其之弐拾壱
脱獄囚が裁判官に……!?
2005年(平成17)6月28日


実はこの話、はじめは年表の中に、ひとつの事象として入れておりました。
しかしながら、それぞれが年ごとに孤立してしまうと、全体の流れが把握しにくいことに気がつき
あえて、年表から抜くことにしました。で、あらためて、まとめてみることにします。
有名な事件らしく、クイズ番組で取り上げられたり、
短いドラマになったりと、たびたびテレビで紹介されているようです。

ときに1877年(明治10)、江戸時代から明治新政府になってまもない頃のこと。
法曹関係は、まだ国家権力として安定していなかったようで、
1877年(明治10)から1885年(明治18)にかけて、毎年1000人以上が脱獄したといわれます。
この事件は、その中のひとつ、とても信じがたいお話です。

島原藩士の息子で江戸・東京在住の渡辺魁(かい)は、もともと生来放蕩無頼でしたが
長崎に戻ってから、より素行が悪くなり、遊郭で遊びにふけるようになりました。
小川町辺に住む芸者おともに浅からぬ契りを籠めて、月々の給料を打ち込むようになります。
挙句の果てには、勤め先の三井銀行長崎支店より印章を盗用行使して、金員80余円を詐取し
為替証書偽造金品着服横領事件となります。
「雇人盗家財物罪」により、魁は長崎始審裁判所で終身懲役の判決を受けます。
魁は、反省するどころか、監獄の中では、たびたび犯則を犯すようになり、
長崎県監獄三池懲役場の三池大浦坑(福岡県大牟田市)で、採炭をする労役に服するようになります。
地底での採炭はきつく辛い労役で、苦痛に耐えかねたのか、エネルギーが貯まりに貯まっていたのか
1880年(明治13)に、地の底から足の鎖を切断して脱獄します。
魁は、もと長崎の裁判所職員の父と連絡を取り、今後のことを相談します。
結果、戸籍を偽造し「辻村庫太(くらた)」になりすますことに。
辻村庫太として生活をはじめると、前科を隠すために努力を惜しまず勉学に励み
大阪府庁地方税掛から、大分始審裁判所竹田支部治安裁判所雇となり大分始審裁判所書記にまで昇進します。
そして、なんと1887年(明治20)には、あれよあれよと判事登用試験に合格。
判事試補に任官し長崎始審裁判所福江治安裁判所に勤務することになります。
長崎始審裁判所は、魁が終身懲役の判決を受けたところです。
なもので、さすが赴任の挨拶には行くことができず、病気を口実にして訪問を取りやめたそうです。
さらに3年後の1890年(明治23)9月には、判事試補から判事となる離れ業を演じ、
結婚し長男をもうけます。その間に福江では民事事件36件、刑事事件3件の判決にかかわります。
魁は大分の父を呼び寄せ、弟も裁判所に勤務することになりました。
しかし、身内を呼び寄せたことに、おごりがあったのかもしれません。
町では「よォ、渡辺じゃないか」と、心ない知り合いに声をかけられたりするケースが重なります。
いつのころからか、「辻村判事は脱獄囚の渡辺魁に似ている」との噂がたち、
福江警察署員や検事が秘密裏に捜査を始めます。
そして1891年(明治24)2月18日に、まず魁の父と弟が逮捕され、
翌19日には、大村区裁判所検事某氏が出張中の旅人宿にいた辻村庫太こと渡辺魁を逮捕します。
皮肉にも捕らえた検事は、かつて魁を取り調べた長崎署警部だったのです。
検事は、逮捕やむなしと考え、同伴の巡査をして魁に手錠を掛けさせました。
劇的な逮捕劇であったことでしょう。
その後、魁は長崎地方裁判所に、戸籍に関する官文書偽造行使被告事件で起訴され、
軽懲役6年の判決を受け服役しました。
ところが、翌年大審院検事の非常上告を大審院が容れ、魁は無罪となります。
理由は、戸籍簿の記入は官吏が職務上なしたものであり、
魁は虚偽の陳述をしただけで、偽造をしたわけではないというものだそうです。
服役中は謹慎に努め、放免後は島原で印判彫刻業を始め、
能書であることから、看板業、経師屋を営んで余生を送り、犯罪に戻ることはなかったようです。

1880年(明治13)の脱獄から、1891年(明治24)の逮捕まで、
なんと11年ものあいだ、渡辺魁は辻村庫太になりすましていたことになります。
ウソのようなホントの話…、事実は小説よりも奇なり…、
歴史上のこととはいえ、とても真実とは思えない事件です。
かりに今の日本で、年に1度でも脱獄事件があったら、それはもう大変なことになるでしょう。


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