2002年(平成14)、市道出来大工町江戸町線の市公会堂と市民会館の間、
ちょうど公会堂前電停に架かる魚の町歩道橋が撤去されました。
下の図は日別撤去作業の状況です。
作業は約半年、延べ5日間にわたっての行程です。
それぞれの作業は路面電車の終電あと、夜半から早朝にかけて行なわれました。
▼1月16日、まずバス通りに並行する赤色の階段が2つ外されました。
電停ホームへの行き来はできます。でも並行階段がなくなり、なんとなく遠くなった感じ。
▼6月30日、電停ホームへの唯一の窓口、緑色の階段が外され、電停へ渡るための横断歩道が設置されました。
歩道橋としての役目が終わり、若々しい横断歩道に受け継がれたのです。
▼7月1日、市民会館側の青色の階段が外されました。
さらに市民会館側から約3分の1の箇所に仮の支柱を設けました。主桁(橋の部分)を分割して撤去するためです。
▼7月2日、市民会館側の主桁、灰色の部分が外されました。
▼7月3日には、公会堂側の黄色の階段と主桁の残り3分の2が撤去されました。
ここで、魚の町歩道橋ができるまでの流れを簡単におさらいしてみます。
まず1962年(昭和37)6月2日、本大工町に長崎市公会堂が完成しました。
敷地面積3597平方米、建面積1984平方米、鉄骨鉄筋コンクリート造り5階建てで工費約は2億5千万円。
そして1974年(昭和49)3月7日、魚の町の長崎中学校の跡地に総工費20億円の長崎市民会館が完成します。
同じ年の1974年(昭和49)8月13日、市公会堂と市民会館を結ぶ工費3400万円の魚の町歩道橋が完成。
あわせて公会堂前電停との連絡歩道橋となりました。
6つある階段のそれぞれの段数は
●●公会堂前(左側赤色)47段、長崎警察署側(黄色)45段
●市民会館前(右側赤色)47段、すすき原橋側(青色)45段
諏訪神社前電停方面(左側緑色)45段、賑町電停方面(右側緑色)45段、
公会堂前、市民会館前と電停への2本の計4本は並行してならんでいますが、その差が2段。
対して直角に位置する長崎警察署側とすすき原橋側は電停への2本と同じ45段でした。
下の写真は、ありし日の魚の町歩道橋です。
左は賑橋電停寄りの横断歩道から4本の階段を望んでいます。
右は歩道橋の上から電停ホームを見おろしています。
歩道橋が日本で初めて設置されたのは1963年(昭和38)4月25日、大阪駅前といわれています。
以来、1960〜70年代にかけての高度成長期、交通事故防止のために日本全国いたる所に設置されました。
長崎でも、1966年(昭和41)2月7日の長崎駅前横断歩道橋を皮切りに、市内41か所に設置されました。
長崎の場合、主に歩道と路面電車の電停ホームを結ぶための歩道橋が多く、主要道路には必要なものでした。
しかしながら時代を経て、高齢者や身体障害者の障壁をなくすためのバリアフリー思想が広がり
歩道橋の存在理由が薄れました。そして今、いたる所の歩道橋が信号・横断歩道に切り替わっています。
魚の町歩道橋も、そのひとつです。
生活に慣れ親しんだものがなくなるということを、ふと考えます。
いつも見ている光景だったのに、それが当然のように思っていたのに、
いつのまにか跡形もなくなっていきます。
環境を良くしていく……、より快適に過ごせるようにしていく……。
人間が人間として生きていくうえで、仕方のないことなのかもしれませんが……
でも、造っては壊し、造っては壊し……の追い駆けっこは、いったい、いつまで続くのでしょうか。
ちょっぴり寂しい気持ちが心の中で膨らんだ出来事でした。
上の写真は1月16日の撤去作業中の風景。雨の中、歩道橋の上から市公会堂方面を望んでいます。
階段は公会堂前公園に駐車したクレーン車からつるされ、車道のトレーラーへ降ろす手はずでした。
しかし、その途中には何十本もの太い電線が走り、困難をきわめました。
そのためトレーラーも公会堂前公園に停め、電線の上を越すことになったのです。
空中に浮かぶ階段の重さは約12瓲、段数は47ありました。
右側、窓から光がもれている建物は長崎警察署です。
市の担当の方から教えていただいたベストポジションです。
参考/「ナイト長崎」2002年(平成14)2月号、8月号