堀直子 エッセイ「いつも、そばにいるよ」

         28 空のおしっこ

           長崎にきてから、4回めの引っ越し。
           ライオンは、引っ越し先に慣れてくれるかな?
           こんどはいままでと違ってマンションの8階だから、戸惑うんじゃないかな?

           引っ越しの日は朝から雪が舞う寒い日で、私はライオンを抱っこしながら、
           そのことばかりが気になっていた。
           なんといってもライオンは16歳のおじいちゃん犬だ。

           案の定、おおかたの荷物が部屋におさまって、
           近くの公園に散歩にいっても、ライオンはおしっこをしようとしなかった。
           私はライオンの目を見ながら、
           「ライオン、引っ越ししたんだよ。ここで、おしっこしようね」
           何度そういっただろうか。
           だけど、ライオンは木々の間をとことこと歩き回るだけで、腰を落とそうともしない。
           膀胱はぱんぱんにふくらんでいる。私はあせる。
           おしっこができなければ、尿毒症になるかもしれない。

           私は寒さでふるえるライオンを抱いて、いったん8階にもどった。
           それから、思いきって、家のベランダにライオンを連れて出た。
           前に獣医さんからきいたおしっこ出しを実践するべく、
           ライオンのはりきった膀胱をぎゅっと指で押す。
           2、3度、力をこめて。すると、ぴゅーっとおしっこが飛び出てきた。

           それからである。
           私はライオンのおしっこの時間になるとベランダにいって出すようにした。
           ベランダに作ったライオンのおトイレは、空しか見えない。
           だれもじゃましない。鳥が手すりすれすれに飛んでくる。
           ライオンのおしっこはぴゅーと虹のように飛び出て光る。

           引っ越しの日から5日ぐらいたっただろうか?
           ライオンを抱っこして、ベランダに出ると、
           ライオンは自分からとことこおトイレにいって、腰をちょんと落としたではないか。
           私の前で、自分の力でおしっこを出したのだ。
           しゅっと渦巻いて飛び出るおしっこは、うれしい涙みたいだった。
           ほかほかあたたかい命だった。

           「ライオン、おりこうさんだね」
           空のおしっこを覚えたライオンを、私は何度も抱き締めて、遠い山を見る。
           あっちは、きっと海だよ、ライオン。
           ライオンがふわっとあくびをして、ビルから吹いてくる風はほこりっぽい春の匂いがする。


          ★その29★


          ★「いつも、そばにいるよ」表紙★