其之伍
長崎の町【2】はじめは移民の町
[2003年(平成15)10月2日(木)]


1571年(元亀02)03月。
室町幕府が滅び、徳川幕府が開かれる少し前、戦国時代の終わり頃のこと。
海に突きでた岬。麦畑が広がり森が生い茂った長崎の地を拓いて、町が作られた。
出来た町は全部で6つ。
《嶋原町》《大村町》《平戸町》《横瀬浦町》《文知町(分知町)》《外浦町》と名付けられた。
ほとんどが近隣の土地の名である。
《嶋原町》《大村町》《平戸町》はもちろんのこと、
《横瀬浦町》は西彼杵半島の先端の町であり、
《外浦町》は西彼杵半島南西部の角力灘を望む地域の名称である。
ただ《文知町》《分知町》とも書く。
ひとつの町に2つの漢字が当てはめられ、それぞれ別にに由来があるのだ。
《文知町》は、住んでいた唐人の名からきており、
《分知町》は、家老の領地などを分知と称したことによる。
どちらが正しくて、どちらが間違っているかは……さておき。

町が作られる直前まで、人はほとんど住んでいなかったというが、
6か町はまたたく間に賑やかになり、戸数400余り、
人口は1000とも1500ともいわれるまでにふくらんだ。
移り住んだ人たちは町名が示す通り、それぞれの土地から移り住んできた人たちや、
周辺からの来住キリシタンや戦乱に追われた亡命者たちばかり。
後につくられた博多町、樺島町、江戸町、五嶋町、豊後町、筑後町、榎津町。
これらの町名も、移り住んだ人たちの出身地名によるもの。
ただ江戸町だけは、江戸の人たちが移り住んだわけではない。
江戸の繁華にあやかって名づけられた町名のようだ。
江戸町は、1585年(天正13)から1592年(文禄01)にかけて成立した町といわれる。
しかしだ。江戸幕府は1603年(慶長08)に開かれるわけで、
1600年(慶長05)の関ヶ原の合戦も、まだ先のこと。
では、なぜ江戸町と名付けられたのか?
それは……分からない、謎だ。
もしかしたら長崎の人たちには予知能力があったとか。
そんなわけない……。
いや、もうとっくの昔に答えはでているのに、私が知らないだけなのかもしれない。
答えがでていたら、教えていただきたい。

閑話休題。
残念なことに初期6か町
《嶋原町》《大村町》《平戸町》《横瀬浦町》《文知町(分知町)》《外浦町》の名称は、
430年後の現在、住居表示の実施による統廃合などによって全てなくなった。
歴史の1ページに残るのみとなった。


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