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其之弐拾陸☆肆
住居表示って?(4/6)
2006年(平成18)2月2日
(6)丁目ってなあに?
街区表示板を見ると一目瞭然ですが、「○丁目」の数字は、町名の付属品として表記されています。
つまり「○丁目」は街区番号や住居番号とは違い、町名に含まれる数字なのです。
では「○丁目」がある理由は……。
たとえば、そのむかし、土地番号で住所を表わしていた時代は、ひとつの広い町でした。
しかし住居表示が実施されると、小さく切り刻まれます。
町名を決める上では、いろいろ審議されるのでしょうが、
場合によって機械的に味も素っ気もない「○丁目」となってしまいます。
たとえば長崎市内の深堀。現在、まだ住居表示は実施されていませんが、なんと1〜6丁目まであるのです。
「○丁目」に分かれる前は広い深堀町、さらに深堀町になる前の大字深堀には、以下のような小字名がありました。
南風泊、鳥越、アナタ浦、野中、本越、城山、清水山、桑木原、戸泊、中尾、舞島、
堂ノ山、永江、亀ケ崎、船津、野牛島、鍛冶町、山口、中尾、古城、川内、東本町、
西本町、西城、寺ノ上、江里、女ノ坂、鎌田、東有海、有海、西股、伊良ノ坂、泊岳……。
これらの字名は、いったい何処へいってしまったのでしょうか?
ただ単純に「○丁目」とするのは簡単なことです。
しかし以前からの字名等をどうにかして残していた方が、歴史も感じられますし、
住んでいる人にとっては、より深く馴染みもあり密着していたのではないでしょうか……。
ただ改めて歴史を掘り返してみると、意外なところに「○丁目」が付いているのを発見しました。
1904年(明治37)11月16日に完成した、長崎第2期港湾改良工事で新しくできた町名の一部には
寿町1〜3丁目、幸町1〜4丁目、末広町1〜3丁目、高砂町1〜4丁目、宝町1〜4丁目、
羽衣町1〜2丁目、福富町1〜4丁目、八千代町1〜3丁目、梁瀬町1〜6丁目、旭町1〜4丁目、
稲佐1〜3丁目、丸尾町1〜3丁目……という町名がありました。
さらに驚くことに、江戸時代後期の江戸の地図を見ると「○丁目」の付いた町名が、当たり前に表記されているのです。
たとえば1850年(嘉永3)の「東都番町大繪圖」には麹町1〜10丁目まであり
1857年(安政4)の「雑司ケ谷音羽繪圖」には音羽1町(ママ)目・2丁目〜9丁目まであります。
また1853年(嘉永6)の「東都淺草繪圖」には田原町1〜3丁目、茅町1〜2丁目、福井町1〜3丁目があり
さらに1854年(嘉永7)の「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」には
小傳町1〜3丁目、小網町1〜3丁目、本石町1〜4丁目、馬喰町1〜4丁目、豊島町1〜3丁目……など。
たくさんの「○丁目」が見られます。そう「○丁目」は江戸時代から存在していたのです。
どうやら近年になって、住居表示を実施し安易に住所を簡素化するためだけに付けたわけではないようです。
ちなみに『丁』の文字には「あたる」「であう」……など、いろいろな意味がありますが、
その他には「町の略字」「まち」「街区の単位」という意味も含まれています。
さらなる謎が出てきそうですが、ここで深追いはしないでおきます。
(7)町界町名の整理
それでは、ひとつひとつの町を成り立たせるには、いったいどのような基準や規則があるのでしょう?
町を作るとき、各市町村でその規模や命名方法など、元になる基準がそれぞれに設けられています。
長崎市の場合、ひとつの町の規模や大きさは、工業地、商業地、住宅地によって違います。
原則として次のようになります。
工業地は9万〜16万平方メートル(約2万7000〜4万5000坪)。
商業地は200〜300世帯として3万〜6万平方メートル(約9000〜1万8000坪)。
住宅地は200〜700世帯として6万〜16万平方メートル(約1万8000〜4万9000坪)。
なんと、ひとつひとつの町の広さの基準が決められているのです。
ちなみにこの数値は、その時々によって変化もするそうです。
そして、さらに重要な問題。はたして町の名はどのように定められているのでしょう?
特に長崎は歴史的に見ても特殊な街であり、いろいろな問題が絡んでいるようにも思われますが……。
1・従来の町の名称、またその地域における歴史、伝統、文化の上で
由緒ある名称など、親しみ深く語調のよいものを選択する。
2・当用漢字を用いるなど、読みやすく簡明なものとする。
3・同一名称、または紛らわしい類似の名称が生じないようにする。
4・町の名称として、丁目をつける場合においては丁目の数は、概ね4〜5丁目とする。
適当に範囲が決められ、勝手気ままに町名が付けられているわけではなく、一応の設定基準が設けられていたのです。
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