日本社会運動史年表  足尾鉱毒事件略年表

群馬県が廃娼県になるまでの年表
 73事象
 2015(平成27)01/30(金)初回立上
 2015(平成27)06/06(土)最終更新
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1876(明治09)

  01/01土群馬県令の楫取素彦は県下に散財していた女郎屋を整理、13か所に公娼を許す
     深谷、本庄、玉村、新町、倉賀野、板鼻、安中、坂本、妙義、伊香保、一の宮、川俣、木崎
     08/21月第2次府県統合の第2回実施で深谷と本庄が埼玉県に

1878(明治11)

  安中の漢学社真下珂十郎により請願がされる
     青年の道徳性を純潔に保つには遊廓があってはならないという倫理上の立場から
     【群馬県の漢学者馬島小十郎が廃娼問題を県会に提出する】
     県会は請願を採択
  新島襄が碓氷郡安中町にキリスト教を伝道、風教廓清のため声をあげる
     03/31日夜、有田屋当主湯浅治郎の私設図書館「便覧舎」にて地元の求道者30人が集まる
     男16人、女14人が新島襄から洗礼を受ける
     のち新島に帰依する者が志を受けて公娼制度に対し反対運動を起こす
     のち世論は農村の衰退防御を最久策として公娼廃止を熱望する声が昂まり両者相合して世論を喚起
     廃娼運動は足並みを揃え徐々に具体化
  県会議長宮崎有敬が県会の決議を以て第2次群馬県初代県令の揖取素彦に対し貸座敷取締の建議書を提出する
      一、貸座敷に於て酒淆を供せさること
      二、貸座敷に芸妓を招かさること
      三、貸座敷は娼妓をして来客に接せしめ其の性欲を遂けしむるに止むること
      四、芸妓と娼妓との区別を明かにして営業せしむること
     建議書は当局の取締資料となるのみで、廃娼の具体的運動としてはわずかその緒を開いたに過ぎず
     のちそれでも公娼廃止の運動はますます激しくなっていく
  「貸座敷ノ業ヲ更ムルノ建議」案を県令楫取素彦に提出する
     「夫レ貸座敷ノ業タルヤ、男子ヲシテ娼妓ニ接シ、其情欲ヲ遂ゲシムルニ在ルノミ、
     然リ而シテ自今其行ハルル処ヲ見ルニ、之ヲ助クルニ芸妓ヲ以テシ、之ヲ娯マシムルニ酒宴ヲ以テシ、
     唯人心ヲシテ益々淫蕩ニ赴カシムルノミナラス(中略)、貸座敷タルモノハ能ク其本分ヲ守リ、
     爾来娼妓ヲシテ来客ニ接シ、其情欲ヲ達スルノミニ止メ、酒肴ヲ売リ芸妓ヲ呼ヒ歌舞管絃セシムルヲ禁シ、
     区域ヲ判別シテ営業セシメ度奉存候」
     貸座敷で歌舞管弦をしての酒肴は人心を淫蕩し無益の浪費させるから禁じる
     「情欲を達するのみ」にせよとする

1879(明治12)

  群馬県会が開設されると安中教会の湯浅治郎ほか、多くのクリスチャン議員が誕生する
     【湯浅次郎が群馬県会議員になるのは1880(明治13)?】
     安中教会の宮口二郎、甘楽教会の斎藤寿雄、吾妻教会の山口六平、
     伊勢崎教会の野村藤太、新川地方教会の竹内鼎三、水沼教会の星野耕作ら
     のち初期県会はクリスチャン議員が主導することになる。群馬県の初期県政は楫取県令とクリスチャン議員が主役に
     第2代議長が湯浅治郎、第4代議長が宮口二郎、第5代議長が野村藤太
     第2代副議長が星野耕作、第3代、5代副議長が宮口二郎、第6代副議長が竹内鼎三

1880(明治13)

  12/03金揖取素彦県令に県会議員全員連署を以て公娼廃止の核に触れる建議をなす
     【クリスチャン議員を中心とした35人の県会議員。同年の議員数45人のうち8割近くの議員が賛同者に】
     「娼妓廃絶ノ請願書」を楫取県令に提出する
      一、人間百般、悪事皆此の娼妓貸座敷に根源的せさるはなし
      二、群馬県下の娼妓貸座敷は隣県に比しその数甚だ多し
      三、娼妓は賎醜の業なり故に娼妓賦金は地方税目中に列せす特に法度外となす
     楫取県令は請願を各課に回覧、意見を求める
     のち県会議員提出の建議書に対し県当局は重大な案件とする
     各種調査をすすめ官民の各方面より意見を徴する
     県会議員のうち常置委員に対して諮問を発し、「断然廃娼すべきである」との回答を得る
      一、娼妓を15か月間内に廃業せしむることの可否
      二、廃業後生計に差支える者は更に一廓を設け営業せしむることの可否
      三、廃娼後の密売●【さんずいに謠の旁】取締方法如何
     のち県当局の諮問に対して答申が3回にわたり行なわれる
     いずれも良案なく県当局もいずれの処置をとる方策なく決めかねる
     のちそれでも県内の世論は高潮するばかり
     【いつの時点でか「急に廃止して密売淫の弊害が増加し黴毒が蔓延する恐れあり、のち漸次廃止するのがよいのでは」】

1882(明治15)

  02/17金伊香保の木暮篤太郎が内務省衛生局局長の長与専斎あてに建議案を提出する
     著名な温泉地の伊香保に遊ぶ多く知名人や外人は貸座敷の存在を嫌う傾向にあるというもの
     内務省衛生局局長の長与専斎は楫取県令に「妓楼ヲ廃スルハ衛生上風俗上ニ於テ有益ノ儀ニ有之」と勧告する
  03/17金宮崎有敬県会議長は群馬県通常県会に県民多数の世論として娼妓廃止断行の建議案を上程
     キリスト教徒で安中の県会議員の湯浅次郎や大館嘉門らが中心に立つ
     群馬県会は「娼妓廃絶ノ建議」を45人中2人を除く全議員の賛成を得て可決する。これを県令の揖取素彦に建議
     正式に宮崎県会議長の名のもと楫取県令に実行を迫る
  03/18土貸座敷業者が前日の県会議事に驚き前橋に集合
     藤野屋旅館に宿泊する廃娼運動の先鋒で県議の湯浅治郎に迫る
     40、50人が一団となって押しかけ板鼻宿、坂本宿の者を先導に肉迫する【30余人】
     「今回の県会は娼妓及び貸座敷を廃止したる由なるか甚不都合である娼妓が悪ければ買わねばよい
      我々は永年此業を営みいたるを突然廃止されては生活の途を失い死活問題なれば是非此決議を取り消されたし」
     「湯浅を引きずりだし擲れ殺せ」など騒擾を極めるも警察官の出張により事なきをえる
  04/13木揖取素彦県令は内外の情勢を調査、まとめてひとつの選択を決意
     まずは温泉地伊香保村を第1の執行地に選び令達を発する
     「其村貸座敷及娼妓稼ノ儀今般詮議ノ次第有之来ル十六年六月ヲ限リ廃止候条此旨営業人共ヘ可相達此旨相達候事
     但貸座敷賦金ニ限リ本月ヨリ廃期迄免除候事」
     1883(明治16)6月を以て廃止とする
     貸座敷の賦金は1883(明治15)4月より廃期まで免除とする
  04/14金群馬県令の揖取素彦が当業者は漸次他の業に就くまでの猶予を与える布達令を発する
     【楫取県令が県下に廃娼令を布達する?】
     「管下貸座敷営業及娼妓稼ノ儀今般詮議之次第モ有之ニ付来明治二十一年六月ヲ限リ廃止候条此旨布達候事
     但シ貸座敷所在外ノ地ハ勿論従来所在地ト雖モ自今新タニ貸座敷開店ハ不相成候事
     賦金ニ限リ本月ヨリ廃期迄免除候事」
     甲第27号をもって21年6月を限りに廃止せよというもの
     6年の間に貸座敷業すべての転廃業と新規の営業を認めないとする完全な廃娼令
     県下全体の6年に対し伊香保温泉の猶予1年は2月17日(金)の建議案による
     のち県令の布達をめぐり、実施反対の業者側と廃止賛成の廃娼運動側が激しく対立することに
  県下の貸座敷業者は狼狽し板鼻宿の開化楼に会合
     のち東京上野公園下の料理店島八十に会する
     吉原の角海老、洲崎の大八幡楼主を顧問として各方面に運動を開始
     のち嘆願書を提出し、また高官を訪問し陳情をなすも効果なく
     失望して帰国の途に

1883(明治16)

  湯浅次郎が群馬県会議長に就任する
     のち湯浅は廃娼運動の先導役となる
  伊香保村の廃娼へ向けての状況は温泉地という関係上、ほかに転業する困難もなく進む
     06/貸座敷はことごとく他に転業
     まったくの廃娼地となり温泉の神秘的気分が味わえるようになる

1884(明治17)

  07/30水初代県令の揖取素彦が元老院議官に転任するため県令を退官する
  07/31木第2次群馬県第2代県知事として佐藤与三が就任する

1887(明治20)

  01/05水前橋桑町の住吉屋にて上毛青年会が結成される
     幹事は竹越与三郎、高津仲次郎、石嶋良三郎の3人
     1889(明治22)01/月刊『上毛青年会雑誌』を創刊する
     のち『上毛青年会雑誌』が多くの読者を獲得することに
     のち会員のなかには多くのキリスト教信者や知名の士がみられる
     のち青年会に刺激されて県下各地に青年会が結成される
     1889(明治22)07/14日前橋の本町三眺楼で県下各地の青年会が合併される
     県下の青年は公娼廃止運動を県会議員だけに任せるのでは不安と「上毛青年連合会」を設立する
     17の青年会と1千人近い会員で形成される
  管内全般の廃娼期日が迫るにつれ営業者は猛烈な運動を開始する
     1888(明治21)公娼廃止期限の6月が迫るにつれ業者による猛烈な存置運動がおこる
     上野公園下の料理店烏八十を運動本部に吉原の角海老、洲崎の大八幡楼主の指揮で運動をなす
     また一部の県民は運動に付和して世論はさらに沸騰
     営業者は正業につく途なく、活路を奪われる悲境に陥る

1888(明治21)

  公娼廃止期限の6月が迫るにつれ業者による猛烈な存置運動がおこる
     上野公園下の料理店烏八十を運動本部に吉原の角海老、洲崎の大八幡楼主の指揮で運動をなす
     また一部の県民は運動に付和して世論はさらに沸騰
     営業者は正業につく途なく、活路を奪われる悲境に陥る
  05/26土楫取県令後任の第2次群馬県第2代県知事佐藤与三は貸座敷業者の激しい運動に辟易
     廃娼実施の5日前に県令第32号をもって「延期令」をだす
     「明治十五年甲第二十七号布達娼妓貸座敷営業停止ノ儀ハ詮議ノ次第有之当分ノ内延期ス」
     【県会を無視した通達?】
     反対運動を展開する貸座敷業者の圧力におされる形に
     佐藤は遊廓側の運動を是認、公娼廃止の期限を無期延期に。廃娼問題をあいまいな形へ持ち越すことに
     「貸座敷営業廃止の儀は詮議の次第これ有り、当分のうち延期す」
     12/県会議長の湯浅治郎が通常県会で妥協策を示す
     新規に公娼の鑑札を交付しないという議案をだし可決され、騒ぎは収まる
  05/26土佐藤知事が廃娼延期令をだし、県下が廃存娼に2分される
     延期令を以て廃娼令は骨抜きとなり営業者や存置論者は喚呼の声をあげる
     対して、廃娼論者は怒り悔しがり当局の処義を非として喧争を極める
     上毛青年会の青年は論議される客観状勢に刺激される
     会員にはキリスト教信者が多く、賛助者にも廃娼論が多く、廃娼問題に介入することに
  05/佐藤与三知事の施行延期により県会議員や上毛青年会などは全国的支援をえて運動を展開する
  12/通常県会で議長の湯浅治郎は県会の決議を以て新たに娼妓稼鑑札の下付を建議
     また廃止延期の理由と当分の意義の質問が続出、紛擾を極める

1889(明治22)

  01/1887(明治20)1月に結成した上毛青年会が月刊『上毛青年会雑誌』を創刊する
     のち『上毛青年会雑誌』が多くの読者を獲得することに
     のち会員のなかには多くのキリスト教信者や知名の士がみられる
     のち青年会に刺激されて県下各地に青年会が結成される
     07/14日前橋の本町三眺楼で県下各地の青年会が合併される
     県下の青年は公娼廃止運動を県会議員だけに任せるのでは不安と「上毛青年連合会」を設立する
     17の青年会と1千人近い会員で形成される
  07/14日前橋の本町三眺楼で県下各地の青年会が合併される
     県下の青年は公娼廃止運動を県会議員だけに任せるのでは不安と「上毛青年連合会」を設立する
     17の青年会と1千人近い会員で形成される
     母体は1887(明治20)1月に結成した上毛青年会
  10/17木高崎の春靄(しゅんあい)館に「上毛青年連合会」ほか県内16の団体の代表が集まる
     廃娼だけの重要会議を開く
     (1)県会及県知事と元老院へ建白書を捧呈
     (2)地方遊説を開始し、遊説委員は建白書捧呈委員で選定兼任すること
     遊説建白書委員に石島良三郎、渡辺金次郎が選ばれる
     建白書起草委員に塚越芳太郎、阿波荒二郎、武下久二郎、大竹勝衛が選ばれる
  春靄館での総会を皮きりに県下各地で廃娼演説会が開かれ活動を開始する
     11/16土新田郡尾島村にて演説会、来会者数十人。廃娼の理由を説き、廃娼建白書に調印する者多く
     11/16土北甘楽郡富岡町にて演説会。衛生上娼妓廃すべき痛論に300人余の会衆が拍手
     11/17日佐波郡島村にて演説会、来会者百数十人
     11/19火佐波郡玉村にて演説会。日光例幣使街道の1宿駅で公娼の本拠地、来会者ほとんど満員
     11/20水多野郡多胡村にて演説会
     11/20水群馬郡室田村にて演説会
     11/21木碓氷郡板鼻町にて演説会。廃娼を力説し聴衆は大いに感動する
     11/24日群馬郡岩鼻村にて演説会。演説中、弁士と警部に演題の件で悶着、官憲の妨害にあう
     12/03火佐波郡柴町(名和村)にて演説会、来会者300人余。廃娼万歳を叫び解散など
     12/05木新田郡大館村にて演説会。会場がわき立ち廃娼万歳を叫び解散、寄付金も集まる
     12/15日多野郡万場町にて演説会。遠くは4里遠方から来会
  11/22金通常県会に建白書委員の代表石島良三郎、渡辺金次郎が1400余人の連署の廃娼建議を提出する
     のち県会に廃娼問題が提案され審議され廃存両論が対立
     萩原遼太郎議員が青年運動を正面から取り上げる
    「廃娼は正義の論である。青年すら廃そうというのに老人が存したいとは何事か」
  11/26火前橋柳町の楽水遠に「廃娼懇親会」を開設
     夜、小柳町の愛宕座で上毛青年連合会の廃娼演説会が開かれる
     島田三郎が3千の聴衆を前に熱烈に「存娼の害」を演説。多大の感銘を与える【聴衆1200〜1300?】
     島田は英国と仏国との気風を比較、公娼制度とモナコ国の賭博公許を同一と論じる
     熱心に青年の運動を支持する
  11/27水「上毛青年連合会」が総会を開く
     県知事の認可あるまでは運動の継続を確認する
     11/29金上毛青年連合会が1554人の連署の建白書を佐藤知事に提出する
  11/28木通常県会にて再び廃娼の建議(廃娼案「娼妓及貸座敷営業廃止ノ建議」)を可決する
     【県会は佐藤知事の対応にはひるまず、逆に廃娼延期取消の建議などを可決する?】
     県収入予算中娼妓賦金と県支出予算中検黴費の両目を削り「営業者が之を自弁する方法を為す」とする
     県内985人の信徒がつくキリスト教婦人会や上毛青年連合会を先頭に、県下22の連合体が県会の決議を支持
  12/10火群馬県高崎町で各遊廓営業者が存娼のための会合を開く
  通常県会終了後世論はますます高騰し当局の方針不確実を叫ぶ
     庁議も次第に白熱化

1890(明治23)

  03/03月上毛青年連合会『廃娼論壇第一先登 上毛青年の初陣』を発行。定価8銭
     群馬県下のキリスト者、青年団を中心として政党、信教、年令をこえた団結が廃娼運動の基本と記す
     編・下山勇司、著・塚越芳太郎、序・巌本善治、蘇峰生、下山勇司、述・島田三郎、跋・春野初花
     001 公娼の害を論す(島田三郎)、017 非売淫公許論、044 県会へ提出せし建議書の大要
     048 廃娼運動概況、072 群馬県貸座敷営業者資産調書、081 群馬県会議事録、136 廃娼認可、
     139 収支決算報告
  03/31月佐藤与三県知事が妥協案として延期令に反する一部の廃娼令「群馬県令第21号」をだす
     「明治二十一年五月群馬県令第三十二号ヲ以テ貸座敷営業及娼妓稼廃止ノ儀ハ
     当分ノ内延期スヘキ旨布令置候処詮議ノ次第有之左ノ場所ハ本年九月三十日限廃止ス
     但貸座敷営業者ノ内他ノ営業ニ就クコト能ハサル事情アルモノニシテ
     貸座敷所在地ニ転居継続ヲ為サントスルモノニ限リ特ニ免許ヲ与フルコトアルヘシ
      一、多野郡新町【緑野郡新町?】
      一、碓氷郡安中町
      一、北甘楽郡妙義町
     県内貸座敷所在地10か所のうち3か所を9月30日(火)限を以て廃止にするもの
  03/31月さらに昨年11月に削除した貸座敷娼妓賦金(歳入賦金)の徴収規則を「群馬県令第22号」を以て廃止する
  07/10木廃娼令を発布した3か所の営業者が嘆願書を佐藤知事に提出
  廃娼指定地の営業者は但書の理由ありと、一の宮、坂本、板倉、倉賀野などに借家して転居営業を出願
     のち資産状態を詳細に調査、貸借関係まで詮索。結果、ことごとく却下される
     娼妓は少数の転業を除き、多くは見受けや廃業、住み替えをなすことに
  09/30火期限最終日、3か所がまったくの廃娼地となる
  11/通常県会にて佐藤与三知事は延期中の7か所も1893(明治26)12月限りに廃止する旨を声明
     一ノ宮町、倉ケ野町、板鼻町、坂本町、玉村町、木崎町、川俣村
  佐藤与三知事は少しの廃止のみに。貸座敷業者のうち転業の不可能な者で、貸座敷の場所へ転居する者は営業を許可する
     のち県会は知事の真意、将来の娼妓の存廃はいかなる方針かを問いただす
     のち県会は知事の失政に辞職勧告を決議し、勧告書を知事に提出、県会は可決
     のち知事はこれを不当として県会を3日間の停会に
  上毛青年連合会の廃娼運動は継続され「廃娼壮年義会」「日本廃娼同盟会」への加盟を協議
     廃娼運動は全国的な広がりをもつことに

  7か所の貸座敷と娼妓の数(明治23年12月)
  貸座敷 娼妓数
●●●●●●●川俣村 5 27
●●●●●●●坂本町 3 20
●●●●●●●木崎町 12 94
●●●●●●●一ノ宮町 8 46
●●●●●●●倉賀野町 5 49
●●●●●●●板鼻町 9 72
●●●●●●●玉村町 6 43
●●●●●●●● 48軒 351人
     貸座敷48軒の客間総数は、2畳3、3畳43、3畳半3、4畳33、4畳半71、5畳6、5畳半3、
     6畳180、6畳半4、7畳5、7畳半18、8畳227、9畳13、9畳半1、10畳28、10畳半4、
     11畳1、11畳半1、12畳11、13畳1、14畳2、15畳2、16畳1、18畳1、20畳2、25畳1

1891(明治24)

  01/第1次山県内閣の内務大臣西郷従道は知事を応援し県会の解散を命令する
  02/新議員により臨時県会が開会する
     のち当局と議員の間は険悪のまま閉会に
  04/群馬県会で議論が激化、たいへんな騒ぎに。知事不信任案を可決すると佐藤与三知事は県会を解散
     のち前議員12、13人が上京し内閣総理大臣に面会を求める
     総代5人が秘書官に事情を詳細に説明し陳情書を提出する
     のち磯部鉱泉で偶然知り合っていた参謀次長の川上操六を訪ね上京の顛末を告げる
     川上の紹介で内務大臣の西郷従道に面会が許され陳情する
     04/09木県会総選挙が行なわれ前議員のうち落選者は2人のみ
     改選された議員は解散前より公娼廃止論者が多くなる
     【ほとんど同じ廃娼派が議席を占めることに?】
     佐藤知事との対立は一層激化
     のち議員5人が上京、川上操六を訪ねる
     川上は「若し議員にして将に開かんとする臨時県会に忍んで平穏無事に終了せば、
     其後五十日を出でずして必ず知事を更迭せしむべし」と懇談する
     のち佐藤地図は臨時県会終了後、免職となる
  04/09木第3代群馬県知事に中村元雄が就任する
     中村は廃娼問題に関して内外の情勢を洞察、大勢すでに廃娼への実現促進を期するものがあると、その必要に迫られるを痛感
  09/12土中村元雄知事が群馬県令第39号「廃娼令」を公布する
     「明治二十一年五月二十六日縣令第三十二號ハ來ル明治二十六年十二月三十一日限リ之ヲ廢止ス」
     佐藤知事が1888(明治21)5月26日(土)に発布した県令第32号「廃娼延期令」を廃止に
     楫取県令が1882(明治15)4月14日(金)に布達した甲第27号の「廃娼令」を復活させる
     1893(明治26)12月31日(日)には群馬県の貸座敷をすべて廃止にするという
  09/〜1893(明治26)12/2年3か月の間の貸座敷営業者による存置運動は実に猛烈
     あらゆる手段を尽くすも効を奏せず

1892(明治25)

  11/新田郡生品村ほか4町7村の有志138人が「存娼陳情書」を群馬県会議長あてに提出、存娼へ撤回しようとする
     のち黙殺される
  12/03土碓氷郡の中心、板鼻町が「存娼建議書」を群馬県会議長あてに提出、存娼へ撤回しようとする
     のち黙殺される
  12/14水新田郡木崎町が「建白書」を群馬県会議長あてに提出、存娼へ撤回しようとする
     のち黙殺される
  明治25年の県会では存娼案は表面化せず

1893(明治26)

  通常県会にて桑原静一を中心として存娼建議が提出されるも、議題にはならず
  12/31日夜、各貸座敷とも不夜城を呈し大いに賑わいをみせる
  12/31日群馬県の残りの貸座敷がことごとく廃業に
     一ノ宮町、倉ケ野町、板鼻町、坂本町、玉村町、木崎町、川俣村

     ★廃娼に際し娼妓の処置調(人)
  一ノ宮町 倉ケ野町 板鼻町 坂本町 玉村町 木崎町 川俣村
見受となりたるもの 15 3 4 4 8 5 - 39
年期明け親元へ還りたるもの 2 15 2 3 2 2 - 26
楼主が前借を棄て親元へ還したるもの - 8 23 2 5 - 4 42
酌婦となりたるもの - - 3 3 - - - 6
芸妓となりたるもの 1 - 1 - - - - 2
料理店の女中となりたるもの - - 3 2 2 - - 7
他府県に住替へたるもの 21 18 18 4 3 1 2 67
死亡したるもの - - - 1 - - - 1
逃走したるもの - - - 1 - - - 1
不明のもの 7 5 18 - 23 86 21 160
46 49 72 20 43 94 27 351人
     ★貸座敷営業者の転業調(軒)
  一ノ宮町 倉ケ野町 板鼻町 坂本町 玉村町 木崎町 川俣村
農業 6 2 1 1 1 2 - 13
宿屋 - 1 - - - 1 - 2
乙種料理店 - 2 1 - - - - 3
飲食店 - - - 1 - 1 1 3
煙草店 - - 1 - - - - 1
米穀肥料店 - - 1 - - 1 - 2
小間物店 - - - - 1 - - 1
売薬店 - - - - 1 - - 1
無職 1 - 1 1 1 5 3 12
他府県に転居貸座敷営業を為したるもの - - 2 - - - - 2
不詳 1 - 2 - 2 2 1 8
8 5 9 3 6 12 5 48軒

     ★営業者の家産廃止当時と現在との貧富の差調(軒)
廃業当時より著しく富裕と為たるもの 6
廃業当時より幾分富裕と為たるもの 5
廃業当時と変わらぬもの 4
廃業当時より貧困となりたるもの 10
廃業当時より著しく貧困となりたるもの 8
不明のもの 15
48軒

1894(明治27)

  12/15土通常県会にて公娼設置派の根強い主張が執拗に繰り返される
     公娼設置の建議書が建議者桑原静一、賛成者笠原太平、中村勘蔵、大井田啓次郎の名で提出される
     「吾群馬県下自今ノ情勢ニ徴シ、民人ノ性格ヲ保チ、其風紀ヲ維持スル上ニ於テ、
     公娼設置ノ必要ヲ認ム。依テ相当取締法ヲ設ケ速ニ実施セラレ度此段建議ス
     但シ設置箇所ハ理事者ニ一任セントス」
  のち、県会で存娼派、廃娼派は互いにしのぎを削ることに
     いざ採決になると退出者が続出し定数を欠き流会となる県会を繰り返すことに

1895(明治28)

  12/28土県会に公娼制設置の必要ありとするの建議案を県会が提出する
     提出者は13番議員の高橋諄三郎
     賛成者は22番議員の小野善兵衛ほか14人
     1897(明治30)12/14火通常県会にて、さきに上申されたままの公娼設置建議の取消決議がなされる
     「明治二十八年十二月二十八日附本県ニ公娼設置ノ必要アリトシテ本県々会ガ提出シタル該建議ハ
     本県ノ公論ニ背及シタル建議ナルニ由リ建議取消ノ決議アランコトヲ此段建議候也」
     のち討論の末、執拗な存娼論者も敗れさる

1897(明治30)

  12/14火通常県会にて、さきに上申されたままの公娼設置建議の取消決議がなされる
     提出者は13番議員の高橋諄三郎
     賛成者は22番議員の小野善兵衛ほか14人
     「明治二十八年十二月二十八日附本県ニ公娼設置ノ必要アリトシテ本県々会ガ提出シタル該建議ハ
     本県ノ公論ニ背及シタル建議ナルニ由リ建議取消ノ決議アランコトヲ此段建議候也」
     のち討論の末、執拗な存娼論者も敗れさる

1898(明治31)

  07/28木新県知事に草刈親明親明が着任する
     草刈知事ははじめから公娼設置の意図を抱きひそかに各方面と画策
     県会の廃娼論が強く意のままにならず、ひとりで起案、決裁、ついには県令を発する
     草刈は赴任すると旧自由党の壮士を官邸によび、勝手気ままに飲食、夜具を借り入れ、衣服を新調する
     のち諸品の支払いに停滞をきたし首がまわらないほどに
     のち草刈知事は借金に追いまくられ存娼業者から賄賂を貪り遊廓設置の県令を発することに
  08/草刈親明知事が仙台に帰郷
     前橋の弁護士中村英嘉は仙台の代議士佐藤琢治を通じて
     「公娼設置を許可すれば相当の謝礼をする」と草刈に伝える
     金銭に窮していた草刈は喜び願ったり叶ったりで公娼設置に踏み切る
     のち草刈、佐藤、中村の3人が上京
     前橋市長、前代議士、前自由党員など、60、70人が集まる
     なかには宮部襄、深井卓爾、伊賀我何人ら群馬事件の自由党決死派の壮士も
     ひとり兆民居士中江篤介の姿も
  公娼設置派が諸氏は演説会や集会を開く
     公娼を設置すれば地価を倍増して住地を繁昌亭させると甘い言葉で誘いだす
     公娼を設置しようと候補地は躍起になる。運動資金が飛び交う
     草刈知事は候補地の運動者から運動資金として1万円の賄賂を得る
  11/18金草刈親明県知事により突然存娼の県令第51号が公布される
     貸座敷営業地ヲ左ノ場所ニ指定ス
     一、群馬県前橋市大字天川村字上藤泉第41番地及二子山前第91番地附近ノ1区画ニ於テ坪数大凡1万5千坪
     一、群馬県高崎町大字下和田村(以下略)坪数大凡1万2千坪
     一、北甘楽郡一の宮(以下略)坪数大凡7千坪
     一、山田郡桐生町大字新宿(以下略)坪数大凡7千坪
     一、邑楽郡舘林町大字谷越(以下略)坪数大凡7千坪
     一、利根郡沼田町字上木田(以下略)坪数大凡7千坪
  草刈親明知事の突然の県令に世論は沸騰し知事の不当を責める声は県内に満ち溢れる
  内務省が新井某係官を群馬県に派遣し調査
     11/24木草刈知事が免官を言い渡される
  11/24木草刈知事が罷免となり新たに古荘嘉門が就任する
     古荘は内務大臣の訓令をうけ前草刈知事が発した公娼設置許可の県令取り消しを県令第52号をもって断行する
     草刈知事による公娼設置事件が終わりを告げる
     【草刈知事の免官を12月22日(木)とする資料もあり。すると11月24日(木)に古荘新知事の県令第52号発令日がおかしくなる】
  11/26土『毎日新聞』草刈知事の不当を責める記事「群馬の魔風」の連載をはじめる
     のち12月20日(火)まで20回の連載を続ける

1905(明治38)

  12/高崎市会にて再び公娼設置問題がしのぎを削ることになる

1907(明治40)

  10/19土前橋の青年社が松宮武雄の『統計上より見たる群馬県の醜業婦』を発行する
     序文は群馬青年会理事長の徳江亥之助が記す。付録に全国娼芸妓統計がつく
     明治30年から39年までの統計を基礎に公娼廃止が芸妓や密娼減少との関連を他県と比較して論じる
     以後の廃娼運動に大きな影響を与える




     《主要参考文献》
     『娼妓解放哀話』沖野岩三郎 中公文庫 昭和57(1982)年12月
     『廃娼運動』竹村民郎 中公新書 昭和57(1982)年9月
     『増補改訂 売娼の社会史』吉見周子 雄山閣 平成04(1992)年5月
     『群馬縣公娼廃止沿革史』狩野平六 群馬県警察部 昭和5(1930)年5月
     『日本廃娼運動史』伊藤秀吉 不二出版 昭和57(1982)年11月復刻
       [昭和6(1931)年7月 廓清會婦人矯風会廢娼聯盟発行]
     『群馬の廃娼 群馬県廃娼30年記念会に際して』
       廓清会群馬支部・基督教婦人矯風会上毛部会 徳江亥之助 大正12(1923)年12月、非売品



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