2013(平成25)07/09作成
2013(平成25)07/26修正
日露講和余話「歴史の隙間を埋めてみる」
発行停止処分をうけた新聞と雑誌
明治時代の、初期社会主義運動の流れを追っています。
ちょうど、HP「初期社会主義年表」を作りはじめ、一段落した頃のことです。
埼玉県立浦和図書館で「明治ニュース事典」を見つけました。
年代順に全8巻、事件事故などの新聞記事を、テーマごとにまとめています。
すべての記事が現代語訳で読めます。
第7巻が[明治36年−明治40年]になっていました。
その633ページに「発行停止」の項目があり、一覧が載っています。
日露戦争直後の緊急勅令により、発行停止処分を受けた新聞、雑誌の一覧です。
処分が執行された全39回を、警視総監と内務大臣にわけ、
それぞれの題号、処分年月日、停止日数が記されています。
その処分のうち、5つの停止日数が空欄になっていました。
そこで空欄を埋めるべく、県立浦和図書館のレファレンスを訪ねました。
一覧表の出典元には
《明治38年12月1日 東京朝日》
(633ページ)とありました。
実際の「東京朝日新聞」をみます。
県立浦和図書館では「東京朝日新聞」を、ロール式のマイクロフィルムで所蔵していました。
でも、11月1日付の新聞に記事は見当たりません。
探してもらいました。
結果、12月1日発行の3ページにあります。
まずもって、出典明記の違いを知らされました。
そう、11月1日といえば、まだ勅令は発効継続中で廃止前のはず。
「明治ニュース事典 第7巻」の表と、12月1日の「東京朝日新聞」の記事を見くらべます。
同じ5個所が空欄になっていました。
「明治ニュース事典 第7巻」が、記入もれをしていたのではありません。
出典元の「東京朝日新聞」からして空欄だったのです。
明治38年12月1日付「東京朝日新聞」3ページの一覧をもとに組み立ててみました。
新聞では、警視総監と内務大臣の処分に分けて、時間軸にならんでいます。
ここでは警視総監と内務大臣を一緒くたにして、処分月日の時間軸にならべ直しました。
【発行停止をうけた新聞・雑誌(1)】
◇
明治38(1905)年9月5日、アメリカのポーツマスで、
日本の全権小村寿太郎とロシアの全権ウイッテとの間に、日露講和条約の調印が交わされました。
2国の仲介にあたったのは、アメリカ第26代大統領のセオドア・ルーズベルトです。
日本は戦争に勝利しました。
でも、みあった代償ではないと、講和の内容に憤慨した一部の国民は、全国で反対ののろしをあげます。
講和条約を屈辱条約として、政府への怒りをあらわにしました。
9月1日付「東京朝日新聞」の2ページ、「講和條件に關する投書」のひとつです。
《還しつちまへ 熊公
何だ馬鹿馬鹿しい、樺太が半分になつた上
に償金が一文も取れ子ーといふぢや子ーか
己ら昨晩號外を見てから腹が立つて忌々し
くつて夜の目も合はなかつた、一體政府は
何でアンナに弱かつたのか己らア薩張り合
點が行か子ー、アンナ事なら己らア稼人の
倅を二人迄戰爭に遣つて殺してしまうんぢ
や子ーンだ、糞ツ、アレ程讓る位なら樺太
なんざア丸で貰は子ー方が餘程氣が利いて
居らア還しツちまへ還しツちまへケチな捕虜の食料
にア熨斗でも付けて返上だ、ヘン》
。
国民の本音、あらゆる国民の代弁のようにも思えます。
調印の当日、9月5日。
講和問題同志連合会は、講和条約反対国民大会の開催を東京の日比谷公園で予定していました。
でも治安警察法により禁止。
怒った群衆は、会場となった公園になだれ込み、大会を強行しました。
午後1時35分、閉会ののち、群衆は演説会場となる八丁堀の新富座へむかいます。
その途中、ついに暴徒化。
政府の御用新聞といわれた徳富蘇峰の「国民新聞」や警察署、交番、電車などを襲撃しました。
国民新聞社は京橋区日吉町4番地あたり、現在の中央気銀座八丁目5番あたりかと思われます。
また新富座は京橋区新富町六丁目36、37番地、現在の中央区新富二丁目6番1号になります。
市街地は無警察状態になります。
暴徒化した群衆の事態は収まりません。
そこで政府は翌6日の夜11時、官報号外をもって2つの緊急勅令を発しました。
ひとつは戒厳令。もうひとつは、新聞雑誌の取締令です。
まずは戒厳令のお話から。
この場合の戒厳は、臨戦地境戦時にあって警備を要する軍事戒厳ではありません。
騒乱鎮圧を目的とした国内治安のための行政戒厳です。
行政戒厳は明治政府初の試みでした。
勅令205号「東京府内一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」と、
207号「勅令第二百五号ノ施行ニ関スル件」を同日に公布、即日施行されました。
朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲
法第八條ニ依リ東京府内一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定
ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
御 名 御 璽
明治三十八年九月六日
内閣總理大臣兼外務大臣 伯爵桂 太郎
(以下副署略、御名御璽は天皇の署名捺印)
勅令第二百五號
東京府内一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒嚴令中必要ノ規定ヲ
適用スルコトヲ得
本令ハ發布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
(「官報号外」 明治38(1905)年9月6日)
朕明治三十八年勅令第二百五號ノ施行ニ關スル件ヲ裁可シ
茲ニ之ヲ公布セシム
御 名 御 璽
明治三十八年九月六日
内閣總理大臣兼外務大臣 伯爵桂 太郎
(以下副署略、御名御璽は天皇の署名捺印)
勅令第二百七號
明治三十八年勅令第二百五號ニ依リ左ノ區域ニ戒嚴令第九條及第十四條ノ規
定ヲ適用ス但シ同條中司令官ノ職務ハ東京衞戌總督之ヲ行フ
東京市 荏原郡 豐多摩郡 北豐島郡 南足立郡 南葛飾郡
付 則
本令ハ發布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
(「官報号外」 明治38(1905)年9月6日)
戒厳令の及んだ地域1市5郡は、ほぼ現在の東京23区内全域に相当します。
戒厳司令官の職務は、東京衛戌総督に属しました。
東京衛戌総督は、東京に駐屯する陸軍の部隊全体の責任者のことです。
このときの総督は、陸軍大将の佐久間左馬太でした。
そして、もうひとつの緊急勅令は新聞雑誌取締令。
講和に反対し政府を非難、さらに「暴動ヲ教唆シ犯罪ヲ煽動スルノ虞(おそれ)アル」
記事を掲載した新聞や雑誌は、相次いで発行停止の処分を受けました。
内務大臣と警視総監による新聞雑誌の規制で、発行停止の行政処分は、2人の名のもとに下されます。
勅令206号「新聞紙雑誌ノ取締ニ関スル件」は、戒厳令と同じ9月6日に公布、即日施行されました。
朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲
法第八條ニ依リ新聞紙雜誌ノ取締ニ關スル件ヲ裁可シ之ヲ
公布セシム
御 名 御 璽
明治三十八年九月六日
内閣總理大臣兼外務大臣 伯爵桂 太郎
(以下副署略、御名御璽は天皇の署名捺印)
勅令第二百六號
第一條 新聞紙又ハ新聞紙條例ニ依ル雜誌ニシテ皇室ノ尊嚴ヲ冒●【さんずいに賣】シ政體ヲ
變壞シ若ハ朝憲ヲ紊亂セントスル事項又ハ暴動ヲ教唆シ犯罪ヲ煽動スルノ
虞アル事項ヲ記載シタルトキハ内務大臣ハ其ノ發賣頒布ヲ禁止シ之ヲ差押
ヘ且以後ノ發行ヲ停止スルコトヲ得
第二條 前條ニ依リ新聞紙又ハ雜誌ノ發行ヲ停止シタル塲合ニ於テ内務大臣
ハ必要ト認ムルトキハ其ノ停止中ニ限リ同一人又ハ同一社ノ發行ニ係ルモ
ノト認ムル他ノ新聞紙又ハ雜誌ノ發行ヲ停止スルコトヲ得
第三條 發行停止ヲ犯シテ新聞紙又ハ雜誌ヲ發行シタル者又ハ第一條ノ禁止
ヲ犯シテ新聞紙又ハ雜誌ヲ發賣頒布シタル者ハ一月以上六月以下ノ輕禁錮
又ハ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ニ處ス
第四條 新聞紙條例第三十五條及第三十六條ノ規定ハ本令ノ犯罪ニモ亦之ヲ
適用ス
第五條 本令ハ發布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
(「官報号外」 明治38(1905)年9月6日)
ちなみに、この時期前後の警視総監は、
明治36年9月22日から安立綱之、明治38年9月10日から関清英、
明治39年1月17日から再任の安楽兼道と続きます。
また、この時期前後の内務大臣は、
明治37年2月20日から芳川顕正、明治38年9月16日から農商務大臣兼任の清浦奎吾、
明治39年1月7日から逓信大臣兼任の原敬が、それぞれ務めました。
緊急勅令が発効した翌日の9月7日。
東京は近衛第1師団の軍事支配となり、検問体制が実施されます。
夕方になり事態は沈静化に向かいました。
結果、逮捕者は2千人に及び、起訴された者は308人、うち91人が有罪となりました。
また
《警察署二、交番二百十九、教会十三、民家五十三、電車十五台》
(「日本の歴史22」317ページ)が焼き払われました。
【個々の数値に関しては資料により諸説あり】
8日の「東京日日新聞」8ページには、政府の御用新聞といわれ
暴動の標的のひとつになった国民新聞社の急告が載りました。
《急告
一昨五日本社暴徒の暴行を蒙り候節は
早速御見舞下され有難く御禮申上候幸
い格別の損害も無之新聞も平日の通り
發行致居候間乍憚御休心なし下され度
若し夫れ講和問題に對する本社の意見
に關しては九月一日「講和成立」の社説
以來終始一貫して主張し來りたる如く
今後も益々其信ずる所に向い勇往直進
致す可れば委細は向後の紙上に於て御
看取なし下され候樣奉願候不取敢御禮
旁無異御報道まで斯くの如くに御座候
九月七日 國民新聞社》
。
講和反対の運動が起こったのは、東京だけではありません。
9月5日前後から20日過ぎまで、1道3府42県の市や郡、町や村で演説会が開かれました。
講和反対や大臣問責の決議は230余にのぼりました。
なかでも、横浜市や神戸市では民衆が暴動化。
交番や派出所を打ち壊し、焼き打ちする騒ぎにまで発展しました。
9月12日には、遠く離れた長崎でも、日露講和条約反対市民大会が開かれ、約5千人が参集しました。
発効から約3か月後の11月29日、戒厳令と新聞雑誌取り締まりの緊急勅令が、併せて廃止となります。
実質発効期間は85日間に及びました。
朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲
法第八條ニ依リ明治三十八年勅令第二百五剛及同年勅令第
二百六號廃止ノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
御 名 御 璽
明治三十八年十一月二十九日
内閣總理大臣兼外務大臣 伯爵桂 太郎
(以下副署略、御名御璽は天皇の署名捺印)
勅令第二百四十二號
明治三十八年勅令第二百五號及同年勅令第二百六號ハ本令發布ノ日ヨリ之ヲ
廃止ス
(「官報号外」 明治38(1905)年11月29日)
明治憲法下の日本で、戒厳令は軍事戒厳(臨戦地境戒厳)が7回、行政戒厳が3回発効されました。
7回の軍事戒厳のうち、1回が日清戦争中の広島市の宇品地区に、
6回が日露戦争中の長崎市、佐世保市、対馬、函館市。
遅れて澎湖島・馬公要港と台湾全島全域に、それぞれ布かれました。
また、3回の行政戒厳のうち、1回目は今回のお話。
2回目は、大正12(1923)年の関東大震災のときで、翌9月2日から11月15日まで、
3回目は、昭和11(1936)年の二・二六事件のときで、翌2月27日から7月16日まで発せられました。
◇
日露戦争直後の緊急勅令により、発行停止処分を受けた新聞、雑誌は延べで39にのぼりました。
内訳は「警視庁総監の行政処分」が17回で、「内務大臣より行政処分」が22回。
なかには同じ新聞や雑誌が2回、3回と処分を受けている場合もあります。
処分がいちばん多いのは
「大阪日報」「大阪朝日新聞」「丹州時報」
が、それぞれ3回。
続いて
「都新聞」「東京二六新聞」「人民新聞」「京都朝報」「滑稽新聞」
が、それぞれ2回。
残りの20紙が1回ずつとなります。
また、いちばん期間の長い処分は
「東京二六新聞」
の28日、
逆に、いちばん短い処分は
「日本」
と
「人民」
の、それぞれ1日ずつとなります。
一覧のなか、発行停止の期間が記されていない空欄の個所が5つあります。
9月10日の
「直言」
と13日の
「滑稽新聞」
、10月6日の
「誠友」
と24日の
「滑稽新聞」
、
11月15日の
「帝国文学」
の5個所です。
県立浦和図書館のレファレンスの回答や、所蔵資料、
取り寄せ資料などあわせながら、ひとつずつ検証し、5つの空欄を埋めてみます。
▽まずは、9月10日に処分を受けた
「直言」
。
縮刷版「明治社会主義史料集『直言』」の6ページ「廃刊事情」に記していました。
《第三二号は、検閲の痕跡を多数の伏字にとどめて発行された。しかしそれ以後は戒厳令下に無期限の発行停止を受けた。
やがて前述の平民社そのものの解散がおこった。こうして『直言』は再刊の機を失って不本意な最後をとげたのである》
。
なんと無期限の発行停止処分です。もう、発行できないということです。
そこで9月26日には発行主要メンバーが集まり、廃刊を決定しました。
ただ、無期限といいながらも、12月2日付の「読売新聞」2ページには解停の記事が載りました。
《直言の解停 社會主義者の機關「直言」は一昨日解停せられたるが今後は
去る二十四日に初號を發行したる雜誌「光」と合併の上其發行を繼續する由》
。
どうやら、もともとの発行停止命令は、勅令の廃止と同時に解除されたようで。
ただ、発行停止が解かれても「直言」は継続発行をしていません。
勅令が廃止されるより前に廃刊を決定し、さらに11月20日には新たな機関紙「光」を創刊しました。
ちなみに本文中「解停」とは、新聞や雑誌などの発行停止が解除されることです。
少し前、期間のいちばん長い処分を
「東京二六新聞(2)」
の28日としました。
でも、いざフタを開けてみたら、処分の9月11日から解停の11月29日までの、
計80日間にわたり処分を受けた
「直言」
のようです。
といっても実際には、9月26日に廃刊を決定するまでの、16日間の処分となりましょう。
▽9月13日処分の
「滑稽新聞(1)」
の処分は、吉野孝雄が記した「過激にして愛嬌あり」にありました。
《十二日に、講和問題と発行停止に反駁した記事を満載した「号外」を発行して》
(256ページ)、
《翌日の十三日になるとさっそく、「明治三十八年九月十二日発行滑稽新聞号外ハ勅令第二百六号第一条ニ
該当スルモノト認ム」という内務大臣命令による発行停止通達が滑稽新聞社に送られてきた》
(261ページ)。
《けっきょく、「滑稽新聞」は二カ月間の発行停止のあと、十一月十四日になり発行停止が解除され》
(263ページ)ました。
発行停止の日数を数えてみます。
9月13日からの18日間と、まるまる10月いっぱいの31日間、11月14日までで63日間となります。
約2か月間の処分ということがわかります。
▽11月15日に処分を受けた
「帝国文学」
があります。
勅令廃止後、12月10日発行の第11巻第12号の社告に、その記述がありました。
《帝國文學發行停止及解停 本會編纂帝國文學第十一巻第十一は不幸にも其筋より時勢に害あるものと
認められ發行停止の嚴命に接し候處十一月廿九日を以て解停相成候に付此段會員諸君に禀告致候也》
。
11月10日発行の第11巻第11号は、勅令が廃止となった11月29日と同時に解停。
停止期間は16日から14日間となります。
▽10月6日の
「誠友」
の発行停止期間は、レファレンスでも分からないとのこと。
県立図書館3館所蔵の、18の資料に一部記述はあるものの、発行停止の記載はないとか。
また、国会図書館や大学図書館の総合検索でも、
「誠友」
の所蔵は確認できなかったとのことです。
諦めかけていたとき、ふと、ウィキペディアの「普選運動」に、ひとつの記述を見つけました。
《普通選挙連合会‐1905年(明治38年)12月6日八団体(理想団・直行団・
新紀元社・国家社会党・普選同盟会・誠友会・青年同志会・光社)が組織》
。
8団体のうち、理想団は、朝報社の黒岩涙香が結成した社会改良団体です。
直行団は、消費組合運動の啓蒙推進のために結成しました。
新紀元社は、キリスト教社会主義者の安部磯雄らが組織しました。
国家社会党は、山路愛山らが設立した社会改良主義の政党です。
そんななかに誠友会があります。
また「初期社会主義年表」にも、組織の誠友会の記述がありました。
明治32(1899)年11月3日、前年に組織した活版工同志懇話会が解散し、活版工組合が結成されます。
翌明治33年の5月には、活版工組合が衰退したため、職工のみで誠友会を組織するのです。
ウィキペディアと「初期社会主義年表」の、2つにあった誠友会の記述。
残念ながらともに件の
「誠友」
の説明はありません。
それでも、たぶん誠友会の機関紙か何かではないかと思われます。
▽10月24日に処分となった
「滑稽新聞(2)」
も、レファレンスでは分からないとのこと。
前出の「号外」発行とあわせて、その前後の動向を振り返ってみます。
9月5日、日比谷焼き打ち事件が起きたその日、「滑稽新聞」第103号が発行されました。
6日、講和反対運動の激しさが増し、緊急勅令として戒厳令と新聞雑誌取締令が発せられます。
7日、第103号の記事が新聞紙条例第32条に抵触するとして、発売頒布を停止する旨の通知が届きました。
そこで12日、第103号の発売頒布の停止や、講和問題などの反論をまとめ「号外」を発行。
13日には、「号外」が新聞雑誌取締令にふれ、発行停止となりました。先の処分です。
約2か月後の11月14日に発行停止が解かれます。
そして11月20日に第104号が発行されました。
ただ、記述にある10月24日の処分となると、まだ9月13日からの「号外」の発行停止63日間が継続中。
時期が重なってしまうのです。
発行停止期間中に、復刻本にも収まらない、なにかを発行したのでしょうか。
結果、以下の処分がそれぞれに下されたことが分かりました。
「直言」
は、勅令廃止まで。結果的に無期限、廃刊に。
「滑稽新聞(1)」
は63日間。
「帝国文学」
は14日間。
「誠友」
と
「滑稽新聞(2)」
は不明、という答えを導きました。
どうにか表の空欄5か所を、すべて埋めることができました。
ただです。
答えを得られたと思ったのも束の間、さらなる問題が発生しました。
◇
「明治ニュース事典 第7巻」(以下「NEWS7巻」)は
いちばんはじめに「発行停止処分を受けた新聞、雑誌の一覧」を見つけた資料です。
その「NEWS7巻」と出典元の「東京朝日新聞」の記述が、細かなところで違っていました。
▽「NEWS7巻」で
「対馬町報」
となっている題号が、「東京朝日新聞」では
「対馬時報」
となっています。
▽「NEWS7巻」で9月21日となっている
「大阪朝日新聞」
の処分日が、「東京朝日新聞」では9月1日になっています。
▽「NEWS7巻」で10月10日になっている
「下野新聞」
の処分日が、「東京朝日新聞」では10月4日になっています。
違いは3つと少ないものの、出典元の「東京朝日新聞」と、明らかに違う記述をしているのです。
そこで、もうひとつの資料を思い出しました。
棚の奥に眠っていた、河出文庫「明治の墓標 庶民のみた日清・日露戦争」です。
確か、似たような一覧表が載っていたはず。
ありました。
220ページの
《日露講和批判等により発行停止処分を受けた新聞・雑誌》
です。
じつは今回、県立浦和図書館で「明治の墓標」が3種類あることを知りました。
▽平成2(1990)年4月に、河出書房新社から文庫で発行した
手許にある「明治の墓標 庶民のみた日清・日露戦争」(以下「河出版」)。
▽あと、文庫のもとになる昭和45(1970)年6月に、秀英出版が発行した
「明治の墓標「日清・日露」―埋れた庶民の記録」(以下「秀英版」)。
▽そして、文庫を改題し平成15(2003)年5月に、刀水書房が発行した
「庶民のみた日清・日露戦争 帝国への歩み」(以下、「刀水版」)です。
出典元となる「東京朝日新聞」と比較をしてみます。
3種類の「明治の墓標」は、出典を
《『東京朝日新聞』明治38年11月1日より作成》
としていました。
でも、これは「NEWS7巻」のときにも触れました。
「東京朝日新聞」の記載は、12月1日発行の3ページです。
さらに3種類の「明治の墓標」と「東京朝日新聞」の空欄を比べてみます。
同じ5個所が空欄になっていました。
3種類の「明治の墓標」を、さらに細かく見比べました。
えっ、うそ。
なんと、あってはならないことを発見してしまったのです。
「秀英版」と「河出版」「刀水版」は、装丁や出版社が違っても同じ作者による同じ本、同じ内容のはず。
版をかえるごとに、言いまわしやなど文章表現は変わるかもしれません。
でも、発行停止の一覧は、明治38年12月1日発行の「東京朝日新聞」ひとつをもとにした記述のはず。
にもかかわらずです。
3種類に載る一覧の数字が、細かいところで違っていたのです。
「東京朝日新聞」の記事をもとに、3種類の「明治の墓標」を比較してみます。
▽
「東京朝日新聞」「京都朝報(1)」「大阪日報(1)」「関門毎日新聞」「大阪朝日新聞(1)」
の処分日が、
「東京朝日新聞」では9月9日になっています。
でも「秀英版」と「河出版」では9月8日の処分となっています。
「刀水版」は「東京朝日新聞」と同じ9月9日です。
▽9月10日に処分をうけた対馬の新聞の題号が、「東京朝日新聞」では
「対馬時報」
になっています。
でも「秀英版」と「河出版」では
「対馬町報」
となっています。
「刀水版」は「東京朝日新聞」と同じ「対馬時報」です。
▽
「下野新聞」
の処分日が、「東京朝日新聞」では10月4日になっています。
でも「秀英版」と「河出版」では、10月10日の処分となっています。
「刀水版」は「東京朝日新聞」と同じ10月4日です。
ちなみに、インターネットでウィキペディアの「下野新聞」にもありました。
《1905年10月5日-日露戦争の講和条約に反対し4日間の発行停止を受ける》
となっています。
▽
「大阪朝日新聞(2)」
の処分日が、9月18日と23日の間にありながら、「東京朝日新聞」では9月1日となっています。
でも「秀英版」「河出版」「刀水版」ともに9月21日となっています。
たぶん「東京朝日新聞」の間違いで、21日が正解と思われます。
▽
「萬朝報」「都新聞(1)」「東京二六新聞(1)」
の処分日が、「東京朝日新聞」で9月7日になっています。
「秀英版」と「刀水版」も同じ9月7日です。
でも、「河出版」では9月5日の処分となっています。
緊急勅令が発効したのは9月6日。
なもので処分日が、発効以前の5日というのはないはずです。
最初の3つの記述に関して、一部のデータで仮説が立ちそうです。
たとえば1回目の「秀英版」を発行するとき、「東京朝日新聞」からの写しを間違えます。
2回目の「河出版」では「東京朝日新聞」を確認せずに、そのまま「秀英版」のデータを踏襲しました。
でも、3回目の「刀水版」を発行するとき、「東京朝日新聞」を確認したら違いを発見。
改めて修正したのではないでしょうか。
憶測です。
それにしてもです。
同じ「東京朝日新聞」をもとにしている同じ内容の本なのに、出展との違いが11か所もありました。
延べで20か所に及びます。
ちなみに、3種類の「明治の墓標」の大きな内容的な違いをみてみます。
「河出版」は、「秀英版」の最終章「明治の秋」に「荒廃の淵で」を加え、ところどころで修正をしています。
さらに「刀水版」では、「河出版」の第3章と第4章のあいだに、3つの「戦場余話」を加えていました。
ここでまた表組みにしてまとめてみました。
先の「東京朝日新聞」の一覧に、「NEWS7巻」と3種類の「明治の墓標」を加えました。
表は「東京朝日新聞」と異なった記述の個所を埋めています。
また空白の5個所に関しては「東京朝日新聞」に赤字で埋めています。
【発行停止をうけた新聞・雑誌(2)】
◇
発行停止の一覧が載っているは、「NEWS7巻」や3種類の「明治の墓標」、「東京朝日新聞」だけではありません。
当然のことながら、「東京朝日新聞」以外の実際の新聞でも伝えたはずです。
県立浦和図書館が所蔵している明治時代の新聞は、「東京朝日新聞」のほかに、
「東京日日新聞(現毎日新聞)」と「読売新聞」があります。
「東京日日新聞」は同じロール式のマイクロフィルムで、
「読売新聞」はマイクロフィルムとデジタルデータで所蔵していました。
2つの新聞を開きます。
一覧は、それぞれ12月1日付にありました。
3紙のそれぞれのタイトルと、一覧の前につく本文記事を抜きだしてみます。
これまでも見てきた「東京朝日新聞」は、12月1日の3ページにタイトル「新聞抑制紀念」があります。
「記念」でない「紀念」は、太平洋戦争以前の資料によく見かけます。
本文には
《緊急勅令實施中同令に基き發行停止を命ぜられたる新聞及雜誌左の如し》
とありました。
また「東京日日新聞」は、同じ12月1日の3ページにありました。
タイトルは「緊急勅令と新聞雜誌」として、本文があります。
《一昨二十九日廢止せられたる緊急勅令實施中同令に基き發行停止を命ぜられたる新聞及雜誌は左の如し》
。
さらに「読売新聞」は、同じく12月1日の2ページに、タイトル「緊急勅令適用と新聞雜誌」があります。
本文には
《緊急勅令實施中同令に基き發行停止を命ぜられたる新聞及び雜誌左の如し》
とありました。
それぞれの表現に微妙な違いがあります。
「東京朝日新聞」が
《新聞及雜誌左の如し》
としているのに対し、
「読売新聞」では
《新聞及び雜誌左の如し》
としていました。
「読売新聞」の本文に対し、「東京日日新聞」は
《一昨二十九日廢止せられたる》
が付いているだけ。
そのまま写すのもはばかれるから、少しだけ変えておこう、という感じでしょうか。
いや、3つの新聞社でそれぞれ別々に記事を書いているはずです。
たまたまの偶然でしょうか。
3種類の「明治の墓標」では、どれも警視総監と内務大臣の処分が、一緒くたに年月日の順番にならんでいます。
でも、新聞3紙では
《警視庁総監の行政処分を施行せるもの》
と
《内務大臣より行政処分を施行せられたもの》
とに分かれたなかで、処分年月日の順番に記されていました。
「東京朝日新聞」と、「読売新聞」「東京日日新聞」の一覧内容を比較してみます。
▽
「東京新聞」
の処分日が、「東京朝日新聞」では9月12日になっています。
でも「読売新聞」では、9月18日の処分となっています。
「東京日日新聞」は「東京朝日新聞」と同じ9月12日です。
▽
「芝公報」
の処分日が、「東京朝日新聞」では10月18日になっています。
でも「読売新聞」では、10月12日の処分となっています。
「東京日日新聞」は「東京朝日新聞」と同じ10月18日です。
▽
「大阪朝日新聞(2)」
の処分日が、9月18日と23日の間にありながら、
「東京朝日新聞」と「読売新聞」では9月1日となっています。
でも「東京日日新聞」は、「NEWS7巻」や3種類の「明治の墓標」同様9月21日となっています。
たぶん「東京朝日新聞」と「読売新聞」は間違いでしょう。
▽9月9日に処分をうけた
「東京朝日新聞」
の停止日数が、自身の「東京朝日新聞」では14日間になっています。
でも、「東京日日新聞」では15日間になっています。
「読売新聞」は「東京朝日新聞」と同じ14日間です。
▽
「読売新聞」
の停止日数が、「東京朝日新聞」では11日間になっています。
「東京日日新聞」も「東京朝日新聞」と同じ11日間です。
でも、自身の「読売新聞」では停止日数が12日間になっています。
11月28日の「東京朝日新聞」1ページの紙面中央に1行告知が載りました。
《解停 十一月廿七日 讀賣新聞社》
。
同じ11月28日の「読売新聞」1ページに自社記事が載りました。
《本紙發行停止中ハ江
湖の諸君子より深厚
なる御慰問を辱ふし
多謝不過之候一々御
回答も致兼候間乍略
儀紙上を以て御禮迄
如此に御座候
明治三十八年十一月 日
讀賣新聞社》
。
記事の最後、日付は空白になっています。
実際の「読売新聞」を確認すると、11月15日まで発行されました。
そして、あいだが空いて28日から通常通りの発行に戻っています。
ということは処分日が15日で、停止日数は12日間になると思われます。
「NEWS7巻」や3種類の「明治の墓標」、「東京朝日新聞」「東京日日新聞」の記載日数ではなく
唯一、「読売新聞」自身の記載日数が正しいことになります。
▽
「東京二六新聞(1)」
の処分日と停止日数が、「東京朝日新聞」では9月7日と2日間となっています。
でも「読売新聞」では処分日が9月8日、停止日数が1日間となっています。
「東京日日新聞」は「東京朝日新聞」と同じ処分日が9月7日で、停止日数が2日間となっています。
なにを基準にするかによって、数え方も違ってくるということでしょうか。
同じ数字を記すはずの新聞が、6か所の違いをみせているのです。
なぜ、細かなところで、違いをみせるのでしょうか。
違いを分かりやすくするため、表にして見ました。
「東京朝日新聞」を基準に、「NEWS7巻」と3種類の「明治の墓標」、「読売新聞」「東京日日新聞」をまとめています。
【発行停止をうけた新聞・雑誌(3)】
◇
ここで「明治の墓標」や新聞から、少し離れたお話しをします。
資料のひとつに、日露戦争の戦後処理を解いた黒岩比佐子の「日露戦争 勝利のあとの誤算」があります。
「東京朝日新聞」の池辺三山を軸に、東京に初めての戒厳令が下るなかでの権力とメディアとの抗争を描いています。
なかには、発行停止の処分を受けた新聞、雑誌に関しての記述もありました。
ただその記述が、またまた異なっていたのです。
《まず、七日に『萬朝報』『都』『二六』の三紙が発行停止(いずれも停止期間は二日間)となり、
八日には『日本』『人民新聞』が停止(一日のみ)となった。
続いて九日に『東京朝日』が発行停止となったが、それまでの五紙とは違い、
二十四日までの十五日間にわたって『東京朝日』の停止は解除されなかった》
(「黒岩版」150ページ)。
《『大阪朝日』の方は、『東京朝日』以上に反桂路線が強烈だったこともあり、
九月十日から十四日、十八日から十月三日、二十五日から十一月七日までと、
三回にわたって三十五日間の発行停止処分を受けることになった》
(「黒岩版」150ページ)。
勅令が発効した直後の処分に、重きをおいた記述になっています。
3種類の「明治の墓標」と3つの新聞と絡め、ひとつひとつ検証してみます。
▽
《七日に『萬朝報』『都』『二六』の三紙が発行停止(いずれも停止期間は二日間)となり》
(「黒岩版」150ページ)。
「東京朝日新聞」と「東京日日新聞」は、「黒岩版」と同じ9月7日の処分で2日間の停止です。
「秀英版」「刀水版」も同じ内容です。
「河出版」は、3紙の処分日を9月5日としています。
「読売新聞」では、
「東京二六新聞(1)」
のみ9月8日処分で1日間の停止となっています。
緊急勅令が発効したのは9月6日なもので、5日を処分日とした「河出版」はあり得ません。
3紙は、9月8日付の「東京日日新聞」8ページに、それぞれ広告を掲載しました。
発行停止のお知らせです。
まず
「都新聞(1)」
から。
《都新聞 今朝其筋より 發行停止
の命令を受領致候時局多端の際平生の
御愛顧に負くは深く遺憾に奉存候不日 解停 發行の命に接すべ
く候間倍舊御愛讀の程伏て願上候
九月七日 發行所 東京麹町區 都新聞社》
。
続いて
「東京二六新聞(1)」
。
《二六新聞 發行停止
不日解停後は倍舊の御愛讀奉希望候
九月七日 東京神田通新石町 二六社》
。
そして
「萬朝報」
。
《日刊新聞萬朝報
萬朝報ハ夙に時勢の最温良なる解釋者、事實
の最忠實なる報道者、として廣く萬民萬家の
信頼を受け來れるに、今や講和問題の犠牲と
して發行を停止せられぬ、時勢非なる耶、運
命不可なる耶、今ハ問はず、只だ解停の日を
待て、最も多くの特色と、最も多くの趣味、
實益、教訓を滿載して引續き讀者に見參すべ
し、普く全國の諸君に對し豫め倍前の愛讀を
請ふ
東京京橋區弓町二十一番地 朝報社》
。
「都新聞(1)」
と
「東京二六新聞(1)」
は、9月7日の日付で記されています。
「萬朝報」
には日付がありません。
でも、たぶん7日が正解でしょう。
▽
《八日には『日本』『人民新聞』が停止(一日のみ)となった》
(「黒岩版」150ページ)。
「秀英版」「河出版」「刀水版」をはじめ、「東京朝日新聞」「読売新聞」「東京日日新聞」の
資料、すべてが処分日9月8日で、停止日数1日間と、「黒岩版」の記述と同じになっています。
ただ、「秀英版」と「河出版」では、
「東京朝日新聞」「京都朝報(1)」「大阪日報(1)」
「関門毎日新聞」「大阪朝日新聞(1)」
の5紙も、9月8日の処分になっています。
▽
《九日に『東京朝日』が発行停止となったが、二十四日までの
十五日間にわたって『東京朝日』の停止は解除されなかった》
(「黒岩版」150ページ)。
「東京日日新聞」の記述のみが、「黒岩版」と同じ9月9日の処分で15日間の停止です。
「東京朝日新聞」「読売新聞」と「秀英版」「河出版」「刀水版」は、停止日数が14日間となっています。
また、「秀英版」「河出版」では、9月8日を処分日としています。
▽
「東京朝日新聞」
に関しては、同じ「日露戦争 勝利のあとの誤算」のなかで、他に3つの記述を確認しました。
《『東京朝日』の十五日間の発行停止》
(「黒岩版」150ページ)。
《九日に発行停止を命じる通知が届き、翌日十日から東西両『朝日』は発行できなくなってしまった》
(「黒岩版」154ページ)。
《『東京朝日』は十日から二十四日までという異例の長期間にわたった》
(「黒岩版」155ページ)。
先の記述とあわせると、「9月9日に処分の通知が届き、10日から24日までの15日間にわたり処分を受けた」ことになります。
数字にブレはなく、記述は一貫しています。
ただ前記のように、新聞3紙、3種類の「明治の墓標」とは違いをみせています。
▽9月25日付の「東京朝日新聞」2ページに、自身の「解停」記事が載りました。
《解停
本月九日午後五時發行停止を命ぜられたる
當新聞は昨二十四日午後五時左の通り解停
の命に接したり、停止正に十五日間
東京朝日新聞發行人 沼田寅次郎
自今東京朝日新聞の發行停止を解除す
右●【判読不明】達す
明治三十八年九月二十四日
警視總監 關清英》
。
なんと9月25日付新聞で「15日間の停止日数で24日に解停」としています。
このあたりは「黒岩版」と同じ記述です。処分日は「黒岩版」と同じ9日となるでしょう。
でも、12月1日発行の「東京朝日新聞」掲載の一覧記事では、自社の停止日数を14日としていました。
同じ「東京朝日新聞」なのに停止日数が違うのです。
そこで、実際の「東京朝日新聞」をマイクロフィルムで確認しました。
9月9日まで発行され、あいだが空いて25日から通常の発行に戻っています。
ということは処分日が9日で、停止日数は15日間になると思われます。
▽
《『大阪朝日』は、九月十日から十四日、十八日から十月三日、二十五日から十一月七日まで三回、
三十五日間の発行停止処分を受けることになった》
(「黒岩版」150ページ)。
〇
「大阪朝日新聞(1)」
は処分日が9日で、10日から発行停止という解釈ならば、
「東京朝日新聞」「読売新聞」「東京日日新聞」、「刀水版」と同じの記述となります。
停止日数をかぞえると5日間で、3種類の「明治の墓標」、新聞3紙と同じです。
「秀英版」「河出版」では、処分日を9月8日としています。
〇
「大阪朝日新聞(2)」
の処分日は、3種類の「明治の墓標」、新聞3紙のすべて
処分日が「黒岩版」より3日遅い、9月21日(9月1日は誤表記とする)となっています。
停止日数は、3種類の「明治の墓標」、新聞3紙すべて16日間で、「黒岩版」もかぞえると、16日間で同じです。
〇
「大阪朝日新聞(3)」
は処分日が10月24日で、25日から発行停止という解釈ならば、
3種類の「明治の墓標」、新聞3紙すべて同じ記述となります。
停止日数は、3種類の「明治の墓標」、新聞3紙すべて14日間で、「黒岩版」も同じ14日間です。
〇「東京朝日新聞」の一覧にある、3つの「大阪朝日新聞」の停止日数を足すと35日(5+16+14)。
これは、「黒岩版」の記述にある停止日数の35日と同じでした。
「黒岩版」の記述と、3種類の「明治の墓標」、新聞3紙はどれも当てはまりません。
6つの資料以外から抜きだしていることになります。いったい、何を根拠にした解釈なのでしょうか。
謎は、まだまだ深まるばかりです。
◇
ここまで進めてきて、問題提議はしてきました。
でも、答えはまだ何も見つけきれていません。
少しずつ真実は明らかにされていくものの、
すそ野を広げていけばいくだけ、傷口も比例してどんどん広がるばかりです。
それにしても不思議です。
なぜ、「明治ニュース事典 第7巻」をはじめとした
「秀英版」と「河出版」と「刀水版」の3種類の「明治の墓標」や、
東京朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞の3種類の新聞、
「黒岩版」の記述が、それぞれに、細かなところで、違いをみせるのでしょうか。
数字は、ひとつの出典元から公に発表されたものではないのでしょうか。
それとも新聞各社や、大濱徹也や黒岩比佐子が、それぞれに調べ数えだしたものなのでしょうか。
分かりません。
と、ここで、ひとつ。
気になる記述を「秀英版」の264ページに見つけました。
《講和批判、政府非難によって発行停止を命ぜられた新聞・雑誌は
「東京朝日新聞」の調査によると、延べ三十九の多きをかぞえた》
。
のちの「河出版」「刀水版」と比較すると、「秀英版」だけが少しばかり記号表記が違います。
それでも、書いてある内容は同じ。
そう、「明治の墓標」では、一覧表への導きを
《『東京朝日新聞』の調査によると》
としているのです。
ということは、ひとつの出典元から、新聞各社が情報を得たのではありません。
新聞各社が、それぞれ独自に調べたことになります。
ならば、それぞれに少なからず誤差が生じるのも、うなずけます。
いや、ここでうなずいてはいけません。
誤差を生じさせて、よい訳はないのです。
それにしても、いったい、何を信じたらいいのでしょうか。
本当に、わけが分からなくなってしまいました。
確認方法としては、処分を受けた当時の新聞雑誌を見ることができればよいのでしょう。
100年以上過ぎた現在では、マイクロフィルムや復刻版、縮刷版、合本などを頼ることになります。
ただ、あとになってまとめられたものを、すべて信用していいかどうか、それはまた別問題です。
また、もうひとつの確認方法として、それぞれの発行所に通達した公文書を見ることができればよいのです。
いちばん正確でしょう。
ただ、その控えが残っているかどうか、確認できるかどうかも分かりません。
もしかしたら、もう、どなたか先人の研究者が
とっくの昔に、その答えをだしているかもしれません。
でも、その答えは知りません。
自分なりに答えを追い求めているところです。
そこで、次にできること。
当時、東京で発行していた「東京朝日新聞」「読売新聞」「東京日日新聞」以外の主な新聞から発行停止一覧の確認です。
「毎日新聞(東京横浜毎日新聞・M3)」「報知新聞(M5)」「時事新報(M15)」「都新聞(M17)」
「国民新聞(M23)」「中央新聞(M24)」「萬朝報(M25)」「東京二六新聞(M26)」あたりでしょうか。
あとは、延べ39の処分のうち、資料に違いのあった「都新聞(1)」「萬朝報」「東京二六新聞(2)」ほか、
いまのところは、違いが分かっている「京都朝報(1)」「大阪日報(1)」「関門毎日新聞」
「大阪朝日新聞(1)」「対馬時報(対馬町報)」「東京新聞」「大阪朝日新聞(2)」
「下野新聞」「芝公報」の、9紙の実際の未発行期間を調べることができたら、より正確になります。
こんど国立国会図書館に行くとき、順次、見てみようかと。
まだまだ問題は山積です。
確認がとれ解明できたら、また更新します。
とりあえず、今回はこの辺で。
〈主要参考文献〉
「明治の墓標 庶民のみた日清・日露戦争」 大濱徹也 河出書房新社(文庫) 平成2(1990)年4月
「明治の墓標「日清・日露」―埋れた庶民の記録」 大濱徹也 秀英出版 昭和45(1970)年6月
「庶民のみた日清・日露戦争 帝国への歩み」 大濱徹也 刀水書房 平成15(2003)年5月
「明治ニュース事典 第七巻」 編纂委員会 毎日コミュニケーションズ 昭和61(1986)年1月
「ニュースで追う明治日本発掘8」 鈴木孝一 河出書房新社 平成7(1995)年8月
「日本の歴史22」 隅谷三喜男 中央公論社(文庫) 昭和49(1974)年8月
「明治社会主義史料集 第1集『直言』」 労働運動史研究会 明治文献資料刊行会 昭和35(1960)年10月
「過激にして愛嬌あり」 吉野孝雄 筑摩書房(文庫) 平成4(1992)年4月
「宮武外骨・滑稽新聞 第4冊」 赤瀬川原平 筑摩書房 昭和60(1985)年9月
「帝国文学」 帝国文学会 日本図書センター 昭和55(1980)年9月
「日露戦争 勝利のあとの誤算」 黒岩比佐子 文藝春秋(新書) 平成17(2005)年10月
「日露戦争」 古屋哲夫 中央公論社(新書) 昭和41(1966)年8月
「日露戦争の事典」 原田勝正 三省堂 平成1(1989)年8月
「戒厳令」 大江志乃夫 岩波書店(新書) 昭和53(1978)年2月
「市制百年長崎年表」 編さん委員会 長崎市役所 平成1(1989)年4月
「週刊YEARBOOK日録20世紀 1905年版」 講談社 平成10(1998)年11月
「東京朝日新聞」「読売新聞」「東京日日新聞」
「初期 社会主義年表」 http://f-makuramoto.com/43-syakaika/index.html
「国立国会図書館デジタル化資料」 http://www.ndl.go.jp/index.html
〈注〉
新聞記事と官報に関しては、なるべく原文ままの改行にあわせるようにしています。
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