其之弐拾弐
長崎の新聞史
2005年(平成17)8月1日
長崎で初めて新聞が創刊されたのは、1868年(慶応4)8月のこと。
「崎陽雑報」が 、日本初の地方新聞として創刊しました。
以来、いくつもの新聞が創刊、改題、分離、合併、廃刊を繰り返し現在に至りますが、
そんな新聞の変遷を年表に閉じこめるだけではなく、表を作ってみました。
いつの時代に、何という新聞が発行されていたのか、
また同時期に何新聞が競合していたのかが、比較できたらいいのですが……。
ただ年表と同じく、まだまだ未確認や間違いもあるかもしれません。
随時、修正は加えますが、その点は御了承下さい。
そんななか、1919年(大正8)7月に鎮西精図社より発行された
「長崎市地番入分割圖」の『長崎市著名録索引』に、7つの新聞社名が載っているのに気づきました。
▼1919年(大正8)は、「九州日之出新聞」が廃刊となった直後で
2年後に「長崎経済日報」が創刊されるという狭間となります。
▼「長崎プレス」は、1870年(明治3)に創刊した「ナガサキ・エキスプレス」が
「ライジングサン・アンド・エキスプレス」「キューシュータイム」と改題し
「ナガサキ・プレス」に引き継がれる英字新聞のことです。
また、これだけの記事にもかかわらず、新たに2つの発見がありました。
▼これまで、1889年(明治22)3月22日に創刊した「長崎商報」の廃刊年月日は不明でしたが、
『著名録』に載っているところから、この時期も、引き続き発行していたことが分かります。
ただ廃刊年月日は、分からないままです。
▼表や年表にはない社名を『著名録』のなかで見つけてしまいました。
銅座町の「長崎実業新聞」と西浜町の「崎陽日日新聞」です。
ただ当時、年表では「長崎日日新聞」の発行所が西浜町とあり、
もしかしたら「崎陽日日新聞」と「長崎日日新聞」の2紙が混同しているのでは……?とも思いましたが、
『著名録』には「長崎日日新聞」は出島町とあり……まだ、はっきりしたことは、よく分かりません。
「長崎実業新聞」と「崎陽日日新聞」は、創刊・廃刊年月日ともに分からず、年表に入れられないのが残念です。
……ということで、長崎の歴史の中には、埋もれた未確認の新聞社が、まだまだあるかもしれません。
ちなみに年表と表に入っている紙名を単純にアイウエオ順に列記してみますと
「絵入り長崎新聞」「開国新聞」「九州時事新聞」「キュウシュウ・タイム」「九州日之出新聞」
「崎陽雑報」「軍港新聞」「西海新聞」「西海日報」「佐世保軍港新聞」「佐世保時事新聞」
「島原新聞」「新島原新聞」「鎮西日報」「東洋日之出新聞」「ナガサキ・エキスプレス」
「長崎経済日報」「長崎時事新聞」「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」
「長崎自由新聞」「長崎商報」「長崎新聞」「長崎新報」「長崎日日新聞」「長崎日報」
「ナガサキ・プレス」「長崎毎日新聞」「長崎民報」「長崎民友新聞」「夕刊長崎タイムス」
「夕刊日日新聞」「ライジングサン・アンド・エキスプレス」
の32紙です。
ところで、新聞の歴史の中で、いちばんの事件はというと、
やはり1940年(昭和15)に、
東郷内閣が国策遂行のためすすめた通信、報道の統合強化による1県1紙の体制づくりでしょう。
長崎県では「長崎日日新聞」と「長崎民友新聞」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残ったといいます。
しかしながら1942年(昭和17)4月1日、
合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
ついに県内の4紙が「長崎日報」に統合されます。
4紙とは、「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」の他、佐世保の「軍港新聞」と「島原新聞」です。
この新聞統合により、それまで全国で2422紙あった新聞が55紙になったといいます。
かなりの減りようです。
現在でこそ、戦後制定された憲法で表現の自由は保証されていますが、
当時のことを考えると、言論統制など国家権力はとても尋常でなく、筆舌に尽くしがたい感があります。
そして終戦の1か月前の1945年(昭和20)7月には、「長崎日報」が「長崎新聞」と改題され、
戦後、1946年(昭和21)12月9日には「長崎新聞」が元の4紙に戻ります。
「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」はそのままですが、
旧「軍港新聞」は「佐世保時事新聞」に、旧「島原新聞」は「新島原新聞」に改題し再スタートます。
現在は、戦時中とは違う意味で統合合併されていますが、長崎の新聞の変遷を見て気づいたことをひとつ……。
他にも発行されていて確認できていない新聞もあるかもしれませんが、
いまのところ県内で、いちばん多く発行していた時期を探ってみました。
すると1906年(明治39)には、10の新聞が発行されていたことが分かりました。
「開国新聞(島原新聞)」「キューシュータイム(英字新聞)」「九州日之出新聞」「佐世保軍港新聞」
「鎮西日報」「東洋日之出新聞」「長崎商報」「長崎新聞」「長崎新報」「長崎毎日新聞」
長崎市外の「開国新聞(島原新聞)」「佐世保軍港新聞」、英字の「キューシュータイム」を省いても市内だけで7つです。
さらに全国紙もあったでしょうから、かなりの数に上るものと思われます。
ただ、他の都市との比較をしていないため、上の数が多いのか少ないのか判断できないのが残念です。
さてさて、長崎の新聞の歴史を振り返ってみると
やはり、江戸時代以前から海外との窓口として成立し、文化の面でも他にはない特性を培ってきました。
鎖国が終わり、居留地時代の早い時期から、先駆的な一面を見せていたといっても過言ではないでしょう。
なんといっても長崎で初めての新聞「崎陽雑報」が 、日本初の地方新聞なのですから……。
印刷技術の面でも、長崎は特出しており、
1870年(明治3)3月には、本木昌造が新町に活版印刷所を創設。活字製造と印刷を始めます。
日本の民間印刷所の先駆けとなりますが、それはまた別の話です……。