プレ 眼鏡橋(の)日記
以 前

07年2月21日


  1982年(平成57)7月 中島川左岸、案内板より

  中島川上流より見ています。かなりの水量です。
  橋左岸には傘をさした親子らしい姿が…。

  

  橋右岸たもとより。
  頑丈な輪石を除いて、ほとんどが流されてしまいました。
  川面近くに人がたたずんでいます。

  

  袋橋も輪石以外はほとんど流されています。
  遠くには眼鏡橋も見えます。

  

  観光通りアーケードです。
  濁流に流されてきた車であふれています。

  


  1975年(昭和50)撮影(たぶんA)  中島川右岸、橋たもとの案内板より

  橋を渡る半袖の女性、河原にいる半ズボンの子ども…季節は夏のようです。

  


  1973年(昭和48)8月26日 撮影(O)
   郷土出版社発行「目で見る長崎市の100年」(平成14年7月11日発行)


  中島川の大清掃が1万人の市民を動員して行なわれました。
  長崎青年会議所の呼びかけです。
  写真は上流側から撮っており、左隅に袋橋が見えます。
  よく見ると右岸側には川が流れておらず、人が歩いています。

  


  昭和40年代(1965〜1975)撮影(たぶんN)  中島川左岸、案内板より

  奥に見えるのは、橋脚が健在の魚市橋。
  魚市橋は、1925年(大正14)という早い時期に
  石橋からコンクリート橋に架け替えられました。

  


  1963年(昭和38)以降 撮影(A)  絵はがき所蔵/藤城かおる

  8枚組の絵はがきのうちの1枚です。
  撮影年代が分からず、それぞれの被写体からの割りだしてみます。

  ケース表紙の三浦環像のほか
  崇福寺の第一峰門、市内の夜景、国際文化会館、
  平和祈念像、二十六聖人ブロンズ像、眼鏡橋、
  大浦天主堂、グラバー氏邸が写っていますが
  この中から年代が分かるものとして
   1955年2月11日、国際文化会館が落成
   1955年8月8日、平和祈念像の除幕式
   1962年6月、二十六聖人の像が完成
   1963年5月26日、三浦環像が建立
  (グラバー邸内)が挙げられます。

  ということで、かなりアバウトですが
  この絵はがきの発行は、1963年6月以降ということになります。

  


  1959年(昭和34)撮影(たぶんA)  写真提供/思案橋薬局

  建物が少なく、空が広々く感じられ…
  緑の山は大きく、間近にあるような錯覚をします。
  白い建物は、いまもあります。
  50年前の眼鏡橋も眼鏡になっています。

  


  1958年(昭和33)以降 撮影(T)
   土木施工管理技術研究所「石橋物語(上)」山口祐造著(昭和54年8月10日発行)


  眼鏡橋に車止めが施されています。
  これは諫早の眼鏡橋が文化財になった結果の処置と思われます。
  酒屋町側からの撮影です。

  


  1957年(昭和32)撮影(たぶんP)
   岩波写真文庫242「長崎県」(1957年10月25日発行)


  子どもたちが遊んでいます。
  右岸側アーチの向こうに袋橋、常盤橋らしき姿が。

  


  1951年(昭和26)撮影(T)
   岩波写真文庫38「長崎」(1951年7月30日発行)


  眼鏡橋を川面からではなく、橋面から撮っている珍しい写真です。
  階段がありません。完全にフラット。からだに優しいバリアフリーです。

  


  1935年(昭和10)撮影(V)  絵はがき(複製)所蔵/藤城かおる

  「長崎 目鏡橋(國寶)(昭和10.8.28日長崎要塞司令部檢閲濟)」の文字が見えます。
  写真は下流から上流を望んでいます。奥には魚市橋が見えます。
  橋の上には5人の子どもたちの姿が。右端には「マスニ石鹸」の看板があります。

  


  1934年(昭和9) 2004年吉田初三郎「景勝長崎」カレンダー(長崎文献社)部分

  眼鏡橋の前後にたくさんの石橋があります。
  他の橋は灰色なのに対し、眼鏡橋は白色。目立たせているのでしょう。
  控訴院、裁判所の前の通りが右側の県庁から市役所へと延びる道です。
  上側が寺のならぶ寺町。赤い線は路面電車の線路となります。

  

  地図は1934年(昭和09)1月25日、長崎市観光誘致協会と長崎市観光協会により発行。
  サイズは横770ミリ、縦177ミリ。表面カラー刷/裏面1色刷・印刷折本です。
  作者の吉田初三郎は大正から昭和初・中期にかけて
  多視点魚眼法による鳥瞰名所図会を全国にわたり1400種以上描きました。
  長崎を中心とした地図には北は東京から、南は台湾・上海まで描き込まています。


  昭和初期 撮影(V)  長崎文献社発行「華の長崎」ブライアン・バークガフニ著

  著書の副題に「秘蔵絵葉書コレクション」とあります。
  ブライアン氏が長年にわたり欧米の骨董品業者や
  ネットオークションなどで入手した、絵葉書617点を紹介しています。
  当時の絵葉書は、写真1枚ごとに手作業で丹念に色付けをしたそうです。

  橋の壁石には緑がかなり長く伸びています。
  写真下の説明は、日本語とエスペラント語。
  「酒屋町より磨屋町に架かる寛文十一年明僧如定の造る所實に我國眼鏡橋の創めなり」
  日本語は右から左に向かって書かれています。

  
  ブライアン氏より許可を得て転載させていただきました。


  明治中期 撮影(たぶんA)  中島川左岸、案内板より

  眼鏡橋の手前に舟がとまっています。
  もう少し上流には魚市がありました。

  


  江戸時代   中島川左岸、案内板より

  輪石を並べ終わり、最後の要石を打ち込んでいます。
  [長崎古今集覧名勝図絵/天保12年(1841年)]

  


  江戸時代   中島川左岸、案内板より

  土台となる木の仮枠を組終え、
  端から輪石を並べています。
  右側に架かるのは眼鏡橋でしょうか。
  [長崎古今集覧名勝図絵/天保12年(1841年)]

  


  江戸時代   絵はがき所蔵/藤城かおる

  「肥前長崎圖」の部分です。
  作られたのは享和1年(1801年)、大和屋版です。
  酒ヤマチとトキヤマチの間にある橋のまん中には
  他の橋にはない脚の様なものが見えます。眼鏡橋です。

  


  江戸時代   中島川左岸、案内板より

  「寛永長崎港圖」の部分です。
  現存する最古の長崎図といわれています。
  きっちり眼鏡橋も描かれています。
  寛永年間は西暦でいうと1624年から1644年まで。
  眼鏡橋が架かったのは1634年(寛永11)。
  だから地図が描かれたのは1634年から1644年までの間となります。