2012(平成24)02/21作成
創刊の辞と廃刊の辞
明治30年代から40年代にかけて、いくつもの社会主義系の新聞や雑誌が発行されました。
そのなかから「平民新聞(週刊)」「直言」「新紀元」「光」「社会主義研究」「世界婦人」
「平民新聞(日刊)」「大阪平民新聞(のち日本平民新聞)」「社会新聞」「東京社会新聞」
の10媒体に限って創刊、廃刊に対する編集部からの言葉と記事を抜きだしてみました。
各媒体の同志たちは何を考え、何を思い創刊や終刊に携わってきたのでしょうか。
切なる思い、希望、挫折、事後処理など個々のさまざまな胸中が見え隠れしています。
媒体の始まり方はどれも同じく、夢や希望をふくらませて志をもち意気揚々とはじまります。
それぞれが、どのような主義主張をもって発刊に至ったのか興味深いところです。
また終わり方には2種類あります。自ら廃刊にするものと、結果的に終刊になったものです。
まず、この先は、立ちいかないと自ら廃刊にするもの。
そして続けようとしていたのに、告知することなく出せなくなり結果的に終刊になったもの、です。
この場合、終刊の辞はありません。
ここに列挙する記事のほとんどが、資料の記述をもとに縮刷版より写しとっています。
もしかしたら実際には、もっと多くの創刊や廃刊に関する記述が埋もれているかもしれません。
新たな発見があるときには、そのつど追加や修正を加えていきます。
〈おことわり〉
◎……記事あり、×……記事なし、△……順次アップ予定
段組みは記事と同じです
記事自体、文字を大きくしていたり括弧や句読点で字間をツメて、段末が揃わない箇所もあります
ルビ、傍点は省いております。また隅付き括弧 (【 】) には誤記や注釈などを加えています
★……解読不明文字(印刷むら、変体仮名)。判読可能な変体仮名は開いています
★【括弧書き】……環境依存文字。旧漢字でも一部については新しい表記にしています
〈データの作り方〉
まず、もととなる媒体の縮刷版のコピーをもとにテキストデータにおこします
そしてJPEGデータにするためテキストデータをイラストレータのデータに移します
そのときにイラストレータデータと縮刷版コピーを照らし合わせ見直し校正をしています
それでもまだ間違いがあるかもしれません
〈主要参考文献〉
「明治社会主義史料集 第1集『直言』」 昭和35(1960)年10月
「明治社会主義史料集 第2集『光』」 昭和35(1960)年12月
「明治社会主義史料集 第3集『新紀元』」 昭和36(1961)年3月
「明治社会主義史料集 第4集『日刊平民新聞』」 昭和36(1961)年10月
「明治社会主義史料集 第5集『大阪平民新聞』」 昭和37(1962)年1月
「明治社会主義史料集 第6集『週刊社会新聞 第1』」 昭和37(1962)年3月
「明治社会主義史料集 第7集『週刊社会新聞 第2』」 昭和37(1962)年4月
「明治社会主義史料集 第8集『東京社会新聞・革命評論』」 昭和37(1962)年5月
「明治社会主義史料集 別冊第1『世界婦人』」 昭和36(1961)年6月
「明治社会主義史料集 別冊第3『週刊平民新聞 第1』」 昭和37(1962)年10月
「明治社会主義史料集 別冊第4『週刊平民新聞 第2』」 昭和37(1962)年11月
「明治社会主義史料集 補遺第1『社会主義研究』」 昭和38(1963)年3月
編著者・労働運動史研究会 発行所・明治文献資料刊行会
「平民新聞論説集」 林茂・西田長寿 岩波書店(文庫) 昭和36(1961)年1月
▼『平民新聞(週刊)』
発刊1号 明治36(1903)年11月15日
◎
本紙1ページ「宣言」
◎
本紙1ページ「発刊の序」
幸徳秋水、堺利彦は非戦論の立場にある朝報社に勤めていました。
でも朝報社が主戦論に転じると幸徳、堺らは朝報社を退社。
新たに非戦論を主張する平民社をおこし、『平民新聞』を発行することになりました。
終刊64号 明治38(1905)年1月29日
◎
本紙1ページ「終刊の辞」
掲載したいくつかの記事が秩序壊乱の罪で罰金や禁錮の刑に処せられました。
相次いで発売禁止となり、起訴、罰金、下獄によって存続が危ぶまれます。
さらに財政がひっ迫、経営が困難となり廃刊を決意、自ら終止符を打ちました。
▼『直言』
創刊1号 明治37(1904)年1月5日(第1巻第1号)
終刊14号 明治38(1905)年1月5日(第1巻第14号)
再刊1号 明治38(1905)年2月5日(第2巻第1号)
◎
本紙1ページ「本紙の責任を覚悟」
もともとは消費者組合運動の啓蒙のために組織した直行団の機関紙でした。
それを『平民新聞』の後継紙として再出発させたのです。
『平民新聞』最終号の発行から、はや1週間後の新たなる船出となりました。
終刊32号 明治38(1905)年9月10日(第2巻32号)
×結果的に終刊となり辞はなし
◎
明治38年11月10日『新紀元』第1号51ページ広告「直言解停後・平民社解散」
明治38年9月5日、いわゆる日比谷焼打事件で東京市と府下5郡に戒厳令が布告されました。
9月10日発行『直言』第32号掲載の記事が新聞紙発行停止条例にふれ、無期限の発行禁止処分に。
そして9月26日、『直言』の廃刊と平民社の解散が決定されました。
▼『新紀元』
創刊1号 明治38(1905)年11月10日
△本誌1・2ページ「巻頭の祈」
△本誌18ページ「新紀元の発刊を祝す」内村鑑三
△本誌18ページ「新紀元の新題目」石川三四郎
△本誌40ページ「本誌発行に就ての所感」石川生
平民社が解散すると、木下尚江は石川三四郎とキリスト教社会主義の機関紙発行を計画。
社会主義運動の元老でもあった安部磯雄の賛成参加を得て、発行の運びとなりました。
『新紀元』創刊の10日後に『光』が発刊、社会主義運動は2つの道にわかれることになります。
終刊13号 明治39(1906)年11月10日
△本誌1ページ「終刊の社告」
△本誌2ページ「新紀元の廃刊に就て」安部磯雄
△本誌4ページ「慚謝の辞」木下尚江
△本誌5ページ「廃刊事情」石川三四郎
△本誌6ページ「葬るに臨んで」小野吉勝
△本誌10ページ「新紀元を輓す」赤羽生
△本誌12ページ「終刊と聞きて」柴田三郎
△本誌12ページ「廃刊を聞ける同志より」
戸恒保三(芝)、田中正造(下野)、土屋總藏(信州)、加藤安世(下野)
木下尚江が社会主義と決別することになり『新紀元』の存続が困難になりました。
同じころ平民社復興、日刊『平民新聞』の発行が具体的になりつつあります。
そこで新紀元社も社会主義運動の発展に同調し、『新紀元』を廃刊することにしました。
▼『光』
発刊1号 明治38(1905)年11月20日
◎
本紙1ページ「吾人の抱負(発刊の辞)」
◎
明治38年12月20日『光』第3号4ページ「読者諸君へ御相談」
◎
明治39年11月15日『光』第27号4ページ「回顧一年」山口生
9月26日、西川光次郎が出獄すると山口孤剣とともに社会主義新聞の発行に向けて奔走。
『光』は旧平民社同人のうち科学的社会主義を奉ずる同志で発行した社会主義新聞です。
『平民新聞』『直言』の後継紙として社会主義の中央機関を担い、日本社会党結党後はその機関紙となります。
終刊31号 明治39(1906)年12月25日
◎
本紙1ページ「終刊の辞」
幸徳秋水がアメリカから帰国すると平民社の再興、日刊『平民新聞』発行の気運が高まります。
発行の準備に着手、整うと同時に12月25日発行の第31号を限りに発展的廃刊としました。
同志たちのあいだには、この『光』の廃刊と新しい新聞の発行に明るい希望がありました。
▼『社会主義研究』
発刊1号 明治39(1906)年3月15日
◎
明治39年2月5日『光』第6号4ページ「由分社より」
◎
本誌表紙裏「発刊の辞」
運動の機関紙『光』とは別に堺利彦が由分社を起こし、社会主義の研究のために創刊しました。
日本で初めての社会主義の専門研究誌です。
目的は「社会主義の理論、歴史、運動等につき、稍々精細深遠なる知識を供給せんとする」。
終刊5号 明治39(1906)年8月1日
×自ら廃刊、結果的に終刊となり辞はなし
読者の意識など、当時はまだ専門的な研究誌の継続に必要な下地が確立されていませんでした。
実質的な原因としては、堺が日本社会党の評議員幹事として党の実務に当たるため、
また電車賃値上げ反対運動で同志が検束され、堺が機関紙『光』の編集作業を行なうためです。
▼『世界婦人』
創刊1号 明治40(1907)年1月1日
◎
明治39年11月10日『新紀元』第13号45ページ広告「世界婦人予告」
◎
本紙1ページ「発刊の辞」福田英子
『新紀元』廃刊後、同人の一部は『世界婦人』の創刊に携わりました。
キリスト教社会主義の立場から家族制度を批判し、婦人に自我の確立を呼びかけました。
同志たちは治安警察法第五条の撤廃、婦人の政治的権利獲得運動に尽力しました。
終刊38号 明治42(1909)年7月5日
×結果的に終刊となり辞はなし
明治42年1月、経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更ました。
それでも時事を論じ、そのたびに警視庁から警告を受けました。
7月5日の第38号が安寧秩序紊乱に。この事件で原因で経営が困難となり廃刊となりました。
▼『平民新聞(日刊)』
創刊1号 明治40(1907)年1月15日
◎
本紙1ページ「宣言」
念願の日刊の全国的社会主義新聞の発行です。
『光』と『新紀元』の読者をあわせれば日刊の発行も可能と見込まれ、さらなる発展が予期されました。
毎月曜日の休刊と、1号から2号までの間に4日をおいた他は、休むことなく毎日発行されることなります。
終刊75号 明治40(1907)年4月14日
◎
本紙1ページ「廃刊の辞」
日本社会党の禁止や第2回党大会での内部分裂によって読者を遠ざけてしまいました。
またいくつかの掲載記事が秩序壊乱に問われ起訴、下獄、発行停止に。さらに経営的にも財政難に陥ります。
内外の困難に直面した結果、廃刊を決意。平民社も「埋棺式」を挙行し解散となりました。
▼『大阪平民新聞』
創刊1号 明治40(1907)年6月1日
◎
本紙1ページ「発刊の辞」
◎
本紙9ページ「発刊事情」森近生
◎
本紙11ページ「大阪の平民社(思出草)」高尾生
日刊「平民新聞」の廃刊後、社会主義の機関として『大阪平民新聞』と『社会新聞』が創刊。
森近運平は大阪平民社で社会主義関係書類の卸小売をし、研究会を開いていました。
森近の運動に目をつけた宮武外骨の財政的援助により『大阪平民新聞』が創刊されました。
11月5日発行の第11号から『日本平民新聞』に改題
終刊23号 明治41(1908)年5月5日
×結果的に終刊となり辞はなし
号外 明治41(1908)年5月20日
◎
「暫時休刊す」他
主筆の森近運平は掲載記事の秩序壊乱事件で拘置され、第24号の編集はままなりませんでした。
号外を発行して、大阪本社を東京に移すこと、金曜会と合同することを発表します。
5月22日、大阪社会主義有志の発起で大阪平民社の解散式が行なわれました。
▼『社会新聞』
創刊1号 明治40(1907)年6月2日
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本紙1ページ「創刊の辞」
◎
明治41年3月1日『社会新聞』第37号1ページ「今後の社会新聞」社会新聞社
◎
明治41年3月1日『社会新聞』第37号2ページ「自然の結果のみ」片山潜
◎
明治41年3月1日『社会新聞』第37号2ページ「嗚呼主義の人」白鳥健
はじめは社会主義中央機関誌として旧『平民新聞』の幸徳秋水や堺利彦らも寄稿していました。
次第に議会政策派の色が濃くなり、幸徳、堺ら直接行動派と対立を深め、袂をわけることになります。
さらに西川光次郎らが去り、また同志田添鉄二の死によって規模を縮小せざるを得なくなります。
それでも新聞の発行や全国遊説、普選運動など精力的に活動を進めました。
終刊80号 明治44(1911)年8月3日
◎
本紙3ページ「編輯便り」
第76号に幸徳秋水の遺稿「基督抹殺論」の広告を掲載しました。
その広告内容で起訴され控訴破棄となり罰金200円に処せられます。
でも納付期限内に調達ができずに『社会新聞』の保証金は没収、第80号で廃刊となりました。
▼『東京社会新聞』
創刊1号 明治41(1908)年3月15日
×内紛のなかで創刊
◎
本紙2ページ「君は果して喧嘩師か」木下尚江
◎
本紙5ページ「告白」西川生
編集経営上の内紛と思想上の対立から片山潜とわかれた西川光次郎、赤羽一らにより創刊。
第1号タイトル下には「社会主義を経とし侠骨を緯とす」が掲げられました。
同じ第1号には赤羽生の長文「片山潜氏除名の顛末」と西川生の「告白」が掲載されます。
廃刊15号 明治41(1908)年9月15日
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本紙1ページ「終刊之辞」
◎
本紙3ページ「廃刊を祝す」木下尚江
第13号、第14号が発売頒布禁止の処分に、8月21日には発行禁止の処分を受けました。
赤羽一らは廃刊を決し、9月15日発売の第15号に「終刊の辞」を掲げ、自ら廃刊とします。
10月8日には渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれました。
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