堀直子 エッセイ「いつも、そばにいるよ」

         34 グリーンアイ

           私がそのネコに出会ったのは、新大工へおつかいにいった帰りだった。
           ネコは春の雨で水かさの多くなった川のほとりをゆっくり歩いていた。
           よく見るとネコの左の後ろ足は、地面に着く部分が、グローブみたいにふくれている。
           むしりとられた毛。
           血のにじんだ皮膚。ぱんぱんに張った指は、
           不自然に太くつっぱって、ぜんぜん力がはいらない。車にひかれたのだろうか?

           それでもネコはびっこをひきながら、橋の下に消えた。

           4、5日後、川べりをとおりかかったら、枯れた草むらにうずくまるようにしてネコがいた。
           あのときのネコだ。ネコはぐったりとして動かない。
           ネコのまわりだけ、日がかげったようにくすんで見える。
           死ぬのだろうか?ネコの左の足指は、紫色の皮膚が透けて見え、血の色が痛々しい。

           私は買い物袋のなかから、さっき買ったばかりのチーズパンをちぎって、ネコの口に持っていった。
           ネコはむくっと首をあげ私を見た。私はいっしゅんあっけにとられた。
           なんてきれいな緑の目をしているのだろう。
           けがれも憎しみも恐れもない緑の目は、日の光に反射して深い湖のように透き通った。

           ネコは桃色の口をあけ、針のようにとがった小さな歯で、私の指にのっかったチーズパンを食べた。
           かっかっと奥歯でかみしめるように。思ったより力がこもっている。
           私はもっとこまかくちぎってやった。
           ネコは喉のおくでくわっと鳴き、私の指をなめるように赤い舌をひらめかした。
           まっしろな針の牙は、私の指をやさしくかすめていく。

           もっともっと食べな。私はさらにパンをひきちぎり…ネコはからだを起こし、無心に食いつつづける。
           二つのチーズパンはすでになくなり、ネコは緑の目をまっすぐこっちへ向けて、はげしく鳴いた。
           私はネコの鳴き声の意味がわからない。
           もっと、ほしいの?おなかが、すいているの?
           それとも、足が痛いの?なにを、いいたいの?

           ともあれ、この食欲だったら、だいじょうぶだ。
           「ごめん、もう、いかなきゃ」そう思って立ち去ろうとしたら、ネコが私を見上げた。
           緑の目がちかっと光った。

           歩き出した私の耳にふたたびネコの声が届いた。

           だいじょうぶ、その食欲ならば。
           私は自分自身にいいきかせて、川べりを歩きつづける。
           チーズパンのにおいがてのひらにまだ残っている。


          ★その35★


          ★「いつも、そばにいるよ」表紙★