
     浪人会は議論が感情的に怒号し、吉野は冷静に論理的に議論する
     演説会が終わると群衆は吉野を擁護し、デモクラシー万歳を叫び高唱
     のち演説会を転機に浪人会の活動は下火に
  12/23吉野作造、福田徳三と賛同した学者が神田区の学士会館で黎明会の創立会を開く
     総勢23人の参加で第1回例会が開催

  12/27大阪飛田の広大な土地にコンクリート塀がめぐる2万2600坪の飛田遊廓が完成
     100軒あまりの妓楼がならぶ
     工事がはじまったのは1917(大正06)10月30日
     昭和初期大阪飛田遊廓の妓楼の数が200軒を超える。「日本最大級の遊廓」といわれるようになる

  12/28救世軍が宮内省を通じて天皇皇后両陛下から事業の補助として、以降10年間1千円の下賜を受けることに
     のち2千円となる
     のち約30年間継続される
  アメリカで社会主義活動をしていた近藤栄蔵が日本で勃発した米騒動のニュースを聞く
     日本で共産党を結成し革命を遂行しようと決意する
     1919(大正08)近藤栄蔵が帰国して堺利彦、山川均、荒畑寒村ら古くからの社会主義者と連絡を取り合う
     1920(大正09)10/コミンテルンの使者が堺や山川に接触してくる
     コミンテルンは極東における社会主義者の国際組織をつくるために上海に行くことを希望
     日本側は大逆事件の記憶があり慎重に判断、それには応じず
  この年417件の同盟罷工があり参加人員は6万6457。組合の数は11
  この年の小作組合数は88。小作争議は256件


1919(大正08)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《内務省警保局局長》川村竹治


  01/15小石川区指ケ谷町の若林やよ宅で協議が行なわれる
     労働問題座談会と渡辺政太郎の遺志を継ぐ北風会の合同を目指す
     03/頃労働問題座談会が北風会に合流する
     のち大杉栄は北風会の例会にほぼ毎回出席する
  01/18黎明会第1回講演会が開かれる。今井嘉幸が普選を主張。学生団体を中心に普選運動がひろがる
  01/18パリ郊外に寄宿する石川三四郎が黒岩周六を迎え案内役をつとめる
  01/21普通選挙期成同盟会が活動を再開する。事務所は弁護士牧野光安方
  01/27大杉栄の田端の家が類焼
     北豊島郡日暮里町大字日暮里1055番地の山田斉方に一時避難する
  01/大阪印刷工組合が設立される。幹部は賀川豊彦、三宅春次、松盛鉄郎、幸松一雄
  01/下旬東京市電の日本交通労働組合が中心となり3月にかけて大怠業を行なう
     04/全線のストライキ
     早稲田工手学校の学生が電車運転を申し出、早大教授会は許可する
     実現はならないまでも、学生の罷業破りの先駆に
  02/03大杉栄が北豊島郡滝野川町大字西ケ原313番地に移る
  02/09東京海上ビルで普通選挙期成同盟会が納税資格撤廃同志大会を開く
     代議士27人、布施辰治ら弁護士33人、新聞記者50人余を集め開かれる。堺利彦などが演説
  02/09神田区の青年会館で同志大会、大演説会が開かれる
  02/11大阪商工青年団が結成する
     1920(大正09)大阪商業使用人組合新生会と改称される
     大阪市の会社員、銀行員、商店員、ほか一般商業使用人をもって組織
  02/11都下学生2千人により選実施要求示威大会が開かれる。コースは日比谷公園から国会
     のち以降の普選デモ活況の口火を切ることに
  02/11神田区の青年会館で学生同盟会と普選同盟会の演説会が開かれる
  02/11憲法発布30年記念日
     東京の各大学の雄弁会、早大普選促進会、新人会の主催で3千人の学生が日比谷公園に集まる
     普選を要望し二重橋へ大示威運動を行なう
  02/11友愛会大阪連合会が大阪市内の各所で普選実施の大道演説を行なう
     夜、土佐堀青年会館で大演説会を開く
  02/15京都の友愛会が主催して尾崎行雄を迎え大示威運動を行なう
     岡崎公会堂で普通選挙期成労働者大会を開く
  02/16神戸の友愛会が尾崎行雄を迎えて神戸青年会館で普通選挙期成市民大会を開く
  02/23水沼辰夫と吉田一が労働者相談所の集会を南千住町千束872番地の吉田宅で開く
     荒畑寒村と大杉栄が出席する
     底辺労働者の組織化をめざした労働者相談所の宣伝ビラをまく
     のち大杉栄は労働相談所の茶話会にほぼ毎回出席する
  02/大阪府内の自動車運転手ほかの従業員により大阪ショファー交友会が設立される。幹部は石橋辰次郎ら
  03/01日比谷から銀座まで1万人行進が行なわれ普選運動高揚の契機となる
  03/01大阪の岩出金次郎によって月刊『日本労働新聞』が創刊される。荒畑寒村も制作に加わる
     タブロイド版8頁
  03/01朝鮮が日本の支配に抵抗し「三・一独立運動(独立万歳運動)」を起こす
     京城のタプコル公園から学生と青年が、数万の群衆とともに「大韓独立万歳」を叫びデモ行進をする
     学生と青年は独立宣言書を朗読して独立を宣言しながら
     のち総督府が憲兵や巡査、軍隊を増強したことによる武力弾圧により運動は次第に終息
     5月までの間にデモに参加したのは205万人、デモの発生回数は1542回とされる
  03/06峰尾節堂が35才のとき千葉監獄で病死[1885(明治18)04/01生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  03/07堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業した「売文社」が解散する
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     高畠素之、山川均、大杉栄、荒畑寒村、橋浦時雄、和田久太郎などが参加
  03/11第41回帝国議会の衆議院本会議で代議士の鈴木富士弥が社会主義取り締まりに関する質問をする
     対して政友会内閣の内務大臣床次竹次郎が答える
     社会主義に対しては必要に応じて取り締まりをしており、敢えて苛酷の取り締まりをしているとは認めないと答弁する
  03/大阪中の島公会堂での治安警察法第17条撤廃大演説会に賀川豊彦が講演する
  03/友愛会所属の大阪神戸京都の3連合会から友愛会関西労働同盟会が組織される【04/?】
     賀川豊彦が理事長に、幹部は木村錠吉、成瀬善三、井上末次郎、久留弘三ら
  03/ロシア共産党(ボリシェヴィキ)がコミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インター)を創立させる
     のちロシア革命に狂喜する各国の運動家や運動団体にはたらきかけ、各国に支部を作る
     厳格な監視のもと日本は、大逆事件など明治期の弾圧で一握りの社会主義者しか残らず
     そんななかロシア革命の影響を受け、日本でも社会主義革命をめざす党を結成しようとする動きが起こる
     従来の社会主義者に加え、若手の運動家たちの間で共産党を結成しようとする運動が活発化
  04/10埼玉共済会が設立する。埼玉で社会事業がはじまる
  04/15上野公園の両大師前の広場で普通選挙促進屋外大演説会が開かれる
     西岡竹次郎、小林勝氏、黒須龍太郎らが熱弁をふるう
  04/16浅草区馬道町の貸席江戸家で黒瀬春吉が労働問題演説会を開く
  04/21堺利彦、山川均らが月刊『社会主義研究』を創刊する
     1923(大正12)04/4月発行の44号まで
  04/23大杉栄が千葉県東葛飾郡葛飾村大字小栗原10番地の斎藤仁方へ移る
  04/東京市内十五新聞社の活版印刷工により革新会が組織される
     09/21争議により多数の解雇者をだし職工側の完全敗北に、革新会が解散する
     12/新聞印刷工組合正進会を組織する
  04/京都方面の友愛会所属組合が連合して友愛会京都連合会を組織する
  05/04横浜偕楽園で中村勇次郎、小池潔らが主催の京浜特別要視察人の遠足と集会が開かれる
  05/04ベルサイユ条約の結果に不満を抱く中華民国北京の大衆が抗日、反帝国主義を掲げ運動を開始。「五四運動」
  05/15神田区美土代町の基督教青年会館で労働同盟会第1回大会が開かれる
     労働同盟会は会長が黒瀬【春吉?】、副会長が五十里幸太郎、常任理事が中村還一
     山崎今朝弥、荒畑寒村、大杉栄、岡千代彦、茂木久平らが出席する
  05/23衆議院議員選挙法が改正。選挙権が直接国税10円以上から3円以上に引き下げられる
     満25才以上の男子による無記名投票に改める
     1925(大正14)05/05衆議院議員選挙法(普通選挙法)が改正。制限選挙から納税条件を撤廃
     満25才以上のすべての成年男子に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)
  05/25千葉県葛飾村で隣家の軒下から監視する尾行の退去命令に大杉栄が応じず
     大杉は葛飾村駐在の安藤清巡査を殴打、口から血をださせる
     船橋署に連行、即日釈放される
     07/傷害罪で起訴され千葉地検に書類送検、東京地検へ移送、勾留となる
     07/23事件から2か月後、東京監獄に入る
     08/04東京区裁判所で第1回公判、検事が論告中、慣例を無視して起立せず
     08/10第3回公判で罰金50円の判決。検事側が控訴する
     【08/1審4日後の2審で求刑通り3か月の判決。この日は午前8時の開廷が午後5時からに、閉廷は午後10時近く】
     08/11保釈金20円で出獄する
     10/02東京地方裁判所での第2回控訴審で大杉が検事論告の際に再び起立を拒否。裁判長と押し問答に
     のち荒畑寒村、高尾平兵衛も起立拒否を実行「不起立宣伝者」と呼ばれる
     10/11控訴審で検事の求刑通り懲役3か月の判決がでて、即日上告する
     12/18大審院で上告破棄、刑が確定する
     12/19京橋区数寄屋橋の笹屋で入獄送別会が開かれる
     12/20入獄中の社務を労働運動社で協議する
     吉川守圀、服部浜次、近藤憲二、和田久太郎、中村還一、延島英一、石井鉄治らが出席する
     12/23東京監獄に入獄する
     12/24中野の豊多摩監獄に移される
     1920(大正09)03/23早朝午前7時10分に豊多摩監獄を出獄する
     監獄の門前には伊藤野枝、近藤憲二ら14人が出迎える【近藤憲二ほか12人?】
     市電を乗り継ぎ9時50分には本郷区曙町13番地の大杉宅に到着
     03/28大杉が自宅に服部浜次ら9人を招き出獄祝いの小宴を開く
  05/26横浜市戸部町2丁目47番地の吉田只次宅にて会合が開かれる
     大杉栄が出席する
     06/07吉田宅で第3回会合が開かれる
     大杉が小池潔らと話し合う
     07/05大杉が吉田宅例会に出席する
     臨検の注意を受けながら米騒動について話す
  05/28大杉栄と村木源次郎が東京監獄の和田久太郎に面会に行く
     前年8月1日に月刊『労働新聞』が新聞紙法違反で編集兼印刷人の和田が禁錮10か月に
  05/叢文閣よりジャック・ロンドンの『野性の呼び声』が単行本で刊行。あとがきは作家の有島武郎
     訳は堺利彦。1917(大正06)雑誌『中外』の創刊にかかわった堺利彦が第1号から第8号まで訳載
  05/大阪の職工組合期成同志会が日本職工総同盟大阪鉄工組合として復活する。幹部は横田允隆、坂本孝三郎ら
     職工組合期成同志会は1917(大正06)中頃に財政が行き詰まり年末に種々な事情のため解散
  05/近藤栄蔵が帰国して堺利彦、山川均、荒畑寒村ら明治以来の古くからの社会主義者と連絡を取り合う
     1920(大正09)10/コミンテルンの使者が堺や山川に接触してくる
     コミンテルンは極東における社会主義者の国際組織をつくるために上海に行くことを希望
     日本側は大逆事件の記憶があり慎重に判断、それには応じず
     1920(大正09)10/15大杉栄がコミンテルン主催の極東社会主義者会議に出席のため上海へ
     1921(大正10)05/近藤がコミンテルン極東部委員会へ「日本支部準備会」の連絡員として上海へ
  06/19大杉栄が本郷区駒込曙町13番地へ移る
  06/自由労働者組合が設立される
     人夫、車力、土工、鳶、小揚、大工、左官、工夫、煉瓦工、屋根職、車夫などで組織。幹部は角田清彦、野口一雄ら
  07/15日本労働連合会第1回大会が神田区美土代町の基督教青年会館で開催される
     大杉栄が北風会の1党と押しかけ検束、錦町署に拘留されるも、即日釈放となる
     大会は流会となる
  07/17京橋区南八丁堀桜橋際の貸席川崎家で服部浜次主催の労働問題演説会が開かれる【売文社主催?】
     800人が集まる。弁士は服部、荒畑寒村、吉川守圀、岡千代彦、山川均、堺利彦ほか数人
     警察は開場に先立ち中止、解散を命じ乱闘となる
     北風会員など10数人が京橋署に1晩留置される
     大杉栄、近藤憲二、石井鉄治、吉田一、高田公三、鈴木重治、水沼熊、高尾平兵衛ら
     問題とならず即日に帰宅
  07/19警視庁刑事課長の正力松太郎がこれまでの大杉栄による住居侵入、取り込み詐欺容疑に対して新聞に談話
     (1)大杉は10数人の商人より味噌、醤油など日用品その他の物品を取り寄せるも、支払いをせず
     (2)家賃を支払う意志なく住居を借り入れ、家主より退去を命じられると居直り立ち退き料を請求
     (3)現住宅では家主が占有する家屋に無断居住し、立ち退きを命じると立退料を請求し
     (4)故に家宅侵入詐欺取財ならびに恐喝取財犯として近々に告発する
     大杉は住居侵入、取り込み詐欺容疑で警視庁に出頭を求められる
     09/02大杉は山崎今朝弥弁護士を代理人に、虚偽の事実を摘示し名誉を毀損した正力を告訴
     また正力の談話を掲載した各日刊新聞には名誉回復の訴として謝罪広告の掲載を求める
  07/31東京市内16新聞社の印刷工が賃金の増額を要求して総罷業に入り休刊が4日に
     「二六」「報知」「東京日日」「東京毎日」「東京毎夕」「東京朝日」「中外商業」
     「中央」「万朝」「読売」「やまと」「国民」「都」「時事」「帝国」「大勢」
  07/片山潜がサンフランシスコで1916(大正5)5月1日に創刊した『平民』が22号をもって終刊となる
  07/大杉栄一派による「演説会もらい」が活発になる
     他の組織や団体が開く演説会にでかけ、壇上の弁士に質問し討論しながらアナーキズムを宣伝する
  07/東京砲兵工廠の職工により小石川労働会が組織される。芳川哲、安達和らが幹部に
  07/京都の奥村電気商会で罷業が起こる
  08/01第3次『東京パック』が復刊
     月刊で判型はA4変形、24ページの表紙を含め4ページがカラー。定価は30銭
     第1次『東京パック』は1905(明治38)4月15日創刊
     1923(大正12)02/01第3次『東京パック』最後の発行、以降の刊行は不明
     1928(昭和03)07/01第4次『東京パック』創刊
  08/01老壮会の右派思想家の満川亀太郎を中心に国家主義運動の結社猶存社が結成される【猶存会?】
     1920(大正09)07/機関誌『雄叫び』を発行する
     中心スローガンは「日本帝国の改造」と「アジア民族の解放」
     1921(大正10)01/04前年12月31日に大川周明、満川亀太郎らに呼び寄せられ帰国した北一輝が加わる
     北は猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわる
     のち大川周明、満川亀太郎、北一輝が猶存社の中心人物として「三尊」と称される
     のち猶存社の思想は国家主義的な知識階級に影響を与える
     のち同人による学生運動の指導により各大学に団体が生まれる
     東京帝国大学「日の会」、京都帝国大学「猶興学会」、第五高等学校「東光会」、
     慶應義塾大学「光の会」、札幌農学校「烽の会」、早稲田大学「潮の会」、拓殖大学「魂の会」など
     1923(大正12)03/天皇観の相違やヨッフェ来日問題をめぐり北と大川、満川との対立が激しくなる
     猶存社が解散、分裂する
  08/04下中弥三郎が中心となり県下の青年教師により教育運動団体の啓明会が組織される
     下中は前年まで埼玉師範学校の教員
     教員の地位、待遇の向上をめざす職能的な教員組合と「教育的社会改造運動」をもち出発
     1920(大正09)09/日本教員組合啓明会と改め全国的な運動への発展をめざす
     学習権の確立、教育委員会制度、教員組合結成の促進など「教育改造の四綱領」を発表
  08/08平民大学夏期講演会が開かれる。8月15日まで。講師は堺、山川、大杉、大庭、荒畑ら
  08/13大杉栄が北豊島郡巣鴨村の大石七分宅に逗留
     大石は大逆事件で処刑された新宮の大石誠之助の甥で、文化学院を創設した西村伊作の実弟
     林倭衛が大石宅を訪れ肖像画「出獄日のO氏」を半日で描き上げる
  08/16麹町区有楽町1丁目4番地の服部浜次方で講演会が開かれる
     終了後基督教青年会館で開催中の友愛会演説会に「演説会もらい」に出向くも満員で入場できず
  08/18革新的超党派政治グループの改造同盟が設立される
  08/31横浜市戸部町2丁目47番地の吉田只次宅で大杉栄出獄慰安会が開かれる
     伊藤野枝、和田久太郎、近藤憲二、中村還一らが出席する
     散会後、本牧町三渓園を訪れる
  08/31二科展に出品予定の林倭衛の「出獄日のO氏」が警視庁からの圧力で撤去される
  08/31友愛会第7周年大会で組織改革が行なわれる
     労働組合の性格を硬化させ、会の性格を著しく変化させることに
     運動は社会主義運動と混同されないよう努めるも政府は労働者の団体を嫌う
     政府官僚は労働運動を危険視する傾向にあり、会員の活動を監視し脱会を勧告
     そこで鈴木会長の独裁制を理事の議会制とし会の構成を地方別から職業別に改めることに
     「友愛会」を大日本労働総同盟友愛会(友愛会)に改称。労働運動の中核体としての組織を確立する
     20項目に及ぶ主張は賀川豊彦による
     友愛会は改良的な協調主義を捨て社会主義的な闘争主義をとった印象が色濃くなる
     1921(大正10)10/01友愛会第10周年全国大会が開かれる
     大会を機に名称を変更し日本労働総同盟(総同盟)と名乗ることに
  08/31友愛会第7周年大会が開かれる
     それまでの「君が代」にかわり初めて労働歌がうたわれる
     来賓として社会主義者の堺利彦が招かれ挨拶をする
  08/東京市電の従業員が交通労働組合を組織する。幹部は遠山健吾、佐々木専次、中西伊之助らが幹部に
  08/立憲労働議会が組織される。会長は蔵原惟郭
  08/大阪刷子工組合が創立し、友愛会大阪連合会に加盟する
  08/広島市の印刷工により印刷工親友会が設立される
  08/九州粕谷炭田の坑夫により坑夫協会が組織される。河島真二らが幹部に
  08/東京砲兵工廠で罷業が起こる
  09/15若林やよ宅で北風会の例会が開かれる。北風会を東京労働運動同盟会と改称
  09/18神戸川崎造船所の労働争議で初めてサボタージュ戦術が用いられる
     賃上げに成功しそれまでの「怠業」から「サボタージュ」が一般的に使われるようになる
     怠業(サボタージュ)の戦術を示し社会から注目をひく
     サボタージュは「仕事などを意図的に行なわないこと」を意味するフランス語“sabotage”
     フランスはストライキの多い国で主にストライキの際に使われる言葉。木靴(サボ)で機械を壊したことから
     サボるの語源
  09/20友愛会と信友会の連合主催で全国労働者大会が神田区の青年会館にて開かれる
     官選による国際労働会議の代表選出に反対した運動の一環
     大会には福田徳三、安部磯雄、堀江帰一ら学者が声援をおくり政府反対の言論戦を展開する
     10/05友愛会、信友会、大日本鑛山労働同盟会、新人労働同盟の主催で芝公園から明治座に至る大示威運動が行なわれる
     夜、明治座にて政府糾弾枡本反対を絶叫した殺気みなぎる大演説会を催す
     10/15アメリカのワシントンで開かれる第1回国際労働会議への出席者が横浜を出港
     政府代表の鎌田栄吉、岡実、鐘紡社長で資本家代表の武藤山治、鳥羽造船所技師長で労働者代表の枡本卯平
     労働者の大群は弔旗、位牌、榊をもって押しかけ横浜埠頭は大葬儀場に化す
     10/29第1回国際労働会議がアメリカのワシントンで開かれる
  09/博文館の同盟罷業が動機となり大進会が組織される
     博文館の印刷工を中心として秀英舎、日本書籍株式会社、東京書籍株式会社などの職工が参加
  09/東京砲兵工廠十条支廠の職工により十条会が設立される。会長は横田晃一
  09/杉原正夫らが発起し俸給生活者を糾合して労働組合S・M・U協会が設立される
  09/大日本鑛山労働同盟会が創立。主として足尾銅山、釜石鑛山の坑夫により組織される
     松葉鏗寿、福田秀一、綱島正興、高野松太郎、京弥屋秀一らが幹部に
  09/広島市内の製針工により製針職工組合朋友会が設立される。木原茂らが幹部に
  09/友愛会所属の八幡支部、戸畑支部、門司支部、長崎支部、後藤寺支部、幸袋支部などを統轄
     友愛会九州出張所が設立される。主任は木村錠吉
  日本印刷工組合信友会が再び運動に活気を取り戻す
     昨年8月、米騒動で関係のない信友会会員が拘引、留置され多数の会員が恐怖と誤解から脱会者が続出
     10〜11/8時間制要求で長期一斉ストを打つまでに回復する
  10/02大杉栄を刺し服役していた31才の神近が2年の刑期を終え出獄する
     日蔭茶屋事件は1916(大正05)11月9日に起こる
  10/06月刊『労働運動』(第1次)が創刊される
     主幹/大杉栄、社員/伊藤野枝、久坂卯之助、和田久太郎、近藤憲二、中村還一、延島英一
     「労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない」を標語に掲げる
     1920(大正09)06/6月発行まで
  10/24日本労働新聞社が大阪で労働問題講演会を開催。3千人が参加。講師は堺、生田、賀川、高山ら
  10/29第1回国際労働会議がアメリカのワシントンで開かれる
  女性による団体運動の必要性を感じていた平塚らいてうが、友愛会婦人部の常任書記を辞した市川房枝を誘う
     新団体の結成準備に取りかかる
     11/24平塚が大阪朝日新聞社主催の全関西婦人大会に講師として招かれる
     「婦人の団結を望む」と題した講演で協会設立の趣旨と目的を発表、事実上、「新婦人協会」が始動
     婦人の社会的・政治的権利獲得を目指す。日本初の婦人団体
     理事/平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
     評議員/坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都
     12/19東京でも協会結成を発表し広く賛助員をつのる
     当面の活動目標として治安警察法第5条改正と花柳病男子結婚制限を掲げ、請願運動を展開
     1920(大正09)03/28上野精養軒大広間で発会式開催。宣言と綱領、規約、役員を決定
     当初は平塚宅を本部事務所に。平塚、市川、奥むめおの3理事を中心として協会が運営
     のち協会の組織作りの一環として協会支部を名古屋、大阪、神戸、広島に結成
     1921(大正10)06/26市川が理事を辞任して渡米
     のち平塚が健康上の理由から協会運営から退く
     運動方針をめぐる平塚と市川の対立により設立早々の脱会に
     のち新婦人協会は奥むめおと坂本真琴を中心に活動が続く
     のち東京大森の坂本宅に協会本部事務所、東京西巣鴨の奥宅に機関誌編集部を移転
     経済的な理由から機関誌の発行が頻繁に遅延するなど苦しい協会運営が続く
     のち市川と平塚が去り個性の強い協会員間の対立が表面化
     1922(大正11)12/08平塚の希望により臨時総会を開き協会の解散をきめる
     1924(大正13)婦人運動は「婦人参政権獲得期成同盟会」(婦選獲得同盟)へと引き継がれる
  10/全国の博徒を糾合した団体大日本国粋会が結成される
     原内閣の内相床次竹二郎の呼びかけで関西の西村伊三郎のほか
     関東の青山広吉、篠信太郎、梅津勘兵衛、河合徳三郎、倉持直吉らが組織化の中心に
     国粋会の名付け親とさるる杉浦重剛が綱領を作る
     一、本会は意気を以て立ち、任侠を本領とする集団なり
     一、皇室を中心として、普(あまね)く同志を糾合し国家の緩急に応じて、奉公の実を挙ぐることを期す
     一、本会員は古来より同志の間に慣行せられたる血約作法を尊重し、且つ之を維持す
     創立時の役員は総裁に大木遠吉伯爵、会長に村野常右衛門、理事長に中安信三郎という顔ぶれ
     世話役に床次竹二郎を、顧問に頭山満を迎える。会員数は60万
     のち官憲、資本家の別働隊として、労働争議や社会主義者の演説会に出動
     妨害を試み暴力をふるい流血の惨事を引き起こすことに
  10/東京築地海軍造兵廠の職工により築地工人会が組織される
  10/大阪の住友伸銅所の職工により新進会が組織される。安藤国松らが幹部に
  10/大阪の安治川鉄工所の職工により鉄心会が組織される
  10/大阪市電、郊外各電鉄の車掌運転手により関西電鉄従業員組合が組織される
  10/神戸印刷工組合が組織される。三谷幸吉らが幹部に
  10/京都で皇国労働会が設立される。下山天心らが幹部に
  10/呉海軍工廠職工を中心として呉労働組合が設立される。幹部は藤田若水ら
  10/八幡製鉄所の職工により日本労友会が組織される。浅原健三、西田健太郎らが幹部に
  10/大阪砲兵工廠で怠業が起こる
  11/09大阪砲兵工廠の職工により企業別従業員組合向上会の発会式が行なわれる
     穏健な改良主義的組合として発足。会長は八木信一
     友愛会、総同盟への参加より総同盟関西労働同盟会に参加
     1922(大正11)08/06向上会4周年大会を機に内部紛争が生じ、名古屋向上会、純向上会、向上会に分裂する
     【11/26向上会の内部に紛争が生じ、会長八木信一の擁護派と排斥派に分裂。擁護派は向上会を脱し純向上会を設立】
     1936(昭和11)08/13向上会と純向上会が合同し大阪官業労働組合となる
     09/10陸軍の組合否認により崩壊する
  11/13月刊『労働運動』第2号掲載の「怠業と歓業」が検閲に引っかかり抹消の上での発行となる
  11/24新婦人協会が結成と同時に活動目標のひとつに治安警察法第5条の改正を掲げる。請願運動を開始
     治安警察法は1900(明治33)公布
     1920(大正09)02/2057人の署名を集める。法改正を求める請願書を第42帝国議会貴族院と衆議院へ提出
     02/21東京神田で治警法5条をテーマに新婦人協会第1回講演会を開催
     市川房枝、山田わか、大山郁夫らが講演して法改正の必要性を世論に訴える
     さらに市川と平塚らいてうは治安警察法5条改正を法律案として提出するよう議員への働きかけを行なう
     02/26衆議院は解散とる
     05/10衆議院議員総選挙で新婦人協会支持候補の16人が当選をはたす
     07/第43帝国議会へ治安警察法改正案を提出するも衆議院で審議未了
     1921(大正10)02/第44帝国議会では衆議院本会議で治安警察法改正案を可決、貴族院も委員会可決となる
     03/26議会最終日の貴族院本会議で貴族院議員藤村義朗男爵の反対演説にあい否決となる
     1922(大正11)02/第45帝国議会衆議院に改正案再上程
     02/09坂本真琴、奥むめおら新婦人協会幹部(平塚と市川は協会運営から退く)と、協会の支援者や議員が協議
     治安警察法5条2項削除に目標を絞り込んだ上で運動を進める事を決定
     02/17夜、坂本と奥が反対派の藤村を東京中野の邸宅に訪ねて談判、改正案への支持を取り付ける
     のち坂本らは、貴衆両院各議員への陳情を連日繰り返す
     03/18衆院本会議で改正案可決、貴族院へ送付となる
     03/20貴族院では改正案上程、委員会付託
     03/23委員会を通過
     03/25議会最終日、閉会間際の午後11時50分、貴族院本会議において治安警察法5条改正案はようやく可決。成立する
     集会の自由を禁じた第5条2項の改正に至る。治安警察法第五条改正運動
     05/10公布施行
     のち女性の結社権を禁じた5条1項は残る。婦人団体を中心に治安警察法5条全廃を求める運動は続く
  11/28早稲田大学の民人同盟会に招かれた大杉栄、石井鉄治らが早稲田大学恩賜館で懇談会
     民人同盟会は解散となる
     民人同盟会は高津正道、中名生幸力ら、暁民会の前身
  11/救世軍が神田区一ツ橋通りに赤レンガ4階の日本本営と1400人収容の中央会館を新築落成
     費用23万円のうち10万円が万国本営からの補助金で、他は一切が国内の募金
     献堂式では大隈重信、渋沢栄一、江原素六らの演説がある
  11/東京芝浦製作所の職工により芝浦技友会が組織される
  11/大阪の友禅染職工の有志により友禅染職工組合が設立される
  11/東京市電の従業員が怠業する
  11/釜石の鑛山で罷業が行なわれ軍隊が派遣される
  11/日立などの鑛山で罷業が行なわれる
  11/足尾銅山で銅価の低落からコスト削減のため286人を解雇
     大日本鉱山労働同盟会が解雇に対する一般組合員の憤激により戦闘化し飯場制度の撤廃を要求しストライキに
    のち要求は容れられないながらも、争議後経営側の主導により飯場制度の廃止、労資懇談制の導入が進められる
  12/02『朝日新聞』が足尾銅山の争議に「大杉栄氏入山して画策」と大きく報道する
     実際は労働運動社で仕事中
     のち大杉らに対する誤報、虚報がしばしば起こる
  12/03京橋区数寄屋橋の笹屋で荒川義英追悼会が開かれる
     大杉栄も出席する
  12/12普通選挙期成同盟会の全国同志大会が東京に開かれる
     島田三郎、今井嘉幸、黒須龍太郎らが演説する
     夜、神田区の青年会館で全国普通選挙大会を開く
     「社会改造の第一歩は選挙権の獲得から」の標語を掲げる
     島田三郎、今井嘉幸、黒須龍太郎、石川安次郎、松本君平、鈴木文治らが演説する
  12/15普通選挙期成関西労働連盟(関西連盟)が組織される
     衆議院議員今井嘉幸と友愛会関西労働同盟会の指導者賀川豊彦の呼びかける
     大阪に友愛会関西労働同盟会、大阪鉄工組合、向上会など関西の14の労働団体の代表者が集まる
     第42帝国議会での普選法案の通過を目指し、労働団体の結束した運動の実行のために組織される
     12/24大阪中央公会堂にて第1回大会と普選要求労働者大演説会が盛況に開かれる
     1920(大正09)01/18大阪で演説会と大デモ(中之島公園〜市内〜大阪中央公会堂)を実施
     労働者による普選運動の展開を示す
     07/07大会を最後に友愛会が離脱
  12/24大杉栄と伊藤野枝のあいだに次女エマが生まれる
     エマの名は伊藤が心酔していたロシア出身でアメリカ在住のアナキスト、エマ・ゴールドマンによる
     のち大杉の妹牧野田松枝の養女となり幸子と改名
     1921(大正10)03/11三女エマが生まれる
  12/末八幡製鉄所が職工の重大な収入源となる時間外勤務を規制する職工規則の改定を発表
     労友会は賃金3割増額、割増金の平等支給、勤務時間短縮などを求めて闘争準備にはいる
     1920(大正09)02/労友会幹部ら6人を解雇
     02/05未明、労友会が2万数千人を率いてストライキに入る
     開所以来、初めて溶鉱炉の火が止められる
     のち労友会の浅原健三、西田健太郎ら争議団幹部はほどなく検挙
     02/09平常に復する
     のち製鉄所側は勤務時間短縮などの要求をすべて拒否
     02/24再度ストライキに突入。労友会、友愛会が主導12585 人参加
     のち無期限休業発表、実施や中心人物の検挙と動揺をきたした組合側が無条件就業を余儀なくされる
     03/02争議は終了、操業を開始
     03/25製鉄所は時間短縮。12時間2交代9時間3交代。約11%の賃上げを発表
  12/機械工の有志により大日本機械技工組合が組織される。会長は井上倭太郎
  12/9月21日に解散した革新会にかわり新聞印刷工組合正進会が組織される
  この年497件の同盟罷工があり参加人員は6万3137。組合の数は71
     1920(大正09)この年のストライキは282に激減する
  この年、普通選挙の要望は天下の与論となり各地で演説会や示威運動が行なわれる
  この年の小作組合数は84。小作争議は326件


1920(大正09)

  《総理大臣》[第19代]原敬
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《内務省警保局局長》川村竹治


  初め/社会主義者一部有志の間に大同団結を図ろうとする計画が進められる
     08/05山川均を中心に各種労働組合や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅して発起式が開かれる
     発起人は30人
     堺利彦(新社会評論)、山川均・荒畑寒村・服部浜次(労働組合研究会)、山崎今朝弥(平民大学)、
     橋浦時雄(北部自主会)、大杉栄・岩佐作太郎・近藤憲二・吉川守圀・水沼辰夫(北風会)、赤松克麿(新人会)、
     吉田只次(横浜赤●【方偏に流の旁】会)、高津正道(暁民会)、和田厳(建設者同盟)、田村太秀(扶信会)、
     麻生久(友愛会)、延島英一(信友会)、布留川桂(正進会)、前川二享(交通労組)、渡辺満三(時計工組合)、
     京谷周一(鉱夫総連合)、大庭柯公・小川未明(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、高畠素之(大衆運動社)、
     加藤一夫・加藤勘十(鉱夫総同盟)、岡千代彦・植田好太郎(無所属)
     【京屋周一? 加藤一夫(自由人連盟)?】
     のち『新社会評論』を改題した『社会主義』が機関誌となる
     12/09「日本社会主義同盟」の創立準備会が開かれる。同盟は警察の意表をつき、いきなり「結成」を宣言する
     12/10神田区の青年会館で創立大会が催される。「結成」の宣言は前日しており、「講演会」を名目とした集会に
     全国からの申込者は3千人に【1千人超?】
     大会は開会後まもなく官憲に解散を命じられ、会衆と警官隊に衝突が生じ数十人の検束者をだす
     社会主義同盟は社会主義者と労働組合幹部の公然で大規模な提携の上に成り立つことになる
     1921(大正10)05/09神田区青年会館で「思想問題講演会」と銘打つ社会主義同盟第2回大会が開かれる
     講演がはじまると「弁士中止」「解散」と宣告され、警官は控え室にいた弁士を殴り蹴り髪の毛をむしり拘引する
     【開会宣言もしないうちに警察の妨害によって中止?】
     【事前に多くの執行委員が検束され大会は解散を命じられる?】
     検束されたのは大杉栄、和田久太郎、高津正道、江口渙、服部浜次、加藤一夫、
     岩佐作太郎、堺為子、堺真柄など49人。なかにはロシアの盲目詩人エロシェンコも
     観衆のなかには、のち虎の門事件を起こす難波大助の姿も
     05/28政府が社会主義同盟の結社禁止を命じる
     活動期間は短く有力な活動もなく、単一の政治党派を結成するには至らず
     ただ社会主義者が大同団結したことに意義が与えられることに
     のち同盟内左派の堺利彦は1922(大正11)に日本共産党(第一次共産党)を結成
     合法性の維持を目指す非共産系は単一の政党結成には至らず
     1925年に右派の社会民衆党と中間派の労働農民党にわかれる
  01/01月刊『労働運動』第3号掲載の「ボルガ団」が検閲にひっかかり一部抹消して発行する
  01/18普通選挙期成関西労働連盟(関西連盟)が大阪で演説会と大デモ(中之島公園〜市内〜大阪中央公会堂)を実施
     労働者による普選運動の展開を示す
     07/07大会を最後に友愛会が普通選挙期成関西労働連盟から離脱
  01/31全国普選連合会が結成。40以上の団体特に都市中間層と憲政会急進派に普選促進記者連合会も参加
  02/05普選期成治警撤廃関東労働連盟(関東連盟)が結成される。友愛会が指導
     労働争議の頻発と既にアナルコサンディカリスムによる普選否定論浸透のため結成が遅れる
  02/07新婦人協会が2057人の署名を集める。治安警察法第5条の改正を求める請願書を第42帝国議会貴族院と衆議院へ提出
     治安警察法は1900(明治33)公布。反対運動は1919(大正08)の新婦人協会の結成と同時
     02/21東京神田で治警法5条をテーマに新婦人協会第1回講演会を開催
     市川房枝、山田わか、大山郁夫らが講演して法改正の必要性を世論に訴える
     さらに市川と平塚らいてうは治安警察法5条改正を法律案として提出するよう議員への働きかけを行なう
     02/26衆議院は解散とる
     05/10衆議院議員総選挙で新婦人協会支持候補の16人が当選をはたす
     07/第43帝国議会へ治安警察法改正案を提出するも衆議院で審議未了
     1921(大正10)02/第44帝国議会では衆議院本会議で法案可決、貴族院も委員会可決となる
  02/08『理想郷』『百年後の世界』が合綴してアルス社より定価1円20銭で出版刊行する
     『百年後の世界』はエドワード・ベラミー原著、堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
      1904(明治37)3月9日、平民文庫5銭本の第1巻として刊行
      1911(明治44)4月4日、発売禁止の処分を受ける
     『理想郷』はヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳。原題は「News from Nowhere」(1892)
      1904(明治37)12月25日、平民文庫5銭本として刊行
      1910(明治43)9月3日、発売禁止の処分を受ける
  02/08関西労働連盟主催で普選を要望する大示威運動を行なう
     湊川神社に参集し各新聞社を歴訪、キリスト青年会館で盛大な演説会を開く
  02/10全国労働団体連盟主催の普選大演説会と7万5千人の大示威運動が芝公園で行なわれる
     全国労働団体連盟は日本労働党、日本交通労働組合、小石川労働会など20余の団体からなる
     今井嘉幸らの演説があり無制限横断組合法の実施、治安警察法第17条の撤廃、普通選挙の即時実行の3か条を満場一致で決議
  02/11上野公園で普通選挙期成同盟会主催の普選促進大会と立憲労働党主催の参政権獲得民衆大会が開かれる
     労働組合と憲政会が普選運動の指導の中心となり求心力を低下しているなかでの大会。3万人参加
     憲政会代議士の大竹貫一、小泉又次郎、三木武吉らが声援して気勢をあげる
     博文館の労働組合大進会の労働大衆は楽隊を先頭に普選歌を高唱しながら乗り込み
     小石川労働会など42の団体が加わり盛んに気勢を示す
     会衆は「吾等民衆は強大なる示威運動に依り普通選挙法案の絶対的通過を期す」の決議文を可決する
     次いで日比谷公園に向かって大示威運動を行なう
  02/11普選期成治警撤廃関東労働連盟主催の大デモが芝公園から国会、二重橋前まで行なわれる。3万人参加
  02/11立憲労働党が上野公園両大師前で参政権獲得民衆大会を開く
  02/11普通選挙期成同盟会普選促進大会を開き上野公園から日比谷公園まで行進をする。3万人が参加
  02/11夜、友愛会本部に8団体の代表が集まる
     友愛会、信友会、工人会、俸給生活者組合、日本交通労働組合、自由労働組合など
     関東労働連盟を組織して普選の実現、治安警察法第17条の撤廃に極力努力すると決議
  02/14西川文子、吉岡弥生、奥むめおらの新真婦人社婦人社会問題研究会を結成し第1回講演会を開く。1300人が参加
  02/14都市中間層が主体となった全国普通選挙連合会が結成され運動の中心となる
  02/15工労会主催の大示威運動が名古屋の鶴前公園で行なわれる
     さらに国技館で大演説会を開く
  02/21東京神田で「新婦人協会第1回演説会」が催される。市川房枝、山田わか、大山郁夫らが演壇に立つ
  02/22東京芝公園で普選国民大懇親会が催される
     会終了後、3万の群衆は首相官邸、政友会本部へ殺到する
  02/22上野公園で立憲労働党主催の民衆大会が開かれる
  02/22東京の帝国ホテルで馬場恒吾らが主催する普選促進全国記者大会が開かれる
     「吾人は普通選挙即時実行を阻止する政府の更迭を期す」などの決議
  02/八幡製鉄所が労友会幹部ら6人を解雇
     前年12月末に労友会は賃金3割増額、割増金の平等支給、勤務時間短縮などを求めて闘争準備にはいる
     02/05未明、労友会が2万数千人を率いてストライキに入る
     開所以来、初めて溶鉱炉の火が止められる
     のち労友会の浅原健三、西田健太郎ら争議団幹部はほどなく検挙
     02/09平常に復する
     のち製鉄所側は勤務時間短縮などの要求をすべて拒否
     02/24再度ストライキに突入。労友会、友愛会が主導12585 人参加
     のち無期限休業発表、実施や中心人物の検挙と動揺をきたした組合側が無条件就業を余儀なくされる
     03/02争議は終了、操業を開始
     03/25製鉄所は時間短縮。12時間2交代9時間3交代。約11%の賃上げを発表
  03/11尼港で降伏した日本軍は独力で挽回するため降伏協定を破りパルチザンに対し奇襲反撃にでる
     尼港はアムール川河口のニコラエフスクのこと
     のち敗色が濃くなると居留民が領事館に立てこもり
     領事館を城塞として居留民ぐるみの戦争となる
     のち日本軍は破れる結果となり残兵と居留民122人は捕虜に【136人?】
     05/25パルチザンが日本軍の大軍が来るとの情報を得る
     パルチザンは撤退するため市外から砲撃し日本人の居留民や捕虜を皆殺しに。尼港事件
     のち事件は日本国民に多大な衝撃を与える
     日露戦争で勝った経験が新しいなかで日本軍がロシア軍に惨敗
     居留民までが残虐な殺され方で非常な敵愾心をあおることに
  03/13米国に開会した万国平和会議に87才の矢島楫子が参列する
     のち欧米各国を巡視する
  03/15東京の株式市場が暴落する。戦後恐慌のはじまり
  03/23大杉栄が早朝午前7時10分に豊多摩監獄から釈放となる
     原因は大杉が前年の5月25日に船橋署の巡査を殴打したこと
     監獄の門前には伊藤野枝、近藤憲二ら14人が出迎える【近藤憲二ほか12人?】
     市電を乗り継ぎ9時50分には本郷区曙町13番地の大杉宅に到着
     03/28大杉が自宅に服部浜次ら9人を招き出獄祝いの小宴を開く
  03/28「新婦人協会」が上野精養軒大広間で発会式開催。宣言と綱領、規約、役員を決定
     当初は平塚明宅を本部事務所に。平塚、市川、奥むめおの3理事を中心として協会が運営
     のち協会の組織作りの一環として協会支部を名古屋、大阪、神戸、広島に結成
     1921(大正10)06/26市川が理事を辞任して渡米
     のち平塚が健康上の理由から協会運営から退く
  03/大阪市と付近の電燈、電車従業員で組織する電業員組合が設立
     幹部は佐藤安太郎、村井清五郎、伊藤芳太郎、渡辺秀作
  03/東京の芝浦製作所でストライキが起こる
     労資戦だけでなく芝浦技友会と友愛会との確執がからみ「謎の労働争議」に
  04/01服部浜次が中心となり大杉栄の出獄歓迎会と荒畑寒村大阪行きの送別会が開かれる
     場所は神田区錦町の貸席松本亭
  04/02京橋区銀座のカフェ・パウリスタで賀川豊彦上京歓迎会が開かれる
     大杉栄、有島武郎、沖野岩三郎らが出席
  04/02新村善兵衛が40才のとき大阪で死去[1881(明治14)03/16・生]
     大逆事件での判決で懲役8年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1915(大正04)7月24日に千葉監獄を仮出獄
  04/03神田区美土代町の基督教青年会館で文化学会主催の言論圧迫問責演説会で賀川豊彦が講演
     演説会は森戸辰男の筆禍事件批判で開かれる
     その最中、大杉栄が野次り演壇にのぼる。臨検の警官に中止を命じられるまで10数分にわたり演説する
  04/03牛込区筑土八幡停留所前の骨董屋同好会で黒曜会第1回作品展覧会が開かれる
     大杉栄が出品する
  04/08大杉栄が和田久太郎らと長女魔子を連れて関西へ
     和田は労働運動社関西支局の主任で東京と大阪を往復
     大杉は京都のボルガ団に招かれて普選批判の講演をする
     ほか大阪、神戸、京都にて同志の集会に出席する
  04/13国有鉄道の東京鉄道局管内で労働組合の大日本機関車乗務員会が組織される。国鉄初の組合
     東京上野広小路の寄席鈴本亭で発会式を開催
     東京、上野、田端、飯田町、錦糸町の5機関庫の乗務員を中心に組織される
     会長田中利三郎(東京機関庫)、副会長大湯平治(上野機関庫)、書記松延繁次(東鉄経理部)で旗揚げ
     のちその年のうちに3千人を組織
  04/30大杉栄が三浦郡鎌倉町字小町285番地に移る
  04/『労組運動』第5号の1面中央に大杉栄の「出獄の辞」が掲載される
  04/『婦人之友』が婦人解放号の特集を組む
  04/猶存社にいた岩田富美夫が独立、東京の牛込区加賀町に国粋ファシストの右翼団体大化会を結成する
  04/大日本機関車乗務員会が創立する
     のち順調な発達を遂げ17機関庫の機関手、助手約3千人の会員を組織するに至る
  05/02東京の上野公園で屋外集会としては日本で初めてのメーデーが開かれる。16団体が参加
     主催は「友愛会」で司会は鈴木文治。1万人の労働者が集まる【5千人?】
     参加したのは友愛会、信友会、正進会、大進会、汎労会、小石川労働会、日本労働組合、大日本機械技工組合、
     啓明会、自由労働者組合、工人会、鑛山労働同盟会、交通労働組合など15組合と社会主義思想団体【16団体?】
     鈴木文治が開会を宣言し、各代表の演説が行なわれ、宣言と決議が可決される
     スローガンは治安警察法第17条の撤廃、8時間労働制の実施、失業の防止、最低賃金法の制定など
     警視庁により示威運動は禁止されるも、集会後の会衆は示威運動に移る。警官隊と衝突し多数の検挙者をだす
     のち労働組合どうしの連絡が密になり「労働組合同盟会」が結成される
     この時期の労組は欧米と同じ「産業別」「職種別」で、今日のような「企業別」でない
  05/02日本で初のメーデーに紅一点の堺為子が参加する
  05/02大杉栄が上野公園での日本初のメーデーに参加しようと服部浜次宅を出かけたところを検束される
     警察は不当な行為を行なうものとして、予防のため検束。すぐに釈放される
  05/02大杉派のメーデーの資金として幸徳秋水の『基督抹殺論』の印税の一部を保管している堺利彦が寄付される
     メーデー当日、会場に大杉栄の姿はなく
  05/08友愛会本部で各組合のメーデー会計報告会が開かれる
     各組合は永続的な連合機関を作ると決定
  05/15奈良県南葛城郡掖上村の阪本清一郎、西光萬吉(清原一隆)、駒井喜作らを中心として燕会が発足する
     従来の政府や公共団体、篤志家などによる恩恵的部落改善事業を離れ、部落民自身の力で改善や解放を志す
     1922(大正11)01/燕会の阪本清一郎らが水平社を設立
     03/03水平社創立大会が京都の岡崎公会堂で開かれる
     1922(大正11)09/25燕会が解散する
  05/16友愛会本部で労働組合同盟会の創立総会を行なう
  05/早稲田大学学生の高津正道、高瀬清によって学生、労働者の政治団体で社会運動団体の「暁民会」が結成される
     「暁民会」は社会主義の研究と普及を標榜した労働者など学外メンバーを含めて「民人同盟」から個別に旗揚げ
     1921(大正10)01/『労働運動(第2次)』が創刊されると高津は大杉栄と参加
     誌の中心人物でアメリカ帰りの社会主義運動家近藤栄蔵に接近する
     08/20仲宗根源和ら無産社の有志や、堺真柄ら赤瀾会員が「暁民会」に加わり「暁民共産党」を組織
     【組織結成はない?】
     のち宣伝ビラを作成し東京、大阪、京都、神戸などで配布
     10/12軍隊にビラを配る。治安警察法、出版警察法違反で検挙起訴される
     のち秋の陸軍大演習を機会に、軍人に対して社会主義宣伝文書を配布する計画を官憲が感知
     11/21近藤栄蔵、高津正道ら8人が検挙され秘密結社暁民共産党が禁圧される【11/25?】
     12/01「暁民共産党」のメンバー関係者40人が一斉検挙される。「暁民共産党事件(軍隊赤化事件)」
     12/06赤瀾会の堺真柄、仲宗根貞代が収監される
     のち被検挙者中15人が出版法および治安警察法の違反容疑で起訴
     1922(大正11)04/25近藤に禁錮10か月、高津、仲宗根源和ら8人に禁錮、罰金の判決がくだる
     それ以外は無罪に
     のち事件で「暁民会」は壊滅
     07/メンバーの大半は日本共産党「創立大会」に参加することに
  05/与謝野晶子が雑誌『女人創造』に「新婦人協会の請願運動」を発表
  05/福岡市と付近町村の博多織工が博多織職工組合を組織する
     幹部は三隅忠雄、松居孝一郎
  06/27普通選挙期成同盟会が協議会を開く
     新婦人協会の平塚明子、市川房枝、坂本真琴の3人が参加
      選挙権を成年以上の男女に拡張すること
      治安警察法第5条の婦人の政治演説の禁止条項を撤廃すること
      普選運動を婦人と協力して行なうこと、などを議決
     松本君平、小林勝氏、高木正年の3代議士は治安警察法第5条の撤廃に尽力することに
  06/大杉栄らが1919(大正08)10月6日に創刊した第1次『労働運動』が6月発行で廃刊に
  06/高畠素之が『資本論』第1巻第1分冊を大鐙閣から出版
     のち第1巻第2分冊以下を順調に刊行
     のち第3巻が刊行
     1924(大正13)07/関東大震災の余波で大鐙閣が倒産。大鐙閣の元社員が作っていた而立社で第2巻が出版
     日本で初めて『資本論』が完訳される
     1926(大正15)10/新潮社から改訳『資本論』全4冊が刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  07/02新橋駅の上東洋軒で山川夫妻帰京歓迎会が開かれる
     大杉栄と伊藤野枝も出席する
  07/07この日の大会を最後に友愛会が普通選挙期成関西労働連盟(関西連盟)から離脱
  07/19大阪の中の島公会堂で失業問題連合大会が開かれる
     友愛会、大阪刷子工組合、関西鉄工組合、新進会、大阪鉄工組合、向上会、車夫連盟会、印刷工革新同志会などが参加
     「失業労働者の徹底的救済要求」と「自由にして公正なる労働組合の制定」を決議する
  07/猶存社が機関誌『雄叫び』を発行する【猶存会?】
     中心スローガンは「日本帝国の改造」と「アジア民族の解放」
     1921(大正10)01/04前年12月31日に大川周明、満川亀太郎らに呼び寄せられ帰国した北一輝が加わる
     北は中核的存在として国家改造運動にかかわる
  08/05各種労働組合や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅して「日本社会主義同盟」の発起式が開かれる
     発起人は30人
     堺利彦(新社会評論)、山川均・荒畑寒村・服部浜次(労働組合研究会)、山崎今朝弥(平民大学)、
     橋浦時雄(北部自主会)、大杉栄・岩佐作太郎・近藤憲二・吉川守圀・水沼辰夫(北風会)、赤松克麿(新人会)、
     吉田只次(横浜赤●【方偏に流の旁】会)、高津正道(暁民会)、和田厳(建設者同盟)、田村太秀(扶信会)、
     麻生久(友愛会)、延島英一(信友会)、布留川桂(正進会)、前川二享(交通労組)、渡辺満三(時計工組合)、
     京谷周一(鉱夫総連合)、大庭柯公・小川未明(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、高畠素之(大衆運動社)、
     加藤一夫・加藤勘十(鉱夫総同盟)、岡千代彦・植田好太郎(無所属)
     【京屋周一? 加藤一夫(自由人連盟)?】
     【大杉の所属団体は東京労働運動同盟会? 社会主義連合の名称を最後まで主張したとも?】
     のち『新社会評論』を改題した『社会主義』が機関誌となる
     12/09創立準備会が開かれる。同盟は警察の意表をつき、いきなり「結成」を宣言する
  08/末李増林が大杉栄宅へ【李春熟?】
     大杉に上海で開催予定のコミンテルン極東社会主義者会議への出席を要請。大杉はふたつ返事で承諾
  09/02持病の腎臓病が悪化し山口義三(孤剣)[1883(明治16)04/19・生]が37才で没す
  09/08横浜市吉田町1丁目の貸席吉田亭で横浜赤旒会社会問題研究会が開かれる
     大杉栄が演説をはじめると、すぐに解散を命じられる
     一斉に革命歌を高唱し大杉以下8人が伊勢佐木町署に拘留される
  09/教育運動団体の啓明会が日本教員組合啓明会と改め全国的な運動への発展をめざす
     学習権の確立、教育委員会制度、教員組合結成の促進など「教育改造の四綱領」を発表
     教育運動団体の啓明会は1919(大正08)8月4日に組織される
  09/正進会と東京日刊新聞社数社との間に争議が起こる
     恐慌襲来後のストライキで賃金減額反対にする
     正進会は報知新聞社の5人の逮捕者のほか100人前後の解雇者をだす
  10/01第1回国勢調査が実施される
     結果、内地の人口は、5596万3053人(うち男2804万4185人、女2791万8868人)
     外地も含めた人口は、7698万8379人(うち男3890万3195人、女3808万5184人)
     東京府の人口は369万9428人(うち男195万2989人、女174万6439)
  10/03賀川豊彦が改造社から前半生を投影した自伝的社会小説『死線を越えて』を発行する
     定価3円。初版5千部は即日売り切れ
     のち改造社から中巻「太陽を射るもの」を発行する
     1924(大正13)12/03改造社から下巻「壁の聲を聞く時」を発行する。定価2円80銭
     のち上巻だけで150版を重ね、ほぼ100万部が売れる
     大正期最大のベストセラーとなる
  10/09「新婦人協会」が機関誌『女性同盟』を発行
  10/コミンテルンの使者が堺利彦や山川均、近藤栄蔵らに接触してくる
     コミンテルンは極東における社会主義者の国際組織をつくるために上海に行くことを希望
     日本側は大逆事件の記憶があり慎重に判断、それには応じず
     そこで無政府主義者の大杉栄が上海に行くことに
     大杉は極東社会主義者同盟の設立に賛成せず、通信連絡委員会をつくることには同意
  10/15過ぎコミンテルン主催の極東社会主義者会議に出席のため大杉栄が尾行をまいて消息を断ち上海へ密航する
     はじめは堺利彦や山川均にも話が持ちかけられるが2人とも尻込み
     役回りが大杉にくると「来るもの拒まず」とあっさり引き受ける
     のち上海のフランス租界陳独秀宅で開催した会議に出席
     ほかにヴォイチンスキー(コミンテルン極東部長)、呂運亨、李束輝ら
     コミンテルン代表のチェレンに対しアナキストとしての態度を堅持する
     チェレンより運動資金として2千円を無条件という条件で受け取る【雑誌発行資金? 3千円?】
     11/下旬帰国する
     上海へ行った大杉の動向を警察は関知できず
     戻った大杉が自身で発表して初めて警察の知るところに
  10/30「新婦人協会婦人参政演説会」が開かれる
  10/30石川三四郎が日本郵船の因幡丸で神戸に帰国上陸する
     石川は1913(大正02)3月1日に仏船ポール・ルカ号で横浜を出港
     10/30大阪で荒畑寒村の肝入りによる帰国第一声の演説を試みる
     日本語がでず散々の失敗に
     11/01神田区鍛冶町5番地の次兄犬三方に旅装を解く
  10/友愛会8周年大会が大阪天王寺公会堂で開かれる
     関西の普選肯定派と関東の反普選派による激しい論争が展開される
     賀川豊彦が普選論を主張し、麻生、棚橋らが反駁。会場は大混乱に
     反普選派は議会行動を否認して直接行動主義を高調。明らかにサンジカリズムの影響によるもの
     大会は決せず、夜の秘密会でも結論はでず
  10/3派ある鑛山の労働組合友愛会鑛山部、大日本鑛山労働同盟会、全国坑夫組合が合同
     全日本鑛夫総連合会が発足し友愛会に所属することに
     幹部は麻生久、河合栄蔵、坂口義治、野村正、佐野学、加藤勘十ら
  10/全国坑夫組合夕張聯合会が全国鉱夫総連合会夕張連合会に改組される
     アナキストの蟻通佳明や和田軌一郎が運動の中心に加わる
     和田は婦人部や朝鮮人部を指導
     鉱山の祭りには和田らを応援しようとアナキスト香具師が大挙して来山、労働運動を支援する
  10/関西労働組合連合会が組織される【11/20?】
     友愛会大阪連合会、大阪印刷工革新同志会、大阪洋服裁縫組合同志会、
     大阪刷子工組合、向上会、関西鉄工組合、鉄心会、電業員組合、人力車夫連盟会、
     商業使用人組合新生会、関西屋外労働誠友会、大阪仲仕人夫労働組合などが加盟
  11/04政界革新普選同盟会が創立される。綱領は普選断行、政党の改造、民本主義を基調たる新文化の建設
     憲政会国民党等所属議員が発起人。正式連合ではなく非政友会合同の地ならしとする
  11/11石川三四郎の帰国歓迎会が堺利彦、安部磯雄、高島米峯らの主催で神田区万世橋のミカドにて開かれる
     12/01吉田只次宅で石川三四郎帰国歓迎会が開かれる
  11/大杉栄が日本社会主義同盟機関誌『社会主義』『新社会評論』改題)編集委員に名を連ねる
     ほかの委員は橋浦時雄、山崎今朝弥、赤松克麿、小川未明。実務担当は橋浦時雄、近藤憲二、岩佐作太郎
  11/堺利彦、宮崎竜介、権熈国が中心となり内外社会主義者の交流をめざすコスモ倶楽部に大杉栄が入会する
  11/23京橋区南伝馬町の星製薬7階で黒曜会第2回作品展覧会が開かれる。6日間にわたり開催
     大杉栄も出品する
  11/30長崎港外香焼島の安保炭坑で争議が起こる
     今村等による坑夫の待遇改善、納屋制度の廃止を目的としたもの
     12/01今村等、中村安之助、竹原竹一ら指導者をはじめ77人が騒擾罪で起訴される
     のち片淵分監の未決に1年余り入獄
     のち懲役2年の判決により諫早監獄に服役する
  12/04小倉連隊に入営する横浜の同志送別会に大杉栄と伊藤野枝が出席
  12/05牛込区山吹町の八千代倶楽部で暁民会主催の社会主義講演会が開催
     堺利彦、大杉栄らが招かれる
     警察の弾圧に抗議、高津正道らと戸塚署に検束。即日釈放される
  12/09「日本社会主義同盟」の創立準備会が開かれる。同盟は警察の意表をつき、いきなり「結成」を宣言する
     12/10神田区の青年会館で創立大会が催される。「結成」の宣言は前日しており、「講演会」を名目とした集会に
     全国からの申込者は3千人に【1千人超?】
     大会は開会後まもなく官憲に解散を命じられ、会衆と警官隊に衝突が生じ数十人の検束者をだす
     社会主義同盟は社会主義者と労働組合幹部の公然で大規模な提携の上に成り立つことになる
     1921(大正10)05/09神田区の青年会館で「思想問題講演会」と銘打つ社会主義同盟第2回大会が開かれる
     05/28政府が社会主義同盟の結社禁止を命じる
     活動期間は短く有力な活動もなく、単一の政治党派を結成するには至らず
     ただ社会主義者が大同団結したことに意義が与えられることに
  12/09社会主義同盟の創立大会に向けて各地から集まる地方同志の歓迎会が大杉栄宅で開かれる
     出席者38人、全員が鎌倉署に検束される
  12/10夕方、神田区美土代町の基督教青年会館で社会主義同盟の講演会が開かれる
     大杉栄が会場にあらわれ「おれは大杉だァ」と叫びながら拘束される
     のち大杉は持病の肺患が悪化し絶対安静を命じられる
  12/15堺利彦宅に兵士(森下軍曹)が訪れる。堺と兵士は玄関で話をする。為子とたまたまいた真柄は台所で支度中
     叫び声をきき為子と真柄は玄関へ。兵士は逃げ、真柄は追いかける
     兵士は三ツ目錐で堺の胸をひと突き。堺は錐をもぎ取り放る。兵士は短剣をぬき刺そうとするも堺にうばわれる
     為子は医者へ電話するも往診中。歯医者にきてもらうと「大丈夫、肋骨を突いたので、あぶなく助かっています」と
     真柄は兵士に振り返られ恐れをなし家に帰る。兵士は剣なしの鞘をぶら下げうろつくなか、四谷見付の交番で捕えられる
  12/25大杉栄が麹町区有楽町3丁目1番地の露国興信所の1室を借り
     12/26入居。ベッドを入れて『労働運動』(第2次)の編集会議を開く
  12/30沖野岩三郎が大逆事件を参考にした小説『宿命』を福永書店より発行する
     小説『宿命』は1917(大正06)に大阪朝日新聞の懸賞に当選
  12/末大杉栄が東京毎日新聞社から「捨扶持」を受ける。1923(大正12)6月まで
  12/奈良県柏原の阪本清一郎、西光万吉、駒井喜作らが日本社会主義者同盟に加入する
     地元で村政の民主化に取り組む
     融和運動では真の解放は不可能と考え、新しい解放の道を模索する
  「新婦人協会」は、地方組織の拡充として小学校女教員に働きかける
     平塚らいてうは新潟柏崎の講演旅行を皮切りに名古屋、奈良、大阪、広島などをまわり支部結成を訴える
     11/15広島県三原女子師範学校会議室にて、県内協会員と教員を交えた懇談会を開催
     あとの会員会議で福山、三原、広島の3支部設置を決定する
     11月15日に刑事が学校を訪れる
     11/16地元警察署より会合に関する問い合わせがくる
     11/19同師範学校長が広島県庁に呼び出され「女教員が政治的性格を有す新婦人協会へ加入する事は不都合」と通告される
     11/21平塚のもとに知らせが届く。平塚と市川房枝は内務省、文部省や警保局長を訪問して見解をただす
     広島県当局へ事情説明を求める電報を送付する
     のち騒ぎの拡大に慌てた広島県当局は、女教員入会を認めると前言を翻す
     一方では県内の郡役所や県視学官による、新婦人協会支部所属の教員に対する召還や調査、戒告が行なわれる
     支部からの退会や機関誌購読を中止する者が続出
     のち広島支部が解散となる
     のち対して新婦人協会側は新聞紙上や『女性同盟』誌上に広島県当局批判の論陣をはる
     のち広島県側は教員の政治活動を制限する1917(大正06)発令の訓令第11号を盾にする
     選挙法改正と治安警察法5条改正運動に関与しない条件で、女教員の協会加入を認めると表明
     のち新婦人協会側は法改正を求める請願権は国民の権利であると抗議するも、広島県内の支部会員は激減。「広島事件」
  1910(明治43)鎧橋の日本橋小網町側橋詰付近に開店したカフェ「メイゾン鴻の巣」が京橋に移転
     「メイゾン鴻の巣」は本格的なフランス料理と洋酒を飲ませ、本格的なフランス式の深煎りコーヒーをだす
     与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎、吉井勇、岡本一平、谷崎潤一郎らが利用
  大阪商工青年団が大阪商業使用人組合新生会と改称される
     大阪市の会社員、銀行員、商店員、ほか一般商業使用人をもって組織
     大阪商工青年団がは1919(大正08)2月11日に結成する
  この年282件の同盟罷工がある。組合の数は66
     同盟罷工の数は前年の497件から激減
  この年の小作組合数は91。小作争議は408件


1921(大正10)

  《総理大臣》[第19代]原敬(→11/04在任中に暗殺)、[原内閣]内田康哉外務大臣が臨時兼任(11/04→11/13)
  《総理大臣》[第20代]高橋是清(11/13→)
  《内務大臣》[第36代]床次竹二郎、[第37代]床次竹二郎(11/13→)
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎
  《内務省警保局局長》川村竹治(→05/27)、湯地幸平(05/27→)


  この年に入り普通選挙運動は下火に
  01/04前年12月31日に大川周明、満川亀太郎らに呼び寄せられ帰国した猶存社に北一輝が加わる【猶存会?】
     北は猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわる
     のち大川周明、満川亀太郎、北一輝が猶存社の中心人物として「三尊」と称される
     のち猶存社の思想は国家主義的な知識階級に影響を与える
     のち同人による学生運動の指導により各大学に団体が生まれる
     東京帝国大学「日の会」、京都帝国大学「猶興学会」、第五高等学校「東光会」、
     慶應義塾大学「光の会」、札幌農学校「烽の会」、早稲田大学「潮の会」、拓殖大学「魂の会」など
     1923(大正12)03/天皇観の相違やヨッフェ来日問題をめぐり北と大川、満川との対立が激しくなる
     猶存社が解散、分裂する
  01/29ボル派の伊井敬(近藤栄蔵)らが加わり『労働運動』が第2次とし復刊される
     コミンテルンの資金をもとに月刊から週刊に躍進
     同人は大杉栄、久坂卯之助、和田久太郎、近藤憲二、中村還一、
     岩佐作太郎、高津正道、伊井敬(近藤栄蔵)、竹内一郎、寺田鼎
     「日本革命近し」の情勢判断の下、アナ・ポル協同戦線を組む
     なかの1ページをボル派に提供する
     04/伊井敬らと対立する
     06/25第2次が第13号で廃刊となる
  01/30友愛会の中央委員会が「議会主義か直接行動か」の提案に対し今更議定の必要をみずと片づける
     率直に普選反対の意志を表明する
  01/『労働運動(第2次)』が創刊されると「暁民会」の高津は大杉栄と参加
     誌の中心人物でアメリカ帰りの社会主義運動家近藤栄蔵に接近する
     「暁民会」の結成は1920(大正09)5月
     08/20仲宗根源和ら無産社の有志や、堺真柄ら赤瀾会員が「暁民会」に加わり「暁民共産党」を組織【結成はない?】
     のち宣伝ビラを作成し東京、大阪、京都、神戸などで配布
     10/12軍隊にビラを配る。治安警察法、出版警察法違反で検挙起訴される
  01/友愛会の機関誌『労働』に東京連合会主事ね棚橋小虎が「労働組合に帰れ」を発表
  01/東京足立製作所にストライキが起こる
     ストライキが暴力化して憤激した友愛会東京鉄工組合所属の泉忠らは工場を襲撃
     工場主や事務員に傷害を与え機械の重要部分を破壊したテロリズムをもって有名となる
  01/日本鉄工株式会社にストライキが起こる
  01/兵庫県の橋本造船所にストライキが起こる
  01/夕張炭山にストライキが起こる
  01/東京の河合徳三郎が大日本国粋会を脱会し、民政党の後盾のもと大和民労会を結成する
     会長は河合徳三郎。中心メンバーは関根賢、高橋金次郎、城迫正一ら
     発会式は浅草伝法院で行なわれ、約5千人が集まる。憲法学者の上杉慎吉が祝辞演説に立つ
     のち官憲、資本家の別働隊として、労働争議や社会主義者の演説会に出動
     妨害を試み暴力をふるい流血の惨事を引き起こすことに
  02/01評論雑誌の月刊『六合雑誌』が481号をもって終刊となる
     『六合雑誌』は1880(明治13)10月11日に小崎弘道、植村正久、田村直臣らが創刊
     政治、思想、社会問題などについて、キリスト教社会主義など進歩的立場から論じる
  02/10大杉栄、伊藤野枝、魔子、和田久太郎が金沢八景へ馬車で遊覧
  02/15大杉栄の肺結核が悪化、医者から絶対安静を命じられる
     さらにチフスにかかり築地の聖路加病院に入院
     見舞いにいった堺利彦や山崎今朝弥、大庭柯公、布施辰治らは面会できず
     入院中、病院の主治医が大杉の影響をうけエスペランチストに
     03/28入院から6週間たち退院。汽車に乗り鎌倉へ帰る【03/29?】
     警察は大杉を退院させず駒込病院に転院させようと画策するも失敗する
  02/第44帝国議会では衆議院本会議で治安警察法第5条の改正案可決、貴族院も委員会可決となる
     治安警察法は1900(明治33)公布。反対運動は1919(大正08)の新婦人協会の結成と同時
     03/26議会最終日の貴族院本会議で貴族院議員藤村義朗男爵の反対演説にあい否決となる
     1922(大正11)02/第45帝国議会衆議院に改正案再上程
  02/伊藤野枝が雑誌『改造』2月号に「中産階級婦人の利己的運動:婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を発表
  02/大日本機関車乗務員会沼津支部の発会式が行なわれる
     鉄道当局の圧迫を被り幹部は解雇、転勤を命じられ組合は崩壊することに
     鉄道当局は現業員会のような協調機関の発達に力を注ぎ、横断組合は絶対に認めない方針となる
  03/11大杉栄と伊藤野枝のあいだに三女エマが生まれる【03/13(戸籍面は2月13日)?】
     エマの名は伊藤が心酔していたロシア出身でアメリカ在住のアナキスト、エマ・ゴールドマンによる
     1922(大正11)06/07四女ルイズが生まれる[1996(平成08)06/28没]
     ルイズはパリ・コンミューンで名を馳せたアナキスト、ルイズ・ミシェルにちなむ
  03/13週刊『労働運動』(第2次)第6号掲載のクロポトキン「青年に訴ふ」が新聞紙法違反に。訳は大杉栄
     発行が差し押さえられる
     06/03不起訴となる
  03/28安部磯雄が早稲田大学出版部から『社会問題概論』を発行する
  03/麻生久らが指導した足尾銅山のストライキの解決方法に問題が生じる
  03/巣鴨ナプオツル時計工場にストライキが起こる
  03/東京の園池製作所にストライキが起こる
  03/尼崎東亜セメント株式会社にストライキが起こる
  03/大阪市北区にある東洋鑢伸銅株式会社にストライキが起こる
  03/大阪の汽車製造株式会社にストライキが起こる
  04/21宣言し綱領に定める
     「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります」
     04/24日本で初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が結成される。「赤瀾」は赤い「さざなみ」を意味する
     前身となるのは時計工組合とアナキスト系の思想家グループ北風会が集い作った自主的な研究グループの「北郊自主会」
     赤瀾会のメンバーは先に発足していた新婦人協会に対して、強い対抗意識を持つ
     主な中心人物:顧問格/伊藤野枝(大杉栄の妻)、山川菊栄(山川均の妻)
     世話人/九津見房子(30・労働運動社の社員)、秋月静枝(中名生幸力の妻)、
     橋浦はる子(22・橋浦泰雄・時雄の妹)、堺真柄(18・堺利彦の娘)、
     岩佐しげ(岩佐作太郎の妻)、 北川千代(江口渙の妻)会計、高津多代子(高津正道の妻)、
     堺為子(堺利彦の妻)、仲宗根貞代(仲宗根源和の妻)、中村志げ(望月桂の義妹)、
     中村みき(中村還一の妻)、橋浦りく(橋浦時雄の妻)、堀保子(堺利彦の先妻の妹で大杉栄の前妻)、
     望月ふく子(望月桂の妻)、吉川和子(吉川守圀の妻)
     当初は社会主義同盟員の家族を中心とした42人。大部分は名簿会員で、実働は10数人
     08/頃リーダー格の九津見房子が恋愛により東京からの離脱
     のち主なメンバーの離脱、検挙、起訴、投獄が起きる
      08/31高津多代子への弾圧お目出度誌事件で検束9月9日収監9月15日再拘引12月7日に証拠不十分で釈放
      10/12軍隊に反戦ビラを配る「暁民共産党事件」(軍隊赤化事件)容疑で堺真柄と仲宗根貞代が収監
      12月6日入獄翌1月9日保釈出獄1923(大正12)出版法違反で禁固4か月が確定し下獄
     のち自然解消に向かうこととなった。
     1923(大正12)03/08「赤瀾会」が第1回国際婦人デー(国際女性デー)の集会を主催、開催される
     集会そのものは警察に解散命令を受ける
     「赤瀾会」の社会主義婦人運動が山川菊栄らの「八日会」に引き継がれる
  04/堺利彦、山川均、近藤栄蔵、橋浦時雄、渡辺満三、高津正道らが東京の大森駅近くで会合をひらく
     「日本共産党準備会」(コミンテルン日本支部準備会)を秘密裡に発足させる
     1922(大正11)07/15東京府豊多摩郡渋谷町にて堺、山川、近藤、吉川守圀、橋浦、浦田武雄、渡辺、高瀬清が会合
     非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党「第1次共産党」を創立する
     11/コミンテルン第4回大会に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認される
     1923(大正12)06/佐野学の隠匿党内文書が発見。主要党員が検挙される。第1次共産党事件
  04/足尾銅山にストライキが起こる
  04/大阪電燈株式会社にストライキが起こる
  05/01第2回メーデー。東京、大阪、神戸、足尾で挙行
  05/01「赤瀾会」第2回メーデーに参加する
     大きく「赤瀾会」の字を書いた旗と、小さな RW(Red Wave)の旗を掲げデモに参加
     旗はいずれも黒地に赤い文字を縫いつける
     労働者から大いに注目を浴び、警察と立ちまわりを演じて全員が検束。マスコミに報道され恰好のえじきに
     05/02新聞各紙で社会面トップ記事に取り上げられる。堺利彦の娘である18歳の堺真柄はマスコミの寵児に
     翌年のメーデー女性の参加者が全国各地でみられるようになる
  05/07海員団体の大同団結がなり日本海員組合が成立する
     第2回国際労働総会から帰った海員代表らは熱心に合同を主張した結果
     会長には楢崎猪太郎が推される
     友愛会の海員部が直接の打撃を受け海員部は消滅することに
  05/08週刊『労働運動』(第2次)第10号が発行禁止に
  05/09神田区の青年会館で「思想問題講演会」と銘打つ社会主義同盟第2回大会が開かれる
     挨拶のみで講演がはじまると「弁士中止」「解散」と宣告、警官は控え室の弁士を殴り蹴り髪の毛をむしり拘引
     【開会宣言もしないうちに警察の妨害によって中止?】
     【事前に多くの執行委員が検束され大会は解散を命じられる?】
     検束されたのは大杉栄、和田久太郎、高津正道、江口渙、服部浜次、加藤一夫、
     岩佐作太郎、堺為子、堺真柄など49人。なかにはロシアの盲目詩人エロシェンコも
     観衆のなかには、のち虎の門事件を起こす難波大助の姿も
     05/28政府が社会主義同盟の結社禁止を命じる
     活動期間は短く有力な活動もなく、単一の政治党派を結成するには至らず
     ただ社会主義者が大同団結したことに意義が与えられることに
     のち同盟内左派の堺利彦は1922(大正11)に日本共産党(第一次共産党)を結成
     合法性の維持を目指す非共産系は単一の政党結成には至らず
     1925年に右派の社会民衆党と中間派の労働農民党にわかれる
  05/09神田区美土代町の基督教青年会館で第2回日本社会主義同盟大会が開かれる
     大杉栄は大会へ出かけるところ自宅前で検束される
  05/14建設者同盟の講演会が青年会館にて開催。「赤瀾会」の九津見房子と仲宗根貞代が参加し講演も
  05/15借家人同盟大会に参加するため「赤瀾会」の九津見房子と堺真柄が大阪に向かう
     大阪駅で検束され曽根崎署で1泊、大阪からの立ち退きを条件に釈放される
  05/近藤栄蔵が上海で開かれるコミンテルンの極東部委員会へ「日本支部準備会」の連絡員として派遣される
     上海に着いた翌日近藤の歓迎会が行なわれる
     近藤は「極東諸民族共産主義者グループの最初の正式顔合せ」とするも先鞭をつけたのは前年の大杉栄
     運動資金6500円を受け取って帰国
     10/12軍隊にビラを配る。治安警察法、出版警察法違反で検挙起訴される
     11/25「暁民会」の中心近藤栄蔵が逮捕される
     12/01「暁民共産党」のメンバー関係者40人が一斉検挙される。「暁民共産党事件(軍隊赤化事件)」
     近藤の逮捕、暁民共産党の一斉検挙で暁民会を中心とするコミンテルン日本支部準備会設立への運動は中断する
  05/友愛会本部と東京連合会が関東方面の労働組合共同戦線体「労働組合同盟」を脱退する
     友愛会の現実派とサンジカリストの信友会、正進会との衝突の結果
  05/埼玉県の熊谷に社会主義結社が成立する
  05/大阪にある田中機械製作所にストライキが起こる
  05/神戸の川崎鉄工所にストライキが起こる
  06/11「赤瀾会」がメーデーのビラ配布で出版法違反を問われ罰金40円を得るため青年館で婦人問題講演会を主催
     男性の参加者が多数を占める。講演会は弁士中止を受けることなく無事に終了
     東京女子高等師範学校、津田英学塾、淑徳女学校、女子高等職業学校、女子高等医学専門学校などの女学生が参加
  06/25週刊『労働運動』(第2次)が第13号で廃刊に
  06/25神戸市の川崎造船所3工場(本社、兵庫、葺合)と三菱3社(造船、内燃機、電機)が総罷業に入る
     友愛会指導のもとに参加人員3万5千、罷業日数45日と空前の大労資戦となる。第2次大戦前の日本最大の罷業
     07/12罷業団は工場管理を宣言し社会を驚かす
     07/18川崎造船所、三菱造船所の争議が激化し争議戦術に関して賀川豊彦が「工場管理について」を発表
     「これは暴力による工場占領ではない、一産業における全労働者の合意的決意による建設的企図である」
     兵庫県知事の有吉忠一は出兵を要請し、姫路師団の一個大隊は軍用列車で神戸へ乗り込む
     07/29川崎争議団1万3千人が賀川豊彦を先頭に示威運動を行なう
     罷業団の示威行進と警官隊とが2か所で大衝突を起こし多数の負傷者がでる
     夜、川崎争議団本部と神戸友愛会本部が警官隊に襲われ賀川以下の幹部が一斉検束される
     賀川豊彦、久留弘三、野倉萬治、青柿善一ら210人の幹部が拘禁
     各罷業団本部が警官隊に占領される
     07/31友愛会本部から鈴木文治、松岡駒吉、赤松克麿ら幹部が西下し闘争を継続する
     08/06警官隊と衝突しされた犠牲者常峰俊一の葬儀が罷業団の悲壮な大示威行進により行なわれる
     08/10午後9時20分、賀川が証拠不十分として橘分監裏門より出獄
     08/11力尽き惨敗の宣言を発表する
  06/26「新婦人協会」の市川が理事を辞任して渡米
     のち平塚が健康上の理由から協会運営から退く
     運動方針をめぐる平塚と市川の対立により設立早々の脱会に
     のち新婦人協会は奥むめおと坂本真琴を中心に活動が続く
     のち東京大森の坂本宅に協会本部事務所、東京西巣鴨の奥宅に機関誌編集部を移転
     経済的な理由から機関誌の発行が頻繁に遅延するなど苦しい協会運営が続く
     のち市川と平塚が去り個性の強い協会員間の対立が表面化
     1922(大正11)12/08平塚の希望により臨時総会を開き協会の解散をきめる
     結成は1919(大正08)11月24日
  06/伊藤野枝が「赤瀾会」に関し雑誌『労働運動』に「婦人の反抗」、『改造』に「赤瀾会について」を発表
  06/横浜の内田造船所にストライキが起こる
  06/友愛会が関東方面の労働共同戦線となる労働組合連盟から脱退
     06/04友愛会(労働総同盟)に反感を抱く機械技工組合、工人会、純労働者組合などが機械労働組合連合を作る
     創立大会を挙行する
     機械労働組合連合はサンジカリズムの色彩が強く、長く反総同盟的な立場をとるに至る
  06/大阪の藤永田造船所にストライキが起こる【05/?】
  06/大阪にある住友伸銅所、住友鋳鋼所、住友電線製造所の住友3工場にストライキが起こる
  07/07東京連合会幹部総会にて棚橋小虎が主事の辞任を申し出
     急進派の東京鉄工組合が東京連合会から脱退を声明
  07/13大杉栄が「自叙伝」執筆取材のため久しぶりに新発田へ。伊藤野枝、魔子も連れていく。7月20日に帰宅
  07/15友愛会東京連合会第2回大会が開かれる
     代議員選出方法の議論を発端に現実派と急進派に衝突が起き議場が大混乱に
  07/18〜22「赤瀾会」が麹町区元園町の事務所で夏期講習会を開催
  07/23上海で中国共産党第1次全国代表大会が開かれ中国共産党が創立する
     コミンテルンの主導により陳独秀や李大_、毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合
     陳独秀は北京大学文科長、李大_は北京大学図書館長、毛沢東は元北京大学図書館司書
  07/26/帝国ホテルで改造社主催のバートランド・ラッセル歓迎会が開かれる
  07/「赤瀾会」の山川菊栄が雑誌『太陽』7月号で「新婦人協会と赤瀾会」を発表
     協会の活動を「労して益なき議会運動」「ブルジョア婦人の慈善道楽」と批判する
     08/同誌8月号に奥むめおが「新婦人協会」の立場から「私どもの主張と立場」を書く
     治安警察法5条改正の意味や、女性の自覚と階級を超えた団結の必要性を説いて反駁する
  07/アメリカ大統領ハーディングが国際軍縮会議の開催を提唱する
     11/11軍縮会議がワシントンで開かれる
     日英米3国の主力鑑の比率を3、5、5と決定
     建鑑の中止により官業労働者が直接の被害をこうむる
  07/雑誌『解放』に佐野学が「特殊部落解放論」を発表
     「解放の原理」で特殊部落民の自主的解放を説く
     奈良県南葛城郡掖上村で部落の改善や解放を志す燕会の阪本清一郎らは大いに元気づく
  07/財界不況による失業不安の色が濃くなり、労働争議の犠牲者を中心に大阪失業者大会が開かれる
  07/夕張炭山にストライキが起こる
  07/神戸製鋼所にストライキが起こる
  07/台湾製糖株式会社にストライキが起こる【大阪出張所?】
  07/神戸にあるダンロップ株式会社にストライキが起こる
  夏/高嶋三治が桜井庄之助に同行して沼津におもむく
     桜井は沼津を桜井一家の拠点とする
  夏頃/香具師の社会主義運動が散発的に広がる
     不穏ビラ散布、政治を風刺した演歌や演説、労働組合の支援が中心
  08/04大杉栄が信州へ。上諏訪町で鮎沢寛一、竹内仲之らにあう。8月12日に帰宅
  08/20仲宗根源和ら無産社の有志や、堺真柄ら赤瀾会員が「暁民会」に加わり「暁民共産党」を組織【結成はない?】
     のち宣伝ビラを作成し東京、大阪、京都、神戸などで配布
     10/12軍隊にビラを配る。治安警察法、出版警察法違反で検挙起訴される
     のち秋の陸軍大演習を機会に、軍人に対して社会主義宣伝文書を配布する計画を官憲が感知
     11/25「暁民会」の中心近藤栄蔵が逮捕される
     12/01「暁民共産党」のメンバー関係者40人が一斉検挙される。「暁民共産党事件(軍隊赤化事件)」
     近藤の逮捕、暁民共産党の一斉検挙で暁民会を中心とするコミンテルン日本支部準備会設立への運動は中断する
     12/06赤瀾会の堺真柄、仲宗根貞代が収監される
     のち被検挙者中15人が出版法および治安警察法の違反容疑で起訴
     1922(大正11)04/25近藤に禁錮10か月、高津、仲宗根源和ら8人に禁錮、罰金の判決がくだる
     それ以外は無罪に
     のち事件で「暁民会」は壊滅
     07/メンバーの大半は日本共産党「創立大会」に参加することに
  08/小石川労働会の一部、工友会、芝浦技友会、日本労働協会なが合同して日本労働連盟を組織する
     普選運動に熱中する小石川労働会の芳川哲らに反対した安達和らが純粋な労働組合を作る
  08/神戸の川崎造船所、三菱造船所の争議による失業者が浪人会を作る
     職業紹介、営業、企画の3部を設け事業を営み、企画部は友成工作所を借り受けて事業を開始する
  09/29丙午出版社が堺利彦の『楽天囚人』を発行する。定価1円80銭
  09/社会運動が2陣営にわかれる
     5月の日本社会主義同盟野解散と、9月の労働組合総連合の決裂から
     ボルシェビズム(共産主義)とサンジカリズム
     のち共産主義が優勢を占めてサンジカリズムを圧倒する
     のちサンジカリストの急進的労働組合員や急進的知識階級で共産主義に転向するものが続出する
     山川均、荒畑寒村、野坂鐵らは転向の先駆に
  09/横浜船渠株式会社にストライキが起こる
  09/横浜製作所にストライキが起こる
  09/横浜の浅野造船所にストライキが起こる
  10/01友愛会第10周年全国大会が開かれる
     急進派は「主張」のなかから普通選挙を削除すること、総同盟罷業の承認、団体交渉権の反対などを主張
     現実派は急進派の主張を反対し、多数をもって急進派を抑えることに
     さらに大会は軍備全廃案を可決する
     軍備全敗案の議決により労働運動犠牲者に感謝状を呈したことで、当局は鈴木文治と松岡駒吉を起訴
     「大日本労働総同盟友愛会(友愛会)」は大会を機に名称を変更し日本労働総同盟(総同盟)と名乗ることに
     反社会主義的な態度から社会主義の立場に変化していく
     名実共に中央労働団体としての体制を確立する
     1936(昭和11)01/05全日本労働総同盟(全総)と改称する
  10/08賀川豊彦と杉山元治郎が賀川宅で農民団結の必要を懇談
     杉山は牧師兼農業技術者兼歯科医
     数日後賀川と杉山が農民運動の協議中、賀川の友人で大阪毎日新聞の記者村島帰之が加わり一層具体的な話に
     翌日村島が農民組合の組織の計画を『大阪毎日新聞』に掲載する
     直ちに各地から申し込みが相次ぎ、賀川らは仮の本部を賀川宅に設け杉山を理事長に計画を進める
     1922(大正11)02/機関紙として『土地と自由』を発行する
     03/12賀川、杉山、村島のほか仁科雄一、古瀬伝蔵、小川渙三らが集まり協議
     04/09日本農民組合の創立大会が神田区のキリスト教青年会館で開かれる
     それまでは全国各地で小作組合が生まれるも、すべて孤立的存在。全国的統一の農民運動として起こされることに
     大会には2府31県からの出席があり約140人を集める
     役員は組合長に杉山元治郎
     理事に賀川豊彦(兵庫)、村島帰之(兵庫)、山川漁三(岐阜)、古瀬伝蔵(東京)、
      岩内善作(新潟)、山上武雄(岡山)、長村七郎(大阪)、小林隆(福岡)、稲垣常次郎(愛知)
     創立大会時の主な所属組合は北河内郡津田村・同郡川越支部・同郡招提支部(大阪)、
     那賀郡名手支部(和歌山県)、三島郡日越村中越連合会(新潟県)、
     小田郡矢掛町小林支部・邑久郡福田村支部・上道郡雄神村支部(岡山県)、
     山田郡毛里田村群馬連合会(群馬県)、有馬郡小野村永澤寺支部(兵庫県)、
     越智郡桜井町支部(愛媛県)、西筑摩郡大桑村支部(長野県)、
     飽海郡西荒瀬村支部(山形県)、恵那郡坂下町支部(岐阜県)
     のち組合の成立は社会各方面に衝撃を与えることに
     特に小作争議に悩まされた地主階級には脅威を感じさせる
     賀川や杉山の指導は極めて穏健なのに賀川一派が労働運動の関係者で、保守的な地主らは危険を感じさせる
  10/中国共産党の張大羅が第三インターナショナル(コミンテルン)のリポータとして来日
     堺利彦、山川均、近藤栄蔵と会見し、12月に開催予定の極東民族大会への日本からの代表派遣を要請
     要請に応える形で社会主義者、アナーキストのグループとともに日本代表(7人、内アナキスト5人)を人選
     のち堺利彦、山川均らが徳田球一(水曜会)、高瀬清(暁民会)、和田軌一郎、小林進次郎、吉田一らを派遣
     1922(大正11)01/21参加者は上海を経てモスクワへ行き、極東諸民族大会に出席する
     ロシアと日本共産主義者との最初の交渉となる
     日本代表はコミンテルンより日本共産党創設の指導と活動資金を受ける
     スターリンらから日本における共産主義運動についての指示を受けて帰国
     帰国後党創設準備を開始する
  10/石川島造船所にストライキが起こる
  10/横浜の浦賀船渠株式会社にストライキが起こる
  11/04原敬が内閣総理大臣在任中に東京駅で中岡艮一に刺殺される。ほぼ即死。65年の生涯を閉じる
     [1856(安政03)03/15《02/09》生]
     原敬は関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後。中岡艮一は山手線大塚駅の転轍手
  11/13中名生幸力らが主催の社会問題講演会が仙台の歌舞伎座で開かれる
     大杉栄、加藤一夫、岩佐作太郎が招かれるも会場へ行く途中に検束される
  11/25大杉栄が神奈川県三浦郡逗子町字逗子966番地に移る
  11/28聚英閣が山崎今朝弥の『弁護士大安売』を発行する。定価1円80銭
  11/片山潜がメキシコを発ち、アメリカ、フランス、ドイツを経てソビエトに向かう
     12/14大歓迎を受けソビエトに入る
     12/23第9回ソビエト全ロシア大会にて初めてレーニンと会う
     1925(大正14)01/〜03/ウラジオストックから日本海を経て上海へ
     (印の事象は以降の記述なし)
  11/芝浦製作所に分存していた4団体が合同して芝浦労働組合が成立する
     友愛会支部、芝浦技友会、立憲労働義会袖ケ浦支部、共隆会芝浦支部
     1工場1組合の方式
     のちこの方式は労働界にあらわれる
  12/04麹町区元園町1丁目44番地の赤瀾会事務所で親睦会が開かれる
     大杉栄が伊藤野枝と出席する
  12/13無産社で「赤瀾会」の相談会を開く
  12/島田三郎が軍縮会議を成功させようと東西を奔走する
  12/20島田三郎が暸文堂より『日本改造論』を発行。定価2円20銭
  12/24神田区北甲賀町12番地の駿台倶楽部でロシア貴金救済展覧会が3日間にわたり開かれる
     大杉栄が2点の書を出店する。撤去を命じられる
  12/25日本労働総同盟本部にて労働組合大会が開かれる
     関東同盟会(労働総同盟)、労働組合同盟会、官業労働総同盟、芝浦労働組合、本芝労働組合などが会合
     失業問題に3項目を決議する
  12/26月刊『労働運動』(第3次)が創刊される
     同人に大杉栄、伊藤野枝、和田久太郎、近藤憲二。アナキズムの旗色を鮮明にする
  12/向上会主催の全国官業労働者の臨時大会が大阪で開かれる
     大会は軍備による失業者に対し最低2個年分の賃金を支給すべきなど、諸項目の貫徹を期すべきと決議
     会衆は赤長旗をなびかせ大示威運動を行なう
     旗には「聞けよ、野に満つる失業不安の声を」「凡ての人にパンを行き渡らしめよ」と記される
  12/実勢力を失った東京連合会が関東地方の友愛会加盟組合と合体して関東労働同盟会を組織する
  年末/関西地方の資本家は約50工場、8万人の労働者に工場委員会制を実施する
     労働者に諮問機関の工場委員会を与えることで労働組合を挫折させるのに有利と考える
     その8割は労働者の要求がないのに設けられる
  下谷区萬年町2丁目54番地の萬年特殊尋常小学校の校長坂本龍之輔が病気のため退職
     萬年小学校は廃校となり生徒は山伏小学校に転する
     開校は1903(明治36)2月
     のち卒業生がその徳をしのんで竜生会をつくる
  新潮社が木下尚江の『田中正造翁』を発行する
     なかには庭田源八の『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』を多少省略、「渡良瀬川の詩」と改題して収録
     『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』は1898(明治31)3月2日に栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の農民庭田源八が記す
  ガントレット恒子、久布白落実らにより日本婦人参政権協会が発足
     婦人参政権運動を展開する
     のち日本基督教婦人参政権協会
  この年の組合の数は71
  この年の小作組合数は373。小作争議は1680件


1921(大正10)頃

  老壮会のメンバーに左翼派の脱会者が数多くなるに従いのちに分裂
     老壮会は1918(大正07)10月9日に結成
     左翼思想家、国家主義者、社会主義者、国粋主義者など、思想や職業を問わず一定の目的も定めずに在京者が一堂に会す
     急進的な右翼的な思想を持つ満川亀太郎、大川周明、北一輝らは猶存社
     高畠素之らは大衆社へとそれぞれの思想系統へと分岐する


1922(大正11)

  《総理大臣》[第20代]高橋是清(→06/12)、[第21代]加藤友三郎(06/12→)
  《内務大臣》[第37代]床次竹二郎、[第38代]水野錬太郎(06/12→)
  《警視総監》[第25代]岡喜七郎、[第26代]堀田貢(06/12→)、[第27代]赤池濃(10/24→)
  《内務省警保局局長》湯地幸平(→06/14)、後藤文夫(06/14→)


  01/06吉田耕三ほか2人が鹿児島県姶良郡国分村の吉元印刷所に不穏ビラの印刷を依頼
     拒絶される
  01/21コミンテルンがモスクワとペトログラードで国際会議「極東民族大会(極東勤労者大会)」を開催する
     正式名称は「極東の共産主義的・革命的組織の第1回大会」。2回以降は開催されず
     はじめはイルクーツクで列強の植民地支配の揺さぶりを目的に「東方被圧迫民族大会」の開催を1922年12月に企画
     「被圧迫国」とはいえない日本の参加が多く見込まれ、開催直前に名称に改め、会場を変更し、日程も遅れて開会
     日本、朝鮮、中国・モンゴルを中心にインド、ジャワなど計148人の社会主義者(共産党員)と民族主義者が参加
     日本からは「在米日本人社会主義者団」の片山潜、田口運蔵、野中誠之、二階堂梅吉、間庭末吉、鈴木茂三郎ら
     日本国内からは高瀬清(暁民会)、徳田球一(水曜会)、吉田一(アナキスト)ら16人
     ロシアと日本共産主義者との最初の交渉となる
     会議では議長報告で「日本の革命なしには極東におけるいかなる革命も比較的重要でない地方的な事件にすぎないだろう」
     中国や朝鮮と比べ革命党の組織化が遅れる日本での運動を重視する認識を示す
     会期中、日本代表団は「日本における共産主義者の任務」を採択する
     日本代表はコミンテルンより日本共産党創設の指導と活動資金を受ける
     スターリンらから日本における共産主義運動についての指示を受けて帰国
     会期は2月2日まで
     帰国後党創設準備を開始する
  01/21伊豆へ写生旅行に行った久坂卯之助が天城山の猫越峠で凍死する
     01/31神田区の中央仏教会館で久坂の告別式が行なわれる。大杉栄も列席する
  01/社会主義者新年会で堺利彦が右翼の大塚某から暴行を受ける
     12/15堺が自宅で陸軍鍛工長の森下某に錐と佩剣(はいけん)で胸など数か所を刺される
  01/燕会の阪本清一郎らが水平社を設立
     パンフレット「よき日の為めに」を発行する
     03/03水平社創立大会が京都の岡崎公会堂で開かれる
     京都、大阪、奈良、和歌山、滋賀、三重、岡山、兵庫、東京など諸地方から約2千人の代表者が参集【約3千人】
     綱領、宣言、決議を決定する
     「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で有名な日本最初の人権宣言「水平社宣言」を駒井喜作が読み上げる
     水平社宣言は満場一致で採択される
     大会後各地代表者80余人が協議会を開き全国水平社則7章を決定
     中央執行委員長には南梅吉が推される
     中央執行委員に駒井喜作、西光萬吉、阪本清一郎、桜田規矩三、平野小剣、米田実が決定する
     のち全国水平社は本部を京都の南梅吉宅におき、機関誌『水平』を発行
     幹部らは各地に宣伝すると続々と地方水平社が設立され創立大会が催される
     04/02京都04/15埼玉県箕田04/21三重県松坂05/10奈良県高田
     のち和歌山、滋賀、岡山、福岡山口、高知、愛媛、群馬などに相次いで設立される
     のち各地の水平運動は差別事件の糾弾に力を注ぎ、全国で多数の差別糾弾事件が発生する
     1923(大正12)03/創立大会1年にして成立した地方水平社は全国で約60を数えるまでに
  02/05大杉栄、和田久太郎、岩佐作太郎、近藤憲二らが福岡県の八幡市へ潜行
     有楽館で元労友会主催の八幡製鉄所大罷工2周年記念演説会が開かれる
     大杉は約40分にわたり演説、弁士中止で降壇する
  02/06永島善一郎らが若干枚の不穏ビラを石川県河北郡津幡町にて群集に配布する
     ビラは金沢市大工町印刷業森隆文宅にて1千部を印刷
     2月5日には金沢市での普選断行要望運動の際、一般群衆に頒布する目的で約140枚を懐中、
     参加しているところを発見、諭旨の上提供させる
  02/07九州からの帰途、大杉栄が大阪で下車。今宮町の春乃家での集会に出席する
     警察に嗅ぎつけられ今宮署に1晩留置される
  02/21大日本平等会の同胞差別撤廃大会が大阪で催される
     西光万吉、泉野利喜蔵らが全国水平社創立へのアピールを行なう
  02/第45帝国議会衆議院に治安警察法第5条の改正案再上程
     治安警察法は1900(明治33)公布。反対運動は1919(大正08)の新婦人協会の結成と同時
     02/09坂本真琴、奥むめおら新婦人協会幹部(平塚と市川は協会運営から退く)と、協会の支援者や議員が協議
     治安警察法5条2項削除に目標を絞り込んだ上で運動を進める事を決定
     02/17新婦人協会の坂本真琴と奥むめおが貴族院議員藤村男爵を訪ねる
     第45帝国議会審議中の治安警察法改正案成立のため、反対派の藤村に談判、法改正への賛同を得る
     のち坂本らは、貴衆両院各議員への陳情を連日繰り返す
     03/18衆院本会議で改正案可決、貴族院へ送付となる
     03/20貴族院では改正案上程、委員会付託
     03/23委員会を通過
     03/25議会最終日、閉会間際の午後11時50分、貴族院本会議において治安警察法5条改正案が可決。成立する
     集会の自由を禁じた第5条2項の改正に至る。治安警察法第五条改正運動
     04/02治安警察法第5条改正が公布
     05/10治安警察法第5条改正が施行される。女性集会の自由を獲得する
     のち女性の結社権を禁じた5条1項は残る。婦人団体を中心に治安警察法5条全廃を求める運動は続く
  02/農民組合の創立前段階として賀川豊彦、杉山元治郎、村島帰之らが機関紙『土地と自由』を発行
     杉山は牧師兼農業技術者兼歯科医、村島は賀川の友人で大阪毎日新聞の記者
     03/12賀川、杉山、村島のほか仁科雄一、古瀬伝蔵、小川渙三らが集まり協議
     04/09日本農民組合の創立大会が神田区のキリスト教青年会館で開かれる
     それまでは全国各地で小作組合が生まれるも、すべて孤立的存在。全国的統一の農民運動として起こされることに
     大会には2府31県からの出席があり約140人を集める
     役員は組合長に杉山元治郎
     理事に賀川豊彦(兵庫)、村島帰之(兵庫)、山川漁三(岐阜)、古瀬伝蔵(東京)、
      岩内善作(新潟)、山上武雄(岡山)、長村七郎(大阪)、小林隆(福岡)、稲垣常次郎(愛知)
     創立大会時の主な所属組合は北河内郡津田村・同郡川越支部・同郡招提支部(大阪)、
     那賀郡名手支部(和歌山県)、三島郡日越村中越連合会(新潟県)、
     小田郡矢掛町小林支部・邑久郡福田村支部・上道郡雄神村支部(岡山県)、
     山田郡毛里田村群馬連合会(群馬県)、有馬郡小野村永澤寺支部(兵庫県)、
     越智郡桜井町支部(愛媛県)、西筑摩郡大桑村支部(長野県)、
     飽海郡西荒瀬村支部(山形県)、恵那郡坂下町支部(岐阜県)
     のち組合の成立は社会各方面に衝撃を与えることに
     特に小作争議に悩まされた地主階級には脅威を感じさせる
     賀川や杉山の指導は極めて穏健なのに賀川一派が労働運動の関係者で、保守的な地主らは危険を感じさせる
  02/横浜船渠株式会社にストライキが起こる
  02/大阪汽車株式会社にストライキが起こる
  02/名古屋の各労働組合により中部労働組合連合会が組織される
  03/01神田区美土代町の基督教青年会館で新人会主催の過激社会運動取締法案批判演説会が開かれる
     大杉栄も参加
  03/25第45帝国議会最終日、閉会間際の午後11時50分、貴族院本会議において治安警察法5条改正案が可決。成立する
     集会の自由を禁じた第5条2項の改正に至る。治安警察法第五条改正運動
     04/02治安警察法第5条改正が公布
     05/10施行される
  03/山川均が雑誌『前衛』で普通選挙が実施されても無産階級は選挙権を放棄すべきことを提唱する
  03/大阪電燈株式会社にストライキが起こる
  03/賀川豊彦が新川で暴徒に襲われ前歯2本を折る
  03/大阪市電従業員により西部交通労働同盟が生まれる
  04/02香具師のグループが熊本市春日町二本樹町【二本木町?】にて廃娼運動のビラを配付する
     配付したのは富崎末松、桜本清人、今村茂喜、竹内大五郎ほか
     所属一家名や地位はわからず
     07/14同じビラを徳永参二が富山県内の遊廓にまこうと計画。高岡市内の印刷屋でする
     のち経費の都合で未遂に終わる
  04/25「暁民共産党事件(軍隊赤化事件)」で近藤栄蔵に禁錮10か月
     高津正道、仲宗根源和ら8人に禁錮、罰金の判決がくだる。それ以外は無罪に
     のち事件で「暁民会」は壊滅
     「暁民会」は1920(大正09)5月に結成。事件は1921(大正10)12月1日
     07/メンバーの大半は日本共産党「創立大会」に参加することに
  04/四谷区旭町56番地に東京市直営の鮫橋分校が開校する
       1903(明治36)9月、四谷区鮫河橋谷町1丁目42番地に開校した鮫橋特殊尋常小学校の分校
  04/労働総同盟による関西労働同盟会大会が開かれる
     「名実伴う全国的総同盟を組織するに努力すべきこと」を決議する
     05/08労働総同盟中央委員会も決議に同意し実行に向けて着手することに
     前後して反総同盟系の労働組合同盟会も戦線統一の運動をはじめる
  05/01第3回メーデー。東京、京都、大阪、横浜、神戸、尼崎、足尾、広島、因島、八幡で挙行される
  05/01メーデーにて、評語のなかに「労農ロシアの承認」の1項が加わる
  05/10治安警察法第5条改正が施行される。女性集会の自由を獲得する
     のち女性の結社権を禁じた5条1項は残る。婦人団体を中心に治安警察法5条全廃を求める運動は続く
  05/14英国労働組合から労働総同盟会長鈴木文治、主事松岡駒吉に宛て書面が送られてくる
     送り主は英国労働組合の領袖スマイリー、ウイリアムス、チレットら6人の連署
     なかにはシベリアにおける日本軍の暴行迫害の事実を記録した英国対露非干渉委員会発行の小冊子が同封される
     日本軍ができるだけ早く撤兵すれば全世界の労働団体と協同して一切の日本品に対しボイコットを行なう旨が記される
  05/15新婦人協会治安警察法改正の記念演説会を開催する
  05/25吉田耕三が宮崎某を同伴して京都府与謝郡宮津町白柏の印刷業、佐々木栄太郎方へ
     2種の不穏文書各4千枚の印刷を依頼
     05/262人を取り調べる
     05/27新舞鶴町にて海軍工廠勤務の職工に配布の計画と陳述
  05/奈良県大正村の小林小学校に差別事件が起こる
  06/05西日本系のアナキスト宣伝隊一行が青森に入る【香具師の一団?】
     一行は山本盛夫、和田信義、広安栄一(八幡製鉄所のアナキスト)、千光寺正義ら12人
     06/07青森から北海道に渡る
     のち室蘭にて青森に続いて反軍ビラ「徴兵適齢者諸君に告ぐ」を配付し主義を宣伝する
     06/09目的地の札幌に到着
     室蘭警察から連絡を受け待ちうけていた札幌の警察に駅頭で検挙される
  06/07大杉栄と伊藤野枝のあいだに四女ルイズが生まれる[1996(平成08)06/28没]
     ルイズはパリ・コンミューンで名を馳せたアナキスト、ルイズ・ミシェルにちなむ
     1923(大正12)08/09長男ネストルが生まれる[1924(大正13)08/15没]
  06/浅原健三、光吉悦心ら同志10数人が幾組かにわかれ筑豊炭田に対し決死的な組合宣伝を敢行する
     大辻炭鉱では武装する人事係と衝突して大乱闘を演じ多大な犠牲を払う
  06/阪神電鉄従業員により談笑倶楽部が生まれる
  06/22住友伸銅所にストライキが起こる
     軍縮恐慌に乗じて設備更新にともなう活動家の熟練工淘汰が企てられる
     反対の総同盟大阪伸銅工組合の怠業戦術はロックアウトに封じられストライキは不発に
     総同盟大阪伸銅工組合は企業内組合で、高額の退職手当や役付職工の再教育が賀川イズムヘの反発の広がりを阻む
  07/13水平社の機関誌『水平』が創刊号される
     近藤光が「階級制度の唯物主観的考察」を発表
  07/15堺利彦、山川均、近藤栄蔵、吉川守圀、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清の8人が会合をもつ
     豊多摩郡渋谷町の高瀬清の下宿にて非合法(治安警察法違反)日本共産党「第1次共産党」が創立する
     さらに高津正道、荒畑寒村、野坂鐵のほか、早稲田大学教授の佐野学、猪俣津南雄を勧誘
     委員長を堺とし、堺、山川、荒畑寒村、近藤、高津正道、橋浦、徳田球一の7人を中央委員に選出
     幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿ら
      党のなかでリーダーの住所から大森細胞(山川グループ)、麹町細胞(堺グループ)などと呼ばれるようになる
      堺、山川、荒畑など古い社会主義者のもとで、中核をなしたのが新人会や建設者同盟、暁民会などの学生運動出身者
      たとえば、山川系の水曜会を基礎につくられたいわゆる大森細胞には建設者同盟の田所輝明が参加する
      暁民会系の人脈は第1次共産党の基礎となるも浦田武雄は農民運動グループの細胞の中心で建設者同盟の稲村隆一が参加
      ほか建設者同盟からは浅沼稲次郎、森崎源吉も第1次共産党のメンバーとなる
      さらに総同盟の中にも共産党グループがあったのは確かで、新人会の赤松克麿、野坂参三がその中心に
      ほかの新人会系では、のちの再建共産党の中心人物になる佐野学や関西からは小岩井浄が加わる
     コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながす
     コミンテルン(第三インターナショナル)の制度に従い48個条の党規草案を作る
     11/コミンテルン第4回大会に高橋清を派遣し党規草案を報告【派遣は代表2人?】
     日本共産党がコミンテルン日本支部として正式に承認される。書記長には堺利彦が選ばれる【第2回大会】
     1923(大正12)02/04日本共産党第1回大会を千葉県の市川に開き党規の改正を行なう
  07/23大杉栄、伊藤野枝、魔子が神戸へ。国外退去を命じられたコズロフを訪ねる
     コズロフは不在で妻と娘に会う。7月26日に帰京
  07/信濃川下流に朝鮮人の死体が流れつく。信濃川朝鮮人虐殺事件
     新潟県中魚沼郡秋成村の信越電気発電所工事のたこ部屋で数十人の朝鮮人を虐殺
     死体を川に投げ捨てる事件が発覚する
     約600人の朝鮮人は低賃金で1日17時間労働
     監督の言うことを聞かない、逃亡しようとすると、全裸に鳶口を打ち込む
     天井につるし塩水をかけ奇絶死させる
     鉄板にすわらせ砂利とセメントをかけ水をかけて固まらせる
     重い石を体にしばりつけ440メートルの崖から突き落とす
  07/神戸製鋼所にストライキが起こる
  08/06向上会4周年大会を機に内部紛争が生じ、名古屋向上会、純向上会、向上会に分裂する
     【11/26向上会の内部に紛争が生じ、会長八木信一の擁護派と排斥派に分裂。擁護派は向上会を脱し純向上会を設立】
     1936(昭和11)08/13向上会と純向上会が合同し大阪官業労働組合となる
  08/20中央委員会が国際労働会議の否認を決議。声明書を各国の労働組合に送る
  08/山川均が日本共産党結成直後の『前衛』8月号に有名な論文「無産階級運動の方向転換」をまとめる
     一握りの自己満足的な運動ではなく、大衆の中へ入っていくことが必要と説く。山川イズム
  08/京都の澤田合金製作所での争議の演説会で国粋会員が争議団員に暴行を加える
  08/三重県佐田村で差別事件が起こる
  08/愛知県の水平社創立大会で官憲との衝突事件が起こる
  09/10神田区の松本亭にて各派の代表が集まり労働組合の全国的な共同戦線を結成させる準備委員会が開かれる
     規約草案の作成を協議するも総同盟派と反総同盟派に根本的な意見の不一致があり、統一の前途に困難の予兆
     準備委員会では根本的な困難の問題を保留
      新組織の名称を日本労働組合総連合とすること
      目的を労働組合共通の意思表示、労働組合組織の促進、労働組合の国際的連結とすること
      ほか準備事項を決定し創立大会へ
     09/30創立大会が大阪の天王寺公会堂で開かれる
     参加代議員は106人。傍聴席はあふれるばかりに
     労働組合員のほか堺利彦、山川均、荒畑寒村、大杉栄ら社会主義者、無政府主義者らも詰めかける
     あたかも日本社会運動の代表者全員を総動員した観に
     堺、山川らボルシェビストは総同盟派を応援し、大杉らサンジカリストは反総同盟派を応援
     大会討論は熱狂な両派の声援とともに開始するも規約草案第2条但書きの審議で衝突
      労働組合同盟会を代表して水沼辰夫が提出した修正案
      総同盟を代表して平井美人が提出した修正案
      同じく総同盟の横石信一が提出した修正案
     3つの修正案のうち平井案と横石案は集中主義に立ちl総同盟派は一致して横石案を支持、水沼案と対立
     罵声と怒号で会場内が極度の緊張に達したとき臨監の警官が大会の解散を命令
     大会直後総同盟全国大会が開かれる
     将来においてサンジカリスト的組合との戦線統一は絶望なることを明らかにする
     のち統一戦線決裂事件を転機にサンジカリズムの勢力は衰退
     以降、サンジカリズムは勢いを取り戻すことはできず
  09/25奈良県南葛城郡掖上村の阪本清一郎、西光萬吉(清原一隆)、駒井喜作らが発足した燕会が解散する
     燕会は恩恵的部落改善事業を離れ、部落民自身の力で改善や解放を志す目的で1920(大正09)5月15日に発足
     この年の1月には水平社が設立され、3月3日には水平社創立大会が京都の岡崎公会堂で開かれる
  09/大杉栄、伊藤野枝、魔子の3人が帝国劇場でアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を観る
  09/30大杉栄が風邪をおして大阪へ行く
     天王寺公会堂で開かれている全国労働組合総連合結成大会に乗りこむ
     大会は中止、解散命令で乱闘騒ぎとなり天王寺署に留置される
     10/大杉栄が大阪からの帰京後、風邪を悪化させる。しばらく寝込む
  09/大杉栄が雑誌『改造』9月号に「お化けを見た話」として日蔭茶屋事件の当日のことを記す
     10/神近市子が雑誌『改造』10月号に意趣返しともとれる「豚に投げた真珠」を発表する
  09/大阪川上電機製作所にストライキが起こる
  09/石川県小松の尾小屋鑛山にストライキが起こる
  10/08大杉栄が本郷区駒込片町15番地の労働運動社へ移る
  10/11アンリイ・フアブルの『昆虫記(1)昆虫の本能と習性の研究』を大杉栄が翻訳出版
     日本で初めて『昆虫記』のタイトルをつける。発行は叢文館、定価は2円80銭(以下の記事は)
     1924(大正13)11/01『昆蟲記(2)昆虫の本能と修正の研究』を発行。訳は椎名其二。定価1円
     椎名は秋田県生まれのフランス文化研究者。フランスでアナーキズムの洗礼を受け1922(大正11)に帰国後
     早大講師となり、大杉のあとを受けて「昆虫記」を訳す。1927(昭和02)にパリへ。パリで死去
     1925(大正14)06/03『昆蟲記(3)昆虫の本能と修正の研究』を発行。訳は椎名其二。定価3円
     1926(大正15)09/14『昆蟲記(4)昆虫の本能と修正の研究』を発行。訳は椎名其二。定価3円
     (3つの事象は以降の記述になし)
  10/14伊藤野枝が三女エマ、四女ルイズを連れて福岡の今宿へ帰郷
     のち1か月余りの別居中に大杉は伊藤に14通の手紙をだす
  10/14全国の「監獄」が「刑務所」に改称する
     「獄」のイメージを払拭するため刑を執行される場所という「刑務所」に
     日本で死刑囚は刑務所に収容されず拘置所に収容される
  10/17新婦人協会婦人参政権演説会を開く
  10/31大杉栄が原稿書きのため、しばらく神奈川県高座郡藤沢町鵠沼東屋に滞在
  10/国内外からの非難に依り政府が宣言したシベリア出兵から撤退する
     日本は兵力総数7万3千人、4億3859万円から約9億円の巨額の戦費を投入。5千人に近い死者をだす
     政府が出兵を宣言したのは1918(大正07)8月2日のこと
  10/東京府南葛飾郡の労働者を主体にして渡辺政之輔、川合義虎らにより南葛労働会が組織される
     もっとも戦闘的な左翼労働組合で、南葛に留まらず広く各地の争議を応援し指導する
  10/早稲田の戸塚源兵衛に大きな2階家を借り古田大次郎と中浜鉄(哲)こと富岡誓がギロチン社を結成する
     高嶋三治、河合康左右、小西次郎、倉地啓司、田中勇之進(白袴)、新谷与一郎、
     仲喜一、茂野栄吉、小川義夫らアナキストの主流がそろったたテロリスト集団
  10/東京府下の大島製銅所にストライキが起こる
  11/20大杉栄のもとにフランスの同志コロメルから書状が舞い込む
     1923年1月末前後にベルリンで開催予定の国際アナキスト大会(国際無政府主義大会)への招待状が同封
     近藤憲二と相談し出席を決める
     数日後有島武郎を訪ね渡航費を無心。1千円受け取る
     その翌日山鹿泰治を訪ね中国での旅券入手を頼む
  11/コミンテルン第4回大会に日本代表を派遣。コミンテルン日本支部が正式承認される
  11/著しく増加した朝鮮人労働者により東京に朝鮮労働同盟が成立する
     12/大阪で朝鮮労働者同盟会が成立する
  11/東京の池貝鉄工所に本芝労働組合が成立する
     1工場1組合の方式をとる
  12/初大杉栄が神田区駿河台の高利貸武藤三治の息子重太郎にふたたび無心。承諾を得る
     この時点で有島武郎からの金は、借金その他の支払いで使い果たす
  12/06宮崎滔天[1871・01/23《明治03・12/03》生]が腎臓病による尿毒合併症により東京で病没
  12/08「新婦人協会」が平塚らいてうの希望により臨時総会を開き協会の解散をきめる
     結成は1919(大正08)11月24日
     1924(大正13)婦人運動は「婦人参政権獲得期成同盟会」(婦選獲得同盟)へと引き継がれる
  12/11大杉栄が秘かに神戸、長崎を経て日本を脱出し上海へ
     フランス租界の霞飛路華光委員の_夢仙の世話で近所の一室に逗留
     山鹿泰治から中国人留学生唐継名義の旅券を受け取る【チュン・チャン・タン名義?】
     大杉本人が受け取りに行かず、中国人のアナキストが正月休みの領事館に忍び込み入手する
     上海に滞在中、春に結成されたアナキスト連盟(FA)のメンバーと数回会談
     【東アジアの国際アナキスト組織に協議?】
     AF宣伝部主任で婦人部主任でもある師復の妹無等と夫婦のエスペランティスト鄭佩剛宅にも泊まる
     佩剛は在仏中国人の同志に大杉の面倒をみるよう依頼の手紙をだす
     1923(大正12)01/07大杉は上海から仏船アンドレ・ルボン号に乗船、マルセイユに密航
  12/15堺利彦が自宅で陸軍鍛工長の森下某に錐と佩剣(はいけん)で胸など数か所を刺される
  12/30ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
     世界初の社会主義国となる
  小作解放として賀川豊彦の指導により「日本農民組合」ができる
  千葉県東葛飾郡野田町にある野田醤油社内の「野田醤油労働組合」が日本労働総同盟関東醸造労働組合野田支部となる
     樽工170人が樽棟梁による刎銭(ピンはね)撤廃を要求して同盟罷業を起こす
     のち焦点が刎銭問題以外にも飛び火。賃金体系、福利設備、待遇改善を巡り経営陣と組合のトラブルが続くことに
     1923(大正12)03/全工員1400人が参加する大ストライキにまで発展
     のち内務省は千葉県に緊急訓令を発し知事、県内務部長らの調停によって「蛸部屋制度」の廃止などで和解
     04/12野田町笑遊劇場で労使共同円満手打式が行われて争議がおわる
     1927(昭和02)04/さらに「目をおおい耳をふさがせる」と評される大騒動が起きる
  政府は浸潤する共産主義的な政治行動に対し過激社会運動取締法案労働組合法案小作争議調停法案を立案
  この年のストライキはほとんどが労働者側の敗北に終わる
     なかには破壊されるか致命傷を負う組織も
     横浜造船工組合、大阪電業員組合、住友伸銅工組合、全日本鑛夫総連合会の能美連合会など諸組合は
  労働総同盟が大会でサンジカリズムの排撃を宣明する
     「空漠なる形式的論議を避けて実質的効果のある現実政策に心を用うべきこと」を主張する
  労働総同盟が大会で、一方に急進主義を宣明しながら他方には現実政策に留意することを主張
     運動方針の上になんらかの転換の必要が迫られている兆候を示す
  この年の小作組合数は525。小作争議は1578件


1923(大正12)

  《総理大臣》[第21代]加藤友三郎(→08/24在任中に病死)、[加藤友三郎内閣]内田康哉外務大臣が臨時兼任(08/24→09/02)
  《総理大臣》[第22代](第2次)山本権兵衛(09/02→)
  《内務大臣》[第38代]水野錬太郎、[第39代]後藤新平(09/02→)
  《警視総監》[第27代]赤池濃、[第28代]湯淺倉平(09/05→)
  《内務省警保局局長》後藤文夫(→10/12)、岡田忠彦(10/12→)


  年が変わって政府は行政整理、軍縮を着々に実行する
     のち年来の財界不況とともに労働不安を増大させることに
  01/07大杉栄が上海から仏船アンドレ・ルボン号に乗船、マルセイユに密航
     ベルリンで開催予定の国際アナキスト大会に出席のため
     のち船はサイゴン、コロンボを経由し、石炭を補給するためジブチに寄港する
     02/13早朝、フランスのマルセイユに到着、中国名で入国。アジトを転々とする
     02/14リヨンへ行き鄭佩剛が連絡した中法学院の同志たちに会う
     国際アナリスト大会(国際無政府主義大会)が各国政府の迫害にあい無期延期を知る
     大杉はドイツに行こうと努力するも果たせず
     02/20頃パリに向かいル・リベルテール社にコロメルを訪ねる
     のち遅れてきた林倭衛の案内でモンマルトルの繁華街ヴィクトル・マッセに宿をとる
     「昼夜兼行で遊び暮」らす
     03/17林とリヨンに戻り中国人同志の世話でオテール・ル・デュ・ジュールに泊まる
     旅券を入手するため警察本部に日参する一方、中国人同志との会合を重ねる
     のち旅券は容易におりず
     04/28夜、大杉栄が5月1日のメーデーに参加するためリヨンをあとにパリに向けて出発する
  01/25弁護士の山崎今朝弥と編集者平沢計七がアナ・ボル両派を統一して共同戦線的にたたかうと提起
     受けて「過激法案反対無産者同盟」が結成される
     前年に立案した過激社会運動取締法案労働組合法案01/30「(三悪法反対)全国労働組合同盟」が結成される
  01/末上野精養軒で革新倶楽部の演説会が開かれる
     島田三郎が発病
     03/中旬自宅に引きこもり床につく。療養に専念
     病状は強度の神経衰弱からの胃弱
     09/関東大震災の影響で病状が悪化する
     11/14死去
  02/02理事を山根キクとする「婦人参政同盟(日本婦人協会)」が結成される
  02/04日本共産党第1回大会を千葉県市川の料亭に開く【第2回大会?】
     コミンテルンの標準規約を基にした党規約を決定する
     03/北豊島郡石神井村で臨時党大会「石神井会議」を開催【第2回大会?】
     「党綱領草案」(ブハーリン綱領草案)を検討するも一致に至らず、綱領は決定されず
     問題の「君主制廃止」に対し、古い社会主義者たちは強く反対
     コミンテルンへはブハーリン綱領を採択したように報告
     内部的にはどこにも載せないことに。「22年テーゼ」【この時点では作成されず?】
     のち以降も、戦前の非合法政党時代に自己が作成した綱領を持つことはなく
     27年テーゼ、32年テーゼなどのコミンテルン決議が綱領として位置づけられる
     のち日本共産党の運動として労働組合、民主団体の3法案反対運動への組織化に取り組むことに
     3法案は、前年政府が制定を勧めていた「過激社会運動取締法」「労働組合法」「小作争議調停法」→3法案とも成立せず
     また党の大衆組織として青年組織の「共産青年同盟」(共青)と労働者組織の「レフト」がこの時期に結成される
     のち共産党の存在と活動を官憲が感知したのと同時に、共産党側も事前に一斉検挙を察知する
     共産党は一斉検挙を事前に察知し、佐野、高津、近藤など幹部5人を中国へ亡命させることに成功
     06/05佐野学の隠匿党内文書が発見。主要党員が一斉検挙される。第1次共産党事件
  02/10機械労働組合連合会が労働総同盟とは別に失業防止、過激社会運動取締法案反対の演説会と示威運動を行なう
     前年に立案した過激社会運動取締法案労働組合法案小作争議調停法案を受けて
     02/11東京の芝浦埋立地に労働総同盟系の労働組合員が参集し3悪法案反対演説会を開く
     続けて深川公園に向け示威運動を行な
     02/11大阪では労働総同盟、向上会が中心となり中の島公園から天王寺公園に至る示威運動を行なう
     京都、神戸、名古屋などでも同様の示威運動が行なわれる
  02/25守屋東が婦人新報社から矢島楫子の伝記『矢島楫子』を発行する。定価1円
     徳富蘇峰が「はしがき」を寄せる
     「叔母さん(楫子)は、日本に於ける、婦人の社会事業家の急先鋒」と評す
  02/後藤新平の招きでヨッフェが来日。後藤新平の斡旋で日露交渉が促進される
     06/28ヨッフェと外交官の川上俊彦との間に両国の国交調整に予備交渉が開かれる
  03/08「赤瀾会」第1回国際婦人デー(国際女性デー)演説会の集会を主催、開催される
     集会そのものは警察に解散命令を受ける
     赤瀾会は1921(大正10)4月24日に結成した日本初の女性による社会主義団体
     「赤瀾会」の社会主義婦人運動が山川菊栄らの「八日会」に引き継がれる
  03/13婦人参政権建議案が初めて衆議院本会議に上程される。女性多数傍聴
  03/15大阪の労働総同盟と向上会が中心となり失業者大会が開かれる
  03/15小石川労働会、土工総同盟、立憲労働党、工人会、純労会などにより失業者大会が開かれる
  03/中旬島田三郎が自宅に引きこもり床につく。療養に専念
     病状は強度の神経衰弱からの胃弱
     09/関東大震災の影響で病状が悪化する
  03/18東京で失業防止労働者同盟大会が開かれる
     労働総同盟、関東機械工組合、造機船工労組合、南葛労働組合など10数団体が加わる
  03/千葉県東葛飾郡野田町にある野田醤油会社で全工員1400人が参加する大ストライキが発生
     前年には工170人が樽棟梁による刎銭(ピンはね)撤廃を要求して同盟罷業を起こす
     のち内務省は千葉県に緊急訓令を発し知事、県内務部長らの調停によって「蛸部屋制度」の廃止などで和解
     04/12野田町笑遊劇場で労使共同円満手打式が行われて争議がおわる
     1927(昭和02)04/さらに「目をおおい耳をふさがせる」と評される大騒動が起きる
  03/天皇観の相違やヨッフェ来日問題をめぐり猶存社の北一輝と大川周明、満川亀太郎との対立が激しくなる
     猶存社が解散、分裂する【猶存会?】
     猶存社は1919(大正08)8月1日に結成
  03/水平社創立1年にして成立した地方水平社は全国で約60を数えるまでに
  04/28夜、大杉栄が5月1日のメーデーに参加するためリヨンをあとにパリに向けて出発する
     05/01午後3時、パリ北の近郊サン・ドニのレジョン・ド・ヌール会館でのメーデー集会が開会
     大杉がコロメルと参加。会場には800人ほどの労働者が集まる
     大杉は同志コロメルの演説のあいだに草稿をつくり、コロメルの演説が終わると大杉が登壇
     「日本のメーデー」について20〜30分ほど演説。大杉は初めてフランス語で聴衆の前にしゃべる
     大杉が演壇をおりると4、5人の私服に連行される
     大杉が引っ張れた北警察署は会場から歩いて3分たらず
     サン・ドニの集会場で逮捕勾留されたのは大杉のほか12人
     大杉の容疑は秩序紊乱、官吏抗拒、旅券規則違犯
     外では逮捕に抗議するデモ行進が行なわれ乱闘騒ぎになる
     夜遅く南警察署へ送られる
     05/02パリの警視庁に護送される
     外事課長に「君は大杉栄というんだろう」といわれ面食らう
     05/03政治犯の収容施設プリゾン・ド・ラ・サンテ監獄に移送される
     第10監第20房の広さは8畳ほど、窓は大きくベッドのスプリングはきいて一流のホテル並み
     煙草もよく、酒も葡萄酒とビールなら日がな1日飲んでいても大丈夫
     05/23大杉がパリ法院で旅券規則違反により禁錮3週間の判決を受ける
     フランスでの未決拘留の日数は3日を除き通算される
     翌日釈放、警視庁へ連行され即刻国外追放を言い渡される
     06/03大杉栄を乗せた日本郵船の箱根丸がマルセイユを出港、帰国の途につく
     地中海を横断しスエズ運河を抜けインド洋にでる。行きと同じコースをたどる
     途中上海に帰港、コズロフが真っ先に出迎える
     07/11午前11時、神戸に入港
  04/アメリカのオレゴン州ポートランドでレストランを営む橘惣三郎の妻で病気のアヤメは惣三郎を残し息子宗一と帰国
     アヤメは大杉の末妹
     のち横浜西戸部町の大杉勇のもとに滞在
     06/姉の柴田菊が静岡の鷹匠町に住んでいた縁から同市二番町の伴野医院に入院。宗一は勇宅に残る
     震災後勇一家と宗一は神奈川県橘樹郡鶴見町にある同僚の家に移る
     避難生活のなかで勇一家が宗一を預かるのは難渋であろうと、大杉栄と伊藤野枝が引き取ることに
     09/16大杉栄と伊藤野枝に連れられ勇宅をあとにした宗一が、大杉、伊藤とともに虐殺される
     のちアヤメは病身ながらすべての事変をしり泣きいり5時間にわたり静まらず
     10/01、02橘あやめがアメリカ国大使館に出むく
     アメリカ国市民を日本の官憲が虐殺した事を外務省へ抗議を申し込んでもらう
     書記官はアメリカ人としてできるだけの尽力を約束する
     駐日大使から外務省へ、外務省から陸軍省へと話が進み閣議では議論が沸騰
     12/頃アメリカ大使館が外務省に対し、アメリカ国籍をもつ宗一の死に非常なクレームをつける
     第2次山本権兵衛内閣は国際問題としてアメリカに陳謝する
  04/堺利彦、山川均らが1919(大正8)4月21日に創刊した月刊『社会主義研究』が4月発行の44号で廃刊に
  04/共産主義の思想運動の3つの言論機関が戦闘力を集中するため合併。赤旗社を組織し「赤旗」を発行する
     山川均、西雅雄らの「社会主義研究」
     上田茂樹、高橋貞樹らの「前衛」
     市川正一、市川義雄、青野季吉、平林初之輔らの「無産階級」
  05/日本とロシアの交渉に刺激され社会運動の対露運動が再び起こる
     労働総同盟の関西労働同盟会対露問題演説会を開く
     のち委員らが上京し後藤新平やヨッフェ、ほか政府担当者を訪問してロシア承認運動を行なう
     06/東京にて日本とロシアの交渉に対する各労働組合の対露問題協議会が開かれる
     06/21労働総同盟本部にて対露労働組合大会が開かれ、ロシアの承認、通商の開始を決議
     06/23代表者らが決議文をもち政府当局者や朝野の有力者を訪問し、決意を促す
  共産党の存在と活動を官憲が感知したのと同時に、共産党側も事前に一斉検挙を察知する
     共産党は一斉検挙を事前に察知し、佐野、高津、近藤など幹部5人を中国へ亡命させることに成功
  06/02救世軍婦人ホームで婦人救済係担当の伊藤富士雄が下谷救世軍病院にて死去
     1913(大正02)4月に婦人救済係に転じてからは専心、娼妓の自由廃業に努力する
     伊藤は死去するまでの満11年3か月の間に1200人もの芸娼妓の面倒ををて、987人の娼妓に自由を与える
  06/05佐野学の隠匿党内文書が発見される
     06/09「第1次共産党」の主要党員が一斉検挙される。第1次共産党事件
     起訴された者は堺利彦(無産社)、近藤栄蔵(暁民会)、佐野学(鉱夫総連合、早大教授)、高津正道(暁民会)、
     田所輝明(建設者同盟)、浦田武雄(農民運動社)、市川正一(無産階級社)、渡辺満三(時計工組合)、
     杉浦啓一(関東機械工組合)、上田茂樹(無産者同盟)、高瀬清(暁民会)、渡辺誠之輔(南葛労働会)、
     猪俣津南雄(文化同盟、早大教授)、徳田球一(水曜会)、小岩井浄(社会思想社)、荒畑勝三(無産者同盟)、
     辻井民之助(労働総同盟)、市川義雄(出版従業員組合)、川内唯彦(無産社)、高野武二(暁民会)、
     山本懸蔵(総同盟)、山川均(水曜会)ら
     起訴された主要幹部は当初は全員黙秘の方針をとる
     のち亀戸事件で左派の労働運動活動家の川合義虎(共青委員長)らが殺害され「宣伝」を口実に自供を開始する
     のち大審院まで争うことに
     1924(大正13)03/東京府荏原郡森ケ崎の温泉宿で佐野文夫、荒畑、徳田球一、野坂参三らが会議
     党の解体を決定し、ビューロー(残務整理委員会)を設置する。森ケ崎会議
     2月から3月の会合で荒畑を除くほとんどの幹部が提案に同意し「解散声明」を決議。第1次共産党は解散する
     1926(大正15)08/04起訴された29人のうち27人の有罪が確定し禁錮10か月以下の刑を受ける
     堺利彦や山川均らを中心に共産党の結党を時期尚早として解党論が高まる
  06/09白樺派の作家有島武郎が婦人公論記者で人妻の波多野秋子と軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げる
     07/07発見されるが、腐敗がひどく遺書の存在で本人と確認される
     有島は大杉のフランスへの旅費を工面。大杉は有島の死を上海を出港た「箱根丸」の船上で聞く
  06/17自由人社が34ページの雑誌『我等の運動』を創刊する
     表紙まわりには各広告が入る
      表紙裏に古河合名会社、藤田組、日本電力株式会社、安田・保善社
      裏表紙裏に松木剛吉(個人)、台湾銀行、山口銀行、日本生命、大分セメント
      裏表紙に三越、大丸、高島屋、いとう松坂屋各呉服店
     「創刊宣言」に堂々とうたう
     「プロレタリアの自由と解放を実現すべき凡ゆる階級闘争的手段は我等によつて用ひられるであらう」
     同人には大資本とは真っ向から対立するツワモノばかり
     社会主義同盟の発起に名を連ねた論客加藤一夫、抹殺社を結成し反軍ビラ事件で検挙された石黒鋭一郎、
     小作人の団結を訴えた杉野三郎、労働運動界の自由連合派闘士佐藤陽一、
     労働者出身の活動家で反ボルシェヴィキの旗を掲げた小竹久雄、近衛文麿邸にて「掠」をしたとして検挙された児島東一郎らが加わる
  07/11午前11時、大杉栄を乗せた日本郵船の箱根丸が神戸に入港
     フランスを追放された大杉は6月3日にマルセイユを出港
     水上署の刑事がランチで接舷し2等船室の大杉を拘引、林田署に連行し3時間にわたり取り調べる
     拘束する容疑が見つからずあっさり釈放される
     【和田岬検疫所で神戸水上署に拘引、林田警察署で内務省特別高等課長の取調べののち釈放される?】
     迎えにきていた伊藤野枝が宿泊する須磨の旅館に落ち着く
     待ちかまえる記者のうしろには4、5人の特高。大杉は特高を払い記者会見に応じる
     07/12朝、大杉は出迎えの伊藤野枝、魔子と神戸を発つ。東京まで1等寝台車で帰る
     汽車賃は大杉の自由行動を防止し同志から遮断する必要上、官憲が支弁する
     夕刻、東京に着。多くの同志が出迎え。その数700、800とも凱旋将軍の様相。労働運動社に落ち着く
  07/28銀座の「カフェ・パウリスタ」で大杉栄の帰国歓迎会が開かれる
     発起人は小川未明、加藤一夫、山本実彦、室伏高信、新居格、秋田雨雀、千葉亀雄、城戸元亮ら
     【主催は加藤一夫、村松正俊、安成貞雄?】
  07/名古屋市で共産党事件が起こる
     秘密結社を作り活動をしていた葉山嘉樹ら12人の共産主義者が官憲により検挙
  08/05大杉栄が豊多摩郡淀橋町字柏木371番地に移る
  08/09大杉栄と伊藤野枝のあいだに長男ネストルが生まれる
     長女魔子[1917(大正06)09/25生]、次女エマ(大杉の妹の養子に)[1919(大正08)12/24生]
     三女エマ[1921(大正10)03/11生]、四女ルイズ[1922(大正11)06/07生]
     エマの名は伊藤が心酔していたロシア出身でアメリカ在住のアナキスト、エマ・ゴールドマンによる
     ルイズはパリ・コンミューンで名を馳せたアナキスト、ルイズ・ミシェルにちなむ
     1924(大正13)08/1506/頃栄(ネストル)の体が弱まる
     生後1か月半で東京から博多までの2泊3日の長旅などの疲労が連続する
     08/15満1才の誕生日を過ぎてすぐ早逝
  08/大杉栄は「昼夜兼行の忙しさで」執筆に追われる
     一方、信友会、正進会、機械技工組合、芝浦労働組合など自由連合派の組合集会に毎晩のように出席する
  近藤憲二を北九州に派遣し、拠点作りを試みる
  08/18大杉栄が北豊島郡巣鴨村大字宮中2656番地の自由人社でフランスでの活動を報告する
  08/25労働総同盟の中央委員会が開かれる
     従来の観念的革命主義から脱し現実化的傾向が表面化し、現実派と急進派が激しい論戦をかわす
     結果、現実派が急進派を制し労働立法に対し否認的、軽蔑的態度を改める
     「労働者独自の立場より、労働立法に対して積極的態度を採ること」を決議
     総同盟本部内に労働法制委員会を設置する
     のち関東大震災により現実化的傾向はいっそう拍車がかけられることに
  08/30下谷区上野の池之端に近い根津権現境内の貸席で秘密会合を開く【08/20?】
     Aの同盟とも呼ばれるアナ系全国組織の結成を目指す
     のちこの会合は準備不足で不調に終わる
  関東大震災の少し前師岡千代子への執拗な迫害が遠のき、尾行する人物の姿も見なくなる。生活が安定しはじめる
     師岡は1909(明治42)3月1日、幸徳秋水と協議離婚【03/04?】
  09/01午前11時58分44秒、関東を中心に静岡、長野まで広い範囲に激震。関東大震災
     東大理学部の地震計だけでマグニチュード7.9を記録
     地震直後、東京15区の178か所から出火、うち83か所は鎮火するも95か所は下町を中心に大きな炎となる
     本所横綱町・陸軍被服廠跡の空地では、避難した民衆約3万8千人が四方からの火に巻かれ焼死
     火災によって東京全戸数の70%(都内の130カ所以上で火災発生)、横浜では60%が焼失
     被害数は日本の災害史上最悪。死者9万9331、負傷者10万3733、行方不明4万3476
     全壊家屋12万8266、半壊家屋12万6233、火災焼失約44万7100
  09/01震災時、堺利彦は第1次共産党事件で逮捕され市ケ谷刑務所に在所
     荒畑寒村は堺たちに派遣されロシアにいて難を逃れる
  09/01辻潤は近くの銭湯に入っているとき震災にみまわれる。裸で外にとびだす
  09/01関東大震災により、東京浅草の12階建て凌雲閣の8階部分より上が崩壊
     凌雲閣は1890(明治23)11月11日に開業
     09/23経営難から復旧が困難となり陸軍工兵隊が爆破解体
  09/01京橋区新富町6丁目36、37番地の新富座が関東大震災で被災
     のち再建されず廃座となる
  09/01地震により救世軍が絶大な打撃を受ける
     神田の本営、中央会館をはじめ、下谷の病院、浅草、月島の労働寄宿舎、
     本所の社会植民部や各軍営がほとんど焼失
  09/01東京市が炊き出しをはじめる。9月25日まで
  09/01午後4時頃、横浜で活動する立憲労働党の総理山口正憲が横浜市中村町の広場で避難民大会を開く
     食料品掠奪に関する演説のなかで、夜に朝鮮人が内地人を襲撃し危害を加えるとの説があるから警戒せよ、と説く
     【横浜の各地で山口正憲一派が煽動?】
     【山口の説は警察か軍隊から聞いた受け売り?】
     のち山口は上の演説で強盗罪に問われる
  09/関口愛治の舎弟ら若い衆5、6人がが上野公園屋台をだし「すいとん」を売りはじめる
     関口は、のち極東桜井一家関口初代となる人物
     舎弟たちは大汗をかき、わき目もふれず「すいとん」を作る
     まわりには人垣ができ大きな口をあけて「すいとん」を頬張る親子の姿も
     「お金のない人は、あるとき払いでいいよ」
     若い衆の1人が威勢のいい声をあげ明るい雰囲気を作りだす
  09/東京佃島の親分で侠客の金子政吉が住民を指揮し佃島を火災から守る
     また自警団の襲撃で逃げ場を失った朝鮮人数千人を佃島に庇護。暴徒に備え子分を武装させ守らせる
     佃政は「お前は日本人の敵か」と問われるも全く動じず
     金子は関東博徒の大親分「魚河岸の政」こと佃政一家の初代総長

  09/洲崎遊廓の4人の娼妓が騒ぎにまぎれて高田雑司が谷の交番に逃げ込む
     まもなく5人ばかりの楼主と若い衆が追いつく「さぁ出てこい」
     交番の巡査連は「女共は廃業したいと言うているから今日限り廃業させる」
     楼主らは聞かず巡査が一喝
     「非常の場合に彼是申し立てると承知しないぞ。本署へ来い、保護拘留してやる」と
     楼主らは「拘留だけはお許しを」と証文を返し自由廃業を承諾する

  震災後労働総同盟の鈴木文治会長は政府の臨時震災救護事務局と交渉し進んで奉仕労働をなすことに
     芝浦埋立地にて荷揚げ人夫の労働に従事
     また罹災失業者の救済のため荷揚げ人夫、焼跡片付け人夫の団体供給をはかる
  09/島田三郎が関東大震災の影響で病状が悪化する
     11/14死去
  09/02昼過ぎ、「朝鮮人襲来」「朝鮮人暴動」の流言蜚語が飛びかうようになる【09/01夜?】
     朝鮮人が井戸に毒を投げこみ放火し、暴動をはじめた、と噂が広まり虐殺がはじまる
     09/03地震の2日後、警視庁が朝鮮人迫害を戒める掲示を発表
     09/06地震の5日後、内閣が朝鮮人迫害を戒める掲示を発表
     09/初根拠のないデマで6千人を越す朝鮮人が軍隊や市民自警団に虐殺される
  09/02アナキストの朴烈と内妻の金子文子が治安警察法の保護検束を口実に検挙
     淀橋警察譽に連行される
     1925(大正14)05/02朴が皇室暗殺を計画した大逆罪に問われ起訴される
     05/04金子も大逆罪に問われて起訴される
     1926(大正15)03/25両者に死刑判決が下される
     04/05「天皇の慈悲」の名目で恩赦がだされ、ともに無期懲役に減刑される
     ところが朴は「恩赦を拒否する」といい、金子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てる
     07/22金子文子が栃木女囚刑務所で看守の目を盗んで縊死
     遺族は自殺を信用せず調査を求める。看守側の妨害があり死亡の経緯は不明のままに
     1945(昭和20)10/27朴烈が秋田刑務所大館支所を出獄
     大館駅前で出獄歓迎大会が開かれる
  09/02暴徒取締りに自警団が各所に生まれ竹槍や日本刀をもち警戒にあたることに
     自警団員による暴行や殺人が横行
     のち自警団は東京府下だけで145を数える
     10/03警視庁が自警団の取り締まり規則を発表する
     11/03警視庁が各署に自警団の解散を指示
  09/02頃柏木の大杉栄宅へ服部夫妻、袋一平一家が避難してくる
  09/関口愛治が夜間、若い衆をつれ街頭をパトロール、暴力集団をたたきのめす私設警察に変身する
     震災後の極限状態のなか欲望まる出しの犯罪が多発する
     2、3人での強盗や略奪、自警団を名のる集団が殺人や暴行、強盗、窃盗を繰り返すようになる
     なかには死体の指を切り落とし指輪をもぎ取る事件が起こる
     関口らははじめ瓦礫のなかから見つけた半分焼けている日本刀を使うも間に合わず
     若い衆に大学の銃器庫から銃を盗みださせる
     実弾は使わず、三八式、三〇式、二二式歩兵銃の銃先に剣をつけ暴れまわる
  朝鮮人暴動の背後に社会主義者がいるという噂が流れ、共産主義者やアナキストの身辺は異様な雰囲気になる
  大杉栄は原稿の催促もなく、のんびりと昼は子守り、夜は夜警にでる
     隣家の内田魯庵から「用心しなけりゃ」といわれる
     大杉は「用心したって仕方がない。捕まる時は捕まる」と笑う
  柏木界隈で大杉を危険視する風聞が広まる。いたる所で大杉栄の暗殺や武勇伝がささやかれる
  埼玉県内の熊谷、本庄、神保原などで朝鮮人の虐殺が行なわれる
  09/02山本権兵衛内閣が成立。赤坂離宮庭園で親任式が行なわれる
     8月24日の加藤友三郎首相の急逝、9月1日の関東大震災発生という混乱状態のなかで組閣
     首相空席のなかで震災が発生し、発生直後、摂政宮の招請により外務大臣の内田康哉が臨時首相に
     9月2日午後3時、臨時閣議で臨時震災救護事務局の設置が決定。午後5時に摂政の認証で山本内閣が成立
     1924(大正13)01/0712月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職となる
  09/02関東大震災の災害にあたり行政戒厳が発せられる。11月15日まで
     近代日本史上、行政戒厳が発動された全3回のうち2回目
     1回目は、1905(明治38)年の日比谷焼き打ち事件のときで、事件翌日の9月6日〜11月29日
     3回目は、1936(昭和11)年の二・二六事件のときで、事件翌日の2月27日〜7月16日
     09/03神奈川に拡大
  09/02救世軍は牛込区市谷本村町の士官学校に仮本営を置く
     直ちに罹災者救済をはじめる。食料品、衣類、日用品の配布は約4万4千人に
  09/03伊藤野枝が震災後の状況など父亀吉と叔父代準介あてに手紙を認める
  09/03政府が罹災者に宣伝ビラで帰郷や地方行きを奨励。鉄道、船舶の運賃無料を告示する
  09/03警視庁が凶器の携帯を禁止する
  09/03郵政省が貯金の無通帳、無印章での払い戻しを開始
  09/03関東戒厳司令部条例(勅令第400号)が定められる
     09/04行政戒厳の施行に伴い陸軍の関東戒厳司令部が設置される
     司令部は参謀長、参謀、副官、主計、軍医、陸軍司法事務官、下士、判任文官により構成
     司令官は東京府とその付近の鎮戍警備にあたり、実施のため担当区域内の陸軍部隊への指揮権が与えられる
     最初の司令官には軍事参議官の福田雅太郎大将が任じられる
     09/20甘粕事件発生により福田司令官は更迭、後任に軍事参議官の山梨半造大将が任命される
     11/15戒厳令の一部適用が終了するため勅令第480号が発令される
     11/16関東戒厳司令部が廃止され、首都警備の任務は東京警備司令部に引き継がれる
  09/04未明から警視庁が自警団を自称する集団の取り締まりを開始
     殺人45件161人、傷害16件85人、強盗1件1人、計62件247人を検挙する
     この数字は氷山の一角で実際は最低でも10以上
  09/04亀戸署が鮮支日の3国民や労働運動家ら700から800人を拘引する。大部分は保護検束
  09/04警察に反抗的な自警団員4人が軍により殺される【第1次亀戸事件?】
  09/04〜05亀戸警察署の9人の労働組合運動家を習志野騎兵隊第13連隊の田村春吉少尉率いる兵士に引き渡す
     兵士らは署内の敷地にて銃剣で刺殺する【09/03〜04?】【近衛騎兵13連隊?】
     裸にして荒川の一般火葬死体のなかに投げ込む。亀戸事件
     9人の運動家は純労働組合派の平澤計七(34)、
     南葛労働会の川合義虎(22)、山岸実司【山岸寅司?】(20)、近藤慶造【近藤広造?】(20)、
     北島吉蔵(20)、鈴木直一(24)、吉村光治(24)、佐藤欣司(22)、加藤高春【加藤高寿?】(27)、
     【中筋宇八(24)を加えて10人?】
     10/10事件発生1か月余りが過ぎ、ようやく警察により事実が認められ明らかになる
     犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なう
     「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし事件は不問に付される
     10/11亀戸事件の新聞等記事が解禁となる
  09/04ガリ版刷りの『東京朝日新聞』が発行される
     「朝鮮人は全部が悪いのではない、鮮人を不法にいじめてはならぬ、
     市民で武器を携えてはならぬと戒厳司令官から命令を出した」
  09/05戒厳司令部が午後9時以降の外出を禁止させる
  09/06市内10か所の公設市場で米の販売を開始する
  09/07治安維持令暴利取締令支払猶予令が公布される
  09/08本郷区駒込片町の労働運動社で近藤憲二以下8人が駒込署に保護検束される
     労働運動社は大杉栄が主宰する機関雑誌『労働運動』の発行所
  09/08以降アナキストの一斉検束がはじまる
     「労働運動社」にいた和田久太郎、近藤憲二ら同志たちは病気の村木源次郎以外は駒込署に検束
     在京の石川三四郎、加藤一夫、望月桂など
     検束を免れたのはアナ系では大杉栄、ポル系では山川均くらい
     宮嶋資夫は牛込の家族を見舞い近所の夜警詰所にいたところを所轄警察に引っ張られる
     馴染みの特高から「保護検束だ。憲兵が没常識で、なんでもかんでも捕まえて殺す」と聞かされる
  09/09警視庁が救援で入京した他府県民に帰省を勧告
  09/11閣議で罹災者の租税減免など救済策を決定する
  09/13鉄道省が救援のための入京者無賃乗車を廃止
  09/14『東京朝日新聞』2ページ下のコラム「青鉛筆」に大杉栄の記事が載る
     「大杉栄は殺されたなどの流言が行き渡っているが、警視庁に真否を尋ねると、
     大杉オン大は私服に護られ自宅に縮こまっているそうだ」とのこと
  09/14川崎署が罹災地で略奪した漁船など72隻を押収。船頭ら64人を逮捕する
  大杉栄と伊藤野枝が横浜の西戸部町に暮らす大杉の弟勇から無事との便りが届く
     勇一家と預けられていた妹アヤメの子の宗一は神奈川県橘樹郡鶴見町にある同僚の家にいるとのこと
     のち勇一家が避難生活のなかで宗一を預かるのは難渋であろうと、大杉栄と伊藤野枝が引き取ることに
  09/16朝9時頃、大杉栄と伊藤野枝は長女魔子を内田魯庵に預けて鶴見へ出かける
     2人の衣装は大杉が上下白の亜麻のスーツ、伊藤は白のワンピース
     大杉は2か月前、フランスから神戸に帰ってきたときに着ていた衣装
     伊藤はその大杉を神戸に迎えにいったときに着ていた衣装
     戒厳令下の焦土と化した東京や横浜の街を鮮やかな白い衣装で進んでいく
     途中神奈川県川崎町砂子に辻潤一家を訪ねる。広島へ避難して不在
     辻、小島キヨ、母美津、一(まこと)は不在。一(まこと)は辻潤と伊藤野枝の長男
     次いで安否を気遣う大杉の弟勇の避難先、神奈川県橘樹郡鶴見町字岸1858番地の大高芳朗方へ寄る
     勇の移転先、鶴見町東寺尾796番地にまわる
     午後、妹橘あやめの長男宗一を連れ、芝区三田四国町の三田医院奥山伸を訪ねるも不在
     帰宅の途につく
     大杉、伊藤の洋装に対して橘宗一はかすりの着物にオーバーをきていての下駄履き姿
  09/16午後、大杉栄を管轄する淀橋警察署に、東京憲兵隊本部の森慶次郎曹長と部下の鴨志田上等兵、本多上等兵が来訪
     特別高等係の松元伝蔵警部補と滋野三七巡査部長が対応する
     憲兵隊が大杉栄を取り調べたいから便宜をはかってもらいたいと願いでる
     警察は「目下当署で尾行をつけているから、連絡さえあればいつでも協力する」と答える
  09/16午後5時半頃、森曹長らが大杉の家の近くで張り込む
     淀橋警察署の方から大杉栄、伊藤野枝が7、8才くらいの男児を連れやってくる
     張り込む家の前にある果物屋に伊藤が入り梨を買い求める、大杉と男児は戸外に待つ
     伊藤が外にでてきたところを森曹長が憲兵隊までの同行を求める
     大杉は、いちど帰宅したいと願うも甘粕と森は、すぐに来てくれというと大杉は承諾する
     淀橋警察署の前まで同行して署からは3人とも自動車にのせ麹町の憲兵分隊へ。着いたのは午後6時半ごろ
  09/16夕刻、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人は豊多摩郡淀橋町柏木371まで戻り自宅まで少しのところで行方不明に
     行き先は淀橋署車で麹町区大手町1丁目1番地の東京憲兵隊本部に連行される【麹町東京憲兵分隊?】
     甘粕正彦大尉の部下森慶次郎曹長が3人を拉致。梨をバスケットに持ったまま留置される
     大杉は留置場でナイフを憲兵に借り、梨をむいて食べる
     午後8時頃、憲兵司令部2階司令官応接室で甘粕正彦が大杉の後ろから右腕を大杉ののどにあてて締める
     大杉がうしろに倒れたところ甘粕は膝頭を大杉の背中にあて、さらに締め上げ絞殺
     続いて甘粕は伊藤野枝も絞殺し、橘宗一は部下の憲兵が殺害
     遺体は裸にむかれ茣蓙でくるみ麻縄で厳重に縛られる
     東京憲兵隊本部構内の内庭、東北隅弾薬庫北側の廃井戸のなかへ投げ込まれる
     震災で崩壊した建物の瓦礫などでおおい隠す
     大杉栄[1885(明治18)01/17・生]
     伊藤野枝[1895(明治28)01/21生]
     橘宗一[1917(大正06)04/12生]
     【大杉栄と伊藤野枝の系図】(別ページリンク)
  09/16大杉栄と伊藤野枝の長女魔子が隣接する小説家で評論家の内田魯庵宅を訪ねる
     「パパとママは鶴見の叔父さん許へ行ったの。今夜はお泊りかも知れないのよ」
  09/16大杉栄の家には伊藤野枝の父亀吉の妹で叔母坂口モトらが留守番
     大杉らが夜になっても戻ってこなく心配に
     09/17夕刊に大杉が憲兵屯所に検束された記事があり、帰宅しない理由が判明する
     09/18朝、弁当をつくり大手町の憲兵司令部へ差し入れにいく
     そのような者はいないと追い返される
     淀橋署に戻り事情を説明
     「たしかに大杉らは憲兵司令部に連れていかれたが、いまは分からない。おそらく司令部にいると思う」
     ふたたび憲兵司令部まで引き返し問い合わせるも、やはり知らぬというばかりで要領を得ず
     09/19誰がいうともなく、大杉は殺されたという話が耳に入るようになる
     時節柄の流言に過ぎないと気にしないように
     09/20夕刻、大杉宅に避難する服部浜次の妻のところに渋谷の親戚の女が駆け込んでくる
     「おかみさん、たいへんだ。大杉さんが殺された」
     号外をみてきた女の話を聞いた大杉宅は大騒にぎ
     ただちに鶴見の東寺庵にいる大杉の弟勇などに知らせる
     09/21朝、大杉の弟勇が大杉宅にきたところで、みんなで相談
     淀橋署の手を経て警視庁へいき、殺された事実の有無を問い合わせる
     分からないとの返事
  09/17日比谷公園の急造飲食店が300軒に
  09/1819日付18日発行の『報知新聞』夕刊にスクープ記事が載る
     「大杉夫妻並に其の長女三名を検束、自動車にて本部に連れ来り、麹町分隊に留置せり」
     この情報は目撃者からではなく内部情報によるもの
     目撃情報ならば、かすりの着物にオーバーをきて下駄履き姿の子どもを女児と見間違うはずはないとする
  09/18大杉栄の弟勇夫婦が衣類などを受け取りに大杉宅を訪問
     留守宅ではまだ大杉らは帰っておらず、鶴見へ泊まっているものと憶測
     食い違いを不審に思い淀橋署へ捜索願をだす
     09/19新聞記事を読んだ勇が毛布をもって大手町の憲兵隊司令部へ
     面会と宗一の引き取りを求めるも「そんな者はきていない」と門前払いをうける
     09/20「大杉は憲兵隊の手で殺され、残りの2人も九分九厘まで一緒に殺されたでしょう」
     勇の家にきた東京朝日新聞の記者から聞かされる
     勇は再度、憲兵隊司令部に行き問いただすも追い返される
     (9月20日、麹町区隼町の東京第1衛戍病院第5番室にて3人の遺体が解剖される)
     09/21勇は大杉栄宅へ、みなで相談する
     淀橋署を経て警視庁へ行き存否確認を要求する。明確な説明は得られず
     09/23第1師団軍法会議から、勇あてに事件の証人として召喚する旨の通知が届く
     勇は殺害を確信する
     09/24勇、進、村木が憲兵隊司令部で遺体の引き渡しを交渉する
     晩、青山第1師団の法務部が橘宗一について大杉勇を召喚
  09/19大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人の遺体が東京憲兵隊本部構内の廃井戸から引き上げられる
     09/20第1師団で解剖に付される
     第1師団軍法会議予審官陸軍法務官の服部国造が田中隆一軍医に被害者3人の死因の鑑定をするよう命令
     麹町区隼町の東京第1衛戍病院第5番室にて午後3時半に剖検が開始。ロウソクの火の下21日午前11時26分まで
     死因はいずれも首を鈍体でしめられ窒息急死したもの
     解剖前、田中軍医は伊藤の乱れ髪をとかす。服部は「死体を丁重に扱っていただいて感謝する」
     解剖中はずっと着剣した1個小隊が部屋を護衛する
     遺体は腐爛しており、崩れそうになったのを石膏でかため人間の形に保たせたものになる
     1976(昭和51)08/3人の遺体を解剖した軍医田中隆一大尉の自宅から「鑑定書」が発見される
     「鑑定書」は1923(大正12)9月26日付
     大杉は「胸部右側第四肋骨、左側第四、第五ハ完全骨折」
     伊藤は「第三第四第五肋骨ハ完全骨折、胸骨ハ完全横骨折ヲ認ム」
     いずれも胸部には多数の骨折や溢血が認められる
     「男女二屍の前胸部の受傷は頗る強大な外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものなることは明白」
     複数の人間により寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加え致命傷を与え、最後に首を絞める
     橘宗一に外傷はなく、大杉と伊藤には明らかに生前相当ひどい暴行を受けた跡が見受けられる
  09/20『大阪朝日新聞』が第2号外を発行
     「甘粕憲兵分隊長 留置中の大杉栄を刺殺す 軍法会議に廻された内容」
  09/20『時事新報』が号外を発行する
     記者が憲兵隊本部にまぎれ部内の知人から「大杉が殺された井戸に放りこまれた」と情報を得る
     「陸軍省自らが発表を為すに至った所を見るも極めて重大なるものであるべく観察せらる」
     スクープとなる。たちまちにして発売禁止に
  09/20禁足で村木源次郎ひとりが留守居の労働運動社に警視庁から人がくる
     殺された橘宗一について尋ねられる
     宗一は大杉の子かと聞かれ、違うと答えると、男はびっくりして帰っていく
     09/21村木は警察のただならない雰囲気を察し近藤憲二にことの次第をしらせようと駒込署へ
     するとこれまで許されていた面会が禁止に
     やりとりのうち村木までもが検束されそうになり、署員のすきをみて逃走
     禁足をやぶり尾行が見張る大杉宅に行きかねた村木は四谷区津守坂上の布施辰治弁護士の家へ。1泊することに
     09/22村木は布施辰治弁護士と警視庁に出頭
     村木自身の釈放を頼み、大杉ら3人の調査依頼書を村木と布施の連名で提出する
     警視総監の湯浅倉平は村木の釈放は認める
     大杉らについては自分からはなにも言えない。推量してほしいとの返事のみ
     望みが絶たれた村木は大杉宅へ行き警視総監との顛末を語る
  09/20福岡住吉花園町に住む伊藤野枝の叔父代準介あてに東京の『報知新聞』『都新聞』から電報が入る
     代準介は伊藤野枝の父の妹の夫
     片仮名電文で「大杉栄、伊藤野枝、遺児の三名、憲兵隊麹町分署にて殺害さる」
     代は今宿にいる伊藤野枝の父亀吉に知らせる。亀吉は善後策を講じるため代宅へ
     代は即座に警察と県庁に行き戒厳令中の府下に入るため上京許可の証明書を得る
     代準介ひとりで上京
     途中、大阪で下車。身の回り品や食料、薬品、幼子たちへの菓子などを買い、棺桶を用意する
     神奈川県小田原あたりが壊滅状態で不通と知り、名古屋から中央線に乗り換える
     09/23戒厳令実施のなか容易に入京できず。特に大杉の関係者ということで面倒なるも許される
     特高課員の案内で大杉宅へ。たくさんの同志や文士、弁護士や記者などがうち集い善後策を協議
     死体はまだ戻っておらず
     代は陸軍に顔の利く頭山満、官僚などに顔の利く杉山茂丸、三浦梧楼を頼ることに
     09/24代準介が新聞社の車を駆使して国士舘の頭山満他を訪ねる。特高課員が先導案内に立つ
     代準介は大杉の弟らと憲兵司令部に行き山田法務部長より、明日朝遺体の下げ渡しを確認する
  09/20午後1時、陸軍当局から、甘粕事件発生により関東戒厳司令官で陸軍大将の福田雅太郎の免官、
     憲兵司令官で陸軍少将の小泉六一【又一?】、東京憲兵隊長で陸軍憲兵大佐の小山介蔵大佐の停職が発表される
     憲兵分隊長の甘粕正彦大尉が9月16日に職務執行の際、不法行為をしたこで部下の監督不行き届きの責任を追求する処分
     甘粕は軍法会議に付せられ審議中なり、と
     福田雅太郎の後任に軍事参議官の山梨半造大将が任命される
  09/21『読売新聞』が伝える
     「甘粕大尉は渋谷の分隊長で、昨日も陸軍省及び戒厳司令部に顔を
     出して居たこととて僚友達も余りに突然の事に何れも驚くばかり」
  大杉栄らを報じた各新聞はことごとく発禁処分を受ける
     新聞記事禁止令の追い討ちをかけられる
  09/23東京浅草の12階建て凌雲閣を陸軍工兵隊が爆破解体
     凌雲閣は関東大震災で8階部分より上が崩壊、経営難から復旧が困難となったため
     凌雲閣は1890(明治23)11月11日に開業
  09/24午後2時、新聞に抜かれた陸軍省は甘粕の不法行為を発表。大杉栄絞殺事件の事の顛末が暴露される
     【午後3時?】【第1師団軍法会議検察官? 検査官?】
  09/24大杉栄ら3人虐殺事件の報道が解禁となる
     「甘粕憲兵大尉が大杉栄外二名を致死、動機は……自ら国家の蠹毒を艾除せんとしたるに在るもののごとし」
     「陸軍憲兵大尉甘粕正彦に犯罪のあることを聞知し、捜査予審を終わり本日公訴を提起したり、
     甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄外二名の者を某所に同行し之を死に致したり云々」
     「無政府主義者の巨頭たる大杉栄が、震災後秩序未だ整わざるに乗じ、如何なる不逞行為に
     出ずるやも測り難きを憂い、自ら国家の害毒を芟除せんとしたるにあるものの如し」
  09/24辻潤が小島キヨと一(まこと)を連れキヨの故郷広島に向かう途中
     下車した大阪の道頓堀で「大杉外2名殺害」の号外を受け取る
  09/25朝、大杉の2人の弟勇と進、野枝の叔父代準介、友人の山崎今朝弥、安成二郎、服部浜次、木村源次郎が遺体を引き取る
     憲兵隊本部から三宅坂の陸軍第1師団衛戍病院にきた3つの遺体を確認
     3体とも包帯で全身を隙間なく巻かれている状態。指先で叩くと包帯の下でこつこつと石膏の音がするだけ
     殺され10日が過ぎ完全に腐乱腐敗状態。受納後、陸軍の車で落合火葬場に運ばれる。火葬後の遺骨で受け取ることに
     09/263人の遺体が落合火葬場で荼毘にふされる【09/27?】
     09/27陸軍の費用で火葬される【09/28?】
     朝8時、4人の遺児と勇ら近親、岩佐や服部ら同志、友人が骨上げ3つの骨つぼに分ける
     【遺骨は代準介と大杉勇が分骨する】
     荼毘に付された遺骨が柏木の大杉宅に安置される
     夜、「静かな告別の集い」が催される
  09/25大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の死が朝刊に大きく報道される【09/25?】
     大杉宅の隣接地に居を構える小説家で評論家の内田魯庵が自身の子をたしなめる
     「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんの咄をしてはイケナイよ」
     魔子は大杉栄と伊藤野枝の長女。その魔子が内田宅へ
     「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお祖父さんが
     パパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの」
     魔子は内田の妻を見つけて繰り返す
     「伯母さん、パパもママも殺されちゃったの。今日新聞に出ていましょう」
  09/26『東京朝日新聞』に甘粕の弁護士塚崎直義が談話を発表する
     甘粕の刑は私心のためではなく、国家を憂るう赤誠からの犯罪として、3年内外となるであろう
  09/27帝都復興院が設立。後藤新平内相が総裁に
  09/27夜、代準介は大杉栄と伊藤野枝の4人の遺児の処置や家の始末、葬儀などを協議
     年長者となる代の意見が提説となり一決する
     10/02代準介らは3人の遺骨を携え新宿駅午後2時55分発の中央線名古屋経由で九州への帰途につく
  09/海外から救世軍の援助物資が続々届く
     イギリスから毛布1万枚、衣類。アメリカから衣類、毛布、薬品のほか、
     タイプライター7、自動車2、トラック3、ミシン25台が届く
     早速、下着類やエプロンなどを作り配布する
     カナダから19回にわたって船がつくごとにたくさんの衣類が届けられる
     救世軍は少なく見積もっても50万円の物資を扱ったことに
     ロンドンの万国本営からの援助は25万5千余円に
     アメリカ救世軍日本人部から男7、女2の計9人の救護班が応援に駆けつける
  09/救世軍が多岐に渡って救援活動を展開する
     九段、芝離宮、青山外苑、上野不忍、日比谷公園にバラックを建て隣保館を設ける
     隣保館に夫婦の士官を配属させる
      第1には精神的に彼等を慰藉(慰謝)し、教導し
      第2には肉体的な怪我人の手当て、病人の看護、また妊産婦の世話、
      第3には物質的な必需品の供給、職業や生活相談、生活安定を目的とする
     『主婦之友』社長の石川武美からの5千円を基金として芝離宮、日比谷公園、九段に児童保育所を開設する
     日比谷、丸の内、九段で牛乳の配給をし、およそ3万人に達する
     年末には雑煮餅の廉売を行なう
     下谷区仲御徒町の救世軍病院にも60坪のバラックをたてる。救療業務に取り組む
     のち1年半の間に約9万人の診療をする
  10/初新聞の論調は幼子までもが虐殺されたにもかかわらず憲兵甘粕正彦大尉びいきの報道
     大杉栄は日蔭茶屋事件などから説き起こし社会の毒と誹謗中傷。対して甘粕は好意的
     アナキストとはいえまったくの無抵抗の2人と、6才児を殺めた殺人犯を賞賛する
  10/初大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の遺骨が柏木の大杉宅から労働運動社へ移される
  10/01、02橘あやめがアメリカ大使館に出むく
     アメリカ市民を日本の官憲が虐殺した事を外務省へ抗議を申し込んでもらう
     書記官はアメリカ人としてできるだけの尽力を約束する
     駐日大使から外務省へ、外務省から陸軍省へと話が進み閣議では議論が沸騰
     12/頃アメリカ大使館が外務省に対し、アメリカ国籍をもつ宗一の死に非常なクレームをつける
     第2次山本権兵衛内閣は国際問題としてアメリカに陳謝する
  10/02『読売新聞』に内田魯庵が「此頃の大杉の思い出」の連載をはじめる。3、4、5、6、8日の全6回
     のち「追記」が加わる
     のち単行本収録時には「最後の大杉」と改題
  10/02代準介らは3人の遺骨を携え新宿駅午後2時55分発の中央線名古屋経由で九州への帰途につく
     一行は代のほか伊藤野枝の父亀吉の妹で叔母坂口モト、女中雪子と大杉栄と伊藤野枝の遺児4人
     塩尻までは警視庁の特高課員3人が付き添う
     さらに神戸までは大杉の下の弟進も同行
     10/04午後1時32分、下関につく。伊藤野枝の妹武部ツタがホームに出迎え
     船で門司に渡り、午後3時発、博多に5時50分に到着
     強行50時間余に及ぶ難儀な旅は、さらに今宿まで10キロ
     その夜は全員住吉花園町の代準介の家にて疲れを癒すことに
     のち代準介は帰るとすぐ無戸籍の4児のため戸籍づくりに取りかかる
     市の幹部、旧知の警察署長に懇願して伊藤野枝の私生児として戸籍を作ることに
     4児の改名を野枝の父亀吉と考える
     魔子は「眞子」に、エマは「笑子」に、ルイズは「留意子」に、ネストルは「榮」に改名
     エマの名は伊藤が心酔していたロシア出身でアメリカ在住のアナキスト、エマ・ゴールドマンによる
     ルイズはパリ・コンミューンで名を馳せたアナキスト、ルイズ・ミシェルにちなむ
     魔子は博多住吉花園町の代家で預かり、エマとルイズは今宿の野枝の父母亀吉とムメに預ける
     ネストルは今宿に住む代準介の娘千代子に預けることに
     1926(大正15)05/春吉尋常小学校4年の眞子が2年8か月育てられた代家をあとにする
     大杉栄の末妹で橘宗一の母橘アヤメが代家と伊藤家が大変と眞子を引き取る
  10/03警視庁が自警団の取り締まり規則を発表する
  10/04ギロチン社の田中勇之進が大杉栄殺害の報復を企てる
     標的は大杉を殺害したとする甘粕正彦憲兵大尉の実弟で三重県立津中学校5年在学中の甘粕五郎【4年?】
     登校途中を短刀で襲撃するも失敗。松阪駅前で警官と乱闘の末、逮捕される
     のち懲役8年の刑を受ける
  10/08新聞等記事差し止めが軍法会議第1回公判の日にあわせて解除される
     解除は事件発生22日目
  10/08新聞等記事差し止めが解除され『大阪毎日新聞』甘粕事件の号外を発行
     「所謂「外二名」とは伊藤野枝と栄氏の甥で当年七歳の子供」
     甘粕正彦、森慶次郎の顔写真、大杉がフランスからの帰り伊藤と東京駅で撮った写真、橘の全身写真が載る
  10/08午前5時、軍法会議の傍聴券が配布される。200枚ほどの傍聴券に希望者が殺到
     軍人や国家主義的思想団体の関係者が多く、主義者や女性の姿はなく
  10/08午前9時、青山1丁目の第1師団司令部内の軍法会議法廷で甘粕正彦と森慶次郎事件の第1回公判が開かれる
     大杉ら虐殺事件の記事が解禁となり、「外二名」が伊藤野枝と甥の橘宗一と公表される
     判士長は岩倉正雄大佐、判士は林大八少佐、平田健吉少佐、梅地庫彦大尉
     検察官は第1師団法務部長の山田喬三郎、法務官の小川関次郎
     甘粕の官選弁護人は塚崎直義、糸山貞規、森慶次郎私選弁護人は田崎沼久、武富済
     軍部内での法廷だけに甘粕や森に対して温情的な予審尋問が続く
     大杉に関しては「震災と同時に9月10日くらいから探しはじめ見つけ次第殺そうと考えていた」と確信的に答える
     ただ伊藤野枝殺しを供述するも、橘宗一殺しに関しては甘粕も森も知らないと述べる
     10/09東京憲兵隊本部付け憲兵上等兵の鴨志田安五郎が橘宗一を殺したと自供。衛戍監獄に収容される
     本多重雄上等兵が共犯と自首する
     10/11弁護士らが小川法務官を忌避
     10/12橘宗一殺害の共犯として平井利一伍長が見張り役を自供、収監される
     10/13小川法務官のかわりに大阪第4師団の告森果法務官が任命
     10/17小泉又一少将が証人として3時間半にわたり服部予審官の取調べを受ける
     10/20殺害の手引きをしたとみられる淀橋署の松元警部補、滋野巡査部長が証人として岩崎検事の取調べを受ける
     11/16軍法会議第2回公判が厳戒の第1師団司令部の軍法会議室で行なわれる
     11/21軍法会議第3回公判が行なわれる
     大井陸軍大将をはじめ2、30人の将校が法務官席うしろの特別傍聴席に陣取る
     11/24被告5人に対する論告求刑が行なわれる。山田検察官が求刑
       甘粕正彦大尉に懲役15年
       森慶次郎曹長に同5年
       平井利一伍長に同1年6月
       鴨志田安五郎上等兵に同2年
       本多重雄上等兵に同2年
     12/08軍法会議で事件の実行犯5人に対する判決が言い渡される【第7回の公判で結審】
     虐殺は甘粕正彦の個人的犯行とされる
     各人の供述調書は組織、誰か、何かを守るために進んで罪をかぶろうとする思惑や経緯があるのではないかとも
       甘粕正彦大尉 懲役10年
       森慶次郎曹長 同3年
       平井利一伍長 無罪
       鴨志田安五郎上等兵 無罪
       本多重雄上等兵 無罪
     【11/16第2回公判、10/17第3回公判、10/21第4回公判、11/16第6回公判?】
    のち森は1年2か月で、甘粕は3年足らずで仮出獄する
  10/09大蔵省が震災の損害額を約100億円と発表
  10/13『読売新聞』に「橘宗一、伊藤野枝、大杉栄の幽霊がでる」との記事が載る
     目撃者は9月19日と10月3日の夜、ともに代々木初台の小泉少将屋敷近くで見たと証言
     【10月13日「読売新聞」2ページ】(別ページリンク)
  10/16夕刻、ギロチン社の4人が大阪府下の十五銀行玉造支店小阪詰所を襲う
     古田大次郎ら4人が詰所をでた勤め帰りの会計係住田芳蔵と主任浅田卯之助を襲う
     襲われた住田が金庫を抱え逃げ、間違えて見届け役の古田に助けを求める
     驚いた古田は脅すつもりで短刀を取りだす、もつれ合い短刀は住田を突き刺し強奪事件が強盗殺人事件に一変
     奪ったカバンに入っていたのは75円のみ
  10/18震災から10月18日までの伝染病(赤痢、腸チフスが主)患者数は3686人。死者は624人に
  10/19東京市と市連合の震災遭難者大追悼会が本所区の陸軍被服廠跡地で開催される
  10/215万の四谷区民が甘粕減刑の上申書を提出する
  10/24東京市京橋区で徒食防止のため避難民に対する配給を制限
  10/25中国の広州で「大杉栄追悼会」が開かれる追悼歌がうたわれ、大杉の記念はがきが配られる
  10/25震災後の失業対策を中心に関東労働組合連合協議会が成立する
     労働総同盟の所属組合、造機船工労組合、自由労働者同盟会、理髪技友会、南葛労働組合、
     関東機械工組合、出版従業員組合、時計工組合、中部労働連合会などが参加
     失業救済について協議し対策を講じる
  10/28東海道線が全線で復旧する
  10/下旬橘あやめが夫惣三郎の父を見舞うため宗一の遺骨をだき名古屋へむかう
  10/群馬青年共産党事件が起こる
     秘密結社共産党を作った藤田悟ら15人の活動が発覚
  11/03警視庁が各署に自警団の解散を指示
  11/14前橋地裁が、震災直後に朝鮮人17人殺害をした被告34のうち13人に懲役5年などの有罪判決
  11/14島田三郎が71才で死去する[1852(嘉永05)12/17《11/07》生]【72才】
     11/1710時から葬儀、青山斎場にてキリスト教式により執行。司会は内ケ崎作三郎
     石川安次郎が遺文を朗読、吉野作造が個人の事績を称え、山室軍平の説教、安部磯雄が追悼の辞をのべる
     救世軍の山室軍平、社会運動家で評論家の田川大吉郎が追悼の辞を送る
     山室は「真理に歩める政治家、道義に立脚せる戦士、温き愛の所有者」と述べる
     田川は「民権自由の泰斗、政界の長老、一代の高士即ち空し」と称える
  11/15戒厳令の一部適用が終了するため勅令第480号が発令される
     11/16関東戒厳司令部が廃止され、首都警備の任務は東京警備司令部に引き継がれる
     関東戒厳司令部の設置は9月4日
  11/15東京市内の震災の失業者は男4万9372人、女1万9494人、計6万8866人に
  11/20亀戸事件労働者大会並びに官憲暴行応戦大演説会が開かれる
     主催は労働総同盟関西同盟会、官業労働総同盟関西同盟会
  11/22上野署が上野公園にある150軒の露店の強制立ち退きを実施

  11/25「島田翁の弔合戦に公娼廃止の運動」が起こる
     島田は死後も廃娼運動に貢献

  11/雑誌『改造』11月号(第5巻第11号)に77ページに及ぶ特集「大杉栄追悼」が組まれる
     大杉の友人、同志16人が綴った証言集
     山川均「大杉君と最後に会うた時」、村木源次郎「ドン底時代の彼」、安成二郎「かたみの灰皿を前に」、
     山崎今朝弥「外二名及大杉君の思出」、和田久太郎「無鉄砲、強情」、賀川豊彦「可愛い男大栄杉」、
     岩佐作太郎「飯の喰えない奴」、堀保子「小児のような男」、内田魯庵「第三者から見た大杉」、
     松下芳男「殺さるる前日の大杉君夫妻」、土岐善麿「印象二三」、近藤憲二「大杉君の半面」、
     馬場弧蝶「善き人なりし大杉君」、宮島資夫「追憶断片」、有島生馬「回顧」、久米正雄「一等俳優」
     ほかに「甘粕事件批判」の評論2編12ページが併載される
  11/雑誌『女性改造』が伊藤野枝の友人らによる追憶記を載せる

  12/初吉原と洲崎の遊廓でそれぞれ4軒の貸座敷が営業を開始する
     20人ばかりの娼妓のなかには、待ちかねた遊客をさばくのに1日30余人を廻しとる妓もいたとか

  12/08軍法会議で1923(大正12)9月16日の大杉事件の実行犯5人に判決が言い渡される
     【第7回の公判で結審】
     甘粕らは関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     虐殺は甘粕正彦の個人的犯行とされ懲役10年に
     のち甘粕正彦は千葉の陸軍刑務所に収容されているとき東宮ご成婚の恩赦で7年半に減刑される
     1926(大正15)10/01仮出獄する
     甘粕の刑は10年に満たない3年。それも監獄内ではかなりの特別優遇扱いされる
     1939(昭和14)甘粕正彦が岸信介の推挙により満洲映画協会の理事長に就任
     新京で満洲国、関東軍、満洲鉄道の全てに顔がきく満洲の陰の実力者となる
     1945(昭和20)08/20甘粕正彦が青酸カリを飲んで自殺する
     黒板にチョークで書かれた遺句が残る
       大ばくち打ちそこね 身ぐるみ脱いで すってんてん
  12/08東京市がバラック居住者を8万5648人と発表
  12/11震災慰安として上野動物園が無料公開をする。12月25日まで
  12/13夜、牛込区加賀町の右翼陣営大化会の本部に私服の憲兵将校が訪れる
     将校は人払いすると2階の会長室で岩田富美夫と密談
     「これから先、大杉栄らの告別式が警視庁の許可のもと公然と施行されては憲兵隊の面目丸潰れだ。
     ついては、ひとつこれを事前に叩き潰してくださらぬか。貴下を見込んでお頼みする」
  12/16朝7時半頃、告別式前の慌ただしい労働運動社の近くに2台の車が停まる
     前の車には背広の岩田富美夫と詰め襟の寺田稲次郎が乗り
     後ろの車には紋付き袴の下鳥繁造と労働服の芝浦の石炭沖仲仕2人が乗る
     岩田以外のそれぞれが車から降り別々に大通りから路地に入る
     労働運動社の座敷にあがった下鳥が床の間に安置する遺骨箱に進みよると念仏を唱え焼香
     焼香をした右手を伸ばし壇上の遺骨箱を奪い取ると玄関から外へ飛びだす
     参列者の呼びかけに、労働運動社の幹部らが下鳥のあとを追いかける
     下鳥は追いかけてくる者たちにむけて発砲する。弾はそれる
     下鳥から寺田の手に移った遺骨箱は、待ちうけていた車の窓越しに岩田に手渡される。車は走り去る
     下鳥は30人ばかりのいきり立った者たちに囲まれるなか、駆けつけた制服私服の警官に引き渡される
     寺田らはその足で東京駅から岐阜へ逃亡
     12/17遺骨を盗んだ逃走中3人のうち浜江伝、寺田稲次郎が岐阜駅で逮捕される。遺骨はでてこず【12/18?】
  12/16午後1時から下谷区の谷中斎場にて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の合同葬が遺骨がないまま挙行される
     労働運動社が主体となり、主催は自由連合派の労働団体と無政府主義の思想団体
     代準介と眞子の姿も。2人は岩佐作太郎が福岡へおもむき3人の葬儀への列席を懇願し上京
     司会は岩佐作太郎。参会者700人。20数旒の団体旗が祭壇に樹立する【1000人?】
     朝鮮諸団体、北部フランス・アナキスト同盟などから弔文がよせられる
  12/16大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の合同葬の日、大阪、岡山などで追悼会が開かれる
  12/18安部磯雄、島中雄三らが政治問題研究会を発足
  デスクから信頼を得ている東京日日新聞のS記者が編集部に情報をもちこむ
     岩田富美夫ら大化会に盗まれた大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の遺骨は粉末にされ宮城前、馬場先門一帯の
     道路を舗装しているコールタールに混入し宮城参拝者たちの土足で踏みにじらせているというもの
     のち大化会もやりかねないと、社会部は関係者を探る
     そういう形跡はなく、謝った情報とわかる
  12/22岩田富美夫が警視庁に出向き湯浅倉平総監の部屋で1時間半にわたり密談をする
  内務省の長岡田忠彦警保局長が猶存社の北一輝を招く
     「警視総監の湯浅倉平の面目を立てるため、岩田に遺骨をだすよう尽力してくれませんか」
     「岩田、寺田、下鳥の3人を起訴しないと約束して下さったら、遺骨を持たせて岩田を自首させる自信があります」
     のち北一輝が大化会の岩田富美夫を訪ね自首を勧告する
     12/25午前10時頃、岩田が遺骨箱をさげ警視庁の湯浅総監室に出頭する
     岩田は一応の取り調べをうけ即座に釈放される
  12/27朝、警視庁からの通知をうけた労働運動社の村木源次郎が遺骨を受け取りに向かう
     中谷刑事部長室で遺骨受領の書類を書きかけたとき、難波大助による虎の門事件が発生
     庁内はごった返し遺骨の受け取りはひとまず中止することに
     1924(大正13)05/17大杉勇が兄栄ら3人の遺骨を警視庁から受け取る
     05/25静岡市沓谷の共同墓地に大杉栄、伊藤野枝、橘宗一と大杉の弟伸の遺骨が埋葬される【05/23?】
  12/2710時50分、虎の門の路上で帝国議会の開院式に向かう摂政宮裕仁が乗る自動車にステッキ銃の銃弾が発射される
     摂政宮裕仁はのちの昭和天皇。虎の門事件
     失敗し「革命万歳」と叫び逃走をはかる。周囲の群衆の暴行を受けるなか警備の警官に現行犯逮捕される
     犯人は23才の難波大助。山口県の衆議院議員難波作之進の四男
     難波の犯行はギロチン社とも労働運動社とも関係ない単独犯
     犯行に使ったステッキ銃は、大審院長の横田秀雄は林文太郎が満州でステッキかわりに使っていたもの
     【伊藤博文がロンドンで購入し難波の祖父が伊藤からもらったもの】
     1924(大正13)11/13死刑の判決が言い渡された犯人の難波大助が突然大声で叫ぶ
     「日本無産労働者、日本共産党万歳、露西亜社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」
     難波は1923(大正12)12月27日に摂政の皇太子裕仁親王を近接狙撃するも失敗、警官に現行犯逮捕される
     11/14怒った司法大臣の横田千之助が死刑執行命令をだす
     11/15市ケ谷刑務所にて大逆罪で処刑される[1899(明治32)11/07生]
  12/アナキスト演歌師の田中勇が旭川にあらわれ入営者に反軍ビラを配付
     労働歌をうたい気勢をあげる。グループは浅草を中心とする香具師の一団
  12/警視庁の警務部長正力松太郎が虎の門事件の責任をとらされ免官となる
  12/頃アメリカ大使館が外務省に対し、アメリカ国籍をもつ橘宗一の死に非常なクレームをつける
     第2次山本権兵衛内閣は国際問題としてアメリカに陳謝する
  12/頃世間では甘粕正彦らの減刑嘆願署名運動がおこる
  20才の堺真柄が高瀬清と結婚する
     1935(昭和10)32才の堺真柄が高瀬清と離婚後、近藤憲二と結婚
  「日本基督教婦人矯風会」が財団法人となる
     「日本基督教婦人矯風会」は1886(明治19)12月6日設立の「東京婦人矯風会」が母体
     1893(明治26)4が月3日に全国組織の「日本基督教婦人矯風会」となる
  汽車株式会社東京工場でストライキが起こる
     原因は機械労働組合連合会系の車輌工組合と労働総同盟系の誠睦会(のちの関東鉄工組合本所支部)との衝突
     のちこの確執が関西に波及し各所に演説会の打ちこわしや乱闘が行なわれる
     のち総同盟派と反総同盟派との関係はますます悪化
  京都の奥村電気株式会社の争議には国粋会が調停を買ってでる
     国粋会は会社側の強硬な態度に怒り、最後には労働総同盟と国粋会が提携する珍現象に
  労働組合の普選熱が冷却化
     名古屋労働組合連合会と大阪の純向上会などにより行なわれるに過ぎず
  この時期、労働組合は飛躍的に拡大。432組合に組合員12万5500人
     1925(大正14)457組合に組合員25万4200人となる


1924(大正13)

  《総理大臣》[第22代](第2次)山本権兵衛(→01/07)、[第23代]清浦奎吾(01/07→06/11) 、[第24代]加藤高明(06/11→)
  《内務大臣》[第39代]後藤新平、[第40代]水野錬太郎(01/07→)、[第41代]若槻禮次郎(06/11→)
  《警視総監》[第28代]湯淺倉平、[第29代]赤池濃/再任(01/07→)、[第30代]太田政弘(06/11→)
  《内務省警保局局長》岡田忠彦(→01/07)、藤沼庄平(01/09→06/11)、川崎卓吉(06/11→)


  01/〜03/片山潜がウラジオストックから日本海を経て上海へ
     04/北京からモンゴルのウランバートルへ
     1926(大正15・昭和01)08/モスクワへ戻る
  01/0712月27日に発生した虎ノ門事件の影響で山本権兵衛内閣が総辞職となる
     山本内閣の成立は震災の翌日9月2日
  01/26林重平らが大阪で全国行商人先駆者同盟を結成する
     同盟の創立趣意書が全国の香具師一家の関係者に発送される
  03/15大杉栄の前妻堀保子が芝区二本榎町の兄堀紫山宅にて腎臓病の療養中に死去
  03/東京府荏原郡森ケ崎の温泉宿にて佐野文夫、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三らが会議
     「第1次共産党」の解体が決定されると同時に、その為のビューロー(残務整理委員会)を設置。森ケ崎会議
     2月から3月へと続く会合にて、荒畑を除くほとんどの幹部が提案に同意、「解散声明」を決議
     1921(大正10)7月15日に結党した第1次共産党はいったん解散する
     のちコミンテルンは第5回大会に出席した佐野学、近藤栄蔵に対して党再建の指示をだす
     1925(大正14)夏/帰国した佐野を中心に「再建ビューロー」が結成
     1926(大正15)12/「再建ビューロー」を基盤にして「第3回党大会」が開催
     共産党が再建される「第2次共産党」
     のち党再建に参加しない堺利彦、山川均、荒畑寒村らは新しい日本共産党との論争を激化
     1927(昭和02)『労農』を創刊、労農派を形成する
  03/救世軍社会事業復興のため内務省から救世軍病院へ9万円、結核療養所へ2万円、
     浅草労働寄宿舎へ2万円、東京婦人ホームへ1千円の補助がある
     また大震災善後会からも救世軍病院に7万円の補助がある
     このとき松田院長と岩佐女医に万国本営から「創立者章」が贈られる
  04/08銀座の尾張町で爆発事件が起こる
     07/19下谷区谷中の共同便所で爆発
     07/28青山墓地で爆発
     09/03本富士署に爆弾が投げ込まれる。不発
     09/08銀座2丁目付近の電車通りで爆発
  04/27安部磯雄、島中雄三、石川三四郎、木村毅、大宅壮一らが日本フェビアン協会を発足
  05/31摂政宮殿下御成婚御饗宴当日、大連市にて無政府主義者の山本虎三、亀井高義らが不穏なビラをまく
     不敬罪により懲役2年の判決を受ける
     実際は亀井が「摂政宮御饗宴当日にビラをまくから、おかしなところは直して欲しい」と原稿を山本に渡す
     山本は直し「でもビラはまくな」と条件をつけ亀井も承知する
     のち当日が近づき山本は平林たい子と亀井を探すも連絡は取れず。亀井はビラまきを決行する
     のち山本が逮捕、起訴される
     亀井の日記に「山本兄が起草した宣伝文」と全文を書き残していたため
     山本自身は社会に向けて発表はせず、事件化されることもないはず
     こじつけ解釈が公然と思想検察の手で押し通される
  05/17大杉栄の弟勇が警視庁に渡った大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の遺骨を受け取る【05/18?】
     前年12月27日に村木源次郎が警視庁に遺骨を受け取りに行くも難波大助による虎の門事件で受け取れず
  05/20厚生閣が高橋貞樹(19)の『特殊部落一千年史』を発行する。定価2円
     副題は「水平運動の境界標」
     ただちに当局により発売禁止に
     10/27改訂版となる『特殊部落史』が発行される
  05/25大杉ら3人と大杉の弟伸の遺骨が柴田勝造、菊夫妻の尽力で静岡市沓谷の共同墓地に埋葬される【05/23?】
  06/17『島田三郎全集』第1巻(議会演説集)が発行される
     編纂者は吉野作造、発行所は島田三郎全集刊行会、発売所は警醒社。定価4円
     10/14『島田三郎全集』第2巻(社会教育論集)が発行される
     11/27『島田三郎全集』第3巻(開国始末井伊大老伝)が発行される
     4巻以降の当初の予定は
      第4巻・政教思想史論上、第5巻・政教思想史論下、
      第6巻・明治憲政史、第7巻・論文及書簡集
     1925(大正14)04/28『島田三郎全集』第4巻(政教史論)が発行される
     11/17『島田三郎全集』第5巻(議会と政党)が発行される。全5巻完結
  06/20全国水平社の機関紙『水平新聞』が創刊される
  06/27大阪市電労働者4千数百人が賃金引き上げや8時間労働制を要求して同盟罷業
     市電当局は警察や在郷軍人を動員して労組幹部26人を逮捕。スト破りには学生を使い電車を動かす
     徹底抗戦の2千人労働者が高野山にこもる。最終的には171人の解雇者と労働組合の解散で敗北となる
  06/28安部磯雄、島中雄三、大山郁夫、賀川豊彦らが無産新党結成準備会として政治研究会を発足
  06/頃生まれたばかりの大杉栄の長男栄(ネストル)の体が弱まる
     生後1か月半で東京から博多までの2泊3日の長旅などの疲労が連続する
     08/15満1才の誕生日を過ぎてすぐ早逝[1923(大正12)08/09生]
  07/関東大震災の余波で高畠素之の『資本論』第1巻、第3巻を出版していた大鐙閣が倒産
     大鐙閣の元社員が作っていた而立社で第2巻が出版
     日本で初めて『資本論』が完訳される
     1926(大正15)10/新潮社から改訳『資本論』全4冊が刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  08/西日本系アナキスト香具師が北海道の旭川で廃娼運動を目的とする「鎮断社」を結成
     石井龍太郎、大鐘参夫、大石太郎ら
     のち寺田格一郎が参加する
     のち50人ほどの組織に
     09/大杉栄暗殺を指示したとされた小泉少将の暗殺を計画したという事件をでっち上げられる
     中心メンバーが検挙される
     のち帯広から田坂積春らアナキスト香具師が駆けつけ法廷闘争を行なう
  09/01午後6時、和田久太郎が大杉殺害時の戒厳司令官福田雅太郎の狙撃を計画
     本郷区菊坂町の長泉寺で町会主催の震災追悼会が開かれる
     町会副会長山根倬三とじっこんの福田雅太郎が招かれる
     和田は会場入口に近い本郷4丁目2番地の西洋料理店燕楽軒前で待ち伏せ【本郷3丁目のレストラン燕楽軒?】
     福田が自動車から降りたところを背後から銃で狙撃
     空弾を撃ち福田は左肩甲骨と第4肋骨の間、心臓部の背面に1銭銅貨大の火傷を負っただけ
     和田はその場で逮捕される
     長泉寺の講演会会場にはピストルを忍ばせた村木源次郎も待機
     和田が失敗したときには村木の出番となるはずのところ、村木は機会を逸し会場をあとにする
  09/02和田久太郎が逮捕された翌日から、代々木の福田雅太郎宅に封書での脅迫状が届くようになる
     09/06自動的に爆発する強烈な爆裂弾入りの小包が速達便で代々木の福田雅太郎宅に送られる
     家人が小包を開いた途端、木箱から煙りが吹きだし驚いて庭に逃げる
     同時に轟然な爆音とともに茶の間の天井が滅茶苦茶に破壊する。福田本人は外出中
  10/14『島田三郎全集』第2巻(社会教育論集)が発行される
     編纂者は吉野作造、発行所は島田三郎全集刊行会、発売所は警醒社。定価4円
     第1巻は1924(大正13)6月17日に発行
     11/27『島田三郎全集』第3巻(開国始末井伊大老伝)が発行される
     4巻以降の当初の予定は
      第4巻・政教思想史論上、第5巻・政教思想史論下、
      第6巻・明治憲政史、第7巻・論文及書簡集
     1925(大正14)04/28『島田三郎全集』第4巻(政教史論)が発行される
     11/17『島田三郎全集』第5巻(議会と政党)が発行される。全5巻完結
  11/13虎の門事件で死刑の判決が言い渡された犯人の難波大助が突然大声で叫ぶ
     「日本無産労働者、日本共産党万歳、露西亜社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」
     難波は1923(大正12)12月27日に摂政の皇太子裕仁親王を近接狙撃するも失敗、警官に現行犯逮捕される
     11/14怒った司法大臣の横田千之助が死刑執行命令をだす
     11/15市ケ谷刑務所にて大逆罪で処刑される[1899(明治32)11/07生]
  11/15島田三郎一周年記念大講演会が開催する
  12/03改造社から賀川豊彦の『死線を越えて』下巻「壁の聲を聞く時」(第3巻)を発行する。定価2円80銭
     上巻は改造社から1920(大正09)10/03に発行。のち中巻の「太陽を射るもの」を発行する
     のち上巻だけで150版を重ね、ほぼ100万部が売れる
     大正期最大のベストセラーとなる
  12/26第50回帝国議会がはじまる
     1925(大正14)02/21普通選挙法案が衆議院本会議に上程される
     03/02修正可決される
     03/04貴族院本会議に上程される
     03/26賛成221、反対23で可決される
     03/28両院協議会の満場一致で可決される
     03/29衆議院、貴族院本会議で両院協議会案可決し普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が成立する
     05/05普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が公布される
  12/救世軍の月島労働寄宿舎が月島東仲通3丁目に移転
     東京府の委託経営として「自助館」と改称、労働寄宿と職業紹介を行なうことに
     月島労働寄宿舎は1911(明治44)11月25日に100人を収容する施設として開設する
  12/救世軍が神奈川県委託簡易宿泊所を横浜市南吉田町に「民衆館」として開設する
  平民大学が山崎今朝弥の『地震憲兵火事巡査』を発行する
  「新婦人協会」の婦人運動が「婦人参政権獲得期成同盟会」(婦選獲得同盟)へと引き継がれる
     「新婦人協会」の結成は1919(大正08)11月24日、解散は1922(大正11)12月8日
     のち「婦選獲得同盟」と改称


1925(大正14)

  《総理大臣》[第24代]加藤高明
  《内務大臣》[第41代]若槻禮次郎
  《警視総監》[第30代]太田政弘
  《内務省警保局局長》川崎卓吉(→09/04)、川崎卓吉(扱)(09/04→09/16)、松村義一(09/16→)


  01/市ケ谷刑務所に収監されていた村木源次郎が持病の結核と腎臓病に尿毒症を併発して危篤におちいる
     同じ市ケ谷に収監されていた和田久太郎と古田大次郎が病監にかけつけるも村木の目にはなにもうつらず
     01/22村木は意識不明のまま責付出獄として駒込片町の労働運動社に担ぎこまれる
     01/24午後3時半、村木が母親や妻の延岡ユキ、同志らに見守られながら昏睡状態のまま息をひきとる。34才
  02/21第50回帝国議会中、普通選挙法案が衆議院本会議に上程される
     03/02修正可決される
     03/04貴族院本会議に上程される
     03/26賛成221、反対23で可決される
     03/28両院協議会の満場一致で可決される
     03/29衆議院、貴族院本会議で両院協議会案可決し普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が成立する
     05/05普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が公布される

  03/05深川区西平井の東洋小学校、敷地内のバラックから出火
     20メートルの強風にあおられ洲崎の廓に飛び火し、損害額50万円、20余人の負傷者をだす

  04/10加藤時次郎の『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』、1917(大正06)10月10日に『平民』と改題
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
     1930(昭和05)05/10加藤時次郎が関与するのは第283号まで
  04/17埼玉県の桶川町で全関東青年水平社連盟の創立大会が開かれる
     13才の野本武一が「少年の叫び」を演説
  04/22治安維持法が公布される
     普通選挙法とは飴と鞭の関係になぞらえる
     1928(昭和03)06/29治安維持法の緊急勅令が発せられる
     「国体変革」への厳罰化、「為ニスル行為」の禁止、改正手続面が特徴として挙げられる
     1941(昭和16)03/10これまでの治安維持法全7条を全65条とする全部改正が行なわれる
     特徴として全般的な重罰化、取締範囲の拡大、刑事手続面、予防拘禁制度が挙げられる
     1945(昭和20)10/15治安維持法が廃止となる
     治安維持法の下1925(大正14)から1945(昭和20)の間に7万人以上が逮捕、その10パーセントが起訴される
     取調べ中の194人が拷問や私刑によって死亡し、1503人が獄中で病死
  04/28『島田三郎全集』第4巻(政教史論)が発行される
     編纂者は吉野作造、発行所は島田三郎全集刊行会、発売所は警醒社。定価4円
     第1巻は1924(大正13)6月17日に発行
     11/17『島田三郎全集』第5巻(議会と政党)が発行される。全5巻完結
  05/02アナキストの朴烈が皇室暗殺を計画した大逆罪に問われ起訴される
     05/04朴の内妻金子文子も大逆罪に問われて起訴される
     2人は1923(大正12)9月2日に治安警察法の保護検束を口実に検挙、淀橋警察譽に連行される
     1926(大正15)03/25両者に死刑判決が下される
  05/05普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が公布される。制限選挙から納税条件を撤廃
     満25才以上のすべての成年男子に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)
     1945(昭和20)12/27衆議院議員選挙法が改正。GHQによる民主化により改正衆議院議員選挙法が公布
     婦人参政権と選挙権年令引き下げにより、満20才以上のすべての成人男女による完全普通選挙を確立
     (広義の普通選挙・完全普通選挙)
  05/10飛松与次郎が秋田刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1948(昭和23)06/26崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  05/24日本労働総同盟(総同盟)主流派が日本共産党の影響を受けた左派(共産主義者)と対立
     分派活動を行った共産系23組合を除名。非除名派が日本労働組合評議会(評議会)を結成する
     総同盟の第1次分裂
     1926(昭和01)12/04社会民衆党の結成を巡り再び分裂、日本労働組合同盟(組合同盟)が誕生する
     総同盟の第2次分裂
     1928(昭和03)04/10評議会が解散する
     1929(昭和04)09/16総同盟大阪連合会が分裂し新たに労働組合全国同盟(全国同盟)が組織される
     総同盟の第3次分裂
     1930(昭和05)06/01第2次分裂の組合同盟と第3次分裂の全国同盟が合同し全国労働組合同盟(全労)を結成
     1936(昭和11)01/05日本労働総同盟(総同盟)と全国労働組合同盟が組織を統一
     新たに全日本労働総同盟(全総)を結成し、総同盟の再統一が行なわれる
  05/浅草区黒船町の救世軍の箱船屋が三河島辻元に「努力館」と改称移転する
     百人収容の労働寄宿と職業紹介を継続する
  06/14全10巻の『大杉栄全集』が順次発行される。第10巻は別巻として『伊藤野枝全集』にあてられる
     発行所は大杉栄全集刊行会、発行者は近藤憲二【奥付には非売品の表示あり】
     近藤憲二が編集に没頭し、印税は大杉と伊藤の幼い遺児たちの養育資金のために企画刊行となる
     発行者は本郷区駒込の近藤憲二、発行所は同所の大杉栄全集刊行会と記される。実質的にはアルスが販売を担う
     第1回配本の第5巻が刊行される
      「一革命家の思出」(クロポトキン)
       ・幼年時代
       ・近侍學校
       ・シベリア
       ・セント・ペテルスブルグ西ヨオロツパの最初の旅
       ・要塞 脱走・西ヨオロツパ
      「青年に訴ふ」(クロポトキン)
      「革命の研究」(クロポトキン)
      「自由合意」(クロポトキン)
     07/16第2回配本の第3巻が刊行される
      「自叙傳」・最初の思出・少年時代・不良少年・幼年學校時代・新生活・母の憶出・葉山事件
      「獄中記」・市ヶ谷の卷・巣鴨の卷・千葉の卷・續獄中記
      「日本脱出記」・日本脱出記・パリの便所・牢屋の歌・入獄から追放まで・外遊雜話・同志諸君へ
      「死灰の中から」
       附録 大杉榮年表
     09/15第3回配本の第8巻が刊行される
      「種の起源」(ダアイン)
       ・本書第一版發行以前の種の起源に就いての學説發達の略史・序論
       ・第1章飼養の下に現はれる趨異・第2章自然の下に現はれる變化・第3章生存競争
       ・第4章自然淘汰即ち最適者存在・第5章變化の法則・第6章此の學説の困難
       ・第7章自然淘汰説に對する種々の異論・第8章本能・第9章間種・第10章地質學的記録の不完全
       ・第11章有機物の地質學的繼承に就いて・第12章地理的分布・第13章地理的分布(續き)
       ・第14章諸生物の相互の類縁、形體學、胎生學、發育不完の諸器官・第15章略説及び結論
     10/24第4回配本の第7巻が刊行される
      「男女關係の進化」(シヤルル・ルトウルノ)
       ・譯者序・原著者序・第1章婚姻の生物學的起原・第2章動物の婚姻と家族・第3章亂婚
       ・第4章男女關係の奇怪なる諸樣式・第5章一妻多夫・第6章掠奪婚姻・第7章賣買婚姻及び服役婚姻
       ・第8章原始的一夫多妻・第9章文明人の一夫多妻・第10章賣淫と蓄妾・第11章原始的一夫一婦
       ・第12章白人種の一夫婦・第13章姦通・第14章離婚・第15章寡婦と順縁・第16章濠州及びアメリカ氏族
       ・第17章氏族と其の進化・第18章母系家族・第19章文明諸國の家族・第20章婚姻の過去現在及將來
      「人間の正體」(ハアド・ムウア)
       ・前篇 肉體篇・1人は動物である・2人は脊椎動物である・3人は哺乳動物である・4人は靈長動物である
       ・5繰り返して云ふ・6類似の意味・7萬物は進化する・8有機體進化の原動力・9有機體進化の證據
       ・10動物の系統・11萬物の同根一族
       ・後篇 精神篇・1科學と傳説との矛盾・2精神進化の證據・3常識的考察
       ・4人間と他の動物との心理的諸要素の比較・5結論
      「物質非不滅論」(ギユスタヴ・ルボン)
       ・物質の生滅・物質の進化・物質新論
     12/15第5回配本の「別巻(伊藤野枝全集)」が刊行される
      「創作」・雜音・動搖・惑ひ・惑ひ・乞食の名譽・轉機・白痴の母・或る男の墮落・火つけ彦七
      「感想と隨筆」・別居に就いて・或る妻から良人へ・自己を生かす事の幸福・サニンの態度
       ・男につかれるの記・化の皮・妙なお客樣・アナアキストの惡戯・拘禁されるまで
      「事實と批評」・喰ひものにされる女・階級的反感・無政府の事實・堺利彦論・自由合意による結婚の破滅
      「飜譯」・少數と多數・結婚と戀愛・婦人解放の悲劇・エマ・ゴオルドマン傳
       附録 伊藤野枝年表
     1926(大正15)01/19第6回配本の第6巻が刊行される
      「相互扶助論」(クロポトキン)
       ・序論・第1章動物の相互扶助・第2章動物の相互扶助(續)・第3章蒙昧人の相互扶助
       ・第4章野蠻人の相互扶助・第5章中世都市の相互扶助・第6章中世都市の相互扶助(續)
       ・第7章近代社會の相互扶助・第8章近代社會の相互扶助(續)・結論
      「民衆藝術論」(ロメン・ロオラン)
       ・初版序文・再版序文・序論平民と劇
       ・第1編 過去と劇・1古典喜劇・2古典悲劇・3浪漫劇・4紳士劇・5外國劇・6劇と講談・7劇壇三十年會
       ・第2編 新劇・1平民祭の先驅者・2新劇場・3メロドラマ・4史劇・5平民劇の他の種類
       ・第3編 劇以外に・1平民祭・2結論
       ・附録・1フランス革命と平民劇及び平民祭・2ダヴイドの祭典案
       ・3トスカノの五月劇・4ビユサンの平民劇場・5「戯曲藝術評論」と平民劇
       ・參考書目
      「生命の道徳」(マリイ・ギイヨオ)
       ・序論 形而上學的義務を認めようとする諸税の批評
       ・第1章形而上學的獨斷説の道徳
       ・第2章實際的確實の道徳‐信仰の道徳‐疑惑の道徳
      「フアブルの「昆虫記」から」
       ・蝉の話・蟷螂の話・行列虫の話
     04/02第7回配本の第9巻が刊行される
      「昆虫記」(アンリイ・フアブル)
       ・譯者の序・著者の序・1糞虫スカラベ・サクレ・2大虫籠・3玉虫殺しのセルセリス
       ・4象鼻虫狩りのセルセリス・5殺しの名人・6黄色い羽の穴蜂・7短劍の三突き・8幼虫と蛹
       ・9高遠な學説・10ラングドクの穴蜂・11本能の智惠・12本能の無知・13ヴアントウ山に登る
       ・14渡りもの・15青虫狩りのアモフイラ・16蠅取りのベンベクス・17蠅狩り・18寄生蠅其の繭
       ・19其の巣の記憶・20左官蜂カリコドマ・21いろんな實驗・22巣の交換
       附録 新種
      「科學の不思議」(アンリイ・フアブル)
       ・フアブル科學知識叢書に就いて・譯者から・1六人・2お伽話と本當のお話・3蟻の都會・4牝牛・5牛小舎
       ・6悧巧な坊さん・7無數の家族・8古い梨の木・9樹木の齡・10動物の壽命・11湯沸・12金屬・13被金
       ・14金と鐡・15毛皮・16亞●【艸冠に麻】と●【艸冠に麻】・17綿・18紙・19本・20印刷・21蝶・22大食家
       ・23絹・24變態・25蜘蛛・26ぢよらうぐも・27蜘蛛の網・28獵・29毒虫・30毒・31蝮と蠍・32蕁●【艸冠に麻】
       ・33行列虫・34嵐・35電氣・36猫の實驗・37紙の實驗・38フランクリンとド・ロマ・39雷と避雷針・40雲
       ・41音の速度・42水差しの實驗・43雨・44噴火山・45カタニア・46プリニイの話・47煮え立つ茶釜・48機關車
       ・49エミルの觀察・50世界の果への旅・51地球・52空氣・53太陽・54晝と夜・55一年と四季・56ベラドンナの實
       ・57有毒植物・58花・59果實 ・60花粉・61土蜂・62きのこ・63森の中・64大紅葺・65地震・66寒暖計
       ・67地の下の爐・68貝殻・69蝸牛・70青貝と眞珠・71海・72波、鹽、海藻 ・73流れる水・74巣分れの群
       ・75蜜●【足偏に鑞の旁】・76蜜房・77蜂蜜・78女王蜂
     05/20第8回配本の第2巻が刊行される
       ・トロツキイの共同戰線論・組合帝國主義・勞働運動の理想主義的現實主義・無政府主義と組織
       ・獨裁と革命・勞農ロシアの承認・ボルシエ●【ヰに濁点】キの暴政・子供の保護・『死んだ魂』
       ・クロポトキンを訪ふ・クロポトキンのロシア革命觀・勞働組合・勞農ロシアの新勞働運動
       ・勞農ロシアの最近勞働事情・勞農ロシアの勞働組合破壊・勞農ロシアの新勞働運動
       ・勞働反對運動の現在及び將來
      「新秩序の創造」・勞働運動の精神・僕等の主義・徹底社會政策・社會的理想論・組合運動と革命運動
       ・怠業と勤業・勞働運動の轉機・最近勞働運動批判・國際勞働會議・知識階級に與ふ・勞働運動と知識階級
       ・謂はゆる評論家に對する僕等の態度・新秩序の創造・賀川豊彦論・賀川豊彦論(續)・鈴木文治論
       ・日本の勞働運動と社會主義運動・日本の運命・××はいつ來るか・直接行動論・先づ彼等を叩き倒せ
      「自由の前觸れ」・僕等の自負・道徳の創造・法律の道徳・新しい女・強がり・僕は精神が好きだ
       ・此の醉心地だけは・自由の前觸れ・勞働者と白き手の人・ナイヒリストの死・オオソリテの話
       ・腹がへつたあ!・模範囚人・Sans−Patrieの祈祷・道徳非一論・奴等の力・社會か監獄か・野獸・むだ花
     07/16第9回配本の第1巻が刊行される
      「個人的思索」・個人的思索・思索人・奴隷根性論・征服の事實・生の擴充
       ・新事實の獲得・自我の棄脱・生の創造・正氣の狂人・賭博本能論
      「近代個人主義の諸相」・近代個人主義の諸相・最近思想界の傾向・唯一者・意思の教育
       ・主觀的歴史論・叛逆者の心理・近代科學の傾向・創造的進化・生の道徳・生物學から見た個性の完成
       ・丘博士の生物學的人生社會觀を論ず
      「羞恥と貞操」・羞恥と貞操・羞恥と貞操と童貞・男女關係の進化・本能と創造・超人の戀
      「勞働運動の哲學」・『勞働運動の哲學』序・個人主義と政治運動
       ・勞働運動とブラグマテイズム・勞働運動と個人主義・ベルグソンとソレル
      「現代社會觀」・時が來たのだ・再び相馬君に與ふ・茅原華山君を笑ふ・再び茅原華山君を笑ふ
       ・史的社會觀・現代社會觀・籐椅子の上にて・小紳士的感情・二種の個人的自由・謂はゆる政府的思想
       ・謂はゆる新軍國主義・飛行術的言論家・民主主義の寂滅・民族國家主義の虚僞
      「正義を求める心」・新しき世界のための新しき藝術・社會問題か藝術問題か・正義を求める心
       ・民衆藝術の技巧・勞働運動と勞働文學・泥棒と町奴・人類の意義・國家學者R・近代佛文學一面觀
       ・近代文學と新犯罪學・ヴアガボンド魂・靈魂のための戰士
     09/12第10回配本の第4巻が刊行される
      「飜譯小説」・共和祭・怪物・石垣・信者・クレンクビユ・道ばたで
      「隨筆」・入獄案内・被告術秘訣・新獄中記・遺言・パルチザンの話・死にそこなひの記・雲がくれの記
       ・一網打盡説・岡つ引共奴が・窃盜の改宗・石川三四郎に送る・文壇の唯一者・「坑夫」の序・「貧乏と戀と」の序
       ・いやな奴・築地の親爺・久板の生活・求婚廣告・愛嬌名・ボルシエ●【ヰに濁点】キ四十八手裏表・コズロフを送る
      「編輯室にて」・近代思想・平民新聞・近代思想・文明批評・勞働運動
      「獄中消息」・市ヶ谷から(1)・巣鴨から・市ヶ谷から(2)
       ・市ヶ谷から(3)・千葉から・市ヶ谷から(4)・豊多摩から
       脱走中の消息
       消息(大杉)
      「戀の手紙」・大杉から・伊藤から
       消息(伊藤)
       附録 エスペラント
  06/末山室軍平が18年間の救世軍本営書記長官の任を解かれ万国本営への出向を命じられる
     06/24青山会館で送別壮行会が開かれる
     徳富蘇峰が「救世軍と山室君」を講演
     のち上海、香港、シンガポール、マルセイユなど、寄港地の救世軍で語る
     のちロンドンでは滞在中の秩父宮に拝謁、救世軍の社会事業施設などを案内する
     のちドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの各地を歴訪する
     1926(大正15)03/山室軍平が救世軍第2代大将のブラムエル・ブースの満70才大祝賀会に列席
     祝賀にあたり山室が昇進。日本の連立司令官となる
     のち帰途はアメリカに向かう。ニューヨークをはじめ各地で講演、さらにはカナダからハワイへ
     約1年間に16か国を巡り500余の集会に出席、日本語の説教講演だけで140数回に
  07/16細井和喜蔵が改造社から『女工哀史』を刊行する。定価2円
  08/無期懲役で収監中の和田久太郎が市ケ谷刑務所で下鳥繁造と会う
     下鳥は1923(大正12)12月16日の大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の葬儀のとき3人の遺骨を奪った主犯
     下鳥は逃げるとき拳銃を撃ち、弾は追いかける和田をかすめる
     のち下鳥はまもなく病気になり「大杉の幽霊がでる」と騒ぎながら死ぬ
  09/文明批評社が雑誌『祖国と自由』特別号の「大杉栄追悼号」を発行する
     書き手には中浜鉄(哲)、大崎和三郎、武田伝次郎、和田久太郎、安谷寛一、
     和田信義、五十里幸太、新明正道、宮島資夫、堀保子、安成二郎ら
     表まわりには各広告が入る
      裏表紙裏に大阪鉄道、京阪電車、阪急電車、大軌電車、阪神電車、南海電車
      裏表紙に益野豊法律事務所、富田林銀行、加島銀行、
     ほかに平鹿洋酒店、EBCファーマシー(薬品、化粧品、カフェー)、弁護士白畠正造、医は仁術湯山医院
     記事中に神戸翻案社(翻訳、文案、図案、速記、新聞通信、経済調査)、相談所(労働、小作、借家、人事一般)
  11/17『島田三郎全集』第5巻(議会と政党)が発行される。全5巻完結
     編纂者は吉野作造、発行所は島田三郎全集刊行会、発売所は警醒社。定価4円
     第1巻は1924(大正13)6月17日に発行
  12/01日本初の無産政党農民労働党が浅沼稲次郎を書記長に立党
     日本共産党との繋がりを詰問され、第1次若槻内閣により治安警察法で即日解散、結社禁止を命じられる
     綱領に「無産婦人の人身売買の禁止」を掲げる
  12/15全10巻の『大杉栄全集』のうち第5回配本が『別巻(伊藤野枝全集)』となる
      「創作」・雜音・動搖・惑ひ・惑ひ・乞食の名譽・轉機・白痴の母・或る男の墮落・火つけ彦七
      「感想と隨筆」・別居に就いて・或る妻から良人へ・自己を生かす事の幸福・サニンの態度
       ・男につかれるの記・化の皮・妙なお客樣・アナアキストの惡戯・拘禁されるまで
      「事實と批評」・喰ひものにされる女・階級的反感・無政府の事實・堺利彦論・自由合意による結婚の破滅
      「飜譯」・少數と多數・結婚と戀愛・婦人解放の悲劇・エマ・ゴオルドマン傳
       附録 伊藤野枝年表
  12/15国際連盟が発効した「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」に日本が批准書を寄託、効力を発効
     12/2112月21日に公布される
     それまでの間に、日本政府は第5条の娼妓の年令制限などをめぐり醜態を演じる
     国際的外交常識を重視する外務省と公娼擁護の立場をとる内務省が対立する
     「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」は売春(醜業)とそれに伴う女性と児童の人身売買を禁止するための条約
     1921(大正10)に採択し、1922年6月15日に発効する
  廓清会「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」を発効するときの政府の対応を激しく批判
  救世軍の山室軍平の『平民之福音』が裴緯良(はいいりょう)の訳で朝鮮語となり発行される
     『平民之福音』の初版は1899(明治32)10月20日
  日本全国の青年団員拠金活動により建設された日本青年館の竣工に前後し、男子のみの組織「大日本連合青年団」が結成される
     1927(昭和02)「大日本連合女子青年団」が結成される
     日露戦争前後に日本全国に誕生した「処女会」「娘の会」など未婚女子青年組織の連合組織として誕生
     組織は青年の主体的運動により生まれたのではなく、内務省や文部省の主導の下、青年団を国家で管理するために生まれる
     1939(昭和14)「大日本連合青年団」は「大日本青年団」と組織を改める
     名実ともに国による指導統制体となる
     1941(昭和16)01/16既存の4団体が解体統合され「大日本青少年団」として再編される
     「大日本青年団」「大日本連合女子青年団」「大日本少年団連盟」「帝国少年団協会」
     1942(昭和17)閣議決定に基づき「大日本青少年団」が大政翼賛会の傘下に入る
     1945(昭和20)大政翼賛会の解散に伴い「大日本青少年団」が解散され国民義勇隊として再編される
  香具師の田口俊二、中村公平、村松栄一らが和歌山で婦人解放運動社を起こし廃娼運動に尽力する
     のち新宮にて廃娼運動のビラをまいていた村松がやくざに襲われ傷を負う
  和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』が休刊となる
     毛利柴庵を社長として1900(明治33)4月4日【04/14?】に創刊
     【1926(大正15・昭和01)頃に廃刊となる?】
  毛利柴庵が和歌山市に移り住み紀州毎日新聞の社主となる
  労働組合が飛躍的に拡大し457組合に組合員25万4200人となる
     2年前の1923(大正12)には432組合に組合員12万5500人

  洲崎遊廓の新吉川楼に登楼の17才の青年が海軍ナイフで敵娼を刺殺
     さらに同楼内と近隣の妓楼にて都合7人を殺傷する


大正末期

  東京深川の洲崎遊廓が300軒もの妓楼がひしめき賑わう。吉原と双璧をなすまでに←←←(変)
     1943(昭和18)洲崎遊廓に閉鎖令がくだされる
     跡地は軍需工場となる
     【戦争で深川地区が激しい空襲にあい、昭和18年に洲崎遊廓の閉鎖令が下される】
     【昭和18年以前には深川に空襲はない? 空襲が理由で閉鎖されたのではない?】
     【1945(昭和20)03/10の東京大空襲で洲崎遊廓が全滅する?】


1926(大正15・昭和01 12/25〜

  《総理大臣》[第24代]加藤高明(→01/28在任中に病死)、[加藤高明内閣]若槻禮次郎内務大臣が臨時兼任(01/28→01/30)
  《総理大臣》[第25代]若槻禮次郎(01/30→)
  《内務大臣》[第41代]若槻禮次郎、[第42代]若槻禮次郎内閣総理大臣が兼任(01/30→)、[第43代]濱口雄幸(06/03→)
  《警視総監》[第30代]太田政弘
  《内務省警保局局長》松村義一


  01/10水平社幹部の井元麟之が福岡第24連隊に入営する
     荊冠旗や赤旗をもつ300人の同志が、水平歌や労働歌をうたいながら連隊の営門前まで井元を見送る
     新聞は「営門前で赤旗が振られるのは福岡連隊はじまって以来のこと」と報じる
     1927(昭和02)年末井元が福岡連隊を満期除隊する
  01/16夜、福岡第24連隊の井元麟之がは同じ機関銃隊第4内務班に属する中島菊次郎に呼びだされる
     水平社の幹部でもある井元は1週間前に入営したばかり
     嘉穂郡桂川町の被差別部落出身の中島は隣村の渡辺千代松から差別をたてに脅されていると井元に訴える
     井元はすぐ内務班長へ届けると、班長は中島と渡辺を呼び事実を確認
     差別をした渡辺をさんざんに殴りつける
     のち井元が摘発した差別事件だけで半年の間に20数件、1週間に1件の割合で起こる
     井元は差別が日常的に起きていることに気づく
     抗議するもののない泣き寝入りを打破するとして組織づくりを考える
     のち井元は差別された兵隊を通じ部落から何人入隊しているか聞きだす
     約1か月後連隊内の部落出身者名簿を作り上げる
     名簿は紙に書かれるものでなく各中隊にたつ委員の頭の中に描かれる
     部落出身の総計は100人をこえるほどに
     連絡組織に正式名称はなく、誰となく「兵卒同盟」と呼ぶようになる
     連絡場所は厩舎や酒保にして、その日に起こった問題を数時間のうちにすべての部落出身兵士に共有
     井元は「兵卒同盟」を組織しながら連隊内での差別事件を逐一、松本治一郎ら水平社の同志に伝える
     連隊内の井元のたたかいを支えたのは水平社の同志でなによりも松本の存在
     連隊にとっても松本の率いる水平社は無視できない勢力で、ことを構えるのは極力避ける
     井元は上官から殴られることは一度もなくすぎる
     02/水平社九州連合会、青年同盟福岡県連合会の代表数十人が荊冠旗を先頭に福岡連隊におもむく
     機関銃隊の差別事件について厳しく抗議する
     機関銃隊隊長は今後差別事件が起こらないよう努力すること
     また連隊長と相談の上、連隊講演会を開くこと、その結果を追って通知すること、などを約束する
     のち連隊は「兵卒同盟」の存在に気づき井元などと他の部落出身兵士との連絡を妨げようとする
     日曜の外出が制限され、他者と話をしなかったか詰問され折檻をうける
     のち1か月、2か月が過ぎても連隊は水平社になんの連絡もいれず
     春/福岡連隊にて連隊長が営庭に兵士を集め「五箇条の誓文」を引用し差別を戒める訓話を行なう
     1月以来、水平社から受けていた抗議への配慮
     連隊長の命を受けた各中隊長も、それぞれの中隊で同様の趣旨の訓話をする
     一時的に差別言動が静まるも、しばらくして再びおこる
     05/16福岡連隊第6中隊で差別事件がおこる
  01/19『大杉栄全集』第6回配本の第6巻が刊行される
     【収録内容に関しては第1回配本の1925(大正14)6月14日を参照】
  03/25アナキストの朴烈と内妻の金子文子に死刑判決が下される
     2人は1923(大正12)9月2日に治安警察法の保護検束を口実に検挙、淀橋警察譽に連行
     1925(大正14)5月2日に朴が皇室暗殺を計画した大逆罪に問われ起訴される
     続いて5月4日に金子も大逆罪に問われて起訴される
     04/05「天皇の慈悲」の名目で恩赦がだされ、ともに無期懲役に減刑される
     ところが朴は「恩赦を拒否する」といい、金子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てる
     07/22金子文子が栃木女囚刑務所で看守の目を盗んで縊死
     遺族は自殺を信用せず調査を求める。看守側の妨害があり死亡の経緯は不明のままに
     1945(昭和20)10/27朴烈が秋田刑務所大館支所を出獄
  03/渡欧中の山室軍平が救世軍第2代大将のブラムエル・ブースの満70才大祝賀会に列席
     祝賀にあたり山室が昇進。日本の連立司令官となる
     山室が日本を離れたのは1925(大正14)6月末
     のち帰途はアメリカに向かう。ニューヨークをはじめ各地で講演、さらにはカナダからハワイへ
     約1年間に16か国を巡り500余の集会に出席、日本語の説教講演だけで140数回に
  04/02『大杉栄全集』第7回配本の第9巻が刊行される
     【収録内容に関しては第1回配本の1925(大正14)6月14日を参照】
  04/21静岡県浜松の日本楽器の本社工場で争議
     従業員1200人が衛生設備改善、最低賃金の保障など16項目の要求を提出し罷業を起こす
  05/16福岡連隊第6中隊で差別事件がおこる
     のち水平社九州連合会は金平、松原、松園の各在郷軍人会と協議
     05/25連隊におもむき事実を確認
     05/28県下支部代表者会議を開く【水平社九州連合会が?】
     05/31水平社が福岡松園の茲拡寺で第1回福岡連隊差別真相報告演説会を開く
     06/01青年同盟員ら10数人が連隊を訪ね隊内での差別根絶と演説会の開催を迫る
     連隊は「できるかぎり差別撤廃に努力する」と消極的な態度に始終
     06/02金平の大光寺で第2回真相報告演説会を催す
     06/17松原の松源寺で第3回真相報告演説会を開く
     差別事件を詳しく報告したビラ「軍隊内のこの差別を見よ!」を配布、差別撤廃を強く要望する
     全国の水平社の支援と大衆的な決起をうながす
     全国水平社九州連合会水平社青年同盟福岡県連合会婦人水平社福岡連合会の連名による
     06/30福岡連隊と最終交渉が決裂
     水平社九州連合会は全国の同志に糾弾闘争に決起するよう檄をとばす
     07/02福岡連隊が態度を一変する
     久留米連隊の太田憲兵隊長の仲介で水平社と交渉することに
     07/03午前2時、水平社と連隊の交渉の場がもたれる
     「七月下旬までに連隊講演会を福岡市記念館で開く」
     「将校のみの講演【学習?】は連隊長の私宅でおこなう」など5項目の条件で両者の合意が成立する
     水平社の要求を福岡連隊がほぼ全面的に認めたかたちに
     のち松本治一郎は東京へ向かう
     途中、全国水平社本部の木村京太郎は大阪駅にて、松本からわずか数分の列車停車中に「合意」を聞く
     詳しくは聞くことができず、木村は講演会を福岡連隊の「謝罪」講演会と思い込む
     木村は「福岡連隊の差別事件大勝利解決す」のビラを作り各府県水平社に配布する
     「頑迷固陋、階級差別によって固められた彼ら連隊当局の石頭連中も、遂に我らの正義の力の前に屈服した」
     のちビラを入手した福岡連隊が水平社九州連合会本部に文書を送る
     「軍隊を侮蔑する意味の文書を撒布せられたる事実ありたるに依り、前交渉の条件を破棄する」
     福岡連隊は半年の交渉の末に成立した合意を、ビラのささいな文言を口実に一方的に破約を通告する
     07/24水平社は福岡連隊差別事件をたたかいぬく決意を示す
  05/20『大杉栄全集』第8回配本の第2巻が刊行される
     【収録内容に関しては第1回配本の1925(大正14)6月14日を参照】
  05/春吉尋常小学校4年の眞子(魔子)が2年8か月育てられた代家をあとにする
     眞子は1923(大正12)9月16日に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の長女
     大杉栄の末妹で橘宗一の母橘アヤメが代家と伊藤家が大変と眞子を引き取る
     のち大杉栄の弟勇のもとで育てられ横浜紅蘭女学院を卒業
     1936(昭和11)眞子が博多に戻る。叔父の代準介が九州日報に就職させる
     のち九州日報で記者の神康生と知り合い結婚し4人の子を授かる
     のち博多人形師青木比露志に走り1女を生む
     1968(昭和43)09/2851才で死去[1917(大正06)09/25生]

  06/07廓清会婦人矯風会が廃娼問題に限って、財政と事業を同一とする連合組織「廓清会婦人矯風会連合」をつくる
     運動家久布白落実の提唱「廓清会も矯風会も打って一丸となって、猛烈なる廃娼運動を起すべき時です」による
     のち廃娼運動に邁進、廃娼運動を全国的に盛りあげる
     対県会レベルの公娼廃止請願運動がはじまる
     連合が先頭にたち各府県民の公娼廃止に関する請願書を多数とりまとめ
      各府県会議長と知事に提出し、その採択を要請する市民運動となる
     10/廓清会婦人矯風会廃娼連盟となる

  06/甘粕事件で殺された橘宗一の父橘惣三郎が自殺をはかる。一命はとりとめる
  07/16『大杉栄全集』第9回配本の第1巻が刊行される
     【収録内容に関しては第1回配本の1925(大正14)6月14日を参照】
  07/23栃木刑務所に収監中の22才の金子文子がみずから首をくくる
  07/24水平社福岡連隊差別事件をたたかいぬく決意を示す
     「連隊当局の不誠意卑劣によって問題は再度決裂した。
      ……降りかかる火の粉は払わねばならぬ。自由か? 然らずんば死か?」
     07/29水平社の九州連合会執行委員会でビラの文面には軍隊の威信を傷つける個所はないと確認
     大衆運動への展開を決議する
     連隊との立ち会い演説会の申し込み、在営同人の慰問激励、県内各地での糾弾演説会の開催など
     のち『水平月報』の紙上で激しく非難する
     「団体と団体との立ち会いの上で取交した神聖な約束を一片の通告状で破った
      軍隊当局の不誠意、没常識、卑劣さを見よ、これこそ軍隊の威信をゼロにしたものだ」
     ビラを書いた木村京太郎は「自責の念にかられる」と述懐する
      戦術的な誤りについて松本治一郎から「一言半句のお叱りもうけなかった」
      水平社九州連合会の幹部からも「ぐちめいた文句」も聞かなかったことに強く胸をうたれたと述べる
     破約は木村がかいたビラに福岡連隊が反発したのではなく、陸軍上層部の既定の方針
     07/30全国水平社本部が『水平新聞』に「福岡二十四連隊の差別問題再び決裂す」をまとめる
     闘争は水平社九州連合会対24連隊の問題でなく、「全国水平社対軍隊」の問題に発展していることを訴える
     08/05水平社が中央委員会を開く
     闘争の全国化を準備する
     08/05水平社九州連合会の代表が連隊長との面会を求める
  08/04第1次共産党事件で起訴された29人のうち27人の有罪が確定し禁錮10か月以下の刑を受ける
     堺利彦や山川均らを中心に共産党の結党を時期尚早として解党論が高まる
  08/05水平社九州連合会の代表が金平、松原、松園の各在郷軍人会分会長とともに連隊長との面会を求める
     福岡連隊内で頻繁に行なわれる差別事件に対して
     のち連隊は連隊長の田中源太郎大佐をはじめ10数人が列席
     憲兵と警察官立ち会いのもとで会見が行なわれるも、交渉は平行線のまま打ち切られる
     のち松本治一郎が晩年の対談で会見のやりとりを振り返る
     「『上司の命』ということばかりで責任のがれしようとする。そこで上司とは誰かと追及した。
      連隊長の上は旅団長、その上は師団長そして参謀総長、陸軍大臣と、
      そこまでは行くがその上はと追及するとどうしても言わない、
      大元帥・天皇の名を口にできない。まさか天皇の名で差別したとも言えない」
     08/17水平社が第4回経過報告及び糾弾演説会を開く
  08/10浅草区北田原町6番地の香具師大親分山田春雄と遠山哲男らが香具師の会を発起計画する
     全国に散在するたくさんの香具師を一致団結させ一大勢力となし、併せて香具師の向上啓発を計るため
     10/30万世橋ホテルにて発会式準備会を開き協議
     小島貞次郎、醍醐長吉、松葉武ほか21人が実行委員となる
     11/03「大日本神農会」が結成。発会式が代々木練兵場にて催される
     総裁は中川良男男爵、会頭は浅草の香具師親分山田春雄、総務には小林貞次郎、醍醐長吉、松葉武らが名を連ねる
     発足当初の会員は10万人を称する
     綱領に5本を掲げる
      一、皇室中心、国民相愛の大義に立ちて陋習を打破し以て社会平和と国家興棟に資せんことを期す
      一、質実剛健なる精神の振興を計ること
      一、社会欠陥の改善、不当なる制度の改革促進を計ること
      一、博愛共有の大義を宣揚すること
      一、公衆慰安の大道を展開すること
     「危険思想排撃」「社会主義撲滅」の文字はない
     「公衆慰安の大道」などは演歌や大道芸も売り物にする香具師らしい綱領に
     1927(昭和02)発会1年で機関誌『神農』を発行する
     会頭が悩みを訴えている事実を指摘
     「いかに多数の会員を有するとも、互いに親交を計る機会少なく、又互いの消息を知るの便宜に乏しければ、
     万一に際し相一致して活動する上に大きな力の欠乏を痛感し、延(ひ)いて国恩に報ゆるの力の微弱なるを恨む恐れなしとせず」
     会員数10万の神農会を立ち上げたものの大規模な街頭活動はできず
     つまり香具師の社会主義運動と全面対決するなどの場面はなし
  08/17水平社第4回経過報告及び糾弾演説会を開く【福岡連隊差別真相報告演説会?】
     糾弾闘争の強化、在郷軍人・青年団・処女会および青年訓練所からの脱退、福岡連隊への入営拒否の方針を決議
     徹底的にたたかいぬくことを確認する
     のち福岡県警の大久保警察部長が調停、水平社側に調停案を示す
      一、県社会課主催の衛戍講演会を開く
      二、水平社から講師一名
      三、傍聴者は将校、在郷軍人有志、などというもの
     のち対して水平社側は修正条件をつけて応じる
      一は旅団長が主催、二は水平社がわ三名、三は将卒全体に聞かせる
     のち連隊側は水平社が修正した調停案そ拒否
     「衛戍講演会は将校のみの会合で下士卒に聞かせた前例がないからできない」
     警察部長は連隊を説得する。連隊側は頭からはねつける
     警察部長は連隊の頑なな態度に調停をあきらめる
     「今に調停者の言をいれておけばよかったと後悔する時があるでしょう」
     10/10水平社九州連合会第4回拡大執行委員会が開かれる。200人近い代表者が出席
  08/片山潜が中国、モンゴルからモスクワへ戻る
     1933(昭和08)11/05片山潜(74)が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去
  08/羅府(ロサンゼルス)日本人労働協会が幸徳秋水の『社会主義神髄』を復刻。定価40セント
  09/10頃熊本の清住政喜が水平社の松本治一郎宅に寄宿する岩尾家定あてに手紙を投函
     清住は岩尾からダイナマイトとピストルの入手を依頼される
     手紙はその返事「ダイナマイトもピストルも手に入るから金を送れ」という内容
     でも岩尾は失踪後で松本宅には不在
     岩尾がなぜダイナマイトとピストルを必要としたかは謎のまま
     11/12松本宅の家宅捜索で手紙が発見される
     1927(昭和02)05/03裁判で押収する前の手紙の所在について被告の松本が検事を追及
  09/12『大杉栄全集』第10回配本の第4巻が刊行される
     【収録内容に関しては第1回配本の1925(大正14)6月14日を参照】
  09/水平社九州連合会福岡連隊差別事件を全国水平社対軍隊の福岡連隊糾弾闘争と捉える
     全国水平社本部で取り組む体制づくりが急務になる
     松本治一郎は大阪本部に打電し木村京太郎を福岡に呼び寄せる
     10/01早朝、木村が松本の家につく
     木村は松本と起居をともにする。徹夜する日が続く
     のち松本は本部を離れ1か月福岡に滞在する木村を気遣い帰阪をうながす
     10/31本部のことが気がかりな木村が福岡を離れる
     「いちど帰って、すぐまた来ます」という言葉を残す
     11/12大阪西浜の全国水平社本部が家宅捜索をうける
     木村京太郎と松田喜一が逮捕される
     11/17木村と松田が福岡に護送される
  10/011923(大正12)9月16日の大杉事件の甘粕正彦憲兵大尉が仮釈放される【10/09?】
     甘粕らは関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     甘粕の刑は10年に満たない3年。それも千葉の陸軍刑務所内ではかなりの特別優遇扱いされる
     1939(昭和14)甘粕正彦が岸信介の推挙により満洲映画協会の理事長に就任
     新京で満洲国、関東軍、満洲鉄道の全てに顔がきく満洲の陰の実力者となる
  10/01救世軍の山室軍平が『救世軍略史』をまとめる
     発行は救世軍出版及供給部。定価75銭
  10/10水平社九州連合会第4回拡大執行委員会が開かれる。200人近い代表者が出席
     福岡連隊の差別を部落だけでなく一般大衆に知らせ社会的世論に訴えること
      福岡連隊当局に立会演説会を申し込むこと
      1戸10銭の寄付金を糾弾闘争資金として大衆的に募ること
      全国水平社の「福岡連隊差別対策特別委員会」を設けて糾弾闘争本部を福岡におくこと、などを決める
     特別委員会を設置し組織的な体制を整えることに。松本治一郎が自ら委員長に就任する
     10/15第1回特別委員会が開かれる
     拡大執行委員会の決議事項の具体的な手順を協議する
     立ち会い演説会は20日、九州劇場で開くことに
     のち代表者を派遣するよう連隊に申し入れる。連隊は「軍令が許さない」と申し入れを拒否
     水平社は演説会当日付けにて、かさねて出席を要請するも連隊は無視
     10/20九州劇場にて5千人の聴衆を集める立ち会い演説会が開かれる
     連隊側関係者の姿はなく福岡連隊を糾弾する演説会となる
     この日、第2回特別委員会が開かれ新たな差別事件が報告される
     去る10月7日から14日まで福岡連隊が糸島郡の雷山を中心に検閲射撃訓練を行なう
     そのとき隊員の宿舎から部落が外される
      雷山麓の長糸村の各大字には1戸平均6人の兵と馬が割り当てられる
      長糸村の中心で戸数も多い稲原部落には1人の割り当てもなく
      となりの字では兵隊が多すぎ収容できない状態にもかかわらず
     これまでの差別事件は兵卒間の問題、対して今回は連隊当局がひとつの部落全体を差別
     事件に対し水平社は11月16日から佐賀県で行なわれる陸軍特別大演習の宿舎を拒否する方針を打ちだす
     「わが水平社は、連隊当局の眼がさめるように、彼等の希望せぬ宿舎をば、
      われわれの方から進んでお断わりすることにしたいのです」
     ビラ1万枚を演習が予定される地域一帯にまく
     11/12福岡県の警察署、検事局が松本宅、水平社九州連合会幹部の家を家宅捜索
  10/18石井研堂が『明治事物起原』の第2版となる増訂版を発行
     発行所は春陽堂、本文は842ページとなり定価8円50銭
     第1版は1908(明治41)1月1日に発行される
     1943(昭和18)12/06石井が死去
     1944(昭和19)11/18太平洋戦争まっただなかに第3版となる増補改訂版が発行される
  10/新潮社から高畠素之が大鐙閣・而立社版の改訳『資本論』全4冊を刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  11/03「大日本神農会」が結成。発会式が代々木練兵場にて催される
     総裁は中川良男男爵、会頭は浅草の香具師親分山田春雄、総務には小林貞次郎、醍醐長吉、松葉武らが名を連ねる
     発足当初の会員は10万人を称する
     綱領に5本を掲げる
      一、皇室中心、国民相愛の大義に立ちて陋習を打破し以て社会平和と国家興棟に資せんことを期す
      一、質実剛健なる精神の振興を計ること
      一、社会欠陥の改善、不当なる制度の改革促進を計ること
      一、博愛共有の大義を宣揚すること
      一、公衆慰安の大道を展開すること
     「危険思想排撃」「社会主義撲滅」の文字はない
     「公衆慰安の大道」などは演歌や大道芸も売り物にする香具師らしい綱領に
     1927(昭和02)発会1年で機関誌『神農』を発行する
     会頭が悩みを訴えている事実を指摘
     「いかに多数の会員を有するとも、互いに親交を計る機会少なく、又互いの消息を知るの便宜に乏しければ、
     万一に際し相一致して活動する上に大きな力の欠乏を痛感し、延(ひ)いて国恩に報ゆるの力の微弱なるを恨む恐れなしとせず」
     会員数10万の神農会を立ち上げたものの大規模な街頭活動はできず
     つまり香具師の社会主義運動と全面対決するなどの場面はなし
  11/12福岡県の警察署、検事局が松本治一郎宅、水平社九州連合会幹部の家を家宅捜索
     ほかにも金平、松原、松園の各水平社事務所などを家宅捜索
     事の起こりは1926(大正15)1月の福岡連隊差別事件
     官憲側は差別の報復として
      水平社同人が連隊兵営に押し寄せ営内にダイナマイトを投じて爆破させる計画があると感知
     松本治一郎宅の物置から新聞包みのダイナマイトのようなものと1通の手紙を押収する
     藤岡正右衛門、西岡達衛、木村慶太郎、和田一新ら10数人が連行される
     松本治一郎は朝から九州鉄道会社へ行き、夕刻帰宅
     松本は自身に出頭命令のあることを知り福岡署に出向く。夜は土手町拘置所に収監される
     容疑は爆発物取締罰則違反など
      11月中旬、佐賀県下で行なわれる陸軍第演習に際して福岡歩兵第24連隊の不在に乗じて
     のち松本は翌年1月まで2か月あまり拘置される
     1927(昭和02)01/31福岡連隊差別事件で水平社の松本治一郎以下11人が起訴される
  11/12ことは九州福岡だけにとどまらず大阪西浜の全国水平社本部が家宅捜索をうける
     木村京太郎と松田喜一が逮捕される
     11/17木村と松田が福岡に護送される
     木村は10月31日に松本治一郎から促され福岡を離れたばかり
  12/04社会民衆党の結成を巡り日本労働総同盟(総同盟)が再び分裂、日本労働組合同盟(組合同盟)が誕生する
     総同盟の第2次分裂
     1928(昭和03)04/10第1次分裂した日本労働組合評議会(評議会)が解散する
  12/05社会民衆党が結党する。委員長は安部磯雄
  12/09日本労農党が結党する。書記長は三輪寿壮
  12/25大正天皇が静養中の葉山御用邸にて崩御[1879(明治12)08/31・生]
     臨終の床には皇后の配慮により実母の柳原愛子が呼ばれ手を握ったまま死去
     元号が昭和に改まる
     1927(昭和02)02/07〜08大喪の礼が執り行なわれる
     天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が宮城正門を出発
     宮中の伝統に従い夜間に執り行われる。葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行
     葬儀は新宿御苑にて行なわれ霊柩は新宿御苑仮停車場〜東浅川仮停車場に大喪列車を運転
     天皇として史上初めて関東の多摩陵に葬られる
  12/文化生活研究会が森光子の『光明に芽ぐむ日 初見世から脱出まで』を刊行する
     1927(昭和02)10/続編となる『春駒日記』を刊行する


昭和初期

  大阪飛田遊廓の妓楼の数が200軒を超える。「日本最大級の遊廓」といわれるようになる


1927(昭和02)

  《総理大臣》[第25代]若槻禮次郎(→04/20)、[第26代]田中義一(04/20→)
  《内務大臣》[第43代]濱口雄幸、[第44代]鈴木喜三郎(04/20→)
  《警視総監》[第30代]太田政弘、[第31代]宮田光雄(04/20→)
  《内務省警保局局長》松村義一(→04/22)、山岡萬之助(04/22→)


  01/31福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]で水平社の松本治一郎以下11人が起訴される
     爆発物取締罰則違反と銃砲火薬取締施行規則違反
     02/12予審が終了する
     02/12各新聞が号外を発行
  01/安部磯雄が早稲田大学教授を退職
     大学教授に嘱任されたのは1907(明治40)5月
  02/07〜08大正天皇の大喪の礼が執り行なわれる
     天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が宮城正門を出発
     宮中の伝統に従い夜間に執り行われる。葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行
     葬儀は新宿御苑にて行なわれ霊柩は新宿御苑仮停車場〜東浅川仮停車場に大喪列車を運転
     天皇として史上初めて関東の多摩陵に葬られる
     [1879(明治12)08/31〜1926(大正15)12/25]
  02/12大正天皇崩御の関係で報道ができず各新聞がやっと号外を発行
     松本治一郎ほか全水関係者の逮捕を報じる
     『大阪毎日新聞』は「千余の水平社同人を集め福岡連隊の爆破を企つ」
     松本らは行き詰まる差別糾弾闘争の局面を打開するため福岡連隊を爆破しようとした、という筋書きが生まれる
     実際は行き詰まっておらず、かつてない盛り上がりをみせていたとき
     連隊爆破という行動にでる状況でなく「行き詰まる」根拠もない
     新聞報道は松本宅から「新聞包みの綿火薬およびダイナマイトのようなもの」を押収したこと
     岩尾家定が8月5日に連隊長官舎めがけて爆弾を投げ込んだことなどが証拠であると伝える
     のち松本宅のダイナマイトは予審決定書で「犯罪嫌疑を認むる能わず」として除外する
     岩尾が爆弾を投げたとすることも裁判では取り上げられず
     05/02福岡連隊「爆破陰謀」事件の初公判が福岡地方裁判所で開かれる
  03/07北丹後地方で大地震が起き、死者2925人が報じられる
     九州を伝道講演中の救世軍の山室軍平が帰途、震災地を見舞い激励する
  03/救世軍が芸娼妓の自由廃業者を専門に保護するため渋谷の若木に「家の光」を開設する
     毎年140〜150人ずつを収容する
  03/雑誌『婦人公論』3月号に大杉アヤメの「甘粕事件以後」が掲載される
     大杉アヤメは甘粕事件で殺された少年橘宗一の母で大杉栄の末妹
  03/雑誌『婦人公論』3月号に『時事新報』の記者吉井顕存による「大杉殺し事件の暴露されるまで」が掲載される
     【吉井●(景に頁)存?】
  04/01徴兵令を全面改正し引き換えに兵役法が公布。日本の男子は満20才になると徴兵検査を受ける義務が課せられる
     徴兵令の施行は1873(明治06)1月10日
     1945(昭和20)11/17「兵役法廃止等ニ関スル件」により廃止となる
  04/野田醤油社は専属契約する運送業者「丸三運送店」の従業員全員が、総同盟野田支部の組合員であることを嫌うようになる
     労使関係につながりのない「丸本運送店」に貨物輸送の一部を移譲することに
     のち総同盟支部は、これを組合破壊の謀略であるとして団体協約権の承認と賃上げの実現を迫る
     09/16全員参加の無期限ストライキに突入する
     のち経営者は全工員の解雇をはじめ、大日本国粋会大和民友会など右翼団体の助力を受けて組合に立ち向かう
     対して組合側は国会への直接請願に加え、広範囲にわたる野田醤油の不買運動などが起こる
     事態は深刻化。醸造業と無関係な日本各地の労働組合の同情ストが頻発。解決の見通しが立たなくなる
     のちは野田醤油の争議を地方の騒動に終わらせまいと決し、全国大会で情勢を喧伝
     社会研究家など労働運動の専門家が日本各地から支部を訪れて組合員を督励、直接指導する者も
     大阪の大原社会問題研究所が「今般求めたる要求につき我労働階級は如何に帰着せんとするか」と調査に東上
     はてはスイス、ジュネーヴの国際連盟国際労働機関に情報が達するまでに
     この間、警察記録に残るものだけで暴行、傷害、脅迫事件が300件以上に
     1928(昭和03)03/20午後1時頃、東京駅丸の内ビル脇で野田争議団副団長の堀越梅男が天皇に直訴
     のち直訴事件が切っ掛けとなり労使双方ともに恐れ畏まり急速に歩み寄る
     04/20「野田醤油問題解決協定」が成立。罷業勃発から216日目のこと
  04/橘惣三郎が甘粕事件で殺された息子宗一の墓を建てる
     墓碑には英文まじりに刻まれる
     1972(昭和47)08/名古屋市の覚王山日泰寺の近くの団地に住む女性が夏草におおわれた石を発見
     『朝日新聞』のひととき欄に投稿記事が載る
     石には文字が深く刻まれる
     表に「Mr.M.Tachibana Born in Portrland 12th 4.1917.USA/
      吾人は須らく愛に生べし 愛は神なればなり/橘 宗一」
     裏に「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日夜、
      大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル/Build at 12th 4.1927 by S.Tatibana/
      なでし子を 夜半の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり/橘 惣三郎」
  05/02午後6時5分、景山英子(福田英子)[1865(元治02・慶応01)11/22《10/05》生]が61才で没す
  05/02福岡連隊「爆破陰謀」事件の初公判が福岡地方裁判所で開かれる
     この日福岡連隊は全兵士に非常呼集をかける
     衛兵には着剣のうえ実弾を持たせ、弾薬庫には武装兵を配置、
     衛門の歩哨を1人から2人ににして各中隊の演習は中止、非常に備えて待機させる
     見に覚えのない濡れ衣をきせられた水平社の報復を恐れてのこと
     松本を送るために集まった徒手空拳の水平社に対して全兵士に戦時武装という物々しさ
      爆破陰謀事件は、はじめ憲兵隊が介入して水平社に大弾圧を加える計画
      久留米憲兵隊本部の太田清松隊長は福岡憲兵分隊の田沢三郎分隊長に水平社員検挙の命令をだす
      田沢は従わず抗命罪で告発される
      田沢は検挙命令が正当な理由のものでなく「弾圧」であると考え、あえて上官の命令を無視する
      憲兵隊が動かず警察と検事局が弾圧にのりだし、まったくのでっち上げとなる
     松本治一郎は事件自体が「水平運動を暴圧する為に企てられた支配階級の陰謀」で
     「我等を賤視するもの」とわかって初公判にのぞむ
     05/03松本が公判で自宅から押収した岩尾あての清住の手紙について検事の説明を求める
      手紙は9月10日頃、熊本の清住政喜が松本治一郎宅に寄宿する岩尾家定あてに投函
      11月12日の家宅捜索で私方から押収されたもの
      熊本県警察部高等課警部の報告に「去る11日……発信人の探査につき助力を求めたり」とあり、
      12日以前にすでに警察の手に渡っているのは不思議なこと。
      11日に熊本に持って行かれた手紙が12日の家宅捜索に私宅からでてくるものでない
     松本の追及に被告、傍聴人は検事の答弁を待つも石塚検事は青ざめ答えない
     裁判長に促され「記憶にない」と答えるのがやっと
     05/04「謀議」があったとする10月22、23日ごろの松本ほか被告の行動が明らかになる
     松本は22日、1日中、福岡市西中洲の改築工事現場に
     23日は堅粕町消防組の点検演習に組頭として出席、夜は箱崎の料亭で慰労の宴に
     他の被告もそれぞれ両日の行動ははっきりして「謀議」は根も葉もない作り話であることが明らかに
     また前日の公判で清住の手紙にについて石塚検事が答える
     手紙はある人から手に入れ、一度返還したうえ家宅捜索で押収したものと認める
     暗にスパイを使ったことを認める
     家宅捜索の前夜、青年の柴田甚太郎は松本宅に1泊
     柴田は別の窃盗事件で松本の検挙1か月前に自首
     取り調べの際、「福岡連隊へ投げ込む爆弾の入手を依頼された」と虚偽の自白をする
     柴田は松本宅に火薬など証拠物件を仕掛けた永水刑事を手引きした人物とされる
     柴田はのちに「ざんげ状」のなかで自白する
     05/18第2回公判でも「謀議」を行なったとされる日は和田一新宅には行っていないと証言
     検事は「謀議がその日であるか、その前後であるか厳格ではない」
     「ちょっと顔出しする時間がなかったとは言えない」など強弁
     誰がみても事実無根の円座であることは明らか
     06/06午前10時、福岡地方裁判所で福岡連隊差別事件の判決が言い渡される
  06/06午前10時、福岡地方裁判所で福岡連隊差別事件の判決が言い渡される
     予審決定と検事論告をそのまま採用される
     松本治一郎、和田藤助(一新)は各懲役3年6月
     藤岡正右衛門、西岡達衛、木村京太郎、下田梅次郎、萩原俊男、
      大野晴之祐(清之助)、茨与四郎、松村芳次郎、柴田甚太郎は各懲役3年
      柴田は未決拘留日数中120日を本刑に算入
     高丘吉松は懲役3月
     柴田を除く被告全員が即日控訴をする
     12/14長崎控訴院で福岡連隊差別事件の第1回控訴審公判が開かれる
  10/文化生活研究会が森光子の『春駒日記』を刊行する
     1926(大正15・昭和01)12月には『光明に芽ぐむ日 初見世から脱出まで』を刊行
  11/19全国水平社員北原泰作2等兵が名古屋練兵場にて軍隊内差別を天皇に直訴し逮捕
     11/26軍法会議で懲役1年の判決をうける
     部落民が天皇に対して初めて直訴した事件。人々の記憶に強く刻み込まれる
     のちあくる昭和3年は天皇の直訴が相次ぐ
     1928(昭和03)01/08原宿の神宮橋付近で大北勝三が「正義人道のための世界征服」を直訴
     03/20丸ビル前で堀越梅男が「労働争議の解決」を直訴
     06/19護国寺前で根岸順一郎が「警察庁衛生部にによる大橋注射液発売禁止の取り消し」を直訴
     06/22赤坂離宮内で鳴島音松が「京浜運河工事に伴うのり養殖場損害」を直訴
     07/01赤坂離宮正門前で相根豊次郎が「無産者の窮状救済」を直訴。未遂
     11/25京都市内で李慶●【火偏に旱】が「民族的差別の解消」を直訴
     11/27東京駅前で村越石太郎が「政界の浄化」を直訴。未遂
     12/26貴族院正門前で茂木正吉が「埼玉県の唐沢堀放水路設置に伴う田畑損害」を直訴
  12/06山川均、堺利彦、荒畑寒村ら労農派が雑誌『労農』を創刊する
  12/06山川均が雑誌『労農』で「政治的統一戦線へ」を提起する
  12/14長崎控訴院で福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の第1回控訴審公判が開かれる
     1928(昭和03)04/18第4回控訴審公判で第1審判決と同じ有罪判決が下る
  年末井元麟之が福岡連隊を満期除隊する
     1928(昭和03)01/井元が松本治一郎に連れられ大阪へ
     井元は西浜の水平社総本部の常任となる
     松本は井元の福岡連隊差別糾弾闘争での連隊内での活動を見込んで
     井元自身も連隊内での差別摘発がきっかけとなり除隊後は身を水平社運動に捧げる決意に
     のち井元は三・一五の弾圧のあと総本部の全責任を負うことになる
     井元は官憲により大阪を追放
     起訴を免れた京都の朝田善之助宅に仮事務所を設けて再建運動を準備
     のち井元は福岡連隊事件の12月の大審院判決とそのあとの下獄で九州の運動を支えることに
  発会1年を迎えた「大日本神農会」が機関誌『神農』を発行する
     会頭が悩みを訴えている事実を指摘
     「いかに多数の会員を有するとも、互いに親交を計る機会少なく、又互いの消息を知るの便宜に乏しければ、
     万一に際し相一致して活動する上に大きな力の欠乏を痛感し、延(ひ)いて国恩に報ゆるの力の微弱なるを恨む恐れなしとせず」
     会員数10万の神農会を立ち上げたものの大規模な街頭活動はできず
     つまり香具師の社会主義運動と全面対決するなどの場面はなし
  香具師業界が新たな道を探り昭和神農実業組合を結成する
     結成の趣旨は「神農の道に従ひ家族愛の不文律『友達は五本の指』の本義により、
     弊風を矯正し生活の向上、信用の増進、事業の拡張を図るを以て目的とし、各員の共存共栄を期す」
     短く括ると「香具師の原点に返れ」ということ
     組合の拠点は東京、横浜で親分衆約200人が発起人となる。結成時点で3万余人の会員を集める
     全国行商人先駆者同盟は消滅し大日本神農会ともども昭和神農実業組合に収束される
     昭和神農実業組合は全国行商人先駆者同盟や大日本神農会と違い
     香具師社会そのものの近代化と特異な業種としての発展を目指す
     その中心人物が倉持忠助
  「大日本連合女子青年団」が結成される
     日露戦争前後に日本全国に誕生した「処女会」「娘の会」など未婚女子青年組織の連合組織として誕生
     組織は青年の主体的運動により生まれたのではなく、内務省や文部省の主導の下、青年団を国家で管理するために生まれる
     1939(昭和14)「大日本連合青年団」「大日本青年団」と組織を改める
     名実ともに国による指導統制体となる


1928(昭和03)

  《総理大臣》[第26代]田中義一
  《内務大臣》[第44代]鈴木喜三郎、[第45代]田中義一内閣総理大臣が兼任(05/04→)、[第46代]望月圭介(05/23→)
  《警視総監》[第31代]宮田光雄
  《内務省警保局局長》山岡萬之助(→05/25)、横山助成(05/25→)


  01/08原宿の神宮橋付近で大北勝三が「正義人道のための世界征服」を直訴
  01/社会民衆党所属の安部磯雄が第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に東京府第2区から立候補
     02/20当選する
  02/20第16回衆議院議員総選挙が男子25才以上の者で実施される
     普通選挙法改正後初の選挙「第1回普通選挙」
     有権者数1240万8678、投票率80.33%(前回比マイナス10.85%)
     党派別獲得議席 立憲政友会218議席、立憲民政党216議席、実業同志会4議席、革新党3議席、
     労働農民党2議席、社会民衆党4議席、日本労農党1議席、九州民憲党1議席、中立15議席、その他2議席
  02/20第1回普通選挙に水平社の松本治一郎(福岡)、西光万吉(奈良)、三木静次郎(岡山)が立候補
     いずれも落選する
  02/20倉持忠助が電力問題を引っさげて衆議院議員選挙に出馬。下谷区の革新票を狙うも落選となる
     1930(昭和05)下谷区議会議員選挙にでて当選する
  02/20福田雅太郎狙撃事件で無期懲役となり収監中の和田久太郎(35)が首を秋田刑務所の鉄窓の紐にかけ自死
  02/博文館が発行していた雑誌『太陽』が廃刊となる
     創刊は1895(明治28)1月、全531冊を発行する
  03/15社会主義的な政党活動に危機感を抱いた田中義一内閣が治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行なう
     第2次共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙される。三・一五事件
  03/20午後1時頃、東京駅丸の内ビル脇で野田争議団副団長の堀越梅男が「労働争議の解決」を天皇に直訴
     原因は前年4月からはじまった千葉県東葛飾郡野田町にある野田醤油社での争議
     事態は深刻化。醸造業と無関係な日本各地の労働組合の同情ストが頻発。解決の見通しが立たなくなる
     大阪の大原社会問題研究所が調査に訪れたり、はてはジュネーヴの国際連盟国際労働機関に情報が届くまでに
     のち直訴事件が切っ掛けとなり労使双方ともに恐れ畏まり急速に歩み寄る
     04/20「野田醤油問題解決協定」が成立。罷業勃発から216日目のこと
  04/10日本労働総同盟(総同盟)から第1次分裂した日本労働組合評議会(評議会)が解散する
     分裂は1925(大正14)5月24日
     1929(昭和04)09/16総同盟大阪連合会が分裂し新たに労働組合全国同盟(全国同盟)が組織される
     総同盟の第3次分裂
  04/18福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の第4回控訴審公判が開かれる【第2審?】
     松本治一郎は裁判官席をにらみつけ言い放つ
     「それでも、天皇の名のもとでやった裁判か。政友会のカイライではないか」
     第1審判決と同じ有罪判決が下る
     第1審で有罪となったのは12人、内1人は刑に服す
     控訴した11人の内1人は分離裁判となり松本治一郎ら10人が判決を受ける
     アリバイがあり、証拠もねつ造が明白な松本に対する懲役3年6か月をはじめ、被告全員が懲役刑に
     のち松本らはさらに上告する
     12/10大審院は和田一新ひとりに再審を認める判決
     松本をはじめ10人には上告を破棄。全員に有罪が確定する
     和田はのちの再審で懲役6月が削れられる
  04/23第55回帝国議会特別議会が開かれる。普通選挙法改正後初の議会
     05/06終了
  04/25安部磯雄が腸チフスと診断され東大病院分院に入院
  04/改造社から高畠素之が大鐙閣・而立社版、新潮社版の改訳『資本論』全5冊を刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  06/19護国寺前で根岸順一郎が「警察庁衛生部にによる大橋注射液発売禁止の取り消し」を直訴
  06/22赤坂離宮内で鳴島音松が「京浜運河工事に伴うのり養殖場損害」を直訴
  06/29治安維持法の緊急勅令が発せられる。公布は1925(大正14)4月22日
     「国体変革」への厳罰化、「為ニスル行為」の禁止、改正手続面が特徴として挙げられる
     1941(昭和16)03/10これまでの治安維持法全7条を全65条とする全部改正が行なわれる
     特徴として全般的な重罰化、取締範囲の拡大、刑事手続面、予防拘禁制度が挙げられる
  06/神田区神保町に鉄筋4階建の救世軍本営と中央会館の落成式が行なわれる
     のち開館式では内務大臣の望月圭介が祝辞を述べる、新渡戸稲造が記念講演をする
  07/01第4次『東京パック』創刊。月刊でA4判、28ページ。定価は30銭
     1941(昭和16)終刊となる。詳細は不明
     1905(明治38)4月15日創刊の第1次『東京パック』以来の歴史に幕
  07/01赤坂離宮正門前で相根豊次郎が「無産者の窮状救済」を直訴。未遂
  11/25京都市内で李慶●【火偏に旱】が「民族的差別の解消」を直訴
  11/27東京駅前で村越石太郎が「政界の浄化」を直訴。未遂
  12/10福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の裁判で大審院は和田一新ひとりに再審を認める
     松本治一郎をはじめ10人には上告を破棄。全員に有罪が確定する
     和田はのちの再審で懲役6月が削れられる
     1929(昭和04)05/10松本らが福岡刑務所に入所。荊冠旗をかかげた同志の列が10キロの沿道をうめる
  12/16福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の大審院判決後
     松本治一郎より早く水平社の西岡達衛、萩原俊男ら6人の青年が入所することに
     福岡市外東公園の亀山上皇銅像前の告別集会には福岡県内はもとより九州各地の同志が集まる
     銅像の石段の上に井元麟之、松本が告別と激励の挨拶をする
     集会の途中から粉雪が舞い、吹雪になる
     集会を終えると下獄する青年6人を守り福岡刑務所まで行進をはじめる
     官憲が行進をさとす。下獄する6人は自動車で、井元らは電車で向かうことに
  12/26貴族院正門前で茂木正吉が「埼玉県の唐沢堀放水路設置に伴う田畑損害」を直訴
  幸徳秋水の実兄亀治の長男幸衛が帰国するも病魔に侵される
     画家を志望した幸衛は絵画を学ぶため叔父の幸徳について1905(明治38)11月14日に横浜を出港
     1933(昭和08)大阪の西成区で没


1929(昭和04)

  《総理大臣》[第26代]田中義一(→07/02)、[第27代]濱口雄幸(07/02→)
  《内務大臣》[第46代]望月圭介、[第47代]安達謙蔵(07/02→)
  《警視総監》[第31代]宮田光雄、[第32代]長岡隆一郎(06/25→)、[第33代]丸山鶴吉(07/03→)
  《内務省警保局局長》横山助成(→07/03)、大塚惟精(07/03→)


  02/堺利彦が東京市会議員選挙に牛込区から立候補し、最高得票での当選を果たす
  04/16日本共産党(第2次共産党)に対する検挙事件が起きる。四・一六事件
  04/16特高から目をつけれている水平社の井元麟之は検挙から逃れるため松本治一郎が世話をした家に身をひそめる
     05/09松本治一郎は井元麟之を呼ぶ。井元は昼間は動けず夜遅くに松本のもとへ
     「ぼくが入所したら告別の挨拶を印刷して、みんなに配ってくれ」松本は井本に語りはじめる
     井元は松本の言葉をかみしめながら書きつけ、すぐに印刷。夜のあいだに手分けして配られる
  04/29崎久保誓一が秋田刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1948(昭和23)06/26飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  04/29成石勘三郎が武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)01/0352才で病死する
  04/29武田九平が成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡
  05/01文芸市場社から和田信義の『香具師奥義書』が刊行する。定価2円50銭
  05/10福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の被告松松本治一郎が入所する日
     福岡市外東公園は松本との別れを惜しむ人たちであふれる
     亀山上皇銅像前で写した写真には松本を中心に300人もの人たちが石段を埋めつくす
     荊冠旗をかかげた水平社同志の列が10キロの沿道をうめる
     1931(昭和06)12/26松本治一郎が刑期を11か月残しての仮出所となる
  06/救世軍で本営の身の上相談部の主任を勤めた村松愛蔵が72才で隠退する
     1913(大正02)12月に担当になってから2万8600余件の相談事件を扱う
     村松は1884(明治17)4月に自由民権を鼓吹し11月には飯田事件の中心的人物になり軽禁錮7年に
     のち、代議士になるも1909(明治42)の日糖事件に連座し
     その年の12月に出獄すると、直ちに救世軍本営の山室軍平を訪ね入隊
  09/16日本労働総同盟(総同盟)大阪連合会が分裂し新たに労働組合全国同盟(全国同盟)が組織される
     総同盟の第3次分裂
     1930(昭和05)06/01全国同盟が第2次分裂の組合同盟と合同し全国労働組合同盟(全労)を結成
  田川大吉郎が昭和4年度の報告として、救世軍の社会事業の一班を挙げる
     人事相談部〇刑務所警察署訪問部〇旅客の友部〇婦人救済部〇労働者寄宿舎・努力館・自助館・民衆館〇労働紹介所〇
     労作館・釈放者保護所〇感化院・飲酒感化院〇育児院・保育所〇婦人ホーム・婦人収容所・女子希望館〇社会植民館〇
     結核療養所・病院〇克己週間事業〇歳末慰安会・同救護運動


1930(昭和05)

  《総理大臣》[第27代]濱口雄幸
  《内務大臣》[第47代]安達謙蔵
  《警視総監》[第33代]丸山鶴吉
  《内務省警保局局長》大塚惟精


  01/沖野岩三郎が『中央公論』に「娼妓自廃九百八十九人」を掲載
     救世軍士官の伊藤富士男による娼妓の自由廃業を読み物風に説く
     4月まで連載する
  03/26内村鑑三の古希感謝祝賀会に本人は出席できず。長男の祐之が挨拶
     03/28朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」の言葉を最後に昏睡状態に
     午前8時51分、家族に見守られて死去[1861(万延02)03/23《02/13》生]
  04/内村鑑三が1900(明治33)10月3日に創刊した雑誌『聖書之研究』が357号にて終刊となる
      3月28日に没した内村の遺言による
  05/10加藤時次郎が関与するのは『凡人の力』第283号まで
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』
     のち1917(大正06)に『平民』と、1930(昭和05)に『凡人の力』と改題
     05/30加藤が死去するも『凡人の力』は刊行される
     1943(昭和18)09/10第441号で廃刊となる
  05/30加藤時次郎が73才で死去する[1858(安政05)02/14《01/01》生]
     06/01芝区二本榎町1丁目の承教寺で密葬
     06/05承教寺で本葬と告別式が営まれる
     杉田日布(身延山法王)、山田三良(法華会代表)、清水牧三郎(信行会総代)、
     北里柴三郎(東京府医師会長)、金杉英五郎(東京市医師会長)、松曄(京橋区医師会長)、
     麻生久(日本大衆党)、荻野庫三(社会政策実行団)らが弔辞を述べる
     06/29池上本門寺の墓所に埋骨され黒田忠悳が墓誌を記す。戒名は本時院医王日遠居士
  06/01日本労働組合同盟と労働組合全国同盟が合同し全国労働組合同盟(全労)を結成
     日本労働組合同盟(組合同盟)は日本労働総同盟(総同盟)から第2次分裂
     分裂は1926(昭和01)12月4日
     労働組合全国同盟(全国同盟)は日本労働総同盟(総同盟)から第3次分裂
     分裂は1928(昭和03)4月10日
     1936(昭和11)01/05日本労働総同盟(総同盟)と全国労働組合同盟が組織を統一
     新たに全日本労働総同盟(全総)を結成し、総同盟の再統一が行なわれる
  11/16午前5時頃、神奈川県川崎市の富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で、男が工場の煙突にのぼる
     煙突は排出口付近の周囲に足場があり、男は足場に陣取り頂上の避雷針に赤旗を結びつける
     小旗を振りながら争議を扇動する演説を行なう。長期滞在を見込み5日分の食料を用意
     日曜日ながら工場は仕業日で、男の出現に一時騒然となる。警官が警戒するなか平常通り操業が行なわれる
     居合わせた争議団員は警察に検束される
     男は睡眠時には油紙と外套をかぶり、起きているときは折をみて演説や軽口を繰り返す
     11/17夜、警察が見守るなか、争議団と男が会話を交わす。煙突からの煙で男の顔や旗は真っ黒に
     男の出現は17日の各新聞で報じられ野次馬が集まりはじめる。会社側は急きょ周囲に電灯を増設する
     11/18朝、争議団と警察が協議。争議団代表が水や食糧を持って煙突にのぼり男におりるよう説得。不調に終わる
     男は争議団からの説得により食料を受け取るのと引き替えに、避雷針にくくりつけていた赤旗をはずす
     夕方警察が争議団の申し出た再度の食料補給を拒否
     会社側は男の説得に成功した者に報奨金を出すと表明
     11/19失業者数名が煙突に上ることを申しでる
     警察と会社側は男を実力で地上に下ろす方法を検討するが妙案はでず
     昭和天皇が中国地方での陸軍特別大演習視察から帰京
     お召し列車が11月21日午後、近くの東海道線を通過する予定に
     警察は赤旗が通過時に掲げられ、列車に乗る天皇から見えることを恐れる
     夜7時頃、時事新報の新聞記者加藤重六が煙突の梯子をのぼり、25分にわたり男と会見
     男は鎌倉町鵠沼に住む田辺潔と名乗り、防寒用に記者からチョッキを借り受ける
     男は「解決するまで決して下りない」と答える。会見内容は翌日の時事新報に掲載、男の名前が明らかに
     11/20再度争議団関係者が煙突に上るが、田辺は改めて争議の完全解決を要求。滞在を続けることに
     午後、田辺の実兄、社会学者の田辺寿利がもう1人の兄とともに現場におもむく
     田辺を弟と確認した寿利は川崎警察署長と面談。行為が不敬行為にあたらないことを確認し、生命の保障を署長に依頼
     争議の解決と弟の生命の問題を切り離し、後者について署長、工場長、争議団責任者での会談を開くことを提案
     提案は署長の同意を得、寿利は工場長と争議団を説得して同意を取りつける
     夜11時、署長に開催を求めるが「必要を認めない」と拒絶。警察は会社側に争議解決を働きかける方針に転る
     11/21未明、東京から労農党本部の関係者が争議の支援に訪れる。警察側は検束せずに会社側との交渉にあたらせる
     11/216日目。近隣の川崎大師の縁日と重なり群衆は1万人近くに
     正午から川崎警察署長が会社と争議団の調停に入ると、覚書が取り交わされ午後1時半頃に争議は妥結する
     内容は争議者への一時金の支給、除名者の復職と給与の支給、社宅や寮に居住していた解雇者への移転料の支給など
     妥結が伝えられると男は午後3時22分に地上に下り立つ。ただちに工場付属の病院に入院
     煙突男の滞在時間は130時間22分に
     11/28田辺は退院後、住居侵入罪で検束される
     のち釈放後は労農党の演説会で弁士として活動
     のち労農党から離れ日本共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわり活動
     1933(昭和08)02/14横浜市中区の川から遺体で発見される。事故死として報じられる
     共産党機関紙 「赤旗」第122号は、1月に伊勢佐木警察署に逮捕され拷問を受けて「虐殺された」と伝える

  12/第59帝国議会の公娼制度廃止に関する法律案委員会が前後6回にわたり開かれる
     公娼制度廃止についての法律案を真剣に討議
     国際的廃娼運動のインパクトと議会内外の廃娼運動の進展にともない浜口内閣の公娼廃止に対する姿勢に変化が生じる
     「公娼制度は……一種の奴隷制度と思ひます。速に廃止したい」
     浜口内閣が意向を示す
  洲崎遊廓の妓楼268軒、娼妓2500人に

  倉持忠助が下谷区議会議員選挙にでて当選する


1931(昭和06)

  《総理大臣》[第27代]濱口雄幸(→04/14)、[第28代](第2次)若槻禮次郎(04/14→12/13)、[第29代]犬養毅(12/13→)
  《内務大臣》[第47代]安達謙蔵、[第48代]安達謙蔵(04/14→)、[第49代]中橋徳五郎(12/13→)
  《警視総監》[第33代]丸山鶴吉、[第34代]高橋守雄(04/14→)、[第35代]長延連(12/13→)
  《内務省警保局局長》大塚惟精(→04/15)、次田大三郎(04/15→08/08)、
  《内務省警保局局長》次田大三郎(扱)(08/08→08/28)、岡正雄(08/28→12/13)、森岡二朗(12/13→)


  01/03成石勘三郎が52才で病死する[1880(明治13)02/05・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
  04/29小松丑治が岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
  04/29岡林寅松が小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1946(昭和21)02/24坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去

  07/01伊藤秀吉が廓清会婦人矯風会廃娼連盟から『日本廃娼運動史』を発行する。定価1円70銭

  07/無産政党の労働者農民党、全国大衆党、社会民衆党合同賛成派が合同し全国労農大衆党が結成
     1932(昭和07)07/24無産政党の全国労農大衆党と社会民衆党が合同して社会大衆党が結成される
     安部磯雄委員長、麻生久書記長。無産政党の統一が実現する
     事実上の2大政党制を担ってきた民政党と政友会に対する日本憲政史上初の「第3極」となる
     1940(昭和15)07/2大政党よりも早く自発的解散の形をとり消滅、大政翼賛会に合流する

  07/『廓清』第2巻第7号の紙上で救世軍の山室軍平が論文「大勢は既に決せり」を発表する
     山室は廃娼運動がついに公娼制度の廃止を目前にするまでに成長したとする

  10/01坂本清馬が秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11/03高知刑務所を仮出獄
  11/民友社から蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会が編集する『蘇峰先生古稀祝賀知友新稿』を発行する
  11/幸徳秋水の『兆民先生行状記』が徳富蘇峰の『知友新稿』に収録される
     幸徳秋水が中江家に寄寓する1893(明治26)3月から8月までの間に書きつづった原稿
     1935(昭和10)11/中央公論社発行の小泉三申の随筆集『懐往時談』に再録
  12/03花井卓蔵が東京神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒により死去[1868(慶応04)07/31《06/12》生]
     就寝中にガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れる
     のち通夜、葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけ、いくつかの重要裁判の公判が延期となる
  12/26福岡連隊差別事件[1926(大正15)1月]の被告松本治一郎が刑期を11か月残して仮出所となる
     入所は1929(昭和04)5月10日
  「愛国婦人会」が満州事変後、ファッショ体制作りに協力し婦人報国運動を起こす
     未成年の女子を集めて愛国子女団(愛国女子団とも)を結成
     1932(昭和07)陸軍省が「大日本国防婦人会」を結成。「愛国婦人会」は激しく対立
  全国組織として文部省所管の「大日本連合婦人会」が発足する
     全国の婦人会、母の会、主婦の会など6千余りの団体が集まる
     1941(昭和16)06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」の結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     「愛国婦人会」「大日本国防婦人会」とともに統一され、発展的解消をとげる
  婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過する。貴族院の反対で廃案に追い込まれる


1932(昭和07)

  《総理大臣》[第29代]犬養毅(→05/16在任中に暗殺)、[犬養毅内閣]高橋是清大蔵大臣が臨時兼任(05/16→05/26)
  《総理大臣》[第30代]齋藤実(05/26→)
  《内務大臣》[第49代]中橋徳五郎、[第50代]犬養毅内閣総理大臣が兼任(03/16→)
  《内務大臣》[第51代]鈴木喜三郎(03/25→)、[第52代]山本達雄(05/26→)
  《警視総監》[第35代]長延連、[第36代]長谷川久一(01/12→)、[第37代]大野緑一郎(01/29→)、[第38代]藤沼庄平(05/27→)
  《内務省警保局局長》森岡二朗(→05/27)、松本学(05/27→)


  05/15五一五事件が起こる
     夕方5時、海軍青年将校15人、海軍予備役将校1人、陸軍士官学校生徒11人、愛郷塾の農民決死隊21人が行動を起こす
     永田町の首相官邸にて犬養毅首相を撃って昏倒05/16午前02時35分死去
     田中五郎巡査を射殺、平山八十松巡査を撃って重傷
     芝三田台町の内大臣官邸に牧野伸顕を襲う
     橋井亀一巡査を撃って重傷
     政友会本部を襲い爆弾が爆発、丸の内の三菱銀行を襲い爆弾が破裂
     午後7時、亀戸、田端、鳩ケ谷、目白、淀橋の東電各変電所と尾久の鬼怒川水力電気変電所を襲撃
     田端と目白には爆弾を投げられず、亀戸と尾久では不発、鳩ケ谷と淀橋で炸裂。たいした被害にあらず
     参加した軍人たちはその足で全員、東京憲兵隊に自首。戒厳令は公布されず
  07/15救世軍の山室軍平の満60才還暦祝賀会が日比谷公会堂で開かれる
     特別講師として安部磯雄、拓務大臣の永井柳太郎、徳富蘇峰が講演する。山室も語る
     拓務省は日本の植民地の統治事務、監督のほか、南満州鉄道、東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当
     会衆は4千人に
  07/24無産政党の全国労農大衆党と社会民衆党が合同して社会大衆党が結成される。委員長は安部磯雄、書記長は麻生久
     無産政党の統一が実現する
     事実上の2大政党制を担ってきた民政党と政友会に対する日本憲政史上初の「第3極」となる
     1940(昭和15)07/2大政党よりも早く自発的解散の形をとり消滅、大政翼賛会に合流する
  11/29武田九平が58才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡[1875(明治08)02/20生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄
  12/16午前9時15分頃、東京日本橋の白木屋デパート4階の玩具売り場で火災が発生
     地下2階、地上8階の建物のうち4階から8階までを全焼、類焼面積は約1万4千平方メートル。午後12時過ぎに鎮火する
     逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡、500人余りが重軽傷を負うことに。日本初の高層建築物火災となる
  大阪の主婦安田せい、三谷英子らの奉仕活動から「大阪国防婦人会」ができる
     のち東京にも国防婦人会が発足
     1934(昭和09)陸軍省の協力のもと統合して「大日本国防婦人会」を結成
     満州事変後に銃後の固めを急ぐ軍部の指導でつくられた軍国主義的婦人団体
     10/全国組織の発会式を挙行。幹部には陸海軍大臣など現役将官夫人が就任
     軍部の勢力を背景として家庭婦人や労働婦人を急速に組織
     事業としては出征兵士の慰問や家族の援助などの軍事援護
     「日本婦徳」の鼓吹を掲げ一般女性の精神強化に尽力する
     のち「愛国婦人会」と激しく対立
     1941(昭和16)06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」の結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」とともに統一され、発展的解消をとげる
  陸軍省が「大日本国防婦人会」を結成させたことで「愛国婦人会」は激しく対立
     1937(昭和12)末会員数が338万人に達する


1933(昭和08)

  《総理大臣》[第30代]齋藤実
  《内務大臣》[第52代]山本達雄
  《警視総監》[第38代]藤沼庄平、[第39代]小栗一雄(10/26→)
  《内務省警保局局長》松本学


  01/23堺利彦[1871・01/15《明治03・11/25》生]が脳溢血で死去。享年64才【01/13?、62才?】
     枕下には妻為子、娘真柄、女中おふみ、荒畑寒村の4人がつく
     01/27告別式が青山斎場で行なわれる
     山川均が葬儀委員長、服部浜次が司会。山川の挨拶にはじまり荒畑寒村が堺の略歴を述べる
     石川三四郎、長谷川如是閑、馬場孤蝶、鈴木茂三郎、葉山嘉樹らが挨拶
     さらに安部磯雄、杉山元治郎、島上善五郎、河野密、松岡駒吉、赤松常子、浅沼稲次郎、麻生久が弔辞を述べる
     現職の拓務大臣永井柳太郎も出席
     告別式には臨官がいて参列者の弔辞に「注意!」「中止!」の声がかかる
     娘真柄の謝辞の「父は、父は」で「中止、解散」と飛び出してきた警官に告別の会衆は追い散らされる
  02/06帝都日日新聞社主催の堺利彦追悼会が開かれる
  02/14煙突男こと田辺潔が横浜市中区の川から遺体で発見される
     田辺は事故死として報じられる
     共産党機関紙「赤旗」第122号は、1月に伊勢佐木警察署に逮捕され拷問を受けて「虐殺された」と伝える
     1930(昭和05)11月16日、煙突男は富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で、工場の煙突に上り争議の支援活動を行なう
     6日目の11月21日、妥結が伝えられ男は午後3時22分に地上に下り立つ。ただちに工場付属の病院に入院
     煙突男の滞在時間は130時間22分に
     11月28日、退院後、田辺は住居侵入罪で検束され、のち釈放
     労農党の演説会で弁士として活動するも離れ、日本共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわり活動をしていた
  02/18幸徳秋水の実兄亀治の長男幸衛が大阪の西成区で没
     画家を志望した幸衛は絵画を学ぶため叔父の幸徳について1905(明治38)11月14日に横浜を出港
     1928(昭和03)に帰国していた
  02/20築地署の特別高等警察に検挙された小林多喜二が3時間にわたる拷問を受け息絶える
     [1903(明治36)10/13生]
     指と前歯が折られ蹴り上げられた睾丸と陰茎は通常の3倍にまで膨れ上がる
     こめかみや二の腕には焼け火鉢を突き刺した跡。太股には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6か所も残る
     凄惨なリンチが死をもたらしたのは誰に目にも明らか。でも警察は死因を心臓麻痺と発表
     多喜二の関係者が望んだ遺体解剖については、どの医療機関もかかわりを恐れて引き受けず
  04/15〜20木下尚江が『東京朝日新聞』に「幸徳秋水と僕」を連載
  05/10中央公論社が『堺利彦全集』の刊行を開始【奥付には非売品の表示あり
     編集は荒畑寒村、白柳秀湖、大森義太郎、山川均
     第1巻に「はしがき」。第6巻に「堺利彦略歴及著作年譜」
     第1巻に「目録」第一編總論、第二編文例、第一章手紙の文、第二章日記の文、第三章記事論説の文、第四章雜文
     それぞれに「標題」「目次」、荒畑寒村の「卷末に識す」があり
     第1巻が刊行される
      「不知所往列傳」(小説)・「當世品定」(小説)・「蝶くらべ」(小説)
       ・「望郷臺」(隨筆)・「萬朝報時代」
      「三十歳記」(日記)・明治三十二年・明治三十三年・明治三十四年・明治三十五年
      「枯川隨筆」・赤裳川・酒の世の中・危機一髮・兵太郎塚・隔塀物語・製鐵詩人
       ・たもと草・浴泉雜記・汽車中所見・御殿揚を觀るの記・源氏野分の卷
      「言文一致普通文」
     06/15第2巻が刊行される
      「家庭の新風味」
       ・第一冊 家庭の組織・第1章總論・第2章結婚論・第3章夫婦論・第4章家族論・第5章結論
       ・第二冊 家庭の事務・第1章總論・第2章祕書官としての事務・第3章大藏大臣としての事務
        ・第4章内務大臣としての事務(1)・第5章内務大臣としての事務(2)
        ・第6章内務大臣としての事務(3)・第7章結論
       ・第三冊 家庭の文學・第1章總論・第2章新聞、雜誌、書籍の類
        ・第3章日記・第4章手紙・第5章和歌・第6章俳諧・第7章結論
       ・第四冊 家庭の親愛・第1章總論・第2章夫婦の間(1)・第3章夫婦の間(2)
        ・第4章親子の間・第5章其他の家族の間・第6章結論
       ・第五冊 家庭の和樂・第1章總論・第2章食卓・第3章來客・第4章宴會・第5章散歩及び出遊
        ・第6章遊戯・第7章子供及び老人・第8章家畜及び庭園・第9章結論
       ・第六冊 家庭の教育・第1章總論・第2章妻の教育・第3章家族の教育・第4章子の教育
        ・家庭の新風味補遺・家庭の新風昧附録・春風村舍の記・由分子禁煙の歴史・愛犬黒・當世紳士
      「家庭雜誌」より・百年後の新社會(エドワード・ベラミー作抄譯)・子孫繁昌の話(ゾラ作『多産』飜譯)
     07/15第3巻が刊行される
      ・平民日記(1)週刊平民新聞所載・平民日記(2)週刊直言所載・平民日記(3)日刊平民新聞所載
      週刊『平民新聞』所載・發刊の序・一人の要する土地幾許・平民社籠城の記・理想國晩餐會の記・告別の辭・歸社の御披露
       ・出獄雜記・獄中生活・別莊と公園・『ラサール』を讀む・敵・秋風吟・自由戀愛と社會主義・『經濟進化論』を讀む
       ・大金儲の秘訣・別莊拜見の記・『妾の半生涯』を讀む・小學修身書漫評・園遊會禁止の記・新聞紙と紳士閥
       ・『新佛教』の諸兄・うれしき旅寢・『良人の自白』批評會・『良人の自白』を讀む・芝居見物の記・漫吟
      週刊『直言』所載・共産黨宣言公判・菜食主義について・婦人問題概觀・永久の滿月・無我苑訪問の記
       ・物を食ふ事を恥づる人民・社會主義と海老名君・僕の衷情・難者に答ふ・幸徳君出迎の記・社會主義の大意
       ・破鍋綴葢の記・社會主義百話
      週刊『光』所載・『國家社會主義梗概』を讀む・平民社解散の原因・金澤市より・山路愛山兄に與ふ
       ・同志諸君に訴ふ・社會主義問答(上)・社會主義問答(下)・日本社會黨に餞す・階級戰爭論に就て
       ・基督教に對する予の態度・社會主義と無政府主義
      日刊『平民新聞』所載・社會主義とは何ぞや・社會黨運動の方針・一日の懺悔
       ・社會黨大會の決議・夢に原内相と語る・予の夢・男女結合の目的
      『大阪平民新聞』所載・ハーデー翁・無題雜録・萬國社會黨大會
       ・萬國勞働者同盟(上)・萬國勞働者同盟(中)・萬國勞働者同盟(下)
      『日本平民新聞』所載・社會新聞と小生等との關係・無題雜話・同志諸君に申す・金曜會の記
       ・獄中より諸友を懷ふ(上)・獄中より諸友を懷ふ(下)・倫理と唯物的歴史觀・出獄雜記・ヂーツゲンの傳
      「勞働問題」(ゾラ原作『勞働』抄譯)
      「理想郷」(モリス作抄譯)
      「谷川の水」(バーナード・シヨウ作)
     08/16第4巻が刊行される
      「白頭の戀」(小説)
      「貝塚より」其1(九月廿一日)・其2(十月十九日)・其3(十二月九日)・其4(二月十二日)
       ・其5(四月十三日)・其6(六月十四日)・其7(八月一日)・其8(十月八日)・其9(十二月廿一日)
       ・其10(二月廿四日)・其11(四月十四日)・其12(六月十五日)・其13(八月廿日)・其14(九月九日)
      『賣文集』より・序(賣文社の記)・唯物的歴史觀・宗教とは何ぞや・木下尚江君の態度を評す
       ・暮春の古服・死の趣味・逆徒の死生觀・唯物的歴史觀研究・墓地見物・寸馬豆人・浮世顧問
      『近代思想』掲載(3篇)・大杉と荒畑・大杉君と僕・胡麻鹽
      『へちまの花』より・序・首の賛・丸テーブル・安成貞雄君に與ふ・賣文社より・丸い顏・主筆は書かず
       ・雪嶺先生ポツポツ評・小さんと二人の娘・鬼ころばし・秋が來た・神々の行末・守田有秋の後姿
       ・へちまの皮を論ず・風邪治療法・シヨウ劇梗概・武裝と人・新聞切拔・監獄學校・ピグマリオン
      「ジェルミナール」(飜譯小説)
     09/16第5巻が刊行される
      「社會」・鑄掛松・一休と自來也・大鹽騷動・パリ・コンミユンの話・『新社會』所載・小き旗上・へちまの花
       ・ハーデーを悼む・四種の半無意識活動・勞働者の死・藝妓が何故賤しい・國家戰と階級戰・蟻の牧場・光と闇
       ・山窩の夢・道徳の動物的起原及び其の歴史的變遷・宗教及び哲學の物質的基礎・まぼろし・大杉君の戀愛事件
       ・人の面影・社會黨の應急政策・候補運動の經過・安成貞雄論・カントに歸るの眞意義・日本に社會主義起るか
       ・マルクスの話・無邪氣な笑ひ顏・子供の仕付方・ボリシエ●【ヰに濁点】キの建設的施設・マルクス主義の旗印
       ・福田徳三君を評す・維新史の教訓・一石二鳥的の效果・友愛會大會傍聽の記・モズの鳴聲・京阪講演旅行の記
       ・普通選擧の滿ち潮・觀音峠・海外思想第三インタナシヨナル
      「雜録」・予の自傳・人間と蜘蛛と猫・山口孤劍君を懷ふ・過激派の女王・精神主義と潔癖
       ・有島武郎氏の絶望の宣言・蟻とお神輿・ロシア革命第五週年・留置場の夢・日本政界の現在及未來
       ・蟻の皆ごろし・現代社會主義の最も恐るべき弊害・女の演説
      「野性の呼聲」(飜譯小説)
     10/18第6巻が刊行される
      「堺利彦傳」・序・第1期豐津時代(上)・豐津時代(下)・第2期東京學生時代・第3期大阪時代(上)
       ・大阪時代(下)・第4期二度目の東京時代・第5期福岡時代・第6期毛利家編輯時代
      「日本社會主義運動史話」・1平民社時代・2賣文社時代・3大杉、荒畑、高畠、山川・4大逆事件と其前後
      「雜録」・三本松・山川均君についての話・震災の獄中・齋藤翁の追憶・ユトピヤ獄・入獄前後・あの短刀
       ・和田久太郎君の事ども・秩父騷動・メーデーの思ひ出・煙突男・故郷のあこがれ ・好適・有效・邪魔
       ・水平社大會の印象・維新史の新研究
      「日本社會主義運動に於ける無政府主義の役割」
      「日本社會主義運動小史」
  11/05片山潜[1859(安政06)12/26《12/03》生]が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去。74才
     11/09葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まる
     棺にはカリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、ベーラ・クン、野坂参三ら14人が付き添う
     遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬される


1934(昭和09)

  《総理大臣》[第30代]齋藤実(→07/08)、[第31代]岡田啓介(07/08→)
  《内務大臣》[第52代]山本達雄、[第53代]後藤文夫(07/08→)
  《警視総監》[第39代]小栗一雄
  《内務省警保局局長》松本学(→07/10)、唐沢俊樹(07/10→)


  03/『中央公論』3月号掲載の上司小剣の「U新聞年代記」に幸徳秋水の長い手紙が載る
     上司が1909(明治42)『早稲田文学』6月号に登場するゴシップ小説「閑文字」を書いたことに対する手紙
     小説には幸徳秋水や管野すが、荒畑寒村らしき人物が登場する
  09/01竹久夢二(本名竹久茂次郎)が長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で死去。49才[1884(明治17)09/16・生]
  11/03坂本清馬が高知刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1946(昭和21)02/24岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  陸軍省の協力のもと統合して「大日本国防婦人会」を結成
     もとは1932(昭和07)に大阪の主婦安田せい、三谷英子らの奉仕活動からできた「大阪国防婦人会」や東京の国防婦人会
     満州事変後に銃後の固めを急ぐ軍部の指導でつくられた軍国主義的婦人団体
     10/全国組織の発会式を挙行。幹部には陸海軍大臣など現役将官夫人が就任
     軍部の勢力を背景として家庭婦人や労働婦人を急速に組織
     事業としては出征兵士の慰問や家族の援助などの軍事援護
     「日本婦徳」の鼓吹を掲げ一般女性の精神強化に尽力する
     のち「愛国婦人会」と激しく対立
     1941(昭和16)06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」の結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」とともに統一され、発展的解消をとげる


1935(昭和10)

  《総理大臣》[第31代]岡田啓介
  《内務大臣》[第53代]後藤文夫
  《警視総監》[第39代]小栗一雄
  《内務省警保局局長》唐沢俊樹


  02/救世軍の山室軍平が自発的に一線を退き顧問となる
     自身での降格は前例なく、各新聞が退陣を惜しむ記事でうめ全国的に反響をよぶ
  11/中央公論社が小泉三申の随筆集『懐往時談』を発行する
  11/幸徳秋水の『兆民先生行状記』が中央公論社発行の小泉三申の随筆集『懐往時談』に再録
     幸徳秋水が中江家に寄寓する1893(明治26)3月から8月までの間に書きつづった原稿
     いちどめの収録は1931(昭和06)に民友社発行の徳富蘇峰の古希論文集『知友新稿』
  32才の堺真柄が高瀬清と離婚後、近藤憲二と結婚
     高瀬との結婚は1923(大正12)、真柄が20才のとき


1936(昭和11)

  《総理大臣》[第31代]岡田啓介(→03/09)、[第32代]廣田弘毅(03/09→)
  《内務大臣》[第53代]後藤文夫、[第54代]潮恵之輔文部大臣が兼任(03/09→)
  《警視総監》[第39代]小栗一雄、[第40代]石田馨(03/13→)
  《内務省警保局局長》唐沢俊樹(→03/13)、萱場軍蔵(03/13→)


  初め/救世軍内部の少壮士官らが改革運動を起こす
     改革派は山室軍平を大将に推し万国本営から離脱することを要求
     のちニュースは国内はもちろん海外の日本部、特にアメリカに詳報が続流する
     04/山室が再び司令官の地位に服する
     「内に向うて聖潔(きよめ)、外に向うてリバイバル、これを一貫する愛」を旗印に全軍の同心一致を強調する
  01/05日本労働総同盟(総同盟)と全国労働組合同盟が組織を統一し、新たに全日本労働総同盟(全総)を結成する
     総同盟の再統一が行なわれる
     全国労働組合同盟(全労)は、もともと日本労働総同盟(総同盟)から分裂した2つの組合が合同
     第2次分裂した日本労働組合同盟(組合同盟)と第3次分裂した労働組合全国同盟(全国同盟)
     1939(昭和14)11/03日本労働総同盟(総同盟)と改称する
  02/26二・二六事件(不詳事件、帝都不祥事件)が起こる
     未明。歩兵第1連隊、第3連隊、近衛歩兵第3連隊などの下士官兵1400人に非常呼集。民間人も加わる
     午前05時10分頃。栗原安秀中尉の約280人は麹町区永田町の首相官邸を襲撃
      警官4人を殺害、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を誤射
      岡田は女中部屋の押入で難を逃れる。翌日弔問客に紛れて脱出
     午前05時05分頃。坂井直中尉の約210人は四谷区仲町の斎藤実内大臣私邸を襲う
      斎藤に機関銃40発を撃ち込み斬撃を加えて殺害
     午前05時05分頃。中島莞爾少尉の約60人は赤坂区表町の高橋是清蔵相私邸に乱入
      「天誅」と叫び高橋をピストルと軍刀で殺害
     午前05時10分頃。安藤輝三大尉の約200人は麹町区三番町の鈴木貫太郎侍従長私邸に侵入
      下士官がピストルで撃ち安藤がとどめを刺そうとするが妻孝子の懇願にやめる
      鈴木は一命をとりとめる
     午前06時頃。高橋太郎少尉の約20人は上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲う
      ピストルで応射した渡辺を殺害
     午前05時頃。野中四郎大尉の約450人は警視庁を占領
     午前05時頃。丹生誠中尉の約160人は麹町区永田町の陸相官邸を占領
     午前08時55分頃。田中勝中尉の約60人はトラック、乗用車を動員。各隊の移送に当たり朝日新聞社を襲撃
      〜08時55分頃/日本電報通信社〜09時30分/報知新聞〜09時35分頃/東京日日新聞社
      〜09時40分/国民新聞社〜09時50分頃/時事新報社とすすむ
     午前05時40分〜06時20分頃。河野寿大尉は民間人6人と湯河原の牧野伸顕伯爵を襲撃
      護衛巡査を殺すが牧野は難をまぬがれる
     02/27午前02時40分。戒厳令施行が決定
     02/28午後11時。戒厳司令官が命令
     「叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、拠ツテ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」
     02/29朝。鎮圧側は「下士官兵ニ告グ」のビラをまき、
     「勅命下る、軍旗に手向ふな」のアドバルーンをあげ
     中村アナウンサーはラジオを通じて「兵に告ぐ」を繰り返す
     午後01時過ぎ。最後まで残った安藤中隊も安藤大尉の自決失敗により原隊に戻る
     反乱軍将校は陸相官邸に集結。代々木の陸軍刑務所におくられる
     のち軍法会議判決
     09/25事件の後処理が一切おわる
     1937(昭和12)08/15軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑判決【08/14?】
     08/19北一輝(52)が元騎兵少尉で愛弟子の西田税(34)とともに処刑される
  02/27二・二六事件にあたり行政戒厳が発せられる。7月16日まで
     近代日本史上、行政戒厳が発動された全3回のうち3回目
     1回目は、1905(明治38)年の日比谷焼き打ち事件のときで、事件翌日の9月6日〜11月29日
     2回目は、1923(大正12)年の関東大震災のときで、地震翌日の9月2日〜11月15日
  02/27サイレン社から長谷川時雨の『近代美人伝』が発行される。定価3円50銭
     収録された女性はマダム貞奴、樋口一葉、鹿島惠津子(新橋のぽんた)、春本萬龍、茂木松子、
     松下南枝子、竹本綾之助、豐竹呂昇、鴻池福子、芳川鎌子、銀子夫人、大橋須磨子、流轉の芝露子、
     一世お鯉、藤蔭靜子、松井須磨子、宮崎光子、平塚明子、柳原●【火偏に華】子、九條武子の20人
  08/13向上会と純向上会が合同し大阪官業労働組合となる
     09/10陸軍の組合否認により崩壊する
     向上会の発会は1919(大正08)11月9日
  09/10陸軍省造兵廠長官が従業員の団体行動を禁止、また一切の労働団体との絶縁を求め違反者は解雇すると発令
     名古屋、大阪、小倉の工廠にあった労働組合は解体
     工廠内の組合を主力とする官業労働総同盟は壊滅的な打撃をうけることに
  12/20吉川守圀の『荊逆星霜史』が不二屋書房より300部で限定刊行する
     副題に「日本社会主義運動側面史」。定価1円30銭
     のちすぐ発売禁止の処分を受ける
     1957(昭和32)08/15青木書店の文庫版「資料日本社會運動思想史明治後期第9集(別巻)」に他3篇と収録される
     定価140円。解説は岸本英太郎
     他3篇は、吉川の「兇徒聚集事件の思ひ出話」(「労働雑誌」昭和11年7月)、
     「電車値上反對兇徒聚集事件判決」(「光」明治39年8月5日号、第一審判決)、
     山口孤剣の「日本社會主義運動史」(「改造」大正8年10月)
  大杉栄の弟勇のもとで育てられ横浜紅蘭女学院を卒業した眞子(魔子)が博多に戻る
     叔父の代準介が九州日報に就職させる
     眞子は1923(大正12)9月16日に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の長女
     のち九州日報で記者の神康生と知り合い結婚し4人の子を授かる
     のち博多人形師青木比露志に走り1女を生む
     1968(昭和43)09/2851才で死去[1917(大正06)09/25生]


1937(昭和12)

  《総理大臣》[第32代]廣田弘毅(→02/02)、[第33代]林銑十郎(02/02→06/04)、[第34代]近衛文麿(06/04→)
  《内務大臣》[第54代]潮恵之輔文部大臣が兼任、[第55代]河原田稼吉(02/02→)
  《内務大臣》[第56代]馬場●【金偏に英】一(06/04→)、[第57代]末次信正(12/14→)
  《警視総監》[第40代]石田馨、[第41代]早川三郎(01/08→)、[第42代]横山助成(02/10→)
  《警視総監》[第43代]斎藤樹(06/05→)、[第44代]安倍源基(12/24→)
  《内務省警保局局長》萱場軍蔵(→02/10)、大村清一(02/10→06/05)、安倍源基(06/05→12/24)、富田健治(12/24→)


  07/28小泉策太郎(小泉三申)が死去[1872(明治05)12/03《11/03》生]
  08/15北一輝(52)が軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑判決【08/14?】[1883(明治16)04/03・生]
     08/19元騎兵少尉で愛弟子の西田税(34)とともに処刑される
  11/05木下尚江が69才で没する[1869(明治02)10/12《09/08》生]
  年末「愛国婦人会」の会員数が338万人に達する
     1941(昭和16)06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」の結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」とともに統一され、発展的解消をとげる
  11/18支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため
     大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止に
     新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定
     11/20大本営が設置されそのまま大東亜戦争に移行
     1945(昭和20)09/13大本営が廃止となる
  既存の3つの婦人団体は日中戦争開始後、軍人援護、遺族の救護活動、貯蓄奨励、生活の刷新など同じ運動をすることに
     「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」
     会の勢力拡大のための摩擦や対立が生じるようになる
     1941(昭和16)新婦人団体結成要綱が閣議決定される
     06/10大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」への統合結成がなされる【1942(昭和17)創立】
     既存の3婦人会が統一され発展的解消となる
     戦争協力のための婦人団体。20才以上の婦人は強制加入とされ貯蓄増強、廃品回収、国防訓練など国家奉仕に動員される
     1945(昭和20)国民義勇隊に改編される


1938(昭和13)

  《総理大臣》[第34代]近衛文麿
  《内務大臣》[第57代]末次信正
  《警視総監》[第44代]安倍源基
  《内務省警保局局長》富田健治(→06/24)、本間精(06/24→)


  03/20新田融が59才のとき東京で死去[1880(明治13)03/12・生]
     大逆事件での判決で懲役11年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1916(大正05)10月10日に千葉監獄を仮出獄
  04/01国家総動員法が公布される
     総力戦遂行のため国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる旨(総動員)を規定
     1945(昭和20)12/20国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律が公布される
     1946(昭和21)04/01廃止となる


1939(昭和14)

  《総理大臣》[第34代]近衛文麿(→01/05)、[第35代]平沼騏一郎(01/05→08/30)、[第36代]阿部信行(08/30→)
  《内務大臣》[第57代]末次信正、[第58代]木戸幸一(01/05→)、[第59代]小原直厚生大臣が兼任(08/30→)
  《警視総監》[第44代]安倍源基、[第45代]萱場軍蔵(01/11→)、[第46代]池田清(09/05→)
  《内務省警保局局長》本間精(→01/11)、安藤狂四郎(01/11→09/05)、本間精(09/05→)


  08/14吉川守圀[1883(明治16)02/18・生]が57才で死去
  11/03全日本労働総同盟(全総)が日本労働総同盟(総同盟)と改称する
     1940(昭和15)07/21解体に抵抗していた日本労働総同盟(総同盟)が政府の圧力により自主解散する
  「大日本連合青年団」は「大日本青年団」と組織を改める
     名実ともに国による指導統制体となる
     1941(昭和16)01/16既存の4団体が解体統合され「大日本青少年団」として再編される
     「大日本青年団」「大日本連合女子青年団」「大日本少年団連盟」「帝国少年団協会」
  甘粕正彦が岸信介の推挙により満洲映画協会の理事長に就任
     甘粕は1923(大正12)9月16日に関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     新京で満洲国、関東軍、満洲鉄道の全てに顔がきく満洲の陰の実力者となる
     1945(昭和20)08/20甘粕が青酸カリを飲んで自殺する
     黒板にチョークで書かれた遺句が残る
       大ばくち打ちそこね 身ぐるみ脱いで すってんてん


1940(昭和15)

  《総理大臣》[第36代]阿部信行(→01/16)、[第37代]米内光政(01/16→07/22)、[第38代](第2次)近衛文麿(07/22→)
  《内務大臣》[第59代]小原直厚生大臣が兼任、[第60代]児玉秀雄(01/15→)
  《内務大臣》[第61代]安井英二(07/22→)、[第62代]平沼騏一郎(12/21→)
  《警視総監》[第46代]池田清、[第47代]安倍源基/再任(01/19→)、[第48代]山崎巌(12/23→)
  《内務省警保局局長》本間精(→01/19)、山崎巌(01/19→07/24)、藤原孝夫(7/24→12/23)、橋本清吉(12/23→)


  年が変わると政府は政党や労働運動、農民運動などを解散に追い込むようになる
  03/13午後7時35分、山室軍平が急性肺炎にて死去【カタル性肺炎?】[1872(明治05)08/20生]
     03/14山室の遺志により東京大学医学部にて解剖される
  06/25夜、神戸で救世軍の山室軍平追悼講演会が開かれる
     賀川豊彦が「霊魂の熱愛・労働者山室軍平氏の瞑想」と題し熱弁をふるう
  07/21解体に抵抗していた日本労働総同盟(総同盟)が政府の圧力により自主解散する。28年の歴史に幕を閉じる
  07/社会大衆党が民政党や政友会の2大政党よりも早く自発的解散の形をとり消滅、大政翼賛会に合流する
  09/秋山定輔の日刊『二六新報』が新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
     日刊『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1895(明治28)5月に資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     1900(明治33)2月、秋山の同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
  10/01「朝報社」発行の『万朝報』『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる
  10/23西川光次郎[1876(明治09)04/29・生]が醸母菌脳膜炎で64才で没する
     10/27遺言により神式にて告別式を行なう
  11/24西園寺公望が享年92、満90才で死去する[1849(嘉永02)12/07《10/23》生]
  11/30『東京毎日新聞』が野依秀市が経営する『帝都日日新聞』に吸収合併される
     創刊は1871年1月28日《明治03・12/08》。題号は『横浜毎日新聞』
     日本語による本邦初の日刊紙は消滅する
  福岡の『九州日報』が東京の読売新聞社に買収される
     『九州日報』は1887(明治20)8月11日に刊行した『福陵新報』を1898(明治31)5月10日に改題
     1942(昭和17)08/10新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる


1941(昭和16)

  《総理大臣》[第38代](第2次)近衛文麿(→07/18)、[第39代](第3次)近衛文麿(07/18→10/18)、[第40代]東條英機(10/18→)
  《内務大臣》[第62代]平沼騏一郎、[第63代]田辺治通(07/18→)、[第64代]東條英機内閣総理大臣・陸軍大臣が兼任(10/18→)
  《警視総監》[第48代]山崎巌、[第49代]留岡幸男(10/20→)
  《内務省警保局局長》橋本清吉(→10/20)、今松治郎(10/20→)


  01/16既存の4団体が解体統合され「大日本青少年団」として再編される
     「大日本青年団」「大日本連合女子青年団」「大日本少年団連盟」「帝国少年団協会」
     1942(昭和17)閣議決定に基づき「大日本青少年団」が大政翼賛会の傘下に入る
  02/28東京府豊多摩郡代々幡村代々木16番地の正春寺に埋葬された管野すがの遺骨を安井弘志が引き取る
     のち岡山県座郡庄村字二子村共同墓地に移される
       岡山県吉備町東花尻の佐藤三代次が持ち帰り佐藤家の墓地に埋める
       仮の名「和田幽月の墓」と記した木の墓標が立てられる
       のちいつしか墓標は朽ち果て
       30センチほどの丸みを帯びた石にかわる。石に文字はない
  03/10これまでの治安維持法全7条を全65条とする全部改正が行なわれる。公布は1925(大正14)4月22日
     特徴として全般的な重罰化、取締範囲の拡大、刑事手続面、予防拘禁制度が挙げられる
     1945(昭和20)10/15治安維持法が廃止となる
     治安維持法の下1925(大正14)から1945(昭和20)の間に7万人以上が逮捕、その10パーセントが起訴される
     取調べ中の194人が拷問や私刑によって死亡し、1503人が獄中で病死
  既存の3つの婦人団体に対する新婦人団体結成要綱が閣議決定される
     「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」
  06/103つの婦人団体が大政翼賛会の下部組織で新婦人団体の「大日本婦人会」へ統合結成【1942(昭和17)創立】
     既存の3婦人会が統一され発展的解消となる
     戦争協力のための婦人団体。20才以上の婦人は強制加入とされ貯蓄増強、廃品回収、国防訓練など国家奉仕に動員される
     1945(昭和20)国民義勇隊に改編される
  12/08日本軍がマレー半島に上陸。ハワイ真珠湾に攻撃し米英両国に宣戦布告
  平塚明が奥村博史の戸籍に入る、本名奥村明となる
     長男の兵役を前に私生児が軍隊内で不利益にないようにする
     平塚と奥村博史が共同生活をはじめたのは1914(大正03)1月のこと


1942(昭和17)

  《総理大臣》[第40代]東條英機
  《内務大臣》[第64代]東條英機内閣総理大臣・陸軍大臣が兼任、[第65代]湯沢三千男(→02/17→)
  《警視総監》[第49代]留岡幸男、[第50代]吉永時次(06/15→)
  《内務省警保局局長》今松治郎(→06/15)、三好重夫(06/15→)


  08/10福岡の『九州日報』が新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる
     『九州日報』は1887(明治20)8月11日に刊行した『福陵新報』を1898(明治31)5月10日に改題
     1940(昭和15)には東京の読売新聞社に買収される
  09/25添田知道が増進堂から『小説 教育者』第1部、第2部、第3部を刊行する【錦城出版社?】
     1部、3部は定価70円、2部は定価80円
     1946(昭和21)07/20第4部「愛情の城」を刊行する。定価80円
  平塚らいてうが茨城県取手在の戸田井に疎開。農耕生活にはいる
     1947(昭和22)春/疎開地から帰京する
     成城の家で長男敦史夫婦と同居する
  閣議決定に基づき「大日本青少年団」が大政翼賛会の傘下に入る
     1945(昭和20)大政翼賛会の解散に伴い「大日本青少年団」が解散され国民義勇隊として再編される


1943(昭和18)

  《総理大臣》[第40代]東條英機
  《内務大臣》[第65代]湯沢三千男、[第66代]安藤紀三郎(04/20→)
  《警視総監》[第50代]吉永時次、[第51代]薄田美朝(04/22→)
  《内務省警保局局長》三好重夫(→04/22)、町村金五(04/22→)


  09/10加藤時次郎の『凡人の力』が第441号で廃刊となる
     加藤の死去[1930(昭和05)5月10日]後も『凡人の力』は刊行される
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』
     のち1917(大正06)に『平民』と、1930(昭和05)に『凡人の力』と改題
  10/21東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部主催の出陣学徒壮行会が実施される
     兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20才以上の文科系学生を在学途中で徴兵出征させるため
     強い雨の中、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県の各大学、専門学校から召集された出陣学徒が隊列行進
     伴奏は「陸軍分列行進曲」「海ゆかば」の斉唱、宮城遙拝、
     岡部長景文部大臣の開戦詔書の奉読、東條英機首相の訓辞、
     東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎の答辞などが行なわれる
     送られる学徒2万5千人、見送る女子学生ほか約5万人が集まる
  12/06『明治事物起原』の著者石井研堂が死去
     1944(昭和19)11/18太平洋戦争まっただなかに第3版となる増補改訂版が発行される
     発行所は第2版と同じ春陽堂。上下巻で1538ページという膨大な量にふくれあがる

  東京深川の洲崎遊廓に閉鎖令がくだされる
     跡地は軍需工場となる
     【戦争で深川地区が激しい空襲にあい、昭和18年に洲崎遊廓の閉鎖令が下される】
     【昭和18年以前には深川に空襲はない? 空襲が理由で閉鎖されたのではない?】
     【1945(昭和20)03/10の東京大空襲で洲崎遊廓が全滅する?】


1944(昭和19)

  《総理大臣》[第40代]東條英機(→07/22)、[第41代]小磯國昭(07/22→)
  《内務大臣》[第66代]安藤紀三郎、[第67代]大達茂雄(07/22→)
  《警視総監》[第51代]薄田美朝、[第52代]坂信彌(07/25→)
  《内務省警保局局長》町村金五(→07/25)、古井喜実(07/25→)


  02/08添田唖蝉坊(平吉・72)が大森馬込の息子知道方にて老衰のため死去
     唖蝉坊は演歌の第一人者[1872(明治05)12/25《11/25》生]
  10/05頭山満が静岡県御殿場の富士山を望む山荘で89年の生涯を閉じる[1855(安政02)04/12生]
     葬儀委員長は元総理の広田弘毅
  11/18太平洋戦争まっただなかに『明治事物起原』の第3版となる増補改訂版が発行される
     発行所は第2版と同じ春陽堂。上下巻で1538ページという膨大な量にふくれあがる
     著者の石井研堂は1943(昭和18)12月6日に死去
     第1版は1908(明治41)1月1日に発行される


1945(昭和20)

  《総理大臣》[第41代]小磯國昭(→04/07)、[第42代]鈴木貫太郎(04/07→08/17)
  《総理大臣》[第43代]東久邇宮稔彦王(08/17→10/09)、[第44代]幣原喜重郎(10/09→)
  《内務大臣》[第67代]大達茂雄、[第68代]安倍源基(04/07→)、[第69代]山崎巌(08/17→)、[第70代]堀切善次郎(10/09→)
  《警視総監》[第52代]坂信彌、[第53代]町村金五(04/09→)、[第54代]坂信彌/再任(08/19→)、[第55代]高野源進(10/11→)
  《内務省警保局局長》古井喜実(→04/09)、水池亮(04/09→08/19)、橋本政実(08/19→10/11)、小泉梧郎(10/11→)


  01/10廓清会の機関誌『廓清』の第35巻第1号が発行される
     発行所は廓清会本部。編集人、発行人は伊藤秀吉、印刷人は大居倉之助。定価30銭
     のち続刊はなく第35巻第1号が終刊号となる
     創刊は1911(明治44)7月8日
  02/国粋主義系の政治評論団体「政教社」発行の雑誌『日本及日本人』が廃刊となる
     創刊は1888(明治21)4月3日発行の『日本人』
  03/10午前0時07分、B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃が東京の深川地区へ初弾が投下
     城東地区にも攻撃が開始される
     0時15分空襲警報が発令
     0時20分浅草地区や芝地区でも爆撃が開始。「東京大空襲」
     火災の煙は高度1万5千米の成層圏にまで達し、秒速50米以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れる
     午前2時37分アメリカ軍機は退去し空襲警報は解除される
     警視庁調査の被害数は死亡8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸
     民間団体や新聞社の調査では死者行方不明者は10万人以上
     わずか1回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の約41平方粁が焼失
     空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783瓲
     アメリカ側の損害は撃墜・墜落が12機と、撃破が42機
  03/10本郷区菊坂町にある菊富士ホテルが東京大空襲で焼失する
     ホテルの竣工は1914(大正03)。それ以前は1897(明治30)に開業した下宿菊富士楼
  03/16安部磯雄夫妻が西多摩郡大西村に疎開
     04/28平井村の祥雲寺に移る
  07/26米、英、中首脳が日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発表
     07/28ポツダム宣言が発せられるが、政府の鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言」を黙殺すると発言
     08/09午後11時50分から御前会議が開かれる
     08/10午前02時20分、国体護持を条件に「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へポツダム宣言受諾を打診
     08/12日本政府がポツダム宣言受諾に対する連合国の回答公電を受け取る
  08/12日本政府が「ポツダム宣言」受諾に対する連合国の回答公電を受け取る
     政府はその内容(天皇制の存続には一切触れずに、無条件での「降伏」を勧告)をめぐって大混乱
     08/14最高戦争指導者会議が招集
     政府内混乱に対処するため御前会議で天皇が再び「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へ受諾を正式に申入れる
     昭和天皇が「戦争終結の詔書」を発布。ラジオ放送用に録音し、翌15日正午に放送することに
  08/15連合国へ申し入れた「ポツダム宣言」が正式に受諾される
     正午、天皇の日本の降伏を伝える「戦争終結の詔書」(玉音放送)がラジオから流れる
     「…堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス…」
     日本の無条件降伏により第2次世界大戦が終結する
  08/15以前「大日本婦人会」が国民義勇隊に改編される
     「大日本婦人会」は1941(昭和16)に「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」が統合結成
  08/15以前大政翼賛会の解散に伴い「大日本青少年団」が解散され国民義勇隊として再編される
  08/20甘粕正彦が青酸カリを飲んで自殺する[1891(明治24)01/26・生]
     甘粕は1923(大正12)9月16日に関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     1939(昭和14)には岸信介の推挙により満洲映画協会の理事長に就任
     新京で満洲国、関東軍、満洲鉄道の全てに顔がきく満洲の陰の実力者となる
     黒板にチョークで書かれた遺句が残る
       大ばくち打ちそこね 身ぐるみ脱いで すってんてん
  08/25市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成される
     衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた、5項目の決議を政府と主要政党に提出する
     10/10幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされる
     10/11マッカーサーによる5大改革の指令に「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られる
  08/28テンチ米陸軍大佐以下150人が横浜に発上陸し、連合国軍総司令部(GHQ)を横浜に設置
     同じ日、連合国軍先発隊が厚木飛行場に到着
     08/30ダグラス・マッカーサーが専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着
     連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領にあたる
     GHQ(総司令部/General Headquarters)、SCAP(連合国軍最高司令官/Supreme Commander for the Allied Powers)
     09/16連合国軍総司令部(GHQ)が横浜から東京の第一生命相互ビルに移転
     09/17マッカーサーが東京の司令部に入る
     1951(昭和26)04/11トルーマン米・大統領によりダグラス・マッカーサーがGHQ最高司令官を罷免
     後任にリッジウェイ中将が就任
     1952(昭和27)04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉)
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     05/03独立式典は日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  09/02日本政府が米戦艦ミズーリ号艦上で、降伏文書調印
     GHQ指令第1号(陸海軍の解体、軍需生産の停止など)が発表
  09/13大本営が廃止となる
     大本営の設置は1937(昭和12)11月20日
  10/04小松丑治が困窮のなか70才で死去[1876(明治09)04/15・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
  10/11新任挨拶のためにGHQを訪れた幣原喜重郎首相はマッカーサーと会談
     マッカーサーはポツダム宣言に基づいて占領政策の基本を示す。「五大改革指令」の意見を表明
     1、選挙権賦与による婦人の解放
     2、労働の組合化促進
     3、自由主義的教育を行うための諸学校の開設
     4、検察・警察制度の改革
     5、経済機構の民主主義化
  10/13警保局保安課下の警視庁に設置された特別高等警察が、GHQの命により廃止となる
     設置は1911(明治44)8月21日
  10/15治安維持法が廃止となる。公布は1925(大正14)4月22日
     治安維持法の下1925(大正14)から1945(昭和20)の間に7万人以上が逮捕、その10パーセントが起訴される
     取調べ中の194人が拷問や私刑によって死亡し、1503人が獄中で病死
  10/27朴烈が秋田刑務所大館支所を出獄。大館駅前で出獄歓迎大会が開かれる
     朴は1923(大正12)9月2日に内妻の金子文子と治安警察法の保護検束を口実に検挙、淀橋警察譽に連行
     1925(大正14)5月2日に朴が皇室暗殺を計画した大逆罪に問われ起訴される
     1926(大正15)3月25日には両者に死刑判決が下されるも
     4月5日には「天皇の慈悲」の名目で恩赦がだされ無期懲役に減刑される
  11/02日比谷公会堂の日本社会党結党式に賀川豊彦が「社会党万歳」の音頭をとる
  11/03婦人参政権獲得を目的とし市川房枝を会長とする「新日本婦人同盟」が創立。婦人参政権運動が再開
     のち「新日本婦人同盟」は「日本婦人有権者同盟」と改称
  11/17兵役法が「兵役法廃止等ニ関スル件」により廃止となる
     兵役法は1873(明治06)1月10日に施行された徴兵令がもと
     1927(昭和02)4月1日に徴兵令を全面改正し兵役法として公布される
  11/21治安警察法がGHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により廃止となる
     1880(明治13)の集会条例、1890(明治23)の集会及び政社法と受け継がれてくる
  11/21治安警察法が廃止され女性の結社権が認められる
  12/17改正衆議院議員選挙法の公布により女性の国政参加が認められる
     1946(昭和21)09/27地方制度改正により女性の地方参政権が実現する
  12/20国家総動員法及戦時緊急措置法廃止する法律が公布される
     国家総動員法が公布されたのは1938(昭和13)4月1日
     1946(昭和21)04/01廃止となる
  12/27衆議院議員選挙法が改正。GHQによる民主化により改正衆議院議員選挙法が公布
     婦人参政権と選挙権年令引き下げにより、満20才以上のすべての成人男女による完全普通選挙を確立
     (広義の普通選挙・完全普通選挙)


1946(昭和21)

  《総理大臣》[第44代]幣原喜重郎(→05/22)、[第45代]吉田茂(05/22→)
  《内務大臣》[第70代]堀切善次郎、[第71代]三土忠造(01/13→)、[第72代]大村清一(04/22→)
  《警視総監》[第55代]高野源進、[第56代]藤沼庄平/再任(01/15→東京都長官兼任)、[第57代]鈴木幹雄(06/08→)
  《内務省警保局局長》小泉梧郎(→01/15)、谷川昇(01/15→)


  02/24岡林寅松が坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     岡林は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
  02/24坂本清馬が岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     坂本は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11月3日に高知刑務所を仮出獄
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  03/12鈴木文治が心臓喘息により急逝。60歳[1885(明治18)09/04・生]
     戦後初の総選挙に日本社会党から立候補の届けをだした翌日のこと
  04/01国家総動員法が廃止となる
     国家総動員法が公布されたのは1938(昭和13)4月1日
  04/10戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39人が誕生する
  06/師岡千代子が東洋堂から『夫・幸徳秋水の思ひで』を刊行
     師岡は1909(明治42)3月1日、幸徳秋水と協議離婚【03/04?】
     1947(昭和22)07/15新たに3編を追加して隆文館から『風々雨々』を刊行
     3編は「中江兆民先生」「田中正造翁のことども」「堺利彦氏の面影」
  07/20添田知道が増進堂から『小説 教育者』第4部「愛情の城」を刊行する。定価80円
     1部、2部、3部は1942(昭和17)9月25日に発行。【錦城出版社?】1部、3部は定価70円、2部は定価80円
  09/27地方制度改正により女性の地方参政権が実現する


1947(昭和22)

  《総理大臣》[第45代]吉田茂(→05/24)、[第46代]片山哲(05/24→)
  《内務大臣》[第72代]大村清一、[第73代]植原悦二郎(01/31→)、[臨]片山哲内閣総理大臣が臨時代理(05/24→)
  《内務大臣》[第74代]木村小左衛門(06/01→12/31限り)内相廃止
  《警視総監》[第57代]鈴木幹雄、[第58代]廣岡謙二(02/04→)、[第59代]門叶宗雄(06/09→)、[第60代]齋藤昇(10/20→)
  《内務省警保局局長》谷川昇(→02/04)、田中楢一(02/04→06/09)、久山秀雄(06/09→12/31)


  01/頃雑誌『真相』の佐和慶太郎が偶然に管野すがの『死出の道艸』を入手する
     のち神崎清が公刊する
  春/平塚らいてうが茨城県の疎開先、取手在の戸田井から帰京する
     成城の家で長男敦史夫婦と同居する
     疎開をはじめたのは1942(昭和17)から、農耕生活に入る
  05/03GHQの指示で公示により金鵄勲章の制度が廃止となる
     金鵄勲章は1890(明治23)2月11日の紀元節のこの日、「金鵄勲ノ等級製式佩用式」の勅令11号をもって制定される
     金鵄勲章は武功抜群な陸海軍人に与えられる勲章。功1級から功7級まで
  05/華族令が廃止となる
     華族その他の貴族制度を禁止した日本国憲法(14条2項)の施行
     皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年皇室令第12号)の発令による
     公布は1884(明治17)7月7日
  05/安部磯雄著の『地上の理想国 瑞西』が大原社会問題研究所から「社会問題名著選」の1冊として再版。解説は権田保之助
     『地上の理想国 瑞西』は1904(明治37)5月28日に平民文庫から刊行
     ヴヰンセントの「瑞西の政治」とドウソンの「社会的瑞西」から抜粋して著わす
     四六半截版152ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は安部磯雄、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  07/15師岡千代子が隆文館から『風々雨々』を刊行
     師岡は1946(昭和21)6月に東洋堂から『夫・幸徳秋水の思ひで』を刊行
     『風々雨々』は新たに3編「中江兆民先生」「田中正造翁のことども」「堺利彦氏の面影」を加え刊行
     師岡は1909(明治42)3月1日、幸徳秋水と協議離婚【03/04?】
  07/21万世橋駅前の須田町交差点に建つ広瀬武夫と杉野孫七の銅像が、東京都により撤去される
     銅像の除幕式は1910(明治43)5月29日
  10/09田川大吉郎が衆議院議員在職中に死去[1869(明治02)11/29《10/26》生]
  12/31内務省がGHQにより解体、廃止となる


1948(昭和23)

  06/19国会の衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」が決議
     参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議
     教育勅語が学校教育から排除、失効されたことが確認される
     いわゆる教育勅語。発布は1890(明治23)10月30日
  06/191882(明治15)1月4日に下賜された軍人勅諭教育勅語などとともに排除、失効に
  06/26飛松与次郎が崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     飛松は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)5月10日に秋田刑務所を仮出獄
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  06/26崎久保誓一が飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     崎久保は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に秋田刑務所を仮出獄
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  09/01岡林寅松が73才のとき高知で死去[1876(明治09)01/30・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄


1949(昭和24)

  02/10安部磯雄が85才で没する[1865(元治02)03/01《02/04》生]【83才?】
     02/14富士見町教会で告別式が行なわれる。葬儀委員長は片山哲が務める


1951(昭和26)

  04/11トルーマン米・大統領によりダグラス・マッカーサーがGHQ最高司令官を罷免
     後任にリッジウェイ中将が就任
     マッカーサーは1945(昭和20)8月30日専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着
     連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領にあたる
     1952(昭和27)04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉)
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     05/03独立式典は日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  青銅社が平塚らいてうと櫛田ふきの共編による『われら母なれば』を刊行する


1952(昭和27)

  04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉)
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     05/03独立式典は日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催


1953(昭和28)

  03/木下尚江の『良人の自白』が岩波文庫から上、中、下、続と順次復刻される
  04/1965才の神近市子が第26回衆議院議員総選挙に左派社会党から立候補して初当選する
     1955(昭和30)02/27第27回衆議院議員総選挙に立候補し再選
     1958(昭和33)05/22第28回衆議院議員総選挙に立候補し3選
     1960(昭和35)11/20第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選
     1963(昭和38)11/21第30回衆議院議員総選挙に立候補して当選
     1967(昭和42)01/29第31回衆議院議員総選挙に立候補して当選
     1969(昭和44)12/27第32回衆議院議員総選挙が行なわれるも立候補を辞退し政界をさる
  03/頃石川三四郎が『自叙伝』の口述をはじめる
     1956(昭和31)06/09『自叙伝』の口述を終える
  09/10飛松与次郎が64才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】[1889(明治22)02/26・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)5月10日に秋田刑務所を仮出獄
  12/第2回日本婦人大会で67才の平塚らいてうが国際民主婦人連盟の副会長に就任する


1954(昭和29)

  78才の石川三四郎の一進一退の病状が続く
  09/05林茂、隅谷三喜男編で幸徳秋水の『基督殺論』が岩波文庫の1冊として刊行
     1911(明治44)2月1日発行の初版本に収録されなかった諸家の序跋、付録などが発見。すべて収録される
     『基督抹殺論』の定本となる
      雪嶺迂人(三宅雪嶺)の「序」、
      著者の「序」、
      高島米峰の跋文、
      堺利彦編の「獄中消息」、
      堺の「基督抹殺論の後に記す」、
      田岡嶺雲の「最後の別れを懐ふ」、
      高島米峰の「幸徳秋水と僕」
  09/石川三四郎が一時危篤状態におちいる


1955(昭和30)

  02/2767才の神近市子が第27回衆議院議員総選挙に立候補し再選する。昭和28年の第26回に次ぐ当選
     1958(昭和33)05/22第28回衆議院議員総選挙に立候補し3選する
  04/新評論社が平塚らいてうの『わたくしの歩いた道』を刊行する
  10/30崎久保誓一が70才のとき市木村で死去[1885(明治18)10/12・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に秋田刑務所を仮出獄
  10/30住谷悦治、唐沢隆三が石川三四郎の見舞いに訪れる。四方山話にはなが咲く


1956(昭和31)

  02〜03/奥村博史が『婦人公論』2月号、3月号に自伝小説「めぐりあい 運命序曲」を掲載
     09/現代社から単行本『めぐりあい 運命序曲』として刊行される
  石川三四郎の病状が好転する
  05/27石川三四郎の80才の誕生祝いを自宅で開く。柏水堂のウイスキーボンボンを口にする
     「ああ革命はな近づけり」をまわらない口を動かし堀口嘉平太と合唱する
  06/09石川三四郎が『自叙伝』の口述を終える
     はじめたのは1953(昭和28)3月頃
  11/25朝、石川三四郎が脳卒中の発作に襲われる
     11/28午前10時4分多くの同志や友人、親族に見守られながら死去する[1876(明治09)05/23・生]
     遺志により葬儀は行なわれず
  12/07「石川三四郎を偲ぶ会」が新宿区四谷駅前の主婦会館ホールで開かれる。参加者は200余人に
     司会・近藤憲二、追悼講演・大沢正道、ヴァイオリン演奏・諏訪晶子、追悼詩朗読・植村諦
     追想・秋田雨雀(秋山清代読)、荒畑寒村、家永三郎、生田花世、岩佐作太郎、岡本潤、小川三男、
     奥むめお、奥谷松治、小口みち子、大宅壮一、唐沢憲一、久保謙、元心昌、白井新平、高津正道、
     鶴見俊輔、松尾邦之助、山鹿泰治、山辺健太郎、鑓田研一、綿引邦豊夫
     閉会のことば・川合仁
     旧い同志、添田唖蝉坊、柴田三郎、西川光二郎、及川鼎寿、大杉栄、堺利彦の息子、娘の姿も
     ヴァイオリンをひく、詩をよむ、思い出をかたる、礼賛する、思想的解剖をする、素破ぬきをするなど


1957(昭和32)

  08/15青木書店から文庫版「資料日本社會運動思想史明治後期第9集(別巻)」が発行される
     定価140円。解説は岸本英太郎
     収録は吉川守圀の『荊逆星霜史』のほか、「兇徒聚集事件の思ひ出話」(「労働雑誌」昭和11年12月)、
     「電車値上反對兇徒聚集事件判決」(「光」明治39年8月5日号、第一審判決)、
     山口孤剣の「日本社會主義運動史」(「改造」大正8年10月)


1958(昭和33)

  01/22山川均が終日臥床の状態に、病状は悪化
     03/23午前6時7分、死去。解剖の結果、主として膵臓癌と判定される[1880(明治13)12/20生]
     山川の妻は菊枝(青山菊枝)
     04/02青山斎場にて日本社会党葬。倉敷市前神町長連寺の山川家墓地に埋葬
  05/2270才の神近市子が第28回衆議院議員総選挙に立候補し3選する
     昭和28年の第26回(初)、昭和30年の第27回に次ぐ当選
     1960(昭和35)11/20第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選する
  10/25元ギロチン社の高嶋三治が『名古屋新報』に「たらい廻し」の連載をはじめる
     1960(昭和35)04/051年半続いた連載が終了する


1960(昭和35)

  02/26幸徳秋水の元妻千代子が死去する[1875(明治08)04/26・生]
     千代子は伊予宇和島藩士国学者師岡正胤の末女
     1899(明治32)7月に幸徳秋水(28)と結婚
     1909(明治42)3月1日、協議離婚をする【03/04?】
  04/05元ギロチン社の高嶋三治が『名古屋新報』に連載していた「たらい廻し」がで終了する
     1958(昭和33)10月25日からはじまり1年半続く
  04/23午後9時13分、賀川豊彦が東京、上北沢3丁目の自宅にて死去[1888(明治21)07/10・生]
  11/2072才の神近市子が第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選する
     これまで昭和28年の第26回(初)、昭和30年の第27回(当)、昭和33年の第28回(当)
     1963(昭和38)11/21第30回衆議院議員総選挙に立候補して当選する


1961(昭和36)

  『青鞜』50周年に際して平塚らいてうが物故社員の慰霊を行なう


1962(昭和37)

  07/賀川豊彦生誕74周年記念講演会が開かれる
     山室民子が「賀川先生を憶う」と題して講演する
     山室民子は救世軍の山室軍平、山室機恵子の長女
  11/02〜11宮本研の戯曲「明治の柩」が劇団ぶどうの会により厚生年金会館ホールにて上演(初演)される
     演出=竹内敏晴、装置=一条竜夫、照明=穴沢喜美男、音楽=湯浅譲二、舞台監督=松樹いたる、
     演出助手=和泉二郎、竹中弘繁、美術助手=園良昭、衣裳製作=村角和子、効果=田辺皓一、宮沢俊一、
     照明助手=立木定彦、舞台監督助手=小林敦子、塩原悠紀子、亜木英子
      旗中正造=桑山正一、旗中タツ子=福山キヨ子、佐竹和三郎=金内吉男、多々良治平=伊藤惣一、
      多々良ヨネ=蓮川くみ、一ノ瀬宗八=小野泰次郎、一ノ瀬タキ=牛込安子、一ノ瀬宗六=井上和行、
      南佐十=大河内稔、別れの挨拶にくる女=青木和子、豪徳さん=坂本長利、岩下先生=久米明、
      杉本●【火偏に華】子=片岡藍子、二木斉太郎=小沢重雄、角袖の斎藤巡査=田辺皓一、洋服の若い角袖=須賀川昇、
      強制執行官吏=和泉二郎、社会主義伝道行商の青年一=須賀川昇、同青年二=竹中弘繁、官服巡査=宮沢俊一、
      看守=和泉二郎、農民たち=小林敦子、塩原悠紀子、土屋美智子、養成所生徒


1963(昭和38)

  09/『国文学 解釈と鑑賞』9月号が『青鞜』の関係者を集め、座談会「『青鞜』の思い出」をもつ
     出席者は生田花世、遠藤初、神近市子、小林哥津、司会は紅野敏郎
     平塚らいてう、富本一枝(尾竹紅吉)は病気のため欠席
  11/2175才の神近市子が第30回衆議院議員総選挙に立候補して当選する
     これまで昭和28年の第26回(初)、昭和30年の第27回(当)、
     昭和33年の第28回(当)、昭和35年の第29回(落)
     1967(昭和42)01/29第31回衆議院議員総選挙に立候補して当選する
  鶴見俊輔が「石川三四郎を偲ぶ会」の模様を小冊子『石川三四郎をしのぶ』にまとめる
     「石川三四郎を偲ぶ会」は1956(昭和31)12月7日に開かれる


1964(昭和39)

  02/18奥村博史が東京都世田谷区関東中央病院にて74才で急性骨髄白血病のため死去
     [1889(明治22)10/04・生]
  06/07高群逸枝[1894(明治27)01/18生]が77才で没する
  09/03木下順二の戯曲「冬の時代」が劇団民藝で初演。演出は宇野重吉
     東京の東横ホールで22日の終演まで
     パンフレットには木下順次のほか向坂逸郎、猪野謙二、荒畑寒村、松本清張、橋浦時雄、山川菊枝、近藤真柄らが寄稿
     主なキャストは滝沢修(堺利彦・渋六)、小夜福子(堺夫人・奥方)、鈴木瑞穂(大杉栄・飄風)、
     芦田伸介(荒畑寒村・ショー)、大滝秀治(高畠素之・ノギ)、山内明(橋浦時雄・不敬漢)、
     松下達夫(白柳秀湖・デブ)、堀井永子(伊藤野枝・エンマ)、水谷貞雄(山川均・二銭玉)、
     阪口美奈子(寺本みち子・テの字)、北林谷栄(お婆さん)など
     のち大阪、京都、神戸、名古屋を巡演し70回ほどの公演
     11/02第19回芸術祭公演として東京の日経ホールで14日まで再演される
  10/15南助松が91才で没する
     [1873(明治06)08/10・生]


1965(昭和40)


1966(昭和41)

  03/06「部落解放の父」と呼ばれた松本治一郎が福岡市の自宅で軽い脳卒中におそわれ病臥
     03/21入院する
     11/22午前2時半、呼吸困難に。2時58分、79才で死去する[1887(明治20)06/18・生]
     11/30福岡市の九電体育館で松本家の告別式が行われる
     1万人をこす人が参列、弔電は4300通をこす
     友人代表で社会党の元委員長の鈴木茂三郎がわかれの言葉を述べる
     12/04京都の国際会議場で部落解放同盟葬が行なわれる
     午後2時、全国の部落で解放の父治一郎に黙祷を捧げる
     12/10東京の青山斎場で日中友好協会、社会党、解放同盟による合同葬が行なわれる


1967(昭和42)

  01/2979才の神近市子が第31回衆議院議員総選挙に立候補して当選する
     これまで昭和28年の第26回(初)、昭和30年の第27回(当)、
     昭和33年の第28回(当)、昭和35年の第29回(落)、昭和38年の第30回(当)
     1969(昭和44)12/27第32回衆議院議員総選挙が行なわれるも立候補を辞退し政界をさる


1968(昭和43)

  02/雑誌『部落』2月号に部落問題研究所の鈴木良が「天皇制と部落差別」を発表
     1917(大正06)にはじまった洞部落移転問題は国家権力による強制的な執行が通説となる
     部落問題の原因が天皇制にあるとするときの重要な議題として知られることに
     のち奈良県部落解放研究所紀要に部落移転問題の根底をくつがえす反証論文が発表される
     2号[1980(昭和55)10/]、5号[1983(昭和58)12/]、6号[1988(昭和63)5/]
     発表したのは移転後の村に生まれ、鈴木の説に疑問をもった辻本正教
     強制執行ではなく陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めたとの事実が明らかにする
     1990(平成02)11/23解放出版社が論文をまとめ『洞村の強制移転』を発行
  04/10〜05/23宮本研の戯曲「美しきものの伝説」が劇団文学座により上演(初演)される
     朝日生命ホール、砂防会館ホールほか
     演出=木村光一、美術=朝倉摂、照明=古川幸夫、音楽=林光、効果=深川定次、振付=関矢幸雄、
     演歌指導=添田知道、東喜代駒、舞台監督=鈴木邦雄、演出助手=長崎紀昭、制作=中里郁子
      先生=金内喜久夫、ルパシカ=川辺久造、早稲田=江守徹、音楽学校=小野武彦、学生=坂口芳貞、クロポトキン=菅野忠彦、
      暖村=石立鉄男、四分六=加藤武、野枝=吉野佳子、モナリザ=小川真由美、サロメ=しめぎしがこ、尾行=宮崎和命、
      女給=小菅伸子、幽然坊=細川俊之、突然坊=太地喜和子、騒然坊=高橋あや子、愕然坊=神保共子、
      芸術座の俳優たち=柴田宗樹、島津元、林秀樹、三宅康夫、秋元羊介、孝月江吏、浦川麗子、小菅伸子、裏方=下川辰平
  09/28眞子(魔子)が51才で死去[1917(大正06)09/25生]
     眞子は1923(大正12)9月16日に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の長女


1969(昭和44)

  11/新婦人協会創立50周年記念集会が婦選会館で開かれる
     【1970(昭和45)03/28に開催?】
     83才の平塚らいてうが出席する
  12/2781才の神近市子が第32回衆議院議員総選挙の立候補を辞退。政界をさる
     これまで昭和28年の第26回(初)、昭和30年の第27回(当)、昭和33年の第28回(当)、
     昭和35年の第29回(落)、昭和38年の第30回(当)、昭和42年の第31回(当)


1970(昭和45)

  03/28新婦人協会創立50周年記念集会・展示会が婦選会館で開かれる
     【1969(昭和44)11月に開催?】
     平塚らいてうが出席する
  08/平塚明が胆のう、胆道癌を患い東京都千駄ケ谷の代々木病院に入院
     入院前から取り組んでいた自伝の作成を口述筆記で続ける
     のちいったん退院する
     11/再入院する
     1971(昭和46)05/2485才で死去


1971(昭和46)

  05/24平塚明が85才で死去[1886(明治19)02/10


1972(昭和47)

  08/名古屋市の覚王山日泰寺の近くの団地に住む女性が夏草におおわれた石を発見
     『朝日新聞』のひととき欄に投稿記事が載る
     石には文字が深く刻まれる
     表に「Mr.M.Tachibana Born in Portrland 12th 4.1917.USA/
      吾人は須らく愛に生べし 愛は神なればなり/橘 宗一」
     裏に「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日夜、
      大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル/Build at 12th 4.1927 by S.Tatibana/
      なでし子を 夜半の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり/橘 惣三郎」
     【宗一(八才)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三)九月十六日ノ夜 大杉栄 野枝ト共ニ 犬共ニ虐殺サル?】
     墓碑は米国で貿易商を営む宗一の実父橘惣三郎が名古屋市千種区自由ケ丘の覚王山日泰寺にひそかに建立
     建てたのは1927(昭和02)4月【事件から2年後?】
     1975(昭和50)08/橘宗一の墓碑保存会が発足する
     発起人にはギロチン社の高嶋三治も名を連ねる


1973(昭和48)


1975(昭和50)

  01/15坂本清馬が89才で死去【84才?】[1885(明治18)07/04・生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11月3日に高知刑務所を仮出獄
  08/橘宗一の墓碑保存会が発足する
     発起人にはギロチン社の高嶋三治も名を連ねる
     墓碑は米国で貿易商を営む宗一の実父橘惣三郎が名古屋市千種区自由ケ丘の覚王山日泰寺にひそかに建立
     建てたのは1927(昭和02)4月【事件から2年後?】
     1972(昭和47)8月に近くの団地に住む女性が夏草におおわれた石を発見。石には文字が深く刻まれる
     『朝日新聞』のひととき欄に投稿記事が載る


1976(昭和51)

  08/大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の遺体を解剖した軍医田中隆一大尉の自宅から「鑑定書」が発見される
     「鑑定書」は1923(大正12)9月26日付
     大杉は「胸部右側第四肋骨、左側第四、第五ハ完全骨折」
     伊藤は「第三第四第五肋骨ハ完全骨折、胸骨ハ完全横骨折ヲ認ム」
     いずれも胸部には多数の骨折や溢血が認められる
     「男女二屍の前胸部の受傷は頗る強大な外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものなることは明白」
     複数の人間により寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加え致命傷を与え、最後に首を絞める
     橘宗一に外傷はなく、大杉と伊藤には明らかに生前相当ひどい暴行を受けた跡が見受けられる


1980(昭和55)

  11/02山川菊枝(青山菊枝)が死去[1890(明治23)11/03生]
     夫は1958(昭和33)1月22日に死去した山川均


1981(昭和56)

  01/24「大逆事件の真実をあきらかにする会」が大逆事件処刑70周年を記念して堺利彦の『大逆帖』を復刻出版する
     『大逆帖』は堺が被告からの手紙を集めてつくった1冊のスクラップブック
  03/06荒畑勝三(寒村)[1887(明治20)08/14・生]が96才で死去
  08/01午後5時、神近市子[1888(明治21)06/06水・生]が93才で没する
     遺児らにより告別式が営まれる


1983(昭和58)

  03/18堺利彦の長女、堺真柄が80才で死去[1903(明治36)01/30生]


1989(昭和64・平成01 01/07〜

  01/07午前6時33分、昭和天皇が十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御[1901(明治34)04/29生]
     神代を除く歴代天皇のなかで最も長寿に
     元号が平成に改まる
     02/24新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬される


1990(平成02)

  11/23辻本正教が反証論文をまとめ解放出版社から『洞村の強制移転』を発行
     1917(大正06)から行なわれた洞部落の移転問題が1968(昭和43)の雑誌『部落』2月号で取り上げられる
     部落問題研究所の鈴木良が「天皇制と部落差別」を発表
     洞部落の移転問題が国家権力の強制的な執行によるものとする通説が生まれる
     のち、「奈良県部落解放研究所紀要」に部落移転問題の根底をくつがえす反証論文が発表される
     2号[1980(昭和55)10/]、5号[1983(昭和58)12/]、6号[1988(昭和63)5/]
     発表したのは移転後の村に生まれ、鈴木の説に疑問をもった辻本正教
     強制執行ではなく陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めたとの事実が明らかにする


1993(平成05)

  04/01足尾赤澤地区の金田座が解体される
     開設は1903(明治36)




1841(天保12)〜

  トップページ
  「日本社会運動史年表」は編集著作権で保護されます
   (c) 2011-2015 makuramoto all right reserved.