其之参拾陸
【真説】江戸の仇は……
2011年(平成23)1月15日
長崎を扱った諺(ことわざ)のお話しです。
『江戸の仇は長崎が討つ』という諺があります。
『江戸の仇は長崎で討つ』という言い方もあるようです。
では実際、『江戸の仇』は『長崎が討つ』のでしょうか、それとも『長崎で討つ』のでしょうか。
まず「広辞苑」第二版をひも解いてみます。
すると「江戸」の項目のなかに『江戸の敵を長崎で討つ』とあり、
意味として〈意外な所や筋違いのことで昔の怨みをはらす。一説に、「江戸の敵を長崎が討つ」。〉とありました。
はたまた「新明解国語辞典」第五版にも、「江戸」の項目に『江戸の仇を長崎で討つ』とあり
〈意外な所、また筋違いな事で仕返しをする意のことわざ〉とありました。
ともに『江戸の仇』は『長崎で討つ』としています。
またインターネットの検索サイト「Google」で、どちらが多いのかそのヒット件数を調べてみました。
(1月11日(火)午前0時10分現在)
まず「かたき」の漢字を『敵』と『仇』に分けたうえで、『長崎が』と『長崎で』の両方をみてみます。
江戸の敵を長崎が討つ…8,520件 江戸の敵を長崎で討つ…4,070件
江戸の仇を長崎が討つ…5,320件 江戸の仇を長崎で討つ…2,970件
『敵』『仇』ともに『長崎で』よりも『長崎が』が2倍近く多く検索されました。
また『討つ』を『打つ』とすると、「もしかして『討つ』ではないか」と聞き返されながらも、
検索すると、やはり『敵』『仇』ともに『長崎が』が多い結果となりました。
江戸の敵を長崎が打つ…49,700件 江戸の敵を長崎で打つ…37,400件
江戸の仇を長崎が打つ…10,900件 江戸の仇を長崎で打つ…8,810件
総数で12万7690件。『長崎が』と『長崎で』に2分すると74,440件と53,250件に分かれ
百分率でいうと『長崎が』58.3%に対し『長崎で』41.7%となりました。
全体からみると、極端な差はでていませんが6対4くらい。
辞書の意味では『長崎で討つ』となります。
インターネットの検索サイトでは、逆に『長崎が討つ』に軍配があがりました。
そんな『江戸の仇』は、なにかの比喩、あくまでも単なる諺だとばかり思っていました。
しかし、この諺、史実でもあったようなのです。
1989(平成1)年4月に長崎市役所が「市制百年長崎年表」を作りました。
その1819(文政1)年の項に説明がなされていたのです。
「7.下 長崎の細工人、江戸でガラス細工(ギヤマン細工灯篭とビイドロ細工のオランダ船)の見世物を興行、満都の人気を集める」
として、その説明に「*このころ、江戸では籠細工で江戸の職人と大坂の職人が腕を競いあい江戸の職人が負けて、大坂の職人の見世
物には見物人が殺到していたのが長崎のガラス細工に人気が集まり、大坂の職人方が寂れたので、江戸ッ子が溜飲を下げ、江戸の町々
では“江戸の仇を長崎が討つ”―という語が流行し、これがのちに“長崎で討つ”となった、という説がある」
辞書とは逆、「Google」の検索結果と同じ『長崎が』を史実として打ちだしています。
いったい、どういうことなのでしょうか。
*
たとえば『長崎で』とすると、長崎が場所を示すことになります。
『長崎で』といっても、長崎で誰がなんの仇を討とうというのでしょうか。
「市制百年長崎年表」の記述をもとに『長崎で』とした場合の話を進めてみます。
江戸へやってきた大坂の職人は、江戸の職人と腕を競い、江戸の職人よりは勝ったものの、長崎の職人には劣ってしまいます。
話の筋からいうと、大坂職人が競い敗れた職人技の仇を『長崎で』討つことになります。
だからといって、大坂の職人と江戸の職人が長崎まで行って、もう一度、勝負をしようというのでしょうか。
もし『長崎で』勝負をしようものなら、当時、長崎は唯一外国に開かれていた街なわけで
交流のあった中国直伝の篭職人が住む籠町があり、また江戸で負かされたビードロ細工職人もいるでしょう。
はたして、そんな『長崎で』勝負をする意味があるのでしょうか。
大坂の職人にしてみたら、江戸の仇を『長崎で』討ちたかったのでしょうが、
長崎に行ったら、もっとみじめになるかもしれないのです。たぶん勝敗は目にみえています。
はるかかなたの長崎まで、わざわざ出むいて『長崎で』仇を討たなくても、江戸で勝敗はついているのです。
なにを隠そう『江戸職人の仇』は江戸で『長崎の職人が』討ったのです。
やはり、「市制百年長崎年表」のように『江戸の仇は長崎で打つ』よりも
『江戸の仇は長崎が打つ』方が、自然に思えてなりません。
もう少し説明を加えるならば『江戸職人の仇は長崎の職人が打つ』と言った方が、より明確になります。
では、どうして辞書の類で『長崎で討つ』ようになったのでしょうか。
辞書の意味、「意外なところ、また筋違いな事でむかしの恨みをはらす」とは
大坂の職人が長崎の職人に意外にも負けてしまった腹いせに、『長崎で』恨みを晴らそうとしたのでしょうか。
まさか負かされた敵の陣地、長崎に乗り込んで、意外な地『長崎で』仕返しをするわけもなし。
ただ、『長崎で』を正当化するひとつの理由に、
長崎が江戸から離れているところから「意外なところ」として結びついて、『長崎で』がひとり歩きしていったのかもしれません。
いつのまにか意味が取り違えられてしまいました。極端にいえば史実がねじ曲がってしまったのです。
あくまでも、ひとつの説です。