其之弐拾質
1間の寸法について
2006年(平成18)4月13日


(1)検地って何?

去年の7月、年表BBSに1間の寸法について
『長崎の民家一間は六尺三寸(1M 90CM)です。寛文の区画整理、通り筋一間が1M 80CMなのか1M 90CMかは調
べる必要あると思われます。民家の一間六尺三寸は長崎文献社、昭和61年発行、長崎への招待の93ページより。』
というご指摘を受けました。たいへん遅くなりましたが、そのご報告です。

まず素朴な疑問です。ご指摘の中に『……一間が1M 80CMなのか1M 90CMか……』とありますが、
ひとつの1間という寸法が、2種類に換算されるとはどういうことなのか?というところから始めます。

調べてみると、江戸時代には1間の長さが時代によって……場所によって……
6尺5寸だったり、6尺3寸だったり、6尺だったりしていたようです。なぜこのようなことが起きたのでしょう?

戦国時代から江戸時代にかけて、3回ほど検地が行なわれました。
検地というのは、土地を支配する幕府や大名が、
その種類や面積、耕作者、生産高を明確に把握するために行なった基本調査のことです。
これらの検地で使われた「検地竿」の長さの違いが、1間の長さに違いを生じさせてしまったようです。

(1)豊臣秀吉は全国平定を成したあと、すぐに「太閤検地」といわれる検地を実施。
1594年(文禄3)と翌年に、ほぼ全国一斉に施行しました。
このとき長さと面積の基準を統一し、1間を6尺3寸、300歩(坪)を1反としました。
(2)太閤検地から約80年ののち、江戸時代に入って
寛文年間(1661〜73)に関東地域で「寛文検地」が行なわれました。
(3)また1677〜79年(延宝5〜7)に畿内、西国地域で「延宝検地」が行なわれました。
寛文と延宝の検地では1間を6尺とし、1反は300歩の基準で検地を行ないました。

江戸時代の2回の検地は幕府直轄領だけで行なわれ、
検地が行なわれなかった地域では旧来の寸法がそのまま残ってしまいました。
そのため、1間を6尺3寸とする地域と6尺とする地域が生じてしまったと考えられます。

このことは1794年(寛政6)に書かれた「地方凡例録」にも記述があります。一部要約してみますと……
『中世には六尺五寸、秀吉のころには六尺三寸、徳川期には六尺となり、
検地のあった時期が不明な所は、中世の六尺五寸のままの所もある』と解説されています。

時代を経るごとに換算が変化するのは、よりよくしていくという意味を含めて、有り得ることでしょう。
ただ、同じ時代の中で、地域により誤差が生じるのは、いろいろな意味で、
まだ統一が未熟だったということへの、裏付けになってしまうのではないでしょうか。


(2)資料によって違う

ご指摘のあった『寛文の区画整理』ですが、
その発端には1663年(寛文3)3月8日に起きた「寛文の大火」があげられます。
当時の長崎全66町のうち57町が全焼、6町が半焼、3町のみが焼け残ったそうです。
鎮火したのは翌日、なんと20時間も燃え続けていたようです。
結果、長崎奉行所は1672年(寛文12)に市街の区画を整理し町を細分化しました。
その区画整理をしたときの寸法が問題なのです。資料によって、まちまちなのです。

▼(1)「……街路の幅員においては本通り筋は四間(八メートル)、脇通り筋は三間(六メートル)、
溝渠は一尺五寸(四十五センチメートル)を基準とした……」

(「長崎の歴史を辿る」鉄川与八郎著)

▼(2)「……各町の本通り筋四間(七・二メートル)、
脇通り筋三間(五・四メートル)、溝幅一尺五寸(約四十五センチ)とした……」

(長崎文献社「天領長崎秘録」籏先好紀著)

▼(3)「……これを機に奉行所は道幅を約五メートル半、溝の幅を約五〇センチに……」
(長崎文献社「ながさきまちづくし」嘉村国男著)
寸法は現在のメートル法だけで、かなり省略されております。

▼(4)「……焼失各町の道路を、通り筋4間・脇町3間、溝幅1尺5寸とする……」
(長崎市役所「市制百年長崎年表」)
現在の寸法には換算しておりません。
凡例にも省略表記や単位記号があるのみで寸法の換算までは言及しておりません。

▼(5)「……この火事で長崎市街の区画が整理され焼失各町の道路を通り筋四間(七・二メートル)
脇町三間(五・四メートル)溝巾一尺五寸(約四五センチ)とする……」

[長崎文献社「新長崎年表(上)」]

▼(6)「……この大火のあと道路幅を整理し、通り筋町幅四間(七・二メートル)、
脇町幅三間(五・四メートル)、溝幅一尺五寸(五〇センチ)に統一……」

(長崎新聞社「長崎県大百科事典」)

実際の長さは、ひとつしかないわけですから、みな、同じことを言っているはずです。
にもかかわらず資料により、数値がここまで違うのは、
基準になる1間の換算値(6尺、6尺3寸、6尺5寸)が、それだけ曖昧なところに原因があると思われます。

ちなみに「長崎年表」では、1672(寛文12)の項に
▼「……寛文の大火の再建にあたり都市計画を施行し町を細分化。
市街の区画を整理。各町本通り筋4間(7.2米)、脇通り筋3間(5.4米)、溝幅1尺5寸(約45糎)に……」

としております。


(3)問題が明らかに

まず、間・尺・m の数値の換算を明確にし、以降の参考にしたいと思います。
1間は1間として、それぞれの解釈、6尺、6尺3寸、6尺5寸をメートルに換算すると
6尺………1m 81.8181cm
6尺3寸…1m 90.9090cm
6尺5寸…1m 96.9696cm
となり、本通り筋4間は
7m 27.2727cm(6尺×4)
7m 63.6363cm(6尺3寸×4)
7m 87.8787cm(6尺5寸×4)
となります。

BBSでご指摘のあった「長崎への招待」の問題の箇所を少々長くなりますが、抜きだしてみます。
『……さて長崎の民家は大きく分けて関西系とでもいうべき部類に属する。その理由の一つは、六尺三寸(一メー
トル九〇センチ)の京間畳を用いていることで、大正末期以降、時折り見受けられる五尺八寸(一メートル七五セ
ンチ)内外の田舎間の畳は例外として、本筋は飽くまで京間である。昨今、長崎では京間と田舎間を取り違えて呼
ばれることが多いので、広い方が京間、狭い方は田舎間と呼ぶのが正しいことを特にはっきりしておきたい……』

著者は、長崎の民家の広さについて、関西系の京間を用いていることを強調されています。
『一間』という単語は、ひとこともでておりませんが、
もし、長崎で1間=6尺3寸(1m 90cm)を用いていたとすると、本通り筋4間は7m 63.6363cmとなります。

ここで大問題が発生してしまいました!!!
前章の6つの資料のうち、3つの(2)(5)(6)が「通り筋四間(七・二メートル)」と示しています。
4間(7.2米)ということは1間=6尺(1m 81cm)となってしまい……
「長崎への招待」と3つの資料との間に違いが生じてしまうのです。
なるほど。ここにきて、初めてBBSのご指摘の意味が分かりました。
でも、大変です。どうしましょう! どうしましょう! どうしましょう!
いちばんの大きな壁にブチあたってしまいました。でも、どうすることもできません。


(4)概念的な数字!?

いまのところ、ここまでが限界です。
まったくもって問題提議で終わっていて、ぜんぜん解決がなされておりません。
中途半端な状態で締めるのも忍びないですが、今回は、このあたりで結論に結びつけさせて下さい。

年表という性質上、統一しなければいけないことは、たくさんあるでしょう。
統一するのが当然かもしれません。
ただ、限りない、まちまちな資料からそのままの寄せ集めなため、統一の表記がされておらず、
その事象事象で表記や換算が違う可能性は多いにあります。それを統一させるのは至難の業です。
まだ、どの時点で、何に統一しなければいけないのか分からないのです。

「ご覧になる前に必ずお読み下さい!」にもありますが、漢字や略号の表記も、まだ統一がなされておりません。
旧暦・新暦の問題にしては、それぞれの事象の順番が入れ替わってしまうという大きな可能性も含んでおります。
そのあたりも、いまのところは未解決で中途半端です。
同じように今回の寸法単位の問題も、まちまちで、これからの大きな課題のひとつです。

最後に、「長崎の歴史を辿る」(鉄川与八郎著)の中に興味深い文章がありました。引用させていただきます。
『……近世においては、一間が六尺だったり六尺三寸だったり六尺五寸だったりしたから、これらの面積・
長さ等の表示は現在の単位による数値とは多少異なる。正確なものは掴みようがない。……(略)……従って
これらの数字は概念的な数字であると考えてほしい……』。

果たして、歴史に素人の私が、ここまで言及してよいものなのでしょうか?
こんなことをしていいのでしょうか?不安でなりません。
お恥ずかしい話ですが、もしかしたらほんとうは……答えは、とっくにハッキリとでていて、
資料足らずの私ひとりが知らないで、右往左往しているだけなのかもしれません。

今回、1間=6尺(1m 81cm)の資料が3つあるからといって、結論づけることはしません。
なにも根拠のないことで確証はありません。そのあたりは、専門の先生方にお任せしたいと思います。
……なもので、もう少し深く追及し答えを導きだしたいと思います。そのときまで、しばらくお時間を下さい。


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