堀直子 エッセイ「いつも、そばにいるよ」

         18 勘違い

           スカーレット- オハラはいやな女だ。
           それは「堀さんって、いやな女ね」といわれるのと同じ意味合がある。
           むろんちっともうれしいほめことばではないが、
           そういわれることでkind of prideを感じることも事実なのだ。
           そう、スカーレットは自由に生きる女、
           つまりは炎のように熱く自分の心のままに、誰の忠告も介せず、
           常識なんか突き崩し我が道を行くという、
           私にとっては、尊敬の意味をこめて、あえて「いやな女」といったのだ。
           きっと私の場合もそうだろうと、たかを括る。
           「堀さんって、いやな女ね」といわれるたびに、
           なにやらおかしな快感が生まれてくるのもふしぎである。
           人をおとしめるふうにいって、実は、あなたたち、私のこと、うらやましさでいっぱいなのね?って。
           私もスカーレットのように生きているから。生きたいから。

           第1巻、第2巻と読み進めていくうちに、私は偉大なまちがいをしていたことに気がついた。
           「風と共に去りぬ」はスカレットという女の生き方を描いた小説だと思っていたことに。
           だって、ここまで描かれているスカーレットはまさに夢見る少女なのである。
           スカーレットは子どもまで生んでいるくせに、少女なのである。
           女でないところが、この小説をある意味で児童文学と共通させている。
           メラニーとのやりとりは、まさに少女小説の雰囲気さえあり、
           少女ならではの心理が面白く読み取れる。私の大好きな場面でもある。

           タールトン夫人や父も、レッドパトラーにいたっても、ユーモアたっぷり、本音たっぷり、
           「くそばばあ!」「死ね!」と叫ぶスカーレットの意地の悪さ、
           アシュレに恋する乙女の要素も、
           少女だからこそ感じ得ることと思えば、ページをめくるたびに、笑いさえこぼれ、
           この本は、もしかしたら、私の描きたかったすぐれた児童文学ではなかったかと錯角していまう。

           スカーレットが女としての成熟を見せた時に、この小説はおわる、児童文学として、私の中で。


          ★その19★


          ★「いつも、そばにいるよ」表紙★