炭礦舎
1868年(明治01)、グラバーは佐賀藩と共同して近代坑法により長崎港外の高島に炭鉱を開発しました。
のち、三菱合資会社の経営に移り、1881年(明治14)に小曽根町22番に高島炭鉱の連絡所を置きます。
1901年(明治34)には、同じ場所に三菱高島炭鉱長崎駐在員事務所が建ちます。写真の建物です。
木造2階建で寄棟造り、各階南西北3面にベランダ、1階ベランダは有田焼のタイル張りです。
ベランダが周囲を取り巻く建築様式は、植民地風建築物として貴重な存在でした。
建物裏の桟橋は、高島、端島へ行く夕顔丸の発着場として長いあいだ親しまれました。
1971年(昭和46)、火災により一部が焼失し補修されました。
そして1985年(昭和60)1月、老朽化したこの建物は市民に惜しまれながら解体されました。
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解体間近の炭礦舎です。
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1階ベランダ、有田焼タイルの一部です。
上写真提供/田島徳子、中・下写真提供/坂本恵子
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