其之参拾肆
江戸時代創始前後のハンセン病病院のこと
2010年(平成22)11月22日


長崎の歴史のなかで、キリシタンの弾圧と部落の人たちが深くからみあっていたように
キリシタンの弾圧とハンセン病の人たちも、切っても切り離せられない関係にあったようです。
そこで今回は、江戸時代創始前後の長崎の歴史のなかから、ハンセン病をとりあげてみました。


〜3つのハンセン病病院〜

江戸時代直前の天正年間に、長崎で3つのハンセン病病院が建ちました。

まず、1583年(天正11)、ミゼリコルディアが本博多町に設立しました。
ミゼリコルディアの正式名称は、コンフラリヤ・デ・ミゼリコルディア。
直訳すると「慈悲の兄弟会」となります。
キリストの教えによる隣人愛の仕事をしたのがミゼリコルディアで
ポルトガル系の宣教師たちが伝道した東南アジアでも組織されました。
社会事業など、その相互扶助の範囲も広く
医療、老人病院、死者埋葬、孤児養老院、未亡人保護、救貧、矯風活動、高利貸禁止などがありました。
そのうちのひとつの機関として、ハンセン病病院ができました。

そして1584年(天正12)頃、
里郷(長大医学部から大学病院あたり)に教会堂とハンセン病病院ができました。

さらに1591年(天正19)には、
ポルトガル船船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄付により
筑後町にサン・ラザロ病院(ハンセン病病院)が建ち、サン・ジョアン・バプチスタ教会が併設されました。

しかし、1614年(慶長19)、
徳川家康が発布した禁教令により、長崎の町のほとんどの教会が破却されました。
筑後町のサン・ジョアン・バプチスタ教会と里郷のハンセン病病院も含まれていました。
遅れて1619年(元和05)には、本博多町のミゼリコルディアが破却されました。

じつは、あともうひとつ、ハンセン病病院として浦上のサン・ラザロ病院があります。
でも、創立も破却の年も分かっていません。
場所は二十六聖人が最後に休息をとった浦上の入口の小さな丘の上、
現在の坂本町山王神社にあったとされています。

では、なぜ同時期に長崎に計4つのハンセン病病院が建ったのでしょうか。
そんなにもたくさんの患者さんがいたのでしょうか。


〜国立ハンセン病資料館へ〜

なぜ、ハンセン病病院が長崎に4つもあったのか?
真相究明のため国立ハンセン病資料館に行きました。

国立ハンセン病資料館は
東京都東村山市内、西武池袋線の清瀬駅から歩いて20分ほどのところにあります。
ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見や差別の解消と
患者や元患者の名誉回復を図ることを目的につくられました。

しかし残念ながら、明確な答えを得ることはできませんでした。
ただ実質的に、4つも病院を作らなければならないほど
患者さんがいたわけではないことは、確かなようで。
なにか、他に理由があったのかもしれません。

資料館には、分からないことを聞きに行ったつもりでした。
でもなぜか、話しをしているうちに……
逆に長崎の歴史を、提供することになりました。

1631年(寛永08)、キリシタンが多数でたため
武士は刀を使って処刑すること自体負担に感じました。
あるとき、たくさんのハンセン病患者がキリシタンとして摘発されました。
大切な刀がけがれる、それだけの理由で武士は患者を国外に追放しました。

1831年(天保02)、
ハンセン病の治療薬・大風子(ダイフウシ)約28トンが長崎に中国船で輸入されました。
その輸入量から、日本には50万人前後のハンセン病患者がいただろうと推測されます。
ただ、薬の帳簿上の輸入量には増減があり、かなりの密貿易がされたようです。
大風子は東南アジアからインドの熱帯、亜熱帯地方に自生するイイギリ科の樹木。
大風子の種から精製した脂肪油が、ハンセン病の治療剤として用いられました。


〜日本初の洋式病院〜

日本に初めて洋式病院をもたらしたのは、貿易商人で医師のルイス・デ・アルメイダ。
1557年(弘治03)、豊後の大友宗麟の広大な館の近くに府内病院を設立しました。
およそ1600坪の敷地に住院、孤児院、牛小屋、十字架、司祭住院、ハンセン病棟、使用人の小屋、
切支丹墓地、外科・内科病棟、天主堂、神父住院、天主堂……が順次建設されました。
病院では治癒する見込みのある貧民を収容し、完全看護体制で治療を行なっていました。
施術費はすべて無料。噂を聞きつけ、遠くは関東や東北からも多くの人々が集まりました。
そのため1559年(永禄02)には患者数が増加、病院が増改築されます。

しかし翌1560年(永禄03)になると
アルメイダたちのもとに欧州のイエズス会本部から医療禁止令が届きました。
聖職者の地位の者は、人間の生命にかかわる医療施術や生死の判決にかかわる職に就いてはならない、と。
1558年(永禄01)に決議されたものですが、日本のイエズス会士たちは命令に従います。
アルメイダたちは病院からいっさい手を引き、九州や畿内を中心に本来の布教活動に専念します。

病院は日本人医療従事者へと引き継がれますが、財政難なども重なり衰退の一途をたどります。
そして1587年(天正15)、豊臣秀吉が行なった九州平定の際
島津義久の軍が府内を陥れたとき兵火により焼失してしまいます。


〜ハンセン病病院は全国に26か所〜

「長崎年表」には、
浦上のサン・ラザロ病院以外を除いて3つのハンセン病病院の設立を記しています。
○本博多町のミゼリコルディア
○里郷の教会堂とハンセン病病院
○筑後町にサン・ラザロ病院
でも、国立ハンセン病資料館の方は2つだけ確認していたそうで、
4つの病院の存在に驚いていました。

国立ハンセン病資料館に行った数日後、手元にある資料で、さらなる記述を発見しました。

長崎人権研究所の「被差別民の長崎・学」142ページには
「……少なくとも一六一四年までは全国で十一以上のラザロ病院があったとされる。
府内(豊後)(一五五九)、臼杵・京(一五六二)、大坂(一五八六)、堺(一五六七)、
広島(一六一三)、長崎(一五九三)、有馬・和歌山(一六〇八)、浅草(一六〇二)、五島など。
これらハンセン病施設は、追害期には宣教師やキリシタンの隠れ家として機能している……」

とあります。ちなみにラザロ病院とはハンセン病病院のことのようです。
ただ、府内と長崎の設立に限っていえば、府内が1559年、長崎が1593年となっており
これまで記してきた豊後の府内病院(1557)や長崎のミゼリコルディア(1583)と符合しません。
原因は不明です。もしかしたら府内病院やミゼリコルディア以外にも病院があったのかもしれません。
府内の設立から長崎の設立まで34年と離れているのも驚きですが、
途中には臼杵、京、堺、大坂と、長崎よりも先に4か所も設立されているのです。

もうひとつ社会思想社の「よみがえる部落史」55ページには
「ハンセン病患者の収容所がもっとも多かった京都では、最盛期には八〜九ヵ所を数え、
全体で四〇〇人以上の収容能力があったと推定されます。そのほか大坂に六ヵ所、
長崎に五ヵ所、江戸に二ヵ所、大分・広島・堺・和歌山・出羽に各一ヵ所を数えます……」

なんと、豊後府内や開港地長崎だけでなく、
江戸幕府が開かれる前(?)の江戸や、はては出羽まで日本全国に及んでいたのです。
まして、長崎には5つもあったとのこと。
長崎には、ミゼリコルディア以外にも、教会に付属する病院があったようです。
もしかしたらそのなかに、ハンセン病病院もあったのかもしれません。
詳細は未確認。のちのちの課題です。




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