―――――――――――――眼鏡橋外伝―――――――――――――
歴史雑感
眼鏡橋の歴史を感じること

このページは眼鏡橋の歴史や、個人的に感じたことを綴っていきます。
本編と違って、いつ更新するか分かりません。あしからずです。





《眼鏡橋考 48》10年3月23日

長崎市が作った英語版の観光地図には

Spectacles Bridge
Built in 1634, this is the oldest surviving stone arch bridge in Japan.
It gets its name from the fact that the two arches and
their reflection in the river look like a pair of eyeglasses.

とありました。



《眼鏡橋考 47》10年3月13日

夜、会社からの帰り道。
眼鏡橋のたもとに若い女性がふたり、しゃがみ込んでいました。
気分でも悪くしたのでしょうか。

近づいていくと、ふたりの女性の間には小さな猫がいました。
大きさはてのひらくらい。
生まれたての捨て猫でしょうか。
たぶん、ふたりの女性は
「かわいい」「かわいい」と言っているのでしょう。

私はそのまま通りすぎました。
でも、そのあとのことが気になって仕方ありません。

女性ふたりは、そのままずっと、そこにいるわけにもいきません。
ふたりのうちどちらかに拾われればいいのですが。
そうもいかないでしょう。
と、いうことは猫を見捨てて立ち去るのでしょうか。

ふたりの動向を、ずっと見続けるわけにも行かず
立ち止まることなく歩を進めましたが
そのあとの、ふたりの女性がとった行動を知りたくてたまりません。



《眼鏡橋考 46》10年3月1日

とある外国人向けのイラストマップにあった
英語による眼鏡橋の説明文です。

Spectacles Bridge
Built in 1634,this remains as the oldest stone arch bridge in Japan.

赤い字のところは「最古の石造りアーチ橋」とでも訳しましょうか。



《眼鏡橋考 45》10年2月23日

「眼鏡橋」の英語読み
▼SPECTACLES BRIDGE(眼鏡の橋)と
▼TWO-ARCHED BRIDGE(2つの半円の橋)の違いです。
観光に従事している方から教えていただきました。
一般的には「SPECTACLES BRIDGE」で
専門的には「TWO-ARCHED BRIDGE」ではないのかと。
なんとなく、納得です。
そういえば日本語でも「眼鏡橋」のことを
難しい言葉で「石造り二連アーチ橋」ともいいます。



《眼鏡橋考 44》10年2月22日

眼鏡橋近くをウロウロしていたら
3人の観光客らしき外国人が近づいてきました。
もしかしてと思い、聞き耳を立てていたら
内容まではわかりませんが、
はっきりと「すぺくたくるず ぶりっじ」という単語が聞こえました。

また携帯電話に付いている和英辞典には
「眼鏡橋 a two-arched bridge.」とありました。

どっちが、どっちなのでしょうか



《眼鏡橋考 43》10年2月21日

「眼鏡橋」は英語で2つの言い方があります。

ひとつは
SPECTACLES BRIDGE(眼鏡の橋)
 …観光マップに載っていました。

もうひとつは
TWO-ARCHED BRIDGE(2つの半円の橋)
 …辞書に記載されていました。

知り合いのアメリカ人に
眼鏡橋を英語で何というか聞いてみると、
「SPECTACLES BRIDGE」と言いました。



《眼鏡橋考 42》10年2月10日

眼鏡橋をはさんだ袋橋や魚市橋から
写真を撮るときのことです。
魚が水面を跳ねたり、風で水面がゆれると
波紋ができ川面が乱れて
眼鏡がきれい写しだされません。
そんなときは、波紋がなくなるまで待ちます。



《眼鏡橋考 41》09年12月25日

眼鏡橋よりひとつ下流に袋橋があります。
この橋は眼鏡橋を撮るのに格好の撮影場所です。
眼鏡橋は袋橋の北東にあり、昼すぎなら太陽の心配もありません。
旅行者のほとんどのみなさんが、袋橋から撮ります。

袋橋は、時間や重さの制限はありますが車道です。
車が通るたびに旅行者の方々は驚かれます。
「ここ、車が通るんだ。びっくりしたぁ〜」
袋橋は眼鏡橋、桃溪橋とともに
大水害にも耐え、架け替えられず復元されました。
なもので、むかしの面影を十分に味わうことができます。
旅行者の方々は知っているのです。
袋橋の良さを……。袋橋の重要さを……。
車の通行が日常化している長崎の人たちには気づかないことを……。
長崎に住んでいる誰よりも旅行者の方々は知っているのです。



《眼鏡橋考 40》09年12月10日

さらに土木施工管理技術研究会・発行
情報資料研究会・編集で山口祐造・著の
石橋物語」(昭和53年7月発行)です。
付録にはたくさんの石橋のデータが記載されています。
そのうちのひとつに眼鏡橋のデータがありました。
同じく長崎歴史文化博物館に所蔵されています。

023.0m0
0○08.3m0
0○04.4m0
0拱矢比○02.00m
0○04.7m0
0○00.59m



《眼鏡橋考 39》09年12月09日

《眼鏡橋考31》《眼鏡橋考32》《眼鏡橋考33》に続いて
眼鏡橋のデータです。
長崎歴史文化博物館に所蔵されている
財団法人観光資源保護財団
(日本ナショナル・トラスト)編集発行の
長崎/中島川と石橋群」(昭和52年3月発行)のなか
眼鏡橋の項に載っていました。

023.0m0
0スパン08.3m0
004.2m0
0拱矢比02.00m
004.68m



《眼鏡橋考 38》09年11月25日

左岸河川敷でハート石を探しているとき
行き交った観光客の方から
「ハート石なら、もう少し先にあるよ」
言って下さいました。
それは有名な形のいいハート石のことと思われます。
でも、今回探していたのは別のハート石

《眼鏡橋考 37》09年11月09日

朝、いつものように眼鏡橋見学に観光バスがやってきました。
ハート岩ってどこにあるの?」
バスからおりてきた年輩の男性が言いました。
すると、紺色の旗を持ったガイドさんは
「私も、あるのは知っているんですけど、どこにあるのかは……」
くちのなかで、モニョモニョしています。

そのすこし先では、同じ観光バスからおりてきた若い女性2、3人が
ハート石を指さしながらカメラをかまえていました。



《眼鏡橋考 36》09年10月24日

眼鏡橋周辺には
19個のハート石がありました。
もしかしたら、それ以上かもしれません。
形も「えっ、これがハート?」
と思われるものもたくさんあるでしょう。



《眼鏡橋考 35》09年10月24日

グラバー園のハートストーン
中島川のハート石の違い…。
外見でしか分かりませんが、
グラバー園のハートストーンが
石畳として塗り固められているのに対し、
中島川のハートストーンは
石垣にはまっているということ。
またグラバー園の場合は
人に踏まれることが考慮されているため
平らになっていますが
中島川の場合は石垣にあるため、
それほど平らになっておらず、
立体感をかもしだしています。



《眼鏡橋考 34》09年09月16日

南山手の高台にあるグラバー園内には
2つのハートストーンがあります。
ひとつは旧グラバー住宅前、
もうひとつは出口近く休憩所前にあります。

じつは中島川左岸バイパスの石垣にも
ハート石があります。
ちょうど魚市橋と眼鏡橋の間の石垣で
とてもきれいなハート型をしています。
中島川左岸バイパスの工事のときはまりました。



《眼鏡橋考 33》09年08月13日

長崎市立図書館にありました。
「重要文化財眼鏡橋保存修理工事報告書(災害復旧)」。
発行は長崎市、昭和59年3月
編集は財団法人文化財建造物保存技術協会です。
第2章「眼鏡橋の概要」、第3節「規模」に以下のデータが載っていました。

全 長22.350m上流側控柱芯々間○○○○○○○○○○○○
径 間○08.070m起拱点間距離○○○○○○○○○○○○○○
棋 矢○03.490m要石下端より起拱点まで(右岸迫石)○○○
総 高○05.230m右岸橋脚起拱点より中央部高欄笠石上端まで
幅 員○04.680m中央部高欄地覆石外面間距離○○○○○○○

こちらも前回同様なんの寸法なのか、まるっきり分かりません。
前回の数字データと何がどう違うのか、さっぱりわかりません。



《眼鏡橋考 32》09年08月04日

ふたたび眼鏡橋のデータです。
市役所担当部署に保管されている台帳より写しました。
前回お話した長崎市道路公園総務課の「長崎橋梁台帳」とは違います。
それぞれが何を意味しているのか、
どこの部分の寸法なのか、残念ながら分かりません。

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○○○19.80m0
最大支間長08.90m0
02.000m
幅員車道03.60m0
○○○路肩00.50m0
構成道路部04.10m0
○○地覆左00.30m0
○○○○00.30m0
○○04.70m0
道路部面積81.18m2
06.05m0



《眼鏡橋考 31》09年07月15日

眼鏡橋のデータです。
長崎歴史文化博物館が所蔵している
古賀十二郎の「長崎橋梁台帳」から写しました。
和綴じ、手書き文字で縦書きです。
内容は橋の名と寸法などデータ的なもの、
変遷略記が記されているだけで
年月日は記入されておらず、いつ作られたのかは不明。
たぶん憶測するに
現在、長崎市の道路公園総務課が所蔵する
分厚い「長崎橋梁台帳」を書き写し、
修正しながら、当時の最新情報を足したものと思われます。

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眼鏡橋

所在地酒屋町西古川町間
一瀬川○○○○○○
○○拾間八合○○○○○
○○貳間五合八勺○○○
上拾壱間五合○○○
○○○○下拾貳間弐合○○○
石造両円○○○○○
○○○○廿七坪八合六勺○○

寛永拾壹年興福寺住持如定架之長崎石橋ノ創始也
慶安元年平戸好夢修之爾後数度ノ洪水破損アル事ナシ



《眼鏡橋考 30》09年06月08日

眼鏡橋は、1982年(昭和57)7月23日の長崎大水害で半壊。
翌1983年(昭和58)10月15日、復元完工式が行なわれました。
大水害では、橋に使われていた全831個の石のうち、125個が流出。
しかしながら、そのほとんどを回収、
新しく作った石は30個に過ぎなかったそうです。



《眼鏡橋考 29》09年06月04日

中島川の水は、いつもと同じに上流から下流に向けて流れます。
満潮に近づくと、下流から海水がじわりじわりと侵食していきます。
その接点は、ちょうど眼鏡橋と袋橋のあいだにある飛び石あたりです。
川水と海水が、飛び石を境にせめぎ合います。
どちらに軍配があがるか、その勝敗は水量や勢いによって決まるのでしょうか。
力が同等に近い場合などは、渦を巻いたりもします。
自然の威力は凄まじいものです。



《眼鏡橋考 28》09年04月10日

たぶん満潮に近い時間帯だと思います。
河川敷におりてカメラを構えようと思ったとき
川の水際まで1メートル半ほど離れていました。
で、ファインダーを覗きシャッターを押すまで
2分はかからなかったと思いますが、
足下を見ると、川の水は靴を濡らしていました。
自然の威力は凄まじいものです。



《眼鏡橋考 27》09年03月12日

1956年(昭和31)に催された諏訪神社の大祭「長崎くんち」。
この年の踊町のひとつに「眼鏡橋町」がありました。
酒屋町と袋町と本紺屋町、材木町の一部をあわせ「眼鏡橋町」としています。
これは1945年(昭和20)の原爆による影響で
県庁からの火災が築町から魚の町付近まで焼失。
住民たちは復興をすすめるため独自で自治会組織を合併し誕生しました。
でもこれは、あくまでも正式名称ではなく暫定的な町名です。



《眼鏡橋考 26》09年02月15日

眼鏡橋は、4つの町の界に架かっています。
右岸、上流側の魚の町と下流側の栄町、
左岸、上流側の諏訪町と下流側の古川町との間です。
では、その境界線はどこにあるのでしょうか。
長崎市の決まりとして、河川、水路等はその《中心線》に。
道路や鉄道、軌道の線路等は《東側、南側の側線》に、とあります。

…ということは、右岸と左岸の町界線は川の中央に
橋の上の町界線は道路と同等と考えられ、
東側、南側の側線、つまり橋の下流側の欄干と床面の境にあり
橋そのものは
右岸側が魚の町、左岸側が諏訪町になるかと思われます。






《眼鏡橋考 25》09年02月15日

眼鏡橋は江戸時代からの旧町名でいうところの
右岸の酒屋町と左岸の西古川町の間に架かっていました。
しかし2つの町名は、
▼1963年(昭和38)11月1日、右岸の酒屋町は、
 上流の魚の町と下流の栄町に
▼1966年(昭和41)11月1日、左岸の西古川町は、
 上流の諏訪町と下流の古川町に
それぞれ住居表示が実施され、
現在では4つの町の間に架かることになりました。
これは、それまでの道筋がメインの町から
道筋自体が町の境になってしまった結果によるものです。






《眼鏡橋考 24》09年01月13日

高所恐怖症なもので…
というか、なかなか平衡感覚がないもので
川を横切る飛び石を渡ることができません。
なもので、飛び石からの写真撮影は、
ままなりません。



《眼鏡橋考 23》08年12月08日

朝、写真を撮っていると、ときどき
小、中、高、と幅広い子どもたちから
「おはようございます」と
元気のいい声がかかります。

子どもたちは、朝の挨拶をしているのです。

先日、眼鏡橋の上にすわり込んで撮っていたら
出勤途中の女性から「おはようございます」と
声がかかりました。

たぶん、その女性には旅行者に見えたのでしょう。



《眼鏡橋考 22》08年11月19日

諫早の眼鏡橋が造られたのは1839年(天保10)、
対して長崎の眼鏡橋の創建年は1634年(寛永11)。
長崎の方が200年近く古いわけです。
なのに「なんで諫早の眼鏡橋が重要文化財に指定されたのに
先にできたウチ(長崎)の眼鏡橋が指定されていないのか!」
と、言ったかどうかは知りませんが、
1960年(昭和35)2月9日、
長崎の眼鏡橋は、遅ればせながら国の重要文化財に指定されました。
(今回のお話は、あくまでも憶測です)



《眼鏡橋考 21》08年11月18日

じつは諫早にも立派な眼鏡橋があります。
現在は諫早公園に移設されていますが、
水害以前は本明川に架かる立派な橋でした。
この諫早の眼鏡橋は
1958年(昭和33)11月27日に
公共の道路石橋として
日本で初めて国の重要文化財に指定されました。
長崎の眼鏡橋を模して、
長崎の眼鏡橋よりずっとあとに造られたのにもかかわらず
長崎の眼鏡橋よりも先に文化財に指定されたのです。



《眼鏡橋考 20》08年11月10日

眼鏡橋が国の重要文化財の指定を受けた
1960年(昭和35)2月9日、
熊本県の通潤橋も同時に指定を受けました。
通潤橋は灌漑用の水路橋で、
橋の中央部分から放水される姿は圧巻です。
石管内にたまる土砂を流出させるための放水です。



《眼鏡橋考 19》08年11月10日

言い忘れていましたが、眼鏡橋は文化財です。
1960年(昭和35)2月9日
国の重要文化財の指定を受けました。



《眼鏡橋考 18》08年10月30日

第一橋から第十五橋までのそれぞれは
1882年(明治15)、西道仙により橋名が決まります。
第一橋………阿弥陀橋○○○○
第二橋………高麗橋○○○○○
第三橋………大井手橋○○○○
第四橋………編笠橋○○○○○
第五橋………古町橋○○○○○
第六橋………一覧橋○○○○○
第七橋………すすき原橋○○○
第八橋………東新橋○○○○○
第九橋………魚市橋○○○○○
第十橋………眼鏡橋○○○○○
第十一橋……袋橋○○○○○○
第十二橋……古川橋(常盤橋)
第十三橋……榎津橋(賑橋)
第十四橋……万(よろづ)橋
第十五橋……大橋(浜町大橋)



《眼鏡橋考 17》08年10月29日

眼鏡橋は第十橋ともいいました。
では、なぜ眼鏡橋が第十番なのでしょうか。
1715年(正徳5)に出された「長崎図志」で
著者の釈元享は、さまざまに呼ばれていた橋の名を整理しました。
第一橋のあみだ橋から第十五橋のおおはし(のちの鉄橋)まで
上流から下流に向けて便宜的に番号をつけたのです。
その十番目の橋が眼鏡橋だったのです。



《眼鏡橋考 16》08年10月28日

「眼鏡橋」には、たくさんの表記や言い方がありました。
第十橋、めがね橋、眼鑑橋、目鑑橋、目鏡橋、目金橋、靉靆橋(アイタイ/めがね)
めがね以外には、酒屋町橋、太鼓橋、拱橋、曲橋、反橋、虹橋、アーチ橋…。
それだけ、人々を魅了したのかもしれません。



《眼鏡橋考 15》08年10月27日

川面に映るその姿から「めがね橋」の名で親しまれていましたが、
1882年(明治15)、
正式に「眼鏡橋」と命名されました。
通称・俗称でしかなかった長崎市内の100余の橋名が
漢学者の西道仙により統一されたのです。



《眼鏡橋考 14》08年09月08日

川沿いには、たくさんの柳が植えてあります。
右岸、左岸ともにバイパスができたときの整備のようですが、
情緒があります。

ただ、雨が続くと葉にたまるしずくの重さで、
よけいにしなって垂れ下がります。
傘で下を通るときは気を付けなければいけません。
▽風が吹くと、たまったしずくが○○
 豪雨のように急に降りかかります。
▽柳があることを知らずに下を通ると
 柳の葉が傘ををなめます。
 すると、傘は突然の洪水にみまわれます。



《眼鏡橋考 13》08年09月08日

見知らぬ方から声をかけていただきました。
「最近、よく眼鏡橋の写真を撮ってるね」
「はい」
「それにしても橋のたもと、やなぎの木は残念だったね」
「そうですね」
たぶん、お近くにお住いの方か…
この辺り、よく散歩されているのか…
柳のこと、知っていることを前提として
話が進んでいきます。



《眼鏡橋考 12》08年09月01日

「最近、よく眼鏡橋の写真を撮っているね」
知り合いに声をかけられました。
「はい」
「これまで何回も、見かけたよ」
「はい」
その方の勤務先は眼鏡橋の近く。
毎日連続して150日以上…。
見ている人は見ているのです。



《眼鏡橋考 11》08年08月27日

全国から注目されている眼鏡橋。
真偽のほどは分かりませんが、皇居・二重橋のモデルになったとか…。
さらに、むかしは「日本橋」「錦帯橋」とあわせて
日本3名橋のひとつに数えられたそうです。



《眼鏡橋考 10》08年08月13日

歴史的にナゾの多い眼鏡橋ですが、
わが国のアーチ構造の草分けであることには変わりがなく、
造られて以後、石橋技術の基範とされて全国から注目されました。



《眼鏡橋考 9》08年08月01日

1795(寛政07)7月19日。
5月以降の長雨と18・19日の豪雨で彦山、烽火山などから泥水が噴出、
未曾有の大水害となりました。「寛政大水害」とも。
床上4〜5尺まで増水。死者5人(男3、女2)。
家屋の流失166、全壊39、半壊194。木戸流失16、破損14。
番所・木戸番所流失8、全壊1、破損17。
橋崩落、破損、流失25。船流失、破損各1など。
甚大な被害の原因のひとつには、眼鏡橋が堅固だったため
上流からの流木、塵芥などが引っかかり、濁流が近隣に氾濫したのが、
被害を著しく大きくしたともいわれています。
被災後、諸役人に銀を貸付。
罹災町民には分に応じて、1人あたり銀10匁、5匁、銭300文、200文
または1かまどあたり銀6匁4分、3匁2分を施与したそうです。



《眼鏡橋考 8》08年07月22日

眼鏡橋は1647年(正保4)6月4日の大洪水で崩流しました。
その翌年の1648年(慶安1)、
平戸好夢なる人が重修したとの旧記があります。
この重修が修復(一部補修)か新架(完全再架)かは不明です。



《眼鏡橋考 7》08年07月15日

先日、人がいるのにも気がつかず
夢中になって、カメラをのぞいていました。
気配を感じ視線を外すと
3人の修学旅行生らしき生徒さん。
なんと、邪魔にならないようにと
撮り終わるのを待っていてくれたのです。
せっかく長崎にきたのに、待たせてしまいました。
修学旅行生の女子高生たち、ごめんなさいね。



《眼鏡橋考 6》08年07月07日

少し前のお話です。
眼鏡橋に興味をもって55日を数えたとき、
初めて「お撮りしましょうか」と
声をかけられました。
心の中で、手をたたいて喜びましたが、
素直に「いいえ」と応えました。
「どちらから」と問われ、
つい「地元の者です」と応えてしまいました。
親切に声をかけていただいたのに
失礼なお返事をしてしまいました。

でも、もしそこで
「東京からきました」と応え、
後日、その方と再びお会いしたら……。



《眼鏡橋考 5》08年06月30日

お撮りしましょうか」。
グループやカップル、
女性のひとり旅ならまだしも
むさくるしい男がひとりで写真を撮っていて
そんな声をかけられるなんて思っていません。
でも、ちょっぴり寂しかったりして…。



《眼鏡橋考 4》08年06月22日

眼鏡橋の写真を撮っていると
観光客の方から声をかけられます。
カメラを手渡され
「すみません、撮って下さい」。
心よくお引き受けします。



《眼鏡橋考 3》08年06月14日

眼鏡橋は傾いて架かっています。
下流の袋橋から撮るときは
左岸に寄らなければ眼鏡橋の正面にはなりません。
逆に上流から撮るときは、右岸に寄ることになります。


6月14日(A)左岸寄りから●●●●●●●●●●●



《眼鏡橋考 2》08年06月13日

眼鏡橋は中島川の流れに対して、
左に約11度傾いて架かっています。




《眼鏡橋考 1》08年05月09日

眼鏡橋は1634年(寛永11)、
興福寺2代の住持唐僧、黙子如定(38)が架けたといわれています。
ただ残念なことに、黙子如定が直接、技術指導したのか、
それとも募財勧進のみを担当し工人技師が別ににいたか、は不明です。